Tumgik
#大通りスキレット化計画
wr16 · 5 years
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20-3-4
雨が降っている。 近況。なにをしようか、踏み出せないまま、自粛という言葉に恐れをなして、外に出る扉がとても重く、布団にくるまって天窓から差す温かな西日の中で微睡む日々、本当は、もっとしなければならないことがあるはずなのに、という焦燥はきえないから、夢の中でも何かに追われているような気がして、強張った身体で目覚め、炒めた肉と野菜をスキレットからそのまま食べて、シャワーを浴びて身体を拭いてから保湿剤を塗って、また眠る。皮膚炎、かなり良くなってきている。ステロイドはもう塗らなくてもよくなってきて、病院から出ている保湿剤をぬるよりも、ハトムギボディーローションを塗った方が塗りやすいし調子がいい。いい香り。学生でいられる期間があと一年に迫り、それ以降は自らが働いて得た収入で生活しなければならない、今まで働いたことなんて、喫茶店のアルバイト3ヶ月だけ、履歴書を書くだけで呼吸が苦しくなる。そうせざるをえなくて、それ以外の選択肢がなく、今の現状に後悔はないけれど、それを誰かに理解してもらえないのではないか、私の履歴書から浮かび上がる人物は単なる怠け者の駄目な人間だと切り捨てられるだろうといういつの間にか自らの中に植えついていた絶望があり、それに直面する/させらるのが怖く、就職活動という漢字4文字に冷静に向き合うことができないでいる。2年前の秋、一度全てを終わらせて、ゼロ地点から新しい自分の人生を始めたとするならば、あれから二年の積み重ねは確かに重く、私という存在そのものが生まれたときから持っているの私自身の否定からくる絶望と、目の前の具体的な生きていく手段が見いだせないが故の漠然とした恐怖については分けて考えれるようになったようでいて、それでもここで並べて書いているということは分け切れていないからこそ明文化して言い切れるようにしなければならない。自死を選ぶという選択肢は、けれど、随分とリストの下の方にある現状は、病的な状態からは回復した、とみていいのだろう。どうしようもなく罪人である私自身を自覚し、それを悔い改めながらも変われない自分を自覚し、ただ、それでいて、自らを自らで裁き罰することは、それは裁きでも罰ではない、神の本当の裁きから逃れるための、誤魔化しに過ぎない。ただ、できることがあるとするならばその時がくるまで生き続けること、自らが罪人であるということを忘れないままに。放蕩息子であることは自覚している。イナゴ豆を食べながら、父の家の食卓を懐かしく思っている、けれど、それと同時に私はこの都会の喧騒を、豚の中にいることも、それは当然の報いだということも、捨て去り切れそうもなく、愛おしくすら思っている。この感情をもったまま、父のもとに帰る旅支度をはじめることはできそうもない。けれど、心のなかの平穏つまり全て働かせて益としてくださる方の不在を埋めるほどの救いはこの街ではみいだすことはできないという確信も持っている。私が誰かが先哲が芸術家が詩人がいくら言葉を重ねたとしても埋められない。今、この状況すらも神の計画の一部なのかもしれないと自分勝手に信じながら、また何度も目を覚ましてそのことも忘れて耳をふさいで生きるための営みを続ける。だろう。主の祈りを、心に浮かべると、少しの間平安がある。”みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの負い目をおゆるしください”。低気圧で頭が重い。
追記
書き進めるうちにまた信仰や心の話に入ってしまった、もっと、具体的な近況について書くつもりだったのにな。いつもそう。 自炊して、洗濯をして、買い物に行って、眠り、時々恋人と出かける、それだけの生活に、ある意味で満足して幸福すら感じながら、それでいて今の時間の過ごし方を持続させることはできないことを知っているし、具体的な恋人との将来について、持続可能な生活を、目標としていながら、それにむけて何もできていないような気になってしまう。冷静に見れば、今いる通信制大学の卒業要件の単位数も順調に満たし、来年の春には卒業できる見通しが立っていて、学士の資格を手に入れることは、この先どの生業につくとしても役に立たないことではない筈なのだから。悲観的なことばかり書いて酔ってもしょうがない。昨年末からまとめている散文集はまだまだ形にはなりそうにない。全て初めからやり直そうかという欲求を抑えて少しずつ進めている。ある人の影響でポストカードをつくろうと思い立ち、2018年につくった小冊子「化石の記憶」の対になるような詩のポストカードをつくっている。昨日、印刷業者に用紙のサンプルを送ってもらうよう依頼した。
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