コバノランタナ(小葉ランタナ) よく目にするランタナと違って、このコバノランタナは地面を這って伸びていきます これを利用して、花の「カーペット」や壁から枝垂れる「カーテン」を作ることが出来るそうです #花 #flower #TLを花でいっぱいにしよう https://www.instagram.com/p/CkvBPggykr0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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11月21日の誕生花〜ランタナ(シチヘンゲ)〜
今日は11月21日。
インターネット記念日だそうです。
1969年にインターネットの原形であるARPANETの実験が始まったことに由来しています。
そんな11月21日の誕生花は、
「ランタナ」
というお花です。
今日はこのランタナについてご紹介します。
目次
◆特徴
◆花言葉
◆育てる際に気をつけたいこと
◆特徴
ランタナは、熱帯アメリカ原産のクマツヅラ科シチヘンゲ属の常緑小低木です。
本来は常緑ですが冬の寒さや霜に弱く枯れてしまう事があるので、一年草扱いされる場合もあります。
暖かい地域では冬越しも可能で低木になっていきます。
名前の由来は、別属(ガマズミ属)の欧州産の種「Viburnum���
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<クロスステッチのクロス> 今週は週末にアップ予定です☘️ ▶︎存在感のあるクロッシェレースの縁取りのロングクロス🦚 美しいブルーの糸が際立つ神秘的な印象の1枚です。 ▶︎白い糸を使った上品な刺繍のクロスは、薔薇と水仙のフラワーモチーフの部分にポイントでピンクの糸が使われているのがgood!! ▶︎縁取りに存在感のある物、オーバル、ラウンド型のクロスは、ひと周り小さな椅子やテーブルに垂らして敷けばレースが引き立ちます❄️❄️ より素敵に演出できますよ💐 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽ 《📖Dialy 8/7》 週末は自分自身のメンテナンスに行く事になったので、今週はずっとソワソワ。 気分転換に夕方庭に出て土を触る。 ランタナを追加して、次はのこぎり草を植える予定🌿 葉っぱがかわいいけれど、触るとギザギザしていてノコギリに納得。 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽ #アンティーク #ヴィンテージ #アンティーク雑貨 #ヴィンテージ雑貨 #東欧雑貨 #tekuteku東欧雑貨店 #アンティークのある暮らし https://www.instagram.com/p/CDlZdZsFJN5/?igshid=tykkluonyfxn
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11月21日の誕生花・誕生石・誕生色・花言葉・宝石言葉・色言葉 11/21 #誕生花 #花言葉 ベルフラワー(乙女桔梗)・感謝、感謝します、大切な人、誠実、不変、優美、共感、楽しいおしゃべり、希望 ランタナ(七変化)・協力、合意、確かな計画性、厳格 エラチオールベゴニア・(ベゴニア全体の花言葉)・幸福な日々、愛の告白、親切、丁寧、幸福、慈しみ、美しい瞳、永遠の栄え ハナキリン(花麒麟)・早くキスして、純愛、独立、自立 カリン(花梨)・可能性がある、豊麗、優雅、努力、唯一の恋、豊かで美しい アルストロメリア・未来への憧れ、エキゾチック、持続、幸福な日々、人の気持ちを引き立てる、献身的愛情、援助、機敏、友情、華奢、やわらかな気配り、小悪魔的な思い、穏やかな生活 ガーベラ・常に前進、前進、希望、神秘、上機嫌、辛抱強さ、元気、美、感謝、前向き オキザリス・輝く心、喜び、あなたと過ごしたい、母親の優しさ、心で感じる カンパニュラ・感謝、誠実、誠実な愛、大望、抱負、真剣な恋、思いを告げる、友情、親交、おしゃべり、共感、節操、貞節、繊細な感じ、鋭敏 モモバキキョウ(桃葉桔梗、カンパニュラ・パーシシフォーリア)・誠実、感謝、幸せに感謝します、温かい愛 ハゲイトウ(葉鶏頭)・不老不死、情愛、高尚、粘り強さ イチョウ(銀杏)・長寿、しとやか、荘厳、鎮魂、永遠の価値 ホタルブクロ(蛍袋)・忠誠を尽くす心、感謝の気持ち、愛らしさ、忠実、正義、貞節、誠実、熱心にやり遂げ る #誕生石 メテオライト・魂の再来 #守護石 シルキークオーツ・素直 石テーマ=自分らしく振る舞う #誕生色 ペールサロー・友人 パーソナリティ=友人にすると頼もしい、一番を目指す自信家 出窓でぬくぬくと咲く花のように、温かい笑顔に見守られる一日でありますように! #宝石言葉 #石言葉 #色言葉 #今日の花 #誕生日おめでとう #ガーデニング #フラワーセラピー #花好きな人と繋がりたい #花好き #花の写真 #私の花の写真 #花の写真館 #花が好き #花のある生活 #花のある暮らし https://www.instagram.com/p/B5Gu6YSBLHd/?igshid=5620hd2l26el
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七変化と言われる花
ランタナ
花言葉は、厳格、合意、協力、確かな計画
半年以上、小さい花がまとまって咲き続ける事、
咲いている姿が、一緒に何かをしているように見える事から、この花言葉がついたようです。
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第二次世界大戦時の日本人一般人に関するフィールドリサーチに同行しました(けいじゅ)
みなさんこんにちは。ミンダナオ島にあるハウス・オブ・ジョイという孤児院でボランティア・スタッフをしている鈴木慶樹(すずきけいじゅ)です。この度はよいご縁があり、4 月 22 日から 25 日までの 4 日間、CGNの北ルソンでのフィールドワークに参加させていただきました。イフガオ州を中心に、第二次世界大戦時の日本人一般人の様子を知るための調査に同行させていただきました。今回は、そこでの様子を紹介します!
【DAY1:イフガオ伝統文化の歴史とインタビュー①】
このフィールドワークは、基本的に当時の戦争経験者の方にインタビューをするという構成で成り立っていました。初日は車でバギオ市から東に5 時間ほど行ったところにあるバヨンボンとい う地域でフィールドリサーチをしました。最初は博物館に行き、バヨンボンのあるヌエバ・ビスカヤ州に暮らすさまざまな民族について知ることができました。
民族は色々ですが、伝統衣装は赤と黒を基調とした織物です。多くが伝統的な農法で棚田で稲作をしています。この棚田と伝統的な農法が認められ、ヌエバ・ビスカヤ州のお隣のイフガオの棚田は世界農業遺産の一つとして数えられています。
また、現在では残っていませんが、昔は部族同士の争いごとがあった際、戦いに勝てば敵の首を狩って戦勝の儀式に使用したそうです。要は、北ルソンの先住民は「首狩り族」でもあったということですね。多く敵を殺した戦士は、村の英雄として上の写真のようなヘッドアクセサリーを得ることができます。実は、このイフガオ族が自分にとって初めて触れるフィリピンの伝統民族の文化だったので、ガイドさんのお話に聞き入っていました。
しかし今回の真の目的は北ルソンの先住民について知ることではありません。その博物館には、かつて小学校から出てきた日本人女性の頭蓋骨が置いてあるそうで、そのことについて調査をするために訪問したのでした。しかし、博物館の立場としてはそのようなものは置いていないとのことでした。真偽はわかりませんが、僕がこの骨の遺族だったらたまったもんじゃありません。異国で死んだ母の骨が、なぜか日本に戻せず世間の閲覧物になっているのです。後にほかにも遺骨回収をめぐる問題を伺い、この土地で非常に深い問題となっているということを学びました。
さて、インタビューをする際には、まずはインタビューできる相手を探さなくてはいけません。日本人が、単独で言語が異なる地域に赴いて取材ができることはほとんどできません。それなので、今回はその土地に慣れている現地の方をコーディネーターとしてお願いし、手伝っていただきました。バヨンボンのコーディネーターは、高校の校長先生をやられているガラテさんにお願いしました。
バランガイ・ホールに赴き、高齢者が近くにいないか話を聞き、実際にその場所に伺って初めてインタビューができます。
バヨンボンでは二人の高齢者にお話を伺いました。カメラの機材を用意し、マイクを整え、現地語を話せるメンバーがインタビューを始め ます。現場の雰囲気は皆がインタビューに意識が集中しているため、感覚が研ぎ澄まされるような空気感がありました。このインタビューの内容は、言語の問題など自分の実力不足なところがあり詳しくとらえることができませんでした。
今回のフィールドリサーチの同行で、自分ができることは少なかったように感じます。言語も異なり最初は今起きていることに対してついていくことで精一杯でした。そういった中で、自分がどこまで貢献できてどこからできないのかをしっかりと理解し、その上でどうするかを考えることができた非常に学びある時間だったと思います。
【DAY2:インタビュー②~減りゆく語り手~、そしていざ世界農業遺産の棚田へ】
2日目は、当時アメリカ側のメッセンジャー・チーフを務めていた退役軍人のインドゥーランさんにお話を伺うことができました。
インドゥーランさんは、自身の戦争の記憶を紙に残されており、それをもとにお話ししてくださいました。彼のお話の中で印象的だった内容は、空腹状態が続いた日本人一般人が、現地の住民に食料をせがんだ話でした。言葉も通じない彼らはひたすらに「コウカン・コウカン」と言い、金歯やセイコー、シチズンといったブランド物の時計を出してきたそうです。その様子を思い浮かべたら、何とも言えない気持ちになります。当時、彼らにとって飢えは最大の敵だったのかもしれません。そんな中、空腹を満たすために必死に交渉している姿を想像すると・・・。過ぎたことに口を出すことはできませんが、生々しい話を伺って、今あるささやかな幸せを失わないためにもこの話は忘れてはいけないと感じました。その後さまざまな話をしていただいたのち、「You are lucky」とインドゥーランさんはおっしゃり、これは、語り手として話がもうできなくなる日が近いことを意味しているようでした。詳しい話を、その現場でうかがうことができてよかったと思います。
翌日には、より北上したところにあるフンドアンという土地から南東に向かってパクタイというところにかけて徒歩での現地調査を控えていたため、出発地点であるフンドアンまで車で走らせました。
北上するにしたがって棚田の美しい景観はより鮮明になっていきます。目的地に到着する直前で、わざわざ車を止めていただいて、棚田の写真を撮ることができました。その景色は素晴らしく綺麗で、日頃ミンダナオの南国景色に慣れていたので、フィリピンにはこんなに違う自然があるんだ!と驚きでした。
【DAY3:登山フィールドリサーチとお金という障害】
3日目は、班を二つに分けて現地調査をすることにしました。僕は車では通れない山道にある村々を訪問して調査する班に振り分けられ、調査を開始しました。
朝の6時にフンドアンを出発して、そこから南東へ山道を上り下りしながら8時間かけてパクタイという町まで歩きます。途中、休憩もかねて人々にインタビューもしますが、こんなに険しい道のりの間に村があり高齢の方が住んでいるのかと思うと、なんて大変なことだろうと感じました。4時間ほど歩いて、実際にインタビューをできたのが1名のみでしたが、あまり手ごたえはありませんでした。インタビューをした人も戦争経験者��はありませんでした。なにせ、戦争を経験した高齢者はどんどん亡くなっていってしまっているのです。
2時間ほど歩いたところに、戦後に建てられた橋がありました。アシン川という河川の上を流れる橋ですが、もうかなりさび付いていました。戦前は、この橋の300m上流に吊り橋があって、戦時中は多くの日本の一般人がそこから飛び降りて自殺をしたそうです。
さび付いた橋のわきに、鮮やかなピンク色のランタナがきれいに咲いていました。戦争で死んだ多くの人々も、この綺麗な小さい花を見たのでしょうか。
出発して半分を過ぎたころ、二つの村に出会いました。この村には2組の戦争経験者が住んでおり、話を聞くことができました。最初にお話を伺ったのが87歳のコンチータさん。彼女は、戦争前から村に在留しており、当時の様子を語ってくれました。戦前は、日本人はこの土地に来て学校を建てて日本語を教えたそうです。戦前は優しかったのに、戦時中に北上してきた日本人は打って変わって恐怖の対象だったといいます。彼女は食料を持っていたため、食料を求められたときに抵抗せずに渡しさえすれば、殺されはしなかったと語っています。兵隊の後ろについてきた日本人女性たちは、背中に子供を二人ほど担いでいたといいます。また、彼らはモマと呼ばれる食用ではない木の実を食べようとしていたといいます。それほど空腹状態だったのでしょう。彼らはどこにでも見かけられ、多くの日本人が村に滞在していたそうですが、長く滞在したという記憶があるばかりで、どれくらい滞在したかは覚えていないようでした。
隣の村に住む約95歳のガランギという男性にもインタビューを行いました。妻のマラユさんもご存命で、二人で暮らしていました。写真に写っている女の子はお孫さんです。ガランギさんの話によると、日本統治下にいた日本人はそこに自治体を作り、税制を整え、学校教育を始めるほど地域の改革を行ったそうです。戦火が激しくなってからアメリカ軍に、一帯に日本軍が仕掛けた爆弾があるため、山を下りてキアンガンという地域まで非難するように言われたそうですが、食料や家族がいたため、逃げずにずっとそこに留まりました。そこでは、多くの日本人が食料不足からくる病気や飢餓で亡くなった姿を見たといいました。ガランギさんは、当時アメリカ側へのメッセンジャーの役割をしていて、食料や衣料品を支給してもらえていたため、食料には困らなかったといいます。
さて、彼らへのインタビューを終えてさらに4時間ほど歩き無事にパクタイへ到着しました。途中番犬に囲まれたり、撮影係のライネルさんが足を負傷したりと大変でしたが、このフィールドリサーチで初めて「8時間の道のりを歩ききる」「道のりのどこに何があるのか記録をとる」「戦争経験者を探してインタビューをする」という役割をもらえ、非常に学びの深い充実した時間でした。また、現在はまったく素晴らしい景色を持った土地ですが、数十年前にはここで血が流れていたと思うとやはり信じきれない部分がありました。しかし、高齢者のお話を聞くからにはやはりそれをしっかりと受け止め、残していかなくてはいけないと感じました。
さて、この土地では日本人が数名で来ると、トレジャーハンターだと思われます。それはなぜでしょうか。実は、この土地には日本人の山下将軍が降伏した際、大量の財宝を隠したという山下財宝の伝説が残されているからです。日本でいう徳川埋蔵金といったところでしょうか。戦後多くの日本人がやってきて、現地の人にお金を払って情報や地図を得たりするのだといいます。その山下財宝が、今回は何度か調査を邪魔することになりました。なんと、現地の方が日本人をみると、ほとんどの確率でトレジャーハンターだと思うのです。
そのため、何か情報を渡す場合なにかしらお金がもらえると考えている人が一定数いて、今回も金銭を要求されることがありました。近くに80歳後半の高齢者はいるかと聞いたとき、いるにはいるが連れてくるにはなにか金銭の見返りをくれというのです。しかし、金銭を報酬にしてしまうと、お小遣い欲しさに該当の年齢ではない高齢者を偽装させてしゃべらせる可能性が出てきます。実際に遺骨回収問題でも同様のことが起きていて、政府から委託された日本のNPOが、お金を使って遺骨回収した際、現地の人の間で墓堀が相次ぎ、フィリピン人の遺骨だというのに日本人のものだと偽って提出したことがあったそうです。調査したことがこれから半永久的に記録として残るものを作り上げているため、虚偽を記すことは絶対にしたくありません。しかし、お金というものがこのようにマイナスに作用している現実にジレンマを感じました。
【DAY4:インタビュー④、そしてとある小学校へ】
最終日となるこの日は、3人にインタビューをすることができました。その中でも、最初にインタビューをしたロマナさんのお話が興味深かったです。食料を求める日本人に関して、自分の印象とはやや異なるお話をしてくれました。自分は資料やインタビューを通して、食料を渡さなかったフィリピン人は日本人に殺されたと知りました。しかし、ロマナさんのお話によると、ロマナさんが出会った日本人はいたって穏健で礼儀正しく、断っても殺されることはなかったそうです。彼らは言葉が通じないためジェスチャーで必死に頼み、時には土を掘ってごぼうを調理せず食べていたそうです。
最後にバギオへの帰り道、バヨンボンの当時日本軍の弾薬庫として使われていた小学校を訪れました。その外観はとてもきれいで、壁や屋根などいたるところに子供たちが遊びながら学べるようあらゆる教科の問題文が書かれていることから、とても教育に力を入れている学校なのだと、自分が普段滞在しているミンダナオ島の学校と比較して感じました。
しかし、現在では見られない高床式の学校であることから、確かにそこが弾薬庫であったことがわかります。さらに、学校のチャイムの鐘が戦後実際に出土した爆弾の外郭でできており、自分の目でそれを確認して、その重みを感じました。
【最後に:気づきを認識し、学びを深めた4日間】
さて、このフィールドリサーチを終える前まで、自分がまさかこんな経験をするなんて思っていませんでした。最初は、日本人が加害者である地域でその日本人が被害者であるフィリピンの方にインタビューをするということの重みに戸惑いましたが、見たものや聞いたものはすべて真摯に受け止めるという覚悟で臨むことができました。また、消えてなくなりつつある戦争の記憶を記録として残すことの大切さを学びました。役所に証明書がなくとも、声を聴く限りそこに確かに日本人の記憶があったことは明らかなのです。今、自分が恩恵を受けている目の前の平和を失わないためにも、こうした活動は非常に意味のあるものだと感じました。そして、そうした声を拾う活動の難しさも同時に感じました。言語の問題や、現地の人との関係性の問題など、いくつか乗り越えなくてはいけない課題があり、それらをこなしていくメンバーの姿にあこがれを感じました。自分がどれだけ貢献できたのかはわからず、3日目に山歩きをした際も、終わってから自分のインタビューの仕方を振り返って「もっと上手にできるところがあった」と思うところが少なくありません。しかし、そう反省から学んだことは非常に多いと認識しています。
ここで得た気づきをしっかりと今後に生かして、成長していこうと思います。たったの4日間ですが、自分にとって非常に濃い時間を過ごすことができました。次は、フェアトレードのコーヒー農園を見学するべくまた来ようと思います。ありがとうございました!
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