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#日月燈明如来の贈りもの-仏教再生のために
anamon-book · 2 months
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日月燈明如来の贈りもの-仏教再生のために 山尾三省 水書坊 造本=須藤康子+島津デザイン事務所
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shakuhachi-kataha · 4 years
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ミニ講座 第18回「虚鐸伝記」徹底分析!其の二 法燈国師は何した人?  覚心と張参の友情物語💓
普化宗の尺八伝来のキーパーソン二人目!
 
 
 
その、法燈円明国師・心地覚心・無本覚心たるや、一体何した人?
 
 
 
 
そもそも名前がいくつもあってややこしい。どれで呼べばいいんですか?
 
 
 
 
 
まずは虚鐸伝記に合わせて法燈国師について!
 
 
 
 
国師(こくし、くす)というのは、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号(しごう)の1つで、死後に与えられる名前だそうです。
 
 
 
 
 
姓は恒氏。諱は覚心。
 
 
 
諱 いみな「忌み名」
 ① 生前の徳行によって死後に贈る称号。諡(おくりな)。
 ② 身分の高い人の実名。生存中は呼ぶことをはばかった。 
 
 
 
 
 
号は無本、本名とは別に使う名称。
 
 
 
 
房号は心地房。
 
  
 
寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を僧房(そうぼう・僧坊)というそうで、私僧房には○○房(○○坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった。
日本浄土宗の祖とされる法然の例で言うと、法然の号は房号(「法然房」の略)であり、諱(いみな)は源空(げんくう)である。
 
 
 
 
幼名は不明です。
 
 
 
  
 
と、色々ありますが、諱の意味が「生前の名前」と「死後の名前」と両方の意味があるんですね。覚心が本名だそうです。
 
 
 
 
 
心地覚心(しんち かくしん)1207~1298年
 
鎌倉時代の臨済宗の僧で長野出身。1235年東大寺で受戒、のち19歳の時、高野山で密教を学び、禅定院で禅を学ぶ。姓は恒氏。諱は覚心、無本と号した。1225年出家、得度。29歳の時に奈良東大寺で具足戒を受けた。また高野山で真言密教を学ぶ。その後、鎌倉、京などで諸師遍歴。
兄弟弟子にあたる円爾(えんに・臨済宗の僧)の勧めにより入宋を志し、1249年に、覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、博多を出て入宋。
杭州湾口にある普蛇山 フダサン(中国四大仏教名山の一つ)に着き、中国五大禅寺のひとつである径山寺 キンザンジ(興聖万寿禅寺)に上る。そして径山では円爾の師である無準師範 ブジュン(中国の南宋の臨済宗の僧)が既に示寂 ジジャク(僧の死)していたので、径山の癡絶道沖 チゼツドウチュウに参じ、翌年には道場山に参じた。その後、阿育王山 アイクオウザン に掛塔 カトウ(僧が一寺にとどまり修行すること)し、2年ほどその地で修行した。その後、1253年(建長5年)杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開 ムモンエカイ(1183-1260)(南宋の 臨済宗の僧)に参じて、遂に臨済宗楊岐派 ヨウギハ(中国禅宗五家七宗の一つ)の法を嗣(つ)いだ。そして1254年(建長6年)無門慧開より「無門関」(禅書)「月林録」を授けられて帰朝した。
宋より径山寺味噌の製法を伝え、帰朝後種々の改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった。これが我が国の醤油の発祥の由来である。
 
 
 
  
あ〜、金山寺味噌ね〜。
 
 
こちら、法燈国師像↓
 
 
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紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像
重要文化財 http://fukuoji.netより
 
  
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増補注釈『虚鐸伝記』洛陽 山本守秀注釈・河本逸童増補
国立国会図書館より
 
 
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学心(覚心)が宋にやって来たの図。
 
 
 
 
以下、漢文と国字解の翻訳と、私の翻訳です↓
      
本邦僧学心者亦遊学于此 
ほんぽうの僧、学心なる者もまたここに学びしてあり
唐宋の時代には日本より多くの物学びの為に入唐。日宋とて、僧俗の内にて勝れたる人を遣わせし事なり。或いは公辺(おおやけのこと)へ願いて入宋せし人も多かりしなり。僧も、其おりから入宋して、彼護国寺に掛錫 カシャク(修行僧が行脚の途中で他の寺にとどまること)して禅法を学び居られしという事なり。此にとは寺をさしていう。
  
  
(学心とは覚心のこと。唐、宋の時代には日本から多くの人が勉強のために海を渡った。覚心は護国寺に行き禅を学んだ)
 
  同学相唱和而興参友善 
同じく学び合い唱え和して
学心と張参とは、同じく禅を学んだ。ことに万里の蒼波(そうは)をしのぎ来りて学ぶ、学心なれば、志を感じあひたる事、言外にあらはれたり。相とは互いにのこころなり。唱和すとは詩を作れば和韻をし、文章は互いに琢磨することなり。参を友としよしとは、あまた僧・居士あるうちに、学心と張参ことに心安也。交わり深しということ也。
 
 
(覚心と張参は、一緒に禅を学んで、とっても仲が良かった)
 
 
 一時閑話之次語及先世伝虚鐸今尚曲事其調之弄之一奏入妙
ある時。閑話之次(カンワノツイデ)とは、しづかに四方山のはなしをしけるついでにという義なり。其のはなしのあまりに、先祖張伯は唐の代にて其時の知識普化禅師に見え、虚鐸を伝え来りて今なを其曲を失わずという事を存(そん)すると云也。及ぶとは、ようすありて、虚鐸というものを伝え来りて、其吹ようを習熟せりと語りて、張参虚鐸を取出し、これをちょうし、これを弄(ロウ)うすとは、とくと音しめをあはせ、吹きたるに、其一なかでのふきよう、ねいろの妙にしておもしろき事を、一奏入妙(ヒトタビソウスレバミョウニイル)とはいうなり。
 
 
(ある日、張参が先��の代々伝わる虚鐸のことを覚心に話した)
 
 
 学心一賞三歎脆坐膝行曰
(ガクシン、イッショウサンタン、キザシッコウシテイワク)
学心ことのほか感に堪えかね、一賞とは一たび賞翫 ショウガン(そのもののよさを楽しむこと。珍重すること)しほむる事なり。三歎とは、「 ああ、妙音かな」と三度声を発して、さてもおもしろき事やと。座をなすを脆坐という。ひざに近づき寄るを膝行すと云う
 
 
 
(覚心、超感動)
 
 
 
 奇哉妙哉世之於象管未聞如此清調妙曲賞可愛者伏請教授一曲長伝妙音于日本
(キナルミョウナルカナ)
扨(さて)も扨もふしぎに妙なる音いろかな。世の象(しょう)管に於けるいまだかくの如き、清調、妙曲を聞かずとは、是迄我本国にても種々様々の笛を見たけれども、此の形の笛も見ず。又このようにすみやかな、妙なる吹きようを聞かず。賞すべく愛すべき者とは、まことに賞美(しょうび・ほめたたえること)して、もてあそぶべきものなりとなり。長く妙音を日本迄に伝うというものなりと念比(ねんごろ)に願う事也。
 
 
(こんな妙なる音、聞いた事無い!日本に持って帰る!と覚心)
 
 
 於此為学心再奏之使之学此
此処に於いて、学心のこふが為なり。再び之を奏しとは学心に聞かさんが為に、又吹きし也。之を使(し)てとは、学心をして。之を学ばしむとは、此の曲調を教えて習わしむをいう。
 
 
(張参、学心の為に教えてあげる)
 
 学心学之有日禅已熟曲已就而告別于張参
学心之を学ぶとは、虚鐸の音を学ぶ也。日有りとは、学ぶ日を重ねたる也。禅すでに熟すとは、禅学参禅も能心に入りし事也。曲すでに成とは、虚鐸も覚えてそれより、日本に帰らんとて、張参に暇乞いして舒州の護国寺を出て、明州の津湊に赴かんとする。
 
 
(覚心、何日も虚鐸を学び習得し、禅の修行も円熟してきた頃、日本に帰る)
 
 
 辞舒州而解纜于明州南宋理宗帝宝裕二年帰船于本邦于時 後深草天皇建長六年也
舒州を辞してとは、護国寺にて、みなみな暇乞いをして出られし事也。纜(ともづな)を明州に解くとは、明州はもろこし(日本から中国を呼んだ名)の湊口にて、唐宋の頃よりの渡り所也。今の寧波(ニンポー市)も明州のうちにありと覚ゆる也。本朝より渡海にも便り良き地なれば帰棹(キトウ・帰路につく船)の時も此所(ここ)宜しき也。此の時の帝(みかど)は南宋にて理宗皇帝と称し奉(たてまつ)る。宝裕(ほうゆう)二年は、其の時の年号也。すでに彼土(カノド)を跡に見て、ともづなをとき、風波をしのぎ、日本に帰り、つきてみれば我朝の帝は後深草天皇(ゴフカクサノテンノウ)にて渡らせ給い、建長六年に帰朝せしという事也。
【もろこし】昔、中国から伝来したものにつけた語。中国南方の越 (えつ) (浙江セッコウ省付近)の諸国・諸族の「諸越」の訓読みから起こり、最初その地方をさしていたのが、しだいに中国全土をさすようになったという。一説に、その地方から諸物が渡来した意とも。
 
 
(1254年、後深草天皇の頃に帰る)
 
 
 自是学心或入高野山或出洛陽城
これより学心ある時は、高野山に分け入りて心をすまし、又ある時はみやこへも折々出られしを洛陽城に入りといふ。洛陽は、もともともろこしの都の名なり、しかれどもかり用いて。此方にても称し来れり。此の方の都は平安城というは本名也。
 
 
(覚心、高野山に行ったり、平安城に行ったり…)
平安城は794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。
 
 
 逍遊有年造立一寺于紀州號西方寺而終住于此
逍遊年有り(ショウユウトシアリ)とはずらずらと年光(月日)のおしうつるをいう。されば一つの寺を紀州の内につくり立て、西方寺となづけて、此所にすまれし也。此寺は由良というところにあり。
 
 
(覚心は紀州由良の地に西方寺のちの興国寺を立ててそこに住む)
 
 
 以其碩徳世號大禅師弟子日益進
その碩徳をもって、世大禅師と号すとは、学心帰朝せられてより、年月重なり、徳業満ち足り、禅機ありけるゆえ、世の人称美して大禅師と申せし言也。弟子(テイシ)益々進むとは、遠きも近きもつきしたがいて業をうけ、禅学の為により集る。弟子の僧、日に増して多く来たりし也。
 
 
(その後出世して禅師の名前をもらう。弟子も日に日に増えてきた)
 
 
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学心(覚心)日本に帰ってきたの図。 
 
 
 
以上が虚鐸伝記による法燈国師の登場の場です。
張参との出会いの場面はフィクションであるとしても、なかなか良い話で、これは日中友好の象徴にしても良いくらいですね。 
 
今回のチラシの絵は思わず覚心と張参が肩を組んでるイラストにしちゃいました。
 
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昭和初期には、尺八伝来の地・興国寺を盛り上げようと谷北無竹、津野田露月、谷狂竹、小泉止山、浦本折潮、桜井無笛、高橋空山、などなど全国の名だたるメンバーによって法燈教会が設立されるが、残念ながら内部分裂により霧散。その後、前団体とは異なる法燈国師奉賛会が新たに設立され、今日も活動している。(尺八修理工房幻海のHPより)
 
 
 
法燈国師が尺八を吹いたのは伝説ということですが、Wikipediaをはじめ興国寺のことが書かれている情報にはどこも「興国寺は虚無僧発祥の地」となっております。専門書には虚鐸伝記は「偽書」「小説」となっているのに、一般には法燈国師は尺八伝来の人と奉られているという、ウソも通せば道理が引っ込むなんてことが現実に。。。
 
 
 
 
 
どうせなら、覚心と張参の友情物語をもっと誇張すればいいのにな〜なんて思ったり。
 
 
 
 
考えようによっては、法燈国師をダシに人が集まる機会が増えるわけですので、伝説も大切かも!
 
 
 
 
 
以上、
「虚鐸伝記」徹底分析!其の二 法燈国師は何した人?覚心と張参の友情物語💓
でした!
 
 
 
次回はキーパーソン三人目、いよいよ虚竹登場です💙
 
 
 
 
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