#mikeko20250319
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habuku-kokoro · 30 days ago
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habuku-kokoro · 30 days ago
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名古屋能楽堂の『三毛子』 愛知学院大学文学部准教授 吉田遼人
三毛子は猫である。夏目漱石『吾輩は猫である』に「この近辺で有名な美貌家」として登場するも、まもなく病に伏せり「早死」してしまう雌猫である。原作では薄命に生まれついたのに対し、この《ひとり文芸ミュージカル》における三毛子は、別の猫生を謳歌する。何しろここでは、二絃琴のお師匠と下女のフユ子(前者は平塚らいてうを、後者は与謝野晶子を彷彿とさせる)に拾われて以来、その女所帯の家で暮らしているのであったから。とはいえ、事はもう少し複雑な様相を呈する。なぜなら、彼女たちと過ごされるその年月は、どうやらすでに溺死したらしい三毛子がいまいちど現世で生き直す、そんな時間としても流れていたようだからである。
 冒頭、みずからの死を理解できずにいる三毛子は、猫の神様との一連のやりとりも「変な夢」と片付け、取り合わない。以降、舞台は喜劇の趣をまといながら、小気味よく進行してゆくこととなる。ところが、終局では一転、この世から三毛子が「安心しておいとま」する段を迎えると、悲哀の情調が空間全体に染みわたる。亡き愛猫につけられていた首輪の鈴が寂しく音を立てるとき、観る者の心がひときわ揺り動かされるのは、そこに三毛子の魂鎮めを見届けられるためでもあろう。そうとすれば、《ひとり文芸ミュージカル》の『三毛子』はやはり能舞台での上演こそ似つかわしい。名古屋能楽堂での観劇は、まさに至福のひとときであった。
 ところで、誰の眼にも明らかなとおり、『三毛子』は女たちのドラマとして仕立てられている。この点においても、〈吾輩〉と自称する雄猫をはじめ、珍野苦沙弥や迷亭らがにぎやかな原作との相違は著しい。ただし、こうした対照から、明治、大正という日本近代を生きた文豪の旧さを云々するような軽はずみは控えたい。漱石の文学世界において、女たちはひとえに抑圧されるばかりでなく、ときにしなやかに躍動しながら生きている。彼女たちのそのような姿、存在感もまた、『三毛子』の世界を支える一要素となっていたのではないか……そんな���がしてしまうのは、わたくしだけではないだろう。
 いずれにしても、原作の『吾輩は猫である』、あるいは他の漱石作品を知っていると、『三毛子』から引き出せることはずっと多くなるはずで、愉しみ方はいっそう膨らむに違いない。もちろん、『三毛子』の撫で方はほかに幾通りもあって、たとえば心中事件に興味を抱いたならば森田草平『煤烟』を手にとってみたり、母性保護論争に関心を寄せたならば山川菊栄らの声を聴いてみたりするのもよさそうだ。また、内田百閒『贋作吾輩は猫である』には、水甕に落ちて成仏したはずの〈吾輩〉のその後が描かれている。それを思い合わせれば、『三毛子』の大枠の設定に何やら響いていたかもしれず、つい探りを入れたくなってくる。
 断るまでもないけれど、上に言及したあれこれが『三毛子』鑑賞にあらかじめ求められているわけでない。重要なのはむしろ、この《ひとり文芸ミュージカル》が、文学や芸術の世界の豊饒さへと観る者をいざなう恰好の機会たりえていることのほうだろう。このたびの観劇体験を経て、その意義深さをも実感することができている。
 最後に、これだけは言い添えておけば、源川瑠々子の演ずる三毛子がめっぽう愛くるしかった。涼やかに透る声で口にされる「わァからないからさァ」や、本舞台の床板を、たんたん、と横座りの左足で鳴らす仕草など、いまなお心に鮮��かに思い起こされてくる。ぜひとも舞台に足を運び、さまざまな表情を浮かべる三毛子に魅了されてほしい。
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