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#theatredebelleville
nrmkh · 3 years
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伝えたいけれど、伝えにくいこと、伝えられないことや、伝えてはいけないことが増えた。年齢や、立場や、関係に拠るものなのだろう。逆に伝えたいことの中で、遠慮なく伝えられることも同じように増えたかというと、そうでもないのがなんともやりきれない。落ち着いて考えてみれば、伝えたいと感じることの中で、伝えるに足ることなんて、それほど多くはないのかもしれないけど、足るとか足らないとかだけで伝えることを選んでいたら、なんだか貧しい気もするし、いざ伝えようと思ったときには伝える相手がすっかりいなくなっていそうな気もする。自分が伝えたいことと、相手にとって伝えられたいことが一致するとは限らないし、伝えてみないとわからないし、大抵の場合一致しない。正直さや素直さや純粋さが、ひとや自分を守ることもあれば、ひとや自分を傷つけることだってあるのだから、自分の信念や正義や感情が、たとえ純粋でも正直に素直に言動に変えられるとしても、立ち止まらざるを得なくて、身動きが鈍る。いやはや、難儀なもんだ。
穴迫くんに書いてもらった今回の「oboro」、第2稿を読んだとき、似たようなことを感じた。純粋さに関わる伝えたいことが、何かの事情で伝えられない苦しさや、その事情が自分の手に負えないときの茫洋さや、嘘はつきたくないからどこかはぐらかしてしまう弱さや、それらをひっくるめた、なんでそうなっちゃったのかさっぱりわからない感じ。
第2稿で推敲されたとき、戯曲のプロローグの前にこの言葉が置かれていた。「コメディ — 滑稽な悪夢である。」伝えたいことが自分の中から外に出て行けず、内側でかさかさに乾いていくしかないなんて、そしてそれが自分以外の誰も傷つけないためだとしたら、滑稽な悪夢そのものだ。笑うに笑えない。
穴迫くんも現場に合流し、「oboro」もいよいよ初日目前。無理ない範囲でご来場をご検討くださいませ。
初日の19日19:30の回終演後に、せっかくだから穴迫くんとトークしようかな。まだ相談してないけど。
写真は、夏の恒例花火文字。今年もそういう季節になりました。
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Belleville21春シーズンプログラム みえのみんなの演劇祭 「oboro」
作:穴迫信一(ブルーエゴナク) 出演:諏訪七海、増田知就 演出:鳴海康平
6月19日(土)19:30[残席少] 6月20日(日)14:00[残席わずか] ※上演時間:約40分(予定)
目の前のあのひとは現実か、それとも私の夢か。今この時間は現実か、私の夢か、それとも誰かの夢か——。コンビニで働く東と七月、そして七月の恋人の三郷が生きる「いくつかの」日常。いつも何度も覚め続けるそれは、誰かの夢のようで、私の夢のようで、いつもいつのまにか重みを失う。私も、あなたも、この貼り紙に写るあのひとと同じように、存在することも、存在していたことも曖昧になっていく。北九州を拠点に活動するブルーエゴナクの劇作家・穴迫信一の書き下ろし新作短編を、第七劇場・鳴海康平の演出で上演。
公演詳細は以下に。https://theatre-de-belleville.tumblr.com/post/647688687931572225/oboro
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chloemons · 4 years
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THÉÂTRE...  « WONDERWOMAN ENTERRE SON PAPA »DE SOPHIE CUSSET...LES DIMANCHES ET LUNDIS À 19H...PREMIÈRE LE 02/11/2020... #theatre #theatredebelleville #actress #fantasy #cabaret #letsplay https://www.instagram.com/p/CGmYfdCAk_e/?igshid=csee9g140hd
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galleriagelateria · 4 years
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Pierre Jeanneau for Théâtre de Belleville, 2019. - @pierrejeanneau #pierrejeanneau @theatrebelleville #theatredebelleville #posterlove #plakat #graphic #illustrator #plakate #grafischontwerp #posterunion #posterreposter #posterdesigncommunity #poster #affiche #frenchdesigner #frenchgraphicdesigner #eventposter #graphicdesign #graphicinspiration #screenprinted #printisnotdead #itsnicethat #visualgraphc #visualdesign #postereposter #posterized #gradientart #theposterclub #gigposter #concertposter #posterartist (bij Théâtre de Belleville) https://www.instagram.com/p/CAKrJ89BKaX/?igshid=1itq6v7w9hzwn
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efb · 6 years
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#lovelovelove #theatredebelleville #du5au29décembre2018 (à Théâtre de Belleville) https://www.instagram.com/p/Bq-uYpUF6J7me2ho9ynzUOnG-nw_FK3aZHLKi80/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1m9jcimd9fg9l
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nrmkh · 3 years
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私は昔から、もしパートナーに恵まれても子どもはつくらないと、なぜか強く思っていた。とは言いながら、これまで2度、子どももいいかもな、と思ったことがあるけれど、結局日本の少子化を推し進める側にいる。いたしかたない。若いころは自分に子どもが育てられる気がしなかったのが大きくて(主に収入の面で)、30代になったあたりからは、私を育てた母親のような「親」になれる気がまったくしなかったことが大きい。要するに、自分勝手な私が子どものことを大切にできるか不安でしかたなかったのである。いやいや、そうはいっても、実際子どもができたら変わるもんですよ?という広く流布されている台詞は、今は受け付けない。これといった趣味もなく、仕事とプライベートの境目もほとんどない、40を超えた後ようやく時間(人生)の使い方を考え直さないと、と慌てふためいて、宮崎でお世話になった立山ひろみちゃんの真似をして、月に一度仕事と関係なく遠出をする、という目標を掲げてみたものの、疫禍でままならず(いや半分以上は結局忙しさを理由に実行できていないだけ)、有言不実行の情けない有様である。自分を労れないのに、いわんや子どもをや、である。
にもかかわらず、というべきか、だからこそ、というべきか、若い世代に関わることが多くなった。
私が大学で担当している1年生は、日本全国の大学1年生の多くと同じように18歳とか19歳が多く、もう私の子どもといっても原理的にはおかしくない年齢で、言い換えれば、私は彼らのお父さんといっても原理的にはおかしくない年齢である。死なずに生きていれば、そういう年齢になるのは当然なのだけど、そういう事実に少なからず驚く。
そして、2週間前に終演した「oboro」も、先ほど終演した「キラル/抄訳 漂泊の家」も、(自分の子どもと言うにはちょっと厳しいけど)23〜25歳の俳優や劇作家やテクニカルとのクリエイションだったし、今年で3年目になった若い演出家と俳優を対象にしたBelleville Campでも20代前半の演劇人は多い。
私にひとに教える資格があるのかどうか怪しいのは自分がよく知っているし、子どもを育てる自信がない自分が、誰かを育てる機会をもらったり/つくったりしているのは、どこかおかしな感じがしているのは事実である。もちろん、自分の子どもを育てることと、何か特定の技能や思考回路を受け渡すことが別のことなのはわかっているけれど、自分の中で納得できるまで、自分の言葉にできるまで、もう少し時間がかかりそうな気がする。
私自身も、諸先輩方からたくさんの機会をもらったし、たくさん教えてもらった。本当に感謝している。私も同じように、次の世代に機会や学びの場を提供することが、私にできる恩返しと考えている節もある。若い子にとっては大きなお世話なのかもしれないけれど。
日本の舞台芸術の課題で私たちの世代が積み残した課題を解決していくのは次の世代だし(ごめんなさい)、文化によって救われるべきひとを救う環境や機会をさらに整えていくのも次の世代だし、表現をアップデートするのも次の世代なのだから、私ができるのはアップデートされるに足る礎になる何かを伝えることなのかもしれないとも思う、なんて、良いように言ってみるものの、煎じ詰めれば、誰かのしあわせを願うことが下手な私の自分勝手なのかもしれないとも思う、けど、せめて今日くらいは、次をつくる君たちのしあわせを祈りたい。
私が浴びることがない光が君にそそがれますように。 私が照らすことができない光を君が照らせますように。
(そして、できることなら、 君のよろこびをともによろこべますように。 正解のない問いの答えをともに探すことができますように。)
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「キラル/抄訳 漂泊の家」が終演しました。1ステージのみでしたが、ほぼ満席で終えることができました。 2018年から3年間続いたクリエイティブ・レジデンス【三重/広島】をアップデートして継続してくれた、岩﨑きえさんと舞台芸術制作室無色透明のみなさん、上演チームのみなさん、大幅に再構成するにもかかわらず戯曲を提供してくださった柳沼さん、短編を書き下ろしてくれた泉さん、本当にありがとうございました。そしてご協力、ご支援くださった多くの方、ご来場のみなさんに、心からの感謝を。この作品は8月に広島にも行きます。またチームのみなさんに会えるときを楽しみにしています。
写真はゲネより。撮影は 松原豊さん。
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nrmkh · 3 years
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さようならなんて、もう聞きたくないし、言いたくもない。 誰かを嫌いになりたくもなければ、壊したくもない。
甘ったるい考えだというのはよくわかってるけど、歳を重ねると、さようならには、どこか身体の一部をちぎり取るような響きを感じる。若い頃は、鋭い刃物で身体をすっと切ったような痛みだったのに、今では肉や骨ごと持っていかれるような、もう決して再生しない致命的で、終わりまで続く痛みを予感してしまう。それを聞くことになるくらいなら、他人にも自分にも深入りしない方がいいかもしれないと及び腰になる自分を情けなく思うと同時に、しょうがないでしょ、と言う声にも、だよね、と頷いてしまう。それにさようならを言うことになるくらいなら、何かを好きにならない方がいいし、期待なんてもってのほかだ。そうすれば、致命傷を受けるリスクはかなり下げられる。ただ、それが楽しいのかと問われても「うん、すごく楽しいよ」と答えることは私には甚だ難しい。そうやって、他人にも自分にも深入りせず、誰も何も愛さず、誰にも何にも期待せずに、心を動かさず、心を閉じて生きていくことが理想的だと思える境地には至っていない。中途半端もここに極まれりという感じである。
来週末Bellevilleで上演する2作品「キラル」と「抄訳 漂泊の家」では、さようならに対する態度がずいぶん違う。 「キラル」では、嫌悪や暴力や憎しみを選んでまでも、さようならを言わない。「抄訳 漂泊の家」では、こちらからさようならと言わないことを決めて、それを聞く審判の日を先延ばしにし続ける、もしくは巧妙に避け続ける。
稽古しながら、たとえもう二度と動けないくらいの致命傷を負ったとしても、自分のためだけではなく、誰かのために、さようならを聞くことも言うこともやっぱり大切なことなのかもしれないと、思い出す、思い至る。考えるべきは致命傷を負ったあとのことなのかもしれないと。
それでも、稽古が終われば、やっぱりさようならなんてもう聞きたくないし、言いたくもないな、と心底思ってしまう臆病者で半端者で勝手な自分が情けなくて、しょげるばかりである。
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2018年から、広島の舞台プロデュース団体「舞台芸術制作室無色透明」とともに、地域の新進演劇人を育成する事業を3年間実施してきて、今年はそれをアップデートした事業を実施。
「キラル」は広島の劇団「グンジョーブタイ」所属、第26回劇作家協会新人戯曲賞最終候補作家・泉晟さんの書き下ろし短編。 「抄訳 漂泊の家」は京都の劇団「烏丸ストロークロック」代表、第60回岸田國士戯曲賞候補、第23回 OMS戯曲賞候補の劇作家・柳沼昭徳さんの試作を含めた台本集「漂泊の家」を原作とした再構成抄訳版(長大な原作を30分にしてしまってごめんなさい、柳沼さん…)。
それぞれ30分くらいの上演で、合間に休憩兼転換兼トークセッションを実施。7月4日15時開演の1ステージのみ。
急な公演のお知らせになって心苦しいのですが、無理ない範囲でご来場をご検討いただければうれしいです。
公演詳細は、こちらに。 https://theatre-de-belleville.tumblr.com/post/654709836504809472/iira21
そして、以前からお伝えしている演出家のための演劇合宿企画「Belleville Camp21 d'été」の申込締切��で24時間を切りました。6月27日24時が申込締切です。次のためのきっかけを探している若手演出家のみなさん、ぜひご検討ください。 Belleville Camp21 d'été の詳細はこちらに。 https://dainanagekijo.tumblr.com/post/651711280610181120/camp21dete
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nrmkh · 4 years
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私のような小さな者はもちろんのことですが、世界中のアーティストという存在は、厳密に言うなら人間ひとりの生命維持には必要ありません、厳密に言えば。空気と水と適切な栄養分の食べ物があって、眠れる場所があれば、生命はある程度維持できるかもしれません。ただ困ったことに、それだけでいいかというとそういうわけにもいきません。そういうわけにもいかないのが人間なのかもしれません。お金も多少は必要かもしれませんし、たまには偏りある食べ物も食べたくなるかもしれません。それだけだと心の健康が不安になるかもしれませんし、空気も水も睡眠も居住環境も衣服も、極度のこだわりじゃなくても、一人ひとりで好みは違うかもしれません。お金を稼ぐ仕事にも、いろいろな種類があり、好き嫌いや向き不向きなどもあるでしょう。どうやら厄介なことに、人間は一様ではないようで、一様に扱おうとするときしみも生まれるようですし、その一様ではない一人ひとりのためにいろいろな仕事や楽しみが生まれたのでしょう。現に今、世界にはとてもたくさんの仕事や楽しみが存在してしまっています。その一部分が、おそらく文化と呼ばれているように思います。
私はフランスに住んでいたとき、節約するためにも毎日バゲットとチーズを食べていて、週6くらいのペースでケバブを食べていました。帰国してもう7年くらい経ち、バゲットはたまに食べますが、ケバブにいたっては帰国してから一度も食べていません。ケバブを無性に食べたくなるときはありますが、そんなに食べてないなら世界にケバブもバゲットも必要ないかと問われると、そんなわけはない、と答えます。私は普段野菜を食べませんが、だからといって世界に野菜が必要ないかと問われると、そんなわけない、と答えます。誰かには必要だと思うからです。
もう一度言うと、アーティストという存在は厳密に言うなら人間ひとりの生命維持には必要ありません。ただ、一様ではない一人ひとりがどう生きるか、限られた人生の時間をどう使うかという部分に、文化は比較的深く関わっているように思いますので、文化を体現するアーティストが必要ないのかと問われると、厳密には必要ないけど、ないと人生が惜しい気もします。アーティストなんかいなくても、ほかのもので代替できるひともいるでしょうけど、一様ではないですし、一様に扱うときしみも起きてしまいそうだと考えると、代替できないひともいるように思います。思いたいです。代替できないひとがいる以上、それを提供する楽しみと仕事も必要になってきてしまいます。それに、文化は別にアーティストだけが体現しているわけでもありません。困ったものです。
文化がない、もしくは文化が制限されている社会に暮らす一人ひとりは、生き方も人生も一様に押し込まれそうになっているのかもしれません。そう考えると、もう一度、文化やアーティストは必要ないかと問われたなら、生命維持においては厳密には必要ないけど、文化やアーティストは必要だと言える社会であってほしい、一様ではない一人ひとりとそれぞれ違う人生を認め合える社会であってほしいと答えるかもしれません。
ここまでもなんだか長くなりましたが、長くなったついでに、気の迷いで試訳したツェーザル・フライシュレンの詩を(原題"Hab' Sonne im Herzen")。山本有三の訳が有名ですね。
その心に太陽を持て 嵐が起きようとも雪が降ろうとも 空が雲で埋め尽くされても 地上が争いで埋め尽くされても その心に太陽を持て そうすれば何が起きても光で満たされる 真っ暗な日であったとしても
その唇には歌を持て 楽しい響きの歌を持て 日々に苦しめられようとも その唇には歌を持て そうすれば何が起きても乗り越えることができる
孤独な日であったとしても 周りのひとへの言葉を持て 苦しむひとのために言葉を持て あなた自身を救ったその言葉を 彼らに語ってあげなさい 唇には歌を 決して諦めてはいけない 心には太陽を そうすれば きっとすべてがうまくいく
ということで。
昨年はじめて実施した、若手演出家と俳優のための合宿企画「Belleville Camp」を今年も実施する予定です。今後の状況に十分注意しながら、国や自治体からの発表も精査して、状況によっては中止の可能性もありますが、実施に向けて受け付けを開始しました。未来の文化を担う若手のための学びと経験の機会はできるだけ提供したいと考えています。自らを若手と思う演出家と俳優のみなさん、無理ない範囲でご検討ください。
Belleville Camp20 詳細はこちら https://dainanagekijo.tumblr.com/post/617916411866644480/camp20
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nrmkh · 3 years
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ずいぶんと昔に何度も泣かせてしまったひとのパートナーが重い病気にかかった。私にそんな特別な責任はないかもしれないけど、なぜかひどく気になったので電話をかけた。おそらくはじめてかけた電話で聞く声は、何十年前とあまり変わっていないように感じた。短い会話の間、彼女は一瞬声を詰まらせたように思えたけれど、すぐに何十年前と変わらないような声に戻って「ありがとう」と言った。
境界線は、存在する。その電話のこちら側と向こう側のように、厳然と、そこに、ある。そしてそれは、越えられないとき、向こう側に手が届かないとき、はっきりと真っ黒な底の見えない溝を湛えて現われる。頭ではわかっていても、知識では知っていても、向こう側に行きたいのに行けないと理解したとき、向こうがこちらに来てほしいのに来ることはないことを飲み込めたとき、向こうとこちらとは決定的に世界が違うと体感したとき、境界線はまるで最初からそこにあったかのような顔で平然と現われる。確かに、最初からそこにあったのかもしれない。見ないフリをしていたのは、見たくないと思っていたのは、こちらなのかもしれない。向こうが遠くにあるうちはほとんど見えなかった境界線は、向こうに近づくにつれて越えられなさを強く示す。最初から「そこには行けません、絶対に越えられません」とわかっていれば、近づきもしなかったし、もしかしたら越えられるかもしれないと期待もしなかったのに、近づいてようやく目の当たりにして、立ちすくむことになるなんて、ひどい話だ。それに、いつのまにかこちらの後ろに前に境界線が現れて、どこにも行けなくなることだってある。歳を重ねることや、立場を得ることは、こちらに近いのかもしれないと私は思う。気づいたときには、境界線に囲まれている。まさに四面楚歌。孤立無援の背水の陣。どないせーちゅうんじゃ。
詰まった声を電話越しに聞いたときに、抱きしめて声をかけてあげたいと感じたことも、「大丈夫、大丈夫」と言いたかったことも、ただの偽善とも言えるし、自己満足とも言えるし、私が求めるものの裏返しとも言えるし、彼女の苦しみに私が耐えきれないだけとも言える。だから、私は、祈る、しかできない。境界線の向こう側で、世界が違う向こう側に立つ彼女が、少しでも心安く、平穏に、安寧に家族との時間を過ごせますように、と。祈ることが何の役にも立たないことくらいよくわかっているけれど、私に残された無益な武器を握りしめるくらいの権利はあるだろう。
幼い頃、兄妹のように一緒に遊び、何度も何度も泣かせて、今も「こうへい兄ちゃん」と電話の向こうから私を呼んだ、何十年も会っていない従姉妹よ。私は祈っている。あなたの少しでも多い幸福を、少しでも不幸の少ない時間を。
考えてみると、境界線の向こう側にいて、私には祈るしかできないひとが、ここ数年でどんどん増えた。この先も、祈るしかできないことが増えていくのかと思うと、正直、少なからずげんなりする。
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来週末、6月19日と20日に、Bellevilleで本番を迎える「oboro」も境界線を描いている。北九州を本拠として活動するブルーエゴナクの穴迫くんに書き下ろしてもらった短編戯曲。来年は2幕目を書き足してもらい、国内ツアーする予定。 ※今回は一応1幕目だけど、この1幕でもきちんと?完結?しています。
「oboro」も[夢]をモチーフに境界線が描かれているとはいえ、私のような重苦しくてうじうじしたような視線ではなく(でも、もしかしたら穴迫くんも過去に境界線に苦い思い出があったんじゃないかと私は邪推はしている)、戯曲のセオリーも飛び越えながら、境界線もどしどしいくつも飛び越える(どころか飛び越えて行って帰ってこない)という、境界線に暗澹たる思いを抱く私としてはうらやましいやら、越えすぎて何が何だかわからないな境界線って、っていう気持ちになる。
近代以降、戯曲の登場人物は、一応、一貫した人格や事実の積み重ねの上に存在することが重視されるのだけど、そのセオリーを外した景色というのがおもしろいテキスト。
対策を講じながらの上演となりますが、情勢やひとそれぞれの環境も違いますので、無理ない範囲でご来場をご検討くださいませ。
Belleville21春シーズンプログラム みえのみんなの演劇祭 「oboro」
作:穴迫信一(ブルーエゴナク) 出演:諏訪七海、増田知就 演出:鳴海康平
6月19日(土)19:30 6月20日(日)14:00[残席少] ※上演時間:約40分(予定)
目の前のあのひとは現実か、それとも私の夢か。今この時間は現実か、私の夢か、それとも誰かの夢か——。コンビニで働く東と七月、そして七月の恋人の三郷が生きる「いくつかの」日常。いつも何度も覚め続けるそれは、誰かの夢のようで、私の夢のようで、いつもいつのまにか重みを失う。私も、あなたも、この貼り紙に写るあのひとと同じように、存在することも、存在していたことも曖昧になっていく。北九州を拠点に活動するブルーエゴナクの劇作家・穴迫信一の書き下ろし新作短編を、第七劇場・鳴海康平の演出で上演。
公演詳細は以下に。 https://theatre-de-belleville.tumblr.com/post/647688687931572225/oboro
top photo: 松原豊
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efb · 6 years
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#lovelovelove #theatredebelleville #du5au29décembre2018 (à Théâtre de Belleville) https://www.instagram.com/p/Bq-uYpUF6J7me2ho9ynzUOnG-nw_FK3aZHLKi80/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1qybf9chza4q2
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