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team-ginga · 3 months ago
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映画『チタン』
 U-Nextで映画『Titane/チタン』(2021)を見ました。
 フランス映画だし、カンヌでパルム・ドールをとった映画だし、もっと早くに見ても良かった映画なのですが、見るには心の準備がいる気がしてようやく見たものですが、予想通りキモチワルイ系の映画でした。
 頭にチタンを埋め込まれた女性が自動車しか愛せなくなる映画だと私は勝手に思い込んでいましたが、全く違います。
 次の展開が全く読めない映画で、私はずっと「何? いま何が起きているの?」、「ワタシは一体何を見せられているのか?」と思いながら見ていました。
 ヒロインのアレクシアは幼い頃交通事故に遭い頭にチタンを埋め込まれます。
 大人になった彼女はモーターショーでコンパニオンのようなことをしています。ショーの後、車までつけてきたファンの男に絡まれた彼女は男と熱烈にキスをしながら髪につけていたかんざしを男の首に突き刺して殺します(フランスにもかんざしってあるんですかね。ジャポニスムというやつでしょうか)。
 シャワーで返り血を洗い流していると扉を激しく叩く音がします。なんだろうと扉を開けてみるとそこには一台の自動車が置かれています。
 そこでアレクシアはその自動車とセックスをします。
 どうやってするのかは聞かないでください。アレクシアは全裸でシートに座って足を開き、車はライトをつけたままギシギシ、ガタガタ動きます。それでセックスしたことになるんでしょうか。いささか疑問は残りますが、まあそういう設定です。
 このセックスが原因でアレクシアは妊娠してしまいます。
 その後アレクシアはモーターショーで一緒にコンパニオンをしていた女性といい仲になります。レズビアンというわけですね(シャワーを浴びていた際、アレクシアの髪が隣りにいた女性の乳首のピアスに引っかかって取れなくなったというのが二人が知り合ったきっかけです。なんという出会いだ!)。
 アレクシアは相手の女性の家へ行き、居間のソファで彼女といちゃつきますが、やはり突然かんざしで相手を刺し殺します(アレクシアは連続殺人の犯人で、それ以前にも何人も殺しているという設定です)。
 悲鳴を聞いて出てきた男性の同居人も口に椅子の足を突っ込んで殺します(なんという殺し方だ!)。
 するとそれを見ていた女性の同居人が悲鳴をあげてトイレに逃げ込みます。追いかけるアレクシアーーすると巨漢の黒人男性(彼も同居人なのでしょう)が出てきて「トイレに行くの? 俺も行きたいんだけど」と言います。
 「一体この家には何人住んでるんだ」とツッコミを入れたくなるシーンですが、まさにそのタイミングでアレクシアは男に「この家には何人いるの?」と言います。我々観客の心の内を代弁してくれているわけですね。
 名シーンですね(もちろん皮肉で言っています)。
 アレクシアはその男性を殺害し、トイレに閉じこもっていた女性も殺そうとしますが、間一髪女性は逃げ延びます。
 そこからちょっと訳がわからないシーンになります。アレクシアは倉庫のようなところに入り布のようなものに火をつけます。火は一気に燃え上がり家を焼きます。
 アレクシアがある部屋のドアを開けるとそこには中年の男がいます。アレクシアはすぐにドアを閉めて外から鍵をかけます。
 えーっと、何が起きているんですか? さっぱりわかりません。
 後からWikipediaで見ると、アレクシアは証拠隠滅のために自宅で衣服を燃やそうとするが火が大きすぎて家が燃えてしまう、彼女は自分の両親を部屋に閉じ込めて家もろとも焼き殺すと書いてあります。
 なるほどそういうことだったのか……って、わかるかそんなもん!
 と、とりあえず怒ってみましたが、これはそういう映画です。
 で、どれくらい時間が経ったのかわかりませんが、アレクシアは指名手配されています。説明は一切ありませんが、おそらく仕留め損ねた女性が警察に証言したのでしょうね。
 似顔絵が出回っているのでアレクシアは駅の洗面所で髪を切り、胸にガムテープを巻いて男装します。さらに顔を変えるため自分で顔を殴りますが、当然ながらうまく行きません。そこで彼女は洗面台の角に思い切り鼻をぶつけて人相を変えます。
 痛い! 私はグロテスクなシーンは平気ですが、こういうシーンは見ていて辛いものがあります。
 それから場面変わって、いつの間にかアレクシアは警察に保護されています。一人の男が彼女をみて「あれは私の息子だ」と言います。
 え? 息子? まあ男装しているのでそう思うのかな。
 男の名前はヴァンサン、若い者から「隊長」と呼ばれていて、「え? 何者?」と思いましたが、消防隊の隊長のようで十数年前に息子が行方不明になっていたようです。
 アレクシアは正体がバレるのを恐れてか一言も口を聞きませんが、ヴァンサンは息子と信じて自宅に迎え入れ、消防隊に入れます。
 ヴァンサンは毎夜お尻に怪しげな注射を打っています。麻薬か、それともインシュリンかわかりませんが、後でその姿を見たアレクシアに「病気?」と尋ねられて「老いだ」と答えたところを見るとステロイドか何かなのでしょう。
 アレクシアはヴァンサンと不思議なダンスを踊った後(なぜ踊るのかさっぱりわかりません)、ヴァンサンから鍵を受け取り家を出て行きます。彼女は長距離バス(なのだろうと思います)に乗ります。すると数人の不良少年たちが乗り込んできてアレクシアの隣に座った黒人女性にちょっかいを出し始めます。
 バスが出発します。なぜかアレクシアはバス停に残っています。バスを降りたということでしょうね。でも……なぜ降りたんでしょう。
 彼女はヴァンサンの家に戻ります(え? なぜ?)。ヴァンサンはその夜注射を普段より多く打ったせいで床に倒れています。アレクシアはヴァンサンを抱きしめ「パパ」と言います(え? なぜ?)。
 ここまで見て私はヴァンサンは死んだのだと思っていました。でもそうではありません。翌朝になると元気になっています。気を失っていただけのようです。
 ヴァンサンはアレクシアを伴ってある家に向かいます。その家の息子(47歳!)が部屋に閉じこもって出てこないがどうも様子がおかしいという通報を受けたからです(消防隊って火事だけじゃなくてそういう場合にも出動するんですかね)。
 47歳の息子は部屋で倒れています。ヴァンサンは救命措置を行いますが、それをみて男の母親は気絶してしまいます。
 ヴァンサンはアレクシアに人工呼吸をするよう命じますが、彼女はやり方がわかりません。ヴァンサンは「マカレナのリズムに合わせて胸を押せ。ワンフレーズ終わったら鼻を摘んで口から息を吹き込め」と言って「ダッダダダッダダダーダ、ウー、マカレナ」と歌い出します。
 先ほど紹介した「この家には何人いるの?」というシーンと並んでこの映画最大の名シーンですね(あ、これもちろん皮肉で言っています)。
 ある日、ヴァンサンの別れた妻がやってきます。ヴァンサンは失踪した息子が帰ってきたと言いますが、妻はもちろん信じません。アレクシアが部屋で裸になっているのを見て、彼女は「ヴァンサンはあなたが息子だと信じてる。彼のことをお願い」と言います。
 ヴァンサン自身もその後アレクシアの裸を見てしまいます。それでも彼は「お前が誰であろうと、お前は私の息子だ」と言います。
 辛い現実より心地よい幻想に生きたいということですね。テーマとしてはありがち……いや、よくある……いや、あっていいものですし、掘り下げ方によってはいくらでも面白くなるものですが、これはないよなあ。この形では乗れません。
 そうこうするうちにアレクシアのお腹はどんどん大きくなっていきます。子どもが産まれそうになるとアレクシアはヴァンサンに助けを求めます。
 ヴァンサンはなんとか赤ん坊を取り上げますが、アレクシアは死んでしまいます(死んだのだと思いますが確信はありません。何しろ私はヴァンサンが死んだと思っていましたから)。
 ヴァンサンが赤ん坊を抱き上げると、赤ん坊の背中には金属製の背骨が浮き出ているというところで Fin(おしまい)。
 うーん、なんじゃこれは。
 この映画は批評家から高い評価を受けているとのことですが、一体どこがいいんでしょう。
 ストーリーは破綻しているし映像も全く綺麗ではありません。ヌードシーンは山ほどあるけれど全くセクシーではなく、頭を剃り上げたアレクシアがヴァギナや乳首から黒い液体を垂れ流すシーンなぞは嫌悪感を催させます。
 ヴァンサンとアレクシアの擬���的な親子関係、二人の絆の深まりがポイントなのかもしれませんが、私は乗れないな。
 私にとってこの映画はただキモチワルイだけのどうしようもない映画です。
 残念。
追記:  そう言えば、今にも子どもが産まれそうなアレクシアがヴァンサンに助けを求める直前、ヴァンサンはひとりベッドに横たわり透明の液体(灯油かなにかでしょうか)を口に含み、それを自分のシャツに吐き出して火をつけ、慌てて消します。
 これって一体何のシーンなんでしょう。ヴァンサンは自殺しようとしたってことですか。
 全く訳がわかりません。
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team-ginga · 3 months ago
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映画『アンテベラム』
 U-Nextで映画『アンテベラム』(2020)を見ました。
 この映画は一切予備知識なく見るべき映画です。未見の方はご注意ください。
 私は極力予備知識なしに見ようと思いましたが、見る直前にU-Nextの作品情報でストーリー紹介を見てしまいました。あれは明らかに失敗でした。
 ストーリー紹介には「博士号を持つ社会学者で人気作家でもあるヴェロニカは、夫と娘と共に幸せな家庭を築いていた。ある日、講演会に招かれた彼女は、力強いスピーチで拍手喝采を浴びる。しかしその後、ヴェロニカの輝きに満ちた日常は突然崩壊し、悪夢へと反転する」とあります。
 ところが映画はアメリカ南部のプランテーションでの奴隷たちの悲惨な生活から始まります。
 「あれ? どういうこと?」、「これって主人公が見ている夢なのかな。それとも劇中劇?」と思ってみていましたが、なんとこのシークエンス40分近く続きます。
 40分経ってようやく携帯電話の音が鳴り、それまでプランテーションで奴隷として働いていた女性が豪華なベッドで目覚めます。
 女性の名前はヴェロニカーー金持ちで「意識高い系」のインテリで黒人差別・女性差別を糾弾する活動家ですが、そのなんというかな……非常に嫌味ったらしい人物で1ミリも好感が持てません。
 ストーリー紹介にあった通りヴェロニカは講演を行い拍手喝采を受けたあと、友人女性二人と一緒に着飾って高級レストランへ行くのですが、キッチンに近い悪い席に案内されると、「こんな席はいや。こっちにするわ」と言って勝手に席を代わり、店の人間に見せつけるように一番高い(のだと思います)シャンパンを注文します。
 嫌味ったらしいたらありゃしない。
 そのあと友人二人と別れてタクシーに乗ったヴェロニカは謎の人物に誘拐されてしまいます。
 ーーとここまでが第二部。物語は再び冒頭のプランテーションに戻ります。
 プランテーションでは白人のご主人様が携帯電話で誰かと話をしています。
 「え? これって南北戦争時代の話じゃなかったの?」って誰でも思いますよね。
 そうなんです。プランテーションの物語は昔の話ではなく現代の話ーータクシーの中で襲われ誘拐されたヴェロニカはこのプランテーションに連れてこられ奴隷として扱われているのです。
 ナイト・シャマランのある映画にあった設定ですね。私は最初の40分を見ているうちにそうじゃないかなと思っていたので、衝撃は全く受けませんでした。
 ヴェロニカは仲間の男性と一緒に脱走を試み、白人のご主人様を殺して携帯電話を奪い警察に連絡します(その際、仲間の男性は殺されてしまいます。ヴェロニカは彼に「教授」と呼びかけます。奴隷扱いされていたこの男性もインテリだったというわけですね)。
 ヴェロニカはさらにご主人様に仕えていた男たちやご主人様の奥様も殺し、馬に乗って逃げていきます。ある門を越えるとそこには「アンテベラム、南北戦争再現公園」(だっけ?)と書いてあります。
 門の外には警察が来ていてオ・シ・マ・イ。
 ご主人様だった白人は上院議員で白人至上主義者だった、彼は巨大な公園を使って白人が黒人を奴隷にして支配する理想のプランテーションを作り上げ街から黒人を拉致していたというオチですね。
 やりたいことはわかりますが、このオチは容���に予想できるものだったし、善悪二元論というのかな、白人=悪という図式が目立ちすぎて私は乗れませんでした。
 それに何より主人公に1ミリも共感できないのが最大の問題ではないかと思います。
 もうちょっと好感の持てる人物にできなかったんでしょうか。
 
 
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team-ginga · 3 months ago
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映画『ダーク・スカイズ』
 U-Nextで映画『ダーク・スカイズ』(2013)を見ました。
 監督も役者も全く知らない人で、おそらく低予算映画なのでしょうが、小品ながら佳作というべき映画です。
 冒頭、郊外の住宅地が映ります。空間をたっぷりとったこぎれいな家が立ち並び、週末には友人を呼んで芝生でバーベキューをしていて、「ウサギ小屋」に住む我々日本人からすると羨ましいかぎり。
 こんなところに住んでいる人には悩みなんてないんだろうなと思っていたら、さにあらずーー主人公の男(既婚で二人の子持ち)は現在失業中で再就職がなかなかうまくいきません。
 それ以上に問題なのは家の中で奇妙なことが起こっていることです。
 最初は冷蔵庫の中のものが食い散らされている程度でした。しかし、やがて家中の写真立てから写真がなくなったり、台所でグラスだのビンだのカンだのが天井近くまで積み重ねられ幾つもの柱ができたりします。
 夫婦は家に防犯装置を取り付けます。するとその夜、防犯ベルが鳴りますが、出入り口は全て固く閉ざされています。翌朝業者が来て「誤作動だ」と言いますが、防犯装置は8箇所から侵入者が入ってきたことを示しています。
 やがて主人公の妻や二人の息子にも異変が起きます。主人公と一緒に公園に遊びに行った5、6歳の次男がいきなりおしっこを漏らし硬直して叫び声を上げるところなど見ていてゾッとしますし、不動産会社に勤める妻が客を売り家に案内している最中急に黙り込み、ガラス戸に頭をぶつけ始める、場面が変わると妻はベッドで寝ている、なんだ夢かと思っていたら携帯電話が鳴って、上司が「客の前でなんてことをしたんだ」と言う、妻が鏡を見ると額に怪我をしている、つまり先ほどの出来事は夢ではなく現実だったというところも非常によくできていると思いました。
 この映画のいいところはそこーーSFXもグロテスクなシーンも一切使わず、脚本と演出だけで見る者を心底怖がらせるところです。なかなかできることではありません。
[この辺りからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 妻はネットで調べて自分たち家族は宇宙人に狙われていると信じるようになります。家に怪異が起こるというオカルトものだと思っていたら実はアブダクション(宇宙人による誘拐)を扱うSFだったんですね。
 夫は最初相手にしませんが、夫自身が意識を失い家の外でぼーっとしていたことや、二人の息子の体におかしなあざが見つかり虐待を疑われたことをきっかけに二人はアブダクションの専門家らしき老人に会いにいきます。
 老人は宇宙人は最初にコンタクトをした人間を誘拐すると言い、夫婦は下の息子が狙われていると信じ、家の出入り口を全てベニヤ板か何かで封鎖し立てこもります。
 深夜、実際に3人の宇宙人が現れますが、彼らの姿はほとんどと言っていいほど画面には映らす、夫婦と二人の子供が右往左往することで宇宙人の侵略を表現しており、SFXは全く使われていません。
 気を失っていた上の息子(13歳)が意識を取り戻し、弟を探して家の中を彷徨うシーンは現実と幻想が入り混じりなかなかよくできています。彼はようやく後ろを向いて座り込んでいる弟を見つけて手を差し伸べるが……という展開もよくできていると思います。
 結局、誘拐されたのは下の息子ではなく、上の息子だった、狙われていたのは上の息子だというのがこの映画のオチで、一応どんでん返風の体裁はとっていますが、うーん、そこはどうかな。
 まああそこからどう展開すれば良かったかと言われても答えようがありませんが、宇宙人の襲来だと思ったら宇宙人の襲来だったではあまり捻りがありません。
 その意味では終盤は尻すぼみだったと思いますが、まあそれは仕方のないことなのでしょう。
 それよりもおそらく低予算でSFXを使えない中でよくあれだけのものを作ったと褒めるべきだと思いました。
 宇宙人vs.家族の戦いという点ではナイト・シャマランの『サイン』に少し似ていますが、私は『サイン』よりこちらの方が好きです。
 
 
 
 
 
 
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team-ginga · 3 months ago
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映画『インフィニティ・プール』と『爆裂都市Burst City』
 4月1日に『エイプリル・フールズ』を見る前に映画を2本見ました。
 『インフィニティ・プール』と『爆裂都市Burst City』です。
 『インフィニティ・プール』(2023)はあのデヴィッド・クローネンバーグの息子ブランドン・クローネンバーグ監督の映画で、期待に違わず(?)ヘンテコな映画です。
 スランプに苦しんでいる小説家とその妻が南のリゾートホテルに来ています。その土地は貧富の差が激しく、ホテルの客は敷地の外に出てはいけないことになっています。
 しかし、小説家夫婦はホテルで知り合った建築家夫婦に誘われて車で外の浜辺へ出かけます。
 「なるほど、外に出て現地の人々に無茶苦茶にされる映画なのか」と思いましたが、さにあらずーー帰り道で小説家は現地の人間を車で轢き殺してしまいます。
 小説家とその妻は警察に知らせようとしますが、建築家夫婦はそれを制止します。しかし、天網恢恢疎にして漏らさず(かな?)小説家は翌朝警察に捕まってしまいます。
 刑事は「この土地では理由の如何を問わず誰かを死なせたら被害者の親族に殺されることになっている」と言います。
 復讐法ですね。なんという前近代的な話でしょう。
 小説家はビビりますがまだ続きがあります。刑事曰く「この土地では金を払いさえすればクローンを作ることができる。クローンを作って被害者遺族にそのクローンを殺させればいい」。
 なるほどそういう設定のお話なんですね。なんという近未来的な話でしょう。
 この設定から容易に推測できることが二つあります。
1)そんなことができるなら人なんて殺し放題じゃないの。
2)そんなに簡単にクローンができるなら、どれが本物でどれがクローンかわからなくなるなるんじゃないの。遺族に殺されるのがクローンで生き残るのが本物だとなぜ断言できるの。
 はい、その通りです。実際物語はその二つを軸に展開していきます。
 決してつまらない映画ではありません。雰囲気はなかなかいいと思います。
 結末はグダグタ……というか、まあああいう終わり方しかできないよねというものでしたが、それも悪くはありません。
 でもなあ……「何が不満なんだ」と聞かれれば「いや別に何も」としか答えられませんが、いささか不満が残る映画でもありました。
 やっぱりワタシはSFは少し苦手なのかもしれません。
 石井聰亙(現・石井岳龍)監督の『爆裂都市Burst City』(1982)は「『箱男』を撮った監督だから一度見てみるべえ」と思ってみたのですが、全く乗れませんでした。
 大体、私は暴走族とか暴力団とかいうのは嫌いなのです。だからヤクザ映画は見ませんし、『ゴッド・ファーザー』に代表されるマフィアもの映画もあまり好きではありません。
 あの『イージー・ライダー』だってそれほど評価はしていません。バイクで暴走して「社会に反抗している」というのはちゃんちゃらおかしいと思っています。
 石井監督の『狂い咲きサンダーロード』も人が言うほどいいとは思っていません。
 この『爆裂都市Burst City』も同じです。
 舞台は近未来(なのかな)ーー『AKIRA』や『北斗の拳』に出てくるようなスラム街。
 そこでスラムに住む人々とパンクバンドのメンバーたちと原子力発電所建設を目論むヤクザたちがバトルをするという話なんですが……
 つまらん。あまりにもつまらん。
 見どころはヤクザのボスがプロレスラーの上田馬之助であること、ヤクザの手下で女衒の男が泉谷しげるであることくらいでしょうか。
 好きな方は好きなのかもしれませんが、ワタシには全く合わない映画でした。
 
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team-ginga · 3 months ago
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4月1日に見るべき映画『エイプリル・フールズ』
 4月1日に映画『エイプリル・フールズ』(2015)を見ました。
 私が好きな脚本家・古沢良太がシナリオを書いた映画です。
 古沢良太はテレビドラマ『リーガル・ハイ』や『コンフィデンスマンJP』や『外事警察』の作者ですが、私はいずれも見ていません。
 でも劇場版『コンフィデンスマンJP』三部作は見ましたし、劇場版『外事警察』も見ました。
 映画『キサラギ』も見たし、古沢がTeam NACSのために書き下ろした芝居『悪童』も見ました。
 そしてそのいずれもが名作でした(『探偵はBARにいる』三部作はそれほど感心しませんでしたし、『Always』や『寄生獣』は見ていませんが、まあそれはノーカウントということで)。
 この『エイプリル・フールズ』も昔見てその素晴らしさに舌を巻いた作品です。
 物語は群像劇ーーそれも群像劇の教科書に載せたいくらいよくできた群像劇で、
1)自称有名外科医の男(松坂桃李)に騙され妊娠してしまった女(戸田恵梨香)が男が食事をしているレストランに乗り込んでいく話
2)ヤクザ風の男(寺島進)が舎弟と一緒に小学生の女の子(見ている時にはわかりませんでしたが、なんと浜辺美波が演じていたようです)を誘拐する話
3)老齢の夫婦(里見浩太朗、富司純子)が運転手(瀧藤三郎)を雇って皇族ごっこをする話
4)怪しげな霊感占い師(リリィ)が刑事(高嶋政伸)に捕まり尋問される話
5)ネットで「あなたたちは本当は宇宙人だ。今日母星から宇宙船が迎えに来る」という記事を読んで真に受ける小学生の話
が細分化され巧みに組み合わされています。
 それぞれエイプリル・フールの「嘘」から始まった話から人間の「真実」が見えてくるという作りで、それぞれの人物がついた「嘘」は結構早くネタバレするし、一つ一つを分けて取り上げれば人情噺で「甘い」ところもあるのでしょうが、並行して見せられるとそれだけで唖然としますし陶然ともしますし感動もします。
 何より全く関係がないと思っていた物語が終盤見事に繋がっていくのが快感です。
 劇作家であるワタシからすると、「これはすごい」、「こんなのワタシは書けない」と思いますし、非���に悔しい気もします。
 それくらい素晴らしいシナリオだということですね。
 出演者は上に挙げた以外も豪華で、戸田恵梨香が殴り込みに行くレストランの給仕長にユースケ・サンタマリア、オーナーシェフに小澤征悦、客に戸次重幸、大和田伸也、里見浩太朗と富司純子が訪れるハンバーガーショップの店長に古田新太、ウエイトレスに木南晴夏、リリィ演じる霊能力者の客に岡田将生を配し、ちょい役として千葉真一、生瀬勝久、小池栄子まで出演しています。
 これは本当によくできた映画です。
 4月1日には必ず見るべき映画と言えるでしょう。
 
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team-ginga · 3 months ago
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歌、歌、歌……
 息子の婚約者の両親との顔合わせが近づいてきたので散髪に行ってきました。
 平日の午前中だから空いているだろうとたかを括っていたら、とんでもないーー私が行ったときには3人待ちで結構待たされました(担当してくれた散髪屋さん曰く、午前より午後の方が空いていて、特に木曜日は空いているそうです)。
 一応念のため本を持参して読んでいたのですが、ラジオでFM Cocoloが流す音楽が耳に入ってきました。
 ローリングストーンズから始まってジョン・レノンの「スターティング・オーヴァー」がかかって、エルトン・ジョンの「ロケット・マン」がかかって、さらにはキャンディーズの「微笑み返し」や、誰が歌っているのかは知りませんが「君に会いにいくよ。君に会いにいくよ」という歌もかかっていました。
 世代的に合うのかもしれませんが痺れました。
 散髪から帰ってネットでいろいろ調べたり聞いたりしました。その中で次のようなことを思いました。
・「スターティング・オーヴァー」はやはり名曲だし、誰が聞いてもビートルズ的なメロディーラインです。昔の恋人が再会するというシチュエーションがやっぱり私は好きです。  その勢いで同じシチュエーションを歌ったポール・サイモンの「スティル・クレイジー・アフター・オール・ジーズ・イヤーズ」も聞きました。これもそれほど有名ではありませんがいい曲です。  70歳になっても75歳になっても、死ぬまで、いや死ぬ時にも I'm still crazy after all these years(あれから何年も経ったけど僕は今でもクレイジーだよ)と言いたいものです。
・「君に会いにいくよ。君に会いにいくよ」はThe Boomの「星のラブレター」という曲でした。  そうかThe Boomかあ。  私はThe Boomのことはそれほどよく知りませんが、「風になりたい」が大好きなので、The Boomと波長が合うのかもしれません。
・キャンディーズについては私はあまりよく知らず、中学・高校時代、同級生たちが「ランちゃんがいい」とか「いやスーちゃんだ」と言い合っていた時もずっと無関心でした。(ミキちゃんが一番いいと言う同級生がいないというのがポイントです)。  うちは「8時だよ全員集合」も「見ごろ食べごろ笑いごろ」も見ない家だったからかもしれません。  でも、「微笑み返し」はいい曲ですね。  「タンスの陰で心細げに迷子になった/ハートのエースが出てきましたよ/おかしなものね、忘れた頃に出てくるなんて/まるで青春の思い出そのもの」なんてすごくないですか。  この一節はもちろんキャンディーズのヒット曲「ハートのエースが出てこない」を読み込んだものですが、それ以上に忘れた頃に見つかったハートのエースを「青春の思い出」に喩えるというのはただ事ではない気がします。  作詞は阿木燿子、作曲は穂口雄右。  阿木燿子恐るべし……です。
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team-ginga · 3 months ago
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映画『探偵はBARにいる3』
 前回の書き込みで古沢良太の名前を出したので、古沢がシナリオを書いた映画を見たくなりました。
 ずいぶん昔に見た『エイプリル・フールズ』(名作でした)を見るか、NHKで放映していたドラマ『外事警察』を見るか、『探偵はBARにいる3』を見るか迷いましたが、一度見た映画を見るのはなあと思いましたし、『外事警察』全6話はU-Nextで見ると1話あたり220円追加料金がかかるし……ということで『探偵はBARにいる3』を見ることにしました。
 シリーズ第3作です。
 私は前2作を見ていますが……うーん、印象が薄いというか、正直あまり記憶に残っていません。
 そもそも私はコアな推理小説ファンですが、謎解き小説専門でハードボイルドはあまり好きではありません。
 ハードボイルドは探偵が歩き回り、一つの手がかりが別の手がかりにつながり、あれよあれよという間に事件が解決してしまって頭が追いつかないし、ご都合主義に思えてしまうからです。
 それにハードボイルドはその看板とは逆に結構人情噺風というかwウエットな部分が多く、それも好きになれません。
 『探偵はBARにいる3』もそういう物語でした。
 毛蟹をトラックで運んでいた男が射殺され積荷を奪われる事件が起きます。一方、大泉洋演じる探偵と松田龍平演じる助手は、失踪した女子大生(前田敦子)捜索の依頼を受けますが、どうやらその女子大生は射殺された男が運転していた車に乗っていた模様。しかも、積荷は毛蟹ではなく、毛蟹に隠した麻薬だったというところから、探偵たちはとんでもない事件に巻き込まれていきます。
 脇を固めるのが、安藤玉恵だったり篠井英介だったりマギーだったり田口トモロヲだったりするのは素敵ですが、ストーリー的にはどうかなあ。
 映画の半分くらいのところで真犯人がわかってしまうのはまずいような気がしましたし、探偵たちが真犯人に協力(?!)するのもどうかなあという気がします。
 また、探偵は自宅にいるときヤクザたちに拉致され、助手の活躍でなんとか逃げ出すのですが、なんとそのまま自宅に戻ります。
 えーっと、そんなことをしたらまたヤクザが来て拉致していくんじゃないですか。
 そういうところはちょっと……いやかなり気になりました。
 この映画は東直己の原作の設定を使っているだけでストーリー自体は古沢良太のオリジナルのようですが、個人的にはそれほど感心しませんでした。
 ヒロインの北川景子もそれほど魅力的ではなかったし、やっぱり『外事警察』にすればよかったと思います。
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team-ginga · 3 months ago
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映画『真実の行方』と『交渉人』 +意外性のある映画ベスト10
 U-Nextで映画『真実の行方』(1996)と『交渉人』(1998)を見ました。
 Youtubeの映画紹介チャンネルでどんでん返しのある映画として紹介されていたからです。
 私は映画でも芝居でも小説でも、物語というものには意外性が必要だと思っています。だから、私の芝居にはいつも意外性を盛り込んでいます。
 でも……どんでん返しのある映画と聞いて見るとどうしても構えてしまうからでしょうか、「えーっ、そうだったのか!」と驚くより「へえ、そうなんだ」、「なるほど、キミはそう来たわけね」と冷静に見てしまうのが困りものです。
 『真実の行方』は大司教殺害の罪で逮捕された若者(エドワード・ノートン)を敏腕弁護士(リチャード・ギア)が弁護する物語、『交渉人』は立て篭もり犯との交渉に当たってきた警官(サミュエル・L・ジャクソン)が警察内の横領事件に巻き込まれ濡れ衣を被せられ、内務調査官やその秘書を人質にとり立て篭もり、別の署の交渉係の警官(ケヴィン・スペーシー)と交渉するという物語。
 どちらもテレビの洋画劇場でなら見る映画ーー言い換えれば私が好んで選んで見る映画ではないということになります。
 実際、タイトルを見た段階で「あれ? これテレビで見たことがあるんじゃないの」と思いましたが、見ていませんでした。
 『真実の行方』は若くてイケメンだった頃のエドワード・ノートンによるエドワード・ノートンのための映画です。
 検事局上層部が河岸の再開発に絡んで暗躍していたとか、その絡みでリチャード・ギアが以前弁護していたギャングのボスが死体で見つかるとか、さまざまな話が散りばめられていますが、それらは全て目眩しーーつまりミスディレクションで、中心となるお話は極めてシンプルです。
 ミソはリチャード・ギア演じる弁護士が決して善良な弁護士ではなく、悪徳弁護士とは言わぬまでも裁判に勝つためならなんでもする弁護士だということでしょうか。
 でも見ていていくつか疑問に思った点がありました。
 リチャード・ギア演じる弁護士はエドワード・ノートンが被告となる裁判を担当する女性検事とは元恋人で、裁判外で一緒にお酒を飲んだりするのですが、検事と弁護士がそんなことするもんですかね。
 またリチャード・ギアも女性検事も全く予告なく証人を喚問するのですが、そんなことあり得ますか。喚問するならするできちんとその旨を予告するのが当たり前じゃないですか。それなのに喚問される証人自身も自分が証言台に立つことを知らないというのはどうかしていると思います。
 何より不思議なのは、一旦弁護側の主張を出してしまったらもう変えられないということです。リチャード・ギアはエドワード・ノートンは無罪であると当初主張していたのですが、審議が進むにつれ心神喪失の疑いが濃くなります。しかし、一旦無罪を主張した以上もう心神喪失を訴えることはできないとのこと。
 私はアメリカの裁判についてほとんど何も知りませんが、そういうものなんですかね。
 で、肝心のどんでん返しがどうだったかというと……うん、わかるよ。わかるけど、でも驚きはしなかった……かな。
 一方の『交渉人』についていうと、設定からして人質をとって立てこもったサミュエル・L・ジャクソンと人質解放のために交渉をするケヴィン・スペーシーが協力して真犯人を突き止め、サミュエル・L・ジャクソンの濡れ衣を晴らすのだろうなと思っていたら、その通りの映画でした。
 意外性があるとすればそれはラストのシークエンスでしょうが、まあ驚きはしなかったかな。
 どちらも予備知識なしにテレビの洋画劇場で見ていればそれなりに満足できる映画だろうなという気がしました。
 私が今までに見た映画の中でどんでん返しベスト10を選ぶとしたら何を選ぶかなあ。
 古くはアガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の『情婦』(1957)、ヒッチコック監督の『サイコ』(1960)、ローレンス・オリヴィエ、マイケル・ケイン主演の『探偵スルース』(1972)でしょうか。あれを予備知識なしに見ることができた私は幸運でした(『サイコ』も『探偵スルース』もリメイクされていますが、全然ダメです。見るならオリジナルですね)。
 新しくはなんと言っても『アイデンティティー』(2003)ですね(20年以上前の映画だから「新しく」はないか。でも21世紀の映画は私にとっては「新しい」ものに感じられます)。あれは痺れました。
 スペイン映画『ロスト・ボディ』(2012)も良かったし、同じくスペイン映画の『永遠の子どもたち』(2007)も良かったと思います(両作に出演していたルエン・ルエダはとてもチャーミングな女優です)。
 あと、あれ、なんだっけ、『トールマン』(2012)か、あれはすごいですよ。決して有名な映画ではありませんが名作だと思います。
 邦画なら断然、内田けんじ監督の『アフタースクール』(2008)ですかね。あれも名作です。
 私が大好きな古沢良太が脚本を書いた『エイプリル・フールズ』(2015)も素晴らしい映画だったと思います。あ、古沢良太脚本なら『コンフィデンスマンJP』三部作もいいですね。
 こうしてみると邦画もなかなか捨てたものではないように思います。
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team-ginga · 3 months ago
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映画『ピエロがお前を嘲笑う』
 U-Nextで『ピエロがお前を嘲笑う』を見ました。2014年のドイツ映画です。
 いかにもB級ぽい題名ですが、原題は Who am I -- Kein System ist sicher。後半のドイツ語は「いかなるシステムも安全ではない」という意味だそうで、ハッカーたちの物語です。
 主人公はベンヤミンというパソコンだけが友達の陰キャの青年ーー彼は想いをよせる女性マリのために大学の試験問題をハッキングで手にいれ逮捕されて社会奉仕をすることになります。
 ベンヤミンはそこでマックスという青年と知り合い、マックスの仲間のシュテファンとパウルも加えて4人でハッキンググループを結成。グループにCLAYという名前をつけます。CLAYとはClowns Laugh At Youの略だということで、『ピエロがお前を嘲笑う』という邦題はここからきているわけですね。
 ベンヤミンたちは面白半分にハッキングを繰り返しますが、ハッカー界の大物MRX(これってミスターXってことですか。昔のプロレスラーみたいな名前です)に認めてもらうため無茶をするようになります。
 ドイツ中央銀行(だっけ?)か何かに忍び込んで重要な情報を盗み出した彼らはMRXに裏切られ、警察とロシアンマフィアに追われることになります。
 ロシアンマフィアの手を逃れたベンヤミンがアジトに戻ると他の3人はすでに殺されています。自らの命を守るために自首したのか、逮捕されたのかはよくわかりませんが、ベンヤミンはユーロポール(インターポールのユーロ版なのでしょうね)の女性刑事ハンネの取り調べを受けることになります。
 物語はハンネの取り調べを受けてベンヤミンが証言するという回想形式で語られるのですが、これってどんでん返し映画として名高いあの『ユージュアル・サスペクツ』に似ていますよね。
 だから、見る方もかなり警戒してみることになります。その警戒をどのようにかいくぐって観客を驚かせるかにこの映画のポイントはあります。
[ここからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 ベンヤミンの証言によってMRXが逮捕されます。なんとMRXはアメリカに住む19歳の青年ーー若造です。ネット社会というのはそういうものだということをよく表していて、なかなかいいですね。
 ベンヤミンはハンネに証人保護制度を利用したいと申し出ます。証人保護制度を利用できれば、ベンヤミンは罪に問われず、新しい戸籍(まあドイツに戸籍はないだろうと思いますが、言わんとすることはわかりますよね)をもらい新しい土地で新しい人生を送ることができるのです。
 ただし証人保護制度を利用するためには精神障害を持っていてはならないという規定があります(へえ、そうなんだ。知りません��した)。ベンヤミンはかつて精神科にかかっていて解離性人格障害の治療を受けていたので制度を利用することはできません。
 解離性人格障害とは多重人格のことです。
 ここまで見ればわかりますよね。
 マックスなんて人物は存在しなかった。シュテファンもパウルも存在しなかった。みんなベンヤミンが生み出した人格の一つに過ぎなかったわけです。
 なるほど……
 しかしお話はそこで終わりではありません。
 ハンネはベンヤミンに同情して彼をこっそり逃すことにします。一人船に乗ってドイツを後にするベンヤミンーー彼は髪の色も黒から金色に変えています。
 そして……ゆ���くりと彼に歩み寄るのはマックスとシュテファンとパウル、それにマリ。
 はい、全ては多重人格者のベンヤミンが生み出した妄想だという驚愕の結末は嘘で彼らは実在していたのです。
 二段構えのどんでん返しというわけですね。
 いい映画だと思います。ただ、私はどんでん返しのある映画だと知って見ていたのでそれほど驚きませんでした。
 それに論理的に考えるとおかしいところがあります。この計画は捜査員のハンネが同情してベンヤミンを逃すから成立するのですが、どうしてそれが予想できたのでしょう。ハンネの対応が違えばベンヤミンは刑務所行きになっていたはずです。
 結局このトリックは映画を見ている観客を驚かせるためだけのものにすぎません。
 それってどうなんでしょう。
 とはいえ、どんでん返しがあると構えて見るのではなく素直に見ていればなかなかいい映画ではないかと思いました。
 
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team-ginga · 3 months ago
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映画『スオミの話をしよう』
 では『スオミの話をしよう』の話をしましょう。
 三谷幸喜監督・脚本、長澤まさみ主演の2014年の映画です。
 売れっ子小説家・寒川(坂東彌十郎)の妻スオミが行方不明になったということで刑事の草野(西島秀俊)とその部下の小磯(瀬戸康史)が寒川邸を訪れますが、なんと草野はスオミの元夫。さらに寒川家で雇われている下働きの魚山(遠藤憲一)もスオミの元夫であることがわかります。
 実はスオミは5回結婚しており、魚山は最初の夫、草野は四番目の夫なのです。
 そこへ二番目の夫で草野とは違う部署の課長である宇賀神(小林隆)、三番目の夫でYoutuberにして実業家の十勝左衛門(松坂桃李)も加わり、スオミの5人の夫プラスアルファでスオミ誘拐事件(途中で身代金を要求する電話があり、失踪事件は誘拐事件であることが明らかになります)に当たることになります。
 この映画のポイントはスオミが5人の夫の前で全く違う女性を演じていたことです。私自身は「あ、これってレイ・ブラッドベリの『火星年代記』だな」と思いました。
 『火星年代記』に登場する火星人は目の前にいる人間が望む姿になります。つまり長い間会っていない肉親に会いたいと思っている人間の前ではその肉親になるし、初恋の人を忘れられずそのイメージをずっと追っている人間の前ではその初恋の人になるわけです。
 もちろんそんなことは長続きしないし、当人にとっては非常に疲れることです。だから火星人は衰弱して死んでしまいます。
 『火星年代記』はもちろんSFですが、そういうことって現実にもあるし、そういう人って実際にいると思います。
 だから、私はパトリック・ラペイルの『人生は短く、欲望は果てなし』を翻訳した際、この小説のヒロインは『火星年代記』の火星人のようなものだと解説に書きました。
 そういうスオミを踏まえて「日本社会において女性は男性に気に入られることでしか生きられない。だから常に相手が望む姿でいようとする。この映画はそういう女性の苦しみを描いたものだ」と言う人もいますが、それはどうかな。
 男女を問わず、世の中には「愛したい人」と「愛されたい人」がいて、「愛されたい人」は愛する人の前で相手の望む姿になろうとするんじゃないでしょうか。そしてそれが行き過ぎれば本人にとっても相手にとっても不幸なことが起こるでしょうが、そうでなければうまくいくこともあるような気がします。
 『スオミの話をしよう』の話に戻りましょう。
 スオミは最初の夫の前ではツンデレ、二番目の夫の前では中国人(二番目の夫は外国人と結婚するのが夢だったのです)、三番目の夫の前では活動的な女、四番目の夫の前では何もできないお嬢さん、五番目の夫の前では良妻賢母という具合に、5人の夫の前でそれぞれ相手が望む姿になりました。
 5通りの女性を演じ分けた長澤まさみを讃える声もありますが、うーんどうかな。
 ツンデレと中国人はわかります。でも、それ以外の三つに関しては私は違いがよくわかりませんでした。
 私が面白いと思ったのはむしろ5人の夫の回想シーンに同じ女性(宮沢エマ)が登場することです。いや、最初は同じ女性だとは思いません。私は三つ目くらいで「あれ?」と思いましたが、五つ目まで見てもわからない人もいるでしょう。
 それが最後になって意味を持ってくるというのはとてもいいと思いました。
 逆に終盤ダレてしまうのはマイナスポイントです。三谷幸喜自身、自虐的に言っていましたが、三谷幸喜は映画の終わらせ方が下手で、スパッと終わればいいものをダラダラ続けてしまうという悪い癖があります。この『スオミの話をしよう』もそうでした。
 ラストをミュージカル仕立てにするのはいいと思いますが、もっと早い段階でスパッとそこへ持っていけばインパクトのある映画になっていたような気がします。
 『スオミの話をしよう』は決してつまらない映画ではありません。思わず笑ってしまうようなところも多々あります。
 あまり期待をせずに見たら面白かった「拾い物の映画」というのが一番適切な言い方でしょうか(貶しているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。そういう「拾い物」をすると随分得をしたような気がしていつまでも記憶に残るものです)。
 
 
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team-ginga · 3 months ago
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島田荘司の『ローズマリーのあまき香り』
 島田荘司の推理小説『ローズマリーのあまき香り』(2023)を読みました(それより先に映画『スミオの話をしよう』と『ピエロがお前を嘲笑う』を見たのですが、こちらの話を先に書きます。あまりにひどかったからです)。
 私は島田荘司が好きでした。『占星術殺人事件』は素晴らしいと思いましたし、『斜め屋敷の犯罪』もその奇抜な発想に驚かされました。
 そのあとも島田荘司の推理小説は結構、いやほとんど読んでいるはずです。
 しかし、いつの頃からか島田荘司はおかしくなっていったような気がします。
 『ローズマリーのあまき香り』は島田荘司が生んだ名探偵・御手洗潔(みたらい・きよし)シリーズの最新作です。私は期待を持って読みました。
 中心となる事件は、1977年世界的なバレリーナであるフランチェスカ・クレスパンが公演の休憩中に楽屋で撲殺されたというもので、楽屋は鍵がかかり、窓ははめ殺し、廊下は警備員が監視していたとのことで完全な密室。しかも、休憩中に殺されたはずのフランチェスカが休憩後も舞台に現れ最後まで踊ったというのです。
 この不可能犯罪を20年後に御手洗潔が解決するというのですから、ワクワクしないはずはありません。
 でも……これはダメです。
 ネタバレはしませんが、島田はこの小説で推理小説の禁じ手を二つ使っています。あえて禁じ手を使って、あるいはスレスレを狙って名作になったという作品もありますが、これはちょっとどうかと思います。それにその禁じ手の一つは島田自身が別の小説で使ったものではないかなという気がします。
 途中、フランチェスカ・クレスパンが出演していたバレエ『スカボロゥの祭り』の元になったファンタジー小説の抜粋と思われる章があったり、御手洗潔が調査をする直前にニューヨークで起きた不可思議な銀行強盗事件を描く章があったりして、一応それは伏線ということになるのでしょうが、長い、とにかく長い。読んでいて「一体ワ��シは何を読まされているのだろう」という気持ちになります。
 何より次のようなことが私は気になりました。
・日本語とイディッシュ語の類似が指摘され、そこから祖国を失ったユダヤ人たちがシルクロードを超えて日本まで来て住み着いた、つまりある意味ユダヤ人は日本人の祖先であるというような「トンデモ学説」が紹介されていること。
・「猿が人間になるはずはない」、「猿はどこまで行っても猿だ」というようにダーウィンの進化論を否定するような箇所があること。
・世界を裏で操っているのはユダヤ人財閥(作品の中ではウォールフェラーとなっていますが、明らかにロックフェラーのことです)であり、彼らは戦争を始めることも終わらせることも自由にできるとしていること。
・その流れから「ヒトラーは我々が考えているほど狂っていたわけではないのかもしれない」というようなセリフがあること。
・新型コロナウィルスは某国が作った生物兵器であるということが示唆されていること。
 もちろんこれらは島田荘司の言葉として書かれているわけではありません。作中に登場する人物の言葉なり考えであるわけですが、それにしてもこんな都市伝説というか陰謀論というか、そういうものをちゃんとした作家が作中に書いちゃダメでしょ。
 さらに言えば、天才バレリーナが殺されたことでバレエというジャンルがダメになるという書き方もおかしいと思います。ある分野の第一人者が若くして殺されることはもちろんその分野にとって大きな打撃です。でもそれによってその分野が廃れてしまう、滅んでしまうということはありえない、新たに第一人者となるような人物が登場するはずだと思います。
 何より気になったのは、作中で島田が「幼稚園」を「キンダーガーデン」と書き、「小学校の遠足」を「エレメンタリーのフィールド・トリップ」と書き、御手洗潔に「その罪状は殺人なのか、それともマンスローターなのか」と言わせていることです。
 最後のなんか何を言っているのかさっぱりわかりません。manslaugterは「故殺」、つまり「激情に駆られての殺人」なので、「その罪状は計画殺人なのか、それとも激情に駆られての殺人なのか」ということなのでしょうが、それならそう書けばいいんじゃないですか。
 どうしてわざわざ「マンスローター」なんてカタカナ英語を書かなければならないんでしょう。
 お前は『おそ松くん』のイヤミか。ルー大柴なのか。
 作中のセリフに「頭脳に自信があるエリートたち」の「鼻持ちならなさ」というのがありますが、島田自身がそういう鼻持ちならないところに陥っているように思えました。
 私が好きだったあの島田荘司はもういなくなってしまったのでしょうか。だとしたらとても悲しいことです。
 
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team-ginga · 4 months ago
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おでかけ、おでかけ
 私は出不精であまり外を出歩くことはないのですが、この1週間は結構あちこちに出かけました。
 2月25日(火曜)はピッコロ演劇学校以来の友人・山田麻結の新居にお邪魔しました。場所は阪和線の上野芝ーー堺の少し向こうで初めて行く場所でしたが、うちからは1時間余り、意外に近かったように思います。
 駅で落ち合って週に3日しか開いていないという謎の豆腐料理専門店へ行き、豆腐の定食を食べて山田の新居ーー素敵な一戸建てーーへ向かい、いろいろだべりながら山田の娘・盟子ちゃん(6月で3歳)と遊びました。
 盟子ちゃんは随分と私のことを気に入ってくれたようで、夕方私が帰った後は泣いて、そのまま寝てしまったようです。この歳でこんなに若い娘に気に入られるとは光栄です。
 2月28日(金曜)は妻と二人で神戸のMonet Aliveへ行きました。モネやモネと同時代の画家たちの絵を360度のスクリーンに写して見せてくれるイベントです。
 そのあとアトアへ行って下のちょっとおしゃれな(?)フードコートで昼食。妻はオムライスを、私はピッツア・マルゲリータを食べました。
 昼食後は2階に上がってアトアの水族館に行きました。
 3月2日(土曜)は一人でピッコロ演劇学校卒業公演を見に行きました。本科の芝居と研究科の芝居があるので結構長丁場。でも飽きることなく見ることができました。
 誰にも会う予定はありませんでしたが、ピッコロシアター前館長の藤池さんや演劇学校研究科主任講師で私の恩師でもある辰さんこと島森辰明さん(珍しくスーツにネクタイ姿でした)や本科主任講師で演劇学校の1年先輩でもあるゆうきこと菅原ゆうき君とも会えました。
 終演後は塚口駅近くにあるカレーとシチューの店アングルでビーフシチューを2人前買って帰り妻と一緒に食べました。美味。この値段(たぶん一人前千三百円くらいだったと思います)でこの味は大したものです。
 3月5日(火曜)は留学時代の旧友カティの息子ヴィクトールが恋人と日本に旅行に来ているというので、一緒に京都を散策しました。
 コースは銀閣寺ーー哲学の道ーー南禅寺ーー平安神宮。方向音痴の私が案内できるのはこのコースだけですが、方向音痴が祟って最初から躓きました。
 ヴィクトールとその恋人レアは八坂神社近くのRCホテルというところに泊まっているというのでホテルまで迎えに行ったのですが……ホ、ホテルが見つからん。
 スマホで地図を見たのですが、これが全く役立たずーーいや、スマホではなく私が見方を知らない役立たずだっただけですが、道に迷ってしまいました。
 郵便屋さんに道を尋ね、佐川男子に道を尋ね、少し遅れてようやくホテルに辿り着いたのですが、ヴィクトールはヴィクトールでわかりやすいように八坂の塔のところまで来ていたようです。
 ようやく二人と会えて再会を喜び(最後に会ったのは10年以上前ーーヴィクトールはまだ大学1年生でした。今は31歳。レントゲンの医者になっていて、パリで研修中だそうです。恋人のレアも医者とのこと)、タクシーに乗って銀閣寺へ。
 予定では哲学の道の叶匠壽庵(かのうしょうじゅあん)で抹茶と和菓子の予定でしたが、またしても方向音痴が災いし道がわかりません。ヴィクトールにスマホで調べてもらいました(私自身はこの段階でスマホで地図を見るのを完全に断念しています)が、temporairement fermé(臨時休業)とのこと。残念。
 レアが餅が好きだというので、その辺の店に入ってぜんざいと抹茶のセットを食べました。
 そうこうするうちに昼時(というかもう1時を過ぎていました)ので南禅寺近くの五右衛門茶屋へ行って名物の湯豆腐を食べました。
 観光の一環として行っただけで大して期待はしていなかったのですが、これが意外に美味しかったのは収穫でした。
 それから南禅寺を見て、ヴィクトールのスマホの道案内で(!)平安神宮へ行ったのですが、ここでまた愕然とすることがありました。平安神宮はリノベーションの最中のようで本殿が全く見えません。それでもお参りをしてレアがおみくじを引くことはできました。
 おみくじはなんと大吉ーー大変だったけれどおみくじの内容を全部フランス語で説明しました(思えばこれほどフランス語を話すのは久しぶりです)。
 それからタクシーを拾って、二人に河原町四条の駅まで送ってもらって解散。
 1万8千歩近く歩いてへとへとになりましたが、いい1日でした。
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team-ginga · 4 months ago
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映画『オ��ペンハイマー』
 たけしの『Broken Rage』で文字通りbrokenされた心を癒すため、今更という気もしますが、Amazon Primeでクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』(2023)を見ました。
 私はクリストファー・ノーランが好きです。『メメント』(2000)は傑作中の傑作だと思います。『プレステージ』(2006)や『インセプション』(2010)もいい映画だと思います。
 でも、『インソムニア』(2002)、『インターステラー』(2014)は感心しませんでしたし、『ダンケルク』(2017)、『TENET』(2020)は正直「どうしたんだノーラン」と言いたくなりました(バットマン3部作は見ていません。私はアメコミは嫌いなのです)。
 で、この『オッペンハイマー』です。
 物語はマンハッタン計画の中心人物で「原爆の父」と言われたロバート・オッペンハイマーの半生と第二次大戦後(映画の中では明記されていませんがネット情報では1954年だそうです)機密事項に触れる権利の更新をめぐってオッペンハイマーが出席する秘密聴聞会とオッペンハイマーを陥れたストローズが大臣になるに相応しいかどうかを決定する公聴会(こちらもネット情報によれば1959年だそうです。5年しか経ってないんだ)という三つの時間軸から成り立っています(1959年のところだけ白黒になっているというのも面白い趣向です)。
 予備知識なしに映画を見る観客は戸惑うでしょう(特に後半は「赤狩り」のことを知らないとわからないと思います)が、ここがこの映画の一番いいところでしょうか。わけがわからない状態からだんだんわかってきて「なるほどそういうことか」とわかった瞬間の喜びはなにものにも代え難いものがあります。
 というか、その趣向がなければ、この映画は大して面白いものではありません。
 オッペンハイマー率いる科学者たちが原爆の実験に成功し喜んでいるところは、さすがに見ていて腹が立った……というのかな、「そんなものをお前たちは日本に落としたんだぞ」と言いたくなりましたが、広島・長崎への原爆投下に沸く人々の前にたったオッペンハイマーが閃光が走り会場にいる人々が死んでいく幻覚を見るところから少し流れが変わります。
 彼は戦後の軍拡競争を予見し、ソ連と情報を共有し(!?)核兵器を管理することをトルーマン大統領に直訴しますが、取り合ってもらえません。「私の手は血で汚れているように思います」と言うオッペンハイマーにトルーマンはハンカチを差し出し「原爆を作ったのはあなただが、落としたのは私だ。全ての責任は私にある」と言いますが、オッペンハイマーが部屋を出ていくと側近に「なんだあの腰抜けは」と言います(ネット情報によればこれは実話だそうです)。
 そこから先はオッペンハイマーとアメリカ原子力委員会会長のストローズの対立が物語の中心になります。ストルーズの謀略でオッペンハイマーが公職から追放された後、ストルーズは大臣に指名され、それに相応しい人物かどうか審査されるのですが、審査にあたりある科学者が「私怨からオッペンハイマーを陥れたのはストルーズだ」と証言したため投票の結果不適格という判断が下されます。
 因果応報を絵に描いたような話ですが実話のようです(ストルーズが「反対票を入れた議員は誰だ」と尋ねると「若い議員が名前を売ろうとして反対に転じたようです。名前は……ジョン・F・ケネディとか言います」という答えが返ってくるのは実話かどうか知りませんが、なかなか「粋」だと思いました)。
 ストルーズはオッペンハイマーを憎んでいるのは、オッペンハイマーが常に彼を馬鹿にしていたからですが、特にオッペンハイマーがアインシュタインに何かを吹き込んでアイシュタインと自分の仲を裂いたからだと言います。。
 オッペンハイマーとアインシュタインが顔を合わす場面は映画の冒頭にありますが、二人が何を話したかはわかりません。映画のラストでようやく二人の会話が流れます。
 二人は……ストルーズのことなど話してはいません。彼らにとってストルーズは眼中にないのです。つまりストルーズの憎悪には何の根拠も意味もなかったということになります。
 ここもまた「粋」ですよね。
 とはいえこの映画に感銘を受けたかと言われると答えに窮します。
 もちろん悪い映画だとは思いません。『ダンケルク』や『TENET』よりはいいと思います。でも傑作かと言われるとそうではないと思います。
 この映画は決してオッペンハイマーを美化してはいないし、原爆の開発を称えてもいません。でも、オッペンハイマーとストルーズの対立を描くことで結局はある種の善悪二元論に陥ってしまっているように思えます。
 そして……人間として魅力的なのはオッペンハイマーではなく、断然ストルーズです。
 「いい役者だな。誰だろう」と思って調べると……なんとロバート・ダウニーJrでした。
 え? あのロバート・ダウニーJr?
 私の顔認識能力が低いだけかもしれませんが、見ているときは全く気づきませんでした。
 他にもマット・デイモンやジョシュ・ハートネットやケネス・ブラナーも出演しているのですが、私は全くわかっていませんでした。それどころか、これでもかこれでもかというくらい科学者が出てくるので、「えーっと、これは誰だっけ?」とわからなくなることが頻繁にありました。
 ごめんよ。全て私の顔認識能力が低いのが悪いんだ(『ボヘミアン・ラプソディー』や『アムステルダム』に出演していたラミ・マレックだけはわかりました。まあ、あの顔はどこにいてもわかります)。
 結局この映画はオッペンハイマーは「歴史を作った人間」のようだが、そうではなく「歴史に翻弄された人間」に過ぎない、人間というのはみんなそういうものだということを言っているように思えます。
 そのこと自体に間違いはないと思うのですが、そんなことのために3時間近く映画を見せられても困るという気がしてしまいました。
 やっぱり私は伝記映画や歴史映画は苦手です。この映画より『メメント』や『プレステージ』の方がはるかに素晴らしい映画だと思いますし好きです。
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team-ginga · 4 months ago
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映画『Broken Rage』
 Amazon Primeで北野武監督・主演の映画『Broke Rage』を見ました。
 映画ファンを名乗りながら私は北野武の映画を全くと言っていいほど見ていません。見たのは最初の『その男凶暴につき』だけかな。
 でもたまには北野武映画もいいだろう、面白かったら他も見てみようと思ってみたのですが……酷い。いくら何でもこれはないと思うほど酷い。
 最初の30分は北野武演じるネズミという殺し屋が警察につかまり麻薬取引の覆面捜査官となる話ーー後半の30分は同じ物語をコメディにしたてあげたものですが、前半はストーリーがトントンと進みすぎてリアリティがないし、後半のコメディーはことごとくギャグが滑っています。
 喫茶店に入ろうとしたら出てくる客が扉を開けてそれに頭をぶつけてしまうとか、刑事に「ネズミ」と呼ばれた北野武がネズミの扮装をして「チュウ」と鳴くとか、浅野忠信演じる刑事が奇術よろしく剣を飲んだり手を開いて指と指の間に素早くナイフを突き立てたり針の山に横たわって見せたりして、大森南朋演じる相棒刑事が北野武に「どうだ恐ろしいだろ。さっさと吐いたらどうだ」と迫るとか、覆面捜査官になることを承諾した北野武がデストロイヤーのような覆面を被って行こうとするとか、ただ馬鹿馬鹿しいだけ。
 一体どこが面白いんですか。
 あの名作『カメラを止めるな』のようなことをしようとしたのかもしれませんが、シナリオが全くダメ。完全に失敗しています。
 刑事物、ヤクザ物のパロディーをしたいなら、もっとセンスのいいものを作って欲しい、『フライングコップ』あたりを見習って欲しいと思いました。
 唯一の収穫はヤクザの幹部として宇野翔平が出演していたことくらいでしょうか(私は白石晃士監督の映画『オカルト』を見て以来、宇野翔平のファンなのです)。ヤクザの幹部の割にはへこへこしていましたが、逆にそこがいいと思いました。
 これを見てしまうと他の北野作品を見る気が失せてしまいます。
 どうしようかなあ。
 
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team-ginga · 4 months ago
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映画『テオレマ』
 U-Nextでパゾリーニ監督の映画『テオレマ』(1968)を見ました。
 パゾリーニは非常に有名な監督ですが、私はほとんど見たことがありません。留学中にパリで『ソドムの市』を見たくらいかな。
 『テオレマ』は非常に不思議な映画です。この時代のこの種の映画にはよくあることですが、説明というものをほとんどしません。
 映画の冒頭、工場(会社)を従業員たちに譲り渡した資本家の話が出てきます。労働者たちにインタビューしているジャーナリストは「英雄的な行為かもしれないが、むしろ革命を遅らせることになるのではないか」、「これによって君たち労働者はブルジョワになってしまうのではないか」と言います。
 そこから話変わって、ある資本家一家の物語が始まります。
 一家の構成は両親と息子と娘ーー娘役はジャン=リュック・ゴダールと結婚していたアンヌ・ヴィアゼムスキーが演じています(声は吹き替えかな?)。私はヴィアゼムスキーの本 Une Année studieuseを原書で読んだことがあるので、妙な感慨がありました。
 この家にテレンス・スタンプ演じる男がやってきて一緒に暮らすことになります。
 この男はなにものか、なぜ一家と一緒に暮らすことになるのかはわかりません。説明がないのです。
 一家はみなーー家政婦も含めてーーこの男の魅力に夢中になり、男と性的な関係を持ちます。
 テレンス・スタンプは確かにハンサムですが、それにしてもちょっと極端ではないかと思わないではありません(息子や父親とも関係を持つので男はバイセクシュアルということなんでしょう)。でも、そういう設定なのだから仕方ありません。
 ある日、一通の手紙が届き、テレンス・スタンプは家を出て行きます(どんな手紙だったのか、もちろん説明はありません)。
 テレンス・スタンプが去ってしまうと、一家の人間はみんなおかしくなります。
 一番わかりやすいのは娘かなーー彼女は全身が硬直してしまい入院する羽目になります。
 息子は突然、前衛絵画を描き始めます。
 母親は車で家を出て男漁りを始めます。
 「なせそうなるのか」と聞かないでください。そういう設定なのだから仕方ありません。
 傑作なのは家政婦です。彼女はどこから村の家々に囲まれた広場のようなところへ行き、そこのベンチ(なのか?)に座り込み何日もそのまま動きません。
 やがて村人たちが彼女を取り囲み、彼女は信仰の対象となります。彼女は村人が提供する食事を拒み、道端に生えている草を食べ、顔にあばたのある少年のあばたをなくします。
 さらに彼女は空中浮揚するようになり、最終的には村の老婆を伴って工事現場のようなところへ行き、穴を掘って老婆に自分を埋めさせます。
 ここ……笑うとこですよね。まあ、私は笑いましたけど。
 一方、父親は……車で工場(会社)へ向かう途中、「すべてを労働者に渡してしまったらどうだろう」と言います。
 なるほど、ここで冒頭のシーンと繋がるわけですね……と思っていたらそうはならず、父親は大きな駅で突然、服を脱いで全裸になります。
 彼はそのまま歩いて砂丘(なのか?)のようなところへ行き大声で叫んで Fine。
 テレンス・スタンプは、エミール・ゾラの小説『ナナ』のヒロインのように、資本家一家を内側から崩壊させて結果的に革命の到来を早める「革命の天使」だというわけなんでしょうか。実際そういう時代(1968年の映画です)の映画ですし。
 嫌いじゃないよ。決して嫌いな映画ではありません。
 でもかえすがえすも不思議な映画です。
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team-ginga · 4 months ago
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ピッコロ劇団の『神戸我が街』
 昨日2月22日(土曜)、兵庫県立芸術文化センサーへピッコロ劇団の芝居を見に行ってきました。
 演目はソーントン・ワイルダー作、別役実先生翻案の『神戸わが街』。
 ソーントン・ワイルダーの『我が街』はピッコロ演劇学校研究科の卒業公演で上演した芝居で、私はギブス医師を演じました。
 だから芝居の内容はよく知っています。
 それを別役先生がどう料理したかが興味の焦点でした。
 『我が街』は絵に描いたような群像劇で、どこにでもいる人々の日常を描いています。だから主人公らしい主人公はおらず、ストーリーらしいストーリーはないのですが、一応中心となるのはギブス家とその隣に住むウェブ家ーーギブスの息子とウェブの娘の恋で、第1幕では高校生だった二人は、第2幕で結婚、第3幕では妻のエミリーはお産で死んで墓場から現世を見ることになります。
 『神戸我が街』では、芝居の冒頭、役者たち全員が舞台に集合し観客に語りかけ、そのようなあらすじを3分間にまとめていました。うーん、これはどうなんだろう……「さすがにそれはないんじゃないの」と思った……というか正直「あちゃー」と思いました。
 あの芝居は舞台監督(今回の芝居では「進行係」になっていました)が観客に語りかけ、舞台の上の「虚」の世界と観客のいる「実」の世界を行ったり来たりするところに面白さがあるのに、役者全員がそれをしてしまうと台無しではないのかと思ったからです。
 でも少しして「そうか! 最初に原作のあらすじを紹介しておいて、そこからどう逸脱するかを見せたいんだな」と納得しました。
 とはいえ、実のところあらすじは原作とほとんど変わりません。
 変わるのは場所と時代ーー物語の時間的空間的枠組みです。
 進行役は20世紀初めのアメリカ・ニューハンプシャー州グローバーズコーナーズの物語を上演しているはずなのに、それがいつの間にか20世紀終わりの神戸になっていて、ギブスは木村にエミリーはエミになっていることに驚き狼狽します。
 そこから彼はアメリカから神戸に流れてきた記憶喪失の旅人という設定になります。
 へえ、そういうふうにしたんだ……
 それに伴い原作ではそれほど重要ではなかった教会のオルガン弾きサイモン・スティムソンの存在がクローズアップされます。
 サイモンは芝居の中から抜け出し「現実」の神戸に流れてきた人物だからです。
 つまり、登場人物の中で進行係とサイモンだけが「よそ者」で特異な存在である、神戸で合唱の指導をしているトマス・キシという男はサイモンの息子であり、トマスの出自を明らかにすることさえできれば、進行係は失った記憶と失ったアイデンティティを取り戻せるというわけです。
 進行係はサイモンの生きた跡を探すため神戸からアメリカに渡ります。しかし、彼はグローバー・コーナーズなどという街は存在しないことを知ります。
 ……うーん、やりたいことはわからないではありません。でも、ちょっと無理がありませんか? これをやりたいなら、それを芝居の中心にすべきじゃないでしょうか。メインストーリーの「ついで」にやるようなものではないように思えます。
 原作では第3幕でお産で死んだエミリーが1日だけ現世に戻ることになっています。その際、彼女は「なんでもない普通の日に戻るのがいい」とアドバイスを受けて冒頭で演じられる1日が繰り返されることになるのですが、この芝居では交通事故で死んだエミが妹夫婦が帰ってきて一家全員が揃うという特別な日に戻ります。
 しかも、原作では霊となったエミリーは生きている人々に話すことも触れることもできないのですが、この芝居では当時のエミとなって家族たちとごく普通に接しています。
 うーん、これはどうだろう。
 普通の日というところが大事だ、特別な日だと意味がないと思うんですが……
 それに……エミが「みんな毎日を当たり前のように生きていることのありがたさをわかっていない」、「みんな自分のことしか考えていない」と言うのはどうかなあ。
 前半はその通りだしそれでいいと思うのですが、後半は違うんじゃないのと思います。彼らは決してエゴイストではありません。ただ、無知なだけなのです。
 見終わった後、妻は「あの芝居は日々生きていることの価値を伝えるものじゃないの?」と言っていましたが、違うと思います。
 あの芝居は「人間は日々生きていることの価値を知らずに生きている。悲しいことかもしれないが、それが人間でありそれが人生だ」という諦念というか達観というか、そういうことを伝えるものだと思います。
 それを思えば(なのか?)、ラストは歌ではなく原作通り進行係の語りで静かに終わって欲しかったというのが私の率直な思いです。
 いろいろ書きましたが、妻と私のお気に入りの役者さん今仲ひろしさんが進行役で大活躍していたので私は満足です。
 今仲さんは4月のオフシアター『ダウト』にも出演ーー主演を務めるようです。
 是非行かねば。
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team-ginga · 4 months ago
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映画『薔薇の葬列』
 ATG製作、松本俊夫監督、ピーター(池畑慎之介)主演の映画『薔薇の葬列』(1969)をDVDで見ました。
 前から見たかった映画だったのですが、貸しビデオ屋(古い!)にもサブスクにもなく、Amazonで購入したものです。
 フランスの作家マンディアルグに似た題名の小説(『薔薇の葬儀』)がありますが、それとは全く無関係ーーゲイバーを舞台にした物語で、当時としてはそういう界隈を描くこと自体、スキャンダラスな試みだったのだろうと推測されます。
 意外なことに(というのかな)ゲイバーの一番人気のゲイボーイとバーの経営者の男とバーのママの三角関係(もちろん3人とも男です)を描いた結構下世話な……というと語弊がありますが、まあそういうお話でした。
 ゲイバーでゲイボーイとして働く主人公エディ(ピーター)はバーのオーナー権田と愛人関係にあります。権田の愛人でバーのママでもあるレダ(もちろん男性です)は当然面白くありません。なんとかエディをクビにしようとします。
 でも、結局権田に捨てられてしまいレダは自殺します。葬儀の場面で、読経の後、ゲイバーに勤めていたゲイボーイたちは造花の薔薇が好きだったレダのために薔薇を一輪ずつもち和尚の跡をついていきます。
 え? だから『薔薇の葬列』なんですか?
 物語は時間軸を意図的に混乱させ、エディと権田とレダの三角関係の話にエディの過去の物語とエディの知り合いで実験映画を撮っているゲバラなる男が率いるヒッピーたちの物語が絡んでいきます。
 エディの過去がどんなものだったかというとーーエディは母一人子一人で育ちました。父親はエディがまだ小さいときに失踪したのです。
 あるとき母親は男を部屋に迎え入れます。母親と男が半裸で絡み合っているところに息子のエディ(まあ当時はエディという名前ではなかったでしょうが)が包丁を持って乗り込み、男に斬りつけ母親を刺殺します。
 うーん、そんなことをしたらタダでは済まないはずですが……まあいいや。
 で、現在ーーエディはエディで権田のみならずゲバラとも肉体関係を持ちます。
 面白いのは二つのベッドシーンが終わると「はい、カット」という声がかかることです。すると役者たちは素に戻り、スタッフたちと会話を始めます。監督は「じゃあこのままインタビューのシーンに移ろう」と言って、最初はレダ役の男性に、2度目は主役のピーターにインタビューをします。
 メタフィクショナルな作り方と言えばそれまでですが、なかなか凝ってますね。当時としては非常に斬新だったのではないでしょうか。
 インタビューの中で「主人公のエディのことをどう思いますか」と尋ねられたピーターは「近親相姦のことはともかく、性格的には私によく似ていると思います」と答えます。
 え? 近親相姦? どこに近親相姦の話があるんですかと思っていたら……
 とんでもないネタバレでした。
[以下ネタバラシをしています。未見の方はご注意を]
 レダが死んで、エディが変わってゲイバーのママになります。権田はエディの部屋でエディが浴室から出てくるのを待っています。
 権田はふと本を手に取ります。そこには子どもの頃のエディとその両親が写った写真が挟んであります。
 はい、ここまで見ればわかりますね。
 権田はエディの実の父親だったのです。
 エディが浴室から出てくると、権田は入れ替わりに浴室に入り、そこにあったナイフ(なぜ浴室にナイフが置いてあるのかは謎です)で自殺します。
 大きな音がしたのを不審に思って浴室にやってきたエディは権田の死体を見つけ、全てを悟ります(なせその状況で瞬時に全てがわかるのかはわかりません)。
 エディは権田が自殺に使ったナイフを手に取り、自分の両目に突き刺します。
 お分かりですよね。これはエディプス王の物語をなぞったものなのです。
 エディがナイフで両目を刺してよろめいているところで画面が切り替わり、淀川長治が登場します。
 はい、あの淀川長治ーー日曜洋画劇場でお馴染みの映画評論家の淀川長治が登場して「怖い映画ですね。残酷の中に笑いを混ぜた実験的な映画ですね。ではまた来週お会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら」と言います。
 ここって……笑うところですよね?
 そういうメタフィクショナルな作りにして、見る者を虚構と現実のはざまで迷わせたいのだと思いますが……それが成功しているかどうかはよくわかりません。
 『薔薇の葬列』はそういうフシギな映画です。
 絶対に見るべき名作ではありませんが、映画の歴史の中には(特にATGの歴史の中には)そういう映画もあったのだということを知るにはいい映画だと思います。
追記:  ゴダールの手法なのかもしれませんが、この映画の中にはさまざまな文章が引用されています。  私が分かったのは、ギヨーム・アポリネールの詩「地帯」からの引用で「太陽、切られた首」だけでしたが、他にもいろいろあります。  ヒッピーのゲバラが何か洒落たことを言って「ルクレジオの言葉だ」と言っていましたが、恥ずかしながら知りませんでした。
追記2:  この映画には写真家の秋山庄太郎や映画監督の篠田正浩が特別出演してるそうですが、彼らの顔をよく知らないのでどこに出ていたのかよくわかりませんでした。  蜷川幸雄も出演していますが、蜷川は特別出演ではなく、役者としての出演だったそうです。  へえ、そうなんだ……
 
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