tearplus
tearplus
Written
20 posts
Don't wanna be here? Send us removal request.
tearplus · 4 months ago
Text
narrative
Tumblr media
—————————————————– 線路迷宮 ——————————————————
さらに読む
0 notes
tearplus · 7 months ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『赤い先輩』 ------------------------------------------------------
さらに読む
0 notes
tearplus · 1 year ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『揺らぐ香りの』 ------------------------------------------------------
 あの香りを嗅ぐと、恋の記憶がよみがえる。  少し背伸びをして、素敵な女の子のふりをしようとしていた。  思い出すと恥ずかしくて、くすぐったくて……少しだけ、切なくなる。
「先輩、どうされたんですか?」  声をかけられてハッとする。催事場のざわめきが一気に流れ込んでくる。 「ごめんなさい。人が多いから、少し圧倒されちゃって」 「そっか、先輩は初めてだって言ってましたね。バレンタインデーフェアって毎年どこもこんな感じなんですよ」 「すごいのね」  世界中のチョコレートショップを集めた催事会場を眺めて、思わず感心してしまう。人、人、人の波。目を輝かせた人々が所狭しとひしめきあっている。バレンタインデーフェアというから女性ばかりかと思っていたけれど、意外と男性の姿も多い。女性の付き添いというだけでなく、男性同士やひとりで来ている人もいるようだ。 「目的は人それぞれなんですよ。恋人に贈る人もいれば、義理チョコ目当ての人も、自分へのご褒美を買いに来る人もいます」 「自分への?」 「そうですよ。だって、高くて美味しくて珍しいチョコがいっぱいあるんですよ。人にあげておしまいなんてもったいなくないですか?」 「そう言われてみれば、そうかも」  私が頷くと、後輩はキラリと目を光らせた。 「だからね、先輩。取引先用のチョコを選びつつ、自分用のチョコも選びません? 平日のお昼に来れるチャンスなんて、なかなか無いんです。土日だと売り切れちゃうような限定チョコも、今ならまだ残ってるっぽいんですよー」 「なるほど。買い出しの手伝いを真っ先に名乗り出てくれたのは、それが目的だったのね」 「あはは……バレちゃいましたか」  後輩は照れたように笑って頬をかいている。普通ならば先輩としてたしなめるべきなのだろうが、そんな気が全く起きない。 「しょうがないわね」と言いつつ、つい許してしまった。  この後輩を前にすると、私だけでなく他の誰もがそんな対応になってしまう。にこっと笑って頬を掻いてみせられると、みんなが「しょうがないなあ」と許してしまうのだ。  要領が良いのに嫌味なところが無い。愛嬌たっぷりで、誰にでも分け隔てなく接している。そんなところが、人を惹きつけるのに違いない。  昔から生真面目そうに見られて、人から怖がられてしまうことの方が多い私にとって、後輩の天性の愛嬌はとても眩しく映る。 「先輩、こっちにあるお店が結構おすすめなんですよ。日本初上陸なんです」 「最初に取引先へのチョコレートを買うのは忘れないでね?」 「分かってますよー」  人混みを器用に通り抜けていく後輩の背中を追いかける。ずいぶんと活き活きして見えるから、思わず苦笑してしまう。そういえば後輩が、「甘いものに目がなさすぎる」と会社の女の子たちにからかわれている姿を見かけたことがあったっけ。 「――――」  不意に足が止まった。  周囲の音が瞬時に消えた。  どきん、と鼓動が大きく跳ねた。  あの香りだ。  すれ違った女の子の髪がふわりと舞って、微かに香った懐かしい香り。  チョコレートの香りがどんなに強くても、お化粧の香りや、他の香水の香りがどんなに混ざり合っていても、私には分かる。  恋の記憶を呼び覚ます、あの香り。 (そうだ――あの香水をつけたのも、ちょうどバレンタインデーの日だった)
 小学五年生の冬、私は初恋に戸惑っていた。  相手はクラスメイトの男の子だった。明るくて、体育が得意で、愛嬌があって、誰からも好かれる人気者の男の子。  対して私は、クラスで一番地味で、真面目で、先生が決めたルールを守ることしか取り柄の無い女の子だった。  クラスメイトの女の子たちが、バレンタインデーにこっそりと学校へチョコレートを持ち込む方法を話し合っている時だって私は仲間外れにされていた。私に知られたら、先生に告げ口されてしまうというのが女の子たちの共通認識だったからだ。  真面目で目立たない生徒だっただけで、教師から気に入られていた記憶もないのだけれど……とにかく女の子たちはそうやって、一生懸命に恋の秘密を守ろうとしていたのだ。  だからこそ、私はひとりで悩むしかなかった。好きな男の子に、どうやってチョコレートを渡そうか、と。  お年玉は地道に貯めていたので、チョコレートを買うお金はあった。母親の買い物についていって、きれいにラッピングされたチョコレートを買うのも難しくはなかった。  問題は、チョコレートを渡す勇気が無いことだけだったのだ。
「先輩はぐれちゃいますよ」  再び人混みを縫って、後輩が私の前まで戻ってくる。 「さっきからぼうっとしちゃって、どうしたんですか? 疲れたなら、一旦出ましょうか?」 「大丈夫。心配させてごめんなさい」  誤魔化すように笑うと、後輩は少し眉をひそめた。それから、ぱっと顔を輝かせる。 「それなら、そこのイートインでちょっと休みましょう。この催事限定のチョコレートドリンクが売ってるんです」 「……心配しているふりをして、本当はその限定ドリンクが目当て?」 「違いますよ、これは純粋に先輩を心配してるからこその提案です!」  大真面目に言う後輩に、少し笑ってしまう。  そういえば、後輩はどこか彼に似ているところがある。だからこそ、今日はやけに鮮明に彼のことを思い出してしまうのかもしれなかった。
 限定ドリンクを買って、イートインスペースに落ち着く。取引先へのチョコレートを選ぶことすらしていないのに、休憩していることに少し罪悪感を覚える。 「おいしいですね、これ!」 「……そうね」  ささやかな罪悪感は、後輩の笑顔の前に浄化されてしまう。 「それじゃあ先輩。さっきからぼうっとしてた理由、教えてくださいよ」 「さっき、人が多いからだって言ったでしょう?」 「絶対それだけじゃないですよ」  後輩はにやりと笑った。 「恋する乙女みたいな顔してましたよ。もしかして、好きな人にあげるチョコのこととか、考えてました?」 「違うわよ」 「すぐに否定するところが怪しいなあ」 「…………」  答えるまでは引かない気みたいだ。好奇心でキラキラしている後輩の目に負けて、私は白状することにした。 「懐かしい香水の香りがしたのよ」 「香水?」 「ええ。子どものころ、こっそりつけた香水の香り」 「どういうことですか?」  身を乗り出して話を聞く気満々の後輩に、私はぽつりぽつりとバレンタインデーの思い出を打ち明けた。
 バレンタインデーの当日。  私は一世一代の勇気を振り絞って彼を学校近くの公園に呼び出した。  家に一度帰って、チョコレートが入った紙袋を持って――それから、家を出るのが怖くなった。  もしも彼が来てくれなかったら? むしろ、友達を大勢引きつれて待っていたら?  告白を馬鹿にされたら? チョコレートを拒否されたら?  呼び出すことに勇気を使いすぎたせいだろうか。悪いことばかりが頭を巡って、部屋から一歩も動けなくなってしまったのだ。  その時だった。母のお気に入りの香水のことを思い出したのは。
「香水と告白の勇気って、どう結びつくんですか?」  後輩が首をかしげる。 「香水の香りにはたくさんの効果があるっていうのが、母の持論だったのよ。香水の香りは、勇気と自信を与えてくれる魔法なんだって」 「そっか。それで先輩、いつも香水をつけてるんですか?」 「ええ。……少ししかつけていないのに、よく気付いたわね」 「そ��ゃ気付きますよ。先輩とすれ違うたびに、良い香りがしますから」  後輩はにっこりと笑った。 「それより、告白は上手くいったんですか?」  後輩の問いかけに、私は首を左右に振った。
 彼に意識してほしくて。  他の女の子とは違う、特別な女の子だと思って欲しくて。  “好きな人”の“好きな人”になりたくて、一生懸命考えてつけた初めての香水。  繊細な意匠のガラス瓶からワンプッシュ髪の毛にふきかけて、やっと外に出る勇気が出たのだった。
 果たして、公園には彼がひとりで待っていた。  挨拶もそこそこに、どぎまぎしながらチョコレートの紙袋を差し出したのを覚えている。  彼は少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに紙袋を受け取ってくれた。  次は告白の言葉だ。  そう意気込む私に、彼は思いもよらない言葉を投げかけてきた。 「ありがとう。俺が転校するって知って、プレゼント用意してくれたんだろ?」 「転校?」 「うん。父さんの仕事の関係でさ」  絶句してしまった。バレンタインデーのチョコレートだという弁解も、告白の言葉も、全て真っ白に吹き飛んでしまうくらいに。 「開けてもいい?」  彼にそう聞かれ、私はこくこくと頷いた。衝撃が大きくて、まだ声を出せるような状態ではなかったのだ。  茫然としている私の前で、彼は包みを丁寧に解いていった。溌剌とした彼のイメージからすると、バリバリ包みを破るものかと思っていたから意外に感じたのを覚えている。 「チョコかあ!」  彼は嬉しそうに笑った後、不思議そうに目をぱちくりさせた。 「……どうしたの?」  やっとバレンタインチョコだということに気付いたのかと、少しドキドキしながら訊ねた。  彼は答えを待つ私へと、無言で距離を詰めてきた。  そして、くんくんと鼻をひくつかせて。 「ずっと良い匂いがしてると思ってたんだ。このプレゼントの匂いだと思ってたけど、違うみたいだな」  チョコレートの箱と私を交互に見て、納得したように頷いた。 「きみから良い匂いがしてたんだ。俺、この匂い結構好きだ」  そして、ちょっと恥ずかしそうに頬を掻いた。
「それで、彼とは?」  後輩が気づかわしそうに問いかけてくる。 「何もないわ。そのまま転校してしまって、それきり」  当時の切なさが少しよみがえってくる。誤魔化すように、視線を逸らした。 「うーん、甘酸っぱい思い出ですね」  後輩はチョコレートドリンクの最後のひと口を飲み干す。 「そういえば、兄から似たような話を聞いたことがありますよ」 「えっ?」  戸惑う私に、後輩は意味ありげな笑みを向けてくる。 「そうです。転校が決まったころのバレンタインデーに、兄がチョコレートを持って帰ってきたんです。兄は鈍感だから『転校するからお別れのプレゼントをもらった』なんて言ってましたけど……僕はちゃんと気付きましたよ。それで、見知らぬ女の子に同情していました。だから、よく覚えてるんです」  後輩は、私の顔を覗き込む。彼は私の反応を窺うように、じっとこちらを見つめている。  単なる偶然。ありきたりなバレンタインデーエピソードだから、彼��も似たような思い出があるだけ。そう思いたいのに、上手くいかない。  後輩の表情が、あまりにも確信的だったから。 「その男の子の名字、覚えていませんか?」  後輩に言われて、やっと思い至る。後輩の名字と、初恋の男の子の名字が全く一緒だということに。 「もしかして、あなた――」  言いかけた私に、後輩はにっこりと笑顔を見せた。 「今度紹介しましょうか。あの頃の誤解を解くには、良い機会かもしれませんよ」 「でも、そんなに急に言われても困るわ。彼とは一生再会できないだろうと思って、こうして思い出話にできているわけだし……」 「香水の香りを嗅ぐたびに思い出すなんて、今も好きって言ってるようなものですよ」  後輩は苦笑して、それから少し切なそうに私を見る。 「僕だって、いつも先輩がつけてる香水の香り、覚えちゃってますから。デパートとかで嗅ぐたびに、先輩を思い出しますよ」  そう言って、赤い頬をぽりぽりと掻く。 (それって――)  後輩の言葉を借りれば、“好きって言っているようなもの”だ。  にわかに顔が熱くなる。 「弟としては正直、鈍感な兄に先輩を渡したくありませんけど……恋の勝負は正々堂々とやるべきですもんね」  愛嬌たっぷりに笑う後輩を前に、私は言葉を失ってしまう。さすがに「しょうがないなあ���と言うには、少し時間がかかりそうだった。
//
UnsplashのLaura Chouetteが撮影した写真
0 notes
tearplus · 3 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『楽屋にて』 ------------------------------------------------------
 ライブハウスの控室の扉を、ステージ上のバンドの音楽が軋ませていた。 「普通に声出してるひといますよね」 「むしろ、声出させてるバンドもあるし」 「共犯、共犯」  狭い控室に、人間と楽器がみっちり詰まっている。あとは色々、機材とか。床には、ほこりまみれの色とりどりのコードが、模様の一部みたいに一面にのたうっている。 「君ら高校生だっけ」  ひげ面の男が声をかけてくる。 「はい」 「へぇ」  ぼくらのバンドメンバーは3人。高校2年生1人と3年生2人。この控室の中では一番若い。そんなぼくらを、ひげ面の男が所属するバンドメンバーたちが興味深そうに見る。5人とも同じTシャツを着ている。バンド名が入ったTシャツだ。ダサいけど、ちょっとうらやましいと思ってしまう。 「聞いたよ、店長に。君らすごいんだって?」 「つか俺、リハ聞いたわ。めっちゃ上手かった」  お揃いTシャツの男たち以外も会話に参加してくる。控室はとにかく狭いのだ。 「オスミツキじゃん、楽しみだわ」  控室の片隅にいた、ボブヘアの男がタバコを吸い始める。 「あ、コーコーセーか。だいじょぶ?」  眠たそうな目をぼくたちに向けてくる。 「ダイジョブっす」  室内にタバコの匂いが満ちる。釣られたように、ぽつりぽつりとタバコを吸い始める大人たち。 「今さぁ、学校大変でしょ?」  ひげ面の男が、タバコの煙を吐き出しながら言う。 「ああ、そうすね」 「学校行けないとか、部活ないとか?」 「ああ、今は一応登校してます」  ぼくがメンバーへ目を向けると、2人もこくこく頷いた。 「結構普通ですよ。部活は中止になること多いし、行事もほとんどなくなったけど」 「それ普通じゃねぇから」  おじさんがツッコむと、さざめきのような笑い声が立った。 「でもさあ、まあ、バンドあってよかったね」  ボブヘアの男が、ぽつりと言った。  ぼくはとっさに頷けなかった。  どちらかといえば、「バンドしかない」のだ。  メンバーがいてくれてよかったと思う。曲を作って、練習して、録って、ネットにアップして、ライブに出て、また曲を作って……なにかと忙しい日々を、なんとかやっていけているのはメンバーがいるからだ。一緒につるんでいると楽しい。でも、部活動を精一杯やったり、友達とはしゃぐような、キラキラした青春ってわけでもない。どちらかといえばすごく地味だ。ぼくの地味ライフに、この状況下を良いことにメンバーを巻き込んでいる気もする。 「……俺、学校あってもサボって楽器��じってたかも」  ぽつりと、メンバーのひとりが言った。 「え……」 「俺も。そもそも部活入る気、なかったし」  もうひとりも頷いた。 「お前は違うの?」  2人が俺を見る。  2人の手はマメだらけで、痛々しく絆創膏が巻かれている。アホみたいに練習が楽しいからだ。音が合っても合わなくても、胸の内にあるカッコイイ音楽をかき鳴らしたい欲求でいつも苦しくて、辛くて、楽しくて。  ぼくたちの頭の中ではいつだって、理想のロックがガンガン流れている。 「たしかにそうだな、絶対」  頷くと、2人はほっとしたように笑った。メンバーはメンバーで、ぼくと同じ不安を抱いていたのかもしれないと、思う。 「だってバンド、すげー楽しいしさ」  言わずにはいられなかった。 「青くせぇーーーーーーーー!」  ひげ面の男たちが、一斉に叫んだ。室内にげらげらとおじさんたちの笑い声が響く。ぼくらも笑った。タバコの煙でまっしろになった狭い部屋の中で、誰もが自分の学生時代を思っているのがわかる。この部屋にいる人たちの心は、まだまだ青臭いままだ。それがぼくには嬉しかった。 「ちょっと、ステージまで聞こえてますよ」  ライブハウスのスタッフの人が、めんどくさそうに顔をのぞかせた。タバコ雲を見て、眉根をひそめて鼻をつまむ。 「それから君たち、そろそろ出番」  ぼくたち3人に向かって言う。 「はい」 「おー、がんばれよ」 「行ってらっしゃい」  タバコの煙の向こう側から、おじさんたちが声をかけてくる。 「うっす」  控室を出た瞬間、心臓が爆発しそうなくらい鼓動を打つ。  一歩踏み出すごとに、頭の中のロックのボリュームが上がっていく。  ステージの光に照らされて、メンバーの顔の産毛がキラキラ光っている。  ぼくはバンドが、すげー好きだ。青臭いから、言わないけど。
//
>写真をお借りしています。
Photo by Matthias Wagner on Unsplash  
0 notes
tearplus · 3 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『思い出の話』 ------------------------------------------------------
 柄本郁男、38歳。会社員。独身。日々は仕事のために消費されていき、休日らしい休日はほとんどない。働けば働くほど貯金はたまっていくものの、自分の葬式代くらいにしか使い道はないとここ最近は諦観を抱き始めている。家族とも疎遠で、もう数年実家に顔を出していない。両親は人格者の弟にすべての期待を傾けることに決めた様子だ。仕事を理由にするまでもなく、友人もほとんどいない。職場では学生時代のように仲良しごっこをする必要が無いから楽ではあるが、おかげでますます他者と会話をするのが下手になったように思う。 「思い出販売?」  出社前にポストを確認していた時だった。フードデリバリーや水道工事などのチラシに混ざって、特異な見出しのダイレクトメールが入っていた。蛍光色をふんだんに使った、毒々しい色彩の広告。それにはこう書かれていた。 ――思い出販売。あなたが求める思い出、売ります。 ――体験しなくても、思い出は得られるのです。 ――いまなら初回40%オフ。 「なんだ、これ」  体験しなくても、思い出は得られる? 「バカバカしい」  体験あっての思い出じゃない��。  怪しい広告に構っている暇はない。捨てるのも面倒でポストにチラシ類を戻し、俺は会社へと急いだ。
 次に帰宅したのは五日後だった。  無謀なスケジュールだった案件がなんとか終わり、始発電車に揺られて帰って来た。疲れ切った上司が、今日明日は休みを取っていいと言っていた。急に休みと言われてもすることがないので、結局寝ているだけになるだろう。こうして空虚に日々を消費していくのかと思うと、かすかな罪悪感と焦燥感を覚える。  玄関扉に備え付けてあるポストから、溜まったチラシ類がはみ出していた。睡眠不足でハイな状態になっていたから、その雑多な状況をなんとかしようという気力が不思議と沸いてきた。ポストを開け、中に詰まっていた益体の無いチラシやダイレクトメールを、全部取り出し、ゴミ箱の前で仕分けを始めた。宅配寿司の宣伝、古物回収のチラシ、パチンコ屋の広告が何枚も続いた後、あて名が手書きで書かれた品の良い封筒が現れた。差出人の名前に見覚えが無い。封書を開くと、結婚式の招待状が現れた。便箋に書かれた手紙を読むうちに、高校の同級生からのものだと分かった。  学生時代は惨憺たるものだった。真っ先によみがえってくるのは、小中学校時代にいじめられていた記憶だ。教師も親も味方になってくれず、ただひたすらに耐え続けた当時のことを思い出すと未だに体が震える。苦しみから逃れるために、俺は地元から遠い高校へ進学した。自分の過去を知らない人間の中でなら、地位を再構築できると思ったのだ。とはいえ元々の会話下手が祟って、普通の生徒として生きるのは困難だった。だから俺はオタク集団というクラスカースト下位のグループに無理やりぶら下がっていた。弱者は弱者同士で群れることによって互いを守るものだと考えたのだ。しかしオタクにはオタクのルールがあって、そこでも俺は浮いていた。当然だ。オタクたりえるような趣味など持ち合わせていなかったのだから。適当な愛想笑いで誤魔化しながら、なんとかオタクたちの会話に加わっていた。オタクでもない自分が、弱者だからという理由で彼らの群れに加わっていたことにはずっと罪悪感があった。上京進学と同時に疎遠になり、それきり縁は切れたと思っていた。  手紙には、卒業アルバムを見ていて俺を思い出したとか、オタク仲間として語り合った思い出が懐かしいとか理由がつらつらと書いてあった。挙式は都内で行うらしい。嫁さんの実家の都合のようだ。疎遠な俺にまで招待状をよこしたのは、心細さの表れなのかもしれない。  手紙を読むうち、せっかくの招待なのだから応じても良いかという気になってきた。しかし懸念がある。手紙には「オタク仲間として語り合った思い出が懐かしい」とあるが、俺は学校での生存戦略のためにオタクである彼らを隠れ蓑にしていたにすぎない。結婚式の場で昔の同級生たちと会って、当時流行っていたアニメの話になったら二十年ぶりの恥の上塗りをするだけだ。やはり安易に出席するべきではないのかもしれない……。  招待状への返事は保留にして、郵便物の仕分けに戻ろうとする。チラシの山の一番上に載っていたのは、毒々しい色彩のダイレクトメール。「思い出販売、初回40%オフ」という文字を見ているうちに魔が差した。
「『20年前にアニメオタクだった思い出』がご希望とのことで承っておりますが、お間違いなかったでしょうか?」  白衣を身にまとった、美麗な女性がカルテから顔をあげてこちらを見る。どうやら施術前の問診を行う、医者か何かのようだ。明るく人好きのする笑顔ではあったが、何か底知れない恐ろしさを感じる。 「あの、やっぱり変ですよね……?」  不安になって、訊かずにはいられなかった。ここまでごく普通の病院のような段取りで、受付、問診票の記入、診察まで来てしまっていた。そもそも「思い出販売」とはなんなのかという時点からよく分からないまま、とんとん拍子に女医と対面する羽目になっているのだ。 「��え、結構よくいらっしゃいますよー。今時、熱中できる趣味を持ってること自体珍しいですからね。オタクになりたい方は結構多いんです」 「はあ、なるほど」 「でも、安心してくださいね。ウチの『思い出』は一人ひとりオーダーメイド。作成した思い出データはNFT処理を施してお客様へ提供することで、絶対に転用できないよう保証しています」  女医の話す言葉のほとんどが理解できなかった。よほど要領を得ない顔をしていたのか、彼女は机の中からパンフレットを取り出してこちらに見せてきた。 「弊社『オーバーライトカンパニー』が提供している『思い出販売』とは、弊社所属の有能な思い出製造専門チームによって、お客様一人ひとりのニーズに合わせたオーダーメイドの思い出データを販売しております。脳に特定のデータを植え付けるこの技術は本来、学習塾における勉強科目の暗記や、企業の営業マンが自社の製品を短期間で記憶するなど用途で使用されてきました。しかし近年『思い出』を新規に得たいという個人のお客様からのニーズが大変高まっており、弊社では『思い出販売』を主なサービスとして扱っております。例えば、父親が仕事一筋で遊んでもらった記憶が無いというお子様に父親とたくさん遊んでもらったという思い出を新たに植え付けたり、真面目で真っ当な人生を送っていた方などは法を犯した思い出を欲しがるなどのケースもありますね。『思い出』に罪はありませんのでこのようにちょっとワルな思い出が欲しいという方のニーズを満たすことも可能なのです。法を犯した『思い出』だけが欲しいという方は一定数おられますね。まあ、お客様の場合欲しい思い出のビジョンはすでにきちんとおありのようですので、思い出の人気ジャンルなどの説明は不要かと存じます。さて、各思い出データにはNFTと呼ばれる所有証明書付与処理を施すことで『他人と同一の思い出を所有してしまう』という事故を防ぎ、安心安全な新規思い出の獲得を保証しております」  真っ赤な口紅をひいた唇が高速で動き、言葉を紡ぎ出していく。普段から他人との会話に慣れていないせいか、彼女の言う大半がやはり理解できないのが情けなかった。 「あのう、つまり、その……作り出された思い出は、どのようにして、俺のものになるのでしょうか?」  俺の質問に、女医はヘビのような笑顔を浮かべた。 「それは体験していただければ分かります」  怪しい。普通、セールストークより施術の方法をきちんと説明するのが筋じゃないか?  コミュニケーション能力の低い俺にそんな抗議ができるはずもなく、促されるまま施術室へと連れていかれた。部屋の真ん中に、歯医者の治療台のようなものが一台鎮座している。その周囲はモニターやらスピーカーが囲んでいた。 「そちらへ��座りください」  さも当然のように言われ、すごすごと従った。 「これからこちらのモニターに映る映像を見ていてください。約3時間ほどで施術が完了します」 「あのう、オーダーメイドの思い出って今日来てポンともらえるものなんですか?」  さすがに不安になってくる。俺の問いかけに、女医はくすくすと笑った。 「お電話でご予約いただいた時点で、すでに思い出の作成に入っておりましたので。ご安心ください。弊社謹製の『思い出』に、きっとご満足いただけるはずですから」  それ以上言うことは無いとでもいうように、俺の頭にヘッドフォンを付けた。両手両足はしっかりテープで巻かれ、診療台に固定される。まるで『トータル・リコール』の世界だ。恐怖を覚えたまま、部屋の照明が落とされる。女医が部屋を出て行き、扉が閉じると室内は漆黒の闇で満たされた。そんな中、モニターに光が灯る。そして――
 結婚式当日がやってきた。  あの施術の後、「思い出データ」の植え付けが完了し「20年前にアニメオタクだった思い出」は俺の脳に定着した、と言われた。半信半疑のまま日々を過ごし、今日に至る。 「柄本が来てると思わなかったな」  自席でぼんやりしていると、高校時代オタクグループとしてつるんでいた面々が声をかけてきた。 「俺も、招待状が来ると思ってなかった」  その一言で、同級生たちは気まずそうな失笑を漏らした。それきり会話が途切れてしまう。明らかに自分の返答が悪いのは分かっているが、挽回の方法が分からない。他のテーブルはそれなりににぎわっているのに、俺たちの座っているテーブルだけがしんと静まり返っていた。  何か話さないと。焦るほどに頭が真っ白になっていく。 「会場に流れてる曲ってさ、魔法少女ルルミの主題歌のピアノアレンジだよな?」  焦燥感が頂点に達した時、自分でも知らない知識がするりと口から出た。 「おー! それボクも思ってた!」 「まさか柄本に先に言われると思わなかったなぁ」  急に、その場に居た全員がぱっと顔を輝かせた。思ってもみなかった反応に動揺してしまう。 「そういえば、今度ルルミのリメイク版アニメが放送されるらしいよ」 「えっ、知らなかった。柄本ちゃんとチェックしてるんだ?」  会話がこんなに楽しいなんて、初めて知った。自分の話していることを相手が理解してくれて、笑顔になったり真剣になったり、思考を喚起されたりしている。弾むように展開し続け尽きない会話。誰かと話しをすることが、こんなに楽しいものだとは知らなかった。 「柄本って、本当はオタクじゃないのに無理してボクたちと一緒にいるんだろうなって思ってたよ」 「あの頃はガチオタ感出すのが恥ずかしかっただけなんだな」 「ああ、実はそうなんだ」  久しぶりに、本当に何十年かぶりに、俺は心から笑えていた。  それは疑うまでもなく『思い出データ』のおかげだ。  例え偽物の、借り物だったとしても、体験なしで得たものだとしても関係ない。他の誰も持っていない、俺だけの『思い出』であることに変わりはないんだから。
「本日のご注文は『中学生の頃に女の子と交際していた思い出』でよろしかったでしょうか?」  結婚式の翌日、俺は『オーバーライトカンパニー』へと足を運んでいた。予約の電話で告げた概要を復唱され、急に気恥ずかしくなる。 「はあ、あの、おかしいでしょうか……?」 「いえ、そういうご注文はかなり多いですよ。学生時代の思い出は、年齢を重ねれば重ねるほど尊いものになっていくようですね」  慣れた調子で女医は言い、ろくな説明もせずに施術室へと促してくる。以前なら怪しいと怯んだだろうが、今回は期待の方が上回っていた。早く新しい『思い出』を得た自分になりたかった。いじめに遭っていた記憶を上書きして、良い思い出に浸りたい。その一心だった。 「それでは3時間後に声をかけますので」  女医が出て行こうとする。頷きかけて、ふと疑問が浮かんだ。 「あの、前回の思い出データそのものを受け取ってないと思うんです。記録媒体か何かで渡してもらえないんですか?」 「再度施術が必要になった時のために、弊社で厳重に保管されています。ご安心ください」  話を切り上げるようにぴしゃりと言って、女医は部屋を出て行く。  前回と同様に、扉が静かに閉じられ室内は真っ暗になる。モニターの明かりだけが煌々と暗闇に浮かび始めた。
 新しい思い出を得た後から、怒涛の毎日が始まった。到底実現不可能なスケジュールでの案件処理がいくつも重なり、社内の空気は暗澹たるものになっていた。誰もが家に帰れず、饐えた匂いが立ち込め、社員の苛立ちは常に極限状態にあった。  そんな中、俺だけは常に幸福だった。  今や苦痛と劣等感に満ちた学生時代の思い出は遠いものになった。考えてみれば、他者が怖いと感じるようになったのは、悪い思い出が原因だったのだ。けれど今、俺は素晴らしい思い出を手に入れた。一途に俺のことを好きでいてくれる恋人と、授業中に目配せしあったり、同級生にからかわれながら一緒に登下校したり、休日にデートをしたり……よくあるラブストーリーのように、誰かに肯定され、受け入れてもらえた思い出。それが今、俺の中に確かに存在しているのだ。体験を伴っているかどうかなんて、この際問題ではない。ただその思い出が俺のものだという、その事実だけで幸福な気持ちになれる。
 忙しい時期を乗り越えた後の、束の間の休日に俺は実家へ行くことにした。もう何年も帰っていない。緊張するけれど、今の自分なら少しは堂々と両親の前に立てる気がした。  新幹線に乗ってはるばる実家へ帰ってみると、両親はギョッとしたような顔をした。事前に連絡を入れずに来たせいだろう。 「あんた、ずいぶん久しぶりじゃないの」と母さんは俺を頭の先からつま先までじろじろと眺めまわして言った。 「顔色がいい。元気でやってるみたいだな」と父さんは小さな声でぼそぼそと言った。  ハードワークの後でも顔色がいいのは、良い思い出を手にして人生に張りが出たおかげだ。当時の恋人の姿を胸に抱きつつ、誇らしい気持ちになる。居間で両親に近況報告をしていると、玄関先が騒がしくなった。 「あれ、兄さん帰ってたんだ」  弟だった。記憶の中よりずっと大人びていた。まるで俺とは全く違う人種のように、溌剌として輝いて見える。 「あっ、お義兄さん、お久しぶりです」  弟の後ろから、小柄な女性が現れた。弟の嫁さんだ。彼女と手を繋いでいるのは、今年で6歳だかになる弟一家のひとり息子だ。 「ほら、叔父さんだよ。挨拶しなさい」  弟に促され、生意気そうな子どもは俺を睨んできた。 「こんなおっさん、知らなーい」  甥はぷいっと顔を逸らすと俺の前を素通りし、母さんと父さんへ駆け寄った。 「じいちゃん、ばあちゃん、こんにちは」 「よく来たわねえ、待ってたのよ」 「この前言ってたオモチャ、買っておいたぞ」  母さんも父さんも、幸せそうに顔を輝かせている。俺と話していた時と随分態度が違う。弟一家がやって来たとたん、居間の空気がぱっと華やいだ。 「お義兄さんもいらっしゃっていたんですね」  弟の嫁さんは、気まずげに話しかけてきた。気が重いけれど話しかけないわけにはいかない、そういう義務的な空気を感じる。厄介者だと言外に訴えかけられているようで、喉がきゅっと引きつる。 「はあ、たまたま休みで……」  答える声は変に掠れて震えている。さっきまでは万能感で前向きな、明るい気持ちに満ちていたのに今やすっかり気持ちが萎んでしまっている。 「久しぶりに会ったんだし、叔父さんに遊んでもらいな」  弟が甥を俺の方へと押しやってくる。しかし、甥は怪訝な顔で俺を見たあと今にも泣きだしそうな顔をして、母さんへと抱きついた。 「おっさん、こわいー!」  すっかり孫の味方の母さんは、俺を睨みつけてくる。「あんた、もっと小綺麗な格好しなさいよ。いい大人なんだから」 「ははは、ごめん……」  引きつった笑いを浮かべることしができない。針の筵だ。急に居間の酸素が薄くなったように感じる。苦しくてたまらない。 「俺……そろそろ帰るよ」  いたたまれなくなって立ち上がる。場の全員が、ほっとしたような表情をしたのを見逃さなかった。この家の家族を構成する一員として、俺は認められていない。この家の家族に、俺は組み込まれていない。そのことが、言うまでもなくはっきりと分かった。現在の虚無感に呑まれ、思い出は色あせていく。俺は再び胸を占める劣等感に苛まれながら、実家を後にした。
「本日のご要望は『同年代の奥様と娘さんがいる日々の思い出』ですか」  俺が頷くのを確認した後、女医はわざとらしく眉根を寄せた。 「現在の状況に対する認識を著しく変えるような処置は、結構難しいんですよねぇ」  女医はカルテを指先でコツコツと叩いた。 「今回のご要望は、現在の生活にかなり食い込んできますよね。奥様や娘さんと過ごした過去の思い出、ではなく現在も一緒に暮らしていると思い続けたいとなると……」 「……やっぱり、不可能でしょうか?」 「弊社に不可能はありません」  女医は、清々しいほど胡散臭い笑顔で断言した。 「ただ、通常よりかなりのお金がかかるというだけですよ」 「金ならいくらでも払います!」  思わず立ち上がる。椅子が大きな音を立てて床に転がった。どうしても叶えたい、切実な願いだった。昔恋人がいたという思い出だけであれだけ明るい気持ちになれたのだから、現在進行形で弟のような幸せな家族を築けているという思い出が褪せることなくずっと続けば、それだけでいくらでも気力が溢れてくるはずだ。俺には確信があった。俺が今後狂わずに生きていくためには、幸福な思い出がどうしても必要なんだ。 「分かりました。そこまで仰るのでしたら、やりましょう」  女医は獰猛な笑みを浮かべて頷いた。 「大がかりな施術となりますから、後日もう一度いらっしゃってください。施術の時間も6時間前後となるかと思います。前払いで全額か半額お支払いいただくので、帰りに受付で説明を受けて書類をお持ち帰りください」  いつもと違い、段取りを踏むようだ。じわじわと喜びが湧き上がってくる。データ上にしか存在しないとはいえ、これから得る嫁も娘も俺のために生み出されたオーダーメイドなのだ。それはつまり、現実の嫁や娘となんら変わりないのではないだろうか? データ上にしか存在しないとはいえ、俺の脳に植え付けられるということは、俺の一部となってこの世に存在するのと同義であるはずだ。
 数日後、俺は『同年代の嫁と娘がいる日々の思い出』を手に入れた。俺だけの、唯一無二の家族の記憶だ。その日から、俺の人生には張り合いが生まれた。人生の意味が変わったと言ってもいい。俺がいま住んでいるのは単身者用の狭いアパートではあったが、室内のそこかしこに嫁や娘と過ごした思い出が存在している。娘の成長を嫁と見守ってきた思い出がある。『オーバーライトカンパニー』への支払いのために貯金は全て無くなってしまったが、金はまた貯めればいい。そうしたら、郊外に家を買うつもりだ。俺たち三人だけの家を手に入れるのだ。誰にも邪険にされることのない、幸福に満ちた家を。 「柄本センパイ、なんか最近楽しそうっすね」  仕事の合間に、後輩が声をかけてきた。 「嫁がおいしい料理を作って待っててくれてるから、体調がよくてさ。娘が遊びたい盛りだから、結局体力は持ってかれるんだけど」 「えっ、センパイ結婚してたんすか!? 知らなかったっす」 「ははは、そんなに驚くことないだろ」 「いやー……だって、一週間泊まりとか普通にしてるから、てっきり……」 「それは嫁にも心配されてるけど、今は頑張りどきだからさ」  上司が自席に戻ってきたのが見えて、話を切り上げる。急いで仕事に戻った。今日こそは家に帰って、嫁や娘と一緒に過ごしたい。 「部長、柄本センパイって結婚してたんすねー」  後輩はわざわざ立ち上がり、上司の席へと雑談しに向かった。やんちゃっぷりに呆れつつ、仕事に集中する。 「ああ……柄本は独身だよ。あいつの話、ネットでバズってる家族ネタばっかりだろ。SNSとか見て仕入れた話を自分に置き換えてるんだろうけど……ああいう嘘つくようになったら、いよいよヤバいよな」
 なんとか仕事を終え、這う這うの体でアパートへたどり着く。すると、アパートの前を掃除ていた大家のおばさんが近づいてきた。 「柄本さん、こんばんは。あのね、あなた最近家に誰か呼んでる?」  おばさんは妙に困り顔をしている。 「なんだかねえ、最近ひとり言が大きいって、近所から苦情が出てるのよ」  ひとり言? 何を言っているんだ、俺は今三人で暮らしているのに。 「娘がまだ小さいもので……申し訳ないです。気を付けますね」 「えっ、娘?」  おばさんが目を丸くする。俺は会釈して家へと急いだ。大家のおばさんのことだ、嫁にも直接苦情を言っているかもしれない。きっと怯えていることだろう。早く慰めてあげないと。
 仕事の量は変わらなかったが、なるべく一家団らんの時間を作るために猛然と働いた。なんとか定時で上がれる日もあったが、仕事を早く終わらせれば終わらせるほど仕事量は増えていった。けれど今が頑張り時だ。嫁は子育てに一生懸命だし、娘はまだまだ小さい。俺が家族を守らなくてはいけないのだ。  必死に働いて、働いて、働き続けていたある日、職場がフッと暗くなった。そう思った瞬間には、なぜか天井が見えていた。 「柄本、大丈夫か!?」 「救急車呼びます!」  遠くで上司や後輩が話す声が聞こえた。右往左往している足が見える。自分が床に倒れているのだということに気付くまで、ずいぶん時間がかかった。 「家に……嫁に、連絡してください……」 「こんな時に何冗談言ってんだっ!」  上司からの叱責だけ、やけにはっきり聞こえた気がする。  冗談なんかじゃない。嫁も娘も、あの狭いアパートで俺を待っているのだ。俺だけの、大切な家族が……。 ――それきり、俺は意識を手放してしまった。
「前に兄さんがうちに帰って来ただろ。あの時からなんか変だと思ってたんだ」  柄本郁男が臨終した病室で、柄本家が集まって話をしていた。ほとんど疎遠になっていたとはいえ、数か月前に顔を合わせたばかりの家族に降りかかった突然の死にはさすがに動揺を隠せない様子だった。ただ一人、甥の少年だけは何が起きているのか理解できずに退屈そうに唇を尖らせていた。  複雑な空気の漂う病室へ、異質な訪問者がやってきた。警察署の人間だ。 「今朝亡くなられた柄本郁男さんが、生前利用していた会社『オーバーライトカンパニー』が先日摘発されまして。ずいぶんな額を支払っている上客リストに名前がありましたので、お話を伺えればと思ったのですが……」  両親は寝耳に水だった。もちろん弟夫婦もそうだったが、両親よりはIT系のニュースに強かった。 「その会社って、あの……思い出を販売していたとかいう……」  テレビニュースで見た記憶をたどって弟が言うと、警官は重々しく頷いた。 「はい。『オーダーメイドの思い出を販売する』という謳い文句で、顧客に催眠療法を施していたんです。法外な値段でね。それ自体には一応違法性は無いんですが、ネットに公開されている個人の二次創作やSNSで流行したネタなどをAIに収集、分析させ、顧客のニーズに応じたデータを販売していただけで、決してオーダーメイドなんかじゃないんですよ。それで詐欺案件で摘発して……まあ、余罪が色々ある組織が運営しているんで、ここを足掛かりに……」 「要するに、息子は詐欺に引っかかったっていうことなんですね」  父親の言葉に、母親は思わず息子の顔を見た。死に顔とは思えないほど穏やかなその表情は、まるで別人のように晴れ晴れとしていた。暗い顔でうつむきがちだった自分の息子の死に顔がこんなにも幸福そうなものになるとは思いもしなかった、と母親は思った。例え詐欺でつかまされた、他人からの借り物の、偽物の記憶によるものだったとしても――幸福な時間を得られたのであれば、それは幸福な人生だったと言って差支えないのではないのだろうか。息子の死に顔を眺めながら、母親はひそかにそう考えるのだった。
//
>写真をお借りしています。
Photo by Marcel Scholte on Unsplash  
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『あやつられループ』 ------------------------------------------------------
 もともと自分の顔が好きじゃなかった。頭のてっぺんからつま先まで、容姿において自信のある部分なんてなかった。それなのに今は、自撮りがずいぶん上手くなったと思う。 「ん……この角度だと、キッチンが写っちゃうなぁ」  スマホで撮影したばかりの画像を確認して、私は頭を悩ませた。今時、ちょっとした要素から物件を特定されるなんてよくある話だ。キッチンには結構特徴が出るし、なるべくなら映り込ませたくない。 「ねえ、タクちゃん。撮影手伝ってくれない?」  ソファに寝転んでスマホを弄っている恋人に声をかけた。彼とは付き合い始めて半年。もともと私の家でお泊りデートが多かったのだけれど、いつの間にか同棲状態になっていた。フリーターをしているという話だったけれど、同棲を始めてから働きに出かけるところを見たことがない。朝、仕事に行く私と入れ違いにベッドへ入り、夜はソファでスマホを弄ったり友達と飲みに出かけたりしているだけだ。酔っぱらって朝帰りしてくることもあるけれど、飲み代は私からせびったお金だ。  私だって、彼を養えるほどのお給料をもらっているわけじゃない。むしろ少ない方だと思う。一応正社員だけれど、まだ2年目だし、特殊な能力が必要な仕事でもない。単なる事務員。地味な私にぴったりの、地味な職業。  一方、とある合コンで出会った私の恋人は派手な人だ。派手な人というのは、どうやらお金遣いも派手らしい。飲み代、服代、その他交際費、スマホゲームの代金、その他もろもろ。呼吸するようお金を溶かしていく。  そんな彼を支えるためには、私のお給料だけでは足りない。別れを考えていた三か月前、彼は私に言ったのだ。 「別れたくない」 「愛してる」 「金を稼ぐ方法なら、俺が知ってるから」  彼が言うその『稼ぐ方法』は、女の子にしかできないものらしい。 「俺のために頑張ってくれるよな」  疑問形でも哀願するでもなく、どこか上目線の断定口調で、彼は言った。当然のようなその物言いに反論できるはずもなく、私は頷いた。  容姿に自信がない自分でも、肌や乳房、お尻や脚を褒めてくれる人がインターネット上にいる。そういう人たちをファンとして囲い、月会費を支払ってもらう代わりに会員向けの写真を提供ためのネットサービスがあることを、恋人から教わった。今時は、いわゆるインターネットサロンを開設するサービスというのはたくさんあって、一般人の私でも簡単に利用できるというのだ。写真のきわどさや更新頻度に比例して、月会費を高く設定する。彼氏に「アカウントを作ったから、写真を撮れ」と言われたときは恐ろしかったし、私なんかの身体の写真を見たがる人がいるとは到底思えなかった。けれど実際ふたを開けてみれば、私の写真のために月会費を払ってくれる人がいたのだ。続けていて三か月すれば、月会費だけじゃなく、プレゼントを贈ってくれる人まで出てきた。  それで自分に自信が持てるようになったかといえば、そういうわけでもない。顔を写したことは一度もないし、いわゆる『ファン』の人たちと必要以上の交流を持ったこともない。ただ単に、お金を貰って女体の写真を提供している、というだけだ。  水着姿や下着姿、乳首を腕で隠した半裸の写真を撮りながら、私は自分の心の一部が冷たくなっていくのを感じていた。  その副収入が安定してくるにつれ、彼は仕事をしようとするそぶりすら一切見せなくなった。お小遣いのねだり方にも遠慮が無くなった。違和感��あるけれど、私はその違和感を言語化することができない。  だから今日も、ただ淡々と『ファン』の人が喜ぶようないやらしい写真を撮ろうと腐心する。心はどんどん冷え切っていく。恐れも辛さも摩耗していく。
 会社の近くにあるレストランで同僚たちとランチを食べていると、不意に視線を感じた。 「ねぇ、あれ柏木さんじゃない?」  よく一緒にランチをするメンバーのひとりが、声を潜めて言った。 「だよね。また小川さんのこと見てるよ」 「また?」  思わず食事の手を止める。 「気付いてなかったの?」 「柏木さん、絶対小川さんのこと好きだよ」  女性たちは口々に頷いた。 「まさか……」  私は愛想笑いを浮かべつつ、ちらりと視線の元を見た。  同じフロアの別の部署で働いている男性と目が合った。社内で何度か見かけたことがあるけれど、名前も知らない人だ。自動販売機の前や、会議室の出入りですれ違ったことがあった気がする、という程度の記憶しかない。前髪が目元まで伸びている真っ黒な髪、無骨なフレームの眼鏡。第一ボタンまで留めてあるワイシャツは少しよれよれで、黒いスラックスには遠目にも分かるほどほこりが付いている。真面目で野暮ったそうな、地味な人だと思った。 「なになに、じっと見てー」 「小川さんも、まんざらでもないんじゃない?」 「あはは……」  好奇心旺盛な同僚たちの視線を曖昧にかわしながら、私はランチを詰め込むように腹へ納めた。
 会社からの帰り道、スーパーに寄って晩ごはんの買い物をした。今日は珍しく残業がなかった。久しぶりに凝った料理を食べさせてあげられそうだ。想像しただけで嬉しくて、材料を少し買いすぎてしまった。  うきうきしながら帰宅すると、家はもぬけの殻だった。玄関で、ふっと足の力が抜ける感覚がした。別に珍しいことではない。彼が夜に出かけて朝帰りしてくることなんてザラにあるのだ。私は何を期待していたんだろう。  孤独感を噛みしめながら、私は予定通りのメニューを淡々と作った。料理をする喜び、というものは特に感じなかった。どうせ自分が食べるだけなのに、凝ったものなんて作るなんてばかばかしい。何をしているんだろう。心は冷え切っていたはずなのに、目には涙が滲んできた。その時ふと、ファンクラブに料理の写真を投稿してみようかと思いついた。  日常の写真から、私個人を特定されるのではないかという漠然とした恐れがあった。けれどすでに、唇から下の身体は全部写真に収めて晒しているのだ。自分の身体以外のものを晒す方にためらいがあるなんておかしな話だ。私は黙々と料理を作り、きれいに料理を盛りつけ、テーブルに並べた。食べ物がおいしく見えるように、光や構図を工夫しながら何枚も撮った。その試行錯誤は意外に楽しく、いつも通りの手順で写真をサロンに投稿するまでは高揚感があった。けれど、自分のきわどい写真の中に放り込まれた食事の写真が、なんだかひどく居心地が悪そうに見えて我に返った。こんな写真を投稿したところ���、なんになるというのだろう。私のサロンに対して月会費を支払ってくれる人たちは、女の身体が目当てなのだ。私の生活には興味がないだろう。虚脱感に襲われた。胃もたれしそうな料理を前にうなだれていると、スマホに通知が入った。サロンへメッセージが来たという通知だった。 『珍しい投稿!』 『料理上手なんだね』  思いのほか肯定的なメッセージが入っていることに驚く。  なかには、 『食器が一人分なのを見て安心した』  というメッセージまであった。 「ふふ……」  思わず笑ってしまう。恋人が不在なことが、意外なところで功を奏したとは。けれど、彼氏がいなかったらこんなサロンも開いていないのだ。そう思うとなんだかおかしくて、涙が出るほど延々と笑っていた。
 朝、出社の準備を終えるころに彼が帰って来た。 「おかえり……」 「おう」  どこに行っていたのか、何をしていたのか、そんなことは聞かない。聞かなくても分かるようなことを聞くのは怖い。あいまいなうちはわずかな希望を抱くことだってできる。男友達との飲み会とか、深夜のアルバイトを始めたとか、そういう前向きな希望だ。例え彼の髪から知らないシャンプーの香りが漂ったり、身体に何かしらの痕跡が残っていたとしても、見てみぬふりをする自由が私にはある。 「お前さー」  玄関で靴を履いていた私に、彼が声をかけてきた。 「なに?」 「昨日のメシ、うまそうだったじゃん」  彼がニヤリと笑う。 「冷蔵庫に入ってるよ」 「マジ? なら後で食べるわ」  そして、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。 「結構好評だったじゃん。だんだんファンの気持ち掴むコツ、分かってきたみたいだな」  偉い偉い、と笑う。左頬にうっすらとえくぼが浮かぶ。無邪気な彼の笑顔に胸が痛いほど反応する。 「そういやさ、今日振り込みの日だったよな」 「えっ?」 「サロンの会費」 「ああ……」 「銀行のカード、貸してよ」  彼に言われるまま、キャッシュカードを渡した。暗証番号は覚えているようだ。  月一で、銀行口座に振り込まれることになっている。サロンのために、インターネット上の偽名で申し込んだ銀行口座は、彼が遠慮なくお金を引き出す。彼がサロンの開設を行ったのだから当然、という暗黙の了解のようなものがある。口座を分けたのは、こういう状況をあらかじめ想定していたからだ。彼ならばきっとあっというまに食いつぶしてしまうので、さすがに会社のお給料まで振り込まれる口座を教えるのは怖かった。 「行ってくるね」 「おー」  今日は家にいる? どこかに行っちゃうの? 誰と会うの?  そんなことは聞けなかった。彼の無邪気な笑顔だけを胸に抱いて、私は会社へと向かった。
 仕事はいつも通り変わり映えがしない。淡々と業務をこなし、昼休憩を同僚たちと取り、午後の業務をこなす。定時までじりじりとした思いで時計を見る。今日はどうやら残業をしなくて済みそうだ、と安堵した定時1分前、社内用の個別チャットへ通知が来た。うんざりしながらチャットを開くと、送信主は意外な人物だった。 「柏木さん��  定時後、帰り支度を済ませたその足で会議室へと向かった。柏木さんが指定した会議室は、フロアの中で一番狭く、人の行き来も少ない奥まった場所にあった。なんとなく嫌な予感を覚えて、いつでもヘルプが出せるようにスマホを握りしめながら室内へ足を踏み入れた。  柏木さんはすでにそこにいて、そわそわと室内を歩き回っていた。 「小川さん!」  声量調節を間違えたように、裏返った声で呼ばれる。その後すぐに、照れたように顔を赤くしてうつむいた。ぱっと見の印象そのままの、異性に慣れていない野暮ったい男性だ。 「何かご用があると伺いましたが」  強いて笑顔で、彼を刺激しないように言った。こういう男性は、逆上した時が怖い。なるべく穏便に済ませたい。私はなるべく扉に近い場所を確保した。 「あああ、あの……僕、知ってるんです」 「知ってる、とは?」 「小川さんの秘密をですよ……」  そう言った瞬間、柏木さんはまるで自分の勝利を確信したような笑みを浮かべた。その獣性あふれる笑みにゾッとする。血が凍ったように、全身に寒気が走った。 「俺、俺……いろんなネットのサロンに入ってて。結構課金してるんです。その中の一個に、20代女性のサロンがあって、最初は普通に見てたんですけど、更新される写真見るたびに、あれ、なんか知ってるぞって」  柏木さんは早口でまくしたてた。顔は終始にやついていて、最初のおどおどした印象とはまた別の怪物のように見えた。 「それで気付いたんです、小川さんにそっくりなんだって。更新時間見たら、残業がある日は更新なかったり、すごい遅い時間だったりして。色々照らし合わせて推理して、俺、絶対そうだって、特定、しちゃいまして……」  いきなり距離を詰めてくると、私の鼻先にスマホ画面を差し出してきた。私のサロンのトップページが表示されている。肌色の中に放り込まれた、料理写真もきちんと載っている。 「これ、小川さんですよね」  探偵の、ここ一番の見せ場のようなそぶりで断言する。 「こんな写真投稿するサロンなんて作っちゃって、小川さんってエッチなんですね。いやあ、こんな人が身近にいるなんてびっくりしたなあ。いやらしいですよ、ほんと」  柏木さんが何か言うたびに、身体をまさぐられているような嫌悪感を覚えた。圧倒的優位に立っているという傲慢な思い込みが、こういう振る舞いをさせるのだろう。社内でいつもおどおどと俯いている様子とは大違いだ。 「……何が言いたいんですか?」  一刻も早く話を終わらせたかった。私が問いかけると、待ってましたとばかりにますます笑みを深める。 「会社の人たちに言ったら、小川さん、困りますよね。こんなエッチな女だってバレたら、会社にいられなくなるでしょ」  そしてまた距離を詰めてくる。不愉快な汗の匂いが漂ってきた。 「僕は小川さんを困らせたくないですし、内緒にしてあげますよ。だから、小川さんが俺に相応のお礼をしてください」 「お礼?」  私が首をかしげると、柏木さんは焦れたように顔を歪めた。暴力の気配に、私はスマホを強く握りしめる。 「だからぁ……分かるでしょ。いやらしい女にできることなんて、限られてるじゃないですか」  ���が胸元へと伸びてくる。私はそれを、虫を払うように叩いた。自分でも驚くほど、とっさの行動だった。 「なんだよぉ、おい!」  柏木さんが逆上したように大声をあげる。私は扉を開けた。 「私は何も知りません。小川さんの性的嗜好も理解できません。今日のことは、セクハラ行為として上司に報告します」  偶然にも、会議室の前には人がいた。雑談をしていたらしい数人の男女が、会議室から飛び出した私とぼんやり立っている柏木さんを見ている。私は彼らに会釈をして、そのままその場を立ち去った。背後で、ざわざわとざわめく声が聞こえていたが無視をする。  明日どうなるかは分からない。  もしかしたら柏木さんは、私のサロンのページを会社に報告するかもしれない。彼の口ぶりだと証拠薄弱のように思えたが、もしかしたら本当は、もっと確実な証拠を隠し持っていたのかもしれない。あるいはサロンに書き込みをされるかもしれない。私の本名や、顔写真なんかをアップされる可能性がある。そうしたら普通の生活は送れないだろう。帰路を急ぎながら、色々なことを考えた。恋人のせいだ、と思わずにはいられなかった。普通に恋をして普通に幸せに平凡に暮らしていたかっただけなのに。自分の生活を守りたかったけれど、柏木さんの怪物じみた醜怪さに屈することはできなかった。思い出しただけで背筋が凍る。なんとおぞましい時間だっただろう。  やっとの思いで家に着き、鍵穴に鍵を差し込みながら泣きたくなってくる。今日は彼にキャッシュカードを渡した。お金を全額引き落として、きっと遊びに行っていることだろう。彼にとって私は財布に過ぎない存在なのだろう。こんなに傷ついて苦しくても、彼にすがることなんてできない。そう思ったら、涙が止まらなかった。  なんとか鍵を開けて家に入る。電気がついていた。少し戸惑いながら奥へ進むと、彼がソファに寝そべってスマホを弄っていた。 「お、帰って来た」  ごく普通の調子で言って、彼は身を起こした。 「なんだよ、何泣いてんの」 「え……あ……いたんだって、思って」 「なんだよそれ、いちゃ悪い?」 「ううん、嬉しい」  私はソファに駆け寄った。彼は私の手を引くと、頭を撫でてくれる。朝よりも優しく、穏やかな手つきだった。 「いてくれて、嬉しい……」 「何だよ、珍しいな」 「えへへ……重くてごめんね」  彼はソファから立ち上がった。何か怒らせてしまったんじゃないかと不安になる。けれど、すぐに側へ戻ってきてくれた。 「これ、プレゼント」 「えっ」  無骨な箱はずっしりと重い。いそいそと箱を開けると、三脚が現れた。 「これ……」 「なんかさー、撮りづらいって言ってたろ、前」 「い、言った……覚えててくれたんだ」 「当たり前だろ」  恋人が無邪気に笑う。それにつられて、私も笑ってしまう。ずたずただった心が、生まれ変わっていくような気がする。錯覚でも良い。彼と一緒に笑っている時だけは、傷が癒えているような気分になる。それで十分だ。 「もっと人気になって収入増やしてほしいしな」 「あはは、そうだね」  もうすぐ会社にも居られなくなるかもしれないし。収入がサロン一本になったら、今以上に頑張らないとダメだよね。心の中で呟く。 「せっかく三脚あるし、試しにハメ撮りしてみる?」 「そんな動画更新したらアカウント消されちゃうよ」  笑いながら、二人でベッドに寝転ぶ。恋人の手が私の服を脱がせていく。  心から幸せだ、と思った。色んなものに目をつむってでも、そう思えた。  自分に自信がない、なんのとりえもない暗い私と付き合ってくれている、優しい恋人。  いつか愛想をつかされてしまわないかといつも不安だ。彼を繋ぎ止めておくためならば、お金も、時間も、自分自身だって、いくらでもすり減らして構わない。恋人に褒められるのが、何より嬉しい。  恋人こそが、今の私の行動基準だった。
//
>写真をお借りしています。
Photo by Soragrit Wongsa on Unsplash  
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『人生の長さに対する優雅な絶望』 ------------------------------------------------------
 加瀬さんの身体には、深い傷跡がある。  それらは大小さまざまで、えぐれたり膨らんだり、縮んだり張りつめたりしながら加瀬さんの肌を歪にしている。はっきり言ってグロい傷だ。  じっと見ていると、人の顔に見える部分がある。動物や食べ物に見える時もある。暇つぶしに、わたしは加瀬さんの肌を眺めたり指でなぞったりしながら、色んな形を探す。空を見上げて、雲の形を何かに例えるのと同じようなものだ。 「よく見ていられるね」  加瀬さんは苦笑いを浮かべている。「僕自身でも、気持ち悪いと思うのに」  わたしは加瀬さんの言葉には答えずに、 「生まれた時からこうなの?」と、尋ねた。 「ちがうよ」  加瀬さんは首を振って、さっとシャツを羽織った。 「今日はありがとう。支払いはしておくから、ゆっくりしていていいよ」  そう言って、ベッドのサイドテーブルにお金を置く。加瀬さんはやけにきちんとして、礼儀正しいひとだけれど、お金を渡してくる時は封筒に入れたりしない。「その方が安心するでしょ」と言って。その言葉を聞いた時、遊び慣れて���ひとだな、と思ったものだ。  本当はお金なんて、別にくれなくてもいいのだ。お金を払ってくれるおじさんは他にいくらでもいるし、そういうおじさんにはオシゴトとして接しているし、それなりのサービスもする。加瀬さんには、そういうのはしない。普通に、ふたりで遊んでいる、という感覚だ。
 加瀬さんとは、ホテルのバーで会った。オシゴトで、おじ���んに連れていかれたホテルだ。若い女の子に、大人の世界を見せてあげる自分、みたいなロールプレイが好きなおじさんだった。オシゴトなので、わたしはおじさんが注文した甘ったるいカクテルをおいしそうに飲んだり、バーやカクテルのうんちくに相槌を打っていた。店内は静かで薄暗くて、ぽつりぽつりと店員さんたちの手元を照らす明かりが冷たく輝いていた。ゆきとどいた空調に肌がピリピリした。大人ってつまんないな、と思った。陰鬱な店で、体に悪いものを飲んで、ばかばかしい話をもっともらしく語り、もったいぶったまわりくどい段取りをつけているくせに、結局はセックスがしたいだけなのだ。男のひとたちが必死になって編み出す、セックスに持ち込むための長い長い道程が、果てしなく退屈だった。  眠気を誘う、店内のBGMに耳を傾けていたその時、唐突に悲鳴が上がった。  声がした方へ目を向けるのと、女の人が店を走り抜けて出て行くのとはほとんど同時だった。女の人が来た方向には、店員にタオルを差し出されている男のひとがいた。カウンター席に座っていて、髪やワイシャツがぐっしょりと濡れている。水か何かをかけられたみたいだった。その男の人は、困ったように笑いながら、店員さんと話していた。濡れたワイシャツが透けて、肌がうっすらと見えていた。違和感を覚えて目を凝らすと、肌が妙な形に歪んで見えた。幻燈のような明かりに照らされたその歪な肌の複雑な陰影にわたしは目をうばわれた。あのひとの肌を触ってみたいな、と思った。  だから、オシゴトのおじさんとバーを出る時に、連絡先を書いて渡した。加瀬さんが連絡をくれて、わたしたちはふたりで出かけるようになった。カフェに行ったり、映画を観たり……セックスをしたり。オシゴト抜きの、気楽で奇妙な関係。わたしは、この関係を結構気に入っている。
「制服着てる」  平日に待ち合わせたとき、加瀬さんはびっくりしていた。わたしの通っている学校は、このあたりではお嬢様が通っていると評判だ。制服マニアのおじさんが、たまに盗撮しようとして捕まったりしている。 「うれしい?」 「行ける場所が限られるな」  加瀬さんは困ったように笑った。いつものスーツ姿で。  わたしたちは並んで歩いた。なんとなく、人が少ない住宅地へ向かって歩いた。犬を散歩している人とすれ違うと、加瀬さんはびくっと怯えた。 「犬、苦手なの?」  わたしが尋ねると、加瀬さんは恥ずかしそうにうなずいた。 「可愛いのに」 「知ってるけど、怖いものは怖いんだ」  大人なのに犬なんかに怯えている加瀬さんは、ちょっと面白い。あんなにふわふわで可愛い生き物を怖がる必要が、どこにあるっていうんだろう。 「加瀬さんって���何してるひとなの」  スーツ姿の加瀬さんが、まだ明るい住宅地を歩いているのは変な感じだった。 「普通の会社員だよ」 「ふつう」  本当だろうか? 加瀬さんみたいに不思議なおとなが『ふつう』に働ける会社は、あまり想像がつかなかった。  住宅地を抜けると、さびれた商店街に出た。チェーン店らしきスーパーや薬局が開いている程度で、他はシャッターが閉まっている。 「これから、どこ行く?」 「どうしようかな」  またなんとなく歩きだした時、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。それは一気に勢いを増して、コンクリートを真っ黒に染め上げた。 「雨宿りしなくちゃ」  わたしたちは走って、スーパーに入ろうとした。その時、お店の前に繋がれた犬が激しく吠えた。加瀬さんが、怯えた様子で後ずさる気配がした。加瀬さんのシャツは、雨に濡れて透けていた。歪な肌が、うっすらと、けれどたしかに見えていた。 「行こう」  加瀬さんの手を握って、わたしはその場を離れた。加瀬さんが犬を嫌いなんじゃなくて、犬が加瀬さんを嫌いなのかもしれない、と思いながら。  屋根付きのベンチがあるバス停を見つけて、わたしたちはそこへ滑り込んだ。時刻表を確認すると、次のバスが来るのは一時間ほど後だった。きっとしばらくは誰も来ないだろう。「気を遣わせてすまない」と、加瀬さんは言った。雨音にかき消されそうな、か細い声だった。 「別に、そういうのじゃないよ」  どちらかといえば、わたしは他人に加瀬さんの傷跡を見せたくなかった。加瀬さんの歪んだ肌は、なるべくわたしだけの秘密にしておきたかった。小さい子どもが、大事なおもちゃを隠すのと同じようなものだ。 「どうして、そんな風になったの」  わたしが尋ねると、加瀬さんはすこし驚いたように目を見開いた。それから、困ったように笑った。 「きみはすごいね」  よく分からないけれど褒められた。何がすごいのか首をかしげていると、加瀬さんはますます笑った。 「俺、昔自殺しようとしたんだ」  雨音にかき消されることなく、その言葉はまっすぐに耳へ飛び込んできた。 「すごくキツい会社に入っちゃって。ほら、いわゆるブラックってやつ。それで、社会人になって2年くらい経ったころ急に生きているのが嫌になっちゃったんだ。学生時代も全然いいことなくて、いじめられてて、社会人になってもずーっと立場は変わらないんだって思ったら、この先10年も20年も生きていくのが怖くなった。それで、会社の屋上から飛び降りた」  加瀬さんは、ぽつりぽつりと話した。わたしは相槌も打たずにそれを聞いていた。沈黙は雨音が埋めた。加瀬さんがこんな風に、たくさん喋るのは初めてだった。雨音に乗って聞こえる加瀬さんの声は、寂しくて切ない音楽のようだった。 「落ちた場所が悪くて。ゴミ捨て場だったんだ。燃えるゴミの日で、大量の紙クズと生ゴミがクッションになったせいで、死ねなかった。すごく怒られて、リハビリとかして、カウンセリングとか通わされて……それが15年前。親も最初はめちゃくちゃ心配してたけど、今はふつうに働いてるし、一人暮らしも許してくれたし、さすがにもう大丈夫だろうって思ってるみたいだ」  わたしは、屋上からゴミ捨て場に落ちた加瀬さんのことを想像した。かわいそうな加瀬さん。でも少し、滑稽だ。 「よりによって、���ミ捨て場だなんて」 「笑えるよね」  加瀬さんは、いつものように、困ったような顔で笑った。 「今でも、死にたくなるとき、ある?」  わたしの言葉に、加瀬さんは少し考えてから、頷いた。 「生きたいと思うには、人生は長すぎる」  わたしには、加瀬さんの言っていることがよくわからなかった。 「人生が、長い?」 「ああ。人生は長すぎる」  わたしはまだ学生で、可愛くて、若くて、周りの子も、大人たちも、みんなちやほやしてくれる。世界中がわたしの味方のように感じる。もちろん嫌なことはあるけれど、様々な問題は放っておいてもなんとかなってきた。だって、わたしは可愛くて若くてちやほやされる価値があるから。人生を長いと感じたことはない。毎日はあっという間に過ぎ去っていく。そして、人生も似たようなものだと思っている。のらりくらりと生きているうちにあっという間に人生は過ぎていく。人生は短い。だから世の中にはたくさんの「死に際の後悔」を書いた本や「不老不死」を願うおとぎ話が溢れているんだろう。そう思っていた。 「加瀬さんの傷跡、わたしは好き」  上手く考えをまとめられなくて、結局、それだけしか言えなかった。加瀬さんは他のひとたちと違う。そういうところが、好ましいと思っている。 「もっと触っていたいから、頑張って生きててね」  加瀬さんはきょとんとしたあとに、困ったように笑った。 「きみは、本当に……」  何かを言いかけて、思い直したように口をつぐんだ。そして、誤魔化すように笑った。雨のせいか、加瀬さんが泣いているように見えた。
//
>写真をお借りしています。
Photo by Mitchell  McCleary on Unsplash  
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『溶けたアイス』 ------------------------------------------------------
 小野さんの手が、わたしの身体の上を這う。こわれものをあつかうように、そうっとなぞる。頭のてっぺんから、耳、頬、首筋、肩、鎖骨、乳房――じれったいくらいにゆっくりと、下へ下へ向かっていく。  いつもそうだ。小野さんはじれったいくらい優しくて、のんびりと、余裕たっぷりに愛撫する。 「小野さんは、優しいね」  わたしの���葉に、小野さんは少し顔を上げる。小野さんはちょうど、わたしのおへそのあたりを優しく舐めているところだ。 「そうかな」  小野さんはあいまいにほほえむ。あいまいさは、優しさ。そしてすこし、残酷でもある。  かたくなったそれが私のあそこに触れる。それは熱くて、かすかに脈打っている。 「いれるよ」  ていねいな愛撫でよくうるんだそのいりぐちに宛がったまま、たしかめるように言う。 「お母さんにも、こんな風にしたの」  小野さんは、やっぱりあいまいにほほえんだ。わたしのいじわるな質問にも萎えることなく、それはわたしのなかに入ってきた。
 夕暮れの中、土手沿いを歩く。コンビニへ向かうところだ。小野さんとふたりで。  わたしの方が、少し先を歩いている。セックスをしたからといって、べたべたと、あからさまにふるまったりはしない。  首筋に汗が流れていく。背中を伝い落ちていく汗の感触。ブラジャーのところに汗が溜まって、ほんのり湿る。夏は服を着ているのがばかばかしくなる。わたしは、夏が嫌いだ。 「桐ちゃんは、何を買うの」  後ろから、小野さんが朗らかな声で訊ねてくる。 「パンツ」  いじわるな気持ちでわたしが言うと、小野さんは「コンビニで、女の子が履くようなパンツ、売ってるの」ととぼけたように言う。ぜんぜん怯まない。小野さんは、残酷なおとなだ。  コンビニに着くと、わたしは店内をぶらぶらと歩きまわった。小野さんは小野さんで、雑誌なんかに目を向けている。店内は冷房がよく効いていて、とても快適だった。汗が引いていく。汗ばんでいた場所からひんやりと冷たくなっていき、だんだんと寒くなってくる。それでもわたしは、アイスケースの前でアイスをじっくり吟味して、一番高いアイスを手に取った。飲み物を選んでいる小野さんが持っているカゴへ、その高いアイスを放り込んだ。小野さんはわたしのことなんか気にせずに、新作のビールなんかを手にとって鼻唄を歌っている。そのくせ、わたしが小野さんから離れようとすると「パンツはいいの?」なんて平然と訊いてくる。小野さんは、変なおとなだ。なんだかいつも、うわの空。わたしや、コンビニの店員さんや、この町の人々みんなと、全然違うところに心があるみたいに見える。  コンビニを出て、もと来た道を戻る。夕日はまだ落ちきっていない。町中をくまなくオレンジ色にそめて、満足そうに空に引っかかったままでいる。  わたしは小野さんの持っているビニール袋に手をつっこんで、高級アイスを引っ張り出した。歩きながらふたを開けて、そのアイス専用の、プラスチックのスプーンで、すくって食べる。 「それ、好きなの?」 「好きだったら、なに」 「きみのお母さんも、よくそれを食べてたよ」  小野さんは、へらっと笑った。自分からお母さんの話題に触れることに、ためらいはない様子だった。 「これが一番高かったから、選んだだけ」  ひどくうちのめされた気持ちになって、わたしは言った。 「正直なところも、お母さんに似てるね」  アイスの味なんて、もう分からなかった。ただ濃くて、舌や喉がもったりと重たくなる、冷たい塊。食べずにいると、夏の夕日にあたためられて、じわじわと溶けていく。アイスは、一度溶けてしまったら二度ともとのアイスの味��は戻れない。高級アイスだって、例外じゃない。はかない価値。わたしは溶けつつあるアイスを眺めながら、なにもできないでいる。  小野さんは、わたしのお母さんの不倫相手だった。  まだわたしが小さな子どもだったころ、お母さんはわたしを連れて小野さんに会いに行くことがあった。小野さんの家でお絵かきをしたり、絵本を読んでもらったり、お昼寝をしたりした。お昼寝から目が覚めると、お母さんも小野さんも姿が見えないことがたびたびあった。不安になって泣き出すと、別室から焦った様子のお母さんが出てくる。後から、のんびり笑っている、パンツ一丁の小野さんが現れる。そういうことが、たびたびあった。  ふたりから、明確に口止めをされたことは一度もなかった。けれど、お父さんには、なんとなく言い辛かった。もともと仕事ばかりで家に寄り付かないひとだったし、お母さんと小野さんとわたしの秘密、というところが好ましかった。もしもその、繊細な糸で結ばれているような秘密の関係を他の人に漏らしたら、ふたりとわたしを繋ぐ糸は簡単に切れてしまうだろう。おさなごころに、そういう予感があった。  お母さんが、いつ小野さんと別れたのかは分からない。学校がはじまって、わたしは小野さんとのあいびきに連れて行ってもらえなくなったからだ。  不倫をするような母親ではあったけれど、わたしはお母さんのことが好きだった。  真面目で、寂しいひとだった。まるで上等な香水のように、いつもほんのりと、体に憂いをまとわせていた。まるで、間違って人間の世界にまぎれこんでしまったかなしい動物のように、いつも困ったような顔をしていた。写真を見返すたびに、いつもお母さんに感じていた、ひんやりと冷たい孤独の気配を思い出す。  そんなお母さんが、最近、死んだ。  お父さんはてきぱきと、まるで仕事をこなすように葬儀を済ませ、納骨もして、それから、お墓の前で、やっと少しだけ、泣いた。その横顔を見た時、わたしはふと、小野さんのことを思い出したのだった。  お母さんの持ち物は、そう多くは無かった。そのすべてを、わたしはきちんと箱にしまってとっておいていた。お父さんは、そういう感傷的な物品にはあまり興味がない様子だった。わたしはお母さんのもちものを丁寧に調べた。なにげない、お土産品らしい海のポストカードの裏に電話番号が書かれているのを見つけた。何かをたしかめるように、ひとつひとつ丁寧につづられたその数字を眺めているうちに、これは小野さんの電話番号だと、なんとなく分かった。  その番号に連絡して、わたしは、小野さんに約束をとりつけた。昨日が、約束の日だった。 「そうか」  お母さんが死んだ、とわたしが告げると、小野さんはぽつりとそういった。わたしたちは、どこの町にもあるような、なんの変哲もないカフェの、窓際の席に向い合せで座っていた。 「きみのお母さんは、きれいなひとだった」  小野さんは窓の外をぼんやりと眺めていた。 「覚えてないんじゃないですか」  遊んでいそうな人だと思った。記憶の中の小野さんは爽やかで清潔な感じだったけれど、目の前にいる小野さんは、なんだか世慣れて余裕のあるおじさん、という感じだった。わたしにとってお母さんは特別なひとだけれど、小野さんにとってはそうでもないのかもしれない、と落胆していた。 「どうしてそう思うの」 「色んなおんなと寝てそうだから」 「こんなに小っちゃかった君が、そんなことを言うなんてね」  小野さんは親指と��差し指を3センチくらい開いて「こんなに」ともう一度言った。  否定も肯定もしないところが、ずるい。あいまいなところが、大人っぽくて、なんとなくいやだった。  気が付くと、小野さんは、また窓の外を見ていた。窓の外では、人がまばらに行き来していた。よく晴れた夏の日で、外を歩いている人たちの足元には黒々とした影が落ちていた。あまりにも明るくて、見ていると残像が目の奥でちらついた。実際に歩いている人と、目の奥の影が一緒くたになって、ゆらゆらと揺れている。 「覚えているよ、ちゃんと」  小野さんは、ふいにわたしを見た。 「紅茶に、角砂糖を三つ。レモンをひと切れ。君のお母さんも、必ずそうしていたよね」  小野さんは微笑んだ。
「あの喫茶店で会った時、君のお母さんが、会いに来てくれたのかと思ったんだ」  コンビニからの帰り道に、意識が引き戻される。小野さんが後ろから声をかけてきていた。わたしは立ち止まり、振り返った。 「わたし、お母さんには似てません」  親戚のひとも、近所のひとも、学校の友達も、そう言っていた。お母さんは悲しいひとだったけれど、きれいなひとだった。 「そうかなあ」  小野さんは、ふんわりと笑った。小野さんはやっぱり、普通の人たちと、見ている世界が違うのかもしれない、と思った。人間の、表面じゃなくて、内側だけをまっすぐに見ているのかもしれない。 「でも、君のお母さんが会いに来てくれたと思って、うれしかったんだ」  小野さんも立ち止まっていた。わたしたちは、一定の距離が開いたまま向かい合っていた。 「君のお母さんのことが、ほんとうに好きだったんだよ」  小野さんの瞳から、ぽろぽろと涙があふれてきた。夕日に照らされて、涙はきらきらと光っていた。涙は、次から次へとこぼれて、止まらなかった。 「わたしと寝たくせに」  お母さんに似ていないわたしと、寝たくせに。  いじわるな気持ち程度では、涙にたちうちはできなかった。わたしの頬にも、なまあたたかいしずくが伝い落ちていく。  そういえば、お母さんが死んでから、初めて涙が出たな、と思った。
//
>写真をお借りしています。
Photo by Dewang Gupta on Unsplash  
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『アースクエイク』 ------------------------------------------------------
 人肌が好き。わたしは、一般的な普通の人たちが想像するより強く、人肌に執着していると思う。  自分以外の、誰かの肌の、ほんのり温かな体温が好きなのだ。  小さなころからずっとそうだった。お母さんかお父さんに添い寝してもらわないと眠れなかった。誰か他人の、柔らかく温かな、血の通った肌に触れていないと不安で仕方が無かった。成長してひとり部屋を与えられ、ひとりベッドで眠るようにと親から言われた時には毎晩泣いた。親の前でわんわん泣いたし、ベッドの中でもしくしくと泣いた。さらに成長し、大人になったわたしはひとり暮らしを始めた。誰かが側にいなければ、誰かの体温を感じていなければ不安で仕方ない。苦痛ですらある。しかし家族は私の望みを叶えてくれない。それならば、他人に体温を求めればいいのだ。大人のわたしにはそれができる。  人肌を提供してくれる相手を見つけるのは、男より女の方がずっと簡単だ。男は感情より性欲を優先することを悪としないから。あるいは、悪と思っていても性欲に勝てない人が多いから。女はたいてい、感情を重視する。女の中では感情が最優先で、性欲なんてものは矮小な扱いを受けている。わたしの場合、不安を解消したいという『感情』が最も強い。男の人は感情抜きで性欲を満たしたい、わたしは不安を解消したい。わたしのような、人肌さえあれば感情が満たされるような女は少ない。というか、不安を解消するために自分の身体を供物にできる女は少ない。だから、そういう女は重宝される。 「俺Sだからさァ、いっつも女の子から激しすぎって言われるんだよねェ」  まだらな茶髪を手で掻き上げながら、同期の男の子が言った。飲み会の時と、ずいぶん態度が違う。やけにイキっている。男の子って、ホテルで二人きりになったとたん豹変するから、びっくりしてしまう。  Sと言うわりに、わたしの服を丁寧に脱がしていく。ブラのホックに苦戦している。ちょっと滑稽だ。なんとか全部脱がせると、いきなり胸をわしづかみにしてくる。 「お風呂、入らなくていいの?」  てっきり一緒にお風呂に入るために、最初に服を脱がせてきたんだと思っていた。純粋な疑問をどうとらえたのか、「恥ずかしがらなくてもいいよ」なんて的外れなことを返される。ちぐはぐな感じにほんのりとがっかりしつつ、気を持ち直す。わたしは人肌を感じたい、彼は性欲を満たしたい。彼は人肌を提供し、わたしはセックスを提供する。お互い損のない一時的な関係。多くは求むまい。  自分を納得させていたのもつかの間、胸に痛みが走る。指が食い込むほど強い力で揉んでいる。 「痛いよ……」  なるべく雰囲気を壊さないように、甘えた声で抗議する。 「俺Sだからサァ」  単なる抗議をプレイの一環だと勘違いしている。ニヤニヤしている顔に、すっかりがっかりしてしまった。これ以上言っても、きっと彼には理解できないだろう。我慢するしかない。経験を重ねるうちに、諦めも早くなる。せめて痕を付けられないようにと彼の愛撫を観察しな��ら、思考を彼方へと飛ばす。  そういえば、人肌を求めるなら男の子に頼むのが一番はやいと気付いたのは、初めての修学旅行の時だった。  わたしは旅行が大の苦手だった。家族旅行であれば家族の布団にもぐりこめるからよかったけれど、友達との合宿だの旅行だのは論外だと思っていた。けれど、学校行事ともなると参加しないわけにはいかない。厳しい親だったのだ。夜の消灯時間になっても、恋バナなんかをしながらきゃあきゃあ騒いでいた間は良かった。一人、また一人と寝息を立て始め、わたし以外のみんなが眠ってしまったと知った時、猛烈な不安に襲われた。恐怖と言ってもいい。このままわたしだけ、部屋の隅に溜まった真っ暗な闇のなかに引きずり込まれ、朝になったらこの世から存在が消えている――なんてことになるんじゃないかという恐怖で身体がガタガタ震えた。脂汗が額を伝い、ぽたぽたとシーツに染みを作った。誰かの布団に、こっそり潜り込もうかとも思った。けれどそんなことをして、友達から変な目で見られるのが怖かった。すでにわたしは、やたら女の子にベタベタしている子として認識されていた。日常生活では冗談で済んでいたけれど、なんの約束も前触れもなく勝手に布団にもぐりこんだりなんかしたら、きっと冗談が確信に変わる。わたしは変な子として、誰にも触れなくなってしまう。  わたしは恐怖を堪えながら、もぞもぞと布団から抜け出して部屋を出た。無意識に明かりを求めて、廊下をふらふらと歩いた。 「おい、何をしてるんだ」  鋭い声にびくっとすると、男の先生が立っていた。お酒が入っているのか、ほんのりと頬が赤い。体温が高そうだな、と真っ先に思った。触れたらきっと温かいだろう。すごく安心できるだろう。そんな想像が、わたしの頭の中を駆け巡った。 「トイレに行って、部屋が分からなくなったんだろう」  先生はそう言うとくすくす笑った。心地よさそうな体温の持ち主は、笑顔まで好ましく見えた。 「ひとりじゃ眠れないんです」  わたしは素直にそう言った。我慢できずに先生に抱きついた。服越しでも分かる、少し熱を持った体温が心地いい。不安がほろほろ消えていく。離れたくない、と強く思う。 「な、なんだ、急に……」  先生はおろおろしつつ、わたしを突っぱねたりはしなかった。 「お願い、先生。わたしが眠るまででいいから、一緒にいてください」  精一杯愛らしく甘えた。小動物のようなか弱さを全力でアピールする。先生はわたしをじっと見下ろして、それからきょろきょろと周囲を見た。 「しょうがないな」  先生はわたしの肩を抱き、廊下を歩き始めた。「こっちに先生の部屋があるから、一緒にきなさい」  その日から、わたしは自分の身体と引き換えに体温を得る方法を覚えた。だから、進学と同時にひとり暮らしすることだってあっさり決断できたのだった。  痛みしかない行為が終わった後、お風呂で綺麗にした身体を寄せ合った。 「俺Sでさァ……」  まだ言っている。聞き流しつつ、体温に集中する。お風呂で体温が上がったのか、彼の身体はぽかぽかしている。くっついていると気持ちがいい。わたしは足先が冷えがちで、もうすっかり冷たくなっているのだけれど、彼はまだ���っかり温かかった。嬉しい。セックスはとても下手だけれど、抱き枕としては合格だ。本人には絶対に告げられない評価をつけつつ、目を閉じようとする。すると、彼がもぞもぞと手を動かして、わたしの身体を触りはじめた。 「なーに?」  なるべく角を立てないように、微笑みまじりで言う。 「くっついてたら、したくなっちゃった」  言いながら、もう胸を触り始めている。痛くされて、胸もアソコもズキズキしている。できればもうしたくない。でも、ここで断ってもっと面倒なことになったらどうしよう。色々考えを巡らせている間に、乳首をぎゅーっとつねられる。 「また気持ちよくしてあげるから」  太ももに、すでに大きくなっているものを擦りつけられる。仕方ないか、と諦めの気持ちが先立つ。  その時だった。  キュウキュウキュウ……とベッドが鳴いた。身体が左右にクラクラ揺れる。一体なんだと思ったら、地震だった。 「うわっ」  男の子は飛び起きて、大慌てでスマホを取りにベッドから降りた。私はよく揺れるベッドの上で、ぼんやりとしていた。  人肌が不安から逃れる唯一の方法だった。人肌にさえ触れていれば、人生は何も問題ない。そう思っていた。  キュウキュウキュウ……鳴き声は次第に小さくなる。揺れが収まる。ドシン! と彼がベッドに乗ってきて、わたしの横まで這ってくる。 「震度3だって! びっくりしたなぁ!」  男の子は、飲み会で見たのと同じ、ちょっと幼い無邪気な顔をしている。そのあっけらかんとした感じが、好ましいな、なんて思っていた。でも、わたしの乳首やアソコはズキズキしている。もう正体を知っている。人肌のために我慢していた色々が、急に暴力的なまでの失望をわたしの中に溢れさせる。  この人と死にたくはないな、と急に思った。そういうのは、ちょっと違うな。  人肌に触れていると安心するけれど、その人肌の持ち主にも安心感がなければいけないのだと、初めて気付いた。例えばお父さんのような安心感。例えばお母さんのような安心感。全身をゆだねられる相手でなければ、人肌に価値なんてないのかもしれない。 「どうしたの、急に黙って」  男の子はきょとんとしてわたしを見ている。 「なんでもないよ」  わたしが微笑むと、男の子もほっとした顔つきになる。 「つーかさ、もう大丈夫っぽいし、続きしよう」 「今日はもう寝たいかな」  わたしが言うと、男の子はがっかりしたような顔つきをする。しばらくねばって、やっと諦めてくれる。「じゃあ休憩で良かったじゃん」なんて、ぼそぼそ言いつつわたしに背中を向ける。  控えめに足を触れさせつつ、明日からのことを考えた。
//
>写真をお借りしています。
PexelsによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『秋の音』 ------------------------------------------------------
 近ごろ、あまり食欲がなかった。  病気をしたとか、ダイエット中だとか、気温が極端に高いだの低いだの、特に原因があるわけではない。ただなんとなく食欲が沸かず、だから食事もおっくうになっていた。貰い物の小さなお菓子をつまんだり、インスタントのスープをちびちび飲んだりしてなんとか身体の形を保っているような状態だった。今まで食事に費やしていた時間は、代わりに仕事や睡眠の時間へと充てた。いや、格好つけて言っただけだ。本当は、大半を睡眠の時間へと充てていた。ひたすらぐうぐう寝ていた。  先日、昔から懇意にしてくれている雑誌からインタビューのオファーがあった。前日も、当日になっても食欲はわかず、けれど何かしら腹に入れなくてはと思い、インスタントのカップ麺をちまちまと食べて出かけた。  出版社の受付で編集部の名前を言い、自分の名を告げる。「お話は伺っております」と美しい受付の女性が微笑む。ほっとしつつ、自分の姿を顧みて新たな不安が生まれる。服は一年前に買ったものだし、化粧品もずっと同じものを使っている。今年のトレンドの色と言われても分からない。こんな状態で、のこのこと外出している自分が少し恥ずかしい。  ロビーで待っていると、顔見知りの編集者が現れた。「いつもお綺麗ですね」なんてお世辞を言いながら、会議室風の部屋に通された。会議室にはインタビューを担当するらしい編集者と、カメラマンが居た。しまった、と思う。最近は自分の食欲のことばかり気にして、服も化粧も適当なのだ。こんな姿が、公に写真として残ると思うと絶望してしまう。たじろいでいると、着席を促された。しぶしぶ座ると、さっそくシャッターが切られる。ウッと息が詰まる。私の動揺を知ってか知らずか、インタビューが始まる。 「新作の長編小説のテーマは……」 「次回作の構想は……」 「作家として今の時代をどうとらえているのか……」  聞かれたことを一生懸命答える。物腰の柔らかな、若い女性がインタビュアーである。優しい雰囲気で、私の話す全てが興味深いのです、とでも言うように熱心に耳を傾けてくれるものだから、だんだんと興が乗ってくる。余計なことまで話してしまう。やれやれ、と自分で呆れる。 「インタビューは以上です。ありがとうございました」  女性がぺこりとお辞儀をする。私もお辞儀を返しつつ、苦役から解放された心地でほっとする。しかし、頭を上げた女性が「最後に見出し用のお写真を……」と言い、再び絶望する。ダサい化粧と服で、べらべらと現代のことを話していた引きこもりの女流作家の、決めポーズの写真なんて、誰が喜ぶというのか。笑いものになるだけだ。しかし、仕事なのでやるしかない。  窓辺に立ち、背筋を伸ばし、さりげなく微笑んでの一枚。椅子に座り、背筋を伸ばし、さりげなく真面目な顔をして一枚。ひさびさに活用された背筋が悲鳴をあげている。 「ありがとうございました」  カメラマンの男の子が、キラキラとした顔で言った。彼も、苦役を終えてほっとしているのだろう。 「編集部に戻って、書類を置いてきますね。そうしたら、せっかくですからご一緒にお昼ごはんでも」  編集者に言われて、私はにわかに不安を覚えた。近ごろほとんど食事をしていないのだ。いきなり外食をして、具合が悪くなってはお互いに損だろう。ましてや、酒も飲んでいないのに路上で戻すようなことがあっては笑い話にもならない。 「素敵なお話ですけれど、この後予定がありますから」  なんとか角が立ちませんようにと祈りながら言うと、編集者はあっさりと納得した。 「それでは、私から先生にお渡しするものがありますので、取りに行ってきますね。申し訳ありませんが、こちらで少々お待ちください」  編集者たちが部屋から出て行くと、部屋は静かになった。遠ざかっていく足音すら聞こえるほどだ。私は背もたれに寄りかかり、ぼんやりと天井を見つめた。今日は疲れた、と思った。家に帰り、風呂に入って、パジャマを着たらそのまま寝てしまおうと思った。急ぎの仕事もないし、体力回復を最優先にしよう。 「先生、ちゃんとごはん食べてないでしょ」  唐突に話しかけられた。ぎょっとして彼の方を見る。カメラマンの男の子が、カメラから顔を上げて私の方を見ていた。ああ、そういえば彼も部屋に残っていたのか。 「どうしてそう思うの?」  いきなり図星を突かれたから、どきどきしながら聞いた。 「俺の実家、農家なんです。兄貴に任せて、俺は写真の学校に入るために上京してきたんですけど。こっちの人たち、誰も彼もどんよりしてるんスよね。ああ、ちゃんと食べてないんだなぁって、分かるんス、そういうの」  さらさらと、聞き心地の良いテンポで喋る。裏表無くまっすぐで、爽やかな青年だ。そういう青年に私生活の欠点を見抜かれるほど、恥ずかしいことはない。 「私、顔色悪いかしら」 「顔色っていうか、雰囲気スね。化粧してると、顔色なんて分かんないス」  やれやれと吐息する。流行りのお化粧だの、流行色の服だのを気にしている場合ではなかった。醸し出す不健康な雰囲気を、真っ先に気を付けるべきだったとは盲点だった。 「今の季節だと、里芋がおいしいスね。ごぼうなんかも今の時期ス。トマトも本当は今が一番糖度が高くて美味いし……」 ��すらすらと野菜の名前が出てくる。遊びたい盛りのような風貌の青年から、きちんとした生活そのものという雰囲気の言葉が出てくると、それだけでハッとさせられてしまう。 「ずいぶん楽しそうに野菜の話をするのね」 「家を継がないぶん、気楽に野菜と関われるからスかねぇ」  なんだか、やけに達観した様子だ。 「そうそう。うちの農家が直接卸してるレストランが、この近くにあるんスよ」  青年がニコニコしながら言う。そこでふと気が付いた。 「もしかして、誰も彼もに同じことを言ってるの? そのお店に行かせようとして」 「あはは、鋭いスね」  なんの悪気もなく笑っている。だからこちらも、なんとなく可笑しくなってきてしまう。 「最近ちゃんと食べてなさそうだなって思ったのは、本当スよ」  男の子は言って、優しく微笑む。 「次は、もっと元気な先生を撮らせてくださいね」  不覚にも、きゅんとしてしまった。モテるだろうなぁ、こういう子。と、人間観察の方が先に立つのは作家の悲しい性だ。 「先生、お待たせしました」  編集者が、茶封筒片手に戻って来る。「原稿の見直し、せっかくなので郵送するより手渡しの方がいいと思って」修正作業の大変さを思い、急に現実へ引き戻される。 「本日はご足労いただきありがとうございました」  編集者に見送られて、出版社を後にする。  このまま電車に乗って、地元の駅に着いたら、まっすぐ家に帰らずに、スーパーに寄ってみようか。季節の野菜の知識もついたし、少し買ってみてもいいかもしれない。電車の中で、季節の野菜を使ったレシピを調べてみるのも楽しいだろう。みずみずしい野菜たちを使った料理を漠然と思い描いていたら、なんだか、お腹が空いてきた。カップラーメンひとつぶんしか入っていない胃が、やけに軽く思えてくる。我ながら単純だ。  身軽くうきうきした気分になりながら、改札を通り抜ける。その時、くぅ、と小さくお腹が鳴った。
//
>写真をお借りしています。
suju-fotoによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
—————————————————— 『ドレスの話』 ——————————————————
 雪のような純白は純潔の証。  華やかなレースは美しさの証。  可憐なベールは貞淑の証。
 結婚が絶対的な概念ではなくなった現代においても、花嫁衣装に憧れる女性は多い。かくいう私もその一人だ。幼い頃に親戚のお姉さんの結婚式へ出席した際見たウェディングドレスがあまりにも美しくて、一目で虜になってしまった。今でも忘れない。真っ白で光沢のある、美しいサテンのドレス。プリンセスラインという名の通り、まるで絵本の中のお姫さまのように可憐なシルエット。胸元からスカートの裾にかけて、丁寧で細やかな刺繍が施され、その上から瀟洒なレースがふわりと纏わせられていた。陽の光を透かしてキラキラと輝かんばかりに繊細なそのレースは、花嫁の足元を守るように床にふんわりと広がってい���。親戚のお姉さんが歩くたびに、レースが擦れてサラサラと清らかな音が鳴った。子供だった私は、お姉さんのベールを後ろからそっと持ってバージンロードを歩く、いわゆるベルガールをさせてもらえた。ウェディングベールに触れるときは緊張したものだ。触った途端、綿菓子のように溶けてしまいそうに思えて。  成長した私は、そのウェディングドレスへの憧憬を忘れられず服飾の専門学校に入学した。授業を通してドレスにまつわる様々な職種と適性について学んだが、私は最終的にデザイナーの道を選んだ。  デザイナーは茨の道だ。天才か強運の持ち主、あるいはそのどちらもを兼ね備えていなければ食べて行かれない。華やかな世界を見上げながら、孤独で、野蛮で、卑劣な環境に身をやつし、泥を啜り続けながら全く別の職種に転職するか、自殺するかしかない世界。……少なくとも、私にはそう思えてならなかった。きっと夢を見る発端がいけなかったのだ。「キラキラで、ふわふわなお姫さまの衣装を作りたい」なんて。
 とはいえ、私はかろうじて子供の頃の夢を叶えているとも言える。一応は、ウェディングドレスのデザインを作成する仕事に就いているのだから。  私の仕事は、コスプレ衣装としてのウェディングドレスを作ることだ。安くて、ペラペラの薄い生地で、性的興奮を喚起させる、インスタントなウェディングドレスというのはある一定の需要がある。小さな服職会社が、専門部署で、専門のデザイナーとして人間一人を雇えるほどには需要があるのだ。驚くべきことに。  女性の肉体の魅力を最大限に引き出すーー精神ではないところがミソだーーためのウェディングドレスを毎日毎日デザインに起こしながら、たまに考える。この、純白でありながら俗っぽい、あわれな花嫁衣装を着るのは、一体どんな人なんだろう?  まさか、真に幸せな花嫁がこれを着るなんてことはないだろう。卸す店��の種類はなんとなく聞いているけれど、購買層までは把握していない。気になるけれど、知るのが少し怖い。  これを着た誰かが、少しでも幸せであればいいと思う。あるいは、それも出過ぎた願いであれば……せめて、苦しみが少ないように願う。祈りを込めて、私は今日も、ウェディングドレスを描く。このいやらしい衣装を身にまとう、どこかの誰かの幸福を願いながら。
>pixagodによるPixabayからの画像
(メモ:生き恥ウェディングドレスの概念がツボだったので、作る側から着る側へ書き進めていこうとしていたものの序文)
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『夢見る乙女』 ------------------------------------------------------
「今日もありがとう。楽しかったよ」  濡れた体を拭いてもらった後、ベッドで隣り合わせに座った。彼女の身体と自分の身体からは同じ石鹸の香りがする。少し安っぽくて、やたら甘ったるいフルーツの香りだ。 「よかったぁ」  彼女と自分の間には、拳ひとつ分の距離がある。その距離は、視覚で感じるよりもずっと遠い。際限なく身体を密着させていたさっきまでのひと時が、夢だったかのようだ。金で買った夢の時間。儚い夢だった。  とはいえ、彼女はソープ嬢としては優秀だった。技術が高いわけではないけれど、仕草や言葉選びに愛らしい魅力があった。顔立ちはごく普通で、人より小顔ではあるようだが、目も鼻も唇も同様にこじんまりとしている印象だった。ただ、少々垂れ気味の瞳に見つめられると妙にくすぐったい気分になる。「あなたを親密に感じている」とでも言いたげな優しい視線に感じるのだ。彼女がそばにいるのは金で時間を買ったからだ、という線引きをきちんと自覚していなければ、好意を勘違いしてしまいそうなほどだ。 「マコトちゃんって、普段は何してるの?」  残り時間、必死に元を���ろうとするような気分ではなかった。彼女の柔らかい雰囲気を隣で感じているだけで、意外なほど充足感があった。 「普段……うーん、色々だけど……」  口元に人差し指を一本そえて、小首を傾げる。あざとい仕草を、驚くほど自然にやってのける彼女には舌を巻くばかりだ。私生活では相当モテるだろう、と思った。 「レッスンしてるかな」 「レッスン?」 「そう。歌とダンスのレッスン」  意外な答えに、少したじろぐ。  俺がぽかんとしているのを見て、彼女は少し困ったように笑った。 「あのね、内緒にしてね。実はわたし……アイドルのたまごなの」 「アイドル?」 「の、たまご」  彼女は照れたように付け足した。 「こんな場所で……って言ったら悪いけど、こういう店でアイドルに会うなんて思わなかったな」  たまに仕事の少ない声優やモデルやらが働いていると噂で聞いたことはあったけれど……実際こうして当たるのは初めてだった。 「ふふっ、まだ『たまご』だってば」  彼女はおかしそうに笑った。ささやかなことでクスクス笑ってくれるところに、人の良さが垣間見える。そういう人好きのする感じが、彼女の魅力なのだろう。けれど、世間一般で言うアイドルのイメージからは、少し遠く感じた。 「アイドルって、たまごとはいえ結構忙しいんじゃないの? 歌とダンスのレッスンなんて、ハードそうだし」 「そういうイメージ?」 「うん。ほら、テレビでたまにアイドルオーディションのドキュメンタリーとかやってるしさ。あれ見てると……」 「ああ言うのは、テレビ用の演出なんだって。本当のアイドルって、すごく地味なんだよ」  無知な子供に対して優しく諭すような口調だった。 「たまごだから、ライブに出たりもほとんどできなくて。たまごを集めて、ライブすることもあるけど……そういうライブだって、ノーギャラなんだよ。ステージ費用とか、衣装代とかで、逆にみんなで割り勘するくらい」 「えっ、そうなの?」 「うん。レッスン代だって結構高くて……勉強用の教材だって一個一個がかなりの値段するし。有名な先生だから、しょうがないんだけどね」 「……へえ?」 「たくさんのアイドルをプロデュースしてきた、とっても偉い先生なんだって。わたし、スカウトされるまでアイドル業界のこととか全然知らなかったから、その先生のことも知らなかったんだけど……とにかくすごい人なんだって」 「そう、なんだ」  雲行きが怪しくなってきたのを感じた。ひたひたと、悪いものが忍び寄ってくるような嫌な感覚がする。けれど、その深淵を覗かずにはいられない。人間は、好奇心には勝てない生き物だ。 「アイドルになるために、ここで働いてるの?」  言った直後に後悔した。  彼女の顔に、淡い悲しみと諦観がとがほの見えたからだ。 「うん。アイドルになるためにはお金が必要なの。だから、ここでいっぱい働いて、いっぱいレッスンして、アイドルになるんだ」  柔和な垂れ目がうっとりと細められる。一瞬垣間見えた自己憐憫の影はすでにない。彼女は全身で、自分がアイドルとして脚光を浴びる日を夢見ていた。 「……応援するよ」 「えへへ、ありがとう」  金で買った関係だ。彼女の夢を壊す権利なん��ない。それに、夢を壊した後の責任を取れるわけもない。彼女に新たな夢を見させることなんてできない。 「あ、時間だね」  彼女は言って、俺の手を掴む。その時はじめて、自分が堅く拳を握っていたことに気付いた。その拳を、彼女を食い物にしている『先生』とやらに向けたいのか、大人の分別なんて便利な言い草で事実を言わない自分自身に対して向けたいのか、分からなかった。  扉の前まで連れていかれ、頬にキスをされる。 「お兄さん優しいから、色々喋っちゃった」 「……ありがとう」 「また来てね」 「ああ」  十人並みの顔立ち。体つきも技術も、突出した部分は無い。きっと、アイドルとしてもそんな評価なんだろうな、と思った。それでも。 「がんばってね。応援してるよ」 「うんっ。ありがとう」  彼女の笑顔は愛らしくて、優しく――少し寂しくて。  彼女みたいなアイドルがいてもいいんじゃないかって、少しだけそう思った。
//
>写真をお借りしています。
PexelsによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『愛』 ------------------------------------------------------
 3年同棲した彼女と別れることになった。出会った瞬間電流が走ったような衝撃とともに恋に落ちて、燃えるように愛し合った。濃密な愛の歴史を経て、私たちは今日、別れる。
「これが最後の晩餐だね」と彼女が言った。 「いっぱい泣いたせいかな、味がしないよ」と私は答えた。  大好きだった。今でも好きだ。だからこそ別れなければならない。私たちはお互いを愛しすぎている。 「カレーにはジャガイモ入れない派じゃなかった? 溶けてザラザラするからって」 「でも、星花は好きでしょ? 3年間、ずっと私に合わせてくれてたから」 「私のためなんだ? えへへ、嬉しいな」  恋人の可愛い笑顔を見ていると、別れるのが惜しくなる。けれど、もう決めたことだ。それも昨日今日の思い付きじゃない。何度も話し合って決めたんだ。今さら覆すことはできない。呑み込んだ言葉が、口の中に苦く残る。 「けほっ」 「もう、大丈夫? よく噛んで食べなくちゃ」  むせた彼女に、お茶の入ったコップ���差し出す。 「もう優衣の手料理が食べられないと思うと、いっぱい食べておかなきゃと思っちゃって」  照れたように言いながら、両手でコップを持って飲む。そんな仕草も可愛い。彼女の愛らしさに見とれている自分が滑稽で、妙に切ない。 「優衣が次に住む場所って、どんなところなの?」 「あれ? 前に話さなかったっけ」 「あんまり聞かせてくれなかったじゃない。家電は全部備え付けだから家電は私に譲ってくれたりとか、必要最低限のことしか聞いてない」 「次に住む場所は、職場の最寄駅と同じ路線。駅からは結構歩くけど、便利なところだよ」  何度もシミュレーションした嘘をつく。星花に、本当の引っ越し先を教えるわけにはいかない。 「星花こそ、次はどこに住むの?」  我ながら、白々しい問いかけをするものだ。 「内緒だよ」  にこ、と笑う口元が可愛い。ピンク色の唇が半月を描いて、芸術的ですらあった。 「ケチだなぁ」 「今は内緒っていうだけ。あと30分もしたら分かるよ」 「えっ?」  意味深な目配せ。きょとんとする私に、星花は優しく頬みかけてくる。別れを決めたあの日のように、何か取り返しのつかない決断を下した時の、憐れむような優しい微笑み。 「今までありがとう、優衣」  星花は、ほとんど空になったお皿の上に、スプーンを置いた。私もつられて、食事の手を止める。 「なに、改まって」  彼女の、憐憫に満ちた声音が切なくて聴いているだけで泣きそうになる。私はグラスに残っていたワインを飲み干した。 「一緒に住むようになって、優衣が毎日ちゃんとした食事を用意して待っててくれて。家に居場所ができたって、食事をするたびに思ってた。本当に嬉しかったよ」  胸が痛む。そんな優しい顔をしないで。 「私は……たいしたこと、してないよ。一人暮らしが長かったから、料理も一応できるだけで……」 「ううん、そんなことない。いつもちゃんとおいしかったよ。混ぜものがあっても、全然気にならなかった」 「え?」  ギシ、と心臓が軋む音がした。胃がキュッと引き絞られたように痛む。額に脂汗が浮く。 「優衣がずっと、食事に毒を混ぜてたこと知ってるよ」 「……」 「私が気づいてないと思って、料理を褒めるたびに罪悪感でいっぱいって顔してたね。すごく可愛かった。優衣が自分の愛の重さに、自分で押しつぶされそうになってもがいて、苦しんでる姿、可愛くて大好きだよ」 「星花……」 「今日の献立がカレーなのは、いつもより毒が多いからなんでしょう? 気付かれにくいように、最後の食事も美味しく食べられるように、それから……私の好きな料理だから、これにしてくれたんだよね?」 「知ってて、全部食べたの?」 「当たり前じゃない。私、死ぬときは優衣ちゃんに殺されたかった。ずっと、ずっとね」  ダイニングテーブルの向こう側で、毒を全てその身に受け入れた星花が笑っている。どこまでも可憐で、無邪気なままで。 「ごめんなさい。ごめんなさい……私……私、星花を愛しているの、心から……愛しているから、あなたの現在も未来も全部、自分のものにしたくて……でも、そうする前に、離れようと思って……」 「知ってるよ」  優しい声。胸がズキズキと痛む。罪悪感で気が狂いそうなのに、思わず見惚れずにはいられない、慈愛に満ちた表情。 「全部知ってるよ。昨日まで葛藤し続けてくれていたことも、今日致死量を混ぜ込んだあと、料理を作り直そうか悩んでたことも、全部」  星花は、テーブルの向こう側から手を伸ばし、震えている私の手を優しく包んだ。 「迷ってはいたけど、結局こうするつもりだったんだよね? だから、自分の新しい家を契約しなかった。引っ越す気なんて始めからなかった。別れたら死ぬつもりだったんでしょ?」  彼女はすべて知っていたのだ。私の浅はかな計画を。私の浅はかな嘘を。全て見抜いた上で、ずっと無垢を貫いていたのだ。どこまでも美しくて愛らしい、私の星花。 「私……ごめんなさい、私……今朝まで、ううん、晩ごはんを作るまでは、ひとりで死ぬつもりで……でも、どうしても……耐えられなくて。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私もあとからちゃんと、一緒にいくから……星花の全部を私のものにする贖罪として、私も、すぐに……」 「何言ってるの、優衣」  汗まみれの私の手。震えが抑えられず星花の手を振り払うかのように激しく暴れる私の手。彼女は少しも怯まず、あくまで優しく包んでくれている。 「私も、あなたの全部が欲しい。私だって、あなたを愛してるから」  まっすぐに私の瞳を覗き込む。 「私が優衣のしたことに気づけたのは、私も同じだからだよ。だって私たちは、お互いを愛しすぎるくらい愛してるんだもん」  優衣はそう言って、空になったワイングラスに目配せする。 「大丈夫だよ、すぐに楽になるよ。私たち、やっぱり別れるなんて無理だったんだよ。別れ話をした時から、分かってたことでしょう?」  私たちは、お互いを愛しすぎている。  彼女もまた、私と同じだったのだ。私たちは、お互いにお互いを愛で殺す運命だった。 「そっか……同じ……だったのね…………」 「そうだよ。だから、安心してね。罪悪感でいっぱいの、思い詰めた顔をする優衣も大好きだけど……やっぱり、笑顔が一番可愛いもの」  私は霞む視界の中で、ただただ神々しく慈しみに満ちた星花の顔を、幸福な思いで見つめていた。
//
>写真をお借りしています。
955169によるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『猫と僕の話』 ------------------------------------------------------
 先日、浮気した彼女と別れた。  大学2年生の時に出会ってから、お互い穏やかに惹かれ合って付き合うようになって、僕の就職と同時に同棲を始めた。ひとつ年下の彼女はまだ一年大学生活が残っている。そんな彼女と会う時間が減るのが嫌だった。彼女の両親に挨拶して、同棲の許可をもらって、どちらかといえば僕の会社より大学の方に近いアパートを借りた。それが去年。他人との生活は初めてで戸惑うことばかりだったけれど、お互い進学と同時に実家を出て一人暮らしをしていた同士だからある程度家事も助け合えた。初めての社会人生活に疲れ切って彼女に頼りきりの部分もあったけれど、彼女が卒論で目を回している時は僕がサポートしたりもした。  そして今年。社会人デビューして3か月で、彼女が浮気した。  相手は彼女のメンターで、30代半ばの既婚者らしい。要するに不倫だ。社会人デビューしたてで右も左も分からない女の子を食い物にしているあくどい大人。そんなくだらない奴に彼女はすっかり夢中になってしまったらしい。 「私たちの愛は、真実の愛なの。ロミオとジュリエットだって結ばれなかったでしょ? 本当に心が通じ合っていても、社会がそれを認めないことはよくあることなの。結ばれないからこそ、私たちの愛は永遠なんだよ」  彼女は、悪い大人の受け売りなのが明らかな詭弁を並べ立てた。真実の愛だけど不倫だから、友達にも話せないらしい。蜜月期間でのろけたくてしょうがなかった彼女は、よりにもよって僕にその話を思う存分披露し始めた。信じられない。不倫をすると人間は知能指数が下がるのか? 僕は怒りを抑えつつ、5年付き合った僕より不倫するような男を選ぶのか、と問いかけた。 「もちろん」と彼女は笑顔で答えた。「最近一緒にいてもドキドキしなかったじゃない? お互い、そろそろ次のステップに行くべきかなって」  次のステップが結婚じゃなくて浮気と別離だなんて想像だにしなかった。彼女の目に、僕は単純でバカな男に見えているんだろう。彼女との楽しかった思い出や、幸せだった記憶や、惹かれた仕草などが脳裡を駆け巡った。けれどそのすべてが、彼女の「ロミオとジュリエットのような恋愛」に酔っている顔に上塗りされた。要するに僕は、不倫に酔っている彼女にすっかり幻滅してしまったのだ。そのおかげで、別れることにはあっさりと同意できた。  僕は荷物をある程度まとめて、一週間のうちに同棲していた家から出た。彼女の相手には家庭があるから、彼女の方が引っ越すことには期待できなかったし、今まで僕と折半していた分の家賃は、不倫相手が援助してくれるらしい。僕はといえば、そろそろ付き合い始めて5年目の記念日だから、ちょっとした旅行でもしようと思っていた。プロポーズも考えていた。だから、貯金はある程度あった。旅行もプロポーズも無しになったのだから、引っ越し資金どころか向こう何か月かの家賃にだって余裕があった。まあ、安いところを探せばの話だけれど。
「にゃー」  眠れない夜。天井を見上げながら彼女のことを考えていると、猫が布団に潜り込んできた。  言い忘れていたけれど、彼女と僕は猫を飼っていた。もともとは彼女の猫だ。暖かで穏やかな実家でぬくぬくと暮らしていた彼女は、進学と同時にひとり暮らしを始めたとたん寂しくてしょうがなくなったらしい。そこで親に資金を援助してもらって、猫を飼い始めた。緑色の目をしたロシアンブルー。ペットショップで一目ぼれしたらしい。名前はロミオ。今思えば皮肉な名前だ。  ロミオも彼女に捨てられた男の一人……一匹、だ。僕が彼女の実家に「彼女が浮気相手に心変わりしたので同棲を解消してほしいと言われた」と報告したところ、僕らの結婚を期待していたご両親がたいそう残念がって、仕送りをやめると言い出したのだ。それによって、彼女は猫を飼う余裕がなくなってしまった。だから僕がロミオを引き取ることにしたのだ。それに、もともと彼女の猫だったとはいえ1年ほど一緒に暮らしてきて、僕もロミオには情が移っていた。最初は彼女が用意したエサしか食べようとしなかったロミオが、僕にエサをねだってくるようになった時は感動した。彼女が友達と卒業旅行に行っていた期間は、僕がロミオの遊び相手で、ロミオが僕の遊び相手だった。ロミオは賢い猫で、一度教えた遊びはすぐに覚えた。不覚にも僕が出しっぱなしにしていた猫用おやつを見ると、ロミオはつまみ食いもせずに「出しっぱなしだぞ」と教えに来てくれたりした。そんな賢いロミオが、今後不倫相手を彼女が家に連れ込むたびにないがしろにされたり、彼女が不倫相手とホテルで密会するたびにお腹を減らして弱っていくのかと思うと不憫でならなかった。というか、彼女が卒論を終えて卒業旅行や女子会やパーティーへと遊び歩いている間、ロミオはすっかり無視されていた。新社会人になると、彼女の帰りが遅くなったり泊りがけの出張が増えたりして家に帰ってこなかったりしたから、その時もロミオは寂しい思いをしていた。ここ数か月、ロミオの飼い主は僕だったと言っていい。ロミオと僕は、彼女が不在の間の寂しさをお互いに慰め合っていた。そんな戦友ともいうべき気高い猫を、不倫相手との愛の巣なんかに置き去りにはできない。ロミオを引き取る決意をするのはたやすかった。  ロミオは基本的に甘えたりしない猫だけれど、たまにこうして側に寄ってくることがあった。決まって僕が、彼女のことを思い出して眠れない夜だ。別に未練があるわけじゃないけれど、ただただ胸が苦しくなって眠れない夜。もしかしたらロミオも、同じ周期で彼女の事を思い出して眠れなくなるのかもしれない。あるいはただ、新しい住まいの居心地が悪くて、彼女の残り香でも嗅ぎに僕の側に寄ってきているだけかもしれない。
「ただいまぁ……」  終電間際まで残業した後、やっとの思いで家へとたどり着く。今朝ロミオのエサを少なめに盛ってしまったことが気がかりでしょうがなかったから、お詫びの意味を込めて四百円の猫缶も買ってきた。いつもの猫缶の約三倍の値段。世の中には千円する猫缶だってあるけれど、これでも結構奮発した方だ。 「……あれ?」  いつもならエサを求めて寄ってくるはずのロミオなのに、影も形もなかった。狭いアパートだ、隠れる場所なんてたかが知れてる。猫ベッドで寝てるのか、とか俺のベッドにもぐりこんでいるのか、とか。いつも隠れている場所を重点的に探したものの、どこにもいない。だんだん不安になってくる。 「……あ!?」  ふと見ると、トイレの窓が開いていた。子供が通れるかどうかというくらい小さな窓だけど、猫なら余裕の大きさだ。格子もないし。もしかしたら、ここから外に出たのかもしれない。 「ロミオ……!」  僕は慌てて家を飛び出した。
 ロミオが行きそうなところなんて全く分からなかった。彼は完全な家猫で、ベランダにも出ていこうとしなかった。エアコンが大好きで、人工的な空調のもとでないと生きられないとでも言うような、貴族的な生活を好んでいた。だから油断した。ロミオが外に出るなんて思わなかったから。  言い訳じみた思考に逸れていくのを必死で軌道修正しながら、アパートの周りをうろうろと探し回る。狭い隙間や暗い場所を見つけては頭を突っ込んでみる。幸い深夜だから人通りはほとんどなかったけれど、その分住宅街は真っ暗でホラーじみていた。ひとりでいると、暗くて怖くて心細い。ロミオも同じ気持ちでいるかもしれない。心配でたまらなかった。  歩き回っているうちに、なぜかふと嗅いだことのある香りに気付いた。自然と足がそちらへ向く。匂いをたどっているうちに気付いた。コンビニのおでんの香りだ。この近所にあるコンビニチェーンでは、珍しいことに通年おでんを売っている。彼女と同棲していた家の近所にも、同じチェーンのコンビニがあった。お互いを駅前まで迎えに行った帰りや、休日夕方までゴロゴロしたあとのちょっとした散歩の最中に、よくふたりで立ち寄った。彼女はおでんが大好きで、季節関係なくしょっちゅうおでんを買っていた。 「このコンビニが近所だから、今の物件に決めたようなものなんだよ」と誇らしげな彼女に「大学が近いからだろ」と僕がツッコむのはおきまりのやりとりだった。恋人同士のくだらないお約束。なぜかふいに、他愛のない日常の記憶がよみがえった。このおでんの香りのせいだ。  憎らしくなりながらもコンビニ前に着いた。彼女のことを思い出したくなくて、近所にも関わらず一度も来たことがないコンビニ。その駐車場の片隅に、ロミオがいた。 「ロミオ……探したんだぞ」  僕が近づくと、ロミオは「にゃーにゃー!」と大きな声で鳴き始めた。普段鳴くことなんてほとんどないロミオだ。ちょっと掠れて裏返った、痛々しい叫び声のように聞こえた。 「どうしたんだよ? 帰ろうぜ」  抱き上げようとすると、なぜか後ずさりして距離を取る。コンビニと僕の顔を交互に見ては、痛々しい声で鳴く。  やっとロミオの意図が分かった。このコンビニのおでんの香りは、ロミオにとって彼女の記憶そのものなのだ。家で留守番しているロミオにとって、このおでんの匂いをかぐことは、彼女の帰宅と同義だったのだ。 「彼女にはもう会えないんだぞ、ロミオ」  もう一度抱き上げようとする。けれどまた、距離を取られてしまう。ロミオが寂しがる気持ちはわかる。だってもともとの飼い主は彼女だ。だけど僕だって、今や彼の飼い主なのだ。諦めてほしい。今は認められなくても。 「ほら、帰ろう」  胃が痛む。動悸がしてくる。ロミオの鳴き声が耳にキンキン響く。痛い。どうしてこんなに痛々しい声で鳴くんだ。そんなに彼女の方がいいのか? あんな、不倫男に騙されて舞い上がるような奴なのに。彼女の姿が脳裡に浮かんで、いっそう胸が痛んだ。 「……バカだな」  ロミオの大きな瞳を見つめ返す。賢い猫だ。もう分かっているはずなのに。 「バカだなロミオ。僕たちは捨てられたんだぞ」  改めて口にすると、急に目から涙があふれた。次から次に出てきて止まらなくなる。人に見られるのが恥ずかしくて、僕は思わず膝に額を付けてうつむいた。そんな体勢になると、嗚咽まで漏れてくる。  そうだ、僕たちは捨てられたんだ。5年の幸せが、出会って3か月の不倫男に壊されたんだ。僕が積み重ねてきた愛情は、不倫男の軽薄な愛情に負けたんだ。  認めたくなかった。彼女がバカになってしまったんだと思い込むことで、小さなプライドを守ろうとしていた。でも、ただ事実から目を逸らしていただけなんだ。僕は捨てられた。5年間の愛情には敗北のレッテルがつけられて、無様な粗大ごみになってしまった。 「にゃー」  脚を抱えている手に、湿った感触がした。顔をあげると、涙で滲む視界にロミオがいた。ざらついた舌で、ぺろぺろと僕の手を舐めている。 「何? ……撫でてほしいのか?」 「にゃぁ」  ロミオは目を細めて鳴くと、賢い犬のようにお座りをした。あまりにも綺麗な所作にびっくりして、僕は思わずロミオの頭を撫でてしまう。 「にゃー」  間延びした声でロミオが鳴く。手のひらに収まりそうな、小さな頭。その中で、ロミオはどんなことを考えているんだろう。彼女に会いに来たのかと思っていたけれど、涙でぐちゃぐちゃになっている僕に頭を撫でられてロミオはずいぶん満足げだった。 「……僕を元気づけようとしてくれてたのか?」 「にゃぁ」 「僕が未練タラタラな事、気付いてたのか」 「にゃぁー」  彼女に未練があったのは、僕だけだったのか? そう聞きたかったけれど、やめておいた。ロミオは賢い猫だから、きっと僕を傷つけないような返事をするに違いない。  僕は服の袖で乱暴に顔をぬぐった。目元や頬が擦り切れそうなほど強く、ごしごしと。顔全体が摩擦で真っ赤だったら、泣いていたことが誤魔化せるかもしれない。僕の小さなプライドを笑うように、ロミオがじっと見つめてくる。 「何かうまいものでも食べようぜ。おごるよ」  普段買わない千円くらいする猫缶を買ってもいい。その代わり、僕はちょっと高い酒でも買おう。つまみだって、向こう側が透けるくらいペラペラの生ハムじゃなくて、ちょっといいやつを買ったりしよう。  僕ら二人でちょっとした贅沢を楽しんで、ちょっとした幸せを分かち合おう。 「にゃぁ」  ロミオはどこか楽しげに、目を細めて鳴いた。
//おわり
>写真をお借りしています。
Alek BによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『キズアト』 ------------------------------------------------------ ※百合
「あぅ……んっ、そこ……」 「ここ? 痛いですか?」 「ううん、ちがくて……そこ……か、感じる、の……」  雪野さんの反応の言葉に笑みを隠し切れなくなりながら、私は愛撫を続ける。 ――私の好きな雪野さんは、盲腸の痕が性感帯らしい。  透き通るように白く、きめの細かい肌。どこを触っても、指先を柔らかく受け止めてくれる。そんな彼女の身体の中で、唯一硬く浮き上がっている、一本の傷跡。直線ではなく、ねじれて歪んだそれは、雪野さんが唯一受けたことがある手術の痕だ。うつくしい雪野さんの身体の中で、唯一の醜いその場所が彼女の性感帯なのだと思うと、そのことにひどく興奮する。知らないふりをして、何度もその場所をなぞり、彼女から甘い声を引き出す。このセックスが終わった後、雪野さんを駅まで送った後、きっと自己嫌悪で死にたくなる。分かっていても、やめることができない。
 彼女が彼氏に振られた夜。弱みに付け込んで迫って以来、ずっとセフレとしての関係を続けている。  セフレといっても、セックス以外の用事で一緒に遊んだりするし、むしろその方がずっと多い。普通の友達だけど、たまにセックスする関係、と表現した方が正しいのかもしれない。  今日も、お互いの自宅からほぼ中間地点のとある駅で待ち合わせをしている。雪野さんとのデートだから、今日は気合いを入れてきた。とっておきのデパコスを使って、特別な日のために買ったブランドものの服を着て、約束より20分も早く待ち合わせ場所に立っている。デートだと思ってるのは私だけだって、分かってはいるのだけど。 「お待たせ」  春の日差しみたいに温かな声とともに、雪野さんが現れる。品のあるお化粧、露出の少ない清楚な服。今日も雪野さんはきれいだった。眩しいくらい。彼女の隣にいるために、必死に取り繕ってなんとか体裁を整えている私とは大違いだ。 「わあ、スカートとっても素敵だね。いつも可愛いお洋服で、すごいなぁ」 「雪野さんだって可愛いですよ」 「ふふ、本当? これ着るの、今日が初めてなの。変じゃない?」  その場で、くるんっと回って見せる。ロングスカートがふわりと舞って、まるでおとぎ話に出て来る妖精さんみたいだった。 「お尻のところに値札が付いたままです」 「えっ、本当!? 取ってくれる?」  セフレ相手に、無防備にお尻を向けてくる。雪野さんの無邪気さが可愛くて、ちょっと憎たらしい。 「嘘ですよ」  わざと冷たい口調で言うと、雪野さんは困ったようにおろおろした。「なぜか私を怒らせた」と考えて、不安になっているのだ。優しい雪野さん。いじめ甲斐があって大好きな雪野さん。でも、嫌われるのを恐れているのは私の方だから、必要以上に困らせたりしない。 「ほら、カフェの入店時刻もうすぐですよ。行きましょう。予約取るの、大変だったんですから」 「あっ、そうだよね。行こっか」  雪野さんはほっとしたように表情をほころばせた。やっぱり、笑顔の彼女が一番可愛い。 「あれ、雪野さん?」  カフェから出た後。なんとなく街中をうろうろしていた私たちは、背後からの呼びかけに振り返った。男三人組が立っている。その中の一人に、雪野さんが笑いかける。どうやら知り合いのようだ。 「偶然だね。お買い物?」 「うん。俺、この辺に好きなブランドの路面店があって。雪野さんも? そっちは友達?」  少し早口な、矢継ぎ早の質問。緊張しているのが見てとれる。雪野さんに対して、好意を持っているのを隠そうともしていない。羨ましくて妬ましい。ここで「はい、セフレです」と答えたらどんな反応をするか、試してみたいような気になる。 「そう、大事な子なの」 「ふーん……? そうなんだ、よろしくね。俺、雪野さんの同僚で」 「……はあ、どうも」  男のプロフィールなんてみじんも興味がなかった。それよりも、男も違和感を持ったらしい雪野さんの受け答えの方が気になってしょうがない。友達でもなく、わざわざ『大事な子』なんて言い方で友人を紹介するものだろうか? 「良かったらこれからみんなで食事にでも行かない? みんないい奴らだし。この前の返事もさ、お互いのことよく知ってからの方がしやすいでしょ。俺のこと、もっと雪野さんに知ってほしいし……」  チラチラと私の方を見ながら男が言う。明らかに、私からのアシスト待ちだ。優しい雪野さんは、友達が乗り気になれば断れないと踏んでいるんだろう。絶対に口を開くものか、と私は顔を逸らした。 「えっと……今日は、やめておこうかな。この後も行くところ、あるから」  雪野さんは困ったように微笑みながら、やんわりと断った。私はひそかに優越感を抱く。自分の性格の悪さに一番笑ってしまう。 「じゃあ、行こっか」 「はい。雪野さん」
 しばらく歩いて、駅前まで着く。お互いに沈黙したままだった。いつもだったら雪野さんの方から、相手のことを説明したり、話題をあからさまに逸らしたり、無邪気に店先のディスプレイに気を取られたりするのに、今日はなぜか無言だった。 「雪野さん、今のよかったんですか?」  仕方なくというか、間の持たなさに困って私の方から口を開いた。 「よかった、って?」 「だって、ほら……あの人明らかに、雪野さんのこと狙ってましたよね。むしろ、告白済みみたいな会話だったじゃないですか」 「……うん」 「雪野さん、前の彼氏と別れてから結構経つし……そろそろ彼氏とか、欲しいんじゃないですか?」  もともと私とのセフレ関係だって、雪野さんに次の彼氏が見つかるまでのつなぎみたいなものだ。雪野さんは男が好きなんだし、それを否定する気はない。少しの間夢を見せてもらえただけでも、私は幸せだと思わなくちゃいけないんだから。 「いいの。もともと、断るつもりだったから」 「えっ?」 「それより、この後……ね、おうちに行ってもいいかな?」  雪野さんはちょっぴり頬を染めて、そんなことを言う。 「……この後行くところって、私の家のことだったんですか?」 「う、うん……だめ?」 「別に、だめじゃないですけど。雪野さんって、意外と計算高いんですね」 「えっ!? そ、そうかなぁ……」  私のちょっと冷たい言い方に、雪野さんが慌てる。綺麗な形の眉がちょっとハの字になるのが可愛い。  前の彼氏と別れて以来、雪野さんがなかなか新しい恋人を作らない。  だからちょっとだけ、期待してもいいのかな、なんて思っている。  雪野さんには絶対に言わないけれど――私は彼女のことが好きだから。雪野さんの性感帯を知る最後の一人が、私であることをひそかに願ってしまう。  それでも今夜だって、雪野さんを見送った後、死にたくなるんだろうな、と分かっている。 ――でもこの恋は、自分の心を傷つけるだけの価値がある恋なのだ。
//おわり
>写真をお借りしています。
Vijay HuによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ 『タバコ』 ( ギャップのはなし) ------------------------------------------------------
「おかえりなさいませご主人様っ」 「おかえりなさいませ!」 「ご主人様ぁ、こちらのお席へどうぞぉ」
 今や物珍しさのかけらもない、ごく普通のメイドカフェ。店長の好みだけで採用された、内なる承認欲求に苦しむ女の子たちが、客からお金と羨望の代わりに愛嬌を振りまく飲食店。欲望渦巻くこの小空間が私の職場だ。  職場といっても、私はいわゆるメイドさんではない。キッチンスタッフだ。「メイドさんの萌え萌え手作りおむらいす」とか「メイドさんの手ごねはんばぁぐ」やらを作る、ゴーストライターならぬゴーストシェフ、それが私。料理の腕に自信はあるが、外見も承認欲求も人並み程度。メイドさんをやる勇気も資格もない。通学中の料理学校にあった求人で、一番時給が良いバイトに応募したらたまたまメイド喫茶だったのだ。「うちの客は料理の味なんて気にしないから」と言われて材料費を削られたり発注数に文句を付けられたりするけれど、まあ一応なんとなく、楽しくやっている。メイドさんが笑顔を振りまいて働いている姿を見る��は、同性とはいえやっぱり眼福だ。フロアと更衣室では態度が全く違うけれど、別に気にならない。フロアできちんとおもてなしを頑張る彼女たちのプロ意識に感心するばかりだ。  そういうわけで、私はメイドカフェのキッチンに引きこもり、日夜バイトに勤しんでいる。
* * *
「客途絶えたし、あなたも休憩してきたら?」  フロアチーフのメイドさんが、空いた皿を運びがてら声をかけてくれた。 「でも、今の時間帯キッチン私一人なんです」 「あー、店長フロアは増やすくせにこっちは人削ってるんだよね。職権乱用エグくない?」 「ですね。あはは」  同性というだけで憎まれることもあれば、優しくしてもらえることもある。私は美人は美人として普通に尊敬してしまう類の人間なので、敵意を向けられることはほとんどない。顔も地味なことを自負しているし。 「適当に休んだ方がいいよ。この後、サクラちゃんシフト入ってるから」 「ああ、店長のお気に入りの……」 「そうそう。だからサボるなら今のうち」  にこ、と微笑むメイドさんの笑顔が可愛くて、思わず赤面してしまう。こんな流行りもしていないメイドカフェに、こんな美人がいていいんだろうかとたまに思う。
* * *
 メイドさんの忠告を素直に聞いて、私はちょっとだけサボることに……もとい、休憩することにした。  外階段を上って、屋上まで行く。周りのビルが高いせいで、いつ来てもこの屋上は陰っている。なんとなくじめじめしているその場所は、ちょっとだけタバコの残り香がする。フェンスに寄りかかり、ぼんやりと日常のことを考える。料理学校を卒業した後のことや、バイトのことや、今日の晩ごはんのことを考える。とりとめもない考えは、浮かんでは消えていく。こんなのは、何も考えていないのと同じだ。私の人生はこんな風に、無意味に過ぎ去っていくんだろう。そんな諦めがある。 ――『サクラちゃん』は違うんだろうな。そんな考えがふと浮かぶ。  店長のお気に入り、お客さんたちにも大人気、同僚の女の子たちからは嫉妬と羨望と敵意を浴びるように向けられている、可愛くて素敵な女の子。私は話す機会なんてほとんどないけれど、彼女のことはなぜか意識してしまっていた。少し背が低くて、声は砂糖菓子のように甘くて、肌は真っ白で、スイーツの話が得意で、喜怒哀楽全ての表情が可愛くて、使う言葉が結構上品で――理想が形になった女の子。それが私の知っている『サクラちゃん』だ。  モテる人にはモテる人なりの苦労があるというし、可愛い子には可愛い子なりの苦労があるだろう。だからこそきっと、彼女の人生は私が経験するそれより何十倍も何千倍も、濃くて意味があるものとなるに違いない。それがただ単純に、うらやましかった。
* * *
 ただぼんやりしていただけなのに、結構な時間が経っていた。焦って外階段を下りていくと、店のキッチンへ通じる裏口扉の前に人影があった。一瞬店長かと背筋が凍ったが、すぐに気付く。その人影は、店長なんかよりずっと小柄だった。それに、店のコスチュームを着ている。メイドさんだ。 「あ」  彼女は小さく声を漏らした。ピンク色の唇の間から、白い煙がほわっと漂う。 「さ……サクラ、さん」  予想もしなかった人物に、そしてその姿に、声がかすれた。  裏口扉をふさぐように立って、慣れた仕草でタバコを吸っている女の子。理想を形にした完璧な女の子であるはずのサクラちゃんが、気だるげに煙を吐き出している。 「あは、見られちゃった」  ちょっとだけばつが悪そうに、サクラちゃんが微笑む。 「サクラさん、たばこ吸うんですね」 「うん。君も吸う?」 「いえ、私は……」  首を振ると、サクラちゃんは「ああ」となぜか納得したような声を漏らした。 「プロの料理人はたばこ吸わないんだっけ? 映画で見たよ。味が分かんなくなっちゃうんでしょ?」 「ですね。私はまだプロじゃないですけど」 「そうなの? 料理、あんなにおいしいのに」 「あ……ありがとうございます」  料理を褒められたことが素直に嬉しくて、胸が高鳴る。彼女はおいしそうにタバコを咥え、ゆっくりと離して白い息を吐きだした。彼女の吐息が形となって空中に余韻を残しているのが、なぜか妙にフェティッシュな感じがした。 「これ、内緒にしてね」  じっくりタバコを味わった後、サクラちゃんが微笑んだ。 「あ……はい。話すようなことでもないですし」  頷くと、サクラちゃんは驚いたように目を瞬かせた。 「ふふ……ありがと。見られたのが君で良かった」  初めて見るアンニュイな笑顔が、あまりにも綺麗だった。世紀に残る芸術品を前にしたかのように、目が離せなくなる。  見とれていると、扉の向こう側がにわかに騒がしくなった。そういえば、私はバイトをサボっている最中だ。 「あの、そろそろ行きます」 「うん。私、匂い消してから行くから。店長に聞かれたら、適当に誤魔化しといてね」 「分かりました」  一歩ずれてくれた彼女の横を通って、裏口からキッチンへ戻る。名残惜しくて振り返った時目に飛び込んできた「完璧な女の子」のシニカルな笑顔は、この世界で一番美しいものとして目に焼き付いた。
//おわり
>写真をお借りしています。
Rick BellaによるPixabayからの画像
0 notes
tearplus · 4 years ago
Text
narrative
Tumblr media
------------------------------------------------------ メイドさんに恋するお嬢様の話 ------------------------------------------------------ ※百合
「今日の紅茶もすごくおいしいわ。あなたが淹れてくれる紅茶はいつも私好みの味ね」 「身に余るお言葉ありがとうございます」  主人から褒められても表情ひとつ動かさず、ロボットのように定型文じみた礼を述べる。そんなメイドの反応を見て、主人はわずかに表情をくもらせたものの何も言わなかった。しばしの沈黙。宝石のように美しいお菓子たちが並ぶ皿を見るともなしに眺めつつ、主人はかすかに嘆息する。物憂げに紅茶をひと口飲み、ちらりとメイドを見る。メイドは主人の視線には無反応だった。気付いてはいるはずだが、そのそぶりは見せない。何か反応を欲している視線であればすぐに反応するはずだ。彼女はとても優秀で、だからこそ主人の一挙一動に対して無駄な反応をすることはないのだった。そんな完璧さを前にして、再び主人は吐息する。 「紅茶の淹れ方を習おうかしら。隣町のリーザ嬢は先月パンケーキを習ったそうよ」 「それは私の仕事です。私が不要になりましたら、いつでも習ってください」 「いじわるを言わないで」  主人は拗ねて、それきり口をつぐんでしまった。メイドはいつになく迷ったように、唇を何度か開きかけたが、結局は元の姿勢に戻った。背筋をピンと伸ばし、主人の邪魔にならないようそっと控えて、命令を待ち続ける姿勢に。彼女の所作はどこか機械じみた隙の無さがあったが、それゆえに気品があった。  主人はティーカップにある琥珀色の鏡面にメイドの姿を映し、ひそかにそれを見つめる。家柄も、財力も、権力も、教養も、全てにおいて恵まれた立場にある主人ですら、メイドのこととなると悩まずにはいられなかった。彼女のメイドは、それほどまでに魅力的だった。
* * *
 彼女がメイドと出会ったのは、十年ほど昔。家庭教師による授業が始まるより少し前のことだった。家柄や自分の立場をきちんと理解するためにも従者が必要である、という父親の教育方針によりそのタイミングで専属の従者が与えられた。それまで身の回りの世話は、屋敷にいるメイドが持ち回りで行っていた。彼女は生まれ持っての天真爛漫さで、たいそう周囲から可愛がられていたため専属の世話役ができるとあって悲しんだ者も少なくなかった。彼女は屋敷で働くすべての人々を愛していたし、屋敷で働くすべての人々も彼女のことを愛していた。  ただ、彼女の専属となったメイドだけは違っていた。  彼女が違和感を抱いたのは半年ほど前の事だった。あるお茶会の最中、一番仲の良い友人であるリーザ嬢から、恋愛相談を持ち掛けられたのだ。 「先日お庭をお散歩していたら、お兄様がご友人と狩りに出かけるところへお会いしたの。そのご友人の乗馬姿はとても凛々しくて、私ひと目で恋に落ちてしまったの。お夕飯もうちで一緒に召し上がられてね。私の知る誰より紳士的で、とても素敵な方だったわ」  リーザ嬢のうっとりした表情に、彼女は少なからず羨望を覚えた。彼女たちはまだ社交界にデビューしておらず、素敵な男性に出会える機会などほとんどない。恋愛の話ができるのは大人の証拠であるかのように見えるのだった。 「あのお方と出会って以来、気分が沈みがちになってしまったの。女から恋心を打ち明けるなんてはしたないことはできないし、お兄様にご友人のことを尋ねたらきっと変に勘繰られてしまうし……なかなかお会いできなくてつらいわ」 「それは大変ね」と彼女はかろうじて言うことができた。リーザ嬢の表情は本当に苦し気だったからだ。 「またあのお方に会うにはどうしたら良いのかしら。ほんの数秒でもいいの。またお会いすることができたら……」  そうしてしばらく、彼女はリーザ嬢が再び恋の相手に会う方法について話し合った。なかなか良い案は出なかったものの、友人は満足したらしく、話題は恋愛そのものの話へと移って行った。 「恋とは楽しいものだって、歌にはあるけれど。それだけではないのね」 「ええ、そうなの。私も知らなかったわ。あのお方のことを考えるだけで、胸がぎゅっと締め付けられるの。どきどきと鼓動が早くなって、全身が熱くなって……すっかりあのお方のことしか考えられなくなって、眠れない夜もあるのよ」  リーザ嬢は、苦しみを語るにはどこか恍惚とした表情をしていた。 「あなたにもそのうち、そういう相手が現れるわ」 「そうかしら」  彼女はそう応じつつ、ある予感を覚えていた。
 部屋を出て、控えていたメイドに帰宅を告げる。メイドはうやうやしく頭を下げ「承知いたしました」と言う。その声を聞いた瞬間、彼女は電流が走ったような感覚を覚えた。彼女がこれまでメイドに対して抱いていた感覚は全て、恋心だったのではないかと気付いた瞬間だった。  彼女は幼い頃から自分の世話をしていたメイドに、恋をしていたのだ。
* * *
 恋心を自覚してからというもの、彼女は大いに悩んだ。自分が持って生まれた地位や立場、期待されうる行動や生き方、それからごく単純に、相手の感情の所在について。 ――私にとっての『あのお方』は、私のことをどう思っているのか?  彼女が頭を悩ませながら屋敷の庭を散歩していると、執事長に出会った。どうやら客人を招く際の動線を確認しているらしく、庭師と真剣な表情で相談をしている。執事長は彼女に気付くと、うやうやしく頭を下げた。 「誰かいらっしゃるの? お父様のお客様?」 「左様でございます。当日はお嬢様が主役ですから、素敵なドレスをご用意しなければなりませんね」 「今持っているドレスで十分よ。それより、どんなお料理が出るのかしら」  無邪気な彼女に、執事長と庭師はどこか寂し気な笑みを浮かべた。 「お嬢様」  メイドが慌てた様子で彼女の側まで来る。執事長に頭を下げ、彼女をその場から連れ去った。 「執事長はお忙しい方ですから、邪魔をしてはいけませんよ」 「そんなつもりはなかったの。ただ……」 「紅茶の淹れ方を聞いていたのですか?」  メイドはどこか切羽詰まった様子でそう尋ねた。彼女はその表情の意味がくみ取れず、首をかしげるばかりだ。まるで悪い行いをたしなめるような口調だった。 「そうだとして、いけないこと? 執事長に聞きなさいと言ったのはあなたよ」 「それは、そうですが……」  普段感情を見せないメイドが、多少なりともうろたえた様子を見せる。彼女はそのことに驚き、不思議と達成感を覚えた。長い間一緒にいる専属のメイドにも関わらず、表情の変化を見た記憶はほとんど無い。彼女は好きな相手の表情の変化を見ることが、こんなにも嬉しいことだとは想像したこともなかった。それがたとえ、狼狽の表情だったとしても。
 その日以来、彼女はメイドの表情を変化させる方法を一生懸命に探った。子供が親の気を引く方法を探る際のような無邪気さはみじんもなかった。その分、彼女は懸命に頭を絞った。  作戦はなかなかうまくいかなかった。体調が悪いふりをした時はさすがに胸が痛み、数時間で計画を取りやめた。危険な遊びをするには彼女自身が臆病過ぎた。ヤキモチを妬かせようにも、メイドが彼女へどれほどの感情を持っているのか計りかねて計画倒れだ。初めての恋ということもあって、彼女はから回ってばかりだった。  とうとう彼女の作戦は「他の使用人たちの仕事を学ぶ」ことに落ち着いた。メイドの表情の変化に気付いたきっかけも執事長との会話によるものだったし、使用人たちの仕事を覚えることでメイドを手伝えるようになるのも都合が良かった。メイドの仕事を手助けすることで、両親や兄姉との違いをアピールすることもできるし、家事を覚えること自体も新鮮で面白かった。そのうえメイドはいつもハラハラとした顔をしたり、眉根を寄せたりと表情の変化をあからさまに見せてきた。どんなに仕事を手伝ってもネガティブな表情しか見せないのは問題だったが、表情の変化を見られるという数少ない機会なので仕方がない。それよりも、メイドの仕事を減らすことでゆったりとした時間を二人で過ごせるだろう、という思惑が外れたことの方が問題だった。 「今日は私が紅茶を淹れるわ」  午後の穏やかなティータイムに、彼女はメイドにそう申し出た。まだ練習中ではあったが、彼女の努力の過程をメイドにも知ってほしかったのだ。しかし、メイドは渋い顔をした。 「そんなに心配しなくてもいいのよ。執事長ほどじゃないけど、だいぶ上手くなったんだから」  メイドの渋い顔を、味への心配だと決めつけて彼女は紅茶を淹れ始めた。茶葉の量からお湯の量に至るまで真剣に、丁寧に、執事長からの教えをたどっていく。彼女の一挙一動を、メイドはなんとも言えない表情で見守っていた。 「ほら、できたわ」  彼女はメイドの分をテーブルの向かい側に置いて、椅子に座った。紅茶は今までで一番良い出来で、琥珀色の水面には濁りがひとつもなかった。 「飲んで感想を聞かせて」  ドキドキしながら彼女は着席を促した。しかしメイドは、彼女のそばから少しも動こうとしない。口をぎゅっと閉じたままうつむいている。 「どうしたの?」  不安になって彼女が問いかけると、メイドの表情は徐々にくしゃりと歪んでいった。そしてついには、目じりから涙がぽろりと落ちる。 「えっ!?」  彼女は焦って、メイドに駆け寄った。涙が幾筋も落ちていく頬をぺたぺたと触る。 「泣くほど嫌だったの? 私の紅茶を飲むのは」 「嫌です……」  ぽつりとメイドが言った。 「そ、そう……」  まさかの返答に、彼女は少なからず怯んだ。「そんなにまずそうだったかしら……」 「おいしそうだから、嫌なんです」  メイドは涙で震える声で、そうつぶやく。 「どうして私の仕事を取ってしまわれるんですか」 「どうしてって……」 「もう、私は必要ありませんか?」  メイドはやっと彼女の顔を見た。涙にぬれた瞳は美しく、宝石のようだった。場合に似合わず、彼女は見惚れてしまった。 「このごろ、使用人たちから色々と身の回りのことを教わっていますよね。調理場にもよく足を運んでいると聞きました」 「そうだけど……それがどうして、あなたが必要ないってことになるの?」 「近頃、私は何もしなくていいとおっしゃることが多いですし……他の使用人とばかり話して、お忙しそうで……」  彼女はメイドが険しい顔ばかりする理由にやっと思い至った。 「私がみんなに色々と教わってたのは、理由があって……。あなたが必要なくなるなんてこと、絶対にないわ」  真剣な表情で、彼女はメイドを見つめた。自分の気持ちを真逆に捉えられたままでは我慢ができなかった。 「でも……」  メイドは不安げに彼女を見た。鼻頭まで赤くして、幼い子どものような泣き顔を無防備に向けられて、彼女は動揺した。メイドは可愛らしかったし、泣き顔も新鮮だったけれど、見たいと願っていた表情ではなかった。 「それでは、なぜ急に他の使用人たちに仕事を教わったりなんて……」 「う……それは……」  彼女は言葉に詰まった。正直に答えることは告白とほとんど同義だったが、今がその適切なタイミングとは思えなかった。 「……あなたの仕事を楽にしたかったの」 「楽に、とは?」 「あなたの仕事が減ったら、私と遊んでくれる時間が増えると思って��…だから……」  彼女がもそもそと答えると、メイドはその言葉の真偽を判断しようとするかのようにじっと見つめた。 「……あなたともっと一緒にいたかったの。だから、私には、あなたの事が必要なのは今もこれからも、ずっと変わらないわ」  彼女のその言葉を聞いて、メイドはやっと表情を和らげた。 「一緒に遊びたかった、なんて……子供みたいなことを言いますね」  メイドは目じりを赤くしたままで、優しく微笑む。彼女はその表情に見とれて、しばらく思考も停止してしまった。ただメイドの美しさに見とれて――自分の恋心を、さらに自覚したのだった。
//おわり
>写真をお借りしています。
Jill WellingtonによるPixabayからの画像
1 note · View note