Tumgik
the-drawing · 9 months
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BUCK-TICKに寄せて ver1.0
1987年にメジャーデビューしたBUCK-TICK(バクチク)というバンドは、35年経った今もなおメンバーチェンジをせず、活動を止めることもなく、常にバンド独自の道を進んでいる。
僕は、彼らを通っていない。
所謂”世代ではない"というやつだ。
それ故に数えきれないほど問われた「何故、今BUCK-TICKなの?」という質問。
「好きだから」で片付けていたその質問に対して、自分自身と向き合って考えた時、明確な答えが欲しくなった。
2023年6月18日、コツコツとここから書いていこうと思う。
まずは、彼らのことを簡単に紹介する。
なるべくファン目線に、ぐいぐいと行かないように気をつけるつもりだ。
そして、初期からのファンという方々や意見が異なるという方々もいらっしゃると思いますが、新規という目線で生ぬるく一個人の考えと捉えてもらいたい。
BUCK-TICKは、以下の5人で構成されている。
ボーカルの櫻井敦司。
ギターの今井寿、星野英彦。
ベースの樋口豊。
ドラムのヤガミ・トール。
樋口とヤガミは実の兄弟であり、櫻井と今井は同級生、後輩に樋口と星野という関係性だ。
細かいことはWikipediaを参照してほしい。逸話やエピソードが多くて面白い。
曲は基本的にメロディメーカーの今井が中心に星野と共に作曲し、作詞は櫻井が行っている。
「ヴィジュアル系」という印象が強くあるかと思うが、アルバムによって表情が大きく異なるためロック、ポップ、エレクトロニック、昭和歌謡など一括りには決してできない。
その証拠にWikipediaのジャンルの欄をぜひ見てほしい。
例えば、彼らを一躍有名にした1990年発売のアルバム『悪の華』はゴシック系のロック、1997年発売『SEXY STREAM LINER』はロックよりもエレクトロニックな打ち込み要素を盛り込んだアルバム作品になり、2000年発売『ONE LIFE,ONE DEATH』はノイズをふんだんに使い破壊と創造を思わせた。
実験的であり、先進的な楽曲が生まれるごとに、前作までの彼らのイメージをさらに更新する。
近年の作品は、平和という重いテーマを背負いつつ言葉とサウンドで物語が転じていく『No.0』、コロナ禍に制作を続けた『ABRACADABRA』ではジャンル幅への挑戦を試み、昭和歌謡を世界観に取り入れるなど更なる音楽領域を手に入れた。
そして、35周年として彼らが作り上げた最新アルバム『異空 -IZORA-』は、これまで積み上げてきた音楽から感情、景色を生々しく閉じ込めた作品だ。
僕が初めて彼らの音楽に触れた時に走った感情。
それは、震災での悲しさや寂しさを音楽で埋めるためのものだったかもしれない。
しかしながら、それをキッカケにしてのめり込み、結果として彼らの楽曲を知れば知るほど過去に嫉妬する僕がいた。
僕が生まれた頃、彼らはもう『スピード』をリリースし、12年周期で開催するライブ『Climax Together』が始まったのだ。
僕の手が届かない歴史があるからこその「憧れ」。
BUCK-TICKに出会うまでの時間が無駄だったとか、他の音楽を否定する訳ではない。
ただただ、リアルタイムで彼らと同じ時間を歩めていたなら、と思いたくなるほど美しく、愛おしいのだ。
その「美しい」には2つの意味がある。
分かりやすくまずはビジュアル面での意味から。
メンバー全員が還暦に近づいている中で(ヤガミは執筆現在でジャスト還暦)、それぞれが歳を思わせないほどの美しさを持ち合わせている。
櫻井は言わずもがな、変わらぬ顔立ちとステージで魅せる表情、指先までもが息を呑むほど曲に陶酔し、曲の世界を表現している。
今井はライブごとの衣装も奇抜だが、時期によって髪型を変える。
デビュー初期は全員で立てていた髪も、時代が経つにつれてオールバックであったり『RAZZLE DAZZLE』の際はサラサラストレートになったり、赤やピンク、緑に飽き足らず『ABRACADABRA』ではアマビエを彷彿とさせる奇抜なカラーを見せたりと、頬に「B-T」を描くくらいにはBUCK-TICKの象徴的存在である。
初期から変わらずクールで寡黙なキャラクターの星野は、ステージ上でレフティの今井に対して対照的な位置にいて、櫻井を中心として左右対称にギタリストが立っているのも1つの美しさだ。
フロントの3人に目を奪われがちになるが樋口に目を向けると、各所で渋さを見つけることができる。
昔は硬派な弟キャラとして口を一文字にして弾いているスタイルではあったが、今では表情豊かに楽しんでいる表情を見てとれる。
そして、フロントだけでなく客席への目配りも欠かせない優しさが彼の美しさだ。
最後に、ヤガミはなんと言ってもドラムスタイルに目を惹かれる。
僕は、ドラムのうまさを評価できるほど耳が肥えてないし、理解もしていない。
しかし、体がブレずミスなく曲を演奏する柱としての存在である彼の凄さは言葉にできなくとも理解しているつもりだ。
メンバーで唯一髪を立てており、最年長でありながらも一番の茶目っ気のある彼無くしてこのバンドは成り立たない。
2つ目の美しさは「曲の美しさ」だ。
BUCK-TICKの存在を知っている人に問いかけるとやはり『悪の華』のダークでアグレッシブなイメージが強いと聞く。
エモーショナルかつ危うさを纏った世界も、もちろん彼らの楽曲だ。
しかし、僕が彼らに興味を持って収集を始めたのは2012年発売『エリーゼのために』そしてアルバム『夢見る宇宙』がリリースされたタイミングだった。
このアルバムは、僕にとってBUCK-TICKのベースとなっている。
バンドサウンドを前面に押し出しながらもホーンセッションによる曲の派手さ、ピンクの照明が浮かぶセクシーさ、耳から聞こえる櫻井の歌声は首を絞めてくるような恐ろしい感覚も覚えさせるが、必ず最後には優しい愛で包んでくれる。
このアルバムが火種となり、僕のBUCK-TICKへの炎が灯された。
1992年から12年後の2004年に開催された『悪魔とフロイトーDevil and Freud-Climax Together』を見てから、死と生が彼らのテーマなのだと気づいた。
「すべての亡骸に花を すべての命に歌を」
胸が痛いほど平和への訴え、愛を強く感じるステージだった。
生も死も表裏一体であり、それらは他国や夢物語、非日常の話ではないということ。
年齢が増すごとにそれを感じているのはメンバー自身だ。
『ABRACADABRA』に収録されている『忘却』という曲について、櫻井がインタビューでこのような趣旨の話をしていた。
「自分が死んだとして、季節は変わらず巡り、周りも忘れていく。でも・・・という寂しさがある。」
近年のインタビューでも年齢や死についてをハッキリと口に出しているのを目にすると、僕がこれまで勝手に抱いていた「憧れ」としての彼らが僕らと同じ人間であることに気づかされる。
おかしな話ではあるが、僕は至って本気だった。
僕が好きなものは永遠だと。
その「永遠」が僕には「美しさ」だった。
数多のロックバンドが音楽シーンを彩ってきた。
ジャンルや用いる楽器、演奏スタイルなど歴史を振り返っていくと、僕にはある疑問が浮かんだ。
「どうして現代では"熱狂的"がないのか」
例えばX JAPANが東京ドームでライブをし、あまりの観客の熱でドームが揺れた!のような話。
過去のBUCK-TICKの映像を見ても、縦ノリで頭を振り乱し、悲鳴にもとれる歓声に僕は興味を示した。
僕が過ごしてきた時間の中でそのような状況は見たことないからだ。
アイドルのコンサートで聞く黄色い声援とはまた違う。
体全体がステージのメンバーを求めるような勢い、音楽に魂ごと身を委ねているような表情。
それこそがまさに、先に記述した僕の手の届かない「憧れ」である。
「熱狂的ファン」を現代の言葉で表すならば「ガチ勢」とでも言うのだろうか。
だとしても、70-90年代のバンドの「熱狂的ファン」と「ガチ勢」をイコールにしてはいけない。
結局のところ代わる言葉など無いのかもしれない。
あくまで個人的な意見。
念のため、今でもBUCK-TICKのライブはそのような熱狂的ファンが集う場所ではないことも理解してほしい。
至って普通のライブであるので、安心して遊びにきてほしい。
「死を想い、生を想え。」
櫻井の口から時々放たれるこの言葉が僕は好きだ。
今この瞬間、そもそもライブに来て「死」を感じることなんて無いはず。
自分が「楽しい」と感じているこの時間は「生きている」と実感できる時間。
その変換を彼らから導き出されると余計に盛り上がってしまう。
非日常を味わいに来ているのに、日常を重ねてしまう。
その重ね方はプラスな時もあるし、マイナスな時もある。
しかし彼らのライブには必ず「救い」や「愛」があるのだ。
戦争と平和が色濃く描かれた『No.0』リリースのホールツアーの締めは『Solaris』だった。
魚や蝶になって、小さな君を見守りたいという気持ちを描いた曲。
スタンディングツアーの締めは『鼓動』という、儚いながらも美しく強く生きているこの世の人々を抱きしめるような曲。
コロナ禍でのライブでは、医療従事者へ自分自身を愛してほしいという気持ちから『LOVE ME』が届けられた。
そして、ニューアルバム『異空』では、様々な生き方の人たちを鼓舞する『名も無きわたし』で終わりを迎える。
愛や優しい温もりに包まれることによって、僕の場合は存在意義を与えられたような感覚になる。
「この世界で生きていても良いんだ」と。
大袈裟なニュアンスなのだけれど、僕は小さい頃から名前があることや自席があることに安心感を抱いた。
名前を呼ばれる、座るべき席がある、その度に嬉しくなる。
そんな気がするだけ。
曲の捉え方は人それぞれではあるが、僕はそうやってBUCK-TICKのライブを楽しんでいる。
チケットがある、僕が座るべき席がある、目の前で5人が鳴らす。
それは、生きている中で僕に与えられた「愛」なのだ、と。
ここまで書き上げた上で、目的の質問に戻ろう。
「どうして、今BUCK-TICKなのか?」
それに対する僕の答えは。
「彼らの曲を通して、生きていることを感じたいから」だろうか。
ようやく伝えたかった言葉が見つかった気がする。
2023年8月29日。
今日もこうして、今この瞬間にも彼らの曲を聞くことができることをとても幸せに思う。
読んでくれてありがとう。
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