Text
ピノ・パラディーノは独語症
思い出した。彼女は台所に立っていた。小さなキッチンと、小さな灯り。サラダ、トマト、サラダ。沈黙のように語る、との名文句もあるが、���女の語りはそうではない。まな板の前、台所に立ったまま。利き腕は右。よく研いだ包丁をトマトに当てがい、それをスライスする。包丁の角度が造形を生み出す。ほとんど彫刻のように。それが彼女の語りだった。ひとつ注意されたい。トマトでなく、包丁でもなく、それらの関係が彫刻になったのだ。台所には縦と横と奥行きとがあり、そのパースはすこし狂っているようにも見える。彼女の腕、包丁、トマト。それらが三次元を構成する。彫刻には三つの要素が必要だ。ふたつでも、ひとつでもなく、みっつ。物理則がいうところの三次元。感情が沸き、過ぎ去り、思い出す。それもまた三次元を成す。三つのこと。彼女の腕と、包丁と、トマト。彼女はいまもその中にいる。その外側にはいない。
忠告しておこう。けっして外側にいてはいけない。あなたはあなたのその語りの内に、心して留まるように。
ひとつ問題がある。語りの中にいるあいだは、それを聞くことができない。もちろん読むことも。これは演奏家のジレンマに近い。あなたが音楽を演奏するなら、あなたは音楽の内にいる。そして演奏しているあいだは、音楽は聞こえない。それを聞くのは、いつでも部外者。他人や、知人や、第三者であって、あなたではない。観客はいつでも部外者であり、演奏家と音楽の関係に入り込むことができない。その代わり彼らは、演奏家と音楽との三者関係を結ぶのだが。これも三次元だ。
冷房の効いたマクドナルドの店内。エッグマフィンと、空調の温度と、店内放送。わたしはそれを彫刻にしてみよう。
ピノ・パラディーノって知ってる?彼はベース・プレイヤーだ。ベースという楽器がなんなのか、詳しいことはよく知らない。彼は太い弦を弾き(はじき)、アタックし、ミュートする。それが何を意味するのか、彼は知っているのだろうか。わたしには見当もつかない。それは魔法のようなものかもしれない。装飾のひとつかもしれない。あるいは説明書の類いだとか。ほんとうのところは誰にもわからない。美術品の価値を計ることはできない。値段をつけるくらいはできるにせよ。芸術に関して、わたしは素朴なロマンチストだ。ピノ・パラディーノの演奏を耳にしたなら、ますますそうならざるをえない。不可能へと遠のいていく音列の並びのなか、彼は見解を主張し、その正当性を訴えかけている。でももしかすると彼は、音楽から逃げ出すためのバックドアを用意しているのかもしれない。音楽はひとつの制度だ。それは自由ではない。彼はあくまでその中にいる。その中にいて、そこでの掟を、それとして尊重している。いくらかの不満は持っているのかもしれないが。そしてたまには夢を見る。制度も掟もない音楽を。しかしそんなものがあったとして、それは音楽だろうか。
わたしはぶつぶつと独り言を吐かないといけない。よく目にしないだろうか。電車や喫茶店の奥の席で、ぶつぶつ独り言をいっている彼や彼女たちを。物分かりのいい言葉ではなく、そんなつぶやきこそが詩になる。わたしはロマンチストだから、そんなふうに考えている。この場に沿わない独り言をぶつぶつと。聞こえないような小さな声でもいい。聞こえたとしても、どうせなにを言っているのか分からないのだ。わたしはここにいて、彼や彼女たちと同じ空間にいるが、しかし別の場所にいる。それが独り言だ。このさきの人生で聞くべきところがあるのは、独り言だけだ。というのも対話が必要だった季節は、もう過ぎてしまった。ドストエフスキーも、カフカも、結局は独り言を書いた。哲学がつまらないのは、それが読者に対する呼びかけだから。どんな哲学もただのおしゃべりみたいなもの。いくつかの例外はあるにせよね。ひとたびなにかを語るなら、それは「いま」と関連せざるを得ない。「いま」この場で語るかぎり、言葉はだんだん教訓のようなものになってしまう。学校の先生みたいな。あなたには目があり、耳がある。だから見たものや聞いたことについて語るしかない。そして見たものや聞いたものについて語るなら、どうやってもそれは説明になってしまうわけだ。言葉は象徴になり、なにかを啓示する。それを逃れるとしたら、方法はひとつしかない。語りを頓挫させるのだ。あなたがその目で見たものを語るとき、あなたはメディアになる。その放送網を混線させればいい。おのずとそれは独り言になるだろう。ひとりのぶつぶつ語りになるだろう。
行きつけのカフェの片隅で、彼女もよくぶつぶついった。よく聞き取れず、聞き取れたとしても、なにを言ってるのかは不明だった。それも彼女の語りであり、それはその場の空気を攪拌した。実際に空気の振動するのが感じられたものだ。独り言をとことん徹底したなら、それはひとつの現実になる。ニューロン・ネットワークを飛び出した言語が、人工知能をいかだ船に、大海を渡っていく。困っちゃうな、このコンテンポラリーな世界。片隅の、ブツブツいうが、独り言。ところで彼女の語りは自由だったろうか。そうかもしれない。そうではないのかもしれない。いずれにせよ彼女が攪拌していた空気を、わたしはいま懐かしく思う。彼女は独り言の特権性を信じていた。
ピノ・パラディーノがベースを弾いているD’angeloの”Chicken Grease”をぜひ一度聞いてみてほしい。彼は演奏の中にいながら、まるでお構いなしの独語症だ。ひとりのぶつぶつ語りのように、それはわたしには聞こえる。
2 notes
·
View notes
Text
居酒屋、否定神学、AI
駅前にテキトーな居酒屋がある。駅の真ん前にドトールがあって(ここはいきつけ)、その横の立地。チェーン店ではない。この立地で何回かお店が変わったはずで、でもこの店になってもう10年以上になるか。カウンターがメインの小さい飲み屋で、テイクアウトも可能だというたこ焼きを、なぜか売りにしている。そういうテキトーな居酒屋。そのテキトーさゆえ、入ったことがなかった。飲み屋をあちこち巡るような生活は結構前に卒業したし、地元の居酒屋とかほとんどいかなくなった。昔は飲み屋をまわってるだけで生活が過ぎていったような気がする。
おとといの夜、その店に入ってみた。外で飲むことになり、いくつか当てにしてた店がどこも満席。金曜の夜だからか。たいてい店の入口で予約の有無を尋ねられ、予約してないと答えると、すみません満席なんですと。そう告げられる。最近はふらっと入れるような飲み屋はないのかな。少なくとも土日はそうらしい。飲み屋は思いつきでふらっと入るのがいいと思うんだけど。なんてな思い���巡らせつつ、万策尽きたので、駅前のテキトーな居酒屋に入ることになった。
店内はJ-POPが流れている。J-POP、とくにアニソンの類いに顕著なシャカシャカいう音質が苦手なんだけど。まあ、世の居酒屋で、そんな文句をいう筋合いもなかろう。生ビールをオーダーして、メニューを眺めて、お。レバーの冷製というのがある。金目鯛の煮つけもある。本日のお造りが、タチウオ、トビウオ、アジ。トビウオにするか。それぞれ頼んでみたところ、どれも素晴らしい。レバーの冷製は鶏のレバーを低温調理したもので、黒コショーとゴマ油が添えてある。金目の煮つけは煮汁が結構煮詰めてあって、穴子とかのツメを若干伸ばしたくらいの感じか。トビウオの刺身は、横にヒレの部分を広げて飾りに添えてある。直感した。これはちゃんとしたところで修行した人の料理だな。まあこの直感こそテキトーなもんだ。しかしこのように手の込んだ料理が出てくるとは。どこぞの小料理屋で出てくるような品が並び、狭い店内にはJ-POPが流れている。調理スタッフの人は、いつか独立しようとか考えてるのかな。あるいは自分でお店をやってたけど、いろいろあってこの店で働いてるとか。そんな無粋な勘ぐりをしながら、鮮度のいいわさびでトビウオをつまむ。
現実には不完全さがあって、思いがけず足止めされる。だからわたしはその場所で別の話を始める。
「否定神学批判」という用語がある。用語というか、そういう考え。東浩紀の著作の影響で、日本の思想界では業界標準みたいになっている。その名のとおり”否定神学”を”批判”するわけだけど、では否定神学とはなにかというと、神学における形式のひとつ。直截にいえば”否定によって神を定義する神学”といえる。否定による神の定義。つまり「神は○○である」ではなく、「神は○○ではない」と定義された神学。例を挙げる。神とは人間の思考を超えており、人間の観念を超えており、人間の倫理を超越した存在であって……つまり人間の尺度では測りえないのが神だと。神学に限らず、この手の形式を持った議論があり、それらを”否定神学”とか”否定神学的”だとする。こうした議論にはひとつ問題がある。そもそもの前提からして、決してそれに反論できない構造になっていること。神が人間の叡智を超えているのなら、人間はその是非を問うことができない。それを批判することもできない。こうした否定神学的な議論のあり方を批判するのが、”否定神学批判”。
否定神学的なものは、イデオロギー的には右にも左にもある。たとえば右派はしばしば、伝統やその深淵な意義を重視する。しかし伝統という神聖で不可侵な聖域を設定した時点で、それは否定神学をなす。そもそもの最初から、批判しようのない対象を設定しているわけだ。一方の左派は、既存の価値や基準を刷新するようなオルタナティヴを称揚することが多い。それらはときに具体性を欠いた概念に留まる。それには明確な理由があって、現状の価値や基準を超えるのがオルタナティヴだとするなら、その定義上、それは現在の価値や基準では測れないものになる。つまり語りえない新たな可能性なわけだ。そもそもかつて左派は革命思想を持っていた。いま”革命”といわれてもリアリティがないとして、しかし”来るべき民衆”とか”マルチチュード”みたいな言葉は残っている。
ところで思う。否定神学が問題含みなのだとして。しかしそれは現に生きられているではないかと。アクセス不可な聖域を設定し、それになんらかの意義を見出すような心情は、ごく一般的なもの��はないだろうか。たとえば死者を弔うのに、その実益を問う人はいない。その儀礼的な営みは空想上の聖域をなし、その場所でひとは死者の魂を思う。そのような営みになんの意義があるのかと半ば疑いつつも、祈りや願いを募らせる。伺い知ることのない神秘、ここではないどこか、これではない何かに、思いを馳せる。それが具体的にどこであり、何であるのかは問わないまま。そうした営みはこれまで生きられてきたし、このさきも生きられていくだろう。
これは理想と現実は異なるとか、理想と現実は乖離するものだとか、そういう話だろうか。
違う論点を挙げてみる。「○○ポルノ」という表現がある。たとえば24時間チャリティ番組を”感動ポルノ”と呼んで揶揄するとか。ここでポルノとの表現は、それが下品な見世物であるとの意味合いをもつ。あの手の番組が、感動をエサにした醜悪な見世物だとする言い方。確かにあの手の番組には醜悪なところがある。自分もそう思う。ポルノという比喩が、話法として間違っていないとも思う。しかしポルノが醜悪で下品なのだとして、現にポルノが存在し、ある役割を担っていることはどう考えたらいいのか。ポルノが下品な見世物であることと、ポルノに一定の意義があることとは、両立してしまっている。
言葉の使用に一定の正当性や意義があり、しかしその正当性や意義が、現実と噛み合わない。言葉と現実とが解消しようのないコンフリクトを起こす。このアンマッチな関係。これをどう考えたらいいのか。言葉も、現実も、どちらもわたしの欲望に適うのなら、つまりは人間の欲望こそが、そうした矛盾を抱えていることになる。人間の欲望の内に、そうした矛盾が原理的に含まれるとするなら、もはやその是非を問うことには意味がない。そしてこの議論こそが、否定神学的だということ。
欲望。日々進化しているAIも、いまのところ人間の欲望を解決してはいない。AIの言語活動ーーここでは数学も音楽も人間特有の記号化のプロセスとして言語活動と呼ぶーーは、人間に様々なシミュレーションやチュートリアルを提供している。いつかAIが人間の欲望を解決するとして、そのときAIが提供するのはシミュレーションやチュートリアルではないはず。少なくとも人間の欲望に適うのは、それではない。そうではなく、そのときAIが提供するのは理不尽な信仰や、実現しそうもない虚言ではないだろうか。その不完全さは、人間を失望させたり、救ったりするだろう。そのときようやく人間は、別の話を始めることができる。
3 notes
·
View notes
Text
夏が好き、なんてひと言いったら最後、夏の可能性は減じていく。ただのひと言、あれよあれよと、みな消えて。秋に募る思いもあったし、冬に損ねた気概もあった。それなのに。夏が好き、ひと言、ひと房、口をあけ。果実、あんぐり、あっけらかんと。やせ細り、下流へ下る、ただの夏。それでもなお、夏が好きだと、あなたはいう。残酷なひとね。
3 notes
·
View notes
Text
灰色氏、愛の資格について語る
ふてぶてしいから、ほんとうは他人のことなんかなんにも考えてないんで��よ。正しさみたいなものは、数理的な道具として使う分には、アドバンテージをとりやすいでしょ。ポイントが稼げるというか。だから言い募ってみるだけで、ほんとはそんなことどうでもいいと思ってる。そうでもなきゃ、ひとを裁いたりしないですよ。ひとを裁くというのは、善や正義を道具立てにしてるわけです。万能ツールみたいにして。どういったらいいのか。泥棒はいけないよと進言するとして、それは普遍をいってるわけです。万人万国に共通な法として。でもひとりの個人が、特定の誰かに対して、普遍を説くというのは、どうなんだろうって思う。いいのか悪いのか、ちょっとよく分からない。社会の公理のようなものを訴えるわけですが、それはまあ統制ですよね。統制は無条件に善とはいえないところがあって。そこは結構引っかかるんです。泥棒がいる。泥棒はいけない。だから断罪すべきだと。物をちょろまかすという誰でも思いつくようなことを、平然と行動にうつす愚か者がいるわけです。人間社会という大いなる自然で、そういうことが起こる。これはちょっと防ぎようがないですよね。防ぐにしても、物理的なセキュリティでやるには限界がある。となるとパノプティコン方式しかない。禁止を各々に内面化させるしかない。倫理や道徳ってそういうふうに機能してるとこがある。圧をかけて、それができないようなマインドにしてしまう。これは諸刃の刃ですよ。日本では落とした財布がわりと戻ってくる。これは大変に素晴らしいことであると同時に、村社会的な掟が非常に強く機能する社会だともいえる。こういう社会では断罪や私刑が大きな役割を果たします。
なんの資格なんかなくても、善は説くことができるんですね。公正さを測るのに、なんの技術も経験もいらない。これがわりと鬼門で。楽器を演奏するとか、料理を拵えるとか、そういうのはある程度の訓練がいるわけでしょ。経験がいる。自分には向いてないからって辞めちゃうひともいるし。それでも二流か三流の技術であっても、それでどうにかやりくりするわけです。現実ってそういうやりくりの連続で。そういうでこぼこみたいなのが、社会だといえる。でも正しさとか善は、そうではないんですね。なんかもっとつるっとしてて。誰が掲げてもいいし、免許も資格もいらない。大げさに言えば、それは近代という理念の恩恵ではあります。リベラル・デモクラシーというか。わたしたちは近代市民だと。この社会がどうあるべきかは、誰が描いたっていいし、描くべきだと。それに水を差したいわけではないんです。でも公理とか普遍とかいうのは、現実にはその場でやりくりするものだと考えた方がいいんじゃないかな。職場とか家庭では、みんなそうしてるわけでしょ。各々の考えに相違があり、利害を調整する。時に衝突したりとか。
資格も技術もないのに、間に合わせでやるというのは、結構重要なミッションだとも思うんです。たとえば愛がそうです。そういう範疇のものとして、愛がある。免許はない。ぶっつけでやる。愛は普遍的なものだといいながら、しかし愛ほど個別なものもないんです。個別な例外事態の集積みたいなもの、その集大成が愛。ひとの生活ってそもそも個別なものですから。人類共通の理念みたいなのは、実はあまり生活に関係がない、生活の前提ではないんですね。生ゴミの収集は火曜日です、そのルールを守りましょうみたいなのは、理念ではない。プラグマティズムというか、その場の利害調整の問題。生活の場でいちいち理念の対決をしていたら大変ですよね。だから理念を掲げるのでなく、目先の利害を調整していく方がいい。普遍の理念でなく、個別の利害調整。普遍と個別とは、じつは相容れないですよ。泥棒はいけないことだという理念と、実際に泥棒の被害にあうのとは、あまり関係がない。泥棒の被害にあったときに、泥棒が不正であるといくら説いても、なんの意味もないわけですね。それは別の水準の話で、嚙み合わない。建前とか礼儀は必要ないといいたいわけじゃなくて。建前や礼儀が大切だというのと、実際に礼儀を欠いた無礼者がいるという現実とは、無関係に両立してしまう。なんか変なこといってますかね。でも理念が生活に無関係だからこそ、誰もが簡単に言い募るんじゃないですか。正義とか、公正さとか。そういうのって現実の面倒な交渉抜きで、放言できてしまう。
愛の話でした。愛はよく分かりません。たとえば絵を描いたことのないひとが、あるとき思い立って絵を描き始める。技術も経験もない。なんの手がかりもない。それでもひとまずやってみる。そういうのに近い。なんの資格もないが、それでも愛してみる。それが愛のアポリアというか、前提です。だからあらかじめ破綻はしている。その破綻は、究極的には人生の醍醐味なのかもしれない。何も持っていないけども相手に与える、それが愛なのだと、ある精神分析家がそう言ったんですけど。正義とか公正さも、そういうものだと考えたほうがいいんじゃないかな。
なんでも相対��しすぎですかね。こういうのは自分の癖で、最終的にはニヒリズムになるしかないのかな。究極的には人生に意味なんかないんだとか。そういう物言いはよくありますよね。よく考えることがあって、高校まで過ごした実家の前に農業高校があったんです。そこで豚が飼育されてて、子供のころそれを眺めて過ごしました。それで思ったんですけど、家畜の豚だってそれなりの幸福を感じてるだろうなって。三度の飼料が与えられて、あたたかい寝床があって、昼寝の時間があって。それで充足して、自分の生活は満たされたものだと感じていたとしても、おかしなことではない。もちろん豚はそこまで考えないでしょうけどね。あくまで思考実験として。そこから翻ってみるに、人間の生活もそれとあんまり変わらないなって。食事がおいしいかったとか、旅行が楽しかったとか。そういうふうに生活が成り立ってる。そうやって充足するわけです。家畜が三度の飼料で満足するのと、本質的にはあまり変わらない。それでそういうのに結構長いあいだ反発してきたんですけどね。人間は豚とは違う、生きるに値する価値を生み出すのが、人間の意義なんだとか。いまもありますね。そういうのを結構シビアに考えてて。お金で手に入る商品とかサービスで満たされるのは、家畜の飼料とあんまり変わらないなとか。別に旅行とか好きですよ。そういうの楽しみますけど、それは自ら価値を生み出すことではないし、本質的には家畜が飼料で満たされるのと変わらないことだと。そういう考えがあるんです。結局ここにも理念が姿をあらわすわけですよ。厄介なことに。(談)
1 note
·
View note
Text
(最近、結構)スピってる
ハーマン・メルヴィルは『白鯨』を書いた。19世紀の後半のこと。広大な大西洋と太平洋の両方を、彼はその書物に納めた。なんということ。それはコーヒーを注ぐようにして書き綴られている。断章形式のこのテキスト群は、いわばテーブルの上に並べられたマグカップだ。順にコーヒーを注ぎ、彼はそれをテーブルに置いていく。マグカップのコーヒーをいくら並べたからといって、それは小説とは呼べない。当然のこと。『白鯨』が小説でないのは、読んだことのあるひとなら誰もが知っている。ではなんなのかと問われたら、メルヴィルが並べたマグカップだとしかいかいいようがない。
19世紀後半というと、メルヴィルはドストエフスキーと同じ時代を生きたことになる。ニーチェもこの時代。アメリカ、ロシア、ドイツ。3人は同時代人で、奇遇なことによく似ている。いや、そうでもないかな。彼らはともに今から100年ほど前には、この世から姿を消している。
先日『白鯨』を読んだ。死んだ作家の���を読むのはいい。本を読むというのは、もう死んでしまった人の言葉を読むことでないかと思えてくる。しっくりくるというか、心の安らぎがある。それは作品の質とはあまり関係がない。もういなくなってしまったひとの言葉。文庫で古典を読んでいると、この世のふくよかさを感じ取ることができる。なぜだろう。例えばソーシャルメディアと呼ばれるものが、スワイプする画面越しにわたしたちに与えるものと、それは正反対のものだ。いまを生きるひとびとの”いまここ”が、ソーシャルメディアには溢れている。次から次へと並んでいき、次から次へと消えていく。わたしのいる”いまここ”と、地続きのどこかで起こっていること。一方でメルヴィルの本は、いまの社会とはあまり関係がない。いまのわたしともほとんど関係がない。それは100年以上前に、見知らぬ街で、外国語によって書かれた。書いた本人はとうの昔に姿を消している。それにもかかわらず『白鯨』は、現在に至るまで出版物として残されてきた。何度も印刷され、幾度も刊行されてきた。それが極東の島国にいるわたしに届く。リビングのテーブルが、コーヒーの注がれたマグカップで占有されていく。
作者のメルヴィルと、読者であるわたしとは、遠く隔たれている。時間的にも、空間的にも。両者には実体としてのつながりはない。しかし長大な時間と空間とを隔てながらも、テキストを介してつながっている。そのつながりは極めて仮想的なものだ。時間的にも、空間的にも、遠く隔てられた者どうしがつながるとしたら、それは仮想でしかありえない。つまり文庫本は仮想のネットワークでもある。
死んだ人の言葉を受け取るのは、カテゴリーとしてはスピリチュアルに分類していい。自分でも驚いてしまうのだけど、最近はスピリチュアルなものが必要だと感じるようになった。年をとったということだろうか。いやなもんだ。あるいは本でなくともいい。なんの記録もなくとも、もうここにはいないひととつながりを持てるとしたら。それを信じられるとしたら。そのつながりは仮想のネットワークを成す。異なる水準の仮想ネットワークが幾重にもレイヤーされたのが、この現実だ。現実がそもそもスピリチュアルであり、それはこの世がいかにふくよかなものであるかの証左でもある。最近、結構スピってる。
別の観点を示してみる。死は経験することができない。経験とは反芻可能なものだから、死んだら終わりである以上、死は経験ではない。そして死は回避することもできない。経験ではないが、回避することもできない。この二律背反を、人類は長きに渡り解決できないでいる。あるいは解決すべきでないのかもしれない。いずれにせよ経験することも回避することもできないとしたら、それは実体ではない。つまり仮想だ。死は仮想なのか。わたしという実体に、避け難く仮想がともなっているかぎり、精神は実体以上のものを必要とする。やれ非科学的だ、擬似科学だと嗤おうとも、ひとはスピリチュアルを手放すことができない。現にわたしはマグカップを手に取り、今日もそれを飲んでいる。
2 notes
·
View notes
Text
令和の米騒動について
昨日珍しくテレビをつけたら、小泉進次郎が記者にコメントしていた。「民間の努力のおかげで、備蓄米を速やかに販売できるようになった」との意。それ聞いて、へえ、と思った。この「へえ」について書いてみる。
米が高いのは政治のせいだといわれる。政府は高騰の理由が分かっているのに、それを隠蔽しているとも。公平を期して自分の見解を述べておくと、政府(農林水産省)は今回の米の高騰について、その原因を把握できてないように思える。そもそも騒動の当初は、流通が正常に戻れば米の価格もすぐに戻るといっていたわけで。自分の見解は素朴に過ぎるだろうか?無論のこと、これが政府の無策であることには相違ない。
物の価格が上がる理由は3つある。
1. 需要過多(米の消費量が増える) 2. 供給不足(米の流通量が減る) 3. 1,2の両方
農水省はこれらがどこで発生しているのか把握できてないのでは。気候変動による不作だとか(供給不足)、昨今アジア諸国でも日本の米が消費されるようになったとか(需要過多)、それに伴い民間による国外向けの直接買い付けが増えたとか(日本国内の供給不足)。いろんなことが推測できるけども、それらを確認する手段がないか、あるいはあっても機能していないか。そういう状況に見える。あくまで「そう見える」であって、エビデンスのある検証結果ではないけども。いずれにせよ農水省は情報のアナウンスも、講じる対策も、うまく対応できているとは言い難い。それは批判されるべきもの。
以上の前提のうえで、それとは別に自分の関心を引いたことがある。それは多くの人が米の価格を政府が統制すべきだとしている点。政府が国民の食や安全を担保するに努めるのは当然として、米の生産〜流通〜小売りという一連の流れを、政府がちゃんと統制するべきだとの論調が多い。言葉通りに受け取るなら、それは国による計画経済を意味する。そして国による計画経済がうまくいかないのは、かつて歴史が証明している(社会主義や共産主義のことですが)。一応断っておくと、自分はスラヴォイ・ジジェクや斎藤幸平の読者で、共産主義の理念のすべてが直ちに間違いだとは考えません。ソビエトの共産主義はたしかに失敗だった。しかしジジェクや斎藤がいう「コモン」のアイデアはすごくいいと思う。それは水や資源などをコモン=公共財とし、自治していくとの考えで、共産主義(=コミュニズム)の考えを一部応用したもの。しかしそうした自分の立場から見ても、いま湧き上がっている声、あたかも完全な計画経済を望むかのような声には違和感がある。
ここで思い出すのは、かつての「平成の米騒動」(そんな騒動があったのです)。凶作による米不足が発生し、緊急輸入されたタイ米がスーパーに並んだりして、当時は結構な騒ぎになった。そんな騒動の渦中、ひとりの人物が注目を集める。米農家である彼は、自分が収穫した米を、国や農協を通すことなく路上で直接売り出した。自ら販売するその米を「ヤミ米」と称し、国や農協を通さないヤミ米を販売する自分を告発せよとの挑発とともに。というのも、当時は国や農協を通さないで米を販売するのは異例だった。彼の主張は一貫しており、国や農協による画一的な農政が農家を苦しめている、自分はそれに反旗を翻したのだと。そもそも当時は、農協による画一的な農政がよく問題視されていた。
ちなみに現在、農協を通さず米や野菜を販売するのは普通のこと。そういう農家は普通にあるし、民間の販路も多いと聞く。各地に「道の駅」のような販路も増えた。農家が農協によって苦しめられるとの構図がなくなったかどうかは分からないが、少なくともかつてのような質や規模ではなくなっている。
そこへきて今回の米騒動。政府は無策を批判されている。米の高騰が問題なのは当然として、しかし人の世は因果なものだなと思う。現状で国が農業を管理するといっても、できるのは生産〜流通〜小売りに関する法規制の整備や緩和ぐらいだろうか。小泉進次郎がいうように、今回備蓄米が速やかに流通したのは、あくまで民間企業の方策。備蓄米を管理するのは政府だし、その放出を決めたのも政府だけど。
今回の件でとくに思うのは、国と民間、つまり国家と資本主義という統治のダブルスタンダードのこと。国家は資本主義を完全にはコントロールできないし、一方、資本の論理ですべてOKともいえない。となると「そのバランスが肝要だ」とのありきたりな答えになるわけだけども、二枚舌ゆえに構造が見えにくく、知らないうちに飼いならされてしまうこともあるだろうなあと。今回の米騒動もそのひとつなのかもしれない。
と、ここまでのひととおりの巡り合わせが、冒頭の「へえ」の正体。とくに調べずフリーハンドで書いたので事実誤認があるかもしれない。あったらすいません。
2 notes
·
View notes
Text
トラウマと不能
変わり身が遅い。判断に時間がかかる。たとえば大海原で災いが起き、雨やあられやそこかしこ、はてどうしたものかと思案するうち、ランプが点滅し始める。警告レ��ルは4から5へと上がった。そうなってはじめて水平線を見渡し、一番近い岸辺を見定め、そこへ向けて漕ぎ出す。えっさほっさ、息も絶え絶え。岸辺に着いたころには、すでに嵐は去ったあと。おや、太陽が燦燦と照っているではないか。おれはいったいなにをやっているのか。そんなこんなで1年か2年が過ぎ、やがて10年が過ぎ、そうなってやっと、あの時の嵐は酷かった、などと言い募る。おれは決断を重要視している。ここでいう決断とは、漬物石の3年の重しのようなもの。はっきり分かったことがひとつ。重さによっては、人生を積み上げることなどできない。積み上げるべきは軽さなのだ。存在の耐えられない軽さ。存在という名の大海原で、石はただ沈んでいく。それでおれは手柄を失い、一握の砂はこぼれ落ち、やがて手のひらさえ失う。なんたることか。と、ここで誰かが言う。好きなようにやればいいじゃない。さっき聞こえてきた声。好きなように、か。好きなようにやる。やりたいように、好きなように、やればいいか。などと考えてるうち、またぞろランプが点滅しはじめて……。
『セックスと嘘とビデオテープ』を見た(知ってる?)。この映画を見るのは二度目。はじめて見たのは20年以上前だろうか。ともかくずっと若かったころで、映画の主題についてはなにも理解できなかったと思う。再見したいま、「セックス」と「嘘」と「ビデオテープ」がそれぞれなんなのかは分かった。しかしもっとも感じ入ったポイントは、そうした主題とは関係がない。それはジェームズ・スペイダー扮する主人公の変わり身の速さ。軽さ。映画のレビューをするつもりはないのでかいつまんでいうと、彼は性的なトラウマを抱えており、それにより不能を来している。そこで彼はビデオテープを使って自らの欲望を営む。こう書いてしまうと変態映画みたいだけど、そうではない。少なくとも外観上は。不思議と彼にはいじましさのようなものがなく、妙な言い方になるが、ごく素直に、屈託なく、屈折している。それには心打たれるものがあった。彼は別様な生=性を生産するが、それは大いなる決断によってではない。そうではなく、当座の形式からひとまず逃げ出すことで、それを成している。ビデオテープを欲望機械として、彼は自らの世界を構築する。トラウマと不能を抱えた彼は、ここでは易々とその波を乗りこなすサーファーだ。その軽さが痛快ですらあった。言葉のレトリックでなく、彼は”たんに”生きており、”たんに”欲望する。
潰れたものが、潰れたままで形をなす。可塑性。粘土は潰されて造形をなす。潰れて(も)いい。あそこのラーメン屋が潰れて、またラーメン屋ができる。それがまた潰れて、別の店になる。別の形式が放たれる。彼は不能とトラウマを、そのような機微として扱う。そんな立ち振る舞いにいたく感動していたので、映画の結末はあまり気に入らなかった。彼は「ビデオテープの虚構」から「いまにも雨が降りそうな現実」へと移行する。虚構から現実への回帰。大団円、再生の物語というわけだ。おそらくそれは美談ではあろう。雨が降りそうな空模様があり、腕と腕とが振れ合う相手のいる”現実”。しかしひとがいつでも現実に直面するとして、では彼/彼女のイマジネーションもまた現実の糧でなければならないのか。だとするなら、それはあまりに貧しい。貧しいのにやぶさかではないが、なんというか、目の前にあるフォーチュンクッキーを小麦粉のカロリーと、書かれた予言とに分解するようなつまらなさが、そこにはある。
イマジネーション。抽象的なもの。それは息苦しい現実のガス抜きなのかしらん。愛を語ることで、パレスチナの現実をガス抜きするような?
わたしたちは言語を患っている。言語はメディア、つまり虚構だ。「言葉と���他者の言葉である」とのよく知られた警句は、言語こそが他者なのだと警告している。その意味では、言葉を使って生産するのも、ビデオテープを使って享楽するのも、それほど違いはない。言葉も、ビデオも、等しくメディア=媒介に過ぎない。そしてその媒介がわたしたちを疎外する。媒介がないかぎり、ひとはそのもの自体にはアクセスできないのだから。
息を整え、深呼吸して、考えてみる。メディア=媒介の支配を突破するのは、身体だけだ。朝の散歩。他人との接触。胸のざわめき。それは経験であって、媒介ではない。身体とは剝き出しの経験であり、だからそれは暴力の源泉でもある。現在あらゆる身体的な接触がハラスメント化するのは、身体の持つ根源的な暴力に対するナイーブな応答なのかもしれない。21世紀的な兆候。それでも情報ネットワークが世の中を覆いつくす一方で、ひとはますます媒介なしの現実を求めているとも感じる。ことによると、わたしたちは軽々しい変わり身を促されているのかもしれない。
2 notes
·
View notes