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灰色氏、愛の資格について語る
ふてぶてしいから、ほんとうは他人のことなんかなんにも考えてないんですよ。正しさみたいなものは、数理的な道具として使う分には、アドバンテージをとりやすいでしょ。ポイントが稼げるというか。だから言い募ってみるだけで、ほんとはそんなことどうでもいいと思ってる。そうでもなきゃ、ひとを裁いたりしないですよ。ひとを裁くというのは、善や正義を道具立てにしてるわけです。万能ツールみたいにして。どういったらいいのか。泥棒はいけないよと進言するとして、それは普遍をいってるわけです。万人万国に共通な法として。でもひとりの個人が、特定の誰かに対して、普遍を説くというのは、どうなんだろうって思う。いいのか悪いのか、ちょっとよく分からない。社会の公理のようなものを訴えるわけですが、それはまあ統制ですよね。統制は無条件に善とはいえないところがあって。そこは結構引っかかるんです。泥棒がいる。泥棒はいけない。だから断罪すべきだと。物をちょろまかすという誰でも思いつくようなことを、平然と行動にうつす愚か者がいるわけです。人間社会という大いなる自然で、そういうことが起こる。これはちょっと防ぎようがないですよね。防ぐにしても、物理的なセキュリティでやるには限界がある。となるとパノプティコン方式しかない。禁止を各々に内面化させるしかない。倫理や道徳ってそういうふうに機能してるとこがある。圧をかけて、それができないようなマインドにしてしまう。これは諸刃の刃ですよ。日本では落とした財布がわりと戻ってくる。これは大変に素晴らしいことであると同時に、村社会的な掟が非常に強く機能する社会だともいえる。こういう社会では断罪や私刑が大きな役割を果たします。
なんの資格なんかなくても、善は説くことができるんですね。公正さを測るのに、なんの技術も経験もいらない。これがわりと鬼門で。楽器を演奏するとか、料理を拵えるとか、そういうのはある程度の訓練がいるわけでしょ。経験がいる。自分には向いてないからって辞めちゃうひともいるし。それでも二流か三流の技術であっても、それでどうにかやりくりするわけです。現実ってそういうやりくりの連続で。そういうでこぼこみたいなのが、社会だといえる。でも正しさとか善は、そうではないんですね。なんかもっとつるっとしてて。誰が掲げてもいいし、免許も資格もいらない。大げさに言えば、それは近代という理念の恩恵ではあります。リベラル・デモクラシーというか。わたしたちは近代市民だと。この社会がどうあるべきかは、誰が描いたっていいし、描くべきだと。それに水を差したいわけではないんです。でも公理とか普遍とかいうのは、現実にはその場でやりくりするものだと考えた方がいいんじゃないかな。職場とか家庭では、みんなそうしてるわけでしょ。各々の考えに相違があり、利害を調整する。時に衝突したりとか。
資格も技術もないのに、間に合わせでやるというのは、結構重要なミッションだとも思うんです。たとえば愛がそうです。そういう範疇のものとして、愛がある。免許はない。ぶっつけでやる。愛は普遍的なものだといいながら、しかし愛ほど個別なものもないんです。個別な例外事態の集積みたいなもの、その集大成が愛。ひとの生活ってそもそも個別なものですから。人類共通の理念みたいなのは、実はあまり生活に関係がない、生活の前提ではないんですね。生ゴミの収集は火曜日です、そのルールを守りましょうみたいなのは、理念ではない。プラグマティズムというか、その場の利害調整の問題。生活の場でいちいち理念の対決をしていたら大変ですよね。だから理念を掲げるのでなく、目先の利害を調整していく方がいい。普遍の理念でなく、個別の利害調整。普遍と個別とは、じつは相容れないですよ。泥棒はいけないことだという理念と、実際に泥棒の被害にあうのとは、あまり関係がない。泥棒の被害にあったときに、泥棒が不正であるといくら説いても、なんの意味もないわけですね。それは別の水準の話で、嚙み合わない。建前とか礼儀は必要ないといいたいわけじゃなくて。建前や礼儀が大切だというのと、実際に礼儀を欠いた無礼者がいるという現実とは、無関係に両立してしまう。なんか変なこといってますかね。でも理念が生活に無関係だからこそ、誰もが簡単に言い募るんじゃないですか。正義とか、公正さとか。そういうのって現実の面倒な交渉抜きで、放言できてしまう。
愛の話でした。愛はよく分かりません。たとえば絵を描いたことのないひとが、あるとき思い立って絵を描き始める。技術も経験もない。なんの手がかりもない。それでもひとまずやってみる。そういうのに近い。なんの資格もないが、それでも愛してみる。それが愛のアポリアというか、前提です。だからあらかじめ破綻はしている。その破綻は、究極的には人生の醍醐味なのかもしれない。何も持っていないけども相手に与える、それが愛なのだと、ある精神分析家がそう言ったんですけど。正義とか公正さも、そういうものだと考えたほうがいいんじゃないかな。
なんでも相対化しすぎですかね。こういうのは自分の癖で、最終的にはニヒリズムになるしかないのかな。究極的には人生に意味なんかないんだとか。そういう物言いはよくありますよね。よく考えることがあって、高校まで過ごした実家の前に農業高校があったんです。そこで豚が飼育されてて、子供のころそれを眺めて過ごしました。それで家畜の豚だってそれなりの幸福を感じてるだろうなって。三度の飼料が与えられて、あたたかい寝床があって、昼寝の時間があって。それで充足して、自分の生活は満たされたものだと感じていたとしても、おかしなことではない。もちろん豚はそこまで考えないでしょうけどね。あくまで思考実験として。そこから翻ってみるに、人間の生活もそれとあんまり変わらないなって。食事がおいしいかったとか、旅行が楽しかったとか。そういうふうに生活が成り立ってる。そうやって充足するわけです。家畜が三度の飼料で満足するのと、本質的にはあまり変わらない。それでそういうのに結構長いあいだ反発してきたんですけどね。人間は豚とは違う、生きるに値する価値を生み出すのが、人間の意義なんだとか。いまもありますね。そういうのを結構シビアに考えてて。お金で手に入る商品とかサービスで満たされるのは、家畜の飼料とあんまり変わらないなとか。別に旅行とか好きですよ。そういうの楽しみますけど、それは自ら価値を生み出すことではないし、本質的には家畜が飼料で満たされるのと変わらないことだと。そういう考えがあるんです。結局ここにも理念が姿をあらわすわけですよ。厄介なことに。(談)
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(最近、結構)スピってる
ハーマン・メルヴィルは『白鯨』を書いた。19世紀の後半のこと。広大な大西洋と太平洋の両方を、彼はその書物に納めた。なんということ。それはコーヒーを注ぐようにして書き綴られている。断章形式のこのテキスト群は、いわばテーブルの上に並べられたマグカップだ。順にコーヒーを注ぎ、彼はそれをテーブルに置いていく。マグカップのコーヒーをいくら並べたからといって、それは小説とは呼べない。当然のこと。『白鯨』が小説でないのは、読んだことのあるひとなら誰もが知っている。ではなんなのかと問われたら、メルヴィルが並べたマグカップだとしかいかいいようがない。
19世紀後半というと、メルヴィルはドストエフスキーと同じ時代を生きたことになる。ニーチェもこの時代。アメリカ、ロシア、ドイツ。3人は同時代人で、奇遇なことによく似ている。いや、そうでもないかな。彼らはともに今から100年ほど前には、この世から姿を消している。
先日『白鯨』を読んだ。死んだ作家の本を読むのはいい。本を読むというのは、もう死んでしまった人の言葉を読むことでないかと思えてくる。しっくりくるというか、心の安らぎがある。それは作品の質とはあまり関係がない。もういなくなってしまったひとの言葉。文庫で古典を読んでいると、この世のふくよかさを感じ取ることができる。なぜだろう。例えばソーシャルメディアと呼ばれるものが、スワイプする画面越しにわたしたちに与えるものと、それは正反対のものだ。いまを生きるひとびとの”いまここ”が、ソーシャルメディアには溢れている。次から次へと並んでいき、次から次へと消えていく。わたしのいる”いまここ”と、地続きのどこかで起こっていること。一方でメルヴィルの本は、いまの社会とはあまり関係がない。いまのわたしともほとんど関係がない。それは100年以上前に、見知らぬ街で、外国語によって書かれた。書いた本人はとうの昔に姿を消している。それにもかかわらず『白鯨』は、現在に至るまで出版物として残されてきた。何度も印刷され、幾度も刊行されてきた。それが極東の島国にいるわたしに届く。リビングのテーブルが、コーヒーの注がれたマグカップで占有されていく。
作者のメルヴィルと、読者であるわたしとは、遠く隔たれている。時間的にも、空間的にも。両者には実体としてのつながりはない。しかし長大な時間と空間とを隔てながらも、テキストを介してつながっている。そのつながりは極めて仮想的なものだ。時間的にも、空間的にも、遠く隔てられた者どうしがつながるとしたら、それは仮想でしかありえない。つまり文庫本は仮想のネットワークでもある。
死んだ人の言葉を受け取るのは、カテゴリーとしてはスピリチュアルに分類していい。自分でも驚いてしまうのだけど、最近はスピリチュアルなものが必要だと感じるようになった。年をとったということだろうか。いやなもんだ。あるいは本でなくともいい。なんの記録もなくとも、もうここにはいないひととつながりを持てるとしたら。それを信じられるとしたら。そのつながりは仮想のネットワークを成す。異なる水準の仮想ネットワークが幾重にもレイヤーされたのが、この現実だ。現実がそもそもスピリチュアルであり、それはこの世がいかにふくよかなものであるかの証左でもある。最近、結構スピってる。
別の観点を示してみる。死は経験することができない。経験とは反芻可能なものだから、死んだら終わりである以上、死は経験ではない。そして死は回避することもできない。経験ではないが、回避することもできない。この二律背反を、人類は長きに渡り解決できないでいる。あるいは解決すべきでないのかもしれない。いずれにせよ経験することも回避することもできないとしたら、それは実体ではない。つまり仮想だ。死は仮想なのか。わたしという実体に、避け難く仮想がともなっているかぎり、精神は実体以上のものを必要とする。やれ非科学的だ、擬似科学だと嗤おうとも、ひとはスピリチュアルを手放すことができない。現にわたしはマグカップを手に取り、今日もそれを飲んでいる。
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令和の米騒動について
昨日珍しくテレビをつけたら、小泉進次郎が記者にコメントしていた。「民間の努力のおかげで、備蓄米を速やかに販売できるようになった」との意。それ聞いて、へえ、と思った。この「へえ」について書いてみる。
米が高いのは政治のせいだといわれる。政府は高騰の理由が分かっているのに、それを隠蔽しているとも。公平を期して自分の見解を述べておくと、政府(農林水産省)は今回の米の高騰について、その原因を把握できてないように思える。そもそも騒動の当初は、流通が正常に戻れば米の価格もすぐに戻るといっていたわけで。自分の見解は素朴に過ぎるだろうか?無論のこと、これが政府の無策であることには相違ない。
物の価格が上がる理由は3つある。
1. 需要過多(米の消費量が増える) 2. 供給不足(米の流通量が減る) 3. 1,2の両方
農水省はこれらがどこで発生しているのか把握できてないのでは。気候変動による不作だとか(供給不足)、昨今アジア諸国でも日本の米が消費されるようになったとか(需要過多)、それに伴い民間による国外向けの直接買い付けが増えたとか(日本国内の供給不足)。いろんなことが推測できるけども、それらを確認する手段がないか、あるいはあっても機能していないか。そういう状況に見える。あくまで「そう見える」であって、エビデンスのある検証結果ではないけども。いずれにせよ農水省は情報のアナウンスも、講じる対策も、うまく対応できているとは言い難い。それは批判されるべきもの。
以上の前提のうえで、それとは別に自分の関心を引いたことがある。それは多くの人が米の価格を政府が統制すべきだとしている点。政府が国民の食や安全を担保するに努めるのは当然として、米の生産〜流通〜小売りという一連の流れを、政府がちゃんと統制するべきだとの論調が多い。言葉通りに受け取るなら、それは国による計画経済を意味する。そして国による計画経済がうまくいかないのは、かつて歴史が証明している(社会主義や共産主義のことですが)。一応断っておくと、自分はスラヴォイ・ジジェクや斎藤幸平の読者で、共���主義の理念のすべてが直ちに間違いだとは考えません。ソビエトの共産主義はたしかに失敗だった。しかしジジェクや斎藤がいう「コモン」のアイデアはすごくいいと思う。それは水や資源などをコモン=公共財とし、自治していくとの考えで、共産主義(=コミュニズム)の考えを一部応用したもの。しかしそうした自分の立場から見ても、いま湧き上がっている声、あたかも完全な計画経済を望むかのような声には違和感がある。
ここで思い出すのは、かつての「平成の米騒動」(そんな騒動があったのです)。凶作による米不足が発生し、緊急輸入されたタイ米がスーパーに並んだりして、当時は結構な騒ぎになった。そんな騒動の渦中、ひとりの人物が注目を集める。米農家である彼は、自分が収穫した米を、国や農協を通すことなく路上で直接売り出した。自ら販売するその米を「ヤミ米」と称し、国や農協を通さないヤミ米を販売する自分を告発せよとの挑発とともに。というのも、当時は国や農協を通さないで米を販売するのは異例だった。彼の主張は一貫しており、国や農協による画一的な農政が農家を苦しめている、自分はそれに反旗を翻したのだと。そもそも当時は、農協による画一的な農政がよく問題視されていた。
ちなみに現在、農協を通さず米や野菜を販売するのは普通のこと。そういう農家は普通にあるし、民間の販路��多いと聞く。各地に「道の駅」のような販路も増えた。農家が農協によって苦しめられるとの構図がなくなったかどうかは分からないが、少なくともかつてのような質や規模ではなくなっている。
そこへきて今回の米騒動。政府は無策を批判されている。米の高騰が問題なのは当然として、しかし人の世は因果なものだなと思う。現状で国が農業を管理するといっても、できるのは生産〜流通〜小売りに関する法規制の整備や緩和ぐらいだろうか。小泉進次郎がいうように、今回備蓄米が速やかに流通したのは、あくまで民間企業の方策。備蓄米を管理するのは政府だし、その放出を決めたのも政府だけど。
今回の件でとくに思うのは、国と民間、つまり国家と資本主義という統治のダブルスタンダードのこと。国家は資本主義を完全にはコントロールできないし、一方、資本の論理ですべてOKともいえない。となると「そのバランスが肝要だ」とのありきたりな答えになるわけだけども、二枚舌ゆえに構造が見えにくく、知らないうちに飼いならされてしまうこともあるだろうなあと。今回の米騒動もそのひとつなのかもしれない。
と、ここまでのひととおりの巡り合わせが、冒頭の「へえ」の正体。とくに調べずフリーハンドで書いたので事実誤認があるかもしれない。あったらすいません。
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トラウマと不能
変わり身が遅い。判断に時間がかかる。たとえば大海原で災いが起き、雨やあられやそこかしこ、はてどうしたものかと思案するうち、ランプが点滅し始める。警告レベルは4から5へと上がった。そうなってはじめて水平線を見渡し、一番近い岸辺を見定め、そこへ向けて漕ぎ出す。えっさほっさ、息も絶え絶え。岸辺に着いたころには、すでに嵐は去ったあと。おや、太陽が燦燦と照っているではないか。おれはいったいなにをやっているのか。そんなこんなで1年か2年が過ぎ、やがて10年が過ぎ、そうなってやっと、あの時の嵐は酷かった、などと言い募る。おれは決断を重要視している。ここでいう決断とは、漬物石の3年の重しのようなもの。はっきり分かったことがひとつ。重さによっては、人生を積み上げることなどできない。積み上げるべきは軽さなのだ。存在の耐えられない軽さ。存在という名の大海原で、石はただ沈んでいく。それでおれは手柄を失い、一握の砂はこぼれ落ち、やがて手のひらさえ失う。なんたることか。と、ここで誰かが言う。好きなようにやればいいじゃない。さっき聞こえてきた声。好きなように、か。好きなようにやる。やりたいように、好きなように、やればいいか。などと考えてるうち、またぞろランプが点滅しはじめて……。
『セックスと嘘とビデオテープ』を見た(知ってる?)。この映画を見るのは二度目。はじめて見たのは20年以上前だろうか。ともかくずっと若かったころで、映画の主題についてはなにも理解できなかったと思う。再見したいま、「セックス」と「嘘」と「ビデオテープ」がそれぞれなんなのかは分かった。しかしもっとも感じ入ったポイントは、そうした主題とは関係がない。それはジェームズ・スペイダー扮する主人公の変わり身の速さ。軽さ。映画のレビューをするつもりはないのでかいつまんでいうと、彼は性的なトラウマを抱えており、それにより不能を来している。そこで彼はビデオテープを使って自らの欲望を営む。こう書いてしまうと変態映画みたいだけど、そうではない。少なくとも外観上は。不思議と彼にはいじましさのようなものがなく、妙な言い方になるが、ごく素直に、屈託なく、屈折している。それには心打たれるものがあった。彼は別様な生=性を生産するが、それは大いなる決断によってではない。そうではなく、当座の形式からひとまず逃げ出すことで、それを成している。ビデオテープを欲望機械として、彼は自らの世界を構築する。トラウマと不能を抱えた彼は、ここでは易々とその波を乗りこなすサーファーだ。その軽さが痛快ですらあった。言葉のレトリックでなく、彼は”たんに”生きており、”たんに”欲望する。
潰れたものが、潰れたままで形をなす。可塑性。粘土は潰されて造形をなす。潰れて(も)いい。あそこのラーメン屋が潰れて、またラーメン屋ができる。それがまた潰れて、別の店になる。別の形式が放たれる。彼は不能とトラウマを、そのような機微として扱う。そんな立ち振る舞いにいたく感動していたので、映画の結末はあまり気に入らなかった。彼は「ビデオテープの虚構」から「いまにも雨が降りそうな現実」へと移行する。虚構から現実への回帰。大団円、再生の物語というわけだ。おそらくそれは美談ではあろう。雨が降りそうな空模様があり、腕と腕とが振れ合う相手のいる”現実”。しかしひとがいつでも現実に直面するとして、では彼/彼女のイマジネーションもまた現実の糧でなければならないのか。だとするなら、それはあまりに貧しい。貧しいのにやぶさかではないが、なんというか、目の前にあるフォーチュンクッキーを小麦粉のカロリーと、書かれた予言とに分解するようなつまらなさが、そこにはある。
イマジネーション。抽象的なもの。それは息苦しい現実のガス抜きなのかしらん。愛を語ることで、パレスチナの現実をガス抜きするような?
わたしたちは言語を患っている。言語はメディア、つまり虚構だ。「言葉とは他者の言葉である」とのよく知られた警句は、言語こそが他者なのだと警告している。その意味では、言葉を使って生産するのも、ビデオテープを使って享楽するのも、それほど違いはない。言葉も、ビデオも、等しくメディア=媒介に過ぎない。そしてその媒介がわたしたちを疎外する。媒介がないかぎり、ひとはそのもの自体にはアクセスできないのだから。
息を整え、深呼吸して、考えてみる。メディア=媒介の支配を突破するのは、身体だけだ。朝の散歩。他人との接触。胸のざわめき。それは経験であって、媒介ではない。身体とは剝き出しの経験であり、だからそれは暴力の源泉でもある。現在あらゆる身体的な接触がハラスメント化するのは、身体の持つ根源的な暴力に対するナイーブな応答なのかもしれない。21世紀的な兆候。それでも情報ネットワークが世の中を覆いつくす一方で、ひとはますます媒介なしの現実を求めているとも感じる。ことによると、わたしたちは軽々しい変わり身を促されているのかもしれない。
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芝生の感触
車を借りて高速を走らせて、公園に行ってきた。だだっ広い公園。ひたち海浜公園というのだそうな。ネモフィラという花の咲き誇る丘が園内にあって、それが有名なのだけど、自分は芝生のうえでごろごろして過ごした。4月の晴天で、空は広く、一面の芝が視界の彼方まで広がる。脱いだカーディガンを畳んで枕にし、ごろり寝っ転がる。風が涼しい。生きた心地がする。本があったら一日こうしていられるな。イヤホンがあったらなおいい。音楽を聞きながら草木の造形を眺めるのが好きなんだけど、このように広い空を眺めながら聞くのもいいだろうな。
都内から茨城にある公園に行くにあたり、外環道で結構な渋滞があった。自分はたまにカーシェアを利用する程度のドライバーで、普段はほぼ運転しないため、道路状況に関する土地勘のようなものがない。そんな自分ゆえか、巻き込まれた渋滞を他人事のように眺める。料金を支払って利用する高速道路がこのように渋滞するのだから、こりゃ大変なことだな。渋滞を解消するための道路計画のようなものを、AIを使って作れないものだろうか。たしか中国だったと思うけども、街を流すタクシーの走行経路をAIのシミュレーションによって決めさせたところ、集客率が格段に上がったというニュースを目にしたことがある。それと同じ要領で渋滞緩和のためのシミュレーションができないものだろうか。行きの道すがら、そんなことをぼんやり考える。
世間でAIの話題というと、絵や文章の生成についてのものが多い。的確なプロンプトがあれば、たいていのものは生成できるようだ。「ドストエフスキーとロシア革命の関連について、彼の小説『罪と罰』の内容を中心とした1万字程度の評論を」なんて指示すれば、それなりのものができてしまう。驚くべきはAIが、ドストエフスキーのことも、ロシア革命のことも、どちらも知らないということ。そもそもAIは書かれた文章の意味を理解しているわけではない。ただ膨大なテキストを読み込み、解析することで、さまざまな事象(「ドストエフスキー」、「ロシア革命」)についての文章を成立させるルールのようなものを練り上げ、それに従って文章を出力する。ディープ・ラーニングのなんたるかを詳しく知らないけども、膨大な文章を読み込み、「トマト」と「赤い」には近接性がある、みたいな関連付けを徹底することで、人間が書いたり話したりするのと同じような文章をAIは出力する。
自分はシステムエンジニアを生業にしている。システム構築とかプログラミングとかいうのは、真っ先にAIが代替しそうなものだったけど、いまのところまだそうなっていない。これまた的確なプロンプトさえあれば、プログラムの作成についてはかなりの精度で実現できるらしいけども。AIはシステム構築やプログラミングよりも、絵や音楽の生成の方が得意なのだろうか。つまりAIは芸術分野において先行しているということか。いずれにせよ絵や小説や音楽について、AIが人間と同等のものを生成可能だとしても、人間の創作活動は止まらないだろう。AIは人間の欲望は代替できない。AIに欲望はない。人間だけが欲望を持ち、なにかを作る”動機”を持ち得る。音楽なり小説なりの作品を受容するとき、人はその背後にある作者の欲望を享受している。違うだろうか?自分の場合、たとえばドストエフスキーを読むとき、19世紀のロシアでこれを書いた人物がいるという事実に打たれる。仮に同じ内容だとしても、それがAIによって出力されたものだと分かっていたら、あまり読む気がしない。人間の欲望が稼働した結果としての作品を享受しているフシがある。
公園のだだっ広い芝生。靴下を脱いで裸足になり、芝生のうえを歩いてみる。足の裏がチクチクこそばゆいような、なんともいえない感覚。生きている感覚が足の裏から上半身まで伝わってくる。これはAIには持ち得ない、人間に固有の感覚だろう。もちろんそれはAIには身体がないという端的な事実に即すものではあるが。生きている感覚が足の裏から上半身まで伝わるその感触は、詩ではない。詩であるなら、それはAIによって生成可能なのだから。よってそれは詩ではないし、ことによると人間に必要なのは詩ではないのかもしれない。そうだとして、では足の裏のこの芝生の感触を、なんと名付けたらいいのだろうか。
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ドストエフスキー、エブリデイ
「罪と罰」を毎日読んでいる。ドストエフスキー、エブリデイ。日々頁を進めているから、もうそろそろ結末を迎えそうなところ。読んだことのある人なら知ってのとおり、これは結構とんでもない本で。19世紀のロシアでこれが書かれた。これを書いた者がおり、彼にはこれを書かねばならない理由があった。その事実にただ驚愕してしまう。とはいえ本稿は、この小説の内容についてではないのよ。
これまであまり小説を読まないできた。文章で書かれたフィクションを楽しめない体質とでもいうか。風景や人物、それらの成り行きが書き手によって説明されるわけだが、なんだか乗り切れない。誰かの夢の話を聞くときのような白々しさがある。物語の描写には、時に寓意が含まれたりもする。それもまたなんだか寒々しく。ずっと違和感があった。
そんな自分がここのところ小説づいている。どうせ読むならばと、名の知れた名作を選んで読んでいる。ドストエフスキーとか、カフカとか。先日はゴンブローヴィッチを読んだ。世界文学の古典とされるものには、ごろりとした手触りがある。あまり手に馴染まないこの感触が重要で、国も時代も異なるどこかで、見知らぬ他人が長々とこのような数奇な言葉を書き綴ったということ。まずもってその事実に打たれる。長い物語を記す行為は、程度の差はあれ、強迫観念に基づいていると思う。そうした類のエンジンがなければ、とても成せないだろう。あるいは強迫観念なのか、スピリチュアルなのか、霊感なのか。ともかく彼らはそれに従って書き続けた。なんということか。感動する。彼らの天才は名人芸でありつつ、しかし他のどんな形式とも異なっている。彼らは小さな書斎でそれを生み出した。
作品に独自の形式を与えるのは相当に難しい。鉄の意志か、まったくの無我か、ことによるとその両方が必要になる。自分ひとりのやり口でやっていては無理で、わたしが別のわたしを産み直し、それに書かせる必要がある。ここでの”母胎が子を産む”との比喩は、本来芸術には該当しないだろう。そこでは計り知れない無形が生み出されているのだから。形のないもの。価値の定まらないもの。無法なもの。しかしそれらが独自の形式を成すもの。ドストエフスキーもカフカも、そうやって書いたんだなあ。機械と化して、それを生産した。
変わることのない絶対の普遍を求めるなら、やがてその普遍は人間を平らにならしてしまうだろう。そんな場所で巨大なスクリーンを掲げ、上映をはじめること。普遍は平らな水平で、スクリーンはそれと垂直をなす。そこには対立がある。(いったいなんのこと?)誰にも意味の分からないものを書きながら、しかしその意味を知るただひとりの例外であると作者自身が自負してみせる。それが芸術の原理だ。知らんけど。
戦争が悪であるとか、社会が公正であるべきとかは、その意味で芸術ではない。それは法や倫理の問題ではあるにせよ、芸術ではない。それは追及されるべき議題だし、そもそもそうした法や倫理によって、わたしの生存は担保されてもいる。しかしそうした法や倫理の普遍を揺さぶってしまうものとして、例えばドストエフスキーの小説がある。
おっと。主語を小さくしなければ。毎朝欠かさずヨーグルトを食べる。余裕があるときには、冷凍ごはんをチンして、納豆と目玉焼きを乗せて食べる。台所で立ったまま、ご飯茶碗から納豆玉子メシをザブザブかっこむ中年の自分。とても人様には見せられないそんな自分を、ふと客体として鑑みたときに感じたこと。身体や精神には決して公にできないあられもなさがある。人間は根本的には法外なものなのかもしれない。
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