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toshimasa-kobayashi · 16 days
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toshimasa-kobayashi · 16 days
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toshimasa-kobayashi · 28 days
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toshimasa-kobayashi · 28 days
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toshimasa-kobayashi · 1 month
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toshimasa-kobayashi · 1 month
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toshimasa-kobayashi · 1 month
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第三者委員会としての当事者
道端にタバコを投げ捨てる人がいる。どうかしていると思う。許せない。なぜあんなことが平気でできるのか。しかしたびたび考えるのだけど、タバコの吸い殻ひとつ落ちていない世界は、きっと不健全極まりない。それはクリーンで清潔とういうよりは、統治と自治の完全な達成を思わせて、すこし恐ろしい。タバコのポイ捨てに関してのまったく異なる二つの見解が、ここに並列している。
タバコの吸い殻ひとつ落ちていない場所として、東に赤の広場があり、西にディズニーランドがある。あくまでモデルの話として。赤の広場の事情は知らないけども、ディズニーランドにゴミが落ちていないのはよく知られている。資本主義がそのファンタジーの徹底により、完全なる統治と自治を実現した場所としてのディズニーランド。そうした観点から眺めるなら、やはりあの場所は歪(いびつ)だといえる。
では歪でない場所はどこにあるのか。一言でいうなら、それは海辺だ。浜は一面を砂に覆われている。つまり砂漠だ。しかし一方で海水に満たされた海でもある。砂漠であり、海。これもモデルの話ではあるけども。しかし実はそうしたモデルにおいてこそ、ひとは生きている。イメージやモデルを生み出し、それを現実と並列させる。そうしたやり方で、ひとは政治や芸術を作り出してきた。
ここにはひとつややこしい問題もある。たとえば音楽家が作品を作ったとして、その楽曲は実態なのか、モデルなのか。もうすこし嚙み砕いて例を挙げる。音楽家がピアノを弾くとき、それは演奏なのか、演奏のジェスチャーなのか。作曲によってある音楽構造を作り上げ、それを演奏する。それは「演奏」なのか、「演奏するというモデル」なのか。海辺の住人として答えるなら、その両方だということになる。
ここで使っている「モデル」という言葉は、抽象の原理にも関連している。抽象において、事物はモデルとして扱われる。そもそも、そのようにしか取り扱えない事物も多い。たとえば「社会」にせよ「感情」にせよ、それらは総じて抽象物でもある。どちらも各々が個別に経験する実態でありつつ、そうした実態の総体として仮定し、いわば抽象モデルとして扱うほかないもの。ピアノを使ったフレーズが、音楽家にとって具象であり、抽象でもあるように。音楽家はときに楽音をノイズとして扱うし、別の場面ではノイズを楽音として扱う。
この話を煎じ詰めるなら、つまるところわたしはわたしの当事者であり、第三者でもある。わたしはわたしの実態であり、モデルでもあるのだから。タバコのポイ捨てに関し、当事者として、あるいは第三者として、異なる見解を持っている。わたしは海辺の住人で、それは砂漠であり、同時に海でもある。
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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タン塩の 舌っ足らずに 詩を足して
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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ペペロンチーノの象徴と抽象
スライスしたニンニク��フライパンにいれる。オリーブオイルと鷹の爪。焦がさないように、ごく弱火で。金属のうえでオリーブオイルとニンニクが加熱される。鷹の爪から煙。だんだん香りがしてくる。唐突にあらわれる見ず知らずの他人が、妙になれなれしい様子でこちらに近づいてくる。実のところ、こちらもその相手を勘定にいれてすでに算段を始めている。そんな香り。辺りを満たす。
茹でたパスタをフライパンに放り込む。大葉、マッシュルーム、ベーコン、パセリ、なんでも、かんでも。ニンニクとオリーブオイルをベースにしたパスタは、すべてペペロンチーノといっていい。ペペロンチーノはひとつのカテゴリーをなしている。とはいえ、カテゴリーは調理という経験的なプロセスとはなんの関係も持っていない。
経験はカテゴリーに属さない。いま金属のうえで加熱されているオリーブオイルは、カテゴリーを持たない。形式や区分とは関係がない。形式や区分は、記述の内にしかない。ひとたびそれを名指すときに、それはカテゴリーの範疇に収まる。これはペペロンチーノだ。あれはカルボナーラだ。ニンニクの薄い皮をつま先で剥いたり、卵黄がダマにならないよう温度を見計らってボウルをかき混ぜる。それは現実の出来事でしかない。わたしが語るときにはじめて、それはひとつの形式をなす。
わたしは語る。語り続ける。経験は次から次へ、形式や区分に分類されていく。出来事はどこにいってしまうのか。ここに言葉を持たない者がいたとして、蛇口をひねると水が流れるとか、火にかけた水が沸騰するとか、彼らには奇跡のように映るだろう。奇跡はただの奇跡に過ぎない、ともいえる。一方のわたしは語ることで、それらを形式や区分に閉じ込める。現実の経験を貧しい閉域へ押し込める。それが言葉だ。あるいは文学であり、芸術だ。では経験を貧しくすることで、わたしはなにを獲得しているのだろう。たんに貧しくなっているのだろうか。そうではない。経験を言葉の閉域に閉じ込めることで、わたしは手持ちのカードを増やしている。
経験はカードになる。手札になる。それは圧縮されており、つまり象徴化や抽象化を経ている。わたしは経験を象徴化し、抽象化する。シンボルとしてかざし、モデルとして扱う。それは貧しさのなかにある。貧しさのなかにしかない。溢れんばかりの横溢の内には、象徴も抽象もない。一片の記号を記号以上にする手立てを、わたしは知っている。
言葉が生まれる前。日々はただ運命の連続だった。ただの奇跡の連なり。蛇口から水があふれ、沸かした湯が沸騰する。金属のうえでニンニクとオリーブオイルは加熱され、混交し、香る。それをいまここでペペロンチーノと名付けた。それはわたしの手札になった。鷹の爪と塩が放つ香辛の煙。見ず知らずの他人のような異質。わたしはすでにその予感を勘定にいれて、糧にしている。血や肉にしている。ペペロンチーノ。象徴と抽象の一枚のカード。
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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