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『群盗』
圧政に苦しむ農民たちを救うために戦う義賊を描いた娯楽活劇。個性的なキャラクターと、力強くも美しい殺陣アクションが魅力的。
作品データ 群盗(原題:군도: 민란의 시대) 2014年/韓国/137分 監督:ユン・ジョンビン 出演:ハ・ジョンウ、カン・ドンウォン、イ・ギョンヨン、イ・ソンミン ほか
感想 義賊だって?「民を救うため」とはいえ、やってることは略奪強盗殺人じゃないか。そう言いたくなる気持ちはもちろんある。しかしだ、私は確実に「虐げられる側」だ。生まれも悪いし金もない。中立公正を気取ってなんぞいられるもんか。我ら貧しきものどものために戦っている彼らを批判するほど私はできた人間ではない。というわけで、『群盗』。
ときは朝鮮王朝末期。政治は腐敗し、一揆を起こした農民たちが処刑されさらし首にされているというかなりショッキングな光景で幕が上がる。ここで流れる曲がなにやらエンニオ・モリコーネの”Ecstasy of Gold“を思わせるテイストで、最初は「考えすぎか」と思ったが、どうも私は的を外していなかったらしい。リズ・オルトラーニによる『怒りの荒野』のテーマが使われてい���り、まさかと思うところでガトリングガンが登場したり、スパゲッティウエスタンのオマージュがふんだんに取り入れられていた。音楽はパク・チャヌク監督作品などで知られるチョ・ヨンウクが担当している。私はこの人の曲が好きでサウンドトラックをいくつか持っているのだが、どちらかといえば繊細でもの悲しげな曲を作る人だなあと思っていたので、この西部劇風の乾いたサウンドは新鮮に感じた。
おおっと、話が脱線した。ええと、民衆の反乱を描いた時代劇だが、エンタメ系アクション映画という色合いが強い。見どころは屠畜人トチの包丁二刀流、竹藪での修行、そしてなんといっても武芸の達人ユンの剣裁きだが、韓国時代劇の剣裁きはどうしてこんなにかっこいいんだ。上衣のすそを翻しながら舞うように斬る姿は美しくもある。
同監督による『悪いやつら』と同様、韓国の儒教思想に基づく習慣を茶化したり揶揄したりするようなエピソードもあって面白かった。喧嘩になったときに年齢の話を始めること、両班の中でも武官より文官が尊ばれること、男しか家督を継げない(ゆえに血みどろの争いが起こる)こと。また、朝鮮王朝時代は仏教の布教が禁止されていたはずだが、チュソルには僧侶がいて観音さまを信仰している。 こんなふうに表の歴史では語られない人々に焦点が当てられているのも興味深い。もっと言えば、舞台を羅州に設定したのは、現代の韓国の問題を反映してのことかもしれない。
ところで、原題を調べてみると、『悪いやつら』は 《범죄와의 전쟁 : 나쁜놈들 전성시대》(犯罪との戦争:悪いやつらの全盛時代)で、この『群盗』は《군도: 민란의 시대》(群盗:民乱の時代)。シリーズものではないようだが、似たようなサブタイトルがついていた。何か共通のテーマがあるとすれば、動乱の歴史の舞台裏というか、お上の目線ではなく社会の「裏側」や「下層」に生きる人々の目線から描いたという点だろうか。
韓国映画では悪いやつはとことん悪く狡猾に描かれている印象があるが、このユンもまさにそのタイプだった。だが、彼の凄まじいほどの富と権力への執着も、庶子からのし上がって卓越した武芸を身に着けるにいたったこともすべて父親に認められたかったからなのか……とわかるとちょっと同情したくもなる。ラストはもっとフェアな一騎打ちのほうがよかったかなあと思わなくもないけれど、最後に残った彼の良心に思わず涙がこぼれた。
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『ビデオドローム』
ブラウン管テレビにカセットテープ……モチーフは古いがSF的アイデアはまったく古くない。仮想現実世界を描いたSF映画の先駆けか。
作品データ ビデオドローム(原題:Videodrome) 1982年/カナダ/87分 監督:デヴィッド・クローネンバーグ 出演:ジェームズ・ウッズ、デボラ・ハリー、ソーニャ・スミッツ、ピーター・ドゥヴォルスキー ほか
感想 表現物が大衆に与える悪影響がどうのという議論は私はあんまりしたくない、というのも、「ヌードを撮れば進歩的、とにかくグロなら前衛的」みたいな主張をする一部の芸術家とその取り巻きにうんざりしているから。そういう発想なら、子どもでもできるだろと思ってしまう。まあ、何も生み出せない私が言うのも変な話だが。ただ、プロを名乗るなら矜持ってやつを見せてくれよ。あんたらはそれで金儲けしてんだろ?「脱いだら(俳優として)本物」とか「(不祥事やスキャンダルを受けて)懺悔ヌード」とか言ってる大衆も同罪、そんなんだから作り手になめられるんだ。しかしまあ、私は決して高潔な人間じゃ��ないので、序盤の官能的なセックスシーンに劣情を刺激されたのは事実だし、怖いもの見たさとか、多少の露悪趣味みたいなものだって持っている。でなきゃクローネンバーグの映画なんか観るわけがない。
こんな感じでいくらかへそ曲がりな私でも、クローネンバーグの映画には毎度度肝を抜かれてしまう。あの甘い吐息をもらすカセットテープは後年の『裸のランチ』に登場したタイプライターみたいに非常にいかがわしい感じだったし、マックスの腹に開いた穴にカセットをぶちこむのはセックスのメタファーみたいで、ヌードだけがエロじゃないってのがわかる(エロいと感じるかどうかは感性の問題だが)。こういう人体と機械の融合や、ヴァーチャルと現実とが混ぜこぜになる世界観は、クローネンバーグが繰り返し扱ってきたテーマなので、この人は表現したいこと・ものが本当に一貫しているなと思わされる。
電脳世界をスリリングに描いているものの、監督のねらいはおそらく「テレビ社会に警鐘を鳴らす」というような単純なものではない。むしろ、仮想現実の可能性の広がりを期待するような内容にさえ感じる。「現実なんて認識の問題だ」という科白があったが、いわゆる「水槽の中の脳」のような哲学の分野で論じられるテーマか。
マックスは「あくまでテレビの世界は虚構で、すべては演出だ」と考えていながらも、ニッキーがビデオドロームに出演するためにピッツバーグへ行くと言うと、「やつらは容赦ない、危ないからやめろ」と言ってとめようとするのは少し気になった。業界の不透明性とかやましいところとか理解しているのに「これはフィクションだから無害です」なんてよく言えるな。よくあることだけど。
しかし、クローネンバーグの映画は過激ではあるけれども一線を越えていないと思わせる安心感がある。ドロドロヌメヌメの人体損壊描写も手作り感があって味がある。『スキャナーズ』のときと同様、内部から破壊されて脳みそだの臓物だのが飛び散るのが、気持ち悪いんだけどクセになる。テーマも特殊効果も、うん十年たっても古さを感じさせないパワーがある。というわけで、エログロがだめじゃなければおすすめ。
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『殺しが静かにやって来る』
雪景色と衝撃的なエンディングで有名な異色のウエスタン。クエンティン・タランティーノが『ジャンゴ 繋がれざる者』や『ヘイトフル・エイト』でいくつかの画を引用している。
作品データ 殺しが静かにやって来る(原題:Il grande silenzio) 1968年/イタリア、フランス/102分 監督:セルジオ・コルブッチ 出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、クラウス・キンスキー、ルイジ・ピスティッリ、フランク・ウォルフ、ヴォネッタ・マギー ほか
感想 先日観た『暗殺の森』にモーゼルが出てきて、この映画のことを思い出しました。こちらも主演はジャン=ルイ・トランティニャン。そのことと関係あるのかどうかは知りませんが、久しぶりに観たくなったのでDVDを引っ張り出してきました。
舞台が灼熱の荒野ではなく雪山、主人公は声を失った殺し屋、銃はリボルバーじゃなくて自動拳銃のモーゼル、ヒロインがアフリカ系であるなど「西部劇」としては変わったところが多いです。しかしまあ、スパゲッティ・ウエスタン自体がそもそも「邪道」なもんだろうし、それがコルブッチ監督の作品となれば、ありがちな正義のヒーローものといかないのは当然でしょう。私はコルブッチ監督の映画が好きで、貧しい人々や虐げられた人々の姿を描くところが正統的な西部劇とは違っていて魅力を感じます。「古き良きアメリカ」を描こうとしたレオーネとは対照的です。
本編はえげつない暴力描写が続きますが、そこにカタルシスのようなものはほとんどありません。貧しいもの、地を這うものが殺され、狡猾な悪党が生き残る、しかもその悲劇が繰り返されるであろうことを予感させるラスト。ただ美しいのはエンニオ・モリコーネによる音楽。メインテーマは、雪のしんしんと降るようすがそのリズムから伝わってくるようなリフレインが特徴的です。サイレンスの少年時代の悲劇的な記憶を描く曲や、ポーリーンが彼の傷の手当をするときに流れる美しい旋律などなど、マカロニウエスタン屈指の名スコアではないでしょうか。
トランティニャンはセリフがないぶん目で語るといった感じで、派手なアクションはないもののダークヒーロー的な存在感があってかっこよかったです(何がすごいってあの強烈なオーラを放つクラウス・キンスキーに食われてない)。ヒロインのヴォネッタ・マギーはとてもきれいだけれど、きれいなだけじゃない、内面の強さを感じさせる顔立ちですね。コルブッチ作品の女性キャラクターは芯があって行動力のあるタイプが多いなと感じますが、こういうところも伝統的なアメリカの西部劇とは対照的です。正義感は強いがちょっと間抜けな保安官は、暗くて重い物語に笑いをそえていました。
好きな映画ではありますが、あまりに後味が悪いので、気分が沈むときは『ガンマン大連合』か何かを観てスカッとしたいところです。
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『暗殺の森』
ファシスト政権下のイタリア、「正常な人間」になるためにファシズムにすがった男の出世とやがて訪れるであろう破滅を描く。原作はアルベルト・モラヴィアの小説『孤独な青年』。
作品データ 暗殺の森(原題:Il Conformista) 1970年/イタリア、フランス、西ドイツ/112分 監督:ベルナルド・ベルトルッチ 出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ステファニア・サンドレッリ、ドミニク・サンダ ほか
感想 ファシズムや性といったシリアスなテーマを扱っていながらも、娯楽映画としても成立していて、素人ながら「巧いなあ」と思わされる映画でした。まずなんといっても“見せ方”がかっこいいのですよね。ホテルで誰かの電話を待つ主人公、赤いフィルターのかかったような画、ここでがっつり心をつかまれました。あとは、森の中で暗殺者が夫人を追うシーンをハンドカメラで撮影しているところは1970年当時の感覚だと新鮮に感じたのではないでしょうか(よく知らずに勝手なこと言ってますが)。そして時系列を巧妙に巻き戻しながら現在と過去が交錯しながら展開するストーリーも良かったです。マルチェッロがマンガニェッロに「車を止めろ」と合図したときに、少年時代に同じようにリーノの車を止め乗せてもらったシーンが重なるところが特に好きです。そして、大人になった彼が結婚を前に教会でこの日のことを懺悔をするのですが、ここで彼をファシズムへと駆り立てた出来事が明らかになります。
「正常な人間」がひとつのキーワードでもあるのですが、少年時代のトラウマから逃避するかのようにマルチェッロは「正常な人間」という「仮面」を作ろうとします。結婚すること、ファシストになること。婚約者のジュリアは中流家庭出身で、恋やファッションにしか興味のない女性です。いささかミソジニー的ではあるけれども、彼にとってはまさしく「正常な」女だったのでしょう。友人のイタロに「彼女のどこがいいのか」と聞かれ「セクシーなところ。二人きりになると抱ついてくるんだ」なんて答えていましたが、絵に描いたような「かわいい奥さん」なのですよね。
ところが、マルチェッロはクアドリ教授の暗殺という任務があるにもかかわらず、教授の妻アンナに心を奪われます。彼女は知的で気位が高く、また、娼婦という一面も持ちます。彼が��拗にアンナを追いかけるのは、てっきり俗物的なジュリアとは対照的なところに惹かれたからかなと思っていたのですが、どうもそれだけではないようで、終盤ではマルチェッロがホモセクシャルであることをにおわせる描写もあります。そして、彼��身はそのことを受け入れようとはしません。少年時代に受けた心の傷、複雑な家庭環境……(マルチェッロの父もまたファシストであったこと、使用人と不倫関係にある母親の存在)、全体主義国家におけるマイノリティへの抑圧、さまざまな理由が考えられますが、私には理解できませんでした。
衣装で印象的だったのは、ドミニク・サンダ演じるアンナのパンツ姿です。第2次世界大戦を題材にしたヨーロッパの映画は、数えられるほどしか観ていないのですが、女性がみんなスカートにハイヒール姿だったのが気になっていたんですよね。空襲があったときに素早く逃げられないじゃん、と。日本であれば戦時中はもんぺがあったけれど。また、アメリカでは戦前にすでに肩パッドやパンツスタイルが女性ファッションに取り入れられていたとどこかで聞きましたが、ヨーロッパではどうだったのでしょう。
ムッソリーニ失脚とバドリオ政権発足を伝えるラジオ放送、これは同じくトランティニャン主演の『激しい季節』でも出てきましたね。ムッソリーニの胸像が倒されてひきずりまわされるシーンもありましたが、こういうのを見るたびにイタリアの民衆は骨太だなあと思わされます。度重なる空襲や物資の不足で疲弊していそうなものなのに……。
マルチェッロ役のジャン=ルイ・トランティニャンの茶目っ気のある面と影のある面の両方がうまく引き出されていて、役者を生かす演出もすごく上手だなと感じました。ラストの「ぜんぶおまえのせいだ!」とぶちまけるも迫力がありましたね。あとは、母になったジュリアの表情に凄みが加わっていて、ファシストの秘密警察の妻としてどういう心境であったかを察することができます。
ジュリアとアンナのダンスシーンが楽しげだったとか、ジョルジュ・ドルリューの音楽が良かったとか、書き出すときりがないのでこのへんで。
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『マリー・アントワネットに別れをつげて』
原作は『王妃に別れをつげて』という小説で、著者のシャンタル・トマはフランス文学の研究者。史実をもとに、王妃の朗読係シドニーという架空の人物の目線を通して、新しいマリー・アントワネット像が描かれる。
作品データ マリー・アントワネットに別れをつげて(原題:Les Adieux à la reine) 2012年/フランス、スペイン/100分 監督:ブノワ・ジャコ 出演:レア・セドゥ、ダイアン・クルーガー、ヴィルジニー・ルドワイヤン ほか
感想 舞台がルイ王朝末期、フランス革命の時代ということで、あの衣装……ボリューム感のあるドレス、かつら、白タイツ……が楽しめればいいかなぐらいの気持ちで観ました。 侍女が女主人に思いを寄せる……というと、テーマも身分もまったく違うけれど、韓国映画『お嬢さん』(2016年)を連想してしまいます。
第一印象ですが、なんとなく「少女漫画っぽい」と思いました。シドニーがドレスをひきずりながら走っていてずっこけるところや、同僚の女の子たちとの会話、とにかくすべてがいきいきしていて、等身大の若い女の子という感じでかわいらしかったです。そして、バスティーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命、貴族たちが自分や家族の身を守るために亡命を計画する中、彼女は何よりも誰よりもまず王妃の身を案ずるのです。なんて一途なんだ!ヴェルサイユ宮殿の衛生状態は最悪だったとか、ゴンドラごっこするために雇った船頭さんが本当はヴェネチア出身のイタリア人じゃなくてフランス人だったとか、そんなことは問題になりません。 このシドニーがまっすぐに王妃さまを見つめる姿が良いのです。美しい王妃さまの前では、役者くずれの女たらしなんぞシドニーにとっては面白くもなんともないのです。そしてポリニャック公爵夫人をたいそうかわいがる王妃さま、しかしこちらの愛情もまた一方通行。とにかく報われないのがつらい。いいや、計画通り公爵夫人が無事であれば王妃の愛も報われたことになるのでしょうか……。それにしたって、シドニーに対するあの仕打ち!
さて、マリー・アントワネットのイメージという点ですが、現代のフランス国民がどのように思っているのかは知りませんが、「悪女」というのは少し違うんじゃないかなあと思います。気位が高く自分勝手な性格、莫大な浪費、王妃という立場をわきまえない数々の軽率な行動によって周囲の顰蹙を買ったのは確かなのでしょうけれど、それって悪意を持ってやったことではないだろう、と。私は人は誰しも権力を握れば傲慢になりうると思っているし、彼女にしたってまだ15歳そこらで結婚して、右も左もわからぬままに好奇心にまかせて社交界に入ってしまったわけだし。そりゃまあ、もう少し賢く動けば処刑されることもなかったろうし、フランスもイギリスみたいな立憲君主制の国として生まれ変わっていたかもしれないけれど。なんでしょうねえ、普段から負け犬根性丸出しで「���持ち憎い、権力者憎い」と言っているのに、あんまりみんなから好かれていない人となると擁護したくなってしまう、自分の少しひねくれたところが出てしまうのですよねえ。しかしまあ、命が危ないから逃げようってのに道中の暇つぶしだの宝石だのの心配をしているところは思わず苦笑いしてしまいましたが。
なんだか収拾がつかなくなっていますが、ええと、キャストも素晴らしいです。レア・セドゥの飾り気のないナチュラルな美しさ、ちょっとミステリアスな雰囲気が役柄にぴったりだったと思います。マリー・アントワネット役にはドイツ出身のダイアン・クルーガー。アントワネットはオーストリア=ハプスブルク家の出身ですから厳密にはちょっと違うのでしょうが、こちらもまた堂々とした立ち居振る舞いが王妃さまらしくて思わず見とれてしまうのでした。
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『家族の肖像』
絵画に囲まれて静かに暮らす老教授のもとを訪れたお騒がせ一家。限られた物理的空間のなかで、世代間の価値観の対立や階級闘争といったテーマが展開される。
作品データ 家族の肖像 (伊:Gruppo di famiglia in un interno/英:Conversation Piece) 1974年/イタリア/121分 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演:バート・ランカスター、ヘルムート・バーガー、シルヴァーナ・マンガーノ ほか
感想 強引に部屋を貸してくれと頼みこんできたある夫人とその娘、そして同居人たち。住みついたのは夫人の愛人コンラッド。こいつがまた、とんだやくざもんだと思いきや、芸術に関心が高く絵画や音楽の教養があるらしい。知識を通して、コンラッドと教授との間には奇妙な友情が芽生え始める。老教授はヴィスコンティ監督自身の投影ということもあって、ヘルムート・バーガー演じるコンラッドにはホモセクシュアル的な感情を持っていたと読み取れるかもしれない。教授がかつての仲間に襲われたコンラッドを運び込んだ部屋は、戦争中に教授の母がユダヤ人や政治犯をかくまうために用意させた部屋だった。亡くなった母の影を追う老教授……ビアンカたちが現れるまで、彼の時間は止まったままだったのだ。ひと騒動あって、彼は一家を家族として受け入れようと決める。家族なんてのはそんなにいいもんじゃあない。それをふまえての「家族だと思えばどんなことでも受け入れられる」という科白か。
戦後イタリア……左右二大政党が中道政治をさぐる中、極右・極左の不満が吸収しきれず国内であち���ちでテロが勃発するが、警察は当然ながら右翼に甘かった……なんて話を思い出す。もちろんテロなんてのはほめられたもんじゃないが、民衆にパワーがあってなおかつ共産党が政治的に影響力を持っていたなんてのは少しうらやましくもある。1960年代から70年代にかけてのイタリア映画界には左派が多いイメージがあるが、ヴィスコンティも共産党員だったとか。一方で彼は貴族出身であることを誇りにしていたようで、彼のその帰属に対するアンビヴァレントな感情は作風にもよく表れているなと思った。
コンラッドがなめてきた辛酸を思うと、ただ金持ち憎しの気持ちから左翼思想にかぶれていた過去の自分が恥ずかしくなってしまった……というのも、あのころの私は貧乏学生ではあったが、さほど優秀でもなければ教養が深いわけでもなかったのである。それは今もたいして変わっちゃいない。ちぇっ、『資本論』なんて読めないさ!まったく、努力すれば階級を超えられると信じていた。でも自分には努力ができなかった。自分だけ幸せになれればいいという浅はかな考えが悪かったのかもしれん。もはや私にできるのはお上品な人々に臭い息を吐いてやることだけだ。疎まれながら、蔑まれながら、這ってでものたうち回ってでも生きてやるんだ。
ステファノがコンラッドに投げつけた科白が胸に刺さる。
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『ジョン・ウィック:チャプター2』
キアヌ・リーヴスが復讐に燃える殺し屋を演じるアクション映画の2作目。あまりにも現実離れした設定には目をつむって、すばらしいアクションに魅せられていたい。
作品データ ジョン・ウィック:チャプター2(原題:John Wick: Chapter 2) 2017年/アメリカ/122分 監督:チャド・スタエルスキ 出演:キアヌ・リーヴス、コモン、ローレンス・フィッシュバーン、リッカルド・スカマルチョ ほか
感想 この映画のように銃撃戦とカンフーの2つの要素を取り入れたアクションをガンフーと呼ぶらしいですね。前作では頭を2発撃って確実に仕留めるのが印象的だなと思っていたのですが、今回は敵の数も増えてよりスピーディーになっていました。あと、スパゲッティウエスタンっぽい早撃ちの演出もよかったですね。なぜあえてスパゲッティというかというと、私が本場・アメリカの西部劇にほとんど興味がないからです。鏡の迷路での銃撃戦も緊迫感があって楽しかったです。
イタリアンマフィアが登場するということで、イタリア人俳優がキャスティングされているのもまた興味がありました。フランコ・ネロというと、イタリア人役として英語圏の映画やドラマに特別出演されているのをた��にお見かけしますが、ある世代の人からすると、イタリア人といえば彼だというイメージがあるのでしょうか。スパゲッティウエスタンの『ジャンゴ』とか。
イタリアロケもかなり気合いの入ったものだったのでしょうが、イタリアの描き方があまりにもステレオタイプなのが少し気になってしまいました。豪華絢爛、人々はお洒落で芸術好み、というような。 いや、イタリアに行ったこともないんですけれども。 私としては、もっと下町のディープなイタリアをのぞかせるようなエピソードが見たかったです。そういう点では、アジア人女性のミシン工が裏社会の一員であるというのは面白かったと思います。
ニューヨークのホームレスとジョン・ウィックの奇妙な友情は、キアヌ・リーヴス自身のイメージと相まっていい味が出ていたんじゃないでしょうか。お金や名声に執着しないストイックな人柄とか、人を寄せ付けないけれど心を開いた相手には深い情を見せるところとか。まあ勝手なイメージだけど。ところで、私は下町育ちなので、洒落た都会よりもちょっと汚れた下町に惹かれるんですよ。『オリヴァー・ツイスト』で描かれるアンダーグラウンドみたいなやつに。
さて、今年チャプター3が公開予定だそうですが、できれば劇場に足を運びたいもんです。
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『激しい季節』
ファシスト政権のイタリアを舞台にした恋愛映画。いろいろな要素を詰め込んだはいいが、どこか煮え切らない。
作品データ 激しい季節(原題:Estate Violenta) 1959年/イタリア、フランス/98分 監督:ヴァレリオ・ズルリーニ 出演: エレオノラ・ロッシ・ドラゴ、ジャン=ルイ・トランティニャン 、ジャクリーヌ・ササール ほか
感想 1943年夏、第2次世界大戦下のイタリア。ファシストの高官の息子であるカルロは、兵役を免れて訪れた避暑地で戦争未亡人のロベルタと出会い、恋に落ちる。戦況が次第に悪くなり敗戦へと向かう様子とともに、カルロとロベルタの恋愛模様が描かれる。しかし、カルロに思いを寄せるロッサーナという少女や、カルロの父の失脚、そしてロベルタの奔放なふるまいによる彼女の母と義理の妹との関係の悪化などが二人の仲を阻む。
それでも、どうもドラマとして中途半端に思われてしまったのは、カルロの芯のなさ。彼には強い信念があるわけでもなければ、友人たちのようにただただ享楽的に生きることもできない。しかし、カルロが戦争中だろうとお構いなしに食べ飲みはしゃぐアホなブルジョワ仲間たちをどこか冷めた目で見ていたのは、父の身を案じていたからだろうか、それとも、前線銃後で飢え苦しむ人々を思っていたからだろうか。ともかく、カルロは彼自身��ロベルタに語ったとおり「群衆についていくだけ」の人間なのだ。
カルロのこのような姿勢によって、ファシズムとは何たるかを表現しているのだと読めなくもないけれど、正直なところ映画としてあまり面白くなかった。ロベルタのほうも「今まではお母さんの望むとおりに生きてきたけど、今度こそは愛する男を信じて思うままに生きる」なんて言ってはみたものの、「やっぱりやめたほうがいいかしら」と何度も気持ちが揺らぐ。
で、問題のラスト。そりゃあロベルタの提案通りの展開なんてありえないだろう、カルロの言った通り「虫が良すぎる」。ただ、あの決断には拍子抜けしてしまった。たしかに、彼は群れに従うのをやめて自分の意志によって選択した。しかしあれでは、あともう少しで完成する積み木のお城をがっしゃーんと崩されたような気分になってしまう。
このヴァレリオ・ズルリーニ監督、調べてみると『鞄を持った女』を撮った人だったのか。若い男が年上の女を好きになるところといい、この結末といい、どことなく似ている。
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