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whatwouldyougrabtomorrow · 4 months ago
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「信ずることと知ること」「美を求める心」小林秀雄著『考えるヒント3』(文春文庫/2013) 高校から大学になるかぐらいの時に小林さんのエッセイ『信じることと知ること』を読んだときに、なんかそこにすごくヒントを感じたんですよ、これものすごい大事なことちゃうかなと思って。 人間は、教養とか知識、あるいは概念でものごとを理解しようとすることで、本当の人の心とか、美しさにシャッターを下ろしてしまって、非常に貧しい精神的な生活を送っている。目の前にあるものとちゃんと向き合う力を失っているというわけです。そういうことで君たちはいいのか、と『信ずることと知ること』では言っているんですよ。 『美を求める心』も実は一緒です。路端の紫の花を見たとき、最初は「きれいな花だな」と思って近づいて見ようとしたのに、「あっ、スミレの花か」って概念と置き換えたとたんに安心して立ち去ってしまうわけです。でも本当はその美しさっていうのは、別に「スミレの花」という美しさがあるわけじゃなくて、その花そのものの美しさがあるってことなんですよ。なまじ、「スミレの花は美しい」っていう概念が頭にあるから、本当のその花の美しさと付き合うチャンスを捨てている。さかしらな素人っていうのは、本当の美に出会えなくなっている、ということを言っている。 そこに、観光学のひとつの考え方の大きなヒントがあるんです。実は、今回インタビューを受けて初めて気がついたんだけどね(笑)。観光学研究で地域に入ってみると、地域には学歴が高くなくても大変な知恵がある人がいるんです。だから学者たちが一方的に教えてあげようって構図は実は全く逆なんですよ。気づかなかった価値を見つけ出す、それとおんなじようなものがもっと地上にたくさんある。そういうものの価値や大切さに気づくのが大事だなと。この歳になって、あなたたちに聞かれて、こんな風にしゃべってるのはおかしいな…と思うんだけど(笑)
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whatwouldyougrabtomorrow · 5 months ago
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哲学者東浩紀の大晦日の突発独り語り配信動画を購入して聞いてたら、終盤にテーマパークやショッピングモールの話をしていて、あれは「嘘」でできた安全な場所なのだが人間はああいうものを必要としていることは事実で、「家族」みたいなものとの親和性が高いが、言うまでもなく「家族」も「嘘」で成り立っている部分があって、人間が平和に暮していくにはそういう虚構の物語が必要なのだみたいな話をしていて、若い頃はその「嘘」に我慢ならなくて家族を飛び出したりテーマパークを嘘っぱちだと否定しがちだが、年齢を経ることでその「嘘」の必要性が身にしみてくると。なるほどー、おもしろい。 人間の真実を突き詰めていくと「戦争」が出てきちゃうわけだが、平和という嘘?理想?建前?を追っていくのが大事で、みたいな話。陰謀論の人たちは「真実とは」というのを求めて掘り進めつづけてしまい、その先には戦争しかなくなっちゃうと。
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whatwouldyougrabtomorrow · 6 months ago
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"しかしついに日本の地を踏んだ。九州生まれだが、幼稚園の時から暮らした東京で大勢の友人知人に会った。そこで口にするもの全てが驚くほど美味。近年はマシになったと言われる英国の食事情だが、母国のグルメはその数倍の速度で進化していたことを実感した。
 思えば1990年代から英国暮らしをしていて、日本の急速に進んだ美食文化に立ち会っておらず、筆者の若い頃なら、きっと一部のエグゼクティブや口の肥えた政治家だけが高級料亭で味わっていたはずの美味と珍味が街に溢れていた。
 素晴らしいと感動した反面、こんなにうまいものばかり食っていたら人間がやわになるのではないかと案じた。食欲がこんなに高度なレベルで満たされる日本人の将来はどうなるのか? 余計なお世話かもしれないが、こんなに美味しいものばかりに囲まれていたら、大抵のことは許せてしまうのではないだろうか。そんな美食文化の陰で、私利私欲に毒された政治家や世間の悪徳もおざなりにされてしまうのではないかと心配するのはいきすぎか。"
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学
ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。
女子学生の置かれている現実
その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。
女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。
事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子���生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。
東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。
東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。
これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。
学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。
女性学のパイオニアとして
こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家��、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。
変化と多様性に拓かれた大学
言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、在日韓国人教授、姜尚中さんも、高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろう二重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。
あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんば���うにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
東京大学で学ぶ価値
あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが��てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。
 
平成31年4月12日
認定NPO法人 ウィメンズ アクション ネットワーク理事長
上野 千鶴子
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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手術明けの中日・草加と歩く落合コーチ「今度は僕の番」優劣を決めるのは“誰が最初に投げた、勝った”ではない(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース
"草加のプロ野球人生は、世界遺産の座喜味城跡を歩くことから始まった。ただし、ユニホームはまだ着ていない。ドラフト1位がいきなりの右肘手術。即戦力と期待された右腕だけに、今季絶望はつらいことだろう。ただ、救いは「前例」がすぐ近くにいることだ。
 「東都から外れ1位も一緒ですよね。違うのは僕はキャンプどころか入寮すらできなかったことかな」。横を歩いていたのは、落合2軍投手兼育成コーチだった。草加とは初対面。「これからオレが一番接することになるから」と握手した。
 落合コーチは1992年に日大から入団。しかし、4年秋に右肘を骨折した。ドラフト後の1月に岡山市内で手術。つまり故障が先で指名が後だったのに、世間の風当たりはきつかった。患部に埋め込んだサファイアは、今も残っている。その術式のおかげで何と1週間後にはほぼ全力で投げていたそうだが、キャンプには合流せず、1軍初登板も2年目に持ち越した。
 「投げられないことよりつらかったのは、仲間が打った、打たれたとか野球の会話をしているのに加われなかったことですね」
 草加には同じ東都からドラ1で入った6人のライバルがいる。落合には若田部健一(駒大→ダイエー)がいた。「テレビで『今日の若さま』ってコーナーがあったんです。僕はそれを必ず見るようにしていたんです」。そんな雌伏の日々を伴走してくれたのは、稲葉光雄2軍投手コーチだった。かけてくれた言葉を今も覚えている。
 「同じ土俵に上がった時、オレは絶対に負けない。その気概だけは忘れるな」
 この先、ライバルは勝利の笑顔を見せ、草加には地道で長い道のりが待っている。それは32年前に落合コーチが歩いた道でもある。
 「朝『おはようございます』ってあいさつした顔色を見ただけで、稲葉さんは僕の状態を見抜いていました。今度は僕が稲葉さんの役割をする番です」
 ライバルとの優劣を決めるのは、誰が最初に投げた、勝ったではない。"
https://news.yahoo.co.jp/articles/988772294c169ad48369eafb185d25aff89357fd#:~:text=%E8%8D%89%E5%8A%A0%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD,%E3%81%92%E3%81%9F%E3%80%81%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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トルシエ監督と「犬猿の仲と思ったけど」 抱擁したまさかの日本人に感激の声「うおぉぉーーー」(THE ANSWER)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
"「恩讐の彼方に」そんなタイトル以外にないだろう。
これまでの他のどの外国人監督よりも野心に溢れ、フランス人らしい論理的なアプローチで日本人の長所と欠点を洞察し、まだ青年のように未熟だった日本代表に情熱を注いでくれた。代表10番名波との恩讐も、1人だけ欧州目線でトルシエと対峙した中田英寿とのネゴシエーションも、今ではいい思い出。ドーハから日韓までの9年は、日本サッカーの思春期で、青年教師のようだったトルシエと当時の代表選手たちとの剥き出しの模索の時代が今ではちょいと懐かしい。
ローマは1日にしてならず。
いくらいまの代表が進化したと吹聴してみても、W杯の成績は21年前にトルシエが成し遂げたベスト16のままだ。"
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e173ba60215701b33d5276a2f4652df190cf679/comments#:~:text=%E3%80%8C%E6%81%A9%E8%AE%90%E3%81%AE%E5%BD%BC%E6%96%B9,%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%8816%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%80%82
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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ユーロ懐疑論を一蹴「欧州は前に進む」 ドロール元欧州委員長 戦争の記憶原点に
当時は11カ国のお金をいっぺんに取り換えるなど想像すら難しく、日本でも「ユーロは失敗する」といった懐疑論が強かった。「本当に大丈夫か」とぶしつけに疑問をぶつけても、ドロール氏はほほ笑みを絶やさなかった。「もちろん、ユーロは成功する。欧州は���合へ、前へと進むのです」と答えた。眼鏡の奥の青い瞳は、まったく揺るがなかった。欧州共通外交や安全保障など、まだ構想でしかなかった時代だ。
「一つの欧州」への信念は、戦争の記憶に根ざす。父は第一次大戦の負傷兵だった。第二次大戦で、家族の住むパリはドイツに占領された。「憎しみの連鎖を絶つべき」と思った。
19歳でフランス中央銀行に務め、労働運動から社会党に加わった。左派政治家の中では際立って実体経済に強く81年、社会党のミッテラン政権が発足すると財務相に抜擢(ばってき)された。
85年に欧州委員長に就任。ミッテラン大統領、コール西独首相の「独仏枢軸」の要として、欧州統合に突っ走った。93年のマーストリヒト条約で、通貨統合を実現させた。国境検問の廃止により、人やモノの「移動の自由」が動き出したのもドロール時代だ。
欧州委は経済協力を束ねる事務組織から、統合のエンジンに変わった。ドイツ人のある欧州委元高官は「あのころは、興奮の日々だった。『歴史が変わる』と肌で実感した」と回想した。一方で、当時のサッチャー英首相は「ブリュッセルの強権支配」を批判した。ドロール時代の10年は、英国の欧州連合(EU)離脱の原点でもある。
ドロール氏は、95年の仏大統領選で社会党候補として名前が挙がったが、支持を固めきれず断念した。3年前、新型コロナウイルスが欧州を襲ったとき、「EUに死の危険をもたらすのは、結束の欠如だ」と声明を出し、連携を訴えた。晩年まで、「統合を止めるな」と欧州人を叱咤(しった)激励し続けた。(三井美奈)"
https://www.sankei.com/article/20231228-ML2IAIFPVNOEDAIJITQJ3274TA/#:~:text=%E6%96%B0%E8%A6%8F%E7%99%BB%E9%8C%B2,%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%9F%E3%80%82%EF%BC%88%E4%B8%89%E4%BA%95%E7%BE%8E%E5%A5%88%EF%BC%89
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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江南亜美子
@ami_ena
·
先日の松浦理英子さんをお迎えしたイベント@近大での、素晴らしいお話のお裾分けをします。以下大意。「デビューから80年代まではとりわけ不遇だったが、作品の人物たちを性的少数者であることに苦悩する者としては描かなかった、それは多数派読者に“マイノリティ観光”をさせるだけだから」。続く
「『最愛の子ども』は、当時から現在もかわらぬ、孤独でみじめで、まるでゲットーのような世界で暮らす少女たちの、その中のささやかな幸福を書いた。生きづらい少女を私の作品で生かしてあげたかった、少しは救済したかった。これほどの作品はもう自分で書けないかもしれない」。続く
(会場の創作を目指す学生へのアドバイスとして)「だからみなさんも、世間の既存のマイノリティ問題についてではなく、あなたの内にあるマイナー性を大切に見つめて小説を書いてほしい。文学はマイナーなもののためにあるのだから」。松浦さんの真摯で温かな言葉に、横で聞いてても胸が震えました。
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whatwouldyougrabtomorrow · 1 year ago
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ガザで支援を続ける中嶋優子医師「日本も同じだったよね」の言葉に感じること(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
"活動を続ける中で、戦争の犠牲と比較して医療者ができることの小ささに、無力感を感じることもあるという。
「助かって今日を生き延びても、2、3日後に亡くなってしまう方や、感染症などで何週間も苦しんで亡くなる方は���ごく多いです。戦争をしないということに比べて、医療ができることはすごく実は小さいんです。そのことに、無力感を抱くことはあります」
そういった中でも、国境なき医師団の活動をガザの人たちが喜んでくれることが支えとなっている。
「色々な国のメンバーからなる多国籍チームがガザに来たことを『わざわざ安全な国から来てくれた』とガザの人たちはありがたがってくれます。ここに来たこと自体が希望になるのであれば、それだけでいいと思っています」
中嶋氏が日本出身だと伝えると「日本も同じだったよね」と言われることがあるという。
「『第二次世界大戦の時に、日本も同じだったでしょう?家族ではない隣の人たちと助け合い、少ない食事を分け合い、狭いところで一緒に生活したんでしょう?お互いを助け合う共助で乗り越えてきたのは同じだよね』と何度か言われました。私はその時代を直接は知らない世代ですが、そうだったんだろうなと思っています」"
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c64985e2ad5850fbe9f2221806880dda9f23aeb?page=2#:~:text=%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E7%B6%9A,%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%8D
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whatwouldyougrabtomorrow · 2 years ago
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日本では、東京都心では、現在どれだけの文化が生まれているだろうか? 文化は数えられない、それは偉人やアーチスト、インフルエンサーの数ではない。あなたが、わたしが、どれだけ自分自身を、スキルやスペックではなく、ひとつの個性、感性として生きているか、という時間の在処に尽きる。そのように生きられる場所がまちに、当たり前のように存在する、かけがえのない���産。人間であることを、味わえる場所。そこは、わたしに1円も稼がせてくれない。でも、なくてはならない。だから、ばかみたいに応援したい。応援というか、一味になりたい。わたしがより、人間であるために。
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whatwouldyougrabtomorrow · 3 years ago
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松村沙友理が語ってくれた「“30歳までに”の呪いがとけて、今の私を好きと思えるまでのこと」(@BAILA) - Yahoo!ニュース
"今日も私は昼食を食べながら「あむ」と言い、漫画を読みながら「こんな恋がしたい」とときめいています。人間は年齢で大人になるわけじゃない。30歳になった今も私は相変わらず未熟なまま。だからこそ、周りの声に耳を傾けることは大事だと思っています。でも、すべてを取り入れるのではなく、無理せず背伸びせず、その中から本当に必要なものを選べる自分でありたい。
アイドル時代の私は「トマトが好きです」と一度言ったら「永遠にトマトが好きな自分でなくてはいけない」と思っていた。でも、今は「あの頃は好きだったけど、もう好きじゃない」と言える自分を大切にしたいと思う。理想の自分になりたいから、周りの期待にこたえたいから、同じ失敗を繰り返したくないから、人は皆「こうじゃなきゃいけない」という呪いを自分自身にかけてしまうことがある。でも、それは自分を幸せにするどころか苦しめてしまうこともある。それに気づけた今の私は自由に歩ける気がしている。30代の松村沙友理はより“私は私らしく”人生を楽しめる気がしています。"
https://news.yahoo.co.jp/articles/f88435f3ed197d0a007f42345bea573cf0adf033?page=2#:~:text=%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%82%82%E7%A7%81,%E3%81%97%E3%82%81%E3%82%8B%E6%B0%97%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
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whatwouldyougrabtomorrow · 3 years ago
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whatwouldyougrabtomorrow · 3 years ago
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小さい頃から地図に没頭するのが好きでした。49歳になった今でも、その魔力には抗えません。この貴重な勉強をもう少し続けながら、自分はもう49歳で、世の中を良くするような大きなことを何も成し遂げていないという落胆はもうないのである。伊能忠敬は、私のような年齢で人生を一新して、実に偉大なことを成し遂げたのだから。私たちは皆様、可能性を見出さなければなりません。遅すぎるということはない。本当に望むなら、私たちは変化をもたらすことができるのです。私は、希望とアイデアとエネルギーを持った皆さんと一緒に、それを成し遂げたいと考えています。今日、私たちの挑戦はより大きなものとなっています。グローバルな課題です。しかし、私たちは一人でそれを行う必要はありません。しかし、私たちは一人でやる必要はありません。協力をしながら🤝楽しめる。これから宜しくお願いします。
While I keep studying this precious artefact (I don’t have an original print of course) a bit longer, I feel no longer discouraged that I am already 49 and haven’t achieved anything significant that would have made the world a better place. I take comfort in the fact that Inō achieved something really great after reinventing his life completely while being in my age. We all should see the possibilities. It is never too late. We can make a difference if we really want. I am looking forward to doing that together with those among you who also have hope, good ideas and energy. Our challenges are bigger today. They are global. But we don’t have to do it alone. It is fun and gratifying to do it in collaboration.
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whatwouldyougrabtomorrow · 3 years ago
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Kenya and almost every African country was birthed by the ending of empire. Our borders were not of our own drawing. They were drawn in the distant colonial metropoles of London, Paris and Lisbon, with no regard for the ancient nations that they cleaved apart.
Today, across the border of every single African country, live our countrymen with whom we share deep historical, cultural and linguistic bonds.
At independence, had we chosen to pursue states on the basis of ethnic, racial or religious homogeneity, we would still be waging bloody wars these many decades later.
Instead, we agreed that we would settle for the borders that we inherited, but we would still pursue continental political, economic and legal integration. Rather than form nations that looked ever backward into history with a dangerous nostalgia, we chose to look forward to a greatness none of our many nations and peoples had ever known.
We chose to follow the rules of the Organisation of African Unity and the United Nations charter, not because our borders satisfied us, but because we wanted something greater, forged in peace.
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whatwouldyougrabtomorrow · 3 years ago
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 皇居清水濠のほとり、竹橋のそばに、「パレスサイドビル」と呼ばれる、その建築は建っている。言うまでもなく日建設計林グループによる、日本のオフィス・ビル建築史上に輝く作品である。ガラス・ファサードにおおわれた執務空間-二つの矩形の空間と、特徴的な二つの円形のコアによって構成された平面型は、すでに多くの者によって語られてきた。もう少し、その建築の成り立ちを知る者は、その構成が変形した敷地形状と、新聞社の印刷工場を地階に配置することから導き出されたエレガントな回答であることを知っている。本書では、その回答が常識では考えられないような厳しい過程を経た結果、生み出されたものだということを知ることができる。
 パレスサイドビルは、毎日新聞社、リーダース・ダイジェスト社らを建築主とする建築として構想された。毎日新聞社にとっては、新聞発行のための印刷工場を内包する本社屋である一方、貸しオフィスや、地下鉄駅と接続する商業空間を持つ複合都市建築であり、当然ながら経済性は追求されるべき建築であり、工期も非常に厳しいものであった。本書を開くと、起工式の際に掲載された新聞発表紙面を見ることができる。それは、完成した姿とは似ても似つかぬセンターコアの横連窓ビルの透視図であった。林昌二によれば、それは設計が決まらぬうちに要求されて、やむなく描いたものだったという。その後、地階の印刷工場や、米国製大型車のための駐車場を持ち、かつ経済性に優れた円形ダブルコアのプランが産み落とされた。新聞発表までして世に周知されたと思われる案は、捨てられる運命となった。
 世に単体の建築を扱った書物は、少なくない。その多くは、設計者、施工者をはじめとする建築サイドによって編まれる。しかしながら本書は、建築主である毎日新聞社自らによって編まれた書物である。厳しい過程の末に完成した建築に対して、建築主が何を感じ、この四十年間使いつつ、過ごしてきたかは、建築主自らが本をつくるという事実が雄弁に物語っていると言えよう。毎日・リーダース会館とも言うべきパレスサイドビルは、建築主により「パレスサイドビル」と名づけられた時、単なる建築主に奉仕する建物であることを越えて、お堀端に建つ真の都市建築となったのである。建築主は、その名前を選んだ時、その建築が優れた都市景観の一部となることを望み、そのことを設計者に求め、設計者もまたそれに応えたのであった。今なお古びない多くの技術的解決の解説や、空撮などによる現在の姿をおさめた写真など、本書は一つの優れた建築の記録であり、同時に未来への伝言である。
「住宅建築」2007年2月号
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whatwouldyougrabtomorrow · 4 years ago
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"スケートボードならではの光景だった。選手は1本滑り終わるたびに他の選手とハイタッチし、抱き合った。高度なトリックが決まるとボードをコンクリートにたたきつけて喜び、歓声をあげる。心からスケートを楽しみ、笑顔で滑る。新しい五輪の風景は、テレビを通して伝わった。首をかしげる人もいただろう。しかし、多くの人にはポジティブにうつったはずだ。
スケートボードに国境はない-。もともと国という意識は薄い。プロツアーでも、Xゲームでも、選手は個人で参加する。国歌もなければ国旗もない。国を意識することもない。
実際、多くの選手が米国で滑っている。米国の市民権も持っている。五輪に出場するため祖父母などルーツがある国の代表として出ている選手も多い。スケボーやサーフィンでは「米国代表選手が東京大会に出るために自分のルーツ探しをしている」という話も聞いた。
6年前、スケートボードが東京五輪の追加種目候補になった会見に、堀米雄斗と瀬尻凌が並んだ。「好きな選手は?」という記者の質問に「ナイジャ・ヒューストン」。記者が「どこの国の選手ですか?」と聞くと、2人は顔を見合わせて「知りません」。それがスケボーの常識なのだ。
スケートボードに順位はない-。より上位を目指すのがスポーツだが、スケーターにその意識は薄い。もちろん、結果としてのメダルは求めても、最終目標ではない。岡本は金メダル狙いで大技をやったのではという質問に反論した。「目標は金メダルではなく、自分のルーティンをすることでした」。だから、仲間たちは挑戦をたたえた。
大会で、ある選手が大技に挑んだ。失敗して滑走を終えると、他の選手たちが「もう1度」とばかりにボードを慣らす。観客も呼応して歓声をあげる。再度大技に挑戦して失敗、さらにもう1度…。5度目くらいで成功すると、優勝者以上の拍手と歓声が起きる。もちろん、競技は中断したままだが、オフィシャルもやめさせようとはしない。不思議そうに見ている記者に「これ、普通ですよ」と関係者が耳打ちしてくれた。
国も背負わない、順位にも捕らわれない。それが、スケボーやサーフィン、BMXフリースタイルなどエクストリームスポーツのカルチャー。国を背負って順位を争う五輪の仲間入りすることで、本質が失われることを危惧する声は今もある。国際サーフィン連盟のアギーレ会長は笑いながら言った。「我々のカルチャーは変わらない。五輪が変わるんだ」。"
https://www.nikkansports.com/m/sports/column/ogishima/news/202108040001225_m.html?mode=all#:~:text=%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AE%E5%85%89%E6%99%AF,%E3%81%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%8D%E3%80%82
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whatwouldyougrabtomorrow · 4 years ago
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"24歳の春、中国名「任彦麗(にん・えんり)」は、宇津木妙子さん(元日本代表監督)に憧れ、東シナ海を渡ってきた。1995年に日本国籍を取得し「宇津木麗華」と名乗った。好機に打てないと「中国に帰れ」とやじられ、泣いた。「日本人になって、頑張って、たくさん打ったのに…。打てなかった、たった一度を責められるのか」。誰もが期待する場面で必ず打つと心に誓った。
 「私にとってソフトボールは夢であり人生。九州は上野由岐子が生まれ育った場所。その読者に思いや考えを伝えたかった」。選手で五輪に2度出場。指導者としても世界選手権を2度制した。西日本新聞のコラム執筆を依頼すると、快諾してくれた。タイトルは「麗しき夢」―。今は亡き両親から授かった大切な「麗」の1字には真っすぐ、いちずの意がある。「私に『麗』という名前をつけてくれた親の愛情、祖国の中国を忘れないための『華』。この名前に負けてはいけないと自分に言い聞かせている。負けないためには、どうするかが私の行動規範になっている」
 言葉の壁から人前で話すのは苦手。カラオケはやらない。好きな曲はある。中島みゆきの「糸」だ。歌詞の「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」をソフトボールに置き換える。「選手と私で糸を紡いで、ハリウッド(スターが集まった)チームの米国を倒す」と大一番に臨んだ。
 五輪の1年の延期を「天の配剤」と受け止め、後藤希友(みう)を抜てき。20歳の左腕は救世主になった。投打「二刀流」の実力は誰もが認めながら、やんちゃな一面を持っていた藤田倭(やまと)は「自分の心をコントロールできれば、上野に並ぶ『日本の顔』になれる」と背中を押した。
 大会前に調子を落としていた藤田は打者として3本塁打。投げても1次リーグ最終戦で打たせて取る投球に徹し、決勝の上野と後藤につないだ。「チームは家族。先輩は姉、後輩は妹と思い、愛情を持って接しなさい」。17歳で失った母の教えを胸に、選手の心を一つに束ねながら戦った。
 福島の夏空の下で始まった13年ぶりの挑戦は、横浜の夜空の下で完結した。58歳の日焼けした頬を熱いものが伝った。上野と抱き合うと、号泣に変わった。「運は天に任せてはいけない。自分でつかむもの」。信じた選手たちの手で宙に舞った。2021年7月27日―。麗しき将の夢に、生涯忘れることのない「日付」が刻まれた。"
https://www.nishinippon.co.jp/nsp/sp/item/n/776677/#:~:text=24%E6%AD%B3%E3%81%AE,%E3%81%8C%E5%88%BB%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82
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