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●焦りが入ってくると
予定ある? ないないない
大丈夫大丈夫
同じことを繰り返し言う
●いまの迷い
ハシモトさんの弟子入りは介護で断られた
けど、何にんか 思いあたる人の名前があがった。
ハシモトさんの甥のはしもとさん
やとうさん
たてさん
錚々たる人たち
また、今はこれから介護が始まりそうで
厳しいけど おれは教えたい気持ちはやまやまなんだけど、今は平時じゃないからまた時間ができたら電話するから なんか電話くれてもいいからね
と言ってくださった。
そこまで言ってくれた人に
しつこくお願いもできない
弟子入りをお願いするには
その環境の調査をする必要がある
お店を見学 工房の場所をさがす
話をしてみる
店舗がない場合はハードルが高いが気持ちが固まれば超えられるはず
超えられないと判断できるかどうかが定まっていないから苦しいのであって
一つ一つ前へ進めていけば解けるから、変に病気を主語にして考える事をやめること。これも運動によってよい思考回路の道を作れるはず。
鳥山製靴へ行く
有馬製靴へ行く
やとうさん、タテシューズに行くなら
有馬に話をしに行ったらいいと思った。
(分校のころ皮フェアで出会い、工房を訪ねて以来 靴を教えてもらった人。靴つくるときに場所を借りたりしていた)
ヤトウさん、タテさん、はしもとさん、 ツクイレイコさん?
そもそもそんな世界に入っていく
決心があるのか
羽田のハシモトさんは魔法のように打ち解けたが、それはハシモトさんの人柄で
わたしのような人が
近づいていい人なのかどうか、、疑問に思いながらも聞いてみた
病気と共生することと
その世界に入ることは反対のベクトルなのか
石原先生のところに行こうとしてたのに
くつのハシモトを知ると
石原靴教室が急に色褪せてしまう。
欲が出た��けだけど、靴教室よりよほどよい勉強になる可能性は大きいし 教室にお金を払うつもりでいたわけだから年間100万の分
修行の期間を伸ばすこともできる。100万は半年分の生活費。
既存の考え方をしないために手帳をとったはずなのに すぐ既存の考え方に戻ってしまう
この仕組みに気づけば軌道修正することはたやすい
そううつと共生するやり方 と 既存のやり方は相容れない
既存のやり方は技術を追求していく 継承していく
共生するやり方は なまぬるい
なにがなまぬるいのか?
わたしが求めてるというより
守らないといけないのは
① 23時に寝て7時間睡眠を確保して
② 6時から7時まで5kmのランニング
③ 3食とった上で
技術を追求できないのか?
それではなまっちょろいのか?
徹夜作業はできない。では務まらないとないのか。
病気をなかったように振る舞い続けることはやってはいけない。
私は健康維持のために
運動を生活の中に取り入れる必要があり
忙しくてできない よくある言い訳はそこには通用しない 病気の安定化 鬱の予防のために 人に感謝し 謙虚さを持ち続けるために続ける。これは私にとっての飲まないといけないあたらしい薬🏃♀️
まずは運動習慣をつけること。
心拍計を買い
適した靴を買い
一日5kmを目標
雨の日はダンベルをして
脳を鍛える。
思考をパターン化する。
自ら軌道修正できる力を身につける。
わからない事は人に相談する。
または一晩ねる。
起きると考えが整理される。
それから向かっていく。
そういった事をまとめた文書をもって向かえば相手も正しい助言をくれるのではないか?
決してやる気がないのではなくて、
そのやり方をしないといけないという事を
理解してもらう必要がある。
これがだめなら
この方法はどうだろう?
という地に足のついた考え方ができるんではないだろうか??🦶
焦らないでじわじわ続ける
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またこの場所に救われました。
10年以上の付き合いの躁鬱病が再発して療養していました。
3年半ぶりの鬱
【躁鬱病: 今は双極性障害と呼ばれています、また双極症と名称が変わるそう😅】
年単位で症状が落ち着いていると
ついエンジンがかかりすぎて 気がついたらショートしていて鬱に落ちる事があります。
環境や生活習慣を大きく変えるとどこまでが大丈夫なのか探る必要もあって
躁鬱病のコントロールの難しさ、神出鬼没さには毎度驚かされます。
一旦 鬱の世界に入ってしまうと何度経験していても
鬱がセロトニンをはじめとする脳内伝達物質のエラーによるものだと理解していても
それによって 喜怒哀楽の 哀 だけになってしまう事で 全てを遠くに感じ 生きること、生活や人間関係すべてに興味関心を失くし 文字通り何もできなくなることは毎度辛いことです。
なのに何故なんども同じ事を繰り返すのかというのがそれこそが病気である由縁で
これは依存性でなく、先天的な脳内伝達物質の機能不全が原因です。
鬱では セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの喜びや幸せを感じる物質が脳内に不足します。
分泌より受容体に問題が生じるとも言われています。
躁ではその反対の過剰な状態になります。
ただそれだけで、個人差はあれど 似たような脳内になり、現れる症状も似ています。
躁鬱病は精神疾患の中の
気分障害という分類でもうひとつは鬱病
鬱病は条件さえ揃えば誰でもかかる可能性があるけど
躁鬱病は限られた人しかかからず
100人に1人程度が発症します。
(なぜ躁鬱になるのか、1番大事なところは昔からある病気だけどいまだによくわかっていません)
躁鬱病の鬱と 鬱病の鬱の症状に差はありません。
鬱のときの記憶は自分が鬱の状態にならないとはっきりとは思い出せません。
(あまり覚えていては日常生活を送れないし、勿論 完全に忘れるわけではありませんが、、)
鬱の時に反省を繰り返して綿密に対策を立てても、調子がよくなった頃には残念な事にさっぱりその事を忘れて記録をつけていた事さえも忘れています。
そのくらい 鬱 フラット 躁
の振れ���は違います
脳内伝達物質が正常に働けばフラットの範囲内で行動と記憶が結びついているのに対して
躁鬱病者の脳では記憶のしまわれ方、引き出し方が違います
鬱のとき
フラットなとき
躁のとき では別人のようになります。
スピリチュアルだなと思いますが、こういうわかりにくさこそが躁鬱病です。
わかりにくいし、この話をしてもなかなか伝わりにくいし、最近は治ったようなもんだと思っていたので あまり病気の話をしなくなっていました。
予防の薬、血液検査は欠かさずすっかり日常になっています。
長年の治療のおかげか 型もあるけど
わたしは躁の状態に滅多になりません。
ほぼフラットで過ごせて、やり過ぎると鬱になります。
日常に支障のでない程度の軽い躁 にはなってるんでしょうが、躁状態というのは客観性がなくなる症状なので自分では気づく事ができません。
色々わかりにくい所の多い病気ですがまた元気な状態に戻ります。
フラットな日が増えてきました。
体が軽くて、悪心に襲われる事がないのは素晴らしい✨
鬱さえこなけばそれだけで日々は穏やかで幸せです。
これはまた病気であり体質で、一生もので明らかな無理をし続けると出てくるみたいです。
今回も灯台のような友人、家族の助けによってまた元気を取り戻せています。
そういったサポートなくして今の自分はありません。
一方で
この病気になって苦労した事はたくさんあるけど、よかったと思える事はまだあまりありません
見た目にはわかりません。
言わなければわからないのなら言う必要はない
病気を開示することで職を失う事もあったのでこのやり方を長年とってきました。
伏せて働く事はできるけど、このスパイのような働き方は積もり積もって鬱に向かっていく原因になってるようにも感じます。
また、この障害があるからといって靴づくりを諦める程ではないと今の自分は考えます。
靴修行とコロナが重なり神隠しのように人付き合いも少なくなってしまいました。
少数派な私ですが周りには改めて感謝です
みなさんの心身が健康でありますように
#双極性障害
#bipolardisorder
#躁鬱大学
#坂口恭平
#双極症
#躁鬱病

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2022.01.29
10年以上のつきあいの躁鬱病が悪化して療養していました。
【躁鬱病:今は双極性障害と呼ばれています】
年単位で寛解状態を保っているとついエンジンをかけすぎて 気がついたらショートしていて鬱に落ちる事があります。 環境や生活習慣を大きく変えると 限界点 を探る必要があるのである意味仕方のない事ですが、
鬱の世界に入ってしまうと、何度経験していても鬱がセロトニンをはじめとする脳内物質のエラーが引き起こす現象だと理解をしていても 全てを遠くに感じて 喜怒哀楽の 哀 だけになることで 生きること、生活や人間関係すべてに興味関心を失くし 文字通り何もできなくなることは毎度辛いことです。
なのに何故なんども同じ事を繰り返すのかというのがそれこそが病気である由縁で これは依存性でなく、先天的な脳内伝達物質の機能不全が原因です。
鬱では セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの喜びや幸せを感じる物質が不足します。
躁ではその反対の過剰な状態になります。
ただそれだけで、どんな人も症状に差はあれど同じような脳内になり、現れる症状も似ています。
躁鬱病は1〜2%の人が発症しますが、鬱は誰でもかかることができます。(わたしはこの病気に選ばれたようです)
鬱のときの記憶は自分が鬱の状態にならないとはっきりとは思い出せません。(勿論 完全に忘れるわけではありませんが、、) 鬱の時に反省を繰り返して綿密に対策を立てても、調子がよく���って来ると残念ながらきれいさっぱりその事を忘れてしまいます。
脳内伝達物質が正常な人は フラットの範囲内で行動と記憶が結びついているのに対して 躁鬱病者の脳は記憶のしまわれ方が違います
鬱のとき、フラットなとき、躁のとき では脳内物質の状態が異なるので別人のようになります。
書いていてスピリチュアルだなと思いますが、こういうわかりにくさこそが躁鬱病です。
わかりにくいし、この話をしても伝わりにくいので最近ではあまり病気の話をしなくなっていました。
実際 鬱がドカンと来ると働けなくなるので、糖尿病の人が血圧を下げる薬を飲むのと同じで 予防の薬、血液検査は欠かさずすっかり日常になっています。
わたしは躁の状態に滅多になりません。ほぼほぼフラット、ごくたまに鬱 を繰り返しています。
軽い躁 にはなっているのでしょうが、躁状態というのは客観性を失う症状なので自分で気づく事ができません。
色々わかりにくい面の多い病気ですがまた元気な状態に戻ります。
フラットな日が増えてきました。体が軽くて、悪心に襲われる事がないのは素晴らしい 鬱さえこなけばそれだけで日々は穏やかで幸せです。
これはまた病気というより体質で、一生もので明らかな無理をし続けると出てくるのでしょう
言い換えれば 自分にできる事しかもうできないのだという事です。
こんな私ですがいつもお付き合い頂いてる皆さんには感謝です。
みなさんの心身が健康でありますように
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https://www.cosmopolitan.com/jp/beauty-fashion/health/a38578506/what-is-bipolar-disorder/
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12.27 2021
昨日、午後の便で帰ってきた。
一週間前とは見える景色が違って見える。
空間が広く見える 鬱の時はなにか靄がかかっていたような感じで
視野が狭い まさにそんな感じ。
周りを気遣ったりする余裕がなく
なにかひとつ行動をするのにすごくエネルギーを使う。
色の感じも曇りの日が一番しっくりくるのだけど、いまではこの土地らしい鮮やかな空の色味もなんの抵抗もなく受け入れることができる。
今回 鬱とフラットが一週間程度で入れ替わり
見え方がはっきり異なる。
そしてすぐこの状態に慣れてしまう 鬱の記憶を忘れてしまうから
サウナ小屋のとなりに生えている木 をはっきり認識できる。
鬱の時は ぼんやりと あ 木が生えている となりの木は死んだ車にひかえれたリス君が眠っている木だ ということは認識しているが
なんだか遠い記憶のようではっきりしない
もやもやの中でうっすら覚えているかげろうのようだ。
たいてい鬱の日々というのはかげろうのようにうつろっている。
朝起きれば��鬱で体は常に重力で走ることもできない なにもする気が起きず
当然そんな状態で人に会いたいわけがない。楽しい 嬉しいという感情が失われる。
身体は健康なはずなのに 生に逆らおうとしている 芯から枯れている 立っていることが不自然 生を望んでいない、苦しい、悲しい、絶望している、楽になりたい、結果横になる、死を望むほどの気力もない、ただぼんやりと死に方を考える、立っていることが不自然、過去のもう思い出したくないような失敗を次から次へと記憶の引き出しを開けていく。
家族の問いかけも鬱陶しい なにも届かない
その状態でも やはり波がある。
-3の日は もう何もできない 横になっていることしかできない
-2 -1 だとできる事はやろうとする 小さなことでも一品料理を作れたり 食器の片づけ 散歩にでる おばあさんを��膚科へ送っていく など
その日にできたことに目を向ける必要がある。
元気だった頃の自分を持ち出さないこと 焦燥感を感じないように努力することが重要。考えが浮かんだらその考えに支配されないように堪えること力。
結果ずっと眉間にしわが寄っているのだけれど
鬱の時間はノーカウント。それは時空を漂う旅人なのだから
くだらない事を持ち出さないに限る。
ひたすら内省にむかう人たち、この時間にされた内省は活かされる事がない。鬱を超えたら忘れてしまうのだから。ただの無意味な時間。
しかし同時に鬱の時の人たちはとても思慮深い。
TIN MANのグラデーションのようにゆっくりしている。
急にTINMANがききたくなる。
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(働きたくても働けない精神疾患者。「私たちは決して ”のうのうと” 生きているわけではない」 – 文・七海 | ananweb – マガジンハウスから)
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(クエチアピン(セロクエル)、クエチアピン徐放剤(ビプレッソ)について|高津心音メンタルクリニック 川崎市 高津区 溝口 心療内科・精神科 町田から)
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12.20
昨日 台東区に帰ってきた。
重い体をひきづり帰宅。
部屋はなんだか嗅いだとこのない臭いがした。
これが自分の家の臭い、普段は全然わからない。
自分が一番落ち着く場所 実家は安心するがまた違う。
本当にうれしい 母の作ってくれたお弁当を温めて頂いて 床のそうじをして気がついたら寝ていて 風呂入って12時頃ねむる。
12.21
6時頃tvがついて起きてしまう 不穏な感じは感じない 8時に朝ドラ
ゴミの日に���蔵庫の古いものを出したい。間に合う。
なにか食べ物を 10時過ぎライフへ 気持ち良い天気で歩いて向かう。
たいてい予定していたより買う事になる。
帰り道、自転車で来ればよかったと後悔する 重い袋を運ぶ。
食事をつくり 冷凍庫のトレイを洗い睡眠表を書き たまった郵便物をチェック 一月分 マイナンバーカードが見つからない しんどい 2時間かかり
疲れる 2時から横になり 寝てしまう。
3時半 体が重く 区役所へ行くのを断念する。
情けなくなり泣けてくる なく必要なんかない。
泣くなんて鬱を甘く見ている 元気だった頃の自分と比べて失望なんかしてたらいつまでたっても治らない 毎日それの連続なんだからできた事を褒める。
調子いい時に ついあれもこれもやってしまうのも 自覚が足りない。
結局おつりが来てまた落ち込む。元気だった頃の自分は忘れた方がいい。今は
それしかない。朝起きて布団をたためて偉い。だなんて虫酸が走るのだけどそのくらい頭の中を転換しないと良くならない。
椅子に座って 何も手につかない。
自転車で行けば疲れなかったね
動けるときに抑えるということを学ぼう。足るを知る。慎む。躁鬱病の人が苦手なこと、もっともっととなってはいけない。
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2021.12.17
11月に帰ってきてから雪らしい雪が降っていなかった。
札幌は雪が降りすぎて 粒も大きく ダウンにシミをつくるような湿気のある雪でうんざりするくらいだったのに対し
帯広の雪は本当にサラサラ チリチリと降る 静かに降り積もる
雪の日が昔から好きだった。
雪の日に兄と雪だるま かまくらを作ったのを思い出す。アイヌ犬のクロがかたっぱしからおしっこをかけた。
鬱が冬に来ることは今までなかった。
桜の咲く頃春鬱か、茹だるような夏、
前回は夏に療養している 畑一面に向日葵が咲いていた。
雪をみて気持ちが沈んでいた事は一度もなかった。
頭の中が混乱している。
なぜ冬に、雪をみたら嬉しいはずなのに
どちらかというと上がる時期
これはわたしの周期とは関係がない。
よくわからないが涙が出る
なにも手につかず、朝から沈んでいる。
時間がつぶせない、何かしていないとなにかにのみこまれてしまう。
兄がswitchを貸してくれて女神転生2をやっている。よけい鬱陶しくなりそうなゲームだ、音楽が暗くて落ち着く ゼルダをすすめられたがキラキラしていて疲れてしまった。
ゲームは高校卒業と同時にやめた。昔ゲーマーだった。ゲームとは決別した。時間がすぐになくなるから。以来ゲームをやる習慣がない。
ゲームは何も考えないで済むから楽だ。
いつもバカにしている母のパズルゲームに助けられている。
家族が気遣って話かけてくれるが鬱陶しくてたまらない。
東京行きの予約をさきのばしにしている
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双極性障害が障壁となる場面
職探しのとき これは会社で務めるならずっとついて回る難しい問題
面接、履歴書を休職、療養期間をなかったように作り、他のもっと無難な疾患にすり替え通院の休みをとり病気自体をないもののようにして過ごすことがデフォルト
普通の人に合わせて同化することは可能 そんなに難しくはないと思う 面接も通ります
ただ、病気を伏せたり他の病名にすり替えていることが日に日に息がつまります
通院で早退するのに友達の皮膚科通いを借りたり、半年だけの仕事ならそんな感じで問題ないでしょうが、このやり方には負い目を感じずにはいられません。次第に窮屈さを感じていきます。
そうかと言って誰にでも伝える情報ではない。
適切な人に伝わる必要がある。ということです。
それを弱点、としか受け取れない社会が嫌なのです。病気、精神疾患には脈々と差別の歴史があります。それと面と向かって闘う必要もないです。もっと飄々とやっていきたいのです。
病名を隠すことも病名をすり替えることも
したくないのです。
自分に正直に生きているからです。
そういう場面をつくらなければよいのです。
自分で仕事をつくれば 病名を伏せなければいけない場面に遭遇しません。
同僚に伝えたらそれについて攻撃されたこともありました。
わたしのトラウマになった事で、病気のことを伝えたら大事になりあとからどうして黙っていたと尋問された事があった。退職においこまれました。
エージェントに休職期間の1年半をどうしても埋められなくて相談したら、面接まで進んだ話がなくなってしまった。
そもそもがくだらないのです。
隠さなければ面接にとおらない事。
病気がわかれば契約が打ち切りになる事。
精神疾患がこの国では差別の対象にいまだになっているという時代錯誤なくだらない事実にその都度つき合わなければならないことが虚しいのです。
そして家族が世間に対して隠したがる事実が1番悲しいです。恥じているのでしょうか?わたしの存在を。
その事に対して言葉も持っていない。
自分の頭で考えもせず、結局その世間に迎合している彼らに鬱になれば世話になっている自身に腹が立ちます。
世間は誰なのかなんてどうでもいいのですが、納得のいく折り合いをつけたいのです。
安易に楽な道に入りたくはないのです。
障害者手帳をとるほどの障害ではなく
健常者に近いが健常者とも違う
宙ぶらりんな貴族のわたしたちはわたしなりの生き方を確率する方法があります 常識や定説は相手にしてはいけない
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