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夢見草
八戸の種苗店をスポンサーに、地元のラジオ局で番組を任されていた。月曜日から金曜日まで、午後12時50分から55分までの5分間、俗に帯番組と言われるやつである。収録は週に一度、毎週火曜日の深夜に行われた。始めたばかりの頃は、スタッフの皆様にご迷惑をかけてばかりいた。もっと明るく、大きな声で。オープニングのタイトルコールだけで、午前3時を回った。じゃ次、自由に何か喋ってみて、指示が飛ぶ。ひとりごとのような脈絡のない話を、おもいつくまましゃべる。はいダメ。じゃ次、原稿読んでみて。用意した原稿を読みあげる。滑舌が悪い、発声がなっていない、暗い、元��がない、内容判って読んでるの。放送部で身につけた能力も、花屋で培った知識と経験も活かせない。番組を持つという高揚感は、収録のたびに潰されて、ぺしゃんこになった。数を重ねるうち、当初3時間かかった収録も1時間で終わらせることができるようになっていた。
青森のだびょん劇場で牧良介さんと初めてお会いしたのは、そのころだったとおもう。「帯やってればじょんずになるはんで、がんばれ」。どちらかといえば寡黙で、普段はろくに人と目を合さない牧さん。後にも先にも一度だけ、まっすぐな目線で励まされた。
牧良介さんといえば「或るめぐらの話」。高木恭造原作の、津軽弁による、全盲の男の寓話である。主役の黒井全一を、独り芝居で100回以上演じた役者さんとしても知られる。最後の場面、全一が桜の花びらを頬で受け止めている。見える見える、面白い面白い、チェンチェコと踊りながら物語はクライマックスを迎える。絶望から希望へ。暗闇から光へ。見えなくても見えるものがある。1度演じただけではわからないから、何度も繰り返す。100回演じて初めて見える景色があったのだとおもう。
果たして番組は2年半続いた。週に5本、月20本として、年240本、2年半だと600本という計算になる。戻りたくはないが、今となっては良い思い出だ。

1992年刊
1981-1992 津軽弁に寄る舞台写真集
或るめぐらの話/詩人・高木恭造 役者・牧良介 写真・山口清治
題字・鈴木正治 ペン字・樋口康子
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四十路に、水疱瘡
胸の真ん中あたり、ちょうど鎖骨の間くらいのところにみっつ、赤い点をみつけた。なんだろうと内科を訪ねたら、皮膚科を紹介された。向かい合った瞬間、医者の表情が曇った。ランコムピンクのアイシャドーと口紅に、聖子ちゃんカットがかわいらしい女医さんだった。「あらー、これはねぇ水疱瘡よ。ダメダメ、こんなところにいちゃ、奥のお部屋へ行ってくださいますぅ、そうあっちあっち」。1オクターブ高めの黄色い声が、神経に障る。
それから毎日通院である。他の患者さんへの感染を防ぐため、裏口からの出入りを強いられた。みじめである。1時間半、点滴をうける。3日目には発疹が全身に及んだ。体温は40度近くまで上昇、解熱剤も効かない。頭皮から耳の中、顔面、肩首、背中腕足、特に皮膚の薄いところがひどい。か��いいたいさむいだるい。発疹が赤く膨張して増えていく。とーちゃんの献身的な介抱に泣けてくる。こんなときにこんなことになるなんて、情けない。
大家さんから転居を打診されていた。日々、96歳の義母さんの介護をしながら、不動産を回り物件を探していた。原稿の締め切りもあった。どれも待ったなし、気を抜けなかった。知らぬ間に、疲労が蓄積していたのだろうか。病は弱みにつけこんでくる。発疹は、厚いかさぶたとなり全身を覆った。すでに自分の身体ではない。高熱の中、考えた。熱が下がって治ったとしても、跡は残るだろう。これから一生、デコボコの顔で生きていくんだ。もう人前には出られない。ずっと日陰の暮らしだ。直接人と会わずに仕事はできるかしら。稼げなくなったらどうしよう。点滴は1週間続いた。長い1週間だった。
キレイになるから大丈夫よ、と笑ったランコムピンクの言葉は本当だった。口元や目じりにあったかさぶたが、うそのように消えた。無理をしてはいけなかったのだ。体調管理も仕事のうち。身体の声を聴きながら、ちゃんと食べ、眠ることを心掛けようと思う。
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節分に
あのとき違う道を選んでいたなら。ふと、そんなことを考えることがある。ふたつに分かれた道、右へ行こうか左へ行こうか。ひとりで決められることもあったし、逆らえない選択もあった。それらの結果が今なのだけれど。二者択一、二分の一の確率で物事は定まっていく。ここに至るまで、無駄はなかった。全部必要なことだったのだと、おもえるようになった。それなりに、時間はかかったけれども。
節分がくると思い出す、節男(せつお)という名の人のこと。彼は、同級生のお父さん。小学生の頃からずっと、お世話になってきた人。節男さんは花屋の2代目で代表取締役、テンガロンハットに革のベスト、ジーンズにブーツといった出で立ち。アメリカンな空気を漂わせ、ロデオビッグホーンを乗り回す。腰にはいつも、花ばさみをぶら下げていた。2014年、個展の会場で聞いた。節分の次の日は立春だろ。オレはその日に生まれたから節男��んだよ、単純だよな。笑った。まさか、この日が最期になるなんて。
他所の花屋で働くわたしを訪ねて来ては、夢のような話をしてくれた。ふたりの会話は、なぜかいつも英語だった。業界用語のような、ふたりだけしか通じない言葉も共有していた。フローリストの勉強をしに、アメリカへ行かないか。経費は俺が全部持つ。帰国したらうちで雇うから。考えてみてくれないか。かの国へ思いを馳せた。19歳、独身、彼氏なし。アメリカから帰ってきたばかりで、無能をかみしめていた。平凡な毎日を浪費するばかりの日々。その気になれば、出来るかも。今の暮らしを変えるのに、何の妨げもなかった。英語ならどうにかなりそうだ。やります、と答えれば実現する話だった。だけど、やめた。節男さんはMのお父さん。Mは親友なのだ。Мは、わたしが父親に雇われることを嫌った。Mの思いを尊重した。それでいい。こんな季節の分かれ目に、あの日に思いを巡らせてしまうのは、きっと春の陽気のせいなのだね。
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影。
朝はお洗濯からである。天気を見て、陽が射すときなどは、大物をかき集めて放り込む。回す間に風呂場とトイレ掃除をしてしまう。冷蔵庫の在庫を一巡、不揃いの在庫を組み立てながら献立を考える。きゅうりが豊富だから、今夜はこれをやっつけたい。冷やし中華と棒棒鶏サラダにしよう。採用が決まった野菜は取り出して、水を張った桶に浸しておく。夕方までにはシャキッとなるはずだ。「鶏肉」とメモしてテーブルの上に置いておく。
窓を開け放つ。2階から1階にかけて、壁のモップ掛けをしたい。上から下へは、お掃除の鉄則である。これでもかというくらい、部屋の埃を撹拌する。外からの風のおかげで、大半は窓から外へ抜ける。ふと洗濯機が完了の報せを告げるので、モップはいったん置いて物干し作業に移る。洗いたての衣服は、1枚ずつ畳んで叩いて干すといい。シワが伸びてキレイに乾く。昼にいちど裏表を返すと、さらに効率的である。
撹拌された埃が、床に落ちて鎮まっているはずである。そこを一気に掃除機で吸い上げるのである。絨毯は毛足が長いので、縦横にやらなければいけない。掃除機本体に埃がたまっていては吸い上げる力が落ちるので、マメに空にしながらまた電源を入れる。ノズルを交換して、脇の奥の方もやる。なかなか手の届かない隙間がきれいになる瞬間には、得も言われぬ快感がある。
メモを携えて、近所の生協までペダルを踏む。本日初めての外出なり。お掃除したてのお部屋は気持ちがいいから、今夜は板わさを一品おまけしようかな。洗濯物を取り込み、畳んで箪笥へ仕舞ったら夕食の支度にとりかかる。暮らしが整うと、すべてが整った気持になるのは不思議なことである。仕事が最優先の日もあるけれど、わたしの生活の大半は家事で占められる。やってあたりまえのことは大抵、表にでない影のことである。
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茶碗蒸し
川徳の5階の食器売り場でみつけた。芦田淳デザインの茶碗蒸し用の食器と蒸し器を、セットで買った。いや、結婚の記念にと、ほぼ強引に買ってもらった。価格にして、1万円は超えていたと思う。そりゃあもう、うれしくて、使ってみたくて、帰ってすぐに茶碗蒸しを作ったものだった。だって、蒸し器なんて欲しくても買えなかった。茶碗蒸しは大好きだけど、なければなくてもいい、ぜいたく品だった。結婚て、なんてすばらしいの。幸せをかみしめていた。そのあと、旦那様の店に行って愕然とする。茶碗蒸しにつかえそうな蓋物の器が、幾つも並んでいたのである。それも江戸後期の伊万里焼の食器で、芦田淳より低価格ときた。これでよかったかも。なにも川徳で買う必要などなかった。今でも食卓で語り草になっている。とーちゃん、あのときよく買ってくれたよね。やっこがほしいと言ったから。その時しずかに決意したのだ。いつ何時、旦那様から所望されたならば、惜しみなく茶碗蒸しをつくるのだ、と。
ところで今年の茶碗蒸しは、津軽風味にしてみた。よそさまのやり方はしらないけど、津軽の茶碗蒸しはどうやら甘いらしい。甘栗とそのシロップを、お出しに混ぜこむ。誰に教わったわけでもなく、本能に従うと自然にこうなる。卵とお出しは一対一、ザルをくぐらせた卵とあわせてペットボトルに入れておく。椎茸にぎんなんとエ��、カニ、鶏肉はタッパに入れて、お出しに漬け込んでおく。あとは、なると巻と甘栗と三つ葉がそろえば準備は万端。芦田淳に具材を入れて、卵を流し込む。沸騰した蒸し器に並べてフタをする。待つこと7分。一旦、フタを開けて三つ葉を放り込む。またフタをして、火を止め、余熱で2分。これで完成だ。
お正月にはかならず、茶碗蒸しをこしらえる。熱いうちに召し上がれ。湯気の中から芦田淳を取り上げる。ふたを開けると、たまごの黄色と、ナルトの赤と、みつ葉の緑。28回目の茶碗蒸し、いただきまぁす。
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すみさん
東長町の坂を下りきった交差点。百石町の突き当り。黄金焼き屋の2階に、萬燈籠はあった。ここはライヴハウス。他人とは違う自分の言葉を持つ若者が、表現の自由を求めて集まるところ。落ちこぼれとか不良とか言われた連中が、ここでは固い殻を脱ぐ。女将の池田すみさんが経営する。若者達は母のように慕い、胸襟を開いた。無論、私もその一人。アメリカから帰国して腐った日々を、ここでつぶした。
大晦日から元旦にかけて行われる、年越しライヴ。門限がなくなるこの時とばかり、勇んで駆けつけ夜明けまで飲み明かした。楽器を鳴らし大声で歌う音楽よりも、芝居に惹かれたあの頃。劇団弘前劇場へ入団、太宰治を題材にした戯曲に明け暮れた。その一方で、完全に溶け込めない自分もいた。何かに打ち込む彼らの姿は素晴らしい。でも決定的に何かが違う。仲間も仕事も弘前も、みんなつまらないものに見えた。やがて青森の人と出会い、結婚。
熱烈に恋愛して結婚した挙句の新婚生活は甘くない。脳に動脈瘤を2つも抱えた義母さんは、即手術。3か月の入院と7か月のリハビリ。退院後は自宅療養。掃除洗濯炊事仏事神事。家政婦のような生活。つめたい家で働く日々に悲鳴を上げていたとき、電話をくれたのがすみさんだった。一寸付き合わないかと連れていかれたのは、ラジオの放送局。果たして、私はすみさんと一緒に番組を持つことになり、それは2年半続いた。
後日、盛岡から萬燈籠���訪ねた。すみさんはいつもの場所に腰掛け、煙草を吸っていた。窓からの景色、大きな掛け時計、壁のステッカー。ここは時間が止まっている。促されて、私もすみさんの向いに座る。いつか聞いてみたかった。あの時なぜ私を誘ったの。あんた、くすぶっていたから。にべもない。大事な店を閉めてまで、青森へ活動の場を求めた。そんな昔のことなど、どうでもいい。ここは虚実と現実の交差点。すみさんはその主である。
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はなす
5番のプリエの一番最後はバランスである。それまでつかんでいたバーから手を放す。先に右手、次にゆっくりと左手を上へあげていく。輪っかをつくりながら、かかとを上げていく。腕は上へ、でも肩は下げて、あごは引いて、おなかは締めて。目線は正面よりやや上向きに。直立を保ったまま、静止できたなら上出来だ。つま先立ちは難しい。両足でも、大抵はぐらつく。身体を引き上げ、立つことだけに集中する。両手を開いて、下まで降ろす。かかとの着地は一番最後。アンバーの位置まで手がおりたら、おしまい。
バレエのレッスンは、ひたすら同じことを繰り返す。振り付けは、毎回微妙に変わる。これを目視で覚える。覚えて真似る。まことにシンプルである。かかとと膝をくっつけて、つま先を左右に開く。これは1番のポジション。足の裏で床を押し、直立。はじめは、立つことさえ、ろくにできなかった。先生と同じようにできない。くやしい。もどかしい。なぜできない。葛藤していた。足りないのは、柔軟性や筋力だけではない。持久力や集中力も求められる。それで、最近やっとわかった。バレエを華麗に舞う日など、わたしには来ない。素人の分際で、のぞむようなことじゃない。ピルエット、アラベスク、グランジュテ。あれは、厳しい鍛錬の末の成果なのだ。練習を重ねたものだけに与えられる、技能なのだということが。
バレエの、おなじ振付を何度も繰り返す所作は、書の、書き方を覚える動作によく似ている。言葉や動きで教えられることはごくわずか。感覚に頼るところがおおきい。理屈だとか暗記だとか、そういうことともすこし違う。おなじことを繰り返すうちに、身体が覚えていくもの。少しできるようになった気がして、離れてみる。離れてはじめて、出来ないことが分かる。また基礎にかえって、確かめる。確信をつかんで、またはなれる。なにかを身につけたかったら、それなりの時間と努力は必要なのだ。
プリエ(plie’)=曲げる、の意味。バレエの基本動作。バーレッスンで必ず行われる。
アンバー(En Bas)=下へ、の意味。両手を下に置く姿勢。最初と最後の位置。
ピルエット((piruette)=回転。
アラベスク(arabesque)=唐草文様、アラビア風の。
グランジュテ(grand jete)=大きなジャンプ。
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夏休みの宿題
七里長浜は、今日も変わり映えのしない景色が広がっている。どこまで行っても砂、砂、砂。寄せては引く、波、波、この繰り返し。祖母の家からほとんど毎日、浜へ遊びに出掛けた。泳ぐわけでもなく、ただ漠然と浜風に当たった。海はどこまでも海だった。水平線の右手に、ぽちりと小島が浮かんでいる。500メートル先には灯台があって、その背後に権現崎が見えている。遠く左手の彼方には、岩木山がとんがっていた。あとは空と海、他に何もない。
夏休みの自由研究なんかよくやってくるもんだと、毎年思っていた。K藤M子は県境に住んでいるのをいいことに、交通量と他県ナンバーの割合を調べて発表していた。道路端に椅子など置いて、正の字でも書きながら一日中座っていたのならたいしたものだ。M尾Y久はプラナリアの研究を発表した。ナメクジを平らにつぶしたような水中生物を飼い、切ったり貼ったりして再生能力に関する実験結果をまとめていた。とても同級生の発想とは思えない。
不意に足元を見る。貝殻や砂利とは違う、鮮やかな赤が目に留まる。親指の爪ほどの大きさのそれは、プラスチックなどでは決してなく、確かに石ころなのだった。目を凝らすと、ラムネ色のガラス、貝殻の欠片も見える。もとは鋭くとんがっていたものが波に現れ流されるうち、まあるくなった。角がとれたそれらは、手のひらの窪みに収まってなんだか優しい。そんな欠片を集めて標本につくった。わたしの自由研究なんてその程度だ。
提出物が苦手だった。通信簿に書かれて��直らなかった。反省も努力もしないくせに、出来るやつがうらめしかった。要領のいい奴はきっと、はじめに片づけるんだ。計画的な奴は、ページ数を日数で割って最終日でやり終えるように計算するんだろう。やり残すことなどひとつもない。あるのは達成感と高評価だ。後悔は、やらない連中のためにある。その証拠に、夏休みの宿題をやり残した気持ちに襲われることが、未だにある。
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浮き輪
その年の夏も相変わらず市浦村の十三にいて、浜へ行くのを日課にヒマを潰していた。泳ぐつもりもないくせに、なぜかあの日は浮き輪を持って出掛けた。何の気なしに海に浮かべ、波打ち際へ置いたりしてあそんでいた。ふとした瞬間、うっかり手を放してしまった。浮き輪が水に浮いている。ゆらゆらと波に乗って流されるのをだまって見ていた。気付けば、手を伸ばしても届かないところにあった。海に入って追いかけたが、足がつかなくなって引き返した。棒切れで海面を叩いても、飛沫が上がるだけ。浮き輪は小刻みに揺れながら流れていく。ついさっきまで手元にあったものが、もう届かないところに浮かんでいる。為す術もなく呆然と、小さくなっていく影を眺めていた。見えなくなっても、ずっと見ていた。
弘前へ戻ると訃報が待っていた。母方のおじいちゃんだった。毒づく継母をよそに、父に連れられて駆けつける。部屋の隅に母が所在なげに座っていた。泣きはらした顔をしていた。もうすぐ盆の入りだった。
子供のころ、おじいちゃんはいつも一緒にいてくれた。細身で長身の風貌は、遠くに立っていてもすぐにわかった。漆黒の自転車の前に設置された補助椅子がわたしの特等席だ。大円寺の遊園地、ブランコに乗る私をベンチで観ている。立ち乗りをすると首を横に振り、座ると首を縦に振った。卒園式の日、近所の写真館で一緒に写真を撮った。花邑で刺繍の道具を一式揃えてくれた。母がいなくなった日は、いつまでも謝っていた。お小遣いもくれた。英英辞典や日記帳も買ってくれた。朝食には、生卵を溶いてそのまま飲んだ。「自堕落せばまいねよ」が口癖だった。囲炉裏端に座り、自在鍵に掛けた鉄瓶でお湯を沸かし、お茶を飲んでいた。祥瑞手の湯呑、瓔珞紋の飯碗、藍の浴衣に���の三尺。おじいちゃんは裁断士だった。
あれはおじいちゃんからの報せだった。浜辺で見送ったのは、魂を運ぶ舟だった。そのことに気付いたのは、ずっと後になってからのことだけれど。
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水。
水曜日は水の日と決めている。週に一度は必ず水に入るようにしている。流れるプールで10周したら、25メートルプールで30分泳ぐ。惰性に任せて腕を動かす。ワンストロークおきの呼吸だけが、頼みの綱である。12ストロークで25メートル。このペースを保って泳ぐ。水の中はとても静かだ。聞こえるのは、水が動く音と自分の呼吸の音だけ。一定のリズムに身を任せておけば、1000メートルはいける。
そういえば婆さんはよく、畑からとってきたばかりの野菜を、井戸水にいったん浸していた。しばらくすると小さな虫たちがたまらんとばかり、次々と浮き上がってくる。おまけに新鮮な水を吸った野菜は、さらにみずみずしさを増しておいしくなる。すごいな、婆さん。私のカラダもそうならないかな。わるい空気を吐き出して、よい空気を取り込めたら。水の中にいながら、こんなことを考えている。
あの頃わたしはカナヅチではなく、スポンジだった。ひといきに沈むカナヅチとは違って、水を含んでゆっくりと沈むからだ。もう一生泳げないかもしれないと諦めていたある夏のこと。浅いプールのへりにつかまりバタ足をしていたとき、全身が軽くなった。そっと両手を放して大の字になった姿が、プールの底に映っていた。ちゃんと浮いている。両手で水をかいたら、前へすすんだ。これが泳ぐということなのだと知った。
銭湯で溺れたこともあった。浴槽のお湯が熱いので、水を足そうと蛇口をひねったとき、足を滑らせた。目の前が泡だらけになって上下が分からなくなり、息がくるしくなった。必死に両手を動かしているところを、誰かに掬いあげられた。あれからだと思う、水が怖くなったのは。
今でも水はこわい。こわいけど泳ぐのは大好き。おそれを知ってなお、そこへ向かうことができる程度には太くなった。そういうことにしておこう。
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窓。
お盆は、地獄の窯の蓋が開くのだそうだ。冥��からは解き放たれた先祖の霊たちが、一斉に地上へ舞い降りてくる。下界では、迷わず帰ってくることができるようにと、門前で火を焚いて待っている。じいさんばあさん、ここが我が家だよ、ちゃんとみつけてね。お盆の間は、家族と一緒に過ごそうね。あの頃分からなかったことが、少し、わかるようになってきた気がする今日この頃。心を整えるように、お盆の支度をはじめている。
木っ端はぜんぶ、20センチほどの長さに切りそろえてある。これを井桁に組んで、10段ほどの高さに積み上げる。普段、風呂を沸かすおじいちゃんは、わが家の火の番人だった。迎え火を取り仕切るのも、番人のお役目となる。無駄口を一切言わず、神妙な顔つきで黙々と作業を進める。傍らに金柄杓が一本、バケツに浮かんで揺れていた。新聞紙をねじり井桁の真ん中に詰め込んだら、あとは点火するのを待つばかりである。
いつもは殺風景な仏壇も、にぎやかになる。上部には横一文字に紐が渡され、林檎の実やモナカの人形が交互に結び付けられる。テーブルは一段増設されて、金襴の布が敷かれた。菰(こも)の上に蓮の葉を伏せて、割り箸を足にしたきゅうりやナスが置かれる。トウモロコシやスイカ、ホオズキもちりばめられた。高月(たかつき)に果物を乗せ、花立には菊やリンドウ、百合にグラジオラス、お膳ができたら準備は万端だ。
子供の私はお祭りのような気分で、期待に胸を膨らませた。大人たちの横に座り、薄目でのぞき見をしながら動きを真似た。たくさんの大人が仏壇の周りに集まって、部屋がお線香の匂いに満ちていく。数珠のこすれる音と、読経の声は眠気を誘う。さあ、迎え火を焚きに行こう。観音開きの仏壇の、左右ふたつの炎が揺れる。その灯りは、彼岸と此岸をつなぐ窓。その窓は7日間で閉じられるのだという。
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葡萄
はじめは、取るに足らぬ棒切れのような小枝であった。無造作に庭の隅に刺して三巡目の春、枝葉をつけた。梅雨には陽の向く方へ表を返し、秋には紅葉もした。このことを父に告げると「一丁前に」と一蹴された。父が株分けをしてくれた葡萄。これまで幾度となく失��してきた挙句、もう諦めかけていた矢先の出来事であった。生り物に憧れるわりに実りなき枯れ庭は、父の期待を容易く裏切る。
幼少のころから、我家には、いつだって葡萄の木があった。それも、陽の当たらない家の裏の隅。陰気な場所である。狭い社宅を建て増して作った私の部屋は、裏小屋に面して薄暗い。小さな窓からは、葡萄しか見えなかった。根元には、卵の殻や貝殻が撒かれて生臭く、小蠅が飛び交った。泥炭質の硬い土から養分を吸いあげ、乾いた茶色の木肌から、緑色の蔓がみるみる伸びてゆく。ついには私の背丈を超え、裏庭の大半を占領した。
房の果実が膨らみを帯びると、袋で包み熟成を待った。蔓は螺旋を描きながら触手を伸ばし、葉は鉄骨の棚を幾重にも覆った。実りの季節が来ると、収穫を近所へ配る。普段は寡黙で頑固な父である。配るは、私の役目であった。こうして近所との交流を深め、信頼関係を温めてきた。
厳しい環境の中でこそ、葡萄はよく育つのだと聞いた。硬く痩せた土壌をつかむことのできる強靭な腕と、どんな強風にも耐え得るしなやかな躯体。私が生まれる何百年も前から、こうして四肢を撓(しな)らせ、弛(たゆ)ませ凌いできたのだ。冬に枯れ、春に芽吹き、夏に焼かれ、秋に実る葡萄の姿に父を重ねて想うとき、然るべきと思う。草冠に甫を包むと書いて葡(ぶどう)。いつかこの景色を表現したいと決めている。
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なんちゃって流儀
たとえばこれから書作に向かわなければならないと言うときに、いの一番に取り組むのは家事である。先ずはお料理。できれば何食分か網羅できるほどの作り置きをして、厨房に立つ時間は最小限度にとどめたい。洗濯機も空にしておく。干して取り込み畳んで収納までの作業は、煩わしいが仕方ない。そしてお掃除。仕事部屋がとっ散らかっていては、仕事にならない。何しろこれから仕事部屋は、書き損じの紙でお花畑ができるのだから。身辺のすべてを一旦、全部リセットしたい。
筆を持つ前に、これから書く文字の事を知っておきたい。ありったけの辞書を引っぱり出し、あらゆる角度から調べまくる。大抵、���べれば調べるほどわからなくなる。自分の許容量のなさに辟易して、文字の宇宙と対峙していると、そのうち地面から足が離れて体が宙に浮く(ような気がする)。なんだかわからないまま、半ば諦めにも似たような気持で、のろのろと紙へ向かう。
紙を切って毛氈に直した後、墨を拵える。硯は水に浸し、その間に墨と筆を選ぶ。硯を置き、枕に筆を休め、墨を取る。水の潤滑を借りて、ゆっくりと描く楕円。墨と硯からの摩擦が腕を伝う。やがて伽羅の香りが鼻腔に広がり、緊張が解けていく。これからどうするのか、させられているのか、ますます曖昧になる。いまこの環境が最善であるように。こんな時だけ神様にお願いする。
紙に向かったら一気呵成。あとは集中力と体力勝負。体が思うように動いてほしい。線が自在に引ける状態であってほしい。心と体が一致してほしい。無欲に奔放に紙の上を舞ってほしい。全ての偶然が必然であってほしい。ひたすら願うのみだ。
つまり、普段から万々整えておかねばならぬということなのだろうと思う。仕事をするということは、身体を使ってちゃんと生きること。自己管理しながら、薄い紙を一枚ずつ重ねるように日々を暮らすこと。そのこと全てが仕事に反映され、形を変えて自分に返ってくる。これが流儀などと言えるには、百年早い。書作の日々は、今日も続くのである。
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笑顔。
門限を守らない私に愛想を尽かした父が、ついに切れました。「でていけ」。そうですかとばかり、希望九割不安一割で見つけた四畳半のアパートは、家賃3万円也。そのことを誇らしげに父へ報告すると、部屋など借りる必要はない、と一刀両断。言動の一致しない父親の屁理屈は、理解に苦しみました。この家のあらゆる束縛から解放されて、自由になりたかったのは私の方なのに。
結婚式の前夜は、家族と最後の夕食。娘ならきちんと父親の前へ座り直し、三つ指をつき額を畳につけて言うのでしょう、「永い間お世話になりました」と。そんなことはすっぽかし、ウエディングドレスの打ち合わせがあるからと嘘をつき、日付が変わるまで友達と酒を飲んだくれでいました。翌朝、父はうつむき、口角は横一文字に結ばれていました。
父に対する嘘、悪態は星の数。もう取り返しがつきません。二人とも、思い通りに��らない現実と理想のはざまで揺れていました。想像を超えた奇行に呆れ、戸惑い、父もまた私を持て余していたのに違いありません。期待は裏切られ、言葉も失い、その確執は川に浸食される峡谷のように黒く深さを増していきました。
実家の敷居をまたぐことを赦されて、幾度か通ったある日の夜。私は、これまでの愚行を父に詫びたくなりました。今謝らなければならない、心の声が叫ぶのです。両手両足をもってしても足りない、非行を挙げたら夜が明けてしまいます。手に持ったグラスを置き、テーブルから離れ、頭を下げました。これまでの親不孝の数々、お許しください。申し訳ありませんでした。腹の底から絞り出した声は、枯れていました。父はまっすぐに私を見てから目線をおとし、焼酎を一口含んだあと、それは穏やかな声で言いました。「ぜんぶ忘れた」。そして静かに笑いました。わたしも泣きながら、笑いました。
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悪戯
「あじゃらかもくれん てけれっつのぱあ」と唱え、ぽんぽんと手を叩くと死神はそこにいられなくなるのです。床に臥せった病人の、枕元に死神が座っていたら、それは寿命だから諦めなければなりません。そのかわり、足元に座っていたら助かります。この呪文を唱えると、死神はどうしてもそこを離れなければいけない。そういうことになっているからです。必ず病気は治る、これで金もうけができると踏んだ男は、医者の看板を掲げることになるのですが…。
グリム童話を翻案した落語として知られる「死神」という噺は、明治初期から今日まで語り継がれています。金に縁のない男が「貧乏神どころか死神に憑かれた」と嘆き、川から身投げしようとするところを死神に助けられます。死神が見えるおまじないと、あの呪文を授かったおかげで、古今東西、名医として知られるようになりました。お金持ちになって、嫁も家も取り換えて放蕩三昧。気付けばまた一文無しに逆戻り。
そこへ、江戸でも指折りの大富豪のご主人が危篤というので訪ねてみると、もう死神が枕元に座っています。これはいけません。寿命なのですから、助かる見込みはないのです。そこを何とか治してほしいと、金二百両を積まれ懇願されます。考えた挙句、布団の四隅を若者に持たせ、頭のところに足がくるように布団をくるりと回しました。幸いご主人の命は助かりましたが、死神の方はおかんむり。これが��となって、命取りになりました。
互いに引っぱりあいながら、地球をまわる月。潮の満ち干は、海と月の綱引き。月の満ち欠けは、地球と月のかくれんぼ。夏至から冬至の往復は、今日も続きます。地球もまた、太陽と引き合って回ります。わたしたちの身体とて、例外ではありません。枕元は陰、足元は陽。引力は陰と陽の働きを伴って、地球上の営みに秩序を与えます。誰も遁れることはできません。飴を舐めさせ高みの見物。死神様は、悪戯がお好きなようでございます。
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出稼ぎ
気分はフーテンの寅さん。車一杯に荷物を積み込んで、目指すは東京お台場の国際展示場。店を閉め、荷物をまとめて、盛岡を後にする。4泊5日の旅の空。平凡な日常としばしのお別れ。着の身着のまま、行き当たりばったりの道すがら。腹が減ったらちょっと休憩。200キロごとに運転を交代しながら、東北道をひたすら南下。片道約500キロ、所要時間は約6時間。オーディオからお気に入りの曲が聴こえたら、アクセルを踏んでいざ出発。
「骨董ジャンボリー」は1998年に立ち上がった骨董市。冬と夏の年に2回、東京ビッグサイトの国際展示場で行われる。骨董屋による骨董屋の催事は、今年で18年目を迎える。会期は金土日の3日間、日本全国からおよそ500件の業者が集まり、和・洋骨董、トイ・コレクタブルにわかれ、展示販売される。金曜日の早朝から搬入して、同日午後にはアーリーバイヤーのお客が入ってくる。34回目の出店となる百萬堂は、東北の郷土色の濃い品ぞろえで会期に臨む。
商いの旅は一喜一憂。売れれば面白く、売れなければしんどい。目標は高く、浪費は抑えて。出店料、交通、宿泊、燃料、既に経費は掛かっている。経費と仕入れを差し引いて、これを上回る数字を売り上げたい。こちとら門前の小僧。商品構成と能書きは店主にお任せして、私は売り手に専念させていただく。包装梱包ならお手のもの。花のお江戸は全てが桁違い。お客様方は博学で造詣も深い。目からうろこが落ちるばかり。
用が済んだら早々に帰り仕度。都会の水は田舎者には合わない。アスファルトで踏み固められた街は、便利だけれど気忙しい。長居はご無用。来た道を引き返すその足取りの重さは、荷物の量に比例する。バックミラーから後ろの景色が見えたら、気分は軽い。白河の関を越えて、ひと安心。水分を含んだ風が、車中を吹き抜けたら、そこはみちのく。疲れた身体を車に乗せて走る。もうすぐ我が家。そこには、いつもと変わらぬ日常が待っているだろう。
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卒業証書
箪笥の奥にあった丸い筒から、卒業証書をひっぱり出してみた。端正な楷書で私の名前が揮ごうされている。これは一体誰が書いてくれたものだろう。学校長、担任、もしくは専門の人でもいたのかしら。私の学年はひと組40名で3組あったから、最低でも120名は書かなければならない勘定になる。大変な仕事だったことと拝察される。これまで、思いを巡らせたことはなかった。今更になって気が付くというのも、なんとも情けないことである。
奥中山高原にある三愛学舎は、知的障害を持つ子供のための学校である。生徒の年齢は高校生くらい。本科の3年と専攻科の2年、あわせて5年の月日を過ごした後、社会へ旅立っていく。ここで書の授業を持たせていただいてから15年、卒業証書を手掛けるようになってからは10年になった。子供たちと一緒に過ごすことができるのは本科の3年間、授業は全部で12回。限られた時間の1分1秒は欠片となって、私の中に堆積する。
書の授業のあと、生活の時間から昼食までを生徒たちと過ごす。調理をしたり、買い物に出かけたり、時には畑の草取りもする。書の時間とは違った側面を出しあうことで、信頼関係を重ねていく。その一挙手一投足を、見逃してはならない。彼らは関心と無関心を肌で感じ取りながら、外界との距離を測っている。ガラスのハートは両刃の剣、壊れやすく傷つきやすい。こころの扉を開けてもらうこと。1枚の証書を紡ぐ、これ��第一歩である。
今年度の卒業生は本科、専攻科ともに12名ずつ、合計24名となった。毎年の事ながら、証書に名前を記すときはいつも緊張する。顔と名前の一致は当然の事、その生徒と交わした些細な会話、その場面が、映像が、名前に代わる。持てる欠片を残らずかき集め、線におこす。おそれ多くも、この子たちのために私ができることといえば、卒業証書の名前を偽りなく書くことだけである。たとえその先に、箪笥の肥やしという避けがたい宿命が待ち構えていたとしても、である。

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