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yyooichi · 5 years
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Elle a passé tant d'heures sous les sunlights - Philippe Garrel,1985
愛する女性が去ってしまったことで混乱し、悲しむ若き映画監督にシャルル・ペローの「白雪姫」をコメディー・フランセーズで演出する企画を持ちかけられる…
フィリップ・ガレルは、『秘密の子供』(1979)以来、まるでオルフェウスが絶えず妻のエウリュディケの方を振り向くように進んできた。(訳注: オルフェウスが振り向いたことで、エウリュディケを帰らぬ人としてしまったのとは異なり)ガレルにおいては、後ろへの視線は命を奪うのではなく、進む力を 与える。エウリュディケ、それは、それぞれの作品によって、ニコへのガレルの愛だったり、若さだったり、68年世代だったり、ドラッグだったりする。 (…)70年の終わり頃、神話の時代は終焉し、物語が始まる。(…)ガレルは、映画によって人生を生きるよりも、むしろ人生を映画の中に書き留める、映し 留めるために自伝的物語を語る必要を感じるようになる。こうして『彼女は陽光の下で長い時を過ごした』が撮られることになり、そのタイトルはすでに過去形 で語っている。この作品は断片で織り成されていて、そこでは夢の中のイメージがアスファルトのような色をしている。この作品は当時のガレルに起きた二つの 重大な出来事について語っている。一つはニコとの別れ。もう一つは息子、ルイの誕生である。その二つの出来事の間に一人の女性がいる。子供の母親である (もちろんマリーという名の)彼女は、その二つの出来事の中継役となるのだが、直ちに死者の場所も占めることになる。(ステダン・ドゥローム)
『彼女は陽光の下で長い時を過ごした』には線上の語りはない。例えば、撮影直前に起こった息子の誕生を私が知らせるシーンがあり、そこで一枚の写真 が映り、その写真の中で私は息子を腕に抱いている。そしてこの出来事が「夢見られている」もうひとつのヴァージョンがある。ボナフェが引き出しを開ける と、道化の人形が出てくるという夢だ(訳注:フランス語では、「引き出しに人形を入れている」という表現で「はらんでいる」という意味がある)…これは冗 談のようなものだが、この作品は全体がこのように構成されている。仮に、想像上、架空のと言えるようなシーンがあるとして、次に、それが現実的なるもの、 あるいは夢に転じていく…全編においてこのように構成されていて、つねに3つのレベルがある。夢、現実、想像(つまり「書かれた」、脚本家された想像)の 3つのレベルがあり、それらが時に結びつく。(フィリップ・ガレル『心臓の代わりにカメラを』)
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yyooichi · 5 years
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positano
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yyooichi · 5 years
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Positano 2015
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yyooichi · 5 years
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yyooichi · 5 years
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メモ
『東京物語』(小津)『ミツバチのささやき』(エリセ)『自由、夜』(ガレル)『小さな兵隊』(ゴダール)『ある女の存在証明』(アントニオーニ)『昼顔』(ブニュエル)『残菊物語』(溝口)『女の中にいる他人』(成瀬)『クレールの膝』(ロメール)『紅い太陽』(トーメ)『ボーイミーツガール』(カラックス)『イザベルの誘惑』(ドワイヨン)『ミシシッピーワン』(サラムーン)『我が心の炎』(タネール)『ママと娼婦』(ユスターシュ)『アブラハム渓谷』(オリヴェイラ)『旅芸人の記録』(アンゲロプロス)『卵』(カプランオール)『アデューフィリピーヌ』(ロジエ)
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yyooichi · 5 years
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よみくらべ Kavafis
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yyooichi · 5 years
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フランス RE:VOIRより届く。Philippe Garrel 4作品。
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yyooichi · 6 years
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Koridorius(The Corridor) - Sharunas Bartas 1995
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yyooichi · 6 years
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Few of Us - Sharunas Bartas (1996) 
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yyooichi · 6 years
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アガンベン 「 ドゥルーズが英語で< self-enjoyment >と好んで呼んでいたあの感覚以上に、彼の根本的な音色を見事に表現するものはない。私(アガンベン) のメモによれば、(1987年)3月17日、彼(ドゥルーズ)はこの概念を説明するため、観想に関するプロティノスの理論について述べることからはじめている。「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。どんな存在も観想なのです。そうなのです、動物でさえ、植物でさえ観想なのです・・・・。  ・・・・万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素、そして塩を観想するわけです。これこそ、セルフエンジョイメントというものです。 セルフエンジョイメントというのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。悦びを生���するような、さらには、そうした悦びがこれからも持続するだろうという信を生産するような、あの元素のあいだの縮約のことであり、固有な要件についての観想なのです。そういう悦びがなければ、人は生きていられないでしょう。というのも、心臓が止まってしまいますからね。われわれは、小さな悦びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を、自分自身のなかに見いだすことです。 ・・・・私のメモはここで終わっているのだが、まさに以上のような形で、私はジル・ドゥルーズのことを覚えておきたいのだ。(ハイデッガーによって*)苦悶からはじまった暗い今世紀の偉大な哲学が、悦びで終わるのである。」 ( Giorgio Agamben ジョルジョ・アガンベン『人間と犬は除いて』・・・ドゥルーズの自死の三日後に発表された追悼文。)
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yyooichi · 6 years
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Revelateur.Philippe.Garrel.1968
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yyooichi · 6 years
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La.Naissance.De.L.amour.Philippe.Garrel.1993.
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yyooichi · 6 years
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Le Cœur fantôme (Philippe Garrel) 1996
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yyooichi · 6 years
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Rote Sonne [1970] 
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yyooichi · 6 years
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Trys dienos 1991
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yyooichi · 6 years
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Une Flamme Dans Mon Coeur 1987 / Alain Tanner
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yyooichi · 6 years
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“ There are always flowers for those who want to see them. ” -  Henri Matisse
( 04 July 2015 )
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