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entaku9 · 1 year ago
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 狩猟採集民においては、脅迫性格もヒステリー性格も循環気質も執着気質も粘着気質も、ほとんど出番がない。逆にS親和型の兆候性への優位(外界への微分〔回路〕的認識)が決定的な力をもつ。ここでは「現実から一歩遅れてあとを追う」(ミンコフスカ――粘着気質者についての表現)ことであれ、「自縄自縛」(テレンバッハ――執着気質者についての表現、訳語は木村敏による)であれ、遅れるものに用はなく、つねに現在に先立つ者であることだけが問題なのだ。
 彼らは一般に貯蔵をしない。少なくともそれは彼らの主な関心事でない。彼らの持物は、苛烈な「所有」というよりも、いわゆる「周辺存在」――好みや馴染みが自然に身辺にあつめたもの――といったほうがよいだろう。配分についても、彼らの単純な政治構造のゆえに、分け前は狩猟者を中心に貢献度に応じて彼らの精密な解剖学的知識によって分けられる。ここに介入すべき権力構造はない。さらに重要なことだが彼らはみずからを万物の王と考えていない。ギーディオンは旧石器時代狩猟民の美術の分析を通じて、当時の人類が個別的性能はいずれも他の動物に劣ると考えていたこと、神信仰の生成はまさにこのフィーリングが消失したときにはじまることを主張している。いずれにしても今日の狩猟採集民にも複雑な宗教体系がなく、簡単なタブー(たとえばブッシュマンにおいてコドモだけがカメの捕食をゆるされるといった合理的タブー)のみであることは、説明に難くない。
中井久夫.『分裂病と人類』.東京大学出版会,1982年,p.15
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entaku9 · 1 year ago
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 系統発生的には、おそらく積分回路的認知よりも微分回路的認知のほうが古いだろう。たとえば、運動するものしか認知しないカエルの視覚を考えてみればよいが。さらに古型の知覚である嗅覚、味覚などは著しく微分的であり、変化の瞬間から知覚の強度が次第に低下する。この古型の、したがってふつうはそう揺るがない認知方式が人類に至って混乱の原因となったとすれば、「入力の内部発生」という、人類に近づくにつれて著しくなった事態によるかも知れない(微分回路はノイズの吸収力がほとんどない)。
 微分回路は見越し方式ともいわれ、変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる。まさに先取的回路ということができる。またウォッシュ・アウト回路と言われるごとく、過渡的現象に敏感でこれを洗いだす鋭敏さがあり、t≒0において相手の傾向を正しく把握する。しかしこの”現実吟味力”は持続しない。すなわち出力が入力に追随するのは、t=0付近だけで、時がたつにつれて出力は入力に追随できず、すぐ頭打ちとなり漸次低下する。増幅力の維持も不能で不定となる。中等度の増幅力では突然入力にも漸変入力にも合理的に対応できるが、ある程度以上の増幅に弱い。また過度の厳密さを追求してt=0における完全微分を求めようとすると相手の初動にふりまわされて全く認知不能になるという。またさきに述べたように高周波ノイズが介入すると出力が乱れる。また未来指向的な回路であって過去のメモリーが生かされない。
中井久夫.『分裂病と人類』.東京大学出版会,1982年,p.9-10
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entaku9 · 1 year ago
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 他の比較的単純な喜び、たとえば郊外を歩きまわる喜びと支配の喜びが違うのは、ソフォクレスのような優れた心理観察者が示すように、支配者が嘲笑を怖れている点である――同じくソフォクレスによると、とくに女性からの嘲笑や挑戦に対し支配者は奇妙なまでに過敏である。したがってこの喜びの中心的要素は、この喜びの感情そのものではなく他人の感情の投影からもたらされるようだ。つまり、他人の感情の変化にこの喜びは左右されやすいということになるだろう。支配への対抗手段としては、たぶん笑い飛ばすのがいい。
ヴァージニア・ウルフ.『三ギニー』.片山亜紀訳.平凡社,2017年,p.313
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entaku9 · 1 year ago
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 ご自分の服装の奇抜さ、さらには司令官、将軍、伝令兵、近衛騎兵、護衛兵などの軍服の奇抜さにはまったく思い至らず、女性に向かって説教しながらご自分も相手と同じ弱点を抱えていると少しも気づかずにいられるという事実から、二つの疑問が浮かぶ。そもそも一つの行為はいったい何回反復されれば、これは伝統であるがゆえに尊ぶべきである――と考えられるようになるのだろうか?社会的評価がどのくらい上がると、人は自分の服装の奇抜さに無頓着になるのだろうか?奇抜な服装は、その職務と切り離されればたいてい嘲笑を受けるものである。
ヴァージニア・ウルフ.『三ギニー』.片山亜紀訳.平凡社,2017年,p.271-272
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entaku9 · 1 year ago
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 わたしたちは、宣伝と広告の白々しいスポットライトを消さねばなりません――スポットライトの操作がまずいということはよくあるものですし、スポットライトを浴びる心理効果のことも考えなばなりません。次に田舎道をドライブするとき、ヘッドライトの光を浴びたウサギがどんな態度を取るかを観察してください。目は眩み、手足は硬直しています。イギリス国外に目を転じなくてもこう考えられるのではないでしょうか。暗がりから出てきた小動物がギラギラした光線に射すくめられるのに似て、ドイツそしてイギリスにおいて人間があの「身構え」、誤った非現実的な身構えをやめられないのは、スポットライトが人間の能力の自由な働きを麻痺させ、人間の変化する力と新しい統一体を創造する力を抑制しているからである――と。これは推測であり、推測というのは危ういものです。しかしながら安心と自由、変化の力と成長の力は目立たないことによってのみ確保される、もしも人間の精神が創造できるようにしたいなら、同じことの反復を止めたいなら、できることは暗闇でなさねばならない――と推測できる理由がいくつか存在します。
ヴァージニア・ウルフ.『三ギニー』.片山亜紀訳.平凡社,2017年,p.208-209
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entaku9 · 1 year ago
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 塔が傾いていると感じたとたん、私たちは自分が塔の上にいることを強く意識します。これらの作家たちも塔の上にいることを強く意識しています、中産階級の出身であること、金のかかった教育を受けていることを。そのあと、塔のてっぺんに来てみると、目に映る光景はなんと奇妙でしょうか――すっかり引っくり返っているのではなく、傾いて、斜めになっているのです。それもまた斜塔作家たちの特徴です。彼らはどの階級もまともに見ないのです。上か、下か、あるいは斜めに見るのです。彼らが無意識のうちに探求できるほど安定した階級など一つもありません。彼らが人物を創造できないのはおそらくそのためでしょう。では、次にどう感じるでしょう、塔のてっぺんにいると想像してみたときに?まず不快感。次に、そうした不快感を抱くことにたいする自己憐憫。この憐憫はたちどころに怒りに変わります――自分たちに心地悪い思いをさせることで、塔を建てた者への、社会への怒り。こうした感情も斜塔作家たちの傾向であるらしく思われます。不快感、自分自身への憐れみ。社会にたいする怒り。だが――ここに今一つの傾向があるのですが――結局とてもいい眺めとある種の安全性を自分に与えてくれている社会をどうやって全面的にののしったりできますか?その社会によって利益をこうむりつづけているかぎり、その社会を全面的にののしったりできないはずです。そこで、ごく当然のことながら、あなたは、退役した提督とか、未婚女性とか、武器製造業者という社会をののしるのです。彼らをののしることで、自分を苔打つことから免れたいと思うのです。身代わり山羊の鳴き声、それから「先生、ほかの奴なんです、ぼくじゃありません」と叫ぶ生徒のすすり泣きが、彼らの作品に声高く響いています。怒り、憐れみ。めそめそ泣いている身代わり山羊。言い訳探し――こうしたものはとても自然な傾向でしょう。私たちが彼らの立場だったら、同じことをしようとするでしょう。しかし、私たちは彼らの立場にいません。十一年間もの金のかかる教育など受けていないのです。想像上の塔を昇っているだけなのです。想像するのは止められます。私たちは降りられます。
ヴァージニア・ウルフ.“斜塔”.『病むことについて』.川本静子編訳.みすず書房,2002年,p.178-179
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entaku9 · 1 year ago
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 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれ��も、しょせん名誉欲というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そ��いう正しい希望へのてんからのあきらめが、そこに働いていたこともあったろう。
坂口安吾.“風と光と二十の私と”.『日本文化私観』.佐藤忠男編.評論社,1968,p.336-337
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entaku9 · 1 year ago
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 哲学のうちで第一の、そしていちばん必要な部分は、たとえば噓をつくなというような、教説の実行にかんする部分である。第二の部分は、その証明にかんする部分で、たとえば、どうして嘘をつくべきでないか、というごときである。第三は、それら自身にかんする、確実で区別的な部分、たとえば、これが証明であるのはどうしてであるか、いったい証明とはなんであるか、帰結とはなんであるか、矛盾とはなにか、真とはなにか、偽とはなにか、というごときである。
 ところで第三の部分は、必然、第二の部分のためで、第二の部分は、第一の部分のためのものだ。しかしもっとも必要で、そこにとどまるべきものは、第一の部分だ。だが私たちは、あべこべなことをしている。なぜかというと、私たちは、第三の部分のなかで時を費やしているし、また私たちは、まったくそれに夢中になっているからだ。だが私たちは、第一のものをまるでおろそかにしている。だから、私たちは嘘をつくけれども、嘘をついてはいけないという証明は準備ができているわけなのだ。
エピクテトス.『語録 要録』.鹿野治助訳.中央公論新社,2017年,p.227
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entaku9 · 2 years ago
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 どんなばあいでも、きみはきみ自身を哲学者というべきでもないし、また、ふつうの人々のなかで、多く理屈をいうべきでもない、いや、理屈のとおることをなすがいい。たとえば宴会では、どういうふうに食うべきかを話さないで、食うべきに食うがいい。というのは、覚えておきたまえ、ソクラテスは見せかけというものをまったく無視していたので、人々が彼から哲学者たちに紹介してもらいたがって彼のところへやってくると、彼は彼らを案内して行ったほどだった。このように、彼は無視されるのをしんぼうした。
 もしふつうの人々のなかで、なにか理屈の話が出たら、おおかたは沈黙しているがいい。というのは、きみは消化していないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そしてひとがきみに、きみはなにも知らぬといっても、きみが噛みつかなければ、そのときこそ哲学がものになり始めたのだと知るがいい。というのは、羊は秣を羊飼いのところへ持ってきて、自分がどれほど食ったかを見せはしない、むしろ餌は内部に消化して、外部へ羊毛や乳をもたらすからだ。だからきみも、理屈をふつうの人たちにならべないで、むしろ消化したそれらのものに基づく行動を示すがいい。
エピクテトス.『語録 要録』.鹿野治助訳.中央公論新社,2017年,p.222-223
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entaku9 · 2 years ago
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 出席している者のなかのある者が、論理が有用であることを私に納得させてください、といったとき、彼はいった。
「きみはわしにそれを証明してもらいたいのか」
はい、そうです。
「そうするとわしは、論証的な議論をせねばならないというわけだね」
相手が同意すると彼はいった。
「それでは、もしきみをわしが詭弁でだましているならば、きみはそれをどこから知るだろうか」
その人が沈黙すると彼はいった。
「ほら、論理が必要であることはきみ自身認めているんだ。もしそれらを離れては、必要であるか、必要でないかというまさにそのことさえも、わかることができないからね」
エピクテトス.『語録 要録』.鹿野治助訳.中央公論新社,2017年,p.124-125
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entaku9 · 2 years ago
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 画家は模写し、デッサンする。文章を書く場合にも、模写とデッサンは有用である。文章を筆写すると、著者の苦心したところがよくわかる。翻訳でも筆写して初めて理解したことが少なくない。詩の翻訳でも、筆写すると、詩人の苦心した箇所がわかる。何度読んでもわかりにくかった修士論文も、筆写すると不思議にわかる。読みとおせない修士論文は、何度も読み返すよりワープロに打った方が早い。
 文体の獲得にはリスクがある。以前と以後とでは何かが大きく変わる。文体を獲得した人間がその後辿るコースを考えてみたことがある。
 第一は、自己模倣である。一部愛好者だけのものになってゆくコースの入口である。第二は、絶えざる実験である。しかし、実験を重ねると次第に実験のための実験になってゆく。そうなると「何か大切なものの底が浅くなる」。第三は、公衆に理解しやすいジャンルに移ることである。たとえば小説家からノンフィクション作家になる。医学者から医学解説者になる。第四は、沈黙である。庄司薫を例に挙げても失礼ではないであろう。第五は、自己破壊である。例は誰もが思い当たるはずである。私は、それくらいなら沈黙をすすめる。
 文体の練習は二つある。一つは文字どおりのデッサン、すなわち、事実の叙述である。地図をみながら地形を書いてゆくとか。
もう一つは翻訳である。鴎外がよい例である。翻訳は文体というものを意識させる余裕を与えてくれる。実際、もっとも美しい日本文の半ば以上は翻訳といってもよい。ドイツ語でもルターの聖書訳が基準になっている。翻訳の際には、原著者によって、あるいは詩集の詩ごとに訳しわける試みは文体を対象に即させるのに役立つ。一般に一つの文体だけでは行き詰まりやすいのではないか。
中井久夫.“日本語を書くための古いノートから”.『私の日本語雑記』.岩波現代文庫,2022年,p.302-303
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entaku9 · 2 years ago
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 私なりの助言をまとめておこう。まず、「文と文との接続」の意識化である。
 その第一は、次の文(センテンス)は今の文の内容を別の表現でいうのか(並列)、内容を具体的に例を挙げるなどするのか(解説)、少し角度を変えて光を当てるのか(敷衍)、先行する複数の文章をまとめるのか(要約、総合)を考えて、どれを選ぼうとするかを考えることである。
 第二は、時間的あるいは論理的に次に進むのか(順接)、その際、ただ続けるか(単純順接)、少し話をふくらますか(拡大順接)、話をしぼるか(収束順接)を意識することである。
 第三は、そうでなくて、反対である例(部分逆接)、あるいは、それが該当しない場合(例外)を挙げるのか、また、それらは主張と同等の比重なのか、そちらのほうが一般的であって、自分が重要な例外の場合があることを強調するのかを意識することである。
 さらに第四をいうとすれば、以上だけだと文の流れが直線的にすぎると思われる時には、たとえば「ちなみに」で始まる「休止符的な文章」を挟むこともゆるされるだろう。休止符的な文章とは、文章そのものが、一種のコンマになっているものである。
 第五は、いうまでもないことは飛ばす。当たり前のようであるが、この判断も欠かせない。
 最後に、自己の主張の否定的な面に自ら「反論」を試みておく。これを米国人は日本人の「弱さ」と感じるそうであるが、一本調子で押しまくるのは、日本語では単純すぎるという感覚がある。米国でも「文章は一本調子にせよ」というのは二十世紀になったころに米国の教育当局が決めたことだそうである。私は、自ら自己の主張に対して論争を試み、自問自答を行うことは、著者の思考の射程の広さを示し、低次元の反論を予防すると考える。もっとも、米国に出す論文は米国流にするのがよかろう。但し書は別の論文として出せばよいそうである。
中井久夫.“日本語を書くための古いノートから”.『私の日本語雑記』.岩波現代文庫,2022年,p.292-294
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entaku9 · 2 years ago
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 彼はまた言った、「英国を保守的���と思っているだろう、ちがう、大学の会議でも、いちばん極端な説が通るのだが、言い出した本人を委員長にして実行委員会を作らせる。やってみて駄目とわかったらすぐ変える。だから大学院制度などしょっちゅう変わっているが、絶えず実験していると結局妥当な線に落ちつくので保守的に見えるのだ⸺」。提案者を実行委員長とするのは名案で、帰国後よく応用するが、提案者が降りることが多い。
中井久夫.“霧の中の英国経験論”.『統合失調症の陥穽』.みすず書房,2017(1994)年,p.315-316
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entaku9 · 2 years ago
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 精神科医として、私は統合失調症における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。
 言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表現の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。
 この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が先鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から漏れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発生筋の運動感覚もある。
 これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。
 さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。統合失調症患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。
 このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの兆候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのはあまりに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。
 当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。
中井久夫.“詩の基底にあるもの⸺その生理心理的規定”.『統合失調症の陥穽』.みすず書房,2017(1994)年,p.297
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entaku9 · 2 years ago
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 今、人類社会が進歩するように運命づけられているという信念は危うくなった。ヴォルテール、ルソー、ヘーゲル以来の思想が揺らいでいる。民族主義が善であるという倫理的要請も怪しくなった。民族同士の抗争がありとあらゆる小路や横町で行われるようになったからである。科学の進歩はどうであろうか。月飛行は半ば忘れられた過去となった。ホーキングは自分を以て物理学はほとんど終わると述べている(アインシュタイン登場の前夜にも同じような言明があったことを思うと、にわかに賛同できないが⸺)。人類の生活水準の向上はどうであろうか。
 歴史は、中国において統一国家のもとにあった時期の合計がそうでない時期よりも短いことを教えている。ローマ帝国の崩壊後の西欧および東欧がローマ帝国時代の統一に匹敵する安定に達したことはなかったといえるかもしれない。この二つの帝国は絶えず民族移動の波にさらされた。現在起こっていることは、歴史上何度も起こった民族移動であって、それにタガをかけて止めることはできるかどうか、いうことは難しい。難民という形の移動はいっそうとどめがたいであろう。しかし、こういう時代が人類の常態であるかもしれない。歴史が進歩するという信念は、歴史において新しく、かつ珍しいものである。歴史は退化する、あるいは近く終末を迎えるという信念のほうが一般的であった(私はどちらにも決まっていないと思う)。
中井久夫.“治療文化論再考”.『統合失調症の陥穽』.みすず書房,2017(1994)年,p.294
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entaku9 · 2 years ago
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 自殺行為に旅立った人の心はかなり揺れ動くんだなと改めて思いました。つまり、たたたと真っすぐ死んでしまう人もいるでしょうけど、多くの人は、それまでに、やはり死のうという気持ちがこちらの端まで達して、いやしかしこのままではと思って生きようとすると、今度は捨ててきた社会の壁が非常に高く感じられるということでしょうか。あるいは長いこれからの人生のつらさがのしかかるのでしょうか。戻るのは非常に戻りにくい。しかし世間に全部背を向けて旅していくと、それはそれでだんだん非常に寂しくなる。つまり近づいていくと自殺念慮というのは弱まるのでしょう。振り子のようなもので、こちらへ行くと速度が緩むわけです。しかし戻ると決意するとかえって強まる。そのうちに待ち時間がなくなるとかお金がなくなってくるとか、すごい偶然の重なりですがせっかくいい人に会ったのに停電が起こったということなどで結局すべてが決まってしまうわけです。事故の直接原因というのは今いった停電とか、ちょっと川があってというようなものかも知れないですね。
中井久夫.“危機と事故の管理”.『統合失調症の陥穽』.みすず書房,2017(1993)年,p.264-265
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entaku9 · 2 years ago
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 航空機事故について読んだことで非常に感銘を受けたのは、因果論を一時棚上げしろということです。つまり事故が起こったとしたらその直後に起こったことをとにかく因果論なしで、ブレインストーミングみたいに数え上げろということです。普通起こらないようなことなら小さなことでもとにかく数え上げていったら、そういう例外的なことの集まり方の密度がだんだん高まっている。ついでにいうとサリヴァンは何かがあったらその前に何があったかをきくものだと言っていますね、何をこわして、どこの道を突っ走ってといったことでなくて。犯人探し型の事故調査というのはとにかく他の人たちが責任を免れるように、運転手であるとか、操縦士であるとか、とにかく悪い人を作ってしまうのです。こうすれば、全部問題はなくなり消去されるわけですけれど、システム全体はこれではちっとも良くならないわけです。犯人探し、責任者探しをいったん棚に上げて全体を眺めてみることが経験を生かすということにつながると、私は思います。これが事故が起こる確率を少なくするように状況を変えてゆく力になります。あるところでひょいと雲の上に出るように事故の確率が少なくなり、病棟なら病棟の雰囲気が変わります。
中井久夫.“危機と事故の管理”.『統合失調症の陥穽』.みすず書房,2017(1993)年,p.259-260
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