#ヴァージニア・ウルフ
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「波」 ヴァージニア・ウルフ 森山恵 訳 早川書房 読了。
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ポルは言った。みんなも知ってるだろうけど、私はたいていロンドン図書館で本を読んでるの。最上階のイギリス文学から始めた。一階の『タイムズ』紙を目指して、しっかり読み進めてる。
— ヴァージニア・ウルフ著/片山亜紀訳『ある協会』(2020年10月2刷、エトセトラブックス)
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ヴァージニアウルフ 川本静子訳
自分だけの部屋
書棚を端から端までじっくりと歩き回るような文の構成が新鮮だった。初めは、彼女は何を言おうとしてるんだろうと訝しがっていたが、いつの間にか庭から図書館へ移動し彼女の話を隣で聞いているような感覚になっていった。「女性が小説を書こうとするならお金と自分自身の部屋を持たねばならない」ということばが身に沁みる。長い歴史の間女性は財産を持つことを許されず、自分の部屋さえ与えられず、10分もすると別の用事で引っ張りだされるため時間的余裕がない。それでもたくさんの女性作家たちが私たちの道を切り開いてきて、進化してきた。ウルフは自分の時代が終わった後も、女も男も関係なくなる時代が来ると予言していて、なんだか 勇気づけられた。 また彼女の膨大な読書力をここで知ることができ 読みたい本がさらに増えてしまった。
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他の比較的単純な喜び、たとえば郊外を歩きまわる喜びと支配の喜びが違うのは、ソフォクレスのような���れた心理観察者が示すように、支配者が嘲笑を怖れている点である――同じくソフォクレスによると、とくに女性からの嘲笑や挑戦に対し支配者は奇妙なまでに過敏である。したがってこの喜びの中心的要素は、この喜びの感情そのものではなく他人の感情の投影からもたらされるようだ。つまり、他人の感情の変化にこの喜びは左右されやすいということになるだろう。支配への対抗手段としては、たぶん笑い飛ばすのがいい。
ヴァージニア・ウルフ.『三ギニー』.片山亜紀訳.平凡社,2017年,p.313
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Virginia Woolf, To the Lighthouse

Virginia Woolf, To the Lighthouse, 1927. and books "灯台へ" translated into Japanese.
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文學界 2015年4月号 文藝春秋 表紙=画・柳智之「ヴァージニア・ウルフ」、デザイン・関口聖司
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みんなが好きな「『百年の孤独』みたいな大河小説」ベスト10|秋永真琴
『楡家の人びと』北杜夫
『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン
『大地』パール・バック
『千年の愉楽』中上健次
『べっぴんぢごく』岩井志麻子
『笛吹川』深沢七郎
『ルーツ』アレックス・ヘイリー
『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー
『永遠の都』加賀乙彦
『警官の血』佐々木譲
『天冥の標』小川一水
『紀ノ川』有吉佐和子
- - - - - - - - - - - - - - - - 「響け!ユーフォニアム」も部活の年代記なのかも。
(順不��)
『ときめきトゥナイト』池野恋
『精霊たちの家』イザベル・アシェンデ
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
『炸裂志』エン・レンカ
『大聖堂』ケン・フォレット
『警察署長』スチュアート・ウッズ
『枯木灘』中上健次
『奇蹟』中上健次
『ワイルド・スワン』ユン・チアン
『邯鄲の島遥かなり』貫井徳郎
『平家物語』古川日出男/訳
『血脈』佐藤愛子
『源氏物語』紫式部
『奏で手のヌフレツン』酉島伝法
『俺の屍を越えてゆけ』桝田省治(ゲームデザイン)
『助左衛門四代記』有吉佐和子
『指輪物語』J・R・R・トールキン
『チグリスとユーフラテス』新井素子
『星へ行く船(他、コバルト文庫のシリーズ)』新井素子
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド
『火星夜想曲』イアン・マクドナルド
『黎明の王 白昼の女王』イアン・マクドナルド
『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ
『ジョイ・ラック・クラブ』エィミ・タン
『ウォーリアーズ』エリン・ハンター
『異形の愛』キャサリン・ダン
『王朝四代記』ククリット・プラモート
『ベルリン三部作(1919・1933・1945)』クラウス・コルドン
『六道ヶ辻シリーズ』栗本薫
『鳥の歌いまは絶え』ケイト・ウィルヘルム
『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド
『征途』佐藤大輔
『あすなろ坂』里中満智子
『ケインとアベル』ジェフリー・アーチャー
『ゲームの達人』シドニィ・シェルダン
『氷と炎の歌』ジョージ・R・R・マーティン
『エデンの東』ジョン・スタインベック
『グリークス』ジョン・バートン/ケネス・カヴァンダー(編)
『リーマン・トリロジー』ステファノ・マッシーニ
『雪の練習生』多和田葉子
『鯨』チョン・ミョングァン
『火の山-山猿記』津島佑子
『レオポルトシュタット』トム・ストッパード
『地の果て至上の時』中上健次
『岬』中上健次
『彼女はマリウポリからやってきた』ナターシャ・ヴォーディン
『九時半の玉突き』ハインリヒ・ベル
『土地』パク・キョンニ
『レ・ミゼラブル』ビクトル・ユゴー
『棺のない埋葬』 ファン・ファン
『楊家将演義』作者不明
『デューン砂の惑星』フランク・ハーバート
『ゴッドファーザー』フランシス・フォード・コッポラ監督
『北京から来た男』ヘニング・マンケル
『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』堀井雄二(ゲームデザイン)
『舟を編む』三浦しをん
『櫂』宮尾登美子
『孟夏の太陽』宮城谷昌光
『血族』山口瞳
『華麗なる一族』山崎豊子
『大奥』よしながふみ
『血脈 西武王国・堤兄弟の真実』レズリー・ダウナー
『シンセミア』阿部和重
『流離譚』安岡章太郎
『雲の都』加賀乙彦
『ロマンシングサ・ガ2』河津秋敏(ゲームデザイン)
『サガフロンティア2』河津秋敏(プロデューサー)
『颶風の王』河﨑秋子
『リア家の人々』橋本治
『アラビアの夜の種族』古川日出男
『聖家族』古川日出男
『白夜を旅する人々』三浦哲郎
『導きの星』小川一水
『地図と拳』小川哲
『機動戦士ガンダムAGE(小説版)』小太刀右京
『われ逝くもののごとく』森敦
『本格小説』水村美苗
『始まりの魔法使い』石之宮カント
『夜明け前』島崎藤村
『カムカム・エヴリバディ』藤本有紀(脚本)
『男樹』本宮ひろ志
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2024後記
2025年になってようやう2024年を終わらせる。tumblrに書くのももうお仕舞にしよう。
・アーティゾンの空間と作品は面白かった。作品をどういう空間で見るのか。ホワイトキューブから離れて、空間そのものを作り、その中で作品を見る。夏の直島でも思ったけれどロケーションによってかなり作品の見方や感じ方が変わる。
・メゾンエルメスの内藤礼生まれておいで生きておいでをメゾンエルメスというブランドの抱えるギャラリー内でやる。ここも平日なのに人が多い。内藤礼の作品を見るには騒がしすぎると思う。概念も。
・伊藤ゲン展は、SNSでみるものと生で見るものとかなり印象が違う。生の方が圧倒的に生々しいというか(あたりまえである)書いているものが身近なものであるということを差し引いても、絵の具の乗り方が生活感をより彷彿とさせるというか。美味しそうなケーキも描いていると食欲を吸い取られているのか、食べたい気持ちがなくなるそう。描かれるためだけに買われて捨てられる食べ物をもったいないと思う気持ちと、半永遠に姿をとどめられてしまったのだなぁという気持ちと。
・田中一村展、都美術館はオタクのぬい文化を取り入れようとしていて面白かったが、ちょっと曲解ぎみじゃないか?というのは置いておいて、圧巻だった。時間が解けていくが体力も削られていく。奄美大島は遠いので、都内でこれほどまでに集めてもらえたことに本当に感謝。
・松濤美術館の空の発見展、日本画には西洋のあれそれが入るまで描かれる空そらがない。空くうならある。
・Cool氏Solo exhibition 犬のかたち様々。ジョジョ立ちのような人物立体(作家本人も自覚アリ)
・写美アレック・ソス部屋についての部屋、数年前の葉山がかなりロケーション含めて最高だったので、ハイライトだけでものたりない。テーマも面白いかと言われると、葉山を見た後だと、別に…葉山で見たいように見てしまったし。でも最近の作品が見られたのは良かった。今後すべてを葉山の展覧会と比べてしまうだろう。
・オペラシティ松谷武判展、ボンドと黒。ボンド作品は卵のような生の予感と、それが弾けた瞬間のグロテスクさを思わせる。黒は時間も空間も全てを埋めていく。
・SOMPO美術館カナレットとヴェネツィアの輝き展、カナレットの絵画は近づいてみるとより輝きを増す。ヴェネツィアの光。絵のための虚構込み。でも後半のウォルター・シッカートのヴェネツィアの絵画で、この暗さが落ち着くんだよなと思った。光は好きだけれど、眩しい。
・森美術館ルイーズ・ブルジョワ展ルイーズのキンとした声質がどこかビョークに似ていると思った。作品がかなり理性的というか、この人はものすごく思考の言語化が上手くて(というかそういうことを している)それが作品を見たときにストンと落ちてくるので、意味が分からないグロテスクさがないのが清々しいというか。内容としては過去の自分の心のケア的な要素が大きいので、別に清々しいものではないのだけれど。
・東京ステーションギャラリーテレンス・コンラン展はやっぱりコンランショップが当たり前になってしまうと、当時のセンセーショナルさ目新しさなどを失ってしまい、当たり前の光景だと感じてしまうので現代人にとって感動はしにくい。当時を振り返って、すごかったんだね、というにもまだ感慨がいまいちわかない。あと、彼について語る人の映像が多いとちょっと疲れる。
・科学博物館鳥展、キウイの卵って大きいんだ!シマエナガって思ったより小さいんだ!など鳥のことを何も知らないゆえに純粋に面白かった。
・三菱一号館美術館ロートレックとソフィ・カルの「不在」正直ロートレックは取ってつけたような不在すぎる気もする。もっと面白い見せ方があったのではないか、と。作品が分散しすぎな気もするね。ソフィ・カルは文句なしでよかったので、ソフィ・カル単体でやってほしかった。品川の原美術館で見たときが忘れられない。ソフィ・カルやっていまいちにする方が逆にすごいので、どんな展示でも嬉しいが、でもあれ混雑したら翻訳書いてある紙が少なくて、意味わかる人少なくない?と余計なことを思った。ソフィ・カルがいいから内容は満足だけど、キュレーションとしてはいまいちじゃない?
・松濤美術館須田悦弘展、美大時の初期の作品もあり、ここから今に至るというのを感じられた。これを木からひとつひとつ掘り出しているのか~さりげないところに作品が置いてあって、館とわりとあっていてよかった。夏のベネッセにもあったが、あまりにもさりげなさ過ぎて、やはり気付く人が少なそう。知っていないと見つけられなそうだが、ここはちゃんとマップがあるので安心。
・印刷博物館の書籍用紙の世界、色々な紙がある(阿保みたいな感想)
・庭園美術館そこに光が降りてくる青木野枝/三嶋りつ恵、これほどまでに館と一体になった展示があっただろうかと感動した。久しぶりに庭園美術館の展示内容がよかったと感じた。ここ最近は庭園美術館は建物系の展示ばかりで正直惹かれないというか予算ないのかな?と思っていた。ガラスを扱う人は、ある程度ガラスを柔らかな素材だと認識している節があるなと思った。年始ごろ?に見た山野アンダーソン陽子さんは確か液体だと言っていた。鉄も円形にくりぬかれ、光を通すと明るい印象になるんだね。どちらも火が大事。
・文化学園服飾博物館あつまれ!動物の模様その国その文化によって描かれる動物は勿論違う。服装を通してさまざまな文化を覗いている。中国語って面白いね。発音が同じだから縁起物になるという。
・府中市美術館小西真奈Wherever初期の作品の緻���に描かれたものから感じられる不穏さよりも、近年の作品の線や色の伸びやかさ(ここにいくまでにきちんと描いてきたという下積みはもちろん感じる)が好ましいと思う。
感情は生モノなので、振り返っても忘れている。何もかもを忘れていく。
ヨン・フォッセ『朝と夕』、文フリで手に入れた本たち、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』、塚本邦雄『連弾』、北山あさひ『ヒューマン・ライツ』、スティーブン・キング『書くことについて』、サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』、ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』、牛隆佑『鳥の跡、洞の音』、アグラヤ・ヴェテラニー『その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか』、梅崎春生『怠惰の美学』、ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』
π、狭霧の国、ローラ殺人事件、ベネチアの亡霊、書かれた顔、グリン・ナイト、戦艦ポチョムキン、リバー流れないでよ、ローマブルガリホテルメイキング皇帝の至宝、ベイビーわるきゅーれ、パルプ・フィクション
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道草晴子『完本みちくさ日記』刊行記念絵画展

8月30日より、道草晴子の『完本みちくさ日記』刊行記念絵画展を、twililightで開催します。
9月8日には西崎憲とのトークイベントも開催します。
ぜひ足をお運びください。
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会期:2023年8月30日(水)〜2023年9月25日(月) 会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分) 営業時間:12:00〜21:00 定休日:火曜日、第1&第3水曜日、9月21日、22日
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いつも無駄のない日々を生きるのは息がつまりそうになってしまうから、自分の道草ばかりの日々の日記を読んだり、色だけの絵や、輪郭の曖昧な植物の絵、完璧なデッサンとは少し違うマンガの絵を見ると、呼吸が少し軽くなるといいな、そんな思いでいつも制作をしています。
どこか明確なゴールに辿り着くわけでもなく、わかりやすいハッピーエンドもないまま、ずっと道草をしている日々を描き続けて10年目です。
皆さんも道草をしにぜひこの個展とイベントに足を運んでみてください。
道草晴子
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《プロフィール》
道草晴子(みちくさ・はるこ)
漫画家。2015年にトーチwebで連載していた自伝マンガ『みちくさ日記』を刊行。続編となる『よりみち日記』を2020年に新潮社よりさらなる続編『よりみち日記2』を「考える人web」で2022年9月まで連載していた。2023年8月24日にリイド社から、『みちくさ日記』と『よりみち日記』と『よりみち日記2』の3作をまとめた『完本 みちくさ日記』が刊行される。
現在、マガジンハウスの「POPEYE web」および「SHURO」にて坂口恭平原作のマンガ『生きのびるための事務』を連載中。
絵描きとして絵画作品も制作し、ギャラリーなどで展示販売も行っている。
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《会期中イベント》
道草晴子+西崎憲『道草と創作について』
日時:2023年9月8日(金)開場:19時 開演:19時30分
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:2000円+1ドリンクオーダー
西崎憲さんとの出会いは、下北沢にあるB&Bでのイベントがきっかけでした。ギターで弾き語りをする西崎さんが、会ったことない私に「どこかで見たことがありますね」と言ってくれたことをきっかけにお話し、店内にあった「みちくさ日記」を買ってくれました。
西崎さんは「ひと目で好きな作品だとわかりましたよ」と言ってくれて、その後、西崎さんが翻訳家で小説家でもあることを知りました。
それからトワイライライトで再会し、今回のイベントを開催することになりました。
このトークでは、私の名前にもある「道草」のことと、作品に影響を与えてくれた本や映画にまつわるお話をします。
道草晴子
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件名を「道草晴子+西崎憲」として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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《出演者プロフィール》
西崎憲(にしざき・けん)
翻訳家、作家、音楽家。訳書に『郵便局と蛇』コッパード、『ヘミングウェイ短篇集』、『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』(亜紀書房)など。著書に第十四回日本ファンタジーノベル大賞受賞作『世界の果ての庭』、『蕃東国年代記』、『未知の鳥類がやってくるまで』、『全ロック史』、『本の幽霊』など。フラワーしげる名義で歌集『ビットとデシベル』『世界学校』。電子書籍や音楽のレーベル〈惑星と口笛〉代表。
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会社の読書報告会でヴァージニア・ウルフを紹介したところ、たまたまジェーン・オースティンを持ってきていた男性から「ジェーン・オースティンは、女性の地位向上とかは言わずに、ただ美しい文章で美しい小説を書いていまでも愛されている」とかなんとかご説明を賜ってしまった。
こういう日々の緊張、ストレス。これをもっと拡大し連日受けなくてはいけなかった環境でウルフもオースティンも筆を取って書いた。
私にもできる、今は前よりも良い時代だ。何も恐れてたまるものか。
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2023.07.29 ハンチバック、報酬系、遠く
Lily chou-chouの「エロティック」を聴いているときの私と、相対性理論「スマトラ警備隊」を聴いているときの私、Nirvanaの「Lithium」を聴いているときの私と、長谷川白紙の「エアにに」を聴いているときの私、はそれぞれ異なっていて別のもの、だと思いながら机の上のスマートフォンを掴もうとするけれど、さっき首元を触ったときの僅かな油分が指に付着していて、掴むことに失敗する。スマートフォンが数ミリ落ちて机とぶつかって音がする。
***
誠実に日記を書くこと。その日に起きたことを時系列順に、淡々と記述していくこと。ただそれだけのことがとても苦手で、それは単純に記憶力が弱くて曖昧ということもあるけれど、その日に起きたことをすべて順番に、正直に書いてしまったのなら、その日の私の行動が一つに定まってしまうから、それが嫌なのかもしれない。
その日に起きたことを正直に日記に書く、というのはその日の私を一つに収束させるということで、それをしなければ、その日の私は沖縄で船に乗っていたことにもできるし、バイトをしていたことにもできるし、ずっと天井を見ていたことにもできる。太平洋にいたことにもできるし、大江健三郎を読んでいたことにもできるし、街を破壊しにやってきた恐竜をサイキックで迎え撃っていたことにもできる。
いつだって、現実が一つに定まること、一つに収束するということを恐れているのかもしれない。でも、人は二つの場所に同時にいることはできないし、常に一つを選んで、その一つ以外の数えきれないすべてを捨て去らないといけない。
***
市川沙央の『ハンチバック』について書こうと思いながら、2、3か月くらい経ってしまっていて、その間に『ハンチバック』が芥川賞を取った。
『ハンチバック』のラストは大きく二通りに読むことができて、自分は初めて素朴に読んだとき、「主人公である釈華が、家庭環境の悪い不幸な風俗嬢の女子大生として紡いだ虚構(ネットで公開されているかもしれない小説もしくは記事)」として読んだ。
その場合、先天性ミオパチーという重度の障害を持つために妊娠そのものが不可能である「私」が、(いわゆる)健常者女性たちが行いうるような「妊娠をして中��をしたい」という願望をフィクションに託している、と読める。不幸で破滅的な風俗嬢である(フィクションの)沙花が、妊娠不可能な「私(釈華)」の願いを叶えている、と。
でも、ラストの10行くらいで、むしろ不幸な風俗嬢である沙花が、兄が殺した重度障害者である釈華の物語を紡いでいる、虚構を紡いでいるということが明かされる。ここで、事態はむしろ逆転するわけだけど、このとき、重度障害者である釈華は不幸な風俗嬢である沙花を虚構することで救われようとするし、沙花は柔道障害者である釈華の物語を紡ぐことで救われようとしていて、奇妙な支え合い、相互依存じみた関係になる(そして、どちらが本物なのかは決して分からないし、ある意味で入れ子構造でもある)。
ここで、純粋に純文学の、特に「私小説」として考えるのならば、このラストの部分は一切必要なかったはずで、でも、作者はそれでもこのラストの部分を書いたわけだし、個人的な感覚ではこのラストの部分は重要だし、好きだとも思う。
ラストの部分がなければ、重度障害者である釈華(≒作者の市川沙央)がそのリアルを(フィクションを交えつつ)書いて、一般的な「大人しくて、欲望もない聖者のような、かわいそうな存在」としての障害者表象を破壊する、という一本の筋で成立するはずだけど、ラストの部分で、そのようないわゆる私小説な「私」というものの裏返し可能性、みたいなものが同時に提示されているのかもしれない。
***
コンサータ、飲んでいると「物事をこなすこと」に対する達成感みたいなものが存在していることにびっくりする。作用機序についてはよく知らないけれど、実感として、自分の報酬系がまともに働いているというのが分かるし、自分の報酬系は元々半分くらい壊れているのだと思う。でも、効果時間が切れるとどっと疲れるのもよく分かる。休憩するということができないくらい、6時間くらい集中して作業をしていたので、身体がずっと変な体勢で固まっていたらしいし、頭も疲れる。耳をすまさなくても、外から蝉の鳴き声が聞こえてくる。午前5時半。数日前、学校でパルプ・フィクションを見た時も、かすかに蝉の声が聞こえていた。外は熱風。ウェルベックの『プラットフォーム』とキャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』を少しだけ読んだ。昨日読んだドゥルーズの『千のプラトー』で引用されていた箇所がよかったので、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』を読みたい。
***
電車に乗ると、原色に近い黄色の服を着た小学生くらいの子どもが母親と一緒に座っていて、黄色と黒のおもちゃみたいな双眼鏡で電車の窓から遠くを見ている。白と黒のチェック柄の帽子を被って、遠くを見ている、遠くを見ている、遠くを見ている。どこを見ているんだろう、と思う。たぶん自分にはもう見ることのできないどこか。
***
言葉はこの世界を組み換���られるし、別の世界を作り出すことさえできるけれど、一方でたとえば鬱の時期には本なんて読めないし、そのときそこからはあらゆる意味が失われていて、それは黒いインクの染みや、白い壁を這っていく名前も知らない黒色の虫と何も変わらないということを絶え間なく、重力みたいに感じていて、だから言葉というものが素晴らしいとか、読書が素晴らしいとかそういうことはほとんど思えなくて、だけどそれでもどこかのタイミングで、何らかの方法で、ときには受苦を伴いながら何かを読むし、書くということから出発するしかないんだと思う。
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ヴァージニア・ウルフの小説に登場する、わたしの大好きなある男は、中年になった自分について次のように告白する。
— アン・モロウ・リンドバーグ著/落合恵子訳『海からの贈りもの』(1995年2月第6刷、立風書房)
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作品が読まれ、観られ、聴かれ、感じられることは、作者の意図やテーマ、試みなどとは全く別なものとして、届けられます。
むしろ、作者の言葉や、多くの人達の共通解釈や、その時の常識は、作品を狭い場所へを押しやってしまう弊害にさえなると思います。
私は、それらのことをドストエフスキーや、K・コルヴィッツ、ハンナ・アーレント、川端康成などから教えられてきましたが、今回改めてヴァージニア・ウルフでも、それを痛感しました。
ヴァージニア・ウルフは、学生の時に一度読んで、何がいいのか全く分からなくて放置していましたが、どうしても気になる作家でした。
そこで今回、再読を試み、『ダロウェイ夫人』光文社『灯台へ』河出書房新社『波』角川書店『オーランドー』筑摩書房『月曜か火曜』エトセトラブックス『幕間』平凡社 を読みました。
『波』は、作品構造はとても良いし、私は好きですが、その詩文的文体の偏重に、半ばから飛ばし読みになってしまいました。
『月曜か火曜』は短編集で、「書かれなかった小説」と「壁のしみ」は、その後のウルフの文体が垣間見えるし、視点の秀逸さを感じましたが、他の作品は、それほどまでとは思いませんでした。
『ダロウェイ夫人』は、他の作品よりも読み物としての面白さが前面に出ていて読み易いですが、細部に隠された比喩や仕掛けは、成功していないように感じました。 でも、私が人に薦めるのは、この作品と『灯台へ』になるでしょう。
『灯台へ』を読み始めた時、「これって、源氏物語の視点偏在と同じ文体じゃん!」と、驚き喜び勇んでしまいました。 漱石の『明暗』やチェーホフ『三人姉妹』にも通じる距離感や、構造や関係性の試みは、玄人好みとも言えるある完結性を持って��て、なかなかよかですが、読者を選ぶ難点もしっかりとあるので、代表作だからと言って無理に読む必要はありません。 いつか、再読した時に、ふと、登場人物達が海の向こうの灯台に想いを馳せるその気持ちが、自分の中の気持ちと交じり合って、一つの風として感じられたら、それで十分に思います。
『オーランドー』は、ウルフの一般的な評価解釈(フェミニズムや、ジョイスと並ぶ意識の流れなど)に加え、英文学のリスペクトと修辞学(レトリック)がふんだんに盛り込まれていますが、だから何?って感じで、私は退屈でした。 かろうじて、私の好きな折口信夫の『死者の書』に似た構造なので、それらと対比しながら(楽しみを探しながら)読みました。 部分部分では、とても素晴らしい場面も多数あるのですが、なぜか、それらがうまく繋がってない気がしました。
さて問題の『幕間』です。 この作品は、ウルフが自死する前に書かれた遺作で、最終的な校正や訂正、推敲をする前段階の原稿になります。 よって、読んでいると、確かにウルフだったら、ここの箇所はもう少し言葉を紡いだだろうなとか、整理しただろうなと思う箇所も散見するのですが、思考回路のろ過が少なかった分、くんと伸びた射程のあるアイデアが残っていて、一番驚いた作品でした。 私の解釈が、訳者解説で書かれていることや一般的な理解と、大きく異なっていて(えっ、そんな当たり前の解釈?)と驚いた作品でもあります。 「幕間」の原題は「Between the Acts」で、「act」は「一幕」のことであり、大文字で書き出された「Acts」は、大きな事件であり、二つの大戦を比喩していると考えられているようです。
確かにウルフは、それを意図していたのかもしれないけど、私の解釈では、まさに「行為」だし「actor」に通じる諸々の存在(生物も無機物も同列な)や「断片」に読め、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』や、ブルーノ・ラトゥールの「ANT理論(Actor-network-theory)」に通じると思うのです。 誰も言いませんが(笑)
今後は、ウルフがフェミニズム作家とか内面作家などという、まさに「文学」界の思い込みや、しょうもない文学プライドなどから解放されて、思考や認識の「対象」として取り上げられる「構造やシステム、言語」を成り立たせている、いや、「対象」という朧(おぼろ)なホログラフを「浮かべている」非知で不定形な、架空のエーテルへの「気付き」として、再評価されてゆくでしょう。 (期待と共に、願いを込めて)
野外劇が繰り広げられ、最終の第4幕が始まると、���者達はそれぞれが鏡などを持ち、観客を映し出す。
「・・・こちらでは鼻が・・・。あちらではスカートが・・・。そしてズボンだけが・・・。いまはたぶん顔だけが・・。これがわれわれ自身?でも残酷じゃないか。準備する時間も与えられないまま、ありのままのわれわれを捕まえるなんて・・・。それもごく部分的に・・・。だから歪曲されてしまうし、動揺するし、これはひどい不正だ。(中略)手鏡、ブリキ缶、台所の鏡、馬具室の鏡、浮き彫りのついた銀の鏡ーそのすべてが停止した。それで観客たちは自分自身を眺めることになったー(中略)時計の針が現在この瞬間で止まった。現在だ。われわれ自身だ。」(『幕間』P223~225 片山亜紀・訳 平凡社) 「紳士淑女の皆さん、(中略)美辞麗句はおしまい、話を大げさにしたり勿体ぶったりするのもやめましょう。リズムは壊して韻は忘れてしまいましょう。そしてわれわれ自身についてじっくり考えましょう。(中略)ボロの背後に隠れてはいけません。でも衣裳で取り繕ってもいけません。あるいは学識で取り繕うとか、ピアノをうまく弾きこなすとか、化粧の厚塗りとか、子どもの頃は無邪気だったとか思うのもいけません。」(『幕間』P226 片山亜紀・訳 平凡社)
「ええ」アイサは答えた。「いいえ」彼女は言い足した。それはええ、でもあり、いいえ、でもあった。ええ、ええ、ええー潮は包みこもうと押し寄せてくる。いいえ、いいえ、いいえー潮は引いていく。砂浜に古靴の片方が残った。
「屑、ガラクタ、断片」消えつつある芝居から、思い出せるものを引用した。(『幕間』P259 片山亜紀・訳 平凡社)
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ご自分の服装の奇抜さ、さらには司令官、将軍、伝令兵、近衛騎兵、護衛兵などの軍服の奇抜さにはまったく思い至らず、女性に向かって説教しながらご自分も相手と同じ弱点を抱えていると少しも気づかずにいられるという事実から、二つの疑問が浮かぶ。そもそも一つの行為はいったい何回反復されれば、これは伝統であるがゆえに尊ぶべきである――と考えられるようになるのだろうか?社会的評価がどのくらい上がると、人は自分の服装の奇抜さに無頓着になるのだろうか?奇抜な服装は、その職務と切り離されればたいてい嘲笑を受けるものである。
ヴァージニア・ウルフ.『三ギニー』.片山亜紀訳.平凡社,2017年,p.271-272
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Her name is Virginia

Her name is Virginia
“Virginia”という名のジャケット——解体から生まれる、ひとつの自由
この服を初めて見たとき、「再構築」という言葉が、まるで心に浮かび上がってくるようだった。
かつては男性のジャケットだったその布が、今ではウエストで切り離され、下部分は巻きスカートへと姿を変えている。
まるで過去の記憶をそのまま引き��ぎながら、新たな物語を紡ぎ出しているように。
“Virginia”という名を冠したこの一着は、ただのリメイクではない。
それは、固定された「形」や「意味」から解き放たれるための、静かな革命だ。
ヴァージニア・ウルフは、社会の中で女性が置かれている立場、与えられた役割に疑問を投げかけ続けた作家だった。
彼女の筆は、怒りではなく観察と洞察に満ちていた。
そして、彼女の文章が描き出したのは、「自分とは何か」を問い続ける人間の姿だった。
“Virginia”というジャケットもまた、既存の「ジャケットらしさ」から離れ、新たな可能性を生み出すことで、
私たちに問いかけてくる——
「この服は、誰のために、何のためにあるのか?」
巻きスカートへと変容した下部は、あえて「男性の服」という起点を持ちながら、
それを分解し、編み直し、自由に纏うことで、
“女性らしさ”“男性らしさ”という分類そのものを超えていく。
それはまるで、ウルフが『自分だけの部屋』の中で綴ったように、
「女性が書くには自分の空間と、月に500ポンドの収入が必要だ」と語ったあの言葉のよう。
——“何かを創り出すためには、まず、自由が必要だ。”
この一着には、「静かな解体」と「穏やかな問い」が込められている。
権力や慣習の形をなぞるのではなく、それを一度ほどいて、別の美しさへと仕立て直す。
服をまとうという日常の行為を通じて、
「社会が決めた自分」ではなく、「自分が選んだ自分」へと、私たちは少しずつ近づいていける。
“Virginia”を纏ったとき、あなたは感じるかもしれない。
その布の重なりが、いくつもの時代と声を内包していることを。
その中には、まだ言葉になっていないあなた自身の願いや痛みも、きっと含まれている。
ただの服ではない。
それは「語ることのなかった感情に、輪郭を与えるもの」。
日常という舞台で、まだ誰にも見せていない役を演じるための、美しく、誠実な衣装。
“Virginia”は、決して派手な声では語らない。
けれど、その静けさの中にある確かな意志は、
あなたの一歩を、少しずつ確かなものにしてくれる。
何かを「壊す」のではなく、「編み直す」。
過去を「捨てる」のではなく、「語り継ぐ」。
そして、社会から与えられた役割ではなく、自分で選んだ形で存在する——
それが、“Virginia”という服の哲学なのです。
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