#この日は日帰りで1都3県を巡る長い長い旅になるなんてこの時は誰も想像もしていない
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etanchan · 1 year ago
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あたしはあなたにはなれない
昼間に書くのは珍しいですね。いつも寝る前に書いています。不眠が加速していたのでブルーライト避けで最近辞めてました。純粋に書きたいと思わなかったしね。まとめておきたいことが終わったので暇だし書き残そう。ずっと書きたかったことでもある。
旅行に行きました。
旅行が嫌いです。子供の頃からあまり好きじゃない��修学旅行も小中高ずっと行きたくないなぁと思いながら義務で行ってた。ここ数年は年に1度だけ毎年同じメンバーで近所にのみ行ってた。静岡とか栃木とか。それも去年はなくて、正直ホッとしてた。旅行、本当に嫌過ぎる。嫌だけど年1は頑張ろうという気持ちだった。「卒業アルバムってマジで要らないし場所取ってるから捨てたいけど、捨てたら人間として何か大事なものを失う気がするから実家に置き去り。」と同じ気持ちで、旅行したくないけど全く旅行をしない人間になるのは逆に怖くて頑張ってた。でも基本行きたくない。長距離移動が苦手。家が好き。旅行で得られる経験と、旅行で得るストレスが釣り合ってない。どんなに仲が良くても誘われたら断っていた。結婚式と葬式と旅行とBBQは基本行かない。繰り返しになるけど、嫌いだから。
そんな私が旅行に行きました。いつものメンバーじゃない人と。その人へのお礼のつもりで、自分の殻を破ることでしか誠意を見せられないな、そういうつもりで覚悟決めて行ったのですが、思いの外うまくいったので、逆に旅行させてくれてありがとうみたいな感じになってしまい、恩を返すつもりがまた恩に着ることになってしまった。なので感じたことを書き残しておこうと思う。その人と破綻して全てが嫌になっても、起きた事実を忘れないように。
2泊3日。目的は仙台で行われるイベントへの参加。でも彼が福島県が故郷なのでついでに実家に顔を出したいとのことで、まず1日目に福島県へ行きました。初めて会う人とドライブするなどして過ごした。人と会うのが多分好きなので、そういう目的の旅はいいのかもしれない。ずっと会いたかった人だったしね。観光となると楽しまなきゃ感が出るけど、君に会いに来たよだと急にフッ軽な感じがして、気負わなくてよかった。夜は飲みに行って、いかにんじんを食べたりした。郷土料理に触れるのも案外悪くはないのかもしれない。義務感あるけどそれもまた思い出みたいな。因みにいかにんじんは別に好きじゃなかった。夜はひとりでドミトリーに泊まった。ずっとカプセルホテルに泊まってみたかったんだけど機会に恵まれず、また男性のみみたいなところも多いので、泊まれずにいた。カプセルホテル探してたら古い建物をリノベしたおしゃれなドミトリーが見つかったのでそこに泊まった。4人部屋で赤の他人と寝るの面白いなぁって。多分旅慣れてる人たちだったんだろう。嫌な気持ちにはならずに無事朝を迎えた。ドミトリーの��向かいにお寺があって、そこにねこが何匹か住みついてた。朝散歩した時に撫でるなどした。そうやって行く場所全てでねこの友達を作っている私は。千葉のねこ、練馬のねこ、福島のねこ、仙台のねこ。ねこと酒はどこにでもあるし、ねこと酒きっかけで友達が増えることが多々あるので、ねこと酒が好きで良かったと思った。
2日目は仙台へ移動。在来線で1時間ぐらい?かけて向かいました。電車は寒冷地仕様でボタン押さないとドア開かないタイプ。田舎だからか日曜日だからか、乗った電車は全部座れたな。嬉しかった。途中川沿いの満開の桜並木に出会った。急に窓の外がありえないぐらい美しくなってびっくりした。見惚れた。嬉しくなった。あとから調べたら白石川堤一目千本桜というらしい。1200本のソメイヨシノが植ってて、8キロもあるらしい。本当の千本桜だった。眼福。朝早かったからまだ花見客もいなくて、純粋に川と桜だけがずっと流れていって、ほんとにまばらにしか乗ってない乗客も、みんな黙って流れる景色を見ていて、なんかすごかった。夢とか創作みたいな景色と空気だった。電車から桜が見えるなんて知らなかったのもよかった。そのあとは月並みだけど牛タン定食を食べた。麦飯ととろろ。ネギが入ったテールスープ。あと定規揚げ。食べながら彼のお兄さんと話した。大人になった兄弟を並べるのは面白い。イベントに参加した後、ホテルにチェックインしてお風呂に入ってから晩ご飯を食べに出かけた。2泊目はアパホテル。旅行嫌いはアパにも東横インにも入ったことがない。お風呂が思ったよりよかった。小さいけど露天があって、日曜の昼だから誰もいなくて、大変快適。なんでこんな遠くまで来て人混みにうんざりする必要があるんだよ。という気持ちにならなかったのがよかった。人混みも別に好きではあるけど。露天風呂の壁に書かれていた「虫さんや葉っぱさんもお風呂がだいすきです。見つけたらそっとすくってあげましょう」みたいな注意書きがかわいくて嬉しかった。風呂って変だよなぁって思った。夜は牛タンカレーと牛タンのたたきを食べた。そもそもルゥが美味いのに、でかい塊の牛タンが煮込まれてて天才だった。あとなんか日本で初めて牛タンのたたきを出した店らしい。知らんけど。美味しかったです。帰りにいちご飴を食べた。今年は彼とたくさんいちごを食べれて嬉しい。彼とじゃなくても嬉しいけど。夜は手を繋いで一緒に寝た。いっぱい頑張っててえらいねぇって言われて、そうだぞ私は今めちゃめちゃ旅行を頑張っているんだぞという自意識。寝る時になって泣いた。疲れてるのと、自虐性質でいっぱいになって泣いた。心の中であり得ないぐらい自分のこと���虐め抜いてることに気づいた。言われなかったことを悪く想像して勝手に傷つくっていうよくない癖。直したいなと思いながら眠った。
3日目は松島に行くと決めていた。朝7時からやっている老舗っぽいお蕎麦屋さんで朝ごはん食べた。少し待ったけど美味しかったし、女将さんが優しくて、帰る時にいってらっしゃいって言ってくれて、それだけでまた来たいなんて思ってしまった。あと七味がめっちゃ美味かった。買ってくれば良かった。そのあと30分ぐらい電車に乗って松島へ。旅行の嫌いなところ第二位、観光。何観光って。意味ある?興味ないんだが。となっている自分の機嫌を取るために、私がだいすきな漫画、ハチミツとクローバーの聖地巡礼を絡めてなんとか気持ちを乗せた。竹本くんが自転車でたどり着いた場所が松島で、瑞巌寺。ある程度の区切りをつけるきっかけとなったのが、五大堂へ続く透かし橋。同じ場所に行くんだと思えば多少楽しみだった。晴れていたら遊覧船に乗ろうと思っていたが、あり得ないぐらい晴れていたので乗った。島々を見るための遊覧船だが、海苔と牡蠣の養殖を見れたのがよかったという独特な感想。カレーパン、笹かまぼこ、おせんべいなどの食べ歩き。あとは竹本くんと同じように缶コーラを用意しといて、飲んだ。少し写真も撮ってもらって、あぁ今思い出を作っているなぁという自覚がすごかった。晩ご飯に3回目の牛タンを食べてから帰りたかったので、時間を潰すために仙台駅近くの猫カフェに行った。地方都市の平日昼間の猫カフェは最強です。完全にオススメ。東京だと外国人がいつでもいるからね。3回目の牛タンは焼肉。厚切りと普通のと味噌と。3回目なのに3種類食べた。厚切りは誇張なしで拳ぐらいあった。牛タン以外の肉も全部質がいい良い焼肉屋さんでした。ハラミ、美味かったなぁ。あとハイボールも丁寧に作ってくれてて美味しかった。〆にアイスを食べてから少し過去を回想して、新幹線に乗ったよ。帰りの新幹線はずっと泣いてた。嬉しくて。感動してた。旅行が楽しいということに。達成感もあった。でも家に帰りたい気持ちもあって、なんか色々丁度良かった。
頑張ってくれてありがとうと言われた。頑張った。私が彼のことをすきな気持ちをわかってもらえたような感覚があった。頑張れたのは彼に誠意を見せたかったから。彼のことがすきだから。彼と出会ってから私は久しぶりに、ずっと彼とあと自分自身に真面目に真っ直ぐ向き合っている。健全な人間関係。とは言い切れないけど、自分の気持ちを誤魔化したり、相手に無理を強いたりしないでいる。この気持ちを諦めたくない。負けないと信じたい。すきなものをすきだと言い続けたい。表面じゃなくて根幹を愛したい。
旅行というと、ストレス発散とか気��転換に良いとされている行動のひとつだ。リフレッシュ。正直意味がわからない。こんなにストレスの強いものはない。お前ら狂ってるよと思っていた。いやまだ思ってる。そういう大衆の意見から外れていることは自己肯定感の低下に繋がる。しかも持続的なものだから社会不適合感も煽られる。旅行が嫌いなだけで非人間感まで得ていた。なので今回旅行を遂行できたことで、少し人間になれた気がする。ちゃんと楽しかったと思えるんだ。そんな自信をつけた。リフレッシュできたかと言われるとそれは残念ながらできてない。慣れればそうなるもんなのだろうか。分からない。
死にたいと思った分だけ、生きててよかったが来るのかもしれない。ここ1年ぐらいずっと生きててよかったと思っている。心の底から思う。感動して泣くこともある。あの時死なないでよかった。生きててよかった。そういう時は大体きれいなものを見ている。世界が美しいと知ったとき。でもそれはひとりじゃ見られなかった、知れなかった。誰かと一緒だから出会えた景色であることが圧倒的に多い。そうなると、君に出会えてよかったとなる。彼に出会えてよかったと、途中からはそればかり考えていた。こんなに旅行が嫌いだと言ってる人間をこんな遠くまで連れ出してくれてすごい。勇気があるなぁと。強いと思った。僕も強くなりたいと思った。
とはいえやっぱりストレスが強かった。特に行く前。準備が終わって、あとは当日を待つだけの数日間が1番しんどかった。行きたくないとか死にたいとかずっと思って泣いてた。自分には遠すぎるとか長すぎるとか。主に不安と心配。うまくできるかどうか分からない不安と、うまくいかなかったときに自分を守るために逃げる場所がない心配。他人に迷惑をかけるんじゃないかという心配。こんなだったら家にいたほうがいい。失敗してやっぱり旅行は嫌いだなんて改めて結論が出てしまうくらいなら行かないほうがいい。旅行嫌いのコンプレックスが頂点まで達して毎晩泣いたし全く眠れなかった。ただ、仕事中に牛タンがモチベになったのも嘘ではない。楽しみではあった。食いしん坊め。あと旅行中もあまり眠れてない。元々不眠だし場所が変わると眠れないタイプだから仕方ないことだけど。休めないクセにスイッチがずっとオンだったから、旅行から帰ってきた翌日はずっと知恵熱が出てた。こうやって書いてると本当に負担が大きくて笑う。それでも俺はやり遂げたんだ!という自負。
人の故郷に触れるのは2回目だ。1度目の時も感慨深いなぁとは思っていたけど、今回はよりそう感じた。彼の後輩とお母様とお兄様に会った。こういう場所でこういう人たちに囲まれて育ってきたんだという、ひとつの答えが目の前にある感覚。彼のことはすきだけど、顔とか声とか性格とか、そういうのは好きじゃない。好きじゃないというのは語弊がある。好きではある。けどファーストインプレッションであぁこの人のことすきだなと思ったのは、多分こいつは恵まれた環境で過ごしてきたんだということで、今まで積み重ねてきた経験や出会いを好ましいと思った。それを見てきたのだから、そりゃあ感慨深い。みんな優しかったなぁ。もっとお話しして仲良くなりたかった。
頑張ってくれてありがとう、俺も楽しかった、俺の好きな場所と好きな人に会って楽しんでもらえてて嬉しかった、そう言われて、これ以上ない尊重だなと感じた。自分が楽しむことで相手を喜ばせちゃった。これはヤバい良いサイクルの中に入ってしまったかもしれない。このまま高め合って幸せになってしまうかもしれない。今後から目が離せないな。とか言って特に何もないのが人生だったりもする。
大変忙しい時期に2日間お休みを頂いたので、職場にお土産を買っていった。笹団子?ずんだ餅?みたいなやつ。すると同僚から「お土産いただきました」「ごちそうさまです」「どこ行ったんですか?」「牛タン食べましたか?」と声をかけてもらえた!多分これ当たり前のことなんだけど、旅行嫌い人間からするとヤバいことなのだ。こっちは自分の旅行も嫌なので他人の旅行に興味なんか1mmもないのだ。だって話を聞いても行きたいとか思わないから意味ないんだもの。他の同僚が休憩室にお土産を置いてても、あーなんかお菓子があるなぁ程度にしか思ったことがない。そんな非人間に対して、どこに行っただの何を食べたのだの声をかけるなんて。ヤバい。ヤバすぎる。超嬉しい。松島に行きました。牛タンは3回も食べました。楽しかったです。お休みありがとうございました。え?!?!?!私!!!!!人間じゃん!!!!!!!!今超人間なんですけどーー?!?!?!大興奮である。構ってもらえて嬉しいという大変原始的な感情。旅行すごい。お土産すごい。人々の文化的な営みの仲間に入れてすごい。旅行終わってるのにまだあるんですかーーー?!ってなった。次からはお土産をいただいたら興味を持って軽い雑談をしようと思いました。すみません今まで無味乾燥にお菓子だけ食べてて。
さて、じゃあ旅行が好きになったかと聞かれると、別にそんなことはない。ずっと嫌いだったものをそんなに急に好きにはなれない。ただこの3日間のことは好きだった。楽しかった。行くまでの気分の落ち込みもなかったことにはならない。確実に嫌だった。楽しかったからいいや!とはならない。誰とどこに行くかが大事なので、旅行ならなんでも!みたいなことはない。とっても限定的な旅ではあったが、私にも楽しむことができるんだという光明を得たのは大きい。今年はもういいけど、来年なり再来年なり、もっと未来でもいい、またどこかに行けるかもなぁという希望を抱かされた。実際に行くかどうかは分からない。ただ希望を持ってるのと持てないでいるのとでは生きやすさがだいぶ違う。他の苦手なことも挑戦してみようかななんて気持ちにもなる。
貴重な経験だった。連れて行ってくれてありがとう。また僕をどこか遠くに連れてってくれますか?
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miu2d · 1 year ago
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桐朋高等学校、78期卒業生の答辞に賛辞やまず 「只者ではない」「感動のあまり泣いて10回読み直した」
2024/3/13(水) 18:46配信
ねとらぼ
 桐朋高等学校(東京都国立市)、第78期卒業生の答辞がX(Twitter)を中心に、「とんでもない18歳だわ……」「す、すごいものを見た」など大きな反響を呼んでいます。
 本記事では、答辞を書いた土田淳真さんの掲載許諾をもとに、桐朋高等学校公式Webサイト、土田さんのnoteにも掲載されている答辞全文を紹介します。
答辞
 ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきは、巡り巡ってアメリカ・テキサス州のハリケーンの原因となりうるでしょうか。1972年、アメリカの気象学者エドワード・ローレンツは正確な気象予報の困難さをこのように例え、初期条件の僅かな違いが観測結果に大きな影響を与えることを示しました。ローレンツのこの問いはやがて「バタフライエフェクト」として大衆文化にも受容され「偶然に導かれた数奇な因果関係」を意味する言葉として用いられています。本日体育館の外に吹いている朗らかで少し物寂しい風も、ともすると3年前・6年前初めてこの学校に足を踏みいれた時の肌寒く不安な風の名残なのかもしれません。
 自らの歩みを振り返り、新たな日々を予感させる春風が吹くこの佳き日に、桐朋高等学校78期、293名の卒業式を挙行くださること、卒業生を代表し感謝申し上げます。そして六年間僕達に知的好奇心の入り口を開け続けてくださった先生方、また何より18年間僕達の成長を見守ってくださった保護者の皆様に、重ねて御礼申し上げます。
 振り返ると78期は常に風と共に歩んできました。2019年4月1日、「平成」に替わる新元号「令和」の発表。出典の万葉集に曰く、「初春の令月にして、気淑く風和らぎ…」しかし、令和最初に吹いた「風」は通常の「風邪」を遥かに凌駕した未知の感染症でした。「期末試験は中止です」最後の登校日、担任の先生が複雑な表情でそう告げた時、歓喜の声を上げた僕たちのそばで一人下を向いていた友人が流した悔し涙が、コロナの残酷さを如実に物語っていました。憎たらしいほどの青空の下で、僕たちの中学修学旅行は、部活の試合は、そして何よりマスクの下に見るはずだった皆の笑顔は、全て「不要不急」の4文字に淘汰されていき、その鬱憤を誰のせいにもできない葛藤の毎日が続きました。それでも、時計の針は進み続けます。たとえそれが黒板に打ち付けられた腕時計の針であっても。桐朋祭は3年ぶりの有観客開催となり、熱狂の渦を取り戻しました。無事に迎えられた高校修学旅行、旅館の屋根の上、あるいは大文字山から見た京都の星空は、さぞ格別なものだったでしょう。「7回学んで8回笑え」修学旅行のこのスローガンは元々「7回笑って8回学べ」だったそうです。最後は笑いたいよね、実行委員のその一言で少しだけ変わったこのスローガンからは、一生ものの信念を感じます。
 しかし、僕達のこの信念は、決して既存体制への反骨心に基づくものではなく、僕らに本質的に内在する潤澤な学びと笑いへの希求である、僕はそう思います。僕達でなくして誰が、壊れたプリンターで射的をしたでしょうか。電子研は78期の学びある笑いの象徴でした。僕達でなくして誰が、教室のベランダにガーデンテラスを作ったでしょうか。中学最後のスポ大、掟破り瀬戸際のクラTを着て優勝した3年1組が、僕はとても羨ましかった。僕達でなくして誰が、数学の問題集より分厚い修学旅行のパンフレットを作ったでしょうか。学校説明会に来た小学生がこれを見て目を輝かせていたのは忘れられません。CreationとImaginationが同じ「そうぞう」という音なのは日本語の奇跡としか言いようがありませんが、僕達にとってこの両者はもはや同一でした。そしてまたこれも言葉の綾ですが「そうぞう」はえてして騒々しい――群馬県警を呼び、1年1組の天井を破壊し、あるインドカレー店と癒着ができました。ともかく、78期はなんというか、豪快でパワフル。学年閉鎖をことごとく回避し「馬鹿は風邪をひかない」あまりのうるささに呆れ顔で言われたその言葉ですら、僕達には誇らしく感じられました。馬鹿と言えば、これまた「そうぞう」��一環として、生徒による学年通信「馬鹿たれ」を想起した方も多いことでしょう。学年目標を冠した本家「大鵬たれ」のパロディとして作られたこの「馬鹿たれ」、後付けではありますが、かのスティーブ・ジョブズの演説も由来の1つだそうです。 “stay hungry, stay foolish”僕達はこの演説を高2英語総合の授業で学ぶことになります。偶然、ちょうどそのころ、この演説を扱ったある番組がNHKで放送されました。1人の細やかな営みの連鎖が、世界を動かす、と語られるこのシリーズ番組は、また偶然にも僕たちが高1の世界史で学んだ「映像の世紀」の続編で、その名も「映像の世紀 バタフライエフェクト」 2022年11月7日の放送回では、「世界を変えた愚か者」としてご存知ジョブズと、彼に影響を与えた思想家バックミンスター・フラーが紹介されていました。フラーは人類の持続可能な発展についての先駆的概念「宇宙船地球号」の提唱で知られています。バタフライエフェクトと「宇宙船地球号」はともに、いかなる矮小な存在も雄大な世界の要素であることから逃れられないことを示しました。1人の細やかな営みの連鎖が、世界を動かす。情報化社会と呼ばれる今日、それはいよいよ僕ら若者のレベルですら現実となりつつあります。絶えず大衆を突き動かし、ふと消えていくこれらの動きは、まさに風と形容するに相応しい。ですが、風そのものはいかなる善悪も吉凶も帯びていません。曖昧で流動的で得体がしれない、だからつい単純化し、意味づけしたくなるだけなのです。0か1かで定義されるデジタル技術が世界を支配する一方、0と1の間の無限の可能性を認める多様性、個性といった言葉が盛んに繰り返されています。しかし、個性的とは決して固定的なものではない、まして赤の他人から全角140字で押し付けられるものではない、僕は同級生の底知れぬ人間力と接する度にそう思います。僕達が一生かけて取り組む問題集には別冊の解答解説なんてついていません。解説されてたまるものか。解答なんてあるはずもない、だけれども、あるいはだからこそ、その問題を直視し、従うべき、逆らうべき風を判断せねばなりません。
 さてこの“stay hungry, stay foolish” “be foolish be hungry”ではありません。僕達はいつまでfoolish、馬鹿でいられるのでしょうか。無知を馬鹿というならば、僕は永遠に馬鹿で構わない。無知とは、また新たな何かを学べるということであり、学びとはすなわちその奥に未知が存在することへの知覚なのですから。高1の時、担任の先生がこう言っていたのを思い出します。「学ぶ意味なんて学びきるまで分からない、でも意味がわからないから学ばないってのは、あまりに安直だよ��」学びには王道もなければ聖域もない。永久の学びを志向する者ならば、他者に対し冷笑的、厭世的な態度で臨むことは許されません。
 馬鹿は風邪をひかない――己の無知を自覚し、故に学び続ける「馬鹿」であるならば、流言飛語やデマといった一時的な「風」に惑わされることはないはずです。未成年という防風林が除去された僕たちには、今後多くの逆風が吹きつけるでしょう。時には向きを変え、その逆風を追い風に変えることも重要な戦略の一つです。ですが、青臭いかもしれないが、コロナ禍を乗り越えた学年として、いやそうでなくとも78期として言わせてほしい。逆風を味わうことができるのは、前に進む者だけだ、と。
 さらに僕達はそう遠くない未来、風を受ける側から風をおこす側になるでしょう。最後にこんな話を紹介させてください。ある日、生徒会の意見箱に右翼や左翼といった言葉を使って特定の政治思想を中傷するものが投書されていたことがありました。どう返信しようかと悩み、そのまま机に置いて帰った次の日、誰の字とは分かりませんが、しかしはっきりと次のようなことが書かれていました。「片方の翼だけでは、鳥は空を飛べません」 僕達が大鵬ならば、両方の翼を自在に使いこなせる大鵬でありたい。大鵬は古代中国における季節風の象徴だという説があります。中国大陸の南、太平洋を吹き抜ける季節風は、古来より貿易船の帆を押し、東西文明の融合、新たな文化の隆興を育んできました。1匹の蝶でさえハリケーンを引き起こすなら、293羽の大鵬は何をもたらすのでしょうか。僕達がおこす風もまた、曖昧な他者を融合させ誰かの「そうぞう」の一助となると信じています。
 桐の朋。ですがけっして「これっきりのとも」ではないはずです。
 数千里の翼を伸ばして校舎の外に尚も広く晴れ渡る大空を悠々と、颯爽と翔けていく我ら大鵬。
 78期が飛び立つ空に、学びあれそして笑いあれ。
 78期よいつまでも、馬鹿な大鵬であり続けよう。
 2024年3月2日 78期卒業生代表
※一部、土田さんから申し出があった箇所を訂正しています
 土田さんによると、「このたびの答辞を作るにあたり、78期の全てを詰め合わせるという思いで、卒業生293名全員の氏名から1文字ずつとって本文に組み込む、ということに挑戦しました。また、最後から3行目には担任団の先生方の氏名を1文字ずつ入れております」とのこと。また、投稿によると「桐の朋。ですがけっして“これっきりのとも”ではないはずです」という文章は、本番でのアドリブだったそうです。
 編集部が土田さんに反響に関して話を聞いたところ、「内輪ネタ満載の答辞にもかかわらず多くの皆様にお読みいただき、桐朋の魅力が少しでも���わったようで何よりです。これからもまだ見ぬ新たな学びを求めて、大学生活を過ごしてまいります」とコメントしてくれました。
 土田さんの答辞には、「あまりにも素晴らしい文章で感動」「こういう言葉が紡ぎ出せることがなんと素敵なことか。豊かな感性」「卒業生全員の文字入れてのあの内容、すごすぎやしない? あっぱれの一言よ…」「溢れる知性とユーモア、仲間への想いを美しい文章へとまとめ上げる文才に感動しました」「答辞で泣くなんて……」「ここ数年の間に読んできた文章で一番胸が熱くなる素晴らしい挨拶だと思います」など、感動した人の声が続々と届いています。
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xf-2 · 6 years ago
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有���新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、���のものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声��あちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が���に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、���さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。���こには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの���花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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hiruzenmegata · 4 years ago
Text
近さの / なかに / はいる
※この記事はnoteに書いたものをそのまままとめて移植したものです
→もとの記事(初回)https://note.com/megata/n/n47f8d146b717
[1]
花になるなら、飾らず、まっすぐに伸びるヒマワリがいい。モードが言う。対してハロルドは、一面に咲くヒナギクを見下ろしながら、自分はこの花がいいと言う。あの花この花の区別なく、たくさん横並びで生えている、どれでも変わりないようななかのひと花でありたい、と。そんなふうにヒナギクを評するハロルドに対し、同じ花なんてないとモードは意見する。それから、こんなこともいう。世の中の不幸のほとんどは、他人と同じように扱われることに不満を持たない人々が生み出している、と。
ところが、「どこにでもいるやつなんて どこにもいない」式のことを述べたてるモードは、とてもとても極端な人物なのだ。名もなき雑草のひと花ひと花に愛情深い態度を示すような、落ち着いた穏やかな人格ではない。独善的で身勝手な狂老女、とみなされても不思議ではない。
ラブコメというジャンルはどのような構造で組み立てられているか、という話のなかで話題にのぼり、紹介された映画『ハロルドとモード』を実際にみてみた。とはいえこの映画は、いわゆるラブコメというジャンル映画ではないように思われる。家人の目につくところで自殺を演じ続ける少年ハロルドだが、ハロルドの母は、息子が首を吊ろうと手首を切ろうと銃で頭を撃ちぬこうと、まったく相手にしない。「いつものいたずらね」ということで軽く流し、かわりに精神科に通わせたり、軍人の叔父に預けようとしたりする。ただし同伴・同席はしない。ハロルドは一人で精神科や、叔父のオフィスに通わされる。 ハロルドはいつものように、知らない人の葬儀に勝手に参列する。そこで知り合った79歳の老女・モードもまた、赤の他人の葬式に参加するシュミがあった。二人は巡りあう。 モードは常に人の車を運転する。公道の街路樹を引き抜き、人の車にのせ、料金を払わず高速道路をぶっ飛ばし、白バイ警官をまいて、山に勝手に植えにいく。シャベルだって当然盗品である。しかしあっけらかんとしていて、罪の意識はない。法を犯していることぐらい理解しているだろうけど、罪を犯している自責はかけらもない。めちゃくちゃである。 惹かれ合った二人が、きちんと一夜を共にする描写���朝になって、裸の少年と老女がおなじベッドで目覚めるシーン)があるのがとてもよかったです。 「ラブコメ」のジャンル映画ではなさそうだったし、それに「恋愛」を描いているようにも思われなかった���おもしろい映画だったけどね。さあ「恋愛」ってなにか。
このごろ読んでいた嘉村磯多の「途上」という自伝小説のなかに、露骨な切れ味の描写があってハッとさせられた。中学校のなか、からかわれたり後輩をいびったり、勉学に励みつつ田舎出身を恥じらい、色が黒いことをバカにされたり先生に気に入られたり、下宿先の家族に気を使いすぎたりして、なんやかんやで学校を中退して、実家に戻ってきた。ぶらぶらしていると、近所にいる年少の少女に目が留まる。いつか一度、話したことがあるきりだが、やたらと彼女が気にかかる。そこにこの一文があらわれる:「これが恋だと自分に判った。」 そんなふうにはっきり書かれてしまうと弱い。「はいそうですか」と飲み込むほかない。 けれど、恋愛を描いている(とされるもの)に、「これが恋」って「判った」だなんて明確に言及・説明を入れ込むことは、どうなんだろう。少なくとも当たり前な、お約束なやり口ではないと思うけど。 世の中には、「恋」「愛」「恋愛」という単語の意味するところがなんであるのか今一度問い直す手続きを踏まえずに、じつにカジュアルに言葉を使っているケースばかりがある。そうすると、その場その場で「恋」の意味が変わっていくことになる。その「恋」が意味しているものは単に一夜のセックスで、「恋多き」という形容詞がその実、「ぱっと見の印象がイケてた人と手当たり次第やりまくってきた」って内容でしかないときも少なくない。 まあけど、それがなんなのかを追究するのはやめましょう。というか、いったんわきに置いておきます。
さて『ハロルドとモード』の紹介された雑談のトピック:「ジャンルとしてのラブコメ」ですが、これは単に、「イニシアチブを奪い合うゲーム」であるらしい。そういう視点で構築されている。要するにラブコメは、恋愛感情の描写とか、恋とは何かを問い直すとかじゃなくて、主導権や発言権を握るのは誰か?というゲームの展開に主眼がある。気持ちの物語ではないのだ。描かれるのは、ボールを奪い合う様子。欲しがらせ、勧誘し、迷い、交渉する。デパートのなかで商品を迷うように。路上の客引きの口車にそれなりになびいたうえで、「ほか見てからだめだったらまた来ます」って断りを入れて、次の客引きに、「さっき別の店の人こういってたんですよね」とこちら側から提示するように。 イニシアチブの奪い合い、というゲームさえ展開できればいいので、気持ちとかいらない。ゲームが展開できるのであれば、主体性もいらない。ラブコメの「ラブ」は心理的な機微や葛藤の「ラブ」ではない。奪い合っているボールの呼び名でしかない。(つまり奪い合い=おっかけっこ、が、「コメ(ディ)」ってワケ)
浮気はドラマを盛り上げる。人が死ぬのも、まさに���劇的」なハプニングだ。雨に濡れて泣きながら走り、ようやく辿りついたアパートの部屋はもぬけの殻、ただテーブルにひとことの書き置き「フランスに行きます」みたいな、そんな派手な出来事で試合はいよいよ白熱する。ところが、心理的な機微や葛藤というのはいつだってモノローグ的だので、気持ちの面での「ラブ」を描きたいなら、このような出来事たちはむしろいらない。うるさすぎる。もっとささやかで、短歌的な味わいのものがふさわしい。ひとりでいるときに、マフラーの巻き方を真似しようと試みて途中でやめたり、チェーンの喫茶店の安コーヒーの味が思い出でおいしくなったり、そういうのでいい。出しっぱなしのゴミ勝手に片づけたの、ちょっとおせっかいすぎたかなってくよくよ悩む、とかでいい。
恋愛の感情・心理がよく描写されているように感じられる物語の登場人物は、内面的な葛藤に閉じこもらざるを得ないシチュエーションに押し込められている場合が多い気がする。「ひとには秘密にしてないといけない」「誰にも言えない」という制約のある環境。仕組みとして、宗教の違いや人種や年齢の断絶、同性愛など、自分の思いを簡単にひとに打ち明けられないセッティングの話のほうが、「イニシアチブ奪いあいゲーム」からは遠ざかる。(それに、そんなようなセッティングだと、「世間の常識」が要求してくるジェンダーロールを無視して鑑賞しやすい場合も多い。)
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[2]
成功した実業家の息子であるハロルドは、経済的にも肉体的にも不自由なく暮らしている。が、なんだか欠落を抱えている。自殺遊びや他人の葬式への参加など、死に接しているときが最も楽しい。老女モードは、そんなハロルドの世界観を一変させることになる。彼女はかなりアナーキーな存在で、逮捕されるようなことばかり繰り返している。けれど悪びれない。自らの行為を、自分らしい人生を過ごしている実感を与えてくれる刺激として肯定している。
J.G.バラードに『コカイン・ナイト』という小説があって、この頃これを読みました。あ、そもそもこの記事は、最近読んだものや見たものについて、できるだけ網羅的に言及できないかと願いつつ当てずっぽうで書き出した文章です。できることなら人とのやりとりや、自分の過ごした日常についても記したいが、それがうまくできるかどうか。
『コカイン・ナイト』の主人公はチャールズで、世界中を飛び回っている旅行記者です。退屈について、カリスマについて、刺激について。さまざまな切り口から鋭い洞察が重ねられたこの名作の入り口は、ミステリーのかたちをしている。 スペインの南、ハイパーセレブたちのリゾート地で働いているはずの弟が窮地にたたされているから助けにいかなきゃ! と��う目的で、チャールズは物語の舞台にやってきます。弟の状況はよく知らないけど、あいつのことだし、そこまで深刻じゃないだろう。そう高を括ってやってきました。ところがどっこい、弟、かなりやばい状況でした。 大邸宅が放火により全焼し、五人が焼け死んだ。弟にその容疑がかけられている。捕まって、留置されている。裁判を待っている。けれども、誰も、弟が犯人であるとは信じていない。警察だって例外じゃない。明らかに、弟の犯行ではないのだ。それでも弟は、自分がやったと自白しており、嘘の自白を繰り返すばかりで取り下げない。いったいなにが起こっているのか。どういうことなのか。 地域の人らはすべて疑わしい、なにかを隠しているような気がする。チャールズは素人ながら探偵のまねごとをしはじめ、地域の人々から疎んじられはじめる。チャールズにとって、地域の人々の態度と距離感はますます疑わしいものに思えてくる。そして実際、普通には考えにくい、歪んだ事態を数々目撃することになる。余暇時間を持て余したハイパーセレブたちは、事故を起こして炎上するボートを楽しそうに見つめていた。拍手さえあがる。
『ホット・ファズ~俺たちスーパーポリスメン~』という映画があって、平和な村=表向きには犯罪のない村を舞台にした話でした。「表向きには」犯罪はない、というのはつまり、法に反した行為があったとしても、届け出や検挙がなければ統計にはあらわれない、ということを示しています。
世の中にはあたまのかたい人というのがたくさんいて、俺もその一人なんだが、すべてのルールは事後的に構築されたものなのに、これを絶対の物差しだと勘違いしている場合がある。法律を破ったのだから悪い人だ、みたいな感覚を、まっとうなものだと信じて疑わない人がたくさんいる。身近に悪いやつ、いやなやつ、いませんか。自分のなかにも「悪」はありませんか。それと「被告人」「容疑者」はぜんぜん別のことではないですか。 陰謀論がささやかれている。「悪いやつがいる、たくさんいる、てのひらで人を転がしているやつと、愚かにも転がされているやつがいる、自分はその被害者でもある」そう発想する立場に対し、逆の立場に立たされている不安を訴える声もありえる。「知らず知らずのうちに、自分は、陰謀に加担しているのではないか。なんならむしろ積極的に参加しているのではないか」あんなふうになってしまうなんてこと思いもよらなかった、ってあとで口走っても遅い。
『コカイン・ナイト』の主人公チャールズは旅行記者で、世界中を飛び回っているから定住地はない。 どこかに行くと、「自分にとって、ここが本当の場所だ」と感じられる旅先に巡り合うことがある。けれどその段階を越えたむこうに、「自分にとって、世界はすべて異郷である。どこにいても、自分は単なる旅人以上のものではありえない」その境地がある、というようなことを池澤夏樹が言っていたかもしれない。言ってないかもしれない。ともかくチャールズは定住地がない。
國分功一郎『暇と退屈��倫理学』には、 遊動の暮らしをやめて定住するようになったとき、人類は、財産や文明を手にするようになった。貧富の差が生じ、法が生じ、退屈が生じた。時代が下って便利になればなるほど、退屈は大問題になってくる。 というようなことが書かれていた。遊動の暮らし云々については資料がない話だから、この本がどれほど学問的に厳密なのかはわからないけど、発想としてはおもしろいと思ったので覚えています。記憶だから、読み返すとそんな話してないかもしれないけどね。 けどまあ、ともかく、遊動し続けていたチャールズは、退屈がまさに大問題になっている地域に巻き込まれるかたちで取り込まれていく。はじめは弟の部屋を使っていたチャールズも、その地域を牛耳っているやつが用意してくれた部屋にうつるときがやってくる。その部屋にはじめて足を踏み入れたチャールズに、こういった言葉がかけられる。「チャールズ、君は家に帰ってきたんだ……」 「今の気分を大いに楽しみたまえ。見知らぬ場所という感覚は、自分にとって、常日頃考えているよりも、もっと近しいものなんだよ」
この記事は当てずっぽうで書き出した日記ではあるけれど、記事のタイトルははじめから決めている。「近さの/なかに/はいる」 ようやく、「近さ」というキーワードを登場させられました。よかった。距離についての話を引き続き。
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いつか「ア・ホロイ」というグループ展で映像作品の発表をしたときに(おれのみヘッポコな)対談イベントの相手として巻き込んだ太田充胤(医師・ダンサー・批評家)が、ちょうどその当時スタートさせていたのが『LOCUST』という雑誌だった。Magazine for travel and criticism|旅と批評のクロスポイント。 執筆者たちはみんなで旅行をしにいく。そしてその場所についての文章を書く。これを集めて雑誌にしている。参加者は批評家だけではないが、肩書は別になんでもよい。いわゆる観光ガイドでもなく、かといって思想ムックでもない。地域と時事に結びついた、批評癖のある人らの旅行界隈記集で、最近、この第三号を買いました。三号の特集地は岐阜県美濃地方。
この本、千葉市美術館で買った。千葉市美術館ではいま、「大・タイガー立石展」が開催されている。立石紘一=立石大河亞=タイガー立石という作家については、これは子供のころ、好きで好きでしかたなかった絵本のひとつの作者として知りました。親近感、懐かしさがある。 60年代、日本のなか美術作家として活動、のちイタリアに渡り、そこで油絵もヒットしますが、同時にデザイナー・イラストレーターとしても、漫画家としても活躍。日本に戻り、絵本の仕事も手掛けるようになります。陶も捏ねます。 ナンセンス、毒々しくも軽妙で、���度は高いんだけどしつこくない。筆運び色選びモチーフ選び影の黒さははっきりシュールレアリズム由来で、反逆児のフリをしつつジャンルの枠組みは壊さず、荒唐無稽なフリをしつつ不穏当で思わせぶり、祝祭的=黙示録的、派手好みのくせに辛気臭くすら感じられるガロ感がいつまでも抜けない。という印象。個人的には。
懇意にしている友人の家、友人なのかな、友人なんでしょうか。一緒にいる居心地はいいんだけど、話題が狭く、政治的な話も教養的な話もしない。あるのは惰眠と食卓で、生理的で予測可能なよろこびしかない。安心安全で退屈な時間を過ごす人。おれは人のことをバカにして生きてる。まあいいかそれはいま。ともかく、友人、そう友人の家を出て、千葉中央駅に到着すると、急に大雨が降りはじめた。美術館まで徒歩にしてほんの10分の距離ですけど雨はものすごい。駅ビル内のダイソーで傘を買って足を濡らして10分歩くなら値段的にもそう変わらないと判断し、駅前でタクシーに乗り込みました。「市立美術館まで」と注文します。「市立?」聞き返した運転手はメーターをつけずに発車、すぐに着いて、料金として500円を払う。車運転させておきながら500円玉1枚だけ払って降車するのは後ろめたい。ちょっと照れくさくもある。 タイガー立石の絵はいわゆるコピペっぽさというか、表面的なトレースが多い。ピカソの泣く女やゲルニカ、ダリの溶けた時計、ルソーの自画像、タンギーのうねうね、そんなものがはっきり登場する。作品によっては、モチーフらは一枚の画面にただ雑然と並んでいる。ライブハウスのトイレの壁みたく、全体のなかに中心のない、みるべきメインの仕組まれていない羅列面。 ずっと好きではあったけれど、とはいえどっぷりハマりこんだ覚えのある作家でもない。距離感としては「シュークリーム」とか「揚げ出し豆腐」みたいな。それでも、さすが小さなころからの付き合いだけあって、自分のなかに、あるいはタイガー立石をみる自分のなかに、自分自身の制作態度の原型をみるようで居心地が悪く、やはりちょっと照れくさくもあった。
もちろんカタログを買う。そのために美術館併設の書店に立ち寄った。そこで『LOCUST vol.3』を見つけたので一緒に買ったのだった。太田充胤が、「おいしい、と、おいしそう、のあいだにどんなものが横たわっているのかを考えた原稿を vol.3に載せた」と言っていた覚えがあったためだ。なんだそれ、気になる。そう思っていたところだった。 ぜんぶで7つのパートにわかれたその原稿の、はじめの3つを、ざっくばらんに要約する。 1・はじめの話題は日本の食肉史から。肉を食べることは力をつけることと結び付けられもしてきた。禁じられた時代、忌避された時代もあった。食肉への距離感っていろいろある。 2・野生動物の肉を食うことが一種のブームになっている。都市部でもジビエは扱われている。ただ、大義たる「駆除される害獣をせっかくだから食べる」というシステムは、都市部では説得力がうすい。都市部のジビエは「珍しいもの」としてよろこばれている? 舶来品の価値、「遠いものだから」という価値? 3・身近に暮らす野生動物と生活が接しているかどうかで、(動物の)肉というものへの距離感は変わる。都市部の居酒屋で供される鹿の肉と、裏山にかかってたから屠って食卓に登場する鹿の肉は、そりゃ肉としては同じ鹿肉であっても、心理的な距離の質は同じではない。
イモムシが蝶になる手前、さなぎに変態してしばらくじっとしている。さなぎの中身はどろどろで、イモムシがいったんとろけた汁であり、神話の日本の誕生よろしく、ここから形状があらわれ、蝶になるのだと、子供のころ誰に教えられたわけでもないのに「知って」いた。それは間違いだった。イモムシの背中を裂くと、皮膚のすぐ裏側に羽が用意されている。蝶の体つきは、さなぎになるよりずっと前から、体のなかに収納されている。さなぎはただ、大一番な脱皮状態を身構えてるだけの形態で、さなぎの中がどろどろなのは、イモムシや成体の蝶の体内がどろどろなのとまったく同じことだった。日高敏隆の本で知った。大学院生のころ、ひとの自作解説を聞いていたら、「イモムシがいったんその体の形状をナシにして、さなぎの中でイチから再編成しなおして蝶になるように」という言い方をしている人があった。同じ勘違いだ。 この勘違いはどうして起こり、どうして疑いなく信じ続けられるんだろう。だって、イチから再編成されるなんて、めちゃくちゃじゃないか。めちゃくちゃ不思議なことがあっても、それが「生命の神秘」や「昆虫の不思議さ」に結びついて納得されてしまえば、「ね、不思議だよね、すごいよね」で済む話になるのか。<現代人・大人たちが昆虫を嫌うのは、家の中で虫を見なくなってきたからだ>という論文を先日みつけました。隣近所の人とあいさつをするかどうかで生活の心やすさは大きく変わる。知らない人の物音は騒音でも、知っている人の物音はそんなに不愉快じゃなかったりする。「面識」のあるなしは非常に重要だから、背が伸びてもなお、公園や野原で昆虫と親しみ続ける人生を送っていれば、虫嫌いにはなっていかないだろう。けれど、そういう人生を送っていたとしても、いったん誤解した「さなぎ状態への理解」が誤りだったと、自然に気づけるものだろうか。
岐阜で供されたジビエ肉についての原稿をLOCUSTに執筆した太田充胤は高校の同級生で、とはいえ仲良しだったわけではない。今も別に、特別仲良しとかではない。なんかやってんなあ、おもろそうなこと書いてるなあ、と、ぼんやり眺めて、でも別にわざわざ連絡はしない。卒業後10年、やりとりはなかった。数年前、これを引き合わせた人がいて、あわせて三人で再会したのは新宿三丁目にある居酒屋だった。ダチョウやカンガルー、ワニやイノシシの肉を食べた。それこそ高校の頃に手にとって、ブンガクの世界に惹かれる強烈な一打になったモブ・ノリオの作品に『食肉の歴史』というタイトルのものがあったな、と急に思いついたけれどこれはさすがにこじつけがすぎるだろう。あ、 ああ、自分の話を書くことはみっともなく、辛気臭いからしたくないんだった。「強烈な一打」たるモブ・ノリオの『介護入門』なんてまさに「自分の話」なわけだが、他人の私小説のおもしろさはOK けど、自分がまさに自分のことを語るのは自分にゆるせない。それはひとつに、タイガー立石はじめ、幼少時に楽しんだ絵本の世界のナンセンスさ、ドライさへの憧れがこじれているからだ。 まとまりがなく、学のなさ集中力のなさ、蓄積のなさまであからさまな作文を「小説」と称して書き散らかし、それでもしつこくやり続けることでなんとか形をなしてきて、振り返ると10年も経ってしまった。作文活動をしてきた自負だけ育っても、結果も経歴もないに等しい。はじまりの頃に持っていたこだわりのほとんどは忘れてしまった。それでも、いまだに、自分のことについて書くのは、なんだか、情けをひこうとしているようで恥ずかしい気がする。と、このように書くことで、矛盾が生じているわけだけど、それをわかって書けちゃってるのはなぜか。 それは、書き手の目論見は誤読されるものだし、「私小説/私小説的」というものには、ものすごい幅があるということを、この10年、自分にわかってきたからでもある。むしろ自分のことをしっかり素材にして書いてみてもおもろいかもしれない、などと思いはじめてさえいる。(素材はよいほうがそりゃもちろんいいけど)結局のところ、なんであっても、おもしろく書ければおもしろくなるのだ。
こないだ週末、なぜだか急に、笙野頼子作品が読みたくなった。『二百回忌』じゃなきゃだめだった。久しぶりに引っ張り出して、あわてて読んだ。おもしろかった。モブ・ノリオ『介護入門』に接し衝撃を受けた高校生のころ、とりあえず、その時代の日本のブンガクを手あたり次第漁っていた。そのなかで出会い、一番ひっかかっておきながら、一番味わえていない実感のある作家が笙野頼子だった。当時読んだのは『二百回忌』のほか『タイムスリップ・��ンビナート』『居場所もなかった』『なにもしてない』『夢の死体』『極楽・大祭』『時ノアゲアシ取リ』。冊数は少なくないが、「ようわからんなあ、歯ごたえだけめっちゃあるけど、噛むのに手一杯になってしまってよう味わわん」とばかり思っていた。 新潮文庫版『二百回忌』に収録されているのは4作品。いずれも、作家自身が作家自身の故郷や家族(など)に対して抱いているものを、フィクションという膜を張ることで可能になる語り方で語っているものだ。
『大地の黴』: 生まれ故郷に帰ってきた主人公が、故郷での暮らしを回想する。かつて墓場で拾い、そして失くしてしまった龍の骨が、いまや巨大に成長し、墓場を取り囲み、そして鳴る。小さなころ、その土地に居ついている、黴のような茶色いふわふわが見えていた。地元の人の足元にまとわりついていた。いま墓の底から見上げる、よく育った龍の骨たちのまわりにもいる。
『二百回忌』: 二百回忌のために帰省する。親とは険悪で、その意味では帰省したくない。しかし、二百回忌は珍しい行事だし、すでに死んだ者もたくさん参加する祝祭時空間らしいから、ぜひとも行ってみたい。肉親はじめ自分の人生と直接のかかわりをもったことのある地元の顔ぶれは嫌だけど二百回忌には出向く。死者もあらわれる行事だから華々しいし、時間はいろんなところでよじれ、ねじれる。
『アケボノの帯』: うんこを漏らした同級生が、うんこを漏らしたことに開き直って恥ずかしがらない。そればかりか、自分の行いを正当化ないし神聖化し、排泄の精霊として育つ。(漏らしたことで精霊になったから、その同級生には苗字がなくなった!)自分のうんこの話をするのははばかられるけれど、精霊が語る排泄は肥料(豊かさ)や循環の象徴であるからリッパである。
『ふるえるふるさと』: 帰省したらふるさとの土地が微動している、どうやら時間もねじれている。いろいろな過去の出来事が出来していく。
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『LOCUST』の第三号の特集は岐阜で、おれの祖父母の実家は岐阜にある。大垣にあったはずで、いまどうなっているかは知らない。 父方の祖母が一年ほど前に亡くなった。おれの祖父=おれの父からすれば実父は施設で暮らしはじめた。住む者のなくなった、父の実家は取り壊された。父は仏壇や墓のことを考えはじめ、折からの歴史好きも手伝って、寺を巡っては話をきいてまわるようになった。寺の住職はすごい。自分とこにある墓の来歴ならしっかり把握しており、急に訪れた父が「うちの母のはいった墓は、いつ、誰がもってきたもので、誰がはいっているのか」と尋ねればすらすらと教えてくれる。 つい数代前、滋賀の彦根から、京都の寺に運んできたとのことだ。ところが運んだ者がアバウトで、京都の寺は彦根の寺と宗派が違う。それもあって、一���代々の墓ではなくて、数代のうち、そのアバウトさに異を唱えなかった人らが結果的におさまっているらしい。よう知らんけど。 続いて調査に乗り出した、母方、つまり岐阜の大垣にあった家の墓の来歴についても、どうやらごまかしが多い。ひとりの「かわりもの」のために、墓の行き先がなくなる事態があったらしい。 昭和のなかごろ、青年らは単身で都会へと引っ越しはじめ、田舎に残してきた墓をそのままにしてると数十年のちに誰か死ぬ。次は誰の番だろうかと悩むころには、あれこれ調べて動かす余裕がない。嫁ぎ先の墓にはいるとか、別の墓をたてるとか、戦死してうやむやになってるとか、ややこしいからウチは墓を継ぎたくないとか、もはやふるさとはないから墓ごと引っ越したいけど親戚全員への連絡の手立てがないのでできる範囲だけを整理して仕切り直すだとか、そういうごたごたを探査するのがおもしろいらしい。 父から送られてきた、一緒に夕食を食べることを誘うメールには、「うちの墓についての話をしたい」と書いてあって、おれはてっきり、「墓を継げ!」というような説教をくらうのかと身構えていたのだけど、全然そうじゃなかった。墓の来歴からみえてきた、数代前のずさんさ、てきとうさから、果ては戦国時代の仏教戦争まで、わがこととしての眺望が可能になった歴史物語を一席ぶちたかっただけだったみたいだ。よかった。
京都で父は祖父、父からすれば実父と、たまにあそんで暮らしている。祖母なきいま、90近い祖父と話をできるのはあとどれくらいかと思いを馳せるとき、父はふと、戦争の頃のことを聞いておこうと思い立った。いままでぶつけていなかった質問をした。 「お父ちゃん、戦争のときなにしとったん?」 祖父は15歳だった。日本軍はくたびれていた。戦局はひどい。余裕がない。15歳だった祖父は、予科練にはいった。 「軍にはいれば、ご飯が食べられるから」と祖父は笑って話したそうだ。けれど理由の真ん中は本当はそこじゃない。どうせだめになるのだ、負けるのだ。自分の兄、つまり一家の長子を死なすわけにはいかない。兄=長男に家は任そう。長男が無理やり徴収される前に、次男である自分が身を投げうとう。 きっと必要になるから、と考えて、英和辞書を隠し持って予科練にはいった。敵の言葉の辞書を軍に持ち込んでこっそり勉強するなんて、見つかったらえらいことになる。 その頃、12歳だった祖母は、呉の軍需工場で働いていた。 生前の祖母、というか、祖父と出会ったばかりだった祖母は、祖父が、長男に代わって死ぬつもりで、自ら志願して予科練にはいっていたことを聞いて泣いたという。 おれの父親は、おれの祖父からそんなような話を引き出していたそうだ。父としても、はじめて聞く話だった。 90近くなった自分の父親が、目の前で話をする。自分の身に起きたこと���戦争時代の思い出話をする。子供の前で語ってこなかった話を語る。なんだか瀬戸内寂聴みたいな見た目になってきている。極端な福耳で、頭の長さの半分が耳で���る。 本人は平気な顔をして、ただ、思い出を話しているだけなのである。それでも、「大井川で、戦地へ赴く特攻隊を見送った。最後に飛び立つ隊長機は空でくるりと旋回したあと、見送る人々に敬礼をした。」と、この目で見た、体験した出来事についての記憶を、まさに目の前にいる、親しみ深い人物が回想し話しているのに接して、おれの父は号泣したという。これは「裏山にかかってたから屠って食卓に登場する鹿の肉」なのだ。
戦争への思いのあらわれた涙ではない。あわれみや悲しみでもない。伝え聞いていたという意味では「知って」いたはずの戦争だが、身近な存在たる父親が直接の当事者であったことがふいに示されて、戦争が急激に近くなる。父親が急激に遠くなる。目の前で話されていることと、話している人との距離感が急激に揺さぶられた。このショックが、号泣として反応されたのではないか。食事中、口にする豚肉を「ロースだよ」と教えてくるような調子でふいに、「この豚は雌だよ」とささやかれて受けるショックと同質の、「近さ」についての涙なのではないか。感情の涙ではなくて、刺激への反応としての落涙。 これでひとまず、自分の描く分を切り上げる。思えばいろいろなトピックに立ち寄ったものです。ラブコメにはじまり、犯罪的行為と共同体の紐帯の話、内的な事件「恋」の取り扱い方、ジビエを食べること、故郷についてのマジックリアリズム。 散らかすだけ散らかしておいて、まとめるとか、なにかの主張に収束するということもない。中心がない。さながらライブハウスのトイレの壁みたく、みるべきメインの仕組まれていない羅列面。 この羅列面に対して連想されるもの、付け足したくなったものがあれば、各々が好き勝手に続きを書いてください。うまく繁茂すれば、この世のすべてを素材・引用元とした雑文になるはずです。や、ほんとのことをいえば、すでにテキストというものはそういうものなんですけど。
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kyokantheaternews · 4 years ago
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【共感シアターナビ】たくさんの投稿頂きました!「おすすめしたい日本のアニメ映画」投稿全部ご紹介!
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先日13日火曜日の21時より放送された共感シアターナビの中で、視聴者の皆さんの声を紹介するコーナー「俺たち共感族!」のお題は「おすすめしたい日本のアニメ映画」でした。 募集をかけたところ、多くの視聴者から熱いコメントをたくさん頂きました!ただ、番組内では放送時間の都合上、全部を紹介することは出来ませんでした。 そこでこの度、放送内ではご紹介できなかった投稿を含めて、視聴者の皆様から頂いた全投稿をこちらに掲載させて頂きます! 視聴者の皆様から寄せられた熱い投稿、ぜひご覧ください!!
番組アーカイブはこちら!
きょたさん
■作品:劇場版シティーハンター<新宿プライベートアイズ> ■おすすめ理由 2019年に公開されたシティーハンター最新作。前作から20年ぶりに作られた新作(パラレルワールドのエンジェル・ハートは除く)シティーハンターは好きだが昔のコンテンツというイメージだったので、正直期待しないで観に行ったが面白すぎて度肝を抜かれた。感想としてはとにかく完璧にシティーハンターをしてるシティーハンターだった。無駄な要素を一切入れていない。 作品のノリや雰囲気、キャラの性格が当時と変わってないから安心して観れる。何より監督や声優が当時のままなのが一番嬉しい!平成最後に神谷明主役のアニメをぶちこんでくれたのは最高でした。山寺宏一、山崎たくみ、茶風林など当時エキストラで出演してた声優が今回メインキャラになったのは感慨深いものがある。 ギャグシーンも多めで、獠は5分に一回くらいはもっこり言ってたイメージ。もちろん戦闘もバッチリ決める!ゲスト芸能人声優が邪魔してないのもGOOD。話題性ばかりで演技がド下手な「大物ゲスト俳優(笑)」を使う作品が多いが、今回のゲストヒロイン役の飯豊まりえが上手くて物語に集中できた。 そしてシティーハンターはあくまで獠と香が主役だからシナリオ的にもでしゃばってない他にも往年のファンのテンションが上がる要素が多くて飽きさせない。特に音楽。シティーハンターシリーズの歴代主題歌が随所で流れるが、タイミングも曲のチョイスもバッチリ過ぎて聴いた瞬間目頭が熱くなった。 原作を知ってるならあっとなる小ネタも多くて探すのが楽しい。劇場公開時よく言われてた感想で「昔馴染みのラーメン屋に入ってラーメンを頼んだらラーメンが出てきた」というのが秀逸。確かに最近はラーメンを頼んだら冷し中華が出てくる作品が多い。そんななかこの作品が完成したのはまさに奇跡としか言いようがない。 一見するとファン向けな作品のイメージだが内容は「いつものシティーハンター」なので入門書としてもオススメ。映像面もシナリオも完璧で、まさにシティーハンターの最高傑作と呼ぶにふさわしい作品だった。 ■作品:デジモンアドベンチャー ぼくらのウォー・ゲーム! ■おすすめ理由 デジモンアニメの中で一番好きな作品。40分という短い尺の中に恋愛、戦争、生活、友情、勝利など様々な要素が詰まってる映画。最初はいたずらメールを送るくらいのコンピューターウィルスがどんどん進化していき、レジの代金をバグらせてとんでもない代金にしたり、交通機関を乗っ取って電車を暴走させたり少しずつ世界を混乱させていく…… それを阻止するため主人公達が立ち向かうというストーリー最終的には核ミサイルまで発射されてしまい、日本を壊滅させようとするスケールのデカさにビックリしたこの映画に「島根にパソコンあるわけないじゃん」という台詞があるが島根県出身の身として言わせてもらうと、一応パソコンは当時から島根にもあったぞ~~!!
鶴岡亮さん
■作品:クラッシャー・ジョウ ■おすすめ理由 僕がオススメしたいアニメ映画は「クラッシャー・ジョー」です。本作の舞台は2160年の宇宙で、主人公ジョウ率いる宇宙の何でも屋の「クラッシャー」がある依頼を受け、壮大な戦いと陰謀の渦に巻き込まれていくというスペースオペラものです。 このアニメの見所は何と言っても監督のみならず、作画監督も務めた安彦良和さんを始めとするアニメーター陣による圧倒的な作画力です。河森正治(かわもりしょうじ)さんデザインのスターファイターが宇宙空間で繰り広げる激しいドッグファイトシーンや、カーチェイスやクリーチャーを相手にした豊富なアクションシーン、人間の身体の動きを滑らかに描いたガンファイトシーン等が、80年代アニメブーム時代の高クオリティな作画で楽しめます。ストーリーも若干フィルムノワールを思わせる敗者の哀愁を漂わせる面があり、一見スタンダードなスペースオペラという体制をとりつつも、そういう所を取り入れてくるのが学生運動経験者の安彦良和監督らしく面白い所です。 後、一部の人にしか判らないでしょうが、安彦良和さん作画の「ダーティペア」が一瞬見れる所も今作の見所です! 高クオリティな作画を楽しみたい方には楽しめる作品だと思いますので、未見の方が居たら是非ともご覧下さい! ■作品: 機動警察パトレイバー2 the Movie ■おすすめ理由 この作品は言わずと知れた押井守監督作品のアニメ映画。 本作は90年代���作られた作品で、当時日本で問題になっていた自衛隊の海外派兵問題や、それを是とする日本国の情勢に対して、押井監督の鋭い指摘が冴えまくった作品です。 横浜ベイブリッジにミサイル発射テロが行われるシーケンスに代表される印象深いカットワークてんこ盛りの本作ですが、中でもテロに対して東京に非常事態宣言が発行され、新宿、渋谷、池袋に自衛隊が駐留し、「日常から非日常」へと転換していくシーケンスは非常にインパクトがあり一見の価値があります。 奇しくも、この映画が公開された1993年の2年後の1995年にオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生し、「このアニメに影響されたテロでは無いか?」と物議を醸し出しだす事になりました。 社会、こと日本について描いた作品というと、庵野秀明監督の2016年の「シンゴジラ」が挙げられますが、本作「機動警察パトレイバー2 the Movie」は押井守監督が90年代の日本の状況を克明に描き出し、予言とも言える���作を作り上げました。 ポリティカルサスペンスとして非常に完成度が高く、90年代という日本の時代性を語る上で外せない作品だと思うので、未見の方は是非ともご覧下さい。
バッファロー・ビルさん
■作品:今敏監督作品「パーフェクトブルー」 ■おすすめ理由 アイドルを卒業し、女優への転身を決意した主人公。彼女は事務所の要望となりたい自分との狭間で思い悩むようになります。現実と虚構が曖昧になっていく中、彼女にストーカの影が・・・最近では実写でもあまり見かけなくなったサイコホラーという題材。 90年代はセブンとか羊たちの沈黙とかやたら多かったですが、人間というものの気持ち悪さをここまで、それもアニメで本格的に描いた作品はあまりないでしょう。 98年の作品ですが、インターネット、芸能界の思惑、ストーカー等、現代でも十分通じる物語です。この作品がダーレン・アロノフスキー監督の「レクイエム・フォー・ドリーム」「ブラックスワン」に影響を与えたことは有名です。2010年にお亡くなりになった今敏監督。訃報を聞いた時はとてもショックでした。本当に残念でなりません。
肴はサラダチキンでいいさん
■作品: OVA版ブラックジャック カルテX  しずむ女 ■おすすめ理由 皆さんに見てもらいたいアニメで考えた結果これしか思いつきませんでした。また変化球気味で映画ではなくVシネマアニメですが、ギリOKという事で。 今作は手塚治虫先生の原作話で週刊チャンピオンで連載される訳でしたが、当時の公害描写などの理由でお蔵入りとなった話がOVAでアニメ化された物です。 ブラックジャックは医療アニメである前にヒューマンドラマだという事が分か��素晴らしい作品です。共感族の皆さんにも機会があれば是非見てもらいたいですね!^_^
nksさん
■作品:デジモンアドベンチャー ぼくらのウォー・ゲーム! ■おすすめ理由 本作は知る人ぞ知る細田守監督の出世作で、東映アニメ祭りで上映された、40分の短編映画です。 アニメーションの革新性、主要登場人物8人の手際良い配置、適度なギャグ、魅力的なアクション、どれを取っても20年前とは思えない出来の良さです。  スピルバーグが〈映画うま男〉なら、細田守は〈アニメうま男〉といったところだと思います。 細田監督がメジャー化してからの作品である「サマーウォーズ」は、実質本作のリメイクですが、個人的にはラスト10分でミサイルが着弾するスリルが現実の上映時間10分とぴったりリンクする所など、完成度において「ぼくらのウォーゲーム」の方が優れていたと思います。
■作品: 海獣の子ども ■おすすめ理由 本作は、主人公の少女(cv.芦田愛菜)が魚と会話できる不思議な力を持った少年と出会い、ひと夏の冒険を通じて海/地球/宇宙の神秘と生命の起源を知るという、ジュブナイルものかと思ったら「2001年宇宙の旅」だった、という映画です(なに言ってるか分からなかったらスミマセン。)。 ストーリーが難解でつまらないといった評価が多いですが、2001年やプロメテウス、エヴァが好きな私にとっては、大好物の作品でした。 しかしなんといっても本作最大の特徴は、一枚一枚が水彩画であるかのような、圧倒的な画力です。日本で同時期に公開された「スパイダーバース」と比較しても、勝るとも劣らない画の密度で、ハリウッドからの挑戦状に日本から回答を示すなら本作「海獣の子ども」だと思います。 2019年10月、制作会社のスタジオ4℃でアニメーターの残業代未払い問題が報道されました。そもそも本作は企画から完成まで6年を要した労作であり、そりゃ作り手が何人か倒れててもおかしくないよなと思いました。が、一観客として、「その成果はちゃんと届いてるよ!!」と、改めてアニメーターさん達に拍手を送りたいと思います。
甘えん坊将軍ユウスケさん
■作品:クレヨンしんちゃん~嵐を呼ぶジャングル~ ■おすすめ理由
しんちゃん映画だときっとオトナ帝国と戦国が挙げられるでしょうが、あの二作はアニメ映画としては最高ですが、しんちゃん映画としては言いたいことがあるので敢えてあの二作の直前の本作をピックしました。 擬似的な親離れ家族離れ体験としていつもの五人でジャングル探検してギャグシーンを満載にした前半(原恵一監督は結構このシチュエーションやってる気がするのですが、このテーマ好きなんですかね?)。一人の兄としてひまわりちゃんを守って頑張る中盤。徹底的にまたギャグに振ったみさえ&ひろしの救出シーン。で、本作最大の見処であるしんちゃんの憧れのヒーローであるアクション仮面のくだりです。 単純な強さで言えば、悪役のパラダイスキングに劣ってしまうアクション仮面ですが、皆の応援、特にどんな時でも憧れのヒーローとして慕ってくれるしんちゃんの声援と、悪役にはない優しさがあるからこそ勝つと言うちゃんと「正義は勝つ!!」のロジックを下手なアメコミ映画よりちゃんとやっている点。 また、ハリボテの城に住み、「力」は手に入れたが、また本当の意味で声援を送ってくれる者の居ない文字通り「猿山の大将」である、ある意味でヒーロー俳優としてあり得たかもしれない別視点の自分が最大の悪役として立ちはだかる点。 これら昨今のアメコミ映画に有りそうな題材をアメコミブームの10年近く前に既に、ちゃんとやっていると言う点ではヒーロー映画としての完成度は抜群に高いとと言いたいです。また、最後はバッチリお下劣ギャグやナンセンスギャグで締めてくれるのも最高ですね。 オトナ帝国や戦国、ロボとーちゃんばかりが、もてはやされがちですが、ギャグとアツい展開のバランスが取れてるクレしん映画としておすすめしたい一本です(特に特撮ヒーロー好きなら大西さんにもおすすめです。既にご覧になられてるかもしれませんが…笑)。
nikiさん
■作品: 時空の旅人 ■おすすめ理由 『火の鳥・鳳凰編』と同時上映の80年代角川アニメです。子供のころ、戦国時代が好きだったこともあり、劇場で見ました。こういったガキの時に見て面白かった作品が今見ても面白いのか?という疑問は昔の作品にはつきまとうと思うのですが、『時空の旅人』は大人になってから見ても面白かったです。 萩尾望都のキャラクターデザインの作画、竹内まりやの曲もいい感じです。ただ、ストーリーが原作ほど緻密ではない点、唐突に挟まれる角川春樹の俳句には目をつぶってください。
きゃわぐちさん
■作品:第5位 「帰ってきたドラえもん」と「サマーウォーズ」をセットで挙げます! ■おすすめ理由 13年前、まだ映画で涙した経験のない、鉄仮面だった高校生の私を大号泣させたのが、アメトークのドラえもん芸人で見た「帰ってきたドラえもん」でした。以来、涙腺がブッ壊れ、ついに映画館でも初めて泣いてしまったのが「サマーウォーズ」の花札のシーンです。 当時はセカチューや「1リットルの涙」から続いていた闘病モノブームもあって、そういう“お涙頂戴”がことさら多かった気がするのですが、“悲しさ”ではない感動で泣く、という経験ができるのもこの2本のいいところですね。
■作品: 第4位 「この世界の片隅に」 ■おすすめ理由 第4位は一転して底無しの“悲しさ”に泣けてしまう「この世界の片隅に」です。戦争モノのアニメ映画といえば、「はだしのゲン」や「火垂るの墓」や、いわゆるグロくて強烈な作品は数あれど、こんなにも穏やかな、それでいて辛い作品があったでしょうか!? 全編にわたりほぼほぼ戦闘シーンがなく、主人公・すずさんのおっとりした性格も相まって、日常系のアニメを観ているかのような気分になりそうな本作。しかし確実に戦時中である、というギャップが、どうしようもなく悲しい。去年の終戦記念日に初めて観たのですが、すずさんの穏やかな暮らし、健気な性格を見ていると「戦争さえなければ、平和に幸せに暮らせていたはずなのに」という思いが込み上げてきて、クライマックスでも何でもないシーンで涙が止まらなくなりました。 そして、当時の日本には何万人、何十万人という“すずさん”がいたのだという事実が現実味を帯びて感じられます。紛れもなく、映画史に残る名作です。 ■作品:第3位 「 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」 ■おすすめ理由 これは「クレヨンしんちゃん」という子供向けコンテンツを、大人の視聴にも耐えられる、むしろ大人こそ感動できる作品へと昇華させた金字塔的作品です。クレヨンしんちゃんの映画として必須な“お下品な笑い”はふんだんに盛り込んでおきながら、成長して見返すと泣かずにはいられない感動もある。 見る年齢によって、泣き所が変わってくるのもポイント。いつ観ても笑って泣ける、最高に楽しい映画です!こっちは何回も観るからブルーレイ化してくれ! ■作品:第2位 「 ルパン三世 カリオストロの城」 ■おすすめ理由 挙げるまでもない名作ですが「ルパン三世 カリオストロの城」! ・言わずもがな抜群の完成度。 ・テレビで流れていればつい観てしまう ・何度も観ているから安心感があるのに、何度観ても飽きのこない面白さまさにアニメ映画界の「ターミネーター2」! 今さら観てない人はいないと思いますが、「クラリスって誰?」という人がいないとも限らないので、念のため第2位にランクインです。 ■作品:第1位 「 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」 ■おすすめ理由 そして第1位は、完全に私の趣味「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」で決まりです!もちろん世代ではなく、小学生のころケーブルテレビで父に見せられたのがきっかけ。テレビ版も見たことがなく、最初に触れたヤマトが劇場版2作目の“さらば”。 まだアニメといえばドラえもんやクレヨンしんちゃんやコナン、あるいは少年漫画の単純な勧善懲悪しか知らなかった私に、いきなりの“さらば”はまさに世界がひっくり返るような衝撃でした。見終わったあとテレビの前で呆然としていたことは、20年以上経った今でも覚えています。ボロボロになっても戦い続ける、ヤマトの不屈のカッコよさ、白色彗星帝国の圧倒的な強さと絶望感、クライマックスの激闘、そしてきゃわぐち少年を衝撃の渦に呑み込んだラスト。最高と言うほかありません! ただ、ヤマトに限りませんが、大人になってから初めて触れると、どうしても奥にいる製作者や、話の辻褄ばかりに目がいってしまって、純粋に作品の世界に没頭することが難しくなるもの。でも子供の頃に観たものなら、大人になってもずっと“あの頃”のまま楽しむことができます。 共感シアターをご覧の皆さんで小さなお子さんを持つ方がいたら、早いうちに「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見せることをオススメします。あと「あしたのジョー」。 余談ですが、共感シアターではだ〜れも観てない「鬼滅の刃」、僕は初日に行ったしブルーレイも予約したし、結構感動しました(笑)
アレスさん
■作品:「 マジンガーZ対暗黒大将軍」 ■おすすめ理由 無敵のスーパーロボットと思ってたマジンガーZが新たに現れたミケーネ帝国の戦闘獣軍団にボロボロにされるのは幼心にそれはもうショッキングでしたが、そのピンチを救うべく飛んできたグレートマジンガーの無双ぶりはそれを上回るインパクトでした。 「マジンガーZの兄弟さ」とだけ言い残し飛び去って行くラストシーンの格好良さはアニメ映画の括りだけじゃなく、映画のマイオールタイム・ベストシーンです。
ぜんぞう
■作品:「 餓狼伝説/劇場版」 ■おすすめ理由 さて、おすすめしたい日本のアニメ映画ですが、僕のおすすめ日本アニメ映画は、「餓狼伝説/劇場版」です。「AKIRA」や「オネアミスの翼」等、大好きなアニメ映画は沢山ありますが、他の皆様のおすすめにあがりそうなので、あまり語られることのないであろう、「餓狼伝説/劇場版」をおすすめし���いと思います。 制作当時、隆盛を極めたSNK製のビデオゲーム「餓狼伝説」シリーズを基にした、劇場版ならではのスケールの大きいオリジナルストーリーがとにかく魅力的。ゲームでお馴染みのキャラクター達が、伝説の闘神の鎧を巡ってインディ・ジョーンズよろしく遺跡を巡り、謎を解き、鎧を狙う敵対勢力と超人バトルを繰り広げる展開は圧巻の一言。 ダイナミックなアクションとミステリアスなストーリーは、これぞ日本アニメ!「ヘルボーイ/ゴールデンアーミー」にも影響を与えた(と勝手に推測している)クライマックスも含め、見所満載のスペクタクルアニメ映画です。ぜひぜひ、ご鑑賞ください。
ヱキストラさん
■作品:クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ(2004年) ■おすすめ理由 クレヨンしんちゃん界隈の映画秘宝こと「クレヨンしんちゃん研究所」で絶賛された本作品。往年のマカロニ・ウェスタン/アウトロー作品への愛を異常なほど感じさせる本作は、これまでの明るい雰囲気を出さないためか、オカマキャラを一切登場させない徹底ぶり。 「荒野の七人」「夕陽のガンマン」「マッドマックス」「ローン・レンジャー」など自分がわかるだけでも数作品のオマージュ/パロディが随所に散りばめられていて、その上、元ネタを知らなくても楽しめるクオリティの高さでした。加えて最後のオチは、"映画"というギミックを笑っちゃうぐらい見事に活用! 上映時間は95分で、Netflixにも公開されているので、映画好きな共感族の皆さんにも、是非一度ご覧いただきたい作品です( ´-`)
リノス屋さん
■作品: バンパイアハンターD (英題:Vampire Hunter D: Bloodlust) ■おすすめ理由 古典的なモンスターホラー要素に、SFファンタジーや西部劇の要素も併せ持つ作品です。 舞台設定は、遥か未来。“貴族”と呼ばれる吸血鬼に支配された世界で、人類は家畜同然な存在に。貴族達に怯えながらも、なんとか生活を保っている人類に味方をするのが、人間と吸血鬼の混血で、吸血鬼ハンターを生業にしている、主人公“D”。全身黒ずくめで、大きな旅行帽を被り、背中に長い刀を背負い、左手には人面瘡(じんめんそう)を宿し、顔立ちは美形という、一見地味に見えてカリスマ性のあるこのキャラクターがまず魅力的です。 映画の内容は、名門と云われるエルバーン家の少女が、貴族に誘拐される所から物語が始まり、それを知ったエルバーン家の者が、主人公Dや人間の吸血鬼ハンターいち味を雇い、少女救出へと向かわせます。後に、『マトリックス』のオムニバスアニメ『アニマトリックス』の一作品を手掛ける事になる、監督の川尻善昭(かわじりよしあき)さんが描く、道中でのアクション等見所が随所にあり、混血な故に貴族からも人間からも毛嫌いされ、しかしながらも奮闘する主人公Dの孤独な戦いもドラマに絡んできて、終盤には思わず涙を誘われます。 又、この作品の公開時は、英語版での上映のみでしたが、ソフト化の際には、日本語版も発売され、声優ファンには堪らない錚々たるメンバーがキャスティングされております。特に、主人公の左手に宿る人面瘡(じんめんそう)の声を、永井一郎(ながいいちろう)さんがアテられていて、無口な主人公とは対照的に、ユーモアや皮肉に溢れるキャラクターを演じられていたのが印象的でした。『バンパイアハンターD』は、映画以前にもOVAやオーディオドラマ、プレステ用ゲーム等のメディア展開も多くあります。 何より、菊地秀行(きくちひでゆき)さん原作の小説には、キャラクターデザイン兼挿絵をファイナルファンタジーシリーズのイラストでも有名な、天野喜孝(あまのよしたか)さんが手掛けられていて、天野さん自身の個展でも度々、同作品のイラストも出展している為、おそらく共感シアターの皆様も、どこかで一度は“D”を目にしたことがあるかもしれません。
孔明(MOVIE TOUCH)さん
■作品: トランスフォーマー ザ・ムービー 1986年公開作品  ■おすすめ理由 1984年にアメリカでトランスフォーマーの玩具が発売され、テレビアニメ放送もあって大ヒット。それを受けて製作されました。テレビアニメ同様に日米合作で、作画は主に日本の東映動画(現:東映アニメーション)が担当。最初のテレビアニメ「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー(通称:初代)」の続編ですが、本作は当時の子供達に深い傷痕を残しました。 開始30分以内に玩具の在庫処分のために初代に登場した���ランスフォーマーの殆どが無惨にも殺されていき、同時に新商品の宣伝のために新しいトランスフォーマー達が主役の物語が容赦なく始まるという衝撃的な内容。総製作費40億円(尚、半分しか使い切れなかった)をかけた本作はCGと見間違える程の神作画が終始続き、日本のアニメーター達の底力を見られます。特に星帝ユニクロンの変形シーンはロボットアニメ史に残る神シーンです。ジャド・ネルソン、レナード・ニモイ、エリック・アイドル、オーソン・ウェルズらが声優として出演。 また本作はオーソン・ウェルズの遺作でもあります。勢いある80年代を象徴するような本作のアルバムは映画アルバムでもベストに入れたいほどの名盤で、特に主題歌「The Transformers Theme」と挿入歌「The Touch」は海外アニソン屈指の名曲。因みに劇伴は「ロッキー4/炎の友情」のヴィンス・ディコーラ。日本は玩具発売元であるタカラ(現:タカラトミー)の大人の事情で劇場公開に至らなかったものの、後にチャリティ上映やソフト販売が一応行われました。 現在国内で合法的に見る方法は北米版ブルーレイ(勿論日本語音声も字幕も無し)を海外から取り寄せる以外ほぼ皆無で、他はネットに違法アップされた物を見るしか方法がありません。しかしタカラトミーもブルーレイ発売や配信をする気が無いのにも関わらず本作の玩具を出しまくっているので事実上黙認状態(因みに今月も発売予定あり)。実写映画版シリーズで本作から引用されているシーンや台詞、設定がかなり多いので是非見てください。 ■作品: ガールズアンドパンツァー 劇場版  ■おすすめ理由 ある意味戦車アニメ版ワイルドスピード。その熱さは実際に鑑賞した多くの映画ファンから同年公開の「マッドマックス 怒りのデスロード」に匹敵すると言われた程。 砲撃戦のみならず戦車で戦車を投げ飛ばして攻撃、戦車同士で格闘戦、ジェットコースターのレール上で戦車チェイス、窮地を救う観覧車先輩などなど、「戦車でそんな使い方アリ?!」のオンパレード!仲間はファミリー同然に面倒を見る!一度戦った相手はマブダチ!応援大使は蝶野正洋!一見あり得ない戦車戦の裏には膨大なリサーチに裏付けられた世界トップクラスの再現度を誇る戦車描写があり、リアリティとファンタジーが見事に融合した戦車映画になっているのです。 特攻野郎Aチーム的な「どんな奇策でその場を乗り切るか」という展開も見どころです。オーケストラで収録された劇伴も作品を盛り上げる良い仕事ぶりを発揮し、オリジナル楽曲以外にもリパブリック賛歌やフニクリ・フニクラなど様々な国の曲が使われるので大変勉強になります。共感族なら一度は聞いた事があるであろう、あの映画にも出てきたあの楽曲も使われます。また劇中歌「おいらボコだぜ!」は人生何度ボコボコにされても立ち上がる力をくれる素晴らしい歌です。 現在劇場用OVA最新作「ガールズアンドパンツァー最終章 第3話」が公開中。それに合わせてNetflix、dアニメストア、Huluなどの各配信サービスにて本作ほかシリーズ作品が見放題配信中、更にシネマサンシャイン系列劇場などでリバイバル上映中です。以前アニメ業界にいたのですが、業界人として見ても手描きアニメと3DCGを組み合わせる現代のアニメの中でもトップクラスの作品と言える程クオリティは高いと思います。また、私が業界にいた頃にお世話になった方々が関わっていますので、是非ご覧いただければと思います。 因みにガルパンのムック本「不肖・秋山優花里の戦車映画講座」は監修/執筆が青井邦夫さん、執筆協力の1人が高橋ターヤンさん!ガルパンは実質共感シアター案件では?! 以上になります! 今回は「日本のアニメ映画」というように限定しましたが、アニメ映画はまだまだたくさんありますので、また皆様からのお声を募集したいと思います! お楽しみに!!
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innervision-dai · 7 years ago
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時間は進む、過去から現在へ。その経過とともに人や街、風景などは姿・形を変える。
「ここも、私たちも、あれからずいぶん変わったなって思いました」-
静かに見つめる観衆に向かい高いステージのその中心に立つ女の子は、そう言った。
youtube
これは渋谷の街が変化を始めた頃、アイドルブームがまだ上り坂にあった夏の日。
渋谷の駅から電車で一本。都内最古の寺・浅草寺を中心に江戸風情が今も残る街、
東京・浅草。その町の中心、浅草六区に伸びた行列に、ボクは並んでいた。
モーニング娘。やAKB48、ももいろクローバーな��アイドルの人気は地方まで広がり、
少し前から、全国各地で過去にない勢いでアイドルが次々と誕生していた。
そんな地方発のアイドルが東京に会す、そのステージを見ようと集まった人たちが・・・
炎天下の中、浅草にできた行列の正体だ。そうなの・・・。
これは、タピオカやBALENCIAGAが放つスタイリッシュさとは掛け離れた話であーる。
でも夏の陽射しの中を並ぶ人の風景は、そのままシーンの熱さを表していたように思う。
ちなみにこの半年前、ボクはそれまで熱を入れていたアイドルグループを離れた・・・
そして東京発のアイドルから、”AM1:27”の夜空で煌めく星のごとく遠く離れた場所から
光を放つ、地方を拠点に活動をするアイドルグループを進んで見るようになっていた。
時は、俗にいう「アイドル戦国時代」。
可愛さ・音楽性・パフォーマンスなど、ハイレベルなアイドルがバブルのように現れ、
ボク自身は、もう1つのグループに絞って応援をする事はないだろう、と思っていた。
時計の短針が上り坂を描き、文字盤の右上を指した午後2時。行列が動き始める。
太陽が照りつける屋外から”おいで夏の境界線”へと手招きされる様にエアコンが効いた
エレベーターに乗り、上がった場所にある会場。そのキャパシティは、最大で250人。
ラインナップされたアイドルは、 東は宮城から西は広島まで 計7組。
全国的に知名度はまだそう高くないグループが大半だったが、フロアは・・・
「王様のブランチ」で紹介された後のおしゃれカフェ並みに、満杯の状態だった。
どのアイドルが好きになるかは人それぞれだと思う、ボクの場合は「曲」を優先する。
そのためイベント中盤に登場したそのグループのルックスの記憶は、この時も今も薄い。
老化に伴う消えゆく記憶で思い出すと、金髪や茶髪、縦巻きパーマ、カラコンなど
北九州か沖縄の成人式クラスの威勢がイイ女の子が集まったグループ。でもね・・・。
そんな彼女たちが披露した1曲は、今も記憶に鮮明に残る強いエモーションがあった。
Boom Boomと鳴る低音にキラキラの上音が乗った今でいうエレクトロハウス調の曲。
あとで知ることになるが、その曲は1ヶ月前に発表されたばかりの新曲だった・・・
そんなMiracleと偶然が、彼女たちとの出会いだった。
2時間近いイベントが終わり、フロアの各所に置かれた出演グループの物販ブース。
彼女たちのブースは 会場上手にあった。長テーブルの後ろに一列に並ぶ、先程まで
ステージに立っていた女の子たち。ただし基本的に、メンバー同士のお喋りに夢中。
そのためボクレベルに影が薄い、下町ロケットか私立恵比寿中学ばりの「ゴースト」など
見えていません。
だから「今日最初にやった曲はどれですか?」と運営さん(※男)に話し長テーブルに並ぶ
3枚のCDから1枚を購入した。そんなトキメキ!と、とまどい?が同居する・・・
映画「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のような、彼女たちとの奇妙な軌跡の始まり。
でもこの日からプレーヤーでその曲を何度も聞き、そしてYouTubeで公開されていた
白バックという、ありふれた 場所で撮影された歌とダンスを鮮やかな色のCGで染めた
まだ再生回数の少ないミュージックビデオを繰り返し見た。そのグループの名前は・・・
「ひろしまMAPLE★S」という。
この時で、結成から「1年7ヶ月」が経っていた。
グループ名の通り、広島県のコンセプトカフェに所属しながら、定期的に実施される
ファンの方の投票により選抜された10人が全国へ行きライブをしていることを知った。
・・・Yahoo!知恵袋に質問をしてネ!
活動の拠点は東京から西へ、約680キロ遠く離れた広島。
そのため東京に来るのは月1度ほど。だから次に見たのは、1ヶ月後の夏の終わりだ。
場所は渋谷から”山手線”で3駅いった、新宿。会場は、最初の浅草よりも広い。
でも、ひろしまMAPLE★Sを目当てに会場に来ていた人の数は10人に満たない。
それでもステージで披露される曲、さらに10人が描くパフォーマンスは魅力的だった。
始発列車はまだ来ない、夜明け前。人がまだ溢れる前の渋谷駅前の交差点と似た・・・
人が行き交うスペースのあるフロアへ、月に一度行くボクの日々は、こうして始まった。
季節は、夏から秋へ。”青空が違う”色を纏い始めたが、ひろしまMAPLE★Sが見せる
ライブは変わらず毎回が楽しかった。オリジナル曲はまだ多くなかったが、
クラブミュージックやポップスがベースにある曲はボクの好みに合うモノが多かった。
毎回曲順を変えるセットリストも、曲やグループの魅力を毎回違った形で見る事ができ
さらにアイドルの好みが異なる多くの人に届けたい、 そして君を振り向かせたい・・・
そんな挑戦や可能性、広島の乙女達のアンビシャスに溢れて映った。
でもCleverに活動していた彼女たちも、東京での集客は中々変化が表れなかった。
当時の、広島での人気をボクは知らない。理由は・・・、「バカ」だから。
でも東京のライブは、”最前列へ”いつも行けた。ライブ後の特典会もメンバーの半数が
暇な時間をつくり、固定のファンの方がいたメンバーでも、5~6人が並ぶほどだった。
それでも、アイドルになり東京というシーンの中心地でもステージに立っている事が・・・
彼女たちにとっては楽しいように見えた。そしてボクは、「それで良い」と思っていた。
売れて欲しいなんて気持ちよりも、ひろしまMAPLE★Sが一生続いて欲しいと思っていた.
グループの真ん中に立つ女の子に、こう言われたことがある・・・。
「特典会で色んなメンバーのところに行って、その結果を報告してください」。
好きだと言うなら否定しない、でも、しょっちゅう来られても困ると受け取れる・・・
”アンビバレント”な言葉。その女の子は、学校に通いながらアイドルをしていた。
金色や茶に髪を染めた女の子が並ぶ中で、黒髪。身長153センチという小さな体で、
メインボーカルを担当していた。そしてボクが、色んなメンバーのところに行った結果・・・
名前を聞かれなかったり、名前を覚えておらずボクの名前を チェキに書かなかった、
「ハチ公物語」くらい悲しい話を聞いて、笑っていた。そんな”エキセントリック”な性格の
女の子だった。
ボクがひろしまMAPLE★Sと出会い6ヶ月、グループ結成から2年目の冬が近づく頃、
変わりゆく街の風景と同様に、彼女たちを取り巻く状況にも変化が見え始めてくる。
イベントで大きな会場に立てるようになるにつれて、月が変わるごとにフロアに人が
徐々にだが増え始めた。さらにライブ後の特典会も、最初はポツポツと増えていた人が
少しずつですが、メンバーの1人1人に短くても列が作られるようになっていった。
ボクが最初に見た時から、ひろしまMAPLE★Sは大きく変わっていない。
キラキラとした音をベースにしたオリジナル曲、それをノンストップで繋ぐライブスタイル。
ダンスの振付けやフォーメーション、メンバーの可愛さや個性ももちろん変わらない。
でも変化を続けていた事がある。それは、立つステージと曲の順番を変えるセットリスト。
特にセットリストは、オリジナル曲が少ないこともあって出し惜しみをしなかった。
さらに地元・広島のファンの方が遠征されるようになり、地元での盛り上がりや楽しさを
東京へ伝えたフロアの変化も、後押ししていたと思う。人が増え楽しそうなフロアは、
新しいファンの方をよぶ。そして見え始めた勢いを後押ししたのは、新たな曲だった。
ステージから見える景色が変わり始めた結成2年目が終わろうとする頃・・・
ひろしまMAPLE★Sは、グループを代表する1つの曲を発表する。
それは前向きな歌詞に、牧歌的だが彼女たちらしいキラキラしたアレンジが加わった、
フューチャーポップ調の曲。ミュージックビデオは奇をてらわず地元である広島を舞台に
ストーリー性のある映像に仕上げた。
一方で、その新曲を収めたシングルCDのカップリングは実験的に・・・
アシッドなクラブミュージックやラウドなロックなどのジャンルへアプローチした曲を収録。
オリジナル曲を増やすと共に、かわいさとクールさ、フロアと一緒になって楽しむ曲と
ステージパフォーマンスを魅せる曲など、曲のバリエーションも広げていった。
ひろしまMAPLE★Sがライブのステージに立つ前に、よく口にしていた言葉がある。
「ファンの人、全員が楽しめるようなライブにしたい」。
夜空に散らばる星を人が線でつなぎ星座という1つの形にしたように、彼女たちもまた
一見すると統一性のないオリジナル曲を、ノンストップという一本の線で繋ぐことで、
暗いステージの上で自分たちがもっとも輝けるライブを作っていった。
ライブはそれまでの、「テラスハウス」のようなキラキラとした楽しい曲を���ースに、
その途中に実験的な曲を挟む、「モンスターハウス」のような緩急をつけたものに
変化させていった。軸があるから、可能な変化だったと思う。
その輝きは年が明けると、加速度をあげる。結成から「3年目」、上り坂をあがろう。
欅の木に花が咲いた、春。新曲のリリースから約4ヶ月が経過した頃・・・
彼女たちは様々なパターンを試す中で、鉄板といえる1つのセットリストを作り上げる。
そのセットリストは後に大きなステージでいくども披露されることとなる、これが・・・
”ひろしまMAPLE★Sの世界感”ともいえる、きらきらキラー(©KPP)な曲の並び。
音の鳴り始めから盛り上がるキャッチーなイントロ、そこから楽しいメロディーラインと
重低音のドラムが融合する、キラキラした曲たちを曲間短くノンストップで繋ぎ・・・
ラストは、前年の暮れに発表した新曲でシメる、そんな組み方。
そのセットリストをもって春と秋、ひろしまMAPLE★Sは、地元・広島を飛び出し・・・
大航海時代のエンデバー号のように、初めてのツアーへ旅立った。
1年前はスペースが目立っていたフロア、でもツアーの全会場は多くの人で埋まった。
また夏には、2度目のフェスの舞台にも立った。ロープ・パーテーションで仕切られた
小さなフロアだったけど、 そこから溢れ出るほどの人が ステージ下に集まった。
そして、これまでの楽曲を収録した1stアルバムを発売する。
アルバムには新たに、ファンクやチップチューンなどにアプローチした曲を収録した。
活動に正比例するように数を増すオリジナル曲、そしてセットリストのバリエーション。
それらは、ひろしまMAPLE★Sが少しでも気になった人が、YouTubeを検索すれば
いくつも見る事ができた。たくさんの映像があり、誰でも彼女たちの魅力を手近に知れた。
話は少し前後しますが、ひろしまMAPLE★Sを見始めて1年半が経った、この年の春、
ボクは初めて彼女たちの活動拠点である、広島へ行った。
きっかけは、出会ってから長くステージに立ち続けていたグループをまとめる存在、
リーダーが突如、ライブに出なくなったことだった。Twitterの更新も途絶えていた。
公式では、体調不良と発表されていた。いつかは復帰する、メンバーはいなくならない・・��
そう信じて、見られる可能性が高いとしたら地元であろうと、初めて特急列車に乗った。
でも、広島のステージにも”キミガイナイ”。そして、この日から約1ヶ月後・・・
リーダーだった女の子はグループを後にした。”結局、じゃあね”もボクは”言えな”かった。
だけど・・・。広島には、ボクが遠征をした理由を聞いて笑う、残ったメンバーたちがいた。
そして、遠く離れた広島の街には、東京ではあまり見掛けなかった女性をはじめ
海外の方など、多くのファンの方がいた。
そんな広島や東京をはじめ彼女たちがライブで巡った全国のファンが一同に集まる、
ひろしまMAPLE★S史上最大の挑戦が、結成から3年目の冬に行われた。
それは最大収容人数1000人を超える大きな会場を舞台にした、ワンマン・ライブ。
出会った時は、フロアに人がまばらだったライブハウスのステージから・・・
オリジナル曲が増え、グループを代表する曲ができ、盛り上がるセットリストが完成し、
約4年の時間をかけて、ひろしまMAPLE★Sは広く大きな会場のワンマン・ライブまで
辿り着いた。
持ち時間の短いライブから、長時間に及ぶライブまで、ひろしまMAPLE★Sが
いつも続けてきたノンストップでのライブ。それは、体力的な苦しさを当然ともなう。
でも彼女たちはいつも苦しさを表に出さず、笑顔でステージに立ち続けていた。
それは、グループ史上最大のライブ会場を舞台にしたステージでも変わらなかった。
結果的に、会場を満員の人で埋める事はできなかった。でも、 ”ここから” もっと先へ!
「どこまでだって連れて行ってもらえる」。そう思えるようなアクトだった。
それはたぶん、ファンの方の誰もが思っていたことだと思う。
年が変わり、渋谷駅の南、旧東急東横線のホームの解体工事が終わりに近付いた
結成4年目。ひろしまMAPLE★Sは、グループ名を変えた。
渋谷から、街の顔ともいえる「PARCO」が消えた日のように、地元「広島」の名前を、
グループ名から下ろした。渋谷の街も彼女たちも・・・、変化の時が迫っていた。
時間の経過はボクの気持ちも変化させる、売れて欲しい、そう思うようになっていた。
「Twitterにもっと自撮りをあげれば・・・?」「髪の毛は黒い方が良くない?」。
これは近所の世話焼きおばさんではなく、ボクがメンバーに伝えた言葉だ。でもね・・・
イメージや常識の鎖に繋がれたような、つまらない大人は置いて行けとばかりに、
彼女たちはボクの言うことなど聞きません。そして訪れた夏・・・。
センターに立っていた女の子は髪の毛を思いっ切り、金色に染めた!!TT←TWICE
ボクがひろしまMAPLE★Sと出会って迎えた3度目の夏、前年から上り続けた坂は・・・
それまで出演が叶わないとも言われた、日本最大級のアイドルフェスティバルに
初めての出演という形でも現れた。
そのステージの1つは 、上空にわずかな雲と空しかない、会場の中で最も高い場所・・・
彼女たちは、そのステージから無限に碧く続く空の向こうへと、Echoesを”響”かせた。
ボクが初めて彼女たちと出会った夏のように暑い陽射しが射す、屋外のフロア。
そこには顔に汗と笑顔を浮かべる、全国から集まった ファンの方の姿があった。
4年の時間を掛けて出会い、一緒に歩んできた人たちと来ることができた場所。
その場所が、彼女たちが上り続けた坂の頂きだったのか・・・、ボクには分からない。
グループの軌跡は、ここからさらに2年続く。でもボクが見たのは、この6ヶ月後までだ。
ひろしまMAPLE★Sと10人の女の子それぞれの夢を乗せて、何度も自動車で往復した
広島から東京へ続く、長い道。その道は途中、海に沿って大きなカーブを描く。
そんな道のように、彼女たちも本来歩き続けるはずだった道を逸れる。そして・・・
そこから続いていた道は、上り坂ではなかった。
短い期間に色んなことが、あった。いつも笑っていた女の子たちが、涙をこぼした。
ライブ中に初めてステージの上で苦しそうな表情をするメンバーを、ボクが見たのも、
この年だった。グループの中心に立ち続けていた女の子は一度、こんな事を言っていた。
「辞めたいって言ったことがあるの」。でも、ボクが離れる方が先だった。
彼女たちが歩んだ上り下りのでこぼこ道の中でボクが見たのは、その半分にすぎない。
でもトータルして言える事がある・・・。それは、「楽しいこと」でいっぱいの道だった。
だから過去を思い出し閉じた瞳に映る日々。きっと忘れない。
でも、時間は常に過去から前へ進む。45RPMのレコードのように、時代もまた廻る。
”語るなら未来を…”。
ではーーーーーーーーーーーっ!!六本木・けやき坂の近くにあるテレビ局で録られた
小林星蘭ちゃんのナレーションよろしく、聞いてみましょう!「あいつ今何してる?」。
Tumblr media
「たのしい \(^_^)/」  in 2018年ー!!
顔文字付でビジネススマイルをかますのは、東京を活動拠点にするアイドルユニット、
「ヲルタナティヴ」の鈴屋(すずや)もずくさん。もずくちゃーーーーーーーーーーん!!
で、その隣に写る土地についた、悪霊みたいなのがワイ!
数年前と同じく応援していたグループを離れても、アタシはといいますと”自分の棺”から
謎のウィルスによって”再生する 細胞”でゾンビ化して、アイドルさんたちが望まない
蘇生を繰り返していますの。完全にホラーの世界ね。超恐ぇーよ!
見た人からは”車輪が軋むように”泣き声、そして悲鳴があがる・・・。そんなーーっ!!
小さなお子様には見せられない、”1行だけのエアメール”より長いのに中身がスカスカの
Blog、久々のはじまりDEATH!!
チィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッス!!!!!!!
色々な変化もありまして、「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」!(by ジブリ)
それでは、”真っ白なものは汚したくなる”ように、ネットの余白にヲルタナティヴの軌跡を、
ペン習字5級のアタクシが、キーボードを 人差し指で 打つスタイルで書きたいと思います。
2017年、季節は春・・・。
渋谷の街を流れる”渋谷川”から伸びた上り坂の途中にある、ライブスペース
「SOUND MUSEUM VISION」で、 IDOLユニット「ヲルタナティヴ」は 始まった。
ヲルタナティヴというグループ名には、「無限大」と「型にはまらない新しいもの」という、
2つの意味が込められている。活動を始めた時の持ち曲は、全部で5曲。
ポップを始め クラブミュージック、 ロック、ファンクなどの音楽ジャンルにアプローチをした
数は少ないがバラエティに富んだ曲でライブ活動をスタートさせた。
ステージでは、それらの曲をノンストップで繋ぐライブスタイルを最初から続けている・・・
っていう情報をですよー! 5ちゃんねると音楽ナタリーを、読んで知ったのアタスィー。
なぜならひろしまMAPLE★Sと同じく、ヲルタナティヴも活動の途中から見始めたから。
完全に”乗り遅れたバス”状態です。” それでも歩��てる”、ヲルタナティヴが歩む軌跡を
警察犬なみの嗅覚で追跡しながら。
そんなアタクシ以上にヤベー奴に、月曜日の朝に切られたスカートを縫合するように、
ヲルタナティヴの過去から、現在とを繋ぎ合わせましょう。
ヲルタナティヴ結成から1年と5ヶ月が経った、2018年の夏。
解体された 渋谷駅の旧東急東横線跡地に、新たな高層ビルが建とうとする頃、
もずくちゃんは 、再開発が進められる渋谷の街でヲルタナティヴに加入をした。
加入の経緯について もずくちゃんは、 音楽誌「MARQUEE」のインタビューを受けた際、
「(アイドル活動を)辞めた時にまだ未練があったんです。」、と話している。
さらにヲルタナティヴについては、かつて秋葉原で働いていた時に”ご主人様”から
教えてもらったと明かしている。そうなの!
もずくちゃんもかつてコンセプトカフェでお給士をしながらアイドルとして活動をしていた。
髪は黒色、身長は150cm台、あと実は次女。アタシくらい老眼が進みますとですよ・・・
欅坂46と乃木坂46の見分けがつかなければ、ひろしまMAPLE★Sの中心にいた子と
もずくちゃんも、完全に「シンクロニシティ」。「君の名は。」くらいの入れ替わりと錯覚。
たぶん乱視が入ってるのも影響ね♡ \(^o^)/
そんなもずくちゃんが初めてヲルタナティヴとして立ったステージで歌ったソロパートの
歌詞、それは「風が吹いた」。
笑顔を見せなかった欅坂46が初めて笑みを覗かせた曲、「風に吹かれても」と近い。
さらに、もずくちゃんはヲルタナティヴに加入したことで「自分を変えたい」・・・と、
デビュー前に自身のTwitterに投稿している。
これはー!「自分自身を変えたい」とご両親に逆らって、アイドルの道を歩み始めた
欅坂46の長濱ねるさんと、リンク!(※「Love in 九州」のことではありません。)
そして、長濱ねるさんともずくちゃんともに偏差値アーンド顔面偏差値が高いですが・・・
一方で時間の経過とともに、脳みそもお顔も劣化が止まらないのが、アタイッ!
気ぃーー持ち悪ーーーーーーーい!!”キレイになりたい”、高須クリニックで手術して。
結成から1年が経った「ヲルタナティヴ」の変化は、もずくちゃんの加入だけではない。
スタート時は5曲だった持ち曲が、ロックやクラブミュージックへアプローチした曲を発表し、
その数は13曲まで増えた。EPを1枚リリース、MV1本もYouTubeで新たに公開した。
日々のステージはライブハウスが中心だが、 今年春には初めて4都市を巡るツアー、
そして夏にはワンマン・ライブを開催した。
しかしグループ結成から2度目のワンマン・ライブをターニングポイントに、2018年の夏、
ヲルタナティヴは急きょ、ライブを約1ヶ月の期間、空けることを発表した。
それは変化をするために。再始動するのは”夏色のミュール”から衣替えした秋、10月。
少しの間、ヲルタナティヴの時計は止まる。でもね・・・。
Tumblr media
「リメンバ ミー」 !!
↑はマイクを5本の指で握らず、小指を欅坂46ポーズのように三角の形に折って添える
歌唱スタイルでワールドフェイマス、みんな大好き 三島凛(みしまりん)さん。 凛ちゃん!
グループ結成の年から活動を続ける凛ちゃんの2018年の変化。それは、髪型を・・・
ボブからセミロングに変えましたの、自称「モテヘア」。週刊文春に撮られませんよーに。
そんな凛ちゃんは充電期間に入る直前の9月6日、Twitterにこのような投稿をした。
「セトリとか色々話し合いをしてるのですが、きっと皆が喜んでくれるかなと思います」。
・・・アイ リメンバー!!
凛ちゃんの言葉の意味は 「ファンの人、全員が楽しめるようなライブにしたい」と重なる。
可愛いメンバーがいて、バラエティに富んだ曲があり、その曲をノンストップで繋ぐ
ライブスタイルを続ける、ヲルタナティヴ。あと、アタシの希望はですよー・・・
盛り上がるセットリストが作れれば、”156(イチコロ)”になる人もきっと増えると思うの。
ただ、そのヒントとなるようなモノをヲルタナティヴはきちんと示しているとボクは思う。
それは3月17日、場所は港区白金高輪のスタジオ。
まずはコンプレクストロというジャンルへアプローチをしたアッパーなダンスチューン
「飴色リズム」でライブをスタートさせ、続けて音色は変わるがこれまたアッパーな
EDM調のダンスチューン「今宵夢酔夢想歌」を繋げる、イントロから盛り上がる曲を
繋げるセットリスト。
もう1つは、ラウドなPunkチューン「ジョビ・ジョバのテーマ」から、一転して・・・
静かな立ち上がりのエレクトロハウスの曲「夏の香のパ・ド・ドゥ」を繋ぐもの。こちらは、
同じ曲調ではなく、曲調が真逆の曲を繋ぐものであーる。(©CM「UR」の吉岡里帆さん)
”夏の花は向日葵だけじゃない”ように、曲やライブも見せ方で大きく見え方は変わる。
そしてステージから見えている人だけが、応援をしてくれている人、なんてこともない。
10月のヲルタナティヴ再始動までのカウントダウンが始まった、9月21日・・・
Twitterに「#ヲルタナティヴ」が付けられた、このような投稿がタイムラインを流れた。
「更なるパワーアップが楽しみ夢中で仕方ない!!」。
発信したのはタワーレコード川崎店。さらに凛ちゃんが使っていた言葉をサンプリングし、
「活動再開でみんなも『ハピー』になろう」、と続けた。
ヲルタナティヴの活動期間は、ボクがかつてひろしまMAPLE★Sと出会った時と同じ、
「1年7ヶ月」を迎えようとしていた。ではーーーーー・・・!!
いつかの年、地方で産声をあげ、坂を上って行ったグループのように変化していこう。
川崎出身のJJJくんだって今年を代表する曲「Changes」で、こうラップをしているしー。
「未来 期待はしないが光を感じてんだ」。
そして、「水飛沫を上げて走りぬく 抜け出す この狭い世界」、と!!
では再始動するヲルタナティヴも、大海原を行く船のように水飛沫をあげて進んでいこう。
その出発の場所も「Changes」のヴァースと同じ、「北沢の街頭」!!!!!!!
〇ヲルタナティヴ 002 - woltanative 2nd -
2018年に秋が訪れた、10月20日土曜日。場所は、渋谷駅から電車に乗って4駅・・・
再開発が進む、下北沢。その駅から徒歩で約6分、北沢の街頭に建つライブハウス、
「下北沢ReG」。ここから、ヲルタナティヴは 新たな軌跡を描き始める。
空は、太陽が”青空とMARRY”したような、紺碧の秋晴れ。
時間の経過と共に変わったモノ、それは風景だけではない。
アイドルシーンを取り巻く状況も大きく変化した。それでも会場がオープンする正午前、
会場となる下北沢ReGの前には、秋の陽射しの中、入場を待つ人の列が作られた。
そして時計の針がテッペンで重なった、日テレで「メレンゲの気持ち」の放送が始まる
正午12時。最大で約230人が入る会場は、「東京タワーはどこから見える?」の級に・・・
ヲルタナティヴはどこにいる?と、会場後ろではステージが見えづらい人が出るほど、
「ヒルナンデス」で紹介された後のおしゃれカフェくらい、会場は多くの人で埋まった。
時計の長針がてっぺんを少し過ぎ、上り坂を描くように文字盤の右上を指した頃、
フロアの照明は暗転。”夕陽1/3”ほどの薄明るいライトだけが、ステージを照らす。
そのステージを覆い隠すように貼られたプロジェクタースクリーンがゆっくりと上がり、
PA卓のメーターが動き出す。会場に音楽が鳴り響く・・・
それは、ヲルタナティヴのライブのオープニングでお決まりとなっている曲!
1. 「w421(ウォール)」。欅坂46のライブの幕開けでかかる曲「Overture」と同様の、
EDM調のインストゥルメンタル。そのリズムに合わせて、これまた欅坂46と同じように
フロアではファンの方が手拍子、またPunkのライブ会場のようなOiコールがあがった。
それでは、行こう!!
ヲルタナティヴ in 秋、単独公演「ヲルタナティヴ 002 - woltanative 2nd -」!開幕!!
曲の終盤、青い照明が照らすステージにヲルタナティヴが1人ずつステージに現れる。
その立ち位置は、メインボーカルを担当する小泉明音さんを先頭に描く、三角形。
2列目に神谷さくらさんと柊木ハツミさん、そして3列目に4人が末広がりに並ぶ。
欅坂46は、最初のワンマンライブを前にした時に言っていた・・・
「今持っている私たちの力を全部出し切って最高のライブにしましょう!助け合おうね」
ではヲルタナティヴも助け合って、いま持っている力を全部出そう!
そのスタートは、爽やかなギターの音色が特徴の、疾走感があるポップなナンバー、
2. 「ALMIGHTY†GLIDER」。蔦谷好位置さんらを擁する音楽制作プロダクション、
「agehasprings」がTwitterで「好きなタイプのアニソン系エモチューン」と評した曲。
ヲルタナティヴのために、最初に書かれた曲でもある。でも、その時から・・・
ステージ上の景色は変化した。メンバーが、7人に増えましたの!
では、アタクシの”割れたスマホ”で撮った画像で紹介していきたいと思います。左から・・・
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ひょっこりはん状態で見切れる左端は、ドレッシングを飲む元メイドさん、鈴屋もずくさん!
その隣は、ボクの成仏か世界平和を願って手を合わせるイケてる中学生、神谷さくらさん!
左から3番目は、前歯に 口紅を つける可愛い芸風をもつ高校生、柊木ハツミさん!
そしてセンターは、インスタに天一のこってりラーメンを載せるオンナ、小泉明音さん!
その横は、この前日に自転車泥棒にチャリンコをパクられた、桃川もも子さん!
右から2番目は、SiMと作家・池澤夏樹さんが好きなウェイ系文学女子、三島凛さん!
最後、右端は勉強をしたくないからヲルタナティヴに入った茶髪JK、美里由奈さん!
・・・以上!メンバー7人がもつキュートさを、まったく表現できないメンバー紹介でした。
では、 キュートなヲルタナティヴ と、気味が悪いBlogの間に発生した”不協和音”を
”チューニング”して、大事なライブに戻りましょう。7人で描くネクストチューン!
それは、ヲルタナティヴの初期を代表する、 鉄板で盛り上がるダンスチューン・・・
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3. 「今宵夢酔夢想歌」!!(↑の5:16~。Ver.4人)
”欅って、書けない?”とは真逆、絶対に読めない?この曲は「こよいゆめよいトロイメライ」。
EDMっぽいですが、ボクはプログレッシブハウスにアプローチをした曲だと思っている。
この曲で起きた変化は、メンバーが7人になった事でフォーメーションを描けること。
中でもメンバーが横一列に並ぶフォーメーションは、欅坂46のMV「 二人セゾン 」くらい
美しい。見ているだけでも楽しいのですが、アッパーなイントロではコールが入り、
またサビはマネをしやすい振付けのため、ステージで踊るヲルタナティヴを模範にして
フロアで”Student Dance”!振りコピをして一緒に楽しむことだってできる。
そんなクラブサウンドに繋げるのはPunkにアプローチをした、4.「ジョビ・ジョバのテーマ」。
この曲の変化は、誕生の裏側にある。振付けを初めて、メンバーたちが考えている。
そして、この曲を歌ったところでカーリング日本女子代表でいう所のもぐもぐタイムへ・・・
”大人は信じてくれない”かもしれませんが、ヲルタナティヴは結成時から行ってきた
ノンストップでのショーケースを中断、メンバー紹介のMCを挟む。
それは、先程まで歌い踊っていた新旧のメンバーがステージに横一列に並ぶ、
漢字とひらがなが合わさった、”W-KEYAKIZAKAの詩”の様相。
では行ける所まで”一緒に歩いて行こう”、軌跡もライブも再始動をして!
そのスタートは、三島凛さんのこんな言葉で始まった。「最後まで止まらないよ」!!
2018年、カメラも、ライブも止めるな!では行こう。ヲルタナティヴが得意とする・・・
ノンストップのショーケースが”走り出す瞬間”。
欅共和国2018の開国を知らせる小林由依さんみたいに、ヲルタナティヴも「いくぞー」!
その始まり、 「 ヲルタナティヴ 002 - woltanative 2nd -」の”FIVE CARDS”は、
もずくちゃんが今年の夏、ヲルタナティヴに加入し初めてステージで歌った曲と同じ、
エレクトロニックなロックチューン、5.「Wonder Wander Lander」。
もずくちゃんは夏から秋へ季節の移り変わりと共に芸名を「鈴谷」から「鈴屋」へ変えた。
だが変化は名前だけではない、ステージ上でも見ることができる。
以前までステージでは、クールな表情でパフォーマンスをしていたもずくちゃんですが、
現在は、おキレイな顔に笑顔を浮かべながらフロアへ、”饒舌な眼差し”を送っている。
・・・アタシ以外のファンの皆さんにー!!そんな容赦のない女子の洗礼を浴びた後に
続くのは、ドリーミーなトラックに弾けるリズムが重なる、ダンスミュージック。
Future Bassのキラキラチューン!!! 6. 「らゔ・お〜る【0-0】」。
キタァァァアアアアーーーーーーーー(゚∀゚)ーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
個人的には今のヲルタナティヴらしい音色の、ライブの中盤を担う曲だと思っています。
曲はもちろん歌詞・ダンス・メンバーの表情と、見所や聞き所がいっぱい詰まっている。
そして織田奈那さんのキャッチフレーズみたいな「みんなに幸せ届けるラッキー7」は
曲中にメンバーの名前を、ファンの方が逆” 沈黙した恋人よ”状態で超絶コールする、
バンドサウンドと電子音が融合したエレクトリーモ、7.「邂逅と再生のシンギュラリティ」。
その曲の終わりに、曲間短くノンストップで鳴り始めるのは規則的な四つ打ちのドラム、
重なるエレクトロニカの 綺麗なメロディーは、8. 「季節はサチュレイトーン」。
ヲルタナティヴの歌が入るまで、約50秒と長いイントロ。
でもメンバーのシンクロしたダンスと美しいメロディーは、その長さを感じさせない。
そしてサビで見られるのは、ステージとフロアの一体感。コレオグラファーの方が考えた
ダンスとは別に、ファンの方がフロアで始めた事がステージで採用されている。
煽るのはメンバー。サビの1回目は下手に柊木ハツミさん、上手に桃川もも子さん。
そして2回目のサビは下手に三島凛さん、逆サイドの上手を美里由奈さんが担当し、
四つ打ちのリズムに合わせてジャンプをしながら頭上でクラップをする。
その情景はステージとフロアが、”僕たちは付き合っている”以上のマリアージュ。
そしてエレクトロニカの音色がフェードアウトし、変わりに鳴り響く音はノイジーなギター、
9. 「ギヴミーメーデー ~明解に不正解な世界の端っこの真ん中で~」。
ポストグランジにアプローチしたという曲。
見所は、メンバーが次々と立ち位置を入れ替わるBメロのフォーメーションダンス。
そして聞き所は、攻撃的なギターに跳ねるドラムが重なるオチサビ、
さらにアウトロでのメンバーのコーラスとロックサウンドのコンストラストだと思ってます。
曲が終わると、メンバーが立ち位置を大きくChanges。
センターに柊木ハツミさんが立ち、その一歩後ろにメンバー6人が横一列に並ぶ。
それは、今のヲルタナティヴがもつキラーチューン!!いくぞー!
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10.「飴色リズム」! !
エレクトロハウスのサブジャンルである「コンプレクストロ」にアプローチしたとされる、
イントロからアウトロまでの約4分間、隅々までアッパーなクラブトラックの曲。
0:01~のイントロ、まず 柊木ハツミさん がソロでダンス、その後、シンセサイザーの音の
鳴り始めとともに、残りのメンバーが加わるダンスはマジでヤバい。
さらに1:33~のサビへと続く展開ブロックでは、欅坂46「 NO WAR in the future」でも
採用されているパリピの皆さんの大好物、プチャヘンザが振付けに取り入れられている。
高揚感ある曲とステージとフロアが一緒に楽しめるダンス、それは歌詞にあるように
「息ができなくて溺れそう」なほど会場を盛り上げる。
この曲にヲルタナティヴが繋いだのは、欅坂46の曲「太陽は見上げる人を選ばない」と
似たADM曲、11.「かえろうよ」。ADMとは、アコースティック・ダンス・ミュージックのこと。
アコースティックとあるだけに、そのイントロは静か。だが、神谷さくらさんのボーカルを
きっかけに曲はメロディーさらにリズムも、ダンス・ミュージックの盛り上がりに変わる。
そしてサビでは曲名にもなっている「かえろうよ」のフレーズを、メロディーに乗せて、
ステージのヲルタナティヴとフロアにいるファンの方が一緒に歌唱するのが特徴。
会場内に響く「かえろうよ」の歌声、では”手を繋いで帰ろうか”?・・・お医者さんと一緒に。
アタシがお薬の時間だから。しかーし、ヲルタナティヴの持ち曲は今、全部で13曲ある。
One More Time!(←韓国のSUPER JUNIORの曲のことではありません。)
ヲルタナティヴ 単独公演 「 ヲルタナティヴ 002 - woltanative 2nd -」  in 下北沢ReG・・・
ラストは、ヲルタナティヴの1st シングルのリード曲、12. 「夏の香のパ・ド・ドゥ」。
この曲はみんな大好き渡邉理佐さんが歌う、「スズメの歌」と同じエレクトロハウス調。
立ち上がりは静か。小泉明音さんの歌声 と、僅かなエレクトロの主旋律だけが響く。
この曲には、こんな想いが込められている・・・。
「いつか必ず会いに行こう。例え、遠くとおく離れていても。」。
いつかの夏、遠く離れた広島県を拠点とするアイドルグループとボクが出会ったように
2018年の暑い夏に、鈴屋もずくさんとヲルタナティヴは出会った。
そして季節が移ろうとする夏の終り、今度は4人の女の子がヲルタナティヴと出会った。
静かな立ち上がりから始まるこの曲、でもサビでその姿は一変する。
メロディーそしてリズムともに激しく鳴り、ヲルタナティヴの7人が踊るダンスも弾ける。
静かな立ち上がりから盛り上がりへフロアから見えるステージの景色が変わるように、
いつかヲルタナティヴがステージから見渡す景色も大きく変われば良いと思う。
電子音で彩られた”ゼンマイ仕掛けの夢”からの、目覚めを告げるように・・・
ステージに明るい照明がつく。
”夜明けの孤独”ではなく、多くの人に見守れて歩み出したヲルタナティヴの新たな道。
その道は、この日から今日まで約2ヶ月続いている。その間のヲルタナティヴは・・・
ライブの会場は、大きいステージもあれば、小さなステージの時もある。
その下に広がるフロアもまた、人が行き来で���るスペースがある時もある。
そしてまた特典会も、メンバー全員に思うように列が作られない時がある。
いつかの日にボクが見た光景と似た景色が、今のヲルタナティヴにも見る事ができる。
でも、その景色はいつか変わるだろうとボクは思う。
曲・ライブスタイル・セットリスト、さらにYouTubeに代表される音楽共有サイトなど・・・
ヲルタナティヴにはまだ”無限大”に”新しいもの”を試せる可能性があると思っているから。
約1ヶ月の間に7人が、歌やダンス、フォーメーションを入れた曲は12曲。でもね・・・。
ヲルタナティヴの現在の持ち曲は13曲、たった1曲だけ披露をしていない曲がある。
その曲のテーマは、「進化と革命」だ。そんな曲や渋谷の街と同じ様にヲルタナティヴも
再び開発しよう。ひろしまMAPLE★Sがいつか歩いたような、上り坂を。
未来の景色の中にたぶんあるであろう、険しいが楽しい、その道に出会うために・・・。
マイクを”握りしめた拳で”、今ある”目の前のガラスを割れ!”。
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2018年も時間は進み、季節は冬。あと少しで、暦は2019年へと変わろうとしています。
渋谷の街で、いつ頃からか始まった工事は現在も続きの2027年の完成を目指している。
街からはかつてのランドマークは姿を消した、でも時間が経てばきっと・・・
またそこにたくさんの人が再び集まる、新しいランドマークがそびえ立つだろう。
ヲルタナティヴは、そんな街で誕生し様々な人と出会い、1年10ヶ月の時間を歩いてきた。
そしてこれからも、先へと伸びる道を歩いて行く。その道に・・・
これまで来た道に刻んだのと同じ足跡を残すか、それとも”ここにない足跡”を残すか、
それは未来にならないと分からない。
だから、最後に1つだけ欅坂46の歌詞を引用してボクの希望を書きたいと思います。
”自分の夢の方に歩けばいい”!!だって、 ”未来は君たちのためにある”から。
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キャー、かわいい!ヲルタナティヴの、センターそしてメインボーカルを担当する・・・
小泉明音さん 。あかりんさんは広島県出身、身長はこの前聞いたら152センチだって。
以前は153センチと言っていたので、時間の経過により1センチ縮んだっぽいです。
あかりんさんはいつかの冬、ステージの上で涙をこぼした。その時から時間を経た
2018年の同じ冬、あかりんさんはヲルタナティヴとして再び大切なステージに立つ。
その場所は国道2”46”から、かつて欅坂46が立った 旧東急東横線のホーム跡地を
右に行った先にある、ライブスペース。その会場を満員にすることが・・・
あかりんさんの2018年、最後の目標だ。
時間の経過とともに 、人や風景などは姿・形を変える。
あかりんさんが、そしてヲルタナティヴがそのステージで笑顔でいられますように!!
”世界中 満たしてく”、「七色のモーション」!きっと もっと ミラクル★エモーション -
ボクがいつか出会った、そんな歌の始まりのように。
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1031yusuke · 7 years ago
Photo
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Beauty and beauty golden glowing yellow ginkgo trees along of the road at 「Jingu Gaien Ginkgo Festival」 1枚目はライトが点灯した瞬間。2枚目はライトアップする前。3枚目が最後。 2→1→3が正しい順番。 なんとなく良い感じに撮れたのはなんとなく良く知ってるイメージしやすかったから。試行錯誤しながら撮るのは楽しい。 全部夕方の暗い時間帯だけどしっかりAFのピントが合う。 xt-3 買って良かったなって思う瞬間はこういう時。 #xt3 #xf56mmf12 #xgallery #fujifilm #fujifilm_xseries #tokyocameraclub #fujifilmglobal #fujifilmnorthamerica #myfujifilm #fujifilm_street #mastercraftsmanship #instagood #fujifilmnorthamerica #indies_gram #vsco #vscocam #vscogood #grsnaps #grsnaps04 #富士フイルム #xシリーズ #今日もx日和 #ラテ職人 #銀杏並木 #ginkgo #ginkgotrees #good_portraits_world #この日は日帰りなのに1都3県を巡る長い長い旅になるなんてこの時は誰も想像もしていない #ただのゆるい会は時間が許せば全力でゆるく遊ぶ会 #177cmってだけで才能だわ #撮られ慣れてなくて撮り終わった後に恥ずかしくて駆け抜ける人 (外苑前いちょう並木) https://www.instagram.com/p/Bq-F6qyhkvM/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1wkr8gn28lucd
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isao-yamamoto · 7 years ago
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遠くへ行って思うこと(2016年11月)
11度目の海外旅行。よくもこんなにも飛び回らせてくれたもので恐縮するばかりですが、一応自分で稼いだお金では初の出国です。若いうちに世界を知っておくことはいいことだとか、可愛い子には旅をさせよとか言いますが、加減もあろうこと。状態として随分と旅慣れはしたものの、改めて考えてみると、どうしてこんなにも旅行しているのだろうと思います。趣味欄に旅行と書いたこともないし、だいたい観光はあまり好きではない。というか観光とはいったいどういう行為を意味するのだろう。ということで、ここに僕なりに旅を肯定したく旅論をしたため、以て今回のニューヨーク行きの記録としたく思います。
行先 そんなわけで、パリへのあこがれだとか、魅惑のハワイに誘われとか、そういう動機ではないので、たいてい行先も深い理由なく決まっていまう。安い航空券が取れたからとか、この大陸にはまだいってないとか。ニューヨークにしようといったのは僕だけれど、理由はアメリカ合衆国のメインランドには行ったことがないというのが正直なところなのかもしれない。「アメリカに行ったことある?」という問いに対して、「ハワイなら…。あ、バンクーバーならあるんですけど」「ああなるほど…」みたいなやり取りを幾度かしてきたことが、どこかプライドに傷をつけてきた部分があって、それで、せっかく行くなら東海岸にも行ったことにしたいから、ニューヨークあたりかな、くらいな付箋が付けられてく。そしていざどこか旅行へ行くという話になったときに参照するという、いわば動機の飛躍みたいなものは少なからずあると思う。それゆえに、「どうしてニューヨークにしたの?」「何しに行くの?」といったたぐいの質問は、なんて返すのが正解の回答かな、と一瞬考え込んでしまうのです。そもそも、世の中の大概の理由は理由じゃない。とはいえ一応美術系の職に就いて、ニューヨークに行くとなったならばしたいこと、見たいものはいくらでもあるわけです。ただ、たとえばMoMAに行きたいからニューヨークに行くという順序ではなかったということ。そんなことはどうでもいいのかもしれないけれど。
期待 日常から解放されて非日常を味わわんとするとかみなさんさも当然のことのようにおっしゃいますけど、のんびりとした日常にそんなに不満もないし、たしかに刺激は若干不足しているけれど、その反動でいざニューヨークにというのも動機としては過剰だと思う。行ったらそんなこんなで楽しいんだろうけど、旅行に対して楽しみ!という感じはどうにも乏しくなった。例によって荷造りも直前までやらなかったし、これは盛り上がったら負けというような変なプライドすら生まれている様相。どうせ大概の旅行用品はすでに持っているし、足りなければ現地で調達すればいいというそれだけの話で、乾いていそうな服を適当に詰め込んで出てきたものの、そんなだからやたらセーターを持ってきた割には下着が少ないということが起こるわけです。 学生時代はそれでも、一応図書館で地球の歩き方でも借りたりしていたものの、今回に至っては本屋で30分ばかし雑誌を立ち読みした程度。ニューヨークでは美術館めぐりをしようと、千住さんの『ニューヨーク美術案内』を古本で買ってしっかり予習していこうと意気込んだものの、プロローグだけ読んでこれは面白そうと期待感だけ高めておいて、それ以降読み進める気にならず、終わってみれば第1章のメトロポリタン美術館の先は読まずじまいで帰国の途につくこととなっています。 同行の友人が、せっかくニューヨークに行くからといろんなアクティビティーを追加してくれました。オペラ座の怪人、アイスホッケーの試合、自由の女神、等々… どれもぼく一人だったら興味を示さずに終わっていたかもしれないものながら、少しばかりの好奇心を胸に抱きつつ、高いお金を支払うのでした。
お金 やはり物価がとても高いこの町では、日本での金銭感覚でやっているとなにも食べれずなにもできない状態となってしまうので、今回は項目別に、食費は1日いくら目安といった具合に予算を設定しました。これまでの旅行では、その場その場で気分でカードを使っては、後日請求がきて青ざめるというのを何度もやらかしていて、結局なにしにいったんだろうという反動もなかなかのもの。しかしながら、ただでさえも高いものがチップ文化によってさらに高くなるので、どんどん金銭感覚を狂わせていかないとやっていけません。そして、貨幣価値を平行移動させてものを考えないようにしないといけない。ここでこれを我慢すればあれが買えるとか、さっきあれを買わなかったからここで贅沢ができるとか。パッケージ化されないぶん、いくらでも費用は節約したり膨張しうるわけですが、1対1の等価交換の図式を持ち込んでしまったならば面白くない旅になるだろうし、そいつは随分と面白くないやつ。けれどどうしてもそんな図式は我々の思考回路に埋め込まれてしまっているから、あれこれと無数の言い訳を拵えてきたわけですが、もう何も考えないというのがいちばんで、数字感覚に乏しくて良かったかもと、また言い訳をひねりだしています。
失敗 慣れない街でせわしない行程を消化していると、どうしても予定外の失敗は発生するもので、それもまた旅の醍醐味なんでしょう。何度も移動していろんなところに行って巡る旅もしてきたけれど、移動するたびにそんなリスクを取っていて疲れるばかりだから、今回は1都市滞在にしようとまずもって企図しました。そして、いちいちwifiを求めて何度もカフェに出入りするのも結局安くないことに気づいたので、1都市滞在をいいことにポケットwifiを貸借しておきました。その結果、日本にいるときとほとんど同じ感覚で経路を調べられたので、ほとんど苦労もないはずでした。加えてニューヨークの街区��まったくもって計画的に整備されていて、地下鉄もわりあい南北-東西方向に分かりやすく伸びているような、移動はしやすい都市だと思います。それでも自分が現在向いている東西南北が定まらず逆方向に歩いたこと幾許か。滞在期間と合致したこともあり地下鉄の7日間パスを買ったものの、3日目あたりで紛失し、再購入したので結局交通局には70ドルくらい落としたことになります。それでもいちいち損得勘定をし始めると都市内を繰り返し縦横無尽に移動しなければならない旅程のいちいちがストレスになってしまうので、ぽいっと買い直したのは吉でした。あとは、MoMAでウォーホルTシャツを買ったら子ども用だったとか、シャツと思って買ったものがタイツだったとか、チケットの受け取り場所がみんな適当で延々たらいまわしにされたとか、時差ボケがひどくてミュージカルは半分くらい寝てたとか、成田からの足はやっぱり事前に確保しておかないととくに得しないとか、良い思い出になりそうです。このあたりが旅の本質の一つでしょうか。
目的のアート いざここまで旅が展開してしまえば、この旅の目的は芸術鑑賞です。メトロポリタン、MoMA、グッゲンハイム、ホイットニー、そしてDia Art Foundationの美術施設。移動日を抜けば実質5日間で回るにはぎりぎりの日程。どこもまったく施設が大きくて、ものすごく多くのお客さんでにぎわっていて、名作を簡単に展示していて、この都市の底力を見せつけられました。しかしながら作品数が多すぎて、この旅程の中で見ていくには時間的にも体力的にも厳しく、狙った作品周辺以外は流し見程度でどんどん進んでいかざるを得ませんでした。けれど、思い切ってどんどんパスしていくのもひとつの能力だと思います。高校の修学旅行でルーブルへ行ったとき担任の美術教諭が、素人は全部真面目に見てしまうから必要以上に疲れてしまうというようなことを言っていた意味がいまはよくわかります。見る目を養うことと自分の趣味を知ることは、究極的には軌を一にするのかもしれないけど、とりあえずいまのぼくの守備範囲はまだまだ狭く、心大きく動かされた体験もそんなにはないので、逆に見るべき作品の目星をつけることはある程度容易でしたが、漫然と全部回っていたら苦痛でしかなかったと思います。昨春スペインで美術館巡りをしたとき、マドリードでプラドとソフィア王妃芸術センターを訪れたけれど、歴代王家のコレクション中心の前者は途中から完全に息切れして一周するので精一杯だったのにたいし、そのあといった後者では急に元気になって嬉々としてめぐったのを思い出します。日本で展覧会を見ている分には、どれもせいぜい1時間ちょっとで出てきてしまう分量になってしまっているので、嗜好の差がそれほどでないところ、自らの趣味を知る強烈な体験でした。 ハイライトは、シャガールの優しさに触れたことと、デ・マリア作品の意味、そしてモネのMoMAのモネ室あたりでしょうか。千住さんが件の本で、MoMAでピカソを見て脳のブレーカーが落ちたようなことを原体験として語っていて、そこまでといっては大げさな気もしますが、見惚れてにやついてとまららないのもなかなかないこと。小さいころ、おそらく小学生のころ、母に連れられ広島県立美術館にマルク・シャガール展を見に行ったのが、物心ついてからおそらく初めて行った美術館だったと思います。図録がほしいと言って、家に帰ってもしばらくシャガールを見ては、この絵のタイトルはなんでしょうと両親に問題を出し続けて飽きさせていたことを思いだしました。帰国後その図録を眺めてみたら、やっぱりちょっとどきどきします。その次に母といった美術展がモネ展で、その図録も先日実家から直島に引き上げてきましたが、モネとシャガールにいまこうして魅せられているのは、まさに三つ子の魂百までを地でいくものだと我ながら驚いています。もう1冊一緒においてあったエルミタージュ展の図録はあまり眺めた記憶がないものの、これからの人生でなにかしら顕れてくるのか、楽しみでもあります。 デ・マリア作品は、ニューヨーク郊外のDia:Beaconと、SOHOのThe Earth RoomとBroken Kilometerの3作品をめぐることができました。寡作の作家で、かつ作品の体験にこだわる人なので二次情報に乏しく、直島の2作品から彼の思うところの広がりを探るにも正直なところ限界があって、長い時間作品の中で過ごすことで、また時間季節による変化に触れることで、ふとはっとその奥深いところにあるものが侵入してくるような瞬間があるものの、一方でいまいちどこかもう一歩届かないような感覚を持ったまま紹介したりもしていた作家でした。知識として聞いていた話と、それを上回るような、思わず声にならない嘆息が漏れるものがニューヨークでの体験にはありました。一歩彼の世界に近づいた気分です。しかしながら、Dia:Beaconでの彼の展示がポストカードの写真の図とは異なっていて、よく観察すると床の木目とも少しずれて配置してあったのはなんだったのだろう。 そしてモネ。3枚続きと2枚続きの大装飾画2枚が向き合って展示されて、その合間に長椅子が配置されていたけれど、あまりに広大な美術館の中では休憩スポットともなりかけていて、落ち着いて見れる場所でもないのはもはや仕方ないのかもしれない。数日前のことでありながら記憶をあまりたどれないので、その程度の印象だったのかもしれない。 専門的な美術教育を受けたわけではないし、たまに気が向けば特別展に行く程度はしていたものの、足しげく美術館に通い始めたのはここ1年半くらいもので、少しずつ楽しめるようになっていく過程も面白いものです。以前どこかで見たあの作家の作品がある、なるほどちょっと雰囲気が違うなどという具合に、複数の機会でもってその作品に触れることで深みが見えてくる体験が何度かありましたが、今回もそんな体験となりました。デ・マリア然り、ベネッセハウスミュージアムで見た作家の作品の多くとニューヨークの美術館でも対面することになり、その意味でも直島がいかに特別か、逆に思い知らされることにもなりました。
お土産 美術館に行けば充実したミュージアムショップがあり、お土産選びに精が出ます。ところが、僕の趣味がずれているのかなんなのか、購買意欲をそそられるものは限定的で、なおかつ気にいった作品のものに限ってポストカードがない。職場用にポストカードを買いこんでやろうとたくらんでいたところ、ちょっと狙いが外れました。ちょうどグッゲンハイムでやっていたClaudia Angelmaierの展示で、ゲルハルト・リヒターの『ベティ』のポストカードを彼の娘ベティ原寸大に拡大して展示することで、ポストカードと複製することの意味、そしてそれを思い出にしたり誰かと共有する手段とすることを問い直そうとした作品が出ていて、良い企画だったと我ながらにんまりしたものです。 観光地に行って、お土産屋に行って、あてはないけど誰かにあげるかもといろいろと買い込むわりにはお土産を何度も余らせてきたので、今回のお土産プランとしては、もう自分使い用にはほとんど買わないことにして、菓子箱を空港で買えばいいやということにしていました。これが結構大きな節約策にきっとなってくれているはずなのですが、大きな誤算が、空港でお土産になりそうなものをほとんど売っていなかったこと。これは帰国後も延長戦となりそうです。酒買って帰るから飲み会しようね企画どうしよう。 ニューヨーカーに大人気!的な店を事前にチェックしてちゃんとお土産をそろえていた同行の連れの戦略は正解だったようです。ただ、大人気!ってなんなんだろうという疑問はどうしても湧いてきます。人気のお好み焼き屋と地元の人が行くところは違うような。というか、この国ではおみやげ文化自体が乏しそう。
写真 フィルムからデジタルになり、スマホで簡単にパシャパシャ写真も動画もとれる時代。みんなどこへ行ってもカシャカシャやっています。直島の美術施設の基本的考え方として、写真に残るようなのでない体験をしてほしいというものがありますが、それでもあちらこちからかカシャッという音が響いてきます。あまりにインスタントになった写真文化には辟易させられているところで、今回の旅行では個人的に、できるだけ写真はとらないことに決めました。結果は、計10枚。内訳は、アメリカ自然史博物館の稲作関連の展示のされかたが興味深かったので6枚、お使いを頼まれていたカメラフィルムの写メ、友人がおもしろいTシャツを買っていた図、Dia:Beaconはキャパシティ1200人ですというサイン、そしてビルとビルの合間から昇る朝日の図。思い出語りは、Googleで画像検索すれば済む話。そもそもそんなに旅行の思い出話をすることもいままでなかったっけ。たいていはまったく関係のない場面で、そういえばむかし行ったどこそこでこんなのがあって、いまこれを見てそれを思い出したわ、みたいなことになるもので、それでいいのです。旅行の思い出をアルバムにして共有するのでなしに、こうやって長文にしたためて残そうとしたのも、SNSに何を乗っけるかという発想から行動が統御されていくことにせめてもの抵抗を試みようとしている意図もあります。結局は人と違ったSNSの使い方をしようとしているだけで内実にどこまで��規性があるかは謎ですが。
時差ボケとアクティビティ 今回は初めてのアメリカ東海岸への旅で、その点油断があったかなと反省しているのが時差ボケです。これまではできるだけ日本を深夜に出るフライトを取ったり工夫をしたものですが、最近は1日ちゃんと寝ればOKレベルでそんなに時差ボケで悩んだことも少なかったので、プランの示すままに夕方発夕方着の便を取ったはいいものの、そこから晩は眠れず早朝に目が覚め、夕方に猛烈に眠くなるの繰り返しが結局ほとんど旅行の最後まで続いてしまいました。その結果、20時スタートのオペラ座の怪人は途中から完全に不機嫌な睡眠モードに入ってしまい、アイスホッケーの試合は20分ごとの15分休憩が眠すぎて途中で退散でした。またそれに拍車をかけて、夕食を食べ損ねたまま寝落ちるような日々を繰り返してしまったのも反省です。朝食で贅沢して、10時に美術館がオープンし、見ていたらお昼を大きく回ってお腹を満たし、睡魔と闘いながら午後のアクティビティをこなすリズムはよくなかった。ただし結果的には、夕食分の食費が浮いたのは大きかった。 そんなコンディションだったこともあるにせよ、その手のアクティビティにいまいち乗り切れなかったのは、自分の趣める範囲の境界線を知ることにもなりました。どうやら、エキサイトするのがあまり得意でないようです。Exciting, amazing, fabulousな文化であふれているタイムズスクエア周辺はやっぱりどうにも落ち着かない。どちらかというと、やっぱり落ち着いて何かを愛でたい。
現地人になりきる 各地でテロ事件が起こったり、海外は心配とはよく言われるし、まったく不安がないわけではないですが、しかしながら日本が安全かといえばそうも思えず、ただ神様に守られるかどうかに尽きるのだと思うわけです。それでも不必要なリスクは低減させて然るべきで、まずはむやみに目立たないのが一番かと思います。 どこへ旅行しても日本人観光客がいて、日本語が聞こえてくるとなんだか萎えてしまうのは誇り高き旅行者を気取るプライドからか、それとも日本人観光客がどこか浮ついているように見えるからか。ニューヨークでは季節柄か巡った場所の趣味のせいか、日本人を見かけることはかなり少ないものでした。それでもリバティー島行きのフェリーのなかで何組か見かけた日本人は、目に不安があふれているか、あるいはあまりに軽い視線を投げかけているか、そのどちらかに見えました。そうやって蔑んでみて、この人たちとは一緒にされたくないと心のどこかで思ったりするのも間違いなく変なプライドのせいですが、そうやって逆のアイデンティティ意識を持とうとするのは性分のようです。どこかアトラクションをめぐることよりも、街を歩いてはその国訛りの英語にすぐに同化していったり、歩き方や表情をその土地の人のするように真似してみたり、そんな都市の愉しみがいつも僕の旅の中心にある気がします。
この国の文化 しかしながら、チップ文化と何を言ってるかわからない店員のジョーク、そして何度も聞かれる"How are you?"には最後までどうも馴染めませんでした。貨幣経済の中心地でありながらというか、だからこそなのか、心づけなんていう不確定要素を付随させるとは。そしてお金はより循環していく。決まりきった文句を言い続ける店員もいれば、だるそうに欠伸しながらもよく分からないジョークを言ってくるお姉さんもいる。美術館スタッフの人たちも、みんな壁によっかかって退屈そうにしているように見えながら、服のせいか体格のせいか十分に威圧感があるので、作品は十分に守られている。みんな美術館慣れしていることもあるだろうけれど。べつに接客文化の比較批判としたいわけではないものの、帰国後カレーが食べたくて吉野家に入ってぼんやりしようと思ったもののそんな間もなく商品を出してくる接客態度はつねに下から下から。あまりに定型化された日本の店員さんの態度は、冷静に見るともはやコントなんじゃないかというような気がしてきました。出国前に東京駅の定食屋でおじさんが店員に暴言を吐いて出禁になる瞬間を目撃してしまったことを思い出したけれど、心づけはある種の潤滑油になっているのかもしれない。
距離を隔て、なお思うところのもの 慣れ親しんだあれこれから離れ、話す言葉も売っているものも違うところで日々を過ごしているうちには、いろんなことを感じ、また考えます。そんなことを、忘れてしまわないようにメモ帖に書きつけたり、記念のお土産品を買ったり、写真を撮ったりします。そして、こんなことがあったんだよと、お土産話を蓄えこんでいきます。そんな経験のいちいちを、どうしたいだろう。たとえばこの置物を家のどこそこに飾ろうとか、だれかに頼まれたお土産をちゃんと買ってきたよと渡すときのことを想像したり、あるいは次の旅行はどこにしよう、誰と行きたいだろうと考えてみたり。インスタントにSNSへどんどん投稿してしまうこともできるし、実際今回はポケットwifiを持っていたので4sqへはリアルタイムで投稿していたけれど、遠く離れているからこそ、そんなときにこそ思うこと、想う人がいて、それが日常の中で大切なものだったたんだと気づかせてくれる。繋がらくなったときにこそ、帰ったらまず何をしよう、だれと会おう、と考える。大抵のやることなすことは、ごく個人的なことでさえ誰かへの意識が隠れている。完全な自己完結など本当はほとんどしていないはず。日常ではあまりに取るに足らないことだと思っていたそれらが揺らいだときに、すり寄りたい縁がだれしもきっとあって、そんな気付きを与えてくれることにこそ、遠く日常を離れてみる意味があるのではないか。そんなことを考えてみました。そんな隔たりそれ自体にいろんな思いを託してみたりとか、いろいろしてみたけれど、やっぱりどこか一抹の寂しさもなお残ることに気づき始めているところです。旅をするたび、ぼくはその残滓を確かめているような気がします。
各地を訪れては、なんだこんなんでいいのか、と日々の当たり前を崩していった結果、ひねくれを極め数々の妄言を吐いては失笑を買ってきました。よく言えば視野が広く、悪く言えば遠くを見すぎてピントが合いません。いいことなのかどうか、投資に見合うことなのかどうなのかはわかりません。けれど、許される限りはそんな生き方を続けていることでしょう。
米国北東部は大寒波で、少しタイミングがずれていたら帰ってこれないところでした。日本も寒波と騒いでいますが、ニューヨーク仕様でコートを卸したのでこの程度は大丈夫。無事に仕事復帰できそうでよかったです。
畑もイノシシにやられてませんでした。再び美しい日常の再開です。
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localventurelab · 8 years ago
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ローカルベンチャー最前線:ReBuilding Center JAPAN 東野唯史さん(前編)
毎週のように満杯になるゴミ袋。買っては捨て、また買うという大量生産&消費の生活に、私たちはいつから慣れてしまったのだろう。ゴミがほとんど出ない循環型の暮らしを営んでいたひと昔前、人々は布や竹といったサステナブルな素材に囲まれ、家屋も多くは木造だった。その当時の貴重な家やモノが今、日本から急速に姿を消そうとしている。
デザインの力でモノの命を永らえる
「お金があればモノが買える。壊れても、修理するより安く新しいモノが買えてしまう。そもそも長く使いたいモノを買わなくなってしまった。価値とコストのバランスが崩れているところに問題があると思います」 と語るのは、空間デザイナーでReBuilding Center JAPAN代表取締役の東野唯史(あずの・ただふみ)さん。
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日本がバブル全盛期に向かっていた1984年の生まれだが、戦前や高度経済成長期前の素朴な生活の手触りを知っている。デザインの仕事を通して、自分の祖父母より年長の古材や古道具と向き合ってきたからだ。
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▲昭和世代には懐かしい黒電話
日本は少子高齢化の超先進国。その影響で、全国で空き家が急増中だ。戦後の急ごしらえの家はもちろん、本来ならば何百年も持ちそうな木造の立派な家も、主(あるじ)を失えば急速に老朽化していく。そして、戦火を免れた貴重な木造住宅が、次々と取り壊されていく。
「もしこのまま50年も過ぎたら、もう古い木材は手に入らなくなる。それはすごくもったいないと思ったんです。文化として古材が循環する仕組みをつくっていきたい。起業の時は、その思いが第一にありました」
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▲壊される家々から救い出された木材たち。端材なら100円玉で気軽に買える
ヒトの一生の何倍もの時間をかけて育つ木材は、人工物の��うに量産できない。古民家の梁や柱には、もう今では絶対に手に入らないような材が使われていたりもする。それらが人知れず燃やされ、この世から消えてしまっているのだ。
思いを募らせた東野さんは2016年、妻の華南子(かなこ)さんや仲間と、古材を回収し活用する「ReBuilding Center JAPAN(リビルディングセンタージャパン、略して「リビセン」)を起業した。 
古民家の木材や使われなくなった家財道具を引き取り、それを整備し分類して、必要とする人に向けて販売する場を、新たに長野に創出したのだ。
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▲何人もの人に愛用されてきた味わい深い木製の家具。ゴミ処理場行きだったモノたちが、すんでのところで東野さんたちに救われ、リビセンで命を吹き返していく。
「デザインで世界を良くしなさい」という恩師の教えを大学卒業後もずっと大切にしていた東野さんだからこそ、スピードを増す時代の中で打ち捨てられていくモノの本質的な価値に気付けたのだろう。
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▲蔵からレスキューされた古い木棚の引き出し。裏側に筆書きで「御大典(ごたいてん)記念」とあるのは、90年以上前の昭和天皇即位のことだろうか。想像がふくらむ
本場ポートランドから「のれん分け」
東野さんの「ReBuilding Center JAPAN」は、米国オレゴン州のポートランドにある本家本元の「ReBuilding Center」から名前とロゴの使用許可を得てオープンした。
先進的なまちづくりで知られるポートランド。人口60万人程度の町に、古材や古道具が並ぶサルベージショップが5軒以上あり、壊れたら直して使う、古いモノも簡単には捨てない、そんな文化が根付いているという。
本家ReBuilding Centerと出会う5年前に、東野さんは人生の転機を迎えていた。
恩師の言葉通りデザインで世界に貢献するには、「もっと自分のスキルを高めないといけない。たくさん新しい情報を取り入れたい」と考え、3年勤めた展示会ブースデザインの会社を辞めて、一人、世界を巡る旅に出たのだ。
メディアで知った「Q Drum(キュードラム)」のデザインも、東野さんの背中を押した。ニューヨークの「Design for the Other 90%」展に出品されたという途上国向けのこの作品は、子どもが50Lもの水を何kmも転がして運べる画期的な形をしていた。
「あの発想は現地の問題を知らないとできない。デザイン力を付ける前に、そもそも問題に気付く力が大事なんだと感じました」。
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こうして初めて日本を出た東野さん。今度は、電気もないケニアの村で、「パソコンがないとCADもCGも操れず、何もプレゼンできない」と気付く。「特定の条件の下でしか稼げないデザイナーという職能は人間として弱い。そこからは抜けたい」と思ったそうだ。この世界一周は東野さんを大きく変えた。おまけに、旅行中に発信していたブログやTwitterをキッカケに一生もののパートナーとも出会った(妻・華南子さんについては後編で)。
そして2015年7月に友人を訪ねて行った地が、ポートランドだった。ReBuilding Centerにも立ち寄ったが、日本で似た活動を始めたいと思い立ったのは帰国後だ。メールで相談したら、とんとん拍子に同じ店名使用の許可が下り、特製ロゴまでもらえたのだった。
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▲古材でつくられたリビセンロゴ
何かに背中を押されるように
起業当時の苦労を聞かれて「ない」と断言できる人も珍しい。東野さんは、そんな稀有な起業家の一人だ。話を聞いていると、大変なことは当然あったが覚悟していたし「想定内だった」ということらしい。運が強かったことに加えて、心の準備が万全だったということだ。
確かに、東野さんは幸運に恵まれた。クラウドファンディングでは目標額を超える540万円が集まった。オープンの準備には大勢の「リビセンお助け隊」がボランティアとして駆け付けた。足りない資金も、周囲の人が近くの都市銀行支店長とつないでくれたおかげで、すぐに借りることができた。何より「神がかっている」と周囲からもうらやまれたのは、ラッキーな物件との出合いだ。
リビセンの建物は1000平米ある3階建てのビルで、上諏訪駅から徒歩10分の場所にある。最寄り駅からの道は、良い雰囲気の商店街だ(写真は開店前の朝に撮影)。
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「ここに来て友達になった同年代のかっちゃんに相談したら、3日後ぐらいに20年近く物置になっていた建築会社の本社ビルを紹介してくれました。この手の物件は通常、用途変更が難しくて時間も費用もかさむものですが、��こは完了検査済証も確認申請書もばっちりそろっていた。しかも、建築基準法が改訂された3年後の増築工事確認申請書があって、新耐震基準を満たしていることも証明できた。こんな物件、なかなかありません。もう、神様に『お前たちはここでやれ』と決められたような状況でした(笑)」
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▲エントランスにあるフロア案内も素敵
ビルのオーナーである建築会社社長はかっちゃんの知り合い。事業計画書を用意して会った30分後には、貸してもらえることが決まった。
東野さんが初めて諏訪にやってきたのは、「マスヤゲストハウス」のリノベーションを依頼された時。  キーパーソンである「かっちゃん(宮坂勝彦さん)」は、地元で「真澄(ますみ)」という日本酒をつくっている宮坂醸造の跡取り息子で、マスヤゲストハウスの仕事を通して親しくなった。
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▲東野さんたちがリノベーションした「マスヤゲストハウス」
東野さんが手掛ける空間デザインは、コミュニケーションなくしては成り立たない。地元の人を巻き込み、自身も巻き込まれ、次々と新しい展開を生み出す。諏訪に「とんとん拍子で」誕生したリビセンも、そんな産物の一つなのだ。
近隣から続々と集まる古材
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オープンしたリビセンは、古材回収にあたり、「解体業者には営業をかけない」と決めた。依頼を受けて自分たちで行って初めて分かる情報を大切にしているからだ。引き取り当日の写真と一緒にモノのストーリーを商品に添えることもある。
依頼主の多くは年配の家主。利用者からの口コミや、子ども世代からの紹介、出演したテレビ番組などで評判が広がり、開店して約1年になる現在、月10~15件のレスキュー(古材・古道具引き取り)があるという。
エリアは、高速道路を使わずに1時間以内に着く範囲に限定している。取り壊しでなく掃除に伴う不用品排出もあるとはいえ、その小さなエリアで、これだけの需要があることに驚く。しかも知らないうちに近所で解体が終わってしまっているケースも珍しくないという。
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利用者は買い取り(売却)かギフト(無償提供)を選べるが、最近は買い取りがほとんど。リビセンの古材の値付けは、木材の新旧には関係なく幅や厚みなどによって一定のルールに基づいて、スタッフが判断している。
平均的な買い取り価格は、軽トラ満タンの古材と古道具で約5000円。2トントラック満タンで2、3万円。1時間以内の作業であれば、壁や木材のはがしなどが発生しても解体料はもらわない。利用者からすれば、ゴミ処分なら1、2万円、解体業者に残置物の撤去を頼めば数十万円の出費になるのが通常なので、その差額は大きい。 
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それに、十分な売り場面積を持つリビセンは、トタンや木材のほか、工具や小道具類も引き取る。ベニヤとプラスチック以外は、壊れていなければ、だいたい断わらない。
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そうしてレスキューしたモノが並ぶリビセンの販売コーナーでは、多種多様な古材がより取り見取りだ。一般の材木屋だと樹種によって値段が変わるが、プロ向けの店ではないリビセンでは、針葉樹か広葉樹かの二分法である。木材の年代も関係ない。
「お客さんは木材の時代を見て価値があるから選ぶというよりは、あくまでも自分の好みで求める木を選ぶ」と東野さん。確かに年代や樹種による違いは、素人にはよく分からない。
逆に言えば、安価な材も高価な材も同じような値段で売られているから、分かる人には掘り出し物が見つかる可能性が高い。古材ならではの釿(ちょうな)仕上げの木材なども、区別せず並んでいる。 東野さんは「仕入れに来て、自分の店で売る人がいても構わない」とおおらかだ。
カフェは間口を広げるコンテンツ
ポートランドのリビセンと異なり、日本版リビセンにはカフェがある。これは東野さんの起業前からの戦略だった。
「日本とポートランドでは文化的背景が違います。古材を売るだけでは当然一般の人は来ない。ハードルを下げるためのコンテンツとして、僕らはカフェを選んだわけです」
東野さんは、起業の時点で事業の3本柱を次のように決めた。
● ビルダーズセンター:古材のレスキュー(買い取り)、販売、古材を使った家具製作 ● カルチャーセンター:カフェ運営、イベント企画、古材再利用文化を広める活動 ● デザインセンター:古材の可能性を広げる空間デザイン、家具デザイン
カフェは広報ツールの一つという位置付けだから、大きめの窓から、古材売り場が見渡せる配置になっている。
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▲カフェの椅子もリサイクル家具。座面の張替えは、移住者が始めた下諏訪の椅子張り店「Zatowa(ざとわ)」で。リビセンは古材の製材も家具の製造・修繕も、地元の職人に依頼。地域で仕事をシェアしている
支援を受けて好調な滑り出し
リビセン経営の3本柱のうち、カルチャーセンターとデザインセンターの収支計画は比較的簡単だった。カフェは何軒もつくって経営アドバイスまでしてきた経験があるし、デザインはもともと本業だったので、年間売り上げの予測が立つのだ。
問題は、ビルダーズセンターだった。古材の売れ方は全く読めな���。どれぐらいの量をレスキューできるかも分からない。手探りだった。最初の役員報酬を非常に低く設定するという力技の収支計画で、東野さんは起業した。
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結果、初年度の決算はどうだったのか。
「デザインとカルチャーの売り上げが同じぐらいで、ビルダーズがその倍ぐらいでした。初年度から黒字になったのは、クラウドファンディングのおかげですね。雑収入に540万円が乗りましたから。スタッフにボーナスも払えたし良かったです」
次年度からが勝負と言えそうだ。日本の消費者の意識が変わりつつあるのは、追い風だろう。
このところ「リフォーム」よりも間取りの変更など大幅な改修を含む「リノベーション」という言葉が、テレビ番組の影響もあってメジャー化した。
東野さんの分析では、東日本大震災も関係している。震災を機に、モノの価値観が崩れたと言う人が少なくない。また、若い世代の低所得も影響している。何でもお金を出せば買えるマーケットの「カネとモノの大循環」の輪に入れない人が増えてきているのだ。
大衆化したDIYは割高かつ、あか抜けない場合があるが、「本来的な意味でのDIYは安いしカッコイイ」と東野さん。低所得者層が増大しつつある今だからこそ、安く手に入り自分でつくれるオシャレなモノは重宝されるはずだ。
リビセン主催のワークショップでは、家庭でも再現できるよう、特殊な工具を使わずに、簡単にオシャレなモノをつくる方法を教える。参加者は、ほとんど工具を使ったことがない親子や夫婦。一緒に住む家のテーブル(3時間3万円で完成)をつくりにくるカップルもいる。
「楽しくたくましく生きていく」を掲げるリビセンは、ますます時代の傾向と合致していくだろう。東野さんは「手づくりだからダサくてもイイなんて、それは違う」と笑ってみせた。
関わる人みんなを幸せに
古材を使った店舗やゲストハウスのリノベーションを多数手掛けてきた東野さんに信念を尋ねると、��関わる人みんなを幸せに」という素敵な言葉が聞けた。もちろんその背景には、「それがいずれ、口コミで次の仕事につながる」という、したたかな見通しもある。
「僕の事業は、古材を活用する文化を醸成するのが目的です。と言ってもNPOではなく株式会社だから、スタッフの生活も守らなくてはいけない。施主や工務店にも気持ちよく(カフェやゲストハウスを)オープンしてもらいたい。そのバランス感覚が大事です」
例えば、施主に対しては、限られた予算で良いものをつくるために、時には自社の売り上げを犠牲にして、古材の自前調達や他社の汎用品を勧める。「買うより安いから創りませんか」と家具製作をレクチャーすることもある。その代わり、言うべきことは言う。
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▲リビセンのカフェカウンター
低予算で全ての要望に応えられない時には、できませんと断る。一番頑張らないといけない施主が怠けていて現場の空気が悪くなっていたら、「誰の店(空間)ですか」と怒る。必ず施主の事業計画と収支計画を見せてもらい、末永い成功を願って「めっちゃ突っ込む」。
「建築業界は稼ごうと思えば、すごく稼げてしまう業界」と語る東野さんは、とても正直者だと思う。古材使用を条件にしつつ、安く抑えられるポイントをクライアント目線で探る。
そして、「うちは基本的に、最終的なアウトプットと比較した場合のコストバランスは非常にいいと思う」と自負できる仕事を残している。 やはり東野さんにあるのは運だけではなかった。やるべきことをやっているのである。
【PROFILE】 東野唯史(あずの・ただふみ) 会社名:株式会社リビルディングセンタージャパン 所在地:長野県諏訪市小和田3-8 設立: 2016年 代表者:東野唯史 資本金:200万円 従業員数:5名(東野夫妻を含め7名) 事業内容:古材・古道具の買い取りと販売、家具製作、空間デザイン、カフェの運営
次回(後編)は、パートナーと働くということ、若いスタッフから成る「リビセン」の運営のこと、地域との関係などをご紹介します。
<取材:橋田知世  ライター:瀬戸内千代>
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kuroda-kanbee · 8 years ago
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数年分のコピペ001
1月 4, 2016
「独立は身を殺して仁をなした日本のおかげ」
 昭和30年、後のタイ王国の首相、ククリット・プラモード氏は
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが(筆者注・日本の敗戦のこと)、
生まれた子はすくすくと育っている。
今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
この重大な思想を示してくれたお母さんが、
一身を賭して重大決意をされた昭和16年12月8日(開戦の日)、
われわれはこの日を忘れてはならない」と述べている。
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1451795640/
【政治】「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した★2 c2ch.net (via worldwalker2)
(ladynuuから)
1月 4, 2016
部下に敬意を払わない上司は会社に大きな経済的損害を与えている。敬意を払うことが報酬の一部であるということはそれが不足しているぶんだけ給与を引き上げないと金銭的報酬は少なくてもより多くの敬意報酬を支払ってくれる競合他社のトータルの報酬額の方が大きく、人材を引き抜かれてしまうからだ。
Twitter / @fromdusktildawn (via raitu)
(mitaimonから)
1月 4, 2016
道徳を忘れた経済は犯罪だが、経済を忘れた道徳は寝言である。
二宮尊徳
道徳と経済 ≪ analog (via mcsgsym)
(ladynuuから)
1月 4, 2016
妥協して落しどころを探ると・・・骨抜き、玉虫色
強引に押し通すと・・・・・・・・独裁
部下に大きな権限を与えて任せると・・・丸投げ、無責任
官邸主導で進めると・・・・・・・・・・独裁
決断下すと・・・なぜ今なのか、慎重に議論すべき、他に大事なことがある
保留すると・・・また先送りか
支持率上がると・・・ポピュリズム、人気取り
支持率下がると・・・もっと国民の声に耳を傾けよ
靖国行くと・・・右派、軍歌の足音、いつか来た道
行かないと・・・公約破った
閣僚人事の予想があたると・・・新鮮味がない、地味
はずれると・・・・・・・・・・また小泉流サプライズの手法、実務派を使え
拉致問題取り組む前・・・北と仲良く、友好壊すな
取り組み後・・・・・・・なんでもっと早くやらなかったの、まだまだ足りない全員戻せ
北朝鮮に強い態度取ると・・・暴発するぞ
協調すると・・・・・・・・・弱腰
規制緩和すると・・・競争激しい、
しないと・・・・・・既得権益にメス入れろ
株価下がると・・・景気悪くなった、なんとかしろ
株価上がると・・・格差広がった、なんとかしろ
中韓と首脳会談が途絶えていると・・・・アジアから孤立している
中韓と首脳会談を行うと・・・・・・・・・・・・首相の点数稼ぎだ
語気を強めると・・・・感情的、逆ギレ
淡々と話すと・・・・・・歯切れが悪い
政治経済まとめ: 【コピペ】どうあがいてもマスコミのバッシングからは逃れることはできないことがよくわかるコピペ (via mcafee-x6)
2010-09-13 (via gkojax-text)
(元記事: 46187 (mitaimonから))
1月 4, 2016
何よりも不愉快なのは、一般の読者は「有害コミック」に影響を受けて悪いことをしでかすはずだとい��思い上がりです。「国民の判断力を信じられないのならば、あなたたち政治家が国民の投票で選ばれていることも疑うべきではないか」と言いたいです。
Twitter / 集英社インターナショナル (via yokumoku)
(lovecakeから)
1月 4, 2016
小津安二郎は、こう言った。 『どうでもいいことは、流行に従う。  大切なことは、道徳に従う。  そして、芸術に関しては、自分に従う。』
[mixi] さんSUKEさんのレビュー (via fialux, yohei917) (via ak47) (via dannnao) (via megane4141) (via o-x-y-s) (via the-whoooooooo) (via yuasa, yohei917-blog) (via chkk525)
1月 3, 2016
「ソシャゲのCMって意味不明なのばっかり。 あんなのでユーザ増えるのかよ?」みたいな発言をよく見かけますが、
来ます。 アホほど来ます。
デイリーの新規UUが3~4桁をいったりいたりしてる状態から、
いきなり5桁になるくらい来ます。
鯖だって落ちます。
Twitter / kajime_yaki (via rpm99)
(driftingheadから)
1月 3, 2016
「自分は役立っている」と実感するのに、相手から感謝されることや、ほめられることは不要である。貢献感は「自己満足」でいいのだ。(アドラー)
1月 3, 2016
昆虫は卵を沢山産むので、
ひとつの卵で成長するための卵黄の分配量
が少なくなってしまう。
そこで卵内の成長を最低限のとこで一旦止めて外部から栄養を取り込むようにする
これが幼虫である。
成長のための栄養を十分とると、
もう一度卵内の過程に戻る。
これが蛹である
【卵→幼虫→蛹→成虫】蛹(サナギ)って何なんだよ・・・一度全部ドロドロに解けるっておかしいだろ : 2のまとめR (via luna222)
(maumau-ruから)
1月 3, 2016
huckleberryfieldsforever:
s-sakihama:
今年もまたご一緒に九億四千万キロメートルの宇宙旅行をいたしましょう。 
これは地球が太陽の周りを一周する距離です。速度はマッハ93。安全です。 
他の乗客がごたごたを起こさないよう祈りましょう。
星新一
今年もまた、旅に出る
(sakanappiから)
1月 3, 2016
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
 日本人は目に見える一切の森羅万象の背後に、超自然の神霊を考えて、山川草木湖海風雷から井戸・かまどに至るまで、それらを司る神を想像した。
 日本人はこの国土をつくった神々の子孫で、この神々こそ我々の祖先である。
 この祖先である神々に奉仕し、この祖先を崇拝することが、我々の最高のつとめであると考えてきた。
 神道では他の宗教のように、地獄・極楽を説かない。
 日本人はその肉体が終えると同時に、超自然の力を得て、時間空間を超越した霊となって、子孫と国家を護るのである。
 この考えのない者は、日本人ではない。
「日本 解明への一試論 Japan An Attempt at Interpretation」より
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)=アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれる。1869年(明治2年)に渡米、新聞などで活動。1890年(明治23年)、松江に英語教師として赴任。その後、熊本、神戸、東京と移り住み、日本に帰化。多くの日本論も残した。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid783.html (via shinjihi)
(chiniuetakotetsuから)
1月 3, 2016
オットー・カロン=ドイツ人。ボン大学教授。
 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。
 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。
 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。
「天皇の真実」(河内正臣)より
 1950年(昭和25年)のカロンの言葉
※引用者注:昭和天皇の御巡幸は昭和21年から29年まで続き、沖縄をのぞく、全都道府県をまわられました。お立ち寄り箇所は1411カ所に及びました。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid783.html (via shinjihi)
(inquisitive-bookから)
1月 3, 2016
「俺は飯作って貰っても嫁さんに有難うなんて言わない」って豪語する上司に、社会勉強でOLしてる良い所のお嬢様が「ご両親にマナーを躾けて貰えなかったんですか?」って無邪気に返されて、亭主関白からただの育ちの悪い男に落とされたって話を友人から聞いて爆笑しております。
きゅーびさんはTwitterを使っています (via yasunao)
(tom-motomから)
1月 2, 2016
かつて初めて会社勤めした時、当時の上司から言われた言葉
「良い報告は忘れてもよい。悪い報告ほど早く簡潔にせよ。私は君から悪い報告を聞きたい。なぜなら、悪い報告をトラブルに発展させないのが私の仕事だからだ」
いい上司だった。
Twitter / shun1sta (via hutaba)
(tetsujin28mmから)
1月 1, 2016
何度も書いてることですが、現代文で点数を取るコツは「書いてないことまで読み取らないこと」です。これ出来てる人は「なんで出来ないの?」と不思議に思うようですが、出来ない人はとことん出来ません。ツイッターでよく突撃してくる方もこのパターン多いです。自分の頭の中の「文意」と戦ってる。
Twitter / tarareba722 (via rpm99)
(tknoriから)
1月 1, 2016
Favorite tweets: 『愚痴らない』『威張らない』『ご機嫌でいる』
この3つは『年上の人間の義務』だって事。
やっと気づきました。  山田玲司 (@yamadareiji) November 16, 2014
via http://ift.tt/1HeZaVR (via nsx)
(utakatawagotoから)
1月 1, 2016
そもそも、女から見ても女そのものが付き合いづらいものだ。筆者の生粋の文化系女子な知人がtwitterでつぶやいた、「めんどくさくない女に会ったことがない」という発言は、真理を突いた名言で忘れられない。男性から見て女の相手をするのがめんどくさいのは当然で、じつは、女同士も踏み込んではいけない領域をうかがうところから始まり、ざっくばらんに語るなんてまずはない。
第1回 〈女子〉と映画 | 青弓社 (via otsune)
(beta-opinionから)
1月 1, 2016
鼻腔のひだひだが充血して膨らんで気道を狭めるからですよ。膨らむ理由は炎症とか、鼻の骨のゆがみとかがあるからと思います。左右の目の瞳の下の頬骨のとがった辺り(「しょうきゅう」って言う所あたり。)を人差し指と親指で右側左側をはさむようにしてマッサージして見てください。頬骨が開く方向になると息が少しし易くなります。鼻が詰まっていると血行が悪くてその指で押している所はかなり痛いですが、痛くならないくらいまでマッサージします。程よく血行がもどったら鼻の通りはそれよりもよくなると思います。
鼻が詰まる理由について  Yahoo!知恵袋
本当だ!
(via kwwwsk)
(diving-penguinから)
1月 1, 2016
国内の業者なら、寸法の書かれていない本棚の設計図に、常識で考えられる範囲の寸法、例えば、文庫本が収まるサイズとかを当てはめて、それなりの寸法で板を切ってくれかもしれない。また、棚いっぱいに本を並べたときに壊れない程度の厚さの板をつかうかもしれない。海外の業者ならどうだろう?組み立てられる寸法かもしれないが、家で使うには大きすぎる本棚かもしれないし、本を横一列に並べたら棚が壊れるような厚さの板を使うかもしれない。え?そんなの考えて板を切るのが常識だって?品質意識がなってない?寸法を問い合わせてくるのが常識だぁ?あのな、常識なんてものが通用するのは日本国内だけなんだよ!
オフショア開発失敗の原因 - Sacrificed & Exploited (via jun26)
(kou-ryuから)
1月 1, 2016
「してあげたのに」は呪いの言葉です。 その後に続く言葉は「なのに、何もしてくれない」です。 「してあげたのに」を発した途端、全ての行為が取引に変わります。 愛情でしていた行為も、お返しを期待する取引行為に変わってしまうのです。 心で思っていても、声を出してはいけない言葉なのです。
Twitter / naname_ue_siko (via hutaba)
(rurinacciから)
1月 7, 2016
【可能性を変えて同意】
Could be:20%
ありえるね
Might be:40%
かもね
Should be:60%
そのはずだね
Would be:80%
だろうね
Must be:99%
間違いないね
Twitter / e_kazuma (via yellowblog)
(muuuuから)
12月 12, 2015
 Q. 地球上で最大の二酸化炭素の排出源は?
 A. 海。(2位落ち葉、3位動物・バクテリア)
 Q. 人類の排出する二酸化炭素は年6.5ギガトンです。海は何ギガトン?
 A. 10,000ギガトン(落ち葉1,000ギガトン、動物150ギガトン)
 Q. 温室効果ガスで大気中に最も多く存在するのは?
 A. 水蒸気。(約80%。ちなみにCO2は0.037%)
 Q. 温暖化の原因って二酸化炭素?
 A. マスコミや偉い人がみんなそう言ってます。間違いありません(笑)
ヒロイモノ中毒 温暖化の原因って? 
インタビュアーが「なぜ“焼夷弾”を落とすという選択をしたのか」とマクナマラに問う。
マクナマラはこう答える。(以下M)
M:「問題は焼夷弾ではない。」
M:「一晩で10万人の市民を殺戮していいかどうかだ」
M:「ルメイの答えは、イエスだ」
M:「彼は言うだろう。“君は10万人ではなくもっと少なければいいと言うのか? 日本上陸ともなれば何万もの米兵が死ぬかもしれん。それが賢い選択か?”と」
M:「だが、焦土にした上で、原爆まで落とす必要があるのか?」
M:「ルメイは、東京以外も焼夷弾で焼いた」
クリーブランドと同規模の横浜は58%が破壊された。
当時のN.Y.に匹敵していた東京は、51%が破壊。
富山は 99%が破壊された。
名古屋は 40%が破壊された。
大阪は 35.1%が破壊された。
西宮は 11.9%が破壊された。
下関は 37.6%が破壊された。
呉は 41.9%が破壊された。
神戸は 55.7%が破壊された。
大牟田は35.9%が破壊された。
和歌山は  50%が破壊された。
川崎は 35.2%が破壊された。
岡山  68.9%
八幡  21.2%
鹿児島 63.4%
尼崎  18.3%
佐世保 41.4%
門司  23.3%
都城  26.5%
延岡  25.2%
宮崎  26.1%
福岡  24.1%
高知  55.2%
佐賀  44.2%
今治  63.9%
松山  64.0%
大分  28.2%
平塚  48.4%
徳山  48.3%
四日市 33.6%
宇治山田41.3%
大垣  39.5%
岐阜  69.6%
福井  86.0%
徳島  85.2%
堺   48.2%
八王子 65.0%
熊本  31.2%
伊勢崎 56.7%
高松  67.5%
明石  50.2%
福山  80.9%
青森  30.0%
岡崎  32.2%
静岡  66.1%
姫路  49.4%
千葉  41.0%
一宮  56.3%
清水  42.1%
大村  33.1%
奈良  69.3%
津   69.3%
桑名  75%
豊橋  67.9%
沼津  42.3%
銚子  44.2%
甲府  78.6%
宇都宮 43.7%
水戸  68.9%
仙台  21.9%
鶴賀  65.1%
名古屋 64.9%
日立  72.0%
熊谷  55.1%
浜松  60.3%
前橋  64.2%が破壊された。
【動画】「如何に日本人虐殺の効率を上げるか?」~マクナマラ元米国防長官の告白 THE FOG OF WAR~:Birth of Blues
原爆以外にこれだけ大規模な空襲を米軍がしていたなんて、、、知らなかった。
(via miro-cherry)
そう知られていないんだ。
(via kay-ikegami)
これを広めることが大切
(via rupazo)
(toapapaから)
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1031yusuke · 7 years ago
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Beauty and golden glowing yellow ginkgo trees along the side of the road at 「Jingu Gaien Ginkgo Festival」 神宮外苑いちょう並木に行く予定ではなかったけど、予定は未定で予定通りにはならない感じでw そのお陰でイチョウの写真とか好きな写真撮れた気がする! ゆるく適当な感じで全力で楽しみながら付き合ってくれるので助かった! さんきゅー #xt3 #xf16mmf14wr #xgallery #fujifilm #fujifilm_xseries #tokyocameraclub #fujifilmglobal #fujifilmnorthamerica #myfujifilm #fujifilm_street #mastercraftsmanship #instagood #fujifilmnorthamerica #indies_gram #vsco #vscocam #vscogood #grsnaps #grsnaps04 #富士フイルム #xシリーズ #今日もx日和 #ラテ職人 #銀杏並木 #ginkgo #ginkgotrees #good_portraits_world #この日は日帰りで1都3県を巡る長い長い旅になるなんてこの時は誰も想像もしていない #普段オシャレとか無頓着だから写真撮るから出来るだけオシャレをしてって言ったら頑張ってくれた #この日はなかなかいい写真が撮れた (神宮外苑イチョウ並木) https://www.instagram.com/p/Bq2Ql_rBjUB/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1urxta51ackfg
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