#マゾヒズムの女性
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彼女はサディズムに苦しんでいるため、夫を殴る
#サディズム#マゾヒズム#サディスティックな男性#サディスティックな女性#マゾヒズムの男性#マゾヒズムの女性#支配的な女性#支配的な男性#神経質な女性#神経質な男性#弱い女性#弱い男性#ネガティブな夫#ネガティブな妻#口うるさい妻#フクロウの妻#無視する妻#冷たい夫#神経質な夫#失敗した結婚#成功した結婚#美しい妻#良い妻#尊敬できる夫#幸せな結婚#祝福された結婚#離婚#離婚の理由#夫婦間の愛#夫婦間の頑固さ
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170 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 07:20:53.66 ID:Ea1sA5Tg0.net 「子供を性的に消費したい」というロリコン的思想 「生意気な女に罵られたい」というマゾヒズム的思想 「そんな女を“こいつが生意気なんだから仕方ない”と正当化しながら懲罰したい」というサディズム的な思想 これら全て包括して4文字にまとめたのが「メスガキ」 これもうwikipediaやろ 10 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 03:42:26.66 ID:KsAnM9S90.net メスガキに対する造詣の深さがよく分かる文章や きっとごく一部のオタク界隈の住人なのだろう
【悲報】フェミ女さん、メスガキというワードにブチギレお気持ち表明wwwwww : もみあげチャ~シュ~
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西成彦 Nishi Masahiko 著作の一部を紹介

【1】西成彦 『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』 みすず書房 2018、第70回読売文学賞〈随筆・紀行賞〉受賞
「旧植民地・占領地のみならず、北海道・沖縄から、南北アメリカの移住地まで―― 〈日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きるなかから成立した文学〉…を、過去に封じこめることなく、今日的な問題としてあらためて引き受けること」

【2】西成彦 『ターミナルライフ――終末期の風景』、作品社 2011
「〈害虫〉として家族に疎んじられながら死に行くグレーゴル、 死刑囚として無為の時間のなかをまどろむムルソー、 生きた竹馬に乗りながら老人の生に思いを馳せるマルセル……。 20世紀文学の描く、老いと死を読み解く、文学エッセイ!」

【3】西成彦 『声の文学――出来事から人間の言葉へ』 新曜社 2021 「ヒミツはいつ、誰の前で言葉にされるのか? 水俣病、戦時性暴力、レイシズム、ジェノサイド――理不尽な暴力にさらされた非主流者/周縁的な存在たちひとりひとりからこぼれ出る抵抗の声は、いかにして社会へと開かれ、それを聴き取る者、それもまたひとりひとりであるわれわれを「社会的な力」へと変容させる「文学」たり得るのか。」

【4】西成彦 『多言語的なアメリカ――移動文学論3』 作品社 2024
「英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、パトワ、イディッシュ、パピアメント、日本語…… さまざまな言語が鳴り響く、新たなる「アメリカ大陸文学史」の試み。移動文学論の第三弾!」

【5】西成彦 『カフカ、なまもの』 松籟社 2024
「世界にはびこる、目を背けたくなる現実の数々をそれでも直視するために、カフカをどう読んでいくか。著者が折々に書きついできたカフカ論集成。」
そして――


『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち――声のざわめき』 西成彦、洛北出版、近刊(2024年9月末刊行)
* * *
著書(単著)として――
『マゾヒズムと警察』(筑摩書房、1988)
『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波書店、1993 /岩波同時代ライブラリー、1998 /熊日文学賞)
『イディッシュ 移動文学論 I』(作品社、1995)
『森のゲリラ 宮沢賢治』(岩波書店、1997 /平凡社ライブラリー、2004 /日本比較文学会賞)
『クレオール事始』(紀伊國屋書店、1999)
『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』(紀伊國屋書店、2004 /芸術選奨文部科学大臣新人賞)
『エクストラテリトリアル 移動文学論 II』(作品社、2008)
『世界文学のなかの『舞姫』』(みすず書房、2009)
『ターミナルライフ 終末期の風景』(作品社、2011)
『胸さわぎの鴎外』(人文書院、2013)
『バイリンガルな夢と憂鬱』(人文書院、2014)
『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』(みすず書房、2018 /読売文学賞)
『声の文学 出来事から人間の言葉へ』(新曜社、2021)
『死者は生者のなかに――ホロコーストの考古学』(みすず書房、2022)
『多言語的なアメリカ 移動文学論 III』(作品社、2024)
『カフカ、なまもの』(松籟社、2024)
ほか 訳書として――
ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(国書刊行会、2004)
コシンスキ『ペインティッド・バード』(松籟社、2011)
ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』(岩波文庫、2012)
シンガー『不浄の血』(共訳、河出書房新社、2013)
『世界イディッシュ短篇選』(編訳、岩波文庫、2018)
『ザッハー=マゾッホ集成Ⅰ』(共編訳、人文書院、2024)
ほか
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「虚無への供物」中井英夫 1122
第一章
12十字架と毬
さて、 紅司の変死があった風呂場の様子の続きからです。
そこに、新たな発見があります。 爺やの側に小さな紅いゴム毬(まり)が転がっていたのです。 亜利夫の記憶では、そんな物はありませんでした。
当然、そんなものがあったとも書かれていません。
しかも、亜利夫はそのゴム毬をしまい込みます。 あとで藤木田にも見せたがどこからそんなものがでてきたのかさっぱり見当がつかなったのです。
どう考えるべきでしょう。 さすがに、ゴム毬では凶器にはならないかもしれませんが、 機械的に密室にする道具の一つなのかもしれません。 まあ、いずれわかるでしょう。
ここまで聞いていた久生は、これは立派な殺人だといいます。 立派かどうかわかりませんが、 そうでないと話が進みませんね。
その後、九段から駆けつけた蒼司と八田皓吉。 それから嶺田医師がやってきて、 急に白けた平凡な病死に変わってしまったというのです。
・水道は先に留められていた。 ・蛍光燈の点滅はただ古くなっための偶然の事故だった ・急に不通となった電話もよくある電話用ローゼットの接触不良だった。 ・紅司の死は、嶺田医師の診断では心臓麻痺か何かだということだった。 ・死亡時刻は、正確なことはいえないが十時半ごろ。
ただ、嶺田博士の一番の不満は、なぜ医者でもある橙二郎が応急措置をとらなかったかという点です。 たしかに変ですね。
で、橙二郎の狼狽ぶりが常軌を逸しているのです。 ・皆に呼び立てられえるまで顔を見せない。 ・二階の部屋で福寿草を煎じていたとか。 ・肝心の紅司の死体には近づこうともしない。 ・産院へ電話をかけて緑司の安否を確かめるなど。
橙二郎が怪しいということを表しているみたいですが、 こういうのに限って犯人じゃないんですよね。 その裏でもかかれるのでしょうか?
嶺田医師は祖父の光太郎時代からの主治医で、すぐにすべてを察し、 今後のことを蒼司と二人だけ死体の傍らに残って相談を始めます。
その後、十二時を過ぎたころ、 皆は、紅司が横たえられている座敷に呼ばれます。 嶺田医師が、乱暴にまくりあげた腕には、おびただしい注射の針痕や小さな絆創膏がみえ、 精神状態が安定していなかったことが伝えられます。 しかも、薬の大量摂取で、心筋梗塞ぐらいは起こしかねない状態だっとも。 ところで、服用していた薬として「ジギタミン」や「アンナカ」が挙げられています。
アンナカは、眠気をとったり、頭痛をやわらげるお薬です。 ジギタミンは、強心薬として出てきました。これが、どういう効果があるのでしょうか? その当時は、頭痛薬として有効だったのでしょうか?
それよりも、 嶺田医師が心配していたのは、 紅司の背中のミミズ腫れ、鞭の痕のように見えるものでした。 二、三日経っているから、直接の死因には関係ないが、 小さい頃からのマゾヒズムの傾向が今も続いていたことを、 蒼司に確認して、その善後策を検討することになります。
まあ、世間体を考えると仕方ないのかもしれませんが、 やはり、 一般の家とは違うんですね。
そのことは、伏せるとしても、 嶺田医師は、殺人を疑っているみたいです。
蒼司が、紅司の性癖に気が付いていたし、 時々知らない人から電話がかかって出かけることもあったといいますね。 第三者がいることになりそうです。
蒼司は、 異様な雰囲気ではあったというけれど、まず心臓麻痺だと思いっていいといいますね。 状況から言ってもそうですもんね。
と、藤木田が引っ掻き回します。 こいう人だったと思いませんでした。
風呂場が密室状態で外傷も毒物の痕跡もない。 だから他殺ではないということだろう。 しかし、密室状態の風呂場に出入りする方法さえ見つけたら、 これは殺人事件となるのでは? なんか無茶苦茶な感じもしますがね
案の定、嶺田医師にたしなめられます。 そんなことよりも 嶺田医師は、紅司の背中の秘密のほうが気になっています。
で、 最後には蒼司が皆の考えをまとめた形で、 嶺田医師をさとして、警察を呼ばないことに決めてしまいます。
ここまで聞いていた久生は、 氷沼家の名誉を守るために“病死”ということにしたのかと一応納得したみたいですが、 鞭痕の秘密を表ざたにさせないために風呂場を利用するなんて、 そこに犯人がつけ込んだのだと感心しますね。
ところで、秘密を曝(あば)いてという表現がされてました。 本来、この曝という字の意味には、覆ったり隠したりせずに誰もが見られる状態にすることなどあり、 ルビは当て字ですね。
その当時は、そういう使い方もしていたのかもしれませんが、本来なら暴くっですね。
しかも、 久生は犯人が判ってる? と言いながら、持ったいぶって名前を言いません。 藤木田も犯人や密室のトリックまで判っているみたいです。
完全に読者は置いてけぼりですね。
と、話が変な方向に向かいます。 推理の腕比べ?
明日の夕方、 亜利夫、久生、藍ちゃん、それに藤木田も逢うみたいです。
逢うのは目白の“ロバータ”っていう喫茶店です。 実際にあったとしても、 現在は流石にないでしょう。
もし、 架空の店だとすると、 店名に意味があるのでしょうか?
さまか伏線でしょうか?
普通に考えれば、英語圏の女性名ですね。 ロバートの女性形に当たる。他言語(イタリア語など)では同じ綴りでロベルタと読まれる。
有名な歌手や映画もありますが考え過ぎでしょうね。
つづく。
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■導入
・首からフェザータッチ
・バックハグ
・脚を伸ばしてる方がリラックスできる
・切り替える
■キス
・手が重要(手に目線を落として手と肩、首、両頬、耳、腰、顎)
■胸
・二の腕から
・無闇に触らない。吸わない。大切に扱う。
■クリトリス
・粘膜である。裏筋がある。
・円を描くように
・力を入れない(硬くしない)
・ほんの少しだけ吸う
・皮をあげて、上半分を左右に
・相手がイキそうな時にスピードをあげない。
■膣(クンニ)
・座らせる、騎乗位は相手の顔が見えるため恥ずかしいがMなら。ただしリラックスはしていない。
・入口は舌で、小さい円
・外側は舌全体で
■膣(指)
・Gスポットは3-5cm
・指入れは15分以降
・中は指を曲げずに、「腕」を動かす
・圧をかけるだけ
・動かすにしても短い距離(小刻み)で、こする
・小陰唇を内側に閉じて舌で押し込む
・2本入れる場合は交互にタッピング説
■挿入
・7秒待つ。
・覆いかぶさる形は気持ち良いのはこちら側だけ。
・上向きに当たるように、こちらの上体を反らせる。
・バックの時は逆に、上から下。相手の上半身を落とす。
両手を引っ張ることは「身体の固定」によるマゾヒズムの充足。
・(首は鎖骨上の2点のみ)
・足を抱え込ませたら、下から上に、を意識。
・常に「少しずつ」を意識。
・松葉くずし→女性のみ側位→通常の側位。
・入口、中、奥の三段階がある=ゆっくり。
・一番奥から更に押し込むように圧をかける���
・騎乗位の時は太もも支えちょっと浮かせる or こちらの腰を少し浮かせる。
・シュートピストン(打ち抜く)ではなくスクラッチピストン(細かい動き)。
・顔を見る。女性���の「どこ見たらいいの」=別の事を考えてしまう、を満たす。
■声掛け
・相手が感じていることに対して、可愛いよ、キレイだよ。
・興奮してきた。
・気持ちよくなっていいよ。
■反応
ドーパミン←精神的充足、月経後排卵日前後に行うことで、反復性。
熱くなる。汗ばむ。呼吸。思わず身体が動くか。
腹筋の動きの有無。骨盤の動きで必要性を確認する。
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Steamセールオススメなやつ2023
2021年のやつ、気分に合わせて紹介します
血みどろ・退廃した世界に行きたい
Ultrakill(日本語未対応・対応予定不明) 血を燃料にして地獄で天使に反逆したりする物騒なロボのレトロ(?)FPS。「血が燃料(Blood is Fuel)」ってなんやねん、って思うけど近くで返り血浴びるとソフトダメージ分が回復する仕様。 単純にエイムが上手ければいいというわけでなく、色んなテクニックがあって個人のスキルによってプレイ感覚が変わるムーブメントシューター。クラシックFPSなQuakeと爽快なアクションはDMCとかに影響受けてるらしくなんか色々できる、巷ではBoomer Shooterって言われるのかもしれん、オモロイネーミングだなとおもう。 上手くなってく感覚がムチャクチャ気持ちがいいし、あ��返り血もっとくれ!と素直に思えるようになる。いいね! 各ステージに隠しステージ、またミッションがあり、全てをP(パーフェクト)ランク取ることで戦える隠しボスもいる。アホみたいに強い。100回以上死ぬ。 Wave制で延々と戦えるモードもあって、アプデ毎にスコアボードが更新されたりする。友達とスコアも競える、やったね。
SCORN 退廃した肉肉しく性的でグロテスクでおぞましいのに静謐で綺麗な世界を探索するパズルアクション?ゲーム。 ゲームプレイはほぼウォーキングシミュレーションでパズルも難しくて少し人を選ぶけれども、空っぽで虚しくて自分の肉体に支配される現実が気持ち悪くてでも綺麗で、血みどろになっても存在するマゾヒズム的な苦しさが気持ちいい!って感じがした。ともかく綺麗で気持ちが悪いので、そういうのが好きならオススメです。バレあり感想
Stray ねこちゃんになってカーペットやカーテンを傷だらけにできる ねこちゃん視点で暗い地下に住むキャラクターたちの生活、人間性を垣間みれる ねこちゃん視点でその苦しさ、危うさをかんじられる ねこちゃん視点で陽の光はあったかいんだなって��もえる
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何が起きているんだ
Inscryption 普通にすごく面白いカードゲームだと思う。バレあり感想 Inscryptionをやったら同作者の前作The Hexもオススメ
Immortality Her StoryのSam Barlowさんの最新作。 Marissa Marcelという行方しらずとなった女優について、一度も日の目を見なかった彼女が出演した映画3作、レイトナイトショーのインタビュー、舞台裏などの映像を順々に見ていってパズルピースをはめていき、何故映画は一度も放映されなかったのか、Marissaに何が起きたのか、彼女はどういう人物だったのか、というところを紐解いていく。 人が考える「美術」、「宗教」、「自己」にある地続きな永続性、というかそんなものある?みたいなところをぼんやり考えさせられる。Her Storyをやったことがある人ならどことなく入りやすいかもしれない。
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何も考えたくない
Tetris Effect Connected Tetrisでco-opができるし、Journey Modeというソロでテトリスし続けるモードで曲と演出に泣きそうになった。テトリスなのに…。 マルチの対戦・co-opも楽しいことはもちろんながら、各ステージの演出がともかくキレイで曲もよくソロで出来る色んなモードでぼんやり時々やってしまう。癒やし。
Cookie Clicker ゴールデンクッキーx777とx7Multiplyer重ねがけからの神殿のゴジラ使って農場を150個売ってx150%の効果、これでクッキーが808.5倍x30秒!
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ほっこりしたい
Coffee Talk ファンタジー設定なシアトルでコーヒー屋さんをやりながら色んなお客さんと出会うビジュアルノベル(?)。 それぞれの種族間にある文化や価値観の違いに苦しむカップル、通じ合え無い親子、「地球」で番を探す宇宙人、いろんな人たちと関わり合いながら自身の創作と向き合うライターなど、様々な悩みや人生を聞いて会話しながら、温かいコーヒー一杯だけ飲んでちょっと息をつく作品。Episode 2も1をやったらオススメ���
Unpacking 「引っ越しの後の荷ほどき」がゲーム、すごく地味に思えるテーマなのに環境から伝わってくる主人公の人柄とストーリーが温かい。 部屋をキレイにすると心がスッキリする気がするけど、そんな「禅」な気持ちを少し得られる。好きなものとか大事にしたいもので部屋をいっぱいにできて、それを一緒に大事にしてくれる人といれるのは素敵だよねと思う。
Citizen Sleeper(日本語未対応・対応予定不明) 衰退した資本主義コントロール下にある宇宙のコロニーで目を覚ます半分メカなSleeperという主人公の視点で描かれるSFヒューマンドラマ。 日毎にダイスがランダムで決まり、そのダイス結果を使ってミッションやクエストを進めていくTTRPG的なゲームプレイの中で、コロニー内で出会うキャラクターたちの生き様や思想を感じ触れていって、プレイヤーであるSleeperの行動を一つひとつ決定していてしっかり「生きていく」感じがとても良かった。 文体も非常に読みやすく、現実に存在する社会体制について風刺も感じるディストピアン的な面もありながら、そんな中で毎日を必死に生きようとする人たちの群像劇的な見せ方がすごく面白くて大事に思える作品。 テキストヘビーな作品ではあるので、日本語対応されることを切に願います。
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フロムゲーしたい
全部Sale中、しかも今回は前年のGOTYでDLCも予定されてるElden Ringまでお得なんて…すごい…… Dark Souls Dark Souls 2 Dark Souls 3 Sekiro Elden Ring
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セール関係ないけどTeam Fortress 2 (2007)っていうゲームはFree to PlayなのでSteamのアカウントがあれば誰でも出来ちゃうヒーローシューターらしい…
カオスなゲームにキャラクターと世界観がすごく魅力的ながらロアを描いた公式コミックの最終話が6年出てないなんてそんなことあるんでしょうか。
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2023年6月24日 アルミホイル、神さまは牢獄の中にいる
ネットカフェ、天井にはアルミホイルみたいな質感の何かで包まれた太いパイプが通っていて、すぐ近くに一本、人ひとりが入れそうなくらいに太いパイプがある。それら二本のパイプの後ろには細くて黒いコードが何十本も通っていて、それらが何を伝達していて、どこに繋がっているのかは分からない。もちろん、コードで伝えられているものは電気のはずで、でもその電気がどこからやってきてどこへ向かっているのかは分からない。
***
世界について知れば知るほどに世界に対して失望していくし、文学について知れば知るほどに文学に失望するし、物事はどれも知れば知るほどに何かが失われていく。そのとき失われているものといえばそれは幻想で、人は幻想によってのみ駆動されている。
とはいえ、「お前は世界について、文学について、何を知っているんだ」と問われたのなら、もちろん何も知らない。いや、ほんの少しだけ知っていて、それは1%にも満たないようなことだけど、ほんの少しだけ知ってしまうことでも失われていく。ほんとうは何も知りたくないし、知ることの何がいいのだろう、と問いかけてみる。分かったからといって何がよくなるわけでもない。知らないよりも知っている方がいい、というのは常識的だけど、そんなわけがなくて、私たちは何も知らない方がよいのに、知識という暴力性を求める。
だから、というわけではないけれど、全知全能の神になんてものになったら自分はきっと絶望して、発狂してしまう。だって、全知全能であるということは、何も知れないし何もできないということと完全に同じなのだから。
すべてを知っていてすべてのことができる、というのは、すべてが既知ですべてが完全に固定されている世界で生きるということで、そのときの絶望を考えるだけで身がすくんでしまう。そこでは何も新しいことは起きないし、すべてが可能であるということによって、すべてが不可能になる。不可能という空白地帯(外部)が存在することによって可能という領域が初めて現れるのだから、不可能の存在しない世界にはいかなる可能もなくて、のっぺりとした平らな世界だけが無限に続くことになる。
神さまは、そんな中でどうして絶望して発狂せずに絶えていられるのだろうけれど、むしろだからこそ、神さまは人間ではない存在でなけれならない。人間のような心や精神を持たない存在でなくてはいけない。
シオランは『生誕の厄災』の中で、「神こそはもっとも追いやられている存在であり、牢獄の中にいる」というようなことを書いていたはずだけど、どうしてもクレジットカードの分割払いの引き落としに耐えられないときに『生誕の厄災』を売ってしまったので、確認することができない。でも、そういう一文が確かにあったと思う。
そして、今はその意味が(自分なりにだけど)とてもよく分かる。全知全能である、ということはひとつの絶望であり、神は全知全能という逃れえない牢獄の中に閉じ込められている。
***
一昨日くらいにメンタルクリニックに行って、コンサータの処方のために、心電図検査と採血をした。あとは、流通管理システム患者登録の紙を渡された。採血のとき、思ったよりも時間が長いので、このまま看護師さんに殺されてしまうんじゃないかと思った。意識が少しふらふらした。近くにある別の診察室から、「私は錠剤をのみ込めないので、錠剤タイプの薬は絶対ムリです。それ以外にしてください」と語る患者の声が聞こえていた。支払いのとき、検査代も込みで6000円くらいしたし、それに加えて薬の値段も一か月分で2000円くらいはしたので、お金がないとメンタルクリニックには来れないな、と思った。生活がどん底で精神がどん底のときに、これだけのお金(テーマパークにだって行けてしまう)を払うのは簡単ではないはずだから。
久しぶりにアトモキセチンの80mgを飲んでいるけれど、対して効果は感じていなくて、それでいて口の中が常に乾くし、食欲がなくなっている。何かを食べるにしても、もやのかかったような食欲しかない。純粋な、食欲そのものは消滅して、ときおりぼんやりとした食欲が顔を覗くだけになる。元々の無気力さも相まって、決してお腹が減っていないわけではないけれど、食べることがあまりにも面倒くさくて、どうしようと思う。頭痛がないのは幸いだった。
自分はコンサータに対してある種の期待をしていて、それは何かしらの変化をもたらしてくれるかもしれない、という期待。思えば、幼少期の頃はそれと同じような期待を、お風呂場の中で、自分の思考をすべて読んでいる(かもしれない)曖昧な神さまに懸けていた。初めから神さまは大脳皮質の奥にしかいなかったのかな。
***
知る、ということに関連する話として、古今東西の文学を読み続け、それこそ文学賞の審査をするようになったような人たちは、文学に対して退屈しないのかな、と思うことがある。つまり、彼ら彼女らはもう文学というもののパターンを大方把握していて、だからこそ応募された作品を評価できる。それぞれのタイプの作品のパターンをすべて知っているから、「この作品はこのパターンに乗った上で、この辺りの展開や要素を変えているんだね」と判断できる。でも、全体像とすべてのパターンを把握してしまえたとき、自分はそこに幻想を持てるのだろうか。何かを期待して、何かを待ち望めるのかな。
もちろん、パターンを把握した上でも、常に差異はあるし、新しいパターンの出現だってありうる、のだけど、やっぱりその状態で楽しんで作品を読める自信がない。この意味で、これはさっきの神と全知全能の話と近づくところがある。人間は(幸運にも?)全知全能にはなれないとはいえ、物事を俯瞰して見られるようになってしまった時点で終わってしまう何かがある。メタとベタの切り替えのためのスイッチが壊れてしまったのなら、すべてはのっぺりとした平らな世界になってしまう。あるいは、前回か前々回の日記の内容とも繫げるのなら、それは離人症の問題とも隣接する。
この世界が原子配列のパターンにすぎなくても、それでも世界が無限に多様であるように、作品が要素の集合にすぎなくても、それでも作品は無限に多様でありうるのだけど、どこかで自分はそれを信じ切れていない。
***
二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を読み返していた。読み返すのは何度目かで、今回思ったのは、二階堂奥歯にはある種の絶対的な孤独(孤独、という言葉はたぶん正しくないのだけど)があって、しかし同時に、それは二階堂奥歯の周りに人がいないということではなく、むしろ彼女の周りには、それなりに彼女のことを思っているであろう人間がいる。でも、どうにもならないのだ。当たり前のこととして。
あとは、引用の多さ。その引用は根本的に「根拠を欠いた(=無根拠な)」世界にあって、それでも自分という存在を世界につなぎとめるための楔のようにも見える。
二階堂奥歯が引用しているものの中では、『聖マルガリタ・マリア自叙伝』を読みたくなる。「私は、苦しみなしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました」(『八本脚の蝶』からの孫引きでp262)。
奥歯はこの引用箇所こそが自分にとってのマゾヒズムだと記していて、このとき面白いのは、当然だけど聖マルガリタ・マリアが生まれたのは1647年であり、マゾッホが生まれた1836年よりも200年近く早い。だから当然「マゾヒズム」なんていう概念も存在しない時代のことで、しかしそこには間違いなく、ある種のマゾヒズムがある。
ただし、彼女たちは「性的興奮」を得ているわけではないだろうし、言葉遊びになってしまうけれど、それは「聖的」なものでしかありえない。でも、鞭で打たれる人間が快楽を感じたとして、それが「性的」なものであるか「聖的」なものであるかを区別することなんてできないわけで、社会の編成の問題になる。
あと、直感としては、絶対者(神)の失墜とサディズム/マゾヒズムの概念の誕生は関係していると思う(だってそれらは絶対者のパロディだから)けれど、そもそも、クラフト=エビング(1840-1902)がサドおよびマゾッホという二人の作家から「サディズム」と「マゾヒズム」という症候を分離した��景には精神医学の台頭もあるわけだから、そこでは複雑な線が絡み合っている。
***
恐山、Youtubeの番組で「アイドルに必要なことは?」と聞かれて、「短所を伸ばすこと」と答えていて、あまりにも的確だと思った。最も短い文字数で最も本質的なことを言っているし、正当な形で本質の槍が振るわれている。
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スマートフォンのGoogle choromeのタブの数がもう表示されないくらいに増えていて、おそらく1000個以上はある。そして、それは自分の脳も同じで、1000個くらいのタブがつねに開かれたままになっているから、物事を一つも進めることができない。本来の自分は常に過眠ぎみで、それは明かな実行機能の悪さとも関連している。
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メルヴィルの『バートルビー(Bartleby)』を読んだ。ウォール街の中心で、代書人として雇われたバートルビーは、真面目に仕事をこなす一方で、「そうしない方が好ましいのですが」(I would prefer not to)と言って機械的にすべての頼みを拒み続ける。思ったのは「I would prefer not to」の訳が訳者によってそれぞれ違うということで、杉浦銀策の訳だと「その気になれないのですが」だった。
この短編におけるバートルビーは解けない問いのような存在で、語り手は理由も語らず、不条理にすべてを拒むバートルビーを様々に理解しようとするものの、バートルビーはどのような理解もすり抜けていってしまう。
そういえば、『批評と臨床』でドゥルーズはバートルビーは〈意思がまったくなく、虚無を求める意志というよりも、意思の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」。彼らは、石と化し、意思を否定し、……〉と書いていた。バートルビーは意思がない人間なのではなくて、むしろ意思を否定する意思。
〈緊張症と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである〉(G・ドゥルーズ『批評と臨床』、p186)
***
これで最後。市川 沙央『ハンチバック』のラスト、身体障害者の女性が不幸な風俗嬢としての生を仮構して語ることと、不幸な風俗嬢が身体障害者の女性の生を仮構して語ることが、裏返しうる形で提示されることについて。村田紗耶香以外の選考委員は否定的だった記憶があるけれど、むしろあのラストは重要だったのではないかと思う(でも、どうして?)
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私のイクイク病関連のツイートまとめ②

https://twitter.com/syupii_3/status/1453115021957861378?s=21
「届かないものが好き」「絶対に手に入らないものに惹かれる」
これらはリスロマンティックというよりは感傷マゾヒズムかもしれない。
二次元に恋してる人や自分の理想の青春を送れなかった人はこれになってる可能性がある。
イクイク病を発症した人の話では片想いでなったみたいな話があった。
「感傷マゾヒズム」は防衛機制の同一視(同一化)に近い。
他者に自分を意識的に投影すること。
推しに自分を重ねるって感じ。
自分にできないことを代わりにその推しがやってくれるように期待したり、あるいは推しの成功を自分が成功しているように感じるといったところ。
叶わない恋も似てるかも。
回避性パーソナリティ障害と人間関係リセット症候群…調べていくと私に当てはまる似たようなワードが次々と出てくる。
支援員さんに指摘されたんだけどプラシーボ効果(偽薬効果)でだんだん私がハマっていってる。
要は思い込み。
誰でも当てはまる気がするのでこういうのは医師に診断してもらおう。
「イクイク病」で検索していると、面白おかしく取り上げられた質の悪い情報ばかり出てくる。
特にYouTubeにあがっている漫画の動画。
絵柄が古いし内容は鬱展開だし解決にならないから見る価値がない。
この話に限らずこの手の音声付き漫画の動画はたいていがクソ。
個人的に心配なのは性依存になってる方。
症状が症状なためポルノ依存症とセックス依存症になりやすい。
セックス依存症が厄介。
特に20代前半で巨乳の女性はマッチングしやすいから危ない。
色情症になってる可能性があるから精神科病院に診てもらったほうがいい。
ポルノ依存症も色情症もセックス依存症も誰もがなる可能性がある依存症だ。
快楽に溺れてしまうのは脳の都合上しょうがないんだよ。
もし、本当に辛かったら恥ずかしいだろうけど治療を受けてほしい。
今のままで幸せなら、どうか望まない妊娠だけには気をつけて。

https://twitter.com/syupii_3/status/1453268923835633669?s=21
アナニー(ドライオーガズム)してイクイク病になった男性の話を知った。
この話は昔どこかで見たことがある。
私はエナジーオーガズム。
10年ぐらい前に1回試したことがあるがその時はイケなかった。
今は脳感でイケた。
エナジーオーガズムは恋の呼吸だと悟った。
その男性は薬物中毒者みたいな脳内になっていたという。
要はキメセクしてる人みたいに脳がバグってるということ。
性欲が強すぎるどころか亢進状態だ。
そりゃハメ撮りやオフパコまでしちゃう人がいてもおかしくはない。
いわば快楽堕ち。
そのうちゴム無し生中出しとか抵抗なくやりそうで怖い。
ヤク中でキメセクした人の話によると、毛を撫でられただけで普段の何十倍も気持ちいいとのこと。
週刊ポストで昔読んだ。
イクイク病はまさにそんな感じ。
この男性は家族関係とか環境要因もありそうだけど。
SMプレイや催淫でそうなることはある。
私は脳イキが恐ろしくなってしまった。
エナジーオーガズムも同様にそういう症状が出ることはある。
私はこれを2日連続でやってしまった。
あの頃はあまりにも精神的に辛すぎてすがる思いで快楽に没頭してた。
エナジーオーガズム(体外式ポルチオ)は中イキを経験していることが条件だが処女なので未経験。
脳を恋してると錯覚させてやった。
オーガズムは挿入などの物理的な刺激ではなく脳が引き起こすものだということを学んだ。
女性は最低でも前戯に20分以上かけないとオーガズムを迎えられないという。
実際に試してみたら本当だった。
焦らしプレイが気持ち良すぎた。
エナジーオーガズムを習得したら賢者タイムが無くなった。
賢者タイムが無くなったら今度は連続イキが始まった。
これでイクイク病になって現在に至る。
最初の頃は頭が冴え渡りスタイルと肌質が良くなって良いことずくめだった。
後にエロ妄想が止まらなくなって集中したい時に集中できなくなったり、オーガズムが続きすぎて体がだるくなるようになった…
この症状のおそろしいところは、その気が無いのに「セックスしたい」と思ってしまうこと。
頭の中が性欲で支配されている感じ。
今は自制できているがマッチングアプリ(出会い系)やパパ活について調べ始めている。
カリギュラ効果が発動してる。
私はコミュ障のため他人と交流できないのが幸いだ。
ハプニングバーまで調べててヤバかった。
流石にそれは無理だった。
引きこもりだからその心配は無い…はず。
病院や支援機関なら電車に乗ってもどうにか行ける。
私は性的魅力が皆無なのでたぶん平気。
そもそもガチメンヘラだから相手にされない。
実はモテに容姿や年齢は関係ないのはナイショ。
最近は七菜乃さんに感化されてセルフヌードを撮った。
七菜乃さんになら撮られたいまである。
私の体はチクニーのしすぎで乳首が千切れてしまったのと手先の不器用さ故にムダ毛処理が半端で残念なことになっている。
ボディポジティブを体現しようとするも芸術に昇華できずエロになってしまった。
写真は鍵付きでとあるろだにうpった。
ここやタンブラーにアップしたら凍結されるからね。
頭使わないと。
肝心な部分はモザイクを入れてるがやはり人に見せられないレベルなのでヒミツに。
ここで得た気づきは私の体は私にしか需要が無いこと。
モザイクの入れ方次第で症例写真になることを発見した。
自分以外の生の女体をリアルで拝むことは無い。
私はナルシストになって自分の裸体を鏡に映しながらそれをオカズにしてオナったことがある。
我ながら変態だ。
いろいろこじらせて奇行に走ってしまった。
下ネタを連発しすぎて恥ずかしすぎる。
ド変態に振り切ろうとしたが振り切れなかった。
写真は放流したまま。
「芸術家なら認知的不協和を昇華させろ」といいたいところだがセンスも無いのでそれは叶わず。
せめて文章に起こしておこうと心に決めた次第。
ここまで誰も傷つけてないのが奇跡。
私の自虐でもし誰かが傷ついてたらごめんなさいね。
余談だがAV女優のアクメのほとんどは演技だ。
現場は想像以上に過酷。
マジイキしてるのは加藤鷹さんやしみけんさん辺りのセックスの上手い男優さん相手の時くらい。
本当にイッてたらマジで仕事にならない。
風俗嬢やパパ活女子も同じ。
職業病で不感症になりやすい。
逆にイッてる人はすごい。
マジイキ動画を見たため私はエナジーオーガズムと脳イキを成功させてしまった。
あれはマジですごかった。
女性がガチでイク時は「もうダメ」とか「頭おかしくなっちゃう〜!!」とか自然と口走るのね。
私も口走った。
頭が真っ白になって失神ですよ。
頭にビリビリと電流が走る。
まさに��小さな死」。
↑これはポルチオ(Pスポット)による中イキと脳イキがセットになってる感じ。
私は処女で経験してないからわからないけどおそらくポルチオのほう。
中イキと脳イキのWと思われる。
あまりに刺激が強すぎて不正出血してしまった…
ちなみにイクイク病は処女でもなる。
中には10代で発症する人も。
↑今思えばこれはサイバーセックスや催淫オナニーに近いかも。
「七つの習慣」によると、「人を愛すると本当に愛するようになるんですよ」(うろ覚え)というのがある。
恋してると思い込むことで本当に恋しちゃうやつ。
「ノーゲーム・ノーライフ」でステフが空(主人公)に惚れたのも催眠。
催淫が得意なエロ催眠術師によると、「催眠にかかる人は強く思い込むことでかかる。自分でかけちゃう。」(うろ覚え)とのこと。
私はイクイク病は恋の病だと考えていた。
自分で強く思い込むことによってイクイク病にかかる可能性があるかも。
脳を騙してオーガズムを引き起こせても不思議ではない。
↑脳を騙せるならプラシーボ効果も説明できる。
☆ここまでの私の仮説
・精神的不安で快楽に依存してる説
・脳のバグ説
・ドライオーガズムorエナジーオーガズムやりすぎ説
・恋の病説
・感傷マゾヒズム説
・セルフ催淫説
イクイク病ってアメリカに多いんですって。
英語の論文を読み下す必要が出てきたわね。
ていうか論文あるのか?
この前みたいに医師しか読めないやつは困る。
催淫だったら自己暗示で解けそう。
認知行動療法は効果があまりないというし…
やってみなくちゃわからない、わからないならやってみよう!
支援員さんに聞いてわかったことがある。
性欲は精神科の薬である程度は抑えられるんですって。
長期服用が危ないだけで短期間ならいいとのこと。
医師や薬剤師の指導に従っていれば大丈夫。
ネットの情報は質が悪いものが多いからあまり検索しすぎないほうがいい。
性欲が強すぎて大変だと思うけど、オナニーやセックスはなるべくしないほうがいいよ。
なぜなら、余計に症状が悪化するから。
すればするほど体がさらに強い快感を求めちゃう。
単純にやりすぎでクリトリスや子宮等を痛める恐れもある。
オナ禁とポルノ断食が必要。
セックス依存症の方はマッチングアプリは使わないほうがいい。
特に自己愛性の人に洗脳されたら厄介だ。
ポルノ依存症の方はネットを控えて運動や趣味に没頭しよう。
オナニーは1日でもするのは我慢。
1日1時間でもいい。
2週間くらい我慢したほうが気持ち良いよ♡
オナ禁とポルノ断食は離脱症状が辛いが2~3週間ほど我慢すれば体が慣れる。
セックス依存症と色情症は治療しよう。
性欲が強すぎるのは脳のせいだから気にしないで。
私もしばらくオナ禁とポルノ&ネット断食をする。
次の心療内科の定期通院で医師の指示を仰ぐぞ。
10/31
オナ禁は継続中。
ポルノ断ちは1日しかできなかった。
いや、1日だけでもできたから良しとしよう。
やっぱりエロの過剰摂取は良くないな。
見ないだけでもだいぶ症状が抑えられる。
エロ妄想は私の障害特性上、思考が多動なため抑えるのは困難。
とりあえずほどほどにできた。
ポルノに関してはとあるサイトを見た時がヤバかった。
この症状が出た原因の1つのあの方のnoteの記事とサイト。
痙攣が始まって体の力が抜けてオーガズムが止まらなかった。
この前みたいになったらヤバいので余計なことを考えて無理矢理止めた。
これってつまり…
認めたくないがそういうことか…
痙攣イキはマジヤッベーからYouTubeのWITHのラジオを聴いてそっちに意識を持ってった。
女性がイケなくなる原因の1つに余計なことを考えるというものがある。
不安やちょっとしたことが気になるとかそんな感じ。
私はアンチパターンとしてこれを実行した。
この話は某SMの女王様の話を参考にした。
困ったことに強いオーガズムを感じると不正出血することがけっこうある。
今週は2日ほど血の混じったおりものが出たし心配。
次に不正出血したらマジで産婦人科で子宮を見てもらおうと覚悟は決めてた。
大至急、子宮を診てもらおう。
…「しきゅう」だけに。
お医者様と医療プレイしに行くか!!
(2021/10/31時点)
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20210622
12:00起き。生活の破壊。辛ラーメン食べて洗濯物干しつつ3限。ごはん食べながら先週のオ……ロチャンネル観てたのだけど、なんかすごい興奮してしまった。マチズモが嫌いなのに、自分と関係のないところでマチズモが繰り広げられていると興奮するという最悪な癖がある。トイレから帰ってきて「なんの話してるの?」と聞けばいいのにあえて聞かずに話を続ける、その不安な状況をあえて無視する尊大さというか、ゲームなんだけど。私の男性に対する欲望みたいなのは、BLに向けられる性質のものとマゾヒズム的な性質の2パターンがあるのだけど(どっちも最悪)、空虚なマチズモみたいなものに対してはどちらの性質も含んでいる気がする。
自分の欲望が、多分に説明を必要とするものであることがわかってきた。たとえば「すき」という言葉ひとつとっても、その人と付き合いたいという意味じゃないのに対象が男性だとそう解釈されるのは嫌だ。「すき」に性的な意味合いがこもっていたとしても実際の行為(性行為でなくても)に結びつくわけでもない。こういうことをグダグダいうと、大抵の人がめんどくさいなと思うのはわかっている。昔「(私が好ましいと言っていた男性に)彼女がいて残念だったね」と言っていたギャルを思い出した。
🐹務員なろうかなあ。このまま就活続けてたら頭おかしくなりそう(もうなってる)。どうせインターンはどこも受からないだろうし、不安に押しつぶされるくらいなら🐹務員という安牌を持っていたほうがましかもしれない。
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私は私を守る。そのために言葉を残す。私が本当の意味で生きているとき、言葉は残る。この感情は言葉にしか昇華できないのだ。
複雑に張り巡らされた赤外線センサーを前に身動きがとれない身体はそれでも言葉を残せることに気づく。もはやそれしかできないことにも。
私は恐れている。たとえ今の感情を否定してでもこれから起こるであろうイベントに備えてできる限りの安全をとろうとするのだ。それが無意識の防衛機制というものだ。どうせいつか傷付くなら最初から何も感じない方がいい。
私は私の感情を信じきれていない。この感情を否定しようと働く意識はとても強力だ。過去のトラウマたちが総動員でおれを守ろうとしている。でもおれはこの乗り物を完全にコントロールできない。
架空の物語を空想する。ダメだ。そんな美しい出来事が現実なはずがない。そんなこと起こってはならないのだ。
ナルチシズムとペシミズム、マゾヒズムの共存。永遠に満たされることがないことへの恍惚。
感情は否定できない。それは常に内から起こるものだからだ。まただ。匿名性に隠れた欲望の対象が顔を持って現れたとき、おれは去勢される。
やはりそれについて考えないといけない。セックスにおける対象は代替可能であるはずなのに、なぜ彼女なのかということに。理由を見つけるという意味ではなく、なぜ彼女なのかということについて。
ちぐはぐな愛と性について。これまで一度たりとも一致したことはなかった。当たり前だ。そのどちらにも恵まれたことがないのに。
15歳のセックスはただのセックスだ。そこにそれ以上の何かなどなかった。ただ興味と好奇心があっただけだ。
24歳。会ったことはあるけど話したことのない人を1時間かけて送った。
共通の友達のこと、お互いのこと、好きな音楽のことを話し続けた。誰もいない高速は80km/hで走った。
着いた。何とも不思議な気持ちだった。「また何処かで。」なんて言った。「話してたらあっという間。送ってくれてありがとうございます。」なんて言われたが、「こちらこそ楽しかった。ありがとう。」なんて返していた。
遠ざかる彼女が大きく手をふっている姿がミラー越しに小さく見えた。おれも同じように手を振った。彼女にはおれが見えていただろうか。
そういえば、別れ際にハイタッチをしていた。
そこにある身体性の話を誰が思い出して語るだろうか。
やはりこうして思い出すのはパロールではなく、実際に動いている彼女なのだ。パロールで充満された車内を出た彼女のあの咄嗟のように思える身体性だ。なぜ、おれはシートベルトをしたままだったのか。
同時に運動としての言語についても考えなければならない。例えば、彼女の発声について。あるいは、言葉を探す”間”について。言語は言語だがその修辞についてだ。
それでもやはり触れる必要があった。こうして考えると必然ではあるが、彼女の差し出された手に少し驚いた。
そこに特別な意味はない。ただ身体が動いただけだ。だけどそれが全てだ。やはり、何故おれはシートベルトを外せなかったのか。
一つ加えて、愛と性と存在について。問題なのは肉体に閉じ込められた精神ではなく、過度にコントロールされた肉体なのだ。
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7月9日
昨日よりはましになったとはいえ今日も肌寒い一日だった。このまま永久に夏は来ないのじゃないか、そのまま地球は氷河期に入っていくのではないか、そんな下らない妄想をするのは久しくまともな太陽を拝謁していないせいか。とはいえ最近貰った季節外れの秋服を着る機会に恵まれてそれはそれで嬉しい。 それでは昨日の続きを書くとしよう。 マゾヒズムという概念には正統と異端があってマゾッホの系譜に連なる正統の方については昨日書いた。今日書くのは異端のマゾヒズムについてだが、異端のマゾヒズムというものは観念を脱ぎ捨てて裸になりたいという正統のマゾヒズムとはまるで正反対の、自分で持て余している裸を誰かの観念の衣装で包み込んで貰いたいという願望に基づいている。彼女は物腰柔らかいしかし威厳もある洗練された御主人様に首輪を付けて貰いたいのだ。 裸とは自然である。人間がその内側に持っている自然というものは感情、例えば、憎しみ、怒り、悲しみ、邪な欲望、だらしなさ、裏切り、つまりは不合理な暴力である。人間は暴力に不安を抱き、暴力に恐怖を抱く。なぜなら暴力というものが自分という一つの存在を破壊するに足る力を持っている、それを自覚するのが人間だからだ。この暴力は自分の外側にだけあるのではない。自分の内側にもある。それが裸である。 彼女はその自分の中の暴力に不安を抱く。彼女はその自分の中の暴力に抑圧され疲弊している。自分では制��出来ない自分の中の暴力、持て余した感情に振り回されている。胸が苦しい。この感情というものから自由になりたい。しかし彼女はその感情を抑え込み制御する衣装を持っていない。彼女には観念、理性がないのである。自分の中に観念、理性を育てていく術も知らない。そこで彼女は主人を探し求めるようになる。自分の中の暴力を征服し、制御し、管理してくれる精神を持った絶対君主を。こうして彼女は異端マゾヒストになっていく。 ここまで書くと明白だが、異端マゾヒズムのこの心理は大衆が権力者を或いは法を或いはキリスト教的な神を求める心理と同じで、異端マゾヒズムと私は銘打ったが人間の一般的な傾向としてはこちらのほうが正統的であろう。ただ余りにも一般的過ぎるが為に誰も皆自分がマゾヒストだとは気が付かないだけなのである。
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Bondage, Discipline, and Sadomasochism(束縛、懲罰、サディズムとマゾヒズム)」
性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか / オギ・オーガス,サイ・ガダム
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04/06/23
こんなにうまいとは知らなかった7UP
水曜10PMにモノポリーを始めれば誰ひとり破産せず安眠できる
3人以上で英語の会話で私が喋ると一瞬空気が止まる
さらざんまい観たい 欲望〜搾取!
自分の欲望でドライブするために身につけたい/身につけるべき芸がたくさんあるのに月30hも残業してしまうのは���忙しさに身を任すと欲望から目を逸らし続けることができるからだよ 昔誰かが愛されるためには努力が必要だと言った時そんなことあってたまるかよと思ったが、最近は愛されるためには努力が必要だと思っている 正確には、愛されるため/愛し続けるためには芸や技術や知識が要る 要るんだよ 人と過ごしていない時間をこれらへの投資に使いたいのにぼーっと悩んだりしちゃう 人生が虚無すぎて
悩まずやれば興味湧くものは一発で湧く やれば全てリアルに確かめられる
ceroの新譜四六時中聴いてる ceroは暗く悟ったままどこまでも格好良くていい 上手く言えないんだが明るさにも暗さにも全てに対等な目線を持っている感じがいい
女性性が本当にどっかへ行ってしまって、男女が対等でない場面がものすごく気に障るようになってしまった イギリスは紳士淑女の国なので尚更である 男と女というだけで男女としての一対になってしまう 生物学的に男が凸で女が凹というどうしようもない構造がまず最初に存在するため、女はいつも受け身であるし、女の中には受け身的本能が刷り込まれているのである(女が生物学構造的に受け身にならざるを得ないことから考察するマゾヒズム、みたいな本なかったっけ?) ちょっと何を言ってるか自分でもわからないんだけど、なんというか、男女関係、男女の関係を結んでいようが結んでいなかろうが男性と接する時に感じる、男女関係に無意識に根ざしている非対等さ(非対等って言葉合ってる?)が心底不快である 気にしすぎかいな?
夏は圧倒的に東京よりロンドンの方がいいかもしれない いやロンドンの圧勝 圧勝という言葉、あまり好きではない
憎しみは地中に埋まっているものだという話をコードーラジオで聴いてからかなりストンと来ている 思い出して憎しみを感じてもそれは私が前進できてなくて落ち込むことでも まだ憎しみが残っていることに悲しむことでもない 憎しみは埋まっているものだからただ掘り返してしまっただけだ
イギリスでもやりたいと思うことが変わらない 移住までする必要なかったかもしれないが 大きく環境を変えることで得られる素敵なものがあるのではないかという期待を手放せたことはよかった それと環境を変えて起こる変化というのは生き方や感じ方の鍋の底をゆっくり攪拌するようなものであるから 同じ目標を持つ人生でも移動していた方が面白いような気がする
タスクがマルチすぎる なんか表とか作って管理しないと毎回参照しに行くことに脳のCPUとメモリ使い果たしてて実際に何も進んでない
気分がいいとなんでも面白く感じちゃって困る 躁鬱の気があるので楽しい時は多分他人より楽しい気持ちでいっぱいになって���んだと思う 生粋のエンジニアなりたいわけじゃないのにゴリゴリ勉強してかっこいいエンジニアになりたいみたいな気持ちが抑えられなくなる そういうのを目に入るもの何に対しても感じてしまい、とっちらかったまま高揚が引いてすべて波に攫われる
クラフトビール天国へ行ったら赤青人形サッカー台(あれなんて呼ぶの?)があったので数ゲームやったらコツ掴んで フレンズのモニカシュートできるようになって最強だった
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今日はヘルムート・ニュートンの命日らしい。(Helmut Newton、1920年10月31日 - 2004年1月23日)
ドイツ出身の写真家。ドイツ語名は、ヘルムート・ノイシュテッター(Helmut Neustädter)。。。とある。
私も最も好きな写真家である。彼の明解な都会的感性を伴ったエロティシズムに一瞬で魅了された。ワイマール的な影響にも大いに惹かれる。技術的な構成と共にモダニズムである前衛的なイメージを表象したイヴァ(Yva)の影響はそのままヘルムートに引き継がれていた。
ヘルムートに敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
(以下、Wikipediaより抜粋)
経歴
ドイツ(ヴァイマル共和国)の首都ベルリン生まれ。父はユダヤ人の衣料工場主のMax Neustädter と母は同じくユダヤ系アメリカ人の Klara "Claire" Marquis 。ハインリヒ・フォン・トライチュケ・ギムナジウムとベルリンのアメリカンスクールで学び、青年時代から写真に興味を持ち イヴァとして知られていたドイツの写真家 (独: Else Ernestine Neulaender-Simon)のもとで働く。
1938年ユダヤ人迫害のためドイツを離れ、シンガポールで短期間ストレーツ・タイムズ社の写真家として働く。第二次世界大戦中の1940年から1945年まで、オーストラリア軍で軍務に就き、輸送隊に所属した。
1948年オーストラリアの女優ジューン・ブラウン(英: June Browne)と結婚。戦後、フリーのカメラマンになり、作品はPLAYBOY誌を始めとする雑誌に載るようになる。
1956年、イギリス版『ヴォーグ』誌と契約してロンドンに移る。
1961年にパリに住まいを移し、カメラマンとして広範囲な仕事を開始する。ニュートンは、『ヴォーグ』を始めとするフランスの雑誌に作品を載せる。ニュートンはサディズム、マゾヒズムとフェティシズムをともなったエロチックなスタイルを確立した。1970年心臓発作に襲われるが、精力的に仕事を広げていった。1980年代の「ビッグ・ヌード」"Big Nudes" シリーズは、彼のエロチックな都市のスタイルというテーマが頂点に達した作品とされる。
2003年10月、ニュートンは最愛の故郷であるベルリンのプロイセン文化財団に多くの写真コレクションを寄贈した。晩年は、モンテカルロとロサンジェルスで暮らすことが多かった。
2004年1月23日、ハリウッド、シャトー・マーモントで自動車事故のため死去。遺灰はベルリンに埋葬された。
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令和に語られる十二支物語――ぬら次郎『十二支とネズミとはぐれ猫』
年末の足音が近づいてきました。ということはアレがまた話題になるわけです。十二支のバトンタッチが来るのです!何でこんな話をしたかというと、今回取り上げる作品が十二支をモチーフにしているからです。
ぬら次郎 『十二支とネズミとはぐれ猫』

十二支とネズミとはぐれ猫(1) (星海社コミックス)
posted with AmaQuick at 2021.11.03
ぬら次郎(著) 講談社 (2021-10-08)
Amazon.co.jpで詳細を見る
今更な気がしますが十二支について。発生は古代中国で殷の時代にはもうあったようです。 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 の十二に動物をあてはめたものが日本では一般的なイメージになっています。鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鳥・犬・猪がこれに当たります。ただこの動物への対応はの日本独自のものでアジア各国では一部動物が違っていたりします。
会話のきっかけに年齢を聞いて「じゃあ〇〇年だ」みたいな会話はしたことがあるのではないでしょうか。また日常生活でも十二支由来の言葉があります。午前と午後の「午」これは十二支を時間に当てはめた際の11時から13時の間が「午年」に当てはまるからです。明治時代以前は時間を十二支に当てはめたのがその由来となっています。「甲子園」、「子午線」、「一の酉」などなど今でもぱっと思いつくだけでも十二支由来の言葉は使われています。
雑学はこれくらいで。この十二支が成立するお話は、いつ知ったかわからないが何となく知っているお話の一つだと思うのですがどうでしょう?ざっくり説明すると神様が元旦に先着順で十二支を決めると動物たちに告知をして、ネズミが勝ちに行くため猫に2日に予定変更になったと嘘をつき、当のネズミは徹夜で一番乗りを目指した牛の背に乗りゴール直前に飛び降りて一番乗りを果たしたというお話です。猫が十二支に入っていない事とネズミを追い回す逸話になっています。
今回取り上げる 「十二支とネズミとはぐれ猫」もこのお話をベースにしながらアレンジを加えて物語が展開されていきます。
作品の時間軸は十二支選定後の話になります。十二支に入れた動物たちは、十二支のみが住める家「福寿壮」に居を構えています。猫のクロは福寿荘に羨望を向けながら、入れなかった原因を作ったネズミのシロを追い回すのですが、早々に衝撃的事実が語られるのです。シロはクロの可愛さにベタ惚れだったのです。

いきなりの異種ラブ。シロがクロに嘘を伝えた理由も、クロには彼氏がいると勘違いをしての嫉妬心からでした。コメディタッチに描かれていますが、シロというネズミの業の深さが伝わってきます。ネズミが猫に恋をする。その描写にマゾヒズムすら感じさせる。新作の掴みとしてインパクト抜群です。シロとクロの歪な関係をどう料理していくのか期待させてくれます。
作品を読んでいて目を引くのはキャラクター造形です。デフォルメされていながら動物の特徴を捉えています。さらにこの作品はオールカラーです。モノクロ作品に比べて作品から得られる情報量が格段に違います。モノクロ作品では読者の想像力に頼った演出もダイレクトに描くことができるのです。

十二支である馬のあやめの蹄に施されたネイルに憧れるクロを描いています。華やかなピンクが映えます。またあやめのたてがみは虹色で白い馬体とのコントラストが見事です。

あやめとクロが駄菓子屋で遊ぶシーンでも、お菓子を食べた舌が染まった様子が一目瞭然。かつて同じような体験をした人には記憶が鮮明に蘇るのではないでしょうか? 当然カラー作品の恩恵はキャラクターだけでなく作品全体の演出も際立つものにしています。黒焦げになった建物や茜色に染まる夕暮れの時間などの演出は、色があることの強さを今更ながら感じさせてくれます。
ネズミ以外の十二支はリュウ、ウマ、ウシ、ウサギ、イヌ、イノシシ、トリ、ヒツジ、ヘビと登場していきます。それぞれ名前があり種族という大きなくくりではなく、「個」としてキャラクターが立っています。先に取り上げた馬のあやめはコミュニケーション能力が高い社交性のあるキャラクターといった具合です。シロとクロに十二支が絡んでエピソードが語られるのですが、その中でも業の深いキャラをメインにしたエピソードが印象深いです。
まず一人目はウサギ。「あやしが森」の奥に住み十二支以外の動物を襲い食らう化け物と呼ばれていました。肉食獣から獲物として狙われるウサギが逆に死を振りまく。まさにボーパルバニー。「あやしが森」に迷い込んだクロを食べようと「注文の多い料理店」のようにクロを食卓の上に誘っていきますが、当の獲物となったクロからは親近感を抱かれ化け物としてのウサギを肯定されるのです。その結果ウサギはクロを見逃します。クロの天然無垢なキャラクターにスポットを当てたエピソードですが、自分語りをするウサギが気になることを語っているのです。

ウサギは神様に頼んでいじめる側にしてもらった。ウサギがほかの動物を襲う行為、生きるためでなく自己の快楽のためにしている行為は神様公認なのです。ウサギの業の深さと共に神様と十二支との関係性にぼんやりと謎が浮かんできます。
もう一人はヒツジ。同じ十二支なのにシロは初対面なようです。さてこのヒツジはシロと似通ったところがあります。肉食獣萌えです。シロが猫型女子萌えに対してヒツジは狼型女子萌え。共に異種ラブという業の深さを見せ合い共感しあいます。ヒツジが語るオオカミ女子への想いはある種の趣味趣向を持つ人には刺さります。……異種ラブ、人外ラブは素晴らしいですよね。極めつけはヒツジが十二支に入る際に神様に願ったことが、想いを寄せる狼同様に肉球のある足にしてほしいということ。

しかし結果はかくのごとし。狼からは拒絶されるという悲恋となります。ヒツジの業の深い恋のエピソードは悲恋にもかかわらず、彼自身が諦観に達しているので強い印象を残します。
さらにこのヒツジのエピソードでは二つの謎が提示されます。一つはウサギのエピソードに続き神様と十二支の関係について。もう一つはシロとクロの関係にいて。

十二支のお話をベースにした嘘の日付を教えたためにクロから嫌われるという土台が崩れるのです。ヒツジの異種ラブエピソードにシロとクロのエピソードを重ねてくる構成のうまさが光ります。
十二支のお話はネズミとネコのエピソードが有名です。あとはネズミに一番乗りに要されたウシが印象に残るくらいでしょうか。残り十の動物たちは真っ白。ブルー・オーシャンが広がっているわけです。そこにぬら次郎さんオリジナルのキャラクター設定で色づけしてストーリーを作り上げています。シロとクロを軸として各十二支たちとのエピソードを語りながら、作品の根幹に関わる神様と十二支の関係の謎をちりばめている構成の妙技。読み応えがある作品です。
(量産型砂ネズミ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
画像出典 星海社「十二支とネズミとはぐれ猫」 1巻 P7,P35,P40,P64,P104,P105 掲載順
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2023年6月13日 村田沙耶香、概念からこぼれ落ち続ける生について
起立性低血圧が関係しているのか分からないけれど朝起きてから、日が沈んで18時頃になるまでの間、ずっとぼうっとしていて頭が回らず、気力も出ないので、実質的には一日が18時以降の時間しか存在していないような心地になる。どうしても、起きてから8時間くらいは経たないと本調子が出ない。
***
小説の話。村田紗耶香の「地球星人」を読み終わった。 村田紗耶香は以前から『コンビニ人間』『消滅世界』『しろいろの街の、その骨の体温の』など色々読んでいたのだけど、『地球星人』を読みながら、自分にとって村田紗耶香という作家は思っていたよりも重要かもしれない、と気が付く。
村田紗耶香には読んでいて波長が合うというか、自分の感性に直に刺さるような部分が確かにあって、それが何なのかを言語化するとすれば、人間を脱すること、脱-人間化へと向かっていくというその方向性だと思う。
たとえば、『コンビニ人間』において主人公はタイトル通りの「コンビニ人間」になるわけだけど、それは従来の人間でもなく、男でもなく、女でもなく、「コンビニ人間」という新たな種類の人間。そして、常識的に考えればそれは資本主義と消費社会によって生み出された哀れな存在にも見えるものの、村田紗耶香はむしろ「コンビニ人間」という新たな人間の誕生を徹底して肯定的に描いて祝福しているように見える、その両義性。
もう少し「コンビニ人間」について書くと、「コンビニ人間」は消費社会におけるコンビニというシステムに過剰に適応することによって逆に、社会を攪乱するような不条理な存在になっている点や、結婚という制度を読み替えてひそかにやり過ごしながら反抗するような態度に、ドゥルーズの言うマゾヒズム的な戦略を感じることがある。
「地球星人」には「メッセージを送る相手の絵文字や文体を真似する」というくだりがあるし、「コンビニ人間」でも「他の店員の言葉遣いを真似る」という場面があったと思うのだけど、そこにはASD(自閉症スペクトラム)的なコードへの適応の運動と、しかしそこから逸脱していくような側面があって、既存の法に対してうわべだけは忠実に従おうとしながらも攪乱していく動きが村田紗耶香らしさだと思う。あと、いまASDという単語を出したものの、だからと言ってこれが「ASDの主人公の物語です」と言い切ってしまうことにも抵抗があって、「コンビニ人間」は文字通り、「コンビニ人間」という新しい特異的な人間を描いた小説に他ならない。
「地球星人」においては、主人公は生殖および恋愛という規範を持った地球星人(人間を作る「工場」)に対して徹底的に抗い、そのような自分たち(夫や由宇を含めて)をポハピピンポボピア星人と称する。しかも、幼い頃の主人公は「変身」のためのステッキを持った魔法少女でもある。 そんな中で主人公は性行為も恋愛感情もない相手と合意の元で結婚をすることによって、家族や友人からの圧力をやりすごす。この、「性愛も恋愛感情もない、契約としての結婚や同棲」というのは『コンビニ人間』にもあったはずで、好きな関係性だと感じる。
あと、村田紗耶香を読んでいると、彼女がどこまで「本気」なのかな、ということも考える。 たとえば『消滅世界』で描かれる世界がディストピア的だと言われることはわりと多かった印象があるのだけど、主人公はその世界をむしろユートピアとして見ていたはずで、そのとき、村田紗耶香が「ディストピア小説」としてあれを書いているのか、もしくはもっと純粋に「ユートピア」として書いているのかというのはどちらとも取ることができる。 ああいう世界をディストピアとして風刺的に書く、というスタンスはありうるけど、村田紗耶香はそうではなくて、もっと透明な意識で書いているような気がする。肯定か否定かというより、ある前提において世界を考えた時にこうなる、というのをただただ純粋に書いていく。
***
文學界5月号の『ハンチバック』、読み終えているけれど、まだ消化しきれていないので、もう一度読めたら読みたい。 ***
今日、これから自分が書こうかな、と思う小説の候補ができた。 最近、自分は小説には向いていないのかもしれないと思うことも多いけれど、今はとにかく賞に出すことを目標として書こうとは思う。2024年3月31日締め切りの「文藝賞」が本命だけど、2023年10月15日締め切りの「群像新人文学賞」および2023年9月30日締め切りの「文學界新人賞」も可能性としてはある。
正直に言って、ここ最近は「小説」として書くべきことがあるのか分からなかった。小説として書くということは、単なるエッセイでも論説文でも日記でも表現できないものを書くということで、それは虚構の世界という枠を用意することによって可能になる何か。
内容としては以前から「書いてもいいかな」とぼんやり考えていたことだけど、今日になって、それを他ならない「小説」として書かないといけないことに気が付いた、天啓のように。自分の中には何もないと思っていても、必ず何かはあって、でもそれは「社会的に書いてはいけないこと」であるがために抑圧されていたり、単純に、「こんなことを書いても文学にはならない」と思ってしまうようなことが多いけれど、文学は「社会的に書いてはいけない」ような間違ったことをこそ書かなければならないし、「こんなことを書いても文学にはならない」ようなものも、その切り出し方によって文学になりうる。
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文学の特異性、その価値みたいについて、ある種のラベリングという観点から考える。たとえば、現代において問題になる(なりうる)ようなラベリングはいくらでも挙げることができる。「女性」「男性」「同性愛者」「障害者」「黒人」「弱者男性」「トランスジェンダー」「鬱病」「発達障害」「ロリコン(ペドフィリア)」「無性愛者」「レズビアン」「ゲイ」「ASP」「マゾヒスト」「サディスト」「犯罪者」「処女」「売春婦(娼婦)」「夫」「妻」「子ども」「フリーター」「反出生主義者」「アダルトチルドレン」「吃音者」「精神病者」……(etc)
でもここで、こうしてラベリングされた概念というのは概念でしかなくて、抽象された、単なる一般的な、そして空虚な概念にすぎない。「女性」と言われるときそれは一般的な「女性」を示してしまうわけだけど、言うまでもなく、実際にはこの世界に数限りない無数の女性が存在していて無限に差異のある、そして深さをもった固有の、特異的な生がある。逆に、特異的な生しか存在しない。
「精神病者」でも「犯罪者」でもでも何でもよいのだけど、そこには本来特異的な、生きられる生としての内面性、ひとつの世界、深さのようなもの(そのように行動すること必然性、内的な世界の法則のような)があって、しかし概念は外的な、一般的な形でしかそれを語ることができない。あるカテゴリーに属する人間の生きられた生そのもののようなものを捨象することでしか、それについて語ることができない(Twitterを上記のようなラベリングについて議論が行われている風景を見ていると、どうしてもそのことを考えてしまうし、不毛な気持ちになる)。
そのとき、文学というのはそのような人々の生きられる生そのものを内側から、その複雑性をできる限り捨象することなく、ひとつの世界として提示する方法であり(人生を追体験する)、それは単なる外的な語り(哲学にせよエッセイにせよ)では不可能なことだと思う。
私たちが普段使う言葉、概念、ラベリングは決して現実を正確に写しとることなんてできなくて、常にそのラベリング(およびそれによってイメージされるもの)からこぼれ落ち続ける側面がある。あるいは、そのラベリングから超え出る側面。 平均的な「人間」が存在しない(統計学的に平均を取ることはできるだろうけれど、すべての人間はその統計学的な平均から必ず逸脱する)ように、ラベリングされた者はそのすべてが必ず、そのラベリングから逸脱する。
書きながら考えているのでまとまりがないかもしれないけど、結���のところ、哲学にせよ心理学にせよ社会学にせよ、この現実そのものの、人間の生そのものの複雑さを捉えることが決してできなくて、(もちろん文学にだってそれはできないのだけど)、生そのものの複雑さ、生の特異性に最も近い位置にあるのが文学だと思っている、信じている(たとえば映画だってこの意味での「文学」でありうるものの、それを語るのが「言葉」である、という点には重要な何かがあると思う)。 ***
ドゥルーズの『批評と臨床』(Gilles DELEUZE "CRITIQUE ET CLINIQUE")を読んでいる。出版されたのは1993年なのでほんとうにかなり晩年だけれど、実際のところ、いつくらいに書かれた文章なのだろう(論集としては、未発表のものと再録のものの両方がある)。 第1章「文学と生」の17ページまでを読んでいて気になった��所は二か所あって、一つ目は「非差異化のゾーン」という言葉遣い、そして二つ目は[健康」という言葉の特殊な使われ方について。 〈生成変化とは、ある形態(同一化、模倣、ミメーシス)に到達することではない。そうではなく、それは、人がもはや一人の女、一匹の動物、あるいは一つの分子とみずからを区別し得なくなるような近接のゾーン、識別不能性あるいは非差異化のゾーンを見出すことなのだ〉(p13)
ドゥルーズが言うには、まず書くことは生成変化であり、そして生成変化は、「非差異化」のゾーンを見出すことでもある。ドゥルーズといえば「差異」の哲学だけど、生成変化はむしろ「非差異化」のゾーンにあって、そこでは特異性と非差異化が並立しているはずだけど、それはどういう状態なのだろう。
二つ目は、ドゥルーズが「健康」という言葉に込めている特殊な意味について。
〈文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない(ここには先の運動競技におけるのと同じ両義性があるだろう)。そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである〉(p17)
作家が享受している「小さな健康」と「太った支配的健康」というのは対比されていて、一般的には前者(小さな健康)とはむしろ病の状態であり、後者(太った支配的健康)は、一般的に「健康」であるとされているもの。
もっと言えば、「小さな健康」を享受するのはマイナー文学のことで、問題なのは「病」として見なされうるようなマイナー文学がどのような意味で「健康」であるのかということ。 「エクリチュールに仮託された生 : ドゥルーズ『批評と臨床』における方法と動因」 「芸術における真理とは何か : ドゥルーズの fêlure とハイデガーの Riß」
「健康としての狂気とは何か : ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
*** 「世界仰天ニュース」で富士銀行行員顧客殺人事件が特集されていた。何となく、他人事に思えないように感じる。ブラックコーヒーを流し込む。朝ご飯をろくに食べずにストラテラを飲むと気持ち悪い。夢の中で人を殺して、そのあとじわじわと警察に追い詰められていくときのあの緊張感。
最近、小説を読んでいて面白くないときに、自分の頭の中で神経伝達物質(セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン……)がうまく分泌されていないから面白くないのか、それともその小説自体が根本的に面白くないのかの区別がつかなくなってきている。 ***
今日聴いた音楽。空廻「黒眼青影」、未来電波基地「立体駐車場」、TOOBOE「錠剤」、ビリー・アイリッシュ「all the good girls go to the hell」、ザ・スミス「Bigmouth Strikes Again」、ハチ「パンダヒーロー」
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