#何せスムーズ肝心
Explore tagged Tumblr posts
Text







健太郎居候本年秋ハーフセンチュリー迎えます。50歳らしさを誇示し、以前よりグッと落ち着き出れば越智志帆の様な普通の人物並みレベルに寄り添えると考えられます。ただし長野県諏訪市の山岡家駐車場で車両傷付けられてたんでは自慢にならず、傷付けられなく済ませるスペースを真剣に選んで停めりゃよかったのと、反則金払える額1銭すら無い覚悟して運転せねばならない涙ぐましさ掴み取らせていただきます。
山口五和氏だって結婚しておりますから、健太郎居候30年程更に独身貴族では日々の進歩見られなくなる為、より深く反省せねばなりません。自衛隊不合格/人工大理石会社製品受注者減少による人員削減受けられ退職/自動車部品倉庫北関東へ倉庫移転し住み込み不可退職/出荷先若菜店舗閉鎖相次ぐ人員削減退職/期間満了/業務縮小/ゴムホース部品量産減少による人員削減退職経てましたから、結婚無理とはいえ未熟児に等しく改心出来なくてはヤバいとなるばかりです。齋藤飛鳥現在運転免許証金色ですが、健太郎居候独自のおっちょこちょいを余儀なくされている為、冷静になって結婚にとりかかるのも重要です。安西進から退避/清水昌和神奈川県海老名市に移住/遠藤匡剛埼玉県さいたま市西区に移住/遠藤孝治東京都府中市に移住/武Z秀一埼玉県飯能市高麗近郊で単独事故死となり、健太郎居候スッキリしたと感じバンザイしました。今後ジョーク無くふざけてや居られない為、以前よりパワーアップ出来なくては先重いやられる理解を深めて生きて征かねば結婚難しい傾向になり、そして既婚の葉月美優見習って行動取れば幸いです。
2025/01/01
#アカウント凍結恐ろしい#ルール守る#何せスムーズ肝心#無事故・無違反#エンジョイ剥奪#竹内結子#美少女仮面ポワトリン#配偶者櫻井翔#恋人#甘ったれてゃ居られない#齋藤飛鳥#遠藤さん#高梨さん#鬼武正子先生#2025年度#50歳となる#後無ければ先も無い#増岡寿和#増岡健#三葉愛可#齋藤友宏#菰田洋平#田村幸二#中島里恵#田村綾子#三倉未来#内田莉紗#美山加恋#まともに駐停車#ニート3年以上人生破滅型
0 notes
Quote
あくまでも京都駅を起点で考えた場合。大阪発の場合だと、東方向は+30分、西方向は-30分で考えればいいかな。知らんけど。 ■高松片道4時間。自分的には香川県は青春18きっぷを買ったときに必ず行く場所。瀬戸大橋を超えるときのテンションの高さと、やたらとガタンガタンいう音が旅情を誘う。高松駅前の時点で、うどん屋が多くあるなら、うどんだけ食いたいなら、そこだけで満足できる。時間かあるなら栗林公園まで行ったり、瓦町の方まで行ってもいい。瓦町FLAGの変わり方を年々眺める楽しみもある。ちなみにうどんだけ食いたいなら、坂出で降りても良いかも。 ■琴平片道4時間半。坂出での接続があまり良くないので、高松に行くより時間は掛かる。こんぴらさんこと金刀比羅宮の観光が主になる。ここも香川なのでうどん屋も多い。なお、こんぴらさんは奥社まで行く根性はなかったので、御本宮までしか行ったことがない。 ■尾道片道4時間半。さすがにしまなみ海道に行く時間はないので、尾道での観光がメインになる。行きか帰りかのどちらかはロープウェイを使わずに歩き回ってみるのも一興。尾道ラーメンも食おう。 ■鳥取片道5時間。山陰線経由は接続が悪いので、智頭急行経由が基本になる。18きっぷシーズンは智頭急行のフリーパスが発売されてるので、往復で使えればかなり得。一応、行きは山陰線、帰りは智頭急行というルートの大回りならダイヤ上は割と可能。鳥取と言えばやっぱり砂丘か。駅からはそこそこ離れてるので、バスの時刻表を要確認。砂の博物館もセットで行こう。あと、生きたイカをその場で刺身にしてくれる店が好き。 ■城崎温泉片道4時間。時間があるなら、少し西にある餘部で降りて鉄橋を見て行ってもいいかも。外湯巡りのフリーパスがあるので、できれば替えの下着を何枚か持っていて、色んな温泉に入るのも楽しい。今の時期だと、すぐに汗をかくから、温泉に入る度に下着は変えた方がいいと思うぞ。ちなみに山陰線オンリーで行くのと、京都線~神戸線~播但線経由は、距離が1.5倍くらい違うのに時間は10分くらいしか変わらないから、気まぐれで使い分けるのもあり。 ■下呂温泉片道4~5時間(時間帯によってかなり変わる)上の城崎温泉と行き帰りの時間は似たような感じ。こっちは温泉には行った後、辺りをブラブラする感じになるか。とりあえず鰻を食う。 ■名古屋片道2時間半。京都から意外と近い。時間帯によっては米原での乗換だけで行けるし、18きっぷ初心者にはおすすめ。一応都会なので、目的なくうろついても充分楽しめる。東海道本線で日帰りで行けるところまで行こうと思うと、静岡辺りが限界か。乗り換えで降りたことはあっても、観光で行ったことはないけど。 ■松本片道6時間始発、終電で行けば4時間くらい滞在できる。松本城に行ったり、街中をぶらつくくらいは全然大丈夫。まあ、一泊して下の安曇野とセットで旅行し��方が良いと思うけどな。 ■穂高片道7時間水の綺麗さで有名な安曇野の中心駅。大丈夫、始発と終電で行けば、2時間半滞在できるから、大王わさび農園くらいなら充分行ける。わさびを買おう。わさび定食を食おう。ちなみにVAIOの本社も安曇野にあるので、せっかくだから見物に行っても良いかも。 ■敦賀片道2時間。新快速の最果て地点で、乗り換えなしで行ける。もうすぐ新幹線ができるから、駅前がスゲー綺麗になってる。敦賀と言えば原発だけど、美浜原発PRセンターに行くには時間が掛かるし、何よりバスの本数も少ない……。やっぱり日本海さかな街で海鮮を食うのと、氣比神宮に行くか。 ■西舞鶴、東舞鶴片道2時間~4時間スムーズに行ければ2時間くらいなんだけど、舞鶴線はとにかく本数が少ないから、計画を立てていかないと最悪4時間以上も掛かることになる。西舞鶴で降りて、とれとれ市場に行って海鮮を食って、東舞鶴で観光する感じか。なお、東舞鶴にある赤レンガパークと引き揚げ記念館では、戦争に対する空気が違いすぎて笑う。 ■福井片道3時間。福井と言えば恐竜。ただし、恐竜博物館は勝山市にあるから福井駅から私鉄とバスを乗り継いで一時間以上掛かる。東尋坊は、恐竜博物館と真逆の位置だから、日帰りで両方を回るのは無理だな。だから恐竜博物館のコースと、東尋坊→芦原温泉のコースのどちらを選択する感じ。福井駅の駅そばは結構好き。 ■九頭竜湖片道4時間半。福井にある盲腸線の九頭竜線の終点。名前はカッコいいが、何もない。駅前にファミマと道の駅はあるが……。そしてこんな駅名だけど、肝心の九頭竜湖は結構遠い。九頭竜線は途中の越前大野で降りた方が楽しめそう。 ■金沢片道4時間半。観光地が固まってるので、兼六園・金沢城公園→ひがし茶屋街→近江市場のコースは日帰りでも余裕で回れる。なんなら全部駅から歩いて回れる。ただし、今年は暑いからずっと外にいるのは勘弁したい。とりあえず着いたらチャンピオンカレーでも食って、海鮮は帰りにするか。帰路は福井で40分くらい接続待ちがあるから、8番ラーメンでも食おう。 ■紀伊半島大回り京都→大阪→和歌山→紀伊田辺→新宮→多気→亀山→柘植→草津→京都 で一周合計15時間43分。紀伊田辺で1時間半接続待ちがあるから、お昼はそこで。乗り換えアプリで見ると多気で1時間の接続待ちがあるけど、到着後に少し待てば名古屋行きの快速みえが来るから、それで津まで行って、そこで晩御飯を食べた方がいい。紀伊半島の南の方になると、海岸線スレスレを走ってるから、ようこんなとこに線路が引いてあるなと思う。なお、白浜の日帰りはどう考えても無理だから、パンダが見たいなら泊まるか特急にしとけ。 ■高山本線大回り京都→敦賀→金沢→富山→猪谷→美濃太田→岐阜→米原→京都 で一周合計13時間57分。金沢から富山は三セクを通るから1290円払う必要があるのをお忘れなく。18切符の特例は高岡から富山までだから、金沢からだと適用されないぞ。全体的に余裕がない乗り換えなので、1時間ほど早く出発すれば、富山で1時間の乗り換え待ちが発生するから、そこでお昼を食べよう。寿司が旨いぞ。高山本線は猪谷で一度乗り換えがあるだけで、美濃太田まで乗りっぱなしが続くし車内は空いてるから、弁当を買って車内で食うのもいいかも。鱒寿司を食おうや。
京都発 青春18きっぷの日帰り旅行
14 notes
·
View notes
Text
2023年お気に入り映像作品5選(MAD編)
例年ブログで紹介している「お気に入り映像作品5選」から派生して、去年からMAD編として音MADをメインとした紹介も始めています。自分が普段見るのはカオス渦巻くニコニコの有象無象が多いため、そっちも紹介しないと嘘だろうということで始めた企画。2回目も厳選された5作品を紹介します。
過去の紹介作品は以下の通りです。
【2022年お気に入り映像作品5選(MAD編)】
①語彙
もはや人力で歌うのが当然とでも言わんばかりに歌いだす3バカの調律も見事ですが、替え歌や(だいたい)アイマス素材を駆使して一曲を構成する技術力と根性には感服します。これだけの大量の素材を使用しておきながら、使用MVは恋のみというこだわりも凄まじい。魅力の多い本作のなかでも歌詞の語彙力のなさを徹底的に貫き、その力強さでキャラクター愛をド直球で伝えてくる手法に思わず感動すら覚えます。見終わった後の満足感と爽やかな気分にしてくれる、短編映画を観たかのような大団円を感じさせてくれる傑作です。
②深セン東
シンプルなタイトルとサムネイル。この控えめな外見からは想像もつかないシックで鋭く、そして前衛的な本作は、その展開と演出に初見では開いた口がふさがらないほどに驚かされました。とても一朝一夕には作れなさそうな作風にプロではないかと思ってしまうほどです。駅という人々が交差する場所を、タエ・ヨコ・オクの視覚に訴える手法で表現した構成には美しさすら感じます。現実の風景から気づかないうちに異次元の世界に迷い込んでしまったかのような不安感を与えつつ、堅固で重厚な音作りによる安心感を同時に味わえてトリップしてしまいそうな、一言では魅力を言い表せない作品です。
③与謝ロック
レターパックで現金送れは全て詐欺です、でおなじみ与謝野晶子の音MAD。局所的なブームとは言え積極的に便乗してクオリティの高い映像を制作し続ける人たちには頭が上がりません。とにかくネット中からかき集めたであろう素材を巧みに使い、本人の肉声すら使って一曲仕上げるその胆力が素晴らしい一作。映像も徹底的にふざけており、やるんだったらこれくらいやんないとなぁ!という心意気を感じます。最近は本人のデータを使用してAIが好き勝手喋らせることが問題にもなりましたが、音MADの人力を見ているとAIはまだまだ遠いところにいるなぁとなんだかホッとします。
④狂風オールバック [ヤンデレCD]
ヤンデレCD!?生きてたのか!?
味のある手書きと隠せない狂暴性。愛というには重すぎる情報量。どこから説明していいか手の付け所に困る名作です。狂気を狂気で重ねる展開の中にもユーモアとネタが仕込まれており、何度も見てしまいます。また部分的に使われる狂気的トランジション(?)も画期的で、おどろおどろしくもスムーズに次画面へ展開する非常にユニークなトランジションを生み出していて、作者のヤンデレCDに対する熱い情熱が伝わってきます。肝心のお兄ちゃん自身は割と楽しそうに生きてるのが作風のバランスをとっていて最高です。
⑤【音MDM天】今日もふたりは
この曲にしてこの動画あり。そう言っても過言ではないほどにマッチした雰囲気に思わず息をのみます。静止画が中心の作品は、映像を作る人にとっては非常に難しい題材ではありますが、さすがの技術力で難なくこなされています。2Dの動画と思いや奥行きを感じさせる3Dへのスムーズな移行や、それをさりげなく表現する小物の使い方など細部にもとてもこだわった作りが伺えます。ラストシーン(3:26~)の高速で画面を切り替えつつ、動きが少な��部分に視線を誘導する表現は上記の「深セン東」でも使用されていましたが、地道な作業が必要ですが迫力のある演出が可能になり、アクセントとしてラストに使ったことでこの動画の印象が強烈に残ります。そういった構成自体も上手な作品であり、参考にすべき部分が見れば見るほど増える傑作です。
この他にも選外としましたがおススメとして
BATTLE X PRESS
厚岸イ
ハトが強すぎる強風オールバック
三冠王 村上 1点
にじかはやばいクレーマーではありませんが、大谷翔平さんとみんなで可愛くてごめんをちくちく歌いたいです
どれも最高に面白いです。やっぱりMAD最高ですね。今年も最高の動画が見つかることが楽しみです。
5 notes
·
View notes
Text
BTS Sugaのワールドツアーは究極のポップス転覆 / The Atlantic 翻訳
アメリカでグループ初となるソロコンサートを開催、アーティストとしての個性を強烈に宣言した。
Story by Lenika Cruz
フォグマシーンの柔らかな吐息に包まれたステージから、フードを被った4人の人物が舞い降りてきたかのようだった。その肩には、黒をまとった体が乗っている。雨と稲妻が背後のスクリーンに真っ白に映し出される。ようやく、その男が地面に横たえられた。その後には、まるで死からの復活を思わせるような光景が待っていた。スポットライトが彼を見つけ、歓声が上がり、ついに彼は動き出した。そして、マイクを口に当てた。
このロックスター、ラザロの正体はミン・ユンギ。グラミー賞にもノミネートされ、チャートを席巻している韓国のグループ、BTSのラッパー兼ソングライターのSugaとして広く知られている。しかし、その夜ニューヨーク州ロングアイランドにあるUBSアリーナのステージには、彼のバンドメンバーは誰もいなかった。なぜなら、この日は彼のソロワールドツアーの初日だったからだ。昨年の夏以降、メンバーは各々の兵役義務遂行に向け、個人活動に集中してきた。BTSで初めてソロツアーを行うSugaはグループ作品よりも暗く、生々しく、パーソナルな音楽制作のために2016年につけた名前、Agust Dとしても公演を行っていた。先月、Agust Dの3部作の完結編となる強烈なスタジオアルバム『D-Day』をリリースした。このアルバムで社会批判やトラウマの黙想、名声、精神疾患、孤独、そして許しについて語っている。
同じくD-Dayと題されたSugaの現在進行中のツアーは、彼の作品を初めて本格的にショーケースするものだ。完売したアメリカでのツアーは、まるで10年以上の歳月を経て作り上げた芸術的個性の宣言のようだった。コンサートはフロントマンのエネルギーと作家主義的な華麗さで爆発していた。しかし、彼の最も際立った功績はポップミュージックが持つ共感を生み出す潜在的な力を受け入れながらも、その非人間的な作用に立ち向かっていることだ。
水曜日の夜、カリフォルニア州オークランドで幕を閉じた全米ツアーの全11公演は雷雨の中、道路に横たわるSugaの姿で終わるショートフィルムからスタートした。これはBTSとしてデビューするまでの練習生時代、生活費を賄うためにソウルで配達のアルバイトをしていた時に、車にはねられたことにちなんでいる。この事故で肩に傷を負った彼はBTSが世界的な名声を得た後も、この怪我に悩まされ続けた。この映像の後に命を落としたかのような実物のSugaがステージに担ぎ込まれる展開は、スムーズでありながらも衝撃的であり、何日も会場の外で待ち続けるファンを持つポップスターの人間的な脆さを再認識させるものであった。
初日のUBSアリーナ、そしてアメリカ最終日のオークランド・アリーナで私が観たSugaの公演は、ポップ・コンサートの常識を覆すものだった。ある面では子供の頃に日本の作曲家である坂本龍一の曲をサンプリングして自分のビートを作っていた技術に長けたラッパーによるダイナミックなヒップホップショーだった。Sugaは『Haegeum』でこの夜の空気を作った。タイトルは韓国の弦楽器と解禁を意味する。「溢れ返る情報は想像の自由を禁ずると同時に思想の統一を求める」「資本の奴隷 カネの奴隷 憎悪と偏見 嫌悪の奴隷 / YouTubeの奴隷 Flexの奴隷」とSugaは韓国語でラップする。Haegeumの耳に残るストリングスと、心地よく荒れたベースが空気を振動させた。この曲はすべて韓国語で書かれたものだが、観客は歌詞を大声で彼に歌い返した。反骨精神に満ちた『Daechwita』、初期のファンに人気の『Agust D』、『Give It to Me』と激しいラップ曲で序盤を駆け抜ける彼は催眠状態にあるかのようだった。
観客がまだ落ち着かないうちに、Sugaはアコースティックギターを取り出した。ギターにはBTSの他の6人のメンバーからのメッセージや絵が描かれていた。パンデミック期間中にギターを習得した彼のアンプラグド・バージョンの『Seesaw』は、振り付けやバックダンサー、凝ったセットを伴う過去のパフォーマンスとは一線を画すものであった。序盤の盛り上がる曲で見せた力みのない威勢が、静かなシンガーソングライターモードのSugaへと移り変わっていった。その後、アップライトピアノの前に座り、2020年のBTSの楽曲『Life Goes On』の自作バージョンを披露した。特に感極まる瞬間は、歌手のWoosungと亡き坂本龍一が参加した楽曲『Snooze』のソロパフォーマンスだった。2022年後半にSugaと坂本が唯一対面した時の映像が、前もって大型スクリーンに流れた。グランドピアノで曲を演奏する年上のミュージシャンと喜びを抑えようとする若者。Snoozeは、坂本にとって最後のコラボレーション作品のひとつになった。坂本を敬愛し、苦闘する若きアーティストを慰めるためにこの曲を書いたSugaにとって曲中の坂本の存在は、とりわけ心に響くものだろう。
BTSの活動で、できなかった試みをD-Dayで再三にわたり実践するSugaの姿は、実にスリリングだった。 そう、彼は依然として熟練したエンターテイナーなのだ。何万人もの観客の心をつかむ術を熟知している。BTSのコンサート中盤の爽快なラップメドレーで見せるとおり、息をつく様子もなくラップをしながらステージを飛び回れる人なのだ。そして、ロサンゼルスの2公演ではアメリカ人歌手、MAXとHalseyをゲストに迎え、それぞれのコラボレーションを披露した。その一方で、彼の破壊的な選択も際立った。コンサートに散りばめられたショートフィルムは、デヴィッド・リンチの夢の論理とグラインドハウス映画の粗い質感を思わせる。ポップアイドルのSuga、影のAgust D、そして人間ミン・ユンギという3つのアイデンティティーのストーリーが描かれている。このコンサートにおける究極の芸術的意図は、それぞれの自己を観客に明瞭に示すと同時に、それらがすべて共存していなければならないのだと認識させることにあるようだ。BTSのソロ曲である『Interlude: Shadow』やBTSの他のラッパーたちとの曲のヴァースを披露する姿を見て、彼は自分の過去を否定しているのではなく、むしろ誇りに思っているのだと確信した。なにしろ、その過去が彼を韓国の青瓦台、アメリカのホワイトハウス、国連総会、そしてグラミー賞の舞台にまで導いたのだから。
もうひとつの魅力的な演出があった。公演全体を通じて、舞台の一部がチェーンで天井に引き上げられ、Sugaのパフォーマンスできるスペースが次第に狭くなり、より慎重に舞台を進行させる必要があったのだ。 アンコール前の最後の曲『Amygdala』では、寂しげな四角い床に立っていた。周囲には炎が燃え上がり、まるで恐ろしい牢獄のようだった。アルバム D-Dayの核となる、このエモ・ラップトラックには、Agust Dのオルター・エゴの起源が記されている。交通事故、母親の心臓手術、父親の肝臓がん宣告など、彼の人生を決定づけたトラウマに言及し、それらがいかに彼を形成したかを語っている。曲の最後のフレーズで、力尽きたように地面に倒れ込むとフードをかぶった人物たちが戻ってきて彼を運び去った。ただし、今回は全身真っ白な服を着ていた。まるで浄化されたかのようだった。彼のカタルシスが完了したのだ。
アンコールの頃には舞台装置がすべて取り払われ、下に隠れていた機材が露わになった。 消火器、電気コード、発火装置など��散乱していた。Sugaはもう観客の頭上に立つことなく、地面の高さからファンの目の前で最後の数曲をパフォーマンスした。時にはファンの携帯電話を手に取り、自身の姿を撮影してみせた。最後の瞬間は、ほろ苦かった。ほとんどの観客は、6月下旬にあるソウル公演でツアーが終了した後、Sugaが少なくとも18ヶ月間の兵役に就くことを知っていたからだ。その現実がコンサートを一時的な別れのように感じさせた。ファンが持つライトスティックの輝きが、まるでひとつの波のようにアリーナ全体を駆け巡った。 時折、野生的なエネルギーに駆られた観客が吠え始めるとSugaは驚いたり笑ったりしていた。オークランドでは観客に向かって、BTSの他のメンバーと一緒に戻ってくること伝え、ファンにもう少しだけ待って欲しいと頼んだ。
ツアー初日の夜、もうひとつのサプライズが待っていた。私は最後の曲は感傷的なものなのか、軽快なものかだと思っていた。 ところが、Sugaは不気味なビデオカメラの輪の中に入っていき、その真ん中に立った。つぶやきはじめたのは『The Last』のヴァースだった。第一作目のミックステープに収録されているこの曲は、彼の最高傑作であり、私が最も好きな曲のひとつだ。そして、このところ私が聴くのに苦労している曲でもある。The LastでSugaは、強迫性障害、鬱、社交不安について語っている。低く控えめな表現から徐々に切迫していき、最後には叫び声と泣き声の間のような声へと変化していた。数年前、この曲を初めて聴いたとき、私は自分自身の絶え間ないパニック障害による発作と息苦しい死への渇望を思い出した。この曲は私の心に刺さり、歓迎すべき欠片になったのだ。
ここ数年、Sugaは成長、自己愛、不安や苦しみを肯定することをテーマにした音楽を多く作ってきた。 コンサートの序盤、彼は英語で「あまり怒りを抱えずにパフォーマンスしたい」と語り『SDL』、『People』、『People Pt.2』といった曲に焦点を当てた。これらの曲は人生の試練を前にして冷静に考え、許し、謙虚でいられる人物像を描いている。ひどい苦しみから解放され、自分なりの癒しを見つけられたときの安堵感を私もよく知っている。だから、The Lastの出だしの歌詞(「有名なアイドルラッパーその後ろに、弱い俺が立ってる 少し危険だ」)を聴いたとき、私は凍りついた。彼は一体何をしているのだろうか。 監視システムのように並んだカメラ、その映像が映る彼の頭上のスクリーン。彼が見せる苦しみを貪るように映し出す。つまり私もまた、彼の苦しみを貪っているのだ。
しかし、すぐに理解できた。23歳のときと同じように息もつかせぬ情熱でラップしているが、単なる激高ではなく時間とともに和らいだ怒りでパフォーマンスしているのだと。その感情の力強さや真摯さに陰りはないが、それを発信する側が受けるダメージは少ないのだ。今の彼は炎の中に立って熱を感じながらも、その炎に飲まれることはない。若き日の自分に回帰することなく、当時の自分と心を通わせられる。
そして、魔法が解けた。曲が終わった瞬間、客席の照明がつき、彼が舞台袖に無言で歩いていくのが見えた。別れの挨拶も、長々とした感謝の言葉も、歓声を上げる観客に手を振ることもない。後ろを振り返ることさえもしなかった。初日の夜、突然の退場に衝撃を受けた人々は戸惑いの表情を浮かべた。このフィナーレを観客との静かな対決、愛されてやまない芸術家による大いなる自己主張と捉えることもできるかもしれない。けれども、もしそれが対決であったなら、それは見下しているのではなく、むしろ信頼に基づくものだ。観客が不快感に耐えられるだけの知性を備えており、彼が見せたものに気分を害したり、恐怖を感じたりしないのだという信頼だ。
完璧なエンディングだった。闇と神話作りから始まったコンサートが明かりの中で、さらけ出すように終わったのだ。他の誰かに運ばれきてスタートさせた公演をSugaは自らステージを去ることで終わらせたのだ。これ以上、何を望むというのか。彼は私たちに何もかも見せてくれたのだから。
5 notes
·
View notes
Text
JANUARY 25th
「最近トレジョ行ってないね」私
「すっかりユニオン派になっちゃったね」崇
ブルックリンライフでしか起きえない会話を料理の合間に挟む。
トレジョ=Trader Joe’s アメリカ中にあるオーガニックスーパー(安い)
ユニオン=Union Market ブルックリンにある高級スーパー(高い)
今回の旅行メンバーの何が素晴らしかったって、食事をこよなく愛する人が集ったことだったね、と言いながら片方がムニエルを、もう片方がパスタの用意をする21時。私は細かい親に育てられたので調味料は全部測りたい。瓶の蓋が空きっぱなしだとすぐしまうし、切り終えたまな板が放置されてると片っ端から洗ってしまう。習慣の違いが、気にならなくなるくらい多くの食事を一緒に用意してきた1月の終盤。小麦粉を使い切るアテが無さすぎて買わなかったのと、圧倒的肉派の人たちと過ごしていたので、ムニエルをするタイミングがなかったのだけれど、この豪邸にはちゃっかり小麦粉があったので今夜はサーモンのムニエルです。ユニオンでモッツァレラに惹かれたのだけれど、モッツァレラを楽しむには、ブロンクスのリトルイタリーに足を伸ばす以外の道はない。
昨夜はラムチョップ。母上のレシピで好きな料理の中でも、自分で作ったことのなかった、アラブ風のミントを使ったラムチョップ。もう毎日がホリデーの我々は、今日何にする?とネタ切れ満載。絞り出したのが、というか思い出したのがラムチョップだったので初予(はつよ=母)さんにレシピを聞いた。「肉離れをして久しいのでレシピが手元にない」と返ってきた。のはLA突撃の前のこと。数日後にラムチョップのレシピが送られてきたけれど、私はLAで塩胡椒オイルのミニマム調理に明け暮れていた日々。ユニオンではラムチョップもミントも手に入るので、いざ、と。ワインショップに行ったらテイスティングテーブルがあって五種飲んだ。崇やビアンカといてすごくスムーズなのは、赤の好みが基本近いこと。満場一致でテイスティングテーブルで飲んだ三種の赤に好みのものはなくて、スペインのXarel-Loという二人とも知らなかった白を即決した。その後の赤探しも楽しかった。この店をこよなく愛しているアルバイトのお兄ちゃんに求めている赤探しを手伝ってもらった。Malbec95%の18年。一人一本握りしめてマイナス10度のブルックリンを闊歩した。
ラムチョップは抜群に美味しくて、やっぱり自分はスパイスを使う料理が好きだなぁとしみじみしながら赤ワインは気付けば空いていた。ちなみに我々は今のところシェーブル80%みたいなバランスでシェーブル比重高めに毎日チーズを食べている。ワインとチーズの中毒性から逃れられないブルックリンライフ。
さて、ミントをですね、使い忘れたんですね、ラムチョップに。最後の盛り付けに使う肝心のミントを、鍋からラムを救い出して皿に移し、うまそーうまそーさわいじゃってそのままテーブルについてしまった。シェアハウスという言葉の響きに含まれる意味合いの、日本のそれとアメリカのそれの大きな乖離と、ニューヨークで起きているシェアハウス事情とその人生の豊かさや未来図を語り合うのにミントは不要であった。
そういうわけで、今夜はミントを使いたい。私はミントはカレーくらいしか持ち前のレシピがないのだけれど、今夜はカレーの気分ではない。エスニックの気分でもない。そこで。パセリを使う大好きなムニエルのソースをミントバージョンで作ってみる方向に決まった。それでもミントは余ったので、今私の中には明日はラム酒を仕入れてくるという計画が少しある。レッツドゥーダモヒートナイト。モヒートのことを考え出していたらもう何を書こうとしてpagesを開いたのだったか思い出せなくなった。思い出せなくなったというところまで書く数秒を経て思い出せたので続きを書くけれど、いつものように、長い長い脱線になってしまったなぁ。
EOY tripです。旅について、やっぱりどうしても書いておきたい。LAの日々では、目の前のことが98%くらいを占めていて、特に最初の数日は倒れるくらいまで仕事のことで頭がいっぱいだった。ベッドに座ったらもう立てなくて生まれて初めてピースのロゴを着たまま寝た。笑 数日経ってエアビーに移れて、いろんな余裕がうまく嵌まり込んできたあたりで、少しづつEOY tripが胸の内で頭をもたげてきた。今カリフォルニアはLAにいるという事実と、ほんの二週間前まで北カリフォルニアを旅していたことの繋がりや、運命のおかしみなんかが、ドライマティーニのオリーブに刺さっている串くらいの存在感で私の中で揺れ動いていた。
LAでは最後の日曜日を完全オフにして、みんなそれぞれ楽しんだ。私は朝にビアンカとカレンに会えたことがものすごく良い時間だった。ビアンカの中にある途轍もない優しさや他者の痛みを背負ってしまう繊細さを目の当たりにした。カレンはカレンのままで、ピースが何をしているのか教えて教えてとハツラツとしていた。結局私は英語力の限界と、大して報告できることもないのとでそこそこの話ししかできなくて、その後はただ楽しく友達トークをしていた。時は次期大統領就任1日前。地獄の始まりは明日、今夜は飲んで荒れよう、というムードがみんなの中にはあるらしい。
二人と別れてチームの二人のお迎えにまたLAを横断して一人また一人と送迎をしているうちに、友達に会っていた1時間がどれだけ自分の心を解放していたのかに気付かされた。9日間、ほとんどシャワーと睡眠以外の全ての時間を一緒に過ごしていた人たちからほんの1時間、解放されたことの大きさは凄かった。
あぁ、また脱線してしまった!!!
つまり、旅で金輪際かと思っていた友達たちに、信じられないくらい早く、信じられないような物事の運びで、再会した、という運命のスピニングを、一言で言うなら楽しんでいると言うことです。
そんなLAすらももう歴とした過去になるくらいに今私はブルックリンライフというシーンにいる。そして日に1日は、「本当に最高だったね(旅)」という話になる。フライパンでじっくり縮んでいくサーモンを見守りながら、トマトの皮の湯向きが済んで、スナップエンドウを茹でる用意も済んで、崇が作っているパスタソースの湯気を眺めながら、とてつもなく美味しいゴートチーズ(シェーブルなのか��うか見極めのつかないゴートチーズ)に歓喜の小さな悲鳴をあげながらチャバタと合わせて食べていて、今夜は、今夜こそは、EOY tripを綴るぞ、と胸の内で小さく決心した。
でも結局、22時半とかに始めた夜ご飯はあまりにも満足で、そこから我々は始めようとしているプロジェクトについていよいよ作業を開始してみることになり、執筆時間はどこにもなかった。「friend’s」というプロジェクトを動かそうという話が既に11月くらいから起きていて、ずっと動かそう動かそう言いながら出来てこなかったので、昨夜はとりあえずgmailを作って、ホームページ作成のアイディアをブラウザしながらロゴのデザインを書き散らした。乞うご期待、というか中途半端なことにならないように頑張れよ自分&崇。
0 notes
Text
One Coin FestivalSTAGING20250118/おかえり1st EP「寄り道のすべて」-release party-
ハロー、僕は元気じゃないまま、まだ生きてます。
独りサーキットフェス?を敢行し、近年大好きなウマシカてとThe Whotensを無理やり?同日に観て対バン気分を味わった。ミライオトロックの頃はまもなくかなと思ってたけどあれから何年経った?引き続き真の対バンを願いながら・・。勿論、バッチリ疲れたしまったが2連休の1日目という事で翌日を気にせず多少の無理がしやすいこう日程だった事もあって実現出来て良かった。
前述の昼公演が思ってた以上の進行の緩さだった為、余裕なはずの時間を全て吐き出してしまい、夜公演に入場して数秒後に開演するというギリギリさになったけど遅れなかったのから梯子観覧大成功って事で・・・
One Coin Festival(STAGING20250118)
同名の催し、全国各地でやってそうだけどこれは音楽業界系の専門学校の授業の一環で度々やってる外部の演者、観客(有料だけど安価)を入れてのライブ運営実習な昼公演っぽい。 子持ちじゃないけどもはや保護者の年齢だから学校に入るのはいつも気まずさがあるけど、物珍しさやお得感とかがあってこういう外部にも公表してる学内公演は結構好きで行っちゃう・・・
Riku 「シンガーソングライター」を自称していて、個人的なイメージだとその肩書きだとアコギか鍵盤の弾き語りなのだが、打ち込みのバンドサウンドでエレキギターとボーカルだけ生演奏っていうスタイルだった。先日の本格派ビジュアル系シンガー神咲レイト同様、曲を作って歌える人の作品が埋もれないのはまあ良かったなとは思うが、ファンタジー系って事だったので理想はクジラ夜の街なのかな・・・音の聴こえ方とか音楽の技術とか何もわかってないけど打ちこみ系だとどうしても物足りなさを感じてしまうのは何故だろう。どちらも同じ会場のスピーカーから聴こえてきてるのに特にドラムが顕著だと思うからもしかしたら耳障り程度でも生音も聴こえてるってのが重要なのかな・・・
Flat×Company/フラットカンパニー 上手(男性)の方のギターが奏でるポップなフレーズが極上でこれは凄い・・・ってなった。しかも下手(女性)の方のギターにしたってその他の楽器隊にしたってそれに埋もれる事無くクリアで軽快な音を鳴らしてて、そこに今や絶滅危惧種に近そうなほどにバンドではレアになってしまってりる「楽器を持たないボーカリスト」が絡んできて、如何ほどの知名度なのかはわからないけど上手く行って令和に彗星の如く現れたギターポップバンド、みたくなれるんじゃないかと思うくらいに凄く好みだった。これは俄然、物販等でCDの有無チェックなどしたかったが後述の事情により見送り。まあ縁があったら次があるさ、と思いたい・・・
The Whotens スリマもウマシカてもそれせかもまだって状況なのにまさかの今年2回目。ってか年末からの4週間で4回観てるという異常なまでのハイペースだけど好意が特段上がったってわけでもないけど、ウマシカて同様、「変な入り方」をしてしまったバンドの一つであるが故に、我こそはファンであるって自称するのが後ろめたい部分もあって無意識にセーブしてたかもしれない。それが年末に久々に機会があって、そこで念願のベスト盤を買えて改めて聴いて良いなと再認識した所に都合よい日程が舞い込んできてるっていう感じか。まあこれが続くわけはないけど観れない時は呪いのようにタイミング合わなくなるわけだし、行ける時に行っとくというスタイルだとたまにこうなる事もある。 3曲のみである状況が知らされていたので みんなのうた、月とひなげし、SAIKAIで予想をしたけど みんなのうたしか当たらなかった・・・ タイアップ付の自慢曲と「また会え(呼んでもらえ)ますように」とか言って演るんじゃないかと思ってたんだけどな・・・ 実際の演目が悪いわけじゃないし、実際に聴きたかった曲は予想曲じゃなくて単純に好きな曲の上位3曲だから違うけどね。持ち曲が10曲を超えてくるとワンマンでもなければ聴けないんだけど、10曲超えた程度じゃ精々対バン呼んでの自主企画どまりでワンマン開催までには至らないから中々理想の演目からは離れ気味なもどかしさはある。
蜃気楼 蜃気楼の街ってバンドが居たような気がするが勘違いのようでどうやら変なロン毛とかが在籍してた昔の神格化されてるバンドの曲でそういうのがあるらしいからその辺と混同してたのかもしれない。 勝手にソフトな感じを想像したのだが実際は真逆?で長い縮れ毛を振り乱す二人の男性を従える女性ボーカルな編成で結構激しいゴリゴリした感じだった。(ダイブ系とかではない)
入場料ワンコイン(500円)で他にドリンク代とかいう厄介なやつもない休日の日中に安価で気軽に楽しめる方式ではあったが、気の毒なくらいに来客が少なかった。4組の出演陣に対して各2組来客がいたかいないかってくらいで、たぶん2桁行ってなかったと思う。でも実習公演だから生徒スタッフはそれ以上なわけで。バンド側のスタッフもいるし、学校側の指導講師も入れてそれでも場内には30人くらいだったのではないだろう。会場は200~300規模だったと思わるからそれはまあ寂しかったよね。呼ばれた演者側の集客力もそうだろうけど学校側も大物は呼べないとしてもどうにかこうにか人を増やそうって対応をしたようには思えず。音が出て照らすだけがライブ運営ではないのに大丈夫か? 肝心の運営の方も、余裕をもった時間設定は良いんだけど明らかに間延びする待ち時間があったりして退屈だった。 音が鳴らないトラブルはあるあるだから長めに設定しておくのは良いんだけど、そもそも1組目と2組目の間でセッティングはなく、3組目もスムーズだった為に時間が浮いたみたいで謎の空白時間があって、その間に只管に物販の利用アナウンスをしてたけど、明らかに閑古鳥ピヨピヨな物販に行ったら眺めるだけじゃ出来なくて高確率で本人達から熱烈歓迎されて選べない、断りにくいって状況になる事が明らかな状態だったからそれも無理で只管苦痛だった。 なのにトリの4組目でいきなりギターの弦は切れるしベースから爆音でビープ音が繰り返されるというトラブルが発生してもスタッフ側は何も出来ず、演者や講師が少し動いた程度で根本的な解決には至らずみたいな。 さらに場内のBGMが学生自作曲なのかは知らないけど短い1「曲」と言う表現のすら厳しい、長さで定評のあるB'zのLOVE PHANTOMのイントロにすら満たないどころかもはやジングルかってくらいに短い20秒程度のゴリゴリ系のロックが延々と繰り返されて拷問、洗脳レベルだったのが酷かった・・・
学校側の総評はどうだったんだろう・・・ 『無事に開催出来て終演迎えて良かった、お疲れ様』 で済ませてない??次回以降の課題をちゃんと見つけてるのかな。とてもそうは見えなかったけど。勿論、生徒全員がライブ運営従事者になる可能性は低いどころか、むしろそういう業界に進む人の方が少ないんじゃないかと思うし、講師にしたってなんか教育者っていうよりはちょっと音響照明知識のある人が指導してるだけって印象を受けたな。挨拶推奨の張り紙が多く目について、実際に入退場にしっかりとした挨拶をされたけど、個人的には重視したいのはそこじゃないし、ライブ観に行って「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」って言われる事は滅多にないからその教えは社会じゃ活かされてないみたいですよ、東京ビジュアルアーツ・アカデミーさん。
おかえり1st EP「寄り道のすべて」-release party-
ONEDA! どうやら「ワンダ」って読むみたい。オネダかワンデイかと思ってたけど。 ロック過ぎないポップ要素有のロックバンドって感じでそこそこ良かった。
奔走狂走局 前髪切って現実を見ろ系のバンドでちょっと気怠い感じがしつつも曲調は比較的軽快である意味理想の形かもしれない。目当てで行くほどではないけど是非ともまた観たいバンドの一つ入り。
ウマシカて 長尺じゃない公演の演目にメランコリリックが入ってたのが特に嬉しくて幸先が良いなと。もしかしたら西岡氏のレパートリーが増えてるのかも?無事に今年の1回目を観れたからここから回を重ねて行けたらなと思う。
プライドの高い深夜のコンビニアルバイト 千葉県柏市の19歳の若いバンドのようだ。サムエル、RAVE(ホタバン)、爆風スランプ等々いるけどヌンチャク的な怖さを秘めてるような印象を受けたけど幸い、場は荒れる事無くしっかり観てられた。
おかえり 2年前に観た時よりはクセの強さは薄まっていたけどあふれ出てはいたというか。でも本気というか本音っぽさを感じる歌は嫌いじゃ無かったりする。数年サポートをしてたベースが無事、正式加入となったようで、ここからさらに活発化してていきそうだから次は2年も空かずに観れるかもしれない。


0 notes
Text



[[85週目]]で色違い🌅
クマちゃん🐈⬛が試合をぶっ壊して最終盤戦から初めて操作して突破した回数、「1回🤭」
「永遠救世主アルティメットシャドウリーダー04 B(バグ)の家族達 霊猫蒼海 斬島銀河」が育てるソルガレオ⤵️





なんと言ってもまずはエンドコンテンツ史上最も異色のメタルプロテクトが厄介、NPCが何も学習しないから更に厄介(後述の例外等を除けばこちら側のバフ上昇が鍵になってくる) 二戦目で威嚇も効かないダイアークも追加効果が通用しないと表示された……次の瞬間にタチフサグマで嫌な音を出したときは真っ青になるなんて物ではない(この後もなんか貴重なPP切らして延々と害悪行動を繰り出してきて発狂しそうだった、これ先程言った通り二戦目の話し。ちなみに運が良過ぎて俺達が勝った👍🥶) 攻略で頼れるのはゴロンダのDDラリアットに同じくワルビアルのタイプ相性 メンバー次第ではダイストリームで二つの危険な技を弱体化させるのもナイスだし鋼技は現在記述の雨パーティでも対をいく炎タイプメンバーでも軽々しく突破できる 決定的にやり易いのは全体攻撃が一つもない事で、これが意味するのは種類によっては準伝説より劣る強さかもしれない情報 サンパワーリザードを連れて行けば最速2ターンでキルできる。リセットマラソンするならここでやるのが最善、そうじゃなくても道中で色々と尖っている岩ポケモンは全て回収しなくていいこの楽な課題と味方に付ける事で真価を発揮する炎タイプを相手にしていくスタイルは最も肝心な残機の失いにくさに関して最大限に配慮されている(注意したいのはノーマルタイプの多くに敵として条件の揃った汎用的な地力が強すぎる地雷が多い罠…今までは特殊専攻のお目当てで安牌だったラッキーの立ち位置は好メンバーが揃っていれば微妙とも言い切れない結果論があった訳だが 今回の敗北は全て印象が薄い地雷との衝突による負傷を引きずったのが原因でなったと言っていい 勿論キョダイマックス技を繰り出してくるハイリスクローリターンな毒と電気には喧嘩を売らない鉄則を守る) 何処かのブログでは一番つまらない敵と言われているが、お互いにインパクトが存在しない上で脳筋な闘いになるからそりゃ確かにつまらない。盛り上がりも無いし倒し易さランク以外にだけは共感したWW 色違い粘りはリセット方式で恵まれれば実力で勝負したくなるし、派手派手バトルで思うようにいかないストレスを感じると前者に走ろうとする心理が働く NPCに持たせてと史上の活躍をしたのはドテッコツ、コーチングの輝く世界 反対にパーティがちぐはぐになると信じられない程膨大な時間をジリ貧に溶かして全滅が決定する 元来の火力がマジで正義 後、このエンドコンテンツで空気と化しているネイティオがロトムと組ませると凄まじい瞬間火力を実現する(この他にも熱い死闘の開幕でココロモリをサポート役につけて瞬殺して貰うのも最高 通常マッスグマですらアタッカーとして輝いた瞬間には感動すら覚えた)。他にはカラマネロとオトスパスのひっくり返すが大本題メタルプロテクトを相手のダイマックス技を突破して大金星になるかもしれない(2台用意して置いて本当に良かった) 晴れパの中で最も力を持つのがリザードなら、安心して剣の舞を流水の如く2回以上積めてこれでもかとヘイトをぶちまける巨悪ダークヒーローとして輝く隠された最強はシザリガー(これが無理して特殊ダイストリームで粘る必要がない程の高性能な使い方)
神カードとして道を渡れる癒しの波動を間違えて敵にしちゃった、引っ掛けとは言え緊張感持てばミスしない基本中の基本だぞ。今まで何をしてきた?この期に及んで何を忘れてやってるんだよ全く…俺ってホントにダメだな👎 局面的に結末を左右するセキタンザンに鬼火しちゃった(ボケが始まってんのか❓ダイマックスアドベンチャーの禁止伝説は他のSwitchソフトを含めるとこれがラストのお目当てなんだぞ💢\\\٩(๑`^´๑)۶////⁉️)。あと好カード揃いの中でコータスが3回連続で煉獄を外した時はガッカリしてしまった でもね、命中率は50%だしポケモンの失敗とヘマは全て俺達飼い主の責任だから何も文句を言っちゃいけない 敵でも味方でも愛玩動物にはなんの罪もない 今回のファインプレーはキュワワーのお先にどうぞ😋
[[23回全滅]]😆👍

ママゴン💖のおにぎり🍙に海苔巻いてたらポケモン入れ替えの制限時間が計算違いで終わってた、一体全体何してんだよ😩
1 note
·
View note
Text
食の瞑想のお日にちが近づいて参りました。
食と向き合うことは自分との向き合いになり、 様々な気づきもあると思います。
それでは、予め当日の食の向き合い方についてお伝えしたいと思います。
🍽️5つのルール🍽️
①黙食
みんなで席を囲み談話をしながらの食事がスタンダードなランチ会のイメージかと思いますが、
自分の呼吸に合わせて、 自分のペースで、 自分と食との空間にフォーカスすると、 普段気に留めていなかったことなど、 様々なものがキャッチできると思います。
今回は食の瞑想ですので、ベースは【黙食】となります。
② 1口ごとに箸を置く
第1回目の食の瞑想会では、 黙食のみを原則ルールとしていたのですが、 その際に気づきがありました。 黙食で食との向き合いを十分に堪能できているかと思いきや、 口の中に食材を入れているにもかかわらず、 箸を持つ手は次の素材を探しており、 意識が「今」に向いていないことに気づいたのです。 「なんと、勿体無い…」
食をしっかりと十分に味わうために、 一口ごとにお箸を置きましょう🥢
これにより、
✨「今」口に入れている瞬間にフォーカスすることができます✨
✨手が休まり、食事をゆっくり楽しむ余裕が生まれます✨
また、ゆっくり食べることで、 ◎食材本来の風味や特徴、食感をじっくりと堪能して、食べ物の美味しさを十分に感じることができ、
◎胃が満たされる感覚にも気づきやすくなるので、食べ過ぎを防ぐこともできます。
◎さらに、唾液の分泌が促進され、 消化酵素も適切に分泌されるため、消化がスムーズに進み、消化不良や胃もたれのリスクが減少します。
そして、一口毎に十分に噛むことは、 ☆栄養の吸収率を上げることになり、身体づくりの基本となります。
こんなに良いこと尽くしで、 食事の楽しさが増すこと間違いナシです。
③こころの中で実況中継を行う
参照:孤独のグルメ https://youtu.be/VI_ycDMijrE?si=1mvlwBut9I3hfi74
これも遥か昔に体験した気づきからのご提案です。 ある有名なラーメン屋さんに出向いた際に、 新メニューの冷やし中華を食しました。 その時の衝撃は計り知れないもので、 本当に自分の目の前にあるこの冷やし中華を食すことに無我夢中で、 自然と実況中継をしていたのです。 そしてこの状況がまさに孤独のグルメとシンクロ。
実際に、五感を研ぎ澄ますにはこの方法が非常に効果的だそうです。
そして、私たちの生活の中でこの五感をすべて使うのは「食」の時だけだと言われています。
どこまで「今」にフォーカスできるかが肝ですね。
④箸を置く毎に「次は何を食べたい?」と自分に聞く
身体が何を求めているかを感じ、全神経を自身と食に集中させましょう。
⑤食べ終わった直後に各々MEMOでまとめてシェア
その時の感動は意外とすぐに忘れ去られてしまうものです。
全身で感じた気づき等を記録に残しましょう。
▼要約
当日心掛けること🍽️
①黙食🤫 ②ひと口毎に箸を置く🥢 ③こころの中で実況中継する🎙️ ④箸を置く毎に「次は何を食べたい?」と自分に聞く👂 ⑤食後は気づきの記録&シェアタイム✨
みなさま是非この🍽️食の瞑想会で、 【今】を堪能しましょう。
0 notes
Text
『イザボー』観劇備忘録

1回目の観劇
1/25のソワレを一階席上手側の座席にて観劇。
おそらくブリリアホールの問題で、音が潰れてしまって歌詞が聞き取れない部分がかなりあった。アンサンブルの歌唱部分は特にたくさんの音が重なるのでほとんど何も聞き取れず、プリンシパルのソロでも早口だったり一定の高さよりも低かったり高かったりすると部分的に何を言ってるのかよくわからなくなる、という具合だった。 そんな中、望海風斗さんの歌だけは歌詞が全部ちゃんと聞き取れたのには舌を巻いたが、キャスト全員声量も歌唱力もあって滑舌も良く、素晴らしかった。
開幕直後、大きな舞台構造が回り始めた時には思わずあんぐりと口が開いてしまった。構造物そのものの形は変化していないはずなのに、それぞれの位置を組み合わせて変化させることで場面ごとに全く違った表情の舞台になっていて、本当に構造物の形自体は変化していないのか疑ってしまったほどである。 回っている構造物の中を動き回ったり顔を覗かせたり、上を歩いたりするキャストの間を縫うようにスタッフが舞台を動かしていて、キャストの立場でもスタッフの立場でも想像するだに大変そうだが、スタッフもキャストも全く危なげなくて見事だった。
衣装も素晴らしかった。何度も衣装替えがあって色も華やかなのはイザボーだけだが、黒で統一された他のキャストの衣装も形や素材などディティールが凝っていて、それぞれの身体やキャラクターによく合っていた。 一幕で黒い衣装を着ていたイザボーが、キービジュアルで着ていた例の真紅のドレスで登場するところなどは視覚的にかなり感動的だった。
しかし、歌として印象に残ったのは「最悪の王妃」のサビだけで、歌詞がよく聞き取れなかったこともあって他の歌は印象に乏しい。全体として説明や会話の歌が多く、心の歌みたいなものがあまりない印象。メロディや歌詞、歌に心動かされて感動し、なりふり構わずに説得されるような歌はなかった。全てが終わった時に、ああいい歌だったなと思える歌がなかった。
脚本はなんとなくあらすじっぽい感じで、全体として史実の筋を追うことを主軸にしており、情報量の割には物語としての内容が薄い印象であった。こういう脚本にするなら尚更音楽がもっと心を揺さぶるようなものでないといけないんじゃないかと思った。
ここで一旦望海風斗さんのファンとしての率直な感想を挟むと、タンゴのシーン!最高!ありがとう!興奮して目から湯気出るかと思いました!あとラストシーン双眼鏡で望海さんの顎を一生懸命見てたらものすごい密度の赤がドゥルン‼️って降ってきて視界が赤く染まって度肝抜かれた。息できる?あれ。
ミュージカルとしては、正直言って物足りなかった。 イザボーの心情に寄り添ったままでいられるのは一幕までで、それ以降は振り落とされて着いていけなかった。我欲や本能のまま生きた、と言われても、その我欲や本能というのが実際のところ何であるのか、見ていくうちにどんどんわからなくなっていくような有様である。全体を通して心を歌った歌が少ない中、イザボーだけは結構そういう歌があったが、素直に脚本の流れに乗るとイザボーの心に乗っかっていけないので、何を歌われても歌詞の内容が心に届かないのである。 かといって、音楽に心動かされるわけでも、物語に感動するわけでもない。物足りなかった。傍観者のような気持ちのままで、その日の公演は終わってしまった。 素晴らしかった部分が本当に素晴らしかっただけに、しっくりこなかった部分が致命的にしっくりこなかったという事実を受け入れたくなくて、全部ブリリアホールのせいにしようと思った。歌詞が聞き取れない音響設備とか、腰がめちゃくちゃ痛くなる椅子とかのせいで素晴らしかったはずの観劇体験が損なわれてしまった、会場がブリリアホールでなければ私はもう少しこのミュージカルを楽しめたのではないか、と。
2回目の観劇
1/29のソワレを二階席センターブロックの座席にて観劇。 1回目の観劇から4日経っていたが、いまだに納得できておらず、今度こそ何かしら良いものをゲットして帰りたいと考えていた。
1回目よりもはるかに音響がよく、歌詞がほとんど聞き取れた。内容をすでに知っているということもあろうが、それにしても劇的に変化したのでびっくりした。プリンシパルの歌だけでなく、アンサンブルの歌唱部分もはっきり聞き取ることができた。 キャスト全体の動きもよく見え、アンサンブルの素晴らしい活躍ぶりと振り付けの面白さが実感された。 一階席から見上げるように見ていて全体を把握することができなかった舞台機構の動きも、やや上からそれぞれの構造がどのように動いているのかを見ることができた。それぞれの構造物が床の溝に沿って非常にスムーズに動く様子が見てとれ、よく機構トラブルが起きないなと改めて驚いた。 舞台全体が見えることによって照明の効果もわかりやすかった。個人的な好みと比べるとちょっと派手めでうるさいが、全体の雰囲気にはとてもよく合っていたと思う。逆光の演出もかっこよかったし、二階席から見ると舞台面に投影された飾り灯がよく見えて、ひび割れたガラスを模っているであろう照明は特に印象的である。イザボーが客席に背を向けて立っている場面では、紫色の光の中にマントの光沢ある質感と美しい装飾が浮き上がって見えて、ため息が出るほど美しかった。
歌詞がほぼ聞き取れてストレスがないことと、登場人物全員をすでに知っていることによって、それぞれの芝居や歌、歌詞の深い部分の意味に心を向けられるようになり、1回目の観劇よりも全体的な満足度は高かったと言える。 一階席とは比べ物にならないほど観劇しやすかったため、幕間で客電が灯った時私が最初に抱いた感想は、「ブリリアホールの正解ってもしかして二階席!?」これであった。
最終的な感想
キャラクター演劇としての『イザボー』
2回の観劇を終えて考えたことは、『イザボー』というミュージカルに最も先立つものは音楽でも脚本でもなく、芝居ですらなく、キャラクターなのではないか、ということだった。キャラクターという前提があって成り立っているので、どんなキャラクターがいるのかわからないままに見ても楽しめない。 アニメや漫画などの原作をもとに舞台化するような、いわゆる2.5次元ミュージカルを引き合いに出すと、その観客のほとんどは原作を知っている。観客の中に前提があるからこそ、演者の一挙手一投足に、そのキャラクターの持つ感情や性格、意味を見出すことができる。舞台の上でキャラクターが行う1つのことに、観客が勝手に10の情報を見出して心を動かすという仕組みになっているのである。 『イザボー』というミュージカルはこれと似た構造を持っていると私は考える。歌が状況を説明し、脚本が史実の流れをなぞることに重きを置いて人の心を深く掘り下げていかないのは、このミュージカルの構造が、まず時代の流れの中にいるキャラクターを提示し、それ以上は観客に想像させ意味付けさせるという作りになっているからである。それぞれの内面の機微や心の動きの大部分については、キャラクターの内面を象徴するようなセリフ一言や演者の芝居をもとに、観客が勝手に想像するという作りになっている。 これはそれぞれの関係性にも言えることで、劇中で示されるドラマチックな関係性の多くは、それほど深く描かれることがない。聖女ジャンヌと悪女イザボーが背中合わせで立っているという舞台的な画面構成をはじめとして、狂気の父シャルル6世と正気の息子シャルル7世、王になった兄シャルル6世と王になれなかった弟ルイ、イザボーという女をめぐるルイとジャンの対比のほか、多くの関係性がそれぞれに興味深い物語の可能性をほのめかしながらも深く掘り下げられないまま、その構図が示されるだけにとどまるのは、そこから先のことは観客が好きなように想像する作りになっているからである。そして、こうした関係性の情趣を味わうためには、キャラクター的な前提が必要となる。 したがって、キャラクター的な前提を持たない初見の観客がこのミュージカルを楽しむためには、舞台上で行われたこと1つに対して10くらい受け取らんとするような前のめりな姿勢が必要であり、椅子に深く腰掛けて物語に身を任せ、目の前で起こるスペクタクルを待っているような観客には、そもそも向かない作りになっているのだ。 逆に言えば、複数回観劇するような観客は、前提のある状態でそれぞれのキャラクターや関係性にフォーカスすることができるので、楽しみやすい。歌にもセリフにも表れない芝居の機微を繰り返し見て、ここで彼女がこんな表情をしているのはこういうことなんじゃないかしら、と想像を膨らませていくというわけである。 また、このような構造をもつ演劇を好む観客にとってはむしろサービスと言える。筋書きと関係性のエッセンスだけを散りばめますので、あとはいかようにでも美味しく召し上がってくださいという、サービスなのである。
そして、今思うとこのことは『イザボー』のキービジュアルが発表された段階ですでに示されていた方向性であるように感じる。

それぞれの目線がイザボーとの関係性をほのめかしている。まさにこのミュージカルの構造を象徴したキービジュアルであると言える。私はもともと関係性のオタクなので、こういう仕掛けにはめっぽう弱く、このキービジュアルを見て衝動的に2枚目のチケットを購入した。
関係性のオタクとして『イザボー』を見に行っていたとしたらあるいは初見でも十分に楽しめたかもしれない。しかし私はミュージカルのオタクでもあって、ミュージカル『イザボー』と言うからには、いわゆるミュージカル、すなわち、グランドミュージカルと呼ばれるものや、ブロードウェイオリジナルの日本版ミュージカルのような、私が普段観劇しているミュージカルに類するものが出てくることを期待して座席に着いてしまったのである。 しかし、この作品が「日本発のオリジナルミュージカル」であることを考えれば、こういうのも「アリ」なのかもしれない。 個人的には、本作のような細かい部分を見せて観客に想像させる演劇は、もっと規模が小さくて演者の顔や芝居がよく見える会場でやるべきなのではないかと思う。ブリリアホールのような大きな会場では、初見で細かい部分まで見切ることは難しい。 私が一つの楽しみ方を自分なりに咀嚼できたのは2回観劇できたからで、1回しか見られなかったとしたら、実に釈然としないまま終わっていただろう。しかし、チケットは安くないのであるから、1回しか見られなかったとしてもなんかすごいもの見た!となるように作って欲しいと思ってしまうのは、貧乏な観客のわがままだろうか。一度きりの観劇であっても観客を感動させんがために、わかりやすい音楽の素晴らしさが必要なのではないだろうか。 いわゆるミュージカルとしての説得力にはやや欠けるものの、それでも質の高いスペクタクル感が担保されているのは、キャストやスタッフの素晴らしい仕事のために他ならない。
イザボーとは何だったのか
『イザボー』というミュージカルの性質について自分なりに咀嚼したとしても納得しきれないのは、イザボーという女性が結局どんな人で、何をしたかったのかということである。1度目の観劇でわからないのは当然としても、2度目も見ている間ずっと、この人はなんでこんなことするんだろう?なんでこんなこと言うんだろう?今までの言動と矛盾してない?みたいなことを繰り返し考え続けていた。
ひとつ思うのは、作・演出の末満さんはイザボーのそういう「わからなさ」に魅力を感じていて、それを何か形にしようとしてこの劇を作ったのではないかということ。 打ちのめされて泣いたり蹲ったり怒ったりする度に、結局立ち上がって悪役面で笑うイザボーを劇中で何度も見た。矛盾を孕んだイザボーの行動原理を考え続けることで、一筋縄ではいかない悪女の趣を味わおう!という趣旨なのかもしれない。
規模の小さい会場でやるべき内容を含んでいると先に述べたが、思うに、小劇場的演劇の本質的価値は、「生身の人間が目の前で」演じているということである。生身の人間であるということが、役の存在についての説得力に直結し、その多くを占めているからである。 その文脈で考えると、観客としてどんなに理解し難かろうと、イザボーという人は生身の人間としてそこに存在し、確かにそのように生きている。彼女の生の様相というのは、彼女以外にはわかり得ないもの、あるいは彼女自身にすらわからないのかもしれず、とすれば、実際にその生を生きて、生き抜いた人間に対して、ただ見ているだけの観客が安易にわかりませんなどと言うべきではないのかもしれない。故に、「御託はいいわ、これが私の人生」、「文句があるなら受けて立ちましょう」と、イザボーは観客に言い放つのだろう。
1 note
·
View note
Text

2024.1.18thu_tokyo
あいさんから連絡があり、急遽日記を書く事となりました。 能登半島地震で被害を受けた地域への支援へ向かった日についてです。 能登に行く事となった経緯ですが、現在働いているリトルナップコーヒーではとあるスタッフの呼び掛けにより、1月2日から二日間に渡り急遽お店をオープンして募金を始めた事や我々のオーナーが昔から震災の復興に力を入れていることが大きなきっかけとなりました。 その他、復興団体や職場のスタッフの協力もあり今回の炊き出しに参加させて頂ける運びとなりました。 以下、出発当日からの日記です。
1月16日 出勤して前日から用意した荷物を積み込み同伴するもう一人のスタッフと当日の流れを確認。 その日は石川県までの道のりが降雪で通行止めになるなどして予定の時間より2時間早く出発。 オーナーともう一人のスタッフ三人でまず富山へ向かう事に。 峠はアイスバーンが凄く乗っていた車が軽くスリップしたり、余震で震度5弱の地震があったりなど肝を冷やした。 復興支援に向かう人達は優しさだけではなく勇気や覚悟を持ち合わせていないと務まらないなと当事者になって強く実感。 富山にはオーナーの実家がありそこで仮眠させて頂ける事に。 6〜7時間の道のりを経て富山に到着。現地は水分が不足しているということで予め用意しておいたタンクに水を入れて軽く暖をとった。 九州では普段見かけない薪ストーブに感動。ん?九州にもあるけど俺がみた事ないだけ、、? まあいっか。笑 本来なら都内では食べたい物を好きなタイミングで食べれるし、次の日休みなら何も考えずお酒を嗜めるのに、薪ストーブをみてこの一本分の暖ですら必要としている人が沢山いると考えると悲しい気持になってしまった。 そこから暖かいお茶と薪ストーブの温もりは被災した方へ還元する自分のパワーにするというマ��ンドへ。 都合が良いのかもしれないけど何事もポジティブが大事だよね。


1月17日 2、3時間程仮眠して富山を出発。 高岡で他の復興団体の方たちと合流して6台連なって石川県へと入る事に。 今回の復興支援は許可を得なければ入る事ができず、勿論のこと道もまだ改修されておらずあちこち隆起しておりでかなりの時間を要すると言う話を伺った。 暗い道のりを走って警察車両や自衛隊の待機している検問所?をパスして能登に入った。 建物が崩壊していたり道がギリギリ車一台が通れる道だったり、不穏な空気感というか今までに体験したことのない雰囲気。 映画の中に入り込んだような感じ。 海岸沿いを走っていると土砂崩れで転がってきた大きな岩など上も横も危険な状態で恐怖心と車内で戦った。 まず最初の炊き出しを行う小学校に到着。丁度日の出の時間で凄く綺麗で力がみなぎってきた。 普段は町場のコーヒー屋さんなんだけど僕はパンケーキを焼くことに。 電気の問題などあり開始は思い通りにいかず少し待たせてしまった。しょうがない反面、もっとできることがあったんじゃないか、自分の予測する力が不足していたなと第一反省。必要な瞬間に最大限の事もままならないようじゃまだ人間として半人前です。 子供が多いかなと思ったけど意外にもおじいちゃん、おばあちゃんからの注文が多かった。 被災された方は意外にも穏やかな感じでしっかりと順番も守ってくれたりで中盤からはスムーズに提供できた。 ボランティアでリーダーの様な役割で動いていた女性がおり、被災状況やこれからの事など色々と話を伺った。 彼女自身も被災していてそれなのにボランティアとして人を統率している姿に驚いた。 命の危機に立たされているのにも関わらずリーダーシップと慈悲の心を持ち合わせている人間は周りの人たちにとっても有難いし僕ら炊き出しチームも非常に助かる。 次の場所へ向かおうと片付けをしていたところ一人のおばあちゃんがコーヒーをまだいただけますか?と尋ねてきた。 勿論と返事をして提供すると、のむや否や泣きながらありがとうと言われた。 もらい泣きをしてしまって、でもさっきのリーダーの女性を前にして泣いている場合じゃないとなるべく堪えた。 あまり悟られたくなかったのでありがとうの返事はとんでもないです、というような簡単な返しになってしまった。 もっと寄り添える言葉をかけてあげたかったけどコミュニティ能力がまだまだ低いなと第二回目の反省、、、 反省ばかりの人生!
そこから中学校へ移動。 そこでも先程と同じ様な流れでコーヒーを提供しみんなに喜んでもらえた。 餅つきしたりラーメン食べたりでみんなの活気がすごく、見ているこちらも元気をもらえた。 医療従事者、役所のボランティアの方々にもコーヒーを飲んでもらいリラックスしてもらえた。 中学校からは海と山の絶景が見えた。事故が起きた場所とは到底思えない。 支援者じゃなく復興が終わって観光客としてまた来れるといいな。 自然は美しいのにいきなり命を奪ったり、命を繋ぐ食材を産んだり。 それとそこにいる人達の空間は悲しさと優しさが同居していたり、 優しさで動く人間もいればこの状況にあやかって悪事を働く人間がいたりとこの世界は表裏一体だな〜 そんな事を考えながらみんなと集合写真を撮り11時間かけて都内に戻りました。 震災だけでじゃなくて他の国は戦争が起きてたり食糧難が起きてたり人間が存在している間は問題が山積みだな。


今回は高校卒業して今の会社に入社するまでずっと飲食業に従事していた僕が初めて経験した炊き出しの経験を綴りました。 沢山の人に愛を受けてここまできて、30歳にしてやっと今愛が必要な人達に飲食を通じて愛を分け与えることができました。 ないに越した事はないんだけれど、こういった貴重な経験に参加することができてよかったです。 まだまだリトルナップでは復興支援の募金箱を設置しております。 是非、機会があれば美味しいコーヒーを飲むついでに協力していただければ幸いです。
-プロフィール- 小山将汰 30歳 東京 料理人、バリスタ リトルナップコーヒースタンド/ロースターズ instagram @shotatheselfish
0 notes
Text
0 notes
Text
1246 20億鼓
ここで重要な役目を担う己を知る、いわゆる鼓動が何かを考えてみたいと思います。 平均寿命80歳とし、その間に脈打つ鼓動は20億鼓と言われ、血管には動脈や静脈そしてそれらを繋ぐ毛細血管等大小さまざまな血管が張り巡らされ、全てを繋ぐと約10万kmもの長さになると言われ、なんと地球を二周出来る程の長さだとの事です。 また心臓から出た血液が体内を廻り戻って来る迄に要する時間は約30秒。 深夜とて一刻たりとも眠る事無く休む事無く10年や20年ならともかく80年間も打ち続け、心臓から体内を廻り戻って来る迄どれだけの血量を移動させるのだろうか。 人体にまつわる恐るべき現象と言えるものは鼓動のみにあらず、他にも驚きの現象と言えるものは多々あります。 まずは腸について、日本人の平均的な大腸の長さは約1.5メートル 小腸の長さは7メートルと言われております。 腸は内側が細かいひだや突起になっており、ここで食物の栄養を取り込んでいます。 このひだ状、突起の内壁を広げた場合その表面積は大腸が約100平方メーター小腸はその倍の200平方メートルにもなるとの事。 私は毎朝トーストを1枚食べますが大腸では約100平方メートルに広げられ小腸に至ってはトースト1枚が200平方メートルに広げられる事になります。どうなっているのだろうか。 卵を1個食べても同様の事になります。 バナナも大腸、小腸含め300平方メートルに広げられるというのですから どれくらいの薄さになるのだろうか。 そうやって栄養分を取り込む、なんとそれがまた80年間も続くとの事。積算すると地球を覆うのでは。 超高級車を手に入れたとしても、80年間モデルチエンジや修理保全無しは考えられません。 人間の五体と言うマシン、鼓動はどう成っているのだろうかと言いたくなります。 また脳は千数百億個の神経細胞で構成されているとの事。 これらの神経細胞は細かい突起 いわゆる長い軸索と短く枝分かれした樹状突起で結び付き、膨大なネットワークを構築しているとの事。 この突起を全て繋ぐとなんと100万kmもの長さになると言われています。 毛細血管や小腸のひだ、神経細胞から伸びる突起など目には見えないほど微細です。 これらが複雑に入り込み動作する事で人体の機能はスムーズに働いているとの事です。 それ以外にも手足の動きや腎臓 肝臓 胆のう 関節 耳や口あらゆる機能、動作を検証していくと我々の人体は恐るべき性能を持ってこの世に送り込まれて来ているのです。
0 notes
Text
23.08.29
電車に乗って千葉に行く。チーバくんの下腹部へと。生活で満たされていた頭を空っぽにしてガタンゴトンと電車に揺られる。ぼんやりと。音楽は聴かない。本も読まない。スマホも触らない。車窓越しに見える景色と共に意識も移ろいゆく。人と待ち合わせをしている。わたしといっしょに車で旅をしてくれる人。友人なのかもしれない。その人が来る。車で旅をする。車内では用意よくあらかじめブラーのライブ盤のCDが流されていて、わたしの意識をきわめてスムーズにドライブによる旅へとスリップさせてくれる。エンジンが動き出す。われわれの白いハイブリッド車はぬるっと移動を開始し、千葉の平坦な地形を走り出す。まずは干潟を見に行く。海は見事に干上がっている。景色がいい。視線を海の先のほうへ向けると、右には東京のスカイツリーが、左側には横浜のランドマークタワーがやや霞んで見える。その手前には遠くにさっと引いた海岸線。より手前には湿った砂浜が広がっている。その端っこの陸の側を視線を下に落としながら歩いていく。そこにはさまざまなものが流れ着いている。ひとことで言えば、ごみ。でもそういったものたちに目を向けながら歩くのはけっこう楽しい。ただ、そこに何か印象的なものは落ちていただろうか? ほとんど思い出せない。あるいはもはや思い出せないようなものだけがそこに流れ着くのかもしれない。そして今もまだそれらはそこに打ち捨てられている。次は蛍を見に行く。千葉の中央あたり、山奥まで車で移動し、まだ明るいうちから自然のなかに分け入っていく。そしてきれいに澄んだ水の湧き上がる場所へとたどり着く。あたり一帯は木々や藪などの植物に囲まれていて、人工的なものはいっさい見えない。話を中断して黙り込むと、世界は虫の声、それから木々のちょっ��したさざめきだけになる。およそ夏とは思えない自然な涼しさを感じる。次第に日も暮れて、世界は蝕まれるように闇に支配されていく。あるいは虫に支配されていく。虫の声。わずかに欠けた月が顔を見せ、世界を冷たく淡い光で照らし出す。見上げるとおどろくほどたくさんの星が瞬いている。でも肝心の蛍の光は見えない。帰ろう。荷物をまとめる。やっぱりだめだったねって言って、わたしたちは来た道を戻りはじめる。世界はすっかり真っ暗だ。木の板でつくられたひどく脆い道を、足もとに気をつけながら歩いていく。するとちょろちょろと湧水の流れているあたりに、ひとつ弱々しく光るものを見つける。蛍だ。ところがようやく見つけたそれは死んだようにすぐ光ることをやめてしまう。だとしても最後に蛍が見られてよかったねって言って、わたしたちはまた帰路を辿っていく。それからまたすこし戻ったところで、今度はさっきより明らかにはっきりと力強く明滅する光を見つける。光。わたしたちはその場にしゃがみこんでしばらくのあいだそれだけを見つめていた。それは人がゆっくりと穏やかに呼吸するときのようなリズムで明滅を続けていた。やがてわたしたちはどちらともなく立ち上がると、そこで瞬いていたものをそれぞれ胸のなかにひっそりとしまって、夏の終わりかけの夜空に浮かぶ月光がやけに濃い影を落とす道を再びたどっていった。
0 notes
Text
[資料] 01 村上春樹さん 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の題は訳さないのですか? はるき30年ぶりの新訳で話題となった「ライ麦畑でつかまえて』。 村上春樹氏のなめらかな訳文 が原作を若返らせた成果は認めつつも、腑に落ちないのはその題名だ。 小説に限らず、 映画もCDもカタカナばかりが氾濫している文化状況。 このままで日本語の「翻訳力」は大丈夫か。あきお大学の授業で映画の話をしていてちょっとしたショックを覚えた。
02
ヒッチコッ ク監督 『鳥』に言及したとき、 期せずしてくすくす笑いが起こったのである。 聞いてみると、 『鳥』というタイトルがおかしいのだという。 奇妙な話ではないか。“The Birds" が鳥でなぜ悪いのだろう。 しかし何しろ、いまや映画館にかかる作品の88パーセントまでがカタカナ題名 (「eとらんす」 6月号、 高橋昭男氏の文章を参照)という状況があるのだから、学生たちの反応も無理からぬものかもしれない。『トゥー・ウィークス・ノーティス』だの『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』だの、 その 「意味」 などはどうでもいい。 自分に訳すこともでき��い題名の映画を観ることに居心地の悪さを感じる者は誰もいないのだし、そもそも訳したりしたらかえってかっこ悪いという意識が、 広く共有されているのだろう。
03
身の回りにカタカナ語がむやみやたらに増えてきた。 そう実感しないわけには いかなくなってから久しい。 かつては中国・朝鮮に、 そして明治以来はひたすら西洋に学んできたこの島国である。 外来の言葉によって国語がおおきく揺すぶられ続けることは宿命であり、 またそこにこそこの国の誇るに足る活力の源があった。「翻訳文化」とはけっして「自虐的」な呼称ではなく、むしろ異文化に開かれた謙虚さと、学ぶ力の旺盛さのあかしなのではないか。 そんなふうにぼくは一介の外国語教師として、さらにはまた翻訳を手がける人間として考えてきた。
04
ところが、わが国の言葉や文化の成り立ちそのものとわかちがたく結びついた 翻訳という営みが、 いま著しく弱体化しているのではないか。 翻訳文化を支えていた活力――「翻訳力」 とでも呼ぼうかが、じりじりと減退しつつある。 そ れとひきかえに訪れたのが、われわれの身の回りをカタカナ語が幾重にも取り巻くという事態であると思えるのだ。
05 もちろん、カタカナまじりの喋り方を誇示する人間が明治の頃からいくらでも 資料 1957つぼうちしょうよう とうせいしょせいかたぎいたことは、 坪内逍遙 『当世書生気質』 を開いてみればわかるとおりだし、 そういう文章を書いて得意になる人間にも昔から事欠かなかった。 だが現在のカタカナ語氾濫は、もはやそうした教養や趣味のひけらかしとはまったく異なる深刻な段階に達している。 肝心な語をなぜか平然とカタカナ表記の英語にゆずりわたしてしまう。 いや、 肝心な語だからこそ、それを日本語で言い表すのが恥ずかしい。それを日本語に訳すのがとんだ粗忽な振る舞いであるかのように思われてためらわれる。そんな不思議な翻訳回避の姿勢が、すっかり人々のあいだに浸透してしまったらしい。
06
肝心な語とは、映画タイトルやCDの表題といった、要するにいちばん人目に 触れるはずの単語のことだ。 振り返ってみると、80年代後半、 バブルのころから、『リーサル・ウェポン』、 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』式のやり方が主流になってきたのではないか。 訳さないのがあたりまえ。 「邦題不在」 を是とする感性がいつのまにか世の中を支配してしまったのだ。 07
『ライ麦畑』 をつかまえろ 08
翻訳文芸書で今年最大の話題作は早々に決定した。 言うまでもなく村上春樹氏 によるサリンジャーの新訳だ (白水社)。 なるほどページを開いて読んでみれば、実になめらかでスムーズな訳文の完成度はずば抜けて高いこと間違いなく、原作を一気に若返らせた偉業と言えるだろう――ただしもちろん、原作の売り物だった「今風の」若者言葉の語り口自体、 現在のアメリカ人読者にとってかなり古びてしまったはずなのに (筆者の知己であるアメリカ人の文学研究者によればそうであるという)、 それを若返らせたならば原作への 「忠実さ」を裏切ることになるのではないかという疑問は残る。 それはともかく、 ここでも肝心のタイトルがなぜか訳されていないことを、 残念に思わずにはいられない。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ」 やれやれ、と呟きたくなる。 「ライ麦畑でつかまえて』 という故・野崎孝氏訳の邦題のすばらしさが改めて思われる。 原題はアメリカ人読者にとっても、そもそも奇妙な響きをもつ不透明なタイトルだった (と同じくわがアメリカの友人は言う)。 それを単にカタカナで転記して、いったい何を伝えようというのか。 原題の最初の 「ザ」 が抜けているという語学的不正確さとともに、浮き彫りになるのは 「翻訳回避」の姿勢のみではないか。 「そのままカタカナ方式」 が歓迎される世相へのもたれかかりが気になってしまう。 むろんそんなことを気にする読者はほとんどいないのだろうが、唯一、ロシア文学者・沼野充義氏の発言に救われた (『文學界』6月号、「毎日新聞」 5月4日付)。 題も訳してほしかった、ロシア語だったらこんなやり方はとても無理だからと沼野氏は苦笑するのである。
09
そうなのだ。 要するに「丸投げ方式」 が通用するのはもっぱら、 英語が対象のかしましげる場合のみなのである。 ロシア文学やフランス文学では到底無理。 鹿島茂氏は愛するバルザックの傑作をいまの読者に何とか手に取らせようとして、『ゴリオ爺さん』の新訳を『ペールゴリオ』 (藤原書店)とフランス語そのままの題で出した。だがいっそのこと『ファーザー・ゴリオ』とか『ゴリオ・パパ』とした方が手っ取り早かった。 フランスもので言えば 『異邦人』 が 『ストレンジャー』、 『星の王子さま』 が 『リトルプリンス』 に変身する日だって近いのかもしれない。
10
影響力甚大なる村上氏だからこそ、 『ライ麦畑でつかまえて』にかわる邦題を つかまえてみせてほしかった。 そもそも翻訳という営みの根幹にあるのは、異国の言葉に自らの言葉を対置させ、名付け直す作業だったのではないのか? [中略]
11
「プルーストって人間ですよね」
12 [中略] 「外国文学」 の惨状が [中略]、 カタカナ語氾濫時代の裏側に広がり出している。 そこには翻訳を読む力の低下と、翻訳を通して異国の文化を発見しようという欲望の減退がありありと表れている。
13
先般 『ある人生の音楽』 (水声社) というフランス小説の翻訳を深い感動とともに読んだ。訳者は星埜守之氏。 わが旧友なのだが、 現在のフランス文学翻訳者のなかで最高の仕事をしている一人ではないかと常々畏敬している。 原作者はアンドレイ・マキーヌという、ロシアからフランスに亡命し、 言葉もロシア語からフランス語に取り替えて小説を書いている人だ。 フランスでは一般の読者からも広く支持されている人気作家である。 14
この翻訳書の書評がある新聞の読書欄に載っているのが目に留まった。 一読、 仰天した。 いまどきこういう難しい本の読者が日本にいるかどうか疑問だ、という風なことが書いてある。 そこまで読者を見くびっていいのかと思うが、しかしそれが正確な現状認識であるのかもしれない。ひたすら美しい小説なのに、 少しも話題にはならずじまいのようだし。 「外国文学」が窮状に追い込まれている。 「文学」 自体そうではないかという話はここでは置く。 異国の文学と真剣に向かい合い、 2カ国語のあいだを行き来する試練を経て翻訳を作り上げる。 読者はその翻訳を読むことで、 別の文学、 異なる文化のあり方を体験する。 それがさらには、日本語での新しい創造への刺激として働く。 そういううるわしい相互作用の総体が、かつて「外国文学」という領域として存在したはずだ。 たとえばフランス文学やロシア文学がそこで中核的な役割を演じた。 もちろん、 昔話にすぎない。 授業中ドストエフスキーの名前が出てきて、 東大の大学院生が 「それ誰ですか」 と質問したという話をわが同僚が活字にしていた。 ぼく自身、 プルーストという名前を口にして、「それって人間ですよね」と聞かれてしまった。 人か物かをまずはっきりさせてほしいというわけだ。
15
そんな質問をした学生をぼくはむしろ愛しく思う。 堂々と質問するだけ立派で ある。 学ぶことへの熱心さがあるのだから、 彼が無教養な人間であるはずはない。問題なのは、 彼とドストエフスキーやプルーストとのあいだに立ちふさがり、それらの名前が目に入らなくしてしまっている現代日本文化のあり方のほうなのだ。
16
ぼく自身はなぜだかわからないが、翻訳の小説や詩を読みふけって育った。 わ ざわざ外国の言葉から訳されたのだから、 それだけのことはあるに違いないと信じて読む。 するとなるほど手ごわくも強烈な世界がそこに広がっているではないか。その異質でしかも不思議にリアルな世界を知ることは間違いなく、 強い喜びを与えてくれた。 翻訳によって 「日本」 を超える文化と触れ合い、 それを異国の人間と共有することができたという実感。 そこにこそ「グローバル」と形容するに足る喜びがあったのだ。 そんな喜びに浸ったことのない若者がどんどん増えていることが、気の毒で仕方がない。
17 そこで翻訳論などという授業をやってみる。 愛読した翻訳書はと聞けばほとん どの学生は 『ハリー・ポッター』。 それよりつらいのは、翻訳書は嫌いだから読まないと断定する人間が必ずいることだ。 翻訳書の日本語は不自然で読みにくい、文学は翻訳して伝わるものだとは思わない等々と、立派な理由を掲げてくる。 困ったことだ。 それではロシア語をやらないかぎりドストエフスキーは読めないし、フランス語をやらないかぎりプルーストは読めないことになる。 そしてフランス語をやったとしても、プルースト読解への道ははるか遼遠だ。 しかも日本は、プルーストの立派な完訳が2種類も出ている世界でも稀な国なのだが。 そしてまた、日本語として「不自然な」 言葉を懸命に練り上げ、 かつ咀嚼していくなかで育まれてきたのが「翻訳大国」 日本の文化であり、言葉であったはずなのに…。
18 外国語の教育は英語だけで十分、 しかも子供のころから会話中心でやるべしと いう考えが、 「反受験英語」 イデオロギーに乗ってすっかり広まっている。 これまた、「翻訳力」 衰退を加速させる要因となるに違いない。 「使える」 英語を求めての会話中心主義を盲信したなら、ある程度から上のレベルの英語表現の読み書きに到達することは困難であることは、 すでに説得的に論じられている (気鋭の英語学者・斎藤兆史氏による 『日本人のための英語』 <講談社 > などを参照されたい。
19
そして会話に対し時代遅れとされる「訳読」 こそは、他者を「理解」する上でつきまとう困難と、 それに挑む姿勢を学ぶ上でもっとも重要なメソッドのはずだとぼくなどはいまだに信じている。 しかし近い将来、 「訳読」 をむやみに断罪する偏見はいよいよ強まり、 それが翻訳という営みへの無関心を加速させるのではないか。もちろんドストエフスキーもプルーストも、今よりもっと無名化していくということだ。 アメリカの属州としてふるまいつつ、事実上の文化的 「鎖国」へと日本は向かうのだろうか。 世界に向かって自らを閉じつつある当のアメリカの姿勢をお手本とするかのようにして。 いみじくもポール・オースターは、ここ15年アメリカでは他国の本の翻訳がろくになされていないと嘆いている (「朝日新聞」 6月20日付夕刊)。[中略]
20
翻訳とは文化的レジスタンスの営みである
21 「外国文学」コーナーが書店からみるみる縮小され失われていき、毎月の文庫 新刊の広告を見れば、翻訳書はミステリー (そして映画化物)のみという状況を 前にして、「外国文学者」 や翻訳家たちの士気が上がろうはずもない。古典の翻訳は次々に入手不可能になり、同時代のアメリカ以外の) 文学が紹介される機 会も減る一方だ。
22 だがしかし、それは逆に言えば、いまや翻訳には、閉塞へと向かうそんな強力
0 notes
Text
本番で緊張せずに実力を出す方法はあるのか?
「緊張して、実力が出せなかった」という話をよく聞きます。
私は元プロボクサーです。「殴られて死ぬかもしれない!」というリスクのあるプロボクシングの試合前は、プレッシャーと恐怖からほとんどのプロボクサーが極度の緊張状態にあります。
私もこの緊張が嫌で嫌で、大好きなボクシングなのに試合直前で毎回やめたくなっていましたし、何より「この緊張さえなくなれば、もっと実力を発揮できるのに!」と悩んでいました。 そこで、私はプロボクサー時代、「『緊張』の正体を正確に理解できれば、それをなくすことができるのではないか?」と考え、まず緊張しているときと通常時の場合と比べて、体の中で、どんな変化が起こるのかを調べてみることにしました。
緊張時に起こる体の変化として、私が理解したことは以下のとおりです。
・戦うためのホルモン、ノルアドレナリンやアドレナリンが体内で放出される ・その結果、心臓の鼓動が早くなり、血圧が高くなる ・同時に肝臓に蓄えていたグリコーゲンが分解されブドウ糖になり、血糖値を上がる ・筋肉の血管が開き、筋肉に血液とブドウ糖(エネルギー)が送られる
つまり、緊張により体は戦うために、筋肉をより動かしやすい状態にしていることがわかります。
しかし、そうなると緊張をなくすことで「ボクシングのパフォーマンスが向上するはず!」と考えていたことに疑問が湧いてきたんです。 緊張により体は戦う準備をしているはずなのに、「緊張がなく、戦う準備がされていない体のほうがうまく動く!」と感じているのは理屈が合いません。車で例えるなら、エンジンの温まった状態のほうが当然、スムーズに速く走るはずですから。
体は戦う準備ができているのにもかかわらず、パフォーマンスが落ちてしまうのはなぜか? さらに深く調べてみることにしました。
その後、水泳選手であるイアン・ソープの話をネット記事で見かけ、緊張状態で実力が発揮できない理由は、「これだ!」と思ったのを覚えています。
ソープもかつては試合で実力を発揮できない選手だったといわれています。 そんな悩みを抱えるソープにメンタルトレーナーが送ったアドバイスが「両サイドのレーンで泳ぐ選手を気にせず、一人で泳いでいると思って、自分がコントロールできることだけに集中して泳いでみなさい」でした。
自分がコントロールできることだけに集中するとは「手足の動かし方、力の抜き方、力の入れ方など自分の意思だけで100%自由にできることに集中する!」という意味です。
ソープはこのように自分がコントロールできることのみに、心(マインド)をフォーカスし、試合で実力を発揮できるようになったとのこと。
私はこの「自分のコントロールできる範囲のみに全集中する心」こそ、緊張状態で最高のパフォーマンスを発揮するための鍵だと思い、ボクシングの試合で何度も試しました。
思い返してみると、練習時のスパーリングでは「自分が何をするのか?」をメインに考えて体を動かしているのに、試合になると緊張していつも相手のサイズ、相手が何をやってくるのか、リングのキャンバスの踏み心地、リングを照らすライトの明るさなど、練習では気にもならないようなことにいつも意識を取られていました。
自分がコントロールできる範囲のことに全集中できていなかったのです。
運動能力が低下したはずのキャリア終盤のほうが、あきらかにパフォーマンスがよかったのはこのことに気づけたからだと確信しています。
もちろんボクシングは水泳と違って、相手が攻撃してくるスポーツです。 水泳のように、自分だけの行為に集中するだけでうまくいくわけではないのですが、その中でも自分がコントロールできる範囲の部分により多くの意識を集中させるというのは、緊張状態でのパフォーマンスを上げるのにとても大事なことだと私は考えています。
スポーツ心理学でよく話題にされる「ゾーン」という言葉を聞いたことはありますよね? ゾーンは「超集中状態」とも呼ばれるもので、この状態にあるアスリートは、非常に高いパフォーマンスを発揮できるのです
私も一回だけですが、ボクシングの試合中にゾーンに入ったことがあります。「試合中に相手のパンチがスローに見えた!」と表現するしかないのですが、相手のパンチが飛んできている最中、妙にリラックスできていた事を覚えています。
実際、このゾーンに入っているアスリートを調査したところ、ある共通点が見つかったそうです。
・極度の緊張状態にあること ・目の前の問題解決のために、全集中していること つまり、緊張しているからこそ、入ることができるのがゾーンであり、緊張している状態というのは、マイナスどころか実は超ハイパフォーマンスを発揮するための環境が整っているということだと私は理解しています。
「どうすれば、緊張しなくなるのか?」「緊張しなくなれば、実力が発揮できるはず!」という考えからスタートした私がまさか「緊張したい!」と思うようになり、緊張することに喜びを感じれるようになるとは思ってもみませんでした。
すでにお気づきだとは思いますが、これはアスリートだけのお話ではありません。緊張状態での高いパフォーマンスは、すべての人間に必要な能力だと思うからです。
緊張やプレッシャーに弱いと思っている人ほど、以下の言葉を心の中で繰り返していただきたいです。
「緊張したら、自分がコントロールできることに全集中!」 あなたも必ず実力を発揮できると信じています。
https://nikkan-spa.jp/1881644/4
933 notes
·
View notes
Quote
5W1H+Then状況説明 Who(誰が) 劣悪な家庭環境で精神の療養をしていた筆者が、 When(いつ) いちおうアラサーのとき、 Why(なぜ) 実家での療養に行き詰まりを覚え、命の危機すら感じたので、 Where(どこで) 実家から出て生活保護を受給し、一人暮らしをしながら療養することを決めた。 What(何を) その際、転居後、プロフェッショナルをはじめ可能な限り多くの人たちの支援をできるだけたくさん受けられるよう、 How(どのように) また、しんどいメンタルの中でもそれをスムーズに行えるよう、調査・相談・計画し、実行に移していった。 Then(どうなった) 結果、自分を支援してくれる医療福祉リソースの「最強デッキ」を作ることができ、次第に格段に心身の状態が良くなった。 前提条件 父はひどいコミュ障かつ恐らく結構なASD、母は統合失調感情障害かつ恐らくASD+ADHDであった。 筆者は家族とうまくコミュニケーションをとったりすることができず、家庭内別居というか引きこもり状態であった。 なぜやってよかったのか 一人暮らしを改めて始めたことで、自分自身への責任と自由が得られた。何にも遠慮しなくてよくなった。 心身の状態が格段に良くなった。QoLが上がった。未来はまだ見えないが暗いものではなくなった。 多くの専門の医療者福祉者友人たちなどの目があること、相談できること、頼れることで、孤独でなくなったほか、心身の状態を比較的よい状態に維持できるようになった。 やらなかったらどうなっていたか 筆者の心が壊れたり、筆者に何かあったときに親に頼ろうとしても応えてもらえず、同じ家の中なのに野垂れ死にしてしまう可能性があった。実際それを実感する出来事もあった。 転居し生活保護を受けても、「最強デッキ」がなければ、精神をより病んでいた可能性がかなり高い。生活保護での生活が安定するまで、とても心身が辛かったことが証左である。 現在のように、少しずつよくなっていってるし、良くなっていけるだろうから、まずはそれでいい、という発想にも至らなかっただろう。 実際の流れ〜事前の検討 まず情報収集と検討を行った。市役所の福祉課に行き相談して、生活保護の制度について詳細に伺った。優しく丁寧に些細に教えてくれた。シェルターの利用も検討し、福祉課から紹介されたシェルターを運営する(全国的に有名な)NPOに伺い相談した。 また、地域包括支援センター(筆者のいた市の場合。一般的には相談支援事業所)に相談し、担当してくれたスタッフともよく相談し、通っていたカウンセラさんにもよく相談し、引越して生活保護を受給し始めたあと、「どんな医療体制・福祉サービス体制で、どんな生活が出来るだろうか」を幅広く検討・イメージし、洗い出した。 実際の流れ〜転居まで 筆者の場合は、引越し生活保護を受けるまでの資金として、父に「手切金のようなもの」を要求した。父は長い間計画の実現可能性を信じず応じなかったが、カウンセラさんを交えた気の長い説得と、市役所福祉課に一緒に来てもらって実現可能性などを確認したことで応諾した。 手切れ金の額は数ヶ月分の家賃や生活費用、家具などの初期費用、引越しにかかる費用などから算出した。 実際の流れ〜転居後したこと 転居先には、親しい友人がいたり、筆者が昔暮らしていて馴染んでいる土地で、都会を選んだ。 物件は転居する地域の生活保護の基準程度のものを選んだ。手切れ金の額は、選んだ物件の保証会社の保証に必要な金額を上回っており、無事転居できた。 転居して、まず、区役所と警察で住民票の閲覧制限をかけた。 次に区役所の福祉事務所への生活保護の相談をした。快く応じてくれた。何事も事前に相談ができるならそれに越したことはないし、相談しておけば差し迫ったときにもスムーズに話が進むものである(実際に生活保護の窓口では事前の相談を推奨している)。 そして、保健相談センター(保健所)の保健師さんと面会・相談し、今後のこと(医療サービス福祉サービスの利用)についてどんなサービスが利用できるか幅広く相談し検討し、利用の作戦を立てた。 各種サービスの利用には申請が必要とか確認が必要とか手続きが必要など色々あって複雑であったが、事情を知った有能な保健師さんが可能な限りの使えるサービスを教えてくれ、さまざまな関係機関との調整もしてくれた。 実際の流れ〜生活保護受給以降 数ヶ月して、資金が切れる見通しとなったので、生活保護の申請をした。書類上の審査のみで、DVがあったことから家族・親族に連絡もいかず、無事2週間程度で保護が決定した。 利用することになったサービスは、通常の精神科受診のほか、精神科看護のプロによる訪問看護、事情をわかってくれるヘルパー(家事(調理や清掃など)援助)であり、のちに入院や、入院した病院で、退院後も継続的に、保護費の医療扶助の範囲内でカウンセリングが受けられることになった。 そしてこれこそが筆者の心身をさまざまに支え、筆者が回復していくための「カード」(デッキ)であり、筆者の知る限りこの組み合わせが「最強」である。 現在 精神科の主治医、週に3回の訪問看護、週に1度のヘルパーさん(調理・清掃)、主治医とは別の精神科病院での保険診療内の心理カウンセリング、親しい友人たち、パートナーさんに支えられ、引き続き療養している。 以上のような「最強デッキ」に支えられ、少しずつ心身が回復していっている。転居し生活保護を受けしばらくまでは非常に精神が辛かったが、ここ数年で見違えるほど安定し楽になり、ときに就職に挑戦したりするようになった。今でもひどいうつなどで入退院を繰り返すなどしているが、精神的にはずいぶん楽になったのは間違いない。 今後の人生ももっとよくなっていくという確信が持てている。 備考 飽くまでこれはさまざまな条件に恵まれたケースであることであり、それが特記すべきことであることは否めない。 また、筆者が医療者福祉関係者の利用の仕方がうまいとか、出会った全てのスタッフが素晴らしいスタッフだということも特記すべきであるかもしれない。 しかしながら、制度自体は全国どこでも同じであり、原理的には全国どこでも似たようなデッキを組めるはずである。とはいえそれは理想論で現実にはそこまでうまくいかないことが多いことは容易に予測できるし、色んな人の話を聞いていると実際そうである。そのためにも、大きな都市でこれを試みることが極めて重要なのだと思う。 また、もっと色んな人の力を借りて、こうしていきたいと思ったり、プロフェッショナルに支えてもらいたいと考えることも肝要だと考える。 これはメンタルを病んでいる人がどのように医療資源・福祉資源を利用したらいいか、ということでもある。メンタルを病んでいるからこそ、医療福祉資源カードの最強デッキが必要なのである。 自分の場合はこうだとか、ここをもっと教えて欲しい、ここはどうしてるの、ここはどうしたらいいの、といった事柄があればコメントなどで教えて欲しいです。適宜更新します。 過去のまとめ このお話は、過去にTwitterでもつぶやきTogetterでもまとめています。 一方で、健エミュを知り、この体裁のほうがわかりやすいだろうということで、この投稿を作りました。 Togetterのまとめとこの投稿で重点を変えていますので、ご興味の方はこちらのまとめをご覧ください。 最後に ここまで読んでいただきありがとうございます。長々と難しいことを書きましたが、「できることをできる範囲で、できるかぎりやった」「自分自身のサポート体制を整えようとした」この2点が一番大きいです この記事を書くにあたって、健エミュDiscordサーバの方々から有用なアドバイスを頂きました。感謝します。 最強デッキを授ける前に、猫の日にお空へ旅立ってしまった友人に、この記事を捧げます。
毒親など辛いメンタルから逃げるには、自分自身を支援してくれる人たちの「最強デッキ」を組むとよい - 健常者エミュレータ事例集 カウンセリング
5 notes
·
View notes