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【數位游牧】的實踐指南與豐厚收入途徑
探索不受地理限制的工作模式【數位游牧】,掌握2025年最熱門的線上賺錢策略,實現工作與旅行的完美平衡。 Continue reading 【數位游牧】的實踐指南與豐厚收入途徑
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店門市品牌設計與服務動線-招商策略共利詹翔霖老師
#詹仁松老師#親職教育講師:先懂孩子再談教–天下無不是的孩子-親職教育講師詹翔霖副教授#親職教育講師-培養出熊孩子的熊家長-詹翔霖副教授-內灣國小親職講座#詹翔霖副教授#詹翔霖老師#詹翔霖詹翔霖老師#人力資源的管理與運用-有人斯有財講座-90-勞委會委員詹翔霖副教授#店門市品牌設計與服務動線-招商策略共利詹翔霖老師
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キングダムハーツの一作目は私自身が深く関わった作品です。「ディズニーにとっても画期的かつ実験的プロジェクトだとおもいます。大げさかもしれませんが、ディズニー史に残るプロジェクトになるんじゃないかな」というこインタビューのコメントが、第一作目が発売される時にファミ通のインタビューに掲載されています。 当時、私はディズニーに在籍しており、日本を含むアジアのゲーム部門を見ていましたが、このプロジェクトが一番記憶に残りかつ成功したプロジェクトとなりました。ディズニーサイドのプロデューサーを務めたわけですが、この作品、幾つもの奇跡が重なり大ヒットに繋がり、ファミ通に引用されたコメントがあながち外れていなかった事になりました。今だから言える、キングダムハーツ一作目の舞台裏を、ディズニーの中での様子や、ビジネス面にスポットを当てながら今から振り返って見たいと思います 私がディズニーに入った時、米国のメンバーから実験的なプロジェクトが動いているという事は聞いていました。ただ、全くディズニー社内でオーソライズはされておらず、実験をしているという名目でした。ところが、私がディズニーにはいってしばらくたっても、契約は存在せずに、実験のはずが現場ではどんどん開発を始めていきます。スクエアエニックス(以降スクエニ)では開発ディレクターの野村哲也氏の想いがあり、非常に前のめりに開発を続けたいという意志が固く、一方で、ディズニーはイエスともノーとも言わないで、頑張りましょうという曖昧な返事を繰り返していました。先ずは、何とかプロジェクトをオフィシャルにしなくてはいけません。 そもそも、『キングダムハーツProject』は、承認を得るには大きな問題がたくさん含まれていました。それは内容に関するクリエイティブのチャレンジが原因となっています。普通のライセンス契約は、すでにあるイメージを利用して商品を作るもの、ゲームのライセンスもすでにある映画やキャラクターの世界観を使ったゲーム制作がそのベースとなっていました。ところが、キングダムハーツは例外事項のオンパレードでした。 ・米国の外で、少なくとも日本では、全く新たな世界観を持ったディズニーのライセンスが認められた事はなかった。 ・当時、まだ3D のミッキーのモデルが公に存在していなかった。 ・ディズニーの違った世界観、例えばターザンとピノキオとミッキーを一つの作品の中に入れる事ができるのはディズニーランドだけであった。 皆さんも想像できると思うのですが、ディズニーという会社は非常にアメリカ的な会社です。アメリカ、ハリウッドが中心で、ここで作られたクリエイティブを日本を含��た世界に流すのがビジネスモデルです。ある意味、ハリウッドのクリエイティブを頂点にライセンスのビジネスモデルが完成されているのです。ディズニーの財産は、ディズニーの世界観である事が徹底されていて、ディズニーの世界観を守るため、とても細かいライセンスのガイドラインが設けられ、世界にその指示が渡っていました。ブランドを守るグループの力は強く、社内での隠語でPolice(警察)と呼ぶ人もいました。
日本においてのライセンスグループは、ミッキーの新しいイラスト一枚を米国に認めてもらうために四苦八苦するのが実情でした。その様な状況で、上の様な問題?を持ったゲームが認められるはずがないというのが社内の空気だったのです。
皆さん、ご存知ですか?ミッキーの耳はいつでも正面を向いている事を。2Dイラストのミッキーはたとえ横を向いている時でも、その耳はまん丸で正面を向いているのです。それが3Dになったらどうするんだ、そもそも3Dのミッキーなんて米国が認めないし、他の膨大なキャラクターの3Dデータ、個々のアニメーションデータをどう承認してもらうのだというのです。
日本のディズニーでは、日本初のジャパンクリエイティブ作品を是非押して行こうと言う掛け声はあったものの、ディズニーの日本のベテラン社員の方が、「事が大きくならないうちにダメならダメと言ってあげるのがクライアントに対する本当のサービスだよ」という忠告をしてくれました。
当時のディズニーゲーム部門のプレジデントはディズニーストアの店員からのし上がって行った女性でした。とてもガッツがあり、野心があり社内政治的にも一目置かれており、彼女もこのプロジェクトにかけていました。ディズニーでは、業績だけでなく、新たなプロパティ、クリエイティブを生み出せるという事が、高い評価となるからです。プロジェクトは挑戦的でクリエイティブだし、部門トップもやりたいと言う事で、そういう意味では、ゲーム部門には米国も含めて何とかこのプロジェクトを通したいと気持ちが行き渡っていました。
日本のディズニーブランドグループのアドバイスは当然NGです。ただ、あまりに彼等の評価基準からは、かけ外れすぎているので、あえて判断出来ないと言うのが、彼らの立場でした。米国では常にブランドとゲーム部門の交渉が行われていましたが、私も良く呼び出されました。ついていた事に、タイミングは悪くありませんでした。
当時のディズニーのブランド部門のトップの悩みは、ディズニーのキャラクターが女性にしか受けず、対象年齢も下がりすぎており、何か新しい動きが欲しいと思っていたのです。話してみると、ブランドのトップの人はディズニーの世界観のエッジがなくなって行くのを危惧していたのです。当時の私は、前職がセガの(コンスーマー)開発のトップでしたので、クリエイティブの匂いを感じてくれたのでしょう、非常に長い時間ディズニーのブランド論やキャラクターの見せ方について語り合いました。如何にビデオゲームという舞台が、当時のディズニー��かけているお客さんに上手くアピールしうるメディアであるかといった話もしました。
先方は、ミッキーが最初に出て来た時には少しやんちゃな部分があったのに、今はお利口さんすぎてエッジがなくなっていると言う事も正直に話してくれるのです。ある意味、それにどう答えるのかもテストであったと思うのですが、ディズニーのブランドをどうしたらあげていけるのかというアイデアや考え方も私なりの意見を述べました。セガの時代に、ソニックの再生プロジェクトに関わっていたのも役立ちました。また、ブランドトップの彼には、時々途中経過を流したり、事前にちょっとした事を相談する様にしました。いわゆる、根回しをして信頼を得る作戦を取ったのです(これが出来たのは、当然、絶対的に当時のスクエアの制作能力が高かった事が挙げられます。最初に彼らの作ったいくつかのキャラクターの3Dデータ、アニメーションの審査の時に、ディズニーのスタジオの人たちがその品質に驚いた程でした)。
ディズニーにとって、当時ゲーム部門は主流の部門ではありませんでした。あくまで、映画、テレビ、パークがメディアの中心で、ゲームはライセンス部門の一部でした。(因みに今では、ゲームとインターネット部門が一つになり、ディズニーの独立部署かつ戦略部署と位置づけされています。) ディズニーがあまり強くない領域であまり強くないターゲット層に向けて、他人のお金で(スクエア)実験的な施策を打つのは会社に取っても悪くないと言う空気になっていきました。しかも品質は高く、ゲームで定評のあるパートナーなのです。ただ、それでもブランドグループもなかなかオフィシャルにGOを出しません。 我々にとってもう一つの追い風は、当時他国が落ち込んでいる中、日本のディズニーが全体で絶好調だった事です。東京ディズニーランドに加えディズニーシーがまさにオープン準備中でしたし、i-modeへの対応でモバイル部門も立ち上がっていました。ライセンス部門も他国が落ち込んでいる中好調を維持し、ジブリ作品のビデオ流通も当たっていました。
そこで、長年ディズニーでCEO(当時)として君臨をしていたアイズナー氏が、久しぶりに日本を訪問する事になったのです。この時の彼への権力の集中は凄まじく、彼の日本出張時に、何や感やで米国から100人以上の人が同時に日本にやって来ました。この様な中、日本での活動報告をアイズナー氏にする事になり、私もプレゼンをする事になったのです。
我々ゲーム部門の目的は、何とか此処で『キングダムハーツ』をオフィシャルにすることでした。数日かけて、ゲーム部門社長やディズニージャパン社長とプレゼン内容を相談し、当日に挑みました。アイズナー氏は流���にちょっと尊大とも言えるくらい威厳があり、カジュアルなセッティングにもかかわらず、場には緊張感が走ります。ストレートで厳しい質問もどんどん投げ��けます。
私の順番になり、ゲーム業界の様子やいくつかのプロジェクトを説明したあと、『キングダムハーツ』の説明をはじめます。このプロジェクトが如何にクオリティが高くディズニーにメリットがあるか自分が説明するのを、横からゲーム部門社長が援護説明を入れます。とても助かったのは、アイズナー氏の内容に関する質問に対し、ブランドのトップが如何にディズニーのブランドにとってメリットがあるか援護射撃をしてくれたことです。
アイズナー氏は気軽に、「おー、そうか。頑張ってくれ」と励ましの言葉をくれましたが、この時が本当に『キングダムハーツ』がオフィシャルにディズニー内でGOになった瞬間でした。プレゼンが終わった後には、皆が祝福の握手に来てくれて、ブランドトップは祝福のハグまでしてくれました。この時まで、中立だった人たちがサポートに回ったのです。
何で、こんなに大袈裟なのかと思うのですが、ディズニーのクリエイティブに対する想いと、当時の組織の膠着が重なり合ったことが背景となっているのでしょう。あの時、アイズナー氏がちょっとでもネガティブな事を言っていたら、あのプロジェクトは飛んでいたかもしれません。
余談となりますが、当時一応、ブランドのトップは創始者ディズニーの甥 Roy Disney だったのですが、彼は保守的な立場の人でしたが、アイズナー氏との折り合いは悪く、彼は会議には出ていませんでした。彼がいたらここも一悶着あったかもしれません。
これは、言ってしまえば社内ポリティクスの苦労話です。そこには、普遍的な事もあるし、ある意味ディズニーという特殊な問題もあるでしょう。普遍的なことを言えば、どんな会社も形は違えどもなんらかの根回し、プロトコルがあるのだということです。よく、アメリカの会社には根回しがないという言葉を聞きますが、少なくともディズニーには全くその言葉は当てはまりません。ただ、日本の根回しとは少し違った感じはします。有力者にとにかく頭を下げてお願いするというよりは、一応こういう正義と言うか正しい気持ちとそこに伴うコミットメントが込められているかという説得はついていました。まあ、サプライズをビジネスマンは好まないという意味では同じなのかもしれません。また、どんな企業もトップが傲慢になりすぎると、決めるプロセスで苦労するというのも普遍的かもしれません。
ディズニーの特殊な面で言うと、クリエイティブに対する考え方、決め方、こだわりもこの件を通じてよく理解出来ました。あるところではビジネスを追求しているのですが、クリエイティブに対して尊敬しなければいけないとする問題意識は共有されています。ライセンスのガイドラインの作り方、ビジネスの作り方も見事なものです。コンテンツやIPをビジネスにする仕組みを積み上げているのです。
現在、日本ではサンリオが非常に上手いグローバルライセンス展開をしていますが、一方で集英社プロパティを中心に勿体無いコンテンツが沢山あります。世間で、ジャパンクールとはいうものの、その広がりを見せている様には思いませんが、コンテンツやライセンスのプロデュース、事業化能力をあげることも、コンテンツ、IPビジネスにおいてクリエイティブにも劣ることなく必要なことであるということはディズニーから学べるところです。
では、このライセンス商品を、ディズニーとしてどうプロデュースし盛り上げたかという施策を紹介します。ひとつが音楽に関する取引と、もう一つがプロモーション施策です。音楽に関して言うと、スクエアのクリエイターでディレクターを務めた野村哲也さんは、出来れば当時人気絶頂であった宇多田ヒカルさんを起用したいと言って来ました。ディズニーのゲームライセンスの契約で(とんでもない)社内ルールは、基本ディズニー作品に使われた曲はディズニーのものになるというものでした。
凄いアーティストと組んでゲームを作るという発想が、もともとなかったのです。ディズニーのリーガルと宇多田ヒカルさんの事務所、レコード会社と交渉しますが、此処でディズニーマジックが起こります。宇多田ヒカルさんがディズニーの大ファンで世界的に曲が広まるのであればと嬉しいと、日本語と英語版の楽曲提供を基本合意してくれたのです。然も、ディズニーの条件である、音楽のパブリッシング窓口がディズニーとなる事も納得してくれたのです。
キングダムハーツの主題歌「光」は、テクニカルには、宇多田ヒカルさん初の海外版になっているのです。ちょっと、蛇足ですが、この「光」という素晴らしい曲ですが、出来上がるのに時間がかかりました。丁度、彼女の病気と結婚の時期とかぶってしまったのです。この曲が素晴らしいものであったにもかかわらず、プロモーションビデオがとても地味な(失礼)出来になっているのは、病気が大きく影響していた様です。この曲は発売以来3週連続のオリコン1位を獲得します。人気絶頂だった宇多田ヒカルさんの曲とゲームのプロモーションを上手くリンクさせる下地が出来上がったのです。
私は、『キングダムハーツ』の問題として(今でこそとても当たり前に自然に見えているかもしれませんが)、スクエニのキャラクターとディズニーのキャラクターが並んだ時の違和感を感じていました。これを払拭するには、その世界観をあまり見せないか(ミステリーにして口コミに頼る)か、目一杯メディア露出をするかだとおもいました。前者は何もしないに等しいことなので、せっかくディズニーも絡んだ大型作品なのでどう露出するか考えました。スクエニに広告費露出を頼もうにも、先方は開発費が予算を大幅に越えており、その枠にも限界があることはわかっていました。
ディズニーには、新しい映画を世間に出すときに、他の企業と組んでプロモーションをするというco-promotion という仕組みが出来上がっていました。例えば、トイストーリーの映画封切に合わせて、マクドナルドがハッピーセットを出してその告知をメディア広告(主にテレビ)するという類のものです。ゲームではこのモデルを使ったことがないけれど、何とか出来ないものかということで、幾つも営業に回りました。その甲斐あって三井ホーム社、日清社そしてアサヒ飲料社とco-promotion 契約を結べました。
特に、アサヒ飲料社とはゲーム業界史上最大規模となるco-promotionが成立します。内容は、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーを対象に、キングダムハーツのボトルキャップとデザイン缶キャンペーンを実行��、さらに大々的にキングダムハーツのイメージと宇多田ヒカルさんの「光」を使い、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーをテレビ広告を中心としたメディア広告を展開するというものです。ブランドを二つに分けたのには実は裏の事情があります。ディズニーはグローバルにコカコーラ社とキャラクターライセンス契約をしていました。そのため、炭酸飲料についてはミッキーとその仲間たち、ディズニーでいうところのスタンダードキャラクターに関しては使えませんでした。そこで、どうしてもスタンダードキャラクターも使いたいアサヒ飲料社の要望に答えるべく、バイヤリスオレンジにスタンダードキャラクターをあてがい、本当に推したい三ツ矢サイダーにはその他のキャラクターをあてがうことにしたのです(ちなみにすべて『キングダムハーツ』に出ているキャラクターでないといけない)。
結果デザイン缶は10パターン作ることになります。こちらにとって結果的によかったのは、アサヒ飲料社が2つのメインブランドを推すキャンペーンになったためプロモーション規模が結果的に大きくなるおまけもついて来たのです。ここであえて追加すると、日本の他のディズニー部隊の協力は素晴らしいものでした。当然、コカコーラ社を担当している部門や当時のディズニージャパンの星野社長(現在ジブリ社長)の協力が無ければ到底出来ない内容でした。
このキャンペーン規模、テレビ広告の規模全国2500GRP以上という凄まじいものでした。どれくらいすごいかと言うと、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。以下SCE)とスクエニがキングダムハーツにかけた広告を足したものの倍近くあったのです。また、ボトルキャップとデザイン缶を併せた『キングダムハーツ』仕様のドリンクは3000万缶近く作られ、コンビニでも『キングダムハーツ』のイメージが一気にばらまかれました。
キャンペーンタイミングも奇跡的にピッタリ合わせることが出来、今から考えても信じられないくらい上手く連動が出来たと想います。ゲームとの相性バッチリのアサヒ飲料のテレビ広告(YouTubeで捜しましたが見つかりませんでした。残念)は、ゲームの発売1週間前から集中投下され、この広告が始まるや、コンビニでのゲーム予約が8倍に跳ねました。ゲームも初回発注から、週末を待たず追加発注がなされ、何と1週目にスーパーロボット大戦の発売があったにもかかわらず、1位を獲得、大ヒットダイトルヘと成長をして行きます。海外では、『キングダムハーツ』はファイナルファンタジーを凌ぐビジネスとなっています。 当然、この『キングダムハーツ』に関しては、ゲームの力やクリエイターの執念、またパブリッシャーの努力が第一義的に成功の要因です。彼等の更なる努力により、キングダムハーツが10周年を迎え、さらに大きなIPに育っていることを本当に嬉しく思います。おめでとうございます。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)2月24日(月曜日)
通巻第8667号
中国からのすべての輸入品に10%関税。くわえて
中国からの戦略的分野への投資を制限する大統領覚え書き
*************************
2月21日、トランプ米大統領は、テクノロジーや重要インフラなどの戦略的分野への中国からの投資を制限するようCFIUS(外国投資審査委員会)に求める「覚書」に署名した。
『覚え書き』はEO(大統領命令)とは違って強制力はない。
CFIUSは大統領の諮問機関で、省庁間の横断組織。米財務長官が議長を兼ね、国土安全保障省や商務省、国防総省、国務省、司法省、エネルギー省、科学技術政策局、米通商代表部(USTR)のトップでメンバーを構成する。従来は米国の土地や技術を外国企業が所有する際、米国の競争力低下や情報流出があると判断すれば拒否できる。
CFIUSの審査により中止命令が出された例としてトランプ第一次政権下でファーウェイとの関係があるシンガポールの「ブロードコム」の米クアルコム買収を阻止した。
トランプ大統領署名した『覚え書き』には、中国が「軍事、諜報、その他の安全保障機関の開発と近代化のために米国の資本をますます利用している」と指摘し、テクノロジー、重要インフラ、医療、エネルギーなど米国の主要分野への中国からの投資を制限するよう求めている。
これらは実際にはほかの法律で規制しているから、トランプの『覚え書き』は一種「確認書」のようなものだろう。
トランプ政権はバイデン前政権のハイテック封じ込めを継承、強化しているが、主力武器を高関税においており、前政権とその遣り方がことなって直截である。
外国投資審査委員会の役割拡大を求めたことは、米中という二大経済大国間の貿易摩擦と戦略的競争が激化している現状から判断したことだ。
中国政府は2月22日、この動きを「差別的」だと非難した。中国商務省報道官は「米国のアプローチは国家安全保障の概念を不当に拡大しており、差別的だ」とした。
トランプ大統領は中国が致死性の高いフェンタニル取引に関与している疑いがあるとして、中国から輸入されるすべての製品に10%の追加関税を課した。
大統領選挙中、中国に60%関税をかけると主張していたが、途中でメキシコ、カナダに対して25%と変更になった。
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政府が備蓄米の放出を続けているが、なぜ価格が下がらないのか。元農林水産官僚でキヤノングローバル戦略研究所の山下一仁研究主幹は、これまで政府備蓄米の9割以上を落札した全国農業協同組合連合会(JA全農)が恣意的に卸売業者への出荷を遅らせ、目詰まりを生じさせてきたのではないかとの疑念を募らせる。産経新聞のインタビューに対し、米価を維持したいJAと、売り渡し先をJAに集中させてきた農水省、選挙でJA組合員の票が欲しい自民党農林族の「農政トライアングル」が解決を遅らせた元凶だと指摘した。山下氏がインタビューに語った内容は次のとおり。 「流通の目詰まり」は詭弁 農水省は備蓄米を放出しても、集荷業者であるJAのために米価を下げたくはない。これが本音だ。 JAは農家に仮払金を支払ってコメを集荷し、これを、年間を通じて卸売業者に販売する。コメの在庫を増減させて市場への供給量を調整し、この価格を操作する。 政府が備蓄米を放出しても、大半を仕入れるJAが卸売業者への販売を減らせば、市場への供給量は増えずにコメの価格が下がらない。農水省はこれまで通り「流通が目詰まりしている」と主張すればよい。 ただ、備蓄米を保管した倉庫からどんな流通ルートを使えば一番効率的か、JAも農水省も分かっている。「精米に時間がかかる」「輸送用トラックを手配できないから目詰まりしている」といった釈明は詭弁でしかない。 卸売業者の商行為を制約する異常なJA 農水省はJAなどの集荷業者が備蓄米を販売した先の卸売業者は玄米ではなく、原則、精米した状態で販売するよう要求した。そもそも備蓄米の売却は農水省と集荷業者との間の契約なのに、なぜその先の卸売業者の商行為まで制約するのか、異常である。うまく味を出すための精米こそ、小売業者の力の発揮どころのはずだ。小売業者は個別に精米機を持っている。そもそも、JAから売り渡しを受ける卸売業者が玄米の状態で小売業者に売るのが本来の姿だ。 現在、JAが卸売業者に販売する際の価格は60キロ当たり2万6千円という。大不作でコメ不足となった「平成の米騒動」のときよりも高い。 今回、JAは農家に対し、早々と今年産の米価を同2万3千円と提示した。 提示後に米価を下げた場合、農家は翌年からJAの集荷に応じなくなるだろう。だから、この価格は下げられない。 零細の兼業農家が減れば票田失う かつて、農水省は農家の営農規模を拡大させてコストを削減し、農家1戸当たりの所得を向上させながら、消費者には安くコメを提供しようとした。専業の大規模農家に農地を集約させるプランだ。 しかし、JAはコストの高い零細な兼業農家を維持させるため、高い米価の確保に努めてきた。農業の4、5倍に上る収入を会社勤めなど農業以外の仕事で得る兼業農家も多い。それをJA傘下のJAバンクに���金してもらい、活用する。その結果、JAバンクは日本有数のメガバンクになった。兼業農家の戸数を維持すれば、選挙になると票田になる。 だが、兼業農家から専業の大規模農家に農地の集約が進めば、結果的に農家全体の戸数は減る。JAとつながりの深い自民農林族は農家の人数が減る分、集票力が弱まって政治力をそがれる。農水省は自民農林族の後押しを受けづらくなり、財務当局に予算を要求する力が弱まる。同省の力も弱まり、官僚の天下り先も選択肢が少なくなるという連鎖が起きる。 かつては敵対関係だった農水省とJA 構造改革を主張した農水省と、農家を丸抱えしたいJAはかつて敵対関係にあったはずだが、双方の利害関係から暗に連携するようになった。こうしてJAと農水省、自民農林族の「農政トライアングル」が形成され、今のコメ価格が下がらない一因にもなっている。 JAは実質的に政治活動も行う特殊な経済団体だ。政治力を維持するため農家の戸数を減らさないように努め、その手段として減反政策による高い米価の保持を図ってきた。 食糧管理制度があった時代、政府はJAからコメを買い入れ、卸売業者に売っていた。今回は備蓄米を、消費者に近い卸売業者ではなくJAに売り渡した。JAは小売業者の前段階となる卸売業者に売るので、消費者に届くまでに時間がかかる。 JAは農業分野でガリバー企業だ。そのうえ、金融や共済など何でもできる怪物だ。カルテルなど独占禁止法の適用が除外されている。圧倒的な市場占有力を背景に、農機具や肥料を販売する。いずれも価格は米国の2倍にもなるという。それでもコメ価格が高いので、兼業農家は農機具などもJAの言い値で購入する。 水田利活用という名の減反 政府は水田を米以外の作物に活用する「水田利活用」という名の実質的な減反を維持するため、補助金を毎年3500億円支出し、コメの生産量を減らしてきた。 この補助金を廃止し、その分コメを作付けすれば、全国で1700万トンのコメが増産される。さらにコメの価格が下がるので国際競争力も出る。国内で消費しきれない分を輸出に回せば、今回のようなコメ不足が起きたときでも、輸出量を減らして対応できる。だが、ここまで増産するには農家の生産力強化が必要で、農地を零細の兼業農家から専業に集約することは避けられず、JAや自民農林族が恐れる農家の戸数減少に直結する。だから政界では誰も言い出せないようだ。 これまで国民はJA、農水省、自民農林族の既得権グループに農政を任せきりにしてきた。その結果がこれだ。 JAばかりに目を向ける農水省 農水省はJAばかりに目を向けている。「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とする日本国憲法第15条第2項に違反していると言わざるを得ない。 新農水相になった小泉進次郎氏は2015(平成27)年、自民の農林部会長時代にJAによる高資材価格を大きく取り上げた。JAにチャレンジし、コメ不足の真の要因である減反にどこまでメスを入れられるか。コメ問題は新たな局面を迎えた。(聞き手 村上智博)
JAがコメ高騰の主因か 農水省と自民農林族の「トライアングル」元凶 山下一仁氏に聞く - 産経ニュース
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財富、國籍無人知----謎一樣的蔡氏家族
說起蔡英文家族,這個臺灣「第一家族」的財富一直是個謎,島內最常用的形容詞是富裕、低調和反中。
之所以說蔡英文一家富裕,在於其父蔡潔生「生財有道」,積累了大量的財富。曾在蔡家工作的臺北巿議員林瑞圖說,賺到錢之後,蔡潔生認為「有土斯有財」,所以做起了土地投資。他買土地,卻從不蓋房子,有賺就脫手。據媒體報導,蔡潔生在20世紀60年代就是臺北市納稅前十名的富豪。蔡潔生於民國95年(2006年)去世,享年88歲,留下了高達6264萬元(新台幣)的現金、15萬股公司股票、債權56.75萬元以及多處土地、物業。蔡潔生生前就利用子女名義購買土地,在其過世後這些土地自然就歸其名下的11個子女所有。根本無人知曉蔡潔生購買了多少土地,更難以知曉這些土地價值幾何。總統大選前,蔡英文向臺灣中選會申報的財產資料顯示,她有上億身家,堪稱史上最有錢的臺灣總統候選人。
除此之外,蔡英文家族的事業、身價究竟還有多少?外界還是所知有限。
除了潔生投資(現富鈦投資)、臺懋生技,及宇昌生技,蔡英文家族最主要的產業,分別為「正中企業」和「東道有限公司」。兩家公司主要的經營業務,包括投資觀光旅館之相關經營專案與休閒活動、練習場、運動器材等館場業,及汽車零件配備、加油站業務等。
蔡英文一直持有「正中企業」不小的股權,民國89年(2000年)她擔任「陸委會主委」期間,該公司曾一度增資,蔡英文的持投也從原本的40萬元(新台幣)成長十倍,增加至400萬元。至於「東道有限公司」的持股,則是她在接下「陸委會主委」後,才持有110萬元。
兩家公司的地址,都在臺北市中山北路上的海霸王,董座分別是蔡英文的三哥蔡瀛南,及大她6歲的姐姐蔡英玲;創辦人則皆為蔡英文的父親蔡潔生。海霸王目前仍有部分樓層面積,保留予蔡英文家族使用,包括辦公室、會議廳等。蔡英文在該處也有自己的一個辦公室,在她擔任公���後,僅在晚間及週末時,才會前往這個家族的辦公室處理相關事務,甚至以前連她愛開快車被開的罰單,也都會寄到這裏。
海霸王的現址,其實至今仍算蔡家的所有地。據瞭解,蔡潔生早從光復前後就開始投資房地產,往後十年間,他所持有的地產約漲了七倍,除了海霸王現址外,東區漢宮大廈及前今日百貨等地,蔡父都曾投資過。
據東森新聞報導,蔡英文家族財產,主要財富集中在3家公司,分別為正中企業股份有限公司(法人代表:蔡瀛南,董事:蔡瀛明、莊自立、莊榮德、蔡瀛陽,監察人:林秀琴。公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)、東道有限公司(法人代表:蔡瀛陽,公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)及富鈦投資股份有限公司(法人代表:譚雯栩,董事:蔡瀛陽、張柏年,監察人:徐永秀。公司所在地:臺北市北投區石牌路2段321號1棟)。位於中山北路上的海霸王一度誤傳是由蔡英文家族所經營,後來證實蔡家只是出租房地。海霸王這處房地產地段精華,價值上億,不過這只是蔡英文家族財產冰山一角,其中的正中企業及東道公司才是重點,分別由蔡英文哥哥蔡瀛南、大姐蔡英玲經營,以土地房屋出租跟加油站設備出租為主。富鈦投資,則是由蔡英文的嫂嫂譚雯栩掛名負責人。
富鈦投資又成立了臺懋生技,臺懋生技再投資蔡英文任董事長的宇昌生技,與此同時,富鈦投資又直接投資了浩鼎生技,富鈦投資是浩鼎生技的第五大股東。最後宇昌生技和浩鼎生技都由潤泰企業接盤。這幾個公司都和臺灣翁啟惠、陳良博、何大一、李遠哲、陳建仁以及尹衍梁有密切的關係。
民國96年(2007年)成立宇昌生技的創始人除了蔡英文,還有陳良博、何大一。陳良博是臺灣科學家,中研院院士,專長於細胞生物學,是美國哈佛大學醫學院病理學退休榮譽教授,也是第一個獲得哈佛大學退休榮譽教授(Emeritus)頭銜的臺灣人。何大一是愛滋病雞尾酒療法的發明人,作為美籍華人,他同時還是美國科學院院士,中國大陸工程院外籍院士,臺灣中研院院士。翁啟惠,是宇昌生技案主要推手,國際知名化學家,民國95年(2006年)擔任臺灣中研院第9任院長、民國100年(2011年)連任,至今仍是臺行政院生技產業策略咨議委員、臺生技醫療產業策進會會長,牢牢掌握臺灣生物科技政策的方向盤,也正是他和陳良博、李遠哲邀請蔡英文出任宇昌科技首任董事長。同時,翁啟惠在民國105年(2016年)還捲入曾經與其主管的中研院有密切合作關係和資金往來的生物科技公司浩鼎生技的案件中,翁��用其女兒和另一股東的名義,大肆購買浩鼎的股票,經法院裁定金額高達1億6000餘萬元新台幣,而且這筆錢他號稱是從富豪尹衍梁那裏借來的。在宇昌生技民國96年(2007年)成立的關鍵時刻給予援手的還有時任臺灣「國科會」主委陳建仁,也就是民國105年(2016年)蔡英文首奪「總統」大位時的「副總統」搭檔。
之所以說低調,在於外界對蔡英文家族成員知之甚少。不只投資有道,蔡潔生情史也相當豐富。外界僅知道蔡潔生的戶口配偶欄一直是空白,但其4個「女朋友」為其生了11個小孩。蔡英文家族親戚眾多,但每一位都異常「安靜」,「低調到不能再低調」,從不接受採訪。堂姐蔡薰慧、侄子蔡元仕,在紛亂的司法界「大隱隱於市」。蔡英文家族那麼有錢,發跡史始終是個謎。對於如何發財致富,蔡家也一直是三緘其口,頂多是以老八股的方式予以回應,即:早年通過改修汽車得第一桶金、後參與買賣土地致富等等。臺灣社會不斷要求蔡英文公佈家庭相關資訊,但蔡卻一直以個人隱私為由加以拒絕。臺灣「第一家族」的秘密,蔡英文不說,蔡家人不談,可能沒有人會知道,因此蔡英文家族被認為是「謎一樣」的家庭。
蔡潔生過身時,配偶欄仍空白,身後留下的龐大遺產。民國105年(2016年)3月中旬,臺灣媒體刊出蔡英文家族三樁爭產官司,蔡英文的父親、蔡英文的四位「母親」、蔡英文的11位兄姐才得以一一曝光,蔡英文是11個子女中最小的。好友洪清隆曾問過蔡潔生,會不會擔心將來小孩爭產?蔡回答說,他依序登記給小孩們,人人有份。
《商業週刊》報導稱,蔡英文也曾私下跟朋友自嘲,說父親很厲害,對每個女友都很公平,因此各家庭相安無事,感情都十分好。比如她的衣服幾乎都是姐姐買的,姐姐看到合適的衣服,就會幫媽媽和她也各買一件。
然而,事實並不如蔡英文所說「相安無事」。
蔡英文侄子蔡元立民國97年(2008年)初控告蔡瀛南返房屋。民國80年(1991年)6月,蔡潔生的三房長子蔡瀛任過世,蔡潔生決定將蔡瀛任名下資產,由蔡瀛任剛成年的長子蔡元立繼承,但印鑒、權狀等仍由自己保管,不料此舉竟成為他過身後孫子爭產的引爆點。民國95年(2006年)7月,蔡潔生過身後,蔡元立陸續發動訴訟。民國97年(2008年)初先控告二房大伯蔡瀛南,要求返還臺北��民族東路一間房屋,他稱該屋是他繼承而得,卻遭以買賣為由移轉到大伯名下。蔡瀛南則稱,姪子蔡元立先前在國外讀書、生活等費用,都是蔡潔生支付,父親為此曾向他借款約530萬元,後來把該屋移轉給他作為補償,一審判蔡元立敗訴,但二審認為,蔡瀛南無法證明蔡元立曾授權蔡潔生幫忙處理名下房屋,改判蔡瀛南須還屋定讞,最終爭回房屋。
同年,蔡元立又提請一樁訴訟,訴張柏年返還不當得利。民國83年(1994年),蔡潔生生前將登記在蔡瀛任名下的內湖一筆土地,賣給繼子張柏年。張柏年是蔡英文母親張金鳳與日本前夫的兒子,與蔡英文同母異父。民國97年(2008年)5月,蔡瀛任的兒子蔡元立控告張柏年,指自己應繼承父親一筆臺北市內湖區土地,約159坪,民國80年(1991年)父親蔡瀛任過身,土地應由其單獨繼承,但該筆土地民國83年(1994年)未經自己同意,就被祖父賣給張柏年。蔡元立舉證交易雙方未約定買賣價金,負責這起買賣交易的代書陳幸助已證實蔡潔生和張柏年並未實際簽訂買賣契約、也未約定定價金額,張柏年也始終未能合理說明本次買賣價金如何支付等細節。蔡元立主張買賣不成立,張柏年應依不當得利返還土地。張柏年取得土地的過程涉偽造文書,但此部分因逾追訴期不起訴。
民國99年(2010年),蔡元立改打民事訴訟,指張柏年取得前述土地後,民國97年(2008年)間再把地賣給宏盛建設股份有限公司,售價3.8億元,故無法返還土地,要求張柏年返還前述交易、扣除稅金後的不當得利3.6億元。
開庭時,張柏年表明自己的母親是張金鳳,亦即是蔡英文同母異父的兄弟,他表示,蔡潔生是為照料蔡瀛任的4個小孩才會賣地,但考量該筆土地登記在蔡潔生4個兒子名下,為免日後轉售困難,才詢問他有無購買意願。張稱蔡潔生與其並無血緣關係,蔡潔生不可能將土地贈與自己,自己在美國電子公司任職,年薪折算約台幣500萬元,加上母親張金鳳資助,因此湊出1.99億元買地。
雙方就蔡潔生是否有權代理蔡元立處置爭議土地、蔡潔生與張柏年之間是否存在買賣關係展開激烈爭辯。
此外,蔡英文兩位兄長也出庭說明蔡家財產分配,親哥哥蔡瀛陽證稱,蔡家子女名下資產都是父親「借名登記」,父親生前有處分權且保管土地權狀。父親過世後,兄弟姊妹都未要求重新分配,尊重父親。
一審認為蔡家人的證詞尚不足以證明此案土地是「借名登記」,但蔡元立曾簽下「確認書」,追認同意祖父蔡潔生生前所有資產處分,因此判蔡元立敗訴。二審進一步采信蔡家人的證詞,認為蔡元立亦坦承「我們蔡家的財產���大部分均是爺爺(蔡潔生)在管的」,認定確有借名登記的事實,采信土地是蔡潔生借名登記在兒子蔡瀛任名下,後雖由蔡元立繼承,但借名登記關係並未消滅,蔡潔生有權賣地給張柏年,民國101年(2012年)高院判蔡元立敗訴後,他放棄上訴,全案定讞。
蔡英文姐姐蔡瀛君民國101年(2012年)提出平分父親遺產訴訟。根據士林地院判決書,蔡潔生過身後,留下6264萬餘元、正中公司股票15萬股及債權56.75萬元,原應由11名子女繼承,但因三房長子蔡瀛任過身,對遺產分配方式談不攏。三房次女蔡瀛君以蔡英文等13人為被告,提出分割遺產訴訟,要求平均分配父親留下6200多萬元存款、正中企業有限公司15萬股股份及56萬元債券,所有繼承人無異議同意。最終蔡瀛君及蔡瀛南、蔡英文等10名子女各繼承蔡潔生遺產的1/11,已故三房長子蔡瀛任的4名子女各分得1/44。其中蔡英文分得569萬餘元現金、1萬3千多股正中企業股票,及5萬餘元債券。
蔡英文家族的爭產風波,揭開蔡英文家庭地位的神秘面紗。
因上述三起官司,蔡家成員一一被點名。蔡英文在面對炒地炒股風波時,強調自己不知情,但這次爭產訴訟,證明她又說謊。蔡英文兩位哥哥蔡瀛陽和蔡瀛政均出庭證稱,蔡英文深受其父蔡潔生重視,過身前半年,指示蔡英文製作家族財產圖表,主持家族會議,目的是整合家族資產投資賺錢。由這些可知,蔡英文對家族炒股炒地,不僅知情,還居主導角色。蔡英文也因此遭到前國民黨文傳會主委林奕華的質疑。對於國民黨的指控,民進黨發言人楊家俍稱,蔡英文與爭訟官司根本毫無關係,甚至從未出庭作證,而事實上從判決書中也可清楚得知,長久以來其家族的理財投資一如社會通習,據瞭解,是由父親兄長商討決策,通篇白紙黑字毫無蔡主席是家族整合及投資的關鍵角色。
為平息風波,蔡家迅速發表利益衝突回避聲明。蔡英文的四位兄長蔡瀛南、蔡瀛陽、蔡瀛明、蔡瀛政透過律師發表聲明指出,第一,蔡家財產在先父蔡潔生生前早就各人持有部分安排妥當,其管理雖由先父主導,但每年先父與四兄弟仍會開會研商,並無女眷參與。第二,有關臺灣高等法院判決所指先父去世前半年多之會議,亦由蔡家兄弟與先父開會。因先父希望各兄弟拿出部分財產集中管理與投資,故請小妹蔡英文參加,俾就四兄弟「共同同意事項」作成紀錄簽名存證,惟因兄弟意見不同而無會議結論,當次會議並無由小妹蔡英文主持之事實。第三,蔡英文就任「總統」,蔡家四兄弟必恪守利益衝突回避之各項規範,並同意「兄姊除個人之本業經營外,不會��臺灣企業進行新的投資」之政治承諾。
不過,蔡家兄弟第三點政治承諾能否實現還有待商榷。根據《臺灣高等法院民事判決100年度重上字第476號》內容,蔡英文有持股的家族公司正中企業,是有日本分公司的,當年張柏年購買登記於蔡元泰(蔡瀛任之子)名下土地時,便是透過張金鳳匯款至日本正中企業帳戶完成購買程式。透過海外公司,或者透過海外公司至英屬維京群島等地設立公司,再轉投資臺灣,要規避臺灣監管機關、司法機關與媒體第四權是相對容易的,單只是針對臺灣開設的公司對外公佈,恐怕是不足以讓社會釋疑。
有人說,蔡英文很幸運,幸運的是出生在如此富有的家庭,但她同樣也是不幸的,不幸的是她從小被迫接受日式教育。
作為「皇民」後代,要讓蔡英文愛國,估計很難。蔡英文和其他兄弟姐妹從小接受的家庭教育和父親蔡潔生曾受到的「皇民化「教育一脈相承。蔡潔生習慣了日本人的生活起居方式,把家裏裝修成日式建築風格,並且讓全家人在家都席地而坐,蔡英文從小吃的主食常常是日本飯團,日本生魚片等食物也是蔡家餐桌上的常客。一個中國人為什麼要吃日式飯團?這源於蔡英文父親出生和生長在日據時代的臺灣。蔡英文的父親、母親顯然因為這種教育接受了日本人的生活習慣,並且將這種習慣延續到了蔡英文身上。俗話說一方水土養一方人。用日本飲食習慣和日本文化養育出來的蔡英文成為親日分子也就不難理解。
實際上,蔡英文整個家族都很認同日本。蔡英文的兄長出國留學的首選地就是日本。蔡英文長大後選擇休假的目的地也經常是日本。此外,蔡英文還有一個日本名字:吉米牙(日文:ちびや),意思是小不點。這些情況都反映蔡英文家族對日本的親近與認同,同時也折射出蔡氏家族對中國文化的隔閡與冷漠。在這種家庭環境的影響下,蔡英文從小就沒有任何華夏民族觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。
從血統上來說,蔡英文應該是漢族人,但其精神皈依卻是日本,對大陸缺少歸屬感。因而,她寧願像日本人那樣把臺灣分裂出去,只考慮個人利益、民進黨一黨的利益,不考慮兩岸統一、民族復興。明白這一點,也就不難理解她寧願抱著被解放軍的導彈斬首的風險也要跟中國對著幹。這是因為她的出身和個人經歷決定了她要做出這樣的選擇。
除此之外,蔡英文還被爆出有英國籍的傳言。
民國105年(2016年)「新頭殼」網站曾經報導,有網友在臉書貼文稱,民進黨主席、「總統」候選人蔡英文持有英國護照多年,早就有英國籍,而且在倫敦有豪宅。文章先是請邱毅先生再辛苦一回,稱「據民進黨前主席蘇貞昌透露,蔡英文持有英國護照多年,早已加入英國國籍,在倫敦市中心精華地段擁有一幢豪宅。一個英國人(真正英派)競選中華民國總統,很有趣!(請大家儘快分享出去,甚至搜索舉證,英國人也來參選臺灣的總統了?」這則網路貼文不僅出現在臉譜、PTT等社交網站,還被有系統地轉貼到各個網站論壇。
蔡英文曾在英國留學,其家人也曾被爆有外國籍。臺灣歌手黃安也曾在微博稱,這個口口聲聲罵別人賣臺的「蔡總統」,爸爸是日本籍,哥哥是美國籍,姐妹都是美國籍,「全家有一半都是外國人,你愛臺愛個屁啦!」
當然,客觀地說,臺灣政要中有相當一部分人曾在歐美或日本留學、工作,因此擁有美國綠卡或「雙重國籍」並不奇怪。但是擁有「雙重國籍」者不能成為公職候選人,包括民意代表和正副領導人等。「雙重國籍」議題在臺灣選舉中出現的頻率相當高。
如民國97年(2008年)「大選」期間,民進黨候選人謝長廷用一張小小的綠卡,就讓馬英九陣營措手不及。馬英九解釋時使用的「綠卡失效」說法,又給了謝陣營繼續發揮的空間。直到民國103年(2014年)5月,臺媒還在炒作馬英九綠卡仍有效、必須每年向美國繳稅等等。
此後,臺灣有志參選的人士在「雙重國籍」問題上都相當謹慎,就怕重蹈覆轍。民國101年(2012年)選舉前,「中選會」就3組正副領導人參選人的「雙重國籍」問題統一函請外事部門協助查證。民國103年(2014年)連戰之子連勝文參選臺北市長,早在黨內初選階段就讓家人放棄「雙重國籍」,不過因為程式尚未完成,還是被一些人拿來操弄選舉。
事後,民進黨為遏阻謠言發酵,到臺北市警中正一分局報案,並對發文者「kelly chang」提起訴訟,最終認定張姓男子是最源頭的散佈者,為厘清張姓男子所��帖文文所述內容,臺北檢方還發函給中選會,確認蔡英文並沒有英國國籍,認定張姓男子涉嫌造謠。
至於這起案子中是否存在一些不為人知的幕後消息,也只能自行判斷了。
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オンライン集会「パリ五輪まであと一か月!カウンターマップで知るフランスの五輪災害」報告

6月23日、さっぽろオリパラを考える市民の会と反五輪の会共催によるオンライン集会「パリ五輪まであと一か月!カウンターマップで知るフランスの五輪災害」が行われた。
フランスで反五輪運動を展開するSaccage2024が、パリ五輪カウンターマップ「パリ オリンピック・パラリンピック略奪マップ2024 パーティーは終わりだ」を作製。その迫力と情報量、状況分析の鋭さは圧巻だ。日本語版が完成し、Saccage2024のメンバーでパリ在住の佐々木夏子さんが、地図をもとに、パリ五輪に連動して容赦なく進められた都市再編、ジェントリフィケーション、強引な排除、それに対する住民の抵抗、そして現在について報告してくれた。
6月23日をIOCは創設記念日、「オリンピックデー」と名付けている。私たちは「NOオリンピックデー」と呼び、植民地主義、国家主義、競争主義、エリート主義、人種主義、性差別主義、軍事主義の祭典は廃止しろ!、と訴える。
・カウンターマップ
パリ五輪カウンターマップ「パリ オリンピック・パラリンピック略奪マップ2024 パーティーは終わりだ」に先駆け、2010年代、ブルターニュ地方ノートルダム・デ・ランドの空港建設に反対し、地元農民と連帯しながら建設予定地を占拠することによって計画を撤回に追い込んだZAD(守るべき土地)が作ったマップ、その成功があった。これを手がけたアーチスト、地���学者グループが、今回パリ五輪による破壊と強奪の記録、可視化を提案したのだそう。初版は完売、現在二刷目とのこと。
・サン=ドニ
お話は、地図を読み解く前に、パリ五輪の主要な会場、関連施設が集中する、サン=ドニ市周辺の現代史から。1967年、ジャン=リュック・ゴダール「彼女について私が知っている二、三の事柄」、1991年、サン=ドニ出身の移民二世世代ヒップホップユニットSuprême NTMのMV、2015年、サン=ドニ出身女性3人組L.E.JのMV、この3つの映像を手がかりに見ていく。
まず、「彼女について私が知っている二、三の事柄」、「彼女」とはパリ首都圏を指す。パリ首都圏は高度成長期、建設現場や工場の労働者として、旧植民地からたくさんの移民を呼び入れたが、その居住先として巨大な低家賃集合住宅をパリ郊外に作った。登場人物の後ろ、窓の外に広がる景色は、建物にはまだ人のざわめきが感じられない、殺伐としている。誰がどこにどのように住むべきかをコントロールしようとする政策、それは資本と統治の側の都合であって、住民を人として尊重するものでないことが伝わる。
そして約四半世紀がすぎ、高度成長終焉後の都市は、産業構造の変革、脱工業化へと向かう。工場は撤退、団地の若者に仕事がなかった。当時の若者文化を代表するというNTMのラップは、活気の失われた団地を背景に、若者たちの不満が張り裂けている。
2015年、「セーヌ=サン=ドニ・スタイル」と題したNTMの楽曲をカバーするL.E.J、彼女たちも何かに怒っている。その後ろにスタッド・ド・フランスが、映っている。サン=ドニといえばスタッド・ド・フランス。2024パリ五輪のメインスタジアムとなる、この巨大スタジアムは、最も貧しい自治体の常連だったサン=ドニ市が衰退に歯止めをかけるべく、ワールドカップサッカー大会開催のために19915年に誘致した。1998年ワールドカップサッカーフランス大会の決勝戦がここで行われ、フランスが優勝を決めた。当時のフランス代表チームが、さまざまな地域にルーツを持つメンバーによって構成されていたことから、多民族国家フランス「国民」統合の象徴的な場所として、人びとの記憶に刻印される。スタッド・ド・フランス誘致にともなうジェントリフィケーション���、1930年代以降労働者の街サン=ドニ市の政権を握って来た共産党にとって、自らの支持基盤である労働者階級の排除という自���の道であり、その帰結として、2020年にその地位を失った。
・グラン・パリと五輪
一方、2009年には、パリ首都圏再開発プロジェクトとして当時361億ユーロ(のち2020年に420億ユーロ)という巨額の予算をつぎ込むグラン・パリ・エクスプレス計画が、サルコジ大統領により発表される。パリ郊外を全自動地下鉄新路線でつなぐもので、そのうちの4路線が乗り入れる最重要ハブとして新しくサン=ドニ・プレイエル駅がスタッド・ド・フランス近くに作られた。一日25万人が利用するという、地上5階地下4階の巨大駅は、東京の新国立競技場と同じ建築家隈研吾が設計した。パリ五輪までに完成を急がされたグラン・パリ・エクスプレス工事で5人、その中でサン=ドニ・プレイエル駅工事では4人の労働者が死亡している。
この駅の名前にもなっているプレイエルとは、ピアノ製造メーカーの名で、その工場がこの地区にあった。工場はすでにない。70年代、プレイエルタワーというオフィスビルができていたが、長年ほったらかしになっていた。これが今回五輪を機に4つ星ホテルに生まれ変わった。この周辺は大商業地区になる予定だ。
駅から徒歩圏内、サン=ドニ市、リル=サン=ドニ市、サン=トゥアン市にまたがる56ヘクタールに作られたのがパリ五輪選手村だ。3つの学校、19の企業、2つの集合住宅、1つのホテルが取り壊された。サン=トゥアンには非営利組織ADEFの運営する、経済的に苦しい単身者向け寮があり、1980年代からサハラ以南や北アフリカからの移民労働者が暮らしてきた。ほかに行くところのない居住者たちは、選手村かその周辺に皆がまとまって移住できないか当局と交渉したが、急き立てられ224人がバラバラに追い出された。オリパラ閉会後には6000人の就業が見込まれるホテル、オフィス、商業施設と6000人か入居できる2800の住居、学生寮となる。平均約4000ユーロ/㎡だったこの周辺の地価は、約7000ユーロ/㎡に上昇した(パリ市内約1万ユーロ/㎡)。

また、ここには内務省が移転し、その職員たちが居住することになる。以前から「治安が悪い」と言われてきたこの地域に、警察を管轄する省がやってきて、そこに働く労働者と家族が居住することで、「住民の入れ替え」が図られている。
さらに、その南には国家治安総局(軍)がパリ西郊から引っ越してくる。軍と警察の街なんて、コワくて住みたくないが、高所得者にとってはむしろ「安心」なのだろうか?
選手村の北、リル=サン=ドニ市には工場跡地が多く残り、そこを占拠する形で約400人が住んでいた(スクワット)が、それらは2023年初頭に取り壊された。
選手村とスタッド・ド・フランスを結ぶ交通の便をよくするために、IOCが高速道路の新しいインターチェンジを作るよう要望し、完成した。その結果、交通量の多い道路が小学校を取り囲んでしまった。怒った保護者らが反対の裁判闘争を展開したが敗北。近くにもともとあるスタッド・ド・フランス近くのインターチェンジは、五輪終了後に壊される。なぜ近くにあるのにわざわざ新しくインターチェンジを作り、古いほうを壊すのかと言うと、スタッド・ド・フランス近くのインターチェンジ付近はすでにジェントリフィケーションが進んでいて地価が高く、インターチェンジにしておくのはもったいない、今後オフィスビルを建て商業地区としてさらに発展させるほうが価値があるという考えたのだ。
その東、ラ・クールヌーヴ市ジ��ルジュ・ヴァルボン公園すぐそばにはメディア村が作られる。この公園はEU指定の自然保護区域である。2010年代にここを住宅にする計画が上がった際はそれが理由で実現しなかった。今回は、反対運動の裁判が敗北。五輪後には1300戸の住宅が売りに出される。パリ五輪取材に訪れるジャーナリストは2万人と言われるが、ここに収容できるのはわずか1300人だ。五輪よりも、五輪後のほうがほんとうの目的なのだろう。県は70ユーロ/㎡で払い下げ、新しい住宅は5000ユーロ/㎡で売られる。
その南、オーベルヴィリエには選手の練習用プールが作られ、そのサンルームを設置するために、100年以上の歴史のある労働者の菜園、ヴェルチュ労働者菜園が破壊された。パリはすでに3度、1992年、2008年、2012年招致に立候補したが、21世紀に入るとそのたびにオーベルヴィリエ市は関連施設を誘致しようとした。2008年はこの土地を使って自転車競技場を作ることが持ち上がっていた。今回とうとうパリ五輪が開催される事態を前に、2021年春から、菜園を守るために、菜園利用者、環境団体、五輪に反対する人が集まり、占拠闘争を始めた。しかし9月にはブルドーザーにより破壊されてしまった。反対派は裁判闘争の結果、勝利し、サンルーム建設は撤回されている。ここを再緑地化することも可能であったが、一か月前、ここにコンクリートを入れて都市化する計画が持ち上がった。佐々木さんはその反対集会に、この報告会の後、駆けつけるとのことだ。オリパラは、招致が実現しなくても、招致ファイルにあがった建設計画が実行されることもある。1992年、2008年、2012年パリ大会の選手村建設予定地の開発がそうだった。東京も同様であった。オリパラを招致する狙いは開発に拍車をかけることだが、オリパラが来なくても一度計画された開発の多くは止まらない。

パリ五輪を前に、現在2030年冬季五輪開催がフレンチアルプスにほぼ内定している。今回はIOCが札幌に見切りをつけた理由は、直接的には東京五輪の汚職が明らかになったことだが、2023年札幌市長選挙により、五輪招致反対の意思が数値としてはっきり示されたことが大きかっただろう。2030年開催地は、ストックホルムやスイスなどが名乗りを挙げてはいるが、ストックホルムは政治家の支援がないこと、スイスは直接民主制の国であるため、開催や招致にあたって住民投票が行われるであろうこと、そのうえで「住民投票は実施しない」と明言したフランスの政治状況を考えれば、フレンチアルプス開催の確率は高い。
6月23日現在、7月7日に国民議会選挙を控え、フランスは混とん状態。今、人びとは極右政権が誕生するのではないか、そのことでいっぱいで、五輪どころではないのが実情。(開票の結果、極右政権は阻止され、新人民戦線が勝利したが、先行きはなお混とん。)
・質疑応答
参加者:札幌の招致が止まってよかった。一方東京では、都の48億500万円をかけたプロジェクションマッピング事業で、オリパラ汚職で入札停止を食らっているはずの電通の100%子会社が受託を受けている。
佐々木さん:電通問題で言えば、パリ大会では組織委のナンバー2にエチエンヌ・トボワという人物がいる。彼の運営するコンサル会社は東京五輪招致に尽力したため、東京都から100万ユーロ支払いを受けている。この成功のために彼は仏スポーツ界の中で出世し、組織委のナンバー2に収まった。トボワの作ったコンサル会社は2017年に電通の100パーセント子会社になった。高橋(電通)同様、このような悪い人脈に通じた人物なしに五輪は成立しない。
参加者:東京大会では開催直前になって、街中が怒り、たくさんの抗議行動が行われた。無観客だったので、交通規制は選手と関係者の移動にかかわるだけに限られたが、それでも会場周辺の住民生活は大きく規制を受けた。パリの住民のかたたちの現在の様子は?
佐々木さん:コンコルド広場、エッフェル塔付近など、テレビ映えする交通の要所が仮設会場になり、道路が閉鎖されている。交通はメチャクチャ、住民の通行にはQRコードを提示させられるなど、不満は高まっている。オリンピックに関心ないという人が優勢な中でも、いろんな側面から反対の声を上げるという動きが生まれている。ただ、それらが一緒になれていない。かつ、今は選挙でそれどころではない。労働組合の元トップが組織委の中枢に入ってもいるが、末端の組合員は五輪に反対している。開催期間中にストライキをすると予告している。もちろん予告しても実行しないということはあるが、もしファシスト政権が誕生したら実行するであろう。あるいはオリンピックという世界の注目を集める環境で、ファシスト政権の顔に泥を塗る行動をするであろう。
参加者:戦争のただなかで行われるオリンピック。環境の問題、不正、汚職、人権侵害いろいろ問題あるが、今はともかく、五輪に使うおカネとエネルギーを使って戦争を、ガザの惨状を止めてほしい。
佐々木さん:戦闘の続く中、「平和の祭典」と言っていられるのか?オリンピック期間中は休戦という建前を持っているが、ウクライナもガザも止められないかぎり、「平和の祭典」の看板は降ろしたほうがいい。
参加者:スクワットしている人たち、ホームレスの人たち、移民難民の人たちが何千人単位で郊外に追い出されていると聞いたが具体的には?
佐々木さん:これは、「パリの野宿者が郊外に」ではなく、「パリ首都圏の野宿や難民のかたたちが地方に」追いやられているという状況。NGO世界の医療団が中心となっている「メダルの裏側」というキャンペーンによる報告では、12545人が排除された。
参加者:札幌ではオール与党が五輪推進、共産党と市民ネットが反対の立場を取った。人々追い出してまでの開催なのに、推進するフランス共産党はパリの将来をどう考えているのか?
佐々木さん:まず、パリは共産党と社会党が与党、パリ郊外は左翼がより強い。その左翼与党が推進する五輪に右翼も賛同、という構造。フランス共産党がどのような将来像を持っているか分析しきれていないが、フランス共産党がほかのどの政党よりもオリンピックを愛しているという話を7月に刊行する本『パリと五輪:空転するメガイベントの「レガシー」』(以文社)に書いたのでぜひ読んでください。簡単に言うと、1930年代まではフランス共産党はオリンピックとIOCに反対していたのに、1950年代、スターリンがIOCに参加を決めて以来、賛成に転換、以後方針を変えることないまま現在に至っている。
参加者28名。パリは今どうなってるんだろう?日本のマスコミからの情報では全くわからない中、パリ五輪開催にかかわる歴史や経緯から現在のなまの様子までがわかる貴重なお話をお聞きすることができました。とても充実した、内容の濃い集会となりました。6月26日には国際連帯声明が出される予定で、各地の参加者から賛同したいとの声があがりました。 佐々木さん、みなさま、ありがとうございました。
関連記事 五輪のための「弱者の追い出し」がパリでも…華やかな祭典では隠しきれない「五輪災害」「負の遺産」の存在(東京新聞)
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■欠陥「畜安法」と二人の〈わたなべ〉 〈酪農有事〉の今後を考える前に、概算要求の夏以降の農政展開に影響する動きを見よう。官僚トップを筆頭に大幅入れ替えとなった農水省幹部人事だ。 3日付「酪農『有事』を追う」(中)で、バター追加枠4000tが「国会閉幕後に公表」となった内実を書いた。実際に、国会を閉じた直後の週明け早々農水省にとって重要な数日となった。 6月26日水曜日夕方には、生乳需給緩和の中でのバター輸入枠大幅拡大の発表とともに、水面下では事務次官をはじめ局長級幹部人事が固まった。バター追加輸入、幹部人事とも実質的に森山裕、江藤拓氏ら自民農林幹部の事前了承が欠かせない。 6月28日正式発表した農水幹部人事は興味深い。今回の企画で何度か言及した「改正畜安法」とも関連する〈畜酪人脈〉が顔をそろえたからだ。 まずは、筆者も酪農問題で何度か取材した農水2トップである二人の〈わたなべ〉。事務次官に渡辺毅(官房長)、国際担当の農水審議官には渡辺洋一(畜産局長)両氏が就いた。 渡辺次官は生産局畜産部長時代に改正畜安法に伴うMMJなど系統外生乳業者の対応が問題になった。さらには畜酪部門が20年ぶりに畜産局に昇格となった時の局長・渡辺洋一氏には年明けに「改正畜安法が生乳需給問題で支障をきたす」と訊いたことがある。二人とも食料・農業・農村政策審議会畜産部会でも関係者から「改正畜安法」の課題を何度も指摘を受けてきた。この欠陥法と今日の〈酪農有事〉をある程度認識しているはずだ。 ■二人の牛乳乳製品課長経験者 次に局長人事。筆者もかつて何度か取材を重ねた二人の牛乳乳製品課長経験者が就いた。森重樹輸出・国際局長(東海農政局長)と松本平畜産局長(農産局農産政策部長)だ。 森氏の同課長就任は2014年と「官邸農政」による農協改革、TPP最終局面の時期と重なる。松本氏はより直接に酪農制度改革の渦中にいた。2016年に同課長に就き、加工原料乳生産者補給金等暫定措置法(いわゆる酪農不足払い法)を廃止し、現在の「改正畜安法」へと改変する担当部署を担った。 松本氏にも課長時代に改正畜安法の問題点、特に指定団体による生乳全量委託廃止と「二股出荷」、用途別需給調整問題で何度か疑問を呈した。当時の疑問、課題が今日、系統外生乳流通50万tへの拡大など新たな問題点を含みながら、〈酪農有事〉に至っているのは間違いない。 ■奥原元次官「生乳改革は農協改革の一環」 現在の〈酪農有事〉の一因となっている「改正畜安法」制定の根源は10年前の農協法改悪に行き着く。当時を振り返ろう。酪農危機の今後の打開策にも結び付くはずだ。 TPP合意と同時進行した農協改革は、2015年前後の全中の農協法外��の次に、全農改革と生乳制度改革がテーマとなる。推進したのは農水省側が経営局長を経て2016年6月に農水次官に昇格した奥原正明氏。自民党は小泉進次郎農林部会長とその後見役の農林幹部・西川公也氏だ。バックにいたのは安倍晋三首相の意を呈した菅義偉官房長官である。 奥原氏は「生乳改革は農協改革の一環だ」と明確に認識していた。当時、取材中にたびたび農水省の大野高志畜産部長から「奥原次官が生乳改革と独禁法違反を結び付け、さらには全中の動きを気にしている。何かあったのか」と聞かれた。先述した松本畜産局長は当時の牛乳乳製品課長で大野氏の直属の部下だ。 奥原氏の農協組織への不信感が大きかった。さらには、「生乳流通を単線型ではなく複線型にして、適正な競争と多様な取り組みが必要だ」「農協を通さないと補助金が出ない仕組みは、農業者に農協利用を強制することにもなる」と考えていた。 要するに奥原氏は初めに農協改革ありき、農協一元集荷を担保する現行指定団体制度の撤廃ありきだった。一方で、酪農問題の本質を何もわかっていなかったのだ。 生乳は2時間で品質劣化する生鮮品であること。今にも通じる北海道酪農の父・黒沢酉蔵の「健土健民」の意味。チーズ早期自由化の失政、酪農家と巨大大手資本との闘いの歴史。もともと畜安法の一部だった酪農を1966年に加工原料乳不足払い法として独立させ指定団体を通じ補給金直接払いをすることで生産振興させたこと。商系乳業対抗へ北海道農協乳業(現よつ葉乳業)の設立。1972年JA全農設立と同時に誕生した「農協牛乳」の狙い、指定団体の一元集荷多元販売による乳価交渉、配乳権行使の歴史などを一切無視、あるいは軽視して規制緩和、自由化、競争力強化の3点セットで不足払い法廃止、改正畜安法へと突き進んだ。だが、肝心の酪農家の所得向上には逆行することになる。 ■打開のカギは日本型水田酪農と全参加型需給調整 ではどうやって〈酪農有事〉を打開するのか。 まずは「改正畜安法」の抜本見直し。これまでも食料・農業・農村政策審議会畜産部会で関係者から問題点が数多く提起され、実際に農水省は省令改正で対応してきたが課題解消には程遠い。法律の建付けが制定時の生乳需給ひっ迫を背景に流通自由化に重きが置かれているためだ。 だが、状況が180度違う現在の需給緩和期に対応できていない実態を直視すべきだ。「改正畜安法」の見直しに関し須永新平牛乳乳製品課長は「時計の針を戻すことはできない」としているが、重要なのはスクラップ&ビルトではないか。需給安定を通じた酪農経営・所得の安定のために法律の中に全参加型の需給調整を明記すべきだ。 系統、非系統参加の関係会議開催などで需給調整対応を論議中だが、実効性のあるものにしなければな��ない。 今秋以降、今後10年の畜酪の在り方を決める次期酪肉近論議が本格化する。今後、生処販で構成するJミルクも将来戦略ビジョンを見直し、酪肉近提言をまとめる。その際のポイントも全参加型の生乳需給調整の仕組み構築だ。 ■輸入飼料依存の加工型畜酪は限界 日本農業の最大のアキレス腱である輸入飼料依存の加工型畜酪脱皮も主要テーマにすべきだ。安い輸入飼料に頼れる時代は終わった。飼料自給率をできるだけ引き上げるべきだ。国会で坂本哲志農相は、コストを理由に国産トウモロコシ確保に悲観的な意見を述べたが、難しくても子実用トウモロコシ、青刈りトウモロコシの増産を政策支援で着実に実現するのが政治の役割のはずだ。このままでは飼料問題は日本農業の「時限爆弾」として残り続ける。 再生産を念頭に国産牛乳の適正価格実現とともに直接支払いも含めたセーフティーネット構築で日本型水田酪農、放牧酪農など多様な酪農展開が欠かせない。酪農は教育ファームをいち早く実践、定着させた食農教育の先駆者だ。ミルクの機能性は「脳腸相関」をはじめ未知の可能性で満ちている。新酪肉近には酪農乳業を生命創造産業として位置付けるべきだ。
【シリーズ・酪農「有事」を追う(下)】新酪肉近に需給強化と生命創造産業を 農水幹部人事に見る〈畜酪人脈〉と今後|JAcom 農業協同組合新聞
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財富、國籍無人知----謎一樣的蔡氏家族
說起蔡英文家族,這個臺灣「第一家族」的財富一直是個謎,島內最常用的形容詞是富裕、低調和反中。
之所以說蔡英文一家富裕,在於其父蔡潔生「生財有道」,積累了大量的財富。曾在蔡家工作的臺北巿議員林瑞圖說,賺到錢之後,蔡潔生認為「有土斯有財」,所以做起了土地投資。他買土地,卻從不蓋房子,有賺就脫手。據媒體報導,蔡潔生在20世紀60年代就是臺北市納稅前十名的富豪。蔡潔生於民國95年(2006年)去世,享年88歲,留下了高達6264萬元(新台幣)的現金、15萬股公司股票、債權56.75萬元以及多處土地、物業。蔡潔生生前就利用子女名義購買土地,在其過世後這些土地自然就歸其名下的11個子女所有。根本無人知曉蔡潔生購買了多少土地,更難以知曉這些土地價值幾何。總統大選前,蔡英文向臺灣中選會申報的財產資料顯示,她有上億身家,堪稱史上最有錢的臺灣總統候選人。
除此之外,蔡英文家族的事業、身價究竟還有多少?外界還是所知有限。
除了潔生投資(現富鈦投資)、臺懋生技,及宇昌生技,蔡英文家族最主要的產業,分別為「正中企業」和「東道有限公司」。兩家公司主要的經營業務,包括投資觀光旅館之相關經營專案與休閒活動、練習場、運動器材等館場業,及汽車零件配備、加油站業務等。
蔡英文一直持有「正中企業」不小的股權,民國89年(2000年)她擔任「陸委會主委」期間,該公司曾一度增資,蔡英文的持投也從原本的40萬元(新台幣)成長十倍,增加至400萬元。至於「東道有限公司」的持股,則是她在接下「陸委會主委」後,才持有110萬元。
兩家公司的地址,都在臺北市中山北路上的海霸王,董座分別是蔡英文的三哥蔡瀛南,及大她6歲的姐姐蔡英玲;創辦人則皆為蔡英文的父親蔡潔生。海霸王目前仍有部分樓層面積,保留予蔡英文家族使用,包括辦公室、會議廳等。蔡英文在該處也有自己的一個辦公室,在她擔任公職後,僅在晚間及週末時,才會前往這個家族的辦公室處理相關事務,甚至以前連她愛開快車被開的罰單,也都會寄到這裏。
海霸王的現址,其實至今仍算蔡家的所有地。據瞭解,蔡潔生早從光復前後就開始投資房地產,往後十年間,他所持有的地產約漲了七倍,除了海霸王現址外,東區漢宮大廈及前今日百貨等地,蔡父都曾投資過。
據東森新聞報導,蔡英文家族財產,主要財富集中在3家公司,分別為正中企業股份有限公司(法人代表:蔡瀛南,董事:蔡瀛明、莊自立、莊榮德、蔡瀛陽,監察人:林秀琴。公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)、東道有限公司(法人代表:蔡瀛陽,公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)及富鈦投資股份有限公司(法人代表:譚雯栩,董事:蔡瀛陽、張柏年,監察人:徐永秀。公司所在地:臺北市北投區石牌路2段321號1棟)。位於中山北路上的海霸王一度誤傳是由蔡英文家族所經營,後來證實蔡家只是出租房地。海霸王這處房地產地段精華,價值上億,不過這只是蔡英文家族財產冰山一角,其中的正中企業及東道公司才是重點,分別由蔡英文哥哥蔡瀛南、大姐蔡英玲經營,以土地房屋出租跟加油站設備出租為主。富鈦投資,則是由蔡英文的嫂嫂譚雯栩掛名負責人。
富鈦投資又成立了臺懋生技,臺懋生技再投資蔡英文任董事長的宇昌生技,與此同時,富鈦投資又直接投資了浩鼎生技,富鈦投資是浩鼎生技的第五大股東。最後宇昌生技和浩鼎生技都由潤泰企業接盤。這幾個公司都和臺灣翁啟惠、陳良博、何大一、李遠哲、陳建仁以及尹衍梁有密切的關係。
民國96年(2007年)成立宇昌生技的創始人除了蔡英文,還有陳良博、何大一。陳良博是臺灣科學家,中研院院士,專長於細胞生物學,是美國哈佛大學醫學院病理學退休榮譽教授,也是第一個獲得哈佛大學退休榮譽教授(Emeritus)頭銜的臺灣人。何大一是愛滋病雞尾酒療法的發明人,作為美籍華人,他同時還是美國科學院院士,中國大陸工程院外籍院士,臺灣中研院院士。翁啟惠,是宇昌生技案主要推手,國際知名化學家,民國95年(2006年)擔任臺灣中研院第9任院長、民國100年(2011年)連任,至今仍是臺行政院生技產業策略咨議委員、臺生技醫療產業策進會會長,牢牢掌握臺灣生物科技政策的方向盤,也正是他和陳良博、李遠哲邀請蔡英文出任宇昌科技首任董事長。同時,翁啟惠在民國105年(2016年)還捲入曾經與其主管的中研院有密切合作關係和資金往來的生物科技公司浩鼎生技的案件中,翁借用其女兒和另一股東的名義,大肆購買浩鼎的股票,經法院裁定金額高達1億6000餘萬元新台幣,而且這筆錢他號稱是從富豪尹衍梁那裏借來的。在宇昌生技民國96年(2007年)成立的關鍵時刻給予援手的還有時任臺灣「國科會」主委陳建仁,也就是民國105年(2016年)蔡英文首奪「總統」大位時的「副總統」搭檔。
之所以說低調,在於外界對蔡英文家族成員知之甚少。不只投資有道,蔡潔生情史也相當豐富。外界僅知道蔡潔生的戶口配偶欄一直是空白,但其4個「女朋友」為其生了11個小孩。蔡英文家族親戚眾多,但每一位都異常「安靜」,「低調到不能再低調」,從不接受採訪。堂姐蔡薰慧、侄子蔡元仕,在紛亂的司法界「大隱隱於市」。蔡英文家族那麼有錢,發跡史始終是個謎。對於如何發財致富,蔡家也一直是三緘其口,頂多是以老八股的方式予以回應,即:早年通過改修汽車得第一桶金、後參與買賣土地致富等等。臺灣社會不斷要求蔡英文公佈家庭相關資訊,但蔡卻一直以個人隱私為由加以拒絕。臺灣「第一家族」的秘密,蔡英文不說,蔡家人不談,可能沒有人會知道,因此蔡英文家族被認為是「謎一樣」的家庭。
蔡潔生過身時,配偶欄仍空白,身後留下的龐大遺產。民國105年(2016年)3月中旬,臺灣媒體刊出蔡英文家族三樁爭產官司,蔡英文的父親、蔡英文的四位「母親」、蔡英文的11位兄姐才得以一一曝光,蔡英文是11個子女中最小的。好友洪清隆曾問過蔡潔生,會不會擔心將來小孩爭產?蔡回答說,他依序登記給小孩們,人人有份。
《商業週刊》報導稱,蔡英文也曾私下跟朋友自嘲,說父親很厲害,對每個女友都很公平,因此各家庭相安無事,感情都十分好。比如她的衣服幾乎都是姐姐買的,姐姐看到合適的衣服,就會幫媽媽和她也各買一件。
然而,事實並不如蔡英文所說「相安無事」。
蔡英文侄子蔡元立民國97年(2008年)初控告蔡瀛南返房屋。民國80年(1991年)6月,蔡潔生的三房長子蔡瀛任過世,蔡潔生決定將蔡瀛任名下資產,由蔡瀛任剛成年的長子蔡元立繼承,但印鑒、權狀等仍由自己保管,不料此舉竟成為他過身後孫子爭產的引爆點。民國95年(2006年)7月,蔡潔生過身後,蔡元立陸續發動訴訟。民國97年(2008年)初先控告二房大伯蔡瀛南,要求返還臺北市民族東路一間房屋,他稱該屋是他繼承而得,卻遭以買賣為由移轉到大伯名下。蔡瀛南則稱,姪子蔡元立先前在國外讀書、生活等費用,都是蔡潔生支付,父親為此曾向他借款約530萬元,後來把該屋移轉給他作為補償,一審判蔡元立敗訴,但二審認為,蔡瀛南無法證明蔡元立曾授權蔡潔生幫忙處理名下房屋,改判蔡瀛南須還屋定讞,最終爭回房屋。
同年,蔡元立又提請一樁訴訟,訴張柏年返還不當得利。民國83年(1994年),蔡潔生生前將登記在蔡瀛任名下的內湖一筆土地,賣給繼子張柏年。張柏年是蔡英文母親張金鳳與日本前夫的兒子,與蔡英文同母異父。民國97年(2008年)5月,蔡瀛任的兒子蔡元立控告張柏年,指自己應繼承父親一筆臺北市內湖區土地,約159坪,民國80年(1991年)父親蔡瀛任過身,土地應由其單獨繼承,但該筆土地民國83年(1994年)未經自己同意,就被祖父賣給張柏年。蔡元立舉證交易雙方未約定買賣價金,負責這起買賣交易的代書陳幸助已證實蔡潔生��張柏年並未實際簽訂買賣契約、也未約定定價金額,張柏年也始終未能合理說明本次買賣價金如何支付等細節。蔡元立主張買賣不成立,張柏年應依不當得利返還土地。張柏年取得土地的過程涉偽造文書,但此部分因逾追訴期不起訴。
民國99年(2010年),蔡元立改打民事訴訟,指張柏年取得前述土地後,民國97年(2008年)間再把地賣給宏盛建設股份有限公司,售價3.8億元,故無法返還土地,要求張柏年返還前述交易、扣除稅金後的不當得利3.6億元。
開庭時,張柏年表明自己的母親是張金鳳,亦即是蔡英文同母異父的兄弟,他表示,蔡潔生是為照料蔡瀛任的4個小孩才會賣地,但考量該筆土地登記在蔡潔生4個兒子名下,為免日後轉售困難,才詢問他有無購買意願。張稱蔡潔生與其並無血緣關係,蔡潔生不可能將土地贈與自己,自己在美國電子公司任職,年薪折算約台幣500萬元,加上母親張金鳳資助,因此湊出1.99億元買地。
雙方就蔡潔生是否有權代理蔡元立處置爭議土地、蔡潔生與張柏年之間是否存在買賣關係展開激烈爭辯。
此外,蔡英文兩位兄長也出庭說明蔡家財產分配,親哥哥蔡瀛陽證稱,蔡家子女名下資產都是父親「借名登記」,父親生前有處分權且保管土地權狀。父親過世後,兄弟姊妹都未要求重新分配,尊重父親。
一審認為蔡家人的證詞尚不足以證明此案土地是「借名登記」,但蔡元立曾簽下「確認書」,追認同意祖父蔡潔生生前所有資產處分,因此判蔡元立敗訴。二審進一步采信蔡家人的證詞,認為蔡元立亦坦承「我們蔡家的財產絕大部分均是爺爺(蔡潔生)在管的」,認定確有借名登記的事實,采信土地是蔡潔生借名登記在兒子蔡瀛任名下,後雖由蔡元立繼承,但借名登記關係並未消滅,蔡潔生有權賣地給張柏年,民國101年(2012年)高院判蔡元立敗訴後,他放棄上訴,全案定讞。
蔡英文姐姐蔡瀛君民國101年(2012年)提出平分父親遺產訴訟。根據士林地院判決書,蔡潔生過身後,留下6264萬餘元、正中公司股票15萬股及債權56.75萬元,原應由11名子女繼承,但因三房長子蔡瀛任過身,對遺產分配方式談不攏。三房次女蔡瀛君以蔡英文等13人為被告,提出分割遺產訴訟,要求平均分配父親留下6200多萬元存款、正中企業有限公司15萬股股份及56萬元債券,所有繼承人無異議同意。最終蔡瀛君及蔡瀛南、蔡英文等10名子女各繼承蔡潔生遺產的1/11,已故三房長子蔡瀛任的4名子女各分得1/44。其中蔡英文分得569萬餘元現金、1萬3千多股正中企業股票,及5萬餘元債券。
蔡英文家族的爭產風波,揭開蔡英文家庭地位的神秘面紗。
因上述三起官司,蔡家成員一一被點名。蔡英文在面對炒地炒股風波時,強調自己不知情,但這次爭產訴訟,證明她又說謊。蔡英文兩位哥哥蔡瀛陽和蔡瀛政均出庭證稱,蔡英文深受其父蔡潔生重視,過身前半年,指示蔡英文製作家族財產圖表,主持家族會議,目的是整合家族資產投資賺錢。由這些可知,蔡英文對家族炒股炒地,不僅知情,還居主導角色。蔡英文也因此遭到前國民黨文傳會主委林奕華的質疑。對於國民黨的指控,民進黨發言人楊家俍稱,蔡英文與爭訟官司根本毫無關係,甚至從未出庭作證,而事實上從判決書中也可清楚得知,長久以來其家族的理財投資一如社會通習,據瞭解,是由父親兄長商討決策,通篇白紙黑字毫無蔡主席是家族整合及投資的關鍵角色。
為平息風波,蔡家迅速發表利益衝突回避聲明。蔡英文的四位兄長蔡瀛南、蔡瀛陽、蔡瀛明、蔡瀛政透過律師發表聲明指出,第一,蔡家財產在先父蔡潔生生前早就各人持有部分安排妥當,其管理雖由先父主導,但每年先父與四兄弟仍會開會研商,並無女眷參與。第二,有關臺灣高等法院判決所指先父去世前半年多之會議,亦由蔡家兄弟與先父開會。因先父希望各兄弟拿出部分財產集中管理與投資,故請小妹蔡英文參加,俾就四兄弟「共同同意事項」作成紀錄簽名存證,惟因兄弟意見不同而無會議結論,當次會議並無由小妹蔡英文主持之事實。第三,蔡英文就任「總統」,蔡家四兄弟必恪守利益衝突回避之各項規範,並同意「兄姊除個人之本業經營外,不會對臺灣企業進行新的投資」之政治承諾。
不過,蔡家兄弟第三點政治承諾能否實現還有待商榷。根據《臺灣高等法院民事判決100年度重上字第476號》內容,蔡英文有持股的家族公司正中企業,是有日本分公司的,當年張柏年購買登記於蔡元泰(蔡瀛任之子)名下土地時,便是透過張金鳳匯款至日本正中企業帳戶完成購買程式。透過海外公司,或者透過海外公司至英屬維京群島等地設立公司,再轉投資臺灣,要規避臺灣監管機關、司法機關與媒體第四權是相對容易的,單只是針對臺灣開設的公司對外公佈,恐怕是不足以讓社會釋疑。
有人說,蔡英文很幸運,幸運的是出生在如此富有的家庭,但她同樣也是不幸的,不幸的是她從小被迫接受日式教育。
作為「皇民」後代,要讓蔡英文愛國,估計很難。蔡英文和其他兄弟姐妹從小接受的家庭教育和父親蔡潔生曾受到的「皇民化「教育一脈相承。蔡潔生習慣了日本人的生活起居方式,把家裏裝修成日式建築風格,並且讓全家人在家都席地而坐,蔡英文從小吃的主食常常是日本飯團,日本生魚片等食物也是蔡家餐桌上的常客。一個中國人為什麼要吃日式飯團?這源於蔡英文父親出生和生長在日據時代的臺灣。蔡英文的父親、母親顯然因為這種教育接受了日本人的生活習慣,並且將這種習慣延續到了蔡英文身上。俗話說一方水土養一方人。用日本飲食習慣和日本文化養育出來的蔡英文成為親日分子也就不難理解。
實際上,蔡英文整個家族都很認同日本。蔡英文的兄長出國留學的首選地就是日本。蔡英文長大後選擇休假的目的地也經常是日本。此外,蔡英文還有一個日本名字:吉米牙(日文:ちびや),意思是小不點。這些情況都反映蔡英文家族對日本的親近與認同,同時也折射出蔡氏家族對中國文化的隔閡與冷漠。在這種家庭環境的影響下,蔡英文從小就沒有任何華夏民族觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。
從血統上來說,蔡英文應該是漢族人,但其精神皈依卻是日本,對大陸缺少歸屬感。因而,她寧願像日本人那樣把臺灣分裂出去,只考慮個人利益、民進黨一黨的利益,不考慮兩岸統一、民族復興。明白這一點,也就不難理解她寧願抱著被解放軍的導彈斬首的風險也要跟中國對著幹。這是因為她的出身和個人經歷決定了她要做出這樣的選擇。
除此之外,蔡英文還被爆出有英國籍的傳言。
民國105年(2016年)「新頭殼」網站曾經報導,有網友在臉書貼文稱,民進黨主席、「總統」候選人蔡英文持有英國護照多年,早就有英國籍,而且在倫敦有豪宅。文章先是請邱毅先生再辛苦一回,稱「據民進黨前主席蘇貞昌透露,蔡英文持有英國護照多年,早已加入英國國籍,在倫敦市中心精華地段擁有一幢豪宅。一個英國人(真正英派)競選中華民國總統,很有趣!(請大家儘快分享出去,甚至搜索舉證,英國人也來參選臺灣的總統了?」這則網路貼文不僅出現在臉譜、PTT等社交網站,還被有系統地轉貼到各個網站論壇。
蔡英文曾在英國留學,其家人也曾被爆有外國籍。臺灣歌手黃安也曾在微博稱,這個口口聲聲罵別人賣臺的「蔡總統」,爸爸是日本籍,哥哥是美國籍,姐妹都是美國籍,「全家有一半都是外國人,你愛臺愛個屁啦!」
當然,客觀地說,臺灣政要中有相當一部分人曾在歐美或日本留學、工作,因此擁有美國綠卡或「雙重國籍」並不奇怪。但是擁有「雙重國籍」者不能成為公職候選人,包括民意代表和正副領導人等。「雙重國籍」議題在臺灣選舉中出現的頻率相當高。
如民國97年(2008年)「大選」期間,民進黨候選人謝長廷用一張小小的綠卡,就讓馬英九陣營措手不及。馬英九解釋時使用的「綠卡失效」說法,又給了謝陣營繼續發揮的空間。直到民國103年(2014年)5月,臺媒還在炒作馬英九綠卡仍有效、必須每年向美國繳稅等等。
此後,臺灣有志參選的人士在「雙重國籍」問題上都相當謹慎,就怕重蹈覆轍。民國101年(2012年)選舉前,「中選會」就3組正副領導人參選人的「雙重國籍」問題統一函請外事部門協助查證。民國103年(2014年)連戰之子連勝文參選臺北市長,早在黨內初選階段就讓家人放棄「雙重國籍」,不過因為程式尚未完成,還是被一些人拿來操弄選舉。
◎「雙重國籍」傳言
事後,民進黨為遏阻謠言發酵,到臺北市警中正一分局報案,並對發文者「kelly chang」提起訴訟,最終認定張姓男子是最源頭的散佈者,為厘清張姓男子所發帖文文所述內容,臺北檢方還發函給中選會,確認蔡英文並沒有英國國籍,認定張姓男子涉嫌造謠。
至於這起案子中是否存在一些不為人知的幕後消息,也只能自行判斷了。
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【小説】コーヒーとふたり (下)
※『コーヒーとふたり』(上) はこちら(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/746474172588425216/)
零果が会社に行けなくなったのは、三年前、三十歳の時だった。
最初は、朝起きられないことから始まった。いつもと同じ時間に目は覚める。アラームを設定した時間よりも早く目が覚めることの方が多かった。しかし、目は��めても、身体を起こすことができない。羽毛布団を跳ね除けることさえできないのだ。全身の筋力が突然失われてしまったのかと思った。それでも、重い身体をなんとか起こしていた。
ベッドから起き上がってからも、身体が思うように動かない。毎日さっと済ませることができた朝の用意も、時間をかけないとこなせなくなった。それでも、通勤電車の時間に間に合わせないといけない。当初は、起床時間を早め、朝の支度を可能な限り簡略化していくことでなんとか始業時間に間に合うように出社していたが、次第にそれも難しくなり、ベッドで横になったまま、「一時間遅刻します」、「���時間遅れて行きます」と会社に電話を入れるようになった。
それでも出勤できてはいたものの、だんだんと、身体を起こした後に頭痛や吐き気に襲われるようになった。会社に近付けば近付くほど、それは強くなっていき、出勤前に会社の目の前、道の反対側にあるコンビニのトイレで嘔吐する日々が続いた。コンビニまで辿り着けていたのはまだ良い方で、やがて駅のトイレで吐くようになり、ついには電車に乗ることもできなくなった。
ある朝、何度も鳴り響くアラームをやっと止め、なんとか力を振り絞って身体を起こしたその途端、「どうせ吐いてしまうのだから」と、しばらく何も食べていなかったにも関わらず、喉をせり上がってくる胃液を堪え切れずに床にぶちまけて、零果はそこで初めて、「もう仕事に行くのはやめよう」と思って、泣いた。
病院へ行ったらうつ病だと診断された。事情を聞いた上司からは休職を勧められ、驚くほど簡単に手続きが進み、会社に行かなくて済むことになった。
最初は、休めることにほっとした。休職したことによって初めて、零果は自分が仕事を休みたいと思っていたことに気が付いた。そのくらい、当時は激務だったのだ。
毎日のように遅くまで残業し、それでも仕事が終わらないことが不思議だった。休日を返上して、やっと一週間分の業務がすべて片付いたと思ったその翌日には、また月曜日がやって来て、新しい一週間が始まる。ただそれの繰り返しだった。終わりの見えない日々。どうしてこんなに仕事があるのか。一体、どこから仕事がやって来るのか。デスクに積まれた書類がちっとも減っていかない。こなしてもこなしても、また新しい書類が重ねられていく。
当時は、部署の垣根を越え、商品管理部と協力して新しい管理システム、物流システムを構築する作業に明け暮れていた。自分の本来の職種がなんだったのかを忘れそうになるほど、毎日違う部署へ顔を出し、社内を走り回り、自分のデスクに戻って来るともう夜になっていた。書類を捌く時間などなかった。
毎日、缶コーヒーを何本も飲んだ。頭痛薬を飲むのももはや習慣になっていた。それでも働き続けていた。苦労はあった。つらいと思う時もあった。しかし、達成感や充足感もあった。新しく、ゼロから何かを作り上げていくというのは面白かった。そう、零果にとって仕事は、ただ苦痛な作業という訳ではなかった。日々の業務に自分の生き甲斐を見出していたのは確かだ。だからこそ、彼女は働き続けることができたのだ。しかし、心が折れるよりも先に、音を上げたのは身体の方だった。
会社を休んでいる間、なんの気力も湧かなかった。ベッドから起き上がれないほどの倦怠感や吐き気は少しずつ改善されていき、日常生活が難なく送れるようになっても、毎日毎日、有り余る時間をどう過ごしていいのか、わからないままだった。もともと零果は、友人が多い訳でも、熱中している趣味がある訳でもなかった。休日って、何をして過ごしていたんだっけ。手持ち無沙汰から始めた家の掃除も、二週間もすれば家じゅうピカピカになり、磨くところがなくなった。やりたいことが何ひとつ思い浮かばなかった。これなら仕事をした方がマシだと、何度も思った。
有武朋洋から連絡が来るようになったのは、そんな時期だった。
零果は彼の営業アシスタントを務めていた。すべての業務は桃山に引き継いだはずだったが、それでも有武はときどき、過去の書類やデータについて、休職中の零果に質問をよこした。
そして、零果が毎日時間を持て余していると知ると、遠慮なく頻繁に連絡して来るようになった。内容は、半分は業務に関する話題で、残り半分は職場での愚痴か、他愛のない雑談だった。どう考えても今は勤務中だろうという時間帯に電話がかかってきて、課長への文句を一方的に延々と聞かされたこともあれば、休日の夜に、どうしたら業務が改善できるか、解決策をふたりで二時間も話し続けたこともあった。
「電話でずっとしゃべるくらいなら、いっそ会おうか」という話になり、カフェで会ってお茶をしたこともあった。どういう訳か、実際に顔を合わせると、お互いなんとなく口数が少なくなり、たいした話はできなかった。しかし、その時の沈黙が、決して居心地の悪いものではなく、零果と有武はその後、ときどき一緒に食事をするようになった。
営業アシスタントをしていた頃は、有武とプライベートで会うなんて一度もなかった。零果は休日もほとんど返上して働き詰めだったので、そもそもプライベートがないようなものだったし、それは有武も同じだった。ふたりはほぼ毎日顔を合わせる羽目になっていた。
しかし、仕事の話を抜きにして有武と向き合う時間は、それまでとはまた違う空気が流れていた。
零果が休日にコーヒーを飲むようになったのも、彼に喫茶店に連れられて行ったのがきっかけだった。
「誰も知らないような店で美味いコーヒーをひとりで飲む時間って、贅沢なんだよな」
そう言う有武は、いつにも増してハイペースに煙草を吸っていた。最近は飲食店でも全面禁煙の店が増えたが、昔ながらのその喫茶店は、全席喫煙可能だった。零果からすれば、彼はコーヒーを飲みに来たというよりも、煙草を吸うためにこの店に来たとしか思えなかった。
「……良かったんですか、私を連れて来て」
「何が?」
「誰も知らないような店を私に教えて、美味いコーヒーをひとりではなく、ふたりで飲むことになっていますが」
零果がそう指摘すると、いつものように有武は小さく鼻で笑った。
「加治木さんはいいんだよ。俺にとって特別な人だから」
そう言われて、自分はなんて返事をしたのか。零果はもう思い出すことができない。
しかし、それから彼女の脳内には喫茶店リストが作られ、休日にコーヒーを飲むための店を選ぶようになった。あの日に有武が言ったように、誰も知らない店でコーヒーをひとりで飲む時間が、彼女にとって何よりも特別な時間となった。
半年間の休職ののち、零果は復職した。だがしかし、元のデスクに戻ることは叶わなかった。
営業アシスタントとしてではなく、事務職としての復帰。
総務や人事を含め、それが零果に関わるすべての上司や上層部が下した決断だった。休職前より残業時間が少ない部署に異動することに主治医も賛成していたし、彼女自身も最終的にはその異動に同意した。一度、心身のバランスを崩した人間が以前と同じように働くことができるとは思っていなかったし、休職したまま二度と職場に顔を出すことなく辞めていくことになった同僚がいることも知っていた。復職できただけ、自分は幸運な方だと思った。
「どんな形であれ、加治木さんがこの会社に帰って来てくれて、本当に良かったよ」
すでにふたりの営業マンのアシスタントを務め、さらに有武の業務も担当することになったにも関わらず、桃山美澄は本心から出た言葉のような、穏やかな口調でそう言った。
零果の復職後、昼の休憩時間に廊下の端の自動販売機の前で偶然出会い、ふたり揃って同じ缶コーヒーを飲んでいる時だった。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「迷惑だなんて思ってないよ。それに、迷惑をかけてるのはむしろこっちだよね」
桃山は困ったような表情をして、少しだけ微笑んだ。その仕草はどこか、少女のようだ。
「有武くん、変わらず加治木さんに仕事を頼んでるでしょ。ごめんね」
そう言われて、今度は零果が困った顔をする番となった。
納得して受け入れた部署異動だったが、どうしても納得してくれないのが有武だった。彼は事務職として復職したはずの零果に、営業アシスタントとしての仕事を振ってきた。最初は、自分はもうアシスタントではないと抗議していたが、もともと、彼は零果の言葉を聞くような人間ではない。何度説明しても有武が納得することはなく、やがて零果も諦めた。
まだ慣れない事務職としての業務に加えて、有武からの無茶ぶりとも思える依頼は、部署異動した意味を台無しにしているような気もしたが、しかし、彼が回してくる雑務の量や求められている質に、零果への気遣いを感じたのも確かだった。
「加治木さんは俺のアシスタントだよ」
いつだったか、有武は煙草を吸いながらそう言った。その日も、彼は外階段にいて、零果は煙草を吸う訳でもないのに隣にいた。もう何度も、その言葉を聞いた。もうあなたのアシスタントじゃない、あなたの仕事は手伝えない。そう訴える度、彼は必ず、その言葉を返した。
「そもそも、俺を営業部に異動させたのは加治木さんでしょ」
そんなことない、自分はそんなことをしていない。零果はいつだって真剣に反論したが、有武はいつも、小さく鼻で笑うだけだった。それは彼の癖だ。零果は知っている、彼が鼻で笑うのは、上機嫌な時だけだ。
「俺が営業部にいる限り、俺のアシスタントは加治木さんだよ」
地獄にまで道連れにされそうな、そんな言葉に零果は肩を落とすしかなかった。でもこの言葉に、ずっと励まされてきたのも事実だ。
もしも有武がいなかったら、自分の担当が彼ではなかったら、休職中に連絡をくれなければ、零果は仕事に復帰することができずに、そのまま退職していたかもしれない。復帰できていたとしても、事務職としての仕事だけをこなす日々では、いずれこの会社を辞めていたのではない���、と思う。どんな形であれ、自分を必要としてくれる存在がいるということが、現在の零果を繋ぎ留めていた。それがなければ、自分はもうとっくに千切れてバラバラになっているだろう。
有武は――鋭い眼光を放つ、あの澄んだ瞳で――、そのことを見透かしているように、零果は思う。彼は零果の性質を理解していて、その上で、彼女のために手を伸ばしてくれている。一緒にいるとそう感じる。それが彼なりの優しさなのだとわかる。だから、零果はその期待に応えたいと思うのだ。そして、それが難しいという現実に、いつも少なからず絶望する。彼の優しさに報いることができない自分を見つめては、無能感に苛まれる。
どんなに頑張っても、私はもうこの人のアシスタントではない。
それだけの事実に、打ちのめされてしまう時がある。
身体を壊さなければ良かった。うつ病になんかならなければ良かった。ずっと頑張ってきたのに。思い出すこともできないほど、忙しい日々を送っていたのに。頑張れなかった。最後の最後まで、頑張ることができなかった。あんなに苦労して作り上げた新しいシステムも、完成まで携わることが叶わなかった。あれは、まだ有武が商品管理部にいた時に考案したものだ。そのシステム実現のため、彼は営業部に異動した。零果はその当初から、最も近くで彼を見てきた。慣れない営業職の仕事に苦悩する彼を知っていたのに。本来ならば、もっともっと、一緒に仕事ができたはずなのに。
零果のそういう自責の念を、恐らく有武は見抜いている。だから彼は、今でも零果に依頼するのだ。寄り添うように、励ますように。彼女の心が折れないように。彼女との繋がりが、断たれることがないように。
ピッ、という短い電子音の後、缶が落ちた音がした。自動販売機から見慣れた黒一色のパッケージの缶コーヒーを取り出し、プルタブに指をかけた時だった。
「お疲れ様」
そう声をかけられ、零果は振り返る。戸瀬健吾だった。
彼の腕には上着と鞄がある。外回りから帰社したところなのか、それともこれから退社するところなのか、零果には判別がつかない。今の時刻は十九時四十分で、定時である十七時はとっくに過ぎてはいるが、営業部はこの時間帯に外出先から戻って来ることも珍しくはない。
零果が「お疲れ様です」と挨拶を返すと、戸瀬はいつもの穏やかな笑みで「いやー、疲れちゃったなぁ」と言った。その声には本当に疲労の色が滲んでいる。どうやら今、会社に戻って来たところのようだ。
戸瀬がポケットに手を入れた動作を見て、零果は自動販売機の前から場所を譲る。案の定、取り出したのは小銭入れで、彼は移動した零果に礼を言いながら自販機へと硬貨を投入した。
「加治木さんって、いつも遅くまで仕事頑張ってるよね」
「そんなことはありません」
「そう? 頑張ってると思うけどな」
ピッ、と電子音が鳴る。戸瀬の指先が選んだのは、今日の昼にもらったのと同じカフェラテだった。このカフェラテが好物だと言っていたっけ。そう言えば、あの時の詫びを、まだ伝えていなかった。零果は心に貼り付けたまま忘れそうになっていた、黄色い付箋を思い出す。
「今日は、すみませんでした」
「え?」
突然の謝罪の言葉に、戸瀬は目を丸くした。
「お昼に、私のことを気遣ってくださったのに、仕事の手も止めず……それが申し訳なくて……」
「あ、ああ、なんだ。そんな、気にしなくていいのに」
戸瀬は再び笑顔に戻り、穏やかな口調で言う。
「俺の方こそ、ごめんね。忙しいタイミングで声かけちゃったみたいで」
「いえ、戸瀬さんは悪くないです」
零果は首を横に振る。それから、彼の手の中にある缶を見やり、あの時もらったカフェラテのお礼を、どう伝えるべきか悩んで口をつぐんだ。まさか有武にあげてしまったと言う訳にはいかないが、あたかも自分が飲んだかのように話すのも憚られる。零果は、コーヒーは無糖のブラックしか口にしない。カフェラテも決して飲めない訳ではないが、元来、甘いコーヒーは好きではない。しかし、そんな好き嫌いを伝える訳にもいかない。
どうしたものかと思案する零果を、戸瀬は変わらず人当たりの良い笑顔のまま、どこか不思議そうに見つめている。微かに口元から覗く歯の白さ。どうしてそんなに歯が白いんだろう。ホワイトニングでもしているのだろうか。テレビのアナウンサー顔負けの歯の白さだ。
零果は無意識のうちに、有武の黄ばんだ歯を思い出していた。あれはきっと、ヘビースモーカー特有の歯だ。
戸瀬と有武は、まったく違う。戸瀬は、髪型が整っていて、髭もなく、見た目に清潔感がある。近付くと、ほのかに柔軟剤のような良い香りがする。零果は戸瀬が事務員の中で「王子」というあだ名で呼ばれているのを知っているが、そう呼ばれるのも納得できる。外見だけではなく、人当たりも良いし、穏やかで、丁寧だ。営業部での成績も良い。
それに比べて、有武は、不潔で、臭くて、がさつだ。思い付くアイディアは革新的だが、発想が常人離れしていて、たいていの人間はその思考の飛躍について行けない。彼の提案には、それを裏付けるための膨大な資料や説明する時間が必要となる。彼が考案した新システムも、社内で導入されるまでかなりの時間と労力が費やされた。普段の突飛な言動も相まって、商談の成功率はまちまちだ。営業先では彼を気に入っていると言う顧客もいるらしいが、社内での評判はあまり良くない。戸瀬を見ていると、同じ営業部二課所属でも、有武はこうも違うものかと、そんな余計なことをつい考えてしまう。
「加治木さんって、俺のことすごく真っ直ぐ見つめてくれるよね」
そう言われて、零果はあまりにも戸瀬をまじまじと見つめていたことに気付く。慌てて謝った。
「すみません……」
「謝ることないよ。でも、あんまり見つめられると、ちょっと恥ずかしいかな」
戸瀬はいたって穏やかに笑っている。あまりにも爽やかで、嫌味など微塵も感じさせない笑顔。この笑顔に惚れ惚れする女もさぞ多いことだろうな、と零果は思った。ファンクラブができるのも頷ける。
「加治木さん、もし良かったらなんだけど、今度の土日――」
戸瀬が言いかけた、その時。
スマートフォンの着信を知らせるバイブレーションが、人気のない廊下に静かに響き渡る。それは零果のスマホだった。制服のポケットに入れていたそれを取り出し、画面に表示されている発信者の名前を一目見て、彼女は頭を抱えたくなる。
今日は会議があって、その後は会食だと言っていた。時間帯から考えれば、今頃は先方と食事をしているはずだが、それでも電話をかけてくるというのは、何か緊急事態なのか、忘れていた仕事を思い出したか、そのどちらかではないか。そして、そのどちらだとしても、何か今から厄介ごとを頼まれる予感しかない。今日はそろそろ仕事を終えて帰れると思っていたのに。否、会社を出てから仕事を頼まれるよりは、まだマシかもしれない。
「出なくていいんじゃない?」
戸瀬はそう言った。その声音の固さに、零果は驚いた。彼の表情からはいつの間にか、笑顔が消えていた。
「電話、有武さんからでしょ? また何か、仕事を押し付けようとしているんじゃない? 加治木さんはもう、アシスタントじゃないんだよ?」
戸瀬は真剣だった。零果にはそれがわかった。彼が言っていることが何ひとつ間違ってなどいないということも、わかっていた。それでも、と思うこの気持ちを、どう説明したらいいのだろう。間違っているのは自分だ。それもわかっている。だけど、構わない。零果は画面に表示されている「応答」の文字に指を滑らせた。
「すみません、戸瀬さん。失礼します」
そう小声で告げて、零果は踵を返した。「加治木さん!」と、戸瀬が呼んだのが聞こえたが、振り返ることはしなかった。スマートフォンを耳に当てながら、自分のデスクがある事務部フロアへ続く廊下を小走りに駆ける。
「お疲れ様です。加治木です」
覚悟はできている。たとえこの後、どんな無茶苦茶な依頼をされようとも、必ずそれを成し遂げてみせる。
今まで、そうやって仕事をしてきた。これからも、そうやって仕事をするのだ。ふたりで、一緒に。
休日に喫茶店へ行くことは、加治木零果にとって唯一、趣味と呼べる行動だ。喫茶店で一杯のコーヒーを飲む。ただそれだけの時間を楽しむ。
喫茶店へ誰かと連れ立って行くようなことは、普段は決してないのだが、ときどき、それは本当にときどき、誰かと向かい合ってコーヒーを飲むことがある。
その喫茶店は開店直後だった。営業時間は、午前六時四十五分から。零果がその店に入ったのは、朝七時を回ったところだった。オープン直後である。土曜の朝、客として店にいるのは、ウォーキングの後とおぼしき中年の夫婦が一組。それ以外の客は、昨日から徹夜して働き続けて疲れ果てている零果と、彼女と同じかそれ以上にくたびれた様子の有武朋洋だけだ。
「……こんなに朝早くから営業してる喫茶店なんて、よく知ってましたね」
零果は目の前に置かれたコーヒーカップを見下ろしたままそう言ったが、向かい合って座っている有武は、まだ火の点いていない煙草を咥えたまま、返事もしなかった。椅子の背にもたれかかって、ただ天井を仰いでいる。
カップへと手を伸ばす。零果が注文したのはグアテマラだった。有武のカップに注がれているのはキリマンジャロだったはずだ。喫茶店に足を運ぶようになった当初、零果は豆の違いなどまったくわからなかった。いろんな店で飲み比べた結果、なんとなく味の違いがわかるようになってきた。
「……もう、徹夜はしんどいなぁ」
零果がコーヒーを飲みながらひと心地ついていると、ぴくりとも動かなかった有武が唐突にそう言って、やっと、右手に握っていたライターで咥えていた煙草に火を点けた。目の下の隈がひどいな、と零果は彼の顔を見て思ったが、今の自分も同じくらいひどい顔をしているのだろうと思って、口には出さなかった。
「何も、徹夜してまで資料作らなくても、良かったんじゃ……」
「でも俺、来週は出張でいないからさ」
今のうちに作業しておかないと。煙を吐きながら、有武はそう言った。
「だからって……無理に今日作らなくても……」
そう言いながらも、零果はさっきまでふたりで行った作業のことを思い出していた。徹夜したとはいえ、ふたりだったから、この時間で終わったとも言える。もしも来週、出張先の有武からひとりでこの資料を作るようを命じられていたら、零果も途方に暮れていただろう。
否、彼女がひとりではできないと踏み、彼はそんな指示を出さないかもしれない。有武がひとりきりで資料を作る……というのもまた、不可能だろうから、アシスタントである桃山に依頼することになるのだろう。彼女であれば、零果よりも短時間で資料作りを完遂させそうだ。
だったら最初から、桃山さんに依頼すればいいのに。なんて言ったら、有武はなんて返事をするだろう。
昨夜、有武から零果にあった着信。会食の後、そのまま帰宅するはずだった彼は、会社へ戻って来た。新しい商品のアイディアを、突然思い付いたのだと言う。そのプレゼンテーションのための資料を今から作るから、手伝ってくれ。有武はそう言った。時刻は夜の八時に近かった。金曜の夜だった。一週間働いて、疲れ果てていた。けれど零果は、彼の言葉に頷いた。そうして、ふたりで作業をしているうちに、夜は明け、朝になった。
何も今やらなくても。零果は何度か、そう言った。しかし、有武が考え付いたことをすぐに形にしたがる性格だということは、もう長い付き合いでわかっていた。今まで何度も、こういう夜があった。休日に突然、呼び出されることもあった。今からですか、今じゃなきゃいけませんか、私じゃないと駄目なんですか。何度も、そう尋ねた。答えはいつだって同じだった。
「どうしても今日、やりたかったんだよねー。加治木さんと、一緒にね」
ずっと天井を仰いでいた有武が、ゾンビのように身体を起こす。澄んだ瞳が零果を見る。目が合いそうになって、思わず零果は目線を逸らした。相変わらずその瞳は、まっすぐ見つめるのも躊躇するような輝きを感じさせる。しかし、これって自分だけなんだろうか。一体、いつから、自分は有武の目を見ることが苦手になったのだろう。
「今日、加治木さん、元気なかったでしょ」
そう言われて、そうだっけ、と零果は記憶を辿る。今日、ではなく、正確には昨日だが、眠らないでいるといつまでも「今日」という日が終わらない感覚は、零果も有武も同じようだ。
そうだった、外階段で煙草を吸っていた有武と話した時、確かに落ち込んでいた。同僚たちの陰口を聞いてしまい、食欲もなかった。零果自身は、もうそんなことは忘れていた。けれど彼は、それを心配してくれていたのか。
「加治木さん、仕事頼んだら元気になってくれるかなって思ってさ」
有武は、そこでやっと自分のコーヒーカップへと手を伸ばした。もうとっくに冷めてしまっているはずだが、キリマンジャロを美味そうに飲む。
「……は?」
対する零果は、有武の発言に呆然とするしかない。励ますために、仕事を頼んだとでも言うつもりなのだろうか。そのために、今さっきまで仕事をしていたのか? 徹夜してまで? 朝の六時まで?
しかし、有武の口調は大真面目だった。
「俺が加治木さんにしてあげられることなんて、仕事を依頼することぐらいだから」
あとは、たまにこうして、一緒にコーヒーを飲むことくらいか。そう付け加えるように言った声音に、零果を案ずる感情が含まれていることに気付いて、文句を言うために開きかけた口を、静かに閉じる。徹夜作業に付き合わせた言い訳に、「励ましたかったから」と言っている訳ではない、ということはわかっていた。
どうして自分は、この人から離れられないのだろう。
仕事なんて断ればいいのに。上司にも、同僚にも、ずっとそう言われてきた。自分だってそう思う。定時を過ぎての残業も、休日出勤も、徹夜作業も、全部断ればいい。それだけのことだ。
それでも、一緒���仕事をしたいと思う。
彼の助けになれたら、と思う。
それが無茶苦茶な依頼であっても、一緒に働くことが楽しいと思える。
身体を壊す前も、そうだった。楽しかったからこそ、身体を壊したのかもしれない。きっと苦痛であったのであれば、もっと早くに音を上げていて、休職するほどにまで自分を追い込まなかっただろう。そう、心身を病んだ時、零果はただの一度も、有武を恨まなかった。彼の仕事の振り方が問題なのだとは思わなかった。一緒に仕事ができたことに感謝したいくらいだった。そのくらい、刺激的な日々だった。もっとも、有武に感謝の気持ちを伝えたことなどないが。
「……今度、焼き肉に行きませんか」
零果は喫茶店の窓の外を見つめ、そう言った。窓の外には静かな土曜日の朝の光景が広がっている。通りはまだ人もまばらだ。老人に連れられたマルチーズが毛足の長い綿毛みたいに、もしゃもしゃと道路を歩いて行く。
「有武さんに焼き肉を奢ってもらったら、元気が出るかもしれません」
零果の言葉に、有武は鼻で笑った。機嫌が良いのだ。わざわざ顔を見なくてもわかる、彼は今、楽しそうに笑っている。
「焼き肉でも寿司でもいいよ。今度一緒に、飯でも行こう」
加治木さんは少食だから、俺の方が食っちゃって、割り勘だと割に合わないから、結局俺が奢ることになりそうだなぁ。ぼやくようにそう言いながら、有武の目線もいつの間にか、窓の外のマルチーズに向けられていた。
ふたりはしばらく、陽の当たる道を綿毛の化身のような犬が遠ざかっていくのを見つめていたが、やがて老人と犬が曲がり角の向こうに見えなくなると、お互い、目線を室内へ戻し、顔を見合わせた。
今度こそ、目が合う。
咄嗟に目を逸らそうとする零果よりも先に、有武が座席から身を乗り出した。目の前にまで迫って来た彼から、零果は飛び上がるように大きく身を引いて逃げる。その様子に、有武はぷっ、と吹き出した。零果は完全に顔を背けたまま、しかめっ面をして無言で怒っていた。
有武は「ごめん、ごめん」と笑いながら、煙草を持っていない方の手を横に振った。
「加治木さんは本当にさぁ、俺と目を合わせてくれないよねぇ。昔からそうだよね」
「……恥ずかしいんです」
「まぁ、俺はそんな加治木さんが好きだけどね」
煙を吐きながらそう言って、有武は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。自分のコーヒーカップを持ち上げながら、零果のカップをちらりと見やる。その中身がほとんどなくなっているのを見て、「じゃあ、それ飲んだら出ようか」と、有武は言う。
「……あの、」
「ん?」
「コーヒー、もう一杯飲んでもいいですか」
そう言う零果は、テーブルの上のメニューへ目線を向けている。でも実際に、メニューの文字を読んでいる訳ではない。次に頼むコーヒーをどれにするか、思案している訳でもない。
有武はしばし、そんな零果の横顔を見つめていた。一見、表情の読めない彼女の顔を、じっと見つめた後、彼は口元まで運んでいたコーヒーカップを、そのままソーサーの上へと戻した。そうして、作業服の胸ポケットから煙草を一本取り出して咥えた。
「じゃ、もう少し、ここにいようか」
零果が小さく頷いたのを見届けてから、煙草に火を点ける。
有武は零果の思考を、果たして読み取ったのだろうか。何も言わなくても感じ取ったかもしれない。そのくらいは聡い男だ。微かに緩んだように見えるその表情は、この時間が決して苦痛ではないという証拠だろう。徹夜明けで疲れ切っていても、早く帰りたいと言わないのは、お互い同じ感情だからだと、そう思うのは傲慢だろうか。
「すみません」と、零果が店員を呼んだ。追加のコーヒーを注文するためだ。店の奥から、店員の「少々お待ちください」という声が返って来る。
喫茶店では一杯のコーヒーを飲んだら、すぐに店を出る。それが彼女のルールだった。どんなに美味でも、二杯目を頼むことはない。だが時には例外があっても良いだろう。コーヒーを二杯、飲んだっていい。特別な相手と一緒にいる時だけは。
ふたりで喫茶店へ行くのも、良いかもしれないな。
零果は疲れ果てた頭の片隅で、そんなことを考える。
休日はふたりで喫茶店へ行く。新しい趣味にどうだろう。「それは趣味なのか?」と、有武はきっと、笑うだろう。いつものように、鼻で笑うのだ。でも決して、悪くはない。
頭の中の喫茶店リストを開き、もしも一緒に行くとしたら、どの店にしようか、なんて考える。美味しいキリマンジャロを出す店を、それまでに見つけなくちゃ。心の中の水色の付箋にそれを書く。その水色は、窓の向こうに見える空の色だ。ふたりで徹夜して、迎えた朝の空の色。それはとても澄んでいて、もう一度見たいと思える色。
またこうして、一緒に働けて良かった。
いつかそのことを、本人に伝えよう。
そう思いながら、零果はその水色の付箋を、自身の心にそっと貼り付けた。
了
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こんにちは 名古屋店 コジャです。
久しぶりにカバーオールの新作が届いてますよ。
WAREHOUSE & CO. Lot 2216 NEW DEAL PROGRAMS DENIM COVERALL \35.200-(with tax) ※ONE WASHは\1.100- UP







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《WPA》 WPAとはWorks Progress Administration(雇用促進局)の略で、アメリカの大恐慌時代に設立されたニューディールの機関である。 1935年から1943年まで運営され、何百万人もの失業者を雇用して公共事業を実施した。
ニューディール政策のもうひとつのプログラムであるWPAのワークウエアたち。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は、世界恐慌後1930年代初頭の深刻な経済問題に対処するため、市民保全隊(CCC)や事業進捗局(WPA)といった緊急救済機関を創設した。
1933年3月4日に就任したルーズベルトは、25パーセントの失業率に苦しむ国民に向かって宣言した 「われわれの最大の主要任務は人々を働かせることである」。「CCC」と「WPA」は、資格のある失業者に仕事を与えるだけでなく、国の環境、農業、社会問題を緩和するために結成された。「CCC」についてはこれまでにふれたとおり、18歳から25歳までの失業した青少年のためのプログラムで「Tree Army」の異名のとおり、これらは軍隊への自然な関心としての一環も兼ねていた。これに対して「WPA」は「雇用促進局」であり、対象となった労働者の平均年齢は40歳であった。彼らは新しい校舎を建設し、新しい病院を建て,雨水排水管と下水管を敷設し、新しい橋を架け、新しい飛行場を建設し、��路を舗装または修理し、ダストボウル中の表土の損失を軽減するために2,400万本の木を植えた。
1941 年 12 月の真珠湾攻撃の後、多くのアメリカ人が第二次世界大戦に派遣されたり、武器の製造や祖国での戦争支援を求められた。この需要とWPA のおかげで、失業率は 0% に近づき,その結果 1942年12月、ルーズベルトはWPAはもはや必要ではないと述べ、WPAの廃止を要求した。
この大規模なプログラムのなかでは、主に女性を中心に、労働に従事するブルーカラーのワークウェアが製造された。それは「SEWING ROOM」と呼ばれる縫製室であり、その衣料には「Made by W.P.A SEWING ROOMS ,NOT TO BE SOLD」(雇用促進局縫製室製品、売り物に非ず)と記載されたタグが付けられた。ソーイングルームのあったテキサス州では、裁縫師たちは自分の仕事に大きな誇りを持っていて、イニシャル「W.P.A 」は「We Patch Anything」(なんでも縫う)の略であると宣言した。彼女たちは古着を修理し、新しい衣服を作り、困窮している人々や「WPA」の労働者、つまり彼女たち自身が着用した。
「WPA」の衣料には興味深い特徴が二つある。それはデザインと縫製仕様だ。デザインについてはユニークともいえるくらい多様であるが、ベースがCCCで着用されたようなミリタリーワークウェアがベースとなっているが、スペックに基づいた厳しいルールを感じない。「W.P.A 」の衣料たちはユニークで多くのアレンジが施されているのだ。そしてもうひとつの縫製仕様については、当時は既にワークウェアの縫製では主流となっていた「還縫い」が無いのである。これは縫製工場の環境が大規模なものではなかったことが想像され、「工業ミシン」ではなく「本縫い」のみで作り上げる仕様で工程を踏んでいたためである。
このような理由から、ユニークなデニムのワークウェアが存在し、アメリカではCCCを凌ぐ勢いでコレクターが増えているWPA、その一着には激動の時代に産み落とされたアメリカーナの不屈の精神が宿る。
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と、世界史のお勉強となりましたが習ったはずなのに記憶が曖昧。。。 こんな風に好きな衣類と紐付け出来ていれば5点くらいは点数上がっていたかもしれませんね笑
歴史的背景を知って物欲を刺激されたのは置いておいてライトオンスにより気温が高まりつつある今時期でも朝晩の若干肌寒い温度差に丁度良いカバーオール。
元にしたVinatgeを載せたBlog(by Press 藤木)があるので是非そちらも御覧になって下さいね。
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【WPA DENIM CHORE JACKET】

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福岡店 隠塚もINSTAGRAMにて着用画像など載せてましたので、 こちらでも載せておきますね。
169cm,70kg SIZE:42(ONE WASH)


〈ジャケット、シャツ、パンツ〉の3商品をリリース予定の"NEW DEAL PROGRAMS"ですが、先駆けてジャケットが入荷してまいりました〜 〈CCC(市民保全部隊)〉やら〈WPA(公共事業促進局)〉やらと、あまり聞き馴染みのない単語が出てきますが、、、ともかく、カッコいいカバーオールですよっ‼︎ ミリタリーウェア由来のシンプルなディテールやより古い年代のワークウェアを彷彿とさせるシングルステッチによる縫製などなど、派手さはないものの、"いぶし銀"的な魅力を放っています。 襟の形状や開き具合などは、どこかステンカラーを感じさせるのも面白いですね〜(コートの裾をぶった斬ったような印象です🧥) マニア心をくすぐる1着だと思います。是非。
by ONZUKA
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髙木にも着てもらいましょう。
173cm,60kg SIZE:40(ONE WASH)



もう少し羽織り物で遊びたい方も多く、 こちらの新作デニムカバーオールもSold Out目前と差し迫ってきましたよ~。
間もなく夏到来の為、 あと少し堪能してから暫くは休息期間に入りますが、 シャツのようなアイテムは使う幅が広いので持っておいて損は無しっ!
是非御検討下さい。では失礼いたします。
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平素よりウエアハウス直営店をご利用頂き有難う御座います。 ウエアハウス直営店では営業を下記の通り変更しております。
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蔡EE 秘史--上篇家史
C財富、國籍無人知----謎一樣的蔡氏家族
說起蔡EE家族,這個臺灣「第一家族」的財富一直是個謎,島內最常用的形容詞是富裕、低調和反中。
之所以說蔡EE一家富裕,在於其父蔡潔生「生財有道」,積累了大量的財富。曾在蔡家工作的臺北巿議員林瑞圖說,賺到錢之後,蔡潔生認為「有土斯有財」,所以做起了土地投資。他買土地,卻從不蓋房子,有賺就脫手。據媒體報導,蔡潔生在20世紀60年代就是臺北市納稅前十名的富豪。蔡潔生於民國95年(2006年)去世,享年88歲,留下了高達6264萬元(新台幣)的現金、15萬股公司股票、債權56.75萬元以及多處土地、物業。蔡潔生生前就利用子女名義購買土地,在其過世後這些土地自然就歸其名下的11個子女所有。根本無人知曉蔡潔生購買了多少土地,更難以知曉這些土地價值幾何。總統大選前,蔡EE向臺灣中選會申報的財產資料顯示,她有上億身家,堪稱史上最有錢的臺灣總統候選人。
除此之外,蔡EE家族的事業、身價究竟還有多少?外界還是所知有限。
除了潔生投資(現富鈦投資)、臺懋生技,及宇昌生技,蔡EE家族最主要的產業,分別為「正中企業」和「東道有限公司」。兩家公司主要的經營業務,包括投資觀光旅館之相關經營專案與休閒活動、練習場、運動器材等館場業,及汽車零件配備、加油站業務等。
蔡EE一直持有「正中企業」不小的股權,民國89年(2000年)她擔任「陸委會主委」期間,該公司曾一度增資,蔡EE的持投也從原本的40萬元(新台幣)成長十倍,增加至400萬元。至於「東道有限公司」的持股,則是她在接下「陸委會主委」後,才持有110萬元。
兩家公司的地址,都在臺北市中山北路上的海霸王,董座分別是蔡EE的三哥蔡瀛南,及大她6歲的姐姐蔡英玲;創辦人則皆為蔡EE的父親蔡潔生。海霸王目前仍有部分樓層面積,保留予蔡EE家族使用,包括辦公室、會議廳等。蔡EE在該處也有自己的一個辦公室,在她擔任公職後,僅在晚間及週末時,才會前往這個家族的辦公室處理相關事務,甚至以前連她愛開快車被開的罰單,也都會寄到這裏。
海霸王的現址,其實至今仍算蔡家的所有地。據瞭解,蔡潔生早從光復前後就開始投資房地產,往後十年間,他所持有的地產約漲了七倍,除了海霸王現址外,東區漢宮大廈及前今日百貨等地,蔡父都曾投資過。
據東森新聞報導,蔡EE家族財產,主要財富集中在3家公司,分別為正中企業股份有限公司(法人代表:蔡瀛南,董事:蔡瀛明、莊自立、莊榮德、蔡瀛陽,監察人:林秀琴。公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)、東道有限公司(法人代表:蔡瀛陽,公司所在地:臺北市中山區中山北路3段59號)及富鈦投資股份有限公司(法人代表:譚雯栩,董事:蔡瀛陽、張柏年,監察人:徐永秀。公司所在地:臺北市北投區石牌路2段321號1棟)。位於中山北路上的海霸王一度誤傳是由蔡EE家族所經營,後來證實蔡家只是出租房地。海霸王這處房地產地段精華,價值上億,不過這只是蔡EE家族財產冰山一角,其中的正中企業及東道公司才是重點,分別由蔡EE哥哥蔡瀛南、大姐蔡英玲經營,以土地房屋出租跟加油站設備出租為主。富鈦投資,則是由蔡EE的嫂嫂譚雯栩掛名負責人。
富鈦投資又成立了臺懋生技,臺懋生技再投資蔡EE任董事長的宇昌生技,與此同時,富鈦投資又直接投資了浩鼎生技,富鈦投資是浩鼎生技的第五大股東。最後宇昌生技和浩鼎生技都由潤泰企業接盤。這幾個公司都和臺灣翁啟惠、陳良博、何大一、李遠哲、陳建仁以及尹衍梁有密切的關係。
民國96年(2007年)成立宇昌生技的創始人除了蔡EE,還有陳良博、何大一。陳良博是臺灣科學家,中研院院士,專長於細胞生物學,是美國哈佛大學醫學院病理學退休榮譽教授,也是第一個獲得哈佛大學退休榮譽教授(Emeritus)頭銜的臺灣人。何大一是愛滋病雞尾酒療法的發明人,作為美籍華人,他同時還是美國科學院院士,中國大陸工程院外籍院士,臺灣中研院院士。翁啟惠,是宇昌生技案主要推手,國際知名化學家,民國95年(2006年)擔任臺灣中研院第9任院長、民國100年(2011年)連任,至今仍是臺行政院生技產業策略咨議委員、臺生技醫療產業策進會會長,牢牢掌握臺灣生物科技政策的方向盤,也正是他和陳良博、李遠哲邀請蔡EE出任宇昌科技首任董事長。同時,翁啟惠在民國105年(2016年)還捲入曾經與其主管的中研院有密切合作關係和資金往來的生物科技公司浩鼎生技的案件中,翁借用其女兒和另一股東的名義,大肆購買浩鼎的股票,經法院裁定金額高達1億6000餘萬元新台幣,而且這筆錢他號稱是從富豪尹衍梁那裏借來的。在宇昌生技民國96年(2007年)成立的關鍵時刻給予援手的還有時任臺灣「國科會」主委陳建仁,也就是民國105年(2016年)蔡EE首奪「總統」大位時的「副總統」搭檔。
之所以說低調,在於外界對蔡EE家族成員知之甚少。不只投資有道,蔡潔生情史也相當豐富。外界僅知道蔡潔生的戶口配偶欄一直是空白,但其4個「女朋友」為其生了11個小孩。蔡EE家族親戚眾多,但每一位都異常「安靜」,「低調到不能再低調」,從不接受採訪。堂姐蔡薰慧、侄子蔡元仕,在紛亂的司法界「大隱隱於市」。蔡EE家族那麼有錢,發跡史始終是個謎。對於如何發財致富,蔡家也一直是三緘其口,頂多是以老八股的方式予以回應,即:早年通過改修汽車得第一桶金、後參與買賣土地致富等等。臺灣社會不斷要求蔡EE公佈家庭相關資訊,但蔡卻一直以個人隱私為由加以拒絕。臺灣「第一家族」的秘密,蔡EE不說,蔡家人不談,可能沒有人會知道,因此蔡EE家族被認為是「謎一樣」的家庭。
蔡潔生過身時,配偶欄仍空白,身後留下的龐大遺產。民國105年(2016年)3月中旬,臺灣媒體刊出蔡EE家族三樁爭產官司,蔡EE的父親、蔡EE的四位「母親」、蔡EE的11位兄姐才得以一一曝光,蔡EE是11個子女中最小的。好友洪清隆曾問過蔡潔生,會不會擔心將來小孩爭產?蔡回答說,他依序登記給小孩們,人人有份。
《商業週刊》報導稱,蔡EE也曾私下跟朋友自嘲,說父親很厲害,對每個女友都很公平,因此各家庭相安無事,感情都十分好。比如她的衣服幾乎都是姐姐買的,姐姐看到合適的衣服,就會幫媽媽和她也各買一件。
然而,事實並不如蔡EE所說「相安無事」。
蔡EE侄子蔡元立民國97年(2008年)初控告蔡瀛南返房屋。民國80年(1991年)6月,蔡潔生的三房長子蔡瀛任過世,蔡潔生決定將蔡瀛任名下資產,由蔡瀛任剛成年的長子蔡元立繼承,但印鑒、權狀等仍由自己保管,不料此舉竟成為他過身後孫子爭產的引爆點。民國95年(2006年)7月,蔡潔生過身後,蔡元立陸續發動訴訟。民國97年(2008年)初先控告二房大伯蔡瀛南,要求返還臺北市民族東路一間房屋,他稱該屋是他繼承而得,卻遭以買賣為由移轉到大伯名下。蔡瀛南則稱,姪子蔡元立先前在國外讀書、生活等費用,都是蔡潔生支付,父親為此曾向他借款約530萬元,後來把該屋移轉給他作為補償,一審判蔡元立敗訴,但二審認為,蔡瀛南無法證明蔡元立曾授權蔡潔生幫忙處理名下房屋,改判蔡瀛南須還屋定讞,最終爭回房屋。
同年,蔡元立又提請一樁訴訟,訴張柏年返還不當得利。民國83年(1994年),蔡潔生生前將登記在蔡瀛任名下的內湖一筆土地,賣給繼子張柏年。張柏年是蔡EE母親張金鳳與日本前夫的兒子,與蔡EE同母異父。民國97年(2008年)5月,蔡瀛任的兒子蔡元立控告張柏年,指自己應繼承父親一筆臺北市內湖區土地,約159坪,民國80年(1991年)父親蔡瀛任過身,土地應由其單獨繼承,但該筆土地民國83年(1994年)未經自己同意,就被祖父賣給張柏年。蔡元立舉證交易雙方未約定買賣價金,負責這起買賣交易的代書陳幸助已證實蔡潔生和張柏年並未實際簽訂買賣契約、也未約定定價金額,張柏年也始終未能合理說明本次買賣價金如何支付等細節。蔡元立主張買賣不成立,張柏年應依不當得利返還土地。張柏年取得土地的過程涉偽造文書,但此部分因逾追訴期不起訴。
民國99年(2010年),蔡元立改打民事訴訟,指張柏年取得前述土地後,民國97年(2008年)間再把地賣給宏盛建設股份有限公司,售價3.8億元,故無法返還土地,要求張柏年返還前述交易、扣除稅金後的不當得利3.6億元。
開庭時,張柏年表明自己的母親是張金鳳,亦即是蔡EE同母異父的兄弟,他表示,蔡潔生是為照料蔡瀛任的4個小孩才會賣地,但考量該筆土地登記在蔡潔生4個兒子名下,為免日後轉售困難,才詢問他有無購買意願。張稱蔡潔生與其並無血緣關係,蔡潔生不可能將土地贈與自己,自己在美國電子公司任職,年薪折算約台幣500萬元,加上母親張金鳳資助,因此湊出1.99億元買地。
雙方就蔡潔生是否有權代理蔡元立處置爭議土地、蔡潔生與張柏年之間是否存在買賣關係展開激烈爭辯。
此外,蔡EE兩位兄長也出庭說明蔡家財產分配,親哥哥蔡瀛陽證稱,蔡家子女名下資產都是父親「借名登記」,父親生前有處分權且保管土地權狀。父親過世後,兄弟姊妹都未要求重新分配,尊重父親。
一審認為蔡家人的證詞尚不足以證明此案土地是「借名登記」,但蔡元立曾簽下「確認書」,追認同意祖父蔡潔生生前所有資產處分,因此判蔡元立敗訴。二審進一步采信蔡家人的證詞,認為蔡元立亦坦承「我們蔡家的財產絕大部分均是爺爺(蔡潔生)在管的」,認定確有借名登記的事實,采信土地是蔡潔生借名登記在兒子蔡瀛任名下,後雖由蔡元立繼承,但借名登記關係並未消滅,蔡潔生有權賣地給張柏年,民國101年(2012年)高院判蔡元立敗訴後,他放棄上訴,全案定讞。
蔡EE姐姐蔡瀛君民國101年(2012年)提出平分父親遺產訴訟。根據士林地院判決書,蔡潔生過身後,留下6264萬餘元、正中公司股票15萬股及債權56.75萬元,原應由11名子女繼承,但因三房長子蔡瀛任過身,對遺產分配方式談不攏。三房次女蔡瀛君以蔡EE等13人為被告,提出分割遺產訴訟,要求平均分配父親留下6200多萬元存款、正中企業有限公司15萬股股份及56萬元債券,所有繼承人無異議同意。最終蔡瀛君及蔡瀛南、蔡EE等10名子女各繼承蔡潔生遺產的1/11,已故三房長子蔡瀛任的4名子女各分得1/44。其中蔡EE分得569萬餘元現金、1萬3千多股正中企業股票,及5萬餘元債券。
蔡EE家族的爭產風波,揭開蔡EE家庭地位的神秘面紗。
因上述三起官司,蔡家成員一一被點名。蔡EE在面對炒地炒股風波時,強調自己不知情,但這次爭產訴訟,證明她又說謊。蔡EE兩位哥哥蔡瀛陽和蔡瀛政均出庭證稱,蔡EE深受其父蔡潔生重視,過身前半年,指示蔡EE製作家族財產圖表,主持家族會議,目的是整合家族資產投資賺錢。由這些可知,蔡EE對家族炒股炒地,不僅知情,還居主導角色。蔡EE也因此遭到前國民黨文傳會主委林奕華的質疑。對於國民黨的指控,民進黨發言人楊家俍稱,蔡EE與爭訟官司根本毫無關係,甚至從未出庭作證,而事實上從判決書中也可清楚得知,長久以來其家族的理財投資一如社會通習,據瞭解,是由父親兄長商討決策,通篇白紙黑字毫無蔡主席是家族整合及投資的關鍵角色。
為平息風波,蔡家迅速發表利益衝突回避聲明。蔡EE的四位兄長蔡瀛南、蔡瀛陽、蔡瀛明、蔡瀛政透過律師發表聲明指出,第一,蔡家財產在先父蔡潔生生前早就各人持有部分安排妥當,其管理雖由先父主導,但每年先父與四兄弟仍會開會研商,並無女眷參與。第二,有關臺灣高等法院判決所指先父去世前半年多之會議,亦由蔡家兄弟與先父開會。因先父希望各兄弟拿出部分財產集中管理與投資,故請小妹蔡EE參加,俾就四兄弟「共同同意事項」作成紀錄簽名存證,惟因兄弟意見不同而無會議結論,當次會議並無由小妹蔡EE主持之事實。第三,蔡EE就任「總統」,蔡家四兄弟必恪守利益衝突回避之各項規範,並同意「兄姊除個人之本業經營外,不會對臺灣企業進行新的投資」之政治承諾。
不過,蔡家兄弟第三點政治承諾能否實現還有待商榷。根據《臺灣高等法院民事判決100年度重上字第476號》內容,蔡EE有持股的家族公司正中企業,是有日本分公司的,當年張柏年購買登記於蔡元泰(蔡瀛任之子)名下土地時,便是透過張金鳳匯款至日本正中企業帳戶完成購買程式。透過海外公司,或者透過海外公司至英屬維京群島等地設立公司,再轉投資臺灣,要規避臺灣監管機關、司法機關與媒體第四權是相對容易的,單只是針對臺灣開設的公司對外公佈,恐怕是不足以讓社會釋疑。
有人說,蔡EE很幸運,幸運的是出生在如此富有的家庭,但她同樣也是不幸的,不幸的是她從小被迫接受日式教育。
作為「皇民」後代,要讓蔡EE愛國,估計很難。蔡EE和其他兄弟姐妹從小接受的家庭教育和父親蔡潔生曾受到的「皇民化「教育一脈相承。蔡潔生習慣了日本人的生活起居方式,把家裏裝修成日式建築風格,並且讓全家人在家都席地而坐,蔡EE從小吃的主食常常是日本飯團,日本生魚片等食物也是蔡家餐桌上的常客。一個中國人為什麼要吃日式飯團?這源於蔡EE父親出生和生長在日據時代的臺灣。蔡EE的父親、母親顯然因為這種教育接受了日本人的生活習慣,並且將這種習慣延續到了蔡EE身上。俗話說一方水土養一方人。用日本飲食習慣和日本文化養育出來的蔡EE成為親日分子也就不難理解。
實際上,蔡EE整個家族都很認同日本。蔡EE的兄長出國留學的首選地就是日本。蔡EE長大後選擇休假的目的地也經常是日本。此外,蔡EE還有一個日本名字:吉米牙(日文:ちびや),意思是小不點。這些情況都反映蔡EE家族對日本的親近與認同,同時也折射出蔡氏家族對中國文化的隔閡與冷漠。在這種家庭環境的影響下,蔡EE從小就沒有任何華夏民族觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。
從血統上來說,蔡EE應該是漢族人,但其精神皈依卻是日本,對大陸缺少歸屬感。因而,她寧願像日本人那樣把臺灣分裂出去,只考慮個人利益、民進黨一黨的利益,不考慮兩岸統一、民族復興。明白這一點,也就不難理解她寧願抱著被解放軍的導彈斬首的風險也要跟中國對著幹。這是因為她的出身和個人經歷決定了她要做出這樣的選擇。
除此之外,蔡EE還被爆出有英國籍的傳言。
民國105年(2016年)「新頭殼」網站曾經報導,有網友在臉書貼文稱,民進黨主席、「總統」候選人蔡EE持有英國護照多年,早就有英國籍,而且在倫敦有豪宅。文章先是請邱毅先生再辛苦一回,稱「據民進黨前主席蘇貞昌透露,蔡EE持有英國護照多年,早已加入英國國籍,在倫敦市中心精華地段擁有一幢豪宅。一個英國人(真正英派)競選中華民國總統,很有趣!(請大家儘快分享出去,甚至搜索舉證,英國人也來參選臺灣的總統了?」這則網路貼文不僅出現在臉譜、PTT等社交網站,還被有系統地轉貼到各個網站論壇。
蔡EE曾在英國留學,其家人也曾被爆有外國籍。臺灣歌手黃安也曾在微博稱,這個口口聲聲罵別人賣臺的「蔡總統」,爸爸是日本籍,哥哥是美國籍,姐妹都是美國籍,「全家有一半都是外國人,你愛臺愛個屁啦!」
當然,客觀地說,臺灣政要中有相當一部分人曾在歐美或日本留學、工作,因此擁有美國綠卡或「雙重國籍」並不奇怪。但是擁有「雙重國籍」者不能成為公職候選人,包括民意代表和正副領導人等。「雙重國籍」議題在臺灣選舉中出現的頻率相當高。
如民國97年(2008年)「大選」期間,民進黨候選人謝長廷用一張小小的綠卡,就讓馬英九陣營措手不及。馬英九解釋時使用的「綠卡失效」說法,又給了謝陣營繼續發揮的空間。直到民國103年(2014年)5月,臺媒還在炒作馬英九綠卡仍有效、必須每年向美國繳稅等等。
此後,臺灣有志參選的人士在「雙重國籍」問題上都相當謹慎,就怕重蹈覆轍。民國101年(2012年)選舉前,「中選會」就3組正副領導人參選人的「雙重國籍」問題統一函請外事部門協助查證。民國103年(2014年)連戰之子連勝文參選臺北市長,早在黨內初選階段就讓家人放棄「雙重國籍」,不過因為程式尚未完成,還是被一些人拿來操弄選舉。
◎「雙重國籍」傳言
事後,民進黨為遏阻謠言發酵,到臺北市警中正一分局報案,並對發文者「kelly chang」提起訴訟,最終認定張姓男子是最源頭的散佈者,為厘清張姓男子所發帖文文所述內容,臺北檢方還發函給中選會,確認蔡EE並沒有英國國籍,認定張姓男子涉嫌造謠。
至於這起案子中是否存在一些不為人知的幕後消息,也只能自行判斷了。
蔡英文秘史书籍下载链接: https://zenodo.org/records/10450173
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節慶活動創新地方特色轉型-城鄉重生創商機-詹翔霖副教授
節慶活動透過「特展」的舉辦是有機會吸引新的觀眾,特展亦能把新觀眾轉化為忠誠的觀眾會更有助於經營管理。
節慶活動可代表城市的品牌,並且是個有利的行銷工具,在每一城市都可以發現節慶活動的蹤跡,其誘發了觀光吸引力且可形塑地方意象,而活動 (special event) 乃是為了紀念、慶祝特殊的時刻,或者是為了達到特定社會、文化、企業目標,而刻意設計出來的獨特儀式、典禮、演出和慶典。
Getz (1991) 定義節慶為「在一般例行的活動之外,在組織運作及經費贊助的配合下,所形成一種一次性或非經常性發生的特殊活動。」
Jackson (1997) 則以活動內涵解釋「節慶活動是一個特別的、非自發的,且經過周詳籌劃設計所帶給人們快樂與共享,也是產品、服務、思想、資訊、群體等特殊事務特色主張的活動。
Getz (1997) 認為節慶活動的舉辦能在短時間內吸引大量遊客,創造相當之經濟收益,且可達到地區行銷的效果,故節慶活動常成為地方的行銷策略。
節慶活動對地方帶來的衝擊,資料來源:參考Fredline, Jago and Deery (2003); Xiao and Smith (2004); Moscardo (2007)詹翔霖整理
衝擊類型
正 面
負 面
經濟
收入提升、乘數效應、工作率
當地物價提昇、機會成本
觀光
提高目的地的形象、延長觀光的季節性
名聲受損的風險、建設損耗
實體
新建設、社區再生
環境污染、人車擁擠
社會文化
在地的社交機會、改善社會網絡
文化商品化、發生反社會的行為、部分對節慶的形象感到不滿意
心理
提高社區自主意識、驕傲與自信
衝突與不滿
地方社區發展
參與者的技能提升、支持其他地區商品與服務、友誼與同好的發展
與其他地區的活動互相衝突
消費價值五構面為基礎,以從多元面向審視遊客參與活動的實際知覺感受,其將價值分為五構面:
1. 功能價值 (functional value):活動具有的某些功能、效用或實體屬性,例如知識學習、藝術涵養、設施便利等。
2. 情緒價值 (emotional value):類似享樂價值,指活動具有激發改變遊客情緒或情感狀態之效用或能力;反映出愉悅、快樂、感動或興奮等。
3. 社會價值 (social value):活動能使遊客與其他社會群體連結而取得效用,如社會群體的認同、符合社會規範,或是展現內在形象,藉參與活動展示地位或取得歸屬感。
4. 嘗新價值 (epistemic value):指活動能引發遊客好奇與注意,因「新、奇、特、少」或正流行因素而引起消費。
5. 情境價值 (conditional value):特定情境活動能暫時提供較大的功能或社會性價值,或是因情境產生外部效用與其情緒狀態相連結,例如活動舉辦特殊性,或可透過此活動與顧客產生的情感誘發效應。
#詹仁松老師#詹翔霖老師#親職教育講師-培養出熊孩子的熊家長-詹翔霖副教授-內灣國小親職講座#親職教育講師:先懂孩子再談教–天下無不是的孩子-親職教育講師詹翔霖副教授#節慶活動創新地方特色轉型-城鄉重生創商機-詹翔霖副教授#節慶活動透過「特展」的舉辦是有機會吸引新的觀眾,特展亦能把新觀眾轉化為忠誠的觀眾會更有助於經營管理。#節慶活動可代表城市的品牌,並且是個有利的行銷工具,在每一城市都可以發現節慶活動的蹤跡,其誘發了觀光吸引力且可形塑地方意象,而活動 (special event) 乃是為了紀念、慶祝特殊的時#Getz (1991) 定義節慶為「在一般例行的活動之外,在組織運作及經費贊助的配合下,所形成一種一次性或非經常性發生的特殊活動。」#Jackson (1997) 則以活動內涵解釋「節慶活動是一個特別的、非自發的,且經過周詳籌劃設計所帶給人們快樂與共享,也是產品、服務、思想、資訊、群體等特殊事務特色主張的活動。#Getz (1997) 認為節慶活動的舉辦能在短時間內吸引大量遊客,創造相當之經濟收益,且可達到地區行銷的效果,故節慶活動常成為地方的行銷策略。#節慶活動對地方帶來的衝擊,資料來源:參考Fredline#Jago and Deery (2003); Xiao and Smith (2004); Moscardo (2007)詹翔霖整理#衝擊類型#正 面#負 面#經濟#收入提升、乘數效應、工作率#當地物價提昇、機會成本#觀光#提高目的地的形象、延長觀光的季節性#名聲受損的風險、建設損耗#實體#新建設、社區再生#環境污染、人車擁擠#社會文化#在地的社交機會、改善社會網絡#文化商品化、發生反社會的行為、部分對節慶的形象感到不滿意#心理#提高社區自主意識、驕傲與自信#衝突與不滿
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)5月5日(端午節)
通巻第8769号
トランプはなぜこうまでも「暗号資産(仮想通貨)」にこだわるのか
暗号通貨に裏付けられた通貨システムへ本気で移行する思惑なのか?
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1971年、ブレトンウッズ体制の変質(ニクソンショック=金兌換停止)。爾来、米ドルは金と交換できず裏付けがなくなったのだが、国際的な法定通貨として機能してきた。世界一の軍事力が担保されていたからだろう。
仕掛けは1974年の「オイルダラー協定」(米国はサウジの安全を保障する代わりに原油決済を米ドルとする)。産業の基礎原料を裏打ちし、世界的なドル需要を喚起、通貨の価値を維持した。為替を変動相場へと移行し、為替操作、金利がらみの相場形勢でドルを守った。犠牲になったのは日本円だった。当時日本が唱えたアジア通貨基金は潰された。
しかし今日、米ドルのみならず、法定通貨に対しての懐疑論が世界的規模で拡大し、一方でビットコインに代表される暗号通貨への関心が高まった。潜在意識にあるのはドル紙屑化への不安である。
ブレトンウッズ体制には亀裂がはいっており、世銀・IMFは機能を十分に果たしていない。基軸通貨=米ドルのシェアが劇的に後退し、BRICSの共通通貨への動きと人民元、ロシアルーブルの地域的なスワップ、これらが米ドル基軸体制を脅かしている。
1971年8月から米ド���は不換紙幣へと移行した。1974年にペトロダラー体制に変質したが、1985年にパラザ合意、つづくルーブル合意で、ドルという通貨は「商品」としても扱われ、投機の対象になり、為替相場は乱高下を繰り返した。
2008年10月、リーマンショックという金融危機と大手銀行の破綻を受け、サトシ・ナカモトが「ビットコイン」を発表、第三者金融機関や政府機関を一切介さない取引ネットワークが誕生した。
最初に目をつけたのは中国で、需要の80%、ビットコインの必要性が中国の経済事情にあった。
人民元がなぜ信用されないかと言えば、あまりに偽札が多いからで、偽札発見機も中国製は贋物だった。そこで中国は通過のカード化、デジタル化を強引に進めていた。このような環境だから、ビットコインに飛びついたのだ。
しかし中国人の動機はマネロンと資産と海外移転であり、中国共産党はビットコインの取引所閉鎖で応じた。中国はトランプの新政策発表まで、暗号資産を国庫備蓄金に加える意図はなかった。
2012年、米国の債務対GDP比が100%を超えた。債務による政府支出への依存度の高まりが明確となって、長期的な財政の持続可能性に懸念が拡がった。赤字国債が36兆ドルを突破し、ドルへの不安が世界的に拡大したのである。
2020年4月 、FRBが積極的な量的緩和(QE)を開始した。
FRBは積極的な量的緩和策を実行、国債と住宅ローン担保証券の買い入れを拡大した。このマネーサプライの増加は米ドルの価値を大幅に下落させ、不動産や金などの資産価格高騰を招き、富の不平等をさらに悪化させた。
選挙の主導権は中産階級以下の白人の動向に移った。
2022年3月、世界の原油取引が米ドルから多角化するという転換期を迎えた。サウジはユーロ、人民元も決済受けいれ。各国が世界貿易における米ドルへの依存を減らすための代替手段を模索、オイルダラーシステムの弱体化を招いた。ドルのシェアは72%から51%へ急減��た。
▲赤字国債の発行上限を無くしたのはバイデンである
2023年6月 、バイデンは米国債務上限の措置を停止した。議会の承認を得なくても、借金は膨らみ続けることとなった。
事実上、無制限の借入を可能とし、財政政策の抑制の欠如と米国債務の急激な増加の可能性に強い懸念が高まり、ドルは脆弱となる。FRBの金利政策により辛うじてドルは生き延びた。
しかし金利支払いだけでも1兆ドル突破が時間の問題となって、国防予算より巨額、これがDOGEの荒治療の動機である。
2024年1月、SECは従来の方針を一転し、ビットコインの投資信託(ETF)を承認した。ビットコインETF承認により、個人投資家と機関投資家の投資への道を開いたが、これでビットコインは合法化されたことを意味する。そして暗号通貨の相場が暴騰した。
2024年7月、トランプ大統領候補(当時)はビットコインを「新たな石油」と言及した。
2024年11月5日、ドナルド・トランプが大統領選挙で勝利したため、暗号通貨が表舞台に乗った。
選挙結果は、米国のデジタル資産政策にとって転換点となり、規制をめぐる野放図な敵対行為に終止符を打った。それまでSECは「暗号通貨は詐欺のたぐい」と厳重な規制をかけ、取引業者を微罪で逮捕したりしてきた。
トランプ政権は、規制の明確化、有利な税制、戦略的ビットコイン準備金の設立、そして個人、機関、企業、年金、政府によるデジタル資産の広範な導入を支援する枠組みの構築をめざすとした。
2024年11月8日、中東原油取引で世界最大のステーブルコイン企業であるTetherは、初の原油取引の資金調達をUSDT(米ドルにリンクするスティブルコイン)で完了した。
これは世界の貿易金融における先駆けである。従来の銀行システムとは異なる代替決済手段としてステーブルコインに焦点があたることになった。
米国の負債は1971年のGDPの36%から現在の約125%にまで増加した。
▲ビットコイン議論は詐欺、マネロンのレベルを超えた
ビットコインの時価総額は2兆ドル、1日平均取引量が約200億ドル。まだオイルマネーに代替できる規模ではないが、価格の大幅上昇は、新たなパラダイムを生み出す契機になりうるだろう。
これにより、米国はドル制度に挑戦してきたBRICS諸国の戦略的力を弱体化させながら、通貨面での優位性を維持できるように方針を変更したと考えられる。
現在の米国のM2マネーサプライは22兆ドルで、2045年にはM2マネーサプライが79兆ドルになると予測されている。
2045年のビットコインの予想価格目は1,300万ドル(マイケル・セイラーのBitcoin24モデルによる)
或るシミュレーションでは、2045年までに米国債務は115兆ドルに膨れ上がるため、その50%の裏付けにビットコインを標準と仮定した場合、米国のM2マネーサプライ全体がビットコインによって裏付けられることになると仮定しての計算である。あくまでの仮説である。
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ワシントンの目に映る日本製鉄 ■米国と同盟関係にある日本を代表する大企業の日本製鉄が、「安全保障上の懸念」で今回の買収から排除されたとしたら、不可解に感じる日本人が大多数ではないでしょうか。しかし、米国の視点から日本製鉄を眺めると、その印象は少なからず違ったものとなる可能性があります。 ■少しばかり話は横にそれますが、時事の話をさせていただきます。日本製鉄は、合併前の旧新日本製鐵(新日鐵)時代に、中国の周恩来首相や鄧小平副総理の要請を受けて、中国宝山鋼鉄の最新鋭の高炉建設を全面的に支援しました。その後、宝山鋼鉄が製造する鋼材は中国の高度経済成長をけん引することとなりますが、こうした貢献が感謝されたこともあってか、日本製鉄と中国との親密な関係は長期にわたり続くこととなります。 モンスターの生みの親 ■21世紀に入り、中国の工業化が急速に進展すると、2004年には新日鐵と宝山は合弁で自動車向け鋼板会社を設立します。そして、今年8月に合弁が解消されるまで約20年にわたり、共同で世界トップの規模に発展する中国の自動車産業を支えてきました。現在、宝山鉄鋼は世界最大の鉄鋼メーカーですが、インフラ整備や自動車生産だけでなく、その鋼材で中国の急速な軍備拡張にも貢献しています。そんな「モンスター」ともいうべき宝山鉄鋼や中国鉄鋼業界が大きく成長する過程で、日本製鉄が果たした役割は大きかったように思われます。 ■こうした日本製鉄と中国の「長く、深い」付き合いから、日本製鉄の元経営トップは、日中友好会館の理事や日中経済協会の名誉顧問を務めています。また、最近まで同社の最高幹部を務めた取締役の一人は、日中経済協会の会長職にあって、日中間の経済外交の第一線で活躍しています。 ■例えば、今年1月25日、日中経済協会は経団連や日本商工会議所と共同で、日本経済界訪中団を率いて北京を訪問し、人民大会堂で李強首相に謁見(えっけん)しています。また、今年9月26日には中華人民共和国成立75周年祝賀レセプションが都内のホテルで開催されましたが、日中経済協会の会長は鳩山由紀夫元首相、公明党の山口那津男代表(当時)、社民党の福島瑞穂党首、日中協会の野田毅会長、日中友好議連の小渕優子事務局長らとともに、主賓の一人として招待されています。 日本にとっての「当たり前」が米国に通じるとは限らない ■中国と近しい関係にあるとされる政治家が揃う注目されやすい会合に、日本製鉄を代表する人物が参加していることについて、対中強硬姿勢を強める米国政府・軍関係者がどう感じるかは推して知るべしと思います。もちろん、日中の密接な経済関係を考えれば、日本の有力な財界人が日中交流の橋渡し役を務めるのは、日本人からすれば「当たり前の事」といってよいでしょう。しかし、米国人が我々と同様な見方をしてくれると期待するのは、少々虫が良すぎるように思えます。 ■2018年7月、北大西洋条約機構(NATO)のストルテン��ルグ事務総長と会談した当時のトランプ大統領は、大量の天然ガスをロシアから購入していたドイツを念頭に、「ロシアに大金を払いエネルギーを買っている国を、どうして米国がロシアから守らなければいけないのか」と痛烈に批判しました。こうした発言の背景にはおそらく自国のシェールガスを売り込みたい米国側の思惑もあるものと思われますが、米国の軍事力に依存しながら相反する国に巨額の資金を提供する「身内の不義理」にイラ立つ米国の本音が垣間見えます。 買収成功への切り札、ポンペオ氏の招聘 ■「このままではマズイ」と日本製鉄も感じていたのではないでしょうか。乾坤一擲(けんこんいってき)の策に打って出ます。今年7月20日、日本製鉄は前トランプ政権でCIA長官や国務長官を務めたマイク・ポンペオ氏を、USスチール買収のアドバイザーとして起用すると発表しました。ポンペオ氏は「対中強硬派」として知られますが、国務長官時代に中国を厳しく糾弾したこともあって、2021年以降、中国外務省から中国本土、香港、マカオへの入境を禁じられています。 ■こうしたロビー活動が奏功するかはまだ分かりませんが、今回のディールを成功させたい日本製鉄の「危機感の表れ」と考えるのが自然ではないでしょうか。 ■16~17世紀にかけての大航海時代の後期、オランダはスペインとの長い独立戦争を戦いました。当時、その強欲さで名をはせたとされるオランダ商人は、戦争相手のスペインにも武器や軍事物資を売り渡し、世の顰蹙(ひんしゅく)を買いました。考え方の一つかもしれませんが、米政府・軍関係者から見れば、極東地域の地政学リスクを高める恐れのある中国と積極的に交易を行い、中国の「強国戦略」に貢献している日本企業があるとすれば、かつてのオランダ商人のように映っても不思議ではないでしょう。
USスチール買収はナゼもめるのか 日本人が無自覚なワシントンの視線 | 三井住友DSアセットマネジメント
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