#山形御朱印巡り
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2023/09/28
9月28日(木)晴
結局明け方まで眠れなかったが、友人と神社に行くことにしていたので、朝から出かける。
今回は国分にある国分八幡宮へ。ここの神社は御朱印が毎月替わり、それが人気らしい。ちょうど滋賀県から来たと言っていた方がいた。
この神社には見応えのある磐座があり感動した。
この神社の裏から大禿山へ行く登山道があり、そこの頂上には水分社という祠がある。そこへ参拝するといただける御朱印があるので登って��ることにした。思ったよりも険しい山道だったが、登った時は達成感があり気持ちよかった。ただ、今日は暑くて汗をかなりかいてしまった。
帰りは付近の寺を巡ったりしながらうどん屋でうどんを食べて帰宅。このうどんがまたボリュームがすごくて満腹になった。
帰宅後は昨日思いついたブログの作成をした。これまではこの日記とは別に出かけたことの記録や読書メモ的な記事をMediumで公開していたが、それを移行しようと思う。ある程度デザインなどは形になってきたので、あとは記事を移行していこうと思う。
夜はいい感じの時間帯に眠ることができた。やっぱり運動して汗をかくとよく眠れるのかもしれない。
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2024/11/12 13:00:20現在のニュース
自民弱体化、組織へ帰属意識低下 元党事務局長・久米晃氏 有権者の実像 識者に聞く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/12 12:57:43) 春日大社・夫婦大国社、修理完了祝い公開 しゃもじあしらった特別御朱印も([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:55:43) 甘くて柔らかい刀根早生柿がパフェや春巻きに… 奈良県立大生らがメニュー考案([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:55:43) 長時間労働に限界 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/12 12:51:38) 龍田古道のお米 味わって([B!]読売新聞, 2024/11/12 12:51:25) AED「使えて当然」に 解禁20年 積極活用 道半ば 命救われた男性「使用ためらわないで」:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/11/12 12:45:09) 国民・玉木代表「思い伝えようと」 想定問答は党所属議員らと作成(毎日新聞, 2024/11/12 12:39:42) 文科相、財務省案は「乱暴」 教員給与引き上げ巡り主張対立 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/12 12:36:28) JR米坂線の早期復旧へ、山形、新潟両県の沿線自治体首長らが国交省に財政支援求める([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:36:25) パンタグラフと架線に損傷確認 東北新幹線走行中トラブルでJR東日本([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:30:39) コロナ減便のダイヤ回復を 滋賀県地方6団体、JR西に要望 利用者離れなど懸念([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:30:39) トランプ氏、国務長官に対中強硬派ルビオ氏指名へ 米報道、安保補佐官にウォルツ氏打診([B!]産経新聞, 2024/11/12 12:30:39)
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長野旅行記
9月某日、早朝から出発して夕方に長野県の戸隠山に到着する。夕食まで時間があったので、宿の近くにある戸隠神社の中社に参拝した。中社は標高約1200mの地点にあるため、涼しいを通り越して寒い。境内には樹齢800年の巨大な三本杉が立っている。

二日目、早朝に宿を出て、戸隠神社の奥社と九頭竜社��向かう。奥社へ続く参道は大きな杉の木が並ぶ、静かで荘厳な雰囲気。徒歩で40分程と結構な道程だが、人が少なかったこともあり、歩いていてとてもリラックスできた。
奥社を参拝したあとは戸隠神社の残る二社、宝光社と火之御子社を参拝し、五社巡りを終える。お昼は長野の名物である蕎麦を食べた。

戸隠を出て諏訪へと向かい、諏訪湖の北にある諏訪大社の下社(春宮と秋宮)を参拝する。
下社を参拝した後は霧��峰へ向かう。霧ケ峰という名前の通り、辺り一面濃霧に包まれている。散歩がしたかったが危険なので断念、この日は宿で過ごす。
三日目。霧が晴れて良い天気だったので、丘の上にある霧鐘塔という鐘まで散歩する。霧鐘塔の標高は1684m、丘からは遠く富士山の裾野が見渡せる。

霧ケ峰を下りて、諏訪市街へ。日本酒と漬物を買ったり、諏訪湖へ寄ったり、少し散歩する。

諏訪湖の南へ移動し、諏訪大社の上社本宮へ。境内の宝物殿では、諏訪大社の歴史や行事に関する史料、奉納品等をキャプションとともに見ることができて、とても面白かった。
最後に諏訪大社の上社前宮へ。ここは諏訪信仰発祥の地とも伝えられている場所で、他の三社と比べると自然の中にあり、清涼で神秘的な雰囲気。個人的に四社の中でも一番のお気に入り。 前宮の中にはミシャグジ神に関する記述もあった。中世までは、神官達がミシャグジ神とともに土室の中で冬ごもりをする神事があったらしい。諏訪信仰は齧った程度だが、知れば知るほど興味深い。
諏訪大社で購入したもの。御朱印帳と、四社巡りをした記念品の巾着袋。薙鎌守は黒曜石と諏訪大社の神具である薙鎌を形取った翡翠のお守り。

元々今回の旅行は諏訪大社参拝を目的としていたが、戸隠や霧ヶ峰でも長野の雄大な自然を堪能できた。諏訪大社は、古代から続く信仰を感じられる素晴らしい場所だった。今回は時間の都合で立ち寄れなかった史料館や山もいくつかあるので、またの機会に訪れてみたい。
2024.9.26
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豊烈神社(山形) 山形駅から歩いて10分くらいにある神社です。 山形藩主の水野家を祀っています ①今年の御朱印 己亥の部分が毎年変わります。 紫の判は水野家の家紋です。 ②③④境内の様子 御朱印は本殿から向かって右側の受所でいただきました ⑤⑥御神木と末社の稲荷神社 ⑦戊辰戦争��山形を戦火から救った水野三郎右衛門元宣の銅像 #豊烈神社 #御朱印 #御朱印好き #御朱印巡り #御朱印収集 #御朱印めぐり #限定御朱印 #御朱印スタグラム #御朱印集め #御朱印好きな人と繋がりたい #御朱印あつめ #御朱印男子 #御朱印おじさん #ご朱印 #ご朱印巡り #神社御朱印 #山形御朱印 #山形御朱印巡り #戊辰戦争 #水野家 (豊烈神社) https://www.instagram.com/p/Bz9BKIylSZ9/?igshid=19dd4f0g0x5tn
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山形県、月山志津温泉 . 年始は雪深い温泉で過ごしました。 . 📍Gassan,Yamagata prefecture,Japan . Hello world🐅 Tag Japanophile😀 . Follow @toratabix For your Japanese trip someday. . #山形 #山形旅行 #山形県 #月山 #町家 #47canon2019 #yamagata #寅旅 #山形観光 #山形カメラ部 #町屋 #街撮り #街歩き #街 #お寺巡り #仏像 #御朱印 #古民家 #散歩 #町並み #雪 #ひとり旅 #男はつらいよ #toratabi #小京都 #重要伝統的建造物群保存地区 #街角スナップ #街並み #商店街 #japantrip (月山志津温泉) https://www.instagram.com/p/B7E0-yYAs0M/?igshid=17iomzprc3drm
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今回は、福岡県糟屋郡篠栗町の若杉山の麓に鎮座する#太祖宮 (下宮)に行ってきました。 上宮は若杉山の山頂にあるようです。(今回は、時間の都合上諦めました。) 4月と10月に、福岡県指定無形文化財にもなった、太祖神楽が奉納されるようです。 境内には、巨大な楠木が多く聳え立っています。 また、立派な土俵もありました。 大相撲九州場所の時期は相撲部屋になっていたみたいです。 とっても、綺麗で心が落ち着く空間でした。 御朱印帳の持ち運びに便利な、御朱印帳入れも好評発売中です!! 名入れ御朱印.com BASE店では、続々新商品発売してます。 是非、チェックしてくださいね!! naire_gosyuin.com_i #福岡 #Fukuoka #篠栗町 #太祖神社 #太祖神楽 #若杉山 #福岡県指定無形文化財 #楠 #大相撲 #九州場所 #パワースポット #御神馬 #御朱印 #御朱印帳 #御朱印集め #御朱印巡り #御朱印スタグラム #御朱印好きな人と繋がりたい #gosyuin #名入れ #名入れギフト #オリジナル #オリジナルグッズ #オーダーメイド #名入れ御朱印ドットコム #オリジナル御朱印帳 #名入れ御朱印帳 #フォローミー #いいね返し https://www.instagram.com/p/CedZ8jNPVlT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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紅葉が散る前に雪が降って雪紅葉の美しい寒河江八幡宮🍁❄️ 前九年の役の戦勝報賽にて京都男山八幡より勧請し源頼政、義家親子によって創建されました また承久の乱後、御家人大江親広が討幕側に反旗を翻し敗れ当地に身を隠した際、鶴岡八幡宮より勧請し元の八幡社と合祀して寒河江大江氏の産土神とします 大江親広を祖に18代寒河江氏は続きますが戦国時代、羽州の狐寅、戦国時代一の邪悪と呼ばれた最上義光に滅ぼされて400年続いた寒河江氏の歴史に���を閉じることになります #寒河江八幡宮 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 寒河江八幡宮(さがえはちまんぐう) 鎮座地:山形県寒河江市八幡町5-70 主祭神:誉田別命、大山祇神 社格:県社 別表神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社仏閣 #パワースポット #寒河江市 #紅葉 #雪紅葉 #寒河江八幡宮 (寒河江八幡宮) https://www.instagram.com/p/ClBpWtgv2GA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した��いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、���謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察���の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿��鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。���攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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各地句会報
花鳥誌 令和5年6月号

坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
山焼きの煙り静かに天昇る 喜代子 盛り上がる土ものの芽の兆しあり 由季子 古雛や女三代つゝましく 都 青き踏む館の跡や武者の影 同 日輪の底まで光り水温む 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
桃の日のSt.Luke’s Hospital 光子 パイプオルガン天上の春連れませり 順子 指を向け宙に阿弥陀の春の夢 いづみ 春の川大東京を揺蕩ひぬ 美紀 聖路加の窓ごとにある春愁 眞理子 雛菊もナースキャップも真白くて 順子 聖ルカを標としたる鳥帰る 三郎 印度へと屋根とんがりて鳥雲に 佑天 鳥雲に雛僧の足す小さき灯 千種 学僧は余寒の隅に立つてをり きみよ
岡田順子選 特選句
春陽に沈められたる石の寺 美紀 春空に放られしごと十字架も 同 春潮の嫋やかな水脈聖ルカへ 三郎 鳥雲に雛僧の足す小さき灯 千種 涅槃西風吹きだまりては魚市場 いづみ 聖路加の鐘鳴る東風の天使へと 俊樹 皆春日眩しみ堂を出で来たり 千種 桃の日のSt.Luke’s Hospital 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
春愁の揺れてをるなりだらり帯 愛 立子忌や飯とおさいにネモフィラ猪口 勝利 春眠し指に転がす砂時計 かおり ゆらめいて見えぬ心と蜃気楼 孝子 春潮のかをり朱碗の貝ひらく 朝子 ファシズムの国とも知らず鳥帰る たかし 立子忌の卓に煙草と眼鏡かな 睦子 毛糸玉ころがりゆけば妣の影 同 わが名にもひとつTあり立子忌よ たかし 波の綺羅とほく眺めて立子の忌 かおり 灯を消してふと命惜し雛の闇 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月6日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
この空のどの方向も春日燦 和子 思ひ出はいろいろ雛の女どち 同 うららかや卒寿に恋の話など 清女 鳥帽子の小紐手をやく京雛 希 耳よりの話聞きゐる春の猫 啓子 地虫出づ空の青さに誘はれて 雪 意地を張ることもなくなり涅槃西風 泰俊
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月10日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
裏路地の古屋に見ゆる雛祭 実加 子等笑ふお国訛りの雛の客 登美子 彼岸会の約束交はし帰る僧 あけみ 筆に乗り春の子が画く富士の山 登美子 うららかな帰り道なり合唱歌 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
春夕焼浜の民宿染めてをり すみ子 青粲粲空と湖面と犬ふぐり 都 水車朽ちながらも春の水音して 和子 朝東風や徒人の笛は海渡る 益恵 枝垂梅御幣の揺れの連鎖して 宇太郎 春の婚オルガン春の風踏んで 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
啓蟄やボール蹴る子は声がはり 恭子 海近き山の椿の傾きて 和代 啓蟄の光を帯びし雲流る ゆう子 鳥鳴いて辛夷の甘き香降る 白陶 一人言増えたる夕べ落椿 恭子 小気味よき剪定の音小半日 多美女 一端の鋏響かせ剪定す 百合子 ふる里の椿巡りや島日和 多美女 剪定や句碑古りて景甦る 文英 剪定や高枝仰ぐ褪せデニム ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
雪吊の縄の解かれて睡り覚む 世詩明 家康公腰掛け松や地虫出づ ただし 捨鉢な女草矢を放ちけり 昭子 屋号の名一字継ぎし子入学す みす枝 花冷や耳のうしろといふ白さ 昭子 坐りゐて炬燵の膝のつつましく 世詩明 対座したき時もあるらん内裏雛 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
摘草のさそひ届きぬ山の友 ことこ 蒼天に光の礫初燕 三無 陽炎のけんけんぱあの子をつつむ あき子 朝戸風見上げる軒に初つばめ 同 摘み草や孫を忘れるひとしきり 和魚 かぎろへる海原円く足湯かな 聰 陽炎や古里に建つ祖母の家 ことこ 我家選り叉来てくれし初つばめ あき子 陽炎ひて後続ランナー足乱る のりこ 新聞を足してつみ草ひろげたり あき子 つみ草や遠くの鉄橋渡る音 史空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月14日 萩花鳥会
熔岩の島生き長らへし藪椿 祐子 寝静まり雛の酒盛り���の間に 健雄 田楽や子らの顔にも味噌のあと 恒雄 雑草も私も元気春日向 俊文 猫抱いてぬくぬく温し春炬燵 ゆかり 子自慢の如く語るや苗売よ 明子 雲梯を進む子揺らす春の風 美惠子
………………………………………………………………
令和5年3月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
雪吊りのほどけて古木悠然と 笑子 落椿きのふの雨を零しけり 希子 夜半の軒忍び歩きの猫の恋 同 立雛の袴の折り目正しくて 昭子 桃の花雛たちにそと添はせたく 同 口笛を吹いて北窓開きけり 泰俊 手のひらを少し溢るる雛あられ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
雪吊の縄のゆるみに遊ぶ風 雪 奥津城の踏まねば行けぬ落椿 同 まんさくに一乗川の瀬音かな 同 よき言葉探し続ける蜷の道 すみ枝 春眠の赤児そのまま掌から手へ 同 足裏に土のぬくもり鍬を打つ 真喜栄 強東風の結界石や光照寺 ただし 裸木に降りかかる雨黒かりし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月17日 さきたま花鳥句会
春雨に黙し古刹の花頭窓 月惑 震災の地に鎮魂の東風よ吹け 一馬 春昼や女房のうつす生あくび 八草 ととのへし畝に足跡朝雲雀 裕章 路地裏の暗きにありて花ミモザ ふゆ子 薄氷や経過観察てふ不安 とし江 拾ひよむ碑文のかすれ桜東風 ふじ穂 水温む雑魚の水輪の目まぐるし 孝江 薄氷の息づき一縷の水流る 康子 二月尽パンダ見送る人の波 恵美子 ほろ苦き野草の多き春の膳 みのり 梅園に苔むし読めぬ虚子の句碑 彩香 強東風老いてペダルの重くなり 静子 鉛筆はBがほどよき春半ば 良江
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令和5年3月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
一族の閼伽桶さげて彼岸寺 芙佐子 隠沼に蝌蚪のかたまり蠢きぬ 幸風 セスナ機の音高くして地虫出づ 月惑 この山の確と菫の一処 炳子 石仏に散華あまねく藪椿 要 年尾とはやはらかき音すみれ草 圭魚 茎立の一隅暗き室の墓 千種 春塵の襞嫋やかに観世音 三無
栗林圭魚選 特選句
ビル影の遠く退く桜東風 秋尚 古巣かけメタセコイアの歪みなし 千種 寄せ墓の天明亨保花あけび 同 色を詰め葉の艶重ね紅椿 秋尚 ひとつづつよぢれ戻して芽吹きけり 同 信号の変り目走る木の芽風 眞理子 助六の弁当買うて花人に 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
���三大師夢のお告げの二日灸 雪 新しき雪夜の恋に雪女 同 恋てふも一夜限りを雪女 同 懐手もつともらしく頷けり 昭子 石庭に音立て椿落ちにけり 同 雛簞笥何を隠すや鍵かけて 同 貸杖の竹の軽さや涅槃西風 ただし 石どれも仏に見えて草陽炎 同 泰澄の霊山楚々と入彼岸 一涓 制服も夢も大なり入学児 すみ枝 露天湯に女三人木の葉髪 世詩明 歩きつつ散る現世の花吹雪 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
門出祝ぐ花の雨とてももいろに はるか 花色の着物纏ひて卒業す 慶月 街の雨花の愁ひの透き通り 千種 蹄の音木霊となりて散る桜 政江 フランス語のやうにうなじへ花の雨 緋路 大屋根をすべりて花の雨となる 要 花屑へまた一片の加はりぬ 緋路 永き日のながき雨垂れ見て眠し 光子 宮裏は桜の老いてゆくところ 要
岡田順子選 特選句
金色の錠花冷えのライオン舎 緋路 漆黒の幹より出づる花白し 俊樹 白々と老桜濡るる車寄せ 要 花揺らし雨のつらぬく九段坂 はるか 漆黒の合羽のなかに桜守 光子 花の夜へ琴並べある神楽殿 はるか 春雨や無色無音の神の池 月惑
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
今昔の小川にしのぶ蜆かな 成子 薔薇の芽の赤きは女王の予兆 ひとみ 潮こぼしながら蜆の量らるる 朝子 餌もらふ鯉をやつかみ亀の鳴く 勝利 突きあげし拳の中も春の土 かおり 持つ傘をささぬ少年花菜雨 ひとみ 涅槃西風母も真砂女も西方へ 孝子 亀の鳴く湖畔のふたり不貞だと 勝利 口紅は使はれぬまま蝶の昼 喜和 長靴の子はまつすぐに春泥へ ひとみ パグ犬と内緒のはなし菫草 愛 息詰めて桜吹雪を抜けにけり 孝子 ふと涙こぼれてきたる桜かな 光子 健やかな地球の匂ひ春の草 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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全国ツアーヨガと日本の心2023
#ヨガと日本の心#ご挨拶リレー
シュリカリジャパン全国ツアーは只今各地で開催中!
ご挨拶リレーは、広島県の尾道市で6/3開催の石橋優希先生からバトンをもらいました。いつもありがとうございます♪
@yuuki__yoga
「6/4(日)シュリカリと日本文化の魅力1dayリトリート」を開催する、田中佐和子です。
『アーユルヴェーダのウォーキングマッサージとヨガ2時間とお話会』
ヨガの内容は、いつものように体の柔軟性は気にせず、静かに自分を見つめ、初心者も経験者も一緒にヨガのポーズを楽しみます。私たちの心身をすこやかに保ち、日常生活をより豊かに向上させてくれるものです。
お話のトピックは、「シュリカリとは?ズバリ気持ちのよさ。一見ヨガのポーズをしているんだけど、気持ちがいいってどうゆうこと?」「ニコニコしてるそんな自分に会いたくて」「素直な心が一番」などなど。
そしてヨガと日本人の感性は、とてもよく似てるんですよ〜♪というお話トピックは、「美しき人」「世界にひと花」「私たちのすぐそばで」etc etc...
いっきにヨガに距離が近づいて、体を動かす習慣で毎日リフレッシュしていくと、日常生活がもっとワクワクするものに。暮らしの中に根付いてる日本人の心を掘り起こして、毎日生活にスパイスを。
肩の力を抜いて、どうぞお楽しみください☆
◇日程
2023年6月4日(日)
◇時間
開場 9:50 / スタート10:00 / 終了予定 16:00
◇会場
曹洞禅宗 恵運寺
和歌山市吹上3-1-66
@daihouzaneunji
◇アクセス
車:和歌山ICより30分 無料駐車場あり(約20台)
バス:JR和歌山駅、または南海和歌山市駅よりバスにて「日赤医療センター前」下車徒歩5分
◇参加費
6,000円 ペア割 −500円
nowaさんのお弁当(地元農家の無農薬の季節野菜を中心に全7品)
@nowa_kurashi
ケイトシィさんの焼き菓子(猫の肉球の形のマドレーヌ)
@patisserie_kaitsith
◇定員 15名
◇予約
プロフィールのURLレゼルバ予約サイトから
Instagram DM
公式ライン: @201wqxny
メール: [email protected]
☆あと若干名で受付終了です
◇スケジュール
9:50��受付開始
10:00〜アーユルヴェーダのマッサージ(ペアになってお互いの全身を足で揉みほぐし)
12:15〜お昼ご飯
13:00〜お話『シュリカリの特徴と魅力』
13:30〜ヨガ2時間
15:30〜お話『ヨガと日本人の感性』
※時間は多少前後する可能性があります
※それぞれのプログラムの間に休憩時間あり
恵運寺さんは、和歌山城の南側の住宅やお寺が立ち並ぶエリアにあります。近くに八代将軍・徳川吉宗生誕の地があります。
和歌山の忍者に伝わる書物を書いた人物の墓石があり、歴史が詰まったお寺です。
境内に一歩入ると、静かでゆったりと落ち着き、気持ちのいい空間です。綺麗で大切にされています。
乳房のあるお地蔵さんをはじめとする十三体のお地蔵さんがお祀りされています。和歌山県紀美野町にかつて祀られていたお地蔵さんは、建物の老朽化と堂主の高齢化により行き場を失っていました。ある日、抜魂のため恵運寺を訪れた人が、恵運寺の稲荷社再興の際、素性を明かさず社殿を寄進し立ち去った人、その人であったことを知った住職がこれぞ仏縁と感じ、処分する事なくお祀りするに到ったそうです。
このお話で私は、「情けは人の為ならず」という日本のことわざと、「鬼滅の刃」で出てくるセリフ『人のためにすることは、巡り巡って自分のためになる。』を連想しました。
かっこいい素敵な御朱印は、イベントの日、終日対応可能の予定だそうです♪
どうぞよろしくお願いします。
さて続いては、6/10(土)に名古屋で1dayリトリート開催の、私の俳句の師匠、千葉律子先生に、
@ritsuko_go_go
バトンタッチします☆
全国各地で開催☟
総合案内
@yoga_life_shri_kali
https://shrikali.jp/ws2023/
▼ お話し会とヨガクラス
#全国ツアーワークショップ
#ヨガと日本の心
=====================
Shri Kali Japan
https://shrikali.jp
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#インドの文化
#日本の文化
#伝統的なヨガ
#shrikali
#ヨガイベント
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#心のバカンス
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【旅の記:2022年初夏山形の旅①歌懸稲荷神社】
2022年の7月に秋田山形でライブして、ついでにお友達のお店に行ってゴルフして、、なんて計画していたのですが、結局ライブするところが見つからず。ツアーではなく、純粋に旅として山形県に。 お友達のお店は庄内にあって、庄内藩の本をよく読んでいた時期だったのでタイムリーでしたが、歴史探訪はできず。また必ず行くと思いますが。山形に移動して、どうしても食・飲むが優先でしたが、少しだけ巡れたので記していきたいと思います。 まずは山形城の三の丸跡が残る山形市にあります歌懸稲荷神社。城の一部が残っているところも魅力的ですが、やはりこの神社名でしょう!江戸時代初期、前身の神仏習合の寺院だったころ、お参りに来る人は歌(和歌・短歌など)を奉納する風習があったそうで、歌を詠まないと渡れない橋があったそうです。そういうこともあって、後に京都伏見よりお稲荷様を勧請した際に歌懸稲荷神社としたそうです。 山形城主であった斯波兼頼、最上義光からの信仰も厚く、1622年に最上家改易の後に入った鳥居忠正によって現在の場所に移設された。




社殿の裏手には秋田城(霞城)三の丸跡

とはいっても少々分かりづらいけど。。

彫刻家新海竹太郎氏の銅像


2012年の爆弾低気圧で約2分の1に折れてしまったご神木であるイチイの木の印と上皇后陛下の御歌という「君とゆく 道の果たての通白く 夕暮れてなほ 光あるらし」

ご神木は災難を乗り越えて生き続けているそうで、再起の象徴として御朱印にしているそうです。

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☆夏休み2022☆ 熱田神宮 @atsutajingu.official 熱田神宮には三種の神器の1つ 「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)が祀られている 伊勢神宮には「八咫鏡」(やたのかがみ) 皇居の「剣璽の間」に「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま) 直接見ることはないけど 時を越えて受け継がれていく神話と 神宝が存在するのは すごいことだと思う 熱田神宮へ参拝した日は 小雨の降る日 傘は持って歩いたけど 大きな木々が傘のように 雨を防いでくれるから 思ったより濡れず 傘もささずそのまま歩いた 鳥居をくぐると軍鶏に迎えられる 以前来た時にはいたかな? コレは名古屋コーチンとか? なぜ神宮に軍鶏? 頭の中ははてなマーク 天岩戸に閉じこもった天照大御神が 鶏の鳴き声「コケコッコー」を聞いて 朝が来るはずがないのに?と 岩戸から外を覗き見た 長鳴鶏の鳴き声で天岩戸が開いた というこの功績により 鶏は神の使いになったらしく 「神鶏」と呼ばれる 軍鶏じゃなくて「神鶏」 なかなか会えないらしいが 数羽見かけたよ 会えるとラッキーらしいね しっとりと雨に濡れた 伊勢神宮の遷宮の古材が 使われてる 熱田神宮は荘厳な感じがして 素敵だった 大きな楠を見上げ その枝振りに時の流れの 壮大さを垣間見た 前日の歩き疲れ みなもカフェで抹茶ときよめ餅で一服 みなもカフェは「みなも神殿挙式」の ウエイティングルームを利用したカフェ 窓から見える庭園が とても素敵でした きしめんを食べれる くさなぎ広場苑もあって ちょっと不思議な感じ 熱田神宮 @atsutajingu.official 名古屋市熱田区神宮1丁目1−1 052-671-4151 主祭神:熱田大神 相殿神:天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命 #熱田神宮 #名古屋観光 #愛知観光 #名古屋観光スポット #愛知観光スポット #名古屋パワースポット #熱田神宮パワースポット #みなもカフェ #抹茶 #きよめ餅 #軍鶏 #神鶏 #神社めぐり #御朱印 #御朱印巡り #ともの夏休み2022 · · · 天叢雲剣とも言われる草薙剣 高天原(たかまがはら)を追放された スサノオノミコトが出雲国に降り そこで人々を襲う「八岐大蛇」の話を耳にする 生贄となる予定のクシナダヒメを 嫁にもらうことを条件に 8つの頭8つの尾を持つ八岐大蛇を 退治することになる 八岐大蛇の大好物の酒を用意し泥酔させて眠らせ 「十拳剣」(とつかのつるぎ)と呼ばれる剣で 頭と尾を斬り退治に成功 このとき1振りの剣が八岐大蛇の尾から出てくる これが後に草薙剣と呼ばれる天叢雲剣で スサノオノミコトから アマテラスオオミカミへ献上される ニニギノミコトの天孫降臨の際に 高天原から日本へ降ろされた天叢雲剣は 第11代垂仁天皇の時代に 八咫鏡と共に伊勢神宮に遷座していた 「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)が東方平定へ向かう時に 日本武尊の叔母であり 伊勢神宮に天照大神を祀った初代斎宮の 「倭姫命」(ヤマトヒメノミコト)から 天叢雲剣が託される 同時に倭姫命は「火打石」が入った袋も渡し 日本武尊は東方遠征へ 順調に進んでいた日本武尊だったが 相模国(現在の神奈川県)で おびき出され周囲の野に火を放たれてしまう 進退窮まった日本武尊ではあったが 剣で周囲一帯の草を薙ぎ 倭姫命の火打石で 向かい火を放つことで 炎を逆方向に燃え広がらせ 日本武尊は無事に相模国を下し生還 この戦いで燃えた野の地名が 現在静岡県の中部に存在する 「焼津」(やいづ) 草を薙いだ剣を「草薙の剣」と称するように そのあと、日本武尊は尾張国(現在の愛知県西部)にたどり着き 「宮簀媛」(みやづひめ)と婚姻 宮簀媛のもとで休息を取ったのち 「伊吹山」(岐阜県と滋賀県の境にある山)の神を 征伐しに向かうことになったが 日本武尊は草薙の剣を 宮簀媛のもとに置いたまま旅立つ 草薙の剣を帯びていなかったからか 日本武尊は敗北す�� 三重県の鈴鹿山脈付近で死亡 その後、草薙の剣は宮簀媛によって 尾張国に祀られ 草薙の剣を主座に配した熱田神宮が 建立され現在まで続いている 時は流れ源平合戦で平家は都落ちをした際 平家一門に擁立された 幼い「安徳天皇」(あんとくてんのう)と共に 三種の神器を携えて逃亡 西国で態勢を立て直し 新しく朝廷を開こうとしていたが 「壇ノ浦の戦い」は源氏の勝利で幕を下ろす このとき幼い安徳天皇を 母「二位尼」(にいのあま)が胸に抱き 草薙の剣を伴って入水 朝廷で祀られていた形代の草薙の剣は 平家滅亡と共に海の底に沈んでいる (熱田神宮/Atsuta Jingu) https://www.instagram.com/p/Ci7U0Bzvif5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#熱田神宮#名古屋観光#愛知観光#名古屋観光スポット#愛知観光スポット#名古屋パワースポット#熱田神宮パワースポット#みなもカフェ#抹茶#きよめ餅#軍鶏#神鶏#神社めぐり#御朱印#御朱印巡り#ともの夏休み2022
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山形縣護国神社(山形) 山形駅から徒歩だと40分くらいかかりますが、行ってきました。 お正月には130万人もお参りに来る大きな神社です。 ①創建150年の印が押された今年だけの御朱印と末社の敷島神社の御朱印 2社頼んだので見開き仕様になってます ②③④⑤ 境内の様子。狛犬さんがデカくて、角?があるのがカッコいいです。 ⑥⑦⑧ 祈りのモニュメントや大きな絵馬など ⑨末社の敷島神社 今年が創建150年なので、今年だけの限定絵馬やお守りなどもあります。 #山形県護国神社 #山形縣護国神社 #山形県護国神社狛犬 #御朱印 #御朱印好き #御朱印巡り #御朱印収集 #御朱印めぐり #限定御朱印 #御朱印スタグラム #御朱印集め #御朱印好きな人と繋がりたい #御朱印あつめ #御朱印男子 #御朱印おじさん #ご朱印 #ご朱印巡り #見開き御朱印 #絵入り御朱印 #特別御朱印 #神社御朱印 #山形御朱印 #創建記念御朱印 #敷島神社 #護国神社 (山形県護国神社) https://www.instagram.com/p/Bz6o2Pvl8kr/?igshid=gou5zee141qr
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山形県、月山志津温泉 . 年始は雪深い温泉で過ごしました。 . 📍Gassan,Yamagata prefecture,Japan . Hello world🐅 Tag Japanophile😀 . Follow @toratabix For your Japanese trip someday. . #山形 #山形旅行 #山形県 #月山 #町家 #47canon2019 #yamagata #寅旅 #山形観光 #山形カメラ部 #町屋 #街撮り #街歩き #街 #お寺巡り #仏像 #御朱印 #古民家 #散歩 #町並み #雪 #ひとり旅 #男はつらいよ #toratabi #小京都 #重要伝統的建造物群保存地区 #街角スナップ #街並み #商店街 #japantrip (月山志津温泉) https://www.instagram.com/p/B7CNGp2ADSv/?igshid=7b46g8guhpmr
#山形#山形旅行#山形県#月山#町家#47canon2019#yamagata#寅旅#山形観光#山形カメラ部#町屋#街撮り#街歩き#街#お寺巡り#仏像#御朱印#古民家#散歩#町並み#雪#ひとり旅#男はつらいよ#toratabi#小京都#重要伝統的建造物群保存地区#街角スナップ#街並み#商店街#japantrip
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今回の御朱印は 福岡県田川市の#風治八幡宮 です。 毎年5月に執り行われる「川渡り神幸祭」という五穀豊穣と無病息災を祈願するお祭りがとても有名で、 福岡県指定無形民族文化財第1号に登録され、福岡県五大祭りの一つとされています。 神輿と山笠を担ぎ、威勢よく彦山川の川瀬を練り渡る所は大迫力で、多くの見物客で賑わいます。 今年も残念ながら中止が決まったようです。 来年こそは開催されて欲しいです。 また、全国で唯一社 封宮 様々な災いを封じ込める言い伝えが広がり、 境内にある「封宮」で封じたい悩みを木札に書いて箱に入れると、自分に降りかかって欲しく無いことを封じ込めてくれると言われています。 マツコさんの番組でも取り上げられたみたいです。 是非、訪れてみてはいかがてすか! #福岡 #田川市 #風治八幡宮 #川渡り神幸祭り #福岡県指定無形民族文化財 #福岡県五大祭り #封宮 #マツコ #御朱印 #御朱印帳 #御朱印集め #御朱印巡り #御朱印スタグラム #御朱印好きな人と繋がりたい #gosyuin #名入れ #名入れギフト #オリジナル #オリジナルグッズ #オーダーメイド #名入れ御朱印ドットコム #オリジナル御朱印帳 #名入れ御朱印帳 #フォローミー #いいね返し #フォロー返し https://www.instagram.com/p/CcNZ0GDv0Yt/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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