#徳川将軍家墓所
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振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。 あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用���・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所であり、この馬頭観世音菩薩も徳川家綱の愛馬を供養したことに由来している。
回向院 - Wikipedia
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食後の散歩がてら、#増上寺 へ #大門 の所に合った #芝ホテル もなくなり #マクドナルド の隣の #雀荘 のビルも無くなって大きな区画のビル工事されてた 増上寺もちゃんとみたことはないが、こうやって見るとやはり、#東京タワー とのコントラストは���観 ここに #徳川将軍家墓所 があるのは知らなかった! 二代秀忠から十四代家茂までの、6人が眠ってるって みんな #東照宮 かと思ってたよ🤣 中には入れないかったが、#葵の御門 が何とも力を発してるなぁ〜 (増上寺 / Zojoji Temple) https://www.instagram.com/p/CUMN5jDF7wPUiGIXgDfgEZIxvWaPiH7RG_L50Q0/?utm_medium=tumblr
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📸増上寺弁天池(蓮池)[ 東京都港区 ] Zojoji Temple “Benten-ike” Garden, Minato-ku, Tokyo の写真・記事を更新しました。 ーー東京タワーの借景も🗼内堀通り沿いの現代和風庭園は、古くは江戸の名所に数えられた増上寺弁天池(蓮池)。 ...... 「三縁山 増上寺」は江戸幕府将軍・徳川家の墓所、霊廟なども残る菩提寺で東京を代表する大寺院の一つ。 境内の南西部、現��は「芝公園」の一角に池泉回遊式庭園“弁天池(蓮池)”が残ります。 . これまで紹介していなかったけど東京に住んでいた頃は何度も通り掛かっていた場所。2021年夏、『芝公園もみじ谷』を訪れた時に2年ぶりに通り掛かったので、あわせて紹介。 . 平安時代に創建された『光明寺』を前身として、南北朝時代・室町時代の1393年に現在の寺名となった増上寺。桃山時代に徳川家康が江戸に入った後に現在地に移されました。 . 江戸時代には徳川家の菩提寺としてその地位を築いたものの、明治維新後に神仏分離と上知令で境内の大部分が『芝公園』に🌲(日本最初の公園のうちの一つ)。 また太平洋戦争の空襲でも大きな被害を受けましたが、運良く被害を免れた赤色の山門“三解脱門”が国指定重要文化財となっています。なお増上寺ではなく芝公園の一角にある“旧台徳院霊廟惣門”も国重文。台徳院というのは二代目将軍・徳川秀忠のこと。 . 増上寺の西部にある『宝珠院』の前に、江戸時代~近代までは名所と言われた“弁天池(蓮池)”があります。現在の規模や姿になったのは太平洋戦争以後の現代。 . 内堀通り沿いのオープンスペースにあるので“庭園”といった印象は受けづらいかもだけど、小さな滝や自然石による護岸石組、モミジ🍁やサツキ・ツツジの植栽は日本庭園風。かつてこの弁天池は『もみじ谷』の流れと繋がっていたそう。(今回“もみじ谷”で水を止めてた影響なのか池の水位が低かったから、今も繋がってるのかな?) . その脇にある『宝珠院』についても少しだけ。江戸時代初期に、この蓮池に“弁天堂”を建立したのと共に創建した増上寺の塔頭寺院。港区指定有形文化財の「閻魔大王 司録・司命」や運慶の作と伝わる薬師如来像を有します。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/zojoji-temple-%e5%a2%97%e4%b8%8a%e5%af%ba/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanlandscape #japaneselandscape #landscape #gardendesign #japantemple #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #東京庭園 #東京寺院 #大門 #浜松町 #赤羽橋 #御成門 #神谷町 #おにわさん #oniwasan (東京タワー Tokyo Tower) https://www.instagram.com/p/CWN8QDivjFj/?utm_medium=tumblr
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徳川将軍家墓所です。初めて入りました。#増上寺 #tokyo #東京 #徳川将軍家墓所 (大本山 増上寺)
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである��
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に��し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれ���、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬��
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫���大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭��大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、���察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女が���のまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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江東良一「FJ時事新聞 社長監修」浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士が眠る泉岳寺(東京都港区)
今回取り上げるのは、青松寺、総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる萬松山泉岳寺(以下文中表記は泉岳寺)だ。 泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が、幼少時に身を寄せた今川義元の菩提を弔うために、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を招いて、江戸城近接の外桜田に創建された曹洞宗の寺院だ。 寛永18年(1641年)寛永の大火によって泉岳寺は伽藍を焼失し、三代将軍・徳川家光(1604年~1651年)の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の5大名により、現在の高輪の地に移転再建された(正保年間〈1644年~1648年〉という説もあり)。 筆者にとっての泉岳寺は、家康がどうこう、家光がどうこう、というよりも、やはり浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と赤穂四十七義士の墓所がある寺院としての印象が強い。 よくご���知ではない人のために、簡単に浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士による「赤穂事件」(「忠臣蔵」、「赤穂義士伝」ともいわれている)について説明すると…。 江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた。 この一件では、一方的に浅野内匠頭長矩のみが切腹で、吉良上野介にはお咎めなしという裁定が下され、なおかつ赤穂藩浅野家は改易(お家取り潰し)になったことで、浅野内匠頭長矩家臣の大石内蔵助良雄以下赤穂四十七義士が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討って、主君の敵討ちを果たした。 その後、赤穂四十七義士は、徳川幕府から切腹を命じられ、ゆえに、彼らの墓所がこの泉岳寺にあるということなのだ。 では、前置きはこれくらいにして、実際に行ってみよう。 都営浅草線・泉岳寺駅西側に位置する坂を登った突き当りに泉岳寺はある。 ちょうど坂を登りきった辺り(伊皿子坂の起点)に、泉岳寺周辺の地理を把握できる「高輪潮の香散歩」という地図があるのだが、

この地図を見ても見なくても、真正面には泉岳寺中門をしっかりと視認でき、 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺中門[/caption] さらに奥の泉岳寺山門(「泉岳寺」と書かれた扁額)も視認できる。 まずはとにかくこの泉岳寺中門を潜り、泉岳寺山門に到達しよう。 泉岳寺山門を潜る前に、門右手に泉岳寺境内の地図と、大石内蔵助良雄(おおうちくらすけよしお/よしたか)の銅像があるので、それらを見てから参拝する。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺境内の地図[/caption]江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

大石内蔵助良雄(おおうちくらすけよしお/よしたか)銅像[/caption] 大石内蔵助良雄は、江戸本所の吉良屋敷表門に突入した大将で、赤穂四十七義士のリーダー的存在だ。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺山門[/caption] 泉岳寺山門を潜ると、横広な本堂が視界に飛び込んでくる。 筆者は、あえて松の木越しに見たくて、そのポイントでスマホカメラを使って撮影。江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

松の木越しに見える泉岳寺本堂[/caption] ↓は、今潜った泉岳寺山門の方を見返した写真で、先ほどの写真は、まさにこの斜めに聳え立つ松の木越しから撮影した。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺山門[/caption] 本堂で参拝した後に撮影したのが↓の写真。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

斜めから撮影した泉岳寺本堂[/caption] ここでもやはり、独特のうねりで成長した松の木を見ることができる。 さらに本堂南側に回り込むと、澤木興道(1880年~1965年)老師の銅像が現れる。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺本堂と澤木興道の銅像[/caption] 浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士の墓所は、泉岳寺山門南側の一角に「義士墓所」の立て札があるので、それに従って南方向に歩こう。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

泉岳寺山門南側の一角にある「義士墓所」立て札[/caption] すると、「主税梅(ちからうめ)」なる梅の木が現れる。 この「主税梅」は、大石良金(おおいしよしかね)こと大石主税(おおいしちから)が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていたと伝えられている梅なのだとか。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

主税梅(ちからうめ)[/caption] 「主税梅」のすぐ脇が国指定史跡「赤穂義士墓所」の入口だ。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

国指定史跡「赤穂義士墓所」入口[/caption] ちなみに筆者が行った時は、ちょうど前方から戻ってくる西洋人カップルと出くわした。 「赤穂義士墓所」入口を進むと、左手には「赤穂義士記念館」が、 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

赤穂義士記念館[/caption] 右手には「義士木像館」があり、これらには別の機会に立ち寄ろうかと。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

義士木像館[/caption] さらに進むと、「義士墓入口の門」がお出迎え。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

義士墓入口の門[/caption] この門を潜ると、線香売り場があるので、そこで線香一束(税込100円)を購入し、義士たちへ線香をあげよう。 墓所には、来訪者のために墓の位置を記した「義士墓解説」が和文、英文2種類があり、これでどの墓が誰なのか把握できる。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

義士墓解説(和文)江東良一「FJ時事新聞 社長監修」

義士墓解説(英文)[/caption] 筆者も他の訪問者同様に、義士たちの墓に線香をあげたのだが、墓石に刻まれた「享年」を見ると、20代、30代の若い義士たちが多く、彼らの多くが短い人生だったことに衝撃を受けた。 こう言ってしまうと、非常に失礼極まりないのだが、サラリーマンに例えると、てっきり中高年の役職クラスばかりだろう、という勝手なイメージを持��ていただけに、呆気にとられてしまった。 個別に墓を撮影することはしなかったが、引いたアングルでは2枚撮影。


今回は駆け足で廻ってしまったこともあり、次に参る際は、もう少しじっくりと廻ってみようかと思った次第だ。 ■曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺 http://www.sengakuji.or.jp/ ・所在地:東京都港区高輪2-11-1 ・アクセス:都営浅草線 泉岳寺駅下車(A2出口) 徒歩1分 約200m ※線香の料金は2018年3月6日現在のもの 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月11日(土) #先負(庚子) #建国記念の日 旧暦 1/21 月齢 20.3 年始から42日目にあたり、年末まであと323日(閏年では324日)ある。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . ☞「ほらいわんこっちゃない!」💢 大した雪じゃなく、ほんの一瞬w なのに早々と東京では大雪注意報 なんて発令して、態々スマホにまで 送りつけて来やんの🤣😆🤣笑わ せるんじゃないよ💢阿保!⤵️⤵️⤵️ おかげで、帰りは道空いててチャーッ と帰って来れて大助かりです✋ . って事で今日は素晴らしい晴れ間 に白富士と朝月が拝めました🗻 もっと早くに観に行けば朝月が濃 く見えたんでしょうね💦時刻が ゆっくりでしたから空の青さに 負けて薄っすらとしてrました。 さて、そんな今日は祝日でして 「建国期のンの日」なんですね✋ . 土曜日に祝日って思うんだけど 損した気分になりませんか😅💦 何だか勿体ない気がしてなりま せんが、いっその事、振替休日 ってのにしたらどうでしょう💡 でっ振り替えた翌日は日曜です ので、更に振り替えて月曜日が 休日になって三連休って寸法✋ . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #出雲そばの日(イズモソバノヒ). 島根県出雲市に事務局を置く、出雲市の出雲そば商組合と松江市の松江そば組合が 共同で結成した「出雲そばの日記念日登録実行委員会」が制定。 日本三大そばのひとつとも言われる出雲そばの歴史、食べ方、美味しさを 全国にPRして、出雲そばの振興を図るとともに、出雲地方への交流人口の増加と 各店舗へのさらなる集客が目的。 日付は信濃国松本藩の城主だった松平直政公が出雲国松江藩への国替えを3代将軍 の徳川家光公から命じられた1638年(寛永15年)2月11日にちなんで。 この国替えのときに松平直政公が松本からそば職人をともなって来たことから 出雲松江地方にそばが伝わったとされ、今の出雲そばにつながっている。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・センブ・サキマケ、とも言う). 陰陽(おんよう)道で、急用や公事(クジ)に悪いとされる日。 「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。 午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #母倉日(ボソウニチ). 暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。 . #天火日(テンカニチ). 天に火気が激しい日で、棟上げや屋根ふきなどを行えば、火災に遭うとされています。 かまど造り・種まきなどを忌む。 . #復日(フクニチ) この日に凶事を行なうと禍が重なり、吉事に用いると福が重なると云う。 ただし、結婚は忌むとする。 . . #建国記念の日(#神武天皇即位紀元). 紀元前660年(神武天皇即位紀元元年1月1日) - 初代天皇・神武天皇が即位による。 (『日本書紀』による。2月11日はグレゴリオ暦での日付)。 日付は1873年に制定。 1967年(昭和42年)から実施されている国民の祝日。 . #ホテル大東館火災(ホテルダイトウカンカサイ). 1986(昭和61)年2月11日(火)先負、未明に起きた火災。 . #わんこそば記念日. #オリンピック冬季大会で日本人女子初の金メダル. #仁丹の日. #初午いなりの日. #万歳三唱の日. #文化勲章制定記念日. #干支供養の日. #鬼祭(愛知県豊橋市). . . #VSOP運動の日(毎月第二土曜日). #ダブルソフトでワンダブル月間(#ダブルソフトの日)(毎月11日). #おかあちゃん同盟の日(毎月11日). #めんの日(毎月11日).#ロールちゃんの日(毎月11日). . . ●イスラム革命記念日(イラン).●青年の日(カメルーン). ●世界病者の日(カトリック).●聖母の祝日(カトリック). . . ■本日の成句■. #千里の行も一歩より起こる(センリノギョウモイッポヨリオコル). 【解説】 千里の遠い所へ行くにも足元の第一歩から始まるの意味から 大事を為すのにも小事を積み重ねることによって至るという教え。 . . 1949(昭和24)年2月11日(金)友引. #剛たつひと (#ごうたつひと) 【俳優、レポーター】 〔山梨県甲府市〕. . . (東大泉) https://www.instagram.com/p/CogF47ryw9derVQG3uVYwbpMswOzrSybt2ofQQ0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先負#建国記念の日#出雲そばの日#神吉日#母倉日#天火日#復日#神武天皇即位紀元#ホテル大東館火災#わんこそば記念日#オリンピック冬季大会で日本人女子初の金メダル#仁丹の日#初午いなりの日#万歳三唱の日#文化勲章制定記念日#干支供養の日#鬼祭#vsop運動の日#ダブルソフトでワンダブル月間#ダブルソフトの日#おかあちゃん同盟の日#めんの日#ロールちゃんの日#千里の行も一歩より起こる#剛たつひと#ごうたつひと
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・ 今年の大河ドラマで今が旬なので以前に撮影した愛知県岡崎市にある大樹寺の写真を投稿しておきます🤗 1枚目の写真には少しでもスケール感が分かるよう敢えて自転車に乗る人を入れています。(知らん人だけど☝️) 建物内も様々な見所ありで好きな人にはたまらないお寺かと☝️ 【建築情報】 大樹寺 愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。 山号は成道山。正式には成道山松安院大樹寺と称する。 徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。 ※Wikipediaより抜粋 #どうする家康 #大河ドラマ #徳川家康 #大樹寺 #三河 #建築写真家 #田岡信樹 #岡崎城 ※シェア、いいね、コメント頂けると運営の励みになります❣️ (大樹寺) https://www.instagram.com/p/CoM3Oa_PIVP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。 江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。 晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日、死去した。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。
新井白石 - Wikipedia
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徳川家15代将軍墓所巡りフィールドワーク 日光社寺世界遺産 完結編②
午後からは雨予報がなんと晴天だったんです。
半年間、子供たちと江戸時代を学び、良き行いが家康さんに通じたのか
うれしい悲鳴でした。
ついに日光東照宮奥宮へ参拝です。


みんなで見ざる言わざる聞かざる!

陽明門登場!

眠り猫です。この裏に雀がいます。
猫が眠り、雀ものびのびしているほど「平和」を象徴しているのですね。

東照宮奥宮までの険しい険しい階段。最後まで家康さんは皆を試してます。

ついに半年間の集大成!家康さん墓所ご対面です。
感動で涙が出そう!みんなよく頑張ったね!


真ん中に雀の彫刻です。

日光東照宮と輪王寺金堂と鳴龍のご朱印お分かちです。


快晴に恵まれた青空のもと、輪王寺護摩堂に立ち寄ります。

輪王寺護摩堂の天井龍の絵図は見事です。

護摩堂の正面はやはり密教天台宗の特徴の本堂各如来様、菩薩様 立体曼陀羅です。
これだけ皆様の願いがあるのですね。

輪王寺山門に菊の家紋があるのです。
天皇家兄弟親戚が代々住職を務めていた証です。

輪王寺三仏堂正面です。
菊の家紋が4つに割れ、その中にお寺の刻印。
ここでしかない家紋です。
三仏堂の中には阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音様がお祀りしてあります。
たまたま鎮将夜叉尊の9年ぶり特別御開帳に巡り合いました。

鎮将秘仏夜叉尊のご朱印です。

皆さんお疲れさまでした。
半年間積み上げてきた江戸時代を学ぶ、徳川家15代将軍墓所巡りフィールドワークも3日間かけて、港区増上寺、上野寛永寺とこの日光社寺世界遺産で感動のフィナーレ完結編です。
よく頑張って着いてきてくれました。
時には覚えられなくて涙した日もあったし、
高所恐怖症で東京タワーの150メートル外階段上れるか分からなかったけど登り切って、
上野では昼食中、一部カラスにパンを持っていかれてしまったアクシデントもあって、
みんなと大冒険のフィールドワークでした。
ゴールデンウィークの玉敷神社フィールドワークからも実は繋がっていて
神仏習合の歴史も学べたと思います。
国際化に伴い、日本の歴史を学ぶことは
同時に寺社仏閣も学ぶことで、
皆と経験したことは日本に興味を持った外国人の方々に
自己表現をアピールすることができる絶好のチャンスだと思います。
自らが冒険をしながら、自分の弱点を克服し、
共に助け合いながら、皆との思い出がきっと将来の自分へ
自分を信じれる強みに変わるでしょう。
今までご協力ご理解して頂いた保護者様、
引率の尾澤さん本当にありがとうございました。
次回、こども寺子屋社会科見学は
7月17日(日)
さきたま古墳群フィールドワークに続く
~勾玉づくり5色に染める世界で一つの宝物~
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📸酬恩庵一休寺庭園 [ 京都府京田辺市 ] Shuonan Ikkyu-ji Temple Garden, Kyotanabe, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー #一休さん 👨🦲こと一休宗純禅師が晩年を過ごした寺院の石川丈山や松花堂昭乗、村田珠光ら作庭の庭園。 #国指定名勝 。 ...... 「一休寺」の通称で知られる「酬恩庵」(しゅう��んあん)は室町時代に“一休さん”こと #一休宗純 和尚が再興し、晩年を過ごした寺院。 寛永文化を支えた #石川丈山 #松花堂昭乗 #佐川田喜六 の三者により江戸時代初期に作庭された方丈庭園が国指定名勝となっているほか、室町時代~江戸時代初期に建てられた本堂・庫裏・方丈などが国指定重要文化財。2月に約3年ぶりに拝観したのでその時の写真を追加しました。 . 鎌倉時代に臨済宗の高僧・大応国師(南浦紹明)が創建した『妙勝寺』を前身とします。兵火により荒廃したこのお寺を一休禅師が再興し「酬恩庵」と名付けたのが室町時代中期の1455~1456年。 京都『大徳寺』の住職となった後も拠点は酬恩庵で、一休さんは1481年(文明13年)11月にこのお寺で最期を迎えました。なお一休さんが入る少し前の永享年間(1429~1441年)に室町幕府6代目将軍・足利義教により寄進された本堂(法堂)が一休寺で最古の建物。 . 三代目加賀藩主 #前田利常 が大坂冬の陣⚔️の際に陣をかまえたことから江戸時代には加賀藩・前田家ゆかりの寺院に。 国重要文化財の唐門(玄関)・方丈・庫裏・東司・鐘楼・浴室の6棟が前田利常の支援により1650年(慶安3年)に建立されたもの。方丈では狩野探幽の襖絵🖼も鑑賞できます。 . その方丈を取り囲むのが国指定名勝の枯山水庭園。 まずは白砂と丸い刈込、そしてソテツ🌴から構成される禅宗庭園で、この庭園が石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六(佐川田昌俊)の合作によるとされるもの。 . #佐川田昌俊 は元は上杉景勝に仕えた武将。同じく武将出身の石川丈山と親しく、そして茶の湯🍵を小堀遠州から、書🖌を松花堂昭乗から学び、晩年は一休寺の傍らで暮らし墓所も一休寺に。そう聞くとこの庭園の一番のキーパーソンはこの人だったのかも。 続く。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/shuonan-ikkyu-ji-temple-garden-%e9%85%ac%e6%81%a9%e5%ba%b5%e4%b8%80%e4%bc%91%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #zengarden #kyototemple #kyotogarden #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #京都庭園 #京都寺院 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #ikkyu #おにわさん #oniwasan (一休寺) https://www.instagram.com/p/CMzZR1lJodu/?igshid=1vprzo5swyifg
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増上寺の徳川将軍家墓所の途中にあります。#日本 #japan #日本観光 #観光 #観光おすすめ #観光スポット #観光地 #観光案内 #増上寺 #東京 #東京観光 #tokyo (増上寺) https://www.instagram.com/p/CdYEn4iJHVo/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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湯島聖堂で漢文検定やってる話
2022年4月2日Twitterより。
ちなみに湯島聖堂では「漢文検定」なるものが行われており、主催者は一般社団法人漢字文化振興協会なるところ。驚くはその会長で、水戸徳川家15代当主の徳川斉正(なりまさ)さん。徳川の将軍が儒学を振興した、まさにその流れが受け継がれているわけですな。
湯島聖堂は1690年に徳川五代将軍によって創建された孔子廟で、1797年には幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌 しょうへいこう)が開設されました。 (漢文検定受験要項より)
五代将軍は綱吉。孔子廟は、孔子をお祀りするところ。孔子は要するに儒教の教祖様。
というわけで、さっき上げた湯島聖堂の写真の中に、バカでかい孔子像があるわけですね。あれの台座���は「中華民国から寄贈」的なことが書かれてた。中華人民共和国からではないのが面白い。
中華民国、要するに台湾から来た、と。
前にもここで言ったと思うけど、朝鮮と同じように、日本も江戸時代に儒教を取り入れた。宗教としてまでは定着しなかったけども。昔の人がむちゃくちゃ漢文に強いのはそのせいですね。
江戸時代は日本独自の文化が一斉に花開いた、日本のルネサンス時代みたいなもんだけど、その時代に、同時に儒教(儒学って言ったほうが正確か)をせっせと学んでいたってのが面白いよね。貴族とか幕府のお偉いさんが主に読んでたものを庶民も読むようになった。論語とか漢詩とか。
相撲、落語、浮世絵、歌舞伎とかは全部江戸時代から始まってるし、漢詩作ったり江戸川柳作るのが流行ったり、本居宣長が国学を大成するのも、滝沢馬琴が南総里見八犬伝書くのも、全部江戸時代。ヤバいな……。
朝鮮の場合は、李氏朝鮮の時代に儒教を国教として定めて、宗教として定着するところまでいった。宗教として定着するってどういうことかというと、例えば葬式をするときは儒教で決まってる方式でやるようにするとか、先祖をお祀りして祭壇を建てるとかそういうことっすね。
韓国語の語学教室で習ってるときにその話が出たんだけど、向こうでは旧正月の始め、今年で言えば2月1日あたりに、ご両親に新年のご挨拶をしたり、先祖の墓参りに行ったり、おせち料理を食べたりする。そのときの、おせち料理の配置の仕方とかが儒教で定められている。
さっきあげた湯島聖堂の大成殿の中の写真を見てもらえばわかるように、あんな感じでお料理を並べることになってるわけだ。細かくは知らんけども、そういう祭礼関係のことが儒教では事細かに定められてるみたい。
まあとにかく、そんな湯島聖堂で、今もこうやって徳川家の末裔さんを会長にそえて漢文検定やったりして、江戸時代よろしく儒学振興が図られているってのは、面白いもんだねぇ。


追記:たしか小林美代子さん、だった。 孔子の隣に書かれている文章は、『論語』冒頭の「學びて時に之を習う、亦説しからずや」、「朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや」だと思われる。
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石燈籠、供養塔、石仏などが独特の景観をつくり出す廟所・慈眼堂 慈眼堂は、滋賀県大津市坂本にある天海大僧正(南光坊天海/慈眼大師)の廟所。恵日院の境内にある。慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力し、徳川家康・秀忠・家光��三代将軍に仕え、寛永20年(1643年)に108歳で没した。 江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺、頂部に露盤・宝珠を載せた建物である。建物は国の重要文化財に指定されている。 堂内には像高75.1cm、極彩色の木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川48体石仏群(戦国時代に近江守護で観音寺城の城主だった六角承禎が、母の菩提のため近江鵜川に建立した石仏)のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔、徳川家康や紫式部の供養塔などがある。 #慈眼堂 #滋賀院門跡 #延暦寺 #天海 #日光東照宮 #近江 #琵琶湖 #近江アースダイバー #近江学 #旅の近江ものがたり #近江の探究 #近江のツーリズム #近江のガイド #琵琶湖サイクリング #近江八景 #近江の神社 #近江の寺院 #近江の寺社 #近江の社寺 #白洲正子 #司馬遼太郎 #松尾芭蕉 #国宝 #重要文化財 #滋賀 #大津 #Shiga #Biwako #Otsu (延暦寺 慈眼堂) https://www.instagram.com/p/CUNG6Ebvuie/?utm_medium=tumblr
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Hinge presents an anthology of love stories almost never told. Read more on https://no-ordinary-love.co
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歴史あるお寺
歴史の重みを伝える、対馬藩主・宗家の菩提寺
国指定史跡である万松院(ばんしょういん)は、対馬藩主・宗家の菩提寺。1615(元和元)年に宗家20代義成(よしなり)が父である義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家の菩提寺となったそうです。現存の本堂は1879(明治12)年の建造。山門と仁王像は焼失から免れた対馬最古の木造建築で、堂内には朝鮮国王から贈られた三具足や徳川将軍の大位牌が並びます。
日本三大墓所にも数えられる荘厳な墓
132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる石段を上がると、宗家一族の墓所である御霊屋(おたまや)があり、巨大な墓が荘厳な雰囲気のなかに並んでいる。非常に大規模な墓所で、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに日本三大墓地のひとつに数えられるそうです。墓所の手前に樹齢1000年超とも言われる大杉が3本あり、杉としては対馬一の大木もありました。
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