#日本仏教徒全体のお寺
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おみくじ普通の手引きみくじやっちゃった
ガチャガチャの方が絶対愉しいよね(((o(*゚∀゚*)o)))


タイ語何て書いてあるのか分かんないけど、友好の象さん🐘🐘


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興福寺・安底羅大将(国宝)
明治の廃仏毀釈を逃れた、法相宗大本山・興福寺の貴重な木造十二神将立像のうちの一体「安底羅大将」。
安底羅(あんてら)大将は、他の神将と同じく、もともと夜叉(鬼)でしたが、仏と仏法の真理に降伏し善神となって、配下に持つ七千の鬼と共に申の方角と時刻を守備しながら、他の神将が従える鬼と合わせて総勢八万四千の夜叉部隊と共に薬師如来と薬師経を信仰する者を守護する天部の仏尊です。
神将は天部の武将であるため他の仏とは違い、重厚な甲冑に身を包んでいます。
こちらの安底羅大将は申の刻の守護神らしく頭の上には猿の彫刻が彫られ、怒髪に憤怒の表情で手には宝鎚(ほうつい)を持ち、他の神将と共に日夜仏敵に目を光らせています。
「ほうつい」には「宝槌」と「宝鎚」がありますが、「宝槌」は木製のハンマー「打出の小槌」のことで、「宝鎚」は武器として使う金属製のハンマーのことをいいます。
興福寺の安底羅大将を含む十二神将は、鎌倉時代に阿弥陀仏の教えを信仰する男性信徒集団である「阿弥衆」によって造られたといわれており、ご利益は、心の中の余計な感情を取り去り、健全な精神を得るための助けをするとされています。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
通巻第8107号 <前日発行>
ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当��六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益���顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘���輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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4/27(日)【東京】りんりんフェス 谷 玉姫公園
川村亘平斎(影絵)の音楽担当します。今年は巳年の演目です。
●日 時:
2025年4月27日(日)
開場 14:00/開演 14:30 ※終演19:30頃を予定
●会 場:
山谷・玉姫公園(さんや・たまひめこうえん)
〒111-0022東京都台東区清川2-13-18
※JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレス「南千住駅」下車徒歩9分
※駐車場はございません。お車での来場はお控えください。
※野外開催のため各自レジャーシートをお持ちください。
※雨天時の傘の利用は禁止となっています(雨合羽を推奨)。
●内 容:
音楽ライブ/1部・2部制
座談会/1部終了後に行います
その他/炊き出し(無料の軽食)、軽食の販売、その他物販
●出���演:
寺尾紗穂+新人Hソケリッサ!、坂口恭平、よしだよしこ、Delkhii from Mongol、川村亘平斎
●座談会:
テーマ:わたしが見た山谷
パネラー:寺尾紗穂、稲葉剛、油井和徳、吉水岳彦、ゲスト:多田裕美子、弓指寛治
●主 催:
りんりんふぇす山谷開催実行委員会
●共 催:
有限会社ビッグイシュー日本、認定NPO法人ビッグイシュー基金、一般社団法人つくろい東京ファンド、社会慈業委員会ひとさじの会、認定NPO法人山友会、山谷・地域ケア連携をすすめる会
●協 力:
在日ベトナム仏教「随縁禅室」、立正佼成会台東教会、こほろぎ舎
●後 援:
台東区
●チケット申込:
自由価格。チケットの予約は不要です。直接会場にお越しください。
●問合せメール:
●開場
14:00~
●第一部公演
14:30~14:55 寺尾紗穂+新人Hソケリッサ!
15:00~15:25 坂口恭平
15:30~15:55 よしだよしこ
●特別企画
16:00~16:25 カラオケタイム
●座談会&慰霊
16:30~17:55 座談会
「わたしが見た山谷」
●第二部公演
18:00~18:30 Delkhii (from Mongol)
18:35~19:10 川村亘平斎(影絵)
19:15~19:30 全体セッション
時間はあくまで予定のため、前後する可能性があります。
終演は19:30頃を予定しています。
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2024.11.19
日本人の多くは仏教徒だよね。君は仏教徒か?10日間のスリランカでこの質問を何回されただろう。初めのうちは、無宗教だけど仏教の教えとは身近に生きてきた。と答えていたが聞かれれば聞かれるほど、仏教徒というのは何を意味するのだろうかと考えさせられた。
スリランカの第二都市であるKandyでSadunとSamanに出逢った。スリランカに到着してから土着の人ではないという理由だけで毎日数えきれない人たちからお金を乞われたり、ぼったくろうとされた。2人に最初に声をかけられたときは、またか、と思いながら適当にあしらおうとしていたのだが、少し話をしていると純粋に話したかっただけのようだった。結局その日はKandyを半日案内してもらい、宿まで送ってもらった。翌日からはスリランカを訪れるきっかけとなったGeoffrey Bawaが建てたHeritance Kandalamaに行く予定だと話すと、どうやって行くのかと訊かれた。バスだと答えると、Kandalamaまでの道中には見るべきものがいっぱいある、バスだとそういうところに寄れないからトゥクトゥクで送ってあげるよ、君にとってもきっといい経験になる。と言われた。KandyからKandalamaまでは2時間ほど離れている。バスの方が安いからバスで行くと伝えると、いくら払うかは自分で決めていい、その答えがタダならタダでもいいと言われ、うますぎる話に半信半疑ながらもその誘いに���ることにした。翌朝8時に宿まで迎えに来てくれて、まずはKandyの中心部から20分ほど離れた小さい村にあるSamanの家に行き、彼の家族とセイロンティとともに団欒した。Kandalamaまでの道中、のどかな田畑と熱帯系の植生の景色が続く小さな村に、ぽつんと仏教寺があった。スリランカ全土には小さい寺院が数千と存在し、その寺院がある村々には100-150の家族が住んでるという。そして一家族が1日ごと順番に僧侶たちの食事を用意すると教えてくれた。自分を犠牲にして人々のために全てを捧げた仏陀、つまり僧侶たちへの感謝の行為であり、これはスリランカで2700年以上続く伝統であるらしい。スリランカに来てから、SadunとSamanだけでなく色々な人からカルマという言葉もよく耳にした。良い行動は良いカルマとして自分に返ってくると。そういえば昨日Kandyを案内してくれたのにも関わらず、お金は一切求められなかった。半日私の行きたいところやしたいことに付き合ってもらった上に、彼らの商売道具でもあるトゥクトゥクで移動していたので、宿に着いたときに私の気持ちのお金を渡した。そのときにも、ありがとう。これはgood moneyだ。私たちは本当にカルマを信じていて、Rikuにもgood karmanがきっとあるし、訪れる。と言っていた。私は村人が僧侶たちのために食事をつくるという伝統の話を聞いたときに、仏教というのはどういうものなのかということを深く理解した。それと同時に2人のことを少しでも疑った自分を恥じた。もちろん仏教徒であっても(スリランカでは約70%が仏教徒である)皆が皆良い人とは限らない。スリランカに来てから、押しの強い客引きや、わざと同情を利用した行為に良い気分がしなかったことも何度も起こり、人にもお金にも敏感になっていた。しかしそのとき私は、清らかなさらさらとした心地よい中で生まれた、心が押しつぶされるような気持ちをどこにもやりようがなく、トゥクトゥクの後部座席に座りながら静かに泣いていた。
景色がいいところで停まったり、昼食を共にしたり、約2100年前にDambullaという都市にある巨大な岩山を掘ってつくられた洞窟の中にある寺院を訪れたり、途中トゥクトゥクを運転させてもらったりしながらホテルに到着した。翌日の予定を訊かれ、5世紀に栄えた王国Sigiriyaの遺跡に行くつもりだと伝えると、10時をすぎると暑くなる(マチュピチュのような遺跡で入り口から頂上までは1時間ほどかかる)から早朝に出発した方がいい、よかったら明日も送ってあげるよ。友達の家が近くにあるから私たちはそこに泊まる。その辺りには原始的な生活をしている小さな村もあって���そこで触れられる体験はRikuもきっと気にいると思う。と言われた。その日彼らとずっと話していて、彼らがどういう人間か理解し、私がどんな人間でどういうものを求めているのかも理解していてくれていたので、今回は迷うことなくお願いした。ホテルで夕食を食べると高いだろうから、また夜迎えにくるから友達の家で一緒に食べないかとも誘われたがGeoffrey Bawa建築を堪能したかったし、連日の移動の疲れと自分の中で消化したいこともあったので、その誘いは断ることにした。
翌日遺跡を訪れた後、Samanの弟の娘が働いているフルーツジュースが美味しいカフェで少し休憩し、人里離れた村へと向かった。トゥクトゥクで行けるところまで行き、そこからは水牛に引かれてジャングルとも森ともつかない景色の中、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくのを感じながらゆられていた。20分ほど進んだ先には、東南アジアの原風景(スリランカは南アジアだがここだけは少し違っていた)という言葉が似合う景色が広がっており、村人たちが長い年月をかけて歩いてつくった轍が続いていた。横には湖、反対側には家が小さく見える。湖岸には村人が手でつくった小舟が数隻あり、そのうちの一つをだしてもらった。風も声もなく、ただ静寂が漂い、平和そのものだった。Sadunがたまに陽が沈んでから友達や家族と飲んだり話したりすると言った瞬間、私はその光景を想像した。今みたいに肌を焼く太陽は姿を隠し、月明かりが湖一面を照らす。もしかしたら夜は虫たちの歌声が聴こえてくるかもしれない。澄んだ静寂は愛する人たちとの会話で掻き消されるが、この平和はそこにあるままだ。これ以上何を求めるのだろうか。水面を覆う蓮の葉で帽子をつくってもらったりもした。昼食をそろそろ食べようかということで湖岸へは私が舟を漕いだ。先ほど遠くに見えていた家に到着すると、まだこの世に生を受けて10ヶ月しか経っていない子どもを腕に抱えながら料理をしている30代ぐらいにみえる夫婦が待っていてくれた。家の柱や壁、台、椅子などは木と土で、屋根はココナッツの葉でつくられていて、窓はない。電気やガスは通っておらず、水も近くの井戸に汲みにいくという。土でできたかまどの前で奥さんが子どもをあやしながら、土鍋で炊いている米の具合を確認していて、旦那さんは裏の庭でとってきたココナッツを割ってウェルカムドリンクをだしてくれた。裏庭で採れた野菜とスパイスでつくった3種類のカレー、ココナッツから抽出した油をつかった湖で釣った魚のフライ、ココナッツの果肉をトマト、スパイス、ライム汁を合わせてすり潰したもの(これが一番美味しかった)、すべて自分たちでつくったもので昼食を振舞ってくれた。お腹いっぱい食べた後には屋根になるココナッツの葉の編み方も教わった。彼らは住処を建てられて、舟の作り方も知っていて、近くでは魚も釣れて、フルーツや野菜の育て方も知っていて、またそれを余すことなく食べて、残った食べられない部分の他のことへの使い道も知っている。もしかしたら”教育”こそ受けていないかもしれないが、彼らは”自然”をよく知っている。
Sadunが言っていた。ここの村では気候が比較的いいので人々は”自然と生きる”伝統文化が残っている。他には酪農や陶磁器、ジュエリーなどその土地の環境に適したそれぞれの伝統が色濃く残っているらしく、お互いの伝統を交換して足りないものを補い合い、支え合いながら伝統を守っている。ここでの生活はシンプルでお金は持ってないが皆、”生きる”ために仕事をして平和に幸せに暮らしているのだと。しかしスリランカでも現代化が急速に進んでおり、今の若者はこの生活を知ることはなく、遠くない未来にはそれらの伝統は消え去るだろうと嘆いていた。Sadunは知識が豊富で、今世界で何が起こっているのか、何が流行りの思想なのかも知っていた。だからこそ彼は、私をここに連れてきたかったのだろう。
これを書いていると2人の顔が見たくなりSadunに電話(Samanは携帯を持っていない)をすると、彼の気持ちのいい笑顔が画面に広がった。内臓が少し悪く、この数日間入院していたと言われ心配したが、今は回復して翌日には退院できると聞いてひとまず安心した。電話中にちょうどSamanがSadunの見舞いにやってきた。本当に仲がいいなとこちらまでほっこりし、最後2人と別れたときのことを思い出した。私が3日間の感謝の気持ちのお金をSadunに渡したとき、Samanに気づかれないようにその3分の1を受け取り、残りをSamanに渡していた。仏教の教えに「自他不ニ」というものがある。Samanが見舞いにやってきたことも、Sadunが自分の取り分を少なくしたことも、彼らが私にしてくれたことも、そのすべてがその教えを体現していた。
私は自分を仏教徒だと思ったことはない。スリランカでの体験をした今、なおさらそう簡単に口にはできない。しかし、今まで以上に仏教の教えとは身近に生きたいと思うようになった。2人に感謝する。
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世界最大石灯籠製作 世界ギネス記録認定 念佛宗佛教之王堂 The Largest Stone Lanterns in the world The Buddhist Art of Nenbutsushu
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂
三国伝来の佛教美術 石灯籠
世界ギネス記録認定 概要 高さ:12m 幅:7.4m Height:12m Width:7.4m 本堂前 左右石灯籠 Stone Lantern The Guinness World Records ギネス世界記録認定 平成二十年四月二十八日 衆生の心を不断の光明で照らし、仏道へと導く。 世界最大の本堂につりあう灯籠を計画すると、灯篭も世界最大になった。
本堂前の二基の灯籠は高さ12 メートル(4 階建の高さ)、世界最大、ギネス世界記録認定となっている。
台座部分には「龍の阿吽形」、「鳳凰の阿吽形」が彫刻されている。
本堂 阿弥陀堂
高さ51.5m(基壇、棟飾り込)、桁行(幅)67.9m、梁間(奥行)58.2m 天井までの高さ約32m(11階建ての建物が入る)、天井大彫刻は48畳 破風 一辺25m、合計50m 平瓦 幅1.7尺、奥行1.9尺(世界最大) 十二万四千枚 畳数 888枚 欄間彫刻 堂内488点 柱など堂内は拭き漆仕上げ 上段は六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式。 上層部に扇垂木を用いた日本建築史上初の佛教建築であり、屋根上に12万4千枚の瓦が敷かれている。 その瓦の波の頂上に聳える鬼瓦は、鬼師・梶川亮治氏制作。 (ギネス世界記録認定・平成19年2月28日公式認証・高さ9m、幅8.8m、先端部経之巻の直径91cm) 鬼の憤怒の形相が、衆生の心中に潜む煩悩を払い、清浄無垢な心を顕現させます。 軒下最上層部の周囲には、手先詰組の間に、釈迦如来像八十体が四方へ向かって遍く衆生済度を勧められ、その下層部には八十八体の龍、蟇股には、表に龍、内に等身大の飛天それぞれ百四体、また、本堂全体で十万枚を超える金色に輝く飾り金具が、荘麗なる浄土の世界を厳飾しています。 堂内には、金箔二重貼り、六手先総詰組、屋根葺面積226.2㎡、総数16,000枚の瓦を使用した宮殿(くうでん)(高さ19m、幅19.98m、奥行12.36m)、その中に在して、大慈悲の光明にて十方世界を照らすが如く輝きわたる本尊阿弥陀三尊佛は、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の総高8.45mの木彫佛像です。 伽藍全体で一万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6m、高さ3mの双龍彫刻、宮殿の両脇に四階建てビルの高さに匹敵する全高11mの彫刻が、鳳凰、松竹梅等を刻んで納められている。 また、本堂内壁は、三阪雅彦画伯により、総面積852.9平方メートルに及ぶ金箔襖に色彩豊かに描かれた鳳凰及び瑞雲、また、下部に描かれた蓮華が相俟って、浄土の光景を彷彿させる。
本堂全体で2,987点に及ぶ木彫群、百四十四枚の桟唐戸、また、本堂前に鎮座する一塊の巨岩を彫り込んだ巨大な天水鉢(全高2.2m、幅3.5m、奥行3.5m)等々、世界に二つとない彫刻・工芸の奥深い造形の数々は、どれほどの時をかけても見尽くすことができないものであり、それぞれが調和しつつ、妙なる浄土賛歌を奏でる情景は、参詣する者全てに御佛への畏敬の念を起こさせずにはおかない。
全世界 仏教徒の聖地 「佛教之王堂」念佛宗 総本山 無量壽寺 仏教美術の宝箱 故タイ法王猊下 世界各国の仏教最高指導者 並びに カンボジア王国 故ノロドム・シアヌーク国王陛下の御聖骨がお祀りされている寺院です。 佛教之王堂は佛法に基づいて建立され 建物全ての部位に、仏縁を結ぶ教えが込められています。
伽藍工事全体、およそ7年間で10,524点の彫刻、450,173点を超える彫金が製作されました。
The Royal Grand Hall of Buddhism - Nenbutsushu Buddhist Sect of Japan The sacred place for all Buddhists in the world The Royal Grand Hall of Buddhism
仏教美術の宝箱 Buddhist Art / nenbutsushubuddhistart
念佛宗公式 Official / royalgrandhallofbuddhism https://muryojyu.com
Buddhism has its origin in IndiaBuddhist cultures of China, Korea, and Japan are represented hereat the Royal Grand Hall of Buddhism. It is the first construction of an authentic full-scale Buddhist temple since the erection of the main temple of Obakushu Buddhist Sect in 1661.A total of roughly 3.5 million people joined forces to construct the Royal Grand Hall of Buddhism and completed the entire temple in only seven years without even a single accident.The Royal Grand Hall of Buddhism, in its vast precincts of over 180 hectares, has the Front Gate, the North Gate, the South Gate, the Main Gate, the Washstand, the Ksitigarbha Hall, the Prince Shotoku Hall, the Five-story Pagoda, the North Bell Tower, the South Bell Tower, the Main Halls including the Amida Hall and the Sakyamuni Hall and the Avalokitesvara Hall, the Sutra Hall, the Merit-transference Hall, the Okunoin Hall, the International Buddhist Conference Hall, the Sangha Hall, and the Main Building. All the buildings are decorated with 10,524 sculptures and statues and more than 450,173 metal carvings.
この動画は、個人が念佛宗の資料などを元に作成しており公式なものではありません
#念仏宗#念佛宗#世界一#Guinness World Records#nenbutsushu#buddhist temple#stonecaving#stone lantern#largest#Youtube
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一華を見て春を推せよ
管内の山々が春色に彩られはじめた3月25日、1泊2日の日程で檀信徒身延団参を開催しました🚌🚌

我々の日常に3年以上もの間、多大なる影響を与え続けたコロナ禍も、昨年5月には国が発令する行動制限が全解除されました。表面的には人の流れは活発となり、各地でコロナ以前の活気を取り戻しているように感じます。

宗門における行事も縮小・中止を繰り返しておりましたが、制限解除後より少しずつリスタートし元の軌道に戻りつつあります。

宗務所主催としては8年ぶりの団参となります。コロナ禍により、2度の総代祖山総登詣団参と降誕800年記念団参(千葉誕生寺・清澄寺)が相次いで中止の憂き目にあいましたので、今回の企画には一体どれほどのレスポンスがあるのか・・戦々恐々と見守っておりました💦

結果的には、檀信徒47名のご参加をいただき、教師7名と合せて総勢54名での祖山登詣となりました。本当に有り難いことでした😌

此の度の最も大切な目的は輪番奉仕(給仕)🙏で、一番のお目当ては「全国しだれ桜10選」にも選ばれた久遠寺境内のしだれ桜🌸でした。

境内には、樹齢400年を超えるとされる報恩閣前の「妙法桜」と、仏殿の前の「瓔珞桜」があります。身延町は「東の吉野」とも称され、久遠寺はその代表的な観桜期の名所なのです。

昨年のちょうど同じ時期、近畿教区の所長で輪番奉仕させていただいた折には、それはそれは見事な咲きっぷり🌸🌸🌸で、参詣者の衆目を集めておりましたが、今年の桜は時期まだ早く6~7分咲きでした。

それでも、しだれ桜やソメイヨシノの春色に包まれた祖山では、参詣者の心も春爛漫です💞

日蓮が弟子檀那等は此の山を本として参るべし。此れ則ち霊山の契なり。
波木井殿御書

祖廟輪番奉仕は日蓮宗寺院檀信徒にとって大事な勤めであり、日蓮聖人のご遺命により身延に建てられた御廟を、直弟子である六老僧がひと月毎に交替で護持したことにはじまります。

守塔沙門である法主猊下より、住職並びに檀信徒の皆様に日蓮聖人へのご給仕を委嘱(お願い)され、その後御真骨堂拝殿にて日蓮聖人に給仕奉仕の誠を捧げる儀式を執り行います。

今回の団参は、久しぶりということもあり、あまり詰め込みすぎないよう配慮しましたが、空白のコロナ年の影響は各所で様々な歪みを遺し続けていました。

引率する教師の半数以上が団参初体験であったり、宿坊は依然として宿泊制限があり分宿を余儀なくされるなど、結果的に至らない点が多々ありましたことを省みております。 この後反省会を開き、来年以降につなげてまいりたいと考えております。

間もなく所長任期6年目。心して新年度に臨みたいと思います。 また、本年1月21日に御遷化されました第52代・第53代管長、身延山久遠寺第92世法主の内野日総猊下 永上院日総上人の増円妙道を謹んでご祈念いたします。

最後に、表題にもしておりますが、春を迎えるたびに頭に浮かぶ祖師のお言葉📚

一華を見て春を推せよ
開目抄

今月の聖語
『開目抄』/文永9年(1272)聖寿51歳
=一を聞いて十を知る=
いよいよ百花繚乱の季節となりました。ところでその1つ、桜の開花は気象庁が標本木の蕾の状況を観察して予想を立てることでよく知られています。 このように桜に限らずサンプルを元にさまざまな事象を予想することはよくあります。これらから連想する言葉に「一を聞いて十を知る」があります。ですがこの「十」を知るのには優れた英知が必要となってきます。 その英知を開花させるには仏さまの智慧をいただくこと。すなわち信仰が重要になるのではないでしょうか。
日蓮聖人ご遺文『開目抄』
日蓮聖人はこの聖語の直前に「一渧をなめて大海の潮を知り」と示されています。すなわちすべてを調べずとも、一滴なめれば海水は塩辛いものだ。華も同様、桜を見れば春の訪れがわかると述べられます。これを「挙一例諸(一を挙げて諸々の実例とする)」と表現されています。その心は「一」の中に事象のすべてが収まっているのだということです。 この見地は釈尊の一切の智慧は法華経に収まる、との信仰から発出しているのです。
日蓮宗ポータルサイト「今月の聖語」より
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真言密教 関東三大本山冒険フィールドワーク 第一弾 上野・成田山新勝寺編
9月18日(月) 午後の部 成田山 新勝寺
京成成田駅から約10分徒歩です。
表参道は食べ歩きや有名なうなぎ屋が軒並みです。

途中で旧本堂薬師堂(初期の本堂)で参拝しました。







ついに第一弾の目玉、目的地の成田山新勝寺総門に到着です。

今回の拝観に伴い、教学課の伊藤照鏡さまと
おつきの和尚様が門迎、半日引率してくれました。




成田山新勝寺は939年平将門の乱が発生し、第61代朱雀天皇が寛朝というお坊さんに命じて京都の高雄山 神護寺に安置されていた弘法大師空海が彫った不動明王を安置し940年に創建されました。
正月3日間だけで300万人の参拝者で明治神宮に次いで全国第二位の参拝数です。
創建1080余年が経ち年間1000万人の参拝者で愛犬と一緒に参拝できる珍しいパワースポット本山寺院です。
成田山新勝寺総門は開基1070年の記念事業により2008年に建立されました。
高さ15メートルの総けやき造りで総工費20億円で完成されております。
十二支の動物が彫刻されております。
どんな人にもご利益がありますようにと創建されております。
柱をなでなでして前進いたします。


本堂の地下に入りました。
阿字観の座禅体験をいたしました。
真言宗の瞑想の中でも重要な阿字観(あじかん)は、
阿字の仏さまと一体となって仏の心を感じることを目的としています。
臨済禅の座禅との違いを感じてもらいたいと思います。








平和大塔参拝

規格外の大きさ、究極のマンダラ体験です。
昭和59年(西暦1984年)に建立し、
正面に大日如来、五大明王、五智如来の立体曼陀羅が安置しております。
地下には各国首脳がタイムカプセルをしまいました。
450年後に開けるそうです。
今回一般公開していない5階まで登らせて頂きました。
貴重な体験でした。

健康長寿と病気平癒の祈祷所、醫王殿参拝です。
月光菩薩 薬師如来 日光菩薩
左右に十二神将が奉安されています。
光明堂参拝です。
ここには愛染明王が安置されているので
縁結び成就でお参りしている方が多いようです。



釈迦堂にて参拝し五百羅漢さんの彫刻も見学です。
そして最後に大本堂にて護摩焚きを見学して下山して参りました。

大本堂は幅95m、奥行き59m、高さ32mで昭和43年に創建されております。
今日は尋常でない暑さで参拝も一苦労だったと思います。
参拝の探究を通じて、
実体験を得ながら自己理解を深め、
社会に出たときに自分で考えて行動できるとワクワクできるのではないかという答えを見出してもらえたら嬉しいですね。
誰かに与えられた問いに答えるので��なく、
自ら考え行動したからこそ、
その問いは自分事となり、
子供たちを動かし続ける内発的動機になっているのだと感じます。
実際、所得、学歴よりも
「自己決定」が幸福感に強い影響を与えていることが明らかになっています。
しかしそれは『全部自分で考えなさい』と放り出すことではなく、
本物の社会貢献活動に触れること、
そこに取り組んでいる大人の存在が欠かせません。
つまり、大人自身が探究する姿を見せることが
子供たちのモデルになり、
社会に出て自分はどう生きていくのか、
そのために何を学びたいのかを考えることにもつながっていくと思います。
今回体験したことを子供時代の宝ものとして
お役に立ててもらえたら嬉しいですね。
さあ、次回は10月9日(月)
関東三大本山冒険フィールドワーク
第二弾、川崎大師平間寺です。
お楽しみに!
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日本で買ったコスメたち。プチプラばっかりだけども買いすぎたw昨日セザンヌのマスカラとロムアンドのグリッターのアイライナーこうにゅうしたよ。ロムアンドのやつ想像以上にかあいくてやばい。すげえキラキラしててかわいい目元になる。
驚いたのがキャンメイクのパウダーもう底見えし出したんだけどもw買って数日だよ?いくらなんでも早すぎない?アイシャドウとかも想像以上にちっさいからすぐ底見えするかもな。アイシャドウって使い切るのすごい苦労するんだけども、普通に使い切りできそうな予感。今日は締め色を瞼全体に指塗りでぼかしただけなんだけども、締め色濃すぎないから普通に使いきれそう。
テスターで見たちふれのツインカラーのアイシャドウのグリーンが気になってるんだけども、これも安いしめっちゃちっさいから余裕で使いきれそうやと思った。これ買うんだったら、アイライナーやネイルや髪色もカーキ系で統一しようかなって思う。
ᙏ̤̫͚
今日は家の内見行ってきたんだけども、家賃14万のとこと7万のところがあって、やっぱ14万のところはすごく綺麗で広くて居心地良さそうな感じで、お風呂場に乾燥機あって洗濯物干すのに便利そうでええなあって思った。7万のところは古いし狭いけど、まあ寝に帰るだけならアリかなってレベル。実家を狭くした感じの昭和を感じる物件で、私は全然許容範囲内だと思ったけども、ロバートは嫌がって14万の方にする気満々だった。どっちも谷町沿線の地域で、御堂筋線より混みにくいから良いなと思った。歩いて心斎橋か天王寺行ける距離だし。
なんか日本帰ってきて、新宿でホームレスのダンボールハウスとか見たんだけども、小綺麗で驚いたわ。ちゃんとプライバシー守るようにして作られてるんだね。カナダのホームレスはゴミ箱近くにあっても動物みたいにその辺にゴミ捨てて散らかしまくる。金をねだってくるし、なんか犬とか連れてたり、すごい悲壮感を出しまくってお金ねだってくるんだよね。すごい図々しいの。こんなんやったらホームレスなって当然夜なって感じの人間性。でも、日本のホームレスの周りはゴミとか散らかってなくて、むしろ掃除のためにか箒がホームレスの段ボールハウスの近くに置いてある。物乞いしてくることもないし、できるだけ迷惑かけないように生きている感じでいじらしい。つくづく日本のホームレスを見直したわ。



最近ポケモンGOフレンド一気に増えて、30人前後でずーっとやってたのに、今もう50人もできたwレイドも簡単に人集まるし、ポケゴが今までで一番楽しいかもしれん。歩いてて、卍を見つけるとドキッとするようになった。ヒトラーってすごい敬虔な仏教徒やったんやなあって(すっとぼけ)
ᙏ̤̫͚
日本で最近食べたものたち。





久しぶりの日本、ほんまになんでも美味しいわ。コンビニ弁当とかもめちゃくちゃありがたい。こんなちゃんとした食事がコンビニで買えるなんて奇跡だわ。カナダだと揚げ物系とかポテチ、お菓子などなど、なんかジャンクフード!って感じのものしかないからさ。日本のチープなお店でもこんな良いもの食べれて本当に幸せ。

あとサンキューマートでニャスパーのストラップ買っちゃった。ナゾノクサはポケットや鞄に入れてると誤操作が酷くて外すことに。今バックパックにつけてます。それにしても、このストラップ想像以上に便利。普通に持つだけで落下防止できる上、なんかスマホプラス何か持ちたい時に、このストラップをブレスレットのように腕に通すと落とさず持てるの。すごい便利。ハンドバッグ的な。肩からかけるストラップは長すぎて鞄の中入れたりしたい時、収納に不便そうだから、これくらいが一番ちょうどいいのかも。今ポケピースで統一してます。ポケモンのテラスタルのステッカー買って入れたいんだけども、微妙にサイズ合わなさそうで迷ってる…
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶か��各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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タイ国チュラロンコン大王像
当山開基タイ国ラーマ5世チュラロンコン大王像
本堂西側に日タイ修好100周年記念として1987年(昭和62年)建立
タイの大王様が開いたお寺ってこと🐘?



毎月21日(縁日)は歩行者天国になるので参道から日泰寺境内まで駐車禁止だそうで、次回は縁日に行ってみたいと思ってたけど、臨時駐車場🅿️てどこになるんだろう?
山門の仁王像も撮るの忘れた😵💦
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53: 名無しさん@おーぷん 2017/11/17(金)17:34:52 ID:wAZ
日本に伝来した宗教がぐちゃぐちゃになっちゃうのは良い事だった
戦国時代から近代にかけての日本人の資料
「日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料」なんですけどね
大航海時代に日本の種子島にきたポルトガル人から始まる欧州人の記録によってペリーが日本へ向けて出発した事がわかっています。
1597年には激しい迫害があった。26人のキリスト教徒が磔刑となったのだ。(26聖人殉教事件)
磔刑された中には一人か二人のイエズス会士、数人のフランシスコ会士が居たが、多くが日本人教徒だった。
宣教師たちはあまりに過激にこの国の偶像崇拝の風習を攻撃した。
キリスト教を信じた日本人たちも、この宗教を熱狂的に広めようとした。
キリストを信じなければ永遠に地獄で苦しむ事になると脅しただけでなく、仏教の僧侶を侮辱し、仏像や寺まで破壊した。
これがキリスト教徒の迫害に火をつけたと言っても良いだろう。
皇帝(豊臣or徳川)や諸侯が、こうした振舞いに「彼らがこの国で革命を起こそうとしているのではないか」と疑うのは当然だった。
注)天皇は帝と表記されています。
これも面白かったので書いておきます。
sutoと表現されている宗教があったんだそうです。
中身を見てみると、信・義・礼・知・仁という五つの項目について言及されていました。
つまりsutoというのは士道ですね。武士道の事です。
外人はこういうのも宗教だと感じちゃうんですかね。
記録した本人も「宗教というより哲学と言った方が適格だろう」と言っているようです。
この士道は日本でも主流の信仰である。そして士道は命を育む自然に対して感謝をする価値観を持って居る
と記録されています。
この他にも仏教や神道についても記載があって
その他にも数十の宗教があるが、メイランは彼らの間で宗教論争というものを見た事がなかったと(論争してない事もないんですけどね)
他宗に対して嫌悪する事なくむしろ敬意を以て礼儀を尽くしていた、それはインドや中国など外国から来た外来の神に対しても同じであったと
日本人がこれほど他宗に対して寛容な精神はどこから着てどうやって維持されているのだろうという質問に対して私はこう答える。
どの神を信じてようが内裏を主として認めているからだ。(内裏は天皇の事ですね)
内裏はその神性を崇めるものすべてを守る存在となる。
その崇める流儀について内裏が問う事は無い。(数ある宗教の信仰体系に関して自由にさせていたという事かと)
キリスト教も、宣教師が尊大になる事が無く、他宗を辱める事も無く、欲望を貪る事が無く
布教に励んでいれば、日本には間違いなくキリスト教が広がっていただろう。
んで
坊さんとか神主だとかは別だと思うんですけどね
「日本人は様々な神を崇め敬意を払いつつも自らを無宗教であると言う」と書かれていました
54: 名無しさん@おーぷん 2017/11/17(金)17:35:27 ID:wAZ
比較すると一神教なんかはこう
キリスト教には旧約聖書の出エジプト記で
「私は妬む神である」という記述があって
他の神を妬むんだよという意味ですね。
全知全能の唯一神が心の狭いこってよろしゅうございますなというわけで
出エジプト記はモーセのお話なんですが
山に籠ったモーセの帰りを待ちきれなかった民衆が、子牛の偶像を作って拝み出しちゃったんです。モーセは拝んでた民衆を全部ぶっ殺してます。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は旧約聖書を聖典としているのでこの価値観は一神教は全部同じです。実際にコーランにも旧約と全く同じ話がちょいちょい出て来る。
恐らくこれを根本的な問題として他の宗教は認めないという価値観があるんじゃないかなと思っています。
実際に法王庁は仏教を悪魔の宗教と認定しました。
仏像なんか思い切り偶像崇拝ですからね。
シリア地方の多神教にバ��ルという豊穣の神が居たんですけど
これもキリスト教によって悪魔認定されています。
これをもっと悪い悪魔にしてしまおうという事で言葉遊びをして
バアルゼブル・ベルゼブブ、ハエの王となり、キリスト教の七つの大罪を司る、キリスト教でも非常に悪い悪魔となりました。
異教徒だ邪教だという価値観を捨てないと、時間の問題で多宗教との争いになるのではないだろうかと個人的には思います。
「俺の宗教がただひとつ正しいんだ!おまえらは邪教だ!」てやって偶像崇拝も禁止なので破壊してきましたからね。
このシリア近辺にあったバアルの神殿がパルミラ遺跡と言われているんですが、近年、キリスト教の後継であるイスラム教の過激派 ISによってパルミラ遺跡は破壊されたようです。
タリバンもバーミヤン遺跡の石仏を破壊してましたよね。
55: 名無しさん@おーぷん 2017/11/17(金)17:42:10 ID:wAZ
コピペで申し訳ないんだけど
一応俺が書いたもの
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郎庵とは⁉️ 近世の異僧?vol.1 の続き
地誌「雍州府志」から読み解く!
郎庵は、一節切尺八の宗祖と言われていますが、音楽学者の田辺尚雄氏の見解によると…
『この一節切は、室町時代の中頃に異人盧安(郎庵)によってわが国に伝えられたと称される。伝説によると、盧安は南支那の福州(中国、福建省の省都)の僧であるというが、これを中国人と称されないで特に異人と呼び、この人がわが国に来た時に、一休和尚は彼に向かって”汝の言葉は日本人には全くワカラナイから説教する事は不可能である。それ故、汝が所持する一節切の楽器を奏しながら行脚すれば、それで生活は維持できる。”と教えたので、盧安は一節切を吹奏しつつ行脚をしたという話もあるから、盧安の国籍をもっと調べる必要があり、それによって一節切という楽器の原産地がわかってくるのではないかと思う』とある。『恐らく南支那地方に発生したものかと推測されるが、その起源は不明である。そのわが国への伝来については、文明年間(1469~89)に南支那の福州の禅僧盧安が渡来して、この楽器を吹いて托鉢したのに始まるという。盧安は一休和尚と親しく・・・』とある。
「日本音楽史」田辺尚雄より
要約すると、
一節切尺八は室町中期(1469-89)に中国南部の福建州の禅僧盧安(郎庵)が伝えたもので、一休禅師の勧めもあって盧安はこれを吹いて托鉢した。とのこと。
この説の根拠は、
「雍州府志」(ようしゅうふし)の「妙安寺(明暗寺)」の項に書かれる。

(「雍州府志」国立公文書館より)
「雍州府志」は、山城国(現京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌。全10巻。歴史家の黒川道祐によって、天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記されたものです。
妙安寺
「在蓮華王院南而禅刹近世異僧号朗庵不知為何処人也 曽興龍宝山大徳寺一休和尚相親常慕風穴演弉(延沼)之作畧(略)自好吹尺八 或自称風穴道者之住宇治吸江庵又暫寺世所謂薦僧之本寺也 斯徒露宿風食厭険難経歴諸方到処坐葉薦而為足故称薦僧或謂虚無僧也 亡命者或逃世隠斯宗門者間有之中世有暮露者是亦薦僧類也 凡東関西刈風穴道者門泒(派)之寺院在処々 一説朗庵慕普化振鈴之作畧(略)号普化道者也 然今以吹尺八見之則風穴道者之義足取之者乎」
蓮華王院とは三十三間堂のことで、京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある仏堂。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。妙安寺はその蓮華王院の南にあるとのこと。現在地図上では確認できません。
訳すと、
近世、朗庵という何処の誰とも分からない異僧がその妙安寺に住んでいた。龍宝山大徳寺の一休和尚(1398-1481)とも親しく、風穴延沼和尚の作略を慕って自ら好き好んで尺八を吹いていた。自称風穴道者とも言い、所謂薦僧の本寺である宇治吸江庵に暫くの間住んでいた。路上で寝ることや、食べることが困難でも厭わず、諸方を歴訪し菰の上に座す衆徒を、薦僧あるいは虚無僧と称す。亡命者或いは隠遁者も宗門の間では中世の暮露といい、これも薦僧の類である。凡そ東関西(近世には関西と言う言葉が存在したもよう)には風穴道者の門派の寺院が所々にあった。一説によると、朗庵は普化禅師の振鈴の作略を慕って普化道者とも号した。今以て尺八を吹いてみると風穴道者の道義が十分に伝わってくる。
私のこの稚拙な訳が正しいかはご意見を仰ぎたいところですが…、この最後の文章を見ると、著者の黒川道祐は尺八を吹いたことがあるような言い方ですね。黒川道祐は安芸国(あきのくに・今の広島県西部)の医者でもあるそうですが、京都にでて著名な儒学者林羅山に学び、故実にも精通していたそうです。この雍州府志が刊行されたのは江戸時代前半。ここにはまだ「普化宗」という言葉は書かれておらず、暮露や薦僧、虚無僧が混合されて、尺八を吹いている人々は「普化禅師や風穴和尚を慕っている宗教味(禅宗)の強い放浪者」という括りだったのかもしれませんね。
あと、普化禅師の作略というと、本来なら企み、はかりごとをめぐらすこと、策略。といった少しマイナスな意味になりますが、普化禅師のことを知っていれば、作略を慕うという意味も分かります。
普化禅師の詳しくはこちらのミニ講座↓
風穴延沼(ふうけつ えんしょう・896~973年)とは、中国宋代(960-1279)の初期を中心に活躍した臨済宗の禅僧。臨済義玄の三代後の僧で唐代から宋代にかけて活躍した杭州の人。
風穴和尚のことは上記の事以外、全く知らないのですが、また機会があれば調べてみたいと思います。
ご存知の方いらしたら教えて下さい🙏
この朗庵、室町時代に生きた人ということですが、中国福建省から来たという田辺氏の「伝説によると…」という情報は一体どこから来たのかは不明です。
この頃は中国は明の時代。一体どんな国だったんでしょうね。
次回は、朗庵が開いたという墓地が宇治にあるということで、なんと物的証拠があるの?!それは何か分かるかも💓
さらに朗庵伝説を掘り下げてみたいと思います!
お楽しみに〜
参考文献
山口正義「尺八史概説」
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僕はキリスト教徒ではありませんが,偶然にも水野宏師という正教会の神父様とお近づきになる機会を持つことが出来ました。それ以来,僕は水野神父を宗教家としても人間としても非常に尊敬しております。今回,その水野神父の文章を拝読させて頂き,まさに僕が宗教に対して常々思っていたことを明確な形で的確に言い表した文章に出会えたと非常に驚き,また強く共感を覚えているところです。 今回,僕の意見を申し上げる前に,まず僕がどのような信仰を持っているかを明確にしておく必要があるでしょう。 先に申し上げたとおり,僕はキリスト教徒ではありません。天台宗の寺院の檀家で神社の氏子ですから「神道を併せ信じる仏教徒」という,日本では一番多い形の信心をしていることになります。そして日本人の多数に漏れず,僕はあまり熱心な信仰の持ち主ではありません。仏教徒である以上は三宝に帰依し五戒を遵守すべき立場の筈ですが,日常においては全く気にしておらず,他の方たちから見れば「無宗教・無信仰」に見える存在だと思います。お正月には神社に参拝し,お彼岸やお盆には祖先のお墓に参るために仏寺に詣でますが,日常生活で宗教に接するのはその程度でしょう。むしろ信仰していない筈のキリスト教のクリスマスなどを盛大にお祝いしたりしています。 とはいえ「君の宗教は?」と問われれば僕は「仏教徒。神道を併せ信心している」と答えますし,自分はそのような宗教の信者であるという認識は揺らぎません。 さて,仏教徒で神道も信じている以上,やはり何かの機会にはそれらの教えを学び知りたいと願うのは当然のことです。神社では見掛けませんが,お寺の山門の前には掲示板が置かれていることが多いですね。そこには仏教の教えを端的に伝える短い言葉などが掲げられていることが多いので,僕は出来る限り読むようにしています。また仏僧や仏教研究者の著書などにも触れ,色々な知識を身に着けようとも思っています。その過程で多くの良い言葉,良い文章に触れることが出来ました。それらの多くは「人生をいかに生きるか」「他者に対してどのような態度,どのような思いを抱くべきであるか」といった優れた人生訓であり,謙虚にそれらの教えに学ぶことをすれば僕は今よりもはるかに優れた人間になることが出来るでしょうし,そのように努めたいとも思っております。 しかしその反面,それらの文章を読んでも僕は満たされない思いを感じることが多々ありました。「人生訓は有益なものであり,偉大な先人を見習うのも勿論良いことである。しかし,自分が宗教に求めるものはそれではないのだ」と。僕としては「自分は死んだらどうなるのか」「既に世を去った人々は,今どこで何をしているのか」という疑問への答えや,或いは「もし死後の世界があるのであれば,自分がそこで安らかに満たされて過ごすにはどうすれば良いのか。また故人に安らかに満たされた思いで過ごしてもらうにはどうすれば良いのか」といった事柄について教えて頂きたいと願ってしまいます。無論,宗教者が「自らが良き来世を得るために,今生で正しい人生を送りなさい」「故人に来世で心安らかに過ごしてもらうために,正しく思いやりのある人になりなさい」と説くのであれば,それは判ります。或いはそういう宗教的問題とは関係無くても,およそ宗教者は人に道を説いて教え導く立場である以上は必然的に教育者でもあり,師として生徒たる信者たちを善導するのも正しいことだと思います。勉強を教える学校の先生が,ときに生徒たちに勉強とは関係無い人の道を説くことが期待されているように。しかし宗教者が宗教を全く語らず現世の問題のみを語られても,僕には「一番聴きたいことについて教えてもらえない」というモヤモヤした憾みが残ってしまいます。 水野宏神父は仰います。イエスを模範的な人物像として捉える見方が行き過ぎると「キリスト教がキリスト教でなくなり、教会がただの『現代人生講座』になりかねません」と。神父のご指摘を拝読し「ああ,これが僕の感じていたモヤモヤだ」と雲が晴れるような思いを感じました。キリスト教と仏教の違いこそあれ,僕が感じていたのはこの「宗教の人生講座化」であり,僕のモヤモヤはその状況への不満だったのです。いかに良く生きるかを説くのは良いことであっても,それに終始するばかりでは人間性の向上を説いているに過ぎません。宗教者が宗教的教導に併せて,或いは人を教え導くという立場に伴って人間性の向上を説くのは好ましいことですが「仏教の教えによれば,人は死んだらどうなるのか」「現世で良く生きることは,死後とどのように関連するのか」ということを説いてくれないのでは,一体何のための宗教かという不満を感じてしまいます。この点について「仏陀は死後を説かなかった」と消極的になる仏僧が存在することを僕は知っています。しかし複数の仏典に死後の話が多数登場する以上,それは到底信じられません。また仮にそうだとしても現在の仏教は釈迦の教説そのままではなく,釈迦の教えを踏まえつつそれを発展させて成立したものです。その中には人が死んだらどうなるかを説く教えも数多く存在し,現在日本に存在する仏教各宗派もそれらの教えを踏まえて成り立っています。宗派に属し宗祖の教えを重視する筈の現代日本の仏僧たちが,死後の問題に関してだけ釈迦直説に突然拘り出すのは理解出来ません。また「そんなことを言われても,仏教においては死後のことは本当に何も判らないのだ」というのであれば(仮に本気でそんなことを言うのなら,葬儀や法事で貴方たちは何をしているのか,寺院に墓地があるのはどういう理由かと問い糺したくもなりますが),日本の仏僧である以上は神道を援用して死後の世界を説くことも可能な筈です。現代日本の仏教に「神道は嘘である」と決めて掛かっている宗派は存在せず,全ての宗派が神道の神々を護法善神として認めているのですから(「神祇不拝」を説く浄土真宗,或いは神社参拝を禁止する日蓮正宗といった宗派は存在しますが,そうした宗派においても神道の神々の存在や日本神話そのものについては全く否定していません)。「仏教が駄目なら神道で」というのはあまりに極端で仏教に対し礼を失した物言いですが,釈尊の教説や宗祖の教えの中から「死後,人はどうなるのか」「御仏は死者をどのように救済するのか」という疑問に対する答を徹底的に探し出し,それを我々に説いて頂きたいと僕は思います。それを怠っていては仏教は宗教ではなく単なる現代人生講座になってしまうでしょう。まさに水野神父のご指摘のとおりです。 仏教にも神道にもキリスト教にも素養の無い僕の考えや願いがどこまで妥当なものか全く自信はありません。しかし迷える衆生として,僕はそのような思いを抱いています。 折しも間も無く新年です。僕には宗教のことは全く判りませんが,年に1度のお正月には敬虔な思いで神仏を礼拝したいと思っています。そしてその際には僕自身や存命の縁者たち,更には現在ご存命の方々全ての現世での幸福を祈るつもりです。そしてそれと同時に,現世の人々も既に世を去った人々も,双方が共に安らかに満たされた一年になることをも併せて祈りたいと思っているところです。
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2019年12月21日(土)

この時期恒例となった「AIDSメモリアルキルト展」、今年も12/20(金)〜22(日)までの3日間、ひと・まち交流館京都において開催中。2日目の今日は来場者も多く、liveコンサートもあっての大盛り上がり。明日の最終日は17時まで、京都へ来られたら是非お立ち寄り下さい。
朝食を済ませ、あれこれ片付けものを済ませてからツレアイは自転車でメモリアルキルト展の会場へ。私は徒歩でJR西大路駅へ、IM嬢と待ち合わせ、今日は「第1回熊野詣in京都」の日。
西大路駅前から市バス202号系統に乗車するが、さすがに「終い弘法」、東寺周辺の渋滞がひどい。一日乗車券を購入し、九条車庫で208号系統に乗り継ぎ、第一目的地の「新熊野神社」へ。
当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。
(御由緒より)
私個人は「熊野会」会員となって、例年初詣に来る場所でもある。キーワードの「神仏習合」を学び、「京の熊野詣」を歩き(!)、大樟に触れてパワーをいただく。
次に徒歩で向かったのは「蓮華王院(三十三間堂)」、以前来たのが何時だったか全く思い出せない。
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行いました。三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。 その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復が行なわれます。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏と5ケ年を費やして内外両面の整備を行ったのでした。
(「創建と歴史」より)
こちらは一大観光地、観光バスや自動車がひっきりなしに出入りし、多数の外国人観光客が訪れている。1001体の千手観音像はやはり圧巻。
つまり、後白河上皇の「法住殿」を守護するものとして、神(新熊野神社)と仏(三十三間堂)が配置されていたのである。いずれも平清盛の財力を利用、しかし、このあと保元の乱・平治の乱と続いてやがて平家は滅亡、日本史の恐ろしくも興味惹かれる時代である。
次に向かったのは七条通の北側、豊国神社&方広寺。
豊国神社のとなりにある方広寺は、「国家安康、君臣豊楽」の文字が刻まれた大鐘があることで知られている。これは、慶長19年(1614)、家康の文字を切り離したことで、大阪冬の陣のきっかけともなった。
(「京都府観光連盟」サイトより)
ここで午前中の部は終了、昼食へと向かう。

向かった先は七条千本・すし市場、ビールも少しいただいてホッと一息。
午後は、ひと・まち交流館京都で開催中の「AIDSメモリアルキルト展」に向かう。先週の熊野へ同行したO姉・M姉に遭遇、華頂女子校のT先生には初めてご挨拶できた。IM嬢はテディベア作りに挑戦、私は2000円のグレー無地のベアを購入して「テディベア基金」に僅かながら協力する。

今日の予定はこれまで、京都駅で解散、バスで自宅に戻る。
さすがに、町内ウォーキングは休止。

息子たちの夕飯、残りの昆布締めポークをソテーし、しめ鯖も一緒に。味噌汁は厚揚げ。
キルト展から帰宅したツレアイと晩酌、ワインの撮影を忘れる。
さすがにあちこち移動したので、12,000歩/日は見事クリア。
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