#旧小澤家住宅
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夏旅2024 新潟散策 Part2 - 旧小澤家住宅
新潟市内散策、目を付けたのは北前船の時代からの商家 旧小澤家住宅。
旧小澤家住宅
歴史ある建物はめぐることは欠かせない。ということで新潟市内散策の最初は、北前船でにぎわった新潟の地で、江戸時代後期から続く商家 小澤家の店舗兼住宅。


内部は懐かしい感じのする日本家屋。こういう建物は廊下撮影が楽しいよね、ということでシャッターを重ねる(廊下をテーマにした写真コレクションがだいぶ貯まってきましたね)。盛夏のこの時期は、畳に敷かれた御座に腰を下ろし、簾越しに通り抜ける風に涼を感じるのも一興。

地元の祖父祖母の家で過ごしたお盆の日々を思い出す、数年前まで元気に暮らしていたものの今は…。


Lunch Snap
この日のお昼は新潟駅で歴史ある駅そば やなぎ庵さんにて。冷たい栃尾の油揚げそばをいただく。分厚い油揚げの食感・うまみと一緒に楽しめる冷たいお蕎麦が暑い時期には最高でした。

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初めてご依頼を戴いたときに、思わず「え、私でいいんですか」って訊き返してしまった案件です。 https://komeiss.jp/ 【動画】作家・山本一郎氏に聞く 作家・山本一郎氏の取材動画です。「経済・社会の持続可能性を高める」をテーマに、公明党の哲学観についてトークを繰り広げます。 dcontents.komei-shimbun.jp 公明党支持に至る経緯 国重徹さんという公明党の議員さんがおられまして(大阪5区)、ちゃんとお会いしたことは無いんですが、妹さんが若くして急死、ご尊父もがん闘病中に司法試験合格、その後刑事事件の弁護で名を馳せ、現在は議員として活躍というヤバい先生なんですよ。ヤバイ。まともすぎてヤバイ。 東京に生まれ育ち、住んだ選挙区ではどちらかというと動物園の人気投票になりがちな私からしますと、こんなちゃんとした候補者を政治家として選べる大阪5区民は羨ましいなって思うんですよね。 そんな国重さんの人柄を思わせる素敵なYoutubeの再生回数が330回とか世の中おかしいよと感じます。お前らもっと観ろ。 本記事は、ワイ(山本一郎)がなぜか公明新聞に呼ばれてお話したり、誌面に論考を月刊公明に寄せたよって告知です。が、プロテスタント(なんちゃってキリスト教徒)である山本が何で公明党や創価学会に心を寄せてるのって話をよくされます。先に、その話をちゃんとしとかんとと思いまして。 先日、私の実父が長年の闘病・介護の果てにようやくくたばって魂が神の御許に召されたのですが、親父やお袋が大病して介護生活に入ったとき、ちょうど家内との間に次男が生まれまして。また、義父も膵臓がん闘病に、義母も具合が悪くて4人介護、さらに新たな命を授かり三男と長女が誕生しました。結局、山本家は介護4名、子育て4名、さらに何やかやあって、私自身が常勤の仕��を辞めざるを得なくなり、セミリタイヤして家族との時間を優先する決断をしました。介護、足掛け14年ぐらいですね。長かった。 【動画】作家・山本一郎氏に聞く 作家・山本一郎氏の取材動画です。「経済・社会の持続可能性を高める」をテーマに、公明党の哲学観についてトークを繰り広げます。 dcontents.komei-shimbun.jp 幸いそこそこ投資も仕事も順調に推移していましたので私には資産があり、コンサルやその他収益で経済的には安定しているものの、カネで解決できないことはたくさんありました。人間、カネがあればあったで面倒は多いのです。会ったこともない親族が突然湧いて出るとか、工場の設備を盗んで逃げる元取締役や中国人幹部が出るとか。ま、先方にも事情もあるだろうし仕方ないんですけどね。 実父は旧中選挙区制時代に自民党の古き良き議員さんたちとの交流も深く、地元では故・与謝野馨さんらを応援していました。ただ、実父もバブル崩壊とそれに伴う住専問題などで破産しかかり、経営していた事業から引退してこの政治界隈から疎遠になってしまいました。カネの切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、自宅に招いて盛大に飲み食いしていたはずの地元の政治家の皆さんも、自宅介護中はともかく入院したり施設に入ったりしている実父に見舞に来ることなんて、ついぞ無かったですね。 そして、具合を悪くして本格的に介護が必要だというとき、かつて実父が世話をしていた仲の良かった政治家の皆さんも、落選やご病気などご自身の都合ですでに政界から離れていたり、亡くなった後の世継ぎに難があって関係が途絶えていたりと、頼りようがない状態になっていたのです。 困り果てて、かなり藁にもすがる気持ちでネット繋がりで交流のあった公明党の新宿区議・豊島あつし先生に思い切ってご相談をしたところ、すぐに父のいた中野区の白井秀史先生をご紹介くださいました。その後、いままでの私の苦労は何だったのかと思うぐらいの素早さで地域包括支援(当時)に繋いでいただいた経緯があります。そして、何とかしていただいた一週間ほど後に、私が某北国に海外出張中に実父が自宅で倒れ、かなりギリギリの状態で救急搬送されて助かったりもしました。この白井先生のご対応が無かったらと思うといまでも心臓がキュッとします。もうこの時点で感謝しかありません。 山本家も古い自民党筋の繋がりの末席におりましたので(重要)、この手のことを政治家に頼むとどういうことになるのかは私なりに肌感として持っており、ご要請があれば何かしないとなあとあれ��れ準備したりもしてました。世の中の仕組み的にはそういうものだ、そんな風に思っていた時期が俺にもありました。ところが… つつがなく上手くいったという御礼の連絡を豊島先生、白井先生にさせていただいた後も、特に何もないのです。本当に、何もありませんでした。 変な言い方ですが、本来の政治、あるべき姿ってこういうことなんだと、40代にして、私も気づかされることになりました。何言ってんだよという気もしますけど、しかし、本音です。これは心でつないでいただいたお話なのだから、心でお返しするしかないのだと、(柄にもなく)思うようになりました。 戦後をずっと生きてきた親父の追憶…14年間続けた“4人の介護”から少し解放されて感じたこと | 文春オンライン 先般、92歳まで生きた親父が永眠しました。 残念だと思うよりは、ようやくくたばったかという気持ちが先に立ちます。 破産し bunshun.jp 浜四津敏子さんの話 与太話をもうひとつすると、私が慶應義塾大学に上がり「文化団体連盟(文連)」という、サークル総員4,000人ぐらいを束ねる塾生自治団体の委員長に就任したころ、ちょうど世の中は日本新党ブームでした。出馬した大学の先輩に選挙応援で塾内でボランティアを集めたり日本新党の選挙応援に駆り出される一方、前述の通り山本家は中小企業のオヤジらしく自民党と読売ジャイアンツと千代の富士を熱く応援していました。バブル崩壊後は父親の事業の経営状態も悪く、山本家内は政治どころじゃなかったのですが、私が自民党ではない議員を応援していることをしった親父は案の定激怒。しかし私はこれに強く反発し、世の中も混乱して低迷しているのだし、これを打開するには当時は日本新党もいいんじゃないのと思っておりました。 ある時期、旧公明党ののぼりを立てて淡いベージュのスーツに身を包んだ浜四津敏子さんが中野区北口のサンプラザ広場近くの駐輪場で街頭演説をされていました。演説というか絶叫であって、ただその話の大半を子育てや子どもの権利について割いておられたのをいまでも鮮烈に覚えています。その当時、公明党というものを良く分かっておらず、ちょうどバブルも弾けて世間が大変になりつつあったところで、経済どうすんだとみんな困っているところで子どもとか人権とか何言ってんだこのおばさんはと受け止めておりました。まあ私もガキだったわけです。 さらに、93年宮澤喜一内閣嘘つき選挙で、慶應義塾内で創価学会による投票キャンペーン(いまでいうフレンド票ってやつ��しょうか)が展開され、当時日吉で我が文化団体連盟も管理に携わっていた塾生会館で「宗教勧誘が行われている」「地方から出てきた下級生が食い物にされている」という話が出て、慶應の自治界隈で騒ぎになりました���実際には、創価学会というより、翌年大変な事件を起こしたオウム真理教や学生相手に法外なローンを組ませる原理研究会(旧統一教会)がカレー愛好会や自作PC同好会など一般のサークルに偽装して塾生を勧誘していました。非常に危機的です。特に地方から慶應義塾に進学してきた無垢な世間知らずを根こそぎ連れて行ってしまうのです。仲の良かった語学のクラスの友達が何人もハメられたり入信したりしていますが、その後音信不通になるやつもいました。 応急の対策として、義塾の地方出身塾生を束ねていた全慶連なる団体に地方民をひとつのバスケットに入れてダミーサークルの情報収集したり新興宗教に流れないようにその活動の嫌がらせしたりして塾内の風紀規律を守るという活動を自治会としてしていました。 当時は私も原理研と並んで創価学会も立正佼成会も手かざし何とかも一緒くたに「良く分からない宗教」からの勧誘と思っていたうえ、慶應義塾のキャンパス内で堂々と創価学会員が「選挙に行って、公明党に投票しましょう」って堂々とやるもんだから、なんてことしてんだと思い、ずっと創価学会が嫌いでした。宗教は全般的にアカンのやろということで、相談窓口を作ったところ、いろんな宗教が入り込んでいたようで、霊験あらたかな掛け軸とか壺とか漬物石とか無垢な貧乏塾生がローン組まされて買わされている相談は10件では留まらなかったと記憶しています。 さらに、慶應義塾に塾外(法政とか明治とか)から共産党系や全学連のような赤い輩がやってきていて、義塾敷地内で禁止されている大きさの立て看板を勝手に撤去したとかいうどうでもいい理由でキャンパス入口前で創価学会員と集団で殴り合いをするという事件まで発生しました。自治会活動を通じて、私も宗教とレッズには本当に苦労をさせられたのですが、最後には人畜無害な塾生サークルの入り口鍵が勝手に入れ替えられ部室が占拠されたり、三田キャンパスの旧校舎地下に『塾風』なる媒体を発行する団体が乗っ取られてアジビラを撒かれるなどの騒ぎが拡大していました。体育会や慶早戦支援委員会など各有力自治団体と鳩首会談の末、『全塾協議会』のような塾生の自治活動全体を司る会議体を作らないと対応できないという話にまで発展しました。 とはいえ、各方面から迫りくる何だか良く分からない連中をいちゃもんつけて実力で全部排除するのもほぼ不可能なので、せめて話の分かる連中はいないのか、いるとしたらどの団体なのかとほうぼう交渉した結果、大学当局立ち合いのもと話し合いに応じてくれたのが創価学会の塾生団体でした。 いまでもよく覚えていますが、旧A棟102教室に体育会代表、支援会幹部と3人で学ランを着て伺ったとき、義塾の創価学会の人8人と二時間ぐらい話しました。なんかいつもルーマニア国旗みたいなのを担いで得体の知れない活動しているけど、直接落ち着いて話してみると割といいやつなんじゃないかと思うようになりまして。で、話し合いも終わるころ、義塾出身の公明党の人が「挨拶」に来られたというのでお伺いしたらピンクみの明るいスーツに身を包んだ浜四津敏子さんその人でした。 30分ぐらいだったでしょうか、一方的に浜四津さんのお話を伺う形にはなったのですが、どちらかと言うと塾生自治会の代表として塾生の安全や風紀のために目の前のことを手掛けてきた私からしますと、政治家というものは、こうも広く世の中を見て、多くの人たちのために考えて行動しようとしている存在なのか、山本家で普段見ている、山本家に上がり込んで親父と酒を飲んでいる議員ってのを標準と思っておりましたので、なんか雰囲気が全然違うぞ、って支援会のやつと顔を見合わせたりしました。 当時は私もまだガキだったのと、潰れそうな実父の事業をうまくやりながらいかにうまく単位を取り卒業するかを考えていたため、残念ながら、そのとき手渡されたパンフレットや本は文連本部の戸棚に置いたまま誰かがもっていってしまいそれっきりになってしまいました。ただ、思い返せばあのとき初めて、リアルに政治に携わるべき人の資質や、本当に考えて政治家をやっている人の話を伺って、立体的に、日本の政治を知ることができたと感じています。もっとも、そのときは「宗教と言っても、いろんなのがあるんやな」っていう受け止め以上のものはありませんでしたが、その後も塾生会館の部室から偽装サークルを追い出したり勧誘の看板を強制撤去したりしてる中で、このとき定めた「塾キャンパス内での集票・政治活動は控えてください」の取り決めを、少なくとも私が卒業するまで守ってくれたのは創価学会ぐらいのものでした。 28年のときを経て『月刊公明』で何を書いたか そんな私は、実父のこしらえた借金を返したり、2ちゃんねる運営に携わって黒歴史を築いたり、しょうもない人生の回り道もかなりしてきました。けれども私の人間としての本質は大学時代からほとんど変わることなく、現場を愛し、力作業の人足をかき集めたり段取りを組んだりして目の前のことがうまく回るよう手配することに力を注いで、幸いにして素晴らしい女性と巡り合って結婚し、���どもを4人儲けて日々を真面目に生きています。 ただ、嫌な経験や修羅場も踏んで結果、多少は知恵がついて、結婚前はゲーム開発やコンテンツ投資に血道を挙げていたはずが、巡り合わせから新潟大学の大学院に進学して修士を取りアカデミアの端っこの末席にいる傍ら、ご縁あって投票情勢や各種政策などの調査業務なども担当させていただくようになりました。こんな私を信頼してお声がけくださり、ご依頼をいただけるのは、何よりもありがたいことです。 その中で、やはり有権者として、家長として、強く感じることはあります。我が国の人口減少とそれに伴う地方社会・経済の衰退は覆い隠すことのできない状態にまで陥り、何不自由ない生活をしている日本人は多いけど、しかし明るい未来を展望し希望を持って生きることもなかなか大変だという「撤退戦」の時代に差し掛かりました。 私が投票行動分析というニッチな学問を齧ったころは、国民の関心事は「景気」と「雇用」であって、健やかに働ける経済が日本社会を支えられていれば良いという右肩上がりの時代の名残を残していました。それから日本経済を支えた多くの日本人が引退をするようになると、いまや有権者の関心は「年金」や「社会保障」へと移り変わっていっています。国民が政治に期待することは暮らしを良くすることであって、良くするための手段が働くことから年金をもらうことにシフトしつつあるのが実情です。 私が社会に出た1996年は実父も巻き込まれて倒産しかかった住専問題から失われた10年、いや20年、30年と称される氷河期であって、いまなお私と同世代の日本人たちは非正規雇用や未婚、おひとり様などネガティブなキーワードと共に救済されることなく暗い人生を送っている割合も多くいます。と言いますか、私らの世代以下の日本人は、一人として、景気の良い、明るい日本をついぞ経験することなく結婚適齢期を過ぎ、中年になっているのです。 この氷河期世代、団塊ジュニアを境目として、下の世代の社会保障負担は少子化の進展もあって急激に重くなっていくなか、少なくとも日本全体の人口で言えば2040年ないし2042年ごろまでは、父親世代である団塊の世代の後期高齢者入りで社会保障費は自然増していきます。もはや、いまの日本の人口構成で現状の繁栄を維持することは極めて困難な状態にまで追い込まれてしまいました。 いまの日本には、そういう困難を乗り越える方策・政策と、それを支える哲学・政治思想が必要になっているとも言えます。「日本をこうすべき」「こうあるべき」という確固とした価値観や「いまは大変でも将来これをやればきっとうまくいく」という根拠と哲学に基づ��たグランドデザインが、いま求められているのです。政治改革の重要性は、もちろん政治とカネの問題を早急に解決して国民の政治への信頼を取り戻すという一丁目一番地の足元のことも踏まえ、その上に、過去の政治のあり方の延長線上に新しい明るい未来は描きづらいという難題を抱えているのです。 そのように考えると、奇しくも浜四津敏子さんが小僧だった私に語った子どもの人権のあり方や、男女同権の実現、若い人の社会進出を果たす、という話こそが、大事な道しるべだったと思えます。28年もの歳月を経て、いまなお日本社会が解決するべき課題として浮かび上がっていることを考えれば、実はここに我が国が目指す指針のヒントが隠されているような気がして仕方がないのです。 誰のための、どこに向かう政治なのかの再定義を そして、公明の立党の精神として、絶対的な平和主義と並んで故・池田大作氏が語った「大衆」の概念こそ、分断されがちな我が国の社会をまとめ直し、自民党政治ではおこぼれに預かれない人たちと、労働組合の傘の下にはいない非正規就労者や高齢独身者、シングルマザーなどの属性を包み込むものなのではないのかとも思います。 政治不信の根幹も、これら自民党政治や労働組合、各種業界団体などの庇護下になく、いい目を見ることなく暮らしている人々になかなか光が当たらないまま人口減少で経済縮退に至ってしまった怨嗟があるのではないか、と強く感じます。一人ひとりは一隅を照らすように立派に人生を慎ましく送っていても、拠って立つ大樹もなく希望も持てない社会ってマズいんじゃないでしょうか。 これらの状況を綺麗事ではなく現実のものとして受け入れてどうにかするには、人間愛というか人類愛のようなものをベースにした絶対的平和の希求は重要なテーマとして、世界に日本がいかに平和を担う存在であるかを考えていく必要があります。いま世にある安全保障・外交問題も、世界における日本の役割を示し、機能を果たすことに軸足が置かれており、これこそが与党自公政権における公明党の効能でもあろうと思います。 私も51年生きてきて、いろんな経験もあって初めて公明党大事じゃねえかと気づき、また、地味に真面目に議論をして政権与党内で正論を言い、ややもすれば暴走することも少なくない自民党の適切な相談役、ブレーキ役としての公明党の果たしてきた役割は貴重なんですよ。むしろ、これが自民党単独政権だと思うとゾッとしませんか。 自民党からすれば、公明党と連立を組む意味はあくまで戦略的なものであって、議員によっては憚らず「当選のために」と集票マシーンとしての創価学会のみを評価する場合さえあり、踏まれても自民党に付いていくしかない下駄の雪と揶揄されながらも、ある種のドM的な存在として調整弁になってきた点は再認識していかなければならないと考えます。 他方で、池田大作さんも亡くなられ、党勢の維持・拡大という内向きな話も公明党の内外から聞かれるようになってきました。ただ、ポスト池田さんというのは、むしろ優秀だけど地味な政治家が正論を与党内で言い自民党の暴走を抑える聖人的な役割という土台の上に、何を載せていくかが問われているのではないかと思うのです。 結党の根幹でもある通り、大衆のために、絶対的な平和を希求し、多くの国民に希望を与えられる政策の実現は何なのかというグランドデザインを築く必要があります。今後、国民に多くの痛みを強いることになる社会保障改革を断行しなければならない自公政権にとって、国民に明るい展望を見せられる政策目標を考えなければならないのです。その回答は大衆にあると思っていて、大衆と平和を掲げた立党精神に立ち返り、より分かりやすい言葉で池田大作さんの思想を未来に向けて再定義しないといけないのではないでしょうか。 ついでに公明党に期待したいこと 冒頭にも書きましたが、優れた真面目な政治家を擁し、政策議論でも与党を割とリードしているはずの公明党が、ある意味でしっかりとした支持層である創価学会との関係性の中で閉じていて一般にはあまり知られていないように見えるのはもったいないなあと思います。 かくいう自民党でも、これはと思う若手や中堅もやっぱり地元での活動を優先して有権者との関係に閉じてしまっているのもまた残念に感じます。 小泉純一郎政権から麻生太郎政権ぐらいまでまあまあ強いはずであった都市部で自民党が目下壊滅的な支持状況になっているのも(本来自民党大阪府連をベースにした第二自民党的扱いのはずの旧大阪維新に近畿は完全にやられていることを筆頭に)、知名度や発信力が手堅い支持層に閉じてしまう状況があるからでしょう。 伊佐進一さんによる維新の社会保障改革案への反論などを見ても、ものすごくオーソドックスかつ丁寧に提言内容の矛盾を突き、維新の考える低負担低福祉と一線を画した高負担高福祉の政策主張と現実的対応について手堅くまとめているのに、真面目過ぎて本来届くべき人に届いていないのかなとも思います。 そして、昨今では公明党代表の山口那津男さんのご勇退と、石井啓一さんへのスイッチも取り沙汰されています。ただ、そうはいかんざき以降一般の有権者が、親しみやすかったり、面白かったり、分かりやすかったりといった、真面目さや堅実さとは異なるフックを欠いてしまうと固有の支持層以外の広がりを欠いてしまうのではないかと危惧します。 また、去年は自民党都連の故・高島直樹さんや東京12区支部長になった高木啓さんらが派手にやらかした一件では、自公連立の根幹が揺らぎかねない問題へと発展してしまいました。政治への信頼を取り戻すための政治資金規正法の改正議論で自民党と公明党との間に考え方の違いが浮き彫りになるなど、24年も一緒に頑張っているとやっぱりどこかしらパイプ役や調整弁の損耗が著しくなるものなのかなと思わないでもありません。 見ている側からしますと、やはり公明党もまた岐路に立っていて、述べた通りグランドデザインを大きく掲げて国民に希望を抱いていただける政策を分かりやすく大きく述べていくか、または本来の公明党の役割は大衆の生活に根差した地道な地方議員の活動に集約して国政に関わる部分は落としどころを考えながら徐々に縮小するかの二択になるんじゃないかと感じます。 正直考えどころだと思いますし、しかし公明党には担うべき何かがまだまだものすごくある団体であることは間違いないとも感じていますので、節目を受け身で迎えるのではなく蛮族のように仕掛けることもまた道なのではないかなあと信じる次第です。 思わずいっぱい書いちゃいましたが、こちらからは以上です。
月刊『公明』24年6月号に「退縮する地方で取り組む撤退戦」について寄稿しました|山本一郎(やまもといちろう)
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こはく雪積れ積れ
友人が結構復調してきているらしい。喜ばしい。私からはとくに伝えることがないので個人的なメッセージを送ってはいないが、周りの話を聞くとメッセージもスムーズなやり取りができるようで、とてもよかったと思う。私も何か言葉をかけたいような気はするが、こちらからは本当になんの報告もない。ただそのまま順然と回復していきますように、というのは皆が願っていることで、わざわざ私が個人的に伝えることでもないような気がする。そのような元気が自分にないだけの気もする。ともかく良い事です。本当に、もっと幸せになってから死んでもらわなきゃ困る。
今日は友人(こうこさん)の誕生日「苦肉の日」だった。昨夜21時半頃からもくり(通話スペース)を立てて、23:30になったらこうこさんお誕生日カウントダウン会場になりますと栞に書いておいた。そして集まった4人で(当然本人は寝ているので不在)30分前からカウントし、15秒前から数を数え、0時になった瞬間ハッピーバースデーを歌った。その後はもくりのタイトルが「こうこさん誕生日おめでとう」になった。本人は不在だが、祝いが届けばいいなと思い、その様子を今日報告した(やはり本人はまったく感知していなかった)。こうこさんには今年はかなりの、いわゆるキャ��グッズをプレゼントとして送った(去年は洒落たボディソープなどを送った)。チェンソーマンとA3!のグッズ詰め合わせと、最近こうこさんがステッカー収集にはまっているので、ロルバーンの横型ノートと、その表紙につける透明カバー。このカバーに(もちろん本体にでもいい)たくさんステッカーを貼ってくれというわけだ。カバーを掛け変えれば別のステッカーの表紙にもなるし、ノートを使い終わっても、また別のノートにステッカー付きカバーを使いまわせる。無限大の夢が詰まった商品だ。すごい。あとかわいいジェットストリームがあったのでそれもおまけで付けた。友人のことがわかっていると、好みにジャストなプレゼントを送ることができていいな、と思った。無事に喜んでもらうことができ、安堵。こうこさん達の界隈というか、周辺では、誕生日付近になるとAmazonのほしい物リストを公開して、本を贈り合うのが慣例になっている。私も1冊送った(川端康成の異相短篇集)。明日着くと思う。みな誕生日前や誕生日後にもばらばらと届くように注文するので、誕生月は本が不意に降ってくる月になるらしく、お祭りだなあと思った。私は欲しい本があったらすぐ買ってしまうので、そういった催しには縁がない。また、読むべき本が意図せず増えてしまうのも苦手だ。本が読める人はすごいと思う。どんどん買ったり借りたりしてぐんぐん読んでいく。脳が強くてつねに空き容量があるのだなあと感動する。私は脳が貧弱で物語飽和症であるため、フィクションを摂取できる量が少ない。買う本はほとんど小説ではない本で、それさえも読むのが遅いし、積む。本日の時点で机の横に置いてある「今読んでいる本」を写真に撮ったものがたまたまあったので貼る。

資本主義、民主主義、キリスト教、アメリカ、というのが相変わらず私の興味の中心だ。若い頃はもっと日本の歴史や思想にも興味があったはずだが、今はそのあたりへの情熱が薄れている。ミュージカル「ラグタイム」のパンフレットにもまだ目を通しきっていない。アメリカの近代というものに、私たち日本の今が凝縮されている気がして、ついそのような本を手に取る。ベスト・オブ・エネミーズの上映を友人(ことこさん)に薦められたのはたまたまだが、あまりにも私向きのコンテンツだった。舞台って、ミュージカルと違って歌のうまさを気にせずフィクションの世界にのめり込めるからいいな、ということに気づいた。そして英語を聞くのも心地いいなと思ったので、最近は数人の友人にアマプラで見れる洋画を沢山教えてもらった。物語としてまとまった英語が聞こえてくるのは楽しいな、脈絡がある知らない言語っていいな、と思ったので、内容が見えなくても流しておくくらいはしたい。寝たまま映画や動画を見るためにiPadを買ってはどうか、ということをいよいよ本格的に考えている。
数日前に、正式に退職した。次職も決まっていない。なんとなく応募してはいるが、たぶん決まらないだろうと思う。色んな人が私に仕事を辞めるように言ったし、そもそもどうせ続かないということもよく言われたし、その人たちの思惑通りというか予想通りになり、私は悔しいような気持ちもあるが、ただ、また敗けたのか、と思っている。私が働くことを無駄だと思う人、そんなことに意味は無いと思う人、私が働くと都合が悪い人、色々いる。私は前職の仕事も同僚も本当に好きだったので、退職したことはかなり悲しい。しかし、体が動かないのであれば、もう仕方がなく、私の「失脚」を望む人々の希望通りになった。それはそれで少し落ち着いた気持ちになった面もある。心配して言ってくれているとか、現実を見て言ってくれているとか、そういうことは頭ではわかっているが、私は単に仕事がしたくて仕事が好きなのであり、それを否定してくるということは私に死ね、今すぐ自殺しろと言っているのと同義である。と私の心は捉えている。これはもちろん拗ねているのだと思う。そのような捉え方はよくないし、幼稚だと思う。しかし、それでも、なぜ、私のやりたいことを応援してくれないのか、なぜ、最初からできない、やるべきではないと言われなければならないのか、そんなに私に「生きない」でほしいのか、と感じる心の動きは自分で押さえられるものではなく、自然発生である。私にとって生きることは働くことであり、働けなくなったら死ぬしかないと思っている。実際この世はそうだと思うし、そう思うことでしか生きていけないような個人的な事情が私にはある。そのことはカウンセリングでの先生との対話を通して整理していくべき課題だと思う。
仕事を辞めたことで、うつ状態になる確率が急上昇し、ふとした瞬間に、あ、ここで落ちたらもううつになるな、という「手前」を感じる。実際ほとんどうつ状態で寝ているし、希死念慮と自殺企図が一日おきに発生している。無気力はややましになったが、その代わりに、という感じだ。そのストレスにより、偏頭痛が頻発し、予防の注射を打ってもなお、毎日偏頭痛薬を飲んでいる。酷い時は朝も夕も飲んでいる。自炊する気力もきっかけもうしなって、とりあえずロッテリアをウーバーイーツで頼み続けているため、明らかにまた太ってしまった。ウエスト部分がきついと吐き気も生じやすい。まずロッテリアを食べることを辞めるべきだが、これも正気を保つひとつの手段になってしまっている。
なかなか正気を保てない。寝ているか、食べているか、余力があれば友人と通話する。さらに無理をして外出、勉強ができるときもある。今日はほとんど何もできなかったが、��日が期限の書類を速達で出すことができた。今日の成果はそれのみ。英語の勉強をしたかったなと思う。大澤真幸の『資本主義〜』も早く読み終わりたいのだが、段々話のレベルが上がってきて、そこまで早くは読み進められない(やっと第3章:増殖する知、勢いがどんどん増していき面白い)。マイケル・サンデルの『実力も運のうち』も、西洋思想やキリスト教にかなり突っ込んだ内容のようだったので気になって文庫版を結局買ってしまった。諏訪部浩一の『現代アメリカ小説探訪』も、かなり歴史の補助線として有難い。教科書的に(体系的に)アメリカ史を学んだことがあるわけではないので、独自の個別講義から得た知識で穴埋めしていっている感はぬぐえないが、このようなやり方も面白いなと思う。日本の歴史は小学校から徹底的に外枠から内実の順に埋めさせられたが、世界史(外国史)の知識は今のところほぼないので、内実から外枠に向かっている。果たして自分でアウトラインを説明できるほどになるのかはわからないが、できるようになりたいとは思う。しかしアメリカは広すぎて、地理知識が日本史の比ではない。連邦国家ということがそもそもアメリカの特徴的なすがたであるので、アメリカ史というのは、12から15くらいの国の歴史を学ぶ感覚になっている。ざっくりと北部と南部、西海岸、東海岸、と思ってはいるが、とにかく都市や州ご��にルーツの違う人達だし、ルーツの意識とは別に「アメリカ人」として育った意識もまた別にあり、縦にも横にも重層的な国だと思う。しかもこれが近代になってから作られた人工的な国なのだから、びっくりしてしまう。それでも現代日本人である私には、明治以前の社会よりは、アメリカ社会のほうがまだ感覚が近しい。そこにはキリスト教という絶対的な断絶があるけれども、その断絶を眺める作業はかなり楽しい。その仕組みさえわかれば、あとはだいたい私たちと同じ、と思えるので(というのも落とし穴だと思うが)200年前のことでも理解しやすい。日本だと、200年前の人というのは、その感覚をほとんど想像できない。同じ列島に住んではいるが異国の人だと思う、旧日本人は。それでも文化や宗教への感覚がほぼ変わっていない点があると思うので(勉強不足のため曖昧な表現だが)、前近代の感覚さえ掴めれば、霊的な部分の繋がりには、キリスト教圏ほどの隔たりはないように思える。
紀伊国屋ホールで「燕のいる駅」という芝居を見た。和田雅成さんが主演のため、友人(となりさん。和田さんの長年の、かなり前線のファン)が観に行っているのを見ていいな、と思っていたら控えめに薦められたので、そのままチケットを取り、話をした翌日、つまり昨日見に行った。帰宅しながらとなりさんにLINEで感想をぽつぽつ送っているうち、2人ともすごい熱量の文章を送りあってしまい、ひとつの演劇作品について、こんなにも自由度の高い読み取り方ができてすごいなと思った。私の感じたことは実はあまりなくて、ただ芝居のテンポやリズムがおもしろくて、そういうのがいいな、と思った。となりさんは脚本(物語)についてもかなり考えていて、私はそこまで深く考えて見ていなかったので、ほんとうに、観劇や読書というのは、受け手の人生体験に依るところが大きいのだなと改めて思った。二次創作の恋愛中心の小説でさえ、やはり読んでいる時は自分の恋愛観や人間関係の記憶が読む時の手すりになっている気がするし、人の数だけ物語がある。受け手が創造しているんだよな、と思う。私はこの、同じものを見たり読んだりしても、頭の中には違う物語が残っている現象というのがとても好きである。受け取り手がいて初めて物語は出来上がると思う。もちろん、書いている人も書きながら読んでいるので、書き上がった時点ですでに物語が1つできている。みんなそうやって、物語を読みながら、自分の人生に整理をつけて生きていて、偉いなと思う。私は読むことによって自分の人生の記憶と向き合うことを避けているのかもしれない。それはあまりにも大きな消耗を伴うため。読んでも読んでもすり減らないくらいに強くなりたいが、それはなろうと思ってなれるものなのだろうか。
2023.9.29
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【日記】
車窓から不二見。久々。 やや日が過ぎたけども先週末、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が退任されると知り、最終講義を聴きに行った。気になっていた企画展「芥川龍之介と美の世界」(〜4/7)に併せて。ご在職46年中、私が交流いただいたのは最後のほんの数年。でも、作品に真剣に向き合ってくださり、時にさりげなく楔のような言葉を頂き、とてもお世話に(は変だな)励みに、刺激になったから。やや急で、とんぼ返りしかできないけども、Tさんが、快く車を出してくれた。よき一日だった。
講演テーマは「三角世界へのいざない」 漱石の『草枕』の一節 “してみると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう”(英題 The three-cornered worldの元となった文)に拠る。 美術館の歩み、お仕事のエピソード、美術人達との熱い交流が、(多分ほんのピックアップで)語られ、最後は、同館の旧鎌倉館で大きな個展が開催された、木口木版画家柄��齊さんの小説作品『ロンド』のこと。締めに、その作中音楽に絡めて、グールドの弾くバッハのピアコンから一曲流した。目の醒めるような、イ長調アレグロのメロディを、目をつぶって聴く。途中ちょっと薄目を開けたら、少し下を向いて瞑想するような表情の水沢さんが見えた。同時代の、また時代を超えた、音楽家たちや美術人たちの交歓が、伝わってくるような4分間。曲が終わると自然と拍手が起こり、その中を笑顔で退場された。
イサム・ノグチのこけしと、石人のいる中庭には旧知の方々や、美術館ゆかりの方々が続々集まってきていた。それぞれに、三角な世界をもつ人たちが、引き寄せられるように。そこに立つ自分も、いつしか、一角を磨滅させつつあるんだろうか。どこか惰性で四角に戻ろうとする力と、日々葛藤しながらも。水沢さんにせめて対面でご挨拶し、退散する。ここにいた人たちにはきっとまた会えると思った。三角のうちに住めたなら。
Tさんの車に足早に乗り込み、Youtubeで拾ったグールドをかけて、無駄なことをゆるゆる喋りながら帰った。 「めちゃくちゃ天気良かったし」「混んでたね美術館も」「情報量多すぎたけど面白かった」「漱石は字より絵がうまい」「芥川のは友達の字に似てた」「"歯車"タイトル変えすぎ」「河童グッズ貰えるやつやるの忘れた」「ともかく猫がかわいい」「凹んでもまだ死にたいとは思わない」「いい雰囲気だったー穏やかで」「こんな公立美術館ほかにあるのかな」... 不二山が見え始めてからは、無言で帰った。
思えば、神奈川には縁が浅くはない。親しい友人が何人か住んでいたり、初めて木口木版とビュランに触れたのが藤沢のリン版画工房さんだったり、私自身、幼少期(小学校入学以前)は横浜に住んでいた。緑区(いまは青葉区らしい)の父の社宅。私の関西弁が薄いのは、一つにはそのためだ。でも、それ抜きにしても、改めて、たいせつな場所ができた感じがして嬉しい。(画像の冊子とプリントは、当日資料ではありません。)
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【下古町・本町エリア】
鍋茶屋


1846年から創業している料亭です。入り口に松の木が植えられており、白壁で囲まれた特徴的な外装をしています。様々な繁華街の道に面した位置にあり、店内外にて日本ならではの雰囲気を楽しめます。木造三階建ての造りになっており、平成13年には文化庁の「保存文化遺産」に登録されました。
さわ山

もち米、飯米などを用いたお団子や羊羹などを中心に販売している老舗和菓子店です。一つ一つの和菓子が手作りで作られており、形も味もとても良質です。お手頃な価格で美味し��頂けるため、自分のおやつ用に購入したり、家族や友人への手土産として購入するのもおすすめです。
金刀比羅神社


救いの神とされる金比羅大権現を祀る神社です。金比羅大権現(別名:金刀比羅大神、大物主大神)とは、航海の安全や豊漁祈願、五穀豊穣、商売繁昌、病気平癒などに御利益のある神様とされています。お守りの販売もしているため、一度立ち寄ってみるのもおすすめです。
旧小澤家住宅


江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家・小澤家の店舗兼住宅です。歴史ある建造物であるため新潟市の文化財になっています。基本的に月曜日や休日の翌日、年末年始は休館していますが、それ以外であれば入館料200円ほどで見学することが可能です。
新潟絵屋

様々な美術品を展示しているギャラリーです。大正期の町屋を改装した建物になっており、多様な作品や新潟内で配布されているパンフレット等をまとめた空間もあるため、とても面白いです。また、展示されている作品を購入することも可能なので気に入った作品を見つけに定期的��回るのも良いかもしれません。
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近代日本の芸術家とその邸宅を設計した建築家
※以前の記事に不具合があった為、再掲。 建築家も芸術家の内ではあるが、 ここでは画家や作家の総称として使わせていただく。
先日鑑賞した東郷青児展では石本喜久二が、 また吉田博展では渡辺仁がその邸宅設計に携わっているのを知った。 このように有名建築家が芸術家の邸宅を手掛けた例は いったいどれくらいあるのだろうか。ざっと調べたのが以下の通り。 ▼有名建築家が設計した芸術家の邸宅
太田喜二郎邸 藤井厚二設計 大正13 京都市上京区 アトリエは太田の設計で採光に拘った作り 東郷青児邸 石本喜久二設計 昭和6 世田谷区代沢 現存せず インターナショナルスタイルの「白い家」 吉田博邸 渡辺仁設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず ステンドグラスなどの内装は吉田もデザイン 三岸好太郎 山脇巌設計 昭和9 中野区上鷺宮 バウハウスに学んだ山脇のモダニズム建築は 近隣から「お豆腐の家」と呼ばれていた 安井曾太郎邸 山口文象設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず アトリエのみ 設計にあたり多くの注文があり苦心した様子 前田青邨邸 山口文象設計 昭和11 鎌倉市山ノ内 純和風建築 山奥の寺院の中にあり非公開だが現存する 林芙美子邸 山口文象設計 昭和16 淀橋区下落合 現・林芙美子記念館 数寄屋造の和風建築 林は新居建設の為に建築を学んだ 上村松園邸 西澤文隆設計(坂倉準三建築研究所) 昭和22 奈良市山陵町 現・唳禽荘(れいきんそう) 岡本太郎邸 坂倉準三設計 昭和28 港区南青山 現・岡本太郎記念館 岡本と坂倉はパリ留学中より親交があり、その後も協同 吉村益信邸 磯崎新設計 昭和32 新宿区百人町 住居兼アトリエ 前衛芸術集団「ネオダダ」の拠点となった 通称・新宿ホワイトハウス 現・Chim↑Pomアトリエ 東山魁夷邸 吉村順三設計 昭和28 千葉県市川市 東山の依頼に基づいた簡素な住居 猪熊弦一郎邸 吉村順三設計 昭和46 大田区田園調布 RC造3階建ての二世帯住宅 非公開 赤瀬川原平邸 藤森照信設計 平成9 町田市玉川学園 通称・ニラハウス 竣工時は屋根にニラがなびいていた その他、数多くの日本画家の邸宅・画室の設計に携わっているのが 吉田五十八で、近代数寄屋建築が日本画の制作環境に馴染み、 好まれていた事が伺える。 ▼吉田五十八が設計した邸宅・画室
鏑木清方邸 昭和7 牛込矢来町 旧居 現存せず 昭和29 鎌倉市雪ノ下 新居に五十八が設計した画室を再建 現・鏑木清方記念美術館 小林古径邸 昭和9 大田区南馬込 平成5解体 新潟県上越市に移築 現・小林古径記念美術館 川合玉堂邸 昭和11 新宿区牛込若宮町 現存せず 山川秀峰邸 昭和11 品川区下大崎 画室のみ 現存せず 昭和18 中郡二宮町 別邸 現・旧山川秀峰・方夫邸 山口蓬春邸 昭和14 世田谷区祖師谷 旧居 現存せず 昭和23 三浦郡葉山町一色 画室など増改築 現・山口蓬春記念館(改修は大江匡) 梅原龍三郎邸 昭和27 新宿区市谷加賀町 画室のみ 山梨県清春芸術村に移築 昭和33 同地に新居を建設 その後は不明 吉屋信子邸 昭和37 鎌倉市長谷 現・吉屋信子記念館
ご覧の通り芸術家と建築家の結び付きは強く、 古くはジョサイア・コンドルが河鍋暁斎に師事して日本画を学んでいるが、 もしもコンドルが暁斎邸を設計していたら…なんて想像するのも一興哉。 コンドルの例は兎も角、公共建築に於いては両者の協同も多い。 (例)丹下健三・黒川紀章・谷口吉郎 などの建築家と 岡本太郎・猪熊弦一郎・イサム・ノグチ などの芸術家
元々建築デザイナーも絵描きのうちで、図案や家具、 公共デザインを手掛ける建築家も少なくはないし、 たまたま創作のジャンルが異なっただけのことなのかもしれない。 モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエは優れた画家でもあった。 その一方で、芸術家が自ら建築設計してしまう例もある。 ▼芸術家が自ら建築設計
岡倉天心 明治38 北茨城市大津町五浦 観瀾亭と称する六角堂を設計 東日本大震災で起きた津波により消失 その後再建 橋本関雪 大正3 - 5 京都市左京区 自邸・画室・庭園を設計 現・白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪記念館 画室は存古楼(ぞんころう)と名付けられた 昭和6 - 7 持仏堂・茶室群を設計 庭園はその後も拡張される 横山大観 大正8 台東区池之端 自邸を設計 東京大空襲で消失 昭和29 同地に新居再建 内装も設計 現・横山大観記念館 旧宅及び庭園が国の史跡及び名勝に指定されている 坪内逍遥 大正9 熱海市水口町 自邸を設計 現・双柿舎(そうししゃ) 山元春挙 大正10 大津市中庄 琵琶湖畔に別邸を設計 現・記恩寺 蘆花浅水荘(きおんじ ろかせんすいそう) 安田靫彦 大正11 三島郡出雲崎町 良寛堂を設計 昭和3 中郡大磯町 自邸を設計 現存せず 昭和6 中郡大磯町 安田善次郎別邸(寿楽庵)庭園内 経蔵・持仏堂・平唐門等を設計 昭和9 伊豆市修善寺 新井旅館 天平大浴堂・花の棟・吉野の棟・観音堂を設計 朝倉文夫 昭和3 - 10 台東区谷中 自邸・アトリエを設計 8回に及ぶ増改築と7年の歳月を掛けて完成した 現・朝倉彫塑館 中庭と屋上庭園が国の名勝に指定されている 柳宗悦 昭和10 目黒区駒場 栃木の農家から長屋門を移築し自邸を設計 昭和11 民衆的工芸品展示の為、同地に日本民藝館を設計 河井寬次郎 昭和12 京都市東山区 自邸兼仕事場を設計 鐘溪窯と名付けた登り窯を付設 現・河井寬次郎記念館 川端龍子 昭和13 大田区中央 画室を設計 昭和23 - 29 同地に自邸を設計 増改築を経て完成 昭和35 伊豆市修善寺 新井旅館 改装工事監修・玄関を設計 昭和37 大田区中央 自作展示の為、龍子記念館を設計 堂本印象 昭和41 京都市北区 自作展示の為、堂本印象美術館を設計
芸術家の美意識が詰まった建築は、個性的でとても興味深い。 素材や意匠など細部に渡って拘りが見え、空間表現も巧みだ。 日本画家の巨匠である安田靫彦と川端龍子は自邸以外の設計も手掛けており 両者の建築コラボレーションが伊豆修善寺・新井旅館を改装する際に、 時を経て実現している。
20220108<加筆修正> 日本画家 橋本関雪・山元春挙を追加
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2020.01.24
23日の最終電車で羽田空港へ。いつも使っているLCCのpeach5:55発台湾桃園空港行きの便に乗るために。6回目の台湾。今回は過去1寝れなくて一緒にいた友人とずっとお喋りしてしまった。申し訳ない。前々回の台湾旅行で私が甘栗をあげたのを覚えていたらしく、お返しに甘栗もらった。甘栗は裏切らない、美味しい。それとその友人はつい先日までアメリカ留学していたのでそのお土産ももらった。真夜中にバクバク食べた。写真はもらった甘栗。

今回の旅行で初めてマクラを忘れた(機内とかで使う首に巻くタイプのアレ)。当然機内でも寝れず、さらには過去1飛行機が揺れて死を覚悟した。乗り物揺れに弱いので当然グロッキーに。さらには降りてからも気圧で耳がおかしいまま治らず。さらのさらには今回の旅行前から徹夜続きで風邪も引いていたので旅行としては過去最悪の体調。でも大好きな台湾に降り立てば治ると思った(ガチで)。結果的には治らなかったけど。
桃園空港に着いたら早速新幹線で台南へ。今回の旅行、何が特殊って旧正月とだだ被りした。まさか1月で旧正月と被るなんて1mmも思ってなくてろくに調べなかった結果がこれ。実はこの期間が旧正月だと気付いたのは、この旅行の4日前の渋谷のライブハウスだったんだけれど、またその話はいつか書く。
ということで、旧正月の新幹線は座れないくらい混んでいた。行儀が悪いけれど、新幹線の通路に座ってコンビニで買った台湾っぽいおにぎりを食べた。何味かは忘れた。いつもはkkdayというサイトで新幹線の予約をしているんだけれど、今回は台北ナビというサイトで3日間周遊パスを買った。1人7,480円。今回はkkdayよりちょっとだけ安かったんだと思う。
13:30くらいに新幹線の高鉄台南駅に着いて、市内の台南駅についたのが14:00過ぎとか。タクシーでホテルへ。今回は「U.I.J HOTEL&HOSTEL」に泊まりました。いつも使っているホテル予約サイトのagodaで評価が良かったのと、POPEYEに載っていたので。
タクシーの運転手さんに住所見せて連れて行ってもらったんだけど、めちゃくちゃ綺麗な建物の前で降ろされて「ここじゃない」と直感的に思い、付近をウロウロ(普段ドミトリーしか泊まらないし、今回もドミトリーを予約したので)。ウロウロした結果、タクシーの運転手さんが連れてきてくれたところで合っていた。信用しなくてごめんね、運転手さん。
このホテル、ルームキーと一緒に台湾に関する本(観光本だったり、雑貨の本だったり)を貸してくれる。これがめっちゃ良い!私は川島小鳥さんが書いた台南の本を渡された。タイミングよく、私が欲しい本だったので最高だと思った。ドミトリー自体もめっちゃ綺麗だし、シャワールームのアメニティも充実している。確かドミトリーで1泊2500円とかだった気がする。最高。

ロビー綺麗すぎて「ここなわけないよね、ハハ」って言ってた(多分)

テーブル、椅子もシンプルでおしゃれ。欲しい。あとこの仕切りの布が学生カバンとか作っている台南のお店の布だったのもテンション上がった。ちょっと硬い布。みんな好きなタイプの(知らないけど)。「合成帆布行」というお店の布です。

共有スペース。綺麗すぎて1人でウロウロした。
ドミトリーに荷物を置いたら街へ繰り出す。U.I.Jの真裏に「台南市立美術館二館」があって、私が大好きな建物の1つ。坂茂という日本の建築家が設計した美術館。初めて行った時は1人で感動しちゃったし、多分2時間くらいいた。坂茂が好きになったきっかけの建物。今回は中には入らず、外のテラスだけぐるぐるした。ここからは台南の街並みが一望できて最高なの!

上から

フォントもかわいい。間違って白黒フィルムで撮っていたので前回の台南旅行で撮ったカラー写真も載せます。

そのあとは「林百貨」でお菓子を買った。丸くて周りがパリパリで中が空洞で赤字で林って書いてあるやつ。名前はわからない。ちなみに林百貨も建物最高なの…日本人が創立したデパートで建築家も日本人(梅澤捨次郎)。鉄筋コンクリのレトロ感が素晴らしいです。推しはエレベーターで���。めっちゃ混んでるけど。結構歩いて疲れたので2階(3階かも)のカフェで休憩。パイナップルケーキを食べた気がする。(曖昧)

そのあとは街をブラブラして珍煮丹のタピオカを飲んだ。前のバイト先の人にオススメされたていたんだけど、やはり美味しかった。

あとは私が行きたい雑貨屋さんがあったので着いてきてもらった。実は前回も行こうと思ったお店なんだけれど、あまりに立地がわからなさすぎて諦めてしまったので今回こそは、と。これもPOPEYEに載ってた「香蘭デジタルパーマ」というお店。今回も迷った!なんかアパート(マンション?)の一室みたいなところにあって、暗いしちょっとわかりにくい。でも置いてあるものはどストライクに可愛かった。キーホルダー2つとTシャツ買いました。シール5枚くらいくれた。あとこのお店猫いる。かわいい。無理。また来る。


お店のあるアパートはこんな感じ。普通に家。

そのあとは大東夜市に。旧正月だから屋台が1/4くらいしかない。スカスカ。
満足できず夜市はしご。小北新成功夜市へ。ここでは牡蠣オムレツ食べました。美味しい。台南は海鮮料理がたくさんで美味しい!

このあと揚げ物も食べたけど写真がない。
帰宅して即寝た。22:00とかだった気がする。
全然関係ないけど、この記事は踊ってばかりの国のアルバム「君のために生きていくね」をBGMに書きました。
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生���残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げ��天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部��に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月26日(土) #先勝(癸未) 旧暦 11/3 月齢 2.2 年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 玄関ドアに郵便ポスト受口があるじゃ ないですか✋共同住宅にはどのお宅 にでもありますよね✋個人宅の豪邸 にお住いの方なら、別に立派なポスト があると思いますが💦ここに入居を した時に前住居人がポスト口にテープで 塞いで「投函お断り!」の張り紙も してありました😅💦多分、必要ない チラシ投函で困ってるんだろうと思い 暫くは、そのままにして置いたので すが、私の場合Amazonやら荷物とか あるし不在の場合に不在伝票やらが 入れられないし郵便だってあると思 うしで、剥がしてしまった🤣😆🤣 . したら、案の定に、ほぼ毎日の様に 見たくもないチラシが凄いわ😅💦捨て りゃあ良いだろうと思うでしょうけ ど、あまりにも多いと意外に手間✋ その中で今朝は、夕べに投函された チラシを珍しく眺めて居たら不動産の 分譲住宅の金額に👀が飛び出た🚀 月々均等払いで36,676円で4LDプラス ってのが買えるって1,499万円ダッテw 熊本って家が安いんですねって驚愕w しかも、頭金なしって😅💦なんだろ コレ!買えちゃうじゃないって一瞬👀 思ったけど、40年ローンって💦そんな に生きれないし働けんだろうと⤵️⤵️⤵️ . せめて20年早ければっ東京じゃなく ても、ここで良いかなって思ったw そんな今朝の妄想ですわ🤣😆🤣 でも、小金持ちの方なら現金でも 行けちゃうでしょこれだったら... . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋️はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #いいブロッコリーの日. 石川県白山市に本社を置き、🥦をはじめとしてさまざまな農産物の生産および販売を手がける有限会社安井ファームが制定。 記念日をきっかけに🥦の消費拡大を促進することが目的。 好き嫌いが分かれがちなブロッコリーだが、好きな人にはもちろんのこと、苦手な人にも食べやすいレシピを発信するなど、🥦 の美味しさや良さを知ってもらい、実際に食べてもらいたいという想いが込められている。 日付は11と26で「いい(11)ブロ(26)ッコリー」と読む語呂合わせから。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 寝坊は、もっての他とされますね😅💦 . . #鉄分の日. . #ポリフェノールの日. . #いいフォローの日. . #いい風呂の日. . #ペンの日. . #プロ野球2リーグ制発足. . #いいチームの日. . #いい付録の日. . #いいプルーンの日. . #西鉄クリッパース結成(現在の#西武ライオンズ) 1949(昭和24)年11月26日(土) 、西鉄クリッパース(現在の埼玉西武ライオンズ)設立。 . . #ツローの日(毎月26日). #ダブルソフトでワンダブル月間. #プルーンの日(毎月26日). #ふろの日(毎月26日). #生命保険見直し月間(1日から30日). . . #モンゴル独立記念日. . . ■本日の成句■. #一時違えば三里の遅れ(ヒトトキチガエバサンリノオクレ). 【意味】 少しの間でもぐずぐずしていると、たちまち大きな差が開くと云う事。 . . 1976(昭和51)年11月26日(金)友引. #光邦(#みつくに、宮澤 光邦《#みやざわみつくに》) 【ディスクジョッキー、ラジオパーソナリティ】 〔東京都北区〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/ClZirXJSjH5HuOnLT6_utReFrzVc-D85NPYWVs0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先勝#いいブロッコリーの日#鉄分の日#ポリフェノールの日#いいフォローの日#いい風呂の日#ペンの日#プロ野球2リーグ制発足#いいチームの日#いい付録の日#いいプルーンの日#西鉄クリッパース結成#西武ライオンズ#ツローの日#ダブルソフトでワンダブル月間#プルーンの日#ふろの日#生命保険見直し月間#モンゴル独立記念日#一時違えば三里の遅れ#光邦#みつくに#みやざわみつくに
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野澤ゼミの休日 in中目黒
こんにちは!野澤ゼミ3期生のハナマルです!
いつもはモビリティ探索日記を執筆しているのですが、
今回のブログでは、先日先輩と同期の4人で行った
都市デザイン班 自主FW in中目黒について
取り上げたいと思います!
僕が今回担当するのは、
「目黒川道プロジェクト」です!

このブログは
目黒川道プロジェクトとは?
エリアマネジメントとは?
実際に行ってみて感じたこと
の流れで進めていきたいと思います!
ぜひ少し長いとは思いますが最後まで読んでいただけると嬉しいです!!!
1.目黒川道プロジェクトとは?

まず、今回何を見てきたのか、、、
それをお伝えしないことには始まりません(笑)
私たちが今回見てきたのは、
目黒川沿いの区道を通行止めにして行われた、
「目黒川道プロジェクト」です!
あまり文章で説明するのも読みにくいと思うので、
概要を図にしてお伝えしたいと思います。
エリアについて中目黒に行ったことのある人向けにお伝えすると、、、
「中目黒駅から目黒川の桜を見に行くときに一番初めに見える橋のあたり」
といえば伝わるでしょうか…??
実にざっくりとしたまとめになってしまっていますが、
もう少しよく知りたいという方がいれば、こちらをクリックしてみてください!

この目黒川道プロジェクトは、道路空間実証実験としてエリアマネジメントの一環として行われており、
また、将来的に目黒川沿い一体となった事業にするためのタクティカルアーバニズムとしての取り組みとも言えます。
ここで二つ、エリアマネジメントとタクティカルアーバニズムという2つの用語が出てきたので、
ゼミ試験を控えた2年生のためにも簡単に説明します。
詳しい内容はもうすこしお待ちいただけると嬉しいです。
こういう時は国土交通省の資料さんに聞いてみましょう(笑)
エリアマネジメントとは…
地域における良好な環境や地域の価値を維持・向上させるための、住民・事業主・地権者等による主体的な取り組み
※エリアマネジメント推進マニュアル(2008年)より引用
※エリアマネジメントについてはこの後詳しく書いたのでもう少し待ってください(笑)
次に、タクティカルアーバ��ズムについて説明します!
タクティカルアーバニズムとは…
仮説空間を用いて短期的なアクションを起こしながら長期的な街づくりを行うアプローチのこと
※https://magazine.tempoly.jp/storedevelopment/tacticalurbanizm-kobayashi/
もう少し詳しく説明すると、、、
一度に計画・整備・運営していくのではなく、
小規模な実証実験➡中期間プロジェクト(数か月程度)➡本格整備
というようにフェーズに分けて進め、
各フェーズにおいて不足点や課題を発見、改善しながら
最終的にエリアとの相性や実態に即したまちづくりを行っていこうとするものです。
今回のプロジェクトにおいては、最終的に目黒川沿いの区道全体で行おうとするものに対し、それの小規模な実証実験(2日間)という位置づけであるということがわかります。

実際に、アンケート調査やカメラ設置による人流調査などが行われており、データに基づいた今回のプロジェクトの分析が行われていくものと思われます!

ちなみにしっかりとアンケート調査に協力させていただきました!
※滞在の目的:現地調査・フィールドワークとちゃんと回答してきました
むしろ野澤ゼミ生が逆質問する場面もありましたね(笑)
今回の実証実験のあと、長期的にはこのエリア一体の区道にて同様の取り組みが行われるのではないか?と思っています。
では、ここからはエリアマネジメントについて説明していきたいと思います!
2.エリアマネジメントとは?
この章では、
①エリアマネジメントとは
②誰が運営するの?
③事業資金はどうするの?
の大きく3点お伝えしていきます。
昨今、SDGsであったり、成熟型社会の進展に伴い、エリアの開発だけでなく、魅力あるエリアづくりを通して建物やエリア全体の価値を絶えず生み出していくエリアの運営が重要視されてきています。
そのような中で、
皆さんも「エリアマネジメント」もしくは「エリマネ」なんて言葉聞いたことあるのではないでしょうか?
エリアマネジメントとは…
地域における良好な環境や地域の価値を維持・向上させるための、住民・事業主・地権者等による主体的な取り組み
※エリアマネジメント推進マニュアル(2008年)より引用
簡単に言えば、まちをつくった後、「育てる」分野がエリアマネジメントということです。
ただ、エリマネといっても領域が幅広いんですよね…
子育てがそれぞれの家庭や育児の目的によって違うように、エリマネも実に多様です。
公共空間の利活用や賑わいの創出はもちろんのこと、地域の魅力の発信や清掃作業などの維持管理も入ります。
何と守備範囲が広い…

ただ、今回のものは写真を見てもらうと、まちの賑わい創出や公共空間(区道)の利活用に該当するエリアマネジメントであるとすぐにわかると思います!
では、このようなエリアマネジメントは誰が運営するのでしょうか?
今回の実証実験は、一般社団法人ナカメエリアマネジメントが行っています。
この(一社)ナカメエリアマネジメントは2013年に発足した中目黒駅周辺地区街づくり協議会を母体としています。
この街づくり協議会は、2016年に「まちなかマナー」を制定し、2019年には「NAKAME KEEPING CLEAN」や「NAKAME TOWN MEETING」を通じて地域の美化に関する課題解決や地域に根ざす人々の交流の場の提供などに取り組んでいます。
そんな多様な分野で街の価値向上に取り組むまちづくり協議会ですが、
このようなエリアマネジメントを運営する団体はどのように事業資金を確保しているのでしょうか?
この街づくり協議会では、目黒川の船入場や旧川の資料館、さらにキッチンカーでの収入を事業資金としているようです。
実際アメリカでは、BID(Business Improvement District)制度によって地権者・事業者が負担金を支払い、それを事業資金とする制度もあります。
この事例では他部門での収益を事業資金とするような形になっています。
このように、日本のエリアマネジメントでは、民間が「独立採算的」に行っている印象を受けます。
なんだか、事業資金の違いは、日本と欧米の交通事業の運営形態の違いと似ている気もしてきました(笑)
日本でも今後エリアマネジメントが加速していく中では、
日本でもその地域を利用する人が負担する形や、MaaSなどを活用した他業種との連携によって付加価値を生み出していく形など
日本版エリマネの収益形態の確立が求められていくのだと感じます…
そんな感じでエリアマネジメントについてはここまでにして
ここからは実際に行ってみて感じたことを書いてみたいと思います!
3.実際に行ってみて感じたこと
実際に行ってみて感じたことは主に3つありました!
・滞在する人々の属性について ・沿道住民への騒音について ・繁忙期(春の花見シーズン)はどうするのか?
・滞在する人々の属性について

私たちが滞在したのは日曜日(2日)午後2時半から3時くらいでした。
約50名程度が滞在しており、結構賑わっているなというのが正直な感想でした。
特に気になったのは、近隣に住むこどもが非常に多かったということです。
実は中目黒駅周辺、あまり公園がないようです。

GoogleMapで検索してみると、このような感じで今回の対象エリアの近辺では大通りを隔てた場所にしかないようでした。
今回のプロジェクトではこのような芝生やベンチが設置されていたことにより、子供が遊ぶ場所として魅力的であったことが要因なのではないかと感じました。
・沿道住民への騒音について
「なぜ区道の中でもここを選定したのだろう…?」と話し合いになり、
「道路沿いに住居が多いから他の場所だと騒音問題あるのでは?」という意見が出ました。

実際、目黒川沿いには1階がショップ、2階以上が住居である建物が多くあります。
今回のエリアでは、商業施設とマンションのすぐそばで行われていましたが、マンションはある程度セットバックしているため、ある程度他のエリアに比べて騒音問題は軽減されるエリアなのではないかと感じました。
このように、住宅地におけるエリアマネジメント(賑わい創出型)では周辺住民への騒音の配慮が重要な視点であると感じました。
「エリアマネジメントはエリアが重要だよね。」
先輩の何気ないこの言葉が結構深く染みました。
・繁忙期はどうするのか?

中目黒は何といっても、春の花見の名所ですよね。
筆者も去年今年と観に行きました。
とにかくとにかく人が多い...そんな印象です。
もし、この取り組みが、周辺区道一体で本格実装されたらどうなってしまうのかなと感じました。
芝生や机を置く分、人流の流れが滞ってしまい、さらに過密になってしまうのではないか、そのように感じました。
区道だけでなく周辺エリア一体となって車両進入禁止などを行い、
交差点でも人が待つことなく動けるよう回遊性をさらに高める対策は必要になると感じました。
今回は僕が書いてきたブログの中でも過去一長文ブログになってしまいました。
長い時間このブログに割いてくださった皆さんに感謝したいと思います。ありがとうございました。
今ゼミ探しをしている2年生にも野澤ゼミの雰囲気が少しでも伝わったのならばうれしいです。ぜひ都市政策に興味を持った人がいれば、instagramやtwitterでも情報発信しているので、こちらもフォローしてもらえると嬉しいです。
それではまたの機会にお会いしましょう。さようなら~
一緒に行った先輩・同期を添えて・・・

この段差ストレートファニチャーみたい・・・(独り言)
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回 銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生

〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館 銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだ���うがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。

〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。

〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動

〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。

〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。

〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域���化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~ 総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
#劇評#レポート#西和賀#地域演劇祭#宮沢賢治#劇団あしぶえ#セロ弾きのゴーシュ#ギンガク#銀河ホール#劇団ぶどう座#劇団田中直樹と仲間たち#植物医師#銀河鉄道の夜#栗田桃子#水仙月の四日#園山土筆#片山幹生
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2022年3月18日

“日本代表のレジェンド”中山雅史、中澤佑二 生登場で熱烈エール 7大会連続のワールドカップ出場決定なるか(ニッポン放送)
W杯懸けた24日の豪州戦 ニッポン放送が生中継 檜原社長「歴史的な試合を中継したい」(スポニチ)
ニッポン放送は18日、定例社長会見をオンラインで開き、24日に行われるサッカーW杯アジア最終予選のオーストラリア戦を実況生中継すると発表した。
勝てば7大会連続のW杯出場が決まる大一番だが、テレビ地上波での放送は予定されていない。檜原麻希社長は「サッカーでの生中継は我々、歴史がありまして、各W杯のドーハの悲劇とかジョホールバルの歓喜というのは中継させていただいていました」と説明。「24日の1試合でW杯への出場が確保されるという歴史的な試合を中継したい、ということでやらせていただきます」と述べた。
映像では、映像配信サービスDAZN(ダゾーン)で有料会員だけが国内で視聴できるという状況。檜原社長は「DAZN様とサッカー協会の間の契約ということ関して何かをしたというわけではなく、ストレートにオファーを出させていただいて調整していただいた」と、中継決定の経緯を説明した。
解説には元日本代表の中沢佑二氏、スポーツライター金子達仁氏を迎え、試合前後とハーフタイムには中山雅史氏が生出演する。実況は大泉健人アナウンサーが務める。放送開始は午後5時半。

81駅のごみ箱撤去へ 廿日市や可部などJR西日本広島支社管内(中国新聞)
駅からごみ箱なくす 管内の6割で実施 JR西日本広島支社(中国新聞 3月21日)
JR西日本広島支社は18日、無人駅を中心に管内81駅のごみ箱を今月末までに撤去すると発表した。ごみ箱を備えている駅の約6割に当たる。「新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえた衛生管理やテロ対策などのため」と説明する。
広島、島根両県の一部、山口県全域の管内全261駅のうち、ごみ箱を備えているのは129駅。撤去するのは山陽線の廿日市、八本松、呉線の坂、小屋浦、可部線の可部、古市橋、芸備線の矢賀、志和口、山口線の湯田温泉、山陰線の幡生など。今月上旬から作業を進めている。
撤去する81駅のうち45駅は広島県内。無人駅や、深夜と早朝に無人となる駅を対象にした。広島駅や横川駅など主要48駅は引き続き設置する。

セルフレジで大量の硬貨を”逆両替” 預入手数料導入後に増加 スーパー「機械止まり大変」(熊本日日新聞)
「店のセルフレジに小銭を大量投入され、機械が止まることが多くて大変」。スーパーに勤める熊本市の30代パート女性から「SNSこちら編集局」(S編)にこんな声が届いた。金融機関が硬貨の大量預け入れに対して相次いで手数料を導入したこともあり、大量の硬貨を紙幣に“逆両替”しようと、持ち込む買い物客が増えているという。
女性は逆両替とみられる現場を目撃。「数十円の買い物なのに、セルフレジに500円玉を1万6千円分(32枚)投入されて機械が止まった」と振り返る。
硬貨の預入手数料は、大手銀行や地方銀行が次々に導入。今年1月には、ゆうちょ銀行も硬貨の枚数に応じて手数料を新設した。
一方、新型コロナ禍の影響もあり、店員を介さずに支払いを済ませるセルフレジや、計算は店員がして、精算は客自身が電子マネーや現金でするセミセルフレジが一気に増えた。
レジがスムーズになった印象だが、熊本県内で複数の店舗を展開するスーパーの男性担当者は「支払い総額や不足額を確認しないまま小銭入れをひっくり返し、全投入される方は少なくない」と困り顔だ。
機械が大量の硬貨を読み取れなかったり、小銭入れの中にあった「異物」も機械に入り込んだりして、復旧に時間を要するケースが後を絶たないという。買い物特典のシールや小さな打ち出の小づち形の金運アップのお守りなどが目立つという。同社のレジ担当女性も「機械が止まること自体は増えている印象だ」と証言した。
いくつかの店を回ると、セルフレジ周辺には「硬貨の大量投入はご遠慮ください」「小銭のお預かりは30枚までとさせていただきます」などの注意書きが見つかった。ただし、いずれもあまり目立たない印象だ。
各店の担当者は「買い物をしていただいている立場なので、支払いについてあまり強くは言えない」と口をそろえる。
もともと貨幣に関する法律は、1種類につき20枚を超える硬貨が使用された場合、店は受け取りを拒否できると定めている。大量の硬貨は計算や保管に手間がかかるためだ。ただし店の了解があれば21枚以上でも受け取ってもらうことは可能だ。
さて、大量の硬貨を扱う場所としてはスーパーやコンビニとともに神社や寺のさい銭箱も思い浮かぶ。浄財といえども金融機関への預け入れには手数料がかかるのか─。さらに取材を進めた。(立石真一)=「さい銭編」へ

アベノマスク 53万枚「消える」 記録と在庫数合わず 厚労相陳謝(毎日新聞)
後藤茂之厚生労働相は18日の参院予��委員会で、政府が大量の在庫を抱える布マスク「アベノマスク」について、約53万枚が記録上配布されていないにもかかわらず、実際の在庫に存在していないことを認めた。後藤氏は「急いで作業を行わなければならない状況だったとはいえ、在庫数にずれが生じていることは大変遺憾だ」と陳謝した。
立憲民主党の田島麻衣子氏が「記録された調達数から配布数を引くと在庫数と合わず、約53万枚が消えている」と指摘した。それに対して後藤氏は「計算上の在庫数よりも実際の在庫数が約53万枚少ないのは事実だ」と説明。「当時は少しでも早く国民にマスクを届けるということで、毎日全国の作業拠点で並行して大量のマスクの納入、梱包(こんぽう)、配送を行い、作業の過程で配送数の集計のずれなどにより���じたと推測される」と釈明した。会計検査院の担当者も「配布数は全ての記録が正確に残されているわけではなかった」と指摘した。
厚労省は約8272万枚の布マスクの在庫を希望した個人や団体に無償で配布する方針だ。後藤氏は「今回の配布作業は、こうしたことが生じないように作業管理を徹底していきたい」と語った。【田中裕之】

第2次大戦の亡霊 ウクライナ危機議論にも影 独(AFPBB)
【3月18日 AFP】イルゼ・ティーレ(Ilse Thiele)さん(85)は最近、ドイツ・ベルリンの自宅で花柄のアームチェアに腰掛けながらテレビを見るたび、心が重くなる。ロシアによるウクライナ侵攻のニュースで、第2次世界大戦(World War II)時代の記憶がよみがえるからだ。
「もちろん、あらゆる記憶が押し寄せてくる」。旧東ドイツの郵便局長だったティーレさんは、ベルリンの駅に次々と到着する疲れ果てた難民の映像を見ながら言った。「かわいそうに。特に子どもが」
1944年末から45年の冬にかけ、寒さと空腹に耐えながら歩いたことを思い出す。母親と共に旧ソ連の侵攻から逃れるため、現在のポーランド南西部ドルヌィシロンスク(Lower Silesia)からドイツ中部テューリンゲン(Thuringia)を目指し、歩いたのだった。
第2次世界大戦は、今もドイツ国民の記憶と世論に大きな影を落としている。ロシアによるウクライナ侵攻に対する考え方や、どのように対応すべきかという政治議論にも影響している。
ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領は、ウクライナ侵攻はロシアの足元で「ジェノサイド(集団殺害)」を計画している「ネオ・ナチ(Neo-Nazi)」侵略者との戦いであると主張した。
プーチン氏は先月、第2次世界大戦中にウクライナの民族主義者やヒトラーの共犯者の懲罰部隊がしたように、ウクライナ軍が「無実の人々の殺害」を企てていると指摘した。
ドイツ市民は、この主張に激しく反発した。
ミュンヘン連邦軍大学(Bundeswehr University)のヘートビヒ・リヒター(Hedwig Richter)教授(近代史)はAFPに対し、プーチン氏は自らの大義を正当化するため、ナチスは「悪の典型」であるという「圧倒的な国際的合意」を利用しようとしたと指摘する。
「ウクライナ大統領がユダヤ人であることを考えると、まったくばかばかしい」「プーチンが自らの政権を正当化するために、ナチス・ドイツ(Nazi)時代のドイツ人による犯罪の記憶を利用したことに、ドイツ人として非常に怒りを感じる」と述べた。
「われわれは今、歴史の継承がいかに重要かということを目撃している。今やロシアは、スターリン時代の犯罪を忘れ、攻撃的な民族主義を鼓舞している」
リヒター氏は、ドイツは自国の負の歴史から「平和を切望するだけではなく、危機においては人権を守るため積極的に防衛すること」を学ばざるを得なかったと語った。
■ヒトラーが絶えず引き合いに
ドイツなど欧州各地で行われたウクライナ侵攻への抗議デモでは、プーチン氏の顔にヒトラーを象徴する口ひげを描き加えた風刺画が使われることも多かった。
強制移住をテーマにした資料館「逃亡・追放・和解(Displacement, Expulsion, Reconciliation)」の代表で、歴史家のグンドラ・バベンダム(Gundula Bavendamm)氏は、ウクライナ侵攻をめぐり、ヒトラーが絶えず引き合いに出されることは問題だと指摘する。
これにより、ロシアへのエネルギー依存、わずかな軍事予算、ドイツとプーチン氏が近かったこと、同氏がどのような人間か気付くのが遅すぎたことなど、ドイツの近年の失政が曖昧になってしまうためだ。
「第2次世界大戦における責任は常に考えてきたが、過去10〜15年についての重要な自己検証はできていなかったのかもしれない」
ティーレさんは今、過去から学べていないことが原因で古傷が開いている。
「両親は二つの世界大戦を経験し、私は一つ経験した。けがらわしい豚、ヒトラーのせいだ」と語った。亡くなった夫の家族は共産主義者で、ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)強制収容所に入れられていた。
「彼らは第3次世界大戦を始めたいのだろうか。少しでも戦争ということを理解していたら、もう一つ始めようなんて思わないだろう」

ウクライナ侵攻で裏切り者露呈 社会を「浄化」 ロシア大統領府(AFPBB)
【AFP=時事】ロシア大統領府(クレムリン、Kremlin)は17日、ウクライナへの侵攻によって国内の裏切り者が明らかになるだろうと主張し、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領によるロシア社会の「浄化」の呼び掛けを繰り返した。
ドミトリー・ペスコフ(Dmitry Peskov)大統領報道官は「このような状況では、大勢の人が裏切り者としての正体を現す」「裏切り者は自らロシア社会から消える。職を辞する者もいれば、国を去る者もいる。このようにして浄化が行われている」と述べた。
ロシアがウクライナに侵攻した2月24日以降、大勢のロシア人が国を去った。その数は最初の数時間で数千人とも言われるが、正確な数は分かっていない。
ぺスコフ氏は、ロシア人の「圧倒的多数」がプーチン氏を支持していると主張した。
プーチン氏は16日、テレビ中継された政府の会合で、西側がロシア社会の分断を試みていると指摘。「精神的に」西側にくみしている「第五列(スパイ)」が存在すると激しく非難。「ロシア人は真の愛国者と裏切り者を常に見分けることができる。裏切り者は口に飛び込んできたハエのように吐き出すのみだ」とけん制した。
「こうした自然かつ必要な社会の自浄作用が、わが国をひたすらに強くすると確信している」と続けた。
また、西側��メディアとSNS大手が「うその帝国」を築いてロシアに対抗していると非難した。

【本日 (3/18)の広島県内の感染状況】(広島県)
学校でのクラスター相次ぐ 広島市で今月は半数占める(NHKニュース)
広島市は、18日、新たに小学校を中心に6件のクラスターの発生が確認されたと発表し、今月に入って市内で確認されたクラスターの半数が学校現場になっていま���。
感染者の高止まりが続いている原因として、広島市は子どもたちの感染に加えて、まん延防止等重点措置が解除されて以降、働く世代の感染者が増えていることを挙げ、対策の徹底を呼びかけています。
広島市は18日、新たに、今月8日から14日までに市内で6件のクラスターが確認されたと発表し、このうち、5件は小学校と中学校でした。
これで、今月に入って市内で確認されたクラスターは33件となり、発生場所の内訳は、▼学校が52%と半数以上を占めたほか、▼保育施設が24%、▼高齢者施設と▼介護事業所がそれぞれ9%、▼医療機関が6%となっています。
また、広島市では県内に適用されていたまん延防止等重点措置が今月6日で解除されて以降、20代から40代までの感染者が増加し、この世代の感染者数は前の週の同じ曜日を上回る日が出ているということです。
感染者の高止まりが続いている原因として、広島市は、子どもたちの感染に加え、重点措置の解除以降、20代から40代の間で会食などの機会を通じて感染が相次いでいることを挙げています。
広島市は「今後、春休みに入ると人の移動も多くなる。手洗いやマスクの着用など感染対策を再度徹底してほしい」と呼びかけています。
北海道 新型コロナ 2人死亡 新たに1714人感染確認(NHKニュース)
青森県 新型コロナ 新たに656人感染確認 過去最多(NHKニュース)
岩手県 新型コロナ 1人死亡 新たに230人感染確認(NHKニュース)
宮城県 新型コロナ 新たに510人感染確認(NHKニュース)
栃木県 新型コロナ 1人死亡 新たに501人感染確認(NHKニュース)
群馬県 新型コロナ 1人死亡 新たに602人感染確認(NHKニュース)
埼玉県 新型コロナ 3人死亡 新たに4329人感染確認(NHKニュース)
茨城県 新型コロナ 4人死亡 1800人感染確認 過去最多(NHKニュース)
千葉県 新型コロナ 15人死亡 新たに3048人感染確認(NHKニュース)
東京都 新型コロナ 21人死亡 7825人感染 前週より600人余減(NHKニュース)
神奈川県 新型コロナ 14人死亡 新たに5088人感染確認(NHKニュース)
静岡県 新型コロナ 新たに1293人感染確認(NHKニュース)
愛知県 新型コロナ 17人死亡 新たに2601人感染確認(NHKニュース)
岐阜県 新型コロナ 1人死亡 新たに424人感染確認(NHKニュース)
京都府 新型コロナ 10人死亡 新たに962人感染確認(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 24人死亡 新たに3865人感染確認(NHKニュース)
兵庫県 新型コロナ 7人死亡 新たに2203人感染確認(NHKニュース)
香川県 新型コロナ 2人死亡 新たに369人感染確認(NHKニュース)
熊本県 新型コロナ 1人死亡 新たに459人感染確認(NHKニュース)
【速報 JUST IN 】国内のコロナ感染者 累計600万人超に 500万人超から18日間で(NHKニュース)
18日は、午後6時10分までに全国で4万9210人の感染が発表されています。
国内で感染が確認された人は累計で600万人を超えました。
また、大阪府で24人、東京都で21人、愛知県で17人、千葉県で15人、神奈川県で14人、福岡県で11人、京都府で10人、兵庫県で7人、沖縄県で4人、茨城県で4人、佐賀県で3人、埼玉県で3人、滋賀県で3人、北海道で2人、大分県で2人、広島県で2人、香川県で2人、山口県で1人、岐阜県で1人、岡山県で1人、岩手県で1人、栃木県で1人、熊本県で1人、石川県で1人、群馬県で1人、長崎県で1人、長野県で1人、高知県で1人、鹿児島県で1人の合わせて156人の死亡の発表がありました。
国内で感染が確認された人は、空港の検疫などを含め602万4589人、クルーズ船の乗客・乗員が712人で、合わせて602万5301人となっています。
亡くなった人は、国内で感染が確認された人が2万6955人、クルーズ船の乗船者が13人の合わせて2万6968人です。
コロナ新規感染者数 緩やかな減少傾向 一部では増加傾向も(NHKニュース)
新型コロナウイルスの新規感染者数を1週間平均で比較すると、全国では1か月間余りにわたって緩やかな減少傾向が続く一方で、今月21日を期限にまん延防止等重点措置の解除が決まった地域の一部を含めて、増加傾向がみられるところも出ています。
NHKは各地の自治体で発表された感染者数をもとに、1週間平均での新規感染者数の傾向について、前の週と比較してまとめました。
全国 ▽先月17日までの1週間では、前の週に比べて0.88倍、▽先月24日は0.88倍、▽今月3日は0.92倍、▽今月10日は0.86倍、▽今月17日まででは0.90倍と、5週連続で緩やかな減少傾向となっています。
一日当たりの新規感染者数は、最も多かった先月上旬と比べると4万人以上減り、およそ5万906人となっていますが、去年夏の感染の第5波のピークの2倍以上で、依然として多い状態が続いています。
重点措置 解除される地域
今月21日での重点措置の解除が決まった18の都道府県では、感染者数が多い状況が続いているものの、おおむね減少傾向となっています。
【東京都】▽今月3日までの1週間は前の週の0.91倍、▽今月10日は0.83倍、▽今月17日まででは0.87倍と、5週連続で緩やかな減少傾向となっています。
一日当たりの新規感染者数は8159人で、直近1週間の人口10万当たりの感染者数は406.57人と、全国で最も多くなっています。
【神奈川県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.91倍、▽今月10日は0.91倍、▽今月17日まででは0.92倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ5293人となっています。
直近1週間の人口10万当たりの感染者数は401.07人と、東京都に次いで2番目に多くなっています。
【埼玉県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.84倍、▽今月10日は0.89倍、▽今月17日まででは0.97倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ3748人となっています。
【千葉県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.89倍、▽今月10日は0.92倍、▽今月17日まででは0.91倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2987人となっています。
【大阪府】▽今月3日までの1週間は前の週の0.86倍、▽今月10日は0.73倍、▽今月17日まででは0.82倍となっていて、一日当たりの新規感染者数は4804人となっています。
直近1週間の人口10万当たりの感染者数は380.51人と、東京都、神奈川県に次いで3番目に多くなっています。
【京都府】▽今月3日までの1週間は前の週の0.82倍、▽今月10日は0.80倍、▽今月17日まででは0.88倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ1038人となっています。
【兵庫県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.85倍、▽今月10日は0.87倍、▽今月17日まででは0.80倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2412人となっています。
【愛知県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.89倍、▽今月10日は0.81倍、▽今月17日まででは0.80倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2943人となっています。
【岐阜県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.92倍、▽今月10日は0.80倍、▽今月17日まででは0.89倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ486人となっています。
【北海道】▽今月3日までの1週間は前の週の0.86倍、▽今月10日は0.81倍、▽今月17日まででは0.92倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ1540人となっています。
【その他】▽青森県は今月17日までの1週間では前の週の1.09倍、▽茨城県は1.03倍、▽栃木県は1.00倍、▽群馬県は1.07倍、▽石川県は0.98倍、▽静岡県は0.94倍、▽香川県は1.03倍、▽熊本県は0.88倍と、一部で前の週より多くなっている地域もみられます。
すでに解除された地域 増加傾向も
すでに重点措置が解除された地域のうち、福岡県や沖縄県などでは緩やかな減少傾向となっていますが、広島県など増加傾向となっている地域もあります。
【福岡県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.94倍、▽今月10日は0.86倍、▽今月17日まででは0.89倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ2268人となっています。
【沖縄県】▽今月3日までの1週間は前の週の1.41倍、▽今月10日は0.86倍、▽今月17日まででは0.91倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ625人となっています。
【広島県】▽今月3日までの1週間は前の週の0.96倍、▽今月10日は0.97倍、▽今月17日まででは1.09倍となっていて、一日当たりの新規感染者数はおよそ726人となっています。
【その他】▽山形県は今月17日までの1週間では前の週の1.05倍、▽新潟県は1.31倍、▽長野県は1.15倍、▽島根県は1.02倍、▽宮崎県は1.12倍と、横ばいから増加傾向となっています。
専門家 “流行状況は改善も まだ第6波のさなか”
感染症に詳しい東京医科大学の濱田篤郎特任教授は、現在の感染状況について「感染者数だけでなく、重症者、死者数もピークを越えて減ってきていて、医療のひっ迫もある程度解消されていることから、全体の流行状況としては改善してきていると言っていいと思う。ただ、今は一日5万人前後と、去年夏の第5波のピークの2倍の感染者数が出ている。第6波は決して終わったわけではなく、まだそのさなかにいることは忘れないほうがいい」と話しています。
今後の見通しについて「世界的な傾向として、感染者数がある程度出たとしても、重症者の増加や病床のひっ迫が起きなければ、規制を緩和し、社会・経済の再生に向かう流れになっている。ヨーロッパではより感染力の強い『BA.2』の拡大はあるが、規制を解除して流行が再燃しているともいえる。これから年度替わりで、歓送迎会や花見など、いろいろな行事で密になる機会が多くなるので、感染者数が横ばいか増える可能性も考えられる。行事の際にも基本的な予防対策を行い、さらにできるだけ多くの人がワクチンの追加接種を受けてほしい」と話しています。
独、コロナ規制をほぼ全面解除へ 伊は専門家委を解散(ロイター)
[ベルリン/ローマ 17日 ロイター] - ドイツのショルツ首相は17日、新型コロナウイルス対策の規制をほぼ全面的に解除すると発表した。16州の首脳と協議した結果、1日あたり新規感染者数が30万人近くに達していることは懸念されるのの、集中治療室の使用率が高くないことから、この決定は正当化されるとした。
イタリアでも3月31日で非常事態宣言が解除されるのに伴い、専門家による諮問委員会は解散となる。
ドラギ首相は記者団に対し、政府は今後、コロナ抑制のための規制を徐々に解除していく方針であることを明らかにした。
サンパウロ、マスク義務解除 新型コロナ(時事通信)
【サンパウロ時事】ブラジル最大の人口を抱えるサンパウロ州のドリア知事は17日、新型コロナウイルスの感染ペースがワクチン接種普及によって減速したことを受け、公の場でのマスク着用義務を同日から解除すると発表した。ただ、公共交通機関と病院などでは引き続き着用が必要。州では��020年5月7日からマスク使用を義務化していた。
3月16日 新規感染者・7日間の平均・死者
韓国 62万1317人・38万7277人・429人
ベトナム(17日)35万3965人・27万3418人・76人
ドイツ 29万9429人・20万5571人・278人
フランス 10万5786人・7万1697人・173人
イギリス 9万3576人・10万8341人・153人
イタリア 7万4147人・5万7732人・137人
日本 5万7822人・5万1977人・163人
ブラジル 4万7338人・4万1525人・353人
アメリカ 3万9384人・3万570人・2017人
ロシア 3万5969人・4万3316人・565人
トルコ 2万1354人・2万2287人・101人
東京 1万221人・8390人・21人
大阪 5739人・4988人・36人
中国 2958人・1660人・18人
インド 2539人・3059人・60人
広島 951人・712人・2人
データ Google、Our World in Data、JHU CSSE COVID-19 Data
新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(17日午後8時時点) 死者605.7万人に(AFPBB)
【3月18日 AFP】AFPが各国当局の発表に基づき日本時間17日午後8時にまとめた統計によると、世界の新型コロナウイルスによる死者数は605万7061人に増加した。
これまでに世界で4億6213万2982人の感染が確認された。大半はすでに回復したが、一部の人々にはその後も数週間、場合によっては数か月にわたり症状が残っている。
16日には世界全体で新たに6678人の死亡と211万3747人の新規感染が発表された。
過去1週間の新規感染者が最も多い地域は欧州で、536万7404人(世界全体の44%)の感染が確認された。2番目に多いのはアジアの529万8189人(同43%)。
過去1週間の死者が最も多い地域は欧州で、1万4990人(世界全体の41%)が死亡。次いでアジアの9642人(同26%)となっている。
過去1週間の人口10万人当たりの死者数が多かった国・地域(人口50万人未満の国を除く)は、上位から香港(26.38人)、ラトビア(4.56人)、リトアニア(4.44人)、デンマーク(4.3人)、スロバキア(4.08人)。
過去1週間の人口10万人当たりの新規感染者数が多かった国・地域は、上位から韓国(4709人)、オーストリア(3455人)、ニュージーランド(2736人)、キプロス(2558人)、オランダ(2504人)。
ここ数日間で、1週間の新規感染者数が過去最多を記録した国・地域は、トンガ、ブータン、フィンランド、韓国、リヒテンシュタイン、オーストリア、ベトナム、ドイツ、タイ。
最も死者が多い米国では、これまでに96万8331人が死亡、7963万1765人が感染した。次いで死者が多い国はブラジルで、死者数は65万5940人、感染者数は2947万8039人。以降はインド(死者51万6132人、感染者4300万1477人)、ロシア(死者36万3039人、感染者1748万4257人)となっている。
人口10万人当たりの累計死者数が多い国は、上位からペルー(642人)、ブルガリア(521人)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(477人)、ハンガリー(464人)、北マケドニア(440人)となっている。
この統計は、各国の保健当局が発表した日計に基づいたもので、他の統計機関が行った集計見直しに伴う死者数の大幅な増加分は含まれていない。世界保健機関(WHO)の推計によると、新型コロナウイルス感染症により直接または間接的に生じた超過死亡を含めると、死者数の総計は公式統計の2~3倍に上る可能性がある。
多くの国では検査体制が強化されたが、軽症や無症状の人の多くは検査を受けず、感染者として集計されないままとなっている。

3月18日 23:25 震度5強 震源:岩手県沖 M5.5 深さ約20km この地震による津波の心配はありません。
<岩手県沖地震> 防災科学技術研究所の速報解析では、地震のメカニズムは北北西—南南東方向に張力軸を持つ正断層成分と横ずれ成分もつ型とみられます。
一昨日の福島県沖の地震とは異なる発震機構で、関連は不明です。日頃からの備えの見直しをしておきましょう。
一昨日の地震と比べ、地震の規模は小さいものの(エネルギーは数百分の一程度と推定)、震源が陸地に近く浅かったことで、比較的狭い範囲を強い揺れが襲ったものとみられます。
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した��などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本��兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。 午後は残敵掃討戦になる。 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。 報道写真からもそうした情景をみることができる。 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京���居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。
森 清勇
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日刊メルマ瞬報/細田昌志『格闘技を創った男~プロモーター野口修評伝~』今読むべき!
※『水道橋博士のメルマ旬報』Vol.109より
第11回「チンチロリンと手本引」 野口修は昭和九年(1934年)一月二十四日、東京市本郷根津(現在の東京都文京区根津二丁目)に生まれた。 父親である野口進は、元首相の若槻礼次郎を殺そうとした罪で、一審で懲役七年、控訴審で懲役五年が言い渡され、このとき獄中にあった。 野口進の内縁の妻で、有楽町のカフェで女給をしていた吉岡ひろ子は、生まれたばかりの修を抱えて途方に暮れた。 明治四十二年、京都生まれ。継母と折り合いが悪く、旧制中学の数学教師である父の保太郎に勘当され家を飛び出したひろ子は、東京に出てカフェの女給として働き始めた。 すでに触れたように、当時のカフェは今でいうナイトクラブで、女給とはホステスを指す。履歴を問わないカフェには、多くの家出少女が素性を隠して働いていた。吉岡ひろ子というのも実は源氏名で、本名は日下部里野である。 里野が神保町のカフェで働いていたとき、その店の用心棒をしていたごろつきが、 「頼れる兄貴がいる」 と言って連れて来たのが拳闘家の野口進だった。寄る辺のない二人は互いに好意を抱き、程なくして同棲を始めた。そうして身籠ったのが修である。 野口進が試合で負傷したり、事件を起こして警察に留置されるたびに、身を案じながらもどうにかやりすごしてきた里野だったが、乳飲み子を抱える今回はそうもいかない。さりとて、誰かを頼ろうにも情況がそれを許さなかった。 野口進の身許保証人ともいうべき愛国社盟主の岩田愛之助は、この時期、政友会が与党だったことも関係して、往時のテロ活動が嘘のように合法的な政治運動を盛んに行っていた。例えばこの六年後に、政党が解散して大政翼賛会が発足した折には、その諮問機関である大政翼賛会調査委員会に、戦後の一時期総理大臣となる石橋湛山や、婦人運動家の市川房枝、作家の久米正雄らとともに名を列ねている。ただしこの場合は、岩田が政治に接近したというより、政治が岩田に接近したというべきだろう。 ともかく、配下の同人が首相経験のある大物政治家を殺そうとしたのは、都合のいい話ではなかった。自身の関与まで疑われているうちは、里野を表立って援助してやれない。 もう一人の身許保証人である大日拳会長の嘉納健治はというと、看板選手が起こした突然の事件と急な廃業に怒り狂っていた。大日拳が被る損失は大きく、すでに述べたように、このことが拳闘界のみならず、神戸裏社会の力関係にも波及している。そのことを思えば、怒りも無理からぬことで、里野がおめおめと援助を乞える筋合いもなかった。 同棲を始めてから、さほどカフェに出勤しなくなっていた里野だが、背に腹は代えられず女給に戻った。しかし、煙草の匂いの染みついた休憩室に乳児を寝かせ、母乳を飲ませながらの女給仕事は難儀なことこの上ない。その上、テロリストの内妻と見られた里野には、常に特別高等警察(特高)の尾行がついた。店内で馴染みの客と親しく話している姿さえ謀議と疑われた。そんなカフェ勤めが長く続くはずがない。 《母上の里野さんは、知る人ぞ知るボクシング興行の大ベテランでした。 どうすればファンが試合場に来るかを、長年の経験で知り尽くしていたのです》(『記憶に残る拳豪たち』安部譲二著/小学館刊) 現代において右のように称えられる野口里野だが、この時代は最もつらく厳しい境遇にあったのかもしれない。 見かねて、救いの手を差し伸べたのは、愛国社幹部の大澤米吉である。 「それなら、赤ん坊はうちで預かろう」 また、ほとぼりが冷めるまで姿を消すように、里野には箱根の温泉旅館で住み込みの職を斡旋した。里野にとって可愛い乳児を手放すことは身を切る思いだったろうが、行き場のない家出少女にはそうするより手立てがなかった。 かくして、赤ん坊の野口修は、畳屋を営む上野の大澤家で育てられることになる。 * 「五歳くらいかな。店先に畳が積んであったけど、乗っかってよく叱られた。米吉さんは俺が悪さをするとすぐ押し入れに閉じ込めるんだ。弟の武三郎さんはよく遊びに連れてってくれて。それで出会ったのが馬、競馬。武さんが『なんでもいいから数字を言え』ってさ(笑)。で、お袋は月に一度上野まで会いに来る。その日が楽しみでね。『おもちゃを買え』ってせがむんだけど、行くところはいつも決まっていた。府中だよ」(野口修) 大観衆を沸かせた人気拳闘家にして、元首相を殺そうとしたテロリストという、波乱の前半生を送った男も、この頃は金網越しに、我が子の成長に眼を細めるだけの囚人でしかない。 「当時の記憶はあんまりないんだけど、後になってお袋から聞いたのは、親父の前で『お控えなすって』って仁義を切ったらしいんだ。おそらく武三郎さんに仕込まれたんだろうよ。あと『いつも、どんなことをして遊んでんだ?』って親父に訊かれて『チンチロリンと手本引。チョボイチも』って答えたら、親父は天井が抜けるくらい大声で笑って、看守もつられて大笑いしたって(笑)」 大澤米吉の長男で、現在は理髪店の多店舗経営者として、右翼活動とはさしたる関わりを持たない大澤忠夫は、筆者の問いに対しても格別な感情は見せず平易な反応を示してきた。物静かな紳士である彼は、大澤家における当時の野口修の様子を次のように語った。 「修ちゃんがうちにいたのは、私が生まれる前。だから私はその時分は知りません。でも、私が生まれてからも、一人でふらっとうちに来ては、飯を食ったり泊まったりしていましたから、別宅みたいな感覚だったんでしょう。だからか、私は彼を齢の離れた兄のように思っていたりもしました。対照的に弟の恭ちゃんっていうのは、うちで生活したことがないから、いつも遠慮気味でね。おとなしいんです。だから陰と陽っていうのかな。それがそのまま、あの兄弟のカラーになったような気がします」
※続きは『水道橋博士のメルマ旬報』にて
https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase

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FWレポート(栃木市)
久々の更新です😢ゼミ試験もひと段落し、みんな、就活、勉学、個人研究に追われているよう😢
それでも学びをアウトプ��トする場としてブログは今後も続けていくつもりです!ぜひ楽しみにしてて下さいね(^▽^)/
今回は野澤ゼミのカスタマーサポート兼暇人担当のMより、11/8に行った栃木市についてインスタよりも少し詳しくご紹介します。
(感染対策を十分にし、大学から許可をもらった上でお伺いしています。)
今回大きく分けて5つの項目で書いていきます(^▽^)/
prologue. 栃木市概要
1.蔵の街 蔵を残した街並み
2.無電柱化による大通りの整備
3.栃木市役所と東武百貨店
4.跡形もなく整備された遊郭
prologue. 栃木市概要
<栃木市の課題>
➀人口減少、少子高齢化への対応
(特に、栃木駅周辺の中心市街地ではその傾向が顕著)
②公的不動産の活用と都市機能の集約
③魅力・活力・賑わいの創出(施設の老朽化・不足)
としてはこのようなものがHP等で挙げられていました。地方都市あるあるという感じですね。その中でも、駅周辺が衰退化しているのは深刻です。状況の深刻さ、また街の取り組みの効果なども実際にこの目で確かめる必要がありますね。
<開発状況>
都市再生整備計画
地区名:とちぎ蔵の街周辺地区
(地方都市リノベーション事業・地方再生コンパクトシティ)
写真:栃木市 都市再生整備計画(第五回変更)
地方都市では開発事業よりも整備事業を行うことが多いです。
栃木市はコンパクトシティ化や、中心市街地の賑わい創出、公的不動産の有効活用などが主に目標として掲げられていました。
地方都市の衰退化を防ぐには、若い人がどれだけ子育てしやすい空間が作れるか。というのがとても大事になってくるでしょう。もちろん、高齢者の方が買い物しやすいこと、福祉関連のサービスが整っていることなども現在の住民の方のために整備される必要があります。
ここからは実際に訪れた写真とともに栃木市の話をしていきます。
蔵の街 蔵を残した街並み
みなさま、栃木市は何で有名か知っていますか。私は最初、栃木市と言われてもピンとこず、栃木県と聞くと宇都宮の餃子しか最初思い浮かびませんでした。実は栃木市は、歴史的な景観のある"蔵の街"として有名なんですね。本当に素敵でした。

"栃木市は江戸時代から日光例弊使街道の宿場町として、また、江戸との舟運で栄えた問屋町として北関東の商都と呼ばれていました。今も街なかを流れる巴波川の岸辺や市中心部を通る蔵の街大通りには、黒塗りの重厚な見世蔵や白壁の土蔵群などが残り、当時の繁栄ぶりを偲ばせています。(栃木市HPより引用)"
「日光例幣使街道」沿いの嘉右衛門町地区は、平成24年に県内初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。そこを中心都市、歴史的街並み等を活かした歴史文化拠点・観光交流拠点として「蔵の街とちぎ」のまちづくりに取り組んでいるようでした。
<日光例幣使街道>

使われなくなった蔵がさまざまな観光施設として活用されているんですね。小江戸という感じで素敵でした。平日ということもあり、観光客の姿は見えませんでしたが....。

中心市街地を走るふれあいバスは空気を運んでいました。(午前10時)
公共交通機関存続もために考えられることはたくさんありそうです。課題はまだまだたくさんありますね。栃木市だけでなく、全国の地方都市の公共交通機関に言える話です。
また、個人的に気になったこととして、近くの高校が蔵の街の魅力をプロジェクトをやっているよう。パンフレットが中心市街地のお店においてありました。↓
https://www.facebook.com/tochigi.thc/
これを書いている私が同じ大学の付属校に昔通っていたので謎な親近感が沸いたので載せました。
若い人も頑張っているようです。
無電柱化による大通りの整備
また、栃木市は大通りの無電柱化が完成されておりました。
電線類が地中や地下に埋まってるんですね。

無電柱化のメリットとして、1.景観の向上、2.安全で快適な歩行空間の確保、3.都市防災力の強化などが挙げられます。実際に、近年台風の増加により無電柱化の必要性は再認識されていますね。
写真:経済産業省 「令和元年台風15号における 鉄塔及び電柱の損壊事故調査検討 ワーキンググループ 中間整理」
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/tettou/pdf/20191204_report_01.pdf
一方で、地下に電柱を整備することで浸水被害を受ける可能性もあるでしょう。それについては政府や電力会社も言及しています。また、地上の電柱を地下に移すうえで当たり前にコスト、時間、市民の負担もかかります。特に日本は財源の関係ですすんでいないようですね。
しかし、「無電柱化推進計画」を出している地域もあるようです。(栃木県もそのひとつ)
災害に強い街づくりに無電柱化はかかせません。しかし、すべてを無電柱化するには莫大なコストが自治体にかかりますね。きっともっと早くやっておくべきだったんだろうと言いたいところですが、そんなことを言っても仕方ない...。国民として安全なまちづくりのために、どの地域に優先的に必要なのかなど考える必要がありそうです。
栃木市役所と東武百貨店
栃木市の特徴として、市役所のあるビルの1Fに東武百貨店が入っているんですね。どうしてこのような状況になっているのでしょうか。
以前このビルはデパートとして法人により運営されていたようです。しかし、1Fで生鮮食品売り場しか採算が取れず廃業。市に無償で譲渡されたようです。(駐車場のみ有償)
2F以上は客足がすでに減っていたとは言え、生鮮食品売り場を利用していた人々にとっては大ダメージ。市にとっても中心市街地の重要な人の集まる施設の一つであった商業施設がつぶれてしまうことは、好ましくありません。
一方で、市役所は職員の増加や老朽化による大規模な耐震工事の必要性に悩まされていました。
そこで、コンバージョンが提案されました。
※コンバージョン
改修工事により建物の用途を変更すること。(今回の場合、商業施設⇒公共施設)
そして、市役所に必要な広さや市民の方の生活などを考慮した上で、1F��テナントを公募することとなり、東武百貨店がはいることになりました。結果的に市役所は、旧市役所を建て替えるよりも低コストで移転を完了させ、さらに中心市街地衰退の防止をも実現したのです。


実際に目で見た感想としては、市役所にたくさん市民の方がいらっしゃる!といった感じです。やはり市役所は市民の方の生活に欠かせません。中心市街地のビルに市役所があることによって導線にある東武百貨店や周辺のお店にも自然と人が出入りするでしょう。
ご興味のある方はぜひ調べたり、詳しい記事を読んでみてくださいね↓
他の例としては、池袋のにある豊島区役所もありますね。そちらについては次回、池袋FWの方でご紹介します!
跡形もなく整備された遊郭
栃木市には実はもとは遊郭があった地域もあります。
栃木県栃木市富士見町です。残念ながら解体されていた模様。(木造で空き家で手を付けられていないので、災害などで他の住宅に迷惑がかかる可能性もあるし、残念などと言ってはいけない...)
少しみてみたかったですね。
昔の遊郭街が廃墟化している地域って調べてみたらちらほらあるようです。住宅地に近ければ危険なので解体する必要がありますね。
興味のある事柄はありましたか?
説明不足な点もあるかと思います。読んでいる方の気に障ったら申しわけございません。ご意見ご指摘お待ちしております。
私は今回、市役所の事例に一番興味がわきました。既存の建物を活用する事例は他にもたくさんありそう!個人研究と別で調べていきたいと思います。また、無電柱化された道路も歩いていてとても景観が良いと感じました。子供の交通安全のためにも少しずつ財源と相談しながら広まるといいですね。
何か質問・ご意見等あれば、先生公認のInstagram(@nozawa_seminar)のDMでお受けいたします!
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●●禅(ぜん) ★虚無僧(こむそう)
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●●禅(ぜん) ★虚無僧(こむそう) 虚無僧 http://w01.tp1.jp/~sr10031313/images/yjimage-5.jpeg 今ここに生きて有る命の真実 この真実を禅では本来の自己という。 本来の自己を表わす業が座禅である。 が禅の心得だそうです。 日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む 只管打座(しかんたざ)を唱えている。 タダ座って只管打座(しかんたざ) 「只管」は、ただひたすら。「打座」は、仏教で、座禅すること。 簡単なようで難しい。 昔聞いたのではヨガのように瞑想しなさいとは言わないようだ。 虚無僧が禅宗からの派生とは知らなかった。 子供の頃に深編み笠で回ってくる虚無僧は少し怖かった。 今ではほとんど見かけることもない。 少し形は違うけれども普通の編み笠でも良いようだ。 深編み笠で回って来るので あの編み笠の中の顔が下からのぞいても見ることは出来ない。 だから怖かったのかも知れない。 子供の頃見かけた虚無僧は正式の服装して腰に印籠を下げていたかな。 脇差しは無論していなかった。 遠い懐かしい風景が目に浮かぶ。 ★禅 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/禅 禅(ぜん)は大乗仏教の一派であり、南インド出身の達磨が 中国に入り教えを伝えて成立したとされている。 中国禅は唐から宋にかけて発展したが、明の時代に入ると衰退 していった。 日本に純粋な禅宗が伝えられたのは鎌倉時代であり、 室町時代に幕府の庇護の下で発展した。 明治維新以降は、日本の禅が世界に伝えられた。 日本禅宗24流 曹洞宗 3派 臨済宗 21派 ★虚無僧(こむそう)http://bit.ly/wbnKtX 禅宗の一派である普化宗の僧であり、剃髪しない半僧半俗の存在である。 普化宗は中国(唐)の普化を祖とし、日本��は臨済宗の僧・心地覚心が中国に渡り、 普化の法系の張参に竹管吹簫の奥義を受け、張参の弟子「宝伏」ら 4人の居士を伴い、1254年(建長6年)に帰国し紀伊由良の興国寺に 普化庵を設けて住まわせたことに始まる。 「古くは、『こもそう(薦僧)』ということが多く、 もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという。」 虚無僧の様相については、 「尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧」 とされており、 「多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。」 虚無僧はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、 江戸時代になって徳川幕府によって以下のように規定された。 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯をまえに結び、 腰に袋にいれた予備の尺八をつける。 首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。 足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。 旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。 なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱(げばこ)は、 明治末頃から見受けられるようになったもので、 虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたものである。 江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、 「明暗」などと書かれてはいなかった。 江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、 偽虚無僧も皇室の裏門を用いていたようである。 ★曹洞宗の公式サイト http://bit.ly/Akqm83 ★臨済宗・黄檗宗の公式サイト http://bit.ly/zNTYq2 ★曹洞宗大本山永平寺 第78世貫主 宮崎奕保禅師 (道号・法諱) 栴崖奕保(せんがい えきほ). (禅師号) 黙照天心禅師. (もくしょうてんしんぜんじ). (生誕) 明治34年(1901)11月25日. 平成20年(2008)1月5日. (世壽). 108歳. https://youtu.be/SRezHZsNOI8 宮崎奕保禅師の禅のお話し 2018/04/02 ★これが永平寺だ!永平寺曹洞宗大本山永平寺 2011/10/31 https://youtu.be/PLE7Jta6k74 ★新日本風土記「永平寺」道は無窮なり悟りても猶行道すべし 2019/05/10 https://youtu.be/RgIdPQjUZNU 修行というのは何かのためにやるのではない、生活そのものが修行なのです。 ★Zen Dogen the Zen Master https://youtu.be/4T0QbAQXQV4?list=PL8447A93C7DCA0141 http://bit.ly/xJuE8h http://bit.ly/wAOnLq シナ語?英語字幕 http://bit.ly/z7L2Mq http://bit.ly/x7n4HI http://bit.ly/xzWb5k http://bit.ly/ys5HMV http://bit.ly/zL8KzG http://bit.ly/ytDjpH http://bit.ly/y5OVN5 ★財団法人禅文化研究所 http://www.zenbunka.or.jp/ ★人 間 禅 道 場 http://bit.ly/z5mtOX 明治の初頭に山岡鉄舟、中江兆民らの先覚者が、当時鎌倉円覚寺管長の今北洪川禅師(白隠禅師より8世)を拝請し、社会人のための禅会として人間禅教団(旧名両忘協会)は創設されました。 ★大安禅寺 http://www.zazen.or.jp/ 福井県は松平家ゆかりのある、花しょうぶの美しいお寺です。 ★禅文化歴史博物館 | 駒澤大学 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/museum/ 禅文化歴史博物館情報/開館時間. 駒澤大学 禅文化歴史博物館 (駒沢キャンパス内) 〒154‐8525 東京都世田谷区駒沢1-23-1 入館無料平日 10:00~16:30(最終入館16:15まで). お問い合わせ先駒澤大学禅文化歴史博物館事務室. TEL:03-3418-9610 ★坐禅 - Wikipedia http://bit.ly/x1D7Hp 日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えている。 ★坐禅のやり方(初心者) - 禅-Zen http://zen.halfmoon.jp/zazenn.html 坐禅 やり方、基礎知識. はじめに 坐禅に関しては、最初は何やらとっつきにくいものではないかなあと思います。 個人で自宅でもできるものだとは思いますが、最初はお近くの座禅会などで、 正しい坐禅をご教授していただくのがよいかと思います。 また、一人ではなかなか時間に流されてしまいがちになってしまいますが、 座禅会などはまわりの方々もいらっしゃるので、集中度がちがって くるような気がします。 ただいきなり座禅会などで、初めてのことが多いと、頭がこんがらがって しまうかもしれないと思い、初めてこれから坐禅に挑戦したい・興味がある という方向けとして、坐禅の簡単な組み方の説明を載せてみます。 (世の中にはいろいろととても素晴らしい坐禅の方法の説明サイトや書籍があると思います。本サイトでうまく伝わらないかもしれません。ご不明点とうありましたら別サイトや書籍をお調べになる、座禅会で直接ご指導を受けてみるなどの方法もあります。) ★自宅で座禅、呼吸整える http://bit.ly/wN7tUC 背筋を伸ばし下腹に力 邪念を払い心穏やか 座禅にはともすれば厳しい修行のイメージがつきまというが、寺院が主催する座禅会では若い女性の姿も目立つようになってきた。「気分が引き締まった」との感想に加え、「美容と健康にもいい」といった声も。とかくストレスのかかる現代社会。自宅での日常生活にも、座禅のエッセンスを取り入れてみよう。 ★座禅の仕方 http://bit.ly/wU0CQw 禅とは「禅那」と言いサンスクリット語のdhyanaの音訳で、静慮とか思惟とか 思量するという意味があり、古代インド仏教から伝わる瞑想法です。 座禅は安楽の法門とさえ言われるように、その座法はおしゃか さまのお悟りの姿に見るごとく身体の最も安定した形です。 その座禅とは、静座(せいざ)をして座禅の三要素である 調身・調息・調心による身体を調え、呼吸を調え、心を調えることによって 精神の統一から本来的に備わる真実の自己(仏性)の自覚にあります。 その過程における精神医療的効果や禅定における集中力や不動心や忍耐力の 養成の効用面が広く知られ、企業研修などに活かされています。
・ぜんな 【禅那】 〔梵 dhyāna〕 禅。禅定。 ・せい りょ【静慮】 ( 名 ) スル 心を落ち着けて静かにおもいをめぐらすこと。 ・しい【思惟】 ( 名 ) スル ① 考えること。思考。しゆい。 「其しいする所甚だ卑下にして/明六雑誌 19」 ② 〘仏〙 「しゆい(思惟)」に同じ。 ③ 〘哲〙 「思考(しこう)② 」に同じ。 ・しりょう【思量】 ・しれう 【思料】 ( 名 ) スル いろいろと考えること。おもんぱかること。思慮。 「客人ならんと思量せしかば小腰を屈めて前掛けに手を拭ひ/新粧之佳人 南翠」
★はじめての座禅指導.WMV 2011/01/24 https://youtu.be/sUOJaJh-tIw 平成23年1月22日 座禅講座 ★尺八・虚無僧 http://bit.ly/zk5LXg 虚無僧は普化宗の徒で、出家者として全国を行脚していました。 しかし、お坊さんのように剃髪していたわけではなくまた、お坊さんでもなく 、 徒として所属していたようです。 そして、基本的には武士(浪人)が虚無僧に なれる条件でした。 だから、適当な仕官口が見つかると、再び還俗したようです。 中には、黒沢琴古のように指南役として尺八を教えることを専門に、 江戸などで、一般のお弟子を取っていたようです。 と言っても、これは、庶民の音楽とは 無縁でした。 商業都市が形成され、一般大衆(といっても所謂、中流以上の人でしょうね。 ) の生活と時間に余裕が出来てくると、文化も多様化してきました。 それでも、尺八は庶民には高嶺の花だったのでしょう、と言うのも、 男伊達と 言えば尺八をカッコよく手にした歌舞伎絵が多くあるからです。 庶民の憧れのカッコだったんでしょうね。 いつも、かっこいい男は、少しやくざっぽくて、楽器の一つでも 粋に奏するものです。 しかし悲しいかな、多くの、真の芸術家はそんなにカッコ良くはありません。 いつも、生活の塗炭にもがき苦しんでいるようです。 ・還俗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/還俗 還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを 捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。 「復飾」(ふくしょく)とも。 自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。 武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名を 存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、 宮家を継承することもあった。 特に幕末維新期にはその数は増えていった。 ★虚無僧研究会 http://bit.ly/yRfoEp ★虚無僧(こむそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] 尺八を吹きながら家々を回り、托鉢(たくはつ)を受ける僧。 薦(こも)僧、菰(こも)僧というのが本来の呼び名で、 諸国を行脚(あんぎゃ)して遊行(ゆぎょう)の生活を送り、 雨露をしのぐために菰を持ち歩いたからである。 ぼろを身にまとって物乞(ものご)いしたので、 暮露(ぼろ)とも梵論字(ぼろんじ)(梵論師)ともよばれた。 普化(ふけ)僧ともいう。 普化宗は禅宗の一派で、中国の唐代の普化和尚(おしょう)を始祖とし、 法燈(ほっとう)国師覚心(かくしん)が宋(そう)から日本に伝来したという。 覚心は紀伊国(和歌山県)に興国寺を開山し、宗旨も広まり多くの流派ができた。 虚無僧寺としては、 京都の明暗寺、 下総(しもうさ)小金(こがね) (千葉県松戸市)の一月寺(いちがつじ)、 武蔵(むさし)青梅(おうめ) (東京都青梅市)の鈴法寺(れいほうじ)などが著名であった。 普化宗では、心を虚(むな)しくして尺八を吹き、虚無吹断を禅の至境とした。 近世初期には武士以外の入宗(にっそう)を認めず、 また幕府も自由の旅を許すなどの特典を与えたが、 浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用し、乱暴をはたらくなどの弊害が続出した。 普化宗は1871年(明治4)に廃宗となり、88年に京都に明暗教会が設立されたが、 虚無僧は宗教から離れ、尺八修業の方便か物乞いの手段かになって影を潜めた。 僧とはいいながら半僧半俗で、 多くは有髪(うはつ)で、 天蓋(てんがい)と称する深編笠(ふかあみがさ)をかぶり、 着流しで、首から袈裟(けさ)と頭陀袋(ずだぶくろ)をかけた。 手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)なども着けた。 古くは草鞋(わらじ)を履いたが、江戸時代の中ごろから 高下駄(たかげた)を履くようになった。 出没自在、腕のたつこと、無頼性など、不思議な魅力をもつところから、 時代劇では善玉としても悪玉としても、しばしば脇役(わきやく)として登場する。 [ 執筆者:井之口章次 ] ★虚無僧で遊ぶ http://bit.ly/zJqy6i 目次 虚無僧で遊ぶ TRPGで虚無僧を使う 参考文献 ★虚無僧 - AIRnet http://www4.airnet.ne.jp/sakura/blocks_menu/conjyaku_04/komuso.html 【虚無僧】 虚無僧の歴史は古く,七百年以上前にさかのぼる。 法燈国師によって開かれた臨済宗法燈派「興国寺」(和歌山県由良町)は 虚無僧の本山として名高い。 東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207~1298)が, 建長元年(1249)入宋,建長六年に弟子四人を連れて帰国, 紀州由良に興国寺を立てた。 興国寺の中に普化庵を建て弟子を住まわせたが,この流れの中から 京都白川に明暗寺が作られることになっていくのである。 禅宗が栄えて,禅宗の中の普化宗は紀伊,伊勢,志摩を中心に 末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林(箱根の関より南の 禅宗の寺の第一に数えられるという意味)と言われた。 「・・・大門から入ると二十三坊の坊舎が左右に建ち四十六坊もあった・・・」 と古い文献にあり,当時全国から多くの学僧が集まり”学問の府”の偉容を 誇っていたが,信長・秀吉に焼かれてこれらの堂塔はことごとく消失した。 ★【妙音】虚無僧の行進曲【手の内ご無用】 2010/06/04 https://youtu.be/RlybT_mfNNo 2010年6月、高岡市の国泰時総本山で行われた虚無僧による行進の風景です。 禅宗のお寺である国泰時総本山では外部の宿泊者の受け入れもしており、 また、リクエストをすれば、日帰りで座禅を組むことができます。 お寺の周りは竹の子の名産地で、竹の子料理店が軒を連ねており、 シーズンには行楽客で賑わいます。 ★honkyoku for sampled bassoon 法竹 https://youtu.be/FboLa83-AA0 ★本曲(本曲、「オリジナル曲」)は、屈従と呼ばれる日本の虚無僧が演奏する尺八またはほっちく音楽です。コムソウは、13世紀には早くも啓蒙と施しのために本曲を演奏しました。本曲とは、水前の練習です。この練習を始めたフケ派は19世紀に存在しなくなりましたが、今日では多くの本曲の口頭で書かれた血統が現在も続いていますが、音楽は現在コンサートやパフォーマンスの設定でよく練習されています。 ★竹音空間(ちくおんくうかん)|竹楽器製作者:遠藤健二|法竹(ほっちく) https://otomoribeat.wixsite.com/chikuon 竹音空間では、法竹(ほっちく)と呼ばれている素朴な尺八(地無し尺八、地無し管)を製作しております。 法竹は真竹で作ったシンプルな縦笛ですので、竹が持つ本来の音色が出ます。 尺八古典曲の音色は日本の豊かな自然の中で生まれました。 尺八古典曲の音色は日本の豊かな自然の中で生まれました。 尺八古典曲は音楽的でありながらも自然の様を 写し取ったような表現もあり音楽の枠にはおさまりきらない幅があります。 それは、もともと日本人が鳥や虫の声、自然の音を音楽と同じように親しみ聴いて来たから ではないでしょうか。素朴な竹から奏で出る竹音には、そんな日本の音楽の原点があると思います。 ★尺八癡人街頭表演(捨てられた町`)(悲情的城市) http://www.youtube.com/watch?v=4wwhSlV0ALk&feature=related ★虚無僧 法竹 虚鈴 Komuso Hocchiku KyoRei 2011/04/08 https://youtu.be/8LcG-n1_Zko by 関家悠也(Sekiya Yuya) ★尺八 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/尺八 尺八(しゃくはち)は、日本の木管楽器の一種である。 リードのないエアリード楽器に分類される。 中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代から 江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。 「尺八」の名で呼ばれてきた楽器は複数あり、狭義には現在使用されている 普化尺八(ふけしゃくはち)を指す。 現行の普化尺八は、伝説では9世紀ごろに唐の禅僧普化の弟子張伯が 虚鐸(きょたく、こたく)として発明し、1254年に心地覚心が日本に持ち帰り、 1400年ごろに虚無(楠木正勝)が広めたという伝承があるが、 史実として確実に遡れるのは17世紀までである。 名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する。 語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、 7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、 中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが 一尺八寸であったためと伝えられている。 演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。 英語ではshakuhachiあるいは、Bamboo Fluteとも呼ばれる。 真竹の根元を使い、7個の竹の節を含��ようにして作るものが一般的である。 上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。 一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。 尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。 これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。 ★尺八について(歴史)|公益財団法人 都山流尺八楽会 http://www.tozanryu.com/introduction/shakuhachi/shakuhachi01/ 尺八ってどんな楽器? 尺八は真竹(まだけ)の根に近い部分を7節使うのが一般的です。 しかし近年は廉価な木製、プラスチック製の尺八もあります。 標準管の長さは一尺八寸(約54cm)で、一尺八寸管、略して八寸管とも 呼ばれています。半音(一律)刻みでいろいろな長さの尺八がありますが、 一尺八寸管以外によく使われるのは、一尺六寸管です。 尺八の長さと音程の関係は短いほど音が高く、長いほど低い音が出ます。 同じエアリード楽器に分類される楽器としては「リコーダー」「フルート」「オカリナ」などがあります。 ●尺八の歴史をさかのぼってみよう ・古代尺八(雅楽尺八)の伝来 ・一節切(ひとよぎり)尺八の普及 ・虚無僧の登場 「慷月調」作曲の前年、明治35年(1902)11月 奈良で撮影した虚無僧姿の流祖(右) http://www.tozanryu.com/introduction/shakuhachi/shakuhachi01/images/image05.jpg ・尺八ってこんな楽器です! http://www.tozanryu.com/introduction/summary/ 竹で作られた管楽器です。中国(唐時代)から伝来したものが始まりとされ、楽器の長さ(一尺八寸)がその名の由来とされています。他の楽器には無い奥深い音色を奏でることができます。 ・「都山流」は国内最大と言われる尺八の流派です 120年以上続く尺八の流派です。尺八には様々な流派があり、都山流は「流祖中尾都山」が明治29年(1896)に大阪にて創始しました。現在は京都に本拠を置き、若手からベテランまで多くの著名な演奏家を擁し、教授資格を持つ師匠は約4000名に及びます。平成28年(2016)に創立120年を迎えることができました。
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