#昼12時のお弁当研究所
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honnakagawa · 20 days ago
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6月6日(金)open 12-19
今日も一日皆さまありがとうございました! 一番のお客さまは生まれてまだ一年も経たない、ぴかぴかの命。 大き��て澄んだ瞳で、庭の鳥たちや風で動くもの、私が声を発するとじっと見つめてニコニコしていました。 はぁ…赤ちゃんという生き物に触れると、心が磨かれたような気持ちになるのが不思議だね。 ありがとう。 それから中村一般さんの手描きのポップが風で落ちたのをきっかけに、中村さんと出会って本を選んでくれた方や、涙を流して一緒に笑いながら出口ワールドを楽しんでくれた常連のお客さまや、癒されに来ました〜と来てくれた建築士さん、岡野さんと佐内さんの本を選んでくださった最後のお客さま、などなど、一日があっという間でした。 届いた本たちを今日はストーリーズではなく、投稿にしてみます。 お取り置きなど、お気軽にお声掛けくださいね。
それでは明日は、お知らせの通り12時から17時半までの営業となります! ご不便をおかけいたしますが、何卒よろしくお願いいたします。
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kishinomomo · 5 months ago
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霜対策
桃の霜対策                       
2024/3/17
桃の霜被害について
岡山県では、2021年に清水白桃が霜の被害を受けている。
桃の花蕾は、-3度以下で枯死するため結実が見込めない。
天気予報の気温に対して畑の温度は2度以上低い場合が多いので、天気予報が氷点下の数字を表示する場合は対策が必要
岡山農業試験所のデータによれば、
清水白桃の場合、花蕾赤色期(おおむね3月中旬)マイナス3・2度
▽ほころび始めの花弁露出始期(3月下旬)同3・8度
▽花弁露出期(3月下旬~4月上旬)同3・3度
▽開花前後(同)同3・0度▽満開期(4月上旬)同3・1度
▽落弁期(4月上中旬)同3・0度
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低温で雌しべが茶色になったつぼみ(左)と正常なつぼみ。変色して枯死すると結実しない(岡山県農業研究所提供)
ももでは凍霜害の影響が胚及びその周辺部に見られるので、摘果前には必ず果実を切断し、障害の程度を確認する。着果している高さ等の樹冠内の着果位置によっても被害が大きく異なるので、結実状況を確認した上で、着果調節を実施する。予備摘果は、園地や品種、樹ごとに、結実や生理落果の状況を確認し、被害の状態が明らかになるまで遅らせ、着果量の確保に努める。また、結実が明らかになった品種や被害程度の軽い樹から実施し、被害が著しい場合は実施しないか、最小限の摘果とし、着果量の確保を優先する。
このような桃の霜被害は、東北地方で多くい発生する現象であったが、近年の地球温暖化により、桃の開花時期が前倒しされ、天候の不安定な時期に開花するようになり、岡山でも深刻な被害が発生するようになった。
対策
桃の蕾が寒気に長時間暴露されない条件を人工的に作り出す方法
防風ネットを上げて寒気が停滞しないようにする。下斜面の草刈りをして寒気が流れやすい環境を作る
前日の昼間、地中に蓄積された熱が放出されやすいように、地表の草を刈る、敷き藁を除去する。地表が出た状態にする
潅水をして畑の乾燥を防ぐ、蓄熱を高める
以上の方法は、低コストであるが効果は限定的、大きな寒波には無力である。
2024年3月現在、わが果樹園で早朝の温度を測定した結果、大畑の下の段が最も冷気が停滞しやすい。冷え込んだ朝は他の果樹園に比���2℃以上低い値を示した。
開花の早い白皇が最も被害を受けやすく、長年結実が悪かったのも冷害の影響ではないかと思われる。大畑の下の段は窪地で冷気が停滞しやすく、周囲の雑木林が茂り地熱の蓄積と放散が劣る。
燃焼法
石油や炭、薪などの燃料を積極的に燃やして畑の温度を上げて霜対策をするのが燃焼法
果樹園に多数の燃料を設置し、深夜から日の出まで一定の条件で燃焼することにより、つぼみの温度を限界危険温度以上に保つ。
燃料設置密度  10アール当たり40~60  3~5m間隔 果樹1本あたり5~7個程度
使用燃料
1.デュラフレーム 2.27kg 18900kcal 90x90x330mm   amazonn1500円
安定して燃焼し、管理が楽、広範囲で使用する場合は金属容器が欲しい。
作業は簡単で、延焼防止のみ注意すれば、添加後放置して車の中で待機できる。しかし運用コストは高価である。
2.薪  燃焼開始までに時間がかかり多数の槇野燃焼状態を一定に保ち、安全管理を行うことは困難、廃材などが入手できれば安価であるが、別途購入するとデュロフレームに対する優位性は皆無。火力を安定させ安全性を確保するには、消火設備を備え、平坦な果樹園で10アールが限度。
3.灯油  4リットル程度の金属缶に灯油を1.5リットル入れてキッチンペーパーロール、もみ殻、などを入れて芯にして添加する。
石油ストーブとは異なり、簡易な方法で灯油を燃焼させるために大量の煤が発生する。装備や衣服は汚れるので注意、
燃焼方法は大きく分けて3種類
煎餅などの四角い金属缶を使用した方法、
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鳥取で開発された方法、30x5㎝程度にカットしたロックウールを箱の数だけ準備して、缶の中に灯油を入れ蓋を半分して点火する。蓋の面積で火力を調整し、ロックウールを固定し、消火も行う。30cm角の缶で2時間程度燃焼可能、火力調節が可能だが、大量の缶を管理するのは現実的でない。不要な缶を集めるのが困難、購入する場合1個1000~1500円、汚れた缶の保管にかさばる問題もある。
不要な缶を使用し補助的に用いるのが妥当
ミルク缶などにキッチンペーパーの半切り、トイレットペーパーを入れた方法
今回、主に使用した方法、火力が一定で管理しやすい。
容器はダイソーで購入した220円の金属バケツ園芸用を使用した。若干の灯油漏れもあったが、草刈りを徹底し地面が濡れた状態なら問題ないレベル。
前日から準備して畑に配置する場合は要確認
芯にはキッチンタオルを半分に切断したものを使用、きれいに燃えて燃え残りも少ない。トイレットペーパーでも可能だが繊維が詰まっており酸素の供給が少ないため芯が燃え残り延焼のリスクがある。
ペール缶に剪定枝を入れた方法
20リットルのベール缶や一斗缶に剪定枝を入れた場合、大量の燃料を必要として火力が強く現実的ではない。剪定枝の量が多いほど灯油の気化が促進され完全燃焼しやすく火力は低下するが、長時間燃焼する。
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(表7)資材別燃焼法の特徴
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※ 灯油は引火性が強いので燃焼中の給油は絶対行わない。
燃焼法の注意事項
a 点火は、園地内の気温を観察しながら、安全限界温度より1℃高い温度で行う。
b 点火は園地の周囲からはじめるが、くぼ地など冷気が停滞する場所がある場合はそこから点火する。また、点火は一度に行わず園内の約半数を点火した後、気温の降下状況により残り半数を点火し、さらに必要な場合は点火数を増やして温度を調節する。
c 火力の調節は、防霜資材の設置数で行う。点火後は、気温の変化を観測しながら火力を調節するが、特に、日の出直前は最も気温が下がるので火力が落ちないよう注意する。
d 住宅地や工場付近で燃焼法を用いる場合は、煙の発生等には十分注意する。
図2 危険限界温度と点火時刻
時刻     午後6時   午後8時   午後10時   午前0時
温度      6℃     3℃     2℃      0℃
前日の夕方に上記の気温の場合、準備が必要
<ペール缶、キッチンペーパー等を活用した燃焼法の実施方法>
1 準備するもの
(1)ダイソーの園芸用小型バケツ    50 個/10a 油屋は1本の果樹に4個
(2)キッチンペーパー 25ロール/10a 
(3)灯油       75ℓ/10a 
(5)消防署への届け出、消防署へ出頭して書類に場所(番地まで)時間、燃料の種類を記入し捺印する。
(6)消火用ホース、水源、ステレオスプレーヤーなど、消火用スコップ、バケツ程度の水は灯油に対しては無力であるから、土をかぶせた方が効果的
キッチンペーパーを半分に  灯油とキッチンペーパーを入れる 点火 120分後
2 燃焼資材の調整  ・キッチンペーパーをカッター等で半分にする。 2 燃焼資材の調整 ほ場の様子 3 点火
(1)キッチンペーパーをペール缶に入れ、灯油を1.5L(8~9分目程度)入れる。 
(2)気温がプラス0.5℃まで下がった頃に点火する。 
(1)キッチンペーパーをカッター等で半分にする。
 (3)バーナーを用いて、迅速に点火する(ライターは危険)。 3 点火 
(4)2時間程度燃焼可能。灯油の継ぎ足しは完全に火が消えてから行うこと
黒煙が発生するので、民家付近で実施する場合は注意、作業中の衣服や手足、顔は煤で黒くなるので汚れてもよい服装で、かつ可燃物は避ける。
容器内に灯油を含んだキッチンペーパーが残る場合があるが、そのまま保管��ると危険な ため、燃え残りは適切に処分する(できるだけ燃やし切る)。 
実際の作業(2024年3月22日)
ダイソーなどで資材を購入
スマホの天気予報を絶えず確認し、翌日の早朝の気温がマイナス1度以下になるようなら,資材の準備を行い,装備を軽トラックにのせる。燃料も130リットル程度準備
起床 朝2時に起床,大畑から作業を開始,大畑の方が気温が低く開花が進んでおり,設置数も少ないからである。白皇2本を中心に12個の空き缶を並べ,灯油を満たす。数が少ないので空き缶とロックウール,ヤカンとロックウール,食用油ろ過機等を中心に配置した。3時の時点で温度計はマイナス4度、3時過ぎには点火した。
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油屋に移動、ダイソーのバケツにキッチンタオルを入れた〃規格の燃焼器を56個(1本の桃の木に4個)配置,3時30分に点火、容器に灯油を満たし状態で約2時間の燃焼が可能だった。
大畑の温度変化   大畑では火力の高い燃焼器を使用したが、温度計はマイナス4度を維持した状態で安全な温度には届かなかった。(前日はマイナス1度間で温度が上昇)当日は寒気が強く。現地おは窪地だったため寒気が集中したのではないか?今後は燃焼装置を増やす必要がある。
燃焼装置について、
安全性、均一性、給油の手間、運用コストが問題
油屋の温度変化   ワイヤレスの温度ロガーを使用して温度を記録した。センサは園地の中央部、高さ130cm程度に設置した。(周辺部はグラフよりも1度以上低い可能性がある)到着直後の気温が危険水域であったのですべてに点火、30分で気温はマイナス1度間で上昇、燃料節約のため3割程度を消火する。周辺部を3個、中心部を2個燃焼状態を維持する。温度はマイナス2度まで加工、��時を過ぎると燃料の切れたトーチが増えて燃料補給に追われる。燃料切れとてんかを繰り返しながら温度のグラフが加工している様子が見てとれる。
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油屋3月22日の燃焼法 温度変化3時30分より6時30分まで
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yaasita · 3 years ago
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https://nordot.app/861917205323988992
現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか(後編) 身元判明、そして分かったこと 2022/2/21 07:00 (JST)© 株式会社全国新聞ネット
タグ 47リポーターズ 社会 広島 特集ページを見る 地域再生大賞 📷 全国の地方新聞46紙と共同通信社が、地域モデルとなる活動団体を表彰しています
行旅死亡人の女性。遺品のアルバムから 📷 現金3400万円を残して亡くなった高齢女性。警察も探偵も身元を明らかにできなかった「行旅死亡人」だが、遺品の印鑑に刻まれた「沖宗」という珍しい姓を手がかりに、私たちはついに女性の身元を特定した。(共同通信=武田惇志、伊藤亜衣)(前編はこちら)https://nordot.app/861908753767972864?c=39546741839462401▽全国に100人程度しかいない珍しい姓インターネット上の情報では、「沖宗」姓は全国に100人程度しかいないという。沖宗家のルーツをブログで追究する広島県府中市の自営業、沖宗生郎さん(72)にメールで調査への協力を依頼すると、「私の親戚かもしれない人ですしね」と快諾してくれた。まず、電話帳で調べた各地の沖宗さんに取材しつつ、生郎さんが持つ江戸時代からの系図とつなぎ合わせることで、沖宗一族の��系図を作成することにした。その中に、よど号ハイジャック事件(1970年)の際に搭乗していた元客室乗務員の沖宗(旧姓)陽子さん(73)も含まれていた。彼女が保有していた詳細な系図を提供してくれたこともあり、ほぼ全国の沖宗姓の分布を網羅。その結果、系図が判明しないのは広島市内に点在する沖宗姓に絞られた。そこで昨年6月中旬の休日、広島市へ赴き、接触できていない沖宗姓を尋ね歩いた。2日間で計約10軒の沖宗さん宅を訪れ、「周囲で行方が分からない女性はいませんか」と聞いたり、女性の写真を見せたりして回った。しかし「聞いたことありませんね」と言われるばかりで、ほとんど手応えが得られなかった。元広島市議の沖宗正明さん 📷 唯一、気になる話をしたのが元広島市議(自民)の沖宗正明さん(70)だ。玄関先で取材に応対してくれた。事情を説明すると「今春、亡くなった母には妹がいたそうですが、どこにいるのか…。母は何も話したがらず、気になっていました」と明かし、「市役所で戸籍を確認してみます」と言ってくれた。▽興奮した口調で「私の叔母でした」「千津子は私の叔母でした」。週明け、普段の仕事をしていると正明さんから携帯に電話があり、興奮した口ぶりでそう告げられた。戸籍上、千津子さんは正明さんの母である照子(故人)さんの妹で、4人姉妹の次女に当たっていた。姉妹は広島市南区の宇品地区の出身で、病院のカルテにあった「23歳まで広島におり、3人姉妹がいた」との生前の本人証言とも合致する。唯一違ったのは、生年が1933年となっていたこと。45年9月生まれとなっていた年金手帳の記載より12年も古かったことだ。33年と45年9月の間には、第二次世界大戦がある。「なんらかの理由で、生年月日を45年8月6日の原爆の日の後にずらそうとしたのだろうか?」との疑問も浮かんだ。正明さんによると、経緯は分からないが照子さんは被爆者健康手帳を持っていたという。それにしても実年齢と干支(えと)が1回りも違っていたとは衝撃的だった。戸籍謄本と年金関連の書類。生年月日が12年も違っている 📷 相続財産管理人の太田弁護士を通じ、判明した事情を兵庫県警へ連絡したところ、事態は動きだした。警察はDNA鑑定を実施。そして4カ月後、ついに遺体が「沖宗千津子」さん本人と判明した。婚姻歴がなく、自���の契約名義だった「田中」姓には改姓していなかったことも分かった。正明さんもその後、少しずつ叔母の記憶を思い出していった。「確かに、子どものころ会った覚えがあります。けれど、彼女が30歳前後に広島を離れて関西へ出て以降、疎遠になったままでした。こんな形で再会するとは…人生とは何かを考えさせられる出来事です」残念ながら、千津子さんの姉妹のうち2歳年上の長女の照子さんと、10歳年下の末妹の2人は亡くなっていた。存命の三女も認知症で、詳しい話を聞くことはできない。めいの一人は「母は3姉妹だと聞いていた」と驚いていた。このエピソードも、千津子さんが何らかの事情で身を隠して生きていかざるをえなかった事情を私たちに想起させるものだった。▽「卒業後ぱたっと音信が…」千津子さんが生まれた広島市南区の宇品地区も訪れた。すでに姉妹の生家はなく、新たな住宅が建っており、当時を知る人は見つからなかった。一方、姉妹の母の生まれ故郷で、千津子さんが国民学校と中学時代を過ごした広島県呉市川尻町の小用(こよう)地区には、確かな痕跡が残されていた。広島県呉市川尻町の小用地区の風景 📷 瀬戸内海に面した港町、小用地区は漁業と海運の町として知られており、姉妹の父も船乗りをしていた。父母がどのように出会い、結婚したのかは定かではない。地区は山に沿って小さな民家が所狭しと立ち並んでいるが、一帯は空き家が多い。一歩入ると、車が通れないほど細い道が迷路のように続いていた。沖宗家を知る人を訪ね歩いて1時間。出会ったのが中土井ヒサヱさん(87)で、千津子さんより1学年下だが、同じ中学校に通っていたという。千津子さんの写真を見せると、「これや、千津子さんやな。千津子さんはどこ行っとったんかね。ええような人じゃった」と目を細めた。「千津子さんの親戚が住んどるけん」。教えてもらった住宅に行くと、親族の女性が現れ、千津子さんの実家を案内してくれた。坂の途中に建つ木造の平屋は葉に覆われ、長年空き家となっていた。千津子さんが住んでいた平屋 📷 太平洋戦争末期、広島市で国民学校生徒の疎開が始まったころ、11歳前後だった千津子さんは宇品地区から小用に疎開。終戦後に隣町の安登中学校を卒業している。中学時代の千津子さん(前列右から3番目) 📷 中土井さんの紹介で、国民学校と中学時代の同級生だった川岡シマヱさん(88)とも会うことができた。隣町に続く長い坂道を通って毎日、一緒に登校していたという親友だった。「千津ちゃんは、たいへんおとなしい人なんじゃわ。学校行きよる時、うちが家から出てく��のを遠慮がちに待ちよってねえ」。中学時代の千津子さんとの写真を見ながら「千津ちゃんは髪が癖毛じゃった。歌が上手やった」と懐かしんだ。千津子さんは原爆投下時、疎開で小用にいたことになり、川岡さんも小用からキノコ雲を目撃したという。「中学を卒業して、広島市に戻ったのを最後にぱたっと音信がなくなって。どうしとんじゃろうと、村でも話題になっとったが…」川岡シマヱさん 📷 ▽姉妹でたばこ工場に勤めていたおいの正明さんによると、母の照子さんは日本専売公社の社員だったが、一時期、姉妹で広島市南区の広島工場に通っていた記憶があるという。後身の日本たばこ産業(JT)が運営する「たばこと塩の博物館」(東京都墨田区)に問い合わせると、1956年度の広島工場の名簿が残されており、「巻上課」に「沖宗千津子」の名前があった。元社員数人に問い合わせても彼女を知る人はいなかったものの、唯一、広島市の丹羽和光さん(81)が覚えていた。丹羽さんは59年に専売公社に入社。丹羽さんによると、当時巻上課には約200人の社員がおり、一番人数の多い部署だった。そのうち男性は5分の1程度の女性職場で、千津子さんは機械の操作員だった。名簿に残された氏名=「たばこと塩の博物館」蔵(一部修正しています) 📷 丹羽さんが千津子さんのことを覚えているのはなぜかと問うと「小柄できれいな人だったから」とはにかんだ。67年に新しい機械を導入したころには千津子さんは退職していたと記憶しているらしい。千津子さんは生前、「23歳の時に広島を出た」と話している。実年齢に合わせると当時は35歳だったことになり、1968年ごろだ。高度成長期の真っただ中。大阪は、70年開催の万博へ向かって活気にあふれていた。私たちは再び、原点の尼崎市にあった千津子さんの自宅に戻った。広島からここに移り住んだ彼女はどんな生活をしていたのだろうか。94年に製缶工場で起きた労災事故からさらなる手掛かりを見つけられないかと考えた。製缶工場は99年に看板を畳み、跡地には住宅が建っていた。周辺を訪ね歩いて出会った経営者の親族女性は、あの事故のことを覚えていた。千津子さんが普段より早く昼休みから工場に戻り、業務を再開した直後に事故が起きたという。沖宗千津子さんの年表 📷 60歳を過ぎてから右手指を全て失う事故は、彼女にどのような影を落としただろうか。女性によると、事故後は工場ともめることもなく退職したということだった。「(千津子さんには)旦那さんがいたはず。周囲とあまりコミュニケーションを取らず、誰に対しても心を開いてなさそうだった」と打ち明けてくれた。▽遺骨は届けられ、遺産も解決したが…警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている。何らかの事情で地縁や血縁から離れた末、人知れず亡くなる人々は万単位で存在するが、千津子さんもその一人だった。遺品には子どもの写真が2枚含まれていた。1枚は姉照子さんの次男、もう1枚は妹の長女と判明した。長い間、連絡を絶っていた姉妹の子どもの写真を大事に持っていたのはなぜなのか。故郷を離れて世間の目から隠れるように暮らしながらも、ずっと家族のことは忘れていなかったのだろう。無縁仏として尼崎市の斎場に納められていた千津子さんの遺骨は、昨年末、おいの正明さんの元に届き、菩提寺に納められた。自称・田中千津子さんが沖宗千津子さんと判明したことで、その相続人も確定し、遺産の件も無事、落着した。千津子さんが育った町を歩き、友人や知人を取材していると、ほとんどが無縁仏となる「行旅死亡人」にもそれぞれの人生があり、生の痕跡が確実にどこかに残されているものだ、ということを強く思った。しかし、それでも彼女がどんな後半生を送ったのか
は分からないまま。尼崎市のアパートを契約した「田中〇〇」という男性がどこの誰かも分かっていない。千津子さんの部屋には「田中〇●(〇〇と漢字が一字異なる)」宛ての大型家電量販店やガス会社からのはがきが残されていた。「田中〇●」の名前で購読していた新聞は2011年に契約を打ち切っていた。沖宗千津子さん(右)と一緒にいた男性 📷 千津子さんはなぜ広島を出たのか。12歳も年齢を偽っていた理由は何だったか。アパートで亡くなるまで身を隠すように暮らしていた日々について、何か新たな手掛かりは見つかるだろうか。「故郷を50年以上も離れ、叔母はどんな人生を送ったのだろう。幸せだったんでしょうか?」。正明さんの言葉が重く切なく響いた。情報提供やご意見は共同通信大阪社会部にお寄せ下さい。メールアドレス:[email protected]/ツイッター:@kyodonewsosaka
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verymuchmore · 6 years ago
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🦚カリンバ作りワークショップ&LIVE🦚 前回大好評につき第二弾開催☆ 平日の開催になりますが 潮風が心地のいい江ノ島エリア 江ノ島電鉄線、江ノ島駅から徒歩3分。 賑わう商店街から1本入った場所にある 『GENERAL STORE』リペイントが施された 古着やデニムを中心に、陶器をはじめ雑貨なども 取り扱うショップでのワークショップ。 今回は隣接のレストランが定休日の開催なので お昼は、お弁当を予定しています(1000円予定 19時30分からはカムアシビ with Bunでの セッションライブを予定してます。 チャージは、ワーク参加の方は2000円 ライブのみ参加の方は3000円になります。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ☆1dayカリンバ作りワークショップ☆ 今回は通常2日間掛かるワークを 1dayで仕上げていきます。 制作するカリンバは僕が ライブやレコーディングで 使用してるのと同じタイプのを作ります♪ 工程は5〜7時間(個人差があります)で 仕上がる様にナビゲートしていきます。 カリンバの上板の絵柄を バーニングアート (焼きながら描く手法)で描きます。 もちろんパステルや色鉛筆などでもOK その際はご自身でご用意をお願いします。 描き弦を入れチューニング、 そしてカリンバに息吹を入れ誕生させます。 世界に貴方だけのカリンバを 自身の手で創りましょう。 *汚れてもいいタオルのご持参をお願いします。 こちらをお読みになってワークショップの 準備をお願いします↓ カリンバ作りワークショップにご参加の方へ https://bit.ly/2M5huLB カリンバ(親指ピアノ)ってどんな楽器? https://bit.ly/2KPAYPG Bunカリンバ作りワークショップ写真日記 https://bit.ly/2w6asvU ....................................... 日程:2019年7月9日(火) 時間:10時より 定員:12名限定 ☆要予約 参加費:27,000円 (5世代目の弦付+材料費+レクチャー代+場所代+税込) *カリンバ5世代目の弦が誕生しました☆ 2年間の研究の末に完成した 素晴らしい仕上の弦になりました。 その5世代目の弦使用ですと 通常+3.700円が今回はフリーに させて頂きました。詳しい弦の情報は https://bit.ly/2OBWNEF *お申し込み* このイベントページにご参加の表明と 「7/9 カリンバWS」とタイトルを明記の上、本文に < 1 > 氏名 < 2 > 携帯電話番号 < 3 > ご住所 < 4 >メールアドレスをご記載の上、 bun0213(A)icloud.com まで(A)を@に変えて メール、またはFacebookの メッセンジャーでお申込み下さい。 090-4613-8232(Bun)へのショートメール可 *キャンセルポリシー  開催日1週間前 金額の50%   開催日の2日前 金額の100% ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 会場:ACE GENERAL STORE    (エース ジェネラル ストア) 江ノ島電鉄線、江ノ島駅から徒歩3分 神奈川県藤沢市片瀬海岸1-13−8 https://muuseo.com/square/shops/106 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ Bun(ブン) Profile カリンバ(親指ピアノ)、 ネイティブアメリカンフルートなどの民族楽器奏者。 カリンバ、絵画、ライトオブジェを創作。 世界40ヶ国の国々を旅する中で、 自身の音霊に目覚めソロ活動を 軸にエスニックアンサンブルユニット 『KOH-TAO』を主催し、 『Earth Conscious』やディーヴァSandiiとの ユニット『SandiiBunbun』に参加。 フジロックをはじめ国内や海外でのフェスで パフォーマンスとスキルを披露。 そして一昨年には石川県金澤神社での 「天音天舞奉納茶会」を企画公演や 奈良・天河大辨天社での十六回目の奉納会など 神社仏閣などで演奏もしつつ 「地球一周の船旅・ピースボート」の 水先案内人・講師としてライブや公演も開催。 TV番組やCMやJAL国際・国内線、 映画作品などに楽曲を提供し、 震災以降には被災地復興支援にも力を入れ 「みんなの力Live 〜今、私に出来る事 」を展開。 タイ・バンコクでの震災チャリティーイベント 「Bangkok TSUMUGU Japan」に出演 そして地元東京都江戸川区平井では 慈善活動団体『平井サティ』 (サティとはネパール語で友達)を 立ち上げ地元からも世界へと発信続ける。 現在は東京都北区赤羽に Art&Space Mt.Moon/マウントムーンを構え ここから音楽やアートを発信し続けてる。 Bunオフシャルサイト  http://www.bun-kalimba.net/ #カリンバ #Kalimba #親指ピアノ #デザイン #ウッドバーニング #バーニングアート #BUN #BunKalimba #アート #カリンバワークショップ #カリンバリズムワークショップ#カムアシビ https://www.instagram.com/saorinpeacedelic/p/Bv2zrEuHHxj/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=13lww7nzs99ri
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tsuntsun1221ts · 6 years ago
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2018.12 鎌倉アルプス
近場で日帰りで帰ってこれる山はないかなーと探していたところ、茂原から乗換なしで行ける鎌倉に「アルプス」と冠したハイキングコースが存在するのを知り、観光地でもあるのでちょっと行ってくることに。
【コースタイム】茂原駅  (0652)→ 逗子駅(0918)→名越切通 (1005)→ 水道山展望台 (1025)→ 関東の富士見百景 (1040)→ 衣張山 (1050)→ 天園ハイキングコース明王院方面入口 (1115)→ 天園休憩所 (1150)→ 休憩 → 天台山 → 太平山 (1225)→ 鷲峯山 → 勝上嶽(1250)→ 半僧坊 (1255)→ 天園ハイキングコース今泉台4丁目入口 (1310)→ 明月院 (1320)→ 亀ヶ谷切通し→ 化粧坂切通し → 源氏山公園 (1350)→ 大仏坂切通し → 長谷配水池 (1425)→ 極楽寺駅 (1435)→ 稲村ヶ崎駅入口 (1450)→ ヨリドコロ→ 稲村ヶ崎駅 → 鎌倉駅 (1701)→ 茂原 (1915)
歩行 5時間20分(休憩含む) 19.8km
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茂原から逗子まで乗り換え0回!バスに乗り換える必要もなくそのままハイキングをスタートできるし、かなり快適。
逗子駅に降りたのは初めてだけど、割と栄えてるし人が多い。線路沿いの商店街を通っていく。途中の八百屋さんが長ネギ3本100円とかブロッコリー70円とか、恐ろしく安い値段で売られていてすごく買いたくなった。長ネギもってハイキングする人なんていないだろうけどな。
まず向かうのは名越切通し。幹線道路に沿って向かうのだが、そのまま進むと切通し下のトンネルをくぐってしまう。途中で看板も何もないので、トンネル入口まで着いたときに、自分が行きたいのはこの真上であることに気が付いた。本当は「栄光LPGスタンド」直前で左に曲がるのが正解(写真右上)。こんなの分かるか!
道を曲がるとすぐに坂になる。この道であれば確かにトンネルの上まで登れそうだ。普通の住宅街の道なんだけど傾斜がエグくて、車で登るには苦労しそう。登りきった十字路は右に曲がる。道なりに進むとコンクリートの道から土の道になる(写真左下)。ここがさっきのトンネルの上かな。向こう��ら小学生が先生に連れられてゾロゾロとこっちへやってきた。地元のことを勉強する校外学習だろうか。写真を撮るために通過を待っていたらめっちゃジロジロ見られた。
名越切通し(なごえきりどおし)とは、鎌倉時代に尾根を掘り割って作られた通行路で、鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道だったとのこと。1233年の資料にも名前が出てくるらしく、約800年前から存在が確認されている。この目で見てみると、たしかに山がかち割られたように強引に道を作った感じがする。しかもずいぶん深く掘ったようで、両側が5mくらいの崖になっている。この道を切り開いた鎌倉時代の人間たちのエネルギーに圧倒される。
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切通しを通過してすぐのところに、まんだら堂やぐら群への分岐がある。せっかく来たので向かってみるが土日しか公開しておらず、本日は平日のため見学できなかった(写真左上)。分岐まで引き返し衣張山方面へ向かう。道中は割と整備された道で歩きやすいし、この時期でも緑が多いのが印象的。途中で通過した展望台のようなところは駿河湾の一部が見渡せる(写真左下)。一応富士山も見えた気がするが木々がちょっと邪魔かな。
先へ進むと次に現れるのが「お猿畠の大切岸」という、高さ3~10mの断崖が尾根に沿って 800m以上連続する遺構(写真右下)。最近の研究で石切作業跡であることがわかったとのこと。両側でススキが揺れる中、大切岸の横を通過していくのがなんか季節感あり歴史感ありで、この日みたく天気が良いときはハイキングコースとして最高だと思う。
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大切岸を近くで見てみると、崖の一部が削られてえぐられた感じ。800年の年月を経て風化し、なめらかな壁になっている。鎌倉時代の石切作業ってどんなだったんだろう、ずいぶんと労力がいりそうだけど。
大切岸を通過し、次に向かったのが水道山展望台。途中の分岐を、上り坂のコンクリートの道の方へ進むとたどり着く。ここからの展望が素晴らしかった!駿河湾が広く見渡せ、富士山を遮る木々もない。開放的な広場にベンチが2つ備えられていて、座って休憩しながらこの景色を眺めることができる。山登りしながら青い海を間近で展望できるところってそんなに多くないと思う。通過するのはもったいない穴場なので、次に来たときも休憩地点としてまた利用させてもらおう。
分岐まで戻り、本来のルートへ。少し進むとそのまま住宅街が現れる。ここからまた山に入るまでの道は「関東の富士見百景」と言われており、進行方向左側正面に富士山を見ることができる(写真左下)。横に植わっているのはおそらく桜の木で、春なんかは富士山を眺めながらのお花見ができて、それこそ百景の名にふさわしい景色となるんじゃないかな。
そして再び山の中に入り、いつの間にか衣張山山頂を通過していた。途中展望広場みたいなのが二箇所あったような気がしたのだが、それのどちらかが衣張山山頂だったと思う。看板とか目立たたなかったから気が付かずに通過してしまった。写真右下がおそらく衣張山山頂から撮ったと思われる景色。
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衣張山を通過すると100m以上一気に下る。登りだと結構きつい道だったかも。草木が生い茂っており、快晴なはずなのに結構暗い。この林を通過すると市街地へ出る。以上の道は今回の縦走のほんの前哨戦でしかないんだが、途中にいくつもの展望広場や史跡を通過し、しかもこれから歩く道と比べて人が圧倒的に少なく静かであった。ぶっちゃけ以降のハイキングコースはそんなに展望よくないし、今回の登山の良いところの7割はこの道だった。これから向かうコースは「天園ハイキングコース」と言って知名度があるわけなんだけど、こっちの道の方が断然人気になってもおかしくなく、かなり不思議。鎌倉アルプス縦走するなら絶対オススメ!
市街地へ降りたらしばらく道路を進み、明王院へ向かう。この神社の裏手に天園ハイキングコースの入り口がある。
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明王院へは入らず、神社と民家の間の細い道を進んでいくと登山道っぽくなる。このとき、この道を真っ直ぐ進み続けると行き止まりとなる・・・って民家のおじさんが親切にも教えてくれたんだけど、正直何も言われなかったらまっすぐ進んじゃうよ、いかにもな道だし。登山道は写真左下の、石段を登り林に突入する方が正しい。いやいや、これどう考えてもこれまっすぐ進んじゃうから!しかも石段の道は民家の敷地っぽい感じだったし。そして石段の方の道を進むと最初のうちはかなり急勾配。ロープとか無いので、土や落ち葉でずり落ちやすい。
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藪のトンネルをくぐり、切通しと思われる道を通過するなど40分ほど進むと、なんだか人の声��聞こえてきた(今までは誰ひとりとして遭遇しなかった)。ちなみに途中まで特に展望など無し。
人の声が聞こえてきたのは天園休憩所という、なんかモノがあちこちに散らかっている小屋から。ちょうどお昼時でもあったし、ここでお昼休憩にしようかなと思い寄ってみる。ベニヤ板でできた手作りの椅子とテーブルが設置されており、20人も座ったら満員になりそうな程度の休憩スペースである。営んでいるのは老夫婦かな?
注文したのはおでん。普通おでんといえば醤油ベースとか、鰹だしの聞いた茶色の汁だと思うんだけど、ここのは塩味の無色透明の汁。具はうどん・豆腐・わかめ・人参・こんにゃくと、自分の常識が間違っていなかったらこんにゃく以外は���でんとしては珍しいのでは?まぁこういう郷土料理なのかもしれん。決して美味しくないわけではないが、やはり食べ慣れたおでんと比べるといろいろ物足りない感じがするのが正直なところ。からしが異常に辛かった気がするが、これは気のせいか?この小屋の名物は「ふろふき大根」で、他の人が注文したのを見たのだが、煮た大根1/2をタワーのように皿に立てて、その周りをキャベツで覆って味噌ダレをかけたもの、といえば伝わるだろうか。見た目のインパクトがすごすぎた。あれは1人じゃ絶対に食べきれないかな、自分は
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この天園ハイキングコースは明王院以外にもいくつか入り口があり、最初のうちは全然空いていたんだけどこの休憩所あたりからは人が急に多くなった。ココらへんは人気のコースなのかも。ところどころ富士山が見れるような展望の良さそうな場所あったし(ただし前述の前哨戦ほどではない)。この日はたしか金曜日だったはずだが、それにしては人がかなり多かったと思う。太平山山頂すぐ近くにある広場は100人くらいお昼休憩していたし、ツアーで来た団体客も見かけた。
ちなみにこの太平山は鎌倉市で一番高い場所なのだそうだ。そして車で上まで上がってくることが可能な模様(山頂のすぐとなりが何かの建物の駐車場になっている)。近くにゴルフ場があったけど、これのかな?
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大平山から約30分進むと建長寺の裏山、 勝上嶽に着く。ここからは建長寺を後ろから見下ろせ、さらにその先には鎌倉市と駿河湾までセットとなっている(写真左上)。朝は天気が良かったが、この時間になると雲が出てきており、もう富士山は見えず。とりあえず急な階段を下り半僧坊まで行ってみることに。半僧坊から先は建長寺への拝観料500円払わないと入れない。建長寺に降りようか迷ったんだけど、ここはこのまま天園ハイキングコースを終わりまで進むことに。おかげでまた急な階段を登り直すことに。
もとの道に戻ってからハイキングコースの終わりまでは10分くらいだったか、市街地へ下り終了となった。ここからまた街歩き。
12月だけどココらへんはまだ紅葉が残っており、チラホラと色づいた木々を見かけた。また10分ほど歩くと明月院という神社に着く。
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この明月院付近から横須賀線の線路にぶつかるまで南下する道が、なかなかに風情があった。道路と民家の間には水路があり、民家に入るにしてもいちいち橋が架かっている。また民家といってもお茶屋だったり美術館だったりレストランだったり、この古風な道に似合った風貌をしており、ここでも時代を感じることができる。
横須賀線とぶつかったところで進路を東へ変える。ちなみに西へ向かうと北鎌倉駅。亀ケ谷切通しに向かうため途中で右折するが、そのまままっすぐに進めば鶴岡八幡宮に着く。
亀ケ谷切通を通過したはずなんだけど、どれがそれに当たるのか正直わからずに通過した。コンクリートで舗装されている道しか歩かなかった(と記憶している)し、今までみたいに尾根を人間が削った荒々しさはまったく無かったので通り過ぎたと思われる。
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亀ケ谷切通しを通過し、源氏山公園へと向かう。途中 地元の中学生と思われる3~5人組をいたるところで見かけたが、おそらくこれも校外学習で、地元周辺の歴史を探ろう的なやつだと思われる。みんな源氏山公園を目指していると思われ、一緒になって歩いていった。
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案の定、源氏山公園では先生が待機しており、到着した生徒を確認して次の場所へと向かわせていた。源氏山公園の源頼朝像を見たとき遥か昔の記憶が蘇ったのだが、ここ小学生の頃来たことある!!たしか小学4年生の頃、学校の校外学習で。ここで昼食のお弁当食べて、上空を飛んでいるトンビを見ていた気がする。一応ここも展望広場みたくなっているけど、そこまで眺めは良くない。まぁこの銅像が有名なのかわからんが、まぁ来なくてもいいかも・・・。
さてお次は大仏坂切通しへ向かう。途中の道、特に展望が良いとかはない・・・。ニワトリがいたよ。
大仏坂切通しも亀ケ谷切通しと同様、よくわからずに通過した。
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面白かったのは大仏坂切通しを下った先の、江ノ電と合流してからの道。民家を抜けてまず現れたのが江ノ電のトンネル。トンネル上の橋は撮り鉄の住処なのか、10人くらいカメラ持った人たちが電車が来るのを待機していた。おそらくトンネルを抜けて出てきた江ノ電が撮れるのだろう。トンネルのすぐ先に極楽寺駅があり、ここから稲村ヶ崎駅まで江ノ電の線路に沿った道となる。
ちょっと驚いたのは、電車と道路を隔てるような柵は一切なく、普通に線路に侵入できる、と思いきや江ノ電も割と頻繁に通過するので、歩いている真横を電車が通っていき迫力ある。平成が終わり次の元号が控えている中、このように電車が街に溶け込むような場所も珍しいのではないか?
やがて正面に海が現れ、今回の旅の終わりが見えてきた。海岸に到着すると正面には大島が、右には江ノ島。さっきまで山にいたのに、今目の前は海。鎌倉は歴史も自然も充実してますなー。
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偶然通りかかって偶然見つけたお店が↑の写真、「ヨリドコロ」。稲村ヶ崎駅近くにあり、古民家をリフォームしたそうで、外観は古いが内装は普通のカフェ。立地が独特で、目の前で江ノ電が通過するのを眺めることができるように線路ギリギリに建てられた物件となっている。
15時くらいに通りかかり、早めの夕食にするか栄えている鎌倉駅まで我慢するか、外から店内を眺めたりメニューを見たりして吟味していると、多くの人がお店の写真を撮ってる。なんか有名なお店の予感がしてグーグルマップで調べてみると、星4.4(205)という驚異の高評価(笑。もうここまで来たら入るしかない!と思い店員さんに人数伝えてから外で待たされること20分。ようやく席が空き店内に案内される。なにせ小さいお店で定員20人くらいだし、やはり人気のお店らしく混んでいたため。
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待機中に何本も電車が通過していったが、外の席では目と鼻の先を江ノ電が通過していく。この時期の夕方だと外は結構寒いけど、それでも敢えて外がいい!という人がたくさんいた。たぶんこれが店一番の名物なのかと思われる(ちなみに外の席はたった3席限定)。自分が通された席は5人が座れる個室で、こんなところを一人で使ってしまっていいのかなーと思った。個室だと窓は線路��を向いておらず、通過する電車の音だけを堪能するという形になる。
おすすめメニューは干物と卵かけご飯らしく、朝は後者を200円台でたのむことができる。昼から夜にかけては干物定食がメインとなるが、値段が最低1000円、最高1700円と決して安くはない。ただ、定食を注文すると卵かけご飯もついてくるので、お店のおすすめを2つとも味わうことができる。
まず干物が焼き上がるまでの時間に卵かけご飯のたまごを準備するよう勧められる。黄身と白身を分け、白身を泡立て器を用いてたくさん泡立てるのがこのお店での召し上がり方のようだ。この作業が結構時間かかるので、定食が出てくるまでの15分くらいで準備しておくのが良いとのこと。
注文した料理がやってくるとご飯に白身をかけ(あまり泡立たなかった)、黄身を乗せて(崩さないほうが良かったかも)めっちゃインスタばえする画となる。味の方は、卵黄が濃厚で、干物は脂が載って外はパリッ!美味しくて皮まで全部食べてしまった。味噌汁は甘味噌を使っているのかな?口当たりが柔らかい気がする。これで1500円くらいと高めだけど、行く価値は全然あり!今回は平日の15時という変な時間だったからよかったものの、休日は2時間待ちになることもあると、お店の人が言っていた。あと、やはりテレビに出たことがあるみたいだねこのお店。
ヨリドコロで早めの夕食を終えたあと、すぐ近くの稲村ヶ崎駅から鎌倉まで江ノ電で移動。 車内はさすがにもうレトロな感じはなくなってきたね。 鎌倉駅から茂原までは総武線快速・横須賀線を利用して乗換なしで帰れるのが本当に便利。ここまでの長距離移動だとグリーン席がお得で、120キロ135分の移動でグリーン席代980円(平日料金)。下の階なら横浜駅まで貸切状態。品川から半分席が埋まり、東京駅でグリーン席も立つほど混雑する。このときちょうど18時。あと鎌倉駅周辺は結構賑わってるので、江ノ電からJRへは乗り換え専用改札は使わず、一度出てぶらぶらした方がいい。
朝夕の気温5℃はくらい、日中は10℃まで上がるが歩くと少し暑くなる。歩行時間は5時間20分で、距離にしてちょうど20キロ。考えようと思えばいくらでもルートがあるので、次は自分なりのルートを編み出してみたいと思う。逗子~衣張山は外せない。次は建長寺へ降りてみようかな、明月院の雰囲気も良かったな。源氏山公園は省いてもよい、極楽寺駅~稲村ヶ崎駅はわりと面白かったし、またヨリドコロに寄ってみたい。
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korehayabai · 5 years ago
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同居の54歳男性を刃物で刺して死なせた容疑で36歳男逮捕「傷つけた覚えない」(MBSニュース)
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同居の54歳男性を刃物で刺して死なせた容疑で36歳男逮捕「傷つけた覚えない」
配信期間:2020/7/2〜2020/7/7
(c) Mainichi Broadcasting System, Inc.
映像情報
MBSニュース
2019年の年末から元日にかけて、大阪府堺市の集合住宅で、当時54歳の男性の脚を刃物で突き刺して失血死させたとして、当時同居していた男が逮捕されました。 傷害致死の疑いで逮捕されたのは、京都府亀岡市の職業不詳・中谷雄貴容疑者(36)です。中谷容疑者は、2019年12月30日から2020年元日にかけて、堺市堺区の集合住宅の部屋で、同居していた東田芳人さん(当時54)の左脚を刃物で突き刺して失血死させた疑いがもたれています。 警察によりますと、中谷容疑者は当時「目を覚ますと部屋の中で東田さんが倒れていた」と説明していましたが、東田さんの近くに血のついた刃物がなく、外部から他の人物が侵入した形跡もないことなどから、中谷容疑者の関与が強まったということです。 調べに対して中谷容疑者は「傷つけた覚えはありません」と容疑を否認しています。
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mf-masahiro · 6 years ago
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座談会 だれが真の名提督か 大東亜戦争中、巡洋艦以上の艦長を経験した5人の元将官たちによる座談会。 かつての上官に対し、高級士官の立場から心中の感慨を赤裸々にする貴重な発言を転載する。 座談会の主題は、「太平洋戦争中の日本海軍の指揮官を歴史的に評価する」  歴史と人物/昭和56年5月号より 小島秀雄  44期 元少将 開戦時、南遣艦隊旗艦の巡洋艦「香椎」艦長として南方作戦従事。軍令部に戻り 日独共同作戦を担当。 昭和18年12月に潜水艦で遣独、ドイツ駐在海軍武官。 松田千秋  44期 元少将 戦艦「日向」のち「大和」艦長。その後、第4航空戦隊司令官として比島沖海戦では 小沢艦隊の中で最前線に進出して作戦参加。 終戦時横須賀航空隊司令官 野元為輝  44期 元少将 航空母艦「瑞鶴」艦長として第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。 のち「瑞鶴」は小沢治三郎中将座乗の旗艦となる。 終戦時第903航空隊司令官 横山一郎  47期 元少将 開戦時、アメリカ駐在海軍武官、昭和17年に日米交換船で帰国。 のち巡洋艦「球磨」艦長。 昭和18年海軍省首席副官 黛 治夫   47期 元大佐 飛行艇母艦「秋津洲」艦長でソロモン方面の作戦に従事、のち巡洋艦「利根」艦長 としてマリアナ沖海戦、比島沖海戦に参加。 海軍内の砲術の権威として著名 司会 野村 實   71期 元大尉 軍令部第1部1課等 対談当時 防衛研修所第2戦史研究室 のちに防衛大学校教授 名古屋工業大学教授 軍事史学会会長   座談会 1 山本五十六 について 座談会 2 古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎、南雲忠一 について 座談会 3 栗田健男、志摩清英、西村祥治、三川軍一、近藤信竹、伊藤整一 について 座談会 4 井上成美、草鹿任一、宇垣纏、田中頼三 について 他 司会 まず聯合艦隊司令長官ですが、この戦争中、山本五十六、古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎の4人がおりました。一番最初が山本五十六大将ですけれども、松田さんは「大和」が聯合艦隊旗艦のとき、少なくとも軍艦旗掲げ下ろしなど1日2回ぐらいは山本大将と顔を合わされたと思います。 松田 時々 おい松田君、いっしょにめし食わんか、と呼ばれて話をしました。山本長官は非常に情誼に厚い立派な方です。ただ戦のやり方についてはちょっと問題がある。やるには練りに練って、これは間違いないという計画でしなければいけないが山本さんと黒島(亀人大佐 44同期)で、参謀長の宇垣(纏中将 40)さん抜きでやった作戦はどうだったか?手を広げてあれも取るこれも取る。計画は壮大だがこれで実際戦って勝てるかどうかは疑わしい。黒島は僕の同期であり非常に良いアイデアを出す人であったが、もともと軍令部の対米戦略は東郷元帥の日本海海戦の思想をもとに永年にわたって練られていたものがあった。それは決して手を拡ろげることが戦に勝つことじゃないんだ。日本の海軍は攻勢防御の思想を伝統としていた。戦略的には守勢であるが戦術的には攻勢だ。ところが山本さんは手を拡げていった。手を広げる以上守らなねばいかん。陸軍の一個師団置いたって守れるはずはないんだ。片っ端から敵は食い潰してくる。そうもその辺が、どういう目的であんなに手を広げたか分からないんだ。 野元 私は新見(政一中将 36)さんあたりと同意見なんだが、軍令部は当時いったい何をやっていたのか。聯合艦隊に引きづられて軍令部は根本的な大戦略を立てていなかったのではないか。 松田 軍令部作戦課に私は3年余いたが、それまでの対米作戦計画は攻勢防御の思想で練りに練ったものだった。あとの人がどういうふうに計画をたてたか知らんが、おそらくそんなに大きい変化はなかったと思う。 司会 野元さんは開戦劈頭のハワイ作戦についていかがですか? 野元 奇襲的効果は認めるが、反面、米国民を一致させたということにおいてマイナスであったと私は感じるんです。 小島 私もあの作戦は運よくいったから良かったものの、ハワイ作戦というものは、あまり適当じゃなかったのではないかと考えているほうの一人です。 黛 「聯合艦隊始末記」で、著者の千早(正隆 58)元中佐が、山本長官のハワイ作戦を非常に褒めている。あれだけの航空母艦を集結して奇襲したという作戦自体は戦術的にいいでしょう。ところで目標は戦艦と航空母艦だったが、空母は結果的には存在しなかった。山本大将は以前から戦艦の実用的価値はないと云っていたが、危険を冒して航空母艦を集結して攻撃し、それだけで攻撃部隊が帰って来たのはちょっと話が合わない。また、訓練での消耗を補給できる程度の航空機生産力にも拘わらず、将来のことを考えずにああいう作戦をしたのは大間違いです。山本大将は飛行機を育てた人と言われているのに、開戦前の図上演習ではこちらの航空戦力は過半数やられるという考えだった。自分の培養した部下の実力を十分に考えなかった指揮官だったと私は思う。それから山本長官は、将来は海上決戦は起こらないということを言ったらしいが、松田さんが言ったように、日本の海軍は伝統的に敵が来るのを待って決戦で撃滅することをずっと研究していた。ところが山本長官は決戦は起こらない、としてどうやって起こすかを考えない。ただ漠然とあっちをやり、こっちをやり、その皮切りが真珠湾だったと思うんです。 松田 アメリカで聞いた話だけど、山本さんが大使館付武官のころ、若い連中に「おい、きょうはトランプをやろう」と言って、トランプ博打をやるんだ。当時の金で50セントとか1ドルとか賭けて。あの人は非常に博才に長じていた。そして賭けた金でご馳走していたという話が残っていたよ。 横山 ぼくはね、山本さんとトランプをやったんですよ。しかし山本さんが博才に富んでいるとは思わないんだ。というのは博打というのは確率を考え、ある程度根拠をもって打つものでしょう。ところが山本さんはブラフ(はったり)なんだ、全部。こっちは確実にやっていくと必ず勝てる。あのブラフのやり方を見て、普通の人はそれば博才と思ってしまった。ブラフは当るときはすごいがだいたい当��ない。僕の合理的なやり方と、彼のブラフとやったら合理的なほうが勝った。それなのに合理的なアメリカに対して山本さんはブラフをやった。 これが非常な間違いだと思うんだ。 司会 横山さんは真珠湾攻撃のときワシントンにおられたのですね。 横山 真珠湾をやるという考えは、当時作戦の構想を練ってみたけども僕の考えにはないんです。なぜなら真珠湾は浅いから沈めたことにならないんです。実際、ほとんど引き揚げられて、すぐ半年あとで使った。沈めるならやはり深海に敵を誘い出して沈めるという邀撃作戦じゃなければダメだということになります。僕は全体の対米戦略で意見がある。それはなぜフィリピンをとったかということです。比島を残しておいて、所在の水上兵力と航空兵力を撃滅する。グアムをとれば向こうから航空兵力の増強なはい。そうすればフィリピンを助けろといってアメリカ国民が騒ぎ出す。となるとアメリカの艦隊が西太平洋にやってくる。それを迎撃する。この火種をなくしたのは極めてまずかった。 松田 当時の僕らの考えでは、アメリカはハワイあたりで示威運動をやってるけれど本当の戦いの準備はできていないだろう。だからフィリピンに手を出せば、必ず向こうは戦備不十分のまま出てくるに違いない。それを叩くのだ。だからとにかくフィリピンを取ろうじゃないかということだ。もちろんその当時はインドとかインドネシアとか、あの辺を取ろうなんていうことは考えていません。それが今度の戦では世界を取ろうとしたんだから、ひどいもんだよ(笑) 司会 真珠湾で成功したあと山本さんは神様になったところがあるでしょう。 野元 開戦前から早川幹夫(少将 44同期)なんか山本さんを神様のように言っていた。聯合艦隊自体では崇敬の的になっておったね。それは陣頭に立って、直接細かいところまで指揮をする、というところにだいぶ人気があったらしいな。 司会 次に山本長官の指導した、もう一つの大きな作戦としてミッドウェー作戦についてお話いただきましょう。 黛 (中略)日本陸軍が、国民に国土の防衛をやかましく教育しておったから、(東京初空襲のように)1回や2回空襲されてもたいしたことはないのが実情だった。それなのにミッドウェーを取って敵空母の奇襲を避けようとしたのだな。ところがこれを取ったって迂回してくれば何のことはないんで、まったくあれは被害妄想のようなことじゃないかと思うが。 松田 僕は当時「日向」艦長だったが、図上演習があり、米国通というので赤軍(敵軍)の総指揮官をさせられた。図演では米軍は相当足の長い飛行機(陸上機)で索敵する。日本軍は艦上機だけ。米軍は日本軍の行動が手に取るようにわかるので、やりたいだけやれる。ところが僕が図演で日本軍をやっつけたところをそのまま審判すれば士気に影響するというので、その損害は極めて軽微として作戦成功と審判された。 小島 何のためにミッドウェーに行ったか、まったく分からない。 横山 僕に言わせれば、海軍大学校の図演だったら零点だ。(笑) 松田 図演の結果のように、さんざん負けるところを負けないようにして出撃したわけで、この思いつき作戦が失敗したのは当然です。 小島 ぼくの長官だった小沢(治三郎中将 37)さんは、ミッドウェーには何のために行くのだろうって初めから反対しておった。山本さんは勝ち戦を一つやったから、もういっぺんブラフが利くという頭なんだね。 松田 あれはだれが考え出したか?やっぱり山本さんでしょうね。 司会 山本さんですね。ミッドウェーに行けばハワイで撃ちもらした空母が出てくる。それを叩ける。そうすれば航空母艦で健在なのは日本側だけだという着想のようですね。 松田 アメリカではパールハーバーの不意打ちを全国民が非常に怒って、さっそく総力戦態勢で国家総動員をした。日本はミッドウェーの敗戦の真相を公表せず、まだ日本は勝っているような気分でのんびりしていた。横山さんはアメリカから帰ってどう感じましたか。 横山 ぼくは、ミッドウェーで負けたあとの17年夏に(交換船で米国から)帰ってきましたが、不思議だったのは軍令部が泊り込みをせず、出勤退庁してくることでした。これじゃ戦に勝てんと思った。軍令部は作戦をやってるんじゃないか、作戦に昼も夜もないんで、交替で休むのは結構だがそれを出勤退庁とは何事か、と言ったんだが効き目はなかった。 小島 それは君の言うとおりだよ。日露戦争中でも軍令部は泊り込みだった。毎日弁当をうちから運んでくる。あの当時でもそんくらいやってるのにね。 司会 山本大将の評価が非常に低いのには驚きました。それでは開戦時にどういう人事が良かったのでしょうか。 横山 幕僚が悪かった。 黛 幕僚はほんとうに悪かった。 横山 参謀長以下悪いでしょう。 野元 黒島でなくて、先任参謀には島本久五郎(少将 44同期)を人事局では考えておったらしいな。 司会 黒島さんが昭和14年 聯合艦隊の先任参謀に行かれましたが、人事局の原案では島本久五郎、人事局第1課長になった人ですけどその人が聯合艦隊の先任参謀に行く予定でした。 横山 長官はアメリカを知っとったけれども、参謀長以下アメリカを知っていなかった。 黛 私はね、そこにいる松田さんが一番先任参謀に適任だと思ってるんだ。 松田 それには時期が遅いんだ。僕が軍令部を去って3、4年経ってるからね。あの当時の1課長は中沢(祐中将 43)さんだろう。中沢さんは大佐じゃちょっと気の毒だが、先任参謀になるのがよかったと思うんだ。 横山 中沢さんみたいなアメリカにおった人を使えばよかった。 小島 島本もアメリカ駐在なんだよ。(注 大正13年~大正15年) しかし長官が気に入らなかった。 司会 山本さん自身は残っている手紙を見ると、自分は聯合艦隊司令長官(以下GF長官)として適任とは思っていない。すでに15年の終わりあたりには次の後任を考えている。俺の後任は米内光政大将(29)が最適任だ。それがダメなら嶋田繁太郎(32)か古賀峯一(34)。それから候補にあがり得る人として、豊田副武(33)、豊田貞次郎(33)。これだけ山本さんは言っております。果��して誰が一番良かったか? 横山 その前にね、軍縮会議でクビ切った人に適任者がおるんです。 小島 堀悌吉(32 S9年中将で予備役)さんか。 松田 嶋田さんという案は相当ある。あの人は、人の立てた案を見て、自分が気に入らなきゃ採用しない。私は嶋田部長の下で軍令部部員をやっているとき、私の立案に対し、「おい松田、これはダメだよ」と突っ返してくる。何ヶ月もかかて考えたことだから間違いないつもりで1ヶ月ばかり放って置いて、「あれからずいぶん研究しましたが、この他には手がありません」とまた出すと「宜しい」と言ってめくら印を押してくれた、そういう性質でね。イタリア武官はやってるけどアメリカのことは知らんですよ。 野元 私は前に片桐英吉さん(中将 34)の参謀をやったことがあるが、片桐さんあたりは、米内さんが長官としては一番良いという意見だったな。 松田 長官としては、作戦的な頭のほうもあるだろうが、統率力がなくちゃダメなんだな。その点米内さんなんかいいんだね。山本さんは海軍大臣がよかったよ。 小島 日本じゃ難しいんだけど、シンガポール作戦のあとで小沢さんあたりにすぐバトンタッチすれば一番いいと思った。パールハーバーが済んで、今度は少し慎重な人ということで小沢さんが行ったら良かった。ところが日本じゃ順序からいってダメなんだね。アメリカやイギリスならやるよ。 黛 私はね、米内大将なんていうのは絶対ダメだと思うなあ。少佐の時にジュトランド沖海戦などを研究していろんな先例を絵にして各鎮守府艦隊を廻った。聯合艦隊の末次(信正 大将 27)長官、2艦隊の高橋(三吉 大将 29)長官、呉の中村(良三 中将 27)長官は朝から夕方まで6時間ずーっと聴いておった。ところが佐世保鎮守府の米内長官は顔も出さない。要するに日米戦争になればどうせ負けるんだという考えだから将来戦、ことに決戦なんかを研究する具体的なことなぞ関心がなかった。 私は経験からいえば、嶋田大将が一番宜しい。そうでなければ豊田副武大将がいい。豊田さんは私が「日向」副砲長のときの艦長、軍務局に居たときの軍務局長。この人は非常に合理的であるし、意志が強い、やかましいから人気はなかったらしいが、統率力がある。 横山 ぼくは山本さんを非常に買います。それから米内さんも良いと思う。他に皆さんの考えなかった人として少し古いけど中村良三(27)、この人を推したいんです。あの人は海軍大学校長で非常に頭を訓練してるんですよ。艦政本部長なんかに置いとかず前線にだすと非常に働いた人だと思うんです。 黛 いや、私は反対だね。中村さんは昭和4年の小演習のとき赤軍の長官になった。そのとき作戦計画を自分で作って戦隊の司令官とか艦長には、おまえ達にはどうせ分からんから、おれの書いた通りやれ、という統率ぶり。それから昭和6年2艦隊の長官のときも非常にまずい作戦がある。自分は良いことを考えても部下が動くように訓練ができない。自分だけ偉いと思って部下に教えずに、おれの言うとおりやれという統率ですから、あの人は聯合艦隊の長官には最不適任と私は思った。 横山 しかし、非常に頭のいい人だ。 小島 頭はたしかにいいね。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji11.html
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turimotonaoki · 8 years ago
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元ベテラン刑務官が明かす「死刑囚たちの知られざる日常」 2014年06月05日 07時00分 公開 [週刊大衆06月09日号] 再審請求が決定した袴田事件など、近年、極刑が確定した死刑確定囚が、囚われの身から解放されるケースが立て続けに起きている。 事件と何ら関係のない無実の人が、予断に基づいた過酷な取り調べで自白を強要され、死刑を言い渡される。 こうした許されざる冤罪事件が続いたことで、にわかに注目を集めているのが「死刑囚」と呼ばれる人たちの存在だ。 今回、本誌は長年、刑務所や拘置所に刑務官として勤務し、死刑囚とも向き合ってきた坂本敏夫氏に話を聞いた。 知られざる「死を待つ者の日常」とは――。 ** 今年3月27日、静岡地裁が死刑囚・袴田巌さん(78)の再審開始を決定し、同時に刑の執行と拘置の停止を決定した(検察側が即時抗告)。 姉の秀子さん(81)に付き添われ、東京拘置所から姿を現した袴田さん。 再審で無罪を勝ち取るまで法律上は「死刑確定囚」なのだが、逮捕から48年(死刑確定からは34年)ぶりの"シャバ"だった。 「袴田さんとは、死刑が確定する前から何度も親しく言葉を交わしています。昭和54年から59年までは法務省の事務官として死刑囚処遇や刑務官の待遇改善に関する調査研究をする機会に面接をし、昭和63年秋から看守長として赴任し、処遇に関わりました。袴田さんとの初面接の印象は、ひと言で言うなら"好青年"でした。よく勉強もしていて、法律など学ぶ機会がなかった彼は"無罪放免を勝ち取るには自分の力で!"と思っていたんですね。その決意を聞いて、まさにプロボクサーとしての心構えだと、感心したものです。本当に、この人が一家4人(勤務先の上司家族)を殺害したんだろうかと疑問を持つというより、人を殺せる人間ではないと確信めいたものを持ちました」(坂本氏=以下同) 釈放時、テレビに映った黄色いシャツ姿の袴田さんをご記憶の方も多いだろうが、表情に乏しく、釈放の喜びも感じられなかった。 自由を拘束され、死刑執行の恐怖に怯える状態が長く続いたことで、精神が不安定になる「拘禁(こうきん)症状」が悪化していたという。 なぜ、そんな症状が出てしまったのだろうか。 死刑囚は、刑務所ではなく拘置所で、刑が執行されるその日を待っている。 彼らが収容されているのは、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡にある拘置所(札幌、仙台は拘置支所)。 14年5月現在、わが国の���刑確定囚は130人おり、収容者数は東京拘置所がその半数近くと最も多く、以下、大阪、福岡、名古屋の各拘置所が続く。 死刑囚が起居する独居房は4畳弱。 流し台、便器、寝具、机など、生活に必要最低限の設備に加え、食品など個人で購入する房内所持品が一定の範囲で認められている。 「死刑確定囚には、健康でいてもらわないといけません。矛盾しているんですが、拘置所では死刑執行命令が出るその時に備えて、死刑囚を"心身ともに健康な状態"に保っておかなければならないんです。自殺をしてしまえば、刑の執行ができなかったことになる。ですから、自殺、自傷、逃走など事故防止のため、天井に設置されたカメラで24時間監視します」 拘置所では起床から就寝まで、すべてにおいて時間が決まっている。 施設によって多少異なるが、朝7時起床、7時半点検、7時40分朝食、11時50分昼食、16時20分夕食、16時50分点検。 21時就寝となる。 健康維持のため、戸外運動と房内体操の時間も設けられている。 戸外運動は夏季が週2回、その他は週3回で時間は30分程度、コンクリートの壁に囲まれた狭い空間で柔軟体操やランニング、縄跳びなどを行う。 入浴は夏季が週3回、その他は週2回で、ひげ剃りも含め15分以内だ。 「独房では座っていることが義務づけられ、室内を自由に動くことは許されません。むろん、隣の房の人間と話す"通声"は厳禁です。刑務所の受刑者に科される刑務作業はありませんが、希望する者には室内で座ったままできる軽作業(外部業者との契約による作業)が許可されます。デパートのショッピング紙袋作りのような簡単な作業です。出来高払いで1つあたりの単価は内職と同じで微々たるもの。報酬は月数千円というところですね。単純作業ですが没頭することによって、死の恐怖を忘れられるのでしょう。一生懸命取り組み、材料切れになることもしばしばです。単調な日々の中で、作業は死刑囚の精神を安定させる効果があると思います。今の東京拘置所は窓の外は回廊で景色も見えず、人と会話をすることも許されない。日々の変化といえば、食事のおかずぐらいですから」 死刑が確定して執行されるまでの期間は短い場合で1~2年、平均で7~8年となっている(ただし、袴田さんのように冤罪の疑いのある人、あるいは再審を請求しているケースの中には、30~40年と長期収容に至っている人もいる)。 人との触れ合いや変化のない生活の中で、死を待つだけの単調な生活。 結果、心のバランスを崩し、拘禁症状が出てくる者も多い。 つい首に視線がいってしまう 一方、死刑囚を監視する立場の刑務官にも苦しい胸の内があるという。 「死刑囚といえば、凶悪で凶暴というイメージでしょうが、実際に接すると、"この男が、本当に人を何人も殺すような事件を起こしたのだろうか"と思うような、おとなしい人も少なくありません。刑務官になったばかりの頃は、これが一番のカルチャーショックでした。経験を重ねると、一定の法則があるように思わざるをえない現実に心を痛めました。つまり、死刑と懲役の分かれ目はカネと能力であると。本当に悪い奴の多くは死刑にはなっていない。経済的に恵まれている者もしかりです。素直でおとなしく、取り調べをうまくかいくぐる話術も知識も持っていない者が自白させられる。おまけに、おカネがなければ私選の弁護人をつけられない。結果は目に見えています」 死刑囚はいつ来るかもしれぬ死を待っている。 冤罪被害者を別にすれば、自らが犯した罪と被害者やその遺族に対する償いであり、逃れられるものではない。 だが、死刑囚といえども一人の人間だ。刑務官として日々、彼らと接する中で自然と"情"が生まれると言う。 「目を合わすときは穏やかな表情にし、言葉を交わすときは気軽に雑談をするような雰囲気を保ちます。死刑になるかもしれないという不安を感じさせないようにするんです。それでも、どうしても視線がね、つい首にいってしまうんですよ。死刑の時に縄をかけますから……。房の出入りの際は、必ず両手で衣服の上から物を隠し持っていないか、触身の検査をします。生きている証の温かい体温を感じるんです。堪(たま)らないです。今でも、この手は20年以上前の温もりを覚えています」 死刑執行は、拘置所内においても"特殊な勤務"だ。 所長をはじめ幹部職員のほか、選定された刑務官十数名が執行の任に当たる。 「刑務官である限り、死刑執行を命じられたら受けなくてはならないんですが、誰もが最も嫌がる仕事です。それはそうでしょう。矯正職員として犯罪者の更生を支援する職に就いたはずなのに、人を殺す仕事は想定外ですから。どんな極悪犯であっても、改心させる努力をし、あげくの果てに、その者の命を奪う。非常に辛い仕事です」 日本における死刑執行件数は12年度7件、13年度8件。 死刑だけは唯一、法務大臣の命により執行されるが、具体的には法務大臣の公印が押された死刑執行命令書が高等検察庁に送られる。 同時に拘置所長に、その旨の通知があり、死刑の準備が始まるのだ。 「かつては、執行前日または前々日に死刑囚に告知していたんですが、いまは直前まで明かしません。大きく取り乱したり、自殺されてしまったりすると困るからと当局は説明しますが、そのとおりです。集団処遇をしなくなってから、死を迎えるための処遇がおろそかにされ、そのうえ拘置所長はじめ幹部職員の多くが死刑囚との面接を避けている。信頼関係も構築していないから自殺などの事故を回避する自信がないのです。死を迎える直前の処遇は、ある意味、武士の情けのようなもので、家族との最後の面会とか、遺書を書く時間を十分与える。あるいは最後の晩餐(ばんさん)の配慮ぐらいは、やるべきだと思います。執行当日の朝は、無言で死刑囚を連れ出します。死刑囚にとっては騙し打ちのような形になっています。死刑は基本的に午前中に行われるため、その時間、死刑囚は刑務官の挙動に非常に敏感です。午後になり、今日は何もないとわかると、舎房の空気がホッと弛むのがわかるほどです」 実際の死刑はどのように執り行われるのだろうか。 10年8月、報道機関に公開された東京拘置所死刑場をもとに解説してもらった。 「執行当日の朝、8時過ぎに、死刑囚を独房から連れ出します。暴れたりしないよう、注意を払います。騒ぎになれば他の死刑囚に動揺を与えますから、"ちょっと医療室に行こう"と言うこともあります。舎房からエレベーターで地階の死刑場エリアに連れて行き、まずは所長またはその代理者の言い渡しを行うために教誨(きょうかい)室に入室させます。祭壇があり応接セットが置かれています。この部屋で検察官が持参した死刑執行指揮書を読み上げ、死刑の執行を言い渡します」 続けて遺書を書かせたり、死刑囚によっては教誨師(拘置所が委嘱した僧侶や牧師などの宗教家)から最期の教誨を受けたりする。 「その後、『前室』と呼ばれる控えの間へ。正面に祭壇が置かれたこの部屋で、 粛々(しゅくしゅく)と執行の準備が行われます。読経または祈りの声が響く中、死刑囚に目隠しをし、手錠を後ろ手にはめ、隣の執行室の刑壇(踏み板)の上に移動させます。ここで、2つの作業を、ほぼ同時に速やかに行います。首に直径3センチのロープの輪を固定することと、膝下10センチほどの位置で両足を捕縄という直径1センチほどの縄で固定することです。この2つが完了すると同時に、指揮官は刑壇を開かせる電動のスイッチを押すよう命じます」 執行ボタンと言われているスイッチの押しボタンは3つあり、3人の刑務官が指名される。 通電されているのは1つだが、事実上の殺人ボタンを押したという精神的苦痛を3分の1に軽減しようとする配慮らしい。 だが、坂本氏によると軽減というより、3人が「最後のボタンは俺が押した」と同じ苦しみに苛(さいな)まれるという。 つまり、苦痛は3人分になっているのだ。 死に至るまでの辛く長い時間 執行の瞬間は轟音が響き、ロープの弾性で死刑囚は大きく跳ね、断続的な痙攣(けいれん)が起き、嘔吐(おうと)物が口や鼻から噴き出すこともあるという。 「刑務官はこの様子を見つめるわけですが、死に至るまで、痙攣が収まり、動かなくなる時間は本当に長く感じます……」 刑の執行は非公開。 刑務官には守秘義務があり、"塀の中の死"の実態は表には出ない。 一方で、そうした秘密主義には批判の声もある。 「最後��で贖罪(しょくざい)の意識がない者がいる一方で、死刑が確定してから執行されるまでに教誨師、刑務官、家族といった人たちの影響で、あるいは学問に目覚めて読書や教材による学習で、大きく変わる死刑囚が少なからずいます。彼らは自分の罪を悔悟(かいご)して、心から被害者遺族に対する謝罪の気持ちを持つようになります。死刑による償いを素直に受け入れるんです」 執行にあたった刑務官に「執行するのはこのうえなく悲しかった。しかし、この手で送ることができて幸せだった。そう思わなければ、とても耐えられない」と言わせるほどの"善人"になった死刑囚もいたという。 安倍政権は定期的な死刑執行をし、制度の堅持の強い姿勢を見せている。 死刑制度に対する正しい議論を起こすためにも、まずは死刑囚に関する情報を広く開示することが必要なのではないだろうか。
元ベテラン刑務官が明かす「死刑囚たち��知られざる日常」 | 日刊大衆 http://taishu.jp/detail/7950/
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