#東京唐揚げ協会
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2024年5月22日(水)

沖縄・奄美地方が21日(火)に梅雨入りした、というニュースを今朝知った。出勤時にガレージの紫陽花をみると、大分大きくなって額も色づき始めた。拙宅から数軒西に行ったKさん宅では、すでにかなり大きな花が見事に色づいている。大丈夫、焦ることはないよ、雨を待って君のペースで自己表現してくれたまえ。この歳になると、待つということが苦痛では無く、むしろ楽しみに思えるのだからね。

5時30分起床。
洗濯機回す。

朝食。
珈琲。
弁当*2。
空き瓶、45L*1。

TNPで始めた手書きメモ、本日から3冊目に突入する。
ツレアイの職場経由で出勤する。

高槻JCで事故渋滞、10分程度のロス。
昨日の<スタディスキルズ(看護学科)>のレジュメのチェック、みな観察力が乏しい。全角と半角、大文字と小文字、指導のしがいがある。
OneDrive の挙動がおかしい。これまではスクリーンショットを撮るとすぐに<画像>フォルダにアップされたが、その機能が働かない。調べてみると、この仕様は廃止になったとのこと。macOS の場合には、スクショはデフォルトではデスクトップに保管される。そうか、それなら直接<写真>アプリにコピーすれば良いので、かえって私には一手間省けて都合が良い。

日清食品から悪魔のささやき、賞味期限が近づいた商品の激安セール、誘惑に負けてジャンキーなセットを購入してしまった。
水曜日は2限・3限<情報機器の操作Ⅰ(栄養学科)>、今週は<私の好きな〇〇>というテーマでスライドの個人発表、人数が少ないので入力練習も��加する。

帰路は順調、ただし燃費は良くない。途中で、記念メモリー=8888kmを記録した。
糠床メンテナンス、キュウリ漬ける。
酢タマネギ仕込む。
大根とコンニャクを煮込む。

保健協議会から回覧用資料届く、各組長宅に配付する。
ツレアイから早めに出てバスに乗ったとの連絡、それを受けて夕飯準備開始。
彼女が帰宅、すぐにココの点滴。

昨日の見切り品、からすかれいの西京漬けを焼き、タラはムニエルにしてバターソースがけ。我々は残りものをあれこれいただく。
録画番組視聴、新日本風土記。
「長崎 五島列島の春」
初回放送日:2024年5月20日 長崎の西、30ほどの島に人が暮らす五島列島。海流がぶつかる海には伝統の漁場があり、遣唐使の船がたどり着いた島には空海への信仰が根付く。故郷の島を愛する人々の物語 大小140を超える島々が連なる長崎・五島列島。春、進学や就職、転勤などで島を離れる人々を送る盛大なセレモニーが港で繰り広げられる。「東洋一」といわれたブリの漁場では漁師たちが「万越し」をめざし網を引き、お大師さんの信仰が根付く地域では各家の豪華な祭壇で参拝客をもてなす。一方で、水不足に悩んだ島や、島民がたったひとりになった島、児童数の減少で閉校する小学校も…。故郷の島で暮らすことを選んだ人々の物語
桂枝雀、昨晩の続きは「米揚げ笊」。これは小米時代の録音で高校時代にやったネタ。
片付け、入浴、体重は100g減。
パジャマに着替えて日誌書く。

帰宅後、買い物に出なかったので今日も3つのリング完成ならず。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月11日(月曜日)
通巻第8044号
全米で113校あった「孔子学院」の廃校すすみ、残りは五校
次は中国との「姉妹都市」関係にもメスが入る
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西側諸国では中国の都市との「姉妹都市」関係を解消する動きが顕著となっている。
オランダでは、アーネム市が中国の人権状況の悪化を理由にあげて、武漢市との21年間にわたる姉妹都市関係を終了させた。オランダではほかに7つの都市などが姉妹都市関係を畳んだ。
英国では、新疆ウイグル自治区での人権侵害を理由にニューカッスル市が山西省太原市との37年間にわたる提携関係を終了した。
オーストラリアでは、ワガワガ市議会が、中国政府の新型コロナウイルス感染症への誤った対応を理由に、昆明市と32年間にわたった姉妹都市関係を解消する動きを見せた。
カナダでは、ウィニペグ市議会議員が、中国政府の台湾政策、新疆ウイグル自治区などでの人権侵害、ロシアによるウクライナで進行中の戦争への支持、「人民解放軍」の恣意的拘束に対する懸念を理由に、成都との35年間にわたる姉妹都市関係を終了する動議を提出し侃々諤々の議論があったが、議会は否決した。
ドイツのキール市は国家安全保障上の懸念から中国の青島と姉妹都市構築計画を止めた。
中国の姉妹都市関係は、中国共産党の統一戦線ネットワークの別組織「中国人民外国友好協会」によって管理されている。
米国はどうか。
2023年5月時点で、米中間には234組の姉妹都市と50組の姉妹州/省が維持されており、とくに習近平が福建省時代のワシントン州タコマ市と福建省福州の姉妹関係の先行きがどうなるか、注目を集めている。
日本の都市と中国との姉妹都市関係たるや、日中友好時代の名残で、じつに350以上ある。東京と北京、大阪と上海、京都と西安が代表例だろう。
ほかにめぼしい所を拾うと札幌と瀋陽、旭川と哈爾浜、仙台と長春、甲府と成都、広島と重慶、神戸と天津、福岡と広州、大分と武漢、唐津の揚州、鹿児島と長沙などである。
なかでも名古屋と南京の姉妹都市関係は河村市長が2012年に南京を表敬訪問の際、『南京大虐殺はなかったのでは?』と発言して、南京市側が交流中断という報復的な措置を取った。
この河村市長の勇気ある発言にほかの都市の首長たちは沈黙したまま。
▼日中友好五十年記念事業の寂しさ
2022年は田中角栄の北京訪問から半世紀。熱狂的なパンダ見物の長い行列が、そのブームを象徴したが、さて日中国交回復半世紀を祝う祝賀行事は寂しかった。未だに中国にあってビジネスを展開している企業や、所謂「友好団体」などが義理的に参列しただけで、親中派議員の福田某、鳩山某、二階某あたりがはしゃいだが、大方はシラケていた。
姉妹都市関係を結ぶとどうなるかと言うと、相互訪問で旅費は市議会予算から、土産も。先方は連日宴会、視察なる小旅行はパトカーが先導し、なかにはハニトラも報告されている。
ようするに中国シンパに籠絡させることに目的があり、また中国側が来日すると、ホテルの格が低いとか食事は量が足りない、こんな粗末な土産は何だ等と批判に明け暮れる輩が多い。
市会議員などと言っても中国では市長より書記が偉いわけで、そのランク別待遇が中国のもっとも関心の深いマナーである。
反日暴動以後、日本側の静かな怒りが拡がって相互訪問は減った。
事実上、相互訪問を途絶えた都市も多いが、正式に関係解消をした都市はないようだ。また中国側もバブル崩壊で地方政府の歳入がなくなり、接待どころではなくなった。
欧米の姉妹都市関係打ち切りのように日本の都市で正式に宣言したところはない。孔子学院も13大学にあるが、廃校の声が聞こえない。
米国は首都ワシントンの動物園にいたパンダを送還した。日本も上野動物園などにいるパンダを送還したらどうだろう?
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2025/6/13 12:00:16現在のニュース
日経平均、一時600円超下落 イスラエルのイラン攻撃受け(毎日新聞, 2025/6/13 11:56:22) トヨタ、株価続落 トランプ氏が自動車関税引き上げ言及 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/6/13 11:49:40) イスラエル「歴史上、決定的な瞬間」 イラン攻撃、作戦数日継続か(毎日新聞, 2025/6/13 11:48:44) 住吉会の本部事務所が東京都港区に移転 新宿区のマンション売却で:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/13 11:42:28) 「徹底的に弾劾」…両陛下の広島ご訪問、活動家が広島市の「提灯奉迎」後援を糾弾([B!]産経新聞, 2025/6/13 11:42:07) 朝日新聞が「選挙報道の基本方針」 変化に対応、必要な情報届けます:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/13 11:36:14) コメ輸入を前倒し ミニマムアクセス枠内の主食用、27日入札 小泉農水相表明([B!]産経新聞, 2025/6/13 11:35:21) 「唐揚げ1個」給食改善へ、福岡市が策を協議 SNSで批判集まる([B!]産経新聞, 2025/6/13 11:35:21) イスラエルがイラン空爆 核開発関連施設など「数十カ所」 中東の米大使館員ら退避([B!]産経新聞, 2025/6/13 11:35:21) イラン革命防衛隊のサラミ司令官が死亡 イスラエルが攻撃([B!]産経新聞, 2025/6/13 11:35:21) 保険料負担5年延長 3号被保険者の扱い 年金法成立、残る課題は(朝日新聞, 2025/6/13 11:34:54) 就職氷河期世代らの低年金対策は5年後に判断 改正法成立、働き控え解消を促す - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/6/13 11:34:33) 自公立で合意急いだ年金法案 維新と国民置き去りで野党間に溝 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/6/13 11:33:48)
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#本日のおすすめ #1300円 #アジフライ #からあげ #刺身 揚げたてアツアツのアジフライと生姜のきいた唐揚げ。刺身は脂の乗ったマグロ2種とイカとワラサかな? 2021/06/15 #さき #四之宮 #平塚 #東京ランチ協会2021 #ランチ #Lunch #東京ランチ協会 #東京唐揚げ協会2021 #唐揚げ #からあげ #friedchicken #東京唐揚げ協会 #刺身 #刺し身 #さしみ #sashimi #マグロ #鮪 #まぐろ #tuna #東京イカ協会 #東京イカ協会2021 #いか #イカ #烏賊 #squid (お食事処さき) https://www.instagram.com/p/CQN3mWtAAwz/?utm_medium=tumblr
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戦後の事件簿 「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由��ない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた 図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった 1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した 1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない 1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した 1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した 1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した 1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている 1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪��雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した 1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された 1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した 1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた 1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した 1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓��。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった 1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された 1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された 1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった 1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸��のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された 1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた 1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなど���要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた 1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された 1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した 1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した 1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された 1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した 1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った 1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した 1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた 1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した 1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された 1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している 1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった 1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した 1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「���軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門��濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない

1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった 1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った 1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した 1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した 1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した 1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した 1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった 1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所から���即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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今週の記録。
3/11(月)新しい会社に行き始めて2週間目に突入。いちばん行きたかったところには今後のご活躍を心よりお祈りされてしまったので、先に合格したところに入れてもらった。給料の高さに惹かれただけで、業務内容になんてこれっぽっちの興味もない、駅から徒歩5分のビル。同期はみんないい人だけれど、早2週間で求人の情報と食い違うところが明るみに出てきて、みんなどんどん辞めていく、そんな会社。結局いつも私はこういう形で妥協して一旦落ち着くのだなと、仕事をしながら泣きたくなる。あの人から風邪を引いて寝込んでいるとLINEを貰ったので、冷えピタやゼリーやヨーグルトを買い込んでソッコー家に帰って野菜をたっぷり入れたうどんを煮た。そんなこんなで帰ってからはじめて一息ついたのが21時過ぎだったので、22時前には疲れ切って体調不良の人の隣で寝た。
3/13(水)自分が自分に自信を持たないと、人に売り込むことはできないよなんて、そんなもんスタートラインが違うのだからと卑屈になる。褒められることなんてフェラの上手さくらいなもんだ。そんなこと他人様に言えないっつーの。でも私は、恥ずかしながら外回りと内回りどっちに乗ればいいのかも把握していなかったのに毎日山手線に乗って通勤している。混雑する駅の人の合間を縫ってズンズン歩けるようになった。ドア近くの邪魔な人を押し退けて電車から降りられるようになった。それがいいのか悪いのかはさておき、田舎にいた頃とは少しずつ違う自分になっているのを感じる。だからこのまま東京にいたら少しは変われるんじゃないかってちっぽけな希望が捨てられないのも事実。諦めが悪いぜ。仕事が終わってから久しぶりにあの人と外でご飯を食べて帰った。お酒を2杯飲んで楽しくなって、メイクも落とさずそのまま眠ってしまった。
3/15(木)同期の半分以上が転職活動を始めているの笑う。私も最近まで使っていた転職アプリを再ダウンロードして動き始めた。来週は1日か2日休みを取って、面接を何個も詰め込む予定。東京に来たからには妥協せずにやりたいことをやってみようと思って、倍率高そうでも未経験でも好きなところにバンバン応募してみようと休憩ごとに転職アプリと睨めっこしている。仕事が終わるのが遅くてお茶漬け食べて帰った。
3/16(金)面接が決まって嬉しい。やりがいもクソもにいここに来たおかげでほんとうにやりたいことが分かった気がするから、そこだけは感謝してやろうかなという気持ち。今日も相変わらずブラックだったけど週末だったからなんとかなった。帰ってからナスの素揚げ&揚げ出し豆腐と、イカと大根の煮物と、白菜の塩昆布和えをつくった。肉は買ってなかったのでヘルシーだけど酒に合うメニュー、ふたりで芋水割を飲みながら食べた。来週からはお昼にお弁当を持っていこうと思う。甘い卵焼きと唐揚げとウインナーと、ほうれん草の胡麻和えやらマカロニサラダやら。ミニコロッケやミニ春巻なんかもいいね。休みに駅のロフト行って弁当箱買ってこよう。
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
事実、南京戦以前は100万人��た市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こ��して歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線��電線にコウモリのように何人もぶらさげた」 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。 午後は残敵掃討戦になる。 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。 報道写真からもそうした情景をみることができる。 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然��はなかろうか。
森 清勇
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2020年2月10日(月)

春休み期間中は、原則として公共交通機関で通勤することを心がけている。七条御前通りのバス停、風に揺れているのは京都マラソン(2月16日)当日の迂回コースの案内。12月の高校駅伝と1月の女子駅伝はテレビ中継を見るが、マラソンは個人競技なのでほとんど興味はない。遠出をせず、じっとうちに籠もっているに限るのだ。
息子二人は休み、ツレアイは自転車で出勤。
自宅を8時ジャストに出てバスと電車で出勤、職場に着くのは9時45分。車なら60分で着くところだが、ま、体と財布にはこちらの方が良い。
木曜日の大学協議会の資料は本日が締切、先月実施した人権研修会の報告資料を作成、事務局に提出。
図書館botの登録を忘れていたため今朝の定時 tweet はなし、慌てて修正作業。

春休みの課題は英文法の「楽習」、今日は「文の種類」。内容は特に問題ないが、時々知らない単語が出てくるのが刺激になる。

職場ランチ、今日は果物付き。
IM嬢来室、「できる女プロジェクト〜落語編〜」、今日の課題は「近江八景」。私自身もきちんと覚えているわけではないが、中国由来の「見立て」の文化を理解することが目的。むしろ、登場する「易者」の話題で盛り上がったというのは、小学生の頃に実体験があったとのこと。

後半は映画鑑賞、三大狂言の学習の延長線上で、東映制作の「赤穂浪士」、その1956年版をamazonプライムで愉しむ。
赤穗浪士 天の巻・地の巻
大佛次郎の小説を「母なき子」の共同脚色者の一人、新藤兼人が脚色、「復讐の七仮面」の松田定次が監督、「弥太郎笠(1955)」の川崎新太郎が撮影を担当した。主なる出演者は、「荒獅子判官」の片岡千恵蔵、喜多川千鶴、千原しのぶ、「あばれ振袖」の中村錦之助、「笛吹若武者」の大友柳太朗、「ふり袖小天狗」の東千代之介、「続・薩摩飛脚」の市川右太衛門、その他東映の男優陣、女優陣の大部分が出演する。
(Movie Walker サイトより)
古い映像ではあるが、まだテレビの普及前の豪華スターの競演、当時はさぞ盛り上がったことだろう。
帰路の阪急桂駅、改札口を出ると惣菜店から良い香り、ついつられて唐揚げを買ってしまった。

息子たちが食事を始めると、同居猫・ココが自分の存在を主張、三男を隣の席に追いやってしまった。

ツレアイは明日が休みのため処理作業が多く遅めの帰宅、残り物を温めて乾杯。
ほとんど研究室を出なかったのだが、なんとかギリギリで3つのリング完成。
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2025/4/23 18:00:06現在のニュース
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#チャーハン #550円 #唐揚げプラス #3個 #200円 セットではなく、唐揚げ3個が単品でプラスできるようになったらしい。コレなら何にでもプラスできていいかも笑 他の人が食べてたハンバーグと焼肉丼も美味しそうだったな・・・ 2020/02/06 #波止場食堂 #出田町 #東京ランチ協会 #チャーハン #炒飯 #チーハン #friedrice #東京チーハン協会2020 №5 #東京唐揚げ協会2020 #唐揚げ #から揚げ #からあげ #friedchicken #東京唐揚げ協会 (波止場食堂 出田町店) https://www.instagram.com/p/B8Ng3WVg8L8/?igshid=1doyhsk8ifmxo
#チャーハン#550円#唐揚げプラス#3個#200円#波止場食堂#出田町#東京ランチ協会#炒飯#チーハン#friedrice#東京チーハン協会2020#東京唐揚げ協会2020#唐揚げ#から揚げ#からあげ#friedchicken#東京唐揚げ協会
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#紅型ナワチョウハレの日きものコーディネート #紅型ナワチョウ帯 #置きコーデ ・ 昨年制作した #袋帯 「瑞雲に舞う」 金彩・銀彩たなびく空に 舞い踊る #琉球燕 丸紋の水仙を リズミカルに配した 艶やかな帯です ・ 初めて制作した袋帯 #紋付の #色無地 に 金糸銀糸の織り込まれた #帯揚げ #帯締め は #藤三郎紐 の #唐組 を合わせて ・ #紅型 の袋帯は なかなか珍しいのでは、、?! 様々なシーンで 活躍させていただきたいです✨ ・ ・ ============================== * 紅型ナワたチョウ 「縄トモコ紅型展 〜こころ弾むように〜」 【日程】 2021年9月10日(金)~13日(月)
【時間】 10日〜12日 11:00〜13:00(予約制・定員6名) 13:00〜19:00(先着順) 13日(最終日) 11:00〜15:00(先着順) *
【受注予約】 10日〜12日の 11:00~13:00を 受注予約時間とさせて頂きます。
ご予約は8月20日(金)から プロフィール欄の 予約フォームよりお願いします。 * 【会場】 神楽坂フラスコ (東京都新宿区神楽坂6-16 TEL:03-3260-9055)
============================== * 【琉球菓子茶会】 会期中に茶人・ 鳴海彩詠さんによる 琉球菓子茶会を開催します。
茶人直々に厳選した、 沖縄食材でおもてなし。
【日程】9月12日(日)
①11:30~13:00 ②14:30~16:00 ③17:30~19:00 *
【お代金】お茶券代・お一人様¥6,000-(縄トモコが染めたランチョンマット付)当日のお支払いになります。 * 【ご予約】 各回定員3名 ご予約は8月20日(金)から プロフィール欄の予約フォームよりお願いします。
*
【お願い】
アレルギーの食材がありましたら、ご予約の際に備考欄にお書き添えください ============================== 【入店の際には】 ・マスクの着用とアルコール消毒をお願いいたします ・予約の時間帯は在廊時間の厳守などご協力をお願い致します。 ・また会場内が混雑した場合には入場制��をさせて頂く場合もございます。 ・ご質問、お問い合わせは、予約フォームのお問い合わせよりお願い致します。 * #紅型ナワチョウ #縄トモコ #びんがた #びんがたナワチョウ #なわともこ #神楽坂フラスコでの個展に向けて #紅型袋帯 #kimono #obi #帯 #着物 #きもの #きもの好き #kimono #沖縄 #bingata #nawachou #tomokonawa (神楽坂 フラスコ kagurazaka frasco gallery) https://www.instagram.com/p/CSgzdQvh9u-/?utm_medium=tumblr
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月11日(土) #先勝(庚申) 旧暦 6/2 月齢 1.1 #初伏 年始から192日目(閏年では193日目)にあたり、年末まであと173日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤 夜が来ない朝はありませんし、朝が 来ない夜はない💦睡眠は明日を迎え る為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 今朝も二度寝してしまいました😅💦 なので、たっぷり睡眠で快調です✋ 昨日は午前中は健康診断の結果を 主治医ってか私と同級生の病院へ 結果は昨年よりも更に良くなって 大助かりでした😅💦ですからジムも やる気満々で飛ばしすぎたかな⤵️ . 昨日は絶好調な天候でしたし今日は 「初伏」だし梅雨明け宣言まで行く かなって思いましたけど、天気予報 は今週もあまり芳しく無いようです✋ セブンイレブンのアプリ使っていて無料券が 貰えるじゃないですか、あれって💦 つい貰いそびれてしまうんですよね . なので、たまりにたまった無料なの を引き換えに行きました😅💦 スープがおいしい!ワンタンしょうゆ味を 3個に大きなおむすび旨辛鶏唐揚げ が1個とこだわり酒場のレモンサワーが1缶 これだけ貰うとなんだか妙な罪悪感 を感じてしまうんですよね🤣😆🤣 . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋♂ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #iPhone 3G 日本で発売. 2008年7月11日(金)、AppleはiPhone(アイフォーン)3Gの8GBおよび16GBモデルを世界22カ国で発売した。 16GBモデルは白か黒のカラーを選べた。 日本ではソフトバンクモバイルより発売される。 発売1年後に後継機種であるiPhone 3GSが発売され、iPhone 3Gは黒の8GBモデルのみが実質無料で販売継続となった。 ソフトバンクモバイルは8GバイトiPhoneが実質0円 「everybody」キャンペーンを2009年9月16日(水)まで販売を延長すると箏でアイフォーンのユーザー拡張に意欲をみせた。 . #初伏. 夏の酷暑の候を三つに分けた三伏の一つ。 夏至の後と、立秋の最初の日。 初伏・中伏・末伏で併せて「三伏(サンプク)」と云います。 三伏の時期はちょうど酷暑の頃なので、「三伏の候」「三伏の猛暑」の頃を表します。 初伏(ショフク)は、夏の酷暑の時期の最初の頃で梅雨明けた頃にあたる。 . #セブンイレブンの日. コンビニエンスストア「セブンイレブン」を運営する株式会社セブンイレブン・ジャパンが制定。 日付は7と11で「セブン(7)イレブン(11)」と読む語呂合わせから。 . #ロコモコ開きの日. ハワイ州観光局が制定。 . #ラーメンの日. 一般社団法人日本ラーメン協会が2017年に制定。 . #UDFの日(#ユニバーサルデザインフード). 日本介護食品協議会が制定。 . #アルカリイオン水の日. . #真珠記念日. . #世界人口デー(#国連人口基金1990). . #職業教育の日. . #YS-11記念日. . #めんの日(毎月11日). . #おかあちゃん同盟の日(毎月11日). . #ロールちゃんの日(毎月11日). . #モンゴル革命記念日. . #中国航海日. . #フラマン語共同体の日. . . ■今日のつぶやき■. #目から鱗が落ちる 【解説】 鱗で目をふさがれた状態のように、よく見えなかったものが、急にその鱗が落ちて鮮明に見えるようになったと云う事。 『新約聖書』使徒行伝・第九章にある「The scales fall from one's eyes.」という言葉に基づく。 何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになる事の例え . . 1998年(平成10年)7月11日 #石井杏奈 (#いしいあんな) 【ダンサー、女優】 〔東京都板橋区〕 《E-girlsの元メンバー》 . . (牧野記念庭園) https://www.instagram.com/p/CRKp_Q1FnQ4eiJog__Jp-dOygeuDawzfPNv2sE0/?utm_medium=tumblr
#先勝#初伏#iphone#セブンイレブンの日#ロコモコ開きの日#ラーメンの日#udfの日#ユニバーサルデザインフード#アルカリイオン水の日#真珠記念日#世界人口デー#国連人口基金1990#職業教育の日#ys#めんの日#おかあちゃん同盟の日#ロールちゃんの日#モンゴル革命記念日#中国航海日#フラマン語共同体の日#目から鱗が落ちる#石井杏奈#いしいあんな
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【衝撃】唐揚げの専門店、ここ10年間で6倍に急増! 世はまさに「唐揚げ戦国時代」
唐揚げの専門店が急増 都内361店、10年間で6倍に…その理由は?<深掘りこの数字> – 東京新聞 唐揚げの専門店が急増 都内361店、10年間で6倍に…その理由は?<深掘りこの数字> 東京新聞 (出典:東京新聞) (出典 2.bp.blogspot.com) (出典 【とり】唐揚げの専門店が急増。都内361店、10年間で6倍に。世はまさに「唐揚げ戦国時代」 [記憶たどり。★]) 1 記憶たどり。 ★ :2021/06/27(日) 07:59:40.40 https://www.tokyo-np.co.jp/article/112735?rct=economics 都内で唐揚げ専門店が増え続けている。日本唐揚協会の調べでは、今年4月時点で361店舗。 この10年間で6倍に拡大した。 ◆きっかけは「消費税の増税」 …
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有本香さんと石平さんの対談本です。 とても勉強になりました! 有本さんのツイッターによれば、発売1週間で早くも増刷になったそうです。 キーワードは、「大柄の美女」。 日本という男が憧れをかき立てずにいられない存在、それが中国。 習近平体制は現在、私たち日本国民がイメージしているよりも、かなり「えげつない」状況になっているようです。 日本国民の生活レベルに影響を与える危険性も出てきているのに、私たちは呑気すぎる! とりわけ「リベラル」と呼ばれる人たちが、足を引っ張っている! そのことがよ~く理解できました。 この数年の中国の蛮行… 尖閣諸島沖で日本の海保の巡視船に「漁船」がぶつけてきた事件。 尖閣諸島の国有化で反日デモが激化し、日系企業などが焼き討ちされた事件。 小笠原などでのサンゴの密漁。 これだけ見せつけられれば、さすがに鷹揚な日本国民も、「中国はとんでもない国だ」と気づいてはいます。 が、「見えない形での日中戦争がすでに始まっている」ことには気づいていないと、有本さんは警鐘を鳴らします。 それに対して、石平さんも、「日本人は、中国を見るポイントが間違っているし、本質というか、一番大事なところを見ないようにしていますね」と鋭く突っ込みます。 さらに、有本さんは、そもそも戦前から、日本人にはそうした傾向があることを指摘します。 あれこれ分析らしきことはするのに、その中国にどう向き合うかをはっきりさせられないと。 中国が仕掛けてくる心理戦、宣伝戦に易々と乗ってしまって、何べんでも騙されると。 というか、そもそも心理戦であること自体に気づいていないと。 中国経済の衰退について、多くの日本国民は、「日本の景気にも影響あるよね」という、まだちょっと他人事のような感じを持っています。 が、それも甘くて、習近平が、行き詰まった経済への策として、「尖閣あたりでちょっと戦争を」と考える可能性もあるのだと。 まさかそんな…と思うかもしれませんが、石平さんに言わせれば、「戦争に入れば、国の経済も軍事統制できますしね。軍事統制という状況になれば、国の崩壊を遅らせることができる」のだそうです。 本書のもうひとつの柱は、日本のリベラルのおかしさについてです。 欧米のリベラルと日本のリベラルとでは中身が全く違いますが、その違いをお二方が解説してくれています。 これが具体的で分かりやすい。 リベラルと一口に言っても国柄が反映されるため、各国で違いはあるけれども、日本のリベラルは他国とはかけ離れているそうです。 ・中国の人権問題にこれほど関心の薄いリベラルは、他の先進国に例がない。 ・自国の防衛や軍事を完全否定するリベラルは、日本以外にはない。 たとえばアメリカにも「パンダ・ハガー」と呼ばれる、大の「親中派」はいます。 でも、習近平を擁護しまくる論客や政治家はいないとのこと。 有本さんによれば、彼らはきちんと“保険”をかけており、「無条件で中国を是とはしていませんよ」と自分の政治スタンスの正統性をうたった上で、「でも、やはり中国とは対話が必要だ」「きっと彼らもよくなる」と理論を展開する。 ところが日本のリベラル、親中派はまったく違っていて、中国の人権問題などまるでないかのようにして、中国側の代弁者に徹するのです。 この記事のタイトルに引用させていただいた、「70年間同じ茶番を繰り返している」というのは有本さんの言葉ですが、その「茶番」とは、 ・自衛隊に反対 ・日米安保に反対 ・PKOに反対 ・特定秘密保護法に反対 ・安保法制に反対 長期的に見れば、彼らが反対した事柄はすべて日本の平和と繁栄につながっています。 成立したばかりの安保法制もやがてそうなるでしょう。 なぜなら、他のものがそうであるように、安保法制も集団的自衛権も、必要に迫られて整えられたものだからです。 要するに、目の前に中国の脅威が迫ってきているから、最低限、持っている権利は行使できるようにしておこうということ。 10月11日放送の「そこまで言って委員会NP」で、参院平和安全法制特別委員会の委員長を務めた鴻池祥肇参議院議員が、安保法制を、“備えあれば憂いなし法”と言っていましたが、まさにそうではないでしょうか。 (ただ、今回成立した安保法制は不十分で、憂いなしとは行きませんが) 有本さんと石平さんが口を揃えて指摘するのが、「日本が戦争に近づいている」と主張するリベラルの論理のおかしさです。 実際は、「(中国による)戦争の脅威が日本に近づいている」のに、何でそこは見ないのか? たとえば、中国が東シナ海や南シナ海で戦争行為みたいなことをやり続けているのを見ても、リベラルは、「煽ってはいけない」「冷静に」と言う。 なのに、日本が、最悪の事態に備えて法整備をしようとしただけで、「戦争になる」「安倍は戦争をやりたがっている」などと言う。 こうした荒唐無稽なことを、平気で言ってしまえるのが日本のリベラルです。 日本を弱体化させ、日本国民を分断しようとする彼らは、一体何者なのだろう? そのひとつの答えが、本書にはあります。 日本にとっての中国の脅威は、軍事面だけではありません。 経済崩壊による影響も考えておかねばならないと、お二方は警鐘を鳴らします。 欧州を震撼させた難民問題も他人事ではなくなります。 おびただしい難民が船に乗って押し寄せるかもしれません。 (今でもすでに大勢の中国人が住みついているというのに…) こうした問題を考えるのに、右も左も関係ありません。 ところが日本では、「中国の現実を見て、最悪の事態に備えましょう」と主張すると、「右翼」と呼ばれたり、ひどい時は「ヘイト」と呼ばれたりします。 全くおかしな話です!(-.-#) 拙記事10/23付:中共の圧力で東京の地上波では真実が言えないで紹介した石平さんの発言の中に、こんなものがありました。 「(テレビ番組で中国問題に関して討論している時)私がひとこと、習近平を批判すると、この日本人は必ずひとこと、習近平を弁護する」 その具体的な中身も、本書では披露されています。 なぜ日本のリベラルは、中国を、習近平を、そこまで擁護するのか? 彼らは何でも相対化して、おかしなことが起きても、「近代化の過程では日本もそうだった」などと言って庇います。 (これは韓国を擁護する人にも見られるパターン) いったいどんな精神構造になっているのか? そこのあたりの解説も、読みどころです。 基本的に安倍外交を支持しているお二方ですが、それでも対中国については評価できない点があると言います。 国民の目には過去の首相より強い姿勢に見えるけれども、実際は中国に対して及び腰であると。 特に、尖閣諸島や南シナ海の問題。 そもそも、なぜ、今、中国が海へ出張ってくるのか? それは日本の外交に戦略性がないから。 中国は海に出るために陸の問題、たとえばロシアやインドとの領土問題解決に力を注いできた。 日本は「中国を陸上のことに忙殺させるよう仕向ける」ための戦略性がなかったため、中国が海洋へ出てくることを許してしまった。 これは安倍総理だけの問題ではなく、長年の日本の無策が招いた当然の結果。 東シナ海と南シナ海を中国海軍に完全に押さえられてしまえば、日本は終わりで、残る選択肢は2つしかないと、石平さんは言います。 一つは座して死を待つこと。 もう一つは、中国の軍門に降ること。 中国人が大挙して押し寄せてきた場合もそうです。 彼らが日本を「我がものにしたい」と思い、日本人が抵抗しなければ、どんどん日本は日本でなくなっていく。 有本さんは皮肉を込めて、こう言っています。 「日本は奇跡の国ですね。これほど無防備なまま、こんなに豊かに栄えていて、今のところ華人支配圏ではないのですから」 言われてみれば確かに…。 よく今まで無事でいられたものです! 華人支配圏に呑み込まれるのを食い止めるための策として、有本さんはこう提言します。 「これまでなぜ、日本人が華人支配圏にならなかったのか、中国とは異なる文明であり続けられたか、についての探求が大事な作業となります」 「歴史に学び、己を深く知ることこそが結局、異文明の浸食による滅びを防ぐ唯一の手立てなのではないか」 敵(中国)の脅威を食い止めるには、敵を知ることはもちろん、自身(日本)について知ることもまた重要。 これって、当たり前のように見えて、意外と忘れられている視点ではないでしょうか。 有本さんが中国に行った時の体験談もとても勉強になりました。 中国の嘘(プロパガンダ)を持ち帰り、日本に広める活動をしているのは、何も朝日の本多勝一のような人だけではない。 「普通の研究者」の中にも大勢いることが分かりました。 (但し、本多と違って彼らに悪意はない) 読み終えて、改めて感じたのは、なぜ日本は政府も国民も、自国の歴史を軽視するのか?ということです。 有本さんのこの怒りを、日本国民すべてが共有すべきだと思います。 「今、中国が捏造しようとしているのは、ついこの前の出来事で、私たちの祖父の世代が行ったことです。それがあからさまに書き換えられて、怒りを覚えない日本人は、どうかしていると思いますね」 「歴史を他国に書き換えられても抗議しないような日本は、この世界に存立していく意味すら、自ら失っていると言っても過言ではないのです。一番のソフトパワーの根源である歴史を隣の国に捏造されたり乗っ取られたりして、それでも平気だという感覚であるのならば、日本人である意味は、もはやない。私はそう思います」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 本の感想はここまでで、ここから話題を少し変えます。 本日11月7日にシンガポールで行われる予定の、中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統の首脳会談について。 11月3日夜に台湾総督府の報道官が発表し、世界に激震が走りました。 1949年に国民党(中華民国)が中国大陸から台湾に逃れて以降初めてということもあり、非常に注目されていますね。 台湾では来年1月の総統選で、野党の民進党(民主進歩党。中国と距離を置こうとしている)への政権交代の可能性が高まっているため、それを牽制するのが馬総統の狙いと言われているようです。 一方で、会談は逆に民進党に有利に働くのではないかという声もあります。 昨年の「ひまわり学生運動」に象徴されるように、台湾には対中接近政策を良しとしない人たち(現状維持派)が大勢いるからです。 民進党が勢いづけば、習近平ももちろん困るはず。 なのに、なぜあえてこのタイミングで会談を? 実は、両者の狙いは総統選ではなく、その後、つまり政権交代後であろうというのが、多くの識者の見立てのようです。 李登輝元総統は、「WiLL」 2015年12月号(今月号)掲載の櫻井よしこさんとの対談で、こう話していました。 「問題は来年1月16日に総統選があって、蔡英文氏(引用者注:民進党の総統候補者)が当選したとしても就任式は5月20日。その間に、馬英九氏が何をしでかすかわからないという危惧があることです。 …馬英九氏が中国との間で、『和平協定』を強引に締結するかもしれません。それをやられたら、蔡英文氏は身動きが取れなくなってしまうので警戒が必要です」 青山繁晴さんも11月5日の「ザ・ボイス」で、こんなコメントを。 「総統選挙で負ける前に、現在の台湾トップ(馬英九)と中国トップ(習近平)で、何らかの協定を結んでしまうつもりだ。 新しい総統が生まれても覆せないような、台湾が呑み込まれていくような、そういう協定を結ぶ一里塚としてやっている。 僕が勝手にそう思ってるんじゃなくて、日本も含めた諸外国のインテリジェンスの、だいたい一致した見方」 中国事情に詳しい遠藤誉さんも、ニューズウィーク日本版 2015年11月5日付で、こう解説しています。 「もう一つの習近平側の目的は、北京政府寄りの馬英九政権の間に、早いとこ、『トップ会談の枠組み』を作ってしまおうという魂胆もある。 民進党の蔡英文が総統になってしまえば、彼女は『習近平とは会わない』と、会談を拒絶するだろう。 だから、どの党の誰が総統になっても、日中韓首脳会談のような『枠組み』に填め込んでしまおうという思惑がある。 なんとしてでも、独立の方向には行かせない。 そのための戦略だ」 中台間で何かあった時、当然ながら日本も大きな影響を受けます。 今度の会談で何が出てくるのか、私たちはよくよく注視しなければなりませんね。
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2021年4月21日(水) 【お知らせ】 2021年4月5日(月)~5月5日(水)の夜の営業は20時までとし、ラストオーダーは19時となります。酒類の提供は、11時~19時の間だけとなります。 営業中は、COVID-19対策として常に窓を開けて換気を行っています。 店内では食事中以外はマスクの着用をし、感染リスク低減に努めていただくようお願いいたします。 ご理解ご協力の程、お願い申し上げます。 また、大阪コロナ追跡システムに協力しています。どうぞご利用ください。入口すぐ左手のテーブルに、手指消毒用のアルコールと一緒にQRコードを置いてあります。先日、こちらの追跡システムの大阪マイルによる抽選で、見事当選された常連さまもいらっしゃいます。おめでとうございます。 弊店が位置する福島区では、野田藤が見頃で、今月末までがピークとなりそうです。弊店にも野田藤マップがありますので、ご興味ある方はお気軽にお申し付けください。 さて、そんな野田藤の陰で?咲き誇っているのがツツジです。阪神「野田」駅前にもツツジのスポットがあります。紅白に加えてピンクのツツジもあり、これはこれで見応えがあると思うのですが、あまり取り上げられることはないみたいですね。ありふれている花だから? いえいえ。当たり前に感じてしまっていて、ついつい見過ごしてしまっているモノのすばらしさに気づくのも、大事な感性。こういった感性を磨けば、ありふれたと思い込んでいる日常も、またステキな一日に変わります。 #ある日のお客さま は、4年くらい前に一度来ました、というお客さま。近所に努めていらっしゃったのですが、近々東京へ転勤されると言います。あれ?先日もそのような話がありましたね。でも、違うお客さまです。 やはり、福島にいる間に、好きなお店を回っておきたくて...と。そ��お店の中に弊店も入れていただき、ありがとうございます。またこちらにお寄りの際は、ぜひお越しください。再会を楽しみにしています。 今頃は、もう東京でしょうか。新生活にはりきっておられることだと思います。 4枚目の写真は、2006年4月、ラオス南部にて撮影。パクセー教員養成短期大学の学生たちの教育実習の視察旅行に行ったときのものです。以前にも紹介した、教育実習生の授業風景を教室の後ろの方から見ると、こんな感じです。黒板の文字が見えるのか、って?大丈夫です。ラオスの人々は、目がいいんです。これは本当です。 協力隊派遣前訓練時、ラオ語をラオ人の先生から学んでいた頃の話です。「ヒロ、その字間違っているよ。」4mくらい離れたところから、ノートに書いた店主の小さな文字の間違いを指摘するອາຈານ(アーチャーン; 先生)。もう、本当にびっくりしました。 今日も元気に営業しています。 【テイクアウトメニュー】 新嘉坡チキンライス ¥500 叉烧饭(チャーシューライス) ¥650 新嘉坡チキンライス 【デラックス】 ¥780 サラダ、香港風味唐揚げ、デザート付き 叉烧饭(チャーシューライス) 【デラックス】 ¥930 サラダ、香港風味唐揚げ、デザート付き ベト・オ・レ ¥500 パウンドケーキ(1枚) ¥200 大阪府のコロナ追跡システムに協力しています。 STOP COVID-19 #大阪 #福島区 #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #wifi #freewifi #cafe #bar #カフェ #バー #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #東南アジア #ラオス #ベトナム #チキンライス #チャーシューライス #パウンドケーキ #ベトナムコーヒー #教育実習 #ラオスの風景 #野田藤 #ツツジ #春の訪れ #変わろう日本 (at 福島区) https://www.instagram.com/p/CN7K0kYAGM0/?igshid=1k01yg4nrx96h
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