#無添加ワイン
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今年も月山トラヤワイナリー様の ほいりげ が入荷いたしました。
商品性質上、毎年この時期に数量限定でのご提供の特別なワインです。
店頭でも販売を行っておりますので、お近くにお住まいの方は是非お尋ねくださいませ。
※少数入荷商品のため在庫がない場合がございます。
【下記アマゾンサイトURLになります】
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2025年4月12日(土)

iPhoneにいれているJR西日本のアプリが、朝からしきりにプッシュしてくる。JR京都線・奈良線・嵯峨野線がトラブルのよう、どうやら京都駅構内に「不審物」があったとかで、その対応のせいだ。ニュースを見ると中身は「食品」だったとかで、大きな問題にはならなかった。今日は大阪万博の開会式だとか、個人的には万博などナンセンス極まりないが、それに向けての意図的な行為であるなら、仕事の方にとっては大迷惑な出来事だったろう。いやぁ、専業主夫で良かった〜。

5時起床。
日誌書く。
彼女の起床を待って、洗濯開始。

朝食を頂く。
珈琲をいれる。
洗濯物を干す。

コレモ七条店で買物、今日は食パンが安い日だ。

朝からJRが騒動、何とか運転再開したようだ。
テレビでドジャースの試合、大谷君は打てなかったが山本由伸が素晴らしいピッチングを披露した。
彼女はギャラリー対応のため、早めにランチを済ませて自転車で出かける。

息子たちにはサッポロ一番塩ラーメン、私は残りご飯をチャーハンで頂く。
軽く午睡。
セントラルスクエア花屋町店まで買い物、オイルポットを新しくする、今夜は天ぷらなのだ。
彼女が買い物して帰宅、例によってリカマンでワインを大量に仕入れてきた。

夕飯は天ぷら、初めてモズクに挑戦したが、いやぁ難しい。今年初めての豆ご飯は色もきれいで美味しい。
土曜は寅さん。

北海道江差市でテキヤ仲間、シッピンの常の死を知った寅さんは、奥尻島へ墓参りに行く。そこで常吉の娘・すみれ(伊藤蘭)と知り合い、定時制高校に通いたいという望みを叶えるために、柴又へ連れ帰る。しかし、似顔絵の誘拐犯と間違えられて、青山巡査(米倉斉加年)が出動する大騒動に。さくら、博の温かい協力を得て、すみれは猛勉強して無事入学を果たすが、保護者気取りの寅さんは、連日学校に付き添って出かける始末… 元キャンディーズの伊藤蘭が、自分の境遇を乗り越えて、懸命に勉強をして、幸せをつかもうと努力をするマドンナ・すみれを好演。定時制高校の教員に、二代目おいちゃんを演じた松村達雄。定時制高校に通う生徒たち��先生の交流と、その居心地の良さに入学願書を出す寅さんの向学心。すみれの恋人に村田雄浩、朴訥とした演技が強い印象を残す。
片付け、入浴、体重は2日で400g増。
パジャマに着替え、スコッチ舐めながら日誌書く。

もう少し動くべきだった。
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東京ディズニーランドや東京ディズニーシーを夢見る皆さんこんにちは。 インフルエンザで自主隔離中なので東京ディズニーリゾートが、いま過去イチで遊びやすくなっている現状を解説します。参考にしてね。 Dオタ(ディズニーを愛するオタク)向けの前説 何言ってんだ今〇〇とか最悪じゃん(〇〇には好きなものをお入れください)というそこのあなた。 以下の文章はあなた向けではないので大丈夫です。地蔵や徹夜、グッズについて(ほとんど)語っていないのでその時間で次のインパの計画を練ってください。 (特に、フード&ワイン・フェスティバルとパルパル第二段のクワッキー・ダックシティで方向性が明確になったので) 今読んだ中で知らない単語だな?と思ったあなた向けの解説です。 お酒が好きならディズニーシーにしましょう 最初に身も蓋もないことを書きますが、カップルで夜はちょっとお酒も飲みたいよね、みたいな感じなら東京ディズニーシー(以下シーと略)にしましょう。 シーは、どの場所に行っても観光地を巡っているみたいな気分になれる超豪華な景観セット詰め合わせだと思ってください。入って、ぐるっと回って食事をして出てくるだけで満足できるタイプの場所です。 彼氏や彼女がダッフィーがすごく好き!という場合はそれなりに予約限定のショーの予約を取ったりする必要はありますが、そこまでの熱量が無いのであれば出たとこ勝負でなんとかなります。 概ね、夜の花火やショーについても、どこからみてもそれなりに楽しめるような工夫がされています。 個人的なお薦めは、どこかのタイミングで好きなキャラクターとグリーティングして、写真を撮ってプリントして持って帰ることです。 ミッキー、ミニー、ドナルド、ダッフィー、シェリーメイは、列に並べば少しふれあって、一緒に写真が撮れます。よほどタイミングが悪くない限り、50分も待つことは無いので、記念にお薦めです。 家族で夢の東京ディズニーランドという場合は一度立ち止まって 家族で東京ディズニーランド(以下ランドと略)、良いですよね。 自分の子供時代に連れて行ってもらった記憶と比べても今は格段に楽で回りやすいです。ランドでも前述の通り並べばミッキーさんと写真が撮れるというのも相当に手厚い。 でも、いったん立ち止まってください。家族は本当にディズニーのキャラクターが好きですか?ミッキー、ミニー、ドナルド、デイジーについては並べば写真が撮れるので大丈夫。 ジェットコースターが好きとか、乗り物が好き、という感じであれば少し考え直した方が良いかもしれないです。ランドはあくまでもディズニーキャラクターが主体のアトラクションがメインです。 特に、美しい思い出補正がかかっている乗り物(アトラクション)ほど、昔と変わっていないのでツライことが多いです。空飛ぶダンボとか。 遊びやすさ≒情報の得やすさと次に何するかの変更しやすさ Tokyo Disney Resort Appという東京ディズニーリゾート公式アプリ(以下アプリと略)が、遊びやすさに直結しています。 そして、4つの仕組みが、遊びやすさに繋がっています。 抽選形式のショー ディズニー・プレミアアクセス(DPA) 40周年記念プライオリティパス ディズニー・モバイルオーダー 抽選形式のショー いまはランドもシーも、いくつかのショーは抽選式になっています。 自分の見たい時間帯のショーに申し込む(エントリー受付する)と、指定席が用意されるか外れるかどっちか事前にわかります。 当たればラッキーで観ましょう。外れてもまあ、そんなもんです。次の楽しみが増えたと思って諦めましょう。 念のため申し添えますが、自由席に並ぼうとは考えないでください。どうしてもというなら止めませんが、2時間弱並んでショーを観るよりも他で楽しむ方が良いと思います。 ディズニー・プレミアアクセス(DPA) 追加で1500円~2500円のお金を払うことで、ショーの指定席やアトラクションの優先レーンに並ぶ権利を買うことが出来る仕組みです。 カップルなら、追加で4000円払えば美女と野獣“魔法のものがたり”を180分も並ぶことなく15分程度で楽しめます。 3人家族なら、追加で7500円払えば東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード・ドリームライツを指定席でしっかり楽しめます。 カップルなら+1万円程度、家族なら+2万円程度の予算を見込んでおけば、アトラクションやショーを、ものすごく楽に楽しめると思っておいてください。 お金を出すだけあって、アトラクションなら、この時間が良いなーと自分で時間を選ぶことが出来ます。 ただし席数が限定されている先着順なので、遅くとも午前中には買ってしまいましょう。 ショー1つ+アトラクション1~2つで使うと、余裕をもって楽しめます。 40周年記念プライオリティパス こちらは、お金を出すことなく、先着順で早い時間からどんどん発行される優先チケットです。 時間指定できない、一つ取ると、2時間後(or プライオリティパス利用開始時刻)に、次のチケットが取れる、という制限があります。 ランドやシーのパーク開園時間前後に並びだしてから入って、一つも取れない、ということはほとんどないので、最低一つは乗れるかな、という感じです。 コツは、2枚目以降も取れたらラッキーくらいで考えておくことです。 ディズニー・モバイルオーダー 少しトリッキーですが、アプリからレストランと時間枠を指定して、事前注文する仕組みです。 まずレストランを選択し(選べないときは残席無し)、次に時間枠を指定し(残席がある時刻のみで、例えば13:00~13:30)、最後にメニューを選択します。 トリッキーなのは、レストランの時間枠が予約枠として設定されていて、ココさえ取れてしまえば、あとからメニューは変更ができる点です。 例えば、ピザセットを頼んでいたとして、あとからココのお店のスーベニアコースター(メニューに+料金でお土産がつくところは結構ある)が欲しい!となったときに、変更が出来ます。 夜の時間帯にオーダーしたけれども、子供が寝てしまってもうホテルに帰ろうかな、コースターだけ欲しいと言ってたからドリンクだけに変更しておこうかな、などが気軽に出来て便利です。(行かなければ自動キャンセル) でも、X(旧Twitter)だと色々言われているけど…… ほとんどDオタが言っているだけなので、一般の方は気にすることは無いです。 ポイントは「コレは是非ココで動画撮影したい!」や「この限定グッズは絶対に手に入れたい!」という気持ちを持たないことです。 例えばパレードについて いまはクワッキーセレブレーション★ドナルド・ザ・レジェンド!というドナルドダックが主役のパレードをやっています。 これは前述のDPAを使うと、プラザガーデン前またはキャッスル・フォアコートという場所の指定席を手に入れられます。 でも、パレードルートを事前に調べておき、パレード開始15分程度前から待てば、たいていどの場所でも立ち見でキャラクターを観ることができます(場所によっては座り見もできる) いまはキャラクターはだいたいはパレードで��ってくる乗り物(フロート)の高いところにいるので、キャラクターを観るだけであれば前に人がいてもあまり関係ありません。 シッカリ座って観たいな、という家族でも、30分程度前に3~4列目あたりに座っておけば問題なく鑑賞できます。 (一部のDオタが、動画撮影するときに他人の振ってる手やグッズが映らず、カチューシャなどが映りこまない完璧な動画や写真を撮りたい、という過度な期待で呟いている、程度に思っておいてください) 例えばグッズについて 一部のグッズが、ほぼ限定グッズ状態になっているのは事実です。 おそらく一般の人が事前情報なしでのんびりと開園時間ぐらいに入園した場合、手に入らないグッズがあるのは間違いありません。 ただし、それは一部の限定グッズに限られます。どうしてもコレが欲しい!というのはイバラの道になりますが、ドナルドのグッズが欲しい、程度であればたいてい何とかなります。 (後述しますが、それすらアプリ経由の購入だと受注生産のような形での救済措置が結構取られ始めました。が、あんまり一般の人には関係ないです) お土産は、事前に買うもの、その日に買うもの、後日郵送してもらうもので分けて考えよう アプリ経由でグッズはネット注文できます。 そのため、例えばディズニーの帽子や洋服などを、行く前に事前ゲットできます。カチューシャや帽子なんかを事前に揃えておけると気分が盛り上がりますね。 ぬいぐるみやポップコーンバケットなど、当日に買って身につけたくなるものもあります。それは当日にお店でゲットしましょう。 その時に、お菓子やポストカードなど、後日他人へのお土産として買うようなものは、当日23:45までにアプリ経由で発���すると、3~5日程度後で届きます。 特にかさばるお菓子を大量に買いたい人は、アプリ経由が大変便利なので活用してください。もうチョコレートクランチの缶を大量に抱えて新幹線に乗り込む必要はありません。 まとめ(まとめと持ち物) いまはアプリありきです。 アプリでは、事前に平日や土日の待ち時間をみることが出来たり、ショッピングでグッズにお気に入りマークをつけて準備しておけます。 少なくとも一週間以上前にはアプリを入れておき、朝、昼、夕、夜の各時間帯でのアトラクションの込み具合を横目で見ておきましょう。 意外に並ぶもの、並ばないもの、レストランの混雑具合などを観ることが出来て、けっこう楽しいです。 お金は可能な限り出して遊ぶ方が良いです。もちろんレストランメニューの事前調査やプライオリティパスを駆使して安くかつ並ばずに楽しむこともできますが、わりと難易度が高いです。 持ち物は、友人などには以下をおすすめしています。 モバイルバッテリー(園内では買えない/借りられるが最終手段) レジャーシート&クッション(園内でも買える/座らないなら無くても良い) 日よけ&日焼け止め(折り畳み傘は園内で買えない/日焼け止めは買える) お手拭き(園内に手を洗う場所はあるが並ぶ) 歩きやすい靴(気合でオシャレする場合を除く) 事前情報は、以下あたりを抑えておきましょう。 ショー、アトラクションの休止情報 (結構休止しているアトラクションが多いので事前に確認しましょう) レストランの場所とメニュー (スーベニア系の持って帰れるマグカップやコースターは売っている店舗が限られます) 欲しいグッズの売り場 (ポップコーンバケットもネットで事前にどこで売っているか確認できます) ハッキリ言って、うん十年前の親御さんの苦労に比べると天地の差がある遊びやすさです。 特に何があるわけでもない待機列、どこが混んでいるかもわからないアトラクション、なかなか入れないレストラン、必ず会えるとは限らないキャラクター、気合で持って帰る大量のお土産。 それらからすると、とても遊びやすいリゾートになっています。お金はかかるようになったがそこは貯金だ。 おまけ 運悪く雨の予報の場合、雨合羽としっかりした傘で向かいましょう。こらアカンと思ったら園内で大きい傘売ってるので買おう。 可能な限り新しいイベントの初日から一週間程度は避けましょう。特にオタクが集中してるのでレストランとグッズ売り場が混むぞ。 親孝行とか、記念の日の何年かに一回のイベントとかで行くつもりなら、貯金してバケーションパッケージというディズニー謹製のホテル付パッケージツアーが良いぞ。高いだけはある。 あと、できればディズニーの映画は観てから行った方がより楽しめるので、観てない人はこれを機に観てから行くと良いと思うよ。 (ランドなら、美女と野獣、リロ・アンド・スティッチ、ベイマックス、リメンバー・ミー、モンスターズ・インク、トイ・ストーリー。シーなら、アナと雪の女王1&2、モアナと伝説の海、塔の上のラプンツェル、リメンバー・ミー、リトル・マーメイド、アラジン) ここから補足 結構ブクマされて読まれてるみたいでありがとう。ちょっと気になったコメントとか反応だけ回答入れておこう。 いまはオタクのみで、家族連れお断り? NO.特に小さい子供のいるご家庭はかなり遊びやすいです。 ベビーカー置き場やトイレ(レストルーム)のおむつ替えや子供椅子も充実していますし、子供と一緒に乗れるアトラクションが多いです。 以下の点にだけ注意してください。 過去のランド、シーと比較して遊びやすいだけで、例えばジェットコースターに乗りたいなら富士急ハイランドに行った方が満足度は高いはず ホテルの特典(15分前入場のハッピーエントリー)を使う時以外は、開園時間+30分~1時間後くらいのゆっくり目入園をお薦めします 園内をキャラクターが散歩(フリーグリーティング)するのは、天気が良くそれほど混雑していないときです。会えるとラッキーという気持ちが大切です 携帯電話はどう?フリーWifiはある? フリーWifiはありません。入園直後は、本文中にも書いたDPAの購入合戦が発生して、どのブランドも繋がりにくくなります。 お薦めは、繋がらないときは諦めて園内を写真を撮りながら進むこと。概ね15分程度で合戦が終わるので、そのあとはどのブランドもほぼほぼ問題ないです。 大体どれくらいの予算?上海行った方が安いんじゃ? 概ね、チケットが一人8000円、お金でショーを観たりやアトラクションに乗って4500~6000円、食事を朝昼晩で7000円(スーベニア付き)、身につけるグッズやお土産で3000円~10,000円程度です。 ざっくり一人当たり3万円くらいで見ておくのが無難です。カップルなら6万円、3人家族なら9万円くらい。 そういうツアー組むので商売できそう。 そういうツアーが、バケーションパッケージという名前で公式から出ています。 ただし、お財布にかなりの覚悟が必要です。 例えばディズニーリゾートの雰囲気たっぷりのホテルに泊まり、アトラクションは並ばずに乗れ、キャラクターとのふれあいや写真撮影も悠々、ショーも楽しめて食事も並ばないプランを選択したとします。 しかも、ディズニーバケーションパッケージだけのお土産や特典付き。 ただし、これで28万円くらいです。2万8千円ではないです。28万円です。 綿密に事前準備しないと楽しめないの? 他のテーマパークや動物園や水族館などに比べて事前準備しておいた方が楽しめるのは間違いありません。 これは規模がケタ違いに大きいからです。 都民が想像しやすいところで行くと、上野の施設群とざっくり同じくらいのサイズ感を想像してください。動物園や美術館ではありません。エリアです。 不忍池、上野東照宮、上野恩賜公園、アメ横商店街、西郷隆盛像、上野の森美術館、上野動物園、東京文化会館、国立西洋美術館、国立科学博物館、東京都美術館、東京国立博物館。 これらの敷地を合わせた面積よりも、ランドとシーの方がまだ大きいです。上野の街を遊びつくそうと思って、無計画で行くと破綻するのと同じ程度で考えてもらえると良いかと思います。 はてなーにわかりやすく言い換えると、地方から出てきて初見でJR秋葉原駅から東京ドームとか上野や鶯谷ぐらいの範囲内を、下準備無し/ググらずに楽しむつもりか?という感じで考えてもらえると。 そして、めんどくさくなって調べなくても楽しめるのは、圧倒的にランドよりもシーです。特にこだわりが無いのであれば、日帰りのシーから行ってみることをお薦めします。
東京ディズニーリゾートは、過去イチ遊びやすくなってる
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『ガラスの街』
五月は読書の月だ。僕は本を読んだ。数多の本を。 最初、それは次の小説のアイデアを得るためだった。頭上の樹々からワインのための葡萄をもぎ取るような、循環を続けるにあたっての摂取だった。いきおい堕落しつつある現実から少しでも意識を逸らすためでもあった。 普段の僕は、本を読んで時間を過ごすことは少ない。長い時間ひとつの文章に集中することができないのだ。 それに読むことよりは書くことのほうがずっと大切だと僕は思っている。読む行為は、現実という制限された枠組みのなかではせいぜい膝丈ほどの優先度しかなかった。 しかし五月ではあらゆるものが落下した。熟れ過ぎた果実が枝との繋がり終え、足元に開いた坩堝に呑み込まれていった。読む行為もそうだ。落ち、煮え滾る器の中で混合した。 いまでは僕の「読む」は混沌としている。それはいまでは長身の僕、その僕以上にのっそりとそびえる一本の巨大な柱となっている。物言わぬ花崗岩の柱。五月、僕はそんな柱を中心にぐるぐると回り続けている。手は文庫本に添えられ、目は9.25ポイントの文字に注がれている。足は僕の意識から離れて交互に動いている。ひたすら歩き、ひたすら読んでいる。柱から少し離れた誰彼にどう見られているかどう言われているかなんてことお構いなしに。
いや。そんな話自体がどうでもいい。関係ない。 きょう、僕は自分自身が”うすのろ”だということを語りにきたのだ。
***
五月。 僕はどんなものを読んだのだろうか。 金ができて僕がまずやったことは大学生協の本屋に行くことだった。カウンターで二枚つづりの注文用紙を手に取り、もう何年も使い続けている青のボールペンで書いた。 "9784002012759" 週明け、僕は地下の生協で注文の品を受け取った。『失われた時を求めて』全十四冊。いまは第一巻を読んでいる。僕がふと目をあげると、あの遠い窓の奥で、大叔母が目を爛々と輝かせているというイメージが浮かぶ。泳ぐような精神の移ろいもまた。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』も読んだ。 『MONKEY』のvol.31の三篇、ケン・リュウ「夏の読書」、イーディス・ウォートン「ジングー」、ボルヘス「バベルの図書館」も読んだ。 仕方なく後回しにされていた本を買って読んだのだ。 金銭の自由は、精神という鈍い壁に茂っていた蔓植物のような不足を一太刀で解決した。
『春の庭』も読んだ。『九年前の祈り』も。 ウルフの『波』���読み始めている。 僕の貪欲は、過去に読んだことがあるかどうかなんてものでは選ばなかった。カーヴァーの『象』、春樹の「タイ・ランド」、マンローの「イラクサ」、ヴォネガットの『スローターハウス5』。マラマッドの「悼む人」も読んだ。
一度の時に、僕はこれらの本を読んだのだった。 こんなに大量のフィクションを仕入れて、いったい何をしようとしているのか? 紛争でも起こそうとしているのか?
何のためか。それは僕自身にもわからなかった。 僕は特定の目的をもって読んだわけではなかったようだった。五月の読書は「文章の上達」や、「ストーリーテリングの技法」といったそれまでの興味とは別物だった。振り返ればそうだとわかる。
五月の読書は、それまでの自分を抑制しようとする、極めて機械的な態度とは違っていたのだ。 言えば、それは無垢に機械的な読書だった。 これまでの僕は断じて読書好きではなかった。どんな傑作でも一時間もしないうちに音を上げて投げ出した。ドストエフスキーやメルヴィルと出会ったときでさえ、メインストリームは”書くこと”、そして”生きること”で変わらなかった。この五月に僕は初めてむさぼるように読んだのだ。頭を空っぽにして。堆い小説の亡骸の山に坐すかのようにして。
それで、僕は何かしら成長したか。 いや。成長なんて一つもなかった。 そこには変化さえなかった。二週間前と、すべては同じだった。僕が着るのは依然深いグレーのブルゾンだった。コミュニケーションもぎこちないままだった。 だからそこで起きたことはシンプルだ。つまり、僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み、ある一つの事実に行き当たった。 「僕はなんという低能なのだ」という事実に。
***
一昨日から僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み始める。 『MONKEY』でオースターのエッセイを読んで彼のことを思い出し、その夜に丸善に立ち寄った僕は彼の本を久々に手に取った。 三日で読んだ。 「三日で読む」というのは僕にとってほとんどあり得ないことだった。僕のリュックサックには必ず四、五冊の本があった。読むときにはまずそのとき一番惹かれる本を手に取った。そして十数ページが過ぎ、抱いていた軽度の好奇心が満たされてしまうと、浮気性の蜜蜂のようにまた別の小説の甘いのを求めるのだった。 だから、一日目、二日目と時を経るごとに加速度的にその好奇心が勢いを増し、三日目には150ページを一つの瞬間に通貫して読んでしまったのだ。僕の読書体験において、異例中の異例だった。
『ガラスの街』を読んで、僕はうちのめされた。徹底的に。 ”面白さ”、そして”新鮮さ”の二つが、やはり事の中心だった。読書においておきまりのその二つが今回も僕を虐め抜いたというわけだ。 『ガラスの街』を読み終えた瞬間、僕の生きる世界のどこかが確実に変化した。
「祈っている。」 僕がこの最後の一文を読んだとき、曇り空の下にいた。その一節がこちらに流れ込んできたあと、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと揺れるほどぶっきらぼうに立った。取り乱していたのだった。僕はそのままであてもなく歩き始めた。 「これ以上座っていることはできない」 「このまま座っていると、僕は頭の先から崩れ落ちてしまう不可逆的に」 そうした、僕という精神を一切合切覆してしまうほどの強烈な予感のために。 僕は予感に乗っ取られないよう、何も考えないと努めていた。何も感じまい、何も見まい、と。 リラックスを意識し、肩から力を抜く。腕をぐんと伸ばし、指をぽきぽきと鳴らした。イヤホンを耳にした。『ベリーエイク』を再生する。いつか足元をくすぐった波のように心地よい、ビリーアイリッシュの声に心をしっとり傾けた。 もちろん、そんなことは無駄だった。とりあえずの形など、何の助けにもならなかった。以前との比較から始まる違和感たちは強権的に僕の感情の戸をこじ開けた。 歩く中、透明の空気が奇妙に凪いでいた。風景からは特定の色が抜け落ちていた。向こうで笑う声、衣擦れの音、靴底の摩擦。音という音がワンテンポずれて聞こえた。 変化は女王だった。彼女は支配的だった。 僕は小説による変化を受け入れ、恭順のように認めたわけではなかった。むしろ、変化は僕にどうしようもなく訪れていた。言わば、言い渡しのようにして。 女王を僕は素晴らしい小説を読んだ後の”ゆらぎ”の中に閉じ込めたのだった。何もかもが、僕に合わない形に作り替えられていた。建物を構成する直線はいまやでたらめで恐怖がつのった。頭上の青はこのように汚い灰色では絶対なかった。
――そして、当然、この点についての文章はかたちだけに過ぎない。これらは省略した文章。書く必要がないということ。 なぜなら、あなたたちもかつて同じ経験を経ているからだ。小説を読み終えたあとに来る世界の変質を。 加えて、忘れるなんてことを女王が許すわけもない。これについても言わずもがなだろう。
そして、重要なのは変化のよろめきではない。 そうなんだ。きょうしたいのは女王の話とは実は違うのだ。ここであなたに伝える言葉は破壊だ。 破壊。 それは”面白さ”と”新鮮さ”のコンビがやったわけではなかった。変化の体験に曝されたゆえのサイコ・ショックでもない。 木々を打ち砕く手斧となり、人体を壊す剣となり、バベルの塔をゼロにする雷となったのは、オースターの書きっぷりだった。
オースターは、考え抜いていた。 そこで”感じ”は排除されていた。 感覚による言い表しがまるで無かったのだ。僅かにイメージに依拠するものがあっても、それは必ず共感の姿勢だった。テーブルに身を乗り出し、相手の声に耳を澄ませる態度。
『ガラスの街』では、本当に一切妥協はなかった。僕はとても信じられず、街を隅から隅までしつこく歩き回った。しかし、本当に妥協はどこにも無かった。
オースターは僕とコミュニケートすることを選んでいた。そのへんの宙に感覚という水彩画を描いて「ほらご覧」とする、ごく個人的で他者には見せつけるだけという表現は徹底的にしなかった。チャンドラーを始め、私立探偵ものに由来する例の論理的な高慢さはあった。しかし、確実にオースターは読者と対峙していた。彼は殴る、殴られる痛みを完全に了解した上でリングに立っていた。 彼の据わった眼が僕を揺るがしたのだった。彼は完全の脆弱性を知りながら、完全に書いていた。 それだから、彼を読んだとき、僕は……
向こうから厚底ブーツの女が歩いてくる。 女は痩せている。薄い、流線形の黒一枚に身を包んでいる。背が高く、ありったけに若い。二十歳前後に見える。二つの瞳はキャップに隠れている。すれ違いざまに見える耳にさえ、カナル型のイヤホンで黒が差されている。マニキュアはあまりにも美しい銀色に染まっており、高まりを誘う。 センスがいい。綺麗だ。 彼女はなんて豊かなんだ。 僕はそう思う。 ほとんど同時に、ガラス一枚を隔てた向こうで本を読む人を見つける。 また女だったが、今回性別は重要ではなかった。その読む人は区切られたブースで、文庫に目を落としていた。化粧や唯一のファッションなどもなく、やはり装飾は重要でなかった。というのも、いまにも涎が垂れてきそうなほどに口をあんぐりと開けて読んでいた間抜けなその放心が、僕の記憶に楔として打ち込まれていたからだ。
これらのスケッチが、何かを直截に意味することはない。二つの風景は隠喩ではない。 正直に、上記は僕が受けた印象の再放送だ。 この日記は『不思議の国のアリス』ではない。二つは作為的な意味を持たない。 書いたのは「意味を持たない」ということを明らかにするためだ。 その内容でなく、外側、僕のスタイルという基本的な骨組みを露わにするためだ。
そう。だから、つまり……僕は痛みから逃げている。オースターとは違って。 きょう、読んで、事実は突きつけられる。
***
”言葉”はもう一度響く。
「大西さんの小説は、けっきょく古典から表現を引用しているだけ」
「僕は彼にもう興味がないんだ。かつて、彼は賢い人だと思っていた。書くものに何かしらの意味があると思っていた。でも、そうじゃないと知った」
「あなたの課題は、独自の世界観を提示できるかということです。海外の小説、そして村上春樹でなく」
***
そして、このように敗北してもなお、僕は決定的な何かについて述べることはなかった。張りつめた表情で、まやかし、それ自体に必死に祈る。もうそのような生き方しかできないと信じ込んでいるのだ。
「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
祈りの文句を何度も何度も口にした。 僕の声はいつも通りにすごく軽くで響いた。 そして一度響いてしまったものは泡沫のようにたちまち消え去った。
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週末を振り返って・・・土曜日の夜は御所南の料理・ワイン・イバラキさんにご協力いただいて、児玉さんの器を使った小さな食事会を開催いたしました。2年前の個展の際にも食事会を開きましたが、展示に合わせて制作いただきました3種類のプレートと新しいゴブレットLも実際にお使って楽しんでいただきたいと思い企画してみました。今回は特別に國津果實酒醸造所さんのワインをペアリングして頂ける事になって、豪華な会となりました。当日のお料理とワインは以下の4種類でした。
・タイのカルパッチョ、鱧の炙り、ホタテ貝のポワレ クスクスと焼きナスのソース
ワイン:Budou To Ikiru White Primeur 2024(泡 白)
・ 豚バラ、砂肝のコンフィサラダ仕立て 水切りヨーグルトのブルスケッタ添え
ワイン:Ishibe Blanc 2024 (白)
・鮎のパートブリック リゾットと茄子のマリネ赤ワインソース
ワイン:Natural Pop Life 2020 (赤)
・ 和牛ほほのポトフ (スープは別添え)
ワイン:NPL Cazino Dela Oxide 2024(白)
(サービスで焼き菓子とお茶も出してくださりありがとうございました!)
蒸し暑い季節にぴったりな前菜から始まり、ボリューミーなサラダ、この季節ならではな鮎を使った食感が面白い料理や、さっぱりといただける柔らかなほほ肉のポトフまで、彩も美しく食感もそれぞれ楽しく美味しい4皿をいただきました。児玉さんのプレートを3色揃えてくださっていたので、同じ料理をのせても見え方がそれぞれに魅力を感じられて面白かったです。お料理美味しすぎてワインも進みました!2番目のIshibe Blancはリリース前のものを、3・4番目は中子さんが育てた葡萄で作られた特別なワインをご用意いただいたり國津果實酒醸造所さんならではなワインをお見立て頂きありがとうございました。イバラキさんには1ヶ月ほど前に見立てていただいたワインを託させて頂いてから、ご準備大変だったと思いますが今回も快くご協力いだきありがとうございました。
また児玉さんには当日に使う器のご準備や、ご参加の皆さまのお土産としてお渡しする箸置きと手拭いをご用意いただ理、食事会でも器のお話や各テーブルに回っていただいたり色々サポートくださり嬉しかったです。ありがとうございました。
そしてこの会を楽しみにご参加いただきました8名のお客さまもありがとうございました。前回ご参加の方が半分いらして、またお申し込みいただけた事が嬉しかったです。2回目の方も初めての方も楽しく会話も弾まれていて嬉しい光景にホッと。さきさんやお客様より今回も写真をお借りしました。皆さんにも色々助けて頂き今回も無事に楽しい会を終えることができたこと感謝いたします(ぺこ���)
本日より「児玉修治 陶展」後半がスタートいたします。食事会にて使わせて頂きましたプレート3種とゴブレットLが少し店頭に並びます。この機会にぜひ手に取ってみてくださいね。後半もよろしくお願いいたします。
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BORSA VIN 2024 イタリアワイン商談会
マスタークラス「優雅さと力:イタリアの赤ワインの素晴らしさ」
2024年10月9日、ホテルインターコンチネンタル東京ベイにて、イタリアワイン商談会出展ワインから選ばれたアイテムのテイスティングセミナーが開催されました。
1時間のセミナーで6アイテムなので、結構忙しい。進行役はキャプランワインアカデミー講師のドナデオ・エットレ氏。マルケ州出身のイタリア人ですが、日本語レベル高い!各ワインの説明は来日生産者が行いました。
<試飲の6アイテム>
・Sin cero Rosso Verona IGT-Organic / Valentina Cubi ヴェネト州
コルヴィーナ、ロンディネッラ品種。オーガニック栽培で、亜硫酸塩無添加。
軽やかでスキッリした酸味のジューシーな赤ワイン。
Aglianico del Vulture DOC “Calice”2021 / Donato D’Angelo バジリカータ州
アリアニコ品種。標高600mの火山性土壌。ブラックベリー、タバコ、グローブの香り。濃厚な果実味、バランスのとれたタンニン。
・Recantina Augusto / Giusti Wine ヴェネト州
レカンティーナという珍しい品種(全体で15haのうち、Giustiが9haを占める)。
スミレ、リコリス、チェリーの香り。ソフトで凝縮した果実味とバランスのとれた酸味。
Assolatio Toscana IGT / Casalvento トスカーナ州
サンジョヴェーゼとメルロー品種半々。プラムやヴァニラの華やかな香り。その果実味とタンニンで、お肉やペコリーノチーズが食べたくなる味。
Farnito Cabernet Sauvignon Toscana IGT 2018/ Carpineto トスカーナ州
カベルネ・ソーヴィニョン品種。ブラックベリーやヴァニラの香り。カシスやチョコレートを感じる味わい、エレガントなタンニン。
Villadoria Barolo DOCG 2019/ Villadoria ピエモンテ州
ネッビオーロ品種。化学肥料を使用しない。スミレやバラの香り。チェリーやトリュフを感じる味わいで、なめらかなタンニンと酸味が心地よい。
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男料理 〜えげつなく地味なこだわり その4〜
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親子丼のコツは2つあります。鶏肉に塩で下味をつけるということです。こうすることで、鶏肉がふっくらと仕上がります。2つ目は、溶き卵を加える直前に、水溶き片栗粉を加えます。こうすることで卵がフワフワになります。この2つのポイントを押さえればどうにでもなります。村田料理長はだしを取っているかと思いますが、だしを取らずとも、めんつゆで作りましょう。家庭料理ですので。
面倒くさがらずに、焼きなすは冷水につけて皮を剥きましょう。これだけはマストです。あと、なすは焼くとうまみが倍増するので、だしは取らなくてもOKです。顆粒だしで大丈夫です。ド・シンプルになすの旨味をいただくイメージで作ってください。
「トマトが赤くなると、医者が青くなる」と言われるくらい、トマトは栄養価が高い夏野菜です。このレシピではトマト・ジュースを使用していますが、生の���マトとポン酢でもOKです。基本的に夏バテ気味で食欲がなくなったときに、そうめん用の薬味の残りときゅうりを加えれば、夏を乗り切るスタミナ・スープの出来上がりです。そうめんに添える汁椀として、ぜひ。
ところで、ファミレスであなたはどちらを注文しますか?
A.マヨコーンピザ
B.玉蜀黍とソース・マヨネーズのピッツァ
おそらくBだと思います。食材にイワシは大衆魚だの、キャビアは高級食材だのというレッテルを貼っても仕方がありません。というのも、高級食材だと決めてつけているのは僕らだからです。なので、とうもろこしも食べ方一つで意外と美味しく食べることができます。コツはとうもろこしの茹で汁で炊くことです。というのも、とうもろこしの芯から旨味が出ているからです。なので、この炊き込みごはんを作る上で、コーンの缶詰は絶対NGです。また、このレシピにはありませんが、醤油と合い挽き肉を少し加えるとボリューム感が出て美味しくなります。また、残ったとうもろこしとその茹で汁は後述するとうもろこしのすりながしに利用すると無駄がありません。
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とうもろこしを味わい尽くすためにも、とうもろこしの炊き込みごはんで余ったとうもろこしの茹で汁ととうもろこしの実を使い切りましょう。とうもろこしの茹で汁から出た旨味でどうにでもなるので、出汁をとらずともめんつゆでなんとかなります。あと、「ミキサーにかけるのめんどくせー」と思うなら、粒感が残っても問題ないと思います。家庭料理なので。
#玉蜀黍の出汁のとり方
1.玉蜀黍を実と芯に分ける。
玉蜀黍を半分に切った後、玉蜀黍を立てて、実を削ぐ。尚、こだわるならば、大根のように桂剥きして玉蜀黍の実を削ぐと良い。
2.玉蜀黍の芯を10分煮出す。アクは"ほどほどに"取る。というのも、アクを取りすぎると、玉蜀黍のうまみもなくなるので。何事もほどほどに。ほどほどもほどほどに・・・。
山芋を輪切りにして、オリーブオイルでソテーするだけで立派な副菜になります。簡単で飽きのこない定番になるので、ボナペティ。
冷蔵庫にある野菜を炒めます。谷シェフはプロなので一つ一つの野菜を別々に炒めていますが、面倒であれば、適当に炒めても大丈夫です。あと、ソース・バルサミコと聞くと、敷居が高いように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、要するにバルサミコ酢を煮詰めるだけの簡単なフレンチ版の自家製焼き肉のタレなのです。フレンチ版の焼き肉のタレなので、後述するように、豚肉や鶏肉のソテーとも相性が抜群です。
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イタリア版の酢豚です。この動画では玉ねぎを入れていますが、「めんどくせー」と感じるのであれば、豚肉のみで大丈夫です。また、豚のロースをソテーするときのコツは強火で短時間で火入れすることです。火が通ったら、バルサミコ酢を回し入れて、フライパンにこびりついた豚の旨味をこそげ落とすことがポイントです。
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コツは2つです。鶏肉にしっかりと焼目をつけること、白ワインヴィネガーと白ワインを煮詰めることです。でないと、味がぼやけます。
ポイントは隠し味にコリアンダーを入れることです。そうすることで上品に仕上がります。
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2025/2/4 娘はお歌好き期に突入したようです。 テレビの中のお姉さんお兄さんの真似をしてうんやかんや歌っています。 お昼もずっとなにか音楽が流れていて、タイミングよくやさしい曲がかかるとそのままソファで寝落ち、今日はまさにそのタイミング、たった今眠りにつきました✌︎
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🍇 ガルガンゴ 2023 白微発泡 ・生産者 ラ ビアンカーラ ・生産地 イタリア / ヴェネト ・品種 ガルガーネガ ・Alc. 11%
柑橘スマートちょいドライ。 ピュアな果実感は、ちょっととろりとしてピーチのニュアンスも。 発泡の確実さ、微発泡なんですけど、酸味ミネラリーと調和する確実さ、みたいな。 2日目3日目でりんごもコンニチハ。 マシエリやサッサイアを思わせるアンジョリーノファミリーのゆるふわマシンガン。
〈以下、インポーターさん資料より〉 やや早摘みしたガルガーネガをダイレクトプレスして造ったワインに冷凍保存しておいたガルガーネガのモストを添加し、瓶内二次発酵を促す。酸化防止剤無添加、ノンフィルター。
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長野県 / ㈱ 井筒ワイン 井筒ワイン 生ワイン 2024 ナイヤガラ(白) 井筒ワイン 生ワイン 2024 コンコード(赤) 酸化防止剤無添加のフレッシュな白ワインと赤ワインです。ぶどうの果実味と酵母の働きの余韻が残る、爽やかで自然な味わいです。やや甘口の とても飲みやすいワインです。よく冷えた状態でお飲みいただくのがお勧めです。 赤白共に 750ml ¥1,682(1,850) 木村硝子 ピッコロ( ワイングラス )10oz ¥1,450(1,595)
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誰がどう思うかと私
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直属の上司が数字に強い人です。何となく思っていることを、ふんわり定性的に伝えると定量的な数値情報が無いと納得されないのはマネジメントとして正しい姿ですね。
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ある時「こんなに高い予算を積まれたら萎える」と言った部下に対し「昨年はこの売上実績で今年の状況がこうだから来年の数字は⚪︎%しか増えてないよね」と言っていました。
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「相手がどう思うのか」より少し高みに目標を設定して「こういう努力して達成して欲しい」と言い「嫌われても全然平気」と言うのは見習わなくてはと思ったものです。
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今まで「萎える」に寄り添って「そう思うんだよね。わかるよ」って共感してましたが上司のように相手の気持ちに対して自分がどう思うかを伝えるのは、こちらの言葉ですね。
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と言うわけで本日のランチは #ドーカン #Dohkan です。少し肌寒くなってきたので煮込み料理が食べられるところを探していたら、こちらの店に出会い訪問です。
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鶏ときのこのクリーム煮が気になっていたのですが、店に着いたら茶色いいビジュアルの #豚肉の赤ワイン煮香味野菜ソース が気になったので、そちらにしました。
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まずは #スープ が運ばれてきました。大きめの汁椀で和風スープというだけあって、上品なすまし汁のよう。冬瓜の優しい甘味そして柔らかいふるふるした食感が印象的。
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これに椎茸の旨みやにんじんの旨みが加わって滋味深い味わいに仕上がっています。鶏肉もさっぱりと美味しくて、お餅を入れたら上質なお雑煮が出来る感じです。
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スープを飲み終わったらすぐにメインディッシュがやって来ました。最初お肉を切ろうとナイフを取り出しましたが、その必要がないくらいトロトロに煮込まれています。
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鋭角ではない丸いスプーンの先端で力を入れなくても切れる感じ。口の中へと運べばホロホロと崩れていき、赤ワインの持つ渋みと旨みが後からやってきます。
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久しぶりに食べるグリンピースもほろ苦さを加えている感じがします。玉ねぎも程よい煮込まれ方で、一緒に食べると美味しいですね。
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ハヤシライスにも似たような感じだけど、あくまでもタップリと入ったお肉を楽しむために少しビターで洋風なソースがタップリ入った料理という印象でした。
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最後に #コーヒー もついて、心地よい音楽もあって大満足でした。店内の9割が女性で、ゆっくりと会話を楽しむのにふさわしい場所だなと思いました。
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11月の後半に当初食べようと思っていたクリーム煮があるみたいなので、また近々訪れたいなと思います。
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#半蔵門ランチ #半蔵門グルメ #半蔵門洋食 #半蔵門創作料理 #とa2cg
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「こんなに長く生きるとは……」ダウン症者が長寿化 笑顔で高齢期を過ごすポイントとは 11/3(日) 11:02配信 ひと昔前は成人まで生きられるかどうか、と言われていたダウン症のある人たち。医療の進歩でいまや還暦超えも珍しくない。社会はどう支えていけばいいのか。AERA 2024年11月4日号より。 【写真】「高嶋ちさ子さんの父とダウン症の未知子さん」はこちら * * * 「正直、両親は姉を施設に入れたとき、こんなに長く生きると思っていなかったと思います」 長崎県諫早市在住の古川佳世子さん(56)は、7歳から医療型障害児入所施設で暮らす姉の内田祐子(まさこ)さん(60)に寄り添う。 祐子さんは3年前に白内障、4年前には膀胱の手術を受けた。 「姉は『見えづらい』とか『痛い』などとうまく伝えることができない。白内障も、歩きづらい様子から周囲が気づいたんです」(佳世子さん) 父親は9年前に他界し、母親は今年10月に88歳で他界した。2人の弟と協力し、姉を支える。 「姉はきっと、なぜ母が面会に来ないのかと思っていると思います。母に会いたいだろうなぁと。だから私は、会ったときにスマホで母の写真を見せています。姉は自らタッチして、じっくり見ています」 コロナの影響で面会制限があるなか、通院のための外出は姉とコミュニケーションをとれる唯一の機会で、佳世子さんは「大切な時間だから楽しみにしている」という。しかし診察前は、毎回、姉の体に異常が出ていないか、ドキドキするという。「これまでできていたことがいつできなくなるか」と心配している。 ■60歳以上がほぼ倍増 ダウン症は染色体が1本多くなって起こり、筋肉の緊張が低く、ゆっくりと発達する傾向がある。加えて、約半数の人に生まれつき心疾患があり、ほかにも消化器系の疾患など合併症も起きやすく、1970年ごろまでは平均寿命が10歳ぐらいだった。それが、医療の進歩などによって、最近では寿命は60歳程度とも言われる。 日本ダウン症協会代表理事で、大阪医科薬科大学名誉教授の玉井浩さんはこう話す。 「2010年と16年のダウン症者の死亡時年齢を比較すると、60歳以上がほぼ倍増している。先天性心疾患や白血病・リンパ腫を乗り越えられれば、長寿は可能です」 玉井さんによると、先天性心疾患の有無にかかわらず、成人になってから心臓の弁逆流を起こしたり、最悪の場合は僧帽弁逸脱症になったりすることもあるといい、手術後も定期的な受診が大切で、玉井さんは「サポートファイル(ブック)」の利用も勧める。 病歴や処方薬、手術記録などの医療情報だけでなく、日常生活やコミュニケーションの方法などさまざま記入するもので、医療や福祉の利用の際に役��つ。日本ダウン症協会のホームページから無料でダウンロードできる「わたしの健康パスポート」もいい。 「親御さんもお年を召していくと記憶もおぼろげになっていきます。ファイルで常に更新していくことで万一に備えられます」(玉井さん) 合併症だけでなく、ダウン症のある人には身体的な老化徴候が早く起きやすい。 「ざっくりといえば、40歳のダウン症の方は健常者の50歳ぐらい。50歳になると、70歳の健常者ぐらい。外見だけでなく体力も、認知機能も低下します」 背中は丸くなり、老人性色素斑(いわゆるシミ)などが出現する。年齢とともに、残尿出現頻度も増える。さらに成人期以降は、難聴や白内障、糖尿病、嚥下障害などさまざまな疾患が出てくる。40歳くらいになるとアルツハイマー病が出現することもある。 「ダウン症のある方の認知症の早期発見に役立つとされているのが『DSQIID(知的障害者用認知症判別尺度)』といわれる、家族や介護者が記載して判定できるものがあり、若年期は2~3年に1回は判定し、これを基準値として、35歳を超えたら毎年行って比較すると良いと思います」(玉井さん) ■手に職をつけさせたい 諫早市のみさかえの園総合発達医療福祉センターむつみの家診療部の医師、近藤達郎さんは、長くダウン症患者と向き合ってきた。これまで診た患者数は1千人以上にのぼる。 「ダウン症候群の方は、自分の感情に素直で、デリケートで明るくて笑顔も素敵。多くの方が元気で穏やかではつらつとされています。愛情を持ってご家族が支え、地域の社会資源を使いながら、年齢を重ねるにつれそのつながりを強くしていけばきっと幸せに過ごせると思います」 ダウン症の子どもの成人後や高齢期を考え、本人に向いている仕事や作業を探し続け、地域や人とのつながりを築いている家族も少なくない。 東京都世田谷区在住の神谷有子さん(59)の次男はダウン症で知的障害もある。その程度は「決して軽度ではない」という。 中学生の時、福祉作業所で1週間の職場体験があった。2時間のタオルの四つ折り作業に飽きた息子に「ちゃんとできるように」と指導が入った。神谷さんには衝撃的だったという。「手に職をつけさせたい。それが彼の自信と生計につながれば」。この頃から次男がやりたいという何かを探すようになった。 縁あって山梨県笛吹市のぶどう園の人々との交流ができ、東京から次男と夫と「週末農業」体験をしたときのこと。 「収穫作業など、ところどころの参加であっても息子が楽しそうにしているんです。繰り返しの作業でも、完成品のワインという『成果』が出る。工程の一部が結果につながることが実感できる。これなら息子にもできるかもしれないと思ったんです」 ■家族で農園を立ち上げ 県主催の新規就農者向けシニア研修に参加。その後空き家バンクを通して6千平方メートルの農地付きの家屋を購入した。 家族で立ち上げた「神谷ともいき農園」には知的障害者の団体が見学にやってくるなど、障害のあるなしにかかわらず多くの人に開放している。 「子どものためにお金を残しておくという考えもあると思う。でも人と人とのつながりを大切にひとつひとつ積み上げていけば、将来すごく大きなものにつながるような気がしています」(神谷さん) 次男は計算ができず、かみ砕いて説明をしないとわからないところもある。丁寧な説明が必要だ。 「そんな息子でも人を見る目がすごく優れているんです」(同) 夢は、農園に手伝いにくる多様な人を巻き込んで、賄い付き温泉付きの宿泊施設を作ること。 「我々がいなくなっても持続できる何かを作っていきたい。超高齢社会。ダウン症があろうが認知症があろうが、できることをみんなでやって補い合う。助け合おうとする人たちが出てきて社会は変わっていく。人口が増えない限り、そうやっていかざるを得ないのかと思います」 神谷さんは充実した表情を見せながら言った。 「息子が、人生で大切なものを教えてくれました」 (ライター、介護福祉士・大崎百紀) ※AERA 2024年11月4日号 大崎百紀
「こんなに長く生きるとは……」ダウン症者が長寿化 笑顔で高齢期を過ごすポイントとは(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
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加藤浩次 島崎和歌子 高橋茂雄 が出演する サントリー 酸化防止剤無添加のおいしいワイン。のCM「酸化防止剤無添加のおいしいワイン。×人生最高レストラン」
https://www.suntory.co.jp/wine/original/mutenka/ Continue reading 加藤浩次 島崎和歌子 高橋茂雄 が出演する サントリー 酸化防止剤無添加のおいしいワイン。のCM「酸化防止剤無添加のおいしいワイン。×人生最高レストラン」
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ご来場&ご視聴くださった皆様、お心寄せてくださった皆様、ありがとうございました (Updated: 2024.08.31)
-------- 以下の公演は終了しました --------
ゆんとがらん Live #3 『アレ、コレ、元気です!』
ユン・フィス vo/伽藍 琳 vo/原田達也 pf
2024年 8月30日(金)
【昼公演】 Open 14:15 / Start 15:00 【夜公演】 Open 18:45 / Start 19:30
GRAPES KITASANDO グレープス北参道
◉入場料 ¥5,000 〔全席自由〕 ★早割★ ¥4,500 … 7/31までにご予約の方
※別途、1ドリンク&1スナック ¥1,000 (昼公演は、1ドリンク&ランチ ¥1,800 もお選びいただけます)
▼ご予約 https://tiget.net/events/330945 2024年7月15日(月)10:00am〜 ご予約開始
・グレープス北参道は、道路からほぼ段差のない1階の店舗です。階段が苦手な方にも無理なくお楽しみいただけます。(車椅子でご来場予定の方は、ご予約の際、備考欄にその旨お書き添えください)
・すべてのお客様にオーダーをお願いしている1ドリンク&1スナック(昼公演は1ドリンク&ランチも選択可)の他に、お食事のメニューや、数百種類に及ぶワイン、ノンアルコールドリンクをはじめとした追加のお飲み物もご用意しております。
・夜公演をお楽しみいただいた後のお時間(21:30頃〜)は、そのままBAR営業となります。音楽の余韻に浸りながら、ゆっくりとお酒やお食事をお楽しみください。
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序にかえて パート直人
~序にかえて~ office krsna代表 Take-D=0
2018年初春に作者から、この作品を見せていただいた。絵に無案内な私であったが、色彩や構図の美しさと添えられた文に身体が揺さぶられた。一度世に出してみてはどうかと勧めたが、作者はまるで無関心であった。作者は次々に新たな制作に取り組んでおり、この作品はただの過去(=「死」)の排出物でしかないようであった。騙し騙し排出物を持ってきていただき、作者に解説して戴いた。私の排出物の蒐集・解剖癖にうんざりしながらも、次第に作者は面白がるようになり、ようやくこの作品を世に出すことを了承して下さった。 私のような素人が誤解しないように、そしてもう少しわかるように解説および注釈を入れるという暴力的な提案を作者にした。案の定、「それはナンセンス」と却下された。そこで、私が作者から教えてもらったことを私の主観として読者に示すことではどうかとお願いした。「あなたの主観で切りとったものであるなら、自分の作品とはあまり関係ないかな」と半ば呆れ承諾して下さった。 この作品で私が強調したいのは、まず一見コラージュのように散りばめられた絵の断片一つ一つが、作者の模写あるいはデッサンしたものを縮小したものであり、コピーではないことである。次に切りはりされつなぎ合わされた文字は、作者のお気に入りの本から切り取ってつなぎ合わせたものであるということだ。コラージュのように散りばめられ縮小された絵を原寸で見せていただいたが、その一枚一枚それだけでも私からみると立派な作品であった。わざわざ見えるか見えないか程にまで縮小しなくてもと思ったが、作者は作品全体の構成である「視点(まなざす)人物」の意識に上がっているものの一部に過ぎないという趣旨からすると縮小して散りばめることが妥当であるという。こだわりを持った文字は、一つ一つがかつてキネステーゼ・ゼロの作者の身体を触発した構成素であり、そこから歴史が堆積してゆき、さらに生成・破壊・創発・再組織化を繰り返し、「文字と文字の間」「私と私の間」「私たちの間」「私と世界の間」に多元的な時空間のオートポイエーシス・システムの作動を可能にする。そしてまた我々を相互に疎外しつつもあらゆるものにカップリングさせてゆく。 作品は1~24(ストーリー)と25(クレジット)および26からなる。構成は作者による。以下、私が作者にインタビューし主観的に解釈した登場人物像とストーリーの概要を載せた。作者によると言葉化できないことが多すぎるため、私が主観的に解釈した解説を載せることは、多くの読者に対する暴力的なノエシスであり、下品極まりないことである。しかし、読者や作品に暴力を振るうことになろうが、この作品の存在の意味を広く伝えたい衝動は抑えがたい。以下に作者から私が聴��取ったことを記す。暴力を免れたい読者は、どうか読まずに作品だけをみていただきたい。
Ⅰ・インタビュー:「画家」について。 この作品および続編が描かれるであろう「ある画家の手記」全編を通して「画家」と呼ばれる登場人物は、一般的にいう「絵を売って生計を立てている人」や「絵を描く活動をしている人」とは異なる。ここでの「画家」の定義は「他者や世界、あるいは自分に対しての暴力性にどこまで自覚的であれるか」といった定義である。 絵にする、描くということは、自分の視覚情報や感覚に従順になることで、ひいては目の前にある「そのもの」の存在を尊重せず無視して「自分が」捉えてしまう、そしてさらに「画家」はそれを自らの手と意識で描き出して形に残してしまう。絵は暴力の痕跡である。 「ある画家の手記」に登場する人物(画家)たちは、それぞれの方法でこの暴力性を自覚するなり折り合いをつけるなりして生きている。そして「画家」は誰しもが暴力的であるという事態に対して、一部の「画家」たちには共通認識がある。特に強い共通認識を有するのは、この作品の『視点(まなざす)人物』である名廊直人と次回作の『視点(まなざす)人物』になるであろう行屋虚彦の二人である。それぞれ40歳と15歳である。この二人はお互いの年齢を気に留めず対等に画家として接しあい、まるで共犯意識のようなものをどこかで抱いている。パート1(本作)の『視点人物』である名廊直人は頑なに静物を描き続ける。なぜなら、「人間や生物はその加害性に耐えられないから」である。静物というモチーフに愛着があって描いているわけではなく、もっとも容赦なく自分の感覚そのままに描くことかを許されるという錯覚を抱ける対象は静物であった。それが名廊直人にできる唯一のことであるとも自分にしかできないことだとも本人は思っていない。自分に能力があるか否か、はては絵に向いているかどうかすらどうでもよく、ひたすら誠実さを求める。このことは人間関係にもあらわれ、他人に対しても能力ではなく誠実さを求める傾向がある。彼の誠実さはどこまでいっても「描き表すことで踏みにじられる」類のもので根本に捩れがあったが、本人が絵以外の道を思い浮かべることができず突き詰めてしまう。彼を救うには彼から絵を無理やり取りあげる必要があったが、誰もその発想を抱けないほどには彼の静物画には人を黙らせる力があった。彼の人生は静物画というものに半ば乗っ取られて終わる。彼は弱いから人間を描くことを恐れている。作中に登場する人物で、個人が判別できるくらい特にしっかりと顔まで描かれているのは、同罪者である行屋虚彦と、自分の暴力性を過去に許してくれた元恋人の冷泉慧鶴、自分の暴力を受けとめる名廊情香、そして自分に描く道を示した隆木義清(先生)の四人である。名廊直人の画家としての手段は「誠実であること」ひとつだった。パート1の名廊直人においては、「画家」像の限界が「死」という形で実を結ぶ。しかし次回作パート2で行屋虚彦が「画家」像の限界に「隷属」を手段として挑むであろう。
Ⅱ・インタビュー:『視点(まなざし)人物』の名廊直人について。 頑なに静物を描きつづける画家である名廊直人は、物腰は穏やか、誰に対しても柔和に接し、たいへんな正直者であり、嘘をつけず騙されやすい。189センチの長身でいびつに大きな手が目立ち、学生時代に「フランケンシュタインの怪物」と揶揄されていた。目眩に襲われてよくふらつき、全体的に覇気がない。口下手であり、なかなか思考が言葉にならず、言葉を落とすように喋る。 直人は自分の身体「目」で隔てられた自分の外側を世界のすべてとし、自らの内側と存在そのものに違和感と疎外感を抱きつつも、画家として「まなざし」描くことで世界と関係を結びながら生きてきた。しかし、絵として描き出すということは、絶えず変化する世界をそのまま捉えようと懸命に誠実さを尽くす直人をいつも最終的に踏み躙った。 直人の 認識は静物と生物は同じラインで捉える。直人が誰かを呼ぶとき、親しさと関係なく相手を名前で呼び捨てやすいのは「ワイン瓶、頭蓋骨、林檎、××」というふうに「ただそこに在る」ことを認めている以上の意味合いがないからである。 この認識の仕方を仮に【静物画的視点】と呼称する。 彼は、相手への人間的な共感能力や社会性や同調性に欠けるが、相手を目の前のものそのものとして尊重し、存在を認めたものに存在にあたうかぎりの誠実さを尽くす。それゆえに短期的な浅い人間関係においては歪さは目立ちにくい。このような理由から二人称を使って会話することは滅多にないが、数少ない親しい人間に対して「きみ」「お前」といった二人称を使うことがあり、そのような相手とは静物画的視点を超えたなんらかの人間関係を築けている。 直人には社会的な約束事が通用せぬようにみえる。なぜなら、上記事情ゆえに「まなざし」で捉えうる現前する相手とただ関係をもつため、複数人との年齢性別を問わない肉体的な関係を実に真摯にそして淡白にもつことが周囲の理解の枠を超えるからである。「美しい」と感じたものを美しいままに許容して見つめることができず、強い陵辱の衝動を起こす。具体的には突然暴力を振るったり相手をレイプするなど反社会的な行動として出た。その衝動は静物画的視点から見た適切な距離感を一気に飛びこえるもので、その衝撃と強い嫌悪感から「目眩」を起こして倒れる癖は生涯に渡って彼の心身を蝕んだ。直人は「目眩が起きるのは仕方ない」と言い、普段は降参してそれと共生するような態度をとった。目眩に負けて倒れることは相手を凌辱しないための無意識に働く安全装置であり、彼はそこは理解して納得している彼が目眩を起こす対象は「美しいもの」であり、そこには生の生々しい脈動がある。目眩=美しいものへの結論が「描くこと」であり、彼を画家たらしめている故に、彼は目眩のない世界で生きるつもりはない。それは40歳での「死」という形で結実する。 これらの直人を苛むものが彼の幼少期の生育環境とトラウマに起因するかは誰にも証明できず、少なくとも直人はその説明では納得できないほどの苦しみを抱えていたためどんな理解も退け続けた。他者から見て明らかな心的外傷の影響を示唆するものとして、虫を極端に怖がる、数字を見分けることが苦手である、強迫的な除菌癖、指先の第一関節より先に軽度の麻痺がある、重度の鬱症状として色覚の彩度が低い、相手を思いやるセックスが困難で暴力的になる、などがあった。本人はそれを病的なものだとは自覚していないし、それらが先天的なものである可能性が捨てきれない以上、誰が彼を病的だと言えるだろうか。それは彼に具体的に踏み躙られ人権を犯された人間にのみ糾弾する術として許されるだけであろう。直人の生涯においては妻の名廊情香をはじめとする幾人かに糾弾され、あるいは諦められて人間関係を結んでいた。まったく異なるケースに「完全な庇護対象=子ども」と、同業者の行屋虚彦、歌う白痴の耀屋七、画の天才である行屋疾彦、狂気の綾瀬香澄などとの人間関係があった。
Ⅲ・インタビュー:本作品 <ある画家の手記>について。 40歳の3月30日未明、直人はしっかり身支度を整えて身辺整理をし、アトリエのある建物から投身自殺する。契機になる出来事はなかった。生来の頑丈な体に救われて未遂に終わるが、後遺症で直近の過去を思い出すのが苦手な記憶障害を抱えることになった。 退院後、間をおかずに元サナトリウムの療養所へ入った。ここから6月23日の「死」までの約三ヶ月間の彼の手による手記が<ある画家の手記>本編になる。名廊直人は、精神的吃音(実際に吃りはしないが何か語ろうとするときに一度どうしても心の中で引っかかってしまう不自由さ)があり、そのことを表現するためにすべての文字を既存の媒体を一度通しての角度の歪んだコラージュにした。彼の社会的なもの(一度製本されたり印刷された)への姿勢や目線と一致させている(疎外感)。画面に散るノイズのようなものは文字をコラージュする際に完全に消すことを控えた余白部分である。そのような社会的に認められた大手を振って存在するものに彼の人生は阻害され、疎外され続けた。それでも彼はスタンプの文字であったり新聞や本の印字された文字だったりを借りてなんとか自分について語る。そもそも言葉にすることができないものを多く抱えているが故に彼の人生の形は画家である。彼は徹底して自分の目で見ることにこだわるため、作中に彼自身の姿は具体的には登場しない。この本の内容はだいたい彼の「まなざし」そのものである。ラストは視点人物の死だが、本の序盤ではイラストレーション的な、視点人物の手による現実の再解釈が強くなされた表現をしている。ラストに近づくにつれて表現はだんだんと写実的で細密な、視覚に殉じただけの描写へ移り変わっていく。それは視点人物の「死」が近づいていることの黙示である。ここでいう「死」は、いうまでもなく括弧つきの死である。
Ⅳ・インタビュー:パート1~26までの解説。 1、彼はひとつの水槽の中に一匹だけ飼えるベタ(魚の品種名)を好んで飼っていた。彼にとって魚は社会に生きる人の象徴。魚を飼うのは、彼自身が失念しやすい社会や他人の目線を、彼の日常で目の届く場所に、自分が管理しないと保たない形で置くことで、画家という孤立しやすい生活でも社会をうっかり忘れないためであった。彼は海辺の療養所に入った。飼っていた魚もつ れていこうとしたが、全部はつれてこられず、数匹を仕方なく焼いて食べた。bett%.7というスタンプは彼が食べた魚の数である。もうひとつ彼にとって社会的なものの象徴に「言葉」と「文字・記号」がある。 記号の書かれたマスキングテープに四角く囲まれる構図は、彼が野放しにされずに施設に収容されることの暗喩である。 2、綺麗に合いそうにない不器用でガタガタの歯車のシルエット。これがきっちりと噛み合った正円の美しい歯車になり、歯車が合ってしまうことは、辻褄が合うこととなり、すなわちそれは彼の「死」を意味する。 3、彼は静物画を主に描く。ジャン・シメオン・シャルダンは静物画の元祖と 言われることの多い画家である。まばらに散らばった果物などはすべてシャルダンの絵の部分模写である。 4、「世界は僕の外側にある」と彼は言う。窓を閉め切った室内は彼とほぼ一体になった彼そのもののような空間だが、窓を開けると勝手に虫が入る。コ ントロールできぬものだから、彼は虫を恐れて部屋から締め出そうとする。部屋に漂白剤をかけるのも似たような理屈で、前の住人やカビや細菌などコントロールできないものを自分の世界から消し去ろうとしている(「死」)。 二つに分断された虫たちは、デミアン・ハーストの立体作品から着想を得た。嫌いなものを分断して殺してしまうことは、結局それらがたしかに生きていたことを受け容れ引き受けることになる(画家の暗喩)。 5、スタンプのNo.501とは、彼の入った施設の部屋番号。 6、彼は時計を持たず、制作に没頭するとよく昼夜も寝食も忘れる。カーテンのあいた窓ガラスにうつった自分の姿を、いるはずのない母の人影と一瞬見間違えた。彼は、怖くなってその日からカーテンを閉めてしまった。 結果、部屋がずっと暗くなり、朝や昼が何度もすぎて日が経ったことに数日間も気づけなかった。眠るときは画面に散った大量の睡眠薬で眠る。彼の体内時計はずっと以前から狂っていた。 7、彼は数日間が勝手に過ぎ去ったことを職員から聞いてやっと知る。それではいけなかろうと思い、職員から時計を一つ借りる。壁掛け式の正円のローマ数字の時計。彼には少しの識字障害があった。ローマ数字を知らない彼には時計の針がどこにあっても今が何時なのかはわからない。さらに壁掛け式だったが部屋の壁に時計をかけられるような突起もなかったため、床に立てかけてみたが、正円の時計は勝手に回転してしまった。仕方なく彼は時計を床に寝かせてみた。すると自分が部屋を歩き回るたびに時間が変わってしまい、彼は途方にくれ、職員に時計を返却した。 数字ではなく自分の見えるよう自分の都合のいいように時計を無意識に改変して見てしまうエピソードから、絵のために実際の在りようとは違う描き方をしたキュビズム表現の父であるポール・セザンヌの静物画の模写を添えた。 8、ル・コルヴィジェは画家ではなく建築家だが、私生活では好んで絵も描いていた。絵で高い評価は特に得られていない。コルヴィジェの最期は水難事故だった。なお補足だが、ル・トルネ大聖堂のスケッチを添えたのは、メルロ・ポンテイが「目と精神」を書いたのがトルネであり、セザンヌの出生地がプロバンスであるためだ。 直人にはかつて入水自殺して失った友人(青峰)がいた。いつも大きなラブラドールレトリーバー(バスターキートンという名前。キレのある動きと体型と目つきから)をつれていた友人は、直人と出会う前にも何度も自殺を試 みていた。数回目の入水自殺が失敗に終わったとき、その人は海の上に浮かんで一晩中低体温で震えながら夜空を見ていた。月の位置が変わり、流れ星が流れるのも見た。電灯や街の灯からは遠い海の真ん中、深夜にもかかわらず、海から見た地上はぼんやりと薄く光っていた。それを友人は、月や星が輝いているように「この地球も光っていたのをこの目で見た」と直人に語った。直人はその言葉を大事に覚えていた。 友人を思い出した直人はようやく施設に入って初めて外出しようと思い立った。 9、しかし、外出届を出しても自分には行きたい場所がなかったことを思い出した。 どこかへ行きたい気持ちだけある、宙ぶらりんになった状態。ファン・ゴッ ホの「向日葵」の中でもまだ花瓶にいけられていない絵の模写を添えた。 10、11、彼の中での友人たちのイメージ、ロバート・ラウシェンバーグやアンセルム・キーファー、グランドピアノ、モルフォ蝶、モネ、ユトリロ、バスキア、ブラック、ジャコメッティ、檸檬などが登場する。小さな男の姿 は、ギュスターブ・カイユボットの絵の中に佇む、都市化していくパリで置き去りにされて所在無げにしている労働者階級の男の模写である。 補足だがメルロ=ポンティのloeil et lesprit (「眼と精神」)からインスパイアされて彼(直人)のキャラクター像が生成された。このページと次のページはセットで赤と緑の色調。彼は赤緑色弱でありこの二つをうまく見分けて描いてはいなかったであろう。 11、絵の先生の話。 大学の恩師で、唯一直人の絵の師と呼べる人の死の経緯について。先生は術後に病室のベッドの上でも点滴をつけながら頑としてタバコを吸った。先生の描く絵は緻密な水彩画で、先生のありようは桜の大樹に似ていた。 12、佐伯祐三とファン・ゴッホの自室の絵の模写。このゴッホの絵は視点が低いように見える、まるで小さな子供が世界を見ているようだ。 それは5歳で精神的には止まってしまった直人と似た、悲しくなるような稚拙さを画面いっぱいに滲ませている。先生の死の事実を思い返して苦しくなった彼はめちゃくちゃな線を描く。普段の彼は濃淡や面で絵を描くが、寂しさや苦しさが極度になると意味のない 線だけを描くようになる。 線の上に被さったものは、まだしっかりと合わないものの2より作りが精密になってきている歯車である。画面全体にも小さく描き込んだ歯車がまだバラバラだが散っている。 13、大学の頃の旧友がこのピンチに駆けつけてくれた。友人の名前は冷泉慧鶴。大学で美術講師をしている。彼が教えるのは、主に静物画という絵画ジ ャンルが生まれるより以前の時代(ルネサンスから印象派以前くらいまで) の絵画史などで、画面に散らばる模写はすべてその時代の間に生まれた名画たち。静物画を描く直人にとってはメタファーとして過去のものになる、そのためすべてセピア色に褪せている。左端の矢印のついた絵は、「レフカス のサッフォー」、自殺の瞬間の名画である。 14、夢。どこかの街を歩く犬のようなもの。 全面にスタンプを押した犬の姿はジャコメッティの犬の彫刻がモデル。意識は夢の中で旅をする。テオ・ヤンセンのストランド・ビーストのように、それは直人の意思とはまったく別のものの軌道を描いて移動する。
15、ブラックアウトして夢から醒めた意識。うずくまる男の姿はジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル「オシアンの夢」に描かれたオシアンの模写。オシアンは覚めたくないような幸せな夢を見ていた。直人はこれまでを思い返して「みんなほくにやさしかった」という言 葉に纏めようとする。直人にはその優しさがずっと辛く、この一文には「それでもぼくは死んでしまうのだ」というような情態勢がつきまとう。ここでも線だけの絵が出ている。 16、画家のつてで知り合いの高校生(杉崎景一)が、突然直人の部屋に訪ね てくる。 彼は相貌失認と醜形恐怖を抱えており、額に生えた小さなツノのような突起を意識して見てしまうとそれら二つの関連した発作を起こす。そこまでの道中降っていた雨の中、水たまりにうつった顔がひっきりなしにうつりかわるのを景一は見ていた。揺れる水たまりの波紋のデッサンと景一の顔を抱え込んだ後ろ姿。景一の空白はフェリックス・ゴンザレス・トレスのキャンディのインスタレーションと似ている。背中に被せたヴァイオリンはマン・レイの有名な作品からの模写。音といえばマルク・シャガールだ。音楽をする人間はシャガールの絵を見ると���く音楽が聞こえるという感想を言うらしい。ここでしっかりした歯車の輪郭線だけが出ている。 17、「純粋形相」の文字がうっすらと見える。「行屋虚彦がきた。」 行屋虚彦は現在15歳でプロの画家だ。この行屋虚彦が名廊直人の死後に、次作の「ある画家の手記」のパートを引き継ぐ視点人物となるだろう。この虚彦の母親は、後のページに出てくる「七ちゃん」である。 虚彦の生き方や描き方は身投げに等しいもので、頭も腕も捥がれてなお直立して風を受けるサモトラケのニケを連想する。 それを最終的に救うのは母「七」で、子供を守る姿はケーテ・コルヴィッツの絵を思わせる。一方、虚彦の絵はジョン・シンガー・サージェントの厳しい色彩選びを彷彿させる。 18、行屋虚彦が、「直人さん」と「発言」する。この本で唯一発言が出てくる人物。彼はいつも描くことだらけで埋まった頭で、共感覚と神経過敏な体質にイライラしていた。彼は何を見るときも何色の油絵の具で描くかを頭の片隅に置いている。頭に油絵の具の顔料の名前が勝手にズラリと並ぶ。このページだけ唯一発言者が行屋虚彦なので、ページ全体の色調も虚彦の色彩感覚に支配されている。 画面端に僅かにうつるのはiPadの輪郭。直人と違って虚彦はそういう最先端の道具も使いこなす。 次作のパートではこのページの色調がメインになるだろう。 直人は一つ前のモノクロに近いおさえられた色調の世界で生きている。 19、妻(名廊情香)がきた。普段は暴力を振るってしまうために、直人は彼女と距離を置いていたのだが、やはりに彼女にまたしても暴力をふるってしまった。耐えられずにまた線が彼女の上を飛び交う。 20、すぐそこまで迫っている「死」の予感に、直人は6年前に自殺した自分の兄のことを思い出す。兄・名廊雅人は潔癖で強迫的で、都会的だった。徹底して自己コントロールのできるものだけを手元に置くような人間だった。愛車はロールスロス。味覚障害と重度の鬱病を患っていたものの、死ぬまでそれを誰にも悟らせない完璧な振る舞いを続けた。 そしてある日突然前触れもなく死んだ。 ひたすら絵を描く直人にとって「写真」は「死んでいるもの・殺されたも の」のように見える。このページでは、この本で唯一の写真(桜の枝)をわざと使った。そして絵の想起はひとつもない。 21、「七ちゃん」(行屋虚彦の実母て、直人の大学時代のクラスメイト)。彼女には障害があっていつもぼんやりしていた。たまに歌うように音を紡いだ。皆不気味がっていた。彼女の意味不明な吐息のような声を「歌」と呼んだのは直人だけだった。一人で泣けない直人は彼女のもとへ通って、彼女の歌を聴いてそっと涙を流していた。そんな二人の姿はカリエールの絵に出てくる寄り添う人と人のようだ。そして彼女の白痴と絶対の救済はパウル・クレーの天使を思わせる。 22、天使が迎えにきてしまったので、あとは「死」だけという感じ。もう何も想起できず、ただただ直人の描いた静物画が出てくる。 「なにもかく××がない」。なにがないのかすら本人にはもう分からない。 23、ぴったりとあってしまった正円の歯車。これまで散らばっていた小さな歯車がすべてこの中におさまっている。そして上から被さるように歯車と混 ざって癒着するように視神経の断面図のデッサン。 視覚に認識を頼りすぎた直人の歪さと、見えるものしか尊重できない姿勢が 自分自身にまで向いてしまう。自分は自分の目で見ることはできない。他のたくさんのもので知らなければならなかったそれを、彼は絵を描くうちにすっぽりと落としてしまった。 24、未完の静物画。半ばで直人の「死」。 25、クレジット。これまでぼんやりとしか直人には認識されなかった世界を直人の目で見る世界とは違う見方で人物たちを紹介した。 直人がよく忘れる名前という記号がそれぞれにアルファベットでしっかりと ふられ、絵には細い輪郭線がつけられている。記号と文字で顔が覆い隠されて恐ろしいものに見えていた人間たちは、実際はそんなに恐れなければいけないものでもなく、みんな朗らかに笑っていたのかもしれなかった。 26、それぞれのキャラクターを象徴するものを小さなイラストで散りばめた。
作者からインタビューして私が拾い上げたことを書いたが、いかがであろうか。作者と直人そして虚彦は包摂関係にあることは自明である。それゆえに「死」はカギ括弧つきなのである。そして、レヴィナスの「汝、殺すなかれ」が浮かび上がるのである。
2018年7月7日 大泣きする七夕の夜に。
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