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無限視界
無限視界@infinitefaith777
#無限世界#宇宙無窮#無限可能性#未來世界#異世界探索#多宇宙理論#平行宇宙#虛構世界#超越現實#空間時間曲線#未知領域#無邊無際#宇宙奧秘#科幻世界#數碼次元#無限旅程#宇宙漫遊#異星探險#無盡探索#奇幻境界
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「この画面だけずっと出して」 電車内のディスプレイめぐる投稿話題…"現在駅だけ表示"できない理由は? JR東に聞く
「この画面だけずっと出して」 電車内のディスプレイめぐる投稿話題…"現在駅だけ表示"できない理由は? JR東に聞く - 弁護士ドットコム
JR東日本の回答は以上となります。 国交省が定める上記のガイドラインは、公共交通の事業者が、駅や車両において、高齢者や障害者など多様な利用者の多彩なニーズに応えるための整備のあり方を具体的に示した目安とされます。 ガイドラインでは、情報提供の考え方として、「わかりやすい空間の整備を目標にして、情報コミュニケーションに制約のある人の特性と、各種情報提供設備の特性を考慮し、旅客施設、車両等において、適切な情報の内容、方法、配置等を検討し整備する」としています。 車両のモニ��ーには「次駅停車駅名等に加え、次停車駅での乗換情報、次停車駅で開く戸の方向(左側か右側か)等を提供する」とあるほか、視覚表示には、「漢字やローマ字のほかに、かなによる表示、多言語による表示などより多くの利用者が理解できる方法で情報提供を行う」とされています。 公共交通にはさまざまな立場の人が情報を求めていることから、限られた情報を一つだけ提供すればよいというわけではないようです。
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「空白が怖い、情報をつめこまなければ、装飾しないと」と、「無意味に遷移する画面デザイン」は似てる。 JRの意図は要約すると「ガイドラインに沿ってるから」だけど、そのガイドラインが間違ってると思う。「想定外だったから」的な考え方だよね。どうやってその想定を決めたのかと同様の疑問がガイドラインの成立過程に感じる。 情報量が多すぎると、どの対象層(母国語、年齢、ハンディキャップの有無、他)も「画面遷移が速すぎて読めない」ことなるのでは。 ガイドライン策定時に「何を入れるか」しか検討してなくて、優先順位を考えてなさそう。全部入れると「認知負荷が高まる」「個々の時間が短くなる」ことが前提になってない。
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大学生のころに家庭教師をしていた子の母親がときどき食事をご馳走してくれた。たくさん食べなさいと言いながら自分はほんのちょっぴりで、食後はわたしにコーヒーを淹れてくれて、自分はハーブティーを飲んでいた。母親や叔母もある程度の年齢で「なんとか茶」みたいなのを飲み始めたような覚えがあって、「女の人ってなんで年とると草を煎じて飲むんだろ」と思ったものである。 自分が四十代半ばになって、その謎がとけた。あれは老化にともなう妥当な戦略なのである。 わたしの場合は三十歳を過ぎたあたりで、それまでとは質のことなる食欲の衰えを感じた。大盛りを避けるようになり(それまでは平気で平らげていた)、カツ丼や焼き肉のカルビを頼むことがなくなった。その後、自炊における焼き魚の比率が上がり、気がついたら学生時分に「おやつじゃん」と思っていた量で夕食を済ませている。おひたしだの煮物だのが大好きである。酒や菓子をとる機会もぐっと減って、午後四時以降はコーヒーを飲まない。気づけば十年以上コーラを買っていない。 意識が高いのではない。身体が弱ったのだ。 わたしはもう大量の油脂や炭水化物やアルコールやカフェインを気持ちよく消化代謝することができない。 でも美味しいものを摂取したいという欲望はある。 このような状況の最適解のひとつが、おそらくは「年とった女の人が煎じて飲む草」なのである。風味を味わいつつ内臓に負担をかけない、なんなら身体に良い、そのような貴重な嗜好品が「草」なのだ。わたしの祖母は朝から夕方にかけて延々と日本茶を飲んでいたが、よく見ると朝に少量いれた茶葉を替えておらず、要は「いくぶんお茶の風味がついているかもしれない湯」を飲んでいた。あれもまた「草」である。 年をとるというのは、つまり草を煎じて飲むということなのだ、とわたしは理解した。 わたしはもう、旅行中も無理をしない。元気な人々が夜更かししているのを尻目に早々に寝る。特別な機会は無理をして最大限楽しむものではなくなった。 ジムにだって行く。筋肉はもはやつけるものではない。維持を希うものである。若いころは意識もしていなかった骨密度やら関節の可動域やらのためにせっせと運動している。 まだそんなにトシではなくない? そのように言われることもある。言いたいことはわかる。年の近い人間がババーっぽい仕草をすると気が滅入るのだろう。だが放っておいてほしい。わたしは早め早めに準備をしたいたちなのだ。自分の身に起きる老化現象をなるべく早くこまやかにキャッチして、本格的な老いにそなえたいのだ。思えばずいぶん若いころから少しずつでも貯蓄をするたちだった。今の生活様式はそれと同じ意識で構成している。 そのために行動がずいぶんとババーっぽいのかもしれないが、わたしの老いはわたしの老い、あなたの若さはあなたの若さである。 わたしはババーというあり方を悪いものだと思っていない。今よりずっと若い時分から、おばさんになりたくない、みたいなことを思ったことがない。 ババーのまま、やりたかったら着飾ればいいし、色恋沙汰をやってもいいし、新しい仕事に挑戦してもいい。四十代どころか、六十になっても八十になってもやりたくなったらやるつもりでいる。相手のあることは相手に選ばれなければできないが、それは八十でも四十でも二十歳でも同じである。 若くない女性である自分を、わたしはババーと呼称する。もちろん公の場では使わない、独白用の名称である。わたしの祖母が自身と親しい同性の友人たちに対して使っていた語で、彼女はそれに自虐や悪意をこめていなかった。どことなく誇らしげなニュアンスがあり、わたしはそれがわりと好きで、だから形見分けのつもりでもらった。形はないのだが。 ババーは不自由な存在ではない。自由にしていると後ろ指をさされることがあることは知っている。知っているが、実は若い女性にだって、指すやつは指す。「わきまえろ」という指を。 若かろうが年をとろうが、わたしはその指を無視する。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。 わたしはババーとしての自分を構成しババーとして必要な能力を身につける訓練をしながら、何ひとつわきまえる気はない。わたしのババーらしさはわたしのものである。わたしの草はわたしのために煎じられる。 それがわたしの老化の練習である。
老化する練習 あるいはわたしの草について - 傘をひらいて、空を
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私事にはなるが、イスラエルから日本に避難したときに心配してくれた人も多かったので近況を少し書いておく。 3ヶ月の間に国を跨いだ引っ越しを2回したわけだが、あまりにやることが多い上に家を転々としたり不運が重なりすぎて自分の限界を超えてメンタルをやられた。 しかし1年経った今では貴重な経験だったなと思っているので、大抵のことは時間が解決するなと改めて感じた。 直接会った友人には話していたが、2023年12月にドバイに家族4人+1匹で引っ越した。 中東から中東に引っ越した日本人は珍しいのではないだろうか。 ユダヤ教の国からイスラム教の国への移動となると数えられるほどかもしれない。 引っ越しの過程で多くの人にお世話になったので少し書いておきたい。 イスラエルでは数え切れないほど多くの人達に助けてもらったので本当はその全てを書きたいが、恐らくそれだけで一つの記事になってしまうし今回の内容がブレるので一旦触れないでおく。 マスメディアやSNSは国際情勢に関して誤った情報や偏った情報を流すことが多いので、全てを鵜呑みにしないほうが良いということだけは言っておきたい。 まず2023年10月にイスラエルから日本に避難した。 自分は残りたかったが二人目の子供が生まれたばかりで、家族が不安になることは避けたかった。 空港に到着したときには多くの取材が来ていて、NHKニュースやYahoo!ニュースに載ったので図らずも全国的に帰国が公開された。 急遽最低限の荷物だけまとめて飛び出してきて疲弊していたので静かに帰国したかったのだが、連絡をくれた人も多かったので結果的には良かった。 東京は移動の疲れを取るために数日だけ滞在し、その後は妻の実家の熊本にお世話になった。 最初はAirbnbに泊まったり妻の祖母宅に泊まらせてもらったりしていたが、やはり家族4人が長く住み続けるのは難しかった。 そこで家がなくて困っているという話をしたら、宇城市役所の方が熊本地震の際に建てられた仮設住宅を使わせてくれた。 月数千円で使わせてくれて感謝しかないのに「無料じゃなくてすみません」と謝られた。 本来は手続きも時間がかかるはずなのに、緊急避難ということですぐに住まわせてくれたし宇城市には頭が上がらない。 幸い夫婦どちらも好きな場所で働ける仕事ではあったが、子供の保育園は必要だった。 そこで急遽近くの保育園に申し込んだのだが、一時預かりの扱いになってしまうので一日三千円程度かかってしまうと謝られた。 突然連れてきて受け入れてくれるだけでこの上なくありがたいのだが、園長先生が市の職員と話してくれて住民票を入れれば無料になるようにしてくれた。 宇城市には聖人しかいないのか��と思った。 イスラエルの家賃や保育園代も払い続けていて金銭的にもしんどかったし、先行きも不透明で精神的にもしんどかったので、本当に救われた。 仮設住宅に住み始めたが家具はなかったので、妻のお母さんの友人が要らない家具を提供してくれたエピソードなどもあるし、とにかく宇城市は聖人しかいない。 そのまま日本に住み続けるのも選択肢ではあったが、犬をイスラエルのドッグペンションに預けていたので自分だけでも早く戻りたかった。 しかしいつ戦争が落ち着くかわからなかったので、自分だけ戻ると妻や子供とは離れ離れになってしまう問題があった。 それとは別に日本で仕事をするのは難しいことも分かった。 自分の勤めている会社は日本人がおらず、ビデオ会議は基本的にアメリカやヨーロッパのタイムゾーンに合わせて行われる。 そうなると日本は夜中になってしまう。 一人暮らしのときは昼夜逆転していたのでそれでも良かったが、子供がいる状況では厳しい。 他にも色々理由はあるが、やはりヨーロッパタイムゾーン(GMT+4 ~ GMT-1ぐらい)に住むのが良いだろうと考え、その近辺ですぐにビザが取得できる国を探した。 最近だとノマドビザで1-2年間住める国もあるので選択肢は割と多かった。 色々比���した結果、ドバイが一番条件に合致することが分かった。 ドバイは一度旅行したことがあり、その時の楽しかった経験も後押しとなった。 ただドバイは住むところじゃないだろうという先入観があったのだが、ちゃんと調べてみたらイメージとかなり違ったので、勝手な想像で判断するのは良くない。 決めてからはすぐに動いた。 10月中旬に日本に避難してきて11月末にはドバイに移動したので、かなりのスピード感だった。 ドバイには11月末に一人で先に来て一週間でビザや家の契約などをして、それからすぐにイスラエルに行ってさらに一週間で家を引き払ったり犬を連れてきたりしていた。 ドバイに着いたら上に書いたように犬が行方不明になった上にロストバゲージが起こってスーツケースも失った。 その時の自分はとにかく犬を飛行機に乗せる手続きで頭が一杯で、機内持ち込みの荷物に少し分散しておくということまで頭が回らずスーツケースに着替えなど全て入れていたので一気に失った。 手ぶらでよく知らない中東の国に一人放り出された。 ちなみにそのわずか1ヶ月後に再度ロストバゲージしたのでトラブルに巻き込まれる才能がある。 そして空港の職員は平気で無責任なことをいうので、何度聞いても「もうすぐ出てくるから」と手荷物受取所で誰もいなくなっても待たされた。 到着は20時ぐらいだったが22時ぐらいまで手荷物受取所で待たされ、さすがに限界だったので職員に「もう荷物は諦める」と言って一緒に到着しているはずの犬を探し始めた。 荷物も到着していないし犬も到着していないのでは?と気が気ではなかったが、予想通り上に書いたように次々と嘘の場所へ案内され不安は増すばかりだった。 25時過ぎにようやくうちの犬がいるらしき場所に到着したが、ワクチン接種の証明書が不足しているから会わせられないと言われた。 そういうことにならないように動物輸送業者にお金を払って必要書類を過不足なく揃えてもらったにも関わらずこの有り様なので、メンタルが強くないと生きていけない。 既に4年以上そういう環境で生きてきた自分はそれでもめげず、頼むから何とかしてくれとしつこくお願いしたら夜中にも関わらず割増料金で獣医を呼んでくれた。 お金を払えば何とかなるところはさすがドバイ。 獣医は即座にその場でワクチン接種し、証明書を発行してくれた。 2万円以上も取られてうっ...となったが、解放された犬と再会できた喜びでそんな感情は吹き飛んだ。 いざタクシーに乗って宿泊先に向かおうとしたらドバイでは犬はタクシーに乗せられないと言われた。 事前調べが不足していた自分のミスだが既に26時ぐらいだったのでどうしようもなく途方に暮れた。 しかしパキスタンの人が「日本人だろ?パキスタンと日本は仲いいから助けてやるぜ」と助けてくれた。 そんな交友があったことすら知らなかった自分を恥じた。 ありがとうパキスタン。 それ以降、パキスタンのニュースを意識するようになった。
ドバイに引っ越して1年経った感想 - knqyf263's blog
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「68個のお節介な助言」 著者 ケヴィン・ケリー Kevin Kelly 訳 堺屋七左衛門 この文章は Kevin Kelly による "68 Bits of Unsolicited Advice" の日本語訳である。 68個のお節介な助言 今日は私の68歳の誕生日である。ロッキングチェアに座りながら、若者に助言したい気分になっている。私からの誕生日プレゼントとして、諸君に68個の短いお節介な助言を進呈する。 (訳注:この文章は2020年4月28日に発表された。フェイスブックでのケヴィン・ケリーの記���によれば、実際の誕生日は4月30日である。) ・意見の異なる人から、さらに言えば気に入らない人からも、何か学ぶことがあるはずだ。彼らが信じていることの中に真実があるかどうか確かめてみなさい。 ・熱心に取り組めば、知能指数が25ほど上昇する。 ・常に締切期日を決めておきなさい。締切があることによって、的外れなもの、ありきたりなものが排除される。締切があるので、完璧を目指さなくてもよい。そのかわりに、他と異なるものを作るべきだ。相違は望ましいものである。 ・ばかばかしいと思われる質問をためらってはいけない。そのような場合の99%は、他のみんなが同じ疑問を感じているが、恥ずかしがって質問しない状況である。 ・人の話を上手に聞くことができるというのは、重要な能力である。大切な人の話を聞くときは、それ以上話すことがなくなるまで「もっと聞かせて」と言い続けなさい。 ・価値のある年間目標は、1年前の自分が信じられないくらい無知だったと思え���ほど、あるテーマについて学ぶことである。 ・感謝は、他のすべての美徳を引き出すものであり、その気になれば上達できるものである。 ・人に食事をおごることは、必ず良い結果につながり、容易に実行できる。昔からの友人に効果があるし、新しい友人を作るためのすばらしい方法でもある。 ・万能接着剤を信用してはならない。 ・いつも子供に読み聞かせすれば、親子の絆を深めるとともに、子供の想像力を高めることができる。 ・クレジットカードを信用払いのために使ってはならない。信用払い、すなわち借金をしても良いのは、住宅のように交換価値の増加する可能性がきわめて高い物を入手するための借金だけである。大部分の物の交換価値は、それを購入した瞬間に減少または消滅する。借金して損をすることがないように。 ・プロフェッショナルとは、失敗から穏便に回復する方法を知っているアマチュアにすぎない。 ・普通ではない主張を信じてもらうためには、普通ではない証拠が必要である。 ・グループの中で最も賢い人になってはいけない。自分よりも賢い人たちと付き合って、彼らから学ぶべきである。さらに望ましいのは、自分と意見が異なる賢い人を見つけることである。 ・会話における「3回」の法則。本当の理由を知るためには、ある人が言ったことについて、より詳しく説明してもらいなさい。もう一度、そしてさらにもう一度。3回目の答えが真実に近いものである。 ・一番になるな。唯一になれ。 ・みんな遠慮しているのだ。他の人は、あなたが自己紹介するのを待っている。他の人は、あなたが電子メールを送るのを待っている。他の人は、あなたがデートに誘ってくれるのを待っている。思い切ってやってみなさい。 ・誰かに断られたとき、自分自身が否定されたと思ってはならない。その人もあなたと同じ状況だと思えば良い。忙しい、先約がある、気が進まない。後でもう一度頼んでみなさい。2回目の依頼で成功することが非常に多い。 ・習慣の目的は、自己交渉という行為を省略することである。実行するかどうか決めるのにエネルギーを使う必要がなくなる。ただ実行するだけだ。良い習慣は、真実を述べることから歯磨きまで広い範囲にわたっている。 ・迅速さは、敬意の表れである。 ・若いうちに、少なくとも6か月から1年くらいの間、できるだけ貧乏な暮らしをしてみなさい。所持品をできるだけ少なくして、小さな部屋またはテントで豆と米だけを食べて、「最悪」の生活がどんなものかを体験するのだ。そうすれば、将来、リスクを冒す必要が生じたときに、最悪のシナリオを恐れなくてもすむだろう。 ・本当の話、「彼ら」というものは存在しない。 ・あなたが他人に関心を持てば持つほど、彼らはあなたに関心を持つようになる。関心を持たれる人になるには、関心を持ちなさい。 ・できるだけ気前よく振る舞いなさい。死ぬ間際になって与��過ぎの人生だったと後悔する人はいない。 ・良いことをするためには、ただそれを実行すればよい。立派なことをするためには、それを何度も何度も何度も実行すればよい。すばらしいことをする秘訣は、やり直すことである。 ・黄金律を守れば必ず役に立つ。それは、他のすべての美徳の基盤である。 (訳注:黄金律とは「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という行動規範を指す。) ・家の中で探し物をして首尾よく見つかった場合には、それを使い終わった後、見つかった場所に戻してはならない。最初に探した場所に戻すべきである。 ・貯金および投資は、いずれも良い習慣である。あまり深く考えずに少額のお金を長年にわたって定期的に投資するのも、蓄財の一つの方法である。 ・誤りを犯すのは人間の行為である。誤りを認めるのは神の行為である。自分の犯した過ちを迅速に認めて責任を取り、適切に是正することができれば、これほど人の価値を高めるものはない。失敗したときは、素直に認めなさい。この責任感は、きわめて効果的なものである。 ・アジアでの地上戦に関わってはならない。 (訳注:「自分の能力以上のことに手を出すな」という意味。朝鮮戦争やベトナム戦争での米国の経験を踏まえた言葉として昔から使われている。) ・顧客に尽くすことに注力しても良いし、競争相手に勝つことに注力しても良い。いずれも有効だが、どちらかと言えば、顧客に尽くすほうが効果は高いだろう。 ・目立ちなさい。いつも目立つようにしなさい。ある成功者の言葉によれば、成功の99%は目立つことである。 ・創作過程と改良とを区別しなさい。執筆と編集、彫刻と研磨、製造と分析を同時にはできない。もし同時にしようとすると、編集者が創作者の手を止めてしまう。発明しながら選択してはならない。スケッチしながら修正してはならない。草稿を書きながら考察してはならない。着手する前に、創作者の意識は判断から解放されている必要がある。 ・失敗がときどき起こらないのであれば、順調に進んでいるのだ。 ・おそらく最も直感に反する宇宙の真理は、他人に多く与えれば与えるほど得られるものが多くなる、ということである。これを理解することが、知恵の第一歩である。 ・友人は、お金よりも良いものである。お金があればほとんど何でもできるが、友人がいれば可能性はさらに広がる。自分で船を所有するよりも、船を持っている友人がいるほうがいろいろな点で望ましい。 ・正直な人をだますのは難しい。これは真理である。 ・物が見つからない場合、最後にそれを見た場所から手の届く範囲内に存在している割合は95%である。その半径の中で可能性のある場所を探せば見つかる。 ・あなたの評価は、あなたが何をしたかによって決まる。何を言ったか、何を信じているか、誰に投票したかではなくて、何に時間を使ったかである。 ・旅先で、ケーブル、アダプター、充電器をなくした、あるいは持って来るのを忘れた場合、宿泊しているホテルに尋ねてみるとよい。今��きのたいていのホテルには、誰かが置き忘れたケーブル、アダプター、充電器が��数保管してあって、おそらくその中に適合するものがあるだろう。借りた後、それをもらえる場合も多い。 ・憎悪は、憎まれている人に影響を及ぼさない災いである。憎む側の人だけに害を与える。怨恨は毒のようなものだと思って捨て去りなさい。 ・向上には限度がない。才能は公平には与えられていないが、ものごとを始めるレベルは、いくらでも高くすることができる。 ・何か大きなプロジェクト(住宅、映画、イベント、アプリなど)が90%完成したと思ったとき、残りのこまごまとした無数の項目を片付けるために、また90%の時間がかかる。覚悟しておきなさい。 ・人が死ぬときには、自分の評判以外のものは絶対に何も持っていくことができない。 ・年を取る前に、できるだけ多くの葬式に参列して、まわりの人の話に耳を傾けなさい。誰も故人の業績を話題にしていない。人々が覚えているのは、故人が活動していたときの人柄だけである。 ・何か実体のある物を買うためにお金を払うときは、その物の寿命が尽きるまで、修理、保守、廃棄にお金がかかることを覚えておきなさい。 ・現実のものごとは、ひょっとしたらありうるかも、という想像上の仮説から始まっている。したがって、想像力は、この世界で最も重視される能力であり、努力すれば上達できる能力である。それは、他の人たちの常識を無視することが利点となる唯一の能力である。 ・危機や災害が起こったら、それを無駄にしてはいけない。問題のないところに進歩はない。 ・バケーションの旅行では、都市を避けて、行程の中で最も遠い目的地へ最初に行きなさい。遠隔地で異質性による衝撃を最大限に感じておけば、その後、復路の行程では、都市の見慣れた快適性をありがたく受け入れられるだろう。 ・将来何かをしてほしいという要請を受けたら、自問自答してみなさい。その日程が明日である場合、それを引き受けるか。この選別テストに合格する行動予定は、そんなに多くないだろう。 ・本人に直接言いにくいことを、他の誰かに電子メールで言ってはならない。なぜならば、いつかきっと本人がそれを読むことになるからである。 ・あなたがどうしても職に就きたいと思っている場合、雇用主から見れば、あなたは数ある問題の一つにすぎない。その雇用主の抱えている多くの問題をあなたが解決できるならば、職を得られる。職を得るためには、雇用主の立場で考えなさい。 ・芸術は、あなたが見逃しているところに存在する。 ・物を手に入れて深い満足感が得られることはめったにない。しかし、何かを経験することによって深い満足感が得られる場合はある。 ・調査における「7段階」の法則。七つの段階を進んでいくと、目的のものを見つけることができる。最初に尋ねた人が知らなければ、次は誰に尋ねればよいかを教えてもらう。これを繰り返す。7番目の人まで尋ねていけば、ほとんどの場合、答えを見つけることができる。 ・謝罪の方法。迅速に、具体的に、心を込めて。 ・電話での勧誘や提案に応じてはならない。急を要するというのは口実である。 ・誰かがあなたに対して意地悪な、無礼な、悪意ある、または、ひきょうな態度をとるならば、その人は病気だと思いなさい。そうすれば、共感しやすくなって対立を緩和できるかもしれない。 ・ガラクタを排除すれば、本当の宝物のための余地が生まれる。 ・有名になろうとは思わないほうがよい。誰か有名な人の伝記を読んでみなさい。 ・経験が過大評価されている。人を雇用するときは、適性のある人を採用して技能を教えるようにしなさい。最もすばらしい、あるいは立派な結果を出すのは、その仕事を初めてする人である。 ・休暇+災難=冒険。 ・道具の購入方法。最初は、できるだけ安い道具を探して買いなさい。頻繁に使うものは、良い物に買い換えなさい。ある道具を仕事で使わなくなったら、財力が許す範囲で最も良いものを買いなさい。 ・さりげなく20分の仮眠をとる方法を身に付けなさい。 ・何に情熱をもって取り組むべきかわからなくて行き詰まったときは、至福を感じることを目安にすればよい。多くの若者に役立つ教訓は「何でも良いから、何かに熟達しなさい」ということだ。あることを習得すれば、その延長線上でもっと喜びを感じる方向へ進むことができて、最終的には自分が至福を感じるものがどこにあるかを発見できるようになる。 ・100年後には、今の私が正しいと思っていることの大部分が間違いであると証明されるはずだ。もしかしたら、あきれるほど間違っているのかもしれない。そこで私は、今考えていることの中で何が間違いであるかを見つけようと努力している。 ・長い目で見れば、世界の将来は楽観主義者が決める。楽観的になるために、私たちが抱えている多くの問題を無視する必要はない。人間の能力が向上して問題を解決できると想像すれば良いのだ。 ・全世界は、あなたの背後であなたが成功するように画策している。このプロノイア(支援妄想)を信じれば、行動しやすくなる。
「68個のお節介な助言」: 七左衛門のメモ帳
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海鳴りの夜に
家から三分程車を走らせると海に辿り着く。
田んぼの真ん中にある高台の一番上が我が家で、坂を下ってはまた上がって国道を越え、砂防林を抜ければ目の前には海原が広がる。
そんな立地もあって海の鳴る音が時折聞こえる。
それは夏の浜辺で聞くような、さざ波程度のささやかな音ではない。
ごーごーと低い音が止めどなくずーっと鳴っていて、それは少しだけ恐怖をも感じる。
今くらいの時期から冬の終わり頃まで週に何日かはこの音を枕に眠りにつく。
海が荒れていたり風が強かったり、天気が崩れそうな時にこんなにも鳴るようで、それは冬やら一年の終わりの気配を感じさせる。
ただ一日一日を積み重ねていたらもう十月が終わりに近づいていた。
仕事でここのところ山奥の耕作放棄された棚田に行っているが、その周りの山々にある��の葉は針葉樹を除いて色が暖色に変わりつつある。
一番好きな季節であり、最も旅したくなる季節だ。
週末も出かけるために不在者投票へ行った。
小選挙区と比例では全く反対の党へ投票してきたが、それくらい今の政治は頼れるものがないように思える。
公約も似たりよったりで、政治や経済に疎い俺ですら実現性が見込めないと感じるものもあったりする。
何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならない。
高齢者を守りながら子育て支援をし、労働者の賃金を上げつつ法人を守る。これが全て実現出来るのならとっくの昔にしているだろう。
もっと現実的な公約でいいのになと俺は思ってしまうが、果たして国民の多くは半分泡沫の夢みたいな公約を望んでいるのだろうか。
色んな問題が山積みだけれど、裏金くらいで見限るのも何だか違う気がする。そんなの半世紀も前から変わらないんだから。
闇バイトで人を殺めて金を稼ぐような人を増やさないためにはどうしたらいいのだろう。
世界大戦が何度もあって、労働基準法が整備されていなかった二十世紀より、今の方が一人一人の命を大切にという時代なはずなのに、数十万で人を殺して金品を盗み挙句に自分は無期懲役か死刑になるなんて倫理観やら死生観が壊れている。
金には苦労したし借金もしたけれど、そんな事を考えた事は一度もないし、現実的ではない誘いなんて目にも止まらなかった。
窮鼠猫を噛むなんて言葉があるが、今じゃ窮者他人を殺るなのか。
今も鳴り続けている荒波の音よりも恐ろしい。
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其實我很想發IG文 超級超級想發 想講一堆長篇大論的文 但我就是做不到了 我很難受我做不到了 我很在意任何人的評價 但我最先覺得的阻擾是 男朋友會不會又跟我說什麼 我覺得我不再長篇大論的阻力之一是男朋友 第二是不再交集的朋友 我很討厭男朋友一直限制我一直管我 我也有很多事情不想跟他分享 比如說我的浪漫憂傷之類的 我不想他看完問我說我怎麼樣怎麼沒跟他說的感覺 我不喜歡他去年暑假因為我傳了vlog到一個陌生的網路上被他不喜歡 不喜歡他那麼多意見 說我會被路上的男生看 跟我說不喜歡我穿bra top被別人看 不喜歡我去衝撞跟其他男生擠在一起 我討厭他收回訊息 討厭他為了報復我心態做的各種幼稚的事 我討厭他有意無意的要我跟他出國 我討厭他對我毛手毛腳在看電影的時候 在我只想要擁抱的時候 一直用下面蹭我 蹭來蹭去的我只覺得自己像充氣娃娃 我討厭他跟我說要我去他家而他覺得不做就很可惜但我不喜歡做 我以為我會很喜歡但不知道我就是本能的很抗拒 我不想要去都是一樣的行程 可能我就是只想要抱著一起 我不喜歡一直做一直做把所有時間都花在做 這種事好難說出口 我不知道可以跟誰說 還有不喜歡他前兩次因為我忘記回他訊息卻先發了限動就對我發火 可是有些訊息其實就算讀了我也不知道回什麼才忘記回 這樣我變得越來越小心翼翼在發完限動檢查一下我會不會又忘記回訊息 還有因為我爸對我姐上次交男朋友都講很難聽的話 一直說跟別人上床之類的我覺得很侮辱人所以我一直沒有跟我爸說我交男朋友的事 然後他跟他家庭關係很好就有講 出去旅遊他們也不會管 所以這件事一直卡在這裡 他只要逼我我就會很有壓力 但我就是沒辦法找到一個什麼好的時機說 但他是個很優秀的人 我相信我阿嬤跟媽媽都會覺得好的人 還有我不喜歡他現在親我的時候感覺像是被一隻章魚親
我其實知道這些或許都是我不愛他還是怎樣不對的訊號 或是這種不分是在等過年還是什麼 我覺得我很糟糕 我在享受他帶來的利益 而且我也是真的割捨不下 但要說他是我未來想繼續走下去的人嗎 我覺得不是 我覺得我想找到心靈更契合的人 相處起來更沒有壓力的人 我只是還捨不得 但不想就這樣被捆著 我是個挺糟糕的人 我現在就覺得或許未來我跟家庭關係好一點或是成熟一點就有機會改變了 或許他也可以變成我喜歡的樣子 不然就是等到我哪天真的受不了了就真的可以放得了手了 其實我們只要不接觸這些問題 都過得很好 相處起來也是還不錯 只是開始很常吵上面那些問題 而且他對我很好 其實吃飯什麼都是他在請客 因為他知道我沒錢 也很常送我很多禮物 但我也有回一些禮多請回去一些
另一個不想發限動的原因是因為我阿伯姑姑還有他媽有追蹤我ig但我一直沒把他們隱藏 滿白癡的ㄏㄏ 把他們隱藏其實我就可以發放閃ㄌ
會發這篇不是因為我們吵架 只是我一直想發些文卻翻來翻去想說什麼卻什麼都沒說的感覺讓我覺得我已經被這種想法困很久了我覺得寫出來可能會更好一點
Btw 還是發些我很高興的時候:他買了ikea的枕頭(1499塊)給我 然後送我之前說想吃的抹茶生乳卷(630塊) 還有其他聊的開心的時候
嘖 其實我知道我對他也很多限制也對他很不好 但我現在就是從一個焦慮依附人感覺變成迴避依附人了 但我覺得他給我的改變讓我變得情緒比較穩定 沒有太多傷春悲秋的時候 愛而不得 只有吵架吵到氣死的感覺
隔天更:

還有一個開心的一刻是他會帶我吃想吃很久的東西 雖然他很多都不記得是我自己提的 還有上次他說台北流浪指南(傷心欲絕)好聽有加歌單 我覺得我的愛情在去年暑假的時候就死了一次 暑假前是真的兩情相悅 暑假後的總是多一分憤恨與忌憚
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反スパイ法のない日本、外事警察の苦闘
櫻井よしこ
わが国は、四桁に迫る数の自国民を北朝鮮という国家権力によって拉致されたまま、約半世紀、取り戻せないでいる。
13歳で拉致された横田めぐみさんは59歳になった。母上の早紀江さんは、日本はなぜ、国民を取り戻せないのかと問い続け、新しく拉致担当大臣が就任する度に「真剣に取り組んでほしい」と要望する。歴代内閣は拉致解決を政権の最優先���題と位置づけるが、吉報は未だ訪れない。
第二次安倍政権の7年8か月間、安倍晋三総理を支えて国家安全保障局長等を務めた北村滋氏は、近著『外事警察秘録』(文藝春秋)の冒頭で当時の拉致問題への取り組みを記した。めぐみさんのものとされる遺骨が螺鈿(らでん)装飾の漆器調の器におさめられて日本側に手渡された時、その遺骨は警視庁鑑識課で横田御夫妻に示された。目に涙を浮かべた父上の横田滋さんが無言で坐る傍ら、早紀江さんが沈黙を破った。
「めぐみは生きていますから。これは警察の方でしっかりと調べて下さい」
早紀江さんは毅然と言い、「遺骨」を証拠として鑑定処分に付することを承諾して下さった。「それは娘の生存に対する確固たる信念の発露」だったと、北村氏は書いた。
周知のように、遺骨はめぐみさんとは無関係だと判明し、日本国内の怒りは頂点に達した。だが、振りかえってみれば拉致は金正日総書記が2002年に認めるまで日本での関心事にならなかった。遡って1988年3月、梶山静六国家公安委員長及び警察庁の城内康光警備局長が、「一連のアベック失踪事件は北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁した。
北村氏の指摘だ。
「拉致事件について国会で閣僚と警察の責任者が断言し、それと前後して日本人が拉致されたことを示す具体的な情報が複数取りざたされていたが、それでも捜査に追い風は吹かなかった。北朝鮮の国家犯罪の追及は当時、日本政界を支配していたムードに逆行するものだったのだろう」
事実、89年7月には土井たか子、菅直人の両衆院議員らが北朝鮮の工作員・辛光洙の釈放を求める要望書を韓国に送り、90年9月には自民、社民両党が「金丸訪朝団」を結成して訪朝した。当時は日朝友好親善の機運が高まっていたのだ。
世界一、与し易い国
警察が拉致を防げなかったこと、捜査が進捗しないことについての批判は依然として強い。北村氏は言い訳するつもりはないとしたうえで、日本国の体制に注視する必要性を指摘する。まず第一に、スパイをはじめわが国の国益を深刻に侵害する犯罪を直接、適切な量刑で処罰する法律がないことだ。米国では死刑、終身刑、数十年の懲役刑となるような犯罪が、わが国では北朝鮮のスパイ事件に見られるようにほ���全員、軽微な刑罰にとどまると北村氏は指摘する。
警察庁が認定してきた1950年から81年までの北朝鮮スパイ事件42件に限れば適用された罪名は「出入国管理令違反」等の微罪にすぎず、執行猶予が付くケースが多いという。
第二次安倍政権が「特定秘密の保護に関する法律」(特定秘密保護法)を難産の上成立させたとはいえ、今もまだ拉致問題に典型的に見られる対日有害活動を直接処罰する法律は制定の動きすらない。安全保障に疎いわが国の、これが現実である。
『外事警察秘録』の頁をめくる度に、日本の安全保障体制が法的にも国民の意識という点においても如何に貧弱かを思い知らされる。北村氏が41年間のキャリアを振りかえって取り上げた事件は拉致問題、重信房子の日本赤軍、麻原彰晃のオウム真理教、暗躍する中国スパイなど、実に幅広い。一連の事例から浮かび上がるわが国の姿は、悪意を持った犯罪者にとって恐らく、世界一、与し易い国のそれではないだろうか。
日本と日本国民を守る手段(法整備)に事欠く中で、北村氏らは国内世論の無理解、日本政府内に蔓延する気概の喪失とも戦わなければならなかった。たとえばオウム真理教事件で、早急に打つべき手のひとつが麻原彰晃ら最高幹部の国外逃亡阻止だった。
彼らは当時頻繁にロシアに渡り、レーザー兵器、ウラン、軍事用ヘリコプター、毒ガス用の検知器、自動小銃などを入手した可能性があった。そこで北村氏ら外事警察は「旅券法に基づいて、麻原に旅券返納命令を出してほしい」と外務省に要請。95年3月30日、警察庁長官の国松孝次氏が狙撃された当日のことだ。外務省担当者はこう返答したという。
「返納命令を発出してもし報復テロの対象として我々が狙われたらどうなりますか。警察庁長官ですら銃撃から守れなかった日本警察に部外者の我々を守り切れるのですか」
テロリストの思う壺
最終的に旅券返納命令は発出されたが、恐怖心を煽って政治的目的を果たそうとするテロリストの思う壺にはまっている日本の姿がそこにあった。氏はまた警察庁外事情報部長だったとき、スパイ事件に関する日米の分析検討会議に出席した。日本の摘発事例を説明した際、米側の出席者がたまりかねた様子で尋ねた。
「日本警察が摘発した事件では、そもそも公訴の提起がなされなかったり、スパイ協力者に対する求刑が懲役一年から二年程度だったりすることが多い。判決では執行猶予が付され、釈放されるケースばかりだ。なぜなのか」
日米同盟という関係の中で、日本から情報が漏れれば米国も一蓮托生だ。米国側が懸念するのは十分に理由のあることなのだ。
北村氏��、日本の刑事法にはスパイ行為を直接罰する罪が存在しないこと、したがって捜査機関は、スパイがその情報を入手するためのプロセスを徹底的に精査し、あらゆる法令を駆使して罪に問える罰条を探し、スパイ協力者はその共犯として立件すると説明したが、到底、理解してもらえなかったという。
「米国では、情報を漏らした者はもとより、情報を探知し、盗み出した者を、より重罪とする。量刑は最高で死刑だ。(中略)終身刑や被告の寿命を遥かに上回る数十年の拘禁刑という事例も散見された」
北村氏はこう書いたが、これは中国、ロシアを含めておよそ世界の国々の常識であろう。
インテリジェンスの専門家が振りかえる安倍政権、7年8か月の軌跡は、案件のひとつひとつが生々しい記憶をよび起こす。独立国としての日本の再起に文字どおり命をかけた安倍晋三総理。第二次政権発足の翌日、内閣情報官としての第一回総理ブリーフィング(報告)を終えて退出する北村氏に安倍総理が声をかけた。
「これからも時々、報告に来てください」
週一回だった定例報告はそれ以来、週二回となった。安倍総理はインテリジェンス報告に多くの時間を割いた。情報こそが国の命運を決することを正しく理解していた宰相なき後、わが国の前途は多難である。
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畢業感言
我從來沒想過,有一天會站在這裡,發表我的退休感言——從我第一次踏進這家公司,竟然已經過去了 34 年!回想當年,還記得自己緊張又興奮地來面試,那是我拿到碩士學位後的第一份正式求職。誰能想到,從那一天起,我會展開一場如此精彩的旅程!
這些年來,我有幸參與了無數前沿技術的發展——從傳統交換機的電話通訊,到海底電纜、T1 和 E1 傳輸、IP 互聯網、行動通訊,一直到今天的高科技時代。最幸運的是,近年來我加入了一個公司裡最前瞻、最富創意的小團隊,一起探索 SDN、物聯網(IoT)、人工智慧(AI)等領域,挑戰極限,突破框架,見證科技如何改變世界。這一路走來,每一天都充滿了學習與成長,也充滿了挑戰與成就。此外,在這 34 年裡,我跟隨過 13 位不同風格的主管,每一位都帶給我不同的視野和領導啟發,讓我從每一個階段都能學到寶貴的經驗。
但回顧這一切,最珍貴的,不是技術,不是專案,而是人。每一位曾經共事的夥伴,都在我的人生留下了不可取代的印記。是你們陪我一起經歷挑戰,一起分享榮譽,一起在茶水間聊生活、談理想。我發現,回憶裡從來沒有不好的一面,因為留下來的,都是那些歡笑、成長與感動。
很多人問我,退休後有什麼計畫?老實說,我可以很驕傲地回答——我沒有計畫! 這正是退休最迷人之處!這些年來,行程、會議、截止日期幾乎填滿了我的生活,現在,終於可以把時間還給自己。我想隨心所欲,去探索沒去過的地方,嘗試從未��驗過的事物,感受那些曾經因忙碌而忽略的美好時刻。
最後,真心感謝我的同事、導師、朋友們,感謝你們成為我生命中重要的一部分。如果未來的某一天,我們在街頭、機場、或哪個咖啡廳偶遇,請一定要叫住我!我們可以一起敘舊,開懷大笑,回憶那些一起打拼的日子,因為這些回憶,將永遠是我最珍惜的寶藏。
今天,我懷著滿滿的感激,為這一章畫上句點,並迎接新的篇章。這裡不只是我的工作場所,更像是我的第二個家,而你們,就像家人一樣。所以,這不是Goodbye——只是See you later!
3/1/2025
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[營銷] 🚀 Z世代都在用的被動收入模式,你跟上了嗎?
這裡是一篇適合社交媒體、部落格或電子報推廣的營銷文章草稿,語氣輕快、具吸引力、貼近Z世代的語感👇
🚀 Z世代都在用的被動收入模式,你跟上了嗎?
你有沒有發現,現在的Z世代(1997-2012年出生)已經不再一頭熱地擠進朝九晚五的生活?他們不只追求自由,更在思考:「有沒有一種方式,不用賣命,也能讓錢自動流進來?」
答案是——被動收入模式。
營銷解說 🚀 Z世代都在用的被動收入模式,你跟上了嗎?
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💡 被動收入是什麼?
簡單說,就是你「一次努力,多次收穫」的金錢系統。不用靠時間換錢,只要系統一跑起來,你就可以在睡覺時、旅行時、耍廢時都持續進帳。
🧠 Z世代最愛的被動收入方式TOP 5:
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從你最有感的方式出發:
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不需要完美才開始,開始了才會完美。
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📌 寫在最後: Z世代不只是潮,他們正在改寫財富遊戲的規則。 如果你還停留在「存錢靠死薪水」的思維,真的該進化了。
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彼(か)のコラボイベどうなってんの???いやマジで
現在某所で配信されてる某コラボシナリオこと某某某ー某・某ー某某a.k.a.異世界寝取りサモ太郎ですが もはやツッコむ気力さえなかったり読んですらなかったりする人もいると思うけど
パラレルともifともつかない改変が入ってるのに原作と同じ展開に着地させるいびつさが不気味なコラボを名乗る何か
と化しているので本日はこれについてお話します…
※以下の文章では前作(隠語)主人公に名前がない&前作世界で彼の体に入っているという設定で話が進むため前作主人公を「主人公」、公式の負の側面が前面に出た今作(隠語)主人公を「一部シナリオで感じ悪い選択肢で会話し始める」「ストラグルで突然『修行してないのに尋常じゃないくらい剣が強い』という謎のイキリ設定が追加された」「伏線とはいえ『召喚されたのに召喚することもできる特例で普通は一人でも大変な契約が無限にできちゃって元々は前例のない全属性で神そのものの存在から前世ポ(前世の面影���感じてデレること)でチヤホヤされる』という設定がよく考えると痛々しい二次創作オリジナル主人公っぽい」などの理由から以前からネタで使っていた「サモ太郎」と呼びます ※言わずもがな前作とコラボシナリオのネタバレしかないです ※よくいる妄想でフォローおっぱじめる人は原作に書いてないこと主張するなとは言わないから推測として成立させるための出典出してね ※悪いのはキャラではなくシナリオとプレイヤー
要点:前作が世紀の大傑作と言うわけじゃないけど丁寧に書かれてたしここまで酷くなかったのは確か
「パラレルともifともつかない」について
コラボシナリオの舞台は「前作1章のイベントである魔王アンセスターの襲来が起きなかった世界」と明言されていて、��の点に関しては言い訳ではなくコンセプトとしてパラレルになっていますが、それ以外の部分もしっちゃかめっちゃかに改変が入ってるのが問題です。 とりあえずざっくりと前作基準で時系列を分けると
A:アンセスター襲来以前、各キャラの悲しき過去…に相当する部分 B:アンセスター襲来~打倒、1章に相当する部分 C:アンセスター打倒以降、2章~に相当する部分 の3つに分けられます。
前述のきっかけによって前作のパラレルになったコラボシナリオがB’だとして ・Aは変わるわけないじゃん ・B’がBと変わらない展開になるのおかしいやろ ・↑のせいでオリジナルのシナリオのテーマ性が台無しになった というのが論点です。
Aは変わるわけないじゃん:オルグスの生い立ちの説明が「エアプでもこんなんならんやろ」ってくらい雑すぎる問題
前作とコラボシナリオで共通した設定 ・国王の子供なので王位継承権がある ・事情があってその事実を隠して平民として育てられた ・現在は騎士団の団長 ・同じく国王の血を引いた弟がいる ・指輪は王権の象徴
前作での説明 ・国王(前国王)と公に認知されていない関係を結んだ母親から生まれた子 ・弟は当然異母兄弟にあたる ・王位はオルグスの父から継承権が公に認知されている弟へ移っている ・世継ぎ争いを避けるため(資料集曰く父である王から殺されかけて)死んだと偽り、事情を知る後見人以外の援助無しで平民として育てられた ・騎士の道に進んだ動機は復讐心 ・指輪は魔王アンセスターの襲撃で壊滅した王宮から持ち出された後に現国王である弟の遺言に従いオルグスに譲渡された
コラボシナリオでの説明 ・母親が王妃なのかそうでないのかすら不明 ・弟と異母兄弟なのかも不明 ・王族ではないけど血統的には継承権第一位扱いとかいうよくわからん状態で王位が父と弟どちらかにあるのかも謎 ・国のために(詳細不明ふんわり感)兄弟のどちらかを選ばなければならないということで天秤にかけた結果(妾の子では?)放っといても死なんやろ的な雑さで捨てられて平民として育てられたけど王になってもいいように教育を受けた(??????) ・騎士の道に進んだ動機は「兄だから弟とか国とか護らないかんじゃろ」という責任感 ・なぜか指輪は自分が持ってる(王族から外れたって自分で言ったじゃん)
前作でわかるオルグスの生い立ちは弟があくまでも父母の関係の副産物でメインはオルグスが王の落胤であることにある印象なのに対して、コラボシナリオではいわゆる「掟によって生き別れになった双子」的な「引き離された兄弟のエピソード」として書かれていて王の落胤という設定に関してはそもそも存在しないように扱われている気がします。 仮定は仮定でしかないけどこの推測��当たってたとしたらもうそれ別人ですよね??? 起点過程を弄り回して着地点だけ元ネタに合わせるの無理ありすぎでしょ… とシナリオを読んで呆然とした気持ちが伝わったでしょうか。 まあここからもっと酷くなるんですが…
B’がBと変わらない展開になるのおかしいやろ:「一周目(仮)*で好感度が蓄積した」とかいう雑な言い訳で即デレさせるのやめろ *一周目=コラボシナリオで触れられている前作本編と思われる本来のストーリーのこと
上の方でキャラの根本的な設定が弄り回されてることに関して説明したけど本編そのものも魔王の不在によって重大な食い違いが生じています。 コラボシナリオの状況設定では主人公がオルグスとソールにとって(オリジナルほど)大事な存在にはなり得ないからです。
これについては後ほどさらに掘り下げますが、コラボシナリオでは死にまつわる要素、重いトーンの設定がことごとく削られている気がします。 ですが、前作のシナリオはキャラクターにとってリアルな死や痛みがなくては成立しません。
主人公は「世界を見捨てれば自分は助かる」という状況から自ら命を危険に晒すことによってメタ視点における主人公としての資格とキャラクターからの信頼を獲得する。 オルグスは勇者が故郷を滅ぼした魔王への唯一の対抗手段であり、頼らなければならないという気持ちが強かったからこそ、その能力があるとは思えないただの子供だった主人公への失望によって襟首を掴み上げる程の怒りを露わにして厳しく当たり、旅の中で人格と能力を認めて初めて信頼する。 ソールは自分の命は大義のために捧げられるものという価値観の中で生きてきたことを否定され、修行を通して抑圧してきた幼少期の両親の死に対する負の感情をさらけ出すことで教会が定めた主従を越えた信頼が生まれる。
ここで描かれていた感情の重みと動きはコラボシナリオで全て無くなりました。 後に残ったのは「なんかわからんけど縁を感じる」という今作本編後半から顕著になった主人公に対しての無条件の好意と同じ初見配偶者面。 なんでかって言ったら今作みたいというところで分かる通りまあサモ太郎(を操作している「キャラは自分に対してデレデレすることにしか価値がない」という認識でガチャに費やした金額を誇るプレイヤー)のためですよね…
お前!それは!!海底都市で!!!散々!!!!批判しただろ!!!!!
歴史は繰り返す…
変な改変があるのに別のストーリーになるわけでもなく中途半端に展開をなぞるせいでオリジナルのシナリオのテーマ性が台無しになった:感情が薄い!軽い!重要なイベントをことごとくスキップするAny%タイムアタックのようなシナリオ
いよいよぶちギレ金剛してこの長文を書くに至った現時点での最of悪パートであるコラボシナリオ2話後半について前作と比較する形で触れていきます。
オリジナルである前作「竜の山を越え、西へ」の流れ
魔王に故郷が滅ぼされたことによってオルグスの故郷の人々が東へ避難している辛い現状の描写(コラボシナリオ:そんなものはないが魔王がいないので妥当) ↓ 第三者の口を通じてオルグスが前王の血引いていることが明かされる(コラボシナリオ:「育ち良さそう」と言われただけで自分からペラペラ話す) ↓ 弟への復讐心とおそらく肉親としての情*が混ざった複雑な感情(コラボシナリオ:兄だから守らないといけないけどあいつが捨てられればよかったのにという雑な感情) *「アンセスター討伐」参照 ↓ 山で生活していた部下が騎士としての誇りを失い、山賊に身をやつしていたことに対する怒りと自責の念(コラボシナリオ:山賊落ちせず騎士のままになっているが魔王がいないので妥当) ↓ 自分の命を投げ打ってでも魔王を倒したいという覚悟のオルグスと主人公から言われたいのちだいじにを説くソール(コラボシナリオ:ゆるふわ異世界テーマパークにそんなものはない) ↓ 魔王によって生ける屍として操られている故郷の人々申し訳ねぇ…という感情(コラボシナリオ:そんなものはないが魔王がいないので妥当…なわけないだろそこ抜いたらダメでしょ) ↓ 仲間の危機に今まで逃げ腰だった主人公が本気を出し、生ける屍を浄化したりオルグスの手当をしたりと自発的に行動(コラボシナリオ:そんなものはないけど「ワー言って飛び出したの見て胸キュン…」とかいうめちゃくちゃ雑でえらく出来を悪くしたようなものはあった) ↓ 他人には頼らねえ!メンタルだったオルグスが二人きりの夜に腹の底を話して打ち解ける(コラボシナリオ:三行即デレシナリオにそんなものはない) ↓ 信頼とかその他諸々の証としてボロボロになった国の失われた王位を象徴する指輪を渡す(コラボシナリオ:別に主人公になんも世話になってないけど急に「護りたくなった」とか言ってふっつ~にまだ全然余裕で存在してる国の王の配偶者が持つべき指輪を昨日今日で会った他人に押し付けてくる知らんオッサン)
出生の秘密一つとっても前作だと「主人公との間に割って入ってきた知り合いの話を立ち聞きしたせいで察してしまい、知られた本人は聞かれたことには触れず苦い顔」って流れでプレイヤーに明かされて「トラウマ解消と信頼を構築して指輪を主人公に渡すシーン」を経て初めて自分から認めて主人公に語るんですよ… https://twitter.com/rokunai/status/1271626270997008384この落差
そして上のチャートでわかるように前作で重要なテーマは「身近な人の死による痛み」「死者の冒涜(前半では死者に安らかな眠りを与えず永遠に苦ませること��後半では死者の肉体を人格を入れるための器として扱うこと)は悪」です。 何が辛いか、何が悪かという基準がないまま心の傷とその回復を扱うストーリーを展開することはできませんし、コラボシナリオは実際そのコンセプトを達成できていません。 前作とは全く別の着地をするならこの批判は適切ではありませんが、この場合は雑ななぞりを経て同じ場所(2話後半を例に出すと主人公を認める・指輪の譲渡・恋愛感情の匂わせ)に着地するので問題です。 海外ではストーリーにおいて重みのある死のわかりやすい例えとしてライオンキングのお父さんが出てきますが、それが「でぇじょぶだ、ドラゴンボールで生き返っぞ!けどおめえは父ちゃんが死んじまったみてぇに泣いて頑張って王になってくれよな!」と言われてるようなもんですよこれ。無理でしょ。
更に言うと前作はラストで「主人公(プレイヤー)が歩んだ道のりがあるからこそキャラクターたちの好意は主人公に向けられているのであり、それを別の誰かが横取りすることはできない」という明確なメッセージを打ち出しています。 サモ太郎、別の誰かですよね? もっというと相関図でキャラの感情が好き放題弄れますよね? ボタン一つで設定した恋愛関係の重みってなんですか?
コラボシナリオではまともな描写がないから好き放題に弄れるのが妥当だとしても酷いし、本来の前作本編で結ばれた「絆」とやらがボタン一つでフイにされるものだとしても酷い。 キャラクターの感情の重みを蓄積した好感度としか見ていない薄っぺらい価値観のシナリオを公式が出しちゃダメでしょ。 シチュエーションを変えてイベントだけ踏襲した結果オルグスが無意味に人の襟首掴んで喧嘩売ってくるチンピラになったとか男同士のキャットファイトみたいな不快描写やめろとか暴れて店を壊すアホゴリラと化した理性のないキャラクターありえんとか他にも突っ込みたいところは無限にあるけどもう疲れたので終わりにさせてください。
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3人の節目の年
社会人1年目の今の時期、その電話は突然やって来ました。 電話元は幼稚園から中学まで同じ学校だった同級生の子。 開口一番に「落ち着いて聞いてね」 ある同級生が亡くなったとの連絡でした。 亡くなった彼は幼稚園からの中学まで同じ学校でしたが、彼の場合、腐れ縁の典型で、生前の彼とは親しくありませんでした。むしろお互いをいがみ合う程の険悪の仲でした。
その後も高校時代の友人の訃報が入りました。彼女の本当の命日は9月頃だけど、彼女の遺体が家族の元に帰ってきたのがこの時期でした。 彼女は元々複雑な家庭環境だったこともあり、私と出会ったときには既に躁鬱を繰り返していました。 そんな生前の彼女が、私には心を開いてくれて卒業後も定期的に連絡は取り合っていました。
そして、また別の同級生の訃報の一報。 彼女は「純真無垢」の言葉を体現した子。 いたずら好きだけど誰にでも無邪気に懐いてくる、同性から見ても本当に可愛くて仕方がありませんでした。
私にとって同級生の初めての冠婚葬祭は彼らの通夜でした。 そして3人に共通していることは病死ではなく、自殺でした。
ここでは詳細は控えますが、亡くなった動機・経緯があまりにも壮絶すぎて、当時の私は最後までその場で聞くことができませんでした。
特に心残りなのは、躁鬱を繰り返していた彼女。 彼女にも、彼女の家族にも、謝っても謝りきれないというのは重々承知の上です。
彼女が亡くなる数日前、彼女は私の携帯電話に着信を残していました。 夜中2時ということで当時は就寝中だったことに加え、普段から夜中は着信音を切っていたため、その時に電話に出ることができませんでした。その日の勤務中の昼休みに私から折り返し電話を入れました。 元気そうな声でしたが、今にして思えば本当は何か言いたかったんだと思います。 「夜中に電話してごめんね。特に用事はなかったんだけど、声が聞きたくなって。」 その時は昼休みの時間が終わることもあり、彼女の言葉に甘えて 「じゃあ、また電話するね」 それが彼女との最後のやりとりになりました。
これまでも彼女から何度も電話は来ました。だけど、電話がくる時間帯は決まって休日の午後で、平日の深夜に電話があったのはこの1回だけでした。 夜中の電話で彼女は一体何を言いたかったんだろう、というよりも、 「あの時、ちゃんと電話に出ていたら…」 「彼女が本当に言いたかったことをしっかり聞いていたら…」 「折り返し電話したときも、何で電話をすぐ切ったんだろう…」 「もっと落ち着いた時間帯に折り返し電話をしてちゃんと話を聞いていたら…」
元々複雑な家庭環境の中で育っていたため、彼女が埋葬されている場所は彼女の父親以外、誰も知りません。 言い知れぬ虚無感や罪悪感、そして複雑な思いだけが私に残され、年月の経過と共に悲しみと後悔だけがますます大きく深くなっています。
一人の通夜が終えて帰路についたとき、一緒にいた一人の同級生が涙をこぼしながら声を荒げて 「自殺を選ぶなんて最低」 やり場のない悲しみから来ている発言だというのが痛いくらいに分かります。 決して自殺を推奨するわけではありませんが、私は彼らを責めることは到底できません。 もし私も3人と同じような極限の状況に立たされたとき、平常な状態でいられる自信はありません。私には想像ができない程の極限の状態にまで追い詰められた中でも、3人は最後まで懸命に生きようとしていたのも事実です。
遺族の厚意で遺体に対面させてもらえたとき、私たちの今の状況を知らぬような穏やかな顔で眠っているのね。 先の見えない苦しみからようやく解放されたのかな、とも思いますが、今年は3人が亡くなったひとつの節目の年。やっぱり今も会いたいです。
May your sweet smile never fade away. Rest in peace☘️🕊
明日もですが、来週はプチ弾丸旅行が控えていますので、早く寝ないとっ♪
さて、ここまで読んでくださった方へ☘️ 金曜日の夜に重い内容の投稿でごめんなさい、そして最後まで読んで頂きありがとうございました。 皆さんも良い週末を過ごしてくださいね🤲
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風景的螢幕實踐 第1回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【前篇】
風景的螢幕實踐|佐佐木友輔
第1回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【前篇】
由影像創作者暨媒體研究者佐佐木友輔執筆,圍繞電影、攝影、美術與動畫中的「風景」與投射風景的「螢幕」為主題,縱橫論述各式作品的連載文章。以1970年前後的「風景論」爭辯為出發點,企圖加以更新。本篇首回將攝影師中平卓馬與西澤諭志對照,以大阪萬博為關鍵轉折點,思索現代社會中權力=風景的樣貌。 中平卓馬——風景的殘骸(Detritus)
中平卓馬與《風景的死滅》
1971年10月25日發行的松田政男著作《風景的死滅》(田畑書店)封面,使用了中平卓馬拍攝的海景照片。這張照片也出現在中平於1970年出版的《為了未來的言語》一書中,為書中跨頁照片右側經裁切後使用的版本。畫面上方三分之一為天空,下方三分之二則為白浪翻湧的海面,水平線略為右斜向下。水面上的複雜紋理、拍攝當下的模糊與晃動、粗顆粒感等元素交織在一起,構築出難以分割的視覺關係。再透過高光澤的銀墨印刷,反射出帶有物質感的黯淡光澤。
取下書衣後,書本本體的封面也同樣使用了海景照片,這次是取自《為了未來的言語》跨頁左側經裁切後的圖像。畫面中省略了天空,以海面全面覆蓋畫面為設計。印刷質地比封面更為粗糙,一眼看去甚至難以辨認是否為海洋。既像是沙灘表面的紋理,也彷彿是印表機故障所致的錯誤印刷。

如眾所周知,這種模糊晃動的照片正是中平卓馬在《Provoke》時期的典型風格。拍攝者或被攝者的移動造成的晃動與模糊、粗顆粒、曝光過度或不足、無視水平線的不穩定構圖……這些靜止畫面中卻具有動態特質的風景,既可視為中平攝影行為的刻印記錄,也強烈主張那是由「攝影機之眼」——與人眼截然不同的視角——所捕捉的風景。中平排斥那些如內心反射或意識形態投影般的主觀、感傷攝影,致力於將攝影作為如實記錄事物的工具。
《風景的死滅》收錄了許多與1960年代末至70年代初「風景論爭」有關的松田重要論述。而中平也是這場論爭的中心人物之一,透過攝影與言說雙重實踐,發展出獨自的風景論。若讀者對當時論述不甚熟悉,聽到「風景論」一詞,或許會以為是探討「以風景為主題的攝影」或「應該記錄哪種風景?哪種風景最美?」這類直觀問題。但對中平而言,「風景」是如同「一層塑膠膜般的面紗」,遮蔽了應真正凝視之物的存在。
某個夜晚,或許是清晨,我匆忙爬上地鐵的階梯。就在轉角處,與兩位少女不期而遇。她們短暫地愣住,確實是兩位少女。高個子的是姊姊,矮個子的是妹妹——這也無誤。但當我開始凝視她們,她們迅速失去「姊姊」、 「妹妹」、「少女」的特質。我急促地、盡可能大聲地喊著:「少女們、 姊妹們、建築物、工業區,這是少女啊!」若不這麼做,這些事物就會被 從我頭顱頂部下垂的那層塑膠面紗所吞噬——這��面紗才是將我眼前一切事 物還原為所謂〈風景〉的元兇,這點已不言自明。
當某物乍現於眼前,人往往將自身內在或意識形態投射其上、賦予意義,並用「風景」這層面紗將之覆蓋,從而無法看清真實的現實。為對抗此現象,中平選擇捨棄嚴格的取景與構圖,有時甚至不透過觀景窗,任憑直覺與偶然拍攝,即所謂的「模糊晃動攝影」實踐。他的目標不是捕捉風景,而是在風景將其覆蓋前搶先按下快門,揭露其背後真正存在之物。
進一步來說,中平的風景論也受到了松田政男提出的「作為權力批判的風景論」的影響。松田曾針對1968年連續槍擊事件犯人永山則夫的動機提出見解,認為永山是被國家權力強加的均質化風景所逼迫,才開槍試圖撕裂那景觀。中平亦呼應此說,指出:「若要撕裂被權力均質塗抹的『風景』,只需一聲槍響,一道閃爍的刀光便已足夠。」那份模糊晃動所帶來的粗暴感,正蘊含著如刀劍揮下的軌跡或子彈命中的衝擊。中平的攝影,是風景的屍體,是風景被殺害現場的記錄。 無止盡的貓捉老鼠遊戲
然而,「模糊晃動攝影」迅速樣式化與形式化,不僅無法再撕裂風景,反而變成模糊投射拍攝者內在的手段。具體實例便是中平對「發現日本(Discovery Japan)」(以下簡稱D・J)活動的猛烈批判。D・J 是國鐵(今JR)於1964年東京奧運與1970年大阪萬博後為避免旅遊熱潮冷卻而發起的觀光推廣活動。初期的幾張海報(如第2號、第3號),以模糊晃動手法拍攝結合了現代都市女性與鄉村風景的畫面,營造出「美麗日本」、「美好舊時代日本」、「故鄉」等難以具體指認的匿名式、抽象式圖像,激起觀者的旅遊情感。中平尖銳指出:「就如1970年萬博成功地轉移了我們對70年安保的關注,最終讓民族主義獲得歡呼,這個D・J活動亦具有將我們的視線自現實中的種種問題引開,並持續鼓吹民族主義的政治功能。」

對D・J的批判進而演變為對自己過去風格的反思與否定,中平捨棄原先的模糊晃動攝影,徹底排除個人情緒或意義投射,嘗試捕捉事物本來面貌。例如他在1971年巴黎青年雙年展中展出的裝置作品《循環——日期、地點、行為》,每天拍攝並當天沖印、展示,照片填滿整面牆、地板與接待台,營造出多視角、多元空間,對抗「我與世界」這種從單一視角理解世界的西方式遠近法構圖。他於1973年將這些實踐概念化為「植物圖鑑」,主張應該捕捉的是物對人的注視,而非人對物的情感投射。此過程中,中平的照片也逐步由模糊晃動轉為清晰、由夜晚轉向白晝、由黑白轉為彩色。
若硬要借用風景論的詞彙來說,中平可謂窮其一生,不斷切裂眼前出現的風景。然而,當他撕開破爛的面紗、試圖捕捉真實時,那景象轉瞬間又凝固成新的風景,視野再次被不可見的面紗覆蓋。若欲以另一手段再度撕裂,又會有新的風景湧現並阻擋視線。如此周而復始,宛如無盡的貓捉老鼠遊戲……
其實這不僅是中平作家的個人問題,或權力過於強大的證明,更關乎「風景」概念本身的侷限。文學評論家加藤典洋指出,「風景」的混亂來自於兩種相反行為同時被「風景」一詞涵蓋:一是將某地經驗對象化所形成的「風景化」;另一是風景本身被視為觀看對象而廣泛定著的「風景」。依此劃分,中平的攝影終究仍是「風景化」的範例——只是另一種尋找新風景的嘗試。即使是清晰的彩色照、多視角的裝置作品,一旦發表,就會被定型、樣式化、對象化,進入應被觀看的「風景」之列。只要繼續使用「風景」這一概念,我們就永遠無法真正逃脫風景。若真有自由的一刻,那也僅是舊有風景被新的風景取代前,那段短暫的過渡時期而已。
風景的殘骸——回顧展《中平卓馬 火―氾濫》
自2024年2月6日至4月7日,在東京國立近代美術館舉辦了中平卓馬的回顧展《中平卓馬 火―氾濫》(策展人為攝影評論家暨攝影史學者增田玲)。對這場展覽,我懷有一絲擔憂——是否會將中平卓馬整個人生對象化,作為某種凝固成型的「風景」來呈現?從模糊晃動的攝影風格到「植物圖鑑」的創作,歷經急性酒精中毒導致的失憶,最終成為如純粹攝影機般,持續記錄現實的偉大攝影家——這樣的神話。或者,被視為投入與「風景」之間一場注定無法獲勝(同時也無法完全敗北)的戰鬥之中、悲劇又英雄的攝影家——這種浪漫化的想像。如果將中平對風景不斷切裂的苦行姿態加以通俗化,那他也可能被歸類為「一位不斷逃離陳腔濫調表現的攝影家」,成為另一種陳腔濫調。
然而,這些不安終究只是杞人憂天。毫無諷刺地說,在展場中,我一張也沒有看到能被稱為「如實記錄現實」的照片,也幾乎沒有見到任何企圖偽裝那類影像的展示設計。映入眼簾的,是龐大的風景殘骸——中平所切裂、撕成破布的風景面紗的碎片,有的作為「作品」,有的則作為「資料」或「記錄」呈現。

之所以產生這樣的印象,是因為展場中陳列的,多半並非強調藝術品獨一性與原真性的底片或原始印刷品,而是刊登於雜誌或書籍封面、裝置藝術的記錄照片等——這些反而強調攝影為複製技術媒介之性質的物品。其中甚至包含了一些在二手書店或拍賣網站上仍可購得的資料(雖然可能價格偏高)。這些大量生產的媒體,有些甚至原本就不以長期保存為前提,有的會被隨意翻閱、塗鴉、裁剪。借用電影與電視研究者保羅・格雷因奇(Paul Grainge)的用語,這類媒介可稱為「短暫媒體(Ephemeral Media)」。
“Ephemeral”這個詞原意是短暫、稍縱即逝,在媒體研究中還帶有邊緣性、一次性與可拋棄性等含義。或者,為了更進一步強調這些短暫媒體雖薄弱但仍具有物質性的特質,也許應採用電影與媒體研究者阿梅莉・海斯蒂(Amelie Hastie)提出的「殘骸(Detritus)」概念——原意為「碎片」或「有機堆積物」*。
將中平的照片視為「風景的殘骸」,其意義之一在於,將這些影像作為過去實踐過程中所產生的副產物或廢棄物來對待,有助於避免過度神話化與理想化,同時分析當時人們所處的「權力=風景」的動態樣貌,以及對其各種抵抗實踐的方式。
中平經常選擇以偽裝成他所刊登媒體的方式呈現自己的攝影。舉例來說,在名為〈囚禁之旅〉的報導中,他在看似觀光地的照片角落加上說明文字,例如「就像DISCOVER JAPAN海報中那樣的摩登打扮」、「再次不斷拍攝證據照片,反覆獲得安心」等,對觀光客的視線加以諷刺。
表面上看來,這與中平自己曾批判攝影被用作語言插圖的言論似乎相互矛盾,但他並不執著於原則與主張的一貫性,而是優先因應「權力=風景」每次變形後的樣貌,展開如游擊戰般的實踐——偽裝成敵人、寄生於敵人體內,從內部動搖、破壞之。
特別是當他偽裝成雜誌等短暫媒體時,實際上是在拒絕讓自己的攝影成為具永恆價值的紀念碑,而是鼓勵觀者將這些影像作為暫時性文獻,使用一次即丟,最好在它們凝固成「風景」之前就丟棄。
引入「殘骸」概念的另一個意義,是透過強調攝影的物質性,使本應是個人且僅一次性的風景經驗、或原本抽象且無形的權力得以具體化,從而能夠被收集、組合、改造與破壞。即便只是殘骸,中平的照片也非歸於虛無,而是作為具有短暫物質性的「物」留存至今。若非如此,我們便無從得知中平過去所身處的「權力=風景」為何,也無從理解他進行了怎樣的抵抗。
透過觀看那些具實體的照片——重複翻閱、塗鴉以創造新風景、收集後並列於桌上仔細比較、依時間順序排列來追蹤權力變化的樣貌——我們便能嘗試想像那些殘骸出現之前的風景原貌,或構想出與既有風景不同的風景。透過這樣的「接觸」體驗,我們不只是以知識方式理解歷史,而是以身體實感,體會自過去至今那層層堆積的歷史厚度。這些「風景的殘骸」所堆砌而成的土壤,正是我們當下觀看世界的視角與新風景之所以能構築其上的基礎。
*在這裡,也讓人聯想到阿梅莉・海斯蒂(Amelie Hastie)為說明「殘骸(Detritus)」概念而舉的便利貼(Post-it)例子。便利貼是用來記下靈光一閃或備忘的東西,當完成其功能後就會被丟棄,具備短暫媒體的特性。然而,海斯蒂也關注於便利貼上遺留的無數思考碎片——這些片段如何被解釋、翻譯、拼接,最終形成一個完整的想法或概念。媒體研究中的「殘骸」亦同樣如此:它們是某種經驗或記憶所留下的知識碎片,透過蒐集、組合與銜接這些碎片,我們得以重建它們在變為殘骸之前的樣貌,以及使用這些媒體的經驗歷程。 出處:Hastie, op. cit. p.171.
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2025年1月26日(日)

三重県紀北町・奥川ファームから隔週に届く定期便、今回も平飼い有精卵(30個)・特別栽培米(5kg)・畑無農薬野菜・手作りパン・地鶏・手打十割蕎麦が届いた。大きな白菜が入っていたので、明日は鍋にしていただこう。手打蕎麦、冷凍保存したものを1把ずつ解凍して朝食にいただく。糖質制限のためにそば湯は我慢しているが、冬の寒い朝などネギと天かすを利かせて熱い汁でいただくと体が温まる。奥川さん、いつもありがとうございます!

5時30分起床。
洗濯開始。
朝食準備。

朝食は温かい蕎麦・野菜あれこれ・フルーツとヨーグルト・牛乳。
洗濯物を干す。
珈琲をいれる。
露の新治師匠から着信、今日午後の落語会のネタについて、配慮ご無用と返事する。
奥川ファームから定期便、蕎麦は冷凍庫へ、タマゴは冷蔵庫へ。大きな白菜があるので、明日の夕飯は鍋に決定。
早めのランチは辛ラーメン+残りご飯、バスで阪急桂駅、天下茶屋行き準急で日本橋、地下鉄千日前線に乗り換えて鶴橋まで。

今日は<先発完投型落語会〜露の新治の巻〜>、鶴橋駅から徒歩2分程度の会場は細長いビルの6階、折しも国際女子マラソン開催中、ヘリコプターの音がけたたましいが、一席目のマクラの途中で収まってホッとする。「狼講釈」「風呂敷」「柳田格之進」の三席、久しぶりの柳田が秀逸、ディテールの説明が丁寧、登場人物のキャラクターがとても克明な描写で素晴らしい。
終演後は<茶話会>とのことだったが、お先に失礼する。
いつも通り、阪急桂駅の<御膳>で揚げ物購入して帰宅する。

鶏の唐揚げ・竜田揚げ・イカの磯辺揚げ、残りもののイカの天ぷらにレタスとトマト、キュウリのぬか漬け、干し芋。
録画番組視聴。
サラメシ(32)福岡・真夜中のごみ収集▽テレメシ▽三重・ラッコ飼育員
初回放送日:2025年1月23日 真夜中に家庭ごみの収集が行われる福岡市。深夜、ごみ収集車が出発し作業員たちがごみを収集していく。サラメシタイムは休憩時間に車の席で。真夜中のサラメシで選ぶ食事は?▽テレワーク中のランチにお邪魔する「テレメシ」。オフィスは東京、でも自宅がある三重県で週5日在宅勤務という男性のサラメシ▽三重の鳥羽水族館で40年以上ラッコを飼育してきたベテラン飼育員。昼のサラメシタイムも気になるのは…。
男はつらいよ 葛飾立志篇 公開日:昭和50年12月27日 / 上映時間:100分
寅さんを訪ねた女学生・最上順子(桜田淳子)は、もしや寅さんが実父ではないかと、さくらたちを困惑させる。ひと騒動あって、寅さんはまたもや旅の人。その間に、御前様の親戚の大学助手の筧礼子(樫山文枝)がとらやに下宿することになる。柴又に戻ってきた寅さんは、俄然向学心に燃え、礼子が家庭教師となる。伊達眼鏡をかけて猛勉強する寅さんは、やがて礼子の恩師・田所教授(小林桂樹)と意気投合する。その田所は礼子に思慕を寄せていた… 寅さんが決然と「己を知るために」学問を志す。その動機はなんと、美しきマドンナという不謹慎さ。喫茶店で寅さんが初対面の礼子に「何のために学問をするのか?」と質問をするが、それは旅先で出会った僧侶(大滝秀治)の言葉を鵜呑みにしたもの。マドンナに樫山文枝を迎え、映画やテレビの『日本沈没』で地震学者を演じていた小林桂樹が、役名も同じ田所先生として登場! 巻頭で寅さんを「瞼の父かも?」と、訪ねてくるのは、人気アイドルだった桜田淳子。
片付け、入浴、体重は50g増。
パジャマに着替え、ホワイトホースのハイボール舐めながら日誌書く。

明日は有休取得、原稿執筆再開するのだ。
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(3/26追記) たくさん見ていただいてありがとうございます。事前準備は大変でしたが、それでも現地で苦労したこともありました。しかし、それを上回る食事の良さと観光地の壮大さが味わえました。中国は怖い、と思ってる人も多くいると思いますが、現地で言葉がわからず苦労している我々に一生懸命手を差し伸べようとしてくる親切な人も数多くいたことをお伝えしておきます。 ・3世代の続柄がよくわからない →増田を起点に母、増田、子の3世代です。修正しました。 ・ホテルの値段を知りたい →追記しました。日本のHilton系よりも安いと思う。 ・中国プリペイドSIMはLINE使える? →使えます。Google/Facebook/Xも問題なしでした。 ・スマホないと無理レベル? →旅行者は無理だと思う。ただ同行者全員がこの準備をする必要はない。今回は大人数でタクシー2台移動もあるため、増田夫婦2人がWeChat PayとAlipayを準備しておいた。(DiDiで2台同時に呼べない) ・Trip.com、タクシーに関する情報を追記 以下本文 -------------------- 2025年3月に増田母/義母(後期高齢者)、増田夫婦(アラフィフ)、増田子(未成年)の3世代で中国北京に5泊6日で旅行してきた。事前にネットで情報収集したが、ガイドブック含めて日本語でアクセスできる最新情報が少なく苦労したので、誰かの役に立つことを願って備忘録として記載しておく。 目次 ・事前準備 ・ホテルの予約 ・交通状況 ・観光地(次回) ・食事(次回) 事前準備 ・中国電話番号付きSIMカード(プリペイド)の契約 WeChat Pay、AliPayは日本の携帯電話番号でも登録して、支払いのアクティベーションまで完了することはできるが、DiDiの利用や故宮の予約などを考えると中国電話番号が欲しいと思い契約した。私が契約したのはamazonでも売っているChina UnicomのeSIM「中国電話番号付きシーズンSIM」。中国本土だけでなく日本でも中国電話番号宛てのSMSが受信できるところがミソで、このおかげでBaiduのアカウントも作成できたし、故宮の予約も日本で取得できた。 90日間有効でデータ容量は6GBだが、1週間程度の旅行であれば十分かと思う。足りなければチャージ&期間延長できる。GoogleのサービスやLINEも使えた。今回宿泊したHilton系ホテルのWiFiでもLINEなどは制限されていて利用できなかったのでこれがあってよかった。 私のスマホ(Google Pixel 8 Pro)は物理SIM利用なので、このeSIMを追加して2本差し状態にしておけば現地で特に何もすることなくすぐに使える。 ・WeChat(微信)とAlipay(支付宝) 支払いはこの2つのアプリをそれぞれインストールしておき、アカウント登録(要パスポート)とクレジットカード紐づけまでを日本で完了させておく。ほとんどの店でどちらも使うことができるが、バックアップ用として両方ともが望ましい。紐づけるクレジットカードは別会社にしておくと更に良い。私は旅行中にAMEXに不正利用確認として2度止められてWeChat Payが利用できなくなり、JCBを紐づけたAlipayで支払って難を逃れたことがあった。 支払いだけでなく、それぞれのアプリからミニプログラムを起動して故宮などの観光地の予約やDiDiでのタクシー配車をするので、これがないと何も始まらない。逆に現金はまったく不要だった。今回の旅行では中国元への両替を行わずにすべての観光ができたし、なんなら硬貨、紙幣含めて使われているのを見てもいない。 ・百度地図 Google Mapは中国だとまったく役に立たない(地図の内容と位置情報が合っていない)ので、百度地図か高徳地図のいずれかを使わないといけない。私は百度地図しか使わなかったので高徳地図のことはわからない。百度地図が使いやすいか?と言うとそんなことはなく、中国語以外の言語は選択できないのでGoogleレンズの翻訳とにらめっこしながら後は慣れで乗り切るしかない。また、Baiduアカウントがないと地点の「お気に入り登録」ができず、Baiduアカウントは中国の電話番号がないと作成できないという問題もある。今回は日本でもSMS受信可能な中国電話番号付きSIMを購入したのでBaiduアカウントの作成に成功し、Google Mapに近い感じで利用することができた。 なお、Google Mapでホテルの場所を確認するとまったく別の場所を表示されるので自力で行こうとするとホテルにたどり着けない可能性もある。ホテルの場所は百度地図で確認しておくとよい。 ・Trip.com 中国国内の高速鉄道が予約できる。Web版もあるがアプリを入れた。今回は雲崗石窟(大同南)と万里の長城(八達嶺長城)の往復2回、高速鉄道に乗ったが、GUIもわかりやすく日本語表示可能なのであまり苦労しないで列車予約できると思う。思ったより発券手数料がかかるが他に選択肢がないのでどうしようもない。 (追記)利用登録にはパスポートが必要。また同行者のチケットを購入するときも同乗者のパスポート情報が必要なので、何度も購入するのであれば事前に同行者情報を登録しておくと便利。あと、1回の発券では5人分までしか購入できない。今回の旅は大人数のため2回に分けて購入が必要だった。 ホテルの予約 私はHilton Honors会員なので、今回はHilton系しか調べていない宿泊していないので参考にならないと思う。HiltonのWebサイトから北京(Beijing)で調べていくと、ラグジュアリー系のウォルドルフ・アストリア、コンラッドから、ヒルトン、ダブルツリーのアッパー系、アッパーミドルのHilton Garden Inn、Hamptonなど10個以上が見つかる。後述するように地下鉄が安く、タクシーが便利で安いので、ものすごく辺鄙な場所でなければ、あとは予算や志向に合わせて決めれば良いと思う。 今回の旅は、Hilton Garden Inn Beijing Guomaoに3泊、Conrad Beijingに2泊した。北京市内でホテルをはしごするのは面倒ではあったが、アッパーミドル→ラグジュアリーとグレードアップすることで終わりの印象がよい旅になったと思う。 Hilton Garden Inn Beijing Guomao(北京国貿希尓頓花園酒店) 2025年3月上旬に開業(おそらくHiltonブランドへの変更リニューアルと思う)したばかりだったので、設備も新しくキレイだった。トイレもウォシュレット完備だが、バスタブはなくシャワーのみ。朝食ビュッフェ(60元/人)、無料ランドリー、トレーニングマシン室もあるので、長期滞在でもリーズナブルかつ便利に過ごせると思う。スタッフはごく一部しか英語を話せないが、一生懸命理解しようとしてくれるし、日本人ならではとして漢字で筆談できるのでなんとかなる。最寄り駅は国貿(Guomao)ではなく永安里から徒歩5分ちょっと。永安里は1路線(地鉄1号線)のみだが天安門や王府井から3〜4駅と近く拠点としても優秀な部類だと思う。レストランの併設はないが近くに四川料理店があるのと、DiDi呼んで食べに行けばよいので困らない。 (追記)3部屋3泊で約7,700元(朝食付き)だったので、1部屋(2人ないし3人まで宿泊可)の1泊分は約18,000円。 Conrad Beijing(北京康莱德酒店) Hilton系列のラグジュアリークラスだが、繁華街の王府井にあるHilton Hotel やウォルドルフ・アストリアに比べたら安価。ラグジュアリーではあるが2013年開業なので設備はあまり新しくない。トイレもウォシュレットはなかった。シャワー室のほかバスタブが窓際にセパレートであるのでゆったりと過ごせる。地下にプールがあるらしいが今回は行かなかったので不明。朝食はさすがの高級ホテルのビュッフェという感じ。上記のHilton Garden Innも悪くなかったが、比べてみると種類、質とも圧倒的。あと市街観光していても西洋系、アラブ系の外国人をほとんど見ることはなかったが、Conradにはいっぱいいた。みなさん、ここにいたのね。 (追記)3部屋3泊で1部屋はエクストラベッド追加で約11,000元(朝食付き)だったので、こちらは1部屋1泊分は約38,500円。 交通状況 ・Beijing PASS いわゆるSuica/PASMOと同じような非接触型のチャージ式切符であり、ガイドブック等を読んだ限りでは便利そうだと思い空港で購入したが、買う必要はなかったなと思う。人数も多かったのでいちいち1枚ずつチャージするより、切符を券売機でまとめて購入するほうが楽だったので、チャージが切れたあとは使っていない。少人数で地下鉄中心で移動する場合は購入してもよいかもだが、WeChat PayやAlipayで直接改札で支払い可能なので、個人旅行だとやっぱり不要。 ・地下鉄(地鉄) ものすごく地下鉄網が発達していて南北東西に走る線路のほか、環状線が大小あり至る所で乗換駅がある感じ。そして安い。初乗りは3元からで乗換含めて40〜50分地下鉄で移動しても6元とか。お金はあまり使いたくないが体力がある人には地下鉄がおすすめ。ただ、古い路線(1号線とか2号線)はエレベータどころかエスカレータもなく、年寄や足が悪い人には向かない。タクシーも日本に比べてずっと安いので、体力に自信のない人はタクシーを活用したほうが良い。私たちは朝は地下鉄で目的地まで行って、その後は無理をせずタクシーを使って移動していた。あと、だいたいどんな駅でも入口でセキュリティチェックを受ける。 ・タクシー 日本だとタクシー配車アプリを使ったことはほとんどないが、中国ではDiDiというアプリ一択の状況。WeChat、AlipayのそれぞれのアプリからミニプログラムとしてDiDiが起動できるので、DiDiアプリをダウンロードしておく必要もない。使い方は英語画面だが直感でなんとかなる。自分の位置情報が表示されるので”Where to go”から行きたいところを検索して指定して、どのクラスの車を呼ぶか(複数選択可)を選べば、あとは数秒で自動でマッチングして自分の居場所まで来てくれる。アプリには車のナンバーだけでなく、メーカーや車種なども表示される(されない場合もある)し、どこから向かってるかなどの位置情報もわかるので、あ、あれかも?とナンバーが見えなくてもなんとなくわかる。車が来ているのにこちらが見つけられないと、SMSや電話がかかってくる場合もあるが、中国語が話せないとわかると向こうからキャンセルされる。その場合は、落ち着いてもう一度配車申し込みすればよい。 値段は20kmぐらい移動しても50元(1,000円)いかないぐらい。中心部にある観光地から周縁部のホテルに戻るぐらいの距離なら20〜30元でいける。3人旅であれば地下鉄よりもちょっと高いぐらいで楽々移動できる。 (追記)空港や主要駅などでは、タクシー(白タクではない正規のもの)も客待ちしている。DiDi配車の待ち合わせスペースに行こうとすると必ずタクシーの運ちゃんの客引きに合う。彼らは私が”I can't speak Chinese”と言ってもお構いなしにずっと声がけしてきてつきまとってくるので、かなりうざい。 声がけには白タクの人も混じってくるので無視するに限るが、正規のタクシーで目的地が有名どころではっきりしていれば特に問題ないと思う。 DiDiは目的の車が来たら自分で助手席を開けて、自分の携帯電話番号の下4桁を運転手に伝えることで確認完了となる。WeChat PayやAlipayに登録した番号がそのままDiDiに連携される仕組み。増田は中国SIMの電話番号に登録変更していたのでそっちを伝える。英語だと通じないことがあるので、そこだけは中国語の数字を覚えるか、紙に書いて見せるのでもよい。数字は麻雀知ってる人はそんなに苦にならないと思う。リン、イー、アル、サン、スー、ウー、リュウ、チー、バー、ジュウなので、0834なら「リン・バー・サン・スー」とはっきり言えば伝わらないことはなかった。 ・高速鉄道(高鉄) 長距離移動の場合は、高速鉄道(新幹線)を使う。北京にはいくつかの高速鉄道駅があるが、今回は北京北駅と清河駅の2つしか使っていないので、それ以外はよくわからない。パリやロンドンと同じく行き先別で駅を使い分ける感じなんだと思う。(東京は東京駅に行けばどこにでも行けるのと対照的だ) そして高速鉄道駅はものすごくでかい。庇のついた巨大な駅舎で内部も余裕があり、こんなに大きくする必要もないだろうと思うが、中国の人口を考えると繁忙期には激混みするのかもしれない。 チケットの購入はTrip.comで行った。他に方法があるのかは不明だが、日本語表示可能で直感的に使えるGUIなので発券手数料高くても不満はない。チケットの予約は2週間前から可能だが、それ以前から購入予約をすることができる。春節などの繁忙期は列車が満員になることもあるらしい。 座席は1等席、2等席のほか、ビジネス席やファミリー席などがある列車もある。1等席以上は座席数も少ないので希望する場合は早めに予約を。あと1等席は飲み物(今回の旅では”お湯”だった)とスナックがついた。 (追記)セキュリティチェックも厳重で駅の建物に入るとき、出発待ちの待合室に入るときの2回のチェックがある。
2025年3月北京旅行備忘録
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ザーヒーのいちばん長い日~ハムちゃんはもっと長かった日~
令和七年のはじめ、小春日和の陽気が消えようとしている夕方に息子(ハード上男児であるため、特段上の理由がない限り、以降もそう表記する。なお、この文章の時間軸上においては胎児として存在している場合も同様に表記する)が生まれた。
あっけなくすとんと、というわけには全然いかなかったので、ひとりの新米父親として、ざっとレポートしようと思う。
まず、いくつか、前提としてここまでのハムちゃんの情報を書いておく必要がある。
ハムちゃんは結局37週に入って妊娠高血圧で入院し、そのまま2週間近く入院していた。入院時に子宮口が1センチ開いていたが、そこからあまり伸びず、2週間かかってようやく3センチ弱だったので、ラミナリアという棒状の海綿のようなものを挿入され、子宮口を拡げる処置をされた。そういう処置があるかもしれないとは最初に説明があったものの、いつまでにどういう条件だったらそうなるのかがわからないまま突然処置をされ、ハムちゃんはたいそうショックを受けたし、実のところおれも病院の説明体制にかなり疑問を持ったところだった。
ただ、結局その処置によってその日の深夜に子宮口5センチまで拡がったため、ラミナリアを抜いて、LDRという陣痛を耐えて分娩を行う部屋に通された。ちなみに、ここに入れる部外者は立ち会い研修を受けた配偶者、つまり夫であるおれだけである。
そういうわけでハムちゃん本人からLDRに向かうよう指示されたわけだが、時刻はちょうど零時をまわったところで、ハムちゃんのいる病院までの交通機関などあるわけがなく、タクシーを使わざるを得なかった。さすがのおれも歩いて1時間以上かけて向かうほどの無鉄砲なことをやっている場合じゃないと思ったので、必要そうな装備(ゼリー飲料とか、カロリーメイトとか)をあらかたそろえてアプリでタクシーを呼んだ。
タクシーの運転手はかなり若いギャルっぽい人で、5人乗りのでかめのタク��ーを軽々と乗りこなしながら、病院まで淡々と乗せてくれた。実を言うと、身近でよしおより運転が巧いひとを知らないし、運転技術で言えばよしおはたいていのタクシードライバーにもひけをとらないだろうと思ってはいるが、さすがにこのギャルドライバーはよしおより巧いんじゃないかと思った。ごく普通のタクシー用ワゴンでよしお号と同レベルの乗り心地なのかなりすげえと思うんだよな。そんなわけでアプリでチップを送ってあげた。
LDRに到着するとハムちゃんは分娩用の病院着になっていて、分娩台もかねるベッドに寝かされていた。すでに陣痛は来始めていてしんどそうだった。ブレスを深く吐いて陣痛を逃がそうとしていた。ハムちゃんいわく、寝れはしないけど知らない痛みじゃないし、全然耐えられるとのこと。おれはそこで少し安心したのを覚えている。
なお、おれたちは、このときのハムちゃんの痛みが「陣痛」ではなく、いわゆる前駆陣痛の大きいやつ程度のものであったことをあとで知ることになるわけだが、もちろん今、この時点ではそんなことは知るよしもなかった旨付け加えておく。
どちらにせよ、子宮口が全開、つまり10センチ開大しないことには分娩ができないので、それまでは子宮口を拡げるためにどうにか陣痛を耐えていかなければならず、このLDRという部屋はまさに「赤ちゃんが出てくるまで出られない部屋」そのものであった。
もっとも、おれは医療的な管理が全く必要のない、いわゆる面会者扱いの人間なので、例えば病院の中にある売店とかでおにぎりやお茶を買うことはふつうにできる。明け方くらいまでは陣痛は5分おきから10分おきを前後しており、かなり余裕があったので、隙を見て売店に行ったり、トイレにいったりできた。また、翌朝の診察で子宮口の進捗がいまひとつであった場合、陣痛誘発剤を打っていくという説明も受けていたので、陣痛タイマーでその間隔をつぶさに観測していた。
ハムちゃんが臨月にさしかかる頃から、なんとなく、おれは「息子が異次元空間から自分でロケットを組み立てて、それに乗って脱出することでこの世に登場する」ようなイメージをもっていた。ロケットに点火され、強烈な噴射とともに、(概念上の)息子が生きていた次元から離れた状態がハムちゃんに陣痛を起こさせているようなイメージである。オンラインの両親セミナーで、「赤ちゃんも頭蓋骨を折り畳んだりして狭い中出てくるから、赤ちゃんも相当頑張っているんですよ」みたいな話を聞いたときから、なんとなく頭に浮かんでいた。ロケットの推進力に身体を押されるような理不尽な苦しみを受けながら、ようやく住み慣れた異次元空間を旅立つ息子の心細さを思った結果のように思う。
しかし、この陣痛(正確に言えば前駆陣痛であるがおれたちにとってはどっちも陣痛だと思っているので以降同様に表記する)に耐えるため、ハムちゃんの腰をさすったり、痛いところを懐炉を包んだ手ぬぐいで温めてあげたりしながら、イメージがちょっとずつ変わってきた。ロケットはどうにも始まりが急で、しかも着地点がわかっているような感じがする。今のこれは予想していたものよりもずっとおだやかで(もっとも、これは本陣痛ではなく、あくまで前駆陣痛の域を出ないものだったのでおだやかなのは当たり前なのだが)、ただ波が無数に来ていて、終わりが確実にあるのはわかっているが、肝心のそれがいつ、どのような形でくるのかわからない。さらにいえば、ハムちゃんはそういった「終わりがわからない」ものに対して非常にネガティブな感情を抱きやすく、実際に朝の時点ですでにその際限のなさに心が折れかけていた。ハムちゃんの子宮に息子が宿ってから、実際に出てくるまでおれができることは、ハムちゃんが無事に息子を産みだすために支えつづけることだけなので、少しイメージを変えてみようと思った。息子が会いに来るわけではなくて、おれたちが息子に会いに行くと考えよう。おれたちが鈍行列車に乗って、息子のいる終点まで迎えにいく。例えば、熱海から浜松までを走っている東海道線の鈍行を想像する。青春18きっぱーたちにはおなじみであるが、鈍行列車で東海道・山陽本線を移動するとき、乗っている列車がどこまで行くのかいちばんわからなくなるのがその辺で、とにかくそれなりの間隔で駅がある割に長距離なので、どこまで走るのかが全くわからないが、ずっと乗っていればいつかは終点にたどり着くだろうと思って乗っている、あの感覚を思い出したかったし、ハムちゃんに伝えたかった。つまり、「今を耐えて次の駅に向かいつづければ、必ず終点にたどり着く」というイメージを共有したかったのである。ハムちゃんはおれが鉄道好きだということを知っているから、そういうことにしようと言ってくれた。
結果的に、子宮口はそこからあまり開かず、朝9時ごろから誘発剤の点滴が始まった。徐々に点滴量を多くしていき、量を調節していくとのことで、NSTという、子宮の張り具合や息子の心拍を確認するためのモニターをつながれ、ハムちゃんはだいぶ身体の自由度が下がった。許可なく分娩台からは降りられず、トイレに行くのもナースコールが必要になった。
誘発剤を投与しても、陣痛の波はあまり安定せず、10分おきになることもあれば、3分くらいでやってくることもあった。ただ、おれから見ると、ハムちゃんは徐々に苦しそうな仕草をすることが増えてきたので、おそらくではあるが痛みは増えてきているだろうと思った。
陣痛というものは波があって、非常に痛い時間と、痛みが引く時間が交互にくるのが正常な陣痛らしい。ただ、おそらくは誘発剤の影響か、昼に近づくにつれて痛みは増え、その波もかなり不規則になってきていた。ひど��ときには波がきて、その痛みが引ききらないうちに次の波がくるような、痛みの無間地獄のような時間もあり、ハムちゃんはかなり消耗していった。誘発剤の量もそういった経緯をたどり増やしたり減らしたりしながら調整していったが、肝心の子宮口が5センチから進んでおらず(診断としては非常にゆっくり進んではいる、とのことではあったが)、結果だけみるとおれが入ってから12時間で、子宮口は1センチ程度しか拡がらなかった。
この時点でおれは、自分の予想がいかに軽いものであったかを痛感し始めていた。正直な話、ハムちゃんは、管理入院こそしてはいたものの、栄養管理やもともとの体質、これまでの検診の結果から考えてもお産のリスクが高いとは思えず、むしろ、陣痛さえきてしまえば意外とすぐに産まれるんじゃないかとすら思っていたのである。ハムちゃんはもとより、おれもかなり体力を消耗しはじめていた。なにしろ売店までモノを買いにいけるような暇はなく、ひたすらハムちゃんの背中をさすったり、臀部や会陰を圧迫したりしていきみ逃しをしたり、アクティブチェアという、陣痛を呼び込んだりするための椅子に座ってもらったり、いろいろな方法でとにかく痛みに耐えながら子宮口を開くための努力をし続けた。
午後3時くらいになって、子宮口が7センチくらいまで拡がった頃、それはやってきた。
ハムちゃんが「あああああああああああああ」と絶叫し始めた。もう叫ばないとやってられないくらいの痛みになっていて、息を長く吐くためにあえて声を使うことにしたらしい。
いきみ逃しのために会陰を思い切り拳で圧迫したとき、明らかに息子の頭部であろうものと触れた。相当な力だった。元来腕の筋肉がつきにくく胴の割に異常に細い腕であることでおなじみのザーヒーくんであるが、まさか産まれる前の息子の頭にすら押し負けそうになるとは思わず、少し情けなくなった。また、この作業をすでに何十回何百回とくり返しているので二の腕が限界に近づいていた。その様子を見ていたハムちゃんが、別件で訪れた助産師さんに「夫が限界です」とこぼすくらいにおれの表情はひどかったらしい。助産師さんは笑いもせずビニール袋に包まれたテニスボールを差し出して「これで押して」と言って去った。出産なめてんじゃねえぞ、と言われた気分だったが、実際におれが出産をなめていたことは(残念ながら)事実であったし、なにしろ痛みに絶叫するハムちゃんが「押せえええええええええええ」というのだからやることはひとつである。テニスボールを装備して押し込んでやるしかない。
おれはハムちゃんの絶叫に負けじと「うおおおおおおおおおお」と声を張り上げ、ハムちゃんの会陰にテニスボールを押し込みつづけた。LDRの外にも響いていたかもしれないが、助産師さんに聞かれて恥じることはないと思っていた。おれとハムちゃんは大学の合唱団の先輩と後輩、もっといえばおれはベースの一番端でハムちゃんはソプラノの一番端という組み合わせである。現役時代共演した定期演奏会はたったの一度であるが、その一度の両翼を担った夫婦ということになる。だから一定の声量と呼吸の質を長時間維持することにかけてそこそこの自信があったし、なによりとにかく陣痛を耐えるためには息を長く吐き続けることが重要だと助産師さんたちから耳にたこができるほど聞かされていたので、声があろうがなかろうが息を吐き続けて耐えることが重要で、おれはハムちゃんがそうできるように積極的にアシストすることが最重要課題だったから、恥もへったくれもなかった。
おれが、文字通り全身全霊で息子の頭と力(と体力)比べを重ねる様は端からみたら滑稽そのものかもしれないが、この時、たしかに、おれのなかに入っていた「父親になること」に対する、よどんだ邪念のようなものが消えた。出ようとしている「もの」はどう考えてもこれまでハムちゃんのおなかで動き回っていた「奴」そのものだったし、おれはどうやったってその父親であるのだ。その事実は、おれや息子がいつ何時どう思おうがもはや覆らない。であるならば、もうこいつを「息子」にしてやるほかないのだ。おれにとって最も大切なのは自分ではなくハムちゃんなのであるが、そのハムちゃんが今まさに産み出そうとしているこいつも、今まさにおれの「息子」として産み出されようとしていて、おそらくはハムちゃんの最も大切なものになろうとしている。そういう意味で、おれはふたりが今築こうとしている強固な関係性の中に入れないことを実感した。けれども、入れないからこそ、ここで踏ん張って二人を助けてやらねばならない。そんな思いがよぎった。ここでこいつに負けるということは、最悪の場合ハムちゃんの子宮が圧力に負けて裂けてしまい、ハムちゃんはもちろん息子も死んでしまう。だからおれは必死にテニスボールでハムちゃん越しにこいつの頭を押さえ続けた。
こうして本物の陣痛と格闘していくうち、明確な波をお互い察知できるようになり、陣痛がおさまっている間にハムちゃんにペットボトルを渡し、ハムちゃんは力を抜ききって休むことに専念できるようになった。
猛烈な陣痛の波をどれくらい超えたかわからないうち、ハムちゃんが「破水したかも」と叫んだ。確かにそれらしい液体が出てきていたので、ナースコールして確かめてもらった。医師は破水は間違いないと告げたが、それでも子宮口は全開になっていない旨も告げた。「もうすぐだから」と言われても、あとどれくらいで全開になるのかわからずほんの少し呆然とした。とはいえ実際は呆然としている暇などなく、陣痛が来ればさっきと同じようにテニスボールでやつを押さえ込むしかなかった。最初に腰が限界になった。立て膝で押し込んだ。次に腕が限界になった。おれは両手を使うことにした。
「出る出る出る出る!」
ハムちゃんが叫んだ。今にも出てきそうだという。これは抑えるのは無理だと。すぐさまナースコールをして見てもらうと、全開になっていたらしく、すぐに分娩の準備が始まった。今まで1、2名くらいしか入室していなかったのが、4、5名の助産師、医師が入れ替わりたちかわり入ってきて、めいめいにガウンを着てビニールシートなどを用意していく。午後5時を過ぎ外が薄暗くなってきたので部屋の照明がつけられ眩しかった。これならわかる。終点が近づいてきたことが。
分娩台と化したベッドで両足を開き、分娩の態勢にしてもらった。おれは急に役目を終えてしまったのと、終点が近づいたことがわかったこと、急に眩しくなったことで涙がにじみ、全く前が見えなくなった。さりとて、ただ突っ立っているだけでは立ち会っている意味がない。おれはハムちゃんの頭に近づいて、扇風機をあててあげた。お産は医師や助産師といったプロが淡々と準備を進めていっているので何もする必要がないし、素人はかえって邪魔になるような雰囲気だった。
扇風機とペットボトルの麦茶、タオルをもって、常に扇風機の風をあて、喉が渇いてきたら麦茶を飲ませ、汗がにじめばタオルで拭いた。本当にそれくらいしかやることがなかった。
すぐ隣のLDRでは一足先にお産が進んでいて、遠くで新生児の産声があがった。元気そうだった。息子もそうなるといいな、と思ったことをよく覚えている。
何度か検診でお世話になった、若い産婦人科医がガウンを着て現れた。この病棟ではたぶん一番若い医者で、最初見たとき、多分おれより年下なんじゃねえかと思うような感じだったが、この時ばかりはそこそこの貫禄があるように思えた。ちなみにこの病院の産婦人科医は全員女性であるし、助産師も当然に全員女性であるうえ、なぜか若い人が多いものだから入る度におれは少しだけ居づらさを感じることがあった。
ハムちゃんは順調にいきみ続け、助産師にいいですよその調子と褒められながらお産を進めた。モニターを見ていた助産師がなんだか心配そうな表情で医師に耳打ちしているのが気になった。しばらくして、酸素配管とマスクが据え付けられた。どうやら、息子の心拍が落ち気味で、臍帯から酸素が十分にいっておらず、酸欠になっている可能性があるから、高濃度の酸素を吸入してもらって息子に酸素を送って欲しいとのことだった。ゆっくり深呼吸してくださいね、とマスクをはめた助産師が言った。ちょうどこの時、すぐ横を見慣れない男性医師が通り過ぎた。少し後に小児科医であることがわかった。この時点でおれは、どうもこのお産に「万一のこと」が起きる可能性があるらしいということを察知していたが、そんなことをハムちゃんに言えば、不安でお産が進まなくなってしまう(現に、この場の全員がそれをしていない)し、それをおれが「考えること」自体に、そうなる可能性を大きくしてしまう要素があるような気がして、考えないことにした。
ここまで読んでいただけばおわかりの通り、陣痛を耐え、分娩が始まったLDRは、これまでとはうってかわって相当数の人間が出入りしており、非常に混沌とした場になっていた。とにかく多くの医療者がいれかわりたちかわりおれたちの様子を見ていく。その中に、痩せぎすで赤い服を着たボブカットの医師がいた。産婦人科医たちのリーダーとなっている医師であり、明晰だが人間味が少し欠けたような言動が印象的で、おれたちは陰で「ボス」と呼んでいた医師である。ボスは担当医と二、三言会話すると別の現場へ行ったが、モニターとハムちゃんを少し注視したような気がした。いやな予感が頭をよぎった。
おれの予感とは逆に、ハムちゃんのお産は順調に進んでいるように思えた。ただ、徐々に現場の人数が増えていっており、最後には助産師が5、6人になっていた。いよいよというところで、ひとり恰幅のいい助産師が「もうちょっとだからお手伝いしますね」と言って���ハムちゃんのお腹を大きく押した。頭出ました、いきまなくていいですよ、と声が聞こえ、担当医が何かを引き上げた。この時、おれは現実に息子と対面した。担当医、助産師、小児科医がくちぐちに「でか」とぼやいた。確かに思っていたよりも大きかった。
この時、息子は産声をあげることなく身体が紫色で、おれが「予習」していた新生児の姿とは少し異なっていた。しかし、事前に別の(転院前の)クリニックで見せてもらった4Dエコーの顔そのものだったことに少し驚いた。ただ、とにかく息子に何らかの異変が起きていることは明らかで、おれは対面したことよりもそちらに感情が引っ張られてしまった。
小児科医は息子を用意していた装置に寝かせ、長い管を口に挿入し、液体をかきだしていた。おそらく羊水だろうと思った。それにより息子はようやく産声をあげた。隣で聞いたものよりずっとか細く、余計に心配になった。
心配といえば、ハムちゃんの方も、担当医が「ちょっと傷が出てきて出血が多いから縫合します」と言ってずっと糸で縫っているのも気になった。かなり長い。最初麻酔なしだったのが、痛み止めの点滴が入り、局所麻酔が入り、と規模が大きくなってきて、気がついた時には担当医の隣にボスがいて、ふたりがかりでハムちゃんの股を縫っていた。どうも出血している部分が非常に多かったようだ。
息子は徐々に血色を取りもどしていった。泣き声もだんだん大きくなり、ふつうの赤ちゃんになっていった。小児科医は口や鼻に小さな管を入れて何かを吸引したり、マスクを当てて口に何かを 吹き込んだりをくり返していた。そういった地道な処置によって、息子はようやく赤ちゃんたりえるようになるのか、と思った。
あとからわかったことだが、息子は3200グラム余りくらいの体重で産まれてきたが、これ自体はそこまで大きな身体ではなかったにせよ、医師たちの事前診断とかなり異なっており(これがぼやきの理由と思われる)、またハムちゃんの体格や初産婦であることを考えるとかなり「立派」な大きさであったことから、ハムちゃんの産道に想定以上に大きな負荷がかかり、ずたずたになっていたようだった。実際、ハムちゃんを縫っている時、ボスは「ずいぶん産道が狭いね、こりゃ大変だ」とぼやいていた。
息子の側に立てば、誘発剤でいきなり子宮を追い出されたかと思ったら狭い産道を通り抜けざるを得ず、ハムちゃんの懸命ないきみにもかかわらず、それでもなかなか酸素が行き渡らなくて苦しかったのだろうと思う。
縫合と息子の処置にだいぶ時間がかかり、息子が産まれてきたのは午後6時すぎだったが、息子がハムちゃんの胸に抱かれ初乳をあげる頃には午後7時を回っていた。
出てきた当初から感じていたが、息子の顔には「我が一族」の人間という面影が強くでている。どうやらみんなそう思うらしく、ここにいた助産師さんや何人かの友人はもとより、ハムちゃんやハリネズミ先生(注:ハムちゃんの母親。つまり義母)ですら父親(つまり、おれ)に似ていると評していた。もちろん、すべてがおれに似ているわけではなく、たとえば口元なんかはハムちゃんそっくりなわけであるが、全体としてやはり「我が一族」の風貌があるというのが不思議でしょうがなかった。
そこから夕食をとって片付けを始めて、これからのスケジュールの説明などを受け、LDRを出ることが出来たのは午後11時ごろであった。丸一日近くこの部屋にいたことにおれは驚いた。しかも、助産師さんたちいわく「相当な安産」の範疇に入るということにさらに驚かされた。
これで、おれのいちばん長い日は終わりである。いや、本当にいちばん長い日だったのかどうかはまだわからないが、少なくとも、この日がおれにとってそういう日であったことをここに書き記す。
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