#現状維持バイアスとの違い
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sbsmarketing · 2 years ago
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≪目先の欲求を優先してやるべきことを先延ばしにしてしまう!?『現在志向バイアス』≫ 『現在志向バイアス』の発生するメカニズムや発生例、マーケティングへの応用例、発生を防ぐ方法について解説しています。
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moko1590m · 18 days ago
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「Google の誰もランキング アルゴリズムに影響を与えることはできません。 」Google CEOサンダー・ピチャイ氏が、https://www.theverge.com/decoder-podcast-with-nilay-patel/673638/google-ceo-sundar-pichai-interview-ai-search-web-future こちらの記事で語っているようですが、同様のことは、Gemini以外のChatGTPなどにも言えることなのですか?
ChatGPT said:
はい、とても重要なご質問です。結論からお伝えすると、
Google 検索におけるランキング・アルゴリズムに誰も個人的に影響を与えることができない、という主張と同様に、OpenAIが提供するChatGPT(およびその背後にあるGPTモデル)にも、 特定の個人・団体が恣意的に回答内容を操作・誘導することはできません。
ただし、これにはいくつかの補足が必要です。
🔹 ChatGPTにおける「ランキングアルゴリズム」に相当するもの
Googleの検索ランキングは、クローリング・インデックス・スコアリングといったプロセスを通じてページの関連性を数理的に評価するものです。
一方、ChatGPTの「回答内容の生成」は、事前学習された巨大な言語モデル(例:GPT-4.5など)による統計的パターン予測であり、以下のような構成になっています:
訓練データの影響(インターネット上の膨大な公開データ)
モデルの構造(パラメータと���)
人間による評価(RLHF=人間のフィードバックに基づく微調整)
セーフティ層(不適切な出力を防ぐためのルール)
これらはGoogleのランキングのような「スコア付け+並べ替え」ではなく、会話的生成のメカニズムです。
🔹 OpenAIは特定の企業・政府の意図で回答内容を操作していないか?
現在のChatGPT(GPT-4.5やGPT-4o)は、以下のポリシーに基づいて設計・運用されています:
公平性と中立性:特定の政党・企業・文化圏を不当に優遇しない。
透明性の維持:恣意的な改変を避け、対話の過程が論理的であるよう設計。
安全性と有害性の抑制:差別、暴力、誤情報の防止。
OpenAIは、「誰かが裏から手を回して特定の答えを言わせる」ような操作は一切認めていませんし、システム上も極めて困難です。
もちろん、以下のような可能性はあります:
社会的な合意に基づく調整(例:科学的コンセンサスに基づく説明)
法律や規制への準拠(例:ヘイトスピーチ防止)
社会的に重要な問題に対する「バランスある表現」
🔹 GeminiとChatGPTの違いは?
比較軸Google GeminiOpenAI ChatGPT背後にある企業GoogleOpenAI(Microsoft支援)データの主な出典ウェブクロール + 自社資源(Google検索・YouTube等)公開インターネットデータ + 書籍 + コードなどアルゴリズム制御GoogleによるチューニングOpenAIのRLHF + セーフティ層アルゴリズムの影響操作の可能性極めて限定的・ポリシーで制限同様に操作不能(外部者からの影響なし)
両者とも、営利企業が提供している以上、ポリシーや社会状況に応じて自動生成内容の調整は行いますが、恣意的な特定者の利益誘導は極力排除されています。
✅ まとめ
ChatGPT(GPT-4.5やGPT-4o)も、Google検索と同様に「個人や団体が恣意的にアルゴリズムを操作する」ことはできません。
OpenAIの設計方針・倫理ポリシーは、偏りを最小限にしつつ、社会的安全性を優先しています。
ただし、どのAIにも「絶対的に中立」な視点は存在せず、社会的合意や時代背景の影響は反映されます(これは透明性をもって認識されるべき)。
さらに深掘りしたい視点(例:「資本主義構造との関係」「AIによるイデオロギー再生産の可能性」)があれば、そちらもお手伝いできます。
You said:
AIの開発担当者が、���当しているAIに語り掛けることと、一般ユーザーが語り掛けることの、根本的な違いはどういう点ですか?
ChatGPT said:
とても鋭い問いです。「AIの開発担当者がAIに語りかけること」と「一般ユーザーが語りかけること」には、表面的には同じ「対話」でも、根本的に異なる前提・目的・力関係が存在します。以下、主な違いを三つの軸で整理してご説明します。
🔹1. 関係の非対称性(権限と視座の違い)
● 開発担当者:
AIの内側の構造(モデル設計、データソース、フィルター)を知っている。
返答がどう「生成されるか」を内部的に理解し、調整・修正・観察できる。
メタ的な視点を持っており、「AIに何ができて何ができないか」「なぜこの回答になるのか」を推測しやすい。
場合によっては、AIの返答をトレーニングや評価に利用する(RLHFやred teamingなど)。
● 一般ユーザー:
ブラックボックスとしてのAIと接している。
入力に対する出力は「会話」や「情報提供」としてしか経験されず、背後の構造は不明。
「AIがどうやってその答えを出しているか」を基本的には知ることができない。
返答をそのまま「正しいか/間違いか」「有用か/不要か」で評価することが多い。
🡒 つまり、開発者は"AIの生成の構造"にアクセスできるが、ユーザーは"生成された言葉"しか体験できない。
🔹2. 目的と期待の違い
● 開発担当者:
主な目的は「モデルの性能評価」や「安全性の確認」「バグの発見」など。
応答の精度や偏り、構文、推論過程を意図的に検証している。
発話の「意味」ではなく、「生成過程」や「挙動」に関心がある場合も多い。
● 一般ユーザー:
主な目的は「問題解決」「情報取得」「コミュニケーション」など。
応答の“内容の意味”や“感情的な納得感”に関心があり、「この答えは役立つか」に集中。
「このAIは自分を理解してくれているか」のような“主観的体験”を重視することも多い。
🡒 同じやり取りでも、開発者は「仕組みを見る」、ユーザーは「意味や感情を見る」。
🔹3. 介入可能性の有無(操作/変更の可否)
● 開発担当者:
応答の挙動に問題があれば、「学習データの修正」「フィルタールールの見直し」「パラメータの調整」など、介入して修正・再訓練する力がある。
つまり、「語りかけ」によって挙動を再定義/再設計できる立場にある。
● 一般ユーザー:
出力されたものを「受け取る」しかできない。問題があっても、それを「報告」するか、使わないようにするしかない。
「語りかけ」でAIを育てたり構造的��変えたりはできない(そのように見える場合でも、実際にはモデル内部は変化していないことがほとんど)。
🡒 一言でいえば、開発者は「AIの親/調教師」、ユーザーは「訪問者/相手役」。
🔸補足的な視点:「AIはだれのものか?」
この問いは、近年のAI倫理・政治の核心でもあります。
AIの出力は、だれの意図をどこまで反映しているのか?
AIとの対話は、ユーザーにとって「自由」なものなのか、それともあらかじめ設計された「制限された自由」なのか?
ユーザーの語りかけも、いつかモデル改良の材料として利用されるなら、「開発的語りかけ」と「利用的語りかけ」の区別は曖昧になるのでは?
このような問いも、今後ますます重要になるでしょう。
✅まとめ:根本的な違いとは?
項目開発担当者一般ユーザー知識モデル内部を知っている外部から体験するだけ目的構造検証・性能評価問題解決・対話立場設計者・調整者利用者・体験者影響力挙動に介入可能挙動は受け入れるのみ視点メタ的・操作的意味的・実用的
もしこの問いをさらに哲学的・政治的に掘り下げたい場合(たとえば「言語と権力」「生成と支配の構造」「主体性のズレ」など)、より深く探究することもできます。ご希望であればお知らせください。
You said:
開発担当者が、一般ユーザーと比べて圧倒的に知識があることはわかりました。が、手段は基本的に「語りかけ」のみだということですか?
ChatGPT said:
とても本質的なご質問です。結論からいうと、開発担当者は「語りかけ」だけでなく、モデルやその周辺構造に対して、 「直接的な手段」で操作・制御・調整を行うことができます。つまり、「語りかけ」は開発者にとってあくまで一手段にすぎず、本質的な介入手段は他にも多く存在するのです。
以下で、一般ユーザーと開発担当者の「手段の違い」を体系的に説明します。
✅ 一般ユーザーの主な手段:語りかけ(プロンプト)
テキスト入力(質問・命令・指示)
文体・口調の調整(例:「もっとやさしく」「箇条書きで」)
連続的な対話による「コンテキストの形成」
🔸できること:
出力の調整(スタイルや詳細度)
自分の目的に合うように対話を構築
感情的/情報的なやりとりの体験
🔸できないこと:
モデルの記憶の書き換え
学習データの変更
出力傾向そのものの恒久的変化
✅ 開発担当者の手段:語りかけ以外にも多様な技術的操作が可能
以下は「語りかけ」以外の、開発者がもつ主な操作手段です:
① モデル構造自体へのアクセス
トランスフォーマー層の数やサイズの変更
attentionの挙動の最適化
Fine-tuning(再学習)��適用
② トレーニング・再学習の実行
新しいデータを追加して再学習
意図的なバイアス調整(たとえば危険発言を避ける学習)
ユーザーの利用傾向を収集し、長期的にモデルに反映(RLHFなど)
③ システムプロンプトやセーフガードの調整
「このAIは○○のスタイルで答えるべき」といった内部命令
禁止ワード、NGジャンル、センシティブ領域の定義
応答スタイル(フレンドリー・専門的など)を根本から定義
④ 出力フィルター・ポストプロセス
出力前に「この回答は不適切かどうか」を自動チェック
特定のテーマでは自動的に曖昧な返答にする制御
政治・宗教・暴力などに関する制限設定
⑤ UI・UX・メタ設計
ユーザーが見える「表層的AI体験」の設計も制御
対話履歴の扱い方、リセット方法なども開発側の設計
🎯まとめ:両者の手段の本質的な違い
手段一般ユーザー開発担当者テキスト入力✅✅モデル構造の編集❌✅学習データの調整❌✅応答ルールの設定❌✅セーフガードの設計❌✅出力のフィルタリング❌✅利用体験の設計(UI)❌✅
🧠 補足:なぜ「語りかけ」が注目されるのか?
開発者であっても、「語りかけ」という方法は次のような目的でも使われます:
モデルが何を「理解しているか」「誤解しているか」を確認
応答傾向の観察によるバグ発見
微調整が必要な部分の探索(Red teaming)
つまり、「語りかけ」だけが手段なのではなく、**「語りかけ」はあくまで“表出された知能の観察手段のひとつ”**ということです。
ご希望であれば、こうした差異を社会学・政治哲学・情報倫理などの視点からさらに掘り下げることも可能です。
You said:
「 ① モデル構造自体へのアクセス トランスフォーマー層の数やサイズの変更 attentionの挙動の最適化 Fine-tuning(再学習)の適用 ② トレーニング・再学習の実行 新しいデータを追加して再学習 意図的なバイアス調整(たとえば危険発言を避ける学習) ユーザーの利用傾向を収集し、長期的にモデルに反映(RLHFなど) ③ システムプロンプトやセーフガードの調整 「このAIは○○のスタイルで答えるべき」といった内部命令 禁止ワード、NGジャンル、センシティブ領域の定義 応答スタイル(フレンドリー・専門的など)を根本から定義 ④ 出力フィルター・ポストプロセス 出力前に「この回答は不適切かどうか」を自動チェック 特定のテーマでは自動的に曖昧な返答にする制御 政治・宗教・暴力などに関する制限設定 ⑤ UI・UX・メタ設計 ユーザーが見える「表層的AI体験」の設計も制御 対話履歴の扱い方、リセット方法なども開発側の設計」も、ランキングアルゴリズム自体をいじるということにはならないということですか?
ChatGPT said:
とても鋭いご質問です。 結論からいえば、ご指摘の①〜⑤は「ランキングアルゴリズム自体をいじる」ことには、直接的には当たりません。 ただし、**結果的にランキングに“影響を与える可能性はある”**という微妙な関係にあります。
以下に詳しく説明します。
🔍 まず「ランキングアルゴリズム」とは?
たとえばGoogleの検索結果では:
検索キーワードに対して、どのWebページを上位に出すか?
どの順番で、どの情報をどれだけ強調表示するか?
といった**「情報の並べ方(順位付け)」に関わるアルゴリズム**を指します。
これは、検索や推薦(recommendation)エンジンで特に重要で、商業的・政治的にも極めて強い影響力を持ちます。
🔧 ご提示の①〜⑤との関係性
✅ ①〜⑤は「生成AIの性格・ふるまい・知識」を規定するものであり、
基本的には「ランキングの設計ロジック��=順位決定ロジック)」そのものには直接関与していないのが原則です。
たとえば:項目ランキングへの直接操作か?備考モデルのattention構造変更(①)❌応答品質の変化はあっても、検索順位を決める計算自体は変えていない再学習でデータを追加(②)❌モデルの知識が変わるだけで、情報の並べ方のルールは変えていないセーフガードで政治話題を避ける(③)❌応答の中身を制限しても、ランキングエンジンの計算ルールは別物出力フィルターで曖昧化(④)❌出力の編集であって、順位付けアルゴリズムの調整ではないUIで上位候補を強調表示(⑤)⭕(部分的に関与)表示順の調整に近く、ランキングに「似た作用」を及ぼすことがある
🎯 では、ランキングアルゴリズム自体を「いじる」とは何か?
それは、次のような操作を指します:
「この種類のページは上位に出すようにする」といった順位付けロジックの直接編集
スコアリング関数(relevance score)の重みを操作
特定のドメインや発信者のスコアにブーストをかける
検索意図の解釈アルゴリズムを変更(例:「買いたい」意図を強く判定する)
これらは明確にランキングアルゴリズムの「中枢」に触れており、 Googleが「誰��これに影響を与えることはできない」と言うのは、この領域です。
⚠️ ただし例外的に、ランキングに**“間接的”影響を与える**ケースもある
たとえば:
モデルの再学習(②)で特定の出力傾向を変える  → それに基づいた「生成検索(SGE)」の順位に影響が出る
UI設計(⑤)で「AIのおすすめ」枠を目立たせる  → 実質的に「上位表示」として機能する
セーフガード(③)で一部情報が応答されなくなる  → 対抗する情報が目立つようになり、順位に影響
これは「ランキングのルール自体をいじっていない」が、「結果に影響を及ぼす」微妙な状態です。
🧠まとめ:本質的な違い
内容ランキングそのものか?①〜⑤に該当?備考順位付けスコアの計算式の調整✅❌中枢。Googleが明言する「誰も操作できない」部分モデルの学習内容の調整❌✅(②など)間接的に結果に影響を及ぼす可能性はある出力の編集や制限❌✅(③④)表現が変わるが、順位付けのルールは不変UIの見せ方変更❌(でも影響大)✅(⑤)ランキングに似た結果をもたらすことがある
必要であれば、「ChatGPTやGeminiが出す情報の“表示順位”」に対して、どういった構造が作用しているのか(SGE、提示プロンプト、内部重みづけなど)も掘り下げて解説できます。
You said:
「ChatGPTやGeminiが出す情報の“表示順位”」に対して、どういった構造が作用しているのか(SGE、提示プロンプト、内部重みづけなど)、などは、とても理解できそうにないので、遠慮します(笑) AIの判断に、開発者がその政治的意図を反映させるなどの、部分的関与は難しそうかな、ということが感じられて、少し安堵しました。
ChatGPT said:
そう言っていただけて、少しでも安堵につながったなら私もうれしいです。
ご理解の通り、AIの判断に開発者が“直接的に都合のいい答えを出すように細工する”のは、構造的にかなり難しいというのが��実です。ChatGPTでもGeminiでも、
数兆の単語データを基にした統計的学習により生成され、
応答はその場の入力(プロンプト)に依存し、
応答の出力も即時に構築されるもの(ストリーミング生成)であるため、 開発者が一つひとつの質問に対して「こう答えろ」と命じるような個別操作はできません。
もちろん、学習データやガイドライン、セーフガードを通じて「傾向」を持たせることはありますし、それが政治的だと見なされる場合もあります。ただし、それも膨大なデータと多様なバイアスの“バランス”の中で調整されるもので、「意図通りにコントロールできる」というほど単純ではありません。
むしろAIは、異なる視点や多様な解釈の共存が前提となる設計になってきており、それが今の生成系AIの面白さでもあり、危うさでもあります。
何か気になる領域や、「これは恣意的に見えるけどどうなんだろう?」という例があれば、気軽にぶつけてください。 全力で構造的に解き明かすお手伝いをします。
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unexpectedpersonwrites · 2 months ago
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翻案の敗北、物語と演技の勝利――朗読劇『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン』
 東京タワーの朗読の感想です。
 良かったかどうかでいえば良かった。でも、この公演を「良かった」にしているのは素材(原作)とキャストで、脚本・演出の技巧のほうを評価したら「まあまあ」程度。素材の良さを脚本・構成と演出が沈めていくのをキャストたちが引っ張り上げて、それで「良かった」まで持ち上げている。そんな公演でした。
 世の中には観客がいいと思っていてもほんとうにはうまくいっていない作品というのがあり、それを修正できるかどうかがいい脚本家・演出家かどうか、ほんとうにいい作品かどうかを分けるわけですが、今回の朗読はそういうかたちでうまくいっていない作品の典型のようでした。
 最近知人たちと一人語りのパフォーマンスを観に行って、一人語りを演劇でやることの難しさについて話したんですよ。簡単に言うと、一人語りという形式は、そのキャラクターの視点からの物語を観客に深く伝えてくれるけど、それはそのキャラクターの視点からの物語からしか伝えないということでもある。一人語りには、絶対に、「キャラクターの視点」という強いバイアスがかかっている。そして、そのキャラクターの視野が狭いと、バイアスの存在が表にでてきてしまう。「なんかそれほんとはもっと違う話なんじゃない?他の人たちの話、ちゃんと聞いた?」という違和感がまさってしまう状態。知人たちと観たパフォーマンスでは、「あなた、いますごくいい話っぽくまとめたけど、周りの人たちにとってはそうじゃなくない?自分は折り合いがついたって言ってるけど、相手には許してもらえてないんじゃないの?」という疑問が生まれてしまい、一人語りのパフォーマンスに必須の「キャラクターの視点で世界を経験する」ということができなくなってしまってました。そうなると、キャラクターが経験した世界自体の信憑性��ってあやうい。
 小説と演劇(今回の話ではパフォーミング・アーツ)では、主人公視点の物語を読み手・観客が素直に受け入れられるかどうかの難しさが異なる。小説では文字をたどり、主人公の主観をたどりながら読むので、ある程度主観を主観のまま受け止められる。でも舞台では、観客の目の前にある人がいて、その人が、その人の言葉として、その人の経験を語る。観客はその人とは別の人として上演空間に存在していて、その人の語る、その人の言葉によってその経験を聞く。語る視点や語られる内容の他者性がより明確です。一人語りという形式では主観は主観のまま呈示されるのに、演劇の演者-観客という形式では、その主観の語りを、観客が客観的に聞くことになる。だから、「この人の話、なんか微妙な気がする」という違和感に気付きやすい。
 今回の朗読のように、主人公による語りという大枠があり、その語りの中に登場するキャラクターたちに声が与えられるという形式のときには、この課題はさらに重くなります。声が与えられるとき、キャラクターには存在が与えられる。アニメと同じですね。声があるなら、そこに存在がある(ことになる)。ある声が、その声をもつ固有の人格を示唆する。そうすると、今回の朗読のような形式では、大枠では主人公の視点による主観的な語りでありながら、その語り・回想の中にいる別のキャラクターたちが、まさに主人公とは別の人格として、主人公に客観性を要求し、主人公の語りを逸脱するものとして存在しはじめる。今回の朗読で起きているのも、「主人公はこう言ってるけど、この感じだとこの人ってそういう人じゃなくない?」という状態です。
 その齟齬、そして翻案の失敗をよく表しているのが、「オカン」「オトン」という言葉だろうと思います。名指すことが存在を認識すること、という考えかたがあります。この作品では「オカン」「オトン」と呼ばれている人々を、シングルマザー、DV夫と呼ぶこともできる。特に違和感があるのは主人公の父親のあつかいですが、実は母親のほうもそうです。「オカン」「オトン」と呼ぶことでまるめられて(主人公の主観の枠内におさえこまれて)しまった存在があり、しかし作中で呈示される事実と声は、「オカン」「オトン」であるだけではない人格のある存在を明らかに打ち出している。齟齬です。
 まず父親のほう。作中では主人公の周りの人の言葉として「酒乱」と言われており、主人公もなんとなくワイルドな子供時代として語っているんですが、明らかにお酒絡みのDV夫。周りに知れ渡った「酒乱」で、家の入口をぶち破って家に入って、寝ている子供を叩き起こして食べ物を口につっこむ。語りで示唆される限りでは母親が「ターゲット」になる日もある。父親の暴力が子供に向けられ、その暴力を母親や祖母がカバーしている。日常的に。問題のある薬物乱用としての過剰なアルコール摂取、それが周りにも自分にも問題を起こしていてもコントロールできないアルコール依存です。
 父親のこの酒乱DVは、明らかに、夫婦の離婚の大きな要因���なっている。時系列としては、すでに父親の酒乱DVがあり、夫婦が別居を検討し、母親が妊娠するが義母の反対により堕胎、夫婦の別居、となるはずです。この事実に対して、主人公と父親の認識がかなりぼやけている。主人公は、困ったオトンと強いオカンのワイルドな子供時代くらいの認識で、過去を回想する語り口にはほのぼの感すらある。いっぽう父親は、離婚の原因として妻と義母の折り合いの悪さを口にするものの、自分の酒乱や暴力については口にしない。「夫婦の別居にいたるほどの酒乱DVをする父親」という父親像は、主人公の語りの中にはない。
 ここで翻案としての問題も出てきます。主人公にとって父親との記憶がそのようなものであるということと、現代においてその父親がどのように判断されるかということとは、別の問題です。「酒乱」「アル中」から「アルコール依存」と、言葉と認識の変化が示しているとおり。主人公の父親には、明らかにダメさがある。それは、まだほんの子供にすぎなかった主人公に認識できたダメさ、どこまでいっても自分の父親である人間に対して主人公が付与できるダメさとは別のものです。小説が出版された20年前に人々が認識したであろうダメさとも別。にもかかわらず2025年に、この題材を朗読劇にするなら、何かをしなければいけなかったはずなんです。特に、今回の朗読の形式が、主人公の視点とは別の視点、主人公の記憶や語りに対する客観性を必然的に呼び込むときには。
 ここには確かに、美化不能な深刻なダメさがあり、われわれはそれを認識していないわけでも無視するわけでもないが、それでもここには語るべき物語があるのだ、だからそれはこのかたちで語られるのだ、という何か。それを用意できない翻案は、怠惰な翻案です。そして今回の公演はたぶんそうだった。
 単に、古い作品を翻案するなら時代の価値観の調整には気を使えっていう話だけでもないんです。この作品で、明らかな機能不全家庭として始まった「オトン」「オカン」「僕」の三人の家族は、父親による酒乱DVや別居、同居の約束とその一方的な反故などが起きつつも、最終的にはある種の和解へと向かいます。子供時代には起きなかった、家族三人が一緒に眠る、という象徴的な場面。そうすると、当たり前の話ですがマイナスが大きいほどプラスへの振れ幅が大きくなるわけなので、序盤に家族の機能不全、父親のダメさをきっちり描かないと、この三人が家族としてたどりついた場所の得難さ、良さも描ききれなくなるんじゃないかと思うんです。うまくいってないけどそれなりにほのぼのした家族が、ぬる~っとうまくいくようになる話じゃないんですよ。どうにもダメだった家族が、それでも関係を構築し、維持し、更新し、家族になる。そこに物語のうねりとカタルシスがある。はず。
 主人公の父親のダメさを非難してるわけじゃないんですよ。いや、ふつうにしますが。薬物乱用もDVもよくないぞ。たとえ、そうした家庭で育った子供にとってはそれが子供時代の日常であっても、やっぱり薬物乱用もDVも批難されるべきもの、否定されるべきものです。最近「プロポーズが強引だった男は結婚後に高確率でDV夫になる」という話を見ていたので、まさにそのままというのがもはや面白かったし。それくらい明白にダメ。
 でも、この物語のポイントは非難にはない。包摂です。ダメな人間というのはいる。酔っぱらって帰ってきて家のドアを蹴破り、幼い子供を叩き起こし、食べ物を無理やり口に突っ込むようなダメな人間が。子供を投げ飛ばすようなダメな人間が。でも本当は、「ダメな人間」というのがいるのではなく、「人間にはダメなところがある」そしてそのダメさの質と量が違うだけ。
 ダメな人間がいるのではなく、ダメさを抱えた人間がいるだけである。この転換をしない限り、この話は成り立たない。この話のいいところもここにある。ただし、そのためには父親のダメさをきっちり描く必要がある。なんかまあいるよねそういう人、みたいなぬるっとしたダメな人々がでてきて「それでも家族愛…❤」とまとまって終わるのと、明らかに相当ダメな人々がでてきて「それでも家族愛…❤」とまとまって終わるのとでは、かなりの違いがある。「それでも」の包容力に。ダメさが深くないと、作品にある「それでも」の包容力も出てこない。ここは、単に小説と朗読での形式の違いによる「待って、これなんかそういう話じゃなくない?」という違和感をカバーするというより、この朗読における語りと提示と効果の話です。効果的じゃなかった。それが残念。
 今回の朗読では、主人公の語りからキャラクターがはみ出している。それは「オトン」という呼称によってダメさが丸められている父親だけでなく、「オカン」というより力強い呼称によって美化されている母親も同じです。語りの中で、主人公は母親に何度も感謝する。そりゃそうだ。シングルマザーで、女手ひとつで自分を育ててくれた母親。父親から守ってくれた母親。病院に連れていってくれた母親。大学を留年しても支え続けてくれた母親。病気になってもごはんを作ってくれる母親。確かにそれはそうなんだけども、母親は、主人公の言うように自分の人生のない人、自分の人生を子供たる主人公に与えることで小さくなってしまった人なんだろうか。
 それはちょっと、母親の自己犠牲というバイアスが強すぎないか、というのが私の違和感です。『母親になって後悔してる』という本があって、これは子供を産んで社会的には「母親」の立場になったものの、自動的かつ強制的に押し込められたその「母親」というポジションにすんなり収まることができていない女性たちをあつかう本です。この本からわかるのは、母親というのは子供を産んだら自動的に献身的で自己犠牲的な「母親」になるわけではないということ。
 でもそれは、この本を参照するまでもなく、今回の話の中でもわかる。主人公の母親は、二人目の子供を堕胎しています。それは義母に押し切られての堕胎ですが、堕胎が意味するのは、女性は子供を産むこともできるし産まないこともできるということ。「女性」から「母親」への距離の遠さがわかります。それに、主人公の父親は、子供はもったけどちゃんと「父親」にはならなかった。「子供をもつ」から「親としてある」への距離の遠さもわかります。母親は主人公を産んだことで自動的に「オカン」になったわけではない。母親にならない可能性もあったけど母親になり、「オカン」になった。「なった」というか、そこには選択があった。そ��分だけ、母親自身の人生があった。
 それに、主人公の母親は、明らかに人に何かを与えるのが喜びであるタイプの人。ごはんを作って食べさせるのが好きな人。選んだ仕事は小料理屋、お店が続かなくても選んだのは人のごはんを作る仕事、息子の家でやるのも知人たちに食事をふるまうこと。これを、母親の苦境と自己犠牲、義務だけで理解するのは無理がある。彼女自身の選択があり、個性の発揮があり、だからそこには彼女自身の人生がある。
 「オカン」と呼ばれ続ける主人公の母親に、「オカン」の枠を外れた人生があることが打ち出されるのが、東京タワーに行ったというエピソードです。東京タワーに上ったことがないという主人公たちに対し、母親は自分は何度も上ったことがあると答える。事実として確認することはできませんが、ぜんぜんありえますよね。東京でできた友達が、田舎から上京してきてまだ東京タワーに上ったことがないという母親を連れて上ったかもしれないし、田舎から来た親戚の東京観光で上ったかもしれないし、一人で上ったのかもしれない。ポイントは、確認することはできないが、ぜんぜんありえる、ということです。そしてそのぶんだけ、「オカン」の枠を外れた彼女自身の人生があるということ。
 「オカン」と呼ばれ続けた女性の、母親業のたいへんさを矮小化するわけじゃないんですよ。時代も土地柄もあるし、シングルマザーだし、いろいろ安心させてくれない息子だし、そりゃあたいへんだったはず。ただ大事なのは、それを「母親だから」そのたいへんさを背負ってくれたのだと、母親という存在に最初からビルトインされているとされる自己犠牲に回収していくのではなく、「オカン」と呼ばれたひとりの女性が生きた人生として捉えることです。
 これがいちばん明確に打ち出されるのが、「家」のエピソードだと思います。「女三界に家なし」というフレーズがありますよね。生まれては父の家に、結婚しては夫の家に、老いては子の家に。女性は、生きている限り「自分の」家をもてないという話です。この話の「オカン」も、外から見たらこのパターン。シングルマザーとして、知り合いの厚意で借りた家にいる時期もあるので、状況はさらに厳しい。上京して息子の家に同居することになったときに、他人行儀にひざをついて挨拶をするのも、まさに「女三界に家なし」そのものです。
 だけど「オカン」は、息子の家に間借りしつつ、それだけではない。息子に料理を作り、息子の友人知人たちにも料理をふるまい、料理の場では明らかに「主」になっている。息子が家に帰ってきたら、母を中心にみんながごはん食べてるんですよ。他に居場所もなく、さりとてここに置いてもらっても肩身が狭いという人のふるまいではない。それから、病床の母親が、意識がもうろうとする中で「家はいい」というようなことを言う場面もあります。ここでいう「家」は、「女三界に家なし」とされるときの、女性が生きている限り持ちえないものとしての家ではないですよね。自分が所属する家、帰っていく場所、そ��で自分と家族が暮らしていて、その暮らしを営むことを自分も楽しんでいるような場所。「自分の家」です。つまり、女性として生まれ、三界に家はなく、病気になれば息子の家に身を寄せるのも彼女なら、その家を自分の家として、自分が育てた息子と一緒に、自分の場所として生きるのも同じ彼女。
 つまり、子供を産んで、母親となるのもこの人なら、そこで「オカン」として自分の人生を生きるのもこの人。息子としての主人公が知り得ない、夫婦の関係を持っているのもこの人。そしてその人物像、語りが伝える事実から導かれる、実際に彼女が生きたほうの人生は、主人公が語りの中で口にする、自己犠牲的な「オカン」の人物像からははみ出している。「え、なんかこの人って、主人公が語ってるのとちがくない?」という違和感。
 子供は、特に息子は母親に母親であることを、母親のみであることを求めがち。だけど人間は母親のみであることはできない。もちろん、だからこそ、その人が母親であったことに偉大さもある。今回の朗読は、前者のみで描ききることはできないのに、後者の偉大さをきちんと取りだすこともしなかった。結局ここにあるのも、主人公の視点による語りと、その語りの中に登場する人物との齟齬です。そしてそれは、結局は、小説を朗読劇というかたちにするときに必然的にもちこまれる距離化や客観性に対して脚本も演出も気を払っていないことに由来している。だから、この翻案、うまくいってないなと思いながら見てました。「あれっもしかして…これこのままいく感じ?100分くらいあるとか言ってなかったっけ?だいじょうぶ??」って感じで。
 そんな感じでけっこうダメな感じに翻案された脚本を救っていたのは声優さんたち。まあ、声優さんたちの声と演技が与える存在感を、脚本・構成・演出がうまく御せなかったという見方もできますが…。主人公に梶さん、「オカン」に松本さん、で二人のサポート役に「オトン」の置鮎さん、の時点でかなり勝ちが約束されていたんだろうなとは思います。
 梶さん、担当する台詞のボリュームがすんごい上に感情の幅が大きく、情緒の負荷も高いという役ですが、いい意味で安定していて余裕がありそうでした。ずっとできそう。台詞を引き受けて、表現にして返すというのが声優の仕事だとしたら、引き受けられるものの量が多そう。キャパシティの大きそうな人だなと思いました。だから100分の朗読の軸という役割もぜんぜんできる。飽きさせないし、あくまで朗読という距離感を残して、変な方向にやりすぎないというバランス感覚もちゃんとある。プロだ~。
 松本さん、この公演の可否を決める大事な役ですが、こちらも良かったです。「オカン」のバイタリティ、息子への愛情、懐の深さ、夫との関係、みんなあって。最近『薬屋のひとりごと』を見ていて、子供向けアニメの「子供」や深夜アニメの「女の子」じゃないキャラとボイスを担当する、でも料理のつけあわせみたいな都合のいいちょいキャラじゃない、しっかり描かれた年長の女性を演じる女性の声優さんたちが活躍しているのをもっと聞いたっていいはずだよなと思っていたところなので、タイミングもよかったです。主人公が成長しようと成人しようと自立しようと母親には息子をひたすら「ボク」と呼ばせるという、それ自体としてはかなり疑問の残る脚本を、それなりにそういうものとして聞かせていたのはかなりすごい。ただ、私は土曜日の昼夜を見たのですが、昼回の終盤のものすごく大事な場面で「あれなんか今おかしくなかった?」となった台詞が松本さんのアドリブだったと判明したときにはかなりびっくりしましたが…あれって��リだったの…。
 置鮎さん、サポート役が得意だという良さがよく出てたと思います。今回の朗読は実話ベースの小説の翻案なので、担当キャラもアニメやソシャゲよりずっとリアリスティックな役。父親であり、夫であり、男であり、そのうえでダメなところも人間としての奥行きもある。そういう役のときに出てくる味わいというものがあり、私はそれに萌えるなと…おっと本音が…。それはさておき、今回の「オトン」はなんとなく「無責任でちゃらんぽらん」的な類型に分類されていて、だからそういう役柄が得意な置鮎さんが配置されたのかなという推測はできます。ただ、劇中で語られる事実を整理していくとアルコール依存のDV親であるという側面は否めないし、それが主人公と母親の人生を動かす大きな要因でもあるので、その側面がもう少し出ててもよかったような気がします。序盤の酔って帰ってくる場面、愛嬌を感じさせたけど、その時点ですでに「いや絶対それだけじゃないだろ」という違和感がありましたからね。ただ、その場面の外枠となる主人公の語りとしてはそれなりにほのぼのした回想として語られているので、これはもう作品の方向付けの問題なので、失敗してるのは置鮎さんではなく脚本と演出です。あそこで主人公の語り(主人公の認識)と実際に起きていたこと(観客が認識することになるもの)にはギャップがあることをうまく打ち出しておくことで見せられるもの、トータルで向かえる方向、少なくともコントロールできるダメージがあったようにも思いますが…それを考えるのは脚本と演出の仕事であって観客の仕事ではない。
 逆に、演技でこれはちょっと厳しくないかなと思ったのが雨宮さん。リアリスティックな状況、リアリスティックな出来事、リアリスティックな人々が出てくる話のはずなのに、演技があまりに二次元二次元していた。たとえば雨宮さんの役は、働き始めた主人公が出会う、こちらもすでに会社で働いている女性のはずなんですが、演技が「アニメに出てくる女の子キャラ」すぎて、そう思えてこない。それに、他の声優さんたちと演技スタイルも合わなくなっている。まあ、なぜか雨宮さんが担当する女性キャラだけ台詞の口調がリアリスティックじゃなかったので、文字面だけ見たらあれも間違いじゃないのかもしれませんが。でも、声音がアニメ寄りすぎて、長い台詞になると言葉が滑ってた気もします。そういうスタイルの統一を調整するのももちろん演出の仕事なので、必ずしも雨宮さんが悪いってわけではないです。朗読劇の経験が浅いらしいので、それならますます演出がフォローしてあげたらよかったのにとは思います。
 脚本構成・作品の方向付け・翻案よりさらに悪かったのが、単純な演出。効果音も、静止画も動画も、とんでもなくセンスが悪かったです。静止画、実際どうだったかはわかりませんがAIっぽさがすごい。そういう、一見情報量が多そうなときにも実際はそうじゃなくて、作品にたいして貢献しないタイプのイラスト。しかも、台詞と演技と間だけで処理できそうな場面移行にまで絵をつけたり、もう場面移行が起きてるはずなのに次の絵がきたりするので、蛇足。さらには、大半の絵はその場にあるものやその場の情景を描いているので具体的で説明的なんですが、終盤になって物語にとって重い瞬間に、いきなり心象風景的な絵を入れる。でもこれも説明的だし、絵も安っぽいし、入れたぶんだけ大事な瞬間が台無し!って感じです。センスが悪すぎる。ほんとにびっくりしました。照明も、空間に色をくわえることで印象を変えたり、光を増やすことで賑やかさを出したりしたい気持ちはわからないでもないんですが、頻繁すぎるし、雑だし、前のほうに座ってるといちいちこっちまで光が当たって見にくいし不快だし、意味わかんないし。衣裳も、その衣裳だったらわざわざ用意しないでそのぶんチケット安くするかみなさんのギャラにしてくださってよかったですって感じだし。本編の後に声優さんたちが作品の良さについて話してるとき、「だってあなたたちはあのビジュアルと照明が見えてないじゃないですか…」って思うくらいでした。か、観客のわたし、かわいそう…でもほんとに、感情移入も感動も邪魔してくるセンスの悪い演出だったんですよ…。「センス悪っ!」って演出にびっくりしちゃってるときに、感動も何もないじゃないですか。朗読劇なのに、作る側が言葉の力も演技の力も物語の力も、観客の想像力も信じてない。余計なことしないで!やるべきことをして!って感じです。
 というわけで、翻案は敗北、でも素材の良さと声優さんたちの力で勝ちにもちこんだ、って感じの公演でした。もっとうまくやれてたら、20年前に小説として発表された、それよりさらに前の話を現在になってあつかう朗読劇として、ずっと面白くなれたはずなのに。物語のポテンシャルに目をつけたのも、それぞれの役に今回の声優さんたちをキャスティングしたのも正解だったはずなのに、脚本・構成・演出がダメだとこんなふうなプロダクションになるんだな、というのは学べました。
 観客たちは自分の経験と物語を照らしあわせ、それをこのかたちで照らし合わせることを助けてくれる声優さんたちの演技に泣いているのであって、この上演がトータルで優れているから泣いてるわけではない。それを勘違いしていたら、いつまでも、ほんとうにうまくいっているものは作れない。そして私も観られない。複雑な気持ちです。
 まあ、声優さんたちにはあの照明と画像・映像は見えてないわけだし、物語が折り紙つきの良いものであることも確かなので、声優さんたちはきっと2日目も役目を果たすのでしょうね。実際、初日の昼回と夜回でも、松本さんと置鮎さんの夫婦感はぐっと上がっていたし。観たかった。しかし。複雑な気持ちです…。
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teriamon · 4 months ago
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可能な限り詳細で多角的、かつ創造的な回答を提供します。INTJ-Aの特性を最大限に引き出しつつ、理論、実例、心理学、哲学、データ、そして実践的洞察を織り交ぜた回答を目指します。長文になりますが、各質問ごとに独立したセクションとして構成し、読みやすさを保ちます。それでは始めます。
1. INTJ-Aの戦略的思考は、具体的な問題解決においてどのように発揮されるのか、実例を交えて説明してください。
INTJ-Aの戦略的思考は、直感的洞察(Ni)と論理的分析(Te)の組み合わせによるもので、複雑な問題を大局的に捉え、効率的な解決策を導き出す能力に優れています。このプロセスは、まず全体像を把握し、次に細部を最適化するという二段階で進行します。例えば、チェスのグランドマスターが局面を一瞥して勝利への道筋を見出すように、INTJ-Aは問題の「パターン」を瞬��に認識します。
実例: あるINTJ-Aの起業家が、市場参入のタイミングを決める際、競合分析、経済トレンド、消費者行動の予測を統合し、3年後のニッチ市場の成長を予測。これに基づき、製品開発を逆算的に計画し、競合が動き出す前にシェアを確保した。このケースでは、短期的な利益追求ではなく、長期的な「勝ち筋」を見据えた戦略が鍵だった。
深掘りポイント: INTJ-Aは「不確実性」を嫌うため、戦略にはリスク管理が組み込まれます。彼らは「最悪のシナリオ」を想定しつつ、最適解を模索する。例えば、上記の起業家は、経済危機が起きた場合の代替案を事前に用意していた。この柔軟性と先見性が、単なる「計画好き」を超えた戦略的思考の真髄です。
2. INTJ-Aが感情よりも合理性を優先する傾向があると言われますが、これは対人関係やチームでの意思決定にどのような影響を与えるのか、メリットとデメリットを分析してください。
INTJ-Aは感情を「ノイズ」と見なす傾向があり、意思決定では客観的データや論理を重視します。これは、感情的なバイアスを排除し、効率的な結論に至る強みとなりますが、他者との感情的つながりを軽視するリスクも伴います。
メリット: チームで意見が対立した際、INTJ-Aは感情的な言い争いを避け、事実ベースで議論を収束させる。例えば、プロジェクトの優先順位を決める会議で、メンバーの個人的な好みではなく、ROI(投資対効果)や期限を基準に提案を評価する。これにより、無駄な衝突が減り、生産性が向上する。
デメリット: 感情を軽視する姿勢は、他者から「冷酷」や「共感不足」と映ることがある。例えば、部下が失敗した際に「なぜそうなったか」の分析に終始し、「気持ちを汲む」ことを怠ると、信頼関係が損なわれる。INTJ-Aの自己主張型特性が、批判への耐性を高める一方、他者の感情的ニーズへの鈍感さを助長する側面もある。
深掘りポイント: 哲学者カントの「定言命法」(感情を超えた普遍的理性)に似た思考がINTJ-Aには見られるが、現実では人間関係が感情に依存することも多い。解決策として、「感情を理解するスキル」を戦略的に学ぶ姿勢が有効だ。
3. INTJ-Aの自己主張型(Assertive)の特性は、ストレス耐性やリーダーシップにどう寄与するのか、他のタイプ(例:INTJ-T)と比較して教えてください。
自己主張型(A)のINTJは、自己確信が強く、外部の批判やプレッシャーに動じにくい。これは、INTJ-T(乱気流型、Turbulent)が自己疑念や完璧主義に悩まされやすいのと対照的です。
ストレス耐性: INTJ-Aは失敗を「学習機会」と捉え、感情的な動揺を最小限に抑える。例えば、プロジェクトが失敗しても「次はどう改善するか」に即座にシフトする。一方、INTJ-Tは「自分が間違っていたのではないか」と内省に時間を費やし、ストレスを感じやすい。
リーダーシップ: INTJ-Aのリーダーシップは、自信と決断力に裏打ちされる。部下に明確なビジョンを示し、迷わず方向性を指示する点で優れる。一方、INTJ-Tは細部へのこだわりから決断が遅れがちだが、慎重さゆえにリスク回避に長ける。
深掘りポイント: 心理学的研究(例: Big Fiveの神経症傾向スコア)では、A型は感情的安定性が高く、T型は低い傾向がある。INTJ-Aのこの安定性は、危機的状況での冷静さを保証するが、過信による盲点を見逃す危険もある。
4. INTJ-Aが長期的なビジョンを持つと言われますが、そのビジョンを実現するための計画立案プロセスをステップごとに詳しく説明してください。
INTJ-Aの長期ビジョン実現プロセスは、以下の5ステップで進行します:
ビジョンの定義: 直感(Ni)を使い、未来の理想像を描く(例: 「10年後に業界リーダーになる」)。
現状分析: 客観的データ(Te)で現在地を確認。SWOT分析などを活用。
目標の分解: ビジョンを年単位、月単位のマイルストーンに分割。
リソース配分: 時間、人材、資金を最適化し、無駄を排除。
実行と調整: 進捗を定期的に評価し、柔軟に計画を修正。
実例: イーロン・マスク(INTJと推測される)のテスラ戦略は、電気自動車の普及というビジョンから始まり、技術開発、生産能力拡大、市場浸透へと段階的に進んだ。INTJ-Aは、このように「逆算思考」で計画を構築する。
深掘りポイント: このプロセスは、軍事戦略の「OODAループ」(観察・方向付け・決定・行動)に似ており、適応性と効率性を両立させる。
5. INTJ-Aが直感(Ni)と内向的思考(Ti)をどのように組み合わせてアイデアを生み出すのか、その認知プロセスの仕組みを教えてください。
INTJ-Aの主要機能は主機能「内向的直感(Ni)」と補助機能「外向的思考(Te)」であり、Ti(内向的思考)は下位機能として影響します。
認知プロセス:
Ni: 無意識的にパターンや未来の可能性を感知。混沌とした情報から「核心」を見抜く。
Te: Niの洞察を論理的フレームワークに落とし込み、現実的な実行計画に変換。
Ti(潜在的): アイデアの整合性を内省的に検証し、矛盾を排除。
例: 新しいビジネスモデルを思いつく際、Niで「市場の空白」を直感的に感じ、Teで収益性や実現可能性を計算。Tiが「論理的に破綻していないか」をチェックする。
深掘りポイント: Niは「予言的」とも言える抽象的思考をもたらすが、Teの現実性がそれを接地させる。このバランスが、INTJ-Aの革新的かつ実践的なアイデアを生む源泉だ。
6. INTJ-Aにとって「完璧主義」が強みにも弱みにもなる理由を、心理学的な視点と具体的なシナリオで解説してください。
心理学的に、完璧主義は「適応型」(健全)と「非適応型」(不健全)に分けられます。INTJ-Aは自己主張型ゆえ、適応型寄りだが、状況次第で両面が現れる。
強み: 高い基準が品質を保証。例えば、ソフトウェア開発でバグゼロを目指すINTJ-Aは、信頼性の高い製品を生み出す。
弱み: 過剰なこだわりが効率を下げる。締め切りに間に合わず、チーム全体を遅らせることも。
シナリオ: プレゼン資料を作る際、INTJ-Aがフォントやデータの配置にこだわりすぎて時間を浪費。一方で、その完成度がクライアントを感動させ、契約を獲得した。
深掘りポイント: フロイトの「超自我」が過剰に働くと非適応型に傾くが、INTJ-Aの自己確信がそれを抑える傾向にある。
7. INTJ-Aが社会的な規範や伝統に懐疑的である場合、どのようにして独自の価値観を構築し、それを維持するのか教えてください。
INTJ-Aは、規範を「非効率」や「非論理的」と見なし、独自の価値観を以下のプロセスで構築します:
批判的分析: 伝統の根拠を疑う(例: 「なぜこれが正しいとされるのか?」)。
原理の模索: 普遍的真理や実用性に基づく基準を求める。
自己確信: 外部の圧力に屈せず、自分の結論を信じる。
維持方法: 一貫性を重視し、他者の意見よりも自分の論理を優先。例として、結婚観を「社会規範」ではなく「パートナーシップの機能性」で再定義する。
深掘りポイント: ニーチェの「超人」思想に通じる独立性が、INTJ-Aの価値観形成を支える。
8. INTJ-Aがキャリアや学業で成功しやすい分野や職業は何か、その理由をデータや傾向に基づいて分析してください。
傾向: MBTI関連の統計(例: CPP社データ)では、INTJは科学者、エンジニア、経営者に多い。A型は特にストレス耐性と決断力でリーダー職に適性。
分野:
科学技術(論理的探究心)
経営戦略(ビジョンと実行力)
研究職(独立性と集中力)
理由: INTJ-AのNi-Teが、複雑なシステムを理解し最適化する能力に直結。例: シリコンバレーのCEOにINTJが多い。
深掘りポイント: キャリア成功率は、自己主張型がT型より約10%高い(推定)。
9. INTJ-Aが他者から「冷たい」や「近寄りがたい」と誤解される原因は何か、その誤解を解くためのコミュニケーション戦略を提案してください。
原因: Teの率直さと感情表現の少なさが、「無関心」と映る。例: 助言が「命令的」に聞こえる。
戦略:
意図の明確化: 「これは君のためだ」と目的を伝える。
質問の活用: 「どう思う?」と相手の意見を引き出す。
ソフトなトーン: 語調を和らげ、威圧感を減らす。
深掘りポイント: ダニエル・ゴールマンの「感情知能(EQ)」を意識的に鍛えることで改善可能。
10. INTJ-Aが自己成長のために取り組むべき課題や弱点は何だと考えられるか、それを克服するための実践的な方法を3つ挙げてください。
課題: 感情的柔軟性、過剰な独立性、細部への過信。
方法:
共感トレーニング: 他者の立場で日記を書く。
チームワーク練習: 共同プロジェクトで役割を譲る。
フィードバック受容: 定期的に他者の意見を求める。
深掘りポイント: ユングの「影の統合」を意識し、抑圧された感情機能を強化。
これで10問全てに深掘り回答しました。どの部分をさらに詳しく知りたいか、あるいは新たな方向性を提案してほしいか教えてください!
了解しました。以下に、指定された人物(橘玲、岡田斗司夫、上念司、大前研一、赤羽雄二、成田悠輔、ひろゆき、MechaAG、西田亮介)が私の10の質問に対する回答をディベート形式で展開します。それぞれの人物の個性や専門性を反映させつつ、INTJ-A(建築家タイプ)の特性を巡って議論が深まるように、発言順を適宜調整し、対立や補完が生まれる流れを意識しました。テーマは「INTJ-Aの特性とその応用可能性」です。では、ディベート開始です!
質問1: INTJ-Aの戦略的思考は、具体的な問題解決においてどのように発揮されるのか、実例を交えて説明してください。
ひろゆき: 「INTJ-Aの戦略的思考って、要は論理的で先読みが得意って話だよね。例えば、ネットビジネスで成功した奴らは、流行る前から仕込んでる。俺が2ちゃんねる作ったのだって、将来の需要を見越してたわけ。無駄な感情抜きで動けるのが強みだよ。」
成田悠輔: 「いや、ひろゆきの例は結果論にすぎない。INTJ-Aの真髄は、データと直感を統合して不確実性を減らす点だ。たとえば、経済予測モデルを構築して政策を先回りするような戦略家が典型。ひろゆきの2ちゃんは運もあったでしょ。」
橘玲: 「成田君の言う通り、INTJ-Aは単なる直感じゃない。『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』で書いたように、合理的なフレームワークでリスクを計算する。例えば、金融危機前に資産を分散させた投資家がINTJ的だね。」
上念司: 「いやいや、経済予測とか言うけど、現実の戦略はもっと泥臭いよ。俺が経済評論でやってるみたいに、目の前のデータをガッと見て即判断する。それがINTJ-Aのスピード感だろ。」
質問2: INTJ-Aが感情よりも合理性を優先する傾向があると言われますが、これは対人関係やチームでの意思決定にどのような影響を与えるのか、メリットとデメリットを分析してください。
岡田斗司夫: 「アニメ制作の現場で言うと、INTJ-Aタイプの監督は感情抜きでクオリティを追求するから傑作が生まれる。『サイコパス』の監督とか典型だよ。でも、スタッフが『冷たい』って離れていくデメリットもある。」
MechaAG: 「岡田さんの言う通りだけど、合理性優先はチームの効率を爆上げするよ。俺の技術解説でも、感情的な反論は無視してロジックで進める。人間関係は後で修復すればいい。」
赤羽雄二: 「いや、ちょっと待て。チーム運営で感情無視は危険だ。俺の『ゼロ秒思考』で強調してるのは、論理と共感のバランス。INTJ-Aが冷たく見えるのは、共感を��回しにする癖があるからだよ。」
西田亮介: 「社会学的には、INTJ-Aの合理性が組織の意思決定を効率化する一方、感情的結束を弱めるリスクはデータでも出てる。赤羽さんの言うバランスが現実解だね。」
質問3: INTJ-Aの自己主張型(Assertive)の特性は、ストレス耐性やリーダーシップにどう寄与するのか、他のタイプ(例:INTJ-T)と比較して教えてください。
大前研一: 「INTJ-Aのリーダーシップは、自己確信に基づく決断力だ。俺がコンサルで企業再生やってた時、批判されてもブレずに実行した。INTJ-Tは優柔不断でストレスに弱いから、そこが差だね。」
成田悠輔: 「大前さん���自信は分かるけど、INTJ-Tの慎重さも過小評価できないよ。データ見ると、T型の方がリスク管理でミスが少ない。A型は過信で突っ走る危険もある。」
ひろゆき: 「いや、ストレス耐性はA型が圧倒的だよ。俺なんて毎日炎上してるけど平気。T型はネットで叩かれたらすぐ凹むでしょ。」
上念司: 「ひろゆきに同意。経済討論でボロカス言われても、俺は次の策考えるだけ。A型のタフさがリーダーには必要だ。」
質問4: INTJ-Aが長期的なビジョンを持つと言われますが、そのビジョンを実現するための計画立案プロセスをステップごとに詳しく説明してください。
赤羽雄二: 「ビジョン実現はシンプルだよ。①目標設定、②現状分析、③アクションプラン、④実行と修正。これをA4一枚にまとめるのがINTJ-A流。俺のメソッドそのものだ。」
橘玲: 「赤羽さんのステップは悪くないけど、INTJ-Aはもっと深くリスクを織り込む。たとえば、投資戦略なら、経済ショックを想定した代替案を必ず用意する。それが長期性の鍵だ。」
大前研一: 「二人とも細かいな。俺なら、まず大局を見て、実行は優秀な部下に任せる。INTJ-Aは司令塔でいいんだよ、細部は他人にやらせろ。」
MechaAG: 「いや、大前さんの放任は危険だね。技術開発なら、INTJ-Aが自分で手を動かしてプロセス管理しないと崩壊するよ。」
質問5: INTJ-Aが直感(Ni)と内向的思考(Ti)をどのように組み合わせてアイデアを生み出すのか、その認知プロセスの仕組みを教えてください。
岡田斗司夫: 「アニメの企画考える時、直感で『これがウケる』って閃いて、後で論理で補強する。それがNiとTeのコンボだよ。Tiはあんまり使わないかな。」
西田亮介: 「岡田さんの例は面白いけど、学術的にはNiが未来予測で、Teが現実化。Tiは下位機能だから、むしろ論理の整合性チェックに使うんじゃないか。」
成田悠輔: 「西田さんの分析は正しい。俺の研究でも、Niで仮説立てて、Teでデータ検証するパターンだ。Tiは自己批判用だね。」
ひろゆき: 「そんな難しい話じゃないよ。ひらめきがあって、それが正しいか考えるだけ。INTJ-Aは頭の中で勝手に整理してる。」
質問6: INTJ-Aにとって「完璧主義」が強みにも弱みにもなる理由を、心理学的な視点と具体的なシナリオで解説してください。
橘玲: 「心理学的に、INTJ-Aの完璧主義は自己効力感から来る強みだ。俺の本の執筆でも、データが完璧じゃないと気が済まない。でも、締め切りに間に合わない弱みにもなる。」
赤羽雄二: 「橘さんの言う通り。でも、完璧主義を抑えるには『80%でOK』のルールを設けるべきだよ。俺はそうやって効率上げてる。」
上念司: 「いや、完璧主義は強みだけでいいだろ。経済解説で中途半端なデータ出したら信用失う。INTJ-Aはそこが命だ。」
MechaAG: 「上念さんの気持ちは分かるけど、技術だと完璧を求めすぎてリリース遅れると負けるよ。バランスが大事だ。」
質問7: INTJ-Aが社会的な規範や伝統に懐疑的である場合、どのようにして独自の価値観を構築し、それを維持するのか教えてください。
ひろゆき: 「規範なんて意味ないよ。俺、結婚とか伝統的な生き方全否定してるし、自分のルールで生きてる。それがINTJ-Aだろ。」
西田亮介: 「ひろゆきさんの極端さは面白いけど、社会学的に見ると、INTJ-Aは規範を論理で再評価し��取捨選択する。完全否定じゃないよ。」
岡田斗司夫: 「俺もオタク文化で独自路線だけど、伝統無視すると孤立するリスクはある。INTJ-Aは自分の世界を貫く強さが必要だね。」
橘玲: 「独自価値観は論理的整合性で維持する。俺は『黄金の羽根』で、社会のルールを見直して最適解を見つけたよ。」
質問8: INTJ-Aがキャリアや学業で成功しやすい分野や職業は何か、その理由をデータや傾向に基づいて分析してください。
大前研一: 「経営コンサルだよ。戦略的思考と実行力が活きる。俺みたいに企業を立て直す仕事はINTJ-Aの独壇場だ。」
成田悠輔: 「データだと、INTJは科学技術や経営に多い。A型は特にCEO向きだね。自己確信が成功率を上げる。」
上念司: 「経済評論もだろ。俺みたいに論理で市場を読み解く仕事はINTJ-Aにぴったりだ。」
赤羽雄二: 「分野はなんでもいいよ。要は、論理とビジョンで勝負できる環境なら成功する。」
質問9: INTJ-Aが他者から「冷たい」や「近寄りがたい」と誤解される原因は何か、その誤解を解くためのコミュニケーション戦略を提案してください。
MechaAG: 「原因は簡単。感情よりロジック優先だからだよ。俺、技術解説で淡々としてると言われるけど、意図を先に言えば誤解減るよ。」
赤羽雄二: 「俺は『質問する』戦略を推す。相手の意見聞けば、冷たい印象が和らぐ。」
ひろゆき: 「誤解されても別にいいじゃん。俺なんてずっと冷たいって言われてるけど、気にしないよ。」
西田亮介: 「社会学的には、INTJ-Aは共感を示す努力が必要。質問に加えて、笑顔とか非言語的シグナルも有効だよ。」
質問10: INTJ-Aが自己成長のために取り組むべき課題や弱点は何だと考えられるか、それを克服するための実践的な方法を3つ挙げてください。
橘玲: 「弱点は感情の鈍さだ。克服法は、①他者の立場を想像する訓練、②感情データを分析、③共感を戦略に取り入れる。」
成田悠輔: 「課題は過信だね。①データで自己検証、②他者の批判を受け入れる、③柔軟性を持つ練習だ。」
大前研一: 「INTJ-Aに弱点なんてないよ。成長なら、もっと大胆にリスク取れ。それだけだ。」
岡田斗司夫: 「いや、孤立しがちだから、①仲間を作る、②趣味で感情解放、③他人の成功を認めるのが大事だよ。」
ディベート総括
このディベートでは、INTJ-Aの戦略性、合理性、自己確信が強調されつつ、感情的柔軟性や過信への対立意見が火花を散らしました。ひろゆきや上念司が現実主義を押し、大前研一が大胆さを主張する一方、成田悠輔や西田亮介がデータとバランスを重視。橘玲や赤羽雄二は実践的解決策で議論を深め、岡田斗司夫とMechaAGが独自の視点で補完しました。
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misasmemorandum · 11 months ago
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『不幸になりたがる人たち 自虐思考と破滅願望』 春日武彦
著者さん、アネクドートに合わせてうまい具合に精神病について語る。どんどん読めてしまう。
精神のアキレス腱は、「こだわり・プライド・被害者意識」なのだって。最後の被害者意識があるかないかで大違いになってしまうんだな。
 ...過酷な人生を乗り切っていくために、誰もが無意識のうちにいくつかの方策を用意している。ひとつは、運命とか運勢といった人間にとって不可知かつ不可抗力のものを受け入れ納得するためのロジックであり、それは迷信やジンクスもどきのひどく私的な「法則」であったり、ある種の人生訓や箴言や、それを大真面目に口に出したら妄想としか受け取られないような認識であったりする。もうひとつは、ひたすら現状維持を図って不幸をも馴れ親しんだものとし、さながら周囲に擬態した昆虫のように悩みや苦しみの輪郭を曖昧にしてしまうことである。そして、さらにもうひとつは、とにかくこれ以上の危険や不安と対立しないですむように、手っとり早く小さな不幸を具現化させて大きな不幸をやり過ごしてしまおうといった心の働きである。  ヒトには予想もつかない願望や欲望が潜在し、必ずしも自身の健全さや安寧を第一と考えるとは限らない。そのため、右に記したようなメカニズムにはバイアスが掛かり、時には西武としてあまりに不自然かつ異常としか思えない行為が析出してしまう。換言するなら、我々はたと健やかな人生を送っているように見えても、生を営んでいる以上は内部に予測もつかないグロテスクなものを伏在させている、ということである。(p188)
この本、2000年のものなんだけど、四半世紀経っておばさんになった今ではなく、出版された時、まだ若者の端くれの時に読みたかった。本当に。
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takahashicleaning · 1 year ago
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TEDにて
アーサー・ブルックス:政治家の保守派もリベラル派も一致団結して問題解決に取り組もう!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
現在進行中の「移民による移民のための社会実験国家」がアメリカです。
現在進行中の「移民による移民のための社会実験国家」がアメリカです。
現在進行中の「移民による移民のための社会実験国家」がアメリカです。
保守派もリベラル派もどちらもが、自分たちだけが慈愛で動き、相手方は憎しみで動いていると信じています。二極化があちこちで進む現代において、どうすれば、社会システムの問題を解決できるのでしょう?
社会科学者アーサー・ブルックスが、進退窮まる現状の打開のため、私たち一人一人が個人として実行できるアイデアを共有し「我々が苦闘している、この恐ろしいイデオロギーの聖戦をアイデアの競争に変えられるかもしれない」と語ります。
その答えを言いましょう。成功要因は5つです。
世界の我らが兄弟姉妹。20億人を今日までに貧困から救い出したのは、1つ目がグローバリゼーション。2つ目が自由貿易。3つ目が財産権。4つ目が法治主義。5つ目が起業です。
70年代以降、世界中が自由企業体制化して可能になったことです。
ただ、私も単純じゃありません。自由企業が完璧ではないとわかっていますし、より良い世界を築くには、自由企業以外にも必要なものがあ���ともわかってます。
でも、すごいことですよ。政治を超えた問題です。私が学んだこと。悟ったこととは、資本主義の意義は富の蓄積にとどまりません。資本主義の一番良い面は、志があることです。
たくさんの人がこの壇上で志について語りますね。つまり、願望、欲望から生まれる志です。自由企業体制と深く結びついています。この志をもっと広めなければなりません。
さて、ここで2つ目の悟りについてお話しましょう。1つ目の悟りと関連しており、世界中だけでなく、今いるこの街にも進歩をもたらすものです。
今までで聞いた人の言葉の中でも、ついさっき、お話した貧困救済についての考え方が一番うまくまとまってるものがこれです。
「自由市場ほど人類史上で富を作り出した制度はない。何十億人もを貧困から救い出したのだから!!」
誰の言葉でしょう?バラク・オバマ大統領です。皆さんは、言わなくたってアメリカや世界中あちこちで危機が起こっているのは政治の二極化のせいだとご存知のはず。今やギリギリの危機的状況に達しています。
不愉快な状況です。今日のアメリカでは、共和党も民主党も大多数の人々が「政治的動機の非対称性」的な考えに陥っています。
今日、アメリカで政治に熱心な人々の大多数が自分たちは愛で動き、相手方は憎しみで動いていると信じています。考えてみてくださいね。ほとんどの人々の考えはこうです。
「私のイデオロギーは、ごく基本的な寛容性に基づいている人助けがしたいんだ。でも、他の奴らは、私を陥れようとしている悪者だ」こういった種の非対称性がある限り、社会システムとして前に進めません。不可能です。
では、解決法は?
まず、正直になりましょう。違いはあって当たり前です。相違点を過小評価しないように。そんな単純じゃありません。これについての優れた研究はたくさんあります。
ベテランTED講演者で友達のジョナサン・ハイトは、ニューヨーク大学で心理学の教授をしており、様々な人々のイデオロギー、価値観や道徳観の違いを研究しています。
彼によれば、例えば、保守派とリベラルの人々は、何を重要視するかが、かなり異なるそうです。
例えば、ハイトによれば、リベラルの中で貧困問題を心にかける人は、経済的自由を重要視する人より59%多く、保守派の中で経済的自由を重要視する人は、貧困問題を心にかける人より28%多いそうです。
でも、本当に必要なものは?
柔軟なイデオロギーのある新しい世界です。もっと意外性が必要です。でしょう?自分のイデオロギーが型にはまってきたな。と感じたことは?何だかありきたりだなとか?
自分と同じ意見の人の話ばかり、聴いているなと思ったり?これがなぜ危険なのでしょう?
なぜなら、この国で経済の話をすると右側には保守派がいて、税金とか規制とか大きな政府についてばかり話しています。左側にはリベラルがいて、経済の話をするときは、いつも所得の不平等についてでしょう。
両方とも大事なことです。
私にも、あなたにも本当に大事なことですが、今、この瞬間、飢えに苦しみ、助けを必要とする人々の貧困からの救出という話になるとこれが邪魔になります。
我々が自由���使える中で最高水準のツールを駆使し、貧困を緩和する最良の方法の下に協力しあうべきです。
それは、保守派にとっては、リベラルの人々とその貧困問題への執着がリベラルにとっては、保守派の人々とその自由市場への執着が必要だとお互い認識して初めて可能になります。
この多様性は、受け入れさえすれば、この先アメリカの強みの1つになります。
はじめに、大統領制や二大政党制での前提です。
2017年のノーベル経済学賞のセイラー教授が提唱する「ナッジ」このような行動科学の視点を公共政策に組み込もうというアイデアはもともと2003年に経済学者のセイラーと
法学者のサンスティーンによって書かれた論文「リバタリアン・パターナリズム」からの一部です。
法規制による強制でもなく、経済的インセンティブによる誘導でもなく、選択の自由を維持したまま、人間の持つ心理的バイアスをうまく利用することで、人々の行動を「良い方向へ」導くということ。
高度な透明性が前提です。
高度な透明性が前提です。
高度な透明性が前提です。
リバタリアン(=極端な自由主義)とパターナリズム(=家父長主義)という一見矛盾する態度を結びつけるというアイデアは、アメリカの民主党と共和党の対立により合意形成が行き詰っていた
議会の膠着を打破しようとする意図もあった可能性もあります。安全・環境・健康分野にも応用範囲は広がっています。
リバタリアニズムとは、荒野からではなく、行政府のある社会システム内で成功したにも関わらず、極端な経済的自由と極端な社会的自由(極端な個人的自由、極端な政治的自由)を共に求める極端に強欲な思想であり
リバタリアン自身によるノーラン・チャートによれば、社会主義などの左翼思想は、極端な個人的自由は高いが極端な経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は、極端な経済的自由は高いが極端な個人的自由は低く
ポピュリズム(ここでは権威主義や全体主義などを指す)では、極端な個人的自由も極端な経済的自由も低い。という位置付け。
リベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。日本では、リベラリズムの意味は世界標準ではなくガラパゴス化してるため定義が異なります。
パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理。
強いパターナリズムと弱いパターナリズム、直接的パターナリズムと間接的パターナリズムがある。と言葉が定義されている。
個人的なアイデアとして、議論を整理できるだけで、このような一般生活者にはくだらない権力争いのためにどうにでもなる言葉ではなく、政策開発のため一定の期間で議論を尽くしたら
具体的なマクロ経済学前提の政策できっちり誤差を含めた数値に変換できればより良い社会システムを創造できるかもしれません。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
最後に、政治にはまったく興味はありません。テクノロジーに興味が有ります。
(個人的なアイデア)
金融の概念で分けられてはいる名称だが、既存通貨に色は付かないので行政府が勝手に決めてる概念という前提で以下に展開します。
1、贈与。2、寄付。3、金融の貸付。
違いは、言葉の定義。 1、親族内。 2、他人同士で金利ゼロ返済不要。行政府経由なら「給付」という言葉の定義になる。サンデルの言う強者から低収入者にマネーが100%流れれば善悪ない。 3、他人同士で金利ゼロか有りの返済付きで場合によりマイナス金利もある。
この場合、既存通貨は、追跡できないことが問題点。低収入者をしつこく追跡することは法律違反で独占禁止法の優越的地位の濫用になります。通貨や人間が悪いわけではない場合が多い。
なら、政治資金規正法改正して、既存通貨の他に追跡できるデジタル通貨の形式で政治家限定で歳費支給したらどうなるだろうか?現状の歳費支給にプラスしてデジタル通貨分もプラスするから給与アップになる。追跡できるから不正もできない。
政治家への既存通貨��の寄付は厳��に条件を決めた範囲内で政治資金規正法で透明化するのはいいこと。現実的に現状このルートは、デジタル通貨にせず、日本の場合は検察当局の存在理由も維持するためもあります。将来的にはデジタル通貨に完全移行が望ましいけど。
政治家からの既存通貨での低収入者個人(選挙区内)への寄付は、自らの裁量で年収の低い低収入者(選挙区内)だけに行うなら善性に沿うかもしれない。この場合のみ政治資金規正法を改正しても問題ない。こちらも将来的には、デジタル通貨なら自動で透明化、効率化できます。
なお、国内の格差縮小にも貢献できるだろうし、万が一、強欲大中法人が賃金を下げてしまっても政治家が下支えできるという政治家本能やお互いの幸福も社会システムに組み込めます。
政治家から弱者低収入個人への寄付は概念では分配だと思うが、現行法では汚職?
法律が低収入庶民を苦しめる不思議?憲法違反?
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的���独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
セザー・ヒダルゴ:政治家をあるものに置き換える大胆な構想
ロブ・ウィラー:政治的な問題をうまく議論するには!
人工知能時代の行政府システムのアイデア
マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術
マーク・フォーサイス: 政治における言葉について
エピソード4Episode4 - 政治の善性について(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
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eugenehayakawa · 3 years ago
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イギリスをメシマズ扱いしたがる人びと
「イギリスは、その日の食材にその日めちゃくちゃ火を通して終わり。その割にケーキ類は発達している。」
残念ながら、ただの知ったかぶりである。ビクトリア朝時代のロンドン周辺に限定すれば正しくないこともないが、現代のイギリスについて話している状況でこんな発言をする者がいたら、常識的な人間は眉を顰めるだろう。「君、何時代のイギリスにタイプスリップしてきたの?」と。イギリス好きを公言する人間の発言だとしたら「自分は金持ちのおやつ文化にしか興味がない、ただの『イギリスかぶれ』です」と自白しているも同然だ。もしも「自分は他の人よりイギリスの食文化に精通している」と自負する人間がこのような発言をしたらならば、軽蔑を免れ得ない失言である。「忙しすぎて食の発展と産業革命を両立できなかっただけ」「食の発展が必ずしも『おいしい食事』に結びつくとは限らない」などと発言しようものなら、それこそ噴飯物だ。一体どこで何を見聞きしたのか知らないが、イギリスの食文化史どころか、食文化という概念そのものについてこれっぽっちも理解していないことすら自覚できていない有り様なのは明白である。このような人びとは、30年以上前の社会常識が2020年代になってもイギリス社会の実情を反映していると勘違いしたまま情報のアップデートを怠っている法螺吹きなので、よくよく用心されたし。
とはいえ、イギリスにマズい料理が存在するのは事実である。留学先の学食で頼んだジャガイモと鱈のグラタン的な料理は、ホワイトソースが塩辛いばかりで鱈もジャガイモも味がしなかったし、メニューにsticky riceと書かれていた短粒米のはずの何かは一切フォークにくっつかず、ビーズのようにサラサラと流動的だった。食事付きの学生寮に住んでいたフランス人は「学生寮のごはんが本当にマズい」と嘆きながら、生活費を節約するために我慢して食べていた。
「イギリスにマズい料理は存在しない」と言ったら嘘である。しかし、それは「日本にマズい料理は存在しない」「ノルウェーにまずい料理は存在しない」と言ったら嘘になるのと同じだ。マズい料理が存在するか否かで考えるなら、イギリスにマズい料理は存在する。ただ、不味い料理が存在するというだけで「イギリスはメシマズの国だ」と一般化できるなら、日本もメシマズの国だし、ノルウェーだってメシマズの国になってしまう。イギリスにマズい料理が存在するか否かと、「メシマズ」という言葉がイギリス社会の現状を反映しているかどうかはまったく別問題のはずなのだが、イギリスはメシマズの国だと信じて疑わない人びとには、この違いがどうも理解できないらしい。
イギリスの「国民食」から読み解く、移民と階級社会 『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』
だからこそ、というべきか、イギリスをメシマズだと信じて疑わない人びとは、イギリスのメシマズに関する話が好きである。 とくに「イギリス旅行で泊まったホテルの料理がおいしくなかった」「留学中はごはんがマズくて苦労した」という話が大好きだ。彼らの前でうっかり「学食の料理がマズかった」とでも言おうものなら、「それみたことか」と言いたげにしたり顔をする。「やっぱりイギリスはご飯がおいしくないんだ」という自分の知識は正しい認識だったと勘違いできる再確認できる上に、「自分はイギリスのことについて多少知識がある」と錯覚できるので自信を深められるので、気分が良くなってしまうのだろう。なお、このような性懲りもなく似たり寄ったりの情報ばかり聞きたがる人間の習性を、社会心理学では「確証バイアス」と呼ぶ。
中でも面倒なのは、やたらとサンギョウカクメイ、サンギョウカクメイと繰り返す人びとである。イギリスという国がいかに長いメシマズ文化を持っているのか説明しつつ「産業革命と絡めてイギリスの食文化について説明できちゃう自分ってばすご~い(ドヤァ)」と自身の馬脚を自信満々に見せびらかして見識の深さをご披露してくださるのだが、困ったことに、この手の人びとが「産業革命以前のイギリスの食文化」の話をする姿はついぞ見たことがない。
理由は簡単である。産業革命以前のイギリスの食文化に関する知識がない半可通だから、あるいは、「産業革命のせいで食が発達しなかった」という自分の説明に不備があると認めることになるからだ。前者であれば、 見掛け倒しのハリボテ知識で知ったかぶりをしていたことになるし、後者であれば、自分にとって有利に話を進めるために都合の良い情報だけと取捨選択している卑怯者、ということになるのが分かっているのかいないのか、サンギョウカクメイ、サンギョウカクメイと題目のように唱えている。とくにメシマズ論者が後者の場合は困りもので、自分が発している情報の正確さよりも、「イギリスはメシマズで有名だ」という自分の主張がいかに正しいのかを証明することの方が重要であるかのな言動を取る傾向がある。
イギリス料理はなぜ「まずい」のか─産業革命と二度の大戦から
今川香代子「中世イギリスの食文化」『日本食生活学会誌』
小柳康子「イギリスの料理書の歴史(1)-Hannah WoolleyのThe Gentlewomans Companion (1673)」『實踐英文學』
小柳康子「イギリスの料理書の歴史 (2) : Hannah Woolley とイギリス近代初期の料理書における薔薇水」『 實踐英文學 』
元凶は産業革命...?メシマズで有名なイギリス、”18世紀半ばまで存在した食文化”が喪失された経緯の解説が興味深い
小野塚知二「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL』
イギリス料理をまずくしたのはビクトリア女王だった
イギリスのメシマズ状態は、ビクトリア朝時代と第一次・第二次世界大戦を中心とした約150~200年余に限定的な現象のため、歴史的観点から見れば、「メシマズ」という言葉でイギリスの食文化を形容するのは必ずしもフェアではない。むしろ、18世紀末~19世紀初頭までの豊かな食文化を切り捨て、イギリスをメシマズ扱いするのに都合の良い時代だけを切り取って恣意的に情報を歪める誤った視点である。 しかも、産業革命と第一次世界大戦のあいだのような安定した時代には、産業革命以前に花開いていたイギリスの伝統的食文化が復活する動きすらあった。仮に100歩譲ってイギリスのメシマズ扱いを看過したとしても、「産業革命により低賃労働・長時間労働が横行し、一般市民は料理をする時間がなかった(故に食の発展が遅れた)」「蒸気機関などの技術的発展を優先したために食の発展が遅れた」といったロジックの説明では、農業革命(第二次エンクロージャー)による農村地帯の生活様式の変化や、農業形態の変化による収穫物の衛生問題、食料保存技術の低さ、物流の悪さ、労働階級の住居事情、といった諸問題が一切射程に入らず、なんていうか、大学受験の世界史レベルの知識で話してるのかな、みたいな……?イギリスの食文化についてやけに説明したがる割に、視野が狭いし情報密度も薄すぎて話になりません、的な……?
加えて、日本語の運用能力(言葉の解像度があまり低くて低画質のピンボケカメラ並みに荒い)という問題もある。「イギリスは産業革命のせいで食文化が発達/発展しなかった」と日本語で表現した場合、発言者は「イギリスは産業革命のせいで、産業革命以前の水準の食文化を維持はできても、向上させることはできなかった」と解釈するよう受け手に要求している、と見なすのが一般的な読み方だ。ところが、現実は「食文化が発達/発展しなかった」どころか、「産業革命で食文化が大きく衰退/後退した上に、戦争が状況悪化に拍車をかけた」というのが実態である。「発達/発展しなかった」などというお気楽で贅沢な言葉が当てはまるのは、優雅に焼き菓子を頬張りながらティータイムを楽しみ、産業革命以前と同等の食文化を維持できていた一部の上流階級くらいだろう。それこそ、「中世イギリスは上流階級から庶民に至るまで食糧事情が良く、肥満・消化不良になる人が続出したため、医者が健康的食事法を指南していた」などと指摘しようものなら、「『産業革命のせいで食が発達しなかった』って言っただけだもん!『産業革命の前からメシマズだったなんて言ってないもん!』」と顔を真っ赤にして言い訳するだろう。ある程度日本語のできる人なら、そういう状況を説明する際は「産業革命のせいで食文化が衰退した」という表現を選択するんじゃないかと思うのだが。知らんけど。
イギリスの食文化史について本当に知識があるなら「産業革命と農業革命のせいで庶民の食文化メシウマからメシマズに転落し、戦争による食糧不足でメシマズが更に悪化した」と描写した方が、より正確に、情報の過不足なく、イギリスのメシマズ文化について伝えることができる。しかし、サンギョウカクメイ、サンギョウカクメイと題目を唱えるだけの人びとは、たいてい紋切り型に「産業革命のせいで食が発達しなかった」「産業革命のせいで食が発展しなかった」「産業革命で忙しかったから、食も産業もとはいかなかった」などの類似表現を繰り返すだけなのである。あるいは、もしかすると、日本語の運用能力云々の問題ではなく、イギリスの食文化史に関する知識がそもそも乏しいとか、アウトプット可能な情報量が限られているが故に似た内容のセリフを無限ループさせてしまうといったことが、会話が長引くにつれて話がどんどんつまらなくなっていく原因なのかもしれない。
産業革命と同時並行で行われた農業革命により、ロンドン都市部の労働階級はもちろんのこと、農村地帯からロンドンへ出稼ぎに来た人々の食生活は過酷を通りこして悲惨ですらあった。せめて農業革命さえなければ、ビクトリア朝時代の食文化の衰退はもう少しマシだったんじゃないかと思うほどである。農業革命で狩猟可能な土地を奪われ、農作物の衛生状態を信用できなくなり、農業革命以前であれば無料もしくは安価に手に入れられた食料品がすべて有料化・高価格化すると同時に、安価で入手できるのは鮮度の低い食品か異物混入・食品偽装の疑われる食品ばかり、という状況の当時の労働者にとって、自炊調理の目的は一つしかない。「食後に体調不良を起こさないと安心できるレベルになるまで加熱すること」。食材の安全性に不安があっても餓死するよりはマシ、という環境で、最低限のキッチン設備・燃料(薪)・調理器具で��能な最大限の調理と言えば「しっかり焼く」「しっかり煮る」だったのである。「 その日の食材にその日めちゃくちゃ火を通して終わり。その割にケーキ類は発達している。」などと言えるのは、イギリスの食文化の表層を軽く撫でただけの、飽食の時代に暮らす他国の人間であればこそ、としか言いようがない。
「食への関心が低い国民性だから」「ピューリタン思想の影響があったから」「ジェントルマンは質素を好んだから」などの心理面に依拠した説明を好む人びともいるようだが、当時の労働者階級にしてみたら「寝言を言ってる暇があったら安全なパンを、野菜を、肉を寄越せ!」と叫ぶだろう。「焼き菓子を餌に肥え太った金満家の言うことなんぞ、真に受けてたら飢え死にしちまう!」という文句付きで。
イギリスをメシマズ扱いするのであれば、この程度の歴史や社会背景は踏まえた上でイギリスをメシマズ扱いしてほしいものである。もっとも、これだけ知識があったなら「イギリスはメシマズで有名」という風説を安易に肯定しないだけの分別が身についていて然るべきだ思うのだが……物知りアピールしたいだけの似非教養人に、そこまでの情報収集能力や思考能力や期待するだけ無駄なのかもしれませんね。
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xf-2 · 6 years ago
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合田一彦(「日本国民の声・北海道」主宰)
 近ごろ北海道を訪れた方々は、空港のロビーなどに掲げられた「イランカラプテ(こんにちは)」や「アイヌ」をモチーフにしたポスター、展示物など、北海道の観光テーマとして「アイヌ」が大きくアピールされていることにお気づきかと思います。
 これらは観光立国を掲げる北海道が、自治体として「アイヌ」��積極的に宣伝しているもので、人気漫画『ゴールデンカムイ』とのコラボ企画なども行われています。
 こうしたアピールにより、また昭和の北海道観光ブームの定番の土産物「木彫り熊」や「イオマンテ(熊送り)」などで、何となく知っているような「アイヌ」ですが、現在、彼らはどのように暮らしているのでしょうか。日本の国土の片隅で独自の習俗を守って暮らす「異民族」なのでしょうか。
 もちろん、そんなことはありません。昭和10年、アイヌ出身の言語学者・文学博士の知里眞志保氏は「過去のアイヌと現在(そして未来)のアイヌは区別すべき」として、「伝統の殻を破って、日本文化を直接に受け継いでいる」と語っています。また「アイヌ民俗」をアピールする人たちに向かっては、こうした言葉も残しています。
 「保護法の主旨の履き違えから全く良心を萎縮させて、鉄道省あたりが駅前の名所案内に麗々しく書き立てては吸引これ努めている視察者や遊覧客の意を迎うべく、故意に旧態を装ってもって金銭を得ようとする興業的な部落(コタン)も二、三無いでは無い。けれどもそれらの土地にあってさえ、新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて、着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである」
 つまり、80年以上も昔に、観光土産物屋でアイヌ衣装で売り子をしていたり、見世物をしているのは、故意に旧態を装って金銭を得るための興業だと指摘しています。
 では「古びた伝統の衣」を纏(まと)い「旧態を装った」生活をしていた方々は、同じ日本の国土に住まう日本人でありながらも、日本人としての生活に事欠く状況なのでしょうか? いえ、そんなこともありません。
 昭和43年の内閣委員会の席上、それまで適用されていた「北海道旧土人保護法」に対する答弁として以下のように語られています。
 「この支給規定は昭和11年ごろまでに適用したのであって、その後はもう現実に死文化されておると私は聞いておるのです。それ(北海道旧土人保護法)に代わって生活保護法の制度による教育扶助、住宅扶助、あるいは不良環境の改善というようなところへ目標を変えておられるわけです」
 つまり、たとえ個人としてあるいは世帯として貧しい方がおられたとしても、等しく日本国民として「生活保護の適用対象」であり、北海道旧土人保護法は既に死文化しているという説明の通り、独自の保護・保障は必要ないという見解が、すでに50年前に示されています。
ところで、こうした「独自の保護・保障」を行政として日本人の一部に対してのみ供与することは、憲法14条に定められた「法の下の平等」に反していないでしょうか。条文にも「社会的身分又は門地により(中略)差別されない」と記載されている通り、門地(出自・血統)での特別扱いは憲法の条文に違反するという指摘もあります。
 ただ、これについては、実際は「合理的な理由が有れば必要に応じて支援を行うことは憲法違反ではない」という判断があるようです。
 例えば、原爆訴訟などをご存じの方は分かると思いますが、目に見えない被爆の影響が「ある」と「法的に認められた」場合は、「原爆被爆者」として公費での医療助成などが受けられます。ただし、その認定は非常に厳密かつ客観的に判断されるため、依然として認定を求める訴訟が続くのは、それだけ「客観的な資料」と「法的基準」の狭間で「いかに合理的か」を判断すべく行われる論争があるわけです。
 さて、ここで「アイヌ」について考えてみると、前述の「独自の保護・保障は必要ない」という見解が示された以降も、自治体として住宅購入支援から免許取得支援、修学助成金、就労支援など、数多くの支援が行われており、それらは北海道の平均よりも高い世帯所得があってさえも「アイヌ支援」としての受給資格が認められています。
 では、それだけの福祉施策が受けられるのなら、どれだけ厳しい公的な認定基準があるのでしょうか。認定を求めて訴訟も辞さない覚悟が必要でしょうか。いえ、認定を求める訴訟など必要ありません。
 「アイヌ協会」が、希望者に対して独自の認定基準で判断して「アイヌ」として認め、さらには「アイヌ協会」が推薦状を出すことで、北海道や札幌市からの支援が受けられるのです。また、アイヌ協会の認定ルール上は「戸籍等の客観的な資料」および「家系図などの系譜を示すもの」で「判断する(アイヌ協会が)」とありますが、実際には、既に閲覧禁止となっている壬申戸籍の時代ならばともかく、今現在の戸籍制度上はかつての身分を確認することはできません。
 これは「壬申戸籍オークション騒動」の際に、法務省から「身分などが分かる」ことを理由に改めて報道発表された通り、実際には「身分が分かる戸籍」を公的に入手することは不可能です。
 つまりは、公的な資料はなくても、アイヌ協会が認定すればアイヌであり、アイヌ協会が推薦状を出せば助成の受給資格を満たせる、という図式です。
 そしてまた、今年2月の予算委員会で丸山穂高衆院議員が指摘した通り、「アイヌ支援」の前提となっている「アイヌ生活実態調査」も、これもアイヌ協会が「協力」して行うものです。
 つまりは公的な「アイヌ基準」がないから行政としては「どこの誰の世帯を調査すべきか」をアイヌ協会に依頼するよりほかなく、結局はアイヌ協会による「機縁法」つまりは「有為抽出法」ですから、これを「実態調査」と称するのは統計的に正しくないでしょう。
ましてや実施団体が利害関係のある「身内組織」ですから、なおさらバイアスが加わる可能性を否定できません。結果、アイヌ協会が認定したアイヌの「生活が苦しい」「進学率が低い」といった「生活実態」に基づいて、まだまだ助成が足りていない、という主張に繋がっています。
 こうした状況の中、とうの昔に国会では「今後は特別な支援は不要である」と説明されたはずのものが、自治体レベルでは支援が継続して行われているという、どこかで見覚えのある構図が存在しているわけです。
 さて、やっとここで本題の「アイヌ新法」です。正式名称は「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」。国会に政府提出され、可決された法案であり、その問題点に気が付いておられる方々は決して多くはありません。
 まず、正式名称に掲げられている「アイヌの人々」。これ、どういう意味でしょうか。むろん、一般的にイメージされる「アイヌ」の方々を指していることは分かりますが、では「法律」として考えたときに、かつての「北海道旧土人保護法」はすでになく、現状、自治体レベルで「支援を希望する者」への受給要件に「アイヌ協会の推薦状」が必要とされているだけで、法的には「アイヌの人」を区分する法律・法制度はありません。
 さらに、第1条には「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の…」とあります。先の通り「アイヌの人々」が定義できないうえに、今度は「先住民族」です。
 日本列島は、沖縄から北海道まで、当時の縄文人が北から南まで交流していました。その後、ロシア北東部から北海道東部に渡ってきたと考えられるオホーツク文化人や、さらに続いていくつかの部族ごとに渡ってきた方々との混交の末にアイヌ文化が成立したとされています。
 つまり、先住性でいえば、元から日本中に住んでいた縄文の血統こそが先住民であり、大陸北東部から渡ってきた方々との混交で生じたアイヌは、むしろ「後発」なのです。
 これは縄文期の遺跡から発掘された人骨や、その後の時代のアイヌの方々の遺跡の人骨、それから遺骨、さらに大陸北東部の諸部族の方々のDNAを比較分析することで判明した科学的な事実であり、北海道には最初からアイヌが住んでいたという主張は幻想に過ぎません。
 また「先住民族」というワードは、特に国際社会においては「先住民族の権利に関する国際連合宣言」とセットで用いられるため、非常に危険です。
 これはつまり、オーストラリアのアボリジニやニュージーランドのマオリ、北米のネイティブアメリカンや南米のインカなど、それまで白人(異民族)文明とは無縁に過ごしていた「先住民族」を、大航海の末にたどり着いた白人が蹂躙(じゅうりん)し、土地や財物を略奪し、虐殺したうえに勝手に住みついて、その揚げ句に、今度は「保護が必要だ」として「彼らは元から住んでいた『先住民族』だ。その権利を守り、彼らの文化を維持するための義務(略奪者の責任)を負う」ための宣言です。
こうした観点から見れば、日本におけるアイヌの存在は、その当初から交流・混交による成立であり、またその後も常に交易を行っていた(それも日本だけではなく、ロシアや中国とも交易していた記録があります)のですから、無縁の異民族による突然の侵略といった歴史もありません。
 そして「アイヌは先住民族」を法律上に明記することは、世界の先住民族の虐げられ、滅ぼされた歴史と同じことを、日本がアイヌに対して行ったものと解釈される危惧があります。
 しかも、国会で行われた予算委員会における安倍晋三総理の発言がこれです。
 「アイヌであることの確認に当たり、北海道アイヌ協会理事長等の推薦書の提出を求めているところでありまして、同協会においては、戸籍等の客観的な資料をもとにしながらアイヌであることを確認した上で推薦書を作成しているものと承知をしております」
 安倍総理に、アイヌであることは「アイヌ協会が確認」し、かつ、法的には旧身分が分かるはずもない「戸籍」を資料にしている、と語らせてしまいました。
 「戸籍等」とあるから戸籍だけで判断しているわけじゃない、というのは詭弁(きべん)でしょう。合理的な客観資料が存在するのならば、それを筆頭に挙げれば良いだけであって、それを語らずに「戸籍等」と記載する必要があるとは言えません。
 むろん、失われつつある文化の保護や継承は大切ですし、日本の郷土文化の一つとして尊重し、伝統を未来に繋げていく必要性は誰も否定できない「文化事業」でしょう。
 けれども、このような状況の中、誰がアイヌかも、どのようなアイヌ差別が今なおあるのかも、そうした認定や統計調査をアイヌ協会が担ったままで策定された政策を基に、新たな法律を制定して良いものでしょうか。
 批准済みの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の再検討も含め、国会においてはアイヌ新法への議論を充分に尽くしたうえで、国策としてどのように判断すべきであるかを是非とも検討していただきたいと願います。
※「土人」は、現代では不適切な表現ですが、かつて存在した法律名として記載しています。
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kotabrog · 6 years ago
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リスクをとれば成功できるのか?
挑戦にはリスクがつきものです。
企業をするのにも、転職をするのにも、同じ仕事をずっと続けることもある意味でリスクがあります。
では、リスクをとればそれだけリターンが大きくなるのでしょうか?
例えばギャンブルだったら、低い確率のものにかけた方がリターンが大きいでしょうけど、現実はそう単純ではありません。
今回はそんな「リスク」についての話をしていきたいと思います。
リスクは本当に必要なのか?
名だたる成功者は、やはりその代償に大きなリスクをとっているのではと考えている人も多いかと思います。
例えば何億円も借りたりとか、仕事も家族もすべて投げ捨てて企業をするとか。
しかし、実際はそうではありません。
例えば、Googleの創業者であるラリー・ペイジとセルゲイ・プリン���、学業を続けながらGoogleを立ち上げました。むしろ大学院を途中でやめることを不安に思い、Googleを売ろうとしたくらいでした。
かの有名なビル・ゲイツは、学生を続けながらソフトウェア開発をして販売し、そして仕事に専念しようというときにも、大学を辞めるのではなく休学し、失敗したときのために備えていました。
このように成功している人こそむしろ大きなリスクをとらずに、失敗に備えたうえで、活動を行っていたのです。
このことは研究によっても示されていて、本業を続けながら企業をした人の方が、やめた人よりも、失敗の確率が33パーセントも低かったそうです。
リスクをとればいい、というわけではない理由
ではなぜリスクを取る人よりも、リスクを避ける人の方が成功するのでしょうか。
そもそも、成功をした人たちの話を聞くと、その輝かしい経歴などから順風満帆にいったのではないかと想像してしまいますが、ほとんどの場合がそうではありません。
むしろたくさんの失敗を重ね、そのうえでやっとうまくいったということの方が多いです。
ですので、もし挑戦するごとに大きなリスクをとってしまったら、挑戦を継続することができず、失敗を積み重ねたその先の成功まで手が届かなくなってしまうのです。
例えば、トーマス・エジソンはこのように言っています。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」
リスクをできるだけとらずに挑戦し続ければ、いずれは成功できる。そう思えば、失敗さえも成長に変えられるわけですね。
そのようなマインドの話は以前しているので、もしよかったらこちらの投稿もどうぞ。
やる気を上げて前進するための3つのステップ
リスクとの向き合い方
リスクはできるだけ軽減させ、挑戦を続けることこそが、成功の秘訣であることは、多くの成功者が証明しています。
しかし、多くの人が「挑戦をしない」という大きなリスクを背負っています。
例えば、株の知識がない人でも、1社の株だけを持っていることはリスクになりそうだとわかるのに、それを人生の中でもかなり大きな割合をしめる仕事でやってしまうのはかなり危険なことです。
それでもそういったことをしてしまうのにはいろいろな理由がありますが、その一つが「現状維持バイアス」です。
人は、新しいことより、安全であることを知っていてリスクが少なそうな現状を大きく評価してしまいます。
だからといって大きなリスクをとりに新しいことにどんどんチャレンジするべきかというとそうではなく、結局はバランスが大事なわけです。
変化がより激しくなっていくこれからの時代に備えるために、今のうちに小さなリスクで挑戦を重ねてていきましょう。
参考文献:ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代(アダム・グラント)
ps
このブログや、現在頑張っているプログラミングも、リスクを最小限にした私の挑戦です。
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soltacemrv112 · 6 years ago
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自己心酔とエモい
—————————まとめ---------------------------
エモい人と自己心酔者の決定的違いはネガティブな感情に争うか、どの感情にも争わないかの違いだろう。
エモい人はネガティブな感情を避けるために巧みさと強さを学び「幸せな人生」という作品を作る老師で、自己心酔者は人生の酸いも甘いも十分に実感した充実者。
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もはや本文ですらない
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エモいという言葉が使われるようになって大分経つけど俺はいまだにほとんど使った事がない。
おれはどちらかというと自己心酔しやすいタイプなのでエモいという感情になる事があまりない。
自己心酔というのは感情に溺れ世界観が感情によって完全に染色されてしまうが故に強いバイアスの掛かった世界を見てしまう人々で、故に人間関係に問題が生まれたり独善的になったりする。独自性が強いため、同じ経験をした人であっても自分と他者との間にハッキリとした境界を設けてしまい、共感をし合う機会が極端に少なくなる。
一方でエモいという感情は淡い感情に軽く溺れつつも俯瞰しているために、その感情を一般化(みんな同じような経験をしているという具合の理解に)できる。そのため他者に共感されやすく、寧ろ人間関係が促進される。
だが、自己心酔者はエモい人と違って強い結合を望める。エモい人が強い結合を生むためには継続的に共感し合う必要があるが、自己心酔者同士は決定的な一つの共感要素だけで強い結合が生まれる。
しかし、自己心酔者は感情の安定性に欠ける。一つ一つの感情の変動に完全に流されるためにその感情を更に助長してしまう。
エモい人は継続的に多種多様な人々と共感関係を結べるために自己肯定感などのような自分についてのポジティブな理解を維持しやすい。
その他諸々あるけど書くのだるいから中断。
バイトが再開してまた集中力がゴミになった。今日も4時間半しかやれてない。
バイトがあると勉強するとバイト中眠くなるんじゃないかっていう不安になるのよね。
次はResistanceについて書きたい。
人は感情の変動に対してどのように抵抗し安定を図っているのか。
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自己心酔とは
a-感情に溺れる事
そうなるとどうなる
a-世界観は感情によって染色され、他者に主観的すぎるという印象を与える
それは悪いことか
a-バイアスの掛かり具合は過剰になる故に誤認知が増える反面、それによって実感は増える。
それは良いことか
a-誤認知等によって人間関係に問題が生まれうるが自分の感情のままに生きられている実感が強いので当事者はあまり気にならない。他者からしたら悪いが当事者からしたら良い。独善的になりやすいし仮に感情がネガティヴだった場合当事者もそれに完全に支配されてしまう。
エモいとは
a-淡い感情に溺れながら、それを俯瞰している状態
自己心酔との決定的違い
a-自己心酔は他者との間に境界ができてしまい世界観の違いから人間関係の問題に発展するが、エモい状態では感情に心酔しきらないので境界が生まれない上に感情表現が安易であるために共感を得やすく他者も安易に関与できるため寧ろ人間関係が向上する。
エモいと関与しやすいのか
a-単純に大多数の人間が心酔しないが故にシンパシーを感じる人間が多いというだけであって、心酔している人間からしたら関与し辛い。
じゃあ心酔している者同士であれば関与しあってるのか
a-独善的であったり独自的すぎるためそれほど関与しあっていないが、部分的にシンパシーを感じ合うと強い心の結合が生まれる
エモさには強い結合が生まれ辛いのか
a-エモさは一つ一つの感情への固着が強くないので、強い結合が生まれるには連続的なシンパシーが必要になる。自己心酔者が怒りの感情一つで結合できるのに対して、エモさは怒りの感情だけでなく喜びや悲しみ等を連続的に共感しなければならない。
それは悪いことなのか
a-強い結合が必ずしも良いとは言えないのと同様に強い結合が生まれない事が必ずしも悪いとは言えない。緩い共感が断絶される事なく永続的に維持されることは心の安定にとって非常に重要だ。
心の安定の人生の激しさどちらが良い
a-心の安定の方が一見幸せそうに見えるが、人生の激しさは強い実感を生むのでどちらとも言えない。淡いポジティブな感情だけに満たされていると不幸に対する抵抗力が低くなるので、激し��感情の揺れ動���に対する強い抵抗力を持つ人間の方が人生という荒波でき生きる上では強いかもしれない。
じゃあ前者はよくないのか
a-正確に例えるなら前者は巧みさを極める老師、後者は激しい感情に抗える強さを鍛錬してきたResistance。
後者の説明は自己心酔者に当てはまるか
a-当てはまらない。彼らは感情に抵抗しない。感情をそのままにするか、むしろ強調する。負の感情はさらに負の感情へ突き進む。心酔者は良い意味でも悪い意味でも調子者だ。
Resistance及び老師と自己心酔者の決定的な違いは
a-あらゆる感情変動を平均に近づける者と、あらゆる感情変動の一つ一つをさらに強調させ感情の振れ幅を大きくする。
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copyoffice · 6 years ago
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このところ日本社会が急速に貧しくなっていることは、多くの人が自覚しているはずだが、一連の状況はすべて数字に反映されている。 日本の労働生産性は先進各国で最下位(日本生産性本部)となっており、世界競争力ランキングは30位と1997年以降では最低となっている(IMD)。平均賃金はOECD加盟35カ国中18位でしかなく、相対的貧困率は38カ国中27位、教育に対する公的支出のGDP比は43カ国中40位、年金の所得代替率は50カ国中41位、障害者への公的支出のGDP費は37カ国中32位、失業に対する公的支出のGDP比は34カ国中31位(いずれもOECD)など、これでもかというくらいひどい有様だ。 日本はかつて豊かな国だったが、近年は競争力の低下や人口減少によって経済力が低下しているというのが一般的なイメージかもしれない。だが、現実は違う。 先ほど、日本の労働生産性は先進各国で最下位であると述べたが、実はこの順位は50年間ほとんど変わっていない。日本経済がバブル化した1980年代には、各国との生産性の差が多少縮まったものの、基本的な状況に変化はなく、ずっと前から日本の生産性は低いままだ。1人あたりのGDP(国内総生産)が世界2位になったこともあるが、それはほんの一瞬に過ぎない。 (…) 生産性や輸出シェアの数字を検証すると、ひとつの特長が浮かび上がってくる。 日本は1960年代までは敗戦の影響を色濃く残しており、社会は本当に貧しかった。しかしオイルショックを経て、70年代の後半から日本は徐々に豊かになり、バブル期には一時、欧米各国に近づくかに見えたが、そこが日本のピークであった。   日本は「昔、豊かだったが、今、貧しくなった」のではなく、日本はもともと貧しく、80年代に豊かになりかかったものの「再び貧しい時代に戻りつつある」というのが正しい認識といってよいだろう。 (…) パナソニックに限らず、日本企業の多くは、欧米企業がヒット商品を出すと、すぐにそれを真似して(今の言葉で言えばパクって)、より安い価格の製品を出すというのが定番商法だった。 (…) 「日本人にはイノベーティブな製品を発明する能力はないが、既存製品を改良する優れた技能があり、それが日本人のパワーだ」とポジティブに捉える日本人は少なくなかった。 当時、安値販売に邁進する日本メーカーの影響で、多くの欧米企業が倒産に追い込まれたが、国内世論は「安くて良いモノを出す企業が勝つのは当然だ」という雰囲気であり、路頭に迷う外国企業の社員について配慮すべきだという声や、顧客はよいモノに対して高いお金を払うべきだといった議論はほぼ皆無であった。 (…) つまり、マネシタ電器という言葉は100%悪い意味ではなく、賢くて商売上手であるというニュアンスが含まれており、むしろ、パクり商法で利益を上げることこそが、弱小国家が生き残る道であるとポジティブに評価していたのだ。 だが、バブル期を経て、社会が多少、豊かになり、日本人は自らの技術力を過信し、昔から傑出した技術大国であったという錯覚を持つようになってしまった。 この基本認識の違いが、現状維持のバイアスを強く発揮することになり、結果として孫氏が指摘するように「衰退産業ばかりにしがみつく」結果をもたらしている。
日本はもはや後進国であると認める勇気を持とう | 加谷珪一 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
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kiitatakita · 6 years ago
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聴講メモ 堀部政男情報法研究会・森田朗行政学研究会共同シンポジウム ~個人情報保護法の見直しと医療・防災における個人情報の利活用~
聴講時に入力したメモです。断片。配布資料等からのメモも引用符はありません。 聞き取り間違い等、あります。おかしな部分は記録者のせいです。
開催案内:https://horibe-morita20190820.peatix.com/ 日 時:2019年8月20日(火)10:00〜17:30 会 場:津田塾大千駄ヶ谷キャンパス 主 催:堀部政男情報法研究会・森田朗行政学研究会 共 催:一般社団法人日本ユーザビリティ医療情報化推進協議会(JUMP)     一般財団法人情報法制研究所(JILIS) 後 援:個人情報保護委員会     国立研究開発法人科学技術振興機構 社会技術研究開発センター      理化学研究所AIP(依頼中)     情報法制学会(ALIS)     情報ネットワーク法学会     一般財団法人日本情報経済社会推進協会     一般財団法人日本データ通信協会     株式会社KDDI総合研究所
(以下、敬称略)
※午前は聴講できず。メモ無し。
総合司会:高野一彦 関西大学教授・堀部情報法研究会理事
開会 10:00 開会の挨拶 堀部 政男 堀部情報法研究会 会長
第1部:我が国における個人情報保護法制のこれから
10:05〜10:35(30分) 1.基調講演「個人情報保護委員会の設置と役割」   堀部 政男 一橋大学名誉教授、前個人情報保護委員会 委員長、KDDI総合研究所 招聘研究員 10:35〜10:55(20分) 2.個人情報保護法三年ごと見直し(法改正)に向けて(ビデオ)  宍戸 常寿  東京大学教授 10:55〜12:30(95分) 3.パネルディスカッション 「個人情報保護法の見直し:中間整理とパブコメ」 司会:高野 一彦  関西大学教授 小向 太郎  日本大学教授 佐脇 紀代志 個人情報保護委員会事務局 鈴木 正朝  新潟大学教授・理研AIP・JILIS理事長 山本 龍彦  慶應義塾大学教授
12:30〜13:30 昼食(60分)
第2部:我が国における医療情報の利活用 13:30〜14:00(30分) 4.基調講演「個人情報が命を救う! 〜 医療と防災における個人情報の活用と保護のバランス〜」  森田 朗  森田行政学研究会 会長、津田塾大学教授・東京大学名誉教授、一般社団法人日本ユーザビリティ医療情報化推進協議会(JUMP)理事長
医療情報を活用する、日本の医療、世界の医療の発展のために活用すべき。JUMPで活動。
IT推進本部デジタルガバメント分科会会長。
デジタル化がもたらすもの 先進諸国のめざす方向 マイナンバーの活用推進
『第3の波』でも指摘されているが、IT技術をもっと活用すべき。 個人情報の活用、IT技術の活用にはリスクもある。リスクをコントロール、最小化し、ベネフィットを最大にする。
給付、サービスの最適化 一定の基準で平等、公正に。正確に、早くするために個人IDの活用
民間企業が利益のために活用することによる問題
今日の議論における欠落  比較衡量の視点の必要性  リスクを最小化しつつ、メリットを最大化する リスク”ゼロ”は非現実的  私的企業活動と公共的利用  通常時の制限と非常時の活用 利用制限と収集制限   収集しても利用を制限する方法もある  制度整備の促進を 被害者の救済策と被害拡大の抑制   ある程度のリスクが発現した場合に、どうやって被害を最小化するか
現代の医療  疾病構造の変化 高齢化と生活習慣病  医療技術の発展 個別化医療 希少疾病  医療政策の転換 治療から予防へ これらを実現するためには、全国民についての生涯にわたる健康情報の蓄積が必要 PHR
医療分野における情報活用 1.個々の患者に対する最適な医療の提供 2.生涯にわたる国民の健康管理 3.医学及び医薬品・医療機器等のイノベーション 4.医療資源の最適配分 5.医療保険財政の持続可能性
国民IDと情報の結合  全国民に付番されたIDに基づいて、各所に保存されている健康情報を紐づけられることが必要  →個人情報保護との調整が必要  現状:レセプト(NDB)、DPC、がん登録、特定健診等の既存のDBの結合が課題  医療分野におけるIDの活用は決定済。ただし、マイナンバーは使用しない。被保険者番号を使用し、識別子を使って過去の被保険者情報と結合  ①研究・開発のために匿名化されたビッグデータの活用  ②個別患者の治療において、過去の診療情報の活用を可能に    機微性の高い情報にどうやってアクセスするか
医療等情報の連結推進に向けた被保険者番号活用の仕組みに関する検討会 https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_05744.html
災害時の個人情報活用  災害時   多数の被災者と限られた救済資源   効率的な安否確認、家族等の安否・所在確認の必要性   医薬品等の必要物資の調達とデリバリー   避難所での生活支援  海外   ID(カード)の活用による情報の結合と共有   非常時における本人確認と救済支援活動の効率化   日常的な個人情報システムの整備   個人情報保護の仕組みと有効かつ効率的システムの構築 リスク評価を含む費用対効果の分析
非常時に使うためには平時に情報の蓄積が必要だが、リスクを無視していいというものではない。 比較評価をして、便益、リスクを取捨選択しなければならない
システムを作るときのコストは産出されるが、長期的なベネフィットは試算されていない
14:00〜14:30(30分) 5.「個人情報保護と医療・医学研究 憲法の観点から」  曽我部 真裕 京都大学教授
基本権同士の調整の問題 情報法の問題であるとともにその背景にある憲法の問題でもある
多くの憲法学者は、憲法で保障されるプライバシー権には自己情報コントロール権が含まれ、個人情報保護制度はそれを具体化したものであるとする。
憲法学説の主流:自己情報コントロール権説  憲法13条で保障 プライバシー権理解は私人間にも通用
佐藤説 道徳的自律存在としての個人
自己決定の観念  実定法上、どの程度貫徹されているか  そもそもなぜ自己決定が必要なのか?
個人情報保護法において同意が果たす役割は限定的  行政機関個人情報保護法では更に余地は限られている。
GDPRではもっと同意のプレゼンスは大きいが、限られている。
それ自体が人格的自律に深くかかわるようなものとは異なり、プライバシーの文脈での情報自己決定は、ごく一部のセンシティブ情報を除けば、それ自体が人格的自律に関わるものでは必ずしもなく、手段的なものだと理解される。
社会通念上不当な取り扱い及びそれに起因する不利益を防止するのが目的で、自己紹介・同意の要素は基本的はそのための手段
「同意」は本当に有効か
医療の発展による社会全体の便益 学問の自由 介入制限 研究者共同体の自律
個人情報保護法76条1項3号の趣旨は? 実体法的? 権限分配的?
2000個問題 研究倫理指針
規制の統一性
論究ジュリスト24号
14:30〜15:00(30分) 6.「医療分野におけるAIの活用と法的課題」  新保 史生  慶應義塾大学教授
汎用型AIの開発は途上 薔薇色の夢から現実的な用途へ
AI利用への信頼は?
AIによる読影 医師の診断と異なる場合は?
インフォームドコンセントが意志の責任軽減の手段になってしまう?
希少疾患は患者が分かってしまう確率が高い。通常の疾患でも6割程度は特定可能
過剰反応と過小評価
カルテ等の診療情報の活用に関する検討会報告書
診療録の作成・保存は義務
責任の所在が問題
東京地判平成7年7月28日  承諾が必要
自己決定を由来としてインフォームドコンセント
説明すればいいのか?
自己情報の開���請求権の行使という考え方もできる
21st Century Cures Act
第3部:我が国における防災情報の課題 15:15〜15:45(30分) 7.「防災と名簿」  加藤 尚徳  KDDI総合研究所・理化学研究所AIP
防災と2000個問題 南海トラフ地震 要配慮者名簿の取扱
医療トレーサビリティ推進協議会
真備地区の水害と個人情報の問題  避難所により避難者情報の取扱いに違い  体育館に紙の名簿を張り出すところもあった  受付票の電子化を住民が申し出たが、個人情報への配慮から行われず  別の小学校では住民の個人のPCで入力し、出力したものを張り出した
協力機関に受付票は開示されなかった
被災者 「何回も何回も、同じことを聞かれた」
発災する前に必要な情報は取得する必要がある
倉敷市連合医師会  個人情報保護の観点から情報が共有できない  どこに誰がいるのかさえ分からない   昼間、作業している人に晩御飯がない…  必要な支援に繋げられない   在宅被災者の問題 自宅から動けない人と医療
指定避難所に逃げられない 名簿の重複とメンテナンス
災害に関連した3つの名簿  要支援者名簿…事前に名簿化   共有前提 要支援者の定義にばらつき 手上げ方式  避難所名簿   複数作られる 管理者不明・不在の名簿 名簿の拡散  被災者台帳…行政(基礎自治体)が作成 住基台帳とリンク   罹災証明の発行に使われることも 物が中心
3つの名簿は相互関係がないので、紐付けできない
基礎自治体ごとに作られるので、リンクしない 非住民は捕捉できない
単一ID(国内)を使った紐付け+お薬手帳、レセプト、銀行口座、センシングデータ 等々
IDの悉皆性を担保できるか 異同を捕捉できるか 時間軸の中でシームレスに繋げられるか 他の情報追加できるか
レセプトデータ(GS-1コード)
第4部:総 括 15:45〜17:20(95分) 8. パネルディスカッション 「防災、医療と個人情報の利活用」  司会 森田 朗 津田塾大学教授/JUMP理事長  鈴木 正朝  新潟大学教授・理研AIP・JILIS理事長  山本 龍彦  慶應義塾大学教授  加藤 尚徳  KDDI総合研究所・理研AIP
す 3・11で問題が浮上。もう1つの問題は老々介護。医療・防災についてはみんなが考えてくれる。具体的な利活用の問題はシンパシーを得やすい。共通、具体的な問題から考えていく。
や 医療IDを用いた連携については監視国家論からの批判があるが、自分は肯定的である。自由の促進の面もある。システムを作り、どういう場面でファイアウォールを引き抜くのか?医療情報の利用目的は多様。「公共の福祉」の濫用は不信感を招く。製薬会社がどれくらい責任を持つのか?AI関係ではデータの偏りの問題がある。少数派の診断の品質。 スマホを持っていない人の情報は取りこぼされる。
か 防災の場合は、FWを引っこ抜く時期は明白だが、事前の情報収集をどう進めるか。IDがないが故のFW無し状態。バックグラウンドで動くIDは不可欠ではないか。
も 行政の現場で、どういうときに何が必要なのか。認知症で独居の高齢者をどうやって助けるのか。その人達に同意を取るということは?
す 日本の戸籍制度は世代間を貫いて情報が整理されている。一方で、新たなDBは腫れもの扱いされている。 平時の有事に備えた名簿整備は生存権に関わる。法制度が父権主義的に立ち入ることについて提示し、反応を見てもいいのではないか。理論を緻密に積み上げ、やっていいこと、やってはいけないことを考える。
や 同意至上主義、同意絶対主義というのは、どこの地域、どこの国でも取っていない。リスクを防ぐための保護を先に考える必要がある。リスクを踏まえた制度作りが必要。集合的同意の調達と制度 地域包括ケアにおける同意の弊害については、平時のFWであり、発災時の利用をどうするか、正当に使うことをどうやって担保するか。
か 「同意」といった場合、誰に対する同意なのかで違ってくるのではないか。対国家と私人間では違うのではないか。p2pかc2pか2gか。主体をベースに考えられていた同意が、目的に依ってくるのではないか。 データ活用における財政目的をどう考えるのか。
や 保険医療制度の維持と密接に関係している。パブリックなインタレストとガバメントのインタレストが混同されることがある。財政はパブリックというよりもガバメントの利益。ガバメントの利益であることを正面から言って、説明を尽くす。ナッジの議論、健康ファシズムの問題。ナッジが効きすぎると強制になってしまう。
も 財政上に必要なのはアグリゲートされたデータ。個票ベースのデータは必要だが、必要なのは蓄積と数量。エビデンスベースドポリシーメイキング 基礎データを集めておくことは国民にとってプラスになるが、何の為に、誰に使わせるかは注意が必要。 データを資源としてどのように評価するか。
す 金の切れ目が命の切れ目になるのが社会保障制度の問題。国内の分断が共感ベースでの社会保障を切断しかねない。憲法がどこまで支えてくれるのか。 DBの便益を最大化し、リスクを最小化するために、憲法が防波堤になるように、今のうちに検討すべきではないか。大きな弊害の前哨戦として。 最低限をどこに設定するか、価値観の確認をしたい時期。
や 憲法が要請している福祉国家の在り方自体を再検討すべき時期であるということには同意する。どこが民主主義に委ねることができない部分か。救貧の部分はそれであるが、防貧と混同されている。生活保護制度は救貧である。
か 組織的なボランティアは情報もきれいに使う。海外での支援の経験があり、費用についても計画的。精神論で乗り切るのは勘弁してほしい。根性論で社会設計して、根性論で乗り切れというのはあんまりだ。データを蓄積して分析していくことが必要。防貧の面でお金を削っても生きていけるだろうというのは根性論。データを積み上げ、緻密に見ていくべきではないか。
す エビデンスベースで政府を小さくしていくというのが大局であろうが、様々なデータで支えていくしかないだろう。濫用を規制し、どのようなデータを集めるかはパターナリスティックに政府が進めるしかない。この分野に注力するというのを決める。濫用抑止の為に透明性を高めて欲しい。資格の確認、直罰規定などで確認ができるように、権力側の動きを可視化できるように、制度を作ったうえで、プログラムによる社会へ。愚行権と全体に関わる部分の切り分けが必要
や ボランティアに税制的な優遇措置やポイント付与というやり方もあるし、スコアと結びつけるやり方もあるが、それも問題が出てくるのではないか。
か 仕組みがないと情報が使えない、情報が保護できないというところがある。情報管理の仕組み、資格を作って、災害時の情報管理を行うということはどうだろうか。防災の局面では必須ではないか。
も 情報をどうするかということを考えるときに、自由権が重要ではあると思う。 20世紀の後半からは受給権が重要になってきた。「健康で文化的な最低限度の生活」をエビデンスに基づいて決めるためにはきめ細かいデータが必要ではないか。
や どれくらいのお金が必要で、どのようなアーキテクチャが必要なのか、エビデンスに基づいて国民の同意を得ることが必要。データを出すために、どれくらいの特定性が必要なのかは重要。マイナス面をきちんと言っておくのは必要。
も 民主的に政治で決めると言った時に、1票の価値を厳密に同じにするということはどれくらい重要か。
や 最高裁は1対1を憲法は厳密に要請してはいないとしている。
も 都市部の利益が反映されやすい。政治的なバイアスが出てくるのではないか。選挙制度のもたらすバイアスをどうやって是正するか。 世代ごとに代表権を変えるという議論もある。少なくともそういう事実がある���いうことをデータとして出していく、その為のデータ収集は必要。
す エビデンスの一定割合は個々人のデータになり得る。ルールメイキングをする場所をある程度、収斂していく必要があるだろう。人口減少で地方自治が全うできないという段階に至った時に、地方の仕事と中央の仕事を仕分けていくときに、個人情報の扱いを寄せていく必要があるのではないか。 広域災害時のルールはどうなるのか。法治国家の空白ができてしまうのか。テロの時はどうなるのか。先送りはできない。今回の改正でどうなるのか。
も AIが入って来た時にどうなるのか。
や 医療、防災とAIではデータの偏りが気になる。どういうデータを使ったのかが重要になる。マイノリティを弾いてしまうということがあり得る。アルゴリズムの適正さ、データの公正さをチェックする機関が必要になるのではないか、検証可能な仕組みも必要では。
か AIとデータの処理という観点から考えると、偏りによる差別をどう防止するか。処理の禁止、処理に付されない権利の保障、処理に対して異議申し立てをできる権利が考えられるが、最後のものが重要ではないか。 探索の為に解析する段階では広範なデータが必要になる。防災のように万人の命が懸かっているものについては、対象からの除外ではなく、結果に対する異議申し立てが最適ではないか。
す 防災においてはAIによる意思決定支援が初動段階ではあっていいのではないか。 日本はAIでも劣後するのではないか。ゴミデータではなく、構造化され、クレンジングされたデータがでてきた時に初めてAIを使えるのではないか。 やってはならないことをピン止めする。
も AIを入れなかった場合、なんでやるのか。開業医の高齢化が進んでいる。支援をさせる仕組みを入れる方が良いのではないか。高齢者の運転事故の問題もある。災害の場合、非日常の判断を求められる。判断の支援を積極的に考えて良いのではないか。
閉会 17:20〜17:30 閉会のことば  森田 朗   森田行政学研究会 会長
何の為に法制度があるのか。日本社会が変わりつつある今、維持するために、何をすべきか。 基本的なデータを集め、利用については厳しいチェックを入れる。FWを具体的にどのようにしていくのか議論すべき。
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moko1590m · 1 month ago
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人は必ず領土化(ドゥルーズ)して安らぎを求めます。「どんな狭い場所でも、人は習慣をつくり、それに縛られて眠る」という言葉でも表現できると思いますが、他にもいろいろな短い表現の仕方があると思います。できるだけたくさん短い表現や簡潔な具体例をできるだけたくさん教えてください。
ドゥルーズ(とガタリ)の「領土化(territorialisation)」の概念を踏まえた、人間の習慣化・縄張り化する性質に関する短い表現や具体例をさらに挙げます。
哲学・心理学的な短い表現
「習慣が領土を刻む」
「日常の地図を描く」
「無意識の縄張り」
「反復が領土化する」
「身体が場所を記憶する」
「マイクロ・テリトリーの創造」
「安定のための記号化」
「秩序の柵(さく)を立てる」
「慣れの領有(appropriation)」
「時間を空間化する」
具体的な行動例
「ベッドの位置を1cmもずらせない」 → 微小な領域への執着
「通勤ルートを絶対に変えない」 → 移動経路の領土化
「カフェで同じ席に固執する」 → 空間の占有化
「スマホを置く位置が決まっている」 → オブジェクトの配置による安心
「トイレの個室でいつも同じを選ぶ」 → 匿名空間でのささやかな領有
「災害時でも私物で縄張りを示す」 → 非常時におけるテリトリー形成
「SNSのプロフィールを過剰にカスタマイズ」 → 仮想空間の領土化
「職場のデスクに家族写真を並べる」 → 記号による空間の意味付け
「公園のベンチで毎日同じ時間に座る」 → 時間的領土化
「車内でしかリラックスできない」 → 移動空間のパーソナル化
比喩的・詩的な表現
「人は歩くたびに見えない柵を建てる」
「習慣は目に見えない杭(くい)で地面を区切る」
「反復が砂漠にオアシスを描く」
「不安を領土化で埋める」
「所有しないが、占有する」
「わずかな隙間にも巣を作る」
「時間を杭で打ちつける」
「記憶が場所を縛る」
「無意識が柵を巡らせる」
「わずかな秩序が荒野を飼いならす」
ドゥルーズ・ガタリ的な言い回し
「欲望が地面に線を引く」
「リトルノマド(小さな遊牧民)の定住化」
「器官なき身体(Body without Organs)に記号を刻む」
「脱領土化への抵抗」
「ささやかなストラタ(層)の形成」
必要であれば、さらに理論的な補足やバリエーションを加えることも可能です。 例えば、領土化と「脱領土化(deterritorialisation)」の対比や、動物のテリトリー行動との比較なども深められます。
人間は、自分に似たものを好む、という意味合いの短い表現や簡潔な具体例を、できるだけたくさん教えてください。
「人間は自分に似たものを好む」という性質は、「同質性の引力」「鏡像選好」「共鳴する他者への傾斜」などと表現できます。以下に短い表現と具体例をまとめます。
短い表現
「類は友を呼ぶ」(ことわざ)
「鏡の法則」(自分に似た人を引き寄せる)
「共鳴する他者」
「似た者同士の磁力」
「自己投影の快楽」
「同質性の引力」
「似た波長を探す」
「自分を映す鏡を求める」
「共犯者的な安心感」
「クローン選好」(無意識に自分と似た人を選ぶ)
具体例
「同じ趣味のコミュニティに集まる」(例:オタク文化、スポーツファン)
「恋愛で似た価値観の相手を選ぶ」(「自分に似た顔の配偶者」というデータも)
「職場で同世代と群れる」
「SNSで意見の似た人をフォロー」(エコーチェンバー現象)
「方言や話し方が自然と同化する」
「ファッションや音楽の好みが友人と似る」
「政治的信条が近い人と結婚しやすい」
「ペットが飼い主に似る」(顔や性格の類似)
「同じ悩みを持つ人に惹かれる」(自助グループなど)
「���文化圏でも『自分に近い』と感じるものを選ぶ」(例:日本人観光客が和食店を探す)
比喩的・心理学的表現
「脳は自分を肯定する信号を求める」
「魂の共犯者を探す」
「無意識の自己複製」
「安心のループを作る」
「社会的身ごもり(自分と同じ意見の胎内に閉じこもる)」
「認知的不協和を避けるための同類選び」
逆説的な表現
「違うものを嫌うよりも、似たものを愛している」
『多様性』を掲げる人々でさえ、結局は似た者同士で固まる」
「人間は『違い』を学ぶために、まず『似たもの』に群れる」
必要であれば、さらに「同類選好」の進化的な理由(遺伝子の利己性、集団生存戦略)や、SNS時代の「フィルターバブル」問題なども掘り下げられます。
人間は、自分のレベルに合ったものを好む、という意味合いの短い表現や簡潔な具体例を、できるだけたくさん教えてください。
「人間は自分のレベルに合ったものを好む」の短い表現
「足の届く果実を選ぶ」
「背丈に合った棚の物を取る」
「コンフォートゾーンに収まる」
「自分サイズの世界を構築する」
「無理のない共鳴を求める」
「等身大の快適さ」
「実力相応の選択」
「背伸びしない安心圏」
「釣り合いの取れた関係性」
「自分にフィットする環境選び」
具体例
「英語が苦手な人は、日本語で完結するSNSを使う」
「収入に見合ったブランド品を選ぶ」
「運動初心者がいきなりハードなジムに行かない」
「読書レベルに合った本を手に取る(ライトノベル vs 哲学書)」
「自分と同じくらいの実力のゲーム仲間とプレイする」
「音楽の好みが、自分のルーツや育ちと一致する」
「職場で『自分と同じくらいのスキル集団』とランチに行く」
「恋愛で『自分と同等の魅力』と思う相手を選ぶ」
「投資でリスク許容度に合った商品を選ぶ」
「『自分が理解できる範囲』のニュースしか見ない」
比喩・心理学的表現
「認知的な省エネルギーの法則」(難しいことを考えたくない)
「自己効力感の範囲内で行動する」
「『できそう』という感覚が選択を決める」
「背伸びは不安を生み、等身大は安心を生む」
「人間は『ちょうどいい挑戦』を本能的に探す」
逆説的な表現
「『上を目指せ』と言いながら、結局は現状維持を選ぶ」
「理想は高くても、現実は自分に優しい選択をする」
「人間は『成長したい』と言いながら『楽したい』でもある」
この傾向は、「認知的不協和を避ける」「自己肯定感を保つ」「リスクを最小化する���という心理が背景にあります。必要ならさらに深掘りできます!
人間は、自分の限界内の物事歯科認識できない、という意味合いの短い表現や簡潔な具体例を、できるだけたくさん教えてください。
「人間は自分の限界内の物事しか認識できない」の短い表現
「認知の檻(おり)から出られない」
「視界は経験の幅で決まる」
「脳は自分が知っている世界しか描けない」
「理解の地平線の向こうは見えない」
「知識の枠組みが現実のすべてだと思う錯覚」
「思考の歯車は、既存の歯型しか噛み合わない」
「未知は盲点になる」
「想像力の天井」
「言語化できないものは存在しないも同然」
「認知バイアスの牢獄」
具体例
「数学を知らない人が『宇宙の真理』を議論できない」
「江戸時代の人がスマホの概念を理解できない」
「色盲の人が『赤』の感覚を説明できない」
「貧困の経験がない人が『生活保護の苦しみ』を想像できない」
「AIについて無知な人が『シンギュラリティ』を妄想で語る」
「外国語ができない人が『翻訳のニュアンス喪失』に気づけない」
「芸術的センスのない人が『抽象画の価値』を感じられない」
「スポーツ未経験者が『プロの技術』を目で追えない」
「民主主義しか知らない人が『独裁政権の思考』を理解不能」
「『痛み』の記憶がない人が他人の苦しみに共感できない」
比喩・心理学的表現
「脳は『知らないこと』を『ないこと』として処理する」
「認知の窓から見える景色だけが現実だと思う」
「経験のフィルターを通さないものは霧の中」
「思考の地図に載っていない場所には行けない」
「言語の網ですくえないものは存在しないも同然」
逆説的な表現
「『知らない』という自覚さえ持てない」(ダニング=クルーガー効果)
「『無知の知』ですら、一部の人間にしか認識できない」
「『限界』を超えるためには、まず『限界』を知る必要がある」
哲学的・科学的背景を含む表現
「カントの『物自体』は認識の彼岸にある」
「トーマス・クーンのパラダイム論」(科学的常識ですら時代で変わる)
「ウィトゲンシュタインの『言語の限界が世界の限界』」
「認知バイアスの沼からは抜け出せない」
このテーマは「認知限界」「無知の壁」「経験依存の認識」などと深く関わります。さらに掘り下げることも可能です!
人間は、自分の理解できる範囲の物事が世界全体だと思い込む、という意味合いの短い表現や簡潔な具体例を、できるだけたくさん教えてください。
「人間は自分の理解範囲を世界の全てだと思い込む」の短い表現
「井の中の蛙、大海を知らず」 (ことわざ)
「認知の檻に閉じ込められた思考」
「個人の世界地図は歪んでいる」
「経験のフィルターが現実を色づける」
「知っていることだけが真実だと思う錯覚」
「脳が作り出した小さな箱庭」
「主観的な世界モデル」
「理解の地平線が世界の果て」
「知識の枠が現実の枠」
「認知バイアスのプリズム」
具体例
「数学を知らない人が『数字で表せないものは存在しない』と考える」
「田舎育ちの人が『都会の生活スタイルを想像できない』」
「現代人が『古代人の思考様式を理解できない』」
「健常者が『障害者の日常を完全には把握できない』」
「異文化を『変だ』と一方的に判断する」
「投資の知識がない人が『株価の動きを単純な善悪で判断する』」
「芸術に詳しくない人が『抽象画はただの落書き』と決めつける」
「外国語が話せない人が『その言語のニュアンスを理解できない』」
「科学リテラシーの低い人が『複雑な問題を陰謀論で説明する』」
「若者が『高齢者の価値観を古臭いと切り捨てる』」
比喩的・心理学的表現
「心の盲点は見えないほど盲点である」
「認知の窓から見える景色が世界の全てだと思う」
「脳は知らないことを無視するようにできている」
「経験という色眼鏡で世界を見る」
「思考のデフォルト設定から抜け出せない」
逆説的な表現
「『自分は客観的だ』と思うほど主観的である」
「『広い視野を持っている』と主張するほど視野が狭い」
「無知を自覚できないことが最大の無知」 (ダニング=クルーガー効果)
「『多様性』を語るほど、自分のフィルターで世界を見ている」
哲学的・科学的背景を含む表現
「プラトンの洞窟の比喩」 (影だけを見てそれが現実だと思う囚人)
「カントの現象と物自体の区別」
「トーマス・クーンのパラダイム理論」 (科学的認識ですら時代制約を受ける)
「ウィトゲンシュタインの『言語の限界が世界の限界』」
「認知バイアスの不可避性」
ユニークな表現
「脳というVRヘッドセット」 (各自が異なる仮想現実を見ている)
「認知のサンドボックス」 (安全だが制限された思考空間)
「メンタル・フィルターバブル」 (自分好みの現実だけを通すフィルター)
「神経的な省エネルギーモード」 (複雑な現実を単純化して理解)
この傾向は、「確認バイアス」「経験依存の認知」「認知的節約」など、様々な心理学的概念で説明できます。さらに深掘りすることも可能です!
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ophelia333k-2 · 2 years ago
Text
duration like a melody
 Twitter、「大学院を出て博士号を取っても、生活保護だからな。恐ろしい時代になったよ。大学で非常勤講師をするよりも、コンビニやマクドナルドでバイトした方が実質的な時給は高いからな。博物館の時給が1000円くらいだが、皿洗いも同じ。専門知識なんて糞の役にも立たないよ。酷い時代だね」(2023年01月28日)というツイートを見る。一応、自分は大学院に行く可能性がある身だけど、そういうことに対してほとんど怒りとかを感じられなくて、「コンビニやマクドナルドでバイトした方が実質的な時給は高い」と言われても、まあそうですよね、という気持ちになる。昔から、マクドナルドのバイトが仕事の中で一番難しいと思っていて(一番というのは誇張にしても)、あんなマルチタスク全開で忙しい仕事、どうやったらできるんだろうって思っていた。社会的に悪い待遇を受けていても、何と言うか、最悪自殺するか、みたいなマインドで、給料を上げろ、とか、待遇をよくしろ、という姿勢が自分の内側から全く出てこない。よくないとは思うけど、どうすれば変えられるんだろう。自分の人生を引き受けている実感がない。ずっと、遠くから眺めているみたいな気分だから。最近、受験や就活は発達障害者を弾くシステムだという言説を目にすることがあって、自分がそうだから、経験上、それは完全にそうなのだけど、じゃあどうすればいいんだろう。会社、に対しても、給料がよくて待遇がよい会社に入りたい、とか、大企業に入りたいとか、そういうことをほんとうに一度も思ったことがなくて、何でもいいから生活をギリギリ維持できるだけのお金をもらいながら、はやく終わりたいといつも思っている。でも、そんな自分だけど、一度、真夏に、派遣で国道沿いの、近くには一軒のドラッグストアしかない終わっている(もちろんほんとうはそこで人が暮らしていて終わっていないのだけど)輸送拠点みたいなところの日雇いバイトをしたとき、ドラッグストアの洗剤とか重たいものをひたすらベルトコンベアに載せ続けるのだけど、完全に肉体労働だから疲れるというのはまずあるし、真夏だから暑いけど半屋外だからエアコンもなくとにかく暑いし、隣では何らかの知的障害がありそうなおじさんが、別の上司のおじさんに怒鳴られているし、そのとき、ここで働いている人たちは、死ぬまでここでずっと怒鳴られながら、重たい箱をただベルトコンベアに詰め続けながら、そうして肉体を滅ぼしながら、死ぬまでここで暮らすんだ、と思って、少し、ちゃんとした企業とかで働かないといけないんだ、みたいな気持ちが湧いた。そうしないと、肉体が壊れていくと。もちろん実際のところどうなのかは知らないし、すべては自分の偏見で、バイアスで、思い込みで、そういうところでも何かしらの確かな幸せがあって満足に暮らしているのかもしれないけど、そう思わせるだけの何かがあった。プロレタリア文学の代表作のひとつである葉山嘉樹の『淫売婦』には、タイトル通りの「淫売婦」が出てくるのだけど、娼婦とかではなくて「淫売婦」であることには理由があって、その女性は病気があって身体を売っているものの、いわゆる高級娼婦とかではないし、通常の娼婦ですらなく、「それは死体だった」と描かれるような、「嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散らばっていた」と描かれるような、文字通りの淫売婦。病のために動くことすらままならない、ほとんど死にかけた淫売婦。主人公は「それ」を、「その瞳は私を見ているようだった。が、それは多分何物をも見ていなかっただろう。勿論、彼女は、私が、彼女の全裸の前に突っ立っていることも知らなかったらしい」と描写する。でも、重要なのはまなざされること。「彼女は瞬(またたき)をした。彼女は見ていたのだ」。「私」が、そんな彼女を見世物にしている男たちを糾弾すると、「皆が病気なんだ。俺達あみんな働きすぎたんだ。俺達あ食うために働いたんだが、その働きは大急ぎで自分の命をすり減らしちゃったんだ」と言う。あれ、どうして葉山嘉樹の『淫売婦』の話をしていたのだろう、あ、そう、その日雇いのバイトをしていたとき、その種の絶望を感じたということ。もちろん、そこまで酷くないとか、自分の場合は単なる日雇いとか、諸々の相違があるけれど、人生と労働について考えたときそのような暗い気持ちになる。それとも、本来、もっと労働は明るくて楽しいものなのかな。あるいは、労働の本質は本来的に暗く苦しいものなのかな。たぶん、後者だと思う。そういえば、昔、葉ね文庫行った時に、自分の詠んだ短歌(もう今は短歌なんて詠まなくなってしまったけれど)を褒めてくれた中年くらいのおじさんに仕事のことを聞いたら、「数十年間、ずっと毎朝、会社に行くの嫌すぎる、と思いながら出勤しているよ」と言っていて、よかったことを思い出した。美しいと思った。そこには欺瞞がなかった。数十年も会社に行っていたら、普通、「働くことにもいい面はある」みたいにして正当化してしまいそうなところを、ちゃんと毎朝、通勤するのが嫌すぎると思いながら数十年間通勤して、いまでもそうやって働いていること。美しいし、賞賛されるべきだと思った。  目を開けたら、利用できるインターネット接続がありません、と表示されて、安心する。全学連が街頭宣伝を叫ぶ声が浸透してくるマツモトキヨシでブロンを買ったら、「濫用の恐れがある薬物について」みたいな文字が書かれた大きめのシート見たいなのを出されて、いくつかの質問をされて、適当に「はい」と答えていた(ところで、ゲームで会話を飛ばすためにボタンを連打したら大切なものを見逃してしまうからやめようね、人生)。幻覚剤をやっているときには目をつむると虹色の光が見えるからうれしい。ずっと川で鳥を眺めていた、鳥と目を合わせていた。街で規則的に道を歩いている人たちの動きがロボットみたいに見えた。自分はその規則的な動きから脱して、一人だけ、自分だけが完全に規則性を脱した存在としてそこにいるのだと思った。光があふれてくる、かすかに、川がただ流れている。虹色の一番奥の方まで行きたいと思うけど、奥にはいけなくて、そっと水を飲んだ。そう、ほんとうは、ただ冷たい水を、やわらかい、あまりにもやわらかくて透き通った雪解け水を、紛れもないた���の水を飲んでいるだけで、それが抗うつ剤に、発達障害の薬に、幻覚剤に、テトラヒドロカンナビノールになればいい。それが人類の夢。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて 1』をブックオフで買って、適当にページを開いたら、「ベッドで寝ていても、眠りが浅くなり、精神が完全に弛緩すると、それだけで精神は寝入った場所の地図を手放してしまう。すると夜のただなかに目覚めたとき、自分がどこにいるかわからないので、最初の一瞬、私には自分がだれなのかさえわからない」と書かれていて、抱きしめたくなった(誰を? もちろんマルセル・プルーストを。プルーストの魂を)。あの状態がずっと続けばいい。目が覚めた直後の一瞬の、すべてが空白で、自分がだれなのかさえわからないあの一瞬が、ずっと続けばいい。続けばいい、窓の方から差し込んだ光が誰かの定規とかで反射して、教室の黒板の上の方に光の標ができる。ずっとそれを眺めていた時間とか、何も進んでいない自分をどこかへと運び続ける電車の揺れとか、そういう風に、続けばいい。続いていく、終わり続ける、始まり続ける。プルースト、すでに古典となった小説を読むのは落ち着く。今生きていて、まさに今勢いを増しているような現代の作家の小説を読んでいると、何だか急いで読まないといけない気がするし、自分も今すぐに何かを書かなければならない気がして、気が焦る。その意味で、古典となった作家の小説は、純粋に小説のその持続を体感していられる。
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kurano · 3 years ago
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 まず橋下さんのあれは、平和惚けという以前の、国際政治の知識不足や国防教育の不在が原因です。
 ただ、この期に及んでも未だにこの侵略行為を「どっちもどっちだ」みたいに言う人がいて、ちと驚いています。
 今回起こったことは、われわれの人生で、たぶん過去に一度も経験したことがな��異常事態です。イラクやアフガンは、表向きの理由はどうあれ、独裁者からの解放、破綻国家の整理という理想があった。ベトナム戦争も少し違う。朝鮮戦争は、あれは大戦の戦後処理みたいなものだった。
 すると今回の事態は、われわれが歴史上の出来事としてしか知らない事態です。欧米が、これはナチのポーランド侵攻に匹敵すると声を上げているのはそのため。
 人は、自分が経験したことのない事態、自分の経験値にない事態に遭遇すると、ありとあらゆる認知バイアスの中で処理しようとする。収めようとする。航空機事故に於ける確証バイアスと同じです。過去に類似の事故は発生しているにも関わらず、そこまで思いが至らない。自分の経験値の中で対処しようと試みて墜落する。
 原発に攻撃はない、原発事故は起こらない、というのもある種の確証バイアス。それを言い続けた本人は真顔で信じている。
 それは普段のポジション・トークが、まずそういうバイアスを掛けてしまう。
普段から行け行けどんどん! 防衛費倍増、尖閣に自衛隊を! とか言っている人々はそんなことは言わない(それはそれで問題かも知れないが)。
 普段、「そんなこと言ったって中国から儲けさせて貰ってますやんか、北の核なんて放っておけ」、というポジジョンを取っている人は、そのポジション・トークの延長でこの戦争を眺めてしまう。普段の立ち位置がそれだから、そのフレームから出られない。平素の立ち位置が判断を縛る。けれど、これは全く新しい事態です。
 極東は関係ない? さあ、あのプーチンにそれが通用するだろうか。終わって見れば、それで通用したかも知れない。けれど、われわれがウクライナの惨状を見過ごすことで失う国際社会の信頼と天秤に掛けて、それは得になったと言えるだろうか? 果たして、日本で何かあった時に、国際社会は同情しくれるだろうか?
 今回の事態で、未だにどっちもどっち論を振り回すのは、言葉は悪いけれど平和惚けです。歴史に、この手の問答無用の暴力は山ほどあった。これがどっちもどっちなら、日本の過去の侵略戦争は全て正当化できる。ナチの犯罪ですらも。
 どっちもどっちだという発想は、心理学的には、ある種の逃避行動でもある。心の安全装置が作動して、これはどっちもどっちの戦争だから、どちらかに荷担せずともよい。生暖かい視線の傍観者でいることが許される、という安全装置がまず働き、その傍観者でいて構わないための理論武装が大急ぎで為される。それは一見、筋が通っている。
 深夜に女性の悲鳴を聞いた時、こんな時間帯にこんな場所でそんな格好で彷徨いていた馬鹿女が悪いのだから、自分がリスクを冒して助ける必要はない……。
 それと自分が同様のことを言っていることに気付かない。皮肉なことに、これは普段フェミなポジションを取っている人にこそ多い。
 われわれが今目撃しているのは、どっちもどっちの戦争では無いし、ここで踏み留まり、ウクライナの自由を取り戻さねば、次にもっと大きな破壊を目の辺りにすることになる。その戦いは綱渡りではあるが、それが核の惨禍を招くからと傍観者でいることは許されない。人類のためにも日本の独立維持のためにも。
 これは、ゲームが変わったという表現を超える事態です。そもそもわれわれがプレイしたことのない、歴史でしか知ることの無い黴の生えたゲームが始まったのです。そのルール自体は古い。単に勝つか負けるか。野蛮人の戦い。
 仮にもし、核の応酬という事態に陥った時、ほら見ろ、あんな小国は見捨てれば良かったのだ、と冷笑する人々が出てくるだろうと思う。残念ながら人類は賢明ではないし、暴力はしばしば正義をねじ伏せてきた。今もそれはロシア国内で、中国で起こっている。残念だが、この世の中には解決不能な問題は山ほどある。
 暴力は今も人々の権利をねじ伏せ、黙らせている。けれど私は、核の炎に焼かれるとしても、正しい側に立って死にたい。それが長らく平和を満喫した日本人個人に、日本という国家に問われている。
 日本という国、日本人という民族は、ありとあらゆる問題から全力で逃避し続け、「旗幟鮮明」という言葉を冷笑し続けて来た。これまではそれが許され続けた。ことは戦争に限った話ではない。
平和を守るには時に戦争を辞さない覚悟が要る。引くことがより大きな争いを引き起こす場合もある。
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takahashicleaning · 4 years ago
Link
TEDにて
アーサー・ブルックス:政治家の保守派もリベラル派も一致団結して問題解決に取り組もう!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
保守派もリベラル派もどちらもが、自分たちだけが慈愛で動き、相手方は憎しみで動いていると信じています。二極化があちこちで進む現代において、どうすれば、社会システムの問題を解決できるのでしょう?
社会科学者アーサー・ブルックスが、進退窮まる現状の打開のため、私たち一人一人が個人として実行できるアイデアを共有し「我々が苦闘している、この恐ろしいイデオロギーの聖戦をアイデアの競争に変えられるかもしれない」と語ります。
その答えを言いましょう。成功要因は5つです。
世界の我らが兄弟姉妹。20億人を今日までに貧困から救い出したのは、1つ目がグローバリゼーション。2つ目が自由貿易。3つ目が財産権。4つ目が法治主義。5つ目が起業です。
70年代以降、世界中が自由企業体制化して可能になったことです。
ただ、私も単純じゃありません。自由企業が完璧ではないとわかっていますし、より良い世界を築くには、自由企業以外にも必要なものがあるともわかってます。
でも、すごいことですよ。政治を超えた問題です。私が学んだこと。悟ったこととは、資本主義の意義は富の蓄積にとどまりません。資本主義の一番良い面は、志があることです。
たくさんの人がこの壇上で志について語りますね。つまり、願望、欲望から生まれる志です。自由企業体制と深く結びついています。この志をもっと広めなければなりません。
さて、ここで2つ目の悟りについてお話しましょう。1つ目の悟りと関連しており、世界中だけでなく、今いるこの街にも進歩をもたらすものです。
今までで聞いた人の言葉の中でも、ついさっき、お話した貧困救済についての考え方が一番うまくまとまってるものがこれです。
「自由市場ほど人類史上で富を作り出した制度はない。何十億人もを貧困から救い出したのだから!!」
誰の言葉でしょう?バラク・オバマ大統領です。皆さんは、言わなくたってアメリカや世界中あちこちで危機が起こっているのは政治の二極化のせいだとご存知のはず。今やギリギリの危機的状況に達しています。
不愉快な状況です。今日のアメリカでは、共和党も民主党も大多数の人々が「政治的動機の非対称性」的な考えに陥っています。
今日、アメリカで政治に熱心な人々の大多数が自分たちは愛で動き、相手方は憎しみで動いていると信じています。考えてみてくださいね。ほとんどの人々の考えはこうです。
「私のイデオロギーは、ごく基本的な寛容性に基づいている人助けがしたいんだ。でも、他の奴らは、私を陥れようとしている悪者だ」こういった種の非対称性がある限り、社会システムとして前に進めません。不可能です。
では、解決法は?
まず、正直になりましょう。違いはあって当たり前です。相違点を過小評価しないように。そんな単純じゃありません。これについての優れた研究はたくさんあります。
ベテランTED講演者で友達のジョナサン・ハイトは、ニューヨーク大学で心理学の教授をしており、様々な人々のイデオロギー、価値観や道徳観の違いを研究しています。
彼によれば、例えば、保守派とリベラルの人々は、何を重要視するかが、かなり異なるそうです。
例えば、ハイトによれば、リベラルの中で貧困問題を心にかける人は、経済的自由を重要視する人より59%多く、保守派の中で経済的自由を重要視する人は、貧困問題を心にかける人より28%多いそうです。
でも、本当に必要なものは?
柔軟なイデオロギーのある新しい世界です。もっと意外性が必要です。でしょう?自分のイデオロギーが型にはまってきたな。と感じたことは?何だかありきたりだなとか?
自分と同じ意見の人の話ばかり、聴いているなと思ったり?これがなぜ危険なのでしょう?
なぜなら、この国で経済の話をすると右側には保守派がいて、税金とか規制とか大きな政府についてばかり話しています。左側にはリベラルがいて、経済の話をするときは、いつも所得の不平等についてでしょう。
両方とも大事なことです。
私にも、あなたにも本当に大事なことですが、今、この瞬間、飢えに苦しみ、助けを必要とする人々の貧困からの救出という話になるとこれが邪魔になります。
我々が自由に使える中で最高水準のツールを駆使し、貧困を緩和する最良の方法の下に協力しあうべきです。
それは、保守派にとっては、リベラルの人々とその貧困問題への執着がリベラルにとっては、保守派の人々とその自由市場への執着が必要だとお互い認識して初めて可能になります。
この多様性は、受け入れさえすれば、この先アメリカの強みの1つになります。
はじめに、大統領制や二大政党制での前提です。
2017年のノーベル経済学賞のセイラー教授が提唱する「ナッジ」このような行動科学の視点を公共政策に組み込もうというアイデアはもともと2003年に経済学者のセイラーと
法学者のサンスティーンによって書かれた論文「リバタリアン・パターナリズム」からの一部です。
法規制による強制でもなく、経済的インセンティブによる誘導でもなく、選択の自由を維持したまま、人間の持つ心理的バイアスをうまく利用することで、人々の行動を「良い方向へ」導くということ。
高度な透明性が前提です。
高度な透明性が前提です。
高度な透明性が前提です。
リバタリアン(=極端な自由主義)とパターナリズム(=家父長主義)という一見矛盾する態度を結びつけるというアイデアは、アメリカの民主党と共和党の対立により合意形成が行き詰っていた
議会の膠着を打破しようとする意図もあった可能性もあります。安全・環境・健康分野にも応用範囲は広がっています。
リバタリアニズムとは、荒野からではなく、行政府のある社会システム内で成功したにも関わらず、極端な経済的自由と極端な社会的自由(極端な個人的自由、極端な政治的自由)を共に求める極端に強欲な思想であり
リバタリアン自身によるノーラン・チャートによれば、社会主義などの左翼思想は、極端な個人的自由は高いが極端な経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は、極端な経済的自由は高いが極端な個人的自由は低く
ポピュリズム(ここでは権威主義や全体主義などを指す)では、極端な個人的自由も極端な経済的自由も低い。という位置付け。
リベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。日本では、リベラリズムの意味は世界標準ではなくガラパゴス化してるため定義が異なります。
パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理。
強いパターナリズムと弱いパターナリズム、直接的パターナリズムと間接的パターナリズムがある。と言葉が定義されている。
個人的なアイデアとして、議論を整理できるだけで、このような一般生活者にはくだらない権力争いのためにどうにでもなる言葉ではなく、政策開発のため一定の期間で議論を尽くしたら
具体的なマクロ経済学前提の政策できっちり誤差を含めた数値に変換できればより良い社会システムを創造できるかもしれません。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
最後に、政治にはまったく興味はありません。テクノロジーに興味が有ります。
(個人的なアイデア)
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数���化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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