#生人間信仰カルトも生まれるだろう
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moko1590m · 5 months ago
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差別=勝者意識の適用 多様性重視は、要は勝ち負けをなくする(花を持たせる)という話だが、 戦いがなくなると思ったら大間違い
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ashi-yuri · 2 years ago
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FAITHにおける「神はなぜエイミーを助けなかったのか」という神学的問題に対する回答試案
以下は、キリスト教徒でもなければ、神学をちゃんとかじったこともない素人が本問題を考えるための材料を記した覚書である。
※この覚書はどのような事実も保証しない
※全Note、全endingネタバレ注意
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結論
エイミーの救済は、弱く罪を抱える人の子がそれでも人を救えるのかという神の試練である。
事件の概要
(ゲーム開始前)
マー��ィン夫人が双子を流産により失う
マーティン夫人が双子が生存しているように振る舞うなど、精神不安定状態となる
夫人は治療で一時回復に向かうが再度悪化。
マーティン氏が送った怪しげな人形に触発されて(?)マーティン夫人が双子の依代を作り始める
Chapter3 Note44 ボブへ 君が昔からの友人でなければ、こんな風に患者の秘密を破るようなことはしない。私はこの状況を本当に憂いているんだ。 ナンシーの妄想は、初めの頃よりもずっとひどくなっている。私は彼女に徐々に現実を示すよう注意深く接してきた。君は、彼女がまだあの二人のことを話したり偽のお誕生日会を開いたり、その他諸々についてもとても忍耐強く対応していた。彼女が流産したこと、そして双子が亡くなったことを受け入れたとき、私たちは前進しているのだと思った。 けれど彼女は今、双子が自分とコンタクトを取ろうとし、双子の魂が宿る "代用品 "を見つけられると確信しているようなんだ。 聞き覚えはないか?ニカラグアの村で見つけた家を覚えているか?君が彼女に話したのか?なぜ君がそんなことをするのかわからないが、そうでなければなぜそんな話が出るのか、他に理由が思い当たらない。 できるだけ早く私のオフィスに来てくれ。次にどうすべきか、話し合う必要がある。
エイミーが婦人科クリニック(ゲイリー率いる教団が運営)でボランティアを始める。教団がエイミーと接触を図る
エイミーに悪魔が憑く
1986年9月21日
エクソシスト2名(オルレッド神父とジョン)がエイミーの悪魔祓いを試みる
悪魔に敗北し、オルレッド神父が死亡
エイミーが両親2名を殺害
ジョンはエイミーに対して単独で悪魔祓いを行おうとするが失敗。悪魔に圧倒され、恐怖に負けて逃走しようとする
ジョンに対して、白い謎の存在がエイミーはどうするのか問う
ジョンは逃走を希望する
白い謎の存在は、エイミーの運命をジョンの記憶に封印することを条件に、ジョンをマーティン家から逃がす
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ジョン:これは、私の身には余ります。私は怖ろしいのです。どうかこの場所から逃してください。 ??:少女はどうする? ジョン:私はただ帰りたいのです。 ??:汝を安全な場所まで導けば…彼女の運命は汝の頭に封されるだろう。 ジョン:お望みならなんでもします。どうか、ここから連れ出してください。 ??:誓いなさい。 ジョン:誓います。
事件後、ジョン及びエイミーは精神病院に収容される
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1986年10月23日
ジョンは悪魔祓いを間違いだったと認め、信仰を捨てることで退院を認められる
この時点で、正式な聖職者としての地位は辞しているかも?
(神父を辞したのち、ジョンはモリーと暮らしはじめる)
Chapter1 Note20 1986年10月23日 マクグラーシャン先生へ ここエール精神医学研究所で私の治療が始まってから、30日が経とうとしています。スピネル先生は私に辛抱強く寄り添い、私の苦悩を理解し、私が真実を受け入れて前に進む方法を見つけるのを助けてくださいました。 スピネル先生の助けを借り、私は���際にマーティン家で起こった9月の出来事について受け入れられるようになりました。これは超自然現象の結果ではなく、独断的な両親と前時代的な教会による悪魔祓いといわれる儀式によって、暴力的にならざるをえなかった少女の必死な抵抗であったと受け止めています。 嬉しいことに、真実を受け入れてから、悪夢は止み、事件以来感じたことのない心の平穏を享受しています。こちらに来てからの私の経過を考慮いただいたうえ、今後のスピネル先生の経過観察を条件に、エール精神医学研究所からの退院を謹んでお願いいたします。
1987年9月
エイミーが精神病院から脱走?
カルト教団が儀式を行い、エイミーの顔を削り、器とする
ジョンが悪夢を見る
Chapter1 Note18(抜粋) モリーへ 私はあの家へ戻らなければならない。私の見ている悪夢は現実だ。エイミーはまだあそこにいて、私を待っている。まだ彼女を助けられる。
Chapter1
1987年9月21日
ジョンはマーティン家へと戻り、器となったエイミーと邂逅
ジョンは悪魔を祓いきれず、エイミーは脱走
ジョンは銃を手に取るが、エイミーに手をくださないまま、家へ帰る
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chapter2
ジョンが悪夢を見る
悪夢から目覚めると、ガルシア神父の手紙が届いている
(モリーは家を去っている)
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chapter3
1987年10月28-30日
ガルシア神父の手紙に従って、カルト教団の目論見を阻止するためクリニック・アパート・保育園を探索する
1987年10月31日(冒涜の安息日)
(Neutral ED)
ジョンはカルト教団の本拠地で、白い謎の存在に誓ったことを思い出す
ゲイリーを退け、カルト教団の目論む冒涜の安息日を阻止する
エイミーの悪夢を見続ける
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ジョン:神父さま、去年初めてエイミーと会った時に……悪魔を見たのです。悪魔は私を惑わしました。これからずっと、私はエイミーから解放されることはないでしょう。
(Good ED)
ジョンはカルト教団の本拠地で、白い謎の存在に誓ったことを思い出す
封印を解き、カルト教団の最奥「坩堝」の中でミリアムとゲイリーとマルファスの穢れた三位一体と対戦
撃破後、エイミーに出会い、悪魔祓いを終える
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(Bad ED)
ジョンはなにもしない
自宅にいたエイミーに取り憑く悪魔に呑み込まれ、天罰「Damnatio Memoriae」(記憶の抹消)が下される
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前提 
人間には善を為すor悪を為すことを決める自由意志がある。これを尊重し、原則、人の子の問題は人の手により解決すべきである。
ただし、神の恩寵を実現させるため、自由意志を助ける形で神は介入を行う場合がある。(傾かせるが強いない)
この項における「救い」とは魂が悪魔から解放されることを指す。
(白い謎の存在の補足)
白い謎の存在をジョンの空想上のイメージと見なした場合でも、ジョン自身がイメージとの対話により意志を持つに至った結果を重視し、以下の推論を妨げないとする。
白い謎の存在が天使か悪魔かは、作中で明言されないのでここでは問わない。開発者のAirdorf氏は「コリント信徒への手紙二11章14節」を引き、あの存在は悪魔が天使を装ったものと示している。
コリントの信徒への手紙二/ 11章 14節 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 「旧約聖書」日本聖書教会 聖書教会共同訳より
推論の過程
マーティン家の状況は、オルレッド神父とジョンが来た時点ですでに破綻状態にある。神父たちがエクソシストとしてできることは、エイミーに憑いた悪魔を祓うことだけだ。けれど、悪魔祓いは失敗する。
オルレッド神父が死亡したのち、エイミーが救われるか否かはジョンの手に委ねられる。ジョンにとってははじめての悪魔祓いであり、ジョンは悪魔にたやすく圧倒され、恐怖にのまれてしまい、人智を超えた存在となってしまったエイミーから逃がれたい一心で助けを求める。
ここから、なぞの白い存在との対話が始まる。
白い存在にこのまま逃げたらエイミーはどうなるのか、暗に見殺しにするのかと問われたとき、ジョンはそれでも恐怖から逃げることを選択する。
この選択により、エイミーが現世で救われないこと、悪魔の器となる運命は確定する。人間だけでは悪魔の目論見を防ぐことができなかったことも。悪魔から逃げることを選択し、エイミーが悪魔の器となる運命を最終的に決定した人間はジョンである。
救うべき者を見捨てた罪の代償は「エイミーの運命をジョンの頭に封じる」ことだ。それはジョンにとって誓いであり、呪いでもある。
白い謎の存在:汝を安全な場所まで導けば…彼女の運命は汝の頭に封されるだろう。
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頭に封印された記憶は悪夢となり、1年後にジョンは再びマーティン家へと赴く。信仰を捨ててあたたかなはずの愛を得たにも関わらず、ジョンはそれらを捨てて、あの家へ戻らなければならない。
誓いを果たすため、または呪いを解くために。自らが犯した罪、助けなければならなかった無垢な子どもを見捨てた罪へと向き合い、今度こそ悪魔を祓うために。悪魔の器となってしまったエイミーから悪魔を祓い救うことができるのは、そうなる道を選択してしまったジョンしかいない。
エイミーを救うことは彼個人の願いであるとともに、神の意思でもある。悪魔を祓う力を持つ十字架は、ジョンの願いを助け、神の意思を示す。エイミー���救うという神の意思を達成するか否かは、良き神の子たるジョンの行いにかかっている。
それは、救うべき者を救わなかった罪深き者が、なお人を救えるのかという神の試練である。
悪魔の器となったとしても、誰の手にも及ばない存在になったとしても、エイミーはまだ救われる可能性がある。ジョンが歩み続ける限りは。
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(おまけ)神に頼らない世俗的な救済について
ついでに、神の助けを借りずとももっと早く助けられなかったのかなあと考えてみる。
世俗的な救���は一般人が対応するため、家庭が破綻に至る前の早期対応が重要だと思われる。
具体的には、親戚・近隣・公的団体等による早期のエイミー母への共感的なメンタルケアやグリーフケア、エイミーの状況把握及び学校への登校支援、適切なコミュニティ(信頼できるボランティア団体や普通のバイトなど)への参加誘導などが必要だったんだろう。
だけど、1980年代という時代背景や孤立化しやすい森の一軒家という環境を考慮すると、救済難易度高めでいろんな難しさを感じる……そしてエイミーが器となり死亡が確定した時点で、世俗的にできることはもうない……
器となったエイミーを救うことができるのは、結局ジョンだけなんだろう。
あとがきと感想
神の存在を前提とする場合、残酷なこの事件をどう神学的に解釈するんだろうという個人的興味により書いてみました。
理論的に導くならこんな感じかなと思ったけど、神学者の方の解釈を聞いてみたいなあ。ちゃんと書くなら、アウグスティヌスとかの著作やそれに続く自由意志論争を読みとかなきゃいけないんで無理。結局ただの感想文に近いけれど、ふしぎ論理学っぽく色々考えられたのは楽しかったです。
もし、白い謎の存在が天使を装った悪魔なのだとしたら、作中��ちども神の意思は直接示されることはなく、ほんとに十字架だけが頼りであまりに信仰ハードモード……
ヴァチカン非公認でも、神との一対一の信仰を果たすためとにかくやるんだ!という感じはアメリカのプロテスタントっぽいかもね。本作はテキサス在住のキリスト教徒(notカトリック)の方が開発してるので。
神を信じるならここまで考えてきた問いに意味があるけれど、そうでなければ、ジョンの所業は罪悪感や後悔による偏執的な思い込みにしか見えないし、半分おかしくなってるんだと思う。エイミーのことは手遅れなので、ふつうに考えたら贖罪にもならないし。そうせざるをえない心理状況に追い込まれてしまったのだとしても。
でも、本当の結論はあなたの心のなかの信仰次第です。
そして、ゲイリーはなんだったのとかそもそもなんでエイミーに悪魔が憑いたの?という話はまた次回。
※ゲーム画面、日本語翻訳は非公式日本語modを使用しました。
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kennak · 1 year ago
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彼の家族は、父親が亡くなったときに閉店した元オートバイ店の隣の地下の家に住んでいました。 私の家から彼の家までは、鹿がたくさんいる美しい森の中を歩いて1時間かかりました。 貨物列車が目の前をゆっくりと通過していくのを、私は頻繁に家の視界に入り込み、列車が通過するまで木の切り株に座っていました。 以前のオートバイ店には、石鹸で汚れた窓の前にドクターペッパーの機械があり、私は鍵を持っていて、彼の母親がたくさんの仕事の1つをしている間、私たちは外泊のときにこっそり店を探索するために忍び込みました。 彼女はチェーンスモーカーでめったに話さず、ビデオゲームをレンタルするために私たちを地元のビデオ店まで車で連れて行ってくれたとき、よく一本のタバコに燃えているチェリーで火をつけていました。 マークの兄もその家に住んでいたが、部屋から出ることはほとんどなかった。 ほとんどの場合、タバコの煙が充満した家の中でジャーマン・シェパードがゼーゼーと咳き込む中、私たち二人が監視されずに飛び跳ねたり、古い映画を観たり、ソーダを飲みすぎたりしていました。 このような家族は、福音派キリスト教徒のターゲットになることがよくあり、福音派キリスト教徒は、仕事中に子供たちを楽しませることができる青少年グループのオファーで家族を誘い込もうとすることがよくありました。 ある時点で、青年牧師の一人がマークの母親に、私たち二人を彼の教会に行かせるよう説得しました。 ブロックバスターの代わりに、私たちはトウモロコシ畑に囲まれた暗い田舎道にある、十字と頭上にブンブンと光る照明がついた、匿名の鉄骨倉庫の前で降ろされ��した。 父親と母親がバイカー文化に深く関わっていたため、マークは宗教にあまり触れていませんでした。 私はすでにこの種の場所を以前に見たことがあり、次に何が起こるかを恐れていました。 私たちが中に入ると、「マイケル牧師」を紹介されました。彼はサンタクロースが極端なダイエットをして連続殺人犯の眼鏡を買ったかのように見えました。 マークは飛び上がって質問を始めたが、私は距離を置いた。 その前年、私は古い駅の修復にボランティア活動をしていた。それには、駅をホームレスの避難所に変えようとする原理主義キリスト教会の「監督」のもと、大勢の若者が参加した。 私たちは鉱山に隣接するこの小さな町の中学校の床で寝て、日中はペンキを剥がしたり床を研磨したりして過ごし、夜は性の悪さやアメリカがどのように「文化戦争」に陥っているかについて講義を受けました。 今にして思えば、児童労働として鉛塗料を除去する際にもっと保護具が必要だったような気がしますが、それは神次第だったのでしょう。 起立させられ、結婚するまではセックスしないと約束させられた長いセッションの後、割り当てられた教室に戻る途中で私が冗談を言ったところ、すぐにグループの先輩の男の子に詰め寄られました。 。 彼は軍隊風の髪型をしていて、星が見えるほど私をロッカーに叩きつけました。 私は毎週日曜日にカトリック学校とミサに通い、水曜の夜はカトリック教徒のための日曜学校のようなCCD(キリスト教教義連盟)に通って育ちました。 これらすべては、私がかなり確立された「クリスチャン」資格を持っていることを意味していました。 この少年は、私が悪影響を及ぼしている偽クリスチャンだと思っていること、鍵のかかった教室で毎晩彼や彼の友達と二人きりになるから気をつけるべきだと言いました。 この経験により、私はこれら福音派カルトに対して極度の警戒心を抱くようになり、教室の床で寝袋に静かに横になり、明らかに忘れ去られた回し車で走るハムスターの音を聞いていた。 この世界に詳しくない方に、少し背景を説明させてください。 私のカトリック教育は、聖なる人物との全く異なる関係を示しました。 神が直接語った人はほとんどなく、ほとんどが聖人でした。 自分は神との幻視や直接会話に値するような人間であると信じる罠に陥ってはいけない、という多くの警告を受けて育ちました。 これは神の介入というよりは精神疾患である可能性が高いと、やんわりと示唆されました。 彼はあなたの心に入り込み、あなたの行動を変え、あなたに平安を与えますが、あなたはチャットが��当化されるような稀な個人の階層に属していません。 したがって、私にとって、 神と直接会話 できると主張する福音派は異端であり、ランダムな「牧師」が自分たちが聖人であると主張するのと同じで、ひどい冒涜でした。 会衆が列を作り始め、その後に起こったのは、私の人生の中で最も非現実的な2時間の1つでした。 私の知り合い、図書館で働く女性、地元の郵便局員などが、自分たちの健康問題をサタンのせいにして叫び、手を振り始めた。 それからある時点で、怖いサンタクロースは震え始め、発作を起こしているように見えました。 彼は大声でせせらぎをし始め、部屋中を動き回っていました。そして、 このせせらぎに何か意味があるふりをして 、自分たちでそれをする人がどんどん増えているのを私は見つめました。 明るい光と大音量の音楽が、これらの普通の人々を狂気に陥れたようでした。 携帯電話のないこの時代、この状況を放置するために私にできることはあまりありませんでした。 私はマークがこれらの人々が神の声を伝えていると確信するのを待って見ていました。 「すごいですね、本当に何かを感じました。部屋にはエネルギーがありました!」 私がドアから目を離さないと、彼は私にささやきました。 青年牧師の一人が、私の中に霊が動いているのを感じましたか、参加したいという衝動を抑えるべきではないと尋ねました。私は大丈夫だとつぶやき、トイレに行かなければならないと言い、それから個室で待つまで待ちました。サービスはほぼ 2 時間後に終了しました。 他の子供たちと話していて、彼らがこれを信じているという現実が頭から離れませんでした。 「それは神の言葉であり、聖霊が私たちを通して語っておられることを理解できるのは、選ばれた少数の人だけです。」 その言葉は非常に強力で、牧師が教会の選ばれた会員に預言を明らかにし、彼らの経済的投資を支援することができました。 これは致命的な重大な仕事であり、これらの普通の人々は完全に信じており、時々 ある種の 言葉のように聞こえるこのナンセンスなおしゃべりは、文字通り神が彼らを通して話していると確信していました。 私は、普通の理性的な人々は決してそのようなナンセンスなことを信じないだろうと確信して帰りました。 これらの人々はだまされやすいので、一度この死んだ町から出てしまえば、このレベルの妄想にさらされる必要は決してなくなるでしょう。 それで、数年後、私がサンフランシスコの巨大な会議場に座って、Google の CEO が聴衆に AI がどのような未来になるかを説明しているときの私の驚きを想像してみてください。 ランダムな単語をつなぎ合わせたこのシステムは、群衆の中の私たち全員を置き換え、地球温暖化を解決し、あらゆる仕事を変えることになるでしょう。 これには、健康保険を失うことに興奮しているようだったグループか���万雷の拍手が送られた。 これらすべては、テクノ音楽と明るい照明、そしてより多額の予算を投じた教会の礼拝によって始まりました。 私が行った会議はどこも、スタッフをこの神聖なテキスト ジェネレーターに置き換える可能性について有頂天になっている人々でいっぱいでした。 会議のために元の Google キャンパスまで私と Uber をシェアしたフランスのベンチャー キャピタリストは、興奮で息が上がりそうになっていました。 「間もなく、スタートアップを立ち上げるのにプログラマーさえ必要なくなるかもしれません。ただ、創業者とそのアイデアが、夢見る限り早く市場に投入されるだけです。」 彼をLLMに置き換えることができる可能性が高いとコメントしたくなりましたが、それは意地悪だと感じました。 まだ人間が運転しているテスラに私たちが座っているとき、「それは世界を変えるだろう」と彼はつぶやいた。 私の人生の中で、信心深い人たちから、私のコミュニティ、つまり無宗教のテクノロジー愛好家がテクノロジーを宗教の代わりに利用しているのではないかとよく言われてきました。 私たちは神や聖人という空想的な概念を拒否し、それを未来の妄想的な考えに置き換えるだけです。 自動運転車は、その問題が実際には難しすぎることが明らかになり、私たちが静かにそれについて話すのをやめるまでは避けられませんでした。 火星に植民地を設立するということは、たとえそれが私たちの能力の10倍を超えているとしても、あたかも「すぐに」であるかのように議論されることがよくあります。私たちは紙幣をデジタル通貨に置き換えようと試み、そして管理しました地球の破壊を加速する世界的なネズミ講を創設するために。 通常、私はこのロジックを拒否します。 テクノロジーは、多くの欠点がある一方で、実際に利益をもたらす多くのものを生み出しますが、これは宗教が主張できることではありません。 しかし、AIの力に対するこの盲目的な信仰を数か月聞いた後、私が今聞いていることと、礼拝後に信者が私に言ったことを比較すると、不気味なほど似ていました。 これは単なる集団妄想であり、新しいアイデアがないにもかかわらず、依然として 1 兆ドルの価値があると信じ込ませようとしているテクノロジー企業による必死の試みなのでしょうか? ここに何かありますか?
AIは異言を話す
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blogmikimon · 1 month ago
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Take Me To Church
こんにちは😃
もう落ち着いた感もありますが😅 コンクラーベ(カトリックの代表選挙)のニュースが話題でしたね💡
私は以前にもちょっと書いたことがありますが、代々敬虔なカトリックの家系の出身で叔父は神父です。そしてカトリックを脱会しています。
(ちょっとショッキングな告白かもですが、重く捉えないでください🙆‍♀️💦
私は連休中には上野でパンダを見てはしゃいだり、鬼滅の刃のリバイバル上映を見てギャン泣きしたり、調べに調べて行ったカレー屋さんがほぼ品切れで落胆のうちにタンドリー系とパパドだけ食べて帰ってきたり😭🍗 なんだかんだで楽しく暮らしています✨)
さてそんな最近ですが、今日はシェアしたい曲があってブログを書いてみました。タイトルにも書いたアイルランドの歌手Hozier さんのTake Me To Churchという曲です。
PVが歌詞付きでストーリー性もあってわかりやすいので早速載せてみます。(ccのボタンから日本語字幕が選択できます。)
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真意はわかりませんが、これは教会とその同性愛に対する姿勢へのプロテストの曲との見方が一般的です。そしてカトリックは同性婚を認めておらず、離婚、堕胎、避妊に関しても否定的です。
グッドウィルハンティングという映画でマット・デイモンが “うちはカトリックだから子沢山の大家族さ” のようなジョークをいう場面が出てきます。多少信者の意識の変化はあるかもしれませんが、これは大昔の話ではなく今でも継続している考え方だと思います。
ここまで見るとちょっとネガティブな印象を与えてしまうかもしれませんが、私がここで書きたいのは宗教の否定ではなく卒業してもいいということです。
わかりにくくなりそうなのでトピックを分けました。
①思想体系
②あなたはあなた
③自分の足で
これらのトピックについてちょっと長いのですが、今日はまとめて一回で書いてみようと思います。休み休みお読みくださると嬉しいです。それではさっそく始めましょう!
(以下は私の意見なのでまるっと受け入れず、良ければご自身でも考えながらお読みいただけると嬉しいです。)
①思想体系
自身の信仰体験やカルト脱会者の話を聞いたりして私が強く思うのは、宗教、スピリチュアリズム、その他占いなどもシンプルにすれば誰かの考えだということです。
キリスト教の教義は弟子達によって作られて神学者によって洗練されていたり、仏教でもナーガールジュナやボーディーダルマが転機となって色々と派生しているのは知っていますが、あえて雑にまとめてしまうとキリスト教はキリストさんの考え、仏教はブッダさんの考えです。
幸福の科学の教祖、大川隆法さんはなんと!聖典を何度も書き直されていて、教義をアップデートしながら伝えられたところは誠実だなーなんて思ったりもします。
そしてここが重要なのですが、あなたに”バチっ”とくる恋人や親友はいないのでなんとなく目を瞑って上手いことやり過ごしながら暮らしているように、あなたにバチっとくる教えもありません!
それはあなたがあなたであり、あなたにとっての最高の恋人、友達があなたであるように、あなたにとって最高の教えはあなたの考えだからです。
②あなたはあなた
聖書には「あなたの父と母を敬え。」「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。」と書かれています。
皆様はこの箇所を虐待によって亡くなった子供達のお墓の前で読めるでしょうか?私は考えただけでも涙が出てきてとてもできません。
もちろん聖書が虐待した親を敬えと言っているわけではなく細かく書かれていないだけなのでしょうが、正論や常識はおおかた正しくても自分に合わないものもあるし、今の自分にはできないことだってあります。
怠惰は聖書では大罪ですが、怠惰になってしまった経験は誰しも思い当たる時期があるでしょう。
③自分の足で
こういうことを考える時によく思い出す曲があります。
こんな重いテーマを扱った歌ではなさそうなのでファンの方には申し訳ないのですが、hide with Spread Beaver さんの ピンクスパイダーという曲です。RISEのカバーでも話題になりました。
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この2:27あたりのところです。
” 借り物の翼ではうまく飛べず まっさかさま 墜落していく”
子供の頃ヤゴをとってきてベランダで育てていましたが、羽化した瞬間に羽が濡れて飛び立てず、トンボはバケツの中で死んでしまいました。
生き物にとって変態のあとはとても弱い時期だそうです。蛹から出たばかりの蝶も守られていたものを失って心細そうです。それは人間も同じだと思います。
大学進学、転職、離婚、弱っているときに誰かの思想は巧妙にあなたの中に入ってくるかもしれません。そしてそれが役に立つこともあるでしょう。
この歌詞のように借り物の翼、借り物の思想でも少しは飛べるかもしれません。でも最後は自分の翼で飛ぶのです。この歌詞は正確には蜘蛛が蝶の羽を借りてる感じで最後は自らのジェット(🕷️💨)で飛びますが、私たち人間に例えるなら自分の足で立つ、歩く。と言った感じでしょうか。
私は信仰について色々と考えたり学んできた中で、たくさんの刷り込まれた考えと自分の考えの相違に苦しむ人を見てきました。
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これは ”Don’t die” というムーブメントを展開されているアメリカの実業家、ブライアンジョンソンさんの長生きや健康に関するドキュメンタリーですが、この中でもブライアンさんがモルモン教やそれを信仰する家族との関係に苦しみながら脱会する様子が描かれています。
今回この曲をシェアしたのは信仰に限らず、企業や家族の伝統の中でも起こりうることだと思うのですが、常識や周りとの価値観の違いに苦しんでいる方に、あなたには何事も卒業する権利があってあなたらしく生きることが結局あなたのためになり、地球のためになり、より良い未来につながると私は思っている!と伝えたかったからです。
世界的に多数派である教会へのプロテストソングとされるこの曲はなんと、イギリスの国営放送BBCで放映され
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メゾンマルジェラのショーで使われ
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元英国ロイヤルバレエ団プリンシパル、セルゲイ・ポルーニンさんもこの曲で踊っています。
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セックスピストルズのションライドンさんもI am An Antichristと歌っていますが、こういう言いづらいけれど違和感があることに対してNOと言っている人は世界のどこかにいて、それをシェアする人もいて、一人じゃ無いんだ!と私は思ったので、これが誰かの励みになったらいいなあと思いブログを書いてみました。
私は宗教や伝統がダメだと言っているのではなく、もしあなたが何かの思想に現在影響されていたとしても、ちょっとおかしいなとか、変だなと思い始めたのなら、心の声を押し殺さず向き合ってみてもいいかもしれない。
あなたと同じ気持ちの人はあなたの周りにはいなくても、世界のどこかにいるかもしれない。と伝えたかったのでした。
ドイツの作家ヘルマン・ヘッセがこう書いています。
個性的な人物になるということは一つの長く厳しい戦いになります。※
もちろん今現在何かしっくりきている思想があって、あなたがその中で健やかに過ごせているならそれは素晴らしいことだと思います。
でもいつかあなたがあなたらしく暮らそうとするときに長く厳しい戦いに出会ったら、このブログが少しでも力になると嬉しく思います。
私はヨガを始めたことで考え方が広がり、色々なことから自由になれたのでヨガをシェアし始めました。でもそんな中でも悩むことがたくさんあって同志をいろんな場所で探しながらも、なんとか頑張っています!そんな私の経験がどなたかの参考になりますように💡
と、こんな変なブログばっか書いてないでヨガクラスの再会に向けて頑張れよって感じですね😭 継続して読んでくださってる方がいたら��りがとうございます🙇‍♂️
どうか今後ともよろしくお願い申し上げます💦💦
ではでは最後までお読みくださり、本当にありがとうございました🙏
だんだん暑くなってきましたが、涼しくしてお水を飲んで楽しくお過ごしくださいませ♡
(引用)
※白取 春彦
ヘッセ 人生の言葉 エッセンシャル版
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thetaizuru · 3 months ago
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 ジョージ A ロメロ監督のゾンビ映画『ナイト オブ ザ リビングデッド』(1968)は、当時のタブーに挑戦しアメリカのホラー映画の新時代を築いた作品だと位置づけられている。「タブーを大胆に描写した」内容は賛否両論を巻き起こしたが、1999年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録される映画に選ばれ、今日においても、映画史に残る古典的名作として評価されている。  1968年10月1日に公開された直後に書かれた評論は非難一色だった。「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」と批判されたが、これがかえって、というか当然のように思えるが、ホラー映画に対するこれ以上ない賛辞として受け取られ、それもあってか、観客を増やした。1969年以降に書かれた評論ではまさに、「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」という表現が賛辞として使われ、評判を上げていった。公開から5年後には、「大手スタジオの外で制作されたホラー映画の中で、最も利益を上げた作品」だと評され、公開から10年で、アメリカで1500万ドル以上の興行収入をあげた。1968年にヨーロッパで興行収入トップのアメリカ映画だったとも言われる。製作費の250倍以上を稼ぎ、史上最も利益を上げた映画作品の一つとなった。 1971年のニューズウィーク誌で、この映画が「血に飢えた映画ファンの急増により、正真正銘のカルト映画になった」と評価された。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』に『ゾンビ』(1979)、『死霊のえじき』(1985)、『ランド オブ ザ デッド』(2005)、『ダイアリー オブ ザ デッド』(2007)、『サバイバル オブ ザ デッド』(2009)をあわせた6作は、ジョージ A ロメロ監督の「リビングデッド シリーズ」または「オブ ザ デッド シリーズ」と呼ばれる。
 「タブー」とは何だったのか。「ゾンビ」そのものであり、「ゾンビ」という言葉である。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』ではゾンビのことを「リビング デッド (生ける屍)」または「グール (食屍鬼)」と呼称しており、「ゾンビ」という呼称は次作『ゾンビ』から登場する。  映画『ゾンビ』は、原題は『ドーン オブ ザ デッド』で 国際題が『ゾンビ』である。1978年9月にイタリアで公開され、日本では1979年3月、アメリカでは1979年4月に公開された。これにより「ゾンビ映画」というジャンルを確立したと評価され、前作との2作によって「モダンゾンビ」を定義づけたとも言われる。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』では「ゾンビ」という言葉は使われていないというのは、トリビア的な「意外な事実」であり、観た人は「ゾンビ」と呼び、「ゾンビ(の)映画」として認識していた。『ナイト オブ ザ リビングデッド』が初めてのゾンビ映画だったわけでもなく、1930年代後半から1940年代にかけて多くのゾンビ映画が製作されていた。『ナイト オブ ザ リビングデッド』の作中で「ゾンビ」という言葉が使われなかったのは、厳密には「ゾンビ」なのかどうかわからないがどう見てもゾンビが、原因不明のまま何の説明もなく現れて襲ってくる恐怖を描くためだったとも説明されるが、実際のところ物語の設定やシチュエーションなどを提示するシーンを撮影する技術や予算がなかったための苦肉の策だったともロメロ監督は語っている。「ゾンビ」はハイチのブードゥー信仰に由来するらしいが諸説あるらしいし、「ゾンビに噛まれた者もゾンビになる」という設定は、そっちの方が怖いし、そうじゃないとゾンビが大量に出てくる理由もわからなくなるから、リチャード マシスンの小説『地球最後の男』(1954)に出てくる吸血鬼からインスパイアされる形で盛り込んだ。つまり、「モダンゾンビ」を定義づけたというより、ゾンビみた��ななんか怖いやつを全く未定義のまま登場させた。観客が「ゾンビ」と呼んでいるので、次作では「ゾンビ」と呼称された。  「ゾンビ」が「タブー」で「事実上の検閲対象」だったとは誰も知らなかった。「ゾンビ」が「事実上の検閲対象」だったのは、映画においてではなく、漫画においてであった。  1990年代に漫画業界が、「事実上の検閲機関」であるとして「コミックス倫理規定委員会 (コミックス コード オーソリティ。CCA)」に批判の声を上げた。そこで、実際にあった検閲の例として挙げられたのが「ゾンビ」で、「ゾンビ」を漫画に登場させたい漫画家と、それを許可しないCCA側とのやり取りについて語られた。  1960年代後半にヒットしたゾンビ映画、つまり『ナイト オブ ザ リビングデッド』が公開されヒットした後、漫画家は、漫画にも「ゾンビ」を登場させたかった。漫画においても、かつてのホラー漫画において「ゾンビ」は人気モチーフだったが、1954年にCCAが発足して、規制された。1970年代中頃マーベルは、最終的には、ゾンビを「ザベンビース (ズベンビー)」と名付ける事によって規制を回避し、ゾンビを漫画に登場させた。この時CCAが規制の理由として漫画家に説明したのが、文学的な背景を欠いており、納得のいく科学的な説明がされていないため、というものだった。これが、90年代のCCAへの批判で、バカげた理由で行われていた検閲の例として挙げられた。  2000年代初頭には、ほとんどの出版社がコミックスコードを無視するようになった。2011年にコミックスコードを付けたコミックを出す出版社がなくなり、事実上コミックスコードの廃止となった。  コミックスコードは、映画界で1934年から実施されていた「ヘイズコード」をモデルにしたとされる。ヘイズコードは、一部の映画を不道徳だとして非難する団体などに対抗してハリウッド作品の上映を保証するため、業界側が自主的に導入したガイドラインである。戦時中を除いて、ほとんど順守されなかったとも言われる。ヘイズコードは1968年に完全に廃止され、代わりに法的拘束力の弱い新たなレイティングシステムが導入された。  この映画のレイティング システムに対しても、2000年代に批判の声が上がる。ここでは、レイティングを行うアメリカ映画協会(MPAA)の極端な秘密主義と、レーティングの基準が不明瞭である点が批判された。2006年、MPAAは、適切な情報公開と、レイティングの基準について適宜明確な説明をすることを約束した。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』が公開された1968年10月1日は、ほとんど機能していなかったヘイズコードが廃止され、MPAAのレイティングシステムが翌11月から実施される、そのちょうど何も規制がなかった期間だった。公開直後に書かれた「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」と非難する評論は、この映画を観た人が読むと、この映画を観てない人が書いた文章のように読めた。この映画に出てこない悪霊が出てきたり、ゾンビが出てこなかったりするためである。つまり、後になって考えてみると、翌月から実施されるレイティングシステムの必要性を宣伝するために書かれたという理由以外がないように思える文章であった。
 太平洋戦争目前の1941年7月に設立されたアメリカ政府の諜報及びプロパガンダ機関「OCI (情報調整局)」が、日米開戦後の1942年6月に「OSS (戦略情報局)」と「OWI (戦時情報局)」に分割した。両局とも、敵の戦意をくじくためのプロパガンダ組織だが、前者は諜報活動のような非合法な手段によって、主に敵国の公衆に、不信、混乱、恐怖を与えることを目指す「黒いプロパガンダ」を担当した。CIA(中央情報局)の前身である。  後者は国内向けに、放送などにより、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指した「白いプロパガンダ」を担当した。ここに1941年12月に国務省に新設されていた検閲局が統合された。検閲は、あくまで「自主検閲」という原則で行われた。戦後、アメリカ合衆国国務省広報部の配下になり、USIE(情報教育局)、IIA(国際情報局)、USIS(アメリカ合衆国情報サービス)と名称を変え、1953年に国務省から独立してUSIA(アメリカ合衆国情報局)へと移行した。
 1953年、漫画業界は挫折を経験した。少年非行の問題を調査するために米国上院の少年非行小委員会が設立され、その翌年の1954年、漫画が未成年者の違法行為を誘発していると主張する精神科医による著作が出版され、漫画表現は主な読者層である子供に対し有害であると主張されると、漫画表現に対する反対運動が引き起こされた。漫画出版社は公聴会で証言するよう召喚された。時を同じくして起きた連邦政府による捜査は、コミック誌やパルプマガジンをアメリカ国内に配送していた流通企業の改革を促した。コミックの売り上げは激減し、複数の企業が倒産した。その結果、漫画出版社らは全米コミックスマガジン協会とコミックス倫理規定委員会(CCA)を結成した。こうして漫画出版社による自己検閲が実施されることになった。  コミックスコードでは、いかなるコミック誌も表紙に「ホラー」「テラー」「クライム」「ワイアード」といった言葉をタイトル��して使用する事を禁じていた。ECコミックは、これらの条項は、『クライム サスペンストーリーズ』『ザ ヴォルト オブ ホラー』『ザ クリプト オブ テラー』といった犯罪漫画やホラー漫画の人気タイトルを出版していたECコミックを意図的に標的にしたものだと信じていた。これらの規制及び吸血鬼、狼男、ゾンビの禁止は、ECコミックの収益を低減させた。CCA発足からの一年間で、現在でも人気のあるユーモア雑誌『MAD』を除くECコミックの全てのタイトルが廃刊した。  現代のコミックブックが初めて出版された1938年から1955年までの期間は「コミックブックの黄金時代」と呼ばれ、その内の1945年の第二次世界大戦の終結から1955年までは「漫画の原子力時代 (アトミックエイジ オブ コミックブックス)」とも呼ばれる。「原子力時代」は、スーパーヒーロー漫画の人気が衰え、漫画出版社は読者の関心を維持するために、戦争、西部劇、SF、ロマンス、犯罪、ホラーなど様々なジャンルに多様化した期間だった。また「原子力時代」は、テレビが登場し、マスメディアは各メディア企業と協力関係を結び、漫画出版社にも、当時の大衆文化を反映した漫画の出版を強いるようになった。漫画は宇宙、ミステリー、サスペンスに焦点を当てていたが、テレビや他のメディアは科学技術の進歩に注目していた。特に原子力について子供たちに教育することに関心が向けられた。  各メディア企業間の協力関係は、各業界の倫理規定の内容や運用にも影響し、しかし複雑すぎて把握できなくなっていった。こうして、あくまで「自主規制」である、曖昧な「事実上の検閲」制度が出来ていった。  1966年にアメリカ映画協会(MPAA)とアメリカ映画輸出協会(MPEA)の会長となったジャック ヴァレンテは、1965年から1966年までリンドン ジョンソン大統領の首席補佐官を務めていた。ヴァレンテは1968年のレイティングシステムの責任者でもあった。
 1960年代に、コミックスコードでは明白に禁止された主題を取り扱ったコミックを制作する漫画家らが現れ、しかしながらもちろん、これらのコミックは従来とは異なる販路で流通した。これらは「アンダーグラウンド コミックス」と呼ばれ、1960年代後半は「アンダーグラウンドコミックスの時代」と呼ばれる。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』はモノクロ16mmフィルムで撮影された。予算的な制約の中で最大限の効果をねらったアイデアだとも説明され、視覚的に黄金時代のホラー漫画の影響を受けているとも語られている。ロメロ監督が子供の頃に読んだECコミックの漫画は、現代アメリカを舞台にした生々しい物語で、残忍な死や、生き返った死体が復讐を企てる場面がよく登場したという。ロメロ監督は、「漫画家が作り出せるリアルな強い影や奇妙な角度、美しい照明」を映画に取り入れようとしたと語った。  アンダーグランドコミックスの中にも、読者からするとなぜか突���市場から消えた黄金時代のホラー漫画を再現しようとする漫画があった。『ナイト オブ ザ リビングデッド』を観て、ホラー漫画を読みたくなった人が、アンダーグランドコミックスを見つけ、また、アンダーグランドコミックスで描かれてるような世界観を映画で観たいという人が、アンダーグランド映画や深夜映画、あるいはテレビの地方局で深夜に放送されていた低予算映画などを見つけた。  「カルト映画」という言葉は、1970年代にアンダーグラウンド映画や深夜映画を取り巻く文化を説明するために使用されるようになった。それ以前から「カルト的人気」というような言い方で「カルト」という言葉は映画評論で一般的に使用されていた。「カルト映画」は、カルト的なファン、すなわち熱狂的なファンを獲得した映画のことであり、作品自体よりもファンが独自に作った独特のカルチャーに焦点を当てた言い方でもあるが、1970年代の用法においては、評論家や学者あるいは業界といった権威が最低の評価をしたり、ほとんど「観るな」と言っているような非難をしてるのに、関係なく、あるいは反発するかのように人気を獲得した作品を指していた。  1960年代のアンダーグランドコミックス、あるいは象徴的かつ具体的には1968年の『ナイト オブ ザ リビングデッド』から始まったとも言える「アンダーグランド カルチャー」は、「コンフォーミズム (順応主義、同調主義。社会的な基準や慣習に従うこと)」への反発だった。  順応主義への反発が「カルト」と呼ばれること以上に皮肉なことに、というか当然のようにも思えるが、ゾンビ映画から「ゾンビ」へ反発する文化が作られていった。未定義のままでも、明らかに。何らかの理由で、あるいはもはや理由もわからないままゾンビのように徘徊する事実上の検閲への反発が、アンダーグランドから蘇るというのも、皮肉なことにも、当然のことのようにも見える。ただし、カルト映画ブームが起こって、カルト映画を人為的に作ろうとする動きが起こったり、あるいはマーケティング戦略としてこの言葉が多用されたように、ゾンビへの反発がゾンビになることもよくあるようだ。これも、皮肉なことにも、当然なことのようにも見えてくる。
2025年4月 ミキシング メモリー アンド デザイア
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takahashicleaning · 1 year ago
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TEDにて
カレン・アームストロング:黄金律を復活させよう
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
2���09年時点の「思いやりの心」への憲章の発布から、数週間が経ち、Karen Armstrong(カレン・アームストロング)は21世紀の宗教の役割を見つめています。
宗教的教義が、我々を分かつのか?それとも、公益のために皆を団結させるのか?彼女は、世界の信仰が黄金律を再発見する活力となる触媒について語ります。
黄金律とは?これは時には、肯定的な言い回しで「自分にしてもらいたいことを他人にしてあげなさい」ということ。そして、同じくらい重要なのが、以下の表現です。
「自分にして欲しくないことは、他人にもしてはいけません」あなたの心と向き合ってください。苦痛と感じることを思い出してください。
そして、どんな状況であっても、そのことを他人に対しては、行わないでください。というものです。
毎日。実践することで、自分を世界の中心に据えるのではなく、他者を中心に据えることで自我を超越します。そこで見えてくると言われるのが「神」「悟り」「ラーマ」「道(タオ)」と呼ばれるものです。
これは、私たちがよく知っている「エゴに繋がれたもの」の範疇を超えたもの。もし、全ての専門家が、皆で一丸となれば、私たちは世界を変えられるかもしれません。
ぜひ、ご覧ください。必見です。
個人的には、全ての人間が必ずしもできるとは思っていませんが、せめて、全世界の半分以上の人が毎日、1回くらいは実践してほしいと心の中で祈っています。
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化��れます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じ���います。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦��す。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺��お坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
2018年では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
<おすすめサイト>
エピソード8 Episode8 - 知恵が試されるバランスとテーラワーダ仏教の「結び」、マクロ経済学(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
エピソード7 Episode7 - テーラワーダ仏教の「結び」と意識のマップ、マクロ経済学について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
ジョアン・ハリファックス:慈悲、そして共感の真の意義について
マチウ・リカール:幸せの習慣
マイケル・ノートン: 幸せを手に入れる方法について
マチウ・リカール:慈しみと愛他性(アルトルーイズム)に導かれる生き方
サラ・パーカック:宇宙から見た考古学
現時点2015年での時間の概念の解釈について
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
アラン・ド・ボトン:無神論2.0
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
<提供>
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uchu-household-blue · 1 year ago
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伊 これから4冊を読む僕はどれから読もうか頭が大渋滞..そして登場人物やあらすじを追っていて、まず読み始め 美津子が大嫌い。でも同類嫌悪だと気づいた。 あぁ、'美津子嫌いだわ なんなんだ?'で終わる人とはこの種の話進まない感じの?!もしくは独りよがりで良いほう?
①でも科学力信奉のように幼少からオカルトモチーフが近くにあったのに、今回テーマのように読むとまさに宗教的な心理そのものだったとも気づく 円盤が来て宇宙人が迎えにきたとしたら... 星新一や三島も来たる円盤を思いに描いて。米ソ対立で皆死にそうな時代に平和への祈りの気持ちがあったのかもみたいに、起こりが同様のところにあるみたいだぞと 思い込みが広がっていってた。極にあったと知らされる感覚のもう一点が生まれていける。その距離を他人として見てて、なるほどと ...個人的には信じる信じないの理論はもうとっくにどちらでもいいの、それも悲しいかもしれないけどバイアスが、透明でないことは確かなことで。スピに帰結しなくてそりゃいいさ魔法も...あるさ。そんなものでいいが為にどちらでもいいと思いたがりつつ、ひたすら迷って、、自分の拙さに答えが出せたわけでもないし怖いものはありすぎるけど、目前に仕方を変えるきっかけは。すごく落ち着いてわくわくも出来た。
最初から活字で読み進めてたらもっとすんなり美津子自身に投影したりそれこそ美津子からのきっかけを言葉以上に与えられたりしたのでは?と勝手に思っている今。神も科学もトマトでも玉ねぎでもいいんです。取るに足りない存在や人間を割り切らない何かがメディアで。何かが掴めたとかじゃなくていいのはもう分かっている、しかしざわざわした。発見めちゃあった。発見だけでなく温もりもあった。大きな大きなエゴだとも気付いた。併し、意識的にこうしたい、もっと気付きたいというものがここからは流れている
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最近の自分の感覚も救われて素直に嬉しいぃ(小声) そう、信じていないのだ でも自然科学や学問の理屈にのみ回収されたいとも思わないのだ(そのための学び方やメディアで、入り組んでいて当然だけど、立場はその上に乱立し生まれて) まるでどこにも居られなくて 信仰の文脈で、自分を信じていなくて、それは��虚の様相かもしれないけど、信じたくもないくらいの部分もウェイトもあるその裏付けは反例出来たのではないか。意識のレベルの話なのか。辛いな。話すのやめたくなるくらいのことで、こんなテーマだからいつも。どうでもよくなるまでの時間さえ待ったり 大切なものが照らされていられるような自分を探したがったり   
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なんか ちょっと透けたり(引き返して撮る 切り抜き) 険しいものだと思う。予言しかり、霊的な新宗教もあり、古典的な原理や意味を探したり、  認知的不協和で言うようなズレ、溝とのことなのか、美津子のように 信じないという立場や心境誰にでもあるとも感じるけど 自分や世界を疑いながら不在から逃れられず何か見つけたがる思いのようなことなのか、ある種儀式なのかな それも。大津も美津子も無自覚と闘う 2世,なのだな。問題と名付けた時にカルトが輪郭として見えてしまうよな。(教団化したものの跋扈、という規模感については区別も問題として問えるかなとは思ったけど)それらそれぞれがとても切実に映った 自分のなかに例えを出して投影してみたい 自分で自分を忘れられなくなっていく  馬鹿にならないともいけない💪😭 あべさんポーチじゃない 探しています!という主観と素朴にだけいるべきなのか? 何故どこにも居られないか、無の為にとならしたくなれない事は、どう要対応なのか...感情を探しても無いからこういう大きなテーマに救われるしかないんでしょうね、正も負もないだろうと言いたくなる 形から入る、信じるとはから入る、どちらもあり、全てに勝つ
かれこれは分かるかもしれなかった。見たくないものも見るようにするとはどういう手法を言うのかな、見たいもののほうが分か��ないなと思う。予言が叶うとき?予言がはずれてもの時? 不安や確率や保険の話だけする?祈りに追いやられた協和を棄てる?いずれにしても全能じゃない便利なだけかもしれない、ひとりでやる分の仕事はどこに必要される。任された名前ないものの多さ。自分の中にアイデアを探せなくなっていった時間とか、自分が普通には読み取れない流れてしまうものとか、考えても飲み込めないこととか、そういう寂しさだって自分じゃなく何見ても減らないんだけど なんで、どういうこと?が分からないことも、そんな時間なんかねぇよなことも減らないかもしれないからうおー勘弁と思うけど 退くしかないのかと思い始めるともう仕様がないけど放浪の流れそれで素敵な気もした 何度でも引っかかるものが留まるようにの方向で頑張って 守られているように自分で相変わらず理由や目的のギリある空間だったかなと なにが目前の問題で、何が平時や慣習を上回って 信じたいストーリーを例えていける、作っていける 溝を見つめたりして  終わったらいけない大きな活動なのかもしれないゾゾー   境界への触れ方の話の中であった感情 かつて幼心が抱いて大事にして、けどもう叶わないこと、敵わないこと。修繕を待つもの。祈らなきゃいけない気持ちや、概念を問う時にある温度を、確かめるしかない個人の心のことを、そういう切実にそんな触れ方されても何も出来ないよという思いで反例を育むしかなくなった因果関係には気付けた だから道具や武器を尖らせていくしかないのかと手を見ると 怖くて辛かった でも先鋭化したくないやり方でもいいーなくせるものならなくしてみろよと、(不協和の補正、反動と、)言えること。思い知った時と恐怖、自分の外でも中でも畏れていることだよ 強固になっていくこと、南海、何回考えてもなにか'信じて'いくんだ、揺れ方を描くことしか出来ないまま 私も 砕かれたような無理難題も 大きなる信心探しも 息は続くよ。10%の希望、僅かな確かさそこでみられるものとそれと他所で出会えること。出来る様になりたいと強く思うからこそ罠のように。壁にしかなれなくて 照らしておくよ入口まではね、他者の合理性でね、廊下くらいしか 灯らなくて 分からなかった、描けても。 何を拾って咀嚼しても壁が続くだけ、外から測れない時間が続く、長いのかもしれない。一緒に笑ってうまくいったこと、変わる事なくありたいし冷えさせたくないものもあると同時に外気も体温も冷たくなって、目に見えたい形など、居場所など、いつのまにかなくても大きな流れだけがあって ほんとに嫌になって 流れているものを前提としすぎてもいけないかもしれなくて なのに そんな砕けない溝を逸らさないように やり方が自分の中に宿るように 終わりになれないだけでひたすら まだ続く
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守り切りたいという望みや夢
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takutakuma · 2 years ago
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「ソース」が一体なんなのかがよく分かりません。中濃ソース、とんかつソース、ウスターソースなどありますが、ただ揚げ物やとんかつにかけてればいいのでしょうか。成分をみると想像以上にフルーツや野菜がたくさん入っていて、不健康なイメージを持っていたので少し驚きました。オタフクソースはまた全然別ジャンルのような気もしますし、案外似たものなのでしょうか。日本のソースはイギリスのウスターソース由来と聞いたこともありますが、どのように使うのが正解でしょうか。イナダさんのお考えをお教えください。オプションを開くイナダシュンスケフォローエリックサウスとかの中の人/料理人/文筆家/ナチュラルボーン食いしん坊/近著『ミニマル料理』(柴田書店)・『スパイス完全ガイド(西東社)・『キッチンが呼んでる!』(小学館)これはまた哲学的な質問ですね。ウスターソース、中濃ソース、とんかつソース、お好みソースなどなどは、総称して「ウスターソース類」と呼びます。長いし一般的な呼称ではないので、ここでは単にソースと書きますね。トマトソースやソース・ヴァン・ブランなどそれ以外の一般名詞としてのソースはいったん省きます。ソースの源流を辿るとウスターソースに行きつきます。イギリス生まれの食品です。僕はウスターソースの本質は「酢」だと考えています。酢になんやかんや加えておいしくしたものがウスターソースということです。イギリス料理は、あまり味付けをしない料理に食卓で各自が塩や辛子や酢で調味を行うのですが、ウスターソースもそのひとつです。それらのオール・イン・ワン的な物とも言えるかもしれません。玉村豊男っぽく言うと、ウスターソースは「三杯酢」と同じ位相を持っています。三杯酢は酢に醤油や甘み(みりん)を加わえておいしくしたものです。醤油というのはそれ自体が複雑な旨味と香りを持つわけですが、ウスターソースの場合は香味野菜等を複雑に用いることでそれを演出しているという構造です。ウスターソースにはそれに加えてスパイス類が加わるのが三杯酢との大きな違いです。スパイスは、いわゆるキャトルエピス的な、つまりヨーロッパで一般的な(古典的な)スパイスの混合に、チリが加わったもので、中でもクローブが重要です。そのウスターソースの源流は、マッシュルームケチャップなのではないかと僕は考えています。ケチャップと言ってもトマトケチャップのことはいったん忘れてください。ケチャップは元々、東・東南アジアの穀醤・魚醤つまり醤油やナンプラーの総称であり、マッシュルームケチャップはその系譜です。ただしこれはアジアの穀醤・魚醤からは大きく味が変化し、酢と塩のベースに(マッシュルーム由来の)ほのかなうま味やクローブの香り、カラメルの漆黒色が加わった、まさに原初のウスターソース的な見た目と味わいになっています。ちなみにイギリスのウスターソースには、魚醤とほぼ同種の調味料であるアンチョビが入っているだけでなく、かつては原材料の一部に中国や日本の醤油も使われていました。ウスターソースはその後日本に伝わり「洋醤油」と呼ばれます。アジア生まれの醤油・魚醤が、ぐるっとヨーロッパを回って日本に帰ってきたということにもなります。日本では輸入のウスターソースは高価だったので、「酢と醤油と一味唐辛子など」でその代用品が作られていたりもしたようです。世界を巡る魔改造大紀行。興奮しますね。さて日本に伝わったウスターソースは、さらなる魔改造が進みます。醬油に近付けるかのごとく塩分濃度が上げられ、そのバランスを取るためもあってか糖分も増えました。最初に「ソースの主体は酢」と書きましたが、この変化により酢の存在感は相対的に低下します。そしてここからやおろずのソース神話が始まります。 日本式ウスターソースはとんかつソースを生み落としました。甘さととろみを増すことでより「おかず味」に特化したソースです。しかしそれは少々やりすぎというところもあったのか、ウスターソースととんかつソースはその中間的な中濃ソースを生みました。中濃ソースはその後東京を拠点にウスターソースの覇権を奪うことになる魔の子です。お株を奪われたかに見えたとんかつソースですが、そこからオタフクを長兄にお好みソースたちが生まれます。広島の地では、元々ぺたんこのおやつだったお好み焼きがひたすら縦にボリュームを増す3D超進化を遂げたのに伴い、ソースは極限まで甘さと粘度が増し、酸味はアクセント程度にまで大幅に削られました。彼らや彼らの子孫は、なんとあの大阪まで含めてお好み焼き界を席巻し、ついには全国にその繁栄の種を撒きました。またその傍で、ウスターソースととんかつソースは焼きそばソースやたこ焼きソースなど多くの子を成し、彼らもまた国中に散らばりました。そんな中、ウスターソースの嫡子であるコーミソースは、味噌の国の城壁内に特区を構えています。愛馬エビフリャー(と、諸国には伝わっているが正しくはエビフライ)に跨るその姿は、味噌国及び周辺の民衆に熱く信仰されています。これほどまでに深く愛されている神もそうそういないかもしれません。とんかつソースや中濃ソースが味噌ダレの砦に侵入を阻まれたことも、コーミソース教がその純粋さを保ち続けられる理由のひとつかもしれません。そんなソース多神教の中、僕はあくまでウスターソース信者です。しかもその中でも最も原理主義的なリーペリンソース派です。なぜならばソースの本質は酢なのであり、決して酸味を削いではいけないと考えるからです。また、うま味もアンチョビ由来のあの程度のほのかさで充分と考えます。そういう意味ではリーペリンソース派より更に少数派であるA1ソース派とは部分的な共闘が可能とも言えますし、ついでに言うとコーミソース神という嫡子の嫡子に対しても、ある種の愛情を感じています。また、ここだけの話ですが、どろソース教というカルト宗教とも密かに通じています。つまり現在覇権を握る中濃ソースとオタフク系ソースに対して包囲網を築こうとしているのです。レジスタンス勢力は今のところ劣勢としか言えませんが、時が来れば蜂起する、その時にはコーミ王子を神輿に担ぐしかないでしょう。これはおそらく民衆受けする貴種流離譚です。 卓上に中濃ソースを置く全国の飲食店には、そろそろ悔い改めて欲しいと心中願っています。リーペリンソースとまでは言わないまでも、せめて(国産)ウスターソースにしてはもらえぬか。そしてそういう贔屓目抜きで、卓上ソースがウスターの店は名店が多いと感じています。質問者さんは好きにしたらいいと思います。かけたいものにかけたいソースをかけるのみ。信教の自由は侵されてはなりません。しかし願わくば我が派閥に加わって欲しい。May the sauce be with you ソースと共にあらんことを!2023/11/25投稿
「ソース」が一体なんなのかがよく分かりません。中濃ソース、とんかつソース、ウスターソースなどありますが、ただ揚げ物やとんかつにかけてればいいのでしょうか。成分をみると想像以上にフルーツや野菜がたくさん入っていて、不健康なイメージを持っていたので少し驚きました。オタフクソースはま… | Mond - 知の交流コミュニティ
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picnicism · 2 years ago
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95歳で亡くなった創価学会・名誉会長の池田大作氏が戦後の日本政治に与えた影響は少なくない。 とりわけ、日本独自の平和外交路線が国内政治の文脈にとどまらず世界に広がった背景には、池田大作氏と創価学会の存在がある。 充足しているはずの現代社会で生きる指針や心の拠り所をなくした人々が増える中、今後の宗教に求められる役割とは何か。 (山本一郎:財団法人情報法制研究所 事務局次長・上席研究員)  11月15日、創価学会の名誉会長であった池田大作さんが95歳で亡くなられていたことが報じられました。  一般には、池田大作さんの消息が明確には伝わっていない時期も長かったことから、ことを正面から受け止め切れない国民も多かったのではないかと思います。ご健在であることが当たり前すぎて、フリーレン状態になる予定なのかとすら思っておりました。  キリスト教的な表現で恐縮ですが、池田大作さんの魂に平安があらんことを深くお祈り申し上げます。  かくいう私も、大学で自治会をやって、カルト宗教の不法な偽装サークル対応などをやった後、社会人になってもしばらく身近な存在でもある創価学会には屈折した感覚を強く持っていました。ただ、世の中に出てみると、それまで異質な宗教の人たちと思っていた創価学会の人たちが、割と枢要なところで息づいていることを知ります。  今回、総理の岸田文雄さんが池田大作さんのご逝去に臨んでコメントを出して、それに対して噛みついている人がネットでも多くおられました。  宗教分離に関しては、憲法で認められた信仰の自由を基本として、宗教を信じる人たちが政治を志し政党を結成すること自体は何も禁止していません。政府が特定の宗教を弾圧したり、あるいは国費を用いて信仰を奨励したりすることを禁じているにすぎません。  今回、政府の権力者である岸田さんが「みんなで創価学会を支持しよう。さもなくば増税」と何らか政治権力が信仰を強要するものでもない限りは、政教分離の原則は充分に守られているものと言えます。  この政教分離の原則と現代政治はいま猛烈に重要なトピックスになっています。すなわち、創価学会を支持母体とする公明党は宗教勢力そのものであって、政教分離の原則から外れてるんじゃないかと思う国民が、一定割合いることです。  また、先般問題視された旧統一教会(現・世界家庭連合)と同様に、創価学会は悪質なカルト宗教だと指弾する人がいたり、元の日蓮正宗から破門されている創価学会は邪教とまで言い募られたりもします。世間一般の信仰と、宗教を隠れ蓑に問題を起こしたとされる組織とはちゃんと分別しないと駄目です。  そして、宗教と政治の���わりのむつかしさは、客観的、科学的に白黒線引きがつけられるものではなく、人と人との関わりの中で決まっていくものですから、なかなか第三者が口を挟むのもむつかしい面もあります。  幸福実現党など具体的な政党だけでなく、自民党内にも神道系の政治団体があり、既存政党への応援を重ねること自体は適法です。宗教が政治に関わることは禁じられていないが、政治が宗教を利用したり迫害することは戒められている、という事実がなぜかきちんと知られていないのは変だなあと思います。 池田大作氏が日本政治に与えた影響  政治における池田大作さんの影響は、まさに国内政治でも外交でも深く広く及んでおり、特に「生命の続く限り、私は書き続ける。正しい仏法とは何か。正しい人生とは何か。そして、何が歴史の『真実』か。人間にとって『正義』の戦いとは何かを。そこに、人類の未来を開く、一筋の道があるからだ」(新人間革命)というくだりを見るに、単にひとつの宗教の信心にとどまらず、ある一定の現代政治思想そのものであったとも言えます。いまの世の中はどうあるべきか、という。  続いて「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ続いていた」(小説人間革命)、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」(新人間革命)など、いずれも戦後日本の平和外交の礎となるような思想の根幹を池田大作さんが公論として広め、世界的に見ても独自の立場を取る日本の平和外交路線に導く作用を果たしたということができます。  これは、単に資源のない日本が世界の安全の配当を受け取る国だからという一国の繁栄を目指すにとどまるものではなく、見ていると、割と積極的に世界各地の紛争や災害に対して人道的な立場から日本が果たせる役割を見つけ、果たしていこうという高邁な考え方が根底にあるような気がしてなりません。 公明党が側にいない自民党単独政権の恐怖  それがいろんな経緯もあって、1999年10月、総理であった故・小渕恵三さんの第2次改造内閣で、あろうことか自由民主党および自由党(その後、保守党となり自民党に吸収される)との連立政権が立って四半世紀、どう考えても当の方向性からするとあっちとこっちを向いているにもかかわらず、なんだかんだ上手くやってきたのは驚くべきことです。  言わば、泥水でも何でも飲んで何かをしでかそうとし、時として暴走もしてしまいかねない自民党というエンジンと、小所帯ながら冷静に平和を追求する公明党というブレーキとが一体となってまあまあうまく機能してきたのが安定した自公政権のメカニズムであったとも言えます。  いや、本当に自民党単独政権で過半数取りました、公明党がそばにいませんって状態って、本格的にヤバイと思うのですよ。  公明党が各地域に根差した創価学会のパワーをうまく使うことで、小所帯でも自民党というレバレッジを使って平和を希求する国家・日本をデザインされようとしたのが池田大作さんだったのかなあという気持ちも、強く感じます。  他方、現代社会は少子化や高齢化だけでなく、経済の低迷もあって国民の生き方に迷いが深まることもまた多くなってきました。凶悪な事件の数は減っているとはいえ、生きる指針、心の拠り所をなくした若い日本人がキャバクラやホストクラブなど推しビジネスにハマったり、独居老人が食い物にされたりする事件は続発しています。  本来は、こういう人たちにも生きる意味を与え、人間としての尊厳を取り戻し、穏やかで、しかし活力ある暮らしを復活させるためには、ある種のいま風な宗教的価値観が再認識されるべきなのではないかとすら思います。 創価学会に課せられた使命  実際、地方政治を見ていると、貧困家庭や高齢者に寄り添い、地域の活動を支えている議員の多くはたいていにおいて公明党の人たちであって、いまでこそ、NGOだNPOだ言ってますが実際の福祉を担ってるのは結局創価学会の人たちじゃないかとも思います。  また、旧統一教会の件では宗教と家庭、寄付の話が蒸し返され、1950年代の反共産党活動で自由民主党の保守傍流と結託した旧統一教会が腐れ縁でいまなお自民党の枢要な政治家に刺さっている状況は、旧統一教会が標榜するキリスト教諸派だけでなく、創価学会などあらゆる宗教に対する冷めた目線をも惹起してしまっています。  いまの世の中を見ると、本来であれば、絶対的な価値と行動規範を提示する宗教一般が現代社会において相対化されてしまい、むしろ信者である私たちとそうでないあなた方とで分断されていきがちな状況に陥っています。  社会における宗教団体に対して感じる気色悪さの根源も、かねて宗教が戦ってきた奇異の眼や異端扱いとの戦いにもその文脈があるのであって、こんにちにおいても穏やかに信仰を重ねることそのものが非科学的だと感じる国民も少なくありません。  しかし、一方で人間の力の及ばない問題に直面したときに自らを落ち着かせ励ます瞑想や、日々の行動を慎ましく律するための信仰がその人の未来を拓くこともあるのではないかと思うのです。偉大な宗教指導者であった池田大作さんが亡くなられた後の創価学会は、そうした本来の宗教的価値観を新たに構築していく使命を帯びています。  ひとつの時代の終わりとともに、新たな何かを創価学会も、公明党も、日本政治も考えていかねばならない状況に追い込まれていることを鑑みると、池田大作さんは最後の考える時間を作ってくださったのかな、と感じずにはいられません。  改めて、池田大作さんの魂に限りない平安があらんことを心よりお祈り申し上げます。
現代政治思想そのものだった池田大作氏、戦後政治に残した平和外交路線の矜持 池田大作さん死去、全く関係のないキリスト教徒の山本一郎がその存在感を悼む(1/4) | JBpress (ジェイビープレス)
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kennak · 2 years ago
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昨年7月8日の安倍晋三元首相銃撃事件を契機として、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡るさまざまな問題が明らかになりました。教団の持つ顕著な反社会性や被害の凄惨(せいさん)さが広く世間に知られるようになり、同時に政治家との癒着の実態も次々と明るみに出て、旧統一教会問題は大きく社会問題化しました。  政界では昨年夏以降、各政党が旧統一教会との従前の関係性を問うアンケートを実施したり、議員が個別に関係を絶つという表明をしたりしたほか、自民党の行動指針に教団との関係断絶を明記すると岸田文雄首相が国会で表明するなど、教団との関係を見直す動きは一定程度進められました。  このような情勢の中で、旧統一教会の宗教法人解散を求める声が飛躍的に高まりましたが、所轄庁である文化庁は長年にわたり、宗教法人法上の解散命令請求の要件を非常に狭く解釈し、刑罰法規の違反に限るとしており、法人や代表者自体が刑事責任に問われたことのない旧統一教会については要件に当たらないとの立場を取り続けていました。  これはそもそも不合理な解釈でしたが、昨年10月、岸田首相は、世論に押される形で国会答弁でその解釈を変更し、民法違反も含まれうるとしました。  そして、解散命令請求の要件に当たるか否かを判断するためとして、文化庁は昨年11月、旧統一教会に対して宗教法人法上の質問権を初めて行使し、現在に至るまで6回実施しています。同時に、旧統一教会問題に長年取り組んできた全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)から資料提供を受けたり、被害者からの聞き取りをしたりするなど調査を進めています。 被害者救済新法の成立  積み上がる被害者や家族の声と世論の大きなうねりの中で、昨年12月10日の臨時国会で不当寄附勧誘防止法(いわゆる被害者救済新法)が成立しました。同法は、主に旧統一教会による高額献金被害を念頭に国会審議が行われ、わずか1カ月という異例の短期間の議論を経て、しかも土曜日に国会が開催され成立したという点で極めて異例でした。  長年、旧統一教会問題に対して何らの対応もせずに放置してきた国が、わずかな期間に被害者救済を目的とした新しい法律を作ったことは驚くべきことであり、被害抑止・救済に向けた取り組みの第一歩として評価できるものでした。  昨年9月以降、国、日弁連、法テラス(日本司法支援センター)に設置された各相談窓口には、旧統一教会の被害者や家族らからの相談が山のようにあふれていました。これは、長年声を上げられなかったり、諦めたりしていた被害者や家族らの叫び声でした。  これら被害者・家族の受け皿となり旧統一教会被害の具体的な救済活動に当たるものとして、昨年11月、全国の200人以上の弁護士が結集し、全国統一教会被害対策弁護団が結成されました。  弁護団は今年2月、旧統一教会に対して第1次集団交渉の申し入れを行い、損害賠償や献金記録の開示などを求めました。その後、第2次、第3次と申し入れ、被害者数は計99人、請求額は26億円を超え、今後も順次申し入れを行っていく予定としています。  「宗教2世」と呼ばれる、カルト宗教の信仰を持つ親の下で育った子どもたちが受けてきたさまざまな人権侵害は、長年社会問題として認知されておらず、家庭内の問題である、あるいは宗教であるとして、行政も介入に極めて消極的でした。  昨年7月以降、それまで声を上げることができなかった多くの宗教2世たちが勇気を出して次々と声を上げ、報道でも大きく取り上げられるようになり、宗教2世の問題はようやく社会問題として認知されました。  昨年12月、厚生労働省は宗教虐待に関するガイドラインを公表しました。このガイドラインは、宗教2世が受けてきた宗教を背景としたさまざまな人権侵害(宗教虐待)が児童虐待に当たることを明記し、行政に対して子どもの側に立った対応を求めるものであり、現在の児童虐待防止法の枠組みの中で図りうる最大限の対応指針を示したものでした。 世間の「終わった感」  このように、安倍元首相銃撃事件から数カ月間での旧統一教会問題を巡る社会のさまざまな変化は、それまでの「空白の30年」とも呼ばれる長く放置された期間を考えると、まさに劇的なものでした。  しかし、これはまだ被害抑止・救済に向けた取り組みの第一歩というべきものに過ぎず、多くの問題はいまだに解決されずに残ったままとなっています。  ところが、昨年12月に被害者救済新法が成立したあたりから、何となく世間に「やった感」「終わった感」が漂い始め、年が明���ると世論は次第に沈静化し、マスコミの報道も大幅に減ってしまっています。これに呼応するかのように旧統一教会は勢いを強めており、表向きの改革をアピールするとともに、今年5月には韓国で数年ぶ��に大規模な合同結婚式を開催するなどして活動を活発化させ始めています。  1950年代に日本に入ってきた旧統一教会は、これまでも繰り返し社会問題化してきました。しかし、そのたびにさまざまな手を講じて社会の目をくらませ、ほとぼりが冷めるのを待ち、再び被害が発生するということを繰り返してきました。  このままでは同じ轍を踏むことになりかねず、ここでしっかりと旧統一教会被害の根絶を図ることが絶対に必要です。  世論の沈静化とともに、旧統一教会と政治家との過去の癒着の実態についても、十分な調査・検証が行われずにうやむやにされたままとなっています。  米国では76年以降、フレイザー下院議員を座長とする委員会が「コリアゲート事件」(韓国政府などによる米国政界工作事件)に関する調査を行い、「フレイザー報告書」と呼ばれる調査報告書をまとめました。それを基に、旧統一教会の教祖文鮮明が脱税容疑で告発されて服役することになり、以降、米国での教団の活動はそれ以前に比べて下火になりました。  他方、日本における旧統一教会は一部の保守系政治家のお墨付きを得て共存共栄し、それが被害拡大に寄与してきたという現実があります。国は、教団と政治家との過去の癒着の実態について、第三者委員会などを立ち上げて十分に調査し検証を行うべきです。 解散命令と財産保全  旧統一教会は長年、国に認証された宗教法人として大手を振って違法な活動を続けてきました。裁判所の解散命令によって宗教法人格を失えば、「宗教団体」としては存続し得ますが、「宗教法人」としての特権を失い、間違いなく組織は弱体化し被害は減ります。そのためには、文化庁が解散命令請求を行い、裁判所が一刻も早く解散命令を出すことが必要です。  同時に大事なのが、財産保全を図るための特別措置法を制定し、早急に財産保全を行うことです。宗教法人法には財産保全の規定がなく、立法の不備があります。  旧統一教会は、これまで毎年数百億円もの資金を韓国やアメリカに送金してきており、組織的に全国の不動産売却を図ったこともあり、解散命令が近づくにつれ財産隠しを図る可能性は極めて高いといえます。  解散命令が確定し清算手続きに移行すると、裁判所から選任された弁護士である清算人が法人の財産を処分し、債権者へ配当を行うことになります。被害者も債権者と認められれば、清算手続きの中で支払いを受けることにより被害救済を受けることができます。しかし、清算手続きに移行した時点で空っぽであれば目も当てられません。  また、全国統一教会被害対策弁護団による集団交渉申し入れに対しては、教団側は基本的に「被害」なるものは見当らないというスタンスであり、不誠実な対応を取り続けています。  そのため、弁護団としては次の段階として集団調停や集団訴訟を検討せざるを得ませんが、被害者や家族らの被害には、既に消滅時効の期間を過ぎていたり、証拠が残っていなかったり、本人が既に亡くなっていたりするなど、困難な事案も多く含まれています。  そのような事案も、元はといえば教団が長年にわたり自らが生み出してきた「被害」に向き合わず、無責任な対応を続けてきたことに起因するのです。教団の責任を認めなければ不法な利益が教団側に残ることにもなり、正義・公平の観点に反することが明らかです。裁判所においては、被害者・家族の適切な救済が図られるべきです。 宗教虐待への対処には  新たに成立した被害者救済新法は、被害抑止・救済に向けた取り組みの第一歩としては評価できるものの、適用対象や範囲が狭いなどのため実効性としては乏しいものであり、特に家族被害の救済にはほとんど役立たないものとなっています。  同法は、施行後2年をめどとして施行状況などを勘案し検討を加えるものとされています。被害者の声に十分に耳を傾けた上で、被害救済に役立つように適切にその内容を見直していくことが必要です。  また、厚生労働省が出した宗教虐待に関するガイドラインは、児童虐待防止法の枠組みの中での対応指針を示したものでしたが、児童虐待防止法が基本的に親子間の虐待を想定しているため、宗教団体が背後にある宗教虐待への対応には限界があります。  第三者虐待防止法などの制定、または児童虐待防止法の改正によって、宗教虐待の禁止を明記するとともに、組織的な宗教虐待へ対処するための国・自治体の権限の明確化を図ることなどが必要です。  このように旧統一教会の問題はまだ緒に就いたばかりです。人権問題であり、被害が根絶するまで多くの方に関心を持ち続けてほしいと思います。 弁護士 阿部 克臣(あべ・かつおみ)/1978年山形県鶴岡市生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、2009年弁護士登録。第二東京弁護士会、リンク総合法律事務所所属。全国霊感商法対策弁護士連絡会の事務局、全国統一教会被害対策弁護団の事務局次長を務めるほか、多数の消費者被害弁護団に参加している。共著に「統一教会との闘い 三五年、そしてこれから」(旬報社)。
「特集」 旧統一教会問題を止めるな 安倍元首相銃撃事件から1年 | 株式会社共同通信社
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junikki · 2 years ago
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最近のわたし。髪色全然落ちなくてこわい。9月に染めて1ヶ月以上経つのに、まだこんなにしっかり発色している…まだ初音ミクの髪色みたいな感じのターコイズブルーって感じで、青みのあるところがすごいなって思う。前髪はだいぶ褪色したかも?ってかんじだけども、インナーカラーはマジでかわらん…ハロウィンの生地でワンピ作ったんだけども、色んなモチーフをくり抜いて作ったくるみボタンがアクセントになって気に入ってる。レジンとかくるみボタンでこういうオリジナルのボタン作って洋服にしようかなって思う。そして来年、できれば販売したい。
ロバート帰ってから早速バイト始める予定。なんかマジで豚小屋みたいな感じで汚いから、あんま実家におりたくないなって思って。倉庫バイトです。きついよな。働くの、すごい久しぶりだからなんか怖い…週4で4時間だけだからまあ大したことないんだけども。中年太りしてるから少しは痩せるかな?と期待。ジムに通う感覚で働こうと思う。一応休憩ももらえるらしいので、ご飯は水道水と塩おにぎりみたいな感じで質素な感じでいこうと思います。倉庫は髪色もこんなんでも大丈夫だろうからそこはうれしい。髪色があまりにもまだまだ鮮やかなので勿体無くて。今月はとりあえずって感じだけども、これから事務系で働くなら、暗くせなあかんかもやからネイビーにしようかなとか思ったり。
親は昔から物を溜め込むところがあって。なんか基本全部の部屋が物置みたいな感じになってて驚いた。一階にある縁側を物置にしてしまっていて、縁側が開かずの扉になっている…まあそれはわたしが実家にいた時からそうだったんだけども、親も足腰弱ってきているので、料理や掃除も手伝ったりしなきゃなとか思います。
正直、ずっと親が嫌いだった。創価というのも、それを押し付けてくるのもすごく嫌だったし、こうして物を溜め込んでゴミ屋敷みたいにするところも嫌だった。でも、やっぱ長年住んでいて思い出とかいっぱいある実家だし。無料で住めるからそこがありがたい。まあ短期間だし、どうにか自分の使ってた部屋を整理して住もうかと思います。
姉の家に長いこと行ってないけども、Googleマップで見たら、なんか外に色々ゴミゴミした物を置いてるの。姉の家も貧乏だけども、やっぱ貧乏な人ってこうやってゴミみたいなもんを外に置いたりして汚くしてるんだなって思った。実家はめちゃくちゃ大量に植木鉢とかあって、こんなクソ狭い庭のどこに置けるんだよ?てレベルだったから。
創価みたいなカルト系もそうやけども、ユダヤ人とかキリスト教徒とかイスラム教徒も基本世襲でずーっと信仰してるけどもさ、みんな親の教えに反発することってないんかな?って思うんだけども。もちろん、キリスト教や仏教など、その国でメジャーな宗教だったらなんの疑問も持たずに信仰するだろうけども、キリスト教徒メジャーなヨーロッパに散らばっていたユダヤ人とか、イスラム教徒って、友達が増えたりコミュニティが広がると疑問も出てくると思うんだけども。ユダヤ人は自分らは特別っていう考えだろうから、そこは違うんかな?ドイツ系トルコ人の元彼は正直親や姉がイスラム教徒なことを恥じていたようなところがある。そりゃそうだわ。いかにも中東アラブ人!て顔じゃなくてドイツ人にも見える感じの人だったからさ、名前でトルコ系ってバレて、それで嫌な目にもいっぱいあってきたんだろうなって。なんか創価に通じる物を感じた。好きでなったんじゃない!生まれた家のせいだ!て感じだよね。
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この前なぜか滋賀の草津に行ってきたんだけども、草津ってめっちゃ栄えてるね。モールがいくつもあって、駅前で買い物完結できるやんてレベル。神社仏閣も多くて古い街並みも残ってるし、とてもいい所やなあっておもった。モールにあった手芸屋さん見てたら、内藤ルネの生地が安くなってたから購入。2.4mしかなかったけど。レトロな絵柄の中にローマ字で書いてあったり、なぞに「ほんねんもどーぞよろしくネ」とか書いてあるのが好き。新年に着たい。
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2.4mでもこれなら作れそうやなって。別布はネイビーの無地で作ろうかなとか考え中。ボタンはくるみボタンでモチーフくり抜くかんじで。まあ内藤ルネの生地は販売できんから自分用やけどもw
チェックとか水玉とかの権利関係ない生地でワンピ作って、ボタンをレジンで作って凝った感じにしたいなとか思ってる。でもやっぱり小物類を一番多く作りたいかも。エプロンとかも母に作ってあげたら好評で、職場の人にあげたらしいから、エプロンの販売もありかなとか思ってる。1mの用尺あれば済むしね。ポケット多くて美容師さんとかが使ってそうなめちゃくちゃ機能的なやつ作れば、結構売れそうな予感。
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そういえばハロウィンにおかしもらった。トリックオアトリートしてへんのにw平成ギャルっぽい女の子にもらいました。あれも今思えばコスプレだったのかも。なんかあんま違和感なかったんだよな。日本に長年いなかったのもあってか、あの時代がそんな昔に感じない。
ᙏ̤̫͚
つくづく、新しい職場さ、友達とかいらんから、できるだけ中立的にあっさりとした付き合いでいきたい。なんか若い女だと友達になりたがるみたいな人多いもんな。仲良しごっこみたいな。我ながら人当たりも悪くないから、割と簡単に友達らしき人はできるんだよな。でも、なんか嫌われたり、嫌がらせされたら、派遣会社に言ってすぐ辞めようとかは思う。すぐ辞めると信用無くして仕事もらえなくなるとか言われるらしいが、ビザ取れたらカナダにまたすぐ戻るかもしれん私にはこんななんの経験にもならんような単純作業の仕事なんてクッソどうでもいいしな。物流業界経験者だからわかるが、今の時期、そりゃ喉から手が出るほど人手が欲しいだろうから、企業は必死だろう。でも短期で働くような人に嫌がらせするような民度だと、どんどん自分の首を締めることになるっていう単純なことを実感してほしい。この時期はトロい新人みたいな人でもいてくれるとだいぶ助かるっていうのは知ってる。金もらえるし、運動になるからやるだけ。それくらいの感じで割り切ってやりたい。
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thetaizuru · 1 year ago
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「 「<フォーマ(*)>を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」  -『ボコノンの書』第一の書第五節 」
 最近、何人かの人が、「シニカルだけどシニシズムじゃない」というような言い方で、人物やコンテンツなどを好意的に評価しているのを聞いた。  「シニカル」と「シニシズム」は、形容詞か名詞かという違いだけで、どちらも「キュニコス(シナックス)」という古代ギリシャ哲学の一派に由来する語である。現在の一般的な意味としては、「シニカルなジョークや言い回し」というような使い方をする場合の「シニカル」は、「皮肉っぽい」とか「嘲笑的」「批判的」というような意味で、そういうのが好きな人もいるとか、面白い場合もあるという程度には好意的にも使われるが、「シニシズム」は、「冷笑主義」と訳されるように、否定的な意味で批判的に使われる。「シニシズム (冷笑主義)」は「ペシミズム (悲観主義)」や「ニヒリズム (虚無主義)」などとほぼ同義として使われる。  「シニカル」とほぼ同義の語に「アイロニカル」というのがある。どちらも「皮肉」を意味するが、「シニカル」は、否定的で、しばしば嘲笑的で悪意の伴う皮肉を指すのに対し、「アイロニカル」は、事態の逆説性や予期せぬ結果を表現する際に使われ、楽しませるための冗談としての反語表現や風刺を指すとされる。「アイロニカル」(名詞形「アイロニー」)の語源はギリシャ語の「エイロネイア (虚偽、仮面、装われた無知)」であり、「表面的な振る舞いで本質を隠すこと」「無知の状態を演じること」といった意味がある。  「シニカルだけどシニシズムじゃない」という言い方は、なんとなくのニュアンスを言おうとしたもので、そう言われると確かにそうかもね的な話から、逆説的な言い方だけど、むしろシニカルだからシニシズムにならないんじゃないかというような話になって、どうすれば悲観的で虚無主義的な思考にとらわれずにいられるだろうかという話になっていった。結局のところ、自分を信じてポジティブにがんばれ的なところに落ち着くんだけど、先月末からの1週間は、逆説的にというか奇妙なことに、アメリカが、なんかわけのわからないポジティブさを示した。気に食わない評決が出た後、それがおかしいことも挑発的であることも明らかで、もちろん怒りの声を上げまくっているが、街を燃やしたり爆発させたりせず、募金して歌を歌って、テレビとかインフルエンサーとかにマジで影響受けちゃってた人とかがすごくわかりやすく露わになったこととかを笑ったり、そういう点では確かにシニカルかもしれないが、他人のことではなく自分のことについても、これまでの認識を見直す機会になったというようなことを語る人も多かった。
 恐怖や不安を煽るコンテンツのほうが再生回数を稼げるらしいからそんなのばかりになるのはしょうがないとか、そういうことは知ってはいても、おすすめに上がってくるサムネとタイトルがナルシシズムとクリックベイトだけを煮詰めたようなものだらけになってくるとウンザリするし、さらには、そういうのを見て真に受けてる人の気分を害さないように気を使わなきゃいけないような空気がなぜか広がっていて、虚無主義的にならないほうがおかしい気もしてくる。ポリコレとかを批判するどころか、そうした謎の空気に気を使わないだけで「シニカルだ」って言われてるだけなんじゃないかと考えると、多分そうだと思うが、これまでそうした人たちは「シニカルだ」どころか「差別者だ」「陰謀論者だ」と言われていたので、変な空気もずいぶん和らいだようにも思える。そもそも、トランプはロシアと共謀して大統領になったんだという説をカルト的に信仰してる人たちが、自分の意見と違う人たちを「女性蔑視」の「差別者」で「陰謀論者」と呼んでただけなので、そう呼ばれないように気を使わなきゃいけない商売の人たちマジで大変なんだろうなくらいには同情しつつ、見る価値はないと判断している態度は、確かにシニカルかもしれないが、4年ごとにアメリカが内戦で世界大戦でハルマゲドンする感じのやつにも飽きてるし、勝手に付けられてるレッテルでとりあえず括って「私が陰謀論と呼ばれている反グローバリズムを代表するオピニオンリーダーです」みたいな感じで出てきてゲートキーパーのポジション争いしたりグループ作りしたりしてるのからも遠ざかりたい。  似たようなことを思ってる人は結構多そうだということが示されているし、ということは、探せば面白そうなのも見つかりそうだし、自分の考えを変えるようなヒントもどこかにありそうだ。希望は示されていて、その点でギリ、悲観主義や虚無主義と同義での「シニシズム」にはならない。  「アイロニカル (反語的、逆説的)」な態度や事態を批判する「シニカル (皮肉的、拒絶的)」な態度が、偽善的なカルト的ユートピア楽観論を暴き、そこになぜか悲観的ではない希望を垣間見せているというアイロニーに、奇妙な面白さを感じる。
 「シニシズム」は、古代ギリシャの「キュニコス派 (犬儒派)」に由来する語だが、19世紀に、キュニコス派哲学の否定的な側面が強調され、問題視される形で、シニシズムを「人間の動機や行動の誠実さや善良さを信じない性質」「他者への不信感を特徴とする態度」として理解するようになり、すなわち「冷笑主義」という現代的な意味になったと言われている。  冷笑主義は、野心や欲望あるいは目標、主義主張や意見などの動機を持つ人々に対して一般的な信念や希望を抱かず、それらを虚しく、達成することのできない、究極的には無意味なものであると認識し、嘲笑や非難に値すると考える態度のことであるとされる。  冷笑主義は他者への不信感から悲観主義や虚無主義と混同されるが、それぞれの違いを言うのであれば、冷笑主義が慎重さによる不信感であるのに対し、悲観主義は敗北感に基づいた成功の可能性への不信感のことであり、虚無主義は人生に価値や意味があると信じることへの不信感であるとされる。  19世紀以降の、社会的価値や制度、権威に対する幻滅や不信感の結果として現れているとみられる、例えば「分離派」や「デタッチメント (分離、無関心)」などと呼ばれる文化的傾向や、社会的関与の必要性を拒絶する態度などが「冷笑主義」と呼ばれ、これは、人間が正しい倫理的選択をすることができるかどうかといったことなどについての悲観的な態度であり、その対義語として「ナイーブ」がある。  冷笑主義の積極的な側面としては、偽善を暴き、理想と実践の間のギャップを指摘したいという願望があるとされ、このことをジョージ バーナード ショーが端的に「正確な観察力は、それを持たない人からは一般的に冷笑主義と呼ばれる」と表現したと言われている。
 キュニコス派(犬儒派)は、紀元前5世紀のアンティステネスを開祖とするギリシア哲学の一学派で、同時代人であるソクラテスの影響を受けつつ、禁欲主義と清貧を重んじる独自の思想を展開した。  「キュニコス」という語は古代ギリシャ語で「犬のような」を意味し、「犬」を指す「キュオン」から派生したものである。キュニコス派が「犬」と呼ばれた理由の説明として、アンティステネスがアテナイの体育施設キュノサルゲス(「白い犬の場所」の意)で教えを説いたためとも言われるが、従来の常識を拒絶して何ら恥じることなく路上生活する彼らに対する侮辱として「犬」と、最初期から呼ばれていたことも間違いないようである。  古典キュニコス派は、美徳こそ幸福に唯一必要なものと考え、美徳の完成および幸福の達成を奨励しないあらゆる事を無視するほどこの哲学に従った。彼らは自分達を慣習から解き放とうと模索し、自給自足をしたり、ただ自然に従って生活した。富や権力、名声といった従来の幸福という概念を否定し、自分達にとって自然な暮らし方をすることで、人々は幸せを得ることができるとした。  キュニコス派は、不確実性の時代に、幸福の可能性や苦しみからの解放を人々に与えると主張した。キュニコス派に公式な教義は存在しなかったが、その基本原則とキュニコス派にとっての人生の目標とは、幸福感と精神的明晰さであり、誤った信念、不用心さ、愚かさ、うぬぼれなどを含む「トゥフォス (「煙」の意。「まやかし」や「妄想」を意味する)」か��の解放である。  キュニコス派に影響を与えたソクラテスの問答法は、「知らないこと」の自覚から始まり、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る探究心と、節制した態度にある。知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄される。  ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開した。ソクラテスの用いた問答法は、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させて、相手自身で真理を発見させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は「エイロネイア (アイロニー)」と呼ばれる。  ソクラテスの思想には全般にわたって、自らの無知を自覚することこそが真の認識に至る道であるというような、二面性あるいは二重性が孕まれている。
 心理学において、思考がどのように二つの違った方法で生まれるか、または二つの違った過程(プロセス)の結果として生まれるかを説明する「二重過程理論 (デュアル プロセス セオリー)」というのがある。この二つの過程というのは、暗黙の自動的な「無意識」の過程と、明示的でコントロールされた「意識」的な過程として説明されることが多い。  今年3月に、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル カーネマンが亡くなり、彼の功績について話題になった。カーネマンは経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及び、不確実性下における意思決定モデルの一つであるプロスペクト理論で著名であり、行動経済学の先駆けとして知られる。  カーネマンは二重過程理論の二つの過程を、「直感」と「推論」で区別する新たな解釈を提供した。別の研究者による、より中立的な呼称として「システム1」「システム2」というのもあり、カーネマンもこの呼称を使った。カーネマンの「直感」は「システム1」に、「推論」は「システム2」にほぼあたる。  「システム1」というのは、無意識の推論であり、速く自動的に、暗黙のうちに行われるプロセスであるのに対し、「システム2」は、自発的にコントロールされた意識的な推論であり熟慮のことであり、これは遅く不安定である。  「システム1」を「ノンシンキング ブレイン」、「システム2」を「シンキング ブレイン」と呼ぶ人もいて、「システム2」すなわち「シンキング ブレイン」は起動させるのに「メンタルエナジー」が必要な状態だという。マーケティング広告としては、客に「メンタルエナジー」を使わせるようなものは即、大失敗とされる。「システム2」を起動させない状態が長く続いた状態を、「ゾンビモード」と呼ぶ人もいる。「ゾンビモード」は、本人の自覚がないまま何かにコントロールされているような状態で、本来「システム1」に分類される「感情」「主観」「共感」「想像」といったものまでが歪んだり、健全に機能しなくなる状態だと説明される。  そもそも人は意思決定の99%近くを「システム1」で行っているとも考えられていて、後になって、その意思決定や行動をしたもっともらしい理由を探しだしてくるのが「システム2」なのだとも言われる。カーネマンも、「人間にとっての思考とは、猫にとっての水泳だ。つまり、できなくはないけど、あえてしたくはないものだ」と言った。「システム2」は、遅くやってきてすぐにメンタルエナジーを大量に消費して停止する。
 メンタルエナジーの補給にはブドウ糖の摂取が効果的だという研究結果もあるようだが、なんか食ってりゃこの「トゥフォス」から解放されてゾンビが蘇るだろうと思えるほどナイーブにもなれないが、いや、でも、もしかしたら、逆に?
「 *無害な非真実 」(カート ヴォネガット ジュニア『猫のゆりかご』1963)
2024年6月 ライフ イズ ア ガーデン
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ari0921 · 3 years ago
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桜林美佐の「美佐日記」(186)
日本人も宗教についてちゃんと学ぶ必要がある
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、令和4年9月の今回
は186回目となります。
最近のテレビでは「統一教会」ばかりなのだそうで、
皆さん観たくないといいます。犯人の取り調べの
経過も知らない中で、世間の関心は完全にこちらに
向けられてしまいました。
なぜ、テレビは統一教会ばかりなのかと言う方がい
ますが、放送局は視聴率が取れる内容しか企画しま
せんので、これはいわば「数字が取れる」というこ
となのでしょう。
読者がお金を払って買う新聞と違い、テレビは番組
やコーナーをスポンサーに買ってもらいますので、
視聴率が低くなることは許されません。
そのため、繰り返し流されるということは、視聴率
が高い(か、他の内容よりマシ)だということです
ので、視聴率が下がるようになれば放送されなくな
ります。
また、政治家との関係が問題になっていますが、彼
らは「統一教会です」と言って来るわけではなく、
知らないまま手伝ってもらっていたという場合も多
いようで、難しい問題です。
身元を調べないなんてガードが甘いと言われるかも
しれませんが、信仰を尋ねたり、まして調べるなん
てことができるはずはありません。
そして、政治家が応援してくれる人を選ぶことがで
きないように「応援してくれる人を選べない」と言
えば、そう、自衛隊も全く同じでしょう。
本来であれば、相手はどんな人なのか知る必要があ
りますが、そうはいきません。私は昔から「私は自
衛隊の応援団やってます」の人たちのほうが「自衛
隊反対!」の人より、本心なのかウソなのか見極め
ができず、付き合い方が難しいだろうなあと眺めて
いました。
ところで、8月31日は概算要求のニュースがメイ
ンになっていましたが、実は防衛省では別の出来事
も起きました。
所属部隊でセクハラの被害を受けて辞めた元自衛官
の女性が、第三者委員会による公正な調査を求める
という署名10万5000人以上分を防衛省に提出
したのです。
自衛隊で同じような被害を受けた人をネット上で募
ると100人以上から自衛隊でハラスメントを受け
たという回答があったといいます。
当然、沈黙している人もいるでしょうから、もっと
多くの自衛官が悩んでいるのだと思われます。
民間の世界では、もはやセクハラどころか容姿をほ
める「美人は得だね」なども「セクハラ的発言」と
して「アウト!」ですので、自衛隊で起きているこ
とは酷く、対応はるかに甘いと言わざるを得ないで
しょう。
女性を増やし、共存していくつもりなら、問題が発
生した時の解決機能を早急に整備することが絶対的
に必要だと思います。
パワハラも含め軍隊ではハラスメントはつきもので
すが、悲しいのは、辞めていくのはいつも被害者の
ほうで、問題を起こした人は大手を振って残ってい
ること。これはハラスメントを受けた人が口を揃え
ます。
確かに「被害者にも落ち度はある」ケースもあるで
しょう、しかし、この人材難の時代に、隊員を辞め
させてしまう、それだけで罪だと私は思います。
そんな中、自衛隊を取り上げる雑誌のタイトルを見
たら「実は働きやすい!? 「自衛隊」は女性がチ
ャレンジしやすい職場環境」とあったので、このタ
イミングに、なんだか気の毒でした。
とにかく「募集が大変だ」と言う前に、悪質なハラ
スメントに対する意識をもっと高めて、対処の体制
を強くしようよ、と思います。そうでないと、どん
なに募集を頑張っても、全て台無しになってしまい
ます。
もう一つの問題は、こうした組織に守ってもらえず
追い詰められた人に手を差し伸べるのが左翼系のグ
ループが多いということです。カルトが絡む余地を
作る可能性もあります。
現在、世間を騒がせているカルトの問題もそうです
が、人は心の拠り所が必要なのに、日本では宗教や
信仰ということにどこか抵抗を持つ人が多く「無宗
教です」ということが良いという感覚があります。
統一教会の報道でなおさら、怖くなった人も多いか
もしれません。しかし、こうした信仰そのものをも
否定してしまう考え方が、どうしても心の拠り所が
必要になった時にカルトに走ってしまう原因にもな
っているような気がしてなりません。日本人もそろ
そろ宗教について学ぶ必要があるのではないでしょ
うか。
ドイツ出身のコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン
さんの記事によりますと、ドイツでは公立学校に宗
教の授業があり、なんと「カルトの危険性」につい
ても学ぶのだそうです。
ドイツで「宗教」と認められるのはキリスト教、ユ
ダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の5つ。
これらの派生型は「カルト」と整理されるのです。
ここまで絞らなくても、少なくとも「出入り自由」
かどうが、カルトかどうかの一つの見極めになるの
ではないでしょうか。ただし「縛られたい」「所属
している感が欲しい」という人には、むしろカルト
のほうが魅力的に見えるのかもしれませんが・・。
各地の大学でもカルトの勧誘は激しいようです。青
山学院大学は統一教会はじめいくつかの団体を名指
ししHPで「サークルのふりをした危険な宗教団体
に注意しよう!!」と注意を呼びかけています。
知らず知らずにのめり込み、かつてはキャラバン隊
に組み込まれた学生が学業もそっちのけで全国で花
を売り歩いたりしていたのだそうです。
いわゆるモルモン教やエホバの証人もキリスト教と
認められていません。そのあたり、誰も教えてくれ
ないので知らない日本人は多いのではないかと思わ
れます。
日本では「政教分離」の言葉を誤解していて、例え
ば自衛官が制服で神社や教会に行ったらいけないか
のように捉えているようですが、本来の意味は宗教
が政治に大きな影響力を与えてはならないというこ
とです。
宗教についてちゃんと学ばない国民が国際社会でど
のように生きていくのか、宗教について、曖昧ではな
く、しっかり名指しした上での学びを学校などで始
めることが必要ではないでしょうか。
 今日も最後まで読んで下さりありがとうございま
す!どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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nyantria · 3 years ago
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Q.最近スピリチュアルブームという言葉をよく耳にします。教会では霊性という言葉がありますが、教会の伝道にとってこのブームは有益なのでしょうか。もしそうでなければその問題点を教えてください。(20代・女性)
細木数子、江原啓之という人たちがマスコミでもてはやされていることも、ブームを呼び起こしている要因になっています。インターネットを開いてみると、神秘的なエネルギーがあるという石や食品や装飾具などの広告がたくさんあります。
このブームの源をたどってゆけば、1980年代に始まる「占いの館」に端を発することになっています。それ以前から、姓名判断や血液型占いなどはありました。
そして、そのオカルトブームがオウム事件で一時中断し、バブル崩壊後の社会的背景とも結びついて、現在のスピリチュアルブームになっています。ホスピスなどの分野でのスピリチュアリティーとはだいぶ違うものです。
全体のブームの傾向は非宗教の方向で広がっています。スピリチュアルという言葉は広く用いられておりますので、ここで言っているのは、オカルトから変遷した社会的ブームとしてのスピリチュアルを取り上げています。
スピリチュアルだから教会の霊性と何らかの関係があって伝道にプラスになるのではないかと考えたくなるかもしれません。しかし本質的な違いは、ブームでは、人間の内なる力、エネルギーを未知なる力によって引き出すことにあります。その未知なる力があるという石や食品や装飾具をインターネットなどで売っているのです。
教会は人間の内なる力を引き出すという方向とは違います。救いにおいてまったくの無力を知ること、そこに神の力が働くことを私たちは信じています。「ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリントの信徒への手紙二12章9節)。
人間観がブームと教会では違うことに注意が必要です。私たちは、この違いを認識しつつ、正しい信仰に立つ人間観を指し示してゆくことこそ大切なことなのです。
ひらおか・まさゆき 1950年、福岡県生まれ。日本ルーテル神学大学神学部(現ルーテル学院大学)、日本ルーテル神学校卒業。83年より日本福音ルーテル教会牧師。85年から統一協会、94年にはオウム真理教信者の脱会支援に着手するなど、長くカルト問題に取り組み、カウンセリング活動を続けた。共著書に『マインドコントロールからの解放』(三一書房)、『啓示と宗教』(サンパウロ)など。2009年、58歳で逝去。
スピリチュアルブームと教会の霊性は関係ある? 平岡正幸 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 - クリプレ
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misasmemorandum · 4 years ago
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『悪魔の履歴書』 ピーター・スタンフォード 大出健 訳
原題は "THE DEVIL : A Biography" で、本国イギリスでは1996年に出版され、日本では1998年に翻訳出版されてる。著者はジャーナリスト、キャスター、元『カソリックヘラルド』編集長。
この本を知ったのは、この人が書いている『天使と人の文化史 Angels : a History』という本をTwitterで見かけて読みたいと思ったのだが、図書館になくて、また高価なので購入するかどうかは躊躇われていて、他の著作で図書館にあるのがこれだったので読んでみた。とても面白く読んだ。
悪魔というものに関して、エジプト、メソポタミア、カナン、ギリシア、ペルシア、ユダヤ教、ローマにおいてなどなど歴史的に紐解いて、同じキリスト教でもカソリックとプロテスタントではどう違うか。カソリックの中でも異端とされるカタリ派に対してや魔女などについて、そしてプロテスタントの中から生まれ出たカルト的セクトに関しても網羅されてる。
面白いと思ったところを下に
 十字軍のいちばん最初の犠牲者は、メス(仏)、マインツ(独)、ヴォルムス(独)、プラハ(チェコ)、シュパイアー(独)の各都市のユダヤ人だった。一〇九六年、海の彼方の伝説の地に向けて長い行軍に出発しようとする前に、十字軍は、自分たちのなかにいる悪魔とみなす人々に襲いかかった。ヨーロッパのユダヤ人を悪魔に仕立てたのは、同じ信仰を分ちもたない相手は誰彼かまわず「闇の王」の召使いの烙印を押すというキリスト教との悪習の、最も初期の最も執拗で最も悪辣な例だった。(p155)
ユダヤ教には悪魔はいないそうで、悪魔はキリスト教がこ��教えを確立するために作り上げた存在らしい。悪魔はキリスト教徒にとってとても都合のいいメカニズムになったのだ。
悪名高い、異端審問官が生まれたのは、カタリ派を弾劾するためだったそうだ!
カトリックにいわせれば、異端審問こそサタンに唆されたカタリ派を一掃し、キリスト教世界の統一を回復するものであった。カタリ派から見れば、こうしたローマの代理人こそ、この世が悪魔の創造によるものだというはっきりした証にすぎない。(p176)
法皇を認めないんだな。『薔薇の名前』を思い出すよね。
そして魔女狩りの遠因
 イングランドでも、宗教が原因でヘンリー八世がローマと決別し、それに続いて迫害と動乱の時代に突入したーーメアリ一世のもとではプロテスタントが、エリザベス一世のもとではカトリックが。この政治的不安定さに足並みをそろえて、経済的な混乱とインフレーションが起きた。ヨーロッパじゅうが傷つき、これは社会のあらゆる階層におよんだ。今まで当然と受け入れられていたものが、教皇や皇帝の権力、さらにはキリスト教の究極の勝利さえ脅かされており、中世の初めのころの状況は粉々になった。人々は犠牲の山羊(スケープゴート)をさがし、悪魔を見つけた。(p193)
手かざし治癒などを司祭や修道士がするのはOKだし、たくさん出来たら聖人になったりするのに、自分達以外の昔ながらの呪い師や老婆などの民間治療は駄目で悪魔の所業っての、権力と権威の独占が目的だったんだ。反対から言うと、キリスト教以前から残っている土着の文化や信仰的なものが、まだまだ根強く残っていたのだろう。
それでも文化が爛熟すると、人々はスリルを求めるのか
十八世紀の初めのころ、ヨーロッパのさまざまな国の首都で、上流階級の若者たちが、性的な自由と冒険を求めて「悪魔的」形式をとる「地獄の業火クラブ」に参加していた。(p228)
だからデフォーとか作品の中で信仰心を持つこと神を仰ぐことを説いていたんだな。(時代が時代なのでBSビリーを思い出し、彼がイングランドにいてパンフレットを配布していたことに想いを馳せてしまったのである。馬鹿)
さて、現代のエクソシストであるアモルト神父による悪魔に取り憑かれる大きな原因4つ
一つ目は、「サタンと契約を結んだ魔女のように、悪魔のために悪事を行うよう魔法をかけられている人々で、サタンに自らを引き渡した人々」
二つ目は、面白半分で黒魔術に手を出した人々。
三つ目は、邪悪な宗派に同調した人々。
そして四つ目は、どう言うわけか神に選ばれてしまい、まるで荒れ野の神父のように、苦痛を与えられて試されている人々である。(p278 行替えは私)
悪魔祓いはカソリックのもので、プロテスタントの方は悪魔祓いにはほとんど関わらないようだ(p283)。その中でメソジスト派は歴史的には悪魔の存在を自分たちの教義から無くしたぐらいだったのだが、
 メソジスト派の際立った特徴の一つは、権威主義や位階制度の束縛からの自由であった。今世紀(20世紀)に入ると、指導者の欠如によって作り出された空白の中で、個々人が悪魔についての考えを形作っていくという傾向が生まれ、特にこの傾向は地方のメソジスト協会において拍車がかかった。聖職者と信徒たちは、中央からの束縛を受けないため、自由に想像力を飛躍させた。とくに田舎では、もともと自然の周期や突発事のなかに悪魔の存在を意識する傾向が強いので、悪魔の話を聞くことが多い。(p284)
メソジスト派は聖書に記載されてることを丸々信じる傾向があるようで、左寄りのリベラルな人々も礼拝儀式は新約聖書のキリストの例にならわねばならないと考えてるし、カルト系の集団が事件を起こしたニュースなどでよく聞く「ファンダメンタリスト」は聖書の中の悪魔の引用を文字通りに受けとめるのだそうだ(p284)。なんというか、思考力と想像力の放棄だな。
バプティスト派は、アメリカ最大のプロテスタント宗派で、南部バプティストの有名人はビリー・グレアムーー子どもの頃この人が来日し、球場などで集会を開いたのだが、当時の担任がバプティスト派プロテスタントの信者だったのだろう。大好きな先生だったし(女は勉強などしなくていいと言う父親の家庭内圧政に争って教師になった方だった)で同級生たちと球場までは行ったが、スピーチと言うのかプリーチは全く聞いてなかったーー。この宗派の保守派は聖書一辺倒で、1980年代にファンダメンタリストの路線に沿って悪魔を語り出し、それによって勢力が飛躍的に伸びたと言う(p285)。やはり、悪魔はキリスト教を信じさせる上においてとても都合のいい道具なのだ。もし本当に悪魔がいるのなら、このようにいいように扱われていることに対して大いに憤慨してもらいたいところだ。
(ヴードゥーを)撲滅できなかったキリスト教会は、今日では軽蔑という受動的な態度で接している。そしていまだに危険を警告してはいるが、実際には目をつぶっている。この方針は、サタンに対する主要な宗派の無関心ぶりとうまく歩調が合っているのである。こうしてかつては神学者を熱狂させ、無実の男女を火あぶりにした問題は迷信的な時代の残骸にすぎないものとして脇に追いやられた。たとえ悪魔について語ることがあるとしても、言葉は注意深く選ばれ、かつての恐怖の的はすげに毒気を抜かれている。
 しかし悪魔を生み出したキリスト教は、それを抹殺したわけではない。悪魔はなお、余白の部分、悪魔祓いの儀式の中、ヴァティカンやイスラムの異端者のあいだ、さらには再生を掲げるファンダメンタリストの進学の分野で、相変わらず繁栄を続けている。愛する神のせいにするにはひどすぎたり、人間の精神の暗い衝動のせいにするには、恐ろしすぎる行動を非難するのに便利なキャラクターとして、悪魔はなお居場所を残している。(pp293−294)
とまあ、やっぱ都合のいい道具だ。
最後に、イスラム教におけるサタンとは、
イスラム教では、悪魔は愚かで気にもとめられないちっぽけな存在である。イラン人がアメリカを悪魔と形容したとき、邪悪な国家というつもりではなく、巨大な国のくせにくだらないことで騒ぎ立てる愚かな国家だと言ったのだ。
        カレン・アームストロング (p144)
ははははは。もっと酷いやん。
天使の本も読みたいなぁ。図書館に入って来ますように!
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watanabemitsuyoshi · 5 years ago
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狂信の凡庸さについて
 ベルギー映画界の巨匠、ダルデンヌ兄弟の監督最新作である『その手に触れるまで』は、イスラム教の聖典「コーラン」の極端な解釈に基づくカルト的教義の虜となり、「聖戦」と称して殺人やテロリズムに手を染める子ども・若者たちの出現という、ヨーロッパ諸国の抱える今日的課題に迫った作品である。
 本作品の主人公アメッドは、近所の商店の2階でモスクを開く導師に感化され、突如としてコーランの暗記・暗唱と定刻の礼拝、イスラム過激派の動画視聴に没頭しはじめる。アメッドの突然の変貌ぶりに、周囲の大人は戸惑い、時に諌めもするが、アメッドの態度はますます頑なになり、いっそう導師の語る「正しい教義」に傾倒していく。そして、導師のある発言を神の啓示であるかのように字義通りうのみにしたアメッドは、背教者を排除するための「聖戦」として、幼少期より世話になってきた教師イネスの殺害を企て、実行に移そうとする。
 アメッドはなぜ、異なる考えをもつ者の殺戮をも辞さないような過激思想の虜となったのか。本作においては、たとえば貧困や家庭背景といった成育歴における逆境体験がその遠因になっているかのような解釈はあらかじめ退けられる。アメッドの家庭において複雑な事情がないわけでないことは察せられるが、それは、多かれ少なかれどの家族も、その家族なりの事情を内に抱えながら生活を営んでいるという以上のものではない。アメッドの兄も導師のもとに通っているが、兄はアメッドほどの狂信ぶりを示すわけではない。
 アメッド自身、とりたてて聡明というわけでもなければ、とりたてて不器用というわけでもない。ただ、日々の暮らしの中で大人たちが時折見せる弱さや脆さ、不純さのようなものに対する漠然とした疑問を抱き、自分はそうはなりたくないと、純潔さへの憧れをそこはかとなく抱いている。それは、私自身を含め、少なからぬ大人が、若干の気恥ずかしさやほろ苦さとともに思い出すかつての自分の姿でもあろう。アメッドは特異な少年であるどころか、「自分より勉強ができない子には丁寧に教えてあげなさい」と促されればその通り親切に接してあげるような、母親が涙を流せばティッシュを差し出すような、朴訥で素直で、そしていささか世間知らずで未熟で、うぶな少年である。アメッドがなぜ…という疑問に対しては、どのように推測をめぐらしたとしても、「たまたまの巡り合わせ」であるという他ないのだ。強いて言うならば、  アメッドが示すのは、「狂信の凡庸さ」である。
 かつて政治哲学者ハンナ・アーレントが、ホロコーストの実務的責任者アイヒマンの裁判傍聴をとおして「悪の凡庸さ」を見出し、警鐘を鳴らしたとき、社会に与えたショックは大きく、その主張の受け入れがたさからくる非難も相次いだという。偏狭な教義に基づき殺戮行為を正当化するような思想に子ども・若者が取り込まれていくのが「狂信の凡庸さ」故であるという気づきもまた、社会的には受け入れがたいものかもしれない。
 しかし、身に覚えはないか。ある特定の「正しさ」に依拠して、他の主張を退け、他者と出会う契機を閉じ、狭い殻の中での内的世界の平穏を守ろうとする身振りについて。とりわけ、自己形成の途上にある多感で繊細で独善が過ぎる一時期において、その不安定な自己を支える拠り所とする選択肢の一つとして、過激思想への導きが差し出されたとして、その導きによくわからないまま惹かれていく者が現れるのは驚くべきことではないのだ。
 狂信は他者を排斥し、現実世界との生身での接触を忌避する。ひとり部屋にこもり、執拗に礼拝を続け、「聖戦」の遂行にこだわるアメッドの姿は、他者との交流を通じて内に生じてくる諸々の感情をどう受け止めてよいのか戸惑い、怖れ、葛藤から目を逸らして殻に閉じこもろうとする心の動きと軌を一���しているように見える。しかし本作のクライマックスで、アメッドは抗いようもなく生身で現実の脅威に襲われることになる。もはや自らの弱さ、脆さを受け入れるほかない状況に直面したとき、アメッドが救いを求めて呼んだ名は、アラーではなかった。
 本作ではアメッドのその後の顛末については描かれない。おそらく観る者に対して思考の余白を残してくれているのだろう。逆説的ではあるが、アメッドはこの局面において、はじめて信仰とは何かを知ることとなったのではないか。ほんらい信仰とは、弱さ、脆さの自覚のうえで、それでもなお生きていくための拠り所として、他者に赦しを乞い、差し伸べられる救いの手を信じることであるからだ。おそらくここに、「狂信の凡庸さ」を打開するヒントがあるようにも思われる。弱さ、脆さを抱えもつ凡庸な一人ひとりが、狂信に陥ることなく生きていけるとすれば、それはいかにしてか。問いはスクリーンに映るアメッドに対してではなく、それを観る私たちに向けて立てられるべきなのであろう。
※映画『その手に触れるまで』 http://www.bitters.co.jp/sonoteni/index.html
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