#立ち読み繰り返した為強制退去処分された
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此れ以上同じ繰り返し致しませんが、過去には①面識無し新井正昭先生に用事無くおねだりしようとした
②ラーメン店でラーメン注文せずお水飲もうとした
③古書店にて書物購入せず立ち読み繰り返したといった理不尽な行為をしたのは確かですし、ましてや新井正昭先生は部署全面的に異なる為に仕方なく東松山市旗立台在住の斉藤悠騏男教授に置き換え、ラーメンならば家系である山岡家/武蔵家/壱角家/湘南乃家瑞穂店/大和家/坂戸家に致し、書物購入ならばAmazon/楽天/ポンパレ/mercari/WOWMA/ZOZOTOWN/駿河屋/DMM.comを用いて改善に努めなくてはなりません。その他やみくもにうざいだまれ/割り込み/ブラブラ/遊び心/就職失敗/地獄の特訓苛酷/物流系に着目/工場系厳しい/恋人無しの判断力乏しき引きこもり/ニート/穀潰し/SNEP/生活保護/遊び人では日々の進歩見られないのと同じです。いつまでもふざけて居られなくなり、改心して参りたく存じ挙げます。
2024/05/01
#面識無し新井正昭先生#ラーメンショップ横綱狭山店#ブックジョイ狭山店#水飲みに来たことにより厳しく排除された#立ち読み繰り返した為強制退去処分された#何ならば斉藤悠騏男教授#家系ラーメン#Amazon#楽天#ポンパレ#MERCARI#WOWMA#ZOZOTOWN#駿河屋#DMM.COM#ローソンチケット#チケットピア#6thトヨタカリーナ
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自衛隊の幹部を養成する防衛大学校についてお伝えします。防衛大学校で繰り返されていたのは、上級生による指導の域を越えた“いじめ”です。被害を受けた1年生が撮影した映像に写っていたのは… 自衛隊の幹部養成学校で何が? 真っ暗な部屋。 ドアの外から「出てこい!」という怒鳴り声が響きます。 「出てこーい!」「出てこーい!」「出てこーい!」 この映像が撮影されたのは、防衛大学校の中。 一体何が起きていたのでしょうか? 神奈川県・横須賀市にある防衛大学校。防衛大臣直轄で、幹部自衛官を養成するために4学年、約2000人が学んでいます。 学生といっても、立場は特別職の国家公務員。学費はかからず、月給やボーナスも支払われます。 学生は4年間を寮で過ごします。朝6時起床。原則1年生から4年生の各学年2人ずつ、8人1部屋で暮らすことになっています。 2023年4月の入校式。整列する新入生の前で、一糸乱れぬ行進を見せるのが上級生です。 「(新入生は)この時、歩けないので横で見ている」 「外から見ていたら、かっこいいんですけど」 こう話すのは、2023年、まさにこの入校式のときに防衛大に入った男性と母親です。 元防衛大生の母親 「これが合格通知。飛び跳ねて喜んだ。制服を着ている姿は自慢に思っていた」 男性は同期の仲間にも恵まれ、勉強や訓練も順調にこなしていました。 しかし、寮生活での上級生からの“指導”は厳しく、とてもつらかったと話します。 元防衛大生 「部屋に内線がある。なるべく早く出ないといけない。1年生は走って電話を取りにいかないと(上級生に)怒られる。部屋に呼び出すか廊下に呼び出されて、時間が無くなって、ご飯を食べに行けない人がいたり、風呂に入りに行けない人がいる」 そして、自分は特に上級生たちに目をつけられていて、指導ではなく、もはや“いじめ”と言うべき状態だったと訴えます。 元防衛大生 「罵声だったりとか扉を叩かれたりとか、夜中に自分がいる部屋の内線にいたずら電話がかかってきて寝られない」 Q.この場を逃げたいとか、考えはめぐらなかった? 元防衛大生 「めぐるが、それをすると同学年の人たちに迷惑がかかってしまう。『お前たちの同期が逃げ出��たぞ』と、また厳しくなったり連鎖がある」 2023年11月、男性は不眠や食欲不振が続いているとして、適応障害と診断されました。 「出てこい!」という怒鳴り声は、部屋に1人でいた男性に向けられたものでした。 このとき、男性は教官に相談し、8人部屋から個室に移されていました。 扉の外にいたのは複数の上級生とみられています。 元���衛大生 「朝起きて清掃の時間がある。その時間にドアを叩いて走って逃げていく。水撒かれたのか、部屋の入り口が水浸しになっていた」 適応障害と診断された後も続いた上級生たちの行為。 当時、男性には4年生からこんなメッセージが送られてきました。 4年生から送られたメッセージ 「お前がなにもしてないのに給料をもらってるのがまじで納得いかない」 「おれはお前みたいなやつを男として絶対認めねぇ」 母親は男性から送られてきたこの映像を見て・・・ 元防衛大生の母親 「衝撃しか無かった。手も震えたし涙も出てきたし。心を病んでいる人に対して、ドアを叩いたり、罵声を浴びせたり、追い込むことしかしていない」 母親は息子を自宅に帰らせる決断をしました。 この映像を見た教官も驚いた様子だったといいます。 元防衛大生の母 「『こんなに酷いことが起きてるんですね』と言われた。『これは防衛大では当たり前の話か』と聞いたら『そうではありません』と言われた」 男性と母親は、防衛大側の対応にも不信感を募らせ、男性は自宅療養を続けたまま、2024年3月に退校しました。 なぜ繰り返される 防衛大の“いじめ” 防衛大では、過去にも「上級生による指導」と称した深刻ないじめが起きています。 2013年に入校した男性が、上級生らに体毛を燃やされたり、殴られたりしたなどとして訴えを起こしました。 この裁判では、上級生ら7人に賠償が命じられた他、実態を把握せず、適切な指導をしなかったなどと、防衛大側の責任も認められました。 自衛隊の実態に詳しい弁護士は、防衛大特有の上下関係が背景にあると話します。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「学生の中にも、現場の自衛隊の組織と同じように、隊長・副隊長からヒエラルキーが完全にできている」 今回、JNNは防衛大の学生に対する過去10年間の懲戒処分の内訳を情報公開請求し、独自に集計しました。 内容は「パワハラ」や「私的制裁」など多岐にわたります。 全体の傾向として、4年生が処分されるケースが明らかに多いことがわかりました。中には、全体の60%近くが4年生だった年もありました。 佐藤弁護士は、立場の強い4年生が問題を起こしやすい実態がわかると指摘します。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「教官とか学校も、そこにメスを入れない。ポツポツ出てくる様々な事案に、とにかく個別的に対応してるだけ。根本にある���組みについてメスを入れない」 黒塗りの“指導記録”「異常としか言えない」 防衛大を退校した男性の母親は、入校してから間もない頃に息子からもらった手紙を今でも大切に保管しています。 入校直後に書かれた手紙 「やはり家での食事や洗濯のありがたみをひしひしと感じます」 「洗濯は何年前のものかわからない古い洗濯機を使っているので、本当に綺麗になっているかわかりません」 元防衛大生の母親 「『この子らしいな』と思った。こういう手紙を読み返すと、すごく残念だという気持ちが込み上げてくる。せっかく楽しんで行けていたのに、なんで潰されないといけなかったのか」 退校後、男性は防衛大側が上級生たちにどう対応したのか知るための手がかりになればと、自分への指導記録を開示請求しました。 しかし、そのほとんどが黒塗りでした。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「異常としか言いようがない。本人に関わることなどは、本人が『明らかにしてくれ』と言っているのだから、秘密にする理由は全くない」 防衛大は取材に対し… 防衛大 「学生の懲戒処分については原則として公表しておりません」 このため、JNNに開示された資料を分析したところ、映像が撮影された2023年11月29日に暴言などを行ったとして、4年生6人が停学1日や戒告の処分をされていました。 この6人が罵声を浴びせるなどしていた加害者とみられます。 元防衛大生 「あの環境で毎日過ごしていたら、感覚が狂ってくる。その立場(幹部)に将来なる人たちが、ああいうことをしているのかと思うと、将来の自衛隊そのものに信用を置けなくなってしまう」 ========== 防衛大の在籍中に適応障害となり、退校した男性が「上級生からいじめを受けた」と訴えている問題について、木原防衛大臣が20日の閣議後の会見で、「ハラスメントを許容しない環境を構築する」などと述べました。会見の質疑応答をTBS NEWS DIGのYouTubeにアップしています。
上級生が激しくドアを叩き…「おい!出てこい!」 防衛大の元学生“いじめ”の訴え 適応障害で退校 幹部自衛官養成の現場で何が【調査報道】 | TBS NEWS DIG (1ページ)
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2020年5月8日午後4時50分ごろ、中国海警局所属の巡視船4隻がわが国の領海に侵入したと、海上保安庁第11管区海上保安本部(那覇)が翌9日に発表しました。
そしてそのうち2隻が、沖縄県八重山郡、尖閣列島所在の魚釣島の西南西約6・5海里において操業中の与那国町漁協所属の漁船(9・7ト��)に接近した後、移動する漁船を追尾したと説明しました。中国の巡視船は約2時間後にいったん退去したものの、翌9日午後6時ごろに再びわが国領海に侵入し、10日午後8時20分ごろまでの約26時間にわたり、居座り続けました。
このような行為は、単に領海を侵犯して、わが国の漁船に危害を加えることだけが目的ではありません。わが国の領域内で警察権を行使しようと試みる、かなり悪質な主権侵害行為で、言うまでもなく重大な国際法違反です。
日本政府は11日、外交ルートを通じて厳重に抗議を行ったと発表した上で、菅義偉(よしひで)官房長官は「新型コロナウイルス感染症の拡大防止に向け(中略)中国側の前向きな対応を強く求めていきたい」と述べるにとどまりました。
それに対して中国の報道官は、わが国の巡視船が違法な妨害を行ったと非難し「日本は尖閣諸島の問題において新たな騒ぎを起こさないよう希望する」と述べ、責任を日本側に転嫁しました。その上で「中日両国は力を集中して感染症と戦うべきだ」と発言しています。
この両者の言い分を第三国の人が聞けば、どう思うでしょうか。単に「厳重な抗議を行った」と間接的に発表するわが国に対して、中国は具体的にわが国が違法な妨害行為をしたと直接的に非難し、さらに新たな騒ぎを起こすなと盗っ人たけだけしいセリフを吐いています。しかし、世界の人々の大半は、尖閣諸島の存在やその経緯など知りません。
それらの人々が今回行われた日中両政府の発表を見れば、よくて五分五分、客観的には中国の方が正しいと思うのではないでしょうか。なぜ、わが国は記者会見において、堂々と中国を非難できないのでしょうか。これは今に始まったことではなく、中国が突然尖閣諸島の領有権を主張してから今に至るまで続いています。
わが国の政府は、尖閣諸島に関して中国が何をしてきても「わが国固有の領土」という呪文を唱えるだけで、国外だけでなく国内に対しても、自国の立場を広報することを怠ってきました。
この問題に限らず、わが国の対外発信能力が低いことは今回のウイルス対策を見ても分かるように、現政権でも変わりません。このままでは中国のプロパガンダによって、日本がかつてのように悪者にされかねません。まずは内閣府に国内外向けた広報を専門とする部署を設け、諸外国並みに発信力のある報道官がわが国の立場を伝え、官房長官は実務に専念すべきです。
ここで、日本政府のPR不足を補うために、次の年表で尖閣諸島の歴史をおさらいしておきましょう。
私も年表を作成していて嫌になったほどですから、読まれた方も不快な思いをされたかと思いますが、こちらに記されている出来事は紛れもない事実です。こうして時系列に並べてみると、中国の明確な侵略の意図が読み取れるかと思います。
今回の事件に関し、与那国町議会では県や国に警戒監視体制強化と安全操業を求める意見書を5月11日に全会一致で可決しています。さらに15日には石垣市議会も抗議決議を全会一致で可決しています。ですが、地元紙の八重山日報など少数のメディアしか、このことを報じていません。
わが国の主権が侵害され、地元の議会が怒りの声を上げているにもかかわらず、大手メディアが報じないのは大問題です。マスコミの報道以外に情報源を持たない多くの人たちにとっては、報じられないことはなかったことと同じで、事件そのものも、マスコミが報じないことも知らないままです。
中国の侵略行為に直面し、一番被害を受けている漁師の声を、国や県、マスコミ、日頃は弱者に寄り添うふりをしている人たちは誰も取り上げません。こんな理不尽なことが許されてよいのかと憤りを感じます。
私は、中国が尖閣周辺に巡視船を配備するのは大きく分けて二つの理由があると思います。一つは国際社会への実効支配アピールで、巡視船が撮影した映像を利用するなどしてプロパガンダを繰り広げること。もう一つは、わが国の反応をうかがう威力偵察のようなものです。
改めて年表を見ると、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めて以来、国内法の整備や実力行使を徐々にレベルアップさせているのに対し、わが国は防戦一方の感があります。なお、中国で最初に国有化を主張した周恩来元���相は、尖閣諸島の領有権を主張し始めた理由として「国連の調査により、周辺海域に油田があることを知ったから」と述べています。
具体的な行動を起こし、報道を通じて自分たちの意思を表明する中国は、日本国内の世論を注視しています。そして、世論が弱いと見るや強い手段に出て、強いと見るや対応を緩和することで、じわじわと侵略のペースを進めてきています。
2012年にわが国が尖閣諸島の三つの島を国有化すると、中国は大騒ぎして哨戒艦による領海侵犯を常態化させました。ですが、本当は彼らこそ、その20年も前の1992年に国内法で尖閣諸島の領有を明記、つまり国有化を表明しているのです。
92年当時の日本政府はこのような重大な主権侵害を問題にしなかったばかりか、マスコミも大きく報じなかったため、多くの国民がこれを知らないまま約30年が経過してしまいました。
そして日本が尖閣諸島を国有化した12年当時、92年の国有化表明について知っている人間が少なくなっていたせいもあってか、一部の人を除いて、誰もこのことを指摘しませんでした。さらに当時の野田佳彦政権は反論��るどころか、国有化直前に北京に特使を派遣してお伺いを立てるありさまでした。
日本の国有化発表後、わが国のマスコミは連日のように、中国での官製反日デモの映像を背景に北京の代弁者のようなコメンテーターたちを使いました。そして「当時の石原慎太郎東京都知事が買い取り宣言したのが原因だ」と事実に反したコメントをさせ、まるで日本が悪いことをしたかのように報じ続けたのです。こうして日本の反中世論を封じた結果、日本国民による中国バッシングが起こらず、今日の事態を招いています。
これと同様のことが、現在のウイルス禍においても行われています。わが国のマスコミの大半は本来の原因者である中国を非難せず、自国の政府を一方的に叩き、マスコミの情報だけを見聞きしていると、いつの間にか中国ではなく日本が悪者になってしまったような印象を受けます。このままでは、日本国内において中国に対する非難の声を上げることは難しくなるでしょう。
いまさら言っても仕方のないことですが、92年当時の日中の国力の差に鑑みれば、彼らが国有化したことを理由に本格的な灯台の建設を行い、ヘリポートを復活させて公務員を常駐させるなどしていれば、今日のような事態になることはありませんでした。日本政府は公式発言として否定していますが、実際は鄧小平氏の棚上げ論にだまされ、彼らが国力をつけるまでの時間稼ぎをさせられただけでなく、政府開発援助(ODA)などにより官民挙げて技術や資金援助も行ったのです。
結果、今や空母を保有するほどの海軍を育て上げてしまった揚げ句、その見返りとして自国の領土領海を脅かされているのです。棚上げ論と言えば聞こえはよいですが、要は結論の先延ばし、嫌なことから逃げるだけのことです。嫌なことは借金と同じで、先送りにするにつれて利息が膨らみ続けるように、問題はより大きく、解決は一層困難になるのです。
中国が場当たり的ではなく、計画性を持ちながら一貫してわが国の領土を侵略しようとしていることは、共同通信の記事(2019年12月30日付)からも読み取れます。記事によると、東シナ海を管轄する海監東海総隊の副総隊長が、中国公船が初めてわが国の領海を侵犯した08年12月8日の出来事を「日本の実効支配打破を目的に、06年から準備していた」と証言しています。
この証言の意味は、1978年4月に中国の武装漁船百数十隻が尖閣諸島海域に領海侵犯したときから今日に至るまで、中国指導部による計画された侵略行為が行われ続けているということです。
間抜けなのは、日本の政官財マスコミがその間、せっせと彼らに技術や資金の支援を行うだけでなく、日中友好とばかりにほほ笑んでくる相手を疑うこともせずにこぞって友好的態度をとり続けてきたことです。一方、彼らは嘘で塗り��めた反日教育を徹底的に行ってきたというおまけ付きで、こんな間抜けな話はめったにあるものではなく、日本政府、特に外務省にお勤めであった方々には猛省していただきたいものです。
かように中国は一貫してわが国の領土を狙っているというのに、いまだに中国を擁護する人々が政官財やマスコミに少なくないのは底知れぬ闇を見るようです。
「中国が意図的に侵略している」というのは周知の事実です。しかし、共同通信の記事を通じ、中国側が当時の高官にあえてインタビューという形で発表させた理由について考えてみると、一つの仮説が浮かびます。あくまで私の臆測ですが、このインタビューは中国指導部が尖閣侵略のレベルをワンステップ上げるための観測気球ではないかということです。
こう言うと、インタビュー記事の4カ月後には、習近平国家主席の国賓訪日が予定されていたので、「中国側がそんなことをするはずがない」という声も聞こえてきそうです。しかし、それに対する反論として、2010年にわが国で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の直前に起こった出来事を挙げたいと思います。
同年9月7日、尖閣諸島沖のわが国領海内で中国漁船が海上保安庁の巡視船に故意に体当たりする事件が発生し、海上保安庁は漁船の船長を逮捕しました。
一方、中国は国内にいる日本人を拘束し、レアアース禁輸などの手段でわが国に圧力をかけた結果、日本政府は同船長を処分保留で釈放しました。実質的には無罪放免です。
法と証拠に基づけば、容疑者を釈放する理由など一つも無いのに、なぜそれが行われたのでしょうか。後に政府高官が自民党の丸山和也参院議員(当時)に語ったところによると「起訴すればAPECが吹っ飛ぶ」、つまり当時の胡錦濤国家主席が来なくなるというものでした。この成功体���により、彼らは国家主席の訪問が日本に対して強力な外交カードとなることを学んだのではないでしょうか。
事実、今回の新型コロナの感染拡大の際においても、習主席の国賓訪日中止が発表されるまで中国全土からの入国制限を行わないなど、日本政府は公式に認めてはいませんが、中国に対する過剰な配慮が感じられました。それは国賓訪日を成功させたいという思惑以外には考えられません。
もし今回の新型コロナ騒動がなければ、共同通信の記事に無反応な日本の世論を見て、中国は今回の領海侵犯よりも一層大きな仕掛けをしてきたかもしれません。
仮にそうした状況が発生した際、中国は日本の対応次第で「春節中、訪日旅行を禁止する」「国家主席は日本に行かない」などと言うかもしれません。そのとき、わが国が毅然(きぜん)とした対応が取れたのかというと怪しいものです。
ただ、中国が口だけではなく実際の行動に移した今、彼らが尖閣侵略のレベルを上げたことに疑いの余地はありません。
問題なのは、自覚のあるなしを問わず、彼らのプロパガンダにわが国のマスコミが加担している���とです。彼らは中国のプロパガンダを報じる一方で、一部メディアを除き中国の度重なる領海侵犯を報じません。
国民が関心を持たないから報じないのか、マスコミが報じないから国民が関心を持たないのか、因果の順序は分かりません。ですが今や日本国民は、12年12月に杜文竜大佐が言ったように「中国の領海侵犯に慣れてしまった」感があります。
中国はそれを感じ取り、米中経済戦争でにっちもさっちもいかなくなった状況を打破しようと日本に助けを乞う前段として、今回の領海侵犯事件を仕掛けてきたのかもしれません。
いずれにせよ、われわれ日本人は、千年恨む隣国かの隣国と違い忘れやすい民族です。北朝鮮による日本人拉致問題にしても、02年の小泉純一郎首相の訪朝後はあれほど盛り上がったのにもかかわらず、現在はどうでしょうか。今やマスコミで取り上げられるのは、家族が亡くなられたときだけです。
尖閣の問題にしても、東京都が買い取り資金を募ったときにかなりの金額が集まったにもかかわらず、今はその募金の使い道を論ずることすらしません。今回の事件も大して騒がずにスルーしてしまえば、彼らはますます図に乗ることでしょう。
それでも、ほとんどのマスコミは沈黙し続け、国会で取り上げられることもありません。あまり知られていませんが、今年3月30日には鹿児島県屋久島の西約650キロにある東シナ海の公海上で、海上自衛隊の護衛艦と中国漁船が衝突する事件が起きています。
本件もこの事件のように、多くの国民が知らないまま、うやむやな形(自衛隊に対しては形式通りの捜査は行われているでしょうが、中国漁船に対しては恐らく何もしていないと思われます)で終わりかねません。せめて政府は海上保安庁が撮影した動画を公表するなり、あの海域で何が起こっているのかを国民に知らせるべきです。
今回の件で問題なのは「中国の哨戒艦が漁船を追尾したということ」、そして「わが国の領海に中国の巡視船が26時間も居座ったということ」です。漁船の追尾に関しては詳細が分かりませんので省きますが、昔ならいざ知らず、21世紀にもなって他国の領海で26時間も武装巡視船が居座って領有権を主張するなど、私は寡聞にして知りません。
仮にあったとすれば、それは既に武力衝突のレベルです。では、何ゆえに今回そのような事態が起こったのかというと、中国側から見て「わが国が何もしないから」です。おそらく現場の海保の巡視船は、無線や拡声器、電光掲示板などで領海からの退去を要請したと思います。しかし、ただ「待て」と言われて、素直に待つ泥棒がいないのと同じで、彼らは何の痛痒(つうよう)も感じなかったことでしょう。
他国であれば警告射撃してもおかしくないのですが、わが国は憲法により武力による威嚇すら禁じられています。ですから、厳格に法令を順守すれば、相手が国家機関である今回の場合、それも適いません。外交ルートによる抗議も同様に、何らかの制裁を伴わなければ単に抗議したという記録を残すだけで、何の効力も生じません。
何し���相手は国際常設仲裁裁判所の判決を「ただの紙切れだ」と言って無視する国です。今回は滞在したのが26時間だったからよいようなものの、もし365日、彼らが領海に居座ればどうなるでしょうか。
その場合、尖閣の領有権をあきらめるか、物理的に排除するかの2択しかありません。一部の人は「話し合えば分かる」などと言いますが、相手は何十年もの先を見据えて計画的に侵略しに来ています。その相手が乗ってくる話となると、わが国が大幅に譲歩するような場合だけです。そもそも元々存在しない「領土問題」をわが国が話し合う理由がありません。
さらに問題は、多くの国民がこの事実を知らない、もしくは薄々感じていても認めたくないので見て見ぬふりをしていることです。マスコミも、一部の専門家以外は警鐘を鳴らす人はおりません。国権の最高機関に至ってはここ数年茶番劇が続き、いたずらに時間を浪費するだけでこの問題に対して議論すらしません。
民主主義国家であるわが国においては、国民世論が盛り上がることが重要です。中国もそれを恐れているからこそ、マスコミに圧力をかけて自分たちに不利な報道をさせないようにしているだけでなく、パンダなどを使うさまざまな方法により、日本国民が中国に好感を持つような工作活動も行っています。そのため、今回のウイルス騒動に関しても、公式声明で中国を非難する政治家はほとんど見受けられず、マスコミの大半も中国責任論を報じません。
それどころかウイルス対策において、欧米と比較して桁違いに被害の少ない結果を出しているわが国の政府を叩いてばかりいます。ですから、他国とは違って、中国に対する訴訟が起こることもありません。さらに会員制交流サイト(SNS)上で中国を非難すれば、差別という話にすり替えられて逆に糾弾されるほどです(一時はユーチューブでも、中国への非難コメントが削除されていると問題になりましたが、後にこれはシステムの不具合とされました)。
このまま私たち日本国民が声を上げなければ、彼らは組み易しと思い、より一層侵略の度合いを上げてくるでしょう。それだけでなく、欧米各国がウイルス問題で対中非難を強める今、自由主義社会の結束を切り崩すために、中国がアメとムチを使ってわが国を取り込みにくることにも警戒が必要です。この期に及んで国家主席の国賓訪日を蒸し返すなど、安易に中国に加担することは現に慎まなければなりません。
1989年の天安門事件後、わが国は世界中から非難を受けていた中国の国際社会復帰を、他国に先駆けて後押ししました。その大失態を再び繰り返してはなりません。
ただ中国に対して、わが国が無為無策であるかというと、そういうわけではありませんので、公平に、ここ最近の日本の動きも紹介しておきましょう。
海上保安庁および警察の動き 16年:石垣島海上保安部に巡視船を増強し、大型巡視船12隻による「尖閣領海警備専従体制」を確立 :宮古島海上保安署を保安部に昇格 19年:宮古海上保安部に小型巡視船9隻からなる「尖閣漁船対応体制」を確立。那覇航空基地に新型ジェット機を3機配備して空からの監視体制を整備 20年:尖閣諸島をはじめとする離島警備にあたるため、沖縄県警に151人の隊員を擁する「国境離島警備隊」を発足
自衛隊における動き
16年:沖縄県与那国島に陸上自衛隊の部隊を新設
19年:海上自衛隊が今後10年規模で12隻の哨戒艦を建造し、哨戒艦部隊を新設していくことを表明
20年:宮古島駐屯地に、地対空および地対艦ミサイル部隊を配備
ただこれらは、いずれも「盾」を増強しているだけで、中国に脅威を与えるまでには至りません。ゆえに彼らは、日本がいくら部隊を増強しようが自分たちのエリアまで攻めてこないことが分かっています。ですから、守りのことは一切考えず、日本が増やした以上に部隊を増強してくると思われます。
実際中国は、今年1月から1万トン級巡視船の建造を始めています。つまり、わが国がこのような対応策をとっている限り、決して中国は侵略の野望を捨て去ることはなく、部隊増強のイタチごっこが続きます。
安倍政権は、現行法上可能な範囲内で懸命にやっているとはいえ、憲法に一言も書かれていない「専守防衛」という言葉に縛られている以上、この現状を打破することは難しいでしょう。
日本には「『矛』がないのか」と問われれば、「ある」と自信をもって答えたいところです。しかし、情けないことに米国頼みが実情です。その米国の動きを見てみると、今年の年初にライアン・マッカーシー陸軍長官が具体的な配備場所には触れなかったものの、中国の脅威に対抗し、次世代の戦争に備えるために太平洋地域で新たな特別部隊を配備する計画を明らかにしました。
4月にはフィリップ・デービッドソンインド太平洋軍司令官が、沖縄から台湾、フィリピンを結ぶ、いわゆる第1列島線への部隊増強を国防総省に訴えていることが明らかになるなど、対中戦略の見直しを実行に移し始めています。
特筆すべきは米太平洋空軍が、4月29日に行われた諸外国とのテレビ会談で台湾を加えたことです。この会議は中国周辺19カ国の空軍参謀総長や指揮官を集め、新型コロナウイルスの感染状況や対応について意見交換を行いました。
台湾軍関係者は会議後のインタビューで、これまでも米国とのテレビ会議や軍事交流を実施してきたことを明らかにしています。これらの動きを見る限り、今のところ米国は中国に一歩も引かない構えであると言ってもよいでしょう。
しかし、ここで強調しておくべきは、当たり前のことですが米国は日本を守るために戦うのではありません。あくまで「自国の国益のために戦う」のであって、自国を守るためであれば「平気で日本を見捨てる」ということです。
仮に、今秋の大統領選で現職のドナルド・トランプ大統領が敗北すれば、方針が大転換されることは容易に予測できます。ゆえに、今後も対中戦略が維持される保障はありません。今回中国が攻勢に出てきたのも、米国の航空母艦が新型コロナによる感染症で航行不能に陥っていることと無縁ではないでしょう。
そのためわが国は、いつ米国に見捨てられても大丈夫なよう、法令的にも物理的にも、迫りくる侵略に備えなければならないのです。
それには憲法改正を含め、国策の大きな転換を図らなければなりませんが、わが国は民主主義国家であるため、それは国民世論の後押しがなければ不可能です。ゆえに、一人でも多くの国民に、わが国の危機的な状況を認識してもらう必要があります。
例えば、海上保安庁の大型巡視船に各マスコミの記者を同乗させた上で、尖閣諸島や竹島、北方領土のほか国境離島の取材をさせて多くの国民に国境を意識させるという方法があります。日本国民に対してわが国の危機的状況を広く周知するだけでなく、日本の正当性と隣国の傍若無人な振る舞いを世界に向けてアピールすることにもつながり、検討してみる価値はあると思います。
今の日本には、国民一人ひとりに領土問題や国防について考えるきっかけを与えていく地道な作業が必要です。しかし、それを日本を敵視する国が手をこまねいて待ってくれるはずもありません。地道な作業は続けていくとして、今すぐにでも実現可能なことも考え、実行するべきです。
中でも一番効果的なのが、かつて自民党が選挙公約で掲げたにもかかわらず、いまだ実現に至っていない次の政策です。
・尖閣諸島への公務員常駐 ・漁業従事者向けの携帯電話基地局の設置 ・付近航行船舶のための、本格的な灯台および気象観測所の設置
これらについて、日本国内で正面切って反対することは難しいでしょう。それに、憲法や法令を改正する必要もありません。さらには外交手段として、台湾に領有権の主張を取り下げてもらうことも検討すべきでしょう。実現はかなり難しいと思いますが、李登輝元総統がおっしゃっていたことを信じれば、漁業面で大幅に譲歩すれば可能性はゼロではありません。
いずれにしても、中国が今回、侵略のレベルを一段上げてきた以上、わが国も悠長なことを言っておくわけにはいきません。それなのに、多くの国民はそのことを理解しておらず、マスコミの扇動に乗って騒ぐ一部の人たちに引きずられ、本来の国難から目をそらすように些末なことで大騒ぎしています。ただ、私たち国民の一人ひとりが声を上げることも大事ですが、最終的に対応するのは政府です。ゆえに、日本政府は中国関係で何かあったときのための体制を整えておくべきです。
もしそれが難しいのであれば、政府は国民をより信頼し、正直に何もできない現状を伝えた上で、具体的な政策を説明して理解を求めるべきです。「国を守るためには、憲法をはじめとする法令を変えなければならない」と政府が持っている資料を使って説明すれば、普通の感覚を持った日本人であれば反対しません。今こそわが国は、政府国民が一体となってウイルス、そして中国の侵略にも立ち向かって行かねばならないのです。
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本ホームページの概要
韓国について世界の人々に問う ホームページ概要紹介



この内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されました。 書籍版について詳しくはこちら
◆
このホームページは、韓国の反日の誤りを指摘し、正常な日韓関係の構築を願ったものです。
問い1 朝鮮の始まりについて 韓国人が「大切に思っている朝鮮民族」とその始まりを記しました。朝鮮半島の人たちの先祖は、漢・匈奴・扶余・挹婁・沃沮・濊・貊・女真・韓・韃靼などの多くの種族です。 韓国大統領は「民族は何よりも幸福をもたらすものである」といっていますが、1950年6月に勃発した北朝鮮軍の韓国侵攻では、同じ民族の北朝鮮によって韓国の民間人12万人もが虐殺されても、「民族は最も幸福をもたらすもの」といえるのでしょうか。 ▶ 問い1目次へ
問い2 統一新羅の成立と滅亡について 韓半島の南半分にあった馬韓・辰韓・弁韓の中の小国が、周囲の小国を次々と武力併合して、高句麗と新羅・百済が建国されたことを記しています。この三国は��百年間にわたり攻撃と侵略を繰り返し、数世紀を経て新羅が半島を統一しました。そして今、この戦う性向は日本に向けられています。 ▶ 問い2目次へ
問い3 高麗の建国と滅亡について 後三国時代を経て、高麗の建国、モンゴルへの従属、二度の日本侵攻、拉致した婦女子や処女の元への何度もの提供などを記しています。 統一新羅は、王が享楽に耽り、反乱が頻発し、衰弱した新羅は異民族の高麗に自ら併合されました。これは日本が朝鮮を併合した状況と酷似していますが、韓国はこの併合を黙って認めています。 ▶ 問い3目次へ
問い4 李氏朝鮮の建国と統治について 1388年に軍事クーデターで権力を握った李成桂が、新国家創設に反対した有力者を殺し、反対派を処分して、高麗王から李成桂へ統治権を譲渡させたことを記しました。この状況は、大韓帝国皇帝が日本の天皇に統治権を譲渡した時と同一ですが、韓国はこれを不法かつ不当と言っていません。 ▶ 問い4目次へ
問い5 李氏朝鮮中期の状況について 統治者たちが現実離れした論争に明け暮れ、政治を顧みなかったことを記しました。やがて朋党が形成され、政治と無関係な嘘の情報戦による権力闘争で、政敵の殺し合いが260年も続き、この争いは李氏朝鮮が消滅するまで尾を引きました。 ▶ 問い5目次へ
問い6 李氏朝鮮末期の状況について 17~19世紀の李氏朝鮮末期の悲惨な実態を記したものです。 農民の餓死が頻発し、貴族や官吏は農民から過酷に搾取し、その結果一部地域の人口は1600~1858年の258年間で減少気味で、道路や橋は放置され、山は禿山で、都市は悪臭が満ちて不潔で狭く、農民は働く意欲に欠け、奴婢は財物として扱われ、人々は身分制に縛られ、統治者は朋党を組んで権力闘争に明け暮れ、誰も国のことなど考えませんでした。 この状況を見たフランス人は著書で「朝鮮は併合されロシア領となるだろう」と記しました。 ▶ 問い6目次へ
問い7 朝鮮の近代化とその阻止 女真族によって建国された清国を野蛮国と看做し、朝鮮だけが唯一の文明国との思想に染まり、日本や西洋を夷狄として排除したことを記しました。 開化派は3回も朝鮮の近代化に取り組みましたが、その度に国王と保守派は彼らを殺害し、あるいは国外へ追いやりました。そして大韓帝国と改称し、1899年に大韓帝国皇帝の絶対的専制政体を宣告した大韓国国制を制定して近代化を封じたのです。 ▶ 問い7目次へ
問い8 朝鮮の変化について 日本統治により変化した朝鮮の実態を記し��した。 重要な変化は、奴婢(奴隷)を開放し、良賤の身分制を解体し、朝鮮人が平等で自由に活動したことです。この他、餓死や搾取と身分制が無くなり安心して子供を産み育てる環境ができたので年平均人口増加率が過去1660年間に比して約15倍になり、軽蔑され無視され使用が禁止されていたハングル文字を4271校の小学校と1562校の簡易学校で教え、約30万戸の朝鮮人の商店と約4000社の朝鮮人経営の工場が建設されたことなど、25項目の変化を記しました。 これらの変化は、「日本は世界一過酷な植民地支配により朝鮮人を奴隷状態にして賠償に値する収奪行為を行った」結果であると言えるのでしょうか。 ▶ 問い8目次へ
問い9 日本の朝鮮からの撤退後について 日本が撤退時に残してきた有形物と無形なものを記し、注ぎ込んだ資金は現在価値で約122兆円+A+B+C+D円となることを示しました。 しかし、請求権問題を最終的に解決した日韓条約に従って、日本は韓国の国家予算の2.3倍ものお金を支払い、122兆円+A+B+C+D円の請求を韓国にしていません。 さらにODAとして現在の韓国の基礎施設を構築した113項目7,000億円(当時の価格で)以上の支援を行い、サムスンや浦項製鉄などの創業・発展期には要望に応じて日本の企業と銀行が技術と資金を惜しみなく提供しました。 ▶ 問い9目次へ
しかし、韓国は、反日を国是とし、解決済みの問題を掘り起こして、さらなる賠償と���罪を要求しています。
このホームページは、「恩を仇で返す韓国の行為」の是非を問うものです。
▶ 全体の目次へ
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書籍『韓国の歴史を直視する』 このホームページの内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されています。書籍でじっくり読まれたい方は、下記のサイト(幻冬舎ルネッサンス新社)より各購入ページにてご購入ください。
著者/徳田 克
ISBN/9784344931442
判型/A5・448ページ
出版年月日/2020.11.25.
価格/1500円+税

目次はこちら
韓国について世界の人々に問う
――日韓関係を見直す――
はじめに
私たちは、韓国のテレビドラマ『冬のソナタ』や『チャングム』を熱心に見て感動していました。ソウルオリンピックを成功させた韓国は近代化された国家として、道路も広く整備され、ビルも立ち並び、ソウルの中心部の綺麗な繁華街にはあらゆる商品が並び、食べ物も美味しく、産業の発展も素晴らしいものがあります。
そして秋にはソウルを少し出ると道端に白やピンクや赤色のコスモスの花が綺麗に咲いており、美しく優しい風景が嬉しくなり、韓国に好感を持っていました。
しかし残念なことにここ数年、韓国の反日活動はますます激しくなっているように思われます。そして韓国は日本を敵国であると思っているかのような感じさえします。韓国は「反日」を国是の如くしており、「親日」は犯罪であるかの如く非難を集中的に浴びせています。
その背景には、朝鮮を日本が併合した事は不法かつ不当であり、その間に日本がしたことは全て許せず、その痕跡もなくしたい感情があるように見受けられます。
しかし、いかなる国と国との関係であっても正常に交流することだけが、双方の国民にとって必要な大切なことです。両国民を幸せにする方法はいつまでも相手を攻撃し、謝罪と賠償を繰り返し要求し続けることではないと信じます。
良くても悪くても、好きでも嫌いでも過去は変更不可能です。過去に囚われて未来を犠牲にすべきではありません。
韓国が激しい反日の牙をむいてくると、日本人も戸惑い、やむなく自衛のために対応策を考えざるを得なくなります。このような状態は両国の将来にとって決しても好ましくありません。この現状から脱して両国の正常関係を構築するための活動を双方が開始すべきだと思います。
悪意や敵意は必ず反作用としての悪意や敵意を増幅して生み出します。憎悪や侮蔑はより強い憎悪や侮蔑となって跳ね返ってきます。攻撃はより大きな反撃を受ける危険性があります。
大切なことは、「隣人を愛せよ」との精神に則り、許し難いことも許し、認め難いことも認め、相互に相手を攻撃や批難することをやめ、相手の存在を認めて評価し尊重してこそ、真の良好な関係が生まれると信じています。
朝鮮をより良く理解するために、ここでは朝鮮の歴史を学び直し、日頃疑問に思っている事柄を率直に提示したいと思います。
この「問い」を通じて、今後の両国の人々の考え方や認識の相互理解を深め、違いは違いとして認めた上で、お互いの立場を理解して尊重することから、両国の関係を構築しなおす基礎が生まれてくると思います。
そして、正常な関係を構築することだけが、両国民が真に幸せになる唯一の方法であると信じています。
世界の人々に、この思いの是非を問う次第です。
日韓関係を見直す会
Tokuda Masaru
代表 徳田 克
CONTENTS
はじめに
問い1:朝鮮の始まりについて
問い2:統一新羅の成立と消滅について
問い3:高麗の建国と滅亡について
問い4:李氏朝鮮の建国と統治について
問い5:李氏朝鮮中期の状況について
問い6:李氏朝鮮末期の状況について
問い7:朝鮮の近代化とその阻止
問い8:朝鮮の変化について
問い9:日本の朝鮮から撤退後について
おわりに
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69844
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中国の次なる圧力は…国際社会が台湾を守るこれだけの方法
アメリカは決定的に姿勢を変えた
ロバート・D・エルドリッヂ政治学者
元米海兵隊太平洋基地政務外交部次長プロフィール
1月11日、台湾(中華民国)の総統選で蔡英文総統が無事に2期目に再選された。しかし、これで大陸の中国(中華人民共和国)の圧力をはね除け終えたわけではない。
総統・副総統選挙、そして立法院選挙という国内の政治闘争とは異なり、これからの中国との戦いは本質的に国際的なものとなり、それゆえ友好諸国の協力が筆数となる。
今回の台湾総統選の結果では、大陸との緊密な関係���促進する対立候補者が完全に否定された。
広く報道されているように、台湾統一という方針に対立する蔡総統と与党民進党を政権の座から降ろそうと、中国は選挙に干渉しようとした。しかし、この行動は、台湾の有権者に中国への強い警戒感、危機感を引き起こすという逆効果を招いてしまった。
しかし、「核心的利益」とまでいう中国の台湾統一の方針は変わらない。中国が実際に何を行い、習近平国家主席がどのように実行するのかは見えてこないが、中国による圧力が今後も台湾にかかるのは確実である。
これまでも政治的、外交的、軍事的な圧力目立っていたが、選挙干渉という手法が挫折した今、即効性が最も高いのが経済的なアプローチとなる。
台湾アイデンティティは普遍
今回の総統選への中国の干渉に対し、台湾の人々は為すべき結果を出した。台湾の有権者と民主的な政治システムは、中国による情報戦、政治的、軍事的いじめに立ち向かい、国内外からの絶え間ない圧力を克服した現職の候補者を、さらに4年間の彼らの総統として選んだ。
読者がご存じのように、台湾の国民の圧倒的多数は、自らは「台湾人」であり、台湾は中国本土の一部ではないと認識している。
台湾の人々はまた、香港のように「1国2制度」のアプローチを通じて中国への忠誠の道を選んだ場合に待ち受けている、悲惨な運命をはっきりと認識している。まさに「今日の香港、明日の台湾」である。
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国際社会は、価値観を深く広く共有している台湾が守られた、この選挙結果に一斉に安堵のため息をついたことだろう。だから今こそ、国際社会は、台湾を助けるべき時がきたと意識すべきである。
ではどうすればよいのか。明らかに、最も速いルートは、台湾に対して外交的に承認を与えることだ。客観的にみて、若々しい活力と希望に満ちた主権のある、民主的で繁栄した国家であり、人権の尊重、法の支配、言論の自由と集会、自由市場の規範を共有する国である台湾は、国際社会の成員として認められる資格を充分に持っている。
この認識は、今年、大統領選挙に直面するアメリカから始まるべきだ。
私は、東アジアで30年近く暮らす者として、ドナルド・J・トランプ政権に対し、過去41年間にわたる台湾非承認という誤った政策を逆転させることを強く奨励している。アメリカが主導すれば多くの国がついてくるだろう。そして、この政策転換は正しい方向に向き直ることになる。
何十年もの間、中国は、台湾の国際機関への代表派遣、多国間の軍事演習参加、個々の国との外交関係を激しく否定する努力を繰り返してきた。
学校でのイジメで、虐める者は被害者を孤立させるように、中国は台湾を孤立させようとしてきた。民主主義国であっても、台湾との間で経済的、文化的、政治的、軍事的、外交的などの繋がりがあまり強くない国々は、歴史的な理由や、あるいは経済的、政治的な圧力によって、中国の台湾外しに加わっている。
これらの国々には、直ちに、積極的かつ徹底的に、方向転換を働きかけなければならない。だがそれには時間がかかる。
経済協定こそが最善の手段
私は「台湾承認」の主張は続ける。だが、今すぐ2400万人弱のこの小さな島国を支援する最も簡単で、必要とされ手段は、おそらく経済的アプローチだ。
台湾を懲らしめ、蔡政権を弱体化させるために、中国は、将来の選挙で巨大市場へのアクセス拡大を熱望して大陸との関係の修復を促す候補者に期待して、台湾経済に最大限の圧力をかけるだろう。
私は母国、アメリカと、今住んでいる日本に対し、台湾との自由貿易協定を2国間、可能であれば3国間で締結するよう要請する。
ともかく時間がない。待つ時間が長ければ長いほど、台湾経済へのダメージが大きくなり、中国による処罰政策の影響も効いてくる。中国の処罰政策は、過去に台湾を含む国々で使われて来たのを見てきており、その過程も対処法も分かっている。
国際諸国がFTA草案を既に用意していればいいのだが。そうでなくとも、次のようにいくつかのやり方がある。
現在、台湾は、中国との海峡両岸経済協力枠組み協定を含む約10の国と地域とFTAまたはECA(経済協力協定)を締結している。
パナマ(2004年発効、以下同じ)、グアテマラ(2006年)、ニカラグア(2008年)、エルサルバドルとホンジュラス(2008年)、ニュージーランド(2013年)やシンガポール(2013年)との間でFTAを結んでおり、パラグアイ(2013年)をはじめ、以前はスワジランド(2018年)として知られていたエスワディーニ王国とマーシャル諸島の間のECA(2019年署名)を締結している。
一方、台湾は現在、15カ国と外交関係を持っている。つまり数字を見ると、まだいくつかの国がFTAやその他の種類の協定を締結できることを示唆している。
実をいうと、外交関係はFTAには必要ない。例えば、残念ながら、台湾とパナマの間の外交関係は2017年に終了したが、幸いにもFTAまだはまだ有効である。
もちろん、外交関係は結ばれていれば非常に役に立つだろう。外交関係は、経済関係と防衛関係と共に、私が「協力の三角形」とよぶ、同盟国の最も強い関係を構築する。自由、自由貿易、安全保障という共通の価値観は、これらの関係と個人、制度、国家間の信頼を築き、継続させる接着剤となる。
FTA、ECA、またはその他の正式な経済協定は台湾との連帯を示すことになる。
アメリカは決定的に姿勢を変えた
しかし、たとえ中国の、台湾に対する経済的報復がないにしても、アメリカと台湾の場合、FTAや貿易投資枠組み協定(TIFA)は、両国の経済成長と安全保障を促進する価値がある。アメリカの中国経済に対する依存を減らす効果があるからだ。
興味深いことに、米中貿易戦争��、台湾にとってこの後42億ドルという、他のどの市場よりも高い経済効果を与えている。
この効果は、台湾企業が本土から撤退することだけではなく、新たに外国企業が、中国に置いていたサプライチェーンの製造部門を台湾に置き換える事でも、もたらされる。
米中貿易戦争はまた、中国とのビジネスの課題とマイナス面について、アメリカやその他の国々のビジネス・エグゼクティブや政府の政策立案者を教育する効果もある。
また、アメリカの台湾への支持も画期的に変えた。米当局が台湾への渡航を許可する台湾旅行法(2018年3月)、昨年の夏に発表された、80億ドル相当のF-16戦闘機66機や22億ドルの軍事機器の売却、そして米海軍艦艇の台湾寄港で明らかだ。
より重要なのは、アメリカ議会が現在、大きな転換を検討していることだ。既に上院は満場一致で通過したが、アメリカが台湾とのFTA交渉に入ることを促進し、台湾を弱体化させる行動を取る国家に対する制裁を設定している。
中国政府は台湾の外交空間を圧迫し続ける限り、新たな経済関係や貿易協定を結ぶことで、真の安全保障を台湾の経済部門が担うことになる。
これらの関係は、FTAなどを用いることで計り知れないほど強化される。アメリカが台北に傾き始めているという証拠は明らかであり、今後、変わらないだろう。この展開は、他の同盟国や国々も、インド太平洋地域のみならず、世界的に奨励されるべきだ。
台湾、そして友好関係にある国々、同盟国の双方の目標は、貿易相手国の相互繁栄を高めるために、台湾のビジネスセクターを一連の貿易協定に埋め込み、ひいては北京の圧迫からの経済的に守ることだ。
実際、台湾は既にOECD(国際経済協力開発機構)、APEC(アジア太平洋経済協力機構)、WTO(世界貿易機関)のメンバー(いずれも「中華台北」という地域の立場)であり、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11とも呼ばれるCPTPP)の包括的・進歩的協定にできるだけ早く参加するよう公式に招かれるべきである。
日本は台湾の価値の再認識を
台湾は明らかにTPPの枠組みに参加したかった。加盟していれば、アメリカの合意からの撤退の穴を、完全でなくても埋めるのに役立っただろう。
日本は、台湾の地理的な隣人であるだけでなく、歴史的なつながりも密接に結びついている。また2017年から2018年にかけてTPPを救う取り組みを主導した。豊かで安全な台湾において重要な経済的、安全保障の関心を有しているはずなのだから、道を開く手助けができるはずであり、やるべきである。
台湾にとって日本は第3位の貿易相手国であり、日本から見ても台湾は常に上位である。両国は依然として互いに最も人気のある観光地である。租税協定を含む多くの2国間協定がある。
そのため、2国間の経済連携協定(EPA)や本格的なFTAを求める声が上がっている。しかし、台湾は3月11日の東日本大震災に伴う原発事故の後、東北地方からの農産物を禁止し続けているなどのことから、残念ながら具体的な動きはない。
日本は既に世界中と18のFTAを締結しており、そのうち 13 はインド太平洋地域である。あと4つが交渉中だ。台湾の市場の重要性と商品やサービスの高い質、それに中国のサプライチェーンやフェアトレード慣行に対する深刻な懸念を踏まえると、日本は台湾と貿易協定の合意を求めるのが妥当な選択だと考える。
それに対してアメリカは、この地域で複数の2国間経済協定を結んでいる。2018年9月に韓国との改訂されたFTAをはじめ、その前のシンガポール(2000年)やオーストラリア(2005年)との間の協定に加え、昨年、日米貿易協定が締結され、今年1月1日から発効している。また、アメリカとフィリピン、そしてニュージーランドとのFTAの協議も進行中である。
FTAに関して言えば、日米側から見て台湾が第1列島線の穴となっている。同盟国であり、そして台湾との間で主要な貿易相手国である日本とアメリカは、その穴を早く埋める必要がある。
そうすれば、台湾の民主主義を守るだけではなく、来るべき世代にインド太平洋地域の平和と繁栄を拡大する事が出来る。
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ここのところ続いている維新の会ネタから 【維新 丸山衆院議員の「戦争」発言 ロシア大使におわび】 丸山穂高衆議院議員が北方四島を戦争で取り返すことの是非などに言及したことについて、日本維新の会の片山共同代表と馬場幹事長は、17日、ロシアのガルージン駐日大使と面会し、当時、丸山氏が所属していた党の幹部として、おわびしました。 日本維新の会は、北方四島を戦争で取り返すことの是非などに言及した丸山穂高衆議院議員を除名処分にし、議員辞職するよう重ねて促しています。 こうした中、片山共同代表と馬場幹事長は、17日午後、東京のロシア大使館を��れてガルージン駐日大使と面会し、丸山氏の発言について、当時、丸山氏が所属していた党の幹部として、おわびしました。 このあと馬場幹事長は記者団に対し、ガルージン大使が「『戦争』ということばとロシアの混乱を望むようなことは非常に不快だ」などと述べたことを明らかにしました。 そのうえで馬場氏は「『日本維新の会が、丸山氏の発言のような考え方に基づいて、ロシアとの関係を考えているのではない』とはっきり申し上げた。われわれの真意はロシア本国にも伝わると思う」と述べました。 (2019/5/17 NHK) 情けないの一言です。 本来であれば片山虎之助は橋下に文句を言って こんな馬鹿な事を止めさせるべき立場です。 片山虎之助は今年83歳。2016年の参院選で当選しましたが、 2022年の選挙で引き続き出馬することはないでしょう。 あと3年で辞めるのですから、 なおさら橋下の暴走を止めるべき立場だったはずです。 丸山議員の酒に酔って(酒が原因で騒動を起こしたのはこれで何度目だよ) の発言は政府の外交交渉を妨害する形にしかならず、 この点に於いて丸山議員が処罰されるのはありなのです。 ですが、北方領土は国際条約違反で 火事場泥棒によって持っていかれた土地です。 大日本帝国軍の文字通り命を賭けた防戦によって 北海道までは不法占拠されずに済んだというだけです。 丸山議員の発言の件で日本がロシアに謝る理由は何一つありません。 ここは絶対に間違えてはならないところです。 ところが片山虎之助すらこれを止めようとせず ロシア大使館に言って謝罪。 ロシアの主張している 「日本との戦争で勝って手に入れた」 という嘘をかえって補強する行動を取りました。 丸山議員の私的な発言の件で わざわざロシアに謝る理由なんて全くありませんよ。 このへんが外交オンチの橋下や松井の「らしさ」なのでしょう。 橋下の機嫌を損ねたら追い出される。 維新の会にはそういう恐怖があるのは明らかです。 かつてマスゴミが作った「姫の虎退治」なんてくだらないもので 片山虎之助は落選させられました。 その後、マスゴミが持ち上げまくった姫井由美子が どのような役立たずの無駄飯食い政治家だったか マスゴミに乗せられて姫井由美子に投票した人達が 一番理解しているのではないかと思います。 ただし、落選した途端にしょぼい政治家になる なんてのは山崎拓の事例もあります。 一度の落選によって片山虎之助も ここまで落ちぶれたということなのでしょう。 さて、今回の件を機に丸山穂高議員を潰そうと 私怨を晴らそうと維新の議員達をけしかけた橋下はというと 橋下徹 ✔ @hashimoto_lo 丸山穂高氏は上西小百合氏と全く同タイプ。このような国会議員を誕生させたのは僕の責任。維新が辞職を促すのは当然だが、国会の辞職決議はいかがなものか。辞職���基準がない。弁護会の懲戒基準と同じく法の支配にかなわない。選挙で落選させて現実を認識させた方がいい。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190517-00000079-kyodonews-pol … 4,458 14:56 - 2019年5月17日 Twitter広告の情報とプライバシー 丸山穂高氏の辞職勧告案提出へ 戦争発言で野党6党派(共同通信) - Yahoo!ニュース 立憲民主党など野党6党派は17日、北方領土を戦争で取り返すことの是非に言及した丸山 - Yahoo!ニュース(共同通信) headlines.yahoo.co.jp 2,162人がこの話題について話しています 橋下徹 @hashimoto_lo 丸山穂高氏は上西小百合氏と全く同タイプ。このような国会議員を誕生させたのは僕の責任。維新が辞職を促すのは当然だが、国会の辞職決議はいかがなものか。辞職の基準がない。弁護会の懲戒基準と同じく法の支配にかなわない。選挙で落選させて現実を認識させた方がいい。 さすがは口の回る小沢一郎です。 逃げ足の速さは抜群ですね。 自分がけしかけたのがネットでかなり評判が悪い事に気付いたのか 真っ先に逃げました。 松井一郎代表の「党としてできる最大限の事をした」 という発言から一晩経たずに 辞職勧告決議を出して無理矢理辞職に追い込もうと 急遽動き始めたのは維新の会です。 維新の会の行動が 足立康史議員ら所属銀や 松井代表らの発言と整合性が取れないのは 実権を握っている橋下の命令以外にありえません。 維新・松井代表「丸山の議員辞職勧告が出たら賛成する」 (議員辞職勧告提出を共産党、社民党、立憲民主党、自由党、国民民主党に呼びかけて共闘を持ちかけたのは維新の方です) ↓ 丸山ほだか ✔ @maruyamahodaka 憲政史上例を見ない、言論府が自らの首を絞める辞職勧告決議案かと。提出され審議されるなら、こちらも相応の反論や弁明を行います。ただ問題は、議運委や本会議では本人からの弁明機会の機会すら無い。その場合には、この機会にyoutube等で自ら国内外へ以下の様々な配信を。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190515-00000040-asahi-pol … 12,697 17:47 - 2019年5月15日 Twitter広告の情報とプライバシー 丸山氏の辞職勧告決議案を協議 「戦争」発言で衆院議運(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース 北方領土返還に関連して戦争に言及した丸山穂高衆院議員(日本維新の会が除名)をめぐ - Yahoo!ニュース(朝日新聞デジタル) headlines.yahoo.co.jp 10,091人がこの話題について話しています 丸山「クビになったらつべでぶちまけるわ」 ↓ 橋下徹「国会の辞職決議はいかがなものか」 (命令した張本人がこれ) 橋下シンパの有本香氏も 「国会で辞職勧告で追い込もうというのはやはり異常」 と、橋下のこの発言に乗ったようです。 松井代表以下、維新の面々は 真っ先に逃げ出した橋下徹によって 盛大にはしごを外された形なので大いに笑ってあげましょう。 ちょっと脱線しておきます。 森友学園の土地取得問題は 財務状況が認可基準を満たしていなかったのに なぜか特例のように森友学園に認可を出した大阪府があったからこそ あ��売却手続きが進んだのです。 ですので誰が一番憎いかと山本太郎が 安倍晋三と答えさせようと繰り返し籠池に質問したのに 「松井一郎大阪府知事です!」 と籠池に繰り返し断言されたのです。 ところがマスゴミは森友問題=安倍という事にするために この「大阪府が異例の認可を出したから土地を購入できた」 という部分についてもまともに報道しません。 そんな流れの中でしたから 大阪維新にとっては 安倍を潰せば問題を安倍に押しつけて誤魔化せるし、 うまくいけば政権与党に交じって利権を切り回せる。 そう考えたのでしょう。 松井一郎は小池人気に便乗しようと 「三都物語連携」なんてものをやりました。 ところが、小池の希望の党は 民主党の残党を入れてしまったことで それまで圧倒的だった支持率が一気に崩壊して惨敗しました。 マスゴミは小池が排除の論理を掲げたから支持が下がった と嘘をついていますが、 民主党が合流すると決めたタイミングで支持が急落を始めたんです。 「民主党の托卵戦術を排除しなかった」 これこそが小池が惨敗した最も大きな理由だと言えます。 さて、話を戻しましょう。 過去の動きを見れば松井以下維新というのは いざというときに寝返る小者ばかりが集まっています。 橋下という担ぎ手が集められるのがそのラインだったのでしょう。 そんな維新も江田憲司with有象無象を入れてしまって 江田憲司に乗っ取られた事もあったわけですが・・・。 2年前に丸山穂高議員は 代表選と選挙での総括をすべきと主張しました。 これが橋下の逆鱗に触れて党を追放されそうになりました。 丸山議員も感情にまかせて余計な言い方、余計な物言いをする という悪癖がありますのでここは大きな問題です。 (どうも彼の突発的な変な言動などを見るにアルコール依存症のように思います) 物には言い方というものがあるのですから。 もう35であり、国会議員なのですから 「若いなぁ」で済まされる問題ではなくなっていることを理解して 二度と、一滴たりともアルコールには口を付けないようにすべきでしょう。 宴会の場だから、勧められたからと 簡単に断酒の禁を破る事を繰り返すようではダサすぎます。 今回の問題の根本には維新の会の構造の問題があります。 維新の会の代表には任期がありません。 大きな選挙の後は見直すという形を取っているようですが、 実質的に党内で公平な選挙が行われた試しがありません。 ワンイシューポピュリズムの劇場型選挙のために 維新が散々批判してきた共産党が取っている体制と同じなのです。 日本共産党は不破哲三と党中央委員会が実権を握り、 志位和夫が20年もの間、 党規約も無視して無選挙でずっとトップを続けて来ました。 (共産党の党規約では役職は選挙で決めるとあるんです。内部のルールすら一度も守ったことのない連中が護憲といいつつルールを守らないのはある意味で当然なのかもしれません。) そしてなにがあろうとも志位和夫に責任を取らせない という体制を維持してきました。 志位和夫に責任を取らせない事によって その裏にいる不破哲三に絶対に責任が及ばないようにしているわけです。 維新の会も同じ構造を採用しています。 しかも維新の会は 「一地方首長が国会議員団の上にいる」 という極めて歪な形を取っています。 そして今回の 「ロシア大使館に謝罪しに行く」 という完全に的外れ、 いや、それどころか日本の足を引っ張る行動に至りました。 橋下としては大阪のローカル人気で絶対的基盤を作っているので そこを通して国政側も支配する構造が重要ですから 維新の会の橋下を頂点とする ・雇われ法律担当顧問という設定の一民間人 ↓ ・大阪市長 ↓ ・国会議員団 という歪な構造を維持しているのでしょう。 地方政治と国政は別物であり、 地方の利益と国の利益は往々にして利益相反を生みます。 地方と国の利益がぶつかった場合、 国側の視点から妥協点を考えるべき話です。 しかしながら、 維新の会は構造が真逆になっているので 外交に全く関与しないはずの一市長が 外交を処理する国会に余計な命令を出した形になってしまうのでしょう。 そして地方政治しか知らない、 それも橋下人気がなかったら ただの一地方議員で終わっていた人間が 外交マターにまで出しゃばれば 的外れな事をやらかすのも不思議ではありません。 橋下自身が外交オンチという事情もあって 今回のロシア大使館へ謝罪しにいく という頭の悪い事態に至ったと思いますが、 今回の丸山穂高の粛清を狙った事件は 維新の会の実態を見事に露見させてしまったと思います。 橋下としては自分に責任があるみたいな 「責任を取らない立場を真っ先に取って口先だけで言う責任」 で誤魔化していますが、 「雇われ法律顧問の一民間人」 という責任を取らなくて良い立場を取って 党の実権を握るという 橋下にとってこれ以上ない美味しい構造をまもるために 今後も党内で民主的な代表選挙や 選挙の総括は行わせないことでしょう。 北朝鮮方式の民主選挙ならやるでしょうけどね。 丸山穂高潰しの為に 劇場型選挙のために散々批判してきた共産党や立憲民主党、社民党と 躊躇亡く手を組んだという事実と、 散々批判してきた共産党と似たような構造を組織内に作って 責任を取らない人間が実権を握っている独裁政党。 この2点について改めて知られるべきだと思います。 さて、お次は政治とはちょっと関係のない記事を採り上げます。 【狂犬病予防接種は必要か…国内感染例60年以上なし、獣医師会は「接種率7割以上必要」と主張】 編集委員 石黒穣 飼い犬の狂犬病予防注射の必要性を巡り、専門家の間で議論が起きている。動物の疾病対策を受け持つ国際機関が、注射義務を定める狂犬病予防法の見直しを勧告し、国内研究者からも懐疑的な見解が出されているのだ。 「時代遅れ」国際獣疫事務局が報告書 狂犬病予防法は、年1回犬にワクチン注射を打つことを義務づけており、4月1日から3か月の一斉注射期間が始まった。 法律の「見直し」「改定」を勧告したのは、国際獣疫事務局(OIE)だ。日本の獣医療に関する総合的な評価報告書を2018年7月にまとめ、その中で言及した。 国内発生が1957年を最後に60年以上ない中で、流行リスクが「過度に厳しく」評価され、過剰対策になっているというのが理由だ。この報告書は、農林水産省および、同省とともに狂犬病対策を所管する厚生労働省内部の検討資料にとどめられ、国民には広く知られていない。 報告書は、狂犬病予防法が野良犬があふれた戦後間もない時期に施行されたものであり、放し飼いが原則禁じられている今日には、「時代遅れ」との見方を示した。実質的に、義務的な注射の廃止や緩和の検討を求めた。 狂犬病予防注射の料金は1回3千数百円だ。2017年度には全国で451万頭が予防注射を受け、飼い主の費用負担は全体で約150億円に上ったとみられる。 報告書は、日本の狂犬病対策で「費用対効果」の視点が抜け落ちているとの判断も示した。 OIE関係者は勧告について「国際的なリスク評価の基準を踏まえ、資金や労力の適正配分を重視している」と解説する。勧告に強制力はないものの獣医療効率化に向けて指標となる。 感染動物が侵入する確率、4万9000年に1度 一方、義務的な注射を廃止しても「大規模な流行は起こりにくい」とする研究結果をまとめたのは、山田章雄・東大名誉教授を中心とするグループだ。 山田氏らは厚労省の研究班として15年度まで、疫学や統計調査を行った。その後も研究を続け、最新成果を国立感染症研究所発行の学術誌(ネット版)で18年12月に公表した。 日本の厳しい検疫をすり抜けて感染動物が侵入する確率は、4万9000年に1度との計算値を示すとともに、万一侵入しても、感染の連鎖は起こらず自然に収まると結論づけた。 ~以下省略~ (2019/5/12 読売新聞) 日本のマスゴミの記者が知識と教養が足りず、 常にろくに勉強していないことは今更強調する必要はないでしょう。 もはや常識ですから。 そしてごく一部の学者などの言説を根拠に 珍説を発表してドヤ顔をするというのが 日本のマスゴミの定番になっています。 そして世論誘導に成功したら 書いた記者が自分の成果だと思い込んで ますます調子に乗るというのがパターンです。 狂犬病は東南アジアでは今でも発生している病気であり、 インドに至っては今でも毎年3万人ほどが 狂犬病によって死亡しているとされています。 日本では大正期に家畜伝染病予防法が制定され、 犬に対して狂犬病のワクチン接種が義務づけられたことで 大正末期~昭和初期には年3000件以上の発生例が 年間数件にまでおさえられました。 しかし、大東亜戦争によって起きた国内の混乱から この予防対策が滞ると 1940年代は年間1000件ほどの発生に戻りました。 そこで再び1950年に狂犬病予防法が施行され、 犬に毎年の狂犬病ワクチン接種が義務づけられ、 1956年の例を最後に国内での狂犬病発生は観測されていません。 (1970年にネパールで狂犬病の犬に噛まれて帰国後に発病した例が1件あり) 狂犬病はコウモリ、アライグマ、狐なども感染源となっており、 犬以外が媒介する可能性は大いにありますが、 実生活においての人間との接触の可能性を考えれば 常に身近に有り、人を噛む可能性が最も高いものの 飼い主が管理できる犬へのワクチン接種で管理していこうという この考え方をブログ主は支持します。 さて、一時期日本であった台湾も同様の制度があったこともあり、 台湾は長らく狂犬病の発生が確認されていない数少ない国の一つでした。 しかしながら、平成25年に野生のアナグマに狂犬病が確認され 狂犬病持ちのアナグマに噛まれた犬へ狂犬病の感染が確認されました。 今回採り上げた読売の記事ではワクチンは必要ないだの 日本に入ってくる可能性は49000年に1度程度だから必要ないだの おおよそ信用に値しない誘導を行おうとしています。 今の時期ですとナガミヒナゲシがオレンジ色の花を咲かせています。 日本に入ってきた外来種ですがあっという間に広がりました。 ついでいうとアツミゲシも とある河川敷で見付けましたが こちらは麻薬ゲシなので 下手に栽培したら捕まりますからご注意ください。 セアカゴケグモも日本に入ってきて 今や「セアカゴケグモがそこら中にいる」状態になりました。 セアカゴケグモは二次元的な巣を作る他のクモと違い、 三次元的な巣を作ります。 このあたりは観察すると面白いのですが それはまた別の話ですね。 今や輸送手段の発達により、 それまで日本に無かった動植物が日本に入ってきています。 そうした中で 「狂犬病の入ってくる可能性は49000年に1度」 なんて珍説をブログ主は全く信用しません。 日本で明治42年を最後に確認されていなかった 口蹄疫が平成12年に実に90年ぶりに確認されたのです。 このときは自民党政権であっという間に封じ込めをしましたが、 平成22年の赤松口蹄疫災害では 民主党政権のせいで大災害へと発展しました。 まさかと思っているものでも 輸送手段が発達した今となっては 今までよりもずっと入ってくる可能性が高くなっていると思います。 マスゴミの記者が 「無駄だからやめたほうがいい。(ごく一部の)学者もそう言っている」 とドヤ顔をして言ってきた話はほぼトンデモや妄言の類いだと そう切って捨てておくのがいいでしょう。 そういや立憲民主党は 「インフルエンザウイルスの無毒化は紅茶が一番です」 とか癌に対しての現代医療を否定して 「肝臓が元気になれば癌にならない、だから自然治癒を」 みたいな妄言を垂れ流したりしている (案の定ホメオパシー信者) あさぬま和子を公認して愛媛県議会へ送り込みました。 放射能デマのおしどりマコにしてもそうですが、 立憲民主党の人選ってほんとなんというか 一貫しているといえば一貫しているのですが 「ろくでもないのを探してくる」 という点ではすごいですね。
批判している共産党と同じ体質
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『シチューションズ 「以後」をめぐって』
シチュエーションズ
1。百年の失語
「新潮」の四月号に、「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」という特集が載っていた。総勢二十八名の作家が、編集部が投げ掛けた先の二つのアンケートに答えている。中でも印象的だったのは、「ワイルドサイドを歩け」というタイトルの付いた、町田康による回答の一節だ。
いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ、と死んだ父に語りかけて小説を書いている。四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いていること。その矛盾がいま露になってなにも言えない。
ここでは二つの問題提起がされている。「いま小説を書ける/書く」とは如何なることなのか、という、端的かつ直截な問い。それから「月刊」である文芸誌の制度的な慣習への違和感の表明。「いま露になってなにも言えない」と言うのだから、二つ目の問題は一つ目と実は繋がっている。読者の側からみれば、この三月に、四月号と記された誌面で、一月には書かれていた言葉を読んでいるという「矛盾」は、もちろん今に始まったことではないし、文芸誌だけのことでもない。だが、このささやかなタイム・パラドックスは、この企画が「100年保存大特集」と銘打たれていることによって、一挙に加速拡大することになるだろう。「100年」という数字は、或る途方も無さとリアリティとを併せ持っている。百年後の未来は、それほど遠くはなく、それほど近くもない。 なぜ「100年」なのか、という時間についての説明は、なぜか「新潮」には無いのだが、たとえば、アンケートに回答を寄せてもいる古川日出男が、十七人の作家・詩人の「3・11」をめぐるアンソロジー『それでも三月は、また』のために書き下ろした短篇「十六年後に泊まる」の中に、ひとつの答えを見つけることが出来るかもしれない。二〇一一年の五月、十六年目の結婚記念日に、作家は妻を伴って、約一年ぶりに福島の実家へと帰郷する。その経緯を綴ったエッセイ風の小品だが、小説の最後にふたりは東京に戻るべく、ホテルを出てタクシーに乗る。
僕はどんなタイミングで思い出してもよかったのだが、実際にはこのタイミングで、イギリスの科学誌『ネイチャー』になる論文が掲載されたとの報道を思い出した。福島第一原発の廃炉には数十年から一〇〇年かかる、と、その論文は指摘していた。たとえば三十年後か四十年後ならば、僕にも廃炉を見届けられるチャンスはあるだろう。妻にもあるだろう。しかし、一〇〇年後には? 僕は、自分はこの地上にはいないし、妻もいないし、この運転手もいないな、と感じた。いや、理解した。われわれは誰もいない。
この後一行で、小説は終わる。つまり「一〇〇年後」とは、ひとつには、たとえば「福島第一原発の廃炉」が完了するまでに要するかもしれない時間のことである。 私たちは、今から百年前に書かれた小説を、そこに書かれた言葉を読むことが出来る。もっとずっと昔に書かれた言葉だって読むことが出来る。だが、百年前に何かを書いていた人々は、百年後か、それ以上先の未来に、自分の言葉が誰かに読まれていることを、たとえそう望んでいたとしても、確信することは出来なかった。それは百年後には廃炉が成されているのかどうかを、そう願う人々の誰ひとりとして確かめることが出来ないのと同じである。 保坂和志は、新しいエッセイ集『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の中で、こんなことを書いている。
私は自分の本が一〇〇年後にも読まれているとは思っていない。一〇〇年後に読まれていると想像することができたら、幸福感か満足感を味わうことができるかもしれないが、私はそういう風には楽天家ではない。
いかにも保坂氏らしい、率直な発言だが、「しかしそれでは何故、なぜ自分は小説を書くのか?」と、すぐさま氏は続ける。
小説家が小説を書くのは、小説を書くという行為を通じて何かを考えたいからだ。そして、できるなら人間の考えるという営みに関わりたい。 ここで注意してほしいのだが、私は作品という形で残りたいと思っているのではなく、考えたり感じたり記憶したりするプロセスに小説を書くことで関わりたいと思っているのだ。
保坂氏が言っているのは、特に「いま」には限らない普遍的なことだろうが、作家たち、言葉の使い手たち、あるいは、言葉に限らない諸芸術表現の作り手たちの多くが、あれからの一年間を、一種の失語症に直面しつつ過ごし、今もなお、そこから完全には出てこられていない者もいる、という事実を鑑みると、「いま」こそ「考えたり感じたり記憶したりするプロセス」に立ち戻ってみること、そこからふたたび始めるしかないのではないか、とも思う。それは未来の他者に向けて、タイムカプセルに「保存」される言葉を、後悔抜きに紡ぎ出すためにも必要とされている。百年後の読者は、ことによると、いま以上に、失語への動揺と絶望を乗り越える術を求めているのかもしれないのだから。 ところで、もうひとつ押さえておかなくてはならないのは、町田康が韜晦まじりに記した「いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ」に対して、それでも書いてしまった者はどうなのか、という問題である。それは、鈍感にも難なく書けてしまえた、ということなのか。失語症への共感が強化される場では、ともすればそれは短慮による仕業と解されかねない。ならば、失語の強迫と誘惑に抗い、勇気を奮ってようやく言葉を発した、ということならば赦されるのか。失った言葉を取り戻した者と、言葉を失わなかった者の差異は、何処にあるのか。あるいは、こう言ってしまってもいい。短慮で何が悪いのか? 高橋源一郎の『恋する原発』は、二〇一一年に書かれ出版された「純文学」のなかでも、もっとも倫理的な作品のひとつだった。無論、「3・11」のチャリティーAVを作ろうとする話だなんて、不謹慎という物議=ウケを狙った火事場泥棒的な無恥の所業であるという非難もあっただろう。各章が全部途中から日本語吹き替えミュージカル仕立てになるだなんて、幾らなんでも悪ノリが過ぎるという批判もあり得るだろう。軽挙妄動、正に短慮そのもの、あんなのは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実だよ、と。だが私はそうは思わない。あれは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実のフリをした(…)やはり紛れもない誠実さなのだ。言い換えればそれは、自分の紛れもない不誠実さを隠さない、ということでもある。重要なことは、高橋氏が「短慮」を怖れず、そこから逃げもしなかったということだ。私が感銘を受けたのは、演技でもいいから真面目にやってないと誰もまともに受け取らないだろう状況において、演技ではない不真面目を丸出しにすることでしか表現され得ない何かがあるのだということに、たぶんあの時点では『恋���る原発』だけが意識的だったからである。 二〇一一年に高橋氏がツイッターに投稿した「つぶやき」に、同時期に書かれたエッセイや評論、小説などの断片を挟み込んだ本『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』の「おわりに」に、高橋氏はこう書いている。
いつもの年より、ずっとたくさんの「ことば」を、ぼくは書いた(発した)。いつもなら書かないだろう、そんな「ことば」も、ずいぶんあった。 中には、いいものも、たいしてよくないものも、つまらないものもあるだろう。繰り返しや、混乱もあるだろう。でも、ぼくは、その「ことば」たちと一緒に、真剣に、なにかを探ろうとしたのだった。
若干いい子ぶってるように読めなくもない。だが、それでもやはり、ここには「失語」に抗する「ことば」の遣い手であるひとりの作家の姿がある。「ひとりの人間が、なんの準備もなく、ある事件に巻き込まれる。その様子を、正確に再現してみたかった」と高橋氏は記している。そしてそれは、書くこと、書き始めること、書いてしまうことによってしか試行されないのではないか。 失語が抱える問題は、わたしは言葉を失った、とは言えてしまうということである。これはいわゆる「表象不可能性」のパラドックスに似ている。「表象不可能なもの」は「表象不可能」として、実質的には表象されている。真正の「表象不可能」とは、けっしてそう呼ばれてはならないし、呼べもしないものなのだ。同様に、くだんの「震災」と「原発」によって惹き起こされた失語症もまた、そう表明し告白されることによってパラドキシカルな発話として機能し、発語を選んだ者を無意識に断罪する。そして、それはそれで無理もないことだとも思うのだ。だが、忘れられてはならないのは、わたしは言葉を失った、とさえ口に出来ない者たちへの想像力と、短慮の謗りを恐れず発語を選んだ者たちへの真っ当な理解である。そうではないか?
2。「後ろめたさ」と「みっともなさ」
映画『311』には、ドキュメンタリー作品としては些か例外的なことだが、監督として四人の名前がクレジットされている。森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治。森にかんしては説明は不要だろう。綿井は、アフガン、イラク、東ティモール、(津波被害の)パプアニューギニア等々を現地取材してきた国際派の映像ジャーナリスト。四名の中で最も若い松林は気鋭のドキュメンタリー映画作家。そして森の『A』『A2』、綿井の『Little Birdsーイラク戦火の家族たち』、松林の『花と兵隊』のプロデュースを務めたのが安井である。 二〇一一年三月二六日から三一日にかけて、彼らは一台の車に同乗し、東北へと向かった。岩手県陸前高田、大船渡、遠野市、宮城県仙台、石巻、東松島市、福島県三春、浪江、大熊町と廻り、四名が各々ビデオカメラでその一部始終を記録した。そうして残った五〇時間強の素材を、追って安井が編集し、一本の長篇ドキュメンタリー映画として完成したのが『311』である。だが四人とも、それぞれの動機によって、とにもかくにも「現認」するために行ってみよう、というだけで、当初は作品にするつもりなどなかったという。映画化へと至る顛末については、公開に合わせて刊行された四人の共著『311を撮る』に詳しい。 『311を撮る』の中でも、ロードショー公開に先んじて山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された際の観客からの激しい反応について触れられているが、確かにこの映画の評価は賛否両論が真っ二つに分かれるだろう。「震災」と「原発」をめぐっては、すでに夥しい数の映像作品が撮られているが、その中でも『311』は極めつけの問題作だと言える。その理由を安岡卓治は一言でこう述べる。「この映画は、被災地を取材しているが、主人公は取材した我々自身だ」。 作品にするつもりがなかったのだから当然と言えば当然かもしれないが、映画の冒頭、被災地へ出発してまもない頃の四人の言動は、まだどこか緊張感を欠いている。確かに『311』の「主人公」は、四人の監督自身である。だが、それとは別に、実はこの映画には前半と後半で、それぞれ「主役」が居る。前半の主役は「線量計」である。福島第一原発から約150kmに位置する東北自動車道で計ってみると、見る見るうちに数値は上昇していく。東京とは比較にならない、その上がりっぷりに驚きと戸惑いを隠せない彼らだが、それでもその言葉の端々には、びびりながらも面白がっているような雰囲気が窺える。「健康への影響は?」「直ちに?」「直ちに、あると思います」という、当時何度も繰り返されていた枝野官房長官の言い草をもじったやりとりは、まだ軽口の次元を出ていない。しかし道中が進むにつれて、線量は飛躍的に上がっていく。線量計が発するピコピコという電子音がずっと聞こえている。防護服を買い、マスクとゴーグルで顔を覆った彼らは、福島第一原発を目指すが、8kmのあたりでタイヤがパンクしてしまい、敢えなく引き返すことになる。その修理の間も、ビニール袋に包まれた線量計は、ピコピコを発している。すでに数値は東京の百倍を超えている。 作戦(?)を練り直した彼らは、今度は津波被害��遭った地域を目指す。陸前高田で、あまりにも圧倒的な被害の甚大さに茫然とする四人。まだ地震から二週間ほどしか経っておらず、あちこちで行方不明者の懸命な捜索が続けられている。仙台で共同通信の多比良孝司記者と合流して、石巻の赤十字病院や避難所となった高等学校などを取材し、石巻市立大川小学校に辿り着く。まるで爆撃に遭った跡のような壊滅的な光景がひろがっている。ふと気づくと、四人の中でも森達也が画面に映し出されることが増えている。森が被災者に話しかけ、インタビューする様子を、別の者が撮影し、そのカメラのファインダーを、もうひとりが撮影していたりもする。だが、映画の後半の「主役」は、この過程で唐突に映し出される「豚の死骸」である。いつしか四人の暗黙の目標は、遺体を撮ることへと収斂していっている。なぜならば、どこに行っても、すでに遺体はすべて運び出された後であり、その不可解といえば不可解な事実への微妙な違和感が募っていったからだ。人間の遺体が撮れなかったので代わりに豚の映像を置いたのだと言えば、不謹慎と思われても仕方がないが、それでもおそらく間違いなく、確実に、しかも大量に存在していた筈であるのに、イメージとしては徹底して不在の「人間の死」を代補するものとして、無造作に土の上に横たわる「豚の死」は、編集段階で残されたのだと思われる。 『311』の賛否両論を二分する重大な出来事が起きるのは、この後である。青いビニールシートで覆われた、おそらくは遺体を運んでいる様子を、やや後方から撮影していた彼らは、その場に居た男性から突然、木片を投げつけられる。なぜ撮ろうとするのか、撮らないでくれ、どういうつもりなのだと詰め寄る男性に、森が抗弁する姿を、ドキュメンタリストとしてのあるべき態度だと捉えるか、何もそこまでやらなくても、流石にみっともないのではないかと思うかで、この作品への評価は真逆になる。実際、あまりにも後味の悪いラストであるという感想も、映画を観た者から多々寄せられたという。その中には、森たちと同じ、取材する立場の人間も居た。 ひとつ確実に言えることは、しかしこの後味の悪さは、安岡卓治が編集作業を通して発見し、四人の合意の上で、意図的に刻印されたものだということである。『311を撮る』は、四名が一章ずつを書き下ろした共著であり、内容的な擦り合わせや統一は敢て行なわなかったという。結果として、それぞれの考えや受け取り方の違いが鮮明に出ている。綿井健陽は、百戦錬磨のジャーナリストらしく冷静な熱意をもって取材に当たりながらも、過去に経巡ってきた戦場をも超える被災地の惨状に茫然とする。彼は遺体を撮ることに強く執着し、後になって自らの執着について省察を続ける。彼はその後も何度か別のチームで福島へと向かうことになるだろう。松林要樹は、映画祭や試写で浴びた批判について「褒められるよりけなされたほうが、どこか納得のゆく気持ちが起きる」と記している。「消化不良の感情はいまだにある。この生煮えの感覚をどう乗り越えていくのか」。彼は『311』の取材から東京に戻った四月一日の翌日、南相馬市に支援物資を届ける旧友の車に同乗し、ふたたび被災地に向かった。彼はそれから幾度も南相馬を訪ね、そこに生きる人々と触れ合いながら撮影を続け、やがて『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』という一本の映画として完成させ、『311』と同じく山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映するに至る(私はこの作品を未見だが、必ず観るつもりでいる)。プロデューサーであり編集者でもあるという、他の三人とは異なる立場を背負った安岡卓治は、何よりもまず、これを作品として完成させること、そして完成した映画を公開することにかんして、その是非について悩み続ける。その時、彼の頭を過ったのは、ジョナス・メカスの「われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」という言葉だったという。彼は書いている。
映画『311』は、何もなしえなかった我々の無力さを描いている。ネガティブなスタートラインだと思う。それは、二〇一一年三月時点の我々の姿をはっきりと刻み込むことだ。この無念さを消したり、何かキレイごとで覆い隠したりはしない。
森達也は、あの日のあの時間、「ドキュメンタリー番組企画コンペティション」の審査会のため、六本木の高層ビルに居た。仕事は中止され、交通機関も動かないので、地震と津波が東北に齎した、今まさに齎しつつある悲劇を知らぬまま、居酒屋で泥酔した森は、夜になってから被害の規模を知って愕然とする。彼はそれから二週間近く、自宅に閉じこもってひたすらテレビを見続けた。他には何もせず、時には泣いたりしていた。だから綿井健陽から被災地への同行を求められた時も、最初は「無理だよ」と答えている。だが、森はその直後、自分から綿井に電話して「行く」と告げたのだった。
心変わりした理由は、自分でもよくわからない。このま家でテレビを観続けながらメソメソしていても仕方がないと思ったことは確かだ。(略)被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。 つまり僕は非当事者なのだ。 ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。自分にも自分の役割がある。
森は完成した映画を「被災者たちを後景にしてセルフ・ドキュメントを撮るようなもの」と認めている。それは安岡がいう「我々の無力さを描く」ということでもある。無力な非当時者であるしかない自分は、そのままの存在として、被災地にカメラを向け、カメラを「反転」させて、無様でみっともない自らの姿を映し出す。善意の取材者を装い(と敢て書くが)、何とかして被災地に在る者たちから「悲劇」を聞き出そうと、それを無理にでもカメラに記録させようとする森の物腰は、ともすればトゥーマッチな露悪趣味のように見えなくもない。映画の中盤から、水を得た魚のように活躍し出す、このような森の態度は、大川小学校のシーンで、いわば負のクライマックスを迎えることになる。だが、森は自分の非道ぶりを、誰よりもよくわかった上で、そうしているのだ。彼はただ「自分の役割」に忠実たろうとしているだけだ。
自覚すること。自分は残酷な存在なんだと思い知ること。撮ったり取材することは鬼畜の所業なのだと認めること。後ろめたさを引きずること。
森は、英語で「Survivor's Guilt」と呼ばれる感情について書いている。それは、生き残った者、死ななかった者の罪の意識、後ろめたさのことだ。彼はアウシュヴィッツを生き延びた作家プリーモ・レーヴィの死に触れ、Survivor's Guiltを特権意識とパレスチナへの憎悪に転化させたイスラエルについて述べる。そして、大切なのは、「sens of guilt」を引きずること、引きずりながら前に進むことだ、と書く。 四人の監督の認識は、少しずつ、部分的にはかなり異なっている。だが、全員が認めているのは、『311』という映画が、「後ろめたさ」についての映画であるということだ。それは「非当事者」であるがゆえの感情である。だが、何をどうしたとしても「当事者」にはなれない事態というものが、この世界には存在している。だから出来ることと言えば、背負ってしまった「後ろめたさ」をけっして手放さず、それと向き合い、むしろ凝視するようにして、そしてそれでも何ごとかをやるつもりがあるのなら、ただやればいいだけだ。それはしかし、当事者ではありえないからこそ出来ることがある、などといった、やはり綺麗事というしかないような言い訳とは違う。そうではなく、それはあたかも鈍感であるかのような表情で、他人に晒け出されるのはもちろんのこと、自分自身にも翻って突���刺さってくるだろう、ある歴然とした、みっともなさに耐えることなのだ。 『311』は、どうしようもなくみっともないドキュメンタリー映画である。だが私は、こう言ってよければ、ある爽やかさを感じた。それは「後ろめたさ」が乗り越えられているからではなくて、まったく反対に、そこに「後ろめたさ」がくっきりと映っているから、四人の監督が、それぞれの「後ろめたさ」を大事に抱え持っていることが、正にその後味の良くない「みっともなさ」ゆえに、よくわかるからである。
3。「俺だって考えてる」
『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の「まえがき」で、保坂和志はこんなことを書いている。
この連載が終わりに近づいたところで三月十一日の地震と津波があった。福島第一原発の事故もあった。私は当然それについて書くことになるのだが、それはそんなに“当然”だったのだろうか? 私はあの地震のことも津波のことも原発のことも本当に書かないではいられなかったんだろうか、そのとき私の関心は他のほとんどの人と同じくそのことにしかなかったんだからそういう意味では当然なのだが、それでもやっぱりそのことが私の心のすべてを占めていたわけではないことを考えると、結局私はまわりの人というよりもむしろ私自身に向かって、 「俺だって考えてる」と、言い訳したりポーズを取ったりしていただけなんじゃないか。
「俺だって考えてる」と言いたいがためにだけ書かれたと思しき「ことば」は、間違いなく数多ある。むしろそれを言いたい相手が「まわりの人」ではなく「私自身」であるだけましではないかと思う。私はかなり早い時点から、多少とも社会的な発言を求められていると自認しているらしき連中による「俺だって考えてる」に���易させられていた。何かを思うこと、何ごとかを考えるということと、それを他者に伝えること、公に発言することは、まったく別の次元にある。無論、外に出さなければ誰にもわからないわけだが、ひとは考えてもいない/思ってもいないことだって口に出せるし、書けてしまう。それに「俺だって考えてる」と誰かに思われたくて書かれるようなことは、保坂氏も言うように、大概は退屈である。だが時として、とりわけ非常時には、ひとは「退屈」を真摯さと取り違える。それで益を得る者も居る。 だから私は、長らく「震災」と「原発」にかんする発言に、たぶん人一倍警戒的であったし、シニカルでもあった。その種の求めは、ほぼ全て断った。私の目と耳には、多くのそうしたものは「俺だって考えてる」に翻訳されたし、だから自分がそうしても結局は「俺だって考えてる」になってしまうのではないか、と思っていたからである。この自分でも幾分神経過敏ではないかとも思える感覚は、いまも基本的には変わっていない。だが、多少の変化はある。 スガ秀実の『反原発の思想史』は、戦後の「反核=反原子力=反原発」の歴史を専らニッポンの左翼運動/思想史の視点から読み直すことで、従来の了解に野太い楔を打ち込む刺激的な一冊だが、全体の論旨からするとやや傍系に属する部分に、ごく短い和合亮一への言及がある。一九五四年に編まれた『死の灰詩集』に鮎川信夫が浴びせた痛烈な批判にかんして触れた箇所で、スガはいささか唐突に、こう書く。「在住地福島からツイッターによって発信され、詩集として刊行されている和合亮一の詩(『詩ノ黙礼』、『詩の礫』、『詩の邂逅』、いずれも二〇一一年)は、震災・原発事故以後の「国民感情」におもねっただけのものではないのか、どうか」。 「国民感情」というのは、鮎川信夫が、詩人の代表的団体である現代詩人会による「反核」の表明である筈の『死の灰詩集』が、執筆者の顔ぶれとしても、また本質的にも、大東亜戦争総力戦体制下における愛国的/戦争賛美的な「文学報告会編『辻詩集』の戦後版」だと喝破したこと、両者に共通するのは、その時々の「国民感情」におもねってみせる姿勢だとしたことに因っている。そしてスガはこう続ける。
和合の詩は、たとえば、宮沢賢治という東北出身の「国民的」詩人を頻繁に参照することで適当にソフィスティケートされており、適当に「つぶやき」であり適当に「叫び」である。「南相馬市を見捨てないで下さい」と言うことは、実際にそうであるか否かは問わず、「見捨てる」と言うはずもない、「国民感情」におもねっているのではないのか。そのソフィスティケーションは、震災直後から公共広告機構のCMでいやというほど流された、金子みすゞ程度のゆるいものである。そのゆるさが、おもねりの証明なのだ。
スガは和合の「ツイッター詩」を、あくまでも「詩」として、あるいは「詩集」として、つまり「作品」として評価し審判しているが、それは現実には、余震と放射線量に脅えながら毎日毎晩、携帯からきれぎれに発された「つぶやき」の集積である。もちろんそれらは和合自身によって明確に「詩」であると宣言された上で、ネット上に送り届けられたものではある。詩の言葉として客観的に読めば、そこに「ゆるさ」があることは確かだが、現代詩の中でもアバンギャルドな作風であった和合が、あのようなナイーブでストレートなフレーズの数々を書き付けざるを得なかったという事実が意味するものを、和合の「詩」の「以前」と「以後」の落差をこそ読むべきではないか。「南相馬市を見捨てないで下さい」という台詞に、「国民感情」は「見捨てる」と言うわけがない、と返すのは、あまりにも和合に酷ではないだろうか。絶対に見捨てられる可能性などないと、あの時点で和合に確信出来た筈がないのだから。 たとえば「以前」の和合亮一の「詩」とは、次のようなものである。
(「GO NO GO」、冒頭より「ゲームオーバー/リセット」まで) (「爆笑悶絶反転大龍」、冒頭より「驚天動地の現実に取り残される一行としての龍」まで)
二〇〇五年に刊行された和合の第四詩集『地球頭脳詩篇』の二篇から抜粋した。すこぶる「現代詩」らしい書法と言っていいだろう。和合はもともと、ヴァラエティに富んだ主題を、先行世代のさまざまな達成を踏まえた華麗なテクニックを駆使して作品化してきた。彼は「現代詩」の「現代詩らしさ」に、極めて敏感な詩人である。そんな彼が、二〇一一年三月十八日深夜の「ツイッター詩」では、こう書きつける。
あなたの街の駅は、壊れていませんか。時計はきちんと、今を指していますか。おやすみなさい。明けない夜は無いのです。旅立つ人、見送る人、迎える人、帰ってくつ人。行ってらっしゃい、おかえりなさい。おやすみなさい。僕の街に、駅を、返してください。(『詩の礫』)
これを前掲の諸作と同じ次元にある「詩」として読むならば、むろん明らかに弛緩している。それは間違いない。それに和合の振る舞いの内に、スガをして先の批判を綴らせるような部分がまったく無いとは、私も思わない。けれども、もっと重要なことは、かくのごとき「ツイッター詩」が、自分が過去に書いてきた「現代詩」とは較べるべくもない水準にあることを誰よりもよく知っている筈の和合自身が、それを敢て「詩」と呼んだ、という��となのではないか。それは「現代詩」としての純然たる価値判断とは別の、だが切実極まりない理由によって為されたことだ。「失語」に必死で抗するために、どうしても発さざるを得なかった言葉なのだ。これもまた「短慮」かもしれない。だが、和合は「これは詩ではない」と述べることだって出来たのだ。しかし彼はそうしなかった。このことの意味を考えなくてはならない。 ところで、スガ秀実は、こんなことも書いている。
アドルノは、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」(『プリズメン』)という有名な言葉を残した。しかし、「福島」以降の「詩」の問題とは、おもねることのない野蛮な詩を書くことなのである。そのような詩を書ける詩人は、今の日本において皆無に近いだろう。
「野蛮な詩」が必要とされているという指摘は、あまりにも正しい。「詩」に限らずとも、今こそ「野蛮」さが必要とされている。だが、その「野蛮」さとは、単純な意味で「国民感情」と逆立すれば、そう見えればいいわけではないだろう。「短慮」や「後ろめたさ」や「みっともなさ」だけではないのはもちろんのことだが、「俺だって考えてる」に陥らず、「失語」をも回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。このことは今後、時間を掛けて考えていきたい。
4。「三月一一日」と「三分一一秒」
『反原発の思想史』の和合亮一への言及に続けて、スガ秀実は、「映画においても、似たような事態が発生している」と書き添えている。
『殯の森』で二〇〇七年のカンヌ国際映画祭グランプリを獲得したことで知られる映画監督の河瀬直美は、三月一一日の「福島」に際し、世界の著名な映画監督に三分一一秒の短篇を作ってもらい、それを集めてオムニバスの六〇分にして、被災地を巡回上映すると呼びかけた。この試みが愚劣なのは、まず何よりも、「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化にある。
ここでもスガの言っていることは正しい。だが同時に、やはりどこか不十分であるとも感じる。私は河瀬直美企画のオムニバスは観ていないが、同じく「三分一一秒」の短篇映画四十二本から成る、仙台短篇映画祭映画制作プロジェクト作品『明日』を観ることが出来た。「ショートピース!仙台短篇映画祭」は、従来は短編映画の一般公募をメイン・プログラムとする映画祭だが、震災によって昨年度の開催が危ぶまれる中、発足十一年目にして、はじめてとなる映画制作に踏み切った。映画祭実行委員の菅原睦子が『明日』のパンフレットに寄せた文章は、「映画祭をやりたい。ただ、その思いだけだった」という一行から始まる。
そのとき久しぶりにスタッフが顔を合わせ、みんなで寄り添いながら確認したことは、「予算も会場もなくなったけれど、今年も映画祭をやりたい」、「できることなら、上映する映画を新たにつくってもらおう」ということだった。 映画をつくってもらうなんてことが、本当に頼めるのか。つくってもらうなら、どんな内容がいいのか。躊躇していた私を、4月7日、2度目の大きな地震が襲った。春の訪れとともにやっと回復の兆しを見せ始めた街から、再び電気が消えていく。そんな光景を目の当たりにし、私はどこか壊れてしまったのかもしれない。「つくってもらうぞ!」という勢いで、本当に勢いだけで、監督や制作に携わっている70人近い方々にメールを出した。 けれども、勢いでメールを出した元気は、翌日にはあっけなくしぼんでいた。映画をつくるなんてことを、こんな時に言っていいのか。能天気な発想ではなかったか。沿岸部の大変さや福島のことを考えると、あまりに考えなしの行動と映るのではないだろうか。やってしまったことに不安が跳ね返ってきて、一気に気持ちが悪くなってしまった。 そんなとき、ひとつ、ふたつと返信が届き始めた。「やりましょう」。何度も何度もメールを見た。小さなノートパソコンのモニターが、闇を照らす光のように思えた。
こうして四十一人の監督による四十二本の短編映画が完成した(ひとりだけ二本制作した者がいるのだ)。決まり事は二つだけ、テーマは「明日」、そして「三分一一秒」であること。当然のことながら内容は非常にヴァラエティに富んでいる。参加した監督も、塩田明彦、山下敦弘、篠原哲雄、鈴木卓爾、入江悠、瀬田なつき、真利子哲也、甲斐田祐輔、佐藤央、濱口竜介、堀江慶、内藤瑛亮、田中羊一、等々、若手から中堅まで注目の才能が揃っている。河瀬直美もいる。だが私がもっとも印象深かったのは、唯一、二本を監督している冨永昌敬の作品だった。 二つの「三分一一秒」は連作になっており、どちらも冨永監督が手を変え品を変えつつ継続しているシリーズ「シャーリー・テンプル・ジャポン」で主人公シャーリーを演じている俳優(福津屋兼蔵)が映画監督に扮している。最初の『妻、一瞬の帰還』は、監督が病院から退院してきた妻を迎えに行くと、どうやら嫉妬心のあまり精神に異常を来していたらしい彼女はすぐさま自分が入院中の夫に疑いの目を向けて錯乱し、そのまま自ら「病院」へと引き返す。『武闘派野郎』は、その翌日の話である。前日の妻の台詞の中で語られていた若い女性(妻の前夫の妹)が男友達を連れて監督の家を訪ねてくる。単細胞丸出しの男友達は映画に出たいと言って初対面の監督に不躾な質問を浴びせ続けたあげく、腕相撲で勝負しようと挑みかかる。 何しろ「三分一一秒」しかないので、どうしてもコントみたいになってしまうし、実際かなり笑えるのだが、しかしよく考えてみると、かなり巧妙に出来ていることがわかる。二本立てなのは、一本目の翌日が二本目ということで、これによって「明日」というテーマをクリアしたということだろう。人を食っている��いえばそれはそうだが、企画を逆手に取った、冨永昌敬らしい発想だと思う。また映画のラストは二本とも、家に居候している友人の「何かあったの?」という問いかけに対して、監督が「何でもない」とぶっきらぼうに答えるというものである。ではこの友人はどこから来たのか? ひょっとすると被災地かもしれない。そう考えられる証拠は映画のどこにもないのだが、しかしこの二本が『明日』というオムニバス映画の一部であるということが、観客にそのような想像力を働かせることを許している。 じつは先ほどの菅原氏の文章の中で、彼女に『明日』の製作を決意させたのは、冨永昌敬であったことが明かされている。冨永監督の映画『パンドラの匣』のロケ地は南三陸町であり、彼は二〇一一年四月一日に同地を見舞った帰りに仙台へも立ち寄り、かねてより親交のあった映画祭のメンバーと再開した。引用部分冒頭の「そのとき」とは、冨永監督の来訪時のことを指している。『明日』のパンフに彼は「映画制作のこと」という文章を寄せているのだが、そのとき、彼は「企画上映やりましょう。みんなで短い映画を持ち寄れば大きなプログラムになりますよ」「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれるでしょ」などと叫んだのだという。そこから、いつしか「三分一一秒」の短篇オムニバスという企画が立ち上がっていったということらしい。
だからこの企画は、不特定多数の被災者や被災地に向けて発案されたものではないと僕は思っている。ましてやこの未曾有の国難下の日本に救いをもたらすような殊勝な意志でも決してない。何よりも願うべくは仙台短篇映画祭の健全な開催なのであって、そのためならばと、多くの作り手たちが手製の小品を持ち寄ったというのが正確なところではないだろうか。(中略) その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。
真に感動的な文章だと思う。なぜ冨永作品だけ二本あるのか、という素朴な疑問への答えも、これで明らかだろう。もちろんそれは「三分一一秒」を「六分二二秒」に、そしてそれ以上に「膨張」させていき、遂には「強固な防波堤」を築くという「夢想」を実践的に示唆するために行なわれたことなのだ。ほとんど巫山戯ているとしか思えない内容の二本の「三分一一秒」によって、冨永昌敬は仙台の映画の友人たちの想いに応えようとしたのである。明日には「明日」が存在しているということ。無数の「三分一一秒」が「防波堤」にだって成り得ること。このふたつの事実を示すことによって。そう考えれば、監督と友人による「何かあったの?」「何でもない」の反復も、また別の意味を帯びてくるのではないか。 ここでようやっとスガの指摘に戻るが、ひとつ確実に言えるだろうことは、もしも「三分一一秒」という言葉の「無意味な美学化」と言える作業が為されているのだとしたら、それは「三月一一日」を「三分一一秒」に短絡的に変換することだけではなく、そうして現れることになった「三分一一秒」を殊更に問題化してみせることによって完遂されるのだということである。菅原睦子の文章には「三分一一秒」にかんする言及は一切ない。冨永昌敬が書いているように、それはいわば単なる思いつきでしかない。「三」と「一一」という数字=言葉には、何の意味もありはしない。もちろん「三月一一日」についての「三分一一秒」の映画というと、すぐに思い出されるのは、「九月一一日」をめぐって世界十一カ国の監督たちがそれぞれ「11分9秒1フレーム」の短篇を撮ったオムニバス映画『セプテンバー11』である。おそらく河瀬直美には、あの作品のことが頭にあっただろう。だが『明日』は違う。それはただ「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれる」ということなのだ。四十二本の「三分一一秒」は、無意味ではあるが美学化されてはいない。そこには「三」と「一一」という数字=言葉によって悲劇をシンボライズするという意図は存在していない。それはただ、誰かに撮ってもらえたらと願う、未だ見ぬ映画へのささやかなきっかけとして差し出されているだけなのだ。 スガ秀実の言う「「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化」は、その批判としての正当性、有効性を十分に認めた上で尚、それ自体も「美学的」であると私には思える。それは「三月一一日」から「三分一一秒」を抽出するという行為に対する趣味的価値判断であるからだ(「無意味」というのは言い換えれば、美しくない、醜い、ということだろう)。だが『明日』における「三分一一秒」は、要するに只の口実に過ぎない。四十一人の監督の誰ひとりとして「三分一一秒」に「意味」を感じてはいなかっただろう。けれども、この無意味で美しくはない「口実」がなければ、仙台短篇映画祭の菅原睦子は、依頼のメールを送ることは出来なかったのだ。
5。切り返しとオーバーラップ
『なみのおと』は、「仙台短篇映画祭」と同じく、せんだいメディアテークを拠点とする「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動の一環として、東京藝術大学大学院映像研究科によって製作された長篇ドキュメンタリー映画である。ともに同大学院を修了した濱口竜介と酒井耕の二人は、二〇一一年七月から幾度か三陸沿岸部を訪ね、六つのインタビューを撮影した。この映画では(『311』とは対照的に)被災地の光景は、まったく映されない。津波の跡も瓦礫も原発も登場しない。二時間半近い上映時間のほとんどは、自らの被災体験を話す人々を捉えた映像である。昭和八年の三陸大津波を体験した老姉妹、気仙沼の消防団員たち、かけがえのない親友を喪った初老の女性、石巻市議会議員の男性、津波で家ごと流されたが九死に一生を得た夫婦、相馬市で働く若い姉妹。それぞれ数十分の長さを持った各シーンの間に車での移動のショットが挟み込まれる以外は、他の要素は一切ない、シンプルな佇まいの作品である。 この映画は「オーラル・ヒストリー(口述による歴史)」の試みであるとされている。「この“語り”は、実際は過去や未来のためという以上に、今まさに起こっている「復興」の活動そのものなのではないだろうか、という気がしています。それは、瓦礫をただの瓦礫にしないための、個人と共同体の歴史を取り返す作業であるからなのです」(「作者のことば」山形国際ドキュメンタリー映画祭・東日本大震災復興支援上映プロジェクト「ともにあるCinema with Us」カタログ)。実際、全体としては淡々とした雰囲気を保ちながらも、だがしばしば抑えようとする感情が否応無しに溢れ出すこともあるインタビューイたちの話は、いずれも実感と今だ生々しい記憶によって語られているだけに、現在形の歴史性とでも呼ぶべき強度を備えている。 だが、それと同時に、この映画を観る誰もを少なからず戸惑わせることになるのは、インタビューの撮られ方である。通常のドキュメンタリー映画において、インタビュー場面は、基本的に長廻しで撮影するか、一連の語りを複数のカメラで撮影しておいて編集するという形が取られることが多い。だが、この映画では、まるで劇映画のように、いや、もっと精確に言うなら、まるで小津安二郎の映画のように、いわゆる「切り返し」が多用されているのである。 最初の老姉妹のシーンを例に説明しよう。インタビューイが複数居る場合、別々に撮影するか、横に並んでもらって話を聞くのが普通である。だが『なみのおと』では、二人は互いに向かい合って坐っている。つまり対話をしているように見えるのだが、にもかかわらず、二人をそれぞれ真正面から撮ったショットが細かく挟まるのである。だが二人の話は切れ目なしに続いている。対面する二者を正面から捉えた画面が交互に編集されることを「切り返し」という。これは劇映画においては特に珍しいことではないが、ドキュメンタリーでは奇妙な印象を与える。明らかにインタビューである筈なのに、あたかも緻密なカット割りが施されているように見えるからである。この奇妙さは、インタビューイが更に多い消防団員のシーンでは、より強調されることになる。また、インタビューイが一人しかいないシーンでは、聞き手を務めているらしき監督が対面して「切り返し」が行なわれている。 一体どのようにして、このような場面が撮られたのだろうか。推測の域を出ないが、おそらく各々のインタビューは二度(もしくはそれ以上)行なわれている。監督たちはまず普通にインタビューイに話を聞いて(二名以上の場合は個別にインタビューして)、その上で各シーンの構成をカット割りまで含めて或る程度準備してから、本番(?)の撮影に臨んだのだ。その際、インタビューイは、同じ体験談を二度以上することになるが、それゆえに個々の話は反芻され、整理されて、却ってリアリティを増しているのである。二名が対面するシーンでは、各々の真向かいからややずれた位置にカメラを据えて撮影したと思しきショットもあるが、しかし「切り返し」が引き絵になった時にはカメラは消えている。これは相当に計算して撮影していないと不可能なことである。 濱口竜介と酒井耕は、いずれも元々はフィクション映画を撮ってきた監督であり、『なみのおと』が初めてのドキュメンタリー作品である。「切り返し」という劇映画的手法の導入が意図的なものであることは明白だが、ではなぜ彼らはこのような(おそらくはかなり面倒な)方法をわざわざ取り入れたのだろうか。もちろん、まず第一に、人の顔を真正面から撮ることによって得られる美学的側面ということがあるだろう。この映画の感想をネットで幾つか読んでみたが、この点にかんする言及はやはり多かった。だが、表情をつぶさに映し出すということのみならば、ドキュメンタリーであれば「切り返し」を用いなくても出来ることである。だからむしろ、より重要なことは、カメラに、ではなく、生身の誰かに語りかける、誰かと語り合う、ということだったのではないか。インタビューはその本性上、問いと答えの応酬という形式を取る。だが問われる前から、インタビューイの内には、誰かに向けて語られるべき記憶の物語が潜在している。如何にしてそれを、出来る限りそれそのものに近い姿で掴み出すか。逆説的なようだが、劇映画的「切り返し」は、そのためにこそ召喚されたのだ。「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言ったのは森達也だが、その反対側には「フィクションは現実を晒す」という真理が存在している。『なみのおと』における「切り返し」は、いうなればフィクションとドキュメンタリーとハイブリッドである。先ほど、インタビューは二度以上行なわれたのではないかという仮説を述べたが、だからといって一度目が本物であり、二度目以降は演技ということではない。そうではなく、一度目から多少は演技であり、二度目以降にも真実は宿っている。『なみのおと』では撮る側も撮られる側も、そのことに意識的にならざるを得ない。ただカメラを回して質問を口にするだけでは、或いはカメラの前で自由に会話してくださいと求めただけでは、どうしても露わにならないことがある。それは「切り返し」のようなあからさまな作為の介入、フィクション性の導入によってこそ、画面に現れてくるのである。 これと似た感覚を、『311』の監督のひとりである松林要樹の単独作品『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』でも味わった。前回も触れておいたように、『311』のロケから東京の下宿に戻って間もない四月三日、松林は支援物資を届けるという友人の車に同伴して、ふたたび被災地に向かい、福島県南相馬市原町区を訪ねた。彼はそこで偶然に南相馬市議会議員の田中京子と知り合う。地震と津波による被害のみならず、福島第一原発から20キロ圏内に自宅がある為に避難所生活を余儀なくされている田中夫妻と南相馬市原町区江井地区の人々との交流は、思いがけない継続的な撮影へと松林監督を誘っていった。そうして一本の映画として出来上がったのが『相馬看花』である。 成立の経緯だけではなく、これはまさしく『311』の「続編」と呼ばれるべき作品である。『311』への「消化不良の感情」を隠そうとしていなかった松林監督が、自分なりの落とし前をつけようとした映画であると言っていい。田中氏の導きによって、震災と原発事故によって生活を根こそぎ損なわれた人たちとの幾つもの出会いがあり、彼は只管それをカメラに記録していく。それはやがて、この土地に深く刻印された、原子力発電所との、必ずしも望まれたわけではない共生の歴史=記憶を遡っていくことになる。「第一部」と題されているということは、当然「第二部」以降も予定されているのだろうし、事態は今現在も刻々と変化しているのだから、文字通りのドキュメントとしての役割を、この映画が担っていることは間違いない。だが私は、そればかりではなく、一編の「映画」として、『相馬看花』は紛れもない傑作であると思う。それは何よりもまず、この映画における「映像=イメージ」の複雑かつ繊細な用いられ方による。 『相馬看花』には、松林要樹が撮影したもの以外にも、複数の「映像=イメージ」が登場する。田中夫妻と親しくなった彼は、警戒区域への一時帰宅が認められた際に、居住者ではない自分は同行が許されないため、ビデオカメラを貸して撮ってきてもらうことにする。映画には田中氏の撮影による一時帰宅の一部始終が、ほぼそのまま取り入れられている。また、そのとき松林監督は、田中夫妻に自宅から一枚の写真を持ってきてくれるように頼む。それは原発から約15キロにある小高神社であげた夫妻の結婚式の記念写真である。まだ立ち入りが可能だった或る日、田中久治氏に桜を撮ってくれと言われて、その神社を訪れた折に想い出話を聞いたことがあったのだ。数十年も昔のモノクロ写真には、若かりし頃の田中夫妻と一緒に、すでに松林もよく知っている人達の姿が映っている。小高神社は、東京電力が原発の安全祈願を行なう所でもある。 結婚式の写真だけではなく、この映画には数枚の写真が画面に現れる。興味深いのは、それら写真の幾つかが、まず説明抜きにカットインやオーバーラップで提示されるということである。たとえば若き田中京子氏と子どもたちが写った写真は、最初に出てきた時には何であるかわからない。彼女の回想がその写真に記録された過去へと差し掛かると、ふたたび画面に写真がオーバーラップしてきて、ようやく観客はあれはこれだったのか、と納得することになるのだ。このようなカットバックならぬカットフォワードとでも呼ぶべき手法が、この映画では何度か使用されている。 もっとも印象的なのは、粂という老夫婦のエピソードである。足の不自由な妻のため、避難勧告が出てからも自宅に留まっていた二人を、田中氏と共に松林は訪ねる。水道も電気も止まった屋敷で、夫妻は炭で暖を取って生活していた。酒が足りないと話す粂氏に、次に来る時は一升瓶を持ってくると約束した松林は、ふたたび友人の写真家を伴って被災地を取材した折に、酒を土産に粂家を再訪する。粂氏は引退してから既に二十数年が経っているが、かつては福島第一原発の安全専任者として働いていた。帰りがけに写真家は夫妻を屋敷の軒先で撮影する。レンズに向かって穏やかに微笑む二人の背後に原発の鉄塔が見えている。それからまた暫く経って、粂夫妻は避難所に移っている。松林は写真を渡しに二人に逢いに行く。粂氏はとても喜んで、お返しだと言って自分のカメラで松林を撮る。だが現像されたその写真が画面に映し出されることはない。 このように『相馬看花』は、直截的なテーマとはまた別に、「映像=イメージ」と「見ること」をめぐる映画という側面を持っている。複数の古い写真や、作者とは異なる者による映像の意図的な挿入が、この映画に豊かな時空間的膨らみを与えている。それらはいずれも、いつかどこかで誰かが見た光景である。更には、素性がすぐにはわからないイメージのオーバーラップ/カットフォワードが、観客の「見ること」への意識を刺激する。そもそも題名からして「相馬で花を看る」という意味である。看ること。見ること。テーマとは別だと言ったが、しかし松林要樹にとっては、あの『311』の「続編」として、自分はいったい何を撮れるのか、撮るべきなのか、という現在進行形の内省と、南相馬の人々との親密なかかわりの中で、原発に蝕まれた土地の記憶=歴史への問題意識の深まりと共に、自然と導き出されてきたものであることも、また確かだろう。 『なみのおと』と『相馬看花』、二本の映画に共通しているのは、ドキュメントするためにこそフィクションが必要なのだ、という意識もしくは無意識である。「映画」に記録されているのは、常に既に嘗て「現在」であった「過去」であり、そうでしかない。だがそれが見られるのは常に「現在」である。だから「過去」を「現在」へと呼び戻すためには、その回帰に真の意味での切実さを与えるためには、何らかの仕掛けが要るのだ。それをフィクションと、ここでは呼んでいる。それは冨永昌敬の、一見したところ何とも不真面目な二本の「三分一一秒」に宿っていた誠実さとも響き合っている。そして私は、このあたりに「野蛮」へのヒントがあるような気がしているのだ。
6。算数・距離・測定
「群像」の五月号に掲載されていた大澤信亮の評論「出日本記」を読んで、あれこれ考えた。「言葉が出てこない。問いが定められない。何を考えても嘘になる。そういう状態が九ヶ月間続いた」という驚くほどに率直な「失語」の告白から、この文章は始まっている。
何が自分を立ち止まらせているのか、わかっている。未曾有の大災害という事件ではない。一人の他者だ。二〇一一年三月二十四日。福島の農家の方が自殺した。六十四歳の男性だった。三十年以上も有機農業を続けてきた人だった。そんな人が「もうだめだ」と自ら命を絶った。もう生きることが出来ないと。ここが出発点だと思った。 (中略)何かを書こうとすると、いつも男性のことが頭をよ���った。津波や地震で亡くなった方たちには、自然な同情も共感も抱けない私が、どうしてこの出来事にこうも囚われるのか。自殺と背中合わせの働くということ。そこに届く言葉が自分に言えるのか。そう考えてしまう。
このような述懐をナイーヴと取るか真摯と取るかは読み手によるだろうが、ここで自問されている「どうしてこの出来事にこうも囚われるのか」への答えは明らかだと思う。地震や津波は基本的には自然災害だが、農家の男性の自殺には間接的ではあれ下手人が居るからだ。撃つべき敵が特定されているからだ。だからここで言われているのは数万人の死者たちと一人の自殺者の対立ではない。ひとりの背後に無数の人々を見ているのである。だが敢てこのような、受け取り方によっては如何にも不謹慎な言い方を挑発的にしてみせることで、大澤氏は百二十枚に及ぶ自身の論考の発進力としている。だが同時にこういうことも言える。たとえば「東日本大震災の犠牲者は二万五千人。だが日本の毎年の自殺者は三万人」というような言表がある。この数字は正しいのだろう。しかし、このデータによって提示されているのは、数が多い方が相対的に深刻だということではもちろんない。当然のことである筈だが、私たちはしばしば、この点を見誤る。数が問題なのではない。数万人だろうが、たった一人だろうが、望まれざる死であったことには変わりない。二万五千よりも三万の方が多いという算数は、たとえ生真面目な心性に基づくものであったとしても、してはならない。世の中には、数えてはいけないことがあるのだ。 今回の地震は千年に一度の大地震だった。そういう出来事に対して普通の感覚だけで考えてはいけないと思った。千年に一度の出来事には、千年を超える思想だ。
こんなことを真っ直ぐに書き付けられるのが大澤信亮という批評家の個性であり、才能だとも思う。千年は「100年保存」の十倍、「あれから一年」の千倍である。無論こんな算数もしてはならない。ここで言われていることは、俺は「千年を超える思想」のつもりで書いてみせる、という個的な決意表明であって、それ以外ではない。だから私はひとりの読者として、その意気やよし、と思いつつ、この論考を読んだ。だが、その感想を述べるのは、ここでの目的ではない。千年と書いてあったから読む気になったわけでも、千年とあったのに読む気をなくさなかったのでもない。ただひとつ言っておきたいのは、次のようなことである。 震災後、百年後であれ、千年後であれ、自分が綺麗さっぱり居なくなってしまった後の「この世界」に向けて何事かを語るという仕草が、以前にも増して散見されるようになった。そしてそれらは多くの場合、或る種の「責任」の意識とワンセットで語られているように思う。しかし私は、こうなる以前から、そういった言説には微妙な違和感を禁じ得なかったのだ。それはまず第一に、百年後に向けて何かをすることと、「百年後に向けて何かをするべきだ」と語ることの間に横たわる断層が、どうしても気になってしまうからである。そこには欺瞞の萌芽がある。「自分が存在しなくなった未来」を云々したがる者ほど、実のところは「今」に強く拘泥し、責任感の披瀝の陰で、目先の利得に汲々としていることがあるのではないか。そして今度の出来事が、そのような者に都合の良い言質を与えたということなのではないか。私にはそう思える。断っておくが、大澤信亮がそうだというのではない。むしろ逆だ。「出日本記」を通読すれば誰にだってわかるように、大澤氏にはパフォーマティヴな戦略性がほとんどない。いや、戦略の有効性と限界を十二分に知悉した上で、敢て潔く毅然として勇ましくそれを捨ててみせている、というのが、彼の唯一のパフォーマンスと言うべきかもしれない。 先の引用のもう少し先で、大澤氏は平野啓一郎による「被災地への距離」と題された「被災地見学記」を取り上げ、批判している。自身の体験に照らして、平野氏の文章には、臭い、すなわち「潮の強烈な臭気と、瓦礫の下の死体の腐臭」の描写が存在していないことに触れ、「それは、主体に否応なく侵入してくる外部の経験を、氏の「書くこと」自体が遠ざけているからではないか」と大澤氏は述べる。
もし、書くということが「距離」を作るだけだとしたら、恐ろしいことだ。
「その距離は被災地と東京の距離以前に、作家と現実との距離のように思えた」。私は平野氏の文章を読んでいないので、この批判がどの程度当たっているのか、或いはまったくの言いがかりであったりするのかどうかは知らない。それよりも目に飛び込んできたのは「距離」の二文字である。 『震災とフィクションの“距離”』は、「2011年3月から9月の期間に15人の小説家が執筆し、期間限定で著作権を解除、転送自由のチャリティ作品として「早稲田文学」サイトで発表された16作品を一挙収録。並行して公開された英中韓3カ国語のバージョンと、執筆者たちによる対談・座談も同時収録(オビ文より)」された単行本である。参加している作家は、古川日出男(二編)、阿部和重、円城塔、福永信、芳川泰久、青木淳悟、松田青子、村田沙耶香、中村文則、木下古栗、中森明夫、牧田真有子、川上未映子、鹿島田真希、重松清の十六名。震災にかかわる小説アンソロジーとしては、古川、阿部、川上、重松の四人の執筆者が重なっている『それでも三月は、また』と並ぶものである。 個々の作品については、また後で触れることがあるかもしれないが、さしあたり私は、書名にもなっている座談会「震災と「フィクション」との「距離」」を、色々な意味で興味深く読んだ。「フィクション」には「言葉・日常・物語…」とルビが振られている。出席者は阿部和重、川上未映子、斎藤環、辛島デイヴィッド、市川真人。かなり長い鼎談で、さまざまな事が語られているのだが、たとえば「百年後」ということに対して、川上氏はこんな風に問うている。「たかだか三百キロ離れた福島のことを想像できなかったわけでしょう? 百年後のことを想像できる人がいると思う?」。
市川 それこそが、作家の責任なんじゃないのかな。百年後について、想像力を駆使して書けるじゃないですか、作家たちは。 川上 でも、想像力を駆使して書いたことは、結局、解決にはならないんじゃないですか。フィクションが寄り添うものだったり耐え難い現実の緩衝剤だったり、そういう役割はできても、そういう存在をつくることと、百年後の未来を想定していま現実的にどう振る舞うかを考えることは、似ていて違うことだと思うんです。
この座談会は二〇一一年六月三日に収録されたものなので、その後、意見が多少変わったことだってあり得るが、右のやりとりを経て、市川氏は、文芸評論家であり編集者の「読む者」としての立場から、関東大震災後の坪内逍遥の発言に批判的に言及し、今こそ「癒し」としての矮小な「私」性への逃避を是とすることのない「大きな作品」を読みたいのだと述べ、川上氏は「大きな話には大きな話にしか達成できないものがあって、小さいものには小さいものの役割がある」と躱しつつ、では「書く者」である自分は、小説によって何を成せるのか、という心境を具体的に語ってゆく。 大小はともかく、ここで「書くこと」と「読むこと」の両極から交叉的に測られているものが「距離」である。それは「作家と現実との距離」であり、出来事と「フィクション」を隔てる「距離」である。では、この「距離」は、果たして測定可能なのだろうか? 頑張れば踏破出来るのだろうか? もしも、書くということが「距離」を作るのだとしたら?
7。ベルリン・レクチャー
佐々木敦です。日本の、東京の、渋谷という街から参りました。 僕は三年前にも、ここでレクチャーをしたことがあります。そのときは日本の九〇年代以降のポップ・ミュージックについて、実際に音楽を掛けな���ら色々とお話しました。僕は複数の芸術・文化について文章を書いているのですが、しかし今日は、このイベントでただひとりの日本人スピーカーとして、やはり昨年の三月十一日以降の出来事にかんして語らないわけにはいかないだろうと思います。これから皆さんに幾つかの映像をお見せします。いずれもおそらく海外ではまだあまり知られていない、日本の新しいクリエイターによる作品です。まず最初は、ドキュメンタリー映画作家松江哲明による長篇映画『トーキョードリフター』の予告編です。
(『トーキョードリフター』予告編、YouTubeによる上映)
この映画は、どういう作品かと言いますと、前野健太というシンガーソングライターが、昨年の五月の或る日の夕方から翌日の早朝にかけて、東京のあちこちを移動しながら、ギターで弾き語りをする、その模様をひたすら記録した、ただそれだけの、たった一晩のドキュメンタリー映画です。 実はこの作品は、以前に同じ組み合わせで作られた映画の続編ともいうべきものです。二〇〇九年の一月一日に、松江監督は、東京の吉祥寺という街を、前野健太がギターで弾き語りをしながら歩き続ける様子を、八〇分間ワンカットで撮影し、一本の映画として発表しました。『ライブテープ』という作品です。『トーキョードリフター』は、それと同じように、やはり前野さんが歌うだけの映画です。 松江監督は、日本で「セルフ・ドキュメンタリー」と呼ばれている、従来のドキュメンタリー映画が題材としてきた社会的、あるいは政治的な主題というよりも、自分や自分の周囲のささやかな事象にフォーカスして映画を撮る、ここ数年の新しいドキュメンタリー作家たちの潮流の中心人物といわれている人です。予告編の中で松江さんが話していたのは、こんなことです。ドキュメンタリーを撮る者ならば、なぜ福島に行かないのか、行くべきではないのかと、た��さんの人から何度も言われてきた。だが、福島を撮ることだけが、ドキュメンタリー作家としての使命を果たすことなのだろうか。自分はむしろ、この暗い東京を、映画に記録しておきたいと思ったのだ。 ご存知の方もおられるかもしれませんが、福島第一原発の事故によって、電力供給が不足するとのことで、東京では、かなり大がかりな節電を行なわなければならない状況が生じました。その結果、たとえば渋谷という街の駅前、ハチ公前というのですが、そこはもともと交叉点に位置するビルに設置された複数の屋外大型ビジョンに絶えず映像が映し出されており、色とりどりのイルミネーションに彩られた、大変に明るく賑やかな場所なのですけれども、節電によってほとんどの照明が落とされて、非常に暗くなっていました。渋谷に限らず、東京の繁華街は、この頃はどこも暗かった。 そもそもヨーロッパに較べると、東京の夜は明る過ぎるので、多少明るさが減ってもいいような気もしますが、ともあれ以前に較べると、異常と呼んでもいいほどの暗さであったわけです。この映画は、そんな暗い東京の姿を捉えています。節電対策がほぼ解除されて、以前の明るさが戻ってきたのは、九月半ばのことでした。つまり半年間くらい、東京は暗かった。この映画が撮影された五月の段階では、まだ人々は暗さに慣れていなかったのではないかと思います。しかもこの日は雨も降っていて、全体として、うら寂しい感じを受けます。松江監督は、この暗い東京を撮っておきたいと考えたのです。 この映画は昨年の十二月に劇場公開されましたが、僕もそのときに見て、大変に驚きました。なぜなら、東京がこんなに暗かったということを、僕自身、いつのまにか忘れかかっていたからです。明かりが戻って来てから、まだ三ヶ月しか経っていないにもかかわらず、暗い東京の記憶は早くも薄れかかっていた。いや、もちろん覚えていたのですが、映像で見ることによって、あらためて強い衝撃を受けたのです。僕は渋谷に事務所を構えているので、日々の変化は目の当たりにしていた筈なのですが、それでも非常に驚いた。このことだけでも、この映画には存在意義があると思います。 予告編の最後で、松江監督はこんなことを言っています。「映画って、どんなにネガティヴな状況でも、もう撮った時点で、絶対ポジティヴになるんですよ」。この作品は、夜が明けて、雨が上がって、朝を迎えたところで終わります。そこには、明日は必ずやって来る、というメッセージが込められているようにも思えます。これを単なる楽観主義と言ってしまえば、それはそうかもしれません。実際、この作品は松江監督の以前からの支持者の間でも賛否両論があるようです。でも僕は、この試みは、とても貴重なものだと思います。 去年の三月十一日以後、日本のアーティスト、芸術家たちは、それぞれにショックを受けて、自分が属しているジャンルにおいて、さまざまな形で、このかつて体験したことのない事態に応接しようとしてきました。それは、僕がかかわっている分野だけでも、音楽、映画、美術、演劇、小説など多岐にわたっています。僕は、そうした沢山の表現を、必ずしも自分から進んで、ということではありませんが、結果として数多く体験、鑑賞してきて、色々なことを考えるようになりました。 当然、よいと思えるものもあれば、これはどうかなと思うものもあります。中には、あの日以前の自分の問題意識の欠落に対して、誰に向けてということなのかはわかりませんが、一種の言い訳をしているかのように思える表現もありました。僕はそれは欺瞞だと考えざるを得ない。その中で、僕が自分として好ましいと思えたものは、あの一連の出来事、地震、津波、原発事故というものを、必ずしも直截的に扱ったものではない、ことによると、一見する限り、ほとんど無関係にさえ見えるようなものが多かったのです。それは、どういうことなのでしょうか? ここで、次の映像を見ていただきます。
(『福島でゴドーを待ちながら』、YouTubeによる上映)
いまご覧になったのは、かもめマシーンという、まだとても若い劇団による公演『福島でゴドーを待ちながら』の抜粋です。チェーホフの『かもめ』と、この国の偉大な劇作家ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を合体させたユニークなネーミングですが、まだ日本でも知名度が高いとは言えません。出演者一名、観客一名、たった五回の公演ですとか、オーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクの『雲。家。』をビルの屋上でひとり芝居で上演するとか、実験的なアプローチを取ることが多いカンパニーです。 ビデオにもあったように、彼らは去年の八月に、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を、福島第一原発から20.5キロの路上で上演しました。現在も半径20キロ圏内は警戒区域となっており、法律で立ち入りを禁じられ、自宅のある住人たちも戻ることが出来ません。彼らはそのぎりぎりの場所で、演劇の公演を行なったのです。 彼らはのちに、この公演のドキュメント・ブックを制作しています。それによると『ゴドー』という選択には、二〇〇三年にスーザン・ソンタグが、サラエヴォで『ゴドー』を上演したということが、ひとつのインスパイアになっていたようです。また、それだけでなく、この戯曲の内容、ゴドーという男をずっと待っているのだが、いつまで経っても現れない、という設定が重要であったのだろうとも思います。 しかしドキュメント・ブックによれば、この公演はいわば思いつきのノリで実行されたようです。『ゴドー』は割と長い戯曲で、そのまま上演したら二時間を優に超えてしまうだろうと思いますが、かもめマシーンの主宰で演出家の萩原雄太は、登場人物の数を三人に減らして(もとは五人)、更に台詞を極端に削って、約三十分の作品に切り詰めました。上演場所は、とにかく福島まで一台の車に同乗して行って、それからロケハンをして決めたそうです。 公演といっても、このようなものですから、とにかくやること自体に意義があるのだと考え、観客ゼロであっても上演はするつもりで、ほとんど告知もしなかったらしいのですが、当日になると、なんと東京からたったひとりだけ観客がやってきたそうです。台詞を削ったと言いましたが、それどころか実際には、これはこの戯曲でもっとも有名なくだりであるとは思いますが、ウラジーミルとエストラゴンの「もう行こう」「ダメだよ」「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」というやりとり、これが何度か繰り返される以外は、ほぼ完全に無言劇にしてしまったそうです。そうして一度きり上演された様子が、先ほどの映像です。三人の若い役者は、ただぼんやりと突っ立っているように見えますね。 20.5キロというのは、放射線量的には、おそらくはかなり高い地域です。そんな危険な場所まで東京からわざわざ行って、まだ二十代の役者たちが、ひとりしか観客の居ない、もしかしたら誰も観なかったかもしれない芝居を演じる、この明らかに無謀と言ってよいだろう試みは、ひとりよがりで自己満足的な行為かもしれません。いえ、それは確かにそうなのです。松江哲明は、敢て福島には行かずに、震災以後の問題を描くことを選んだ。反対に、かもめマシーンは、福島に行かなければならないと考えた。それは彼らが演劇という営みによって、この出来事に応答しようとするためには、どうしても必要なことだったのです。両者のアプローチは対照的ですが、しかし動機の部分、なぜ映画を、演劇をやるのか、という根っこのところに存在しているものは、実はかなり近いのではないかと思うのです。 先ほども述べたように、僕はあの日以来、数多くの「震災以後の表現」に接してきました。思うに、それらの表現に潜在している問いは、次のようなものだと思います。今、あの日以後である今、わたしたちに「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」。これらの問いへの答えは、それぞれに誠実であったり、真摯なものであったりします。だが、中には僕の目には欺瞞に映るものもあります。それは、これらの問いが、自らの内側から発されているというよりも、その者と外界との関係というか、社会とか公とか呼ばれているようなものから暗に強いられている、この出来事にダイレクトに応じる責任感の披瀝を求められている、そう思うがゆえに提示されていると思える場合です。 常々思うことですが、芸術というものは、本来的には、究極的には、あってもなくてもいいものです。そしてしかし芸術は、それでも存在し、作り出され、生まれてくるものであり、それによって、ある人の生そのものが救われたり、大きく変わったりすることだってある、そういうものだと思うのです。ただ単純に、震災以後の状況に対して、意味のあることをしたいと考えるのであれば、募金やボランティアをすればいいのです。その方が有意義だし実利的です。だが、それはそれとして行なったりもしつつ、それでも芸術の名において何かをするというのであれば、それは自分だってこの問題について真面目に考えているのだというアリバイ工作のようなものでなくてもいい筈です。あってもなくてもいいものであるからこそ、それでも芸術を為そうとするからには、「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」という問いよりも、むしろ「何をしないではいられないのか?」という問いの方が重要なのではないかと僕は思います。松江哲明は暗い東京を撮らずにはいられなかった。かもめマシーンは福島の路上でベケットを上演せずにはいられなかった。どちらも、誰に求められたのでも強いられたのでもなく、しかも結果として自分にとって益や誉れにはならないかもしれないような危うい試みであるのに、彼らはどうしてもそうせざるを得なかったのです。そのことに僕はむしろ本当の意味での誠実さを感じます。しなくてもいいのにしないではいられない、ということ。これこそが僕は信用に足るものだと思っています。 それでは三つ目、先の二つとはまた趣きの異なる作品を見ていただこうと思います。東京デスロックという劇団の『再/生(RE/BIRTH)』という作品です。東京デスロックは、多田淳之介が主宰、演出を務めるカンパニーです。『再/生』は、スラッシュのない『再生(REBIRTH)』として二〇〇六年に初演された作品の改訂版です。しかし、このふたつの作品は、結果として大きく違ったものになっています。ではまず、最初のヴァージョンの『再生』から御覧ください。
(DVDを再生しながら)照明が暗めの部屋に若者たちが集って、食べ物をつまんだり飲み物を呑んだりしながら、他愛のない話をしています。一見すると、ホームパーティ、いわゆる呑み会の光景です。やがて彼ら彼女らは音楽に乗ってダンスをし始めます。ドイツでも知っている方が多いと思いますが、日本を代表するテクノ・ユニット電気グルーヴのヒット曲「Shangri-La」が爆音で流され、若者たちは激しく踊り狂います。そして、こういう展開になります。 (早送りして)踊っていた若者たちが突然、一人ずつぶっ倒れていって、遂に全員が床に倒れ伏します。そう、実は、これは集団自殺の場面だったのです。これだけでもショッキングですが、この作品の凄いところはこの先です。 (更に早送りして)ふたたび音楽が流れ出すと、死んでいた筈の若者たちはむくりと起き出して、劇のいちばん最初から、まったく同じ芝居を繰り返します。『再生』というタイトルは、ここからきています。そしてやがてまた踊り出し、音楽が最高潮に達したところで、床に突っ伏して皆、死ぬ。そしてまた音楽が始まると共に最初のシーンに戻ります。この作品は、この一連のプロセスを、精確に三度、反復する、というものです。
『再生』は、舞台上での死は常に虚構の死でしかないという、演劇という表現が持っている絶対的な条件を逆手に取った作品だと、まずは言えます。また、こちらの方がより重要だと思いますが、繰り返しも三度目になると、毎回、全力で踊っていた役者たちはさすがに疲れてきて、死んでいる演技をしなくてはならないのに息があがってしまい、虚構の死がより強調されてしまう。ここには、演劇という一種の反復表現に潜むアポリアが垣間見えています。僕は以前、或る本で、この作品について分析したことがあります(『即興の解体/懐胎』)。多田淳之介は、このように、演劇を根本から凝視め直し、批判しようとするユニークな作風で知られています。では、昨年の七月に初演され、今年の三月に早くも再演された『再/生』では、どのように変わったのでしょうか?
(DVDを再生しながら)最初に女優がひとり舞台に出てきて、観客にこう語りかけます。「今は、幸せについて考えています。そもそもなんでそんなこと考えて、考え始めたのかというと、ずっと前から考えていたような気もするんですが、考え始めたきっかけといえば、あるとき、といってもいつだったかもうわからないんですが、過去のあるときのわたしは、幸せではなかった、と思ったんですね。過去のあるときのわたしは、幸せじゃなかった、と思って、じゃあそれじゃあ今、わたしは幸せなのか、という逆説?、がふっと湧いて来たのが、そもそものきっかけといえば、そうです」。この台詞はリアルタイムで録音されていて、すぐに再生されます。女優はアルカイックな微笑みを浮かべながら、今しがた発したばかりの自分の声を黙って聞いている。そしてそれもまた録音されていて、再生される。そうしているうちに、他の役者たちが現れて、音楽が流れ出し、彼ら彼女らは踊り始めます。しかしそのダンスは『再生』とは違って、きわめてアブストラクトというか、なんとも奇妙な踊りなのです。こんな風に。 (早送りして)いま流れているのは、日本で非常に人気のあるバンド、サザンオールスターズの「TSUNAMI」という曲です。これは昔の曲ですが、昨年の三月十一日以降、日本ではよくあることなのですが、一時的にテレビやラジオ等でのオンエアが自主規制されました。見ていてわかると思いますが、役者たちは奇妙なダンスを踊りつつ、唐突に床に倒れ、また起き上がるという仕草を繰り返しています。全員バラバラに踊っていますが、そこだけ共通している。そして何曲かを経て、Perfumeの「GLITTER」が始まります。Perfumeは中田ヤスタカという天才肌のプロデューサーが手掛けている三人組の人気女性ユニットで、三年前のレクチャーでも紹介しました。アップテンポのエレクトロ・ポップが大音量で流れる中、ダンスもヒートアップしていきます。 (早送りして)曲のラストで、役者たちは全員、床に倒れて動かなくなります。しかし暫くすると、曲が最初から再生され出して、彼ら彼女らは起き出して、また奇妙なダンスを踊り始める。やがて音楽は盛り上がって、全員が倒れる。これが何度も繰り返されます。つまり『再/生』は『再生』とはほとんど別の作品と言ってもいいと思いますが、ここだけは同じなのです。音楽も違うしダンスも全然変わっていますが、この反復という方法だけは、前作を踏襲している。僕は『再/生』を実際に劇場で観ましたが、一曲丸ごとフルに踊って、死んで、すぐにまた踊り出すという反復は、『再生』以上にハードなもので、何度目かになると、役者たちは息も絶え絶えになっていて、ほんとうにこの場で死んでしまうのではないかと心配になるほどでした。しかし、また曲が流れ出すと、彼ら彼女らは必ずまた起き上がり、奇妙なダンスを始めるのです。上演が終わったとき、役者たちは汗だくでした。僕を含む観客は、彼ら彼女らに惜しみない拍手を送りました。実際、僕は、涙が出るほど感動していたのです。しかし、この作品のどこが、それほど感動的だったのでしょうか? 僕は『再生』から『再/生』へのアップデートは、二〇一一年三月十一日に起こった幾つかの出来事と、その後に生じ、今なお続いているさまざまな出来事と、無関係ではないと思います。倒れて死んで生き返る、その機械的でやみくもな反復という要素において、二作は繋がっている。二〇〇六年のヴァージョンでは、それは集団自殺を示唆したものであり、また演劇へのラディカルな批判を含むものだった。 しかし去年の夏に上演された『再/生』になると、描かれていることは更に抽象化され、ほとんど演劇というよりもパフォーマンスのようなものになっている。でも、僕はこれはやはり演劇だと思うのです。単なるナンセンスで巫山戯た作品のように思われる方も居るかもしれませんが、ここには間違いなく、あの日以後のわれわれの生と、そしてわれわれ以外の人たちの数多の死に対する、演劇という芸術からの応答が存在していると僕は思います。倒れて死んで生き返る、倒れて死んで生き返る、というひたすらな、ひたむきな反復が、役者たちの酷使される身体によって演じられることによって、多田淳之介という人が、いったい何を表現しようとしたのか、そのことをよくよく考えてみなくてはならない。 東京デスロックの『再/生』は、僕が出会ってきた「震災以後の表現」の中でも、際立って印象的な作品でした。もっとも感動した作品と言ってもいいと思います。確かに、ここには明確な問題提起や、わかりやすい主張はありません。しかし、真顔でストレートに語ってみせている者が真にシリアスであるとは限らないのと同様に、一見すると迂遠だったり無関係とも思えるような表現の内に、切実なメッセージが隠されていることもあると思うのです。 以上、駆け足で、三つの作品を見てきました。僕の考えは、おそらく日本人の中でも、また芸術や文化に携わる者の中でも、かなりマイナーなものかもしれません。しかし、僕は敢て、このドイツという特殊な場所で、こういう話をしたいと思いました。ご清聴を感謝します。ありがとうございました。
8。ベルリン・レクチャー補記
前節は、五月五日にベルリンの劇場HEBBEL AM UFER(HAU)で催されたフェスティバル「APOCALYPSE NOW (AND THEN) ーTHE END OF THE WORLD IN POP CULTURE」で行なった講演の採録である。いささか大仰なタイトルだが、フェス全体のコンセプトやプログラムの内容にかんして、私はほとんど知らないままだった。正直に言っておくなら、聴衆はけっして多くはなかった。一時間足らずのごく短いレクチャーであったし、やや舌足らずなところもあると思うので、以下に幾つかの事柄を補足的に記しておきたい。 私のレクチャーはこの日の二つ目のプログラムで、その前に話したのはドイツ人アーティスト、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニだった。二人は長年、チームで活動を続けており、札幌市立大学准教授として日本に長期滞在したこともある。私は以前、東京・初台のインターコミュニケーション・センター(ICC)等、幾つかの機会に、二人の展示を観たことがあった。ICCでの《ニーチェが洗礼を受けた教会》というインスタレーションは、かなりミスティックな作風だったが、二人は一方で、きわめてアクチュアルな問題意識に沿った映像作品も手掛けている。長崎県の端島=軍艦島を題材とする《サヨナラ・ハシマ》や、成田空港拡張反対運動を描いた《成田フィールド・トリップ》など、日本で制作された作品も多い。 二人は昨年の九月から年末にかけて京都に滞在し、原発事故にかんする一連の取材を行なった。レクチャーは、そのインタビュー映像の一部や、福島から一時避難してきた若い主婦が京都の街頭でマイクを握って脱原発を訴える様子、渋谷の駅前に貼られた東北地方への観光キャンペーン・ポスターの映像(私が自分のレクチャーの始めにわざわざ「渋谷から来た」と言ったのは、先に渋谷の光景が映されていたからである)、あるいは黒澤明監督のオムニバス映画『夢』に一篇で、富士山の噴火と原発の爆発が描かれるカタストロフィックな「赤冨士」というエピソードなどを上映しながら行なわれた。二人の明確にアクティヴィスト的なスタンスからすると、私が用意した三つの作品は、ややもすればなまくらなものだと感じられたかもしれない。 二つのレクチャーの後、これまたごく短い時間ではあったが、ニナとマロアン、男性の評論家と女性のモデレータ(いずれも名前は忘れた)、私の五名でパネル・ディスカッションも行なわれた。こうした場のパネルにありがちなことだが、やはり議論は特に深まることなく散漫なまま終わってしまった、という印象だったが、ニナとマロアのどちらかが話していたことで(パネルは録音しなかったので記憶を頼りに書いているのだ)、日本の若いアーティストたちは、ダイレクトにこの問題を扱うことを避けているのではないか、という感想があった。それはそうかもしれない。だが、そうとばかりも言えないし、私が���介した『トーキョードリフター』『福島でゴドーを待ちながら』『再/生』は、いずれもけっして避けているのではない。むしろ、かくのごときあり方こそが、事態に真正面から全力で向き合おうとした結果なのだ。だが、日本の現状に深い知識と理解を持ち、初対面の私に対しても終始すこぶる感じの良かったニナとマロアンにさえ、私が言いたかったことが、どの程度ちゃんと伝わったのかはわからない。何しろ日本人相手にだって、しばしば、あまりわかられてはいないのではないかとも思っているからだ。 それは、詰まるところ、こういうことだ。どうせ言いたいことは変わらないので、以前に書いた文章の一部を、そのまま引用する。「あれだけの出来事があったのだから、ニッポンのありとあらゆる表現は、否応無しに、意識するとしないとにかかわらず、大なり小なり、何らかの影響を受けることになるのは間違いない。一見まるで無関係無関心に思えるものであったとしても、けっして「あの日以後」であることから逃れられてはいない。むしろ、あからさまにそのことを問題にしているものよりも、もしかしたら影響は深刻かもしれないのだ。「あの日以後」を自分なりに受け止めて、内面化し、これから自分がやっていくことに繋げてゆこうとすることと、そのことを他者に対して公的に宣言することのあいだには、やはり大きな違いがある。どうして、わざわざ問いを口にしなければならないのか。それは問いに答えようとする以前に、すでに一種のパフォーマンスなのではないか。そう思うと僕はそこに微かな欺瞞の芽を感じ取ってしまう。しかもそれは、いまや或る絶対的な正しさによって保証されているパフォーマンスであり、真っ向から批判することが、どうにも許されないような欺瞞なのだ」(「「音楽に何ができるか」と問う必要などまったくない」、季刊アルテス1号)。 ことによると、いや、間違いなく私は、この「欺瞞」ということに、おそらく必要以上にこだわっているのだろう。それは認める。だが、私が批評を生業とする者の端くれとして、自分の役目というと大袈裟なようだが、実際そう思っているのは、「以後」であることに、はっきりと自覚的な表現よりも、ほとんどそのようには見えなかったり、真面目にやっているとは思えなかったり、表現者自身でさえ、その意味をよくわかっていなかったりするような試みや営みの中に、他ならぬ「以後」の徴を、その刻印を、その傷を読み取っていくことこそが、いまや必要なのではないか、ということなのだ。なぜなら、いずれにしろ、すべては「以後」なのだし、そうであるしかないのだから。避けるも避けないも、逃げるも逃げないも、望むと望まざるとにかかわらず、われわれはあまねく「以後」を生きているのである。省みるまでもなく、これが端的な事実なのだ。だとすれば、殊更にそのように標榜することはなくても、しかし実は「以後」を全身で受け止めてしまっている、そう思える表現を、繊細かつ大胆に、時には無理にでも見出してゆくことの方を、私はやりたい。それは「以後」の無意識を探ることにもなるだろう。 毎年、秋から冬にかけて、池袋近辺を中心に催されている舞台芸術のフェスティバル「フェスティバル/トーキョー」の昨年度「F/T11」のドキュメント・ブックが送られてきた(私も寄稿している)。F/Tでは会期中に何度かシンポジウムが行なわれるのだが、その内の一つ、宮台真司、黒瀬陽平、鴻英良(司会)とのパネルにおいて、宮沢章夫が、次のような発言をしているのを読んだ。
われわれが目にしている表層に演劇があるわけではない。その向こう側に描くべき対象があるから、目の前に黙っている人がいても、僕たち��そこに何か別の言語が出現していると考えます。ですから僕は「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」とは考えません。僕は、そこに立つ人の内面より、その表層的なシルエットがどんな劇言語を発するか、それによって空間がどう変化するかを知りたいし、それが、僕が舞台上で、何かを表現することなんだと思います。 (「日本・現代・アート〜「終わりなき日常」の断絶から」)
これは「演劇」にかんしてだけのことではないだろう。別の芸術、別のジャンルをここに嵌め込んだとしても、宮沢氏の言っていることは正しい。むろん「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」がすべてよくないということではない。ただ、それはあやまちも生むこともあれば利用されることもあるということは知っておかなくてはならない。そういうことだ。 或る芸術、或る表現が、私たちの前に示されるとき、それはいずれにしろ「表層」として現れる。だがしかし「表層」が只の表層に留まり切ることは、人間に想像力と思考力がある限り、あり得ない(だからこそ、かつて「表層批評」なるものは力を持ったのだった)。ひとは必ずそこから意味を引き出す。それがどんな意味であれ。しかし、ならば「表層」の向こう側に鎮座する「意味」から、その表現、その芸術が生まれてきたのかというと、そうとは限らない。まず、どこからかどうしてか、ふと、或る「表層」が出現し、しかし如何なる理由でそれが出現したのか、それが何なのか、誰にも理解できず、それがどのような「意味」を持っているのか、次第にわかってくるのは、誰か他者へと送り届けられてから、ということだってある。こんなことはわざわざ言うまでもない大前提である筈だが、いつのまにか周りを見渡すと、創造や表現をコミュニケーション・ツールとしてのみ考え、そうであるからには誤解抜きに十全に伝わらなくてはならないとする、一種の神経症めいた感覚が蔓延しているようにも思えるのだ。「表層」に、ありうべき「意味」すなわち「語らなくてはいけないこと」を何もかも染み込ませずにはいられない作り手の心性には、生真面目さとともに、弱さと疾しさが仄見えている。それは強さと責任感を装うこともある。 「震災以後の無意識」は、あらゆるところにある。それはわれわれ全員を覆っている。ありとあらゆる芸術表現は、まるでそうは見えなかったとしても、その影響下にある。たとえ「以前」と少しも変わっていなかったとしても、そこには変わらなさという論じられるべき問題があるのだ。そう考えるならば、「以後」にかかわる批評の対象は、視界と同じだけのひろがりを持ってゆくことになるだろう。 ベルリンのレクチャーで、私が「何をしないではいられないのか?」が重要だと述べてみたのは、あってもなくてもいいのだが、しかし不断に生み出されている芸術と呼ばれる営みは、つまりは別にしてもしなくてもいいものなのだが、だからこそ、やるからには何らかの強い動機づけがあって欲しい、パブリックな視点からしたら、取るに足らないような個人的な動機であったとしても、それが切実なものとして迫ってくれば、そこには必然性が生じる。そのような必然性こそが試されているのだ、ということを言いたかったのである。それはささやかなものであるかもしれないが、しかし当人にとっては、けっして譲ることのできないものでもある。自分でもよくわからないが、どうしてもそうしないではいられない、ということ。必ずしも結果を見越して為されるわけではないそれは、いわば実験である。そんな「以後」の「実験」の数々を、私は見届けたい。 ところで、このように論を繋いでくると、お前はそうやって「以後」というタームをやたらと述べ立てることで、何かを語ったつもりになっているようだが、そのような「以後」の強調こそが一種のフレームアップであり、お前が忌み嫌う「欺瞞」を招き寄せることにもなっているのではないか、という物言いがつけられるかもしれない。さんざん「以後」的な振る舞いをした者からそう言われるのだとしたら噴飯ものだが、しかし「以後」という問題設定について、その有効性をはかるところから、より踏み込んだ精査が必要であることは確かだろう。「以後」というからには「以前」があるのである。いや、むしろ「以後」によって「以前」は形成される。次回、私はこのことを、何篇かの小説を取り上げて論じてみたいと思う。
9。「以後」との遭遇
今、あなたが目にしている「文學界」には「二〇一二年八月号」と記されている筈である。だが、この号が出るのは八月にはまだ一ヶ月近くある七月七日であり、私がこれを書いているのは六月の二十日過ぎのことだ。前に町田康の「四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いている」という文を引用したが、どういうわけかは省くとして、雑誌にはこのような慣習があり、したがって「一月号」とあるならば、それはおおよそ前年の十一月下旬に入稿されていることになる。 ということは、単行本の奥付に「初出「群像」2011年1月号〜2012年1月号(2011年8月号を除く)」とある多和田葉子の『雲をつかむ話』は、実際には二〇一〇年十一月から二〇一一年十一月にかけて入稿されており、「文學界」の「二〇一〇年一月号〜二〇一一年十二月号」に連載された保坂和志の『カフカ式練習帳』は、二〇〇九年十一月から二〇一一年十月にかけて書き継がれていたわけである。もちろん連載小説だからといって、毎月の入稿時に合わせて書かれたとは限らない。何回分か纏めて執筆されていたり、実は連載開始前に全て完成していたということだってありえる。けれども、執筆期間のある日以前には絶対に書かれ得なかっただろう言葉がそこに読まれる場合、ひとつづきの小説の内に、時間の切れ目のようなものが挿し込まれているさまを、われわれ読者は目撃することになる。 『雲をつかむ話』は、近年の多和田葉子の長編小説の例に漏れず、先の展開の予測がまったく不可能な、奇怪にして優美なロマネスクであるが、全十二章の最後から二番目のチャプターの終わりがけ、やや唐突に、次のような記述が現れる。
地球の一部ではあっても、ある国の一部としてすぐに受け入れられるとは限らない。仙台からわざわざバンコクに飛んで、用もないのにしばらく滞在してからロンドンに飛んだのも、疑われないようにと用心を重ねた結果だった。わたしは欧州連合のパスポートを持っているわけだから、すっとパスポート審査をパスできるかと思えば、向こうはわたしの顔をじっと見てパスポートの出生地の欄に「東京」と書かれているのを発見して眉をひそめ、「アジアですね」と注意深く言う。これが第一の罠だ。出生地が東京ですね、と言うのでもなく、今バンコクから来たんですね、と言うのでもない。アジアという場所があるわけではないのに、わざと曖昧な言葉を使って泳がせて尻尾を出させて捕まえようとしているのだ。
語り手の「わたし」は、��行機から降りて入国手続きをしようとしている。この章は、『雲をつかむ話』という極めて謎めかした小説が、一種の種明かしへと急速に収斂していくパートであり(尤も種が明かされるからといって謎が解けるとは限らない)、さながら探偵小説のような、或いは訝しい夢のような暗合に満ちている。しかし、このパスポートをめぐる挿話には、それらとはまた違った、妙に生々しい不穏さが纏わり付いている。「パスポート審査官の目が成田のスタンプにとまったのが分かった。眉が寄せられ、わたしを見る目が豹変した」。ああ、そういうことか。やはりそうなのか。
案の定、制服の女性が二人すぐにあらわれた。身体が触れないように左右からわたしを連行する二人の緊張した表情には、哀れみのようなものも混ざっていた。Rと書かれたドアの前まで来ると、英語で書かれた説明書を持たされ、部屋には一人で入るように言われた。中には機械があって、どのようにその機械を使えばいいのかは説明書に書いてある、と言うのだ。読まなくても分かる。身体に放射性物質がついていないか調べる機械なのだろう。一人その部屋に入れば、外から鍵をかけられてしまうかもしれない。しかも調べた数値は外からしか読めないようになっているかもしれない。そしてもしも数値が高かった場合は監禁されて、その後いったいどうなるのか。
『雲をつかむ話』の「わたし」は、長年ドイツに住む日本人の小説家で、日本語とドイツ語の両方で作品を発表している。数年前にハンブルグからベルリンに転居した。最近は学会や講演でアメリカに行くことも多い。つまりは、限りなく「多和田葉子」に近い人物なのだが、しかしこの小説が、いわゆる「私小説」とは似て非なる、いや、似ても似つかぬものであることは、読めばわかる。だが、虚実というより虚に虚を織り重ねてゆくかのごとき幻惑的な語り/騙りのなかで、この箇所だけが、陳腐な表現を許していただけるなら、無闇とリアルなのだ。無論、作者である「多和田葉子」が現実に同様の体験をしたのでは、などと言いたいわけではない。そうであろうがなかろうが、読者には関係のないことである。しかし、このシーンが「二〇一一年三月十一日」以前に書かれていなかったことだけは間違いない。そしてこの端的な事実は、「人は一生のうち何度くらい犯人と出逢うのだろう」という魅力的な一文によって開始され、「わたし」が思い出すままに時間と空間を自在に経巡ってゆくこの小説の、フィクションとしての臨界点を露わにしているように思えるのだ。 ところで、これと酷似した場面を、多和田はアンソロジー『それでも三月は、また』に書き下ろした短篇「不死の島」でも書いている。
パスポートを受け取ろうとして差し出した手が一瞬とまった。若い金髪の旅券調べの顔がひきつり、唇がかすかに震えている。声を出すのは、わたしの方が早かった。「これは確かに日本のパスポートですけれどね、わたしはもう三十年前からドイツに住んでいて、今アメリカ旅行から帰ってきたとこです。あれ以来、日本へは行っていませんよ。」そこまで言って言葉を切り、それから先、考えたことは口にはしなかった。「まさか旅券に放射性物質がついているわけないでしょう。ケガレ扱いしないでください。」受け取ってもらえないパスポートを一度手元に引き戻して、今度は永住権のシールを貼ってあるページを開いて改めて差し出すと、相手はふるえる指先でそれを受け取った。
言葉遣いは更にリアルで、ますます実際の体験談のような気がしてしまうが、しかし実はこの小説の舞台は二〇二三年なのだ。掌編というべき「不死の島」が描く「日本の未来」は、おそろしくグロテスクなものである。二〇一三年に天皇主義者による脱原発クーデターが起こり、それがきっかけで勃発した政変の果てに日本政府自体が民営化され、すべてが経済合理性と隠蔽体質に覆われる。放射能汚染に対する疑惑と忌避もあって、日本国は世界から孤立してゆく。二〇一七年に「太平洋大地震」が起こったが、すでに日本への渡航は途絶えていたため、それでどうなったのかはわからない。二〇二三年、日本に密航してきたポルトガル人の旅行記が出版される。それによると、二〇一一年に福島で被爆したとき百歳を越えていた老人たちは「死ぬ能力を放射性物質によって奪われて」、全員がまだ生きている。その代わり、当時子供だった者たちは重篤な障害を発症した。「若いという形容詞に若さがあった時代は終わり、若いと言えば、立てない、歩けない、眼が見えない、ものが食べられない、しゃべれない、という意味になってしまった」。老人が若者を介護する社会が訪れる。そんな中、ふたたび巨大地震が起こったのだった。「わたし」は二〇二三年の今になって思う。「福島で事故があった年にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ。すぐまた大きな地震が来ると分かっていたのに、どうしてぐずぐずしていたのだろう」。 「不死の島」は「震災以後」を主題とする数多の小説の中でも、際立った問題作である。だが「日本国のパスポート」をめぐる挿話にかんしては、連載が「震災以前」に始まっていた『雲をつかむ話』の最終回直前に語られたものの方に、むしろ不意撃ちのようなインパクトがあった。それは、小説家が書くつもりではなかった、小説が書き始められたときには書かれる筈ではなかったことが、現にここに書かれてある、という静かな衝撃だった。 保坂和志の『カフカ式練習帳』は、フランツ・カフカが遺した膨大なノート、そこに記された創作メモや随想、身辺雑記、日常の観察、小説の一部、等々のような種々雑多な断片を、連載小説という枠組みの中で意識的に書いてみるという、特異な方法意識に支えられた「長編小説」である。「思いついたらいつでも書けるように家の中のあちこちにノートを置いておいてその場で書き出す」。そうして数冊のノートに徒然に書かれた断片群が、毎月編集者によって回収されてランダムに並べられることで、連載の各回が構成されたのだという。したがって長短さまざまな断片と断���のあいだには基本的に連続性や一貫性は存在していない。それでも一冊となった際に、れっきとした「長編小説」としての佇まいを持っているのは、保坂和志の「小説家」としての技量と才覚、そしておそらくそれ以上に「小説」という営みに隠された神秘というべきだろうが、しかし同時に、このことは、ずっと昔から長い時間をかけて書き貯められていたのではなく、あくまでも連載期間の責務(?)として日々書かれていったものであるということも深く関係していると思われる。つまり『カフカ式練習帳』の断片群は、すべてが、ある具体的な時間のフレームの内に収まっているのだ。 『カフカ式練習帳』に「地震」という単語がはじめて登場するのは、連載も三分の二を過ぎようとしたあたりである。 二月五日午前十時五十六分に起きた地震は、震源が千葉県南島沖で、マグニチュード5・2。震源の深さは六十四キロ。東京二十三区は震度3だった。ちょうどそのとき私は外にいた。震度3とはとても思えない強い揺れを瞬間感じ、揺れと同時に、私の右のスガスガから左のスガスガにピアノ線がピンッと張られたような、右から左に弾丸よりずっと小さな粒子が貫通したような、感覚があった。痛みというよりも電気にちかいか、右のスガスガから左のスガスガは方角としてはほぼ南から北だった。私はやや上体を屈めて、外の猫たちに餌を出していた。
この断片を含む回は「文學界」の「二〇一一年五月号」に掲載されている。したがって、それは二〇一一年の三月下旬に入稿された筈だ。おそらくは「三月十一日」以後のことである。だが、ここに書かれているのは「二月五日」にあった千葉県沖を震源とする震度3の地震のことである。「三月十一日」の「地震」に言及した断片は、この回にはない。 『カフカ式練習帳』が、日記やエッセイのようにも読める断片が多くを占めているにもかかわらず、れっきとした「長篇小説」であるということは、たとえばこうした点にも現れている。ここには書くこと、書かれること(読まれること)の選択と操作がある。しかしそれでも、これ以降の連載には、「三月十一日以後」を、さまざまな形で刻印された言葉が紛れ込んでゆく。たとえば、こんな断片がある。
津波が迫ってきたが、もう逃げられないので娘と二人で二階に駆け上がるしかなかった。駆け上がっている途中で、津波が足許から膝までどんどん上がってきて、二階に上がったときには津波が背より高くなり、二人とも完全に津波にのみ込まれた。いったんは観念したが体を沈めると足が床についた。床を思いきり蹴ると顔が天井と水の隙間に出た。窓が開いているのが見えた。そこから出られると思い、娘と窓からでて屋根に這い上がった。這い上がると今度は引き波で屋根が沖に流された。二人で屋根に載ったまま沖を漂ううちにあたりは夜になった。娘が携帯を出すと、通話はできないが機械は壊れていなかった。携帯のライトは何も明かりのない海の上ではすごく明るい。娘と二人でそれぞれの携帯を手に持って必死に振っていると、津波を逃れて沖に行っていた漁船がもどってきたところに発見された。
保坂氏に娘はいない筈である。勿論いたとしても変わりはないが。私は、この断片が、ノートに手書きの文字で書かれてある光景を想像する。保坂和志が、こんな断片を、ノートに書きつけている姿を想像する。 「大地震の日にもうジジは生きていなかった」と始まる比較的長めの断片は、「三月十一日以後」を刻印された断片群の中でも、最も重要なものだ。ジジとは猫の名前である。言うまでもないことだが、保坂作品において、猫たちとは、生と死、そして時間という不可思議なるものの象徴でも��る。
あの大地震のときにジジは生きていないで良かった。スマトラの大地震と津波にあれだけ反応したジジの反応が、今回どれだけ激しかったことか。しかし、生きていないで良かったということが本当にありうるのか。いくつもの苦痛を抱えて生きていることと死ぬことのどっちがより望ましくないことなのか。 生きていないで良かったと思うのはジジがもう生きていないからだ。
誤解を畏れずに述べよう。前言を覆すようであるが、これは「小説」ではない。精確に言うと、この断片のみを読むのなら、それは「小説」と呼ばれる必要は、おそらくない。そして、そんなことは重々わかった上で、保坂氏は、これを書いている。そう思える。
震度3程度で「余震におびえる」というのは言葉の綾にすぎず、気持ちの連続が中断したり、やっていたことが中断したり、気持ちが平静になりきれなかったりしていた日々、私と妻で何度も口にし合った「ジジが生きてなくて良かった」という言葉は、誰のために何のために言われていたのか。被災者の中に血縁も友人もいないのに一日一度は涙ぐむような、今もこれからも楽観的になることが難しいときに、せめてもの良かったことが、ジジがもう地震や津波と呼応して具合が悪くならずにすんだことだと、悪いことばかりじゃなく、いいことだってあるじゃないかと二人で確認し合っていたのか。 それとも、 「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」 と、ジジが生きていた日々は巨大地震が起きる以前の世界だったと一緒にしているのか。
ここに書かれているのは、最早どうしたって「以前」には戻れない、という酷薄な真理である。巨大地震が起きる以前、ジジが生きていた日々には、もうけっして戻れない。猫の死と大災禍は、到底受け入れ難いが受け入れるしかない事実という意味では同じことなのである。つまり保坂氏は、ほんとうは単にこう言いたいのだ。ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!……この反実仮想の無意味さをやり過ごすためには、彼は「今はジジが生きていなくて良かった」と言うくらいしか出来ないのだ。 『カフカ式練習帳』には、「不死の島」の「わたし」と同じ怒りを抱え持つ、こんな直截な断片さえある。
『日本人はなぜ戦争を止められなかったのか』という番組名を見て、 『日本人はなぜ原発を止められなかったのか』という番組が、三十年後、五十年後に作られる恥を感じた。
10。「徹底的に推敲しろ」
こんな時に思い出すのはプーラのことだ。 言葉づかいは少し間違っているかもしれない。こんな時に思い出せるのは、と訂正したほうが真っ当なのかもしれない。しかし、真っ当とは何だろう? あらゆるイメージがあらゆる人たちに〝その日〟の以前と以後とで異なる感情を与えている。だとしたら、この瞬間、この今に忠実に回顧するしかない。ふり返るしかないのだ。
古川日出男の「プーラが戻る」の冒頭部分である。この短篇小説は、二〇一一年三月二十五日に「早稲田文学」のウェブサイトに掲載され、のちに単行本『震災とフィクションの“距離”』に収録された。中学校のプールの底に棲み、冬になって水が抜かれるとともにどこへともなく消えてしまった怪獣プーラの想い出を語るこの愛すべき小品は、おそらく古川が「三月十一日以後」に書いた最初の小説である。周知のように、その後、古川は中編小説『馬たちよ、それでも光は無垢で』を「新潮」二〇一一年七月号に発表する。すなわち入稿されたのは五月下旬ということになるが、では書き出された日時はというと、他ならぬ小説の中で告げられている。
この文章を起筆したのは二〇一一年の四月十一日だ。十枚ほど書き進めて、すると、福島県の浜通り地方で余震があった。最大震度は6弱。 巨きな余震があるたびに、私は推敲する。 余震が、私に何かを許さない。「徹底的に推敲しろ」との声がする。
『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、『雲をつかむ話』の「わたし」とは異なり、作者の「古川日出男」自身であることを至ってストレートに明示してみせる「私」が、まだほとんど福島第一原発の事故の状況がわかっていなかった四月のある日(だが、それが「四月十一日」以前の何日であったのかは記されていない)、新潮社の編集者数名とともに出身地である福島へと向かう、一種のドキュメント小説の体裁を採っている。だが、興味深いことは、出来事の時系列が、今まさに書かれつつある小説の時間の内にバラバラにされて溶かし込まれ、前後の脈絡を脱臼されているばかりか、余震のたびにどこからか聞こえてくる「徹底的に推敲しろ」という何ものかの命令に従って、書かれた筈の言葉が度々廃棄され、幾度となく書き直されて、しかもそれを逐一、小説の中で告白してゆくという、独特なスタイルが選ばれていることである。「推敲」とは、確定されかかった過去=小説を絶えず未了へと追いやっていく、原理的には終わりのない作業のことである。結果として、この小説にはきわめて重層的な時間が畳み込まれており、それはほとんど混乱の一歩手前に到っているようにさえ見える。ところが、そのような錯綜した語りによって、現実の記録であった筈のこの小説に、あのメガノベル『聖家族』の虚構の登場人物である「狗塚牛一郎」が忽然と立ち現れるという離れ業が成されるのだ。つまり「牛一郎」は「推敲」の渦中から召喚されてくるのである。それは古川にとっては『聖家族』の舞台となったフィクショナルな世界を、どうしようもなくリアルな「以後の世界」と、強引にも接続させる、というミッションを意味してもいただろう。 やはり『震災とフィクションの“距離”』に収録されている重松清との対談「牛のように、馬のように」において、古川は「以後」に自分を襲った恐慌について、驚くほど率直に語っている。
古川 (…)震災前から書いてる作品が三つあったけれど、ひとつはもう駄目になりました。もう書けない、だから最終回にする。しかも最後に、ぜんぜん関係ないのに福島の話をして終わろうとしている。もう一個は、書けなくなると思わなかった作品だけれど、それすら突っかかってしまった。でも、本になるのは二年後になるかもしれない長いものだから、震災から二年経った人々が読みたいものに変えられるんじゃないか、そこに必死に縋っています。もう一作は現代を舞台にしていて、そのぶんもしかしたら逆にこのままいけるかもしれないけれど…… 重松 震災も取り込んじゃって。 古川 そう、消化していけるかもしれない。でも、いまもう通じない作品があり、二年後に出しても通じない部分が見えたとき、「お前がやっていたことは、地震が来たら崩れる程度のことだったんだよ」と認めざるを得なかった。単純に、エゴのために書いていたものがあるとわかったんです。「自分はすごいんだ」と人に言わせたかった、そういうものを書いていたんじゃないか。そのことにガッカリしました。 重松 そこまで言うのは、自分に厳しすぎる感じもしますけれど……あれらの作品はぜんぶエゴですか? 古川 わからないです、ほんとうのところは。ただ、そのことについてはいまも考えます。周囲では、だんだん震災や被災の空気がなくなって、復旧に向かっていると思うんです。でも、自分のなかでは進行形のまま、小説家として小説に対して内部被爆している。これを認めていくしかないと思っています。
ここで語られている三つの作品とは、駄目になったひとつ目が『黒いアジアたち』、二つ目が『ロックンロール十四部作』、そして「このままいけるかもしれない」という三つ目が『ドッグマザー』のことだと思われる。三部から成る長篇小説『ドッグマザー』は、第一部「冬」が二〇一〇年七月号、第二部「疾風怒濤」が二〇一一年二月号、第三部「二度目の夏に至る」が二〇一二年二月号、いずれも「新潮」に発表された。近年、驚異的な速度で次々と新作を世に問うてきた古川日出男としては、かなりじっくりとしたペースと言えるが、当初の予定では、第三部は二〇一一年の夏には発表されることになっていたらしい。だがそれは右の発言にある理由により遅延することになった。「冬」と「疾風怒濤」は、明確に「以前」に書かれたものである。だが「二度目の夏に至る」は「以後」であるしかない。物語の時間は連続している。この小説は、更に以前に書かれた『ゴッドスター』で登場した少年が、同志のような偽の母親の庇護を離れて、東京の埋め立て地から京都へと移動し(同じく京都を舞台とする『MUSIC』ともシンクロする)、前世を売る謎の「教団」と出会うことで、奇怪にして神聖な成長を遂げてゆく、というものである。畝るような息の長い文体といい、液体的とも言うべき濃密な描写といい、それ「以前」の作風とは大きく変化しており(それは『ゴッドスター』と比較してみるだけでもわかる)、デビュー以来、絶えざるヴァージョンアップを重ねてきた古川日出男が、これまで以上のアップデートに挑んだ、紛うかたなき野心作である。古川はたびたび村上春樹への畏敬の念を語っているが、ここで彼がターゲットにしているのは「日本・現代・文学」を造り上げたもうひとりの���物、中上健次だと思われる。古川は中上が直視しようとした「天皇」を自分なりの仕方で生け捕ろうとしている。『ドッグマザー』は、その第一歩である。 「二度目の夏に至る」は、二〇一一年四月に始まり、六月で終えられる(ただし「母親」からの手紙という形で、あれから「二週間とか三週間」の時期のことも語られる)。「三月十一日以後」に起こった、起こりつつある出来事は、小説の世界に必然的に取り込まれている。だが、この「必然」は、当然のことながら、これに先立つ「冬」と「疾風怒濤」の時点では、欠片さえ存在していなかった。したがって、たとえば次の文章は、書かれていなかった筈なのに、書かれたのだ。
平等な慈悲とは何か。 これは日輪子の考えか。日輪子が僕の分身とするなら、これは僕の考えか。僕の? 因果の法則をすっかり受け入れてしまって、その夥しすぎる死が、前世の報いなのだと仮定してみる。これらを天罰なのだと仮定してみる。いま現在の被災死亡者は一万四千人か。行方不明者はやはり一万と数千人か。詳細なデータ、人数は日輪子ならば日々把握しているのかもしれないが僕はそうではない。変動も激しい。��れども、それでもわかる。ここには無辜のものが混じっている、この一万、二万という数は罪のなさをも偶然的(アクシデンタル)に内包するからこそ夥多だと感じられる、直観される、数には数の生理があるのだ、ならば。そうであるならば、その無辜の人々はいったい何に(「何に」ダッシュ)生まれ変わる? 前世はある、と受容したのならば来世はどうだ? この応報は、どうなる?
『馬たちよ、それでも光は無垢で』において「私」の耳に何度となく鳴り響いていた「徹底的に推敲しろ」という「声=命令」は、すでに「以後」となった世界で発されていたものである。だが『ドッグマザー』で、古川日出男は、いわばあらかじめの「推敲」を求められることになったのだ。われわれが読む、読むことの出来る「二度目の夏に至る」は、もしも世界が「以前」のままであったなら、確実に違う姿をしていた筈である。これは『聖家族』の「牛一郎」が、福島へと向かう車内にいつのまにか坐っているという離れ業の、いわば裏返しの所業である。古川は「以前」に胚胎されていた世界を「以後」へと「推敲」することによって、『ドッグマザー』という物語を、こう言ってよければ、なんとか書き終えることが出来たのだ。それはほとんど、生きるか死ぬかの綱渡りのようなものだったのではないか。連載も回数を重ねており、すでに大作となっていた『黒いアジアたち』が、にもかかわらず放棄されることになったのは、このあらかじめの「推敲」が、どうにも不可能だと判断されたからだろう。 「推敲」ということで思い出されるのは、言うまでもなく、川上弘美の『神様2011』である。あの誠実にして真摯な、そして切実きわまる試みが、同時に、ある途方もない痛ましさを放っているのは、あの書き直しによって、川上にとってデビュー作であった『神様』が、決定的に「以前」のものになってしまったから、そして、そうなることがわかっていながら、川上自身が、そうすることを選んだからに他ならない。小説が、小説家が、想像力が、書くことが、「以後」に向き合おうとするとは、なんと過酷なことなのだろうか。
11。「以前」の「以後」
阿部和重は、新潮社のPR誌「波」の二〇一〇年十二月号から二〇一二年二月号まで、『幼少の帝国ーー成熟を拒否する日本人』という評論を連載していた。この論考は、戦後日本社会の特徴を「こどもっぽさ」すなわち「大人になること(=成熟)への拒否」に見出すという口実=フィクションを戦略的に引き受けてみせることにより、それ自体すでにクリシェと化している「日本=成熟拒否」論の耐久力をはかり直そうという、如何にも阿部和重らしい捻れまくったコンセプトを持っており、しかも最初からそのように宣言した上で開始されたものである。小型化や軽量化によって世界を席巻した日本の「ものづくり」を評価するのはまだわかるとしても、やがて「成熟拒否」を「アンチエイジング」と無理矢理読み替えて、あの高須クリニックの院長へのインタビューを行なうなど、論旨は(明らかに意図的に)暴走してゆく。ところが、連載開始前には予想もしなかった事態が起こったことで、この評論は当初の計画から大きく逸れていった。そのあたりのことについて、阿部は単行本の「あとがき」で、次のように書いている。
東日本大震災が発生したのは、連載なかばの頃だった。わたしたちの企画にとっても、ここが大きなターニングポイントになった。 テーマ自体が借り物だったこともあり、それまではどこか他人事のように「現代日本」に目を向けていたところがあった。戦後史というフィクションを、一定の距離を起きながら振りかえるつもりで、例によってわたしたちはひとつの偽史的なストーリーを組立てようとしていた。 ところが3・11を経たことにより、この国で今なにが起きているのかをだれもが否応なく直視せざるを得ない状況が生まれてしまった。先端的な文化や産業の現状を通じて「現代日本」の粗描を試みていたわたしたちも、例外ではなかった。連載の途上にあったわたしたちにとり、選択肢はふたつしかなかった。二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないかのどちらかだ。わたしたちはただちに後者を選んだ。
私の知る限り、阿部和重という小説家は、ひとつの作品を書き出す前に、あらかじめ緻密な設計図を引いておき、実際の執筆作業では、ひたすらそれをリアライズすることに務めるという、完璧主義者というべきタイプである。それは『幼少の帝国』でも基本的には同じだったろう。だがしかし、不測の出来事により、設計図は破棄されることはないまでも書き換えられることになった。「二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないか」という二つの選択肢は、多和田葉子が、保坂和志が、古川日出男が直面したものと同じである。そして阿部もまた、三人と同じ選択をしたのだった。 高橋源一郎は、選考委員を務めた第48回文藝賞の選評の中で、受賞作となった今村友紀の『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』について、こんなことを述べている。
『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』を、ぼくは、3月11日以降に書かれた小説であろうと思って読んだ。それは、ぼくの勘違いだったのだが、そのことがわかった後も、やはり、「以後」の小説である、という感想に揺るぎはなかった。この小説は、「以後」を描いている。主人公の「私」は、突然、ある大きな事件(「戦争」?)に巻き込まれる。そして、その事件について、この小説の最後まで知ることはないのである。それにもかかわらず、「私」は、前へ進む。たとえば「私」はいくつものパラレルワールドと関わる。そこでは、既成のどんな論理や倫理も役に立たない。だから、「私」は全く新しい論理や倫理を作り出さねばならない。「以後」の小説の課題は、そこにしかないのである。
実をいえば、高橋氏と同じ誤解を、私は北野勇作の『きつねのつき』という小説にかんしてしていた。「以後」に書かれたものだとばかり思っていたら、二〇一〇年には脱稿されていたのである。しかしそれでも私は、高橋氏が『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』に感じたのと同様に、『きつねのつき』を、すこぶる優れた「「以後」の小説」だと思っている。時間的に「以後」に書かれたものだけが「以後」であるわけではない。「以前」から「以後」を語っていた言葉がある。つまり「以前」にも「以後」はあったのだ。 「以前」の「以後」。これには、もうひとつの意味がある。「二〇一一年三月十一日」より「以前」を描いた、しかし歴然と「以後」の小説というものがあるのだ。次回、私は二人の小説家の最新作を取り上げる。阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』と柴崎友香の『わたしがいなかった街で』。二作とも、舞台は二〇一〇年である。
12。「廃棄物最終処分作戦」
『クエーサーと13番目の柱』は、奇妙な小説である。それはつまり、いかにも阿部和重らしい小説ということだ。この物語で描かれるのは、タレントへの監視行為、いわゆるパパラッチである。だがそれは芸能マスコミによるものではない。主人公と呼んでいいだろう、元写真週刊誌記者のタカツキリクオと、彼が属する様々な出自の人間から成るパパラッチ・チームは、カキオカサトシという資産家のアイドルオタクに雇われて、カキオカが「Q」というコードネームで呼ぶアイドルを二十四時間モニタリングしている。「Q」とは、KINGを自認するカキオカ=KAKIOKA=「K」にとっての永遠に結ばれることのない精神的伴侶=執着の対象としてのQUEENの頭文字であると同時に、「地球から観測できるぎりぎりの、物凄く遠いところにあって、凄まじいエネルギーを放ちながら宇宙一明るく輝いている天体」である「準恒星状天体(Quasi-steller-object)」=クエーサーの頭文字でもある。カキオカは、けっして成就されない、それゆえにこそ絶対的な強度を持ち得る「天体観測者の愛」を「Q」に注ぐための道具として、タカツキたちを使っている。だが(というべきか、だから、というべきかわからないが)そのパパラッチは、盗聴、盗撮、張り込み、侵入行為等、スパイさながらのチームプレイと種々の最新テクノロジーを駆使した、ほとんど荒唐無稽とさえ思える大仰さであり、映画シナリオ或いはノベライゼーションを想起させる、いつにも増してドライで無機質でぶっきらぼうな文体で綴られてゆくタカツキたちの過剰なミッション・インポシブルぶりが、この作品の前半の読みどころであると言ってよい。 また、それと同時に、この小説は、かねてよりタカラヅカ、ジャニーズ、モーニング娘。(特にゴマキ)等への偏愛を表明してきた阿部和重が著した、一種の「アイドル論」でもある。いや、精確には「アイドルオタク論」だろうか。カキオカのクイーン=クエーサーへの倒錯した愛情は、にもかかわらず彼が「Q」をあっけなく別のアイドルに変更してしまえるということによって、その倒錯ぶりをより際立たせることになる。当然、パパラッチ・チームの監視対象も更新されるのだが、その新しい「Q」は、人間、ボーカロイド、アンドロイドの三人組新人アイドル・ユニット、エクストラ・ディメンションズ(ED)の、唯一の生身の人間のメンバーであるミカである。ところがミカは、EDの中でもっとも「アンチ(特定のアイドルに敵対し、ネット上などで「叩き」をするファンのこと)」が多いメンバーなのだ。このあたりの設定の実に捻くれた考え抜かれ方は、まさしくいかにも阿部和重である。二〇一二年のニッポンは、誰もが数年前には予想だにしなかったような形で、史上何度目かの「アイドル黄金(戦国)時代」を迎えているわけだが、阿部はこの作品において、彼が長年推してきたモー娘。以後に登場したPerfumeと初音ミク(後者は実際には音声合成ソフトウェア=VOCALOIDの商品名であるが、私は彼女も「アイドル」の一人であると考えている。何故って実体の無い、ユーザー各自が勝手に脳内でイメージを醸成できるキャラクターとしてしか存在していない声=ソフトウェアこそ、究極の執着の対象、あの「天体観測者の愛」が差し向けられるアイドルではないだろうか?。ちなみにほぼ同時期に登場したPerfumeとミクは明らかに相補的な存在である)、そして現在のマーケットにおける圧倒的な覇者であり、ことによると日本の「アイドル史」の最後の輝き(或いはとどめの一撃)になってしまうかもしれぬAKB48までを射程に収めつつ、それらの固有名詞を出すことなく、その「アイドル」としての人気の構造を解き明かそうとしている。阿部の「アイドルオタク論」は極めて批評的であり、それゆえ辛辣かつアイロニカルなものだが、既に別の場所でも述べておいたように(*)、だからといって単に高みの見物を決め込んだ意地の悪いお遊びというわけではない。そこには阿部和重の「フィクション」という得体の知れないものに対する独特の明察が潜んでいるのだ。 だが、われわれの論議にとって重要だと思われるのは、一見すると本筋とはあまり関係のない、オープニング・シーンともいうべき次の場面である。「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」、タカツキリクオと相棒のサワザキコウタは、路駐したSUVの車内に居る。サワザキが「今まで見つかったなかでいちばん地球に似てるスーパーアースが発見された」というネットで拾った話題を振る。張り込み中の無駄話といったところだ。二人はスーパーアースの生き物の有無について意見を戦わす。地球上の常識に照らすとそれは無理っぽいのだが、別の天体にはまったく異なる生命の可能性だってあるかもしれない。ひょっとすると「ウルトラマンの怪獣みたいにバカデカいの」だっているかもしれない。
「しかしいくらスーパーアースつって��、ウルトラ怪獣はいないんじゃないのか。だいいち、ウルトラ怪獣がいるのならウルトラマンもいなくちゃ釣り合いがとれない。宇宙の真実はそこまで器デカくない気がするけどな」 「そうすかね」 「おそらくな」 「でも、気がするってのも、結局は常識的判断にすぎない。それだって真実を見落とすきっかけになっちゃいますよ」 「まあ、それもそうだな」 「でもやっぱり、ウルトラマンはいないだろうな」 「いやいるさ」 「あんなのいるわけないじゃないですか。所詮は絵空事ですよ」 眼鏡の男は依然外を見ながら笑っている。 「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」 「どうだろうな。そもそも神の視点に立てない以上、人間には真理を真理と判定する術がないからな」 「どういうことですか?」 「模範解答集がなければ、テストの答え合わせはできないだろ。人間は真理の模範解答をしらないんだから、答え合わせも不可能だ」 「なるほど。答えが出せても自己採点はできないから、試験にパスしたかどうかは永遠に分からないわけか。しかしそいつは切ない話だな。布きれ一枚しか身につけてなかった時代から、人間は必死こいて真理の追究に明け暮れてきたってのに……あれ今、地震あったのか。伊豆で震度五弱て、かなりデカいな」 丸刈りの男は、いつの間にか画像検索をやめていて、ニュースサイトの閲覧に戻っている。地震情報を眺めながら、中身が半分になったペットボトルを彼は上下に振っている。 「そんなに揺れたのか。こっちはいくつだ?」 スマートフォンからいったん目をそらし、ペットボトルのなかで弾けまくる炭酸のあぶくを凝視しながら、丸刈りの男が答える。 「いや、東京はちっとも揺れてませんね。せいぜいイチとか、そんなもんです」
『クエーサーと13番目の柱』は、「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」に始まり、「二〇一〇年八月三一日火曜日、午前零時二三分」に終わる(阿部和重の小説の例に漏れず、この作品においても日付は重要な、だが秘密めかした意味を担わされている)。この小説は「群像」の二〇一二年二月号から四月号まで三回にわたり分載された。したがって引用部分を含む第一回は二〇一一年十二月中旬に入稿された筈だが(年末進行を考慮するともっと早かったかもしれない)、実はこの作品は、そこから一年半以上遡った時期に、すでに執筆開始されていたか、少なくとも構想されていたことがわかっている。というのも、私は『ピストルズ』の刊行の際、阿部和重と公開インタビューを行なったのだが、その対話の最後で、次回作の予告として、この作品のことが語られていたのだ。
阿部 (前略)ここだけの話でチラッと言いますと、講談社の百周年の記念の作品なので、講談社の社員が主人公なんです。「フライデー」の元記者が主人公になって、色々とダメな感じの出来事が起こります! 佐々木 (爆笑) 阿部 という企画になっておりますんで、そういう問題に関心のある方は是非。僕の二〇〇〇年代のフィールドワークが全てそこに投入される予定になっておりますので。 (『小説家の饒舌』)
このインタビューが行なわれたのは二〇一〇の四月一六日である。理由はともあれ、結果として発表が遅れた『クエーサーと13番目の柱』には「講談社百周年記念」という銘記は見当たらず、タカツキリクオの前職も「フライデー」とは書かれていない。だが、これが同じ作品のことであるのは間違いないだろう。となると、次のような推測が成り立つ。阿部和重は、のちに『クエーサーと13番目の柱』と題されることになる小説を、二〇一〇四月一六日の時点で「ちょうどまさに今書き始めてるところ」だった。だが同作が入稿されたのは、二〇一一年末のことだった。もちろん脱稿がいつだったのかはわからない。ことによると、先の発言から程なく二〇一〇年中には書き終わっていて、何らかの理由で一年ものあいだ寝かせられていたということだってあり得ないことではない。だが、もしも先に引用した場面を阿部が「以前」に書いていたのだとしても、二人の登場人物の雑談の最中に取ってつけたように起こる地震が、二〇一一年三月一一日の「以後」を生きる読者に、なんらか特別な意味合いとともに受け取られるだろうことを、彼が意識していなかった筈はない。そう考えるなら、サワザキコウタがふとした思いつきのようにタカツキリクオに言う「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」という台詞も、明らかに「以後」の色彩を帯びた問いかけとして聞こえてくるのではないか。 同様のことが考えられる箇所が、『クエーサーと13番目の柱』には少なくとももう一つある。物語の後半、タカツキたちは、インターネット上の電子掲示板でカキオカサトシとその下請け一味を敵視するオタたちと物理的な闘争を繰り広げるのだが、オタたちは自分たちの妨害工作と攻撃をこう呼ぶのだ。「廃棄物最終処分作戦」。ご丁寧にもこの九文字はゴチック体で強調されている。この語が当然のごとく喚起する連想は述べるまでもないだろう。私はこの九文字だけは、二〇一一年三月一一日以後に書かれたことを確信している。もちろん、このネーミングは小説全体の中では、さして重要な意味を持ってはいない。けれども、物語の時間が二〇一〇年の夏に設定されていることを考え合わせるなら、これは「以後」に書かれた「以前」を舞台とする小説に「以後」をあからさまに投げ入れる、という作業であったことになるのではないか。しかも、驚くほど単純明快な手口によって!
*「DAYDREAM BELIEVER」ー「群像」八月号
13。「引き寄せ」の法則(の捏造)について
『クエーサーと13番目の柱』の奇妙さを担う重大な要素として、物語全体を貫く「引き寄せの法則(ロー・オブ・アトラクション)」というものがある。パパラッチ・チームの最年長だったミドリカワユウゾウは、外為取引=FXで儲けたからと仕事を抜ける。株のことなど無知だったというミドリカワをFXの勝者に導いたものこそ「引き寄せの法則」だった。ミドリカワはタカツキにも勧めてくるのだが、そういうのってやたらと情報量が膨大で初心者は尻込みしてしまうとタカツキが言うと、ミドリカワはこう答える。
「ところがそういうのはまったく問題ないんだわ。なぜかっていうとさ、引き寄せの法則ってことでは、根本の部分はみんな一緒だからね。つまりさ、たとえ話でもなんでもなく、本当に『思考は現実化する』ってことなのよこれは。願えばなんだってかなうっていうのが、この法則の大原則。要はね、その大原則が絵空事じゃない当たり前の物事なんだって、自分の頭んなかにしっかりと根づかせること。それさえできれば、効果はおのずと出てきちゃうわけ。そうすればさ、好きなだけ儲けられるしなんでも手に入れられるし病気だって治せちゃうのよ。なにしろ思ったことがどれも実際に起こるんだもん。不思議だよねえ。でもこれは、神秘現象なんかじゃなくてさ、いわゆる自然の摂理なんだよタカツキちゃん」
思考は現実化する。この俄には信じ難い(し最終的にも信じられない?)法則、大原則、摂理が『クエーサーと13番目の柱』の世界を統べている。ミドリカワと交代でチームに加入し、EDに詳しいことから重宝されるが、次第にその悪魔的(?)な正体を露にするニナイケントも、偶然にも「引き寄せの法則」を口にする。彼はこう説明する。
「(前略)要するに、宇宙にはデータベースみたいなものがあって、そこにはこの世界で生じる、あらゆる出来事や物事の可能性がデータとして記録されていて、時々刻々と更新されているわけです。そしてその可能性のデータというのは、だれでも常に取りだして使うことができる。というよりも、だれもかれもが例外なく、常にそれを使って人生を組み立てている。なぜなら願望を抱くということは、その後に起こり得る出来事に直結する、なんらかの可能性を引き寄せるということだからです。人は皆、こうなりたいとかああなりたいと念じることで可能性のデータを宇宙からたぐり寄せ、現実の形にする。そのときに、正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現するという運びです」
このようにニナイの話は一挙にオカルトじみてくるのだが、彼の理屈は、素朴に言い直せば「強く信じれば夢はかなう」ということであって、とりたてて特別な考え方ではない。というよりも、大方の自己啓発本の類いは、ほぼこんなものである。ニナイは嬉々として続ける。
「でも願い方が間違ってると、本来の願望とはズレた形で現実化してしまう。たとえば念願の成就にわずかでも疑いや否定的な印象を持っていたり、思念の中身にどっちつかずなところがあったりすると、宇宙はそれを忠実にトレースしてしまう。宇宙のデータベースには、文字通りあらゆる出来事や物事のデータが収納されているわけです。だから細かい点までぴったり一致してる可能性のデータが見事にそろってて、願う者の思いを鏡のようにそのまま反映してしまう。したがって、たとえ毎日願ってても、いやそれだからこそ、あなたの借金はいっこうになくならない。なぜならあなたの思念には、そんなバカなことあるわけねえという否定の先入観が絶えず混ざり込んでいるから。そのために、本当に望んでいる出来事の可能性をいつまで経っても引き寄せられない。そもそもそれは、あなた自身が、そのことを自分が本当に望んでいるのだと思い込んでいるだけのことであって、結局はちゃんとした願望にすらなっていないんですよ。どうです? 心当たりありませんか?」
しかしこうなると、誰もが思うことだろうが、何だってありにも出来れば、なしにも出来る、何事であれ、起こすことも起こさないことも可能だ、そういうことにならないか。しかしニナイは、引き寄せ的には、出来事を起こさないことは起こすことよりもずっと困難なのだ、と言う。
「事情に暗い人はそんなふうに考えたがるものです。しかしそれは現実的な方法とは言えない。実際にはまだ起こってもいないことを想定して、それが起こらない可能性を引き寄せるというのは、当てはまるシチュエーションが無限にありすぎてイメージをまとめにくいんです。宇宙のデータベースは、構文ではなくイメージによる抽出データの指定を好みます。そのためこちらが思い描くイメージがぼんやりとしたものになっていると、可能性を引き寄せる力はそれだけ弱まってしまう。だったらより具体的に、起こるとわかっていることを想定して、そのなかのひとつの可能性を引き寄せるほうが間違いがないんです」
こうしてニナイは或る陰謀(?)に着手し、タカツキはそれに巻き込まれる。そしてそれは物語のクライマックスを惹き起こすことになるのだが、未読の方に配慮して、これ以上は述べない。ともあれ、いささか唖然とさせられるのは、繰り返すが、この突拍子もない理屈が、この小説を駆動する内的な論理でもあるということなのだ。こうして前代未聞のパパラッチ小説であり、卓抜な「アイドルオタク(論)小説」でもあった『クエーサーと13番目の柱』は、きわめて奇妙な「可能世界(論)小説」としての顔を晒け出すことになる。それは「思考は現実化する」「信じればかなう」という狂った論理が本当に現実化する異常な世界の物語である。 阿部和重は、すでに何度か名前を挙げたアンソロジー『それでも三月は、また』と「早稲田文学ウェブサイト(→『震災とフィクションの“距離”』)」の両方に、同じ一本の短篇小説を提供している。「RIDE ON TIME」と題されたその短篇は、或る金曜日、十年ぶりの巨大な波=グランド・スウェルがやってくるのを待ち望むサーファーの「ぼく」を語り手としている。「一〇年前のライディングでは、ぼくらは総じて撃沈されはしたものの、皆どうにか陸に戻ってこられた」。さあ、だが今回は、果たしてどうだろうか?
そろそろぼくも、あの大いなるうねりの頂点に立つべく舟を漕ぎ出してみようかと思う。 たとえまたもやライディングに失敗したとしても、そのありさまが、三〇〇人もの人たちの目に留まれば、ひとつの意味がどこかに浮かびあがりはするだろう。 ひとつの意味がどこかに浮かびあがれば、それも突破口をこじ開ける、力の一部に生まれ変わるにちがいない。 そうすれば、いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えることができるかもしれない。
この後一行で、小説は終わる。二〇一一年三月一一日が金曜日だったことを覚えていない者は居まい。だからビッグ・ウェンズデイならぬビッグ・フライデイを描いたこの掌編は、大津波でサーフィンをするという、ある紛れもない不謹慎さを身に纏ってみせているのだが、そんなことより読み取るべきなのは、この「ぼく」のやみくもな想い=願いが『クエーサーと13番目の柱』の「引き寄せの法則」と、まったく同じものであるということだ。「いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えること」。それが「できるかもしれない」という無根拠な希望は、ニナイケントが言っていた「正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現する」というのと、そっくりなのだ。それは保坂和志が『カフカ式練習帳』の断片に記していた「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」という言葉、そしてその裏に隠された「ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!」という反実仮想を思い出させる。「引き寄せの法則」に貫かれた『クエーサーと13番目の柱』は、一編のファンタジー、フェアリー・テールである。何故ならば、信じれば叶う、可能性を引き寄せる、などというのは幼稚な絵空事であることを、私たちはよく知っているからだ。だが、そんな狂った論理が通用する狂った世界の提示は、望んだわけでもない酷薄な現実の世界で生きるしかないわれわれに、次こそはうまくやってみせる、巨大な波にだって乗ってみせる、必ず生き延びてみせる、という想い、そんな「ひとつの意味」を浮かび上がらせるのだ。 『クエーサーと13番目の柱』が「震災以前」の物語であることにこそ「以後の小説」としての意味が込められている。つまり、奇跡はすでに一度は起こった、ということなのだ。「無数に分岐して展開してゆく可能性が折り重なる、ホログラムのような像」から「とうに決めてあったひとつの可能性」を引き寄せ/選び取ることが、ひとたびは出来たのだから、それはもう一度、いや、何度だって出来るかもしれない。そういうことなのだ。『クエーサーと13番目の柱』は、希望と奇跡と再生の物語である。ほとんどそのようには見えなくても、これはすぐれて切実な「以後の小説」なのである。
14。「距離」のパラドックス
柴崎友香の『わたしがいなかった街で』は、「新潮」の二〇一二年四月号に掲載された。物語の舞台は二〇一〇年の初めから夏にかけて、である(偶然にも『クエーサーと13番目の柱』と、ほぼ重なっている)。三十六歳のOLである「わたし」は、離婚してひとりで住むためのアパートに引っ越してきた。この小説は、「わたし」の日々を淡々と記録していきながら、中途から別の登場人物、三人称で綴られる「葛井夏」の存在が迫り上がってきて、遂には「わたし」と入れ替わる、という特異な構造を持っている。ほとんど異様なものと言っていいこの仕掛けにかんして謎解きめいたことを書くのはさしあたり慎んでおく。柴崎友香の小説のヒロインはいつもそうだが、この「わたし」も普通のようで普通ではない。それは小説の中で彼女が耽溺する二つの習慣(?)に如実に現れている。まずひとつ、「わたし」はiPhoneで六十五年前に書かれた『海野十三敗戦日記』を読んでいる。それは彼女が越してきたのが東京の世田谷区若林であり、戦時中、海野十三がそこに住んでいた、という事実がきっかけと記されているのだが、それにしても些か奇異ではある。彼女はiPhoneで海野日記の空襲の記述を読みながら近所を歩いたりもする。 もうひとつは「わたし」のささやかな趣味であるドキュメンタリー映像鑑賞である。やや長くなるが、最初に突然それが登場する場面を引用する。それはこの小説の叙述の風景を、それまでとは一変させるインパクトを有している。
三十二インチの液晶画面を、装甲車のタイヤが横切った。タイヤが踏んで行ったアスファルトには、真っ赤な血だまりができている。銃声が何度も響き渡った。サラエヴォの中心市街の大通りに伏せていた民衆たちが、建物のほうへと逃げ惑う。撃ち合いが始まり、警察の装甲車が出動し、人々は手を叩き拳を突き上げて口々になにかを叫んでいた。 ユーゴスラヴィアの内戦の過程を追った全六回のドキュメンタリーの四回目だった。各勢力の指導者たちの証言が差し挟まれてから、国境近くの山間の小さな町が映し出された。既に戦車に包囲され、並木の新緑が芽吹く川沿いの道から、砲撃を受けていた。春の花が咲く茂みで、普段着の民兵たちは、ベルト状につながれた尖った弾丸を機関銃に装填して応戦の準備をしている。検問では、怯えた顔の人々が兵士たちになんとか身分を証明しようとしていた。村では、車から降りた迷彩服の男たちが、それぞれ片手に自動小銃を持って、これから殺す人を探し出すため、脅し文句を叫びながら、白い家の敷地に入っていった。ベージュのトレンチコートを着た白髪の男が、迷彩服たちに連れられて出てきた。迷彩服たちは、片手の自動小銃を体の一部になったように一瞬も離すことはなく、もう片方の手で男のトレンチコートを引っ張り、小突いて、連れ出した。トレンチコートの白髪の男は、不安げに、ちらっとカメラを見た。映像はそこで途切れ、次の映像に切り替わると、別の男たちが死体を片付けていた。中年の女の死体を、一人が右肩、一人が左肩、一人が足を持ち、道路脇に停められたトラックへ向かって、庭の小道を下っていった。肉付きのよい中年の女の死体は、地面に伏せた姿勢のまま、完全に固まっていた。男たちが服を引っ張って持ち上げても、死後硬直した両方の肘は外に突き出されたまま宙に浮いていた。手の上に顔を伏せ、腰から不自然な方向に曲がった、殺される直前のその形のまま空間に浮かび、運ばれ、トラックの荷台に放り投げられた。荷台にはすでに、同じような形で固まった男の死体があった。また別の場所が映る。草地の上に、さっき運ばれた女とよく似た体型の老女が、さっきの女とよく似た体勢で倒れていた。セーターの背中の真ん中には、銃弾の跡が丸く開いていた。しかし血は見えない。横向きになった顔と、通常の関節とは逆方向にまがった腕の先��ては、灰色に変わっていた。誰かの持ち物だった鞄やノートが、道に散らばっていた。ところどころ、インタビューを受ける国連職員の証言が差し挟まれる。わたしのジープは曲がり角にあった血だまりで横滑りしました。死体を積んだトラックを何台も何台も見ました。
「なにかきっかけがあって急に見続けるようになったわけではない。しかし、見る時間は確実に少しずつ増えている。減ることはなく、増えていく一方だった。一人になってから。この数ヶ月のあいだ」。このあと「わたし」は幾度もこの種のDVDを再生するだろう。そこには、ここから遠く離れた場所での悲惨と災厄が映っている。あらゆる映画=映像は必然的/不可避的/運命的に「過去」の記録であるが、ドキュメンタリーはその中でも一際、歴史=時間に穿たれた出来事の目撃者としての使命を帯びている。「わたし」が凝視めるのは「過去」の内でも、とりわけその取り返しのつかなさが悲劇的である出来事の記録である。それが何故なのかは彼女自身にもわからない。ただ、ひとつのことは言える。ここには時空間の断絶と連続のアンヴィヴァレンスが働いている。つまり、いま目の前で展開しているサラエヴォの光景は、わたしが居合わせたわけでも赴いたことがあるわけでもない、こことは完全に断絶した土地で、こうしてDVDの映像に刻まれている以上は、すでに遥かに過ぎ去った、けっして巻き戻すことの出来ない或る時において生じていた出来事である。だがそれは同時に、疑いもなく、わたしが今いるここ、ここにある今と、繋がっている。それは別の世界の出来事ではないのだから。それは虚構ではないのだから。 時間と空間の断絶と連続、その両義性、言い換えればそれは「距離」のパラドックスである。「わたし」は、今ここ、と、或る時或る場所で、の間に横たわる、踏破不能な、だがけっして計測不可能というわけではない「距離」に囚われている。このような感覚は、彼女が読み続ける『海野十三敗戦日記』との「距離」にも現われている。「わたし」は終戦の年の海野の記述を追いながら、その時彼が実際に居た同じ土地を歩く。「日記」という形態の特殊なところは、後から手を加えたりしていない限り、日々の記録は、当然ながらその時々のものでしかないので、それ以後に起こるだろう出来事にかんしては、多少は予想出来ることもあったりはするとしても、それがそのまま現実化するとは限らないし、突発的に生じる事件だって無論ある、だから結局、日記はいわば不連続な連続性の中で書き継がれるしかなく、それを後から読む者にとっては、時としてそれはパラドキシカルに思えもする(何故なら読者はその先のことを既に知っている場合があるから)ということだ。日記はフィクションではないのだから、それを書いている誰かは、未来を知っているわけはない。だからこのとき、日記の書き手よりも読み手の方が「作者」と呼ばれる存在に近い、と言ってもいいのかもしれない。 『わたしがいなかった街で』は、次の一文で始まる。「一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた」。だからもうその頃のことを祖父に尋ねることは出来ない。「わたし」は祖父が料理をするところさえ見たことがなかったのだ。一九四五年八月六日午前八時一五分、周知のように、広島は米軍による原爆投下を受け、十四万人ものひとびとが瞬時に死亡した。もしもあと二ヶ月、祖父が広島で働いていたら、彼は原爆で命を落としていたかもしれない。だが、そうはならなかった。そのようなことは、けっして起こらなかった。 一九四五年八月十四日の昼、京橋駅周辺は空襲を受けた。爆弾は現在の環状線の線路を貫通し、その下を交差して走る片町線のホームに避難していた大勢の乗客を直撃した。死者の数は六百人以上とも言われているが、その後の混乱もあってほとんどが行方不明のままだ。 八月十四日? 明日、戦争が終わるのに。 三月の大阪大空襲のことは知っていたが、八月のそんな時期にまで大規模な空襲があったとは知らなかった。 八月十四日、明日戦争が終わることを、その日の人たちは知らなかった。 八月十四日に京橋で空襲があったことと、祖父が八月六日に広島にいたかもしれなかったことは、たぶんわたしの中で一対になっている。そこにいたのにその日はいなかった祖父と、たまたまその日にそこにいた人たち。あとから考えれば、生死を、その後の人生を左右した決定的な偶然は、実際に爆弾が投下されたそのときまでは、生活の一部として特別重大なこととは意識されないできごとだったと思う。 祖父がいた場所で起こったこと、何度も自分自身が乗り降りした駅で起こったこと。そこにいて死んだ人、いなくて助かった人。そうしてたまたま、私は生きている。存在しなかったかもしれないわたしが、京橋駅のホームに立っている。 八月十四日に空襲があったのは、大阪の京橋だけではなかった。山口県岩国と光、そして十四日夜から十五日未明にかけて、群馬県伊勢崎と太田、埼玉県熊谷、神奈川県小田原、東京都青梅、秋田県土崎……。 戦争が終わることはすでに決まっていて、しかし多くの人がまだそのことを知らなかった時間に。 そう思うのは、戦争が終わったことをわたしが知っているから。終わったあとで、その前の日のことを考えるから。
ここには、複数の、きわめて複雑な「距離」のパラドックスが、畳み込まれるようにして記されている。そして次第にこのパラドックス群は、否応なしに「わたし」を覆い尽くしてゆくだろう。それは最初から『わたしがいなかった街で』という題名によって予告されている。「存在しなかったかもしれないわたし」は、しかし存在している。今ここに、存在してしまっている。この当たり前の、そして残酷な事実認定は、阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』における「無数に分岐して展開してゆく可能性」から引き寄せられる「ひとつの可能性」と、明らかに共鳴し合っている。
15。「わたしがいなかった」ということ
阿部和重は『クエーサーと13番目の柱』で、オカルトまがいの自己啓発と思われかねない「引き寄せの法則」を闇雲に肯定してみせることで、いったい何をしようとしていたのか。 「無数の可能性」から、ありうべき「ひとつの選択肢」を掴み取る、ということは、あくまでも未来へと向かう問題である。どれだけ強力な「引き寄せの法則」を駆使しようとも、確定された過去を改変することだけは出来ない。残念なことに、タイムマシンは未だ発明されてはいないのだから。むしろこの残酷な事実認定こそが「引き寄せ」を引き寄せているのだと考えるべきなのだと思う。変えられる可能性があるのは、これから起こる出来事だけであり、起こってしまった出来事に対しては、ただそれをどう過ぎ越してゆくか、どう受け止められるか、どう解釈するか、ということにしかならない。過去が過去であるがゆえのこの無情さを、如何にして未来の希望へと反転させるか、阿部和重の目的は、この一点に集中していると言ってもいい。それゆえにこそ『クエーサーと13番目の柱』は、表面的な荒唐無稽さや不謹慎さを超えて、ひどく切実なのである。 「わたしがいなかった街���」の柴崎友香もまた、過去の改変不可能性と、けっして変えられない過去が、他ならぬ現在とひと続きであるというもうひとつの残酷さに、真摯に向き合おうとしている。ベトナム戦争のドキュメンタリー映像を観ながら「わたし」は考える。
何度も何度も、別のヘリコプター、別の飛行機から撮影された映像が、繋ぎ合わされ、光の塊が空中を進む時間が、重ねられていく。また別の村、別の橋、別の道路、森、田畑が、銃撃され、爆撃され続けた。 新しい場所が現れては破壊されていくのを見ているうちに、もしかしたら、人間は、この時間のことを考えることしかできないのかもしれない、という思いが湧き上がってきた。 発射された弾丸や爆弾が空中を進んでいき、地上を爆破するまでの、そのあいだのわずかな時間。破壊は決定されているにもかかわらず、まだその破壊が訪れない、その何秒かの、しかし最後に向かっていく限りなく永遠に近く感じられるその時間。 爆弾がおちてくることがわかっているのに、そのときはすでに爆弾は投下されていて、誰も止めることができない。時間はあるのに取り消すことはできない。少しでも遠くへ逃げるか、なんとか物陰に隠れて、すでに決められた破壊を見ることしかできない。 目撃した人は、考え続ける。もし、あれが発射されていなければ、もし、あの場所にいなければ、もし、戦争が起こらなければ。 起こらなかったことについて考えるのは、難しい。 それでも、思い続ける。 もう少し早く、ほんの少しでも早く、気づくことができたら。 そうしていつかは、引き金が引かれるより一瞬でも早く、爆弾投下のスイッチが押されるよりほんのわずかな時間だけでも早く、伝えられるようになれば。撃たないで! 落とさないで! と叫ぶことができたら、叫び声が向こう側まで聞こえたら、と願い続けている。 変えることのできない過去、取り戻すことのできない時間、絶対に行けない場所。それらを、思い続けること。繰り返し、何度も、触れることができないと知っているから、なお、そこに手を伸ばし続ける。
起こらなかったことについて考えるのは、とても難しいし、おそらくは無意味なことでもある。だが、それでもわれわれには、考えてみることは出来る。しかし悲惨の只中にある者には、今起こっている出来事を顧みることさえ出来ない。その結果、この世界から消えてしまった人々には、それを過去として思い出すことも、忘れてしまうことも叶わない。われわれはしばしば、その時その場にたまたま居合わせてしまったがゆえに、取り返しのつかない事件や事故の犠牲となった者に対して、偶然や意思の働きがほんの僅か違っていたら、自分がそこに居合わせていたかもしれない、悲劇と遭遇していたかもしれない、という可能性に思い当たり、震える。そのとき、それは私であったのかもしれないという想像は、しかしそれは私ではなかったのだという事実と、裏腹になっている。だが、それは私だったかもしれないが私ではなかった、とは、ほんとうは、どういう意味なのか。そのような認識が齎す、紛れもない自責の念とは、結局のところ、安心の別名ではないのか。 「わたし」の祖父は、一九四五年八月六日の広島に居たかもしれなかった。もしもそうであったなら、「わたし」は存在していなかったかもしれない。だが事実としては、祖父は「そこにいたのにその日はいなかった」のだし、そのかわりに「たまたまその日にそこにいた人たち」が消えてしまったのだ。ここには交換可能性は無い。無いからこそ「居たかもしれない」が生まれてくるのだから。だが、だからといって、この「かわりに」という錯覚の強迫を、真っ向から引き���けてしまったなら、われわれは到底生きてゆけないだろう。 あらゆる過去は必ず、現在から遡行していった時間の系の内に属している。起こらなかった過去は、そのどこにも存在してはいない。それはただ現在という時点から、かりそめに想像されているだけである。だが、それを言うなら、現実に起こったことにしたって、実はほとんど同じことではないのか。忘却がそうさせるということだけではなく、そもそも記憶されなかったこと、自分が体験しなかったことは、思い出すことも忘れることも出来ない。それはせいぜいが、ただ知ることが出来るだけである。 「わたしがいなかった街で」で柴崎友香は、明らかに意識的に、以前の彼女だったら敢て書かなかっただろう、たとえ行間には存在していたとしても進んで言葉にしようとはしなかっただろう事柄を、たくさん書いている。思うにそれは、かなり勇気が必要な行為だったに違いない。「新潮」の二〇一二年九月号に掲載された岡田利規との対談「〈わたし〉がいない過去と未来へ」の中で、彼女は次のように言っている。
柴崎(前略)これまで私が書いてきた小説は「何気ない日常を描いてる」と言われることが多くて、私自身はずっと「そんなつもりじゃないのにな」と思っていて……。 岡田 「日常」という言葉を当てはめられることに、違和感を持ってたんですね? 柴崎 「当てはめられることに」というよりは、おそらく人が「日常」と呼ぶものが、たとえば「普通の、変わらない毎日」とか「何でもない毎日」だとしたら、私のそれとは多分、違うものなんじゃないかと疑問に思っていました。 岡田 ああ、既にそこからずれてるってことですね。 柴崎 だから私の作品がそう受け取られてしまうのはどうしてなのか、そして私は何故それを違うと思うのかを考えて、作品の中で形にしないといけないのではないか、という思いがここ何年かのうちに、強まっていたんです。
岡田利規の演劇ユニット、チェルフィッチュの公演『ゾウガメのソニックライフ』を観劇した際、英語字幕の「日常」の訳が「day-to-day」になっていたことに触れ、柴崎は「自分が思う「日常」と近い」と述べている。一日また一日。その連鎖を「日常」と呼んでいる。それは端的に「時間」のことでもある。明日が今日になり、昨日となり、過去になってゆくという、不可逆的なプロセス。同じ一日などなく(必ず何かは違っている)、何も起こらない日もありえない(必ず何事かは起こっている)。そのような「day-to-day」が蓄えてゆく「過去」は、常に二重のものとしてある。「わたし」の中にある「時間」と、「時間」の中にある「わたし」。言い換えるなら、記憶と歴史。この二重の「過去」は並走しつつも完全には重なり合うことはない。ミクロとマクロ。「わたしがいなかった街で」の「わたし」は、彼女の「日常」の中で、記憶に穿たれた歴史と、歴史と共振する記憶を、幾度となく喚び起こし、反芻する。
どんな大きな事件も悲惨な戦争も、最初の衝撃は薄れ、慣れて、忘れられていく。また事件や戦争が起こったら、忘れていたことを忘れて、こんなことは経験したことがない衝撃だ、世界は変わってしまったと騒ぐけれど、いつのまにか戻っている。戻ったみたいに、なっている。 世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだときの映像を見たり、それを思い出したりすると、あのときは父が生きていた、と必ず思う。わたしは勤め先を辞めた直後で東京に引っ越す荷造りのために、実家にいた。自分の部屋にいた父が駆け下りてきて、すごい事故が起きてる、と言ってテレビのスイッチを入れた。ラジオでニュースを聞いたらしかった。食卓に母が座っていた角度も、床に転がっていた自分がそのときめくっていたファッション誌のページも覚えている。 「事故」ではない、とわかったのはその数分後に二機目がもう片方のビルに突入する映像が映ったときだった。そこで日付が変わるくらいまで見て、あとは自分の部屋のテレビで一晩中見ていた。大きな戦争が始まるのではないかと、怖くて眠れなかった。戦争が始まったことを自分はテレビで知らされるだろう、と子供のころから明確なイメージがあった。何か起きて、テレビをつけるともう世界は元に戻れなくなっていて、わたしは二度と家から出られない。翌日から、アメリカのニュースチャンネルには「UNDER THE WAR」の文字が並んでいた。 父が死んだのはそれから一年以上あとで、そのあいだに父と話したり病院に通った記憶もいくつもあるのだが、あの瞬間にまだ生きていた、はっきりと実感するのは二〇〇一年九月十一日、日本では夜の、父が階段をどたどたと下りてきて「すごい事故が起きてる」と言ってテレビをつけた、その一連の動作と時間だった。だから二つの高層ビルが煙を上げる映像を見ても、その日の話題が出ても、わたしにとっては必ず「父がまだ生きていた時間」として蘇る。「事故」ではない、とわかるまでの時間、北棟が崩れ落ちるまでの時間、南棟も崩れ落ちてそこにタワーがなくなってしまうまでの時間、そのあと一人でテレビを見続けていた時間。
ここには、極めて繊細な、それと同時に驚くほどにざっくりとした印象もある、独特の時間感覚が働いている。「わたし」は「二〇〇一年九月十一日」の他にも「一九八九年一月七日」のことや「一九九五年一月十七日の朝」のことを思い出す。今日のこの日から「day-to-day」を巻き戻してゆけば、その日は必ず、そこにある。「わたし」には、その日の記憶が、確かにある。そこでは記憶と歴史は、歴史と記憶は、かろうじてとはいえ、繋がっている。けれども海野十三の日記を繙くとき、海の向こうの戦場の映像を見るとき、「一九四五年八月十四日の昼」や「一九四五年八月六日の広島」を思うとき、そこに刻み付けられた時間と空間に「わたし」は見当たらない。だが、それは確実にあったのだし、あるのだ。ということは、今ここにいる「わたし」と、いつかどこかの「わたしがいなかった街」は、やはり繋がっている。この断絶と連続のパラドックスが「わたしがいなかった街で」という小説を駆動している。そうして「わたし」は、やがて「日常」にかんする次のような省察へと至る。
日常という言葉が指す何かがあるとしたら、あのときも、現在も、遠い場所でも、ここでも、同じ速さの時間で動き続けている街の中に、ほんのわずかのあいだだけ、触れたように感じられる。だが、その次の瞬間には、もうそれがどんな感じだったか伝えられなくなってしまうような、そういう感じ方のことだと、思い始めている。 見たり忘れたり現れたり消えたりしたあとで、わたしの中に残っている数少ない確かなことは、自分が今、この世界で生きていると思うこと。わたしは生きているし、映画のセットや張りぼてみたいに思えても、今この網膜に映っているものは、そこにあって、近くまで行けば触れる。そして、しばらく見ていてもなくならなかった。
「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた」。だがしかし、この作品がおそろしいのは、すでに述べておいたように、「わたしがいるここ」から「わたしがいなかったそこ」を、「わたしが生きている今」から「わたしがかつて生きていたその時」と「わたしがまだいなかったその時」を透かし見る、この小説の進みゆきの果てに、他でもない「今ここ」から「わたし」が消滅してしまう、ということなのだ。「わたし」の一人称に、物語の中途から彼女の旧い友人の妹である「葛井夏」を視点とする三人称が紛れ込み始める。この三人称はどこか奇妙なものであり、一見ごく変哲のない文章であるようでいて、まるでそのすべてが「わたし」の主観の内部に閉じ込められているようにも思えてくるのだが、しかし東京に居る「わたし」と大阪に住む「夏」は一度も出会うことなく(二人は共通の知人である「中井」を介してのみ互いのことを知る)小説は終わってしまうのだ。全二四章から成る「わたしがいなかった街で」は第二三章の途中から三人称に変わり、最終章には「夏」しか出てこない。だが、そこで語られるエピソードを読めばすぐに気づくことだが、そのとき「夏」には「わたし」が溶け込んでいるのだ。 岡田利規との対談の中で、柴崎友香は『わたしがいなかった街で』について、「自分がいない場所のことを考える」ことが一番大きなテーマだった、と語っている。「別の時間が同時に存在するように、読む人の中で混ざり合うように」書こうとした、とも。
柴崎(前略)場所にしても時間にしても、人間は二箇所に同時にいることはできない、というのが、たぶん自分のいちばんのテーマです。「今」「ここ」からは、時間的にも空間的にも、どこかとの距離が必ずある。絶対に越えられないその距離と、距離を越えようとすることの、両方を書きたいです。
二〇一〇年の初めから夏の終わりにかけての出来事が綴られた「わたしがいなかった街で」を読む私たちは、ちょうど「わたし」が『海野十三敗戦日記』を読んでいたのと同じように、それから数ヶ月後に何があったのか、二〇一一年の三月一一日に何が起こったのかを知っている。意識していなくとも、常に頭のどこかにはある。そして柴崎友香は、そのことをよくよくわかった上で、この小説を書き上げたのだと私は思う。物語の末尾から「day-to-day」を繋いでゆけば、やがてその日になり、そして今日になる。だが、このときはまだ、それは���こっていないし、起こることを誰も知らない。この作品に幾重にも畳み込まれた「時間」をめぐる断絶と連続のパラドックスは、こうして未来に、この現在にまで延びている。「わたしがいなかった街で」が、「以後」に書かれた、しかし「以前」を舞台とする、すぐれた「以後の小説」であるというのは、ざっと以上のような理由による。 書いておくべきことは、まだある。単行本『わたしがいなかった街で』には「群像」二〇一一年十月号掲載の短篇「ここで、ここで」が併録されている。このごく短い小説は、阿部和重の「RIDE ON TIME」が『クエーサーと13番目の柱』に対して持っていたような位置を、本篇(?)に対して持っている。舞台は「わたしがいなかった街で」から約一年後の二〇一一年の夏、今度ははっきりと「以後」である。大阪出身だが今は東京住まいの「わたし」は、神戸の三宮で催されるトークイベントに出演するついでに里帰りをする。彼女がこの仕事を受けたのは、「三月の地震以来、わたしは何度も神戸のことを思い出していた」からだ。この「わたし」は「柴崎友香」に限りなく近い人物と思われ、そのせいかややエッセイ的な雰囲気を感じさせもする(のだが、もちろん書かれてあることが事実とは限らない)。「わたしがいなかった街で」と最も強くシンクロしているのは、幼い姪のエピソードである(タイトルもここから採られている)。「わたし」が与えた動くぬいぐるみに吃驚して床にひっくり返って頭を打った姪は、しかし泣き出しはせず、むくっと起き上がってテーブルの縁を指差し「ここでここで」と言い、続いて椅子の脚を指差して「ここでここで」と言う。
「ここで? 頭打った?」 指をくわえたまま、姪は三回頷いた。 「前に?」 さらに二度頷いた。それから頭を打ったことは忘れたように、台所へ歩いて行った。そのあとについて行きながら、わたしは動揺していた。一歳八ヶ月の姪に、すでに過去の時間があって、彼女がそれを理解していることに。彼女が、過去のできごとをわたしに向かって説明しようとしていることに。自分は前にこことここで同じようなことを経験した、と。 わたしはそれを聞いてしまった。
もうひとつ、姪は母親に言われて、仏壇に向かって正座をして、会ったことのない「じいちゃんにちーん」をする。
自分が生まれる前に祖父が死んだということを、姪が理解するのはいつごろだろう、と小さな背中を見ながら思った。もしかしたら、もう知っているのかもしれない、 それでも変わらないのは、父が、彼女が生まれたのを知らないこと。
「過去」の存在と「時間」の不可逆性。越えられない「距離」と、それでも「距離」を越えようとすること。ここには紛れもなく「わたしがいなかった街で」のエッセンスがある。だがそれと同時に、この短篇は「わたしがいなかった街で」よりも半年早く発表されており、舞台は一年後なのだ。二篇が一冊の単行本に収められることで、更なるパラドックスを形成している。それは、小説の内側だけでなく、今ここで読んでいるこちら側にも働きかけてくるのだ。
16。「現在地」から遠く離れて
さて、そろそろ話を変えていかねばならない。どこに向かうべきか暫し思案したが、ちょうど接続もいいので、岡田利規のチェルフィッチュが二〇一二年の四月下旬に初演した舞台『現在地』のことを書こうと思う。先の柴崎友香との対談で、岡田は「わたしがいなかった街で」が「戦争」という題材に思い切って踏み込んでみせた蛮勇(?)を讃えつつ、自分自身が経験していない出来事を書くことの難しさを語っている。
岡田 経験してる人は、書けるじゃないですか、経験してる、というごく単純だけれど強力な理由から。でも、戦争を経験もしていなければ、それにまつわる歴史についてだって大した教養があるわけでもない僕なんかが、作り手としていったいどういうことができるのか? そういうことは割としょっちゅう考えていて、それでよく落ち込むんですけど(笑)、でも結局行き着く答えって、そんな自分の考え方がどうやって変化していったかを示すこととか、そういうところにしか僕は自分の可能性とか価値とかを見いだせない、ってことなんですよ、いつも。というか、そこには可能性があると無理矢理思い込むことでなんとか首の皮一枚つながってることにしようとしてるんだと思いますけど。
だから「僕にやれることがあるとしたら、僕らがどうやって現代を生きてて、そしてそこにどうやって歴史に対する想像力を挿入させていくか、その試行錯誤のプロセスを晒すこと、それにはかろうじて、ある種のドキュメントとしての意味があるかも」と岡田は述べている。確かに岡田利規とチェルフィッチュは、一貫してそのようなことをやってきた。ほぼ無名と呼んでよかった彼らが一躍注目を浴びた、岸田國士戯曲賞受賞作『三月の5日間』は、二〇〇三年の三月、米軍のイラク爆撃の真っ最中に渋谷のラブホテルで四連泊するゆきずりの男女を描いたものだったし、二〇〇六年末の『エンジョイ』では、急速に社会問題化していた非正規雇用者=フリーターたちの生態を、当時勃興していたフランスの学生デモと絡めて作品化し、二〇〇八年の『フリータイム』では、引き続き雇用と労働を主題にしつつ、より抽象化された舞台で岡田独自の演劇的方法論を更新し、二〇一〇年の『わたしたちは無傷な別人である』では二〇〇九年八月末の衆議院選挙の前日を舞台に、持てる者と持たざる者の相克、すなわち格差問題へと踏み込み、二〇一一年二月に上演された『ゾウガメのソニックライフ』は、それまでの作品群で描いてきたリアルな現状認識を持ったまま、現在のニッポンで生きること、生きてゆくことを肯定するためには、果たしてどうすればいいのかと問うたものだった。『現在地』は、前作以来一年二ヶ月ぶりに発表された、チェルフィッチュの長篇最新作である。公演にあたって、岡田利規は次のように書いている。 『現在地』は変化をめぐる架空の物語です。SFみたいな。 わたしたちは、状況を変化させたいと強く望んだり、変化させなければと焦ったり、怒ったり、実際に変化に身を投じたり、それはできずにためらったり、常に冷静で穏やかであろうと努めたり、変化するしないを勇敢さ臆病さの問題として考えたり、考えなかったり、開き直ったり、自分の考えていることが正しいのかどうかの確信をどうしても欲しいと思ったり、正しい人間でいたい過ちを犯したくないと思ったり、たとえばその気持ちを過去に人類が起こした取り返しの付かない過失に準えようとしたりします。 『現在地』というフィクションの中の人物たちも、そうやって生きます。
多くの点で『現在地』は、それ以前のチェルフィッチュの作品とは明確に違っている。まず、七人の出演者は全員女優であり、それ以前の全作品に出演してきた看板俳優の山縣太一をはじめ、男性はひとりも出てこない。また、岡田利規の得意技である役柄の非固定化や移動/交換、時空間のあからさまな操作/変形、或いはチェルフィッチュのトレードマークだった異様にきょどった発話や動きも、ほぼ皆無となっている(これらの点については拙著『即興の解体/懐胎』を参照)。もちろんそれらは『三月の5日間』以降の作品群において次第に変化してきていたのだが、『現在地』には、それまでの方法を敢て封印してでも新たな作風に向かおうとする、はっきりとした意志が感じられる。そこで鍵となるのは、右の文章の最後にも出てくる「フィクション」の一語である。 「新潮」の本年四月号のアンケート特集「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」には、岡田利規も回答を寄せている。「僕はかなり変わったと思う」と題された文章は「フィクションを作る想像力を欲しいと思うようになった」という一言から始まっている。「こう書くと驚かれるかもしれない。(略)お前は持ってないの? はい。持っていません。それでも小説を書いている。それでも書けるから。現実を自分なりの仕方で見るブラウザみたいなのを用いることで、僕は小説を書いている」。文芸誌なのでもっぱら小説が話題にされているが、もちろん事は演劇でも同じである。そして「以前」は、それでも別によかったのだ。だが、心境の変化が訪れた。
想像力は、現実とたとえ無関係でもかまわない。現実と拮抗する何かを作るということ。現実のオルタナティブを作るということ。僕はそんなふうに書いたことがこれまでない。少なくともそのように書こうという意志の在り方が僕にはなかった。けれども今の僕が興味があるのは、そういうことだ。この興味に従うとしたら、僕は変容することになる。その変容を成功させる自信は今のところないけれども、変容してしまうことへの恐怖はほとんどまったく持ってない。どうにでも変わってしまえばよい、と思っている。想像力、という問題に自分自身をできるだけ強く押しつけていき、その界面で自分をこすり続けていったらどうなるか? そんなことを考えるようになったのが最大の変化です。
現実の対抗物足り得るフィクションと、それを作り出すための想像力。時期的にいって、この回答を書いている頃、岡田利規はまさに『現在地』の準備中であった筈である。「ドキュメント」から「フィクション」へ。ならば『現在地』は、どのような演劇作品だったのか? すでに述べたように、この作品の登場人物は七人の女性である。そしてこれも述べておいたが、チェルフィッチュには極めて珍しく、七人の女優がそれぞれひとりずつ、名前のある(こともチェルフィッチュでは非常に珍しい)、固定された役柄を演じている。つまり、ごく普通の演劇と同じ形態になっているわけだが、しかし実際の舞台から受ける印象は、ごく普通のドラマとは、かなり異なっている。これは岡田作品の例に漏れず、幕間や舞台転換などは一切無く、役者は全員が最初から最後まで舞台上に居るのだが、全体は登場人物の数と同じ七つのチャプターに分かれており、章が変わるごとにメインの語り手となる人物が変わる(台本では各チャプターに、その章で中心となる役柄の名前が記されている)。章ごとに数人が入れ替わり立ち替わり、それぞれの場面を演じ、その間、台詞のない他の女優たちは、黙ってその様子を見守ったり、退屈そうにしたり、ぼんやりしたりしている。これが奇妙というか、どこか不気味なのだが、しかしこの極度に形式化された構成と、メタ演劇的な趣向は、過去のチェルフィッチュと相通ずるものだとも言える。この作品の新機軸は、やはりあくまでも「SFみたいな架空の物語=フィクション」としての佇まいにこそある。それはほとんど寓話と呼んでもいいようなものである。 どことも特定されていない「村」。ある土曜日の夜、ナホコは恋人と湖にドライブに行った際、青く光る巨大な雲を目撃する。ナホコはそれを村で噂になっている怪しげな占い師の予言、とつぜん何かが起こり、それが原因となって村が滅び、それどころか世界がまるごと破滅してしまうかもしれない、そしてそれには予兆となる現象がある、という恐ろしい予言の兆しではないかと疑い、そのことをカスミに話す。カスミはそんな予言は信じるに値しないと言う。だがナオコは、あの雲はひょっとしたら兆しではなく、村を、世界を破滅させる「何か」そのものではないかとも思い、それがきっかけで恋人とも別れてしまう……これが物語の発端である。ナホコとカスミと同じように、予言をめぐって村は二分されているようだ。ところで、どうやらこの「村」は、おじいちゃんおばあちゃんの世代が、荒廃して内戦が続いていた「日本」という国から脱出してきて作ったものらしい。もっともそれも「これからする話は、おとぎ話みたいにして話すわ」と宣言されてから語られるので、真偽のほどは定かでないのだが。カスミは、あるときハナを連れてきて姉のアユミに紹介する。だが二人はすでに顔見知りだった。道端でハナはアユミに声を掛けていたのだ。ハナは少し変わっている。彼女は噂をひどく怖がっている。だが同時に「たぶん私が今怖がってるのは、そんなものを怖がる必要はほんとうはないものを怖がってるんじゃないか」とも言う。「自分がそれを怖がらなくなるのも、やっぱり怖い」とも。カスミはハナに、不安に捉まえられないように忠告していたかと思うと、とつぜん首を絞めて殺してしまう。カスミはハナの死体に「私たちは、今みたいに世の中がそわそわしているときは特に、不安に陥らないように心がけなければいけないのよ。不安は、人から正気を失なわせるからよ」と言う。やがて、湖の水位が下がり始める。原因不明の出来事に、村人たちは恐怖する。カスミはハナの死体を湖に沈めていたので、別の意味で不安になるが、事故として片付けられる。湖が完全に干上がると、その地中から大きな乗り物が現れる。村人たちはそれを「船」と呼ぶが、どうやら宇宙船のようなものらしい。間近に迫っているやもしれぬ破滅を前にして、人々は選択を迫られる。「船」���乗って「村」を脱出し、遠い場所に行くか、それとも一か八か、この場に留まるか。「船」に村人全員は乗れない。それにそもそも予言が真実であるのかどうかも、まだわからない……実に複雑な余韻を残すラストシーンは記さないでおこう。『現在地』は、ざっとこのような物語である。 『現在地』の戯曲には、役名指定のない「声」とだけ書かれたパートの台詞が何度か出て来る。たとえば「声」は、こんなことを語る。「ときどき世の中に噂が流れると、私たちはそのたびに、選択をせまられるの、その噂を信じるか、信じないのか?」「でも、それよりもっと大事な選択もせまられるの。それは、自分が決めたその噂との付き合いかたと違う付き合いかたを選択した人と、どう向き合うのか?」。或いは、こんなことも言う。「村にこれから悲惨な出来事が起こると言ってる人もいるし、いやもう悲惨なことは日曜に起こってしまってもう取り返しが付かないと言っている人もいるし、それが起こったのは日曜じゃなくて土曜だという人もいるし、何ひとつ起こってないしこれからも起こらないという人もいる。本当はどうなのか、というのは誰にも分からないの。本当はどうなのかは誰にも分からないから、それを尋ねることには意味がないの」。「寓話」と呼んでおいた理由がわかっただろうか? あまりにもあからさまではないか? 誰もが気づくように、『現在地』の物語は、福島第一原発の事故以降、被災地のみならず関東在住の人々のあいだにも巻き起こった、さまざまな紛糾や騒動を、ほとんどダイレクトに思い出させる。このことは、岡田利規自身が、震災後に妻子と共に横浜から熊本に転居した事実を考え合わせるなら、より切迫した問題提起として受け取られるかもしれない。だが、彼はけっして作品の中で結論を出そうとはしていない。現実の行動はどうであれ、あくまでも「変化をめぐる架空の物語」であり「現実と拮抗する何か」でもある「フィクション」として、観客に問いを差し出してみせているだけである。あなたは「予言=噂」に対して、どう振る舞うのか? あなたは迫りくる「破滅」を前にして、何が出来るのか? あなたは「村」を出ていくべきなのだろうか? それともここに居るべきなのか? この作品で岡田利規は、これらの問いを問うこと、このような問いを観客と共有すること、それしかしていない。これは極論ではないと思う。私はむしろ、彼が『現在地』という「フィクション」を使って、ただそれだけしかしようとしなかったということに、少なからぬ衝撃を受けたのだった。もしかするとここには、問い自体よりも重要な何かが顔を覗かせているのではないか、そう思えるのだ。
17。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その1
仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで毎年九月に開催されている「仙台短篇映画祭」のプログラムのひとつとして行なわれた「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」に参加するためである。本連載の第二回で、私は同映画祭の映画制作プロジェクトによる、四十一人の映画作家が撮った四十二本の「三分一一秒」の短篇映画から成るオムニバス作品『311明日』について、やや詳しく述べた。このことがきっかけとなって、同作にたった一人だけ二作を出品していた冨永昌敬監督ともども、トークのゲストとして招かれたのである。驚かれるかもしれないが、私にとって初の仙台だった。 「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は、仙台短篇映画祭とは別に、有志によって継続的に運営されている「てつがくカフェ@せんだい」との共同企画によるもので、九〇年代にフランスで生まれた、専門家とアマチュア、学者と一般人との垣根を取り払った、ジャーゴンを使用しない哲学的な語らいの場である「てつがくカフェ」の特別編だった。いわゆるパネルディスカッションの形式とは違い、一応ファシリテーターが交通整理はするものの、基本的にはその場に集った全員が同じ立場で自由に発言し、対話を交わし、議論を深めてゆくというものである。当然、冨永監督と私も、その中の一員として話した。これはとても貴重な経験だったと思う。 当日配布されたチラシに、「てつがくカフェ@せんだい」の西村高宏氏は次のように書いている。
震災以降、被災地の〈リアル〉を伝えようと数多くのドキュメンタリー映画が制作されつつあります。しかしながら、作り手の意図によって世界が切り取られ編集されていく以上、映画という表現手法にはどこまでも〈フィクション〉の要素が付き纏っているとも言えます。 『311明日』ーー今回のシネマてつがくカフェで取り上げるこの映画は、そういった震災のドキュメンタリー映像ですらありません。41人の映画監督1人ひとりが「3分11秒」という条件、そして「明日」というキーワードをもとに多様な切り口で震災を描いた、まさに〈フィクション〉としての映画です。それは、震災を敢えて〈フィクション〉として描くことで、ドキュメンタリーやニュース映像では捉え切れない震災が持つ問題性をあらためて私たちの前に焙り出そうとする、〈映画表現による震災理解の試み〉とも言えます。
「震災から1年半を迎えた今、あなたは、この映画をどのように受け止めるでしょうか?」。トークが開始される直前に上映が終わるように『311明日』がプログラムに組まれていた。この作品は昨年の映画祭でも上映されているが、一年という時を経て、どのように見え方が変わったか、或いは変わっていないのか、を問い直そうということである。その際に、映画における「リアル(ドキュメンタリー)」と「フィクション」の関係性という問題意識が踏まえられていることも、あらかじめ告げられている。 ここでひとつ付言しておかなくてはならない。冨永昌敬監督の二本の「三分一一秒」ーー『妻、一瞬の帰還』『武闘派野郎』ーーは、前にも述べておいたように連作になっているのだが(そしてこの「連作」ということ自体に深い意味が込められているのだということも前に書いた)、今回の上映にあたって冨永監督は、彼が教えている映画専門学校の卒業生六名にメガホンを握らせ(彼自身は全作品でカメラマンを担当している)、なんと「三分一一秒」×六本もの新作を引っさげて、映画祭に乗り込んできたのである。それも誰に求められたわけでもなく、完全に自発的に。そしてこの六本は当然のごとく冨永監督の二作の続編になっていたのだ。以下に作品名と監督名を挙げておく。『ライバル』堀切基和/『居候』市来聖史/『野郎釣り』鈴木薫/『行くも千里、戻るも千里』岡部徹/『背水』松尾圭太/『捲れる』増田和由。ストーリーは、この順番で続いている。冨永監督は、この内の三名を伴って仙台にやってきた。こうして、出来立てほやほやの新作六本に最初の二本を加えた「三分一一秒」×八本による「武闘派野郎サーガ」(と勝手に命名しておく)を『311明日』とは別に一挙上映してから、この日の「シネマてつがくカフェ」は開始されたのだった。 「武闘派野郎サーガ」の第三話以降では、第二話で登場した「武闘派野郎」こと単細胞な俳優志望のミュージシャンが、第一話、第二話の映画監督に代わって主役(?)となっている(映画監督も出て来るが)。彼はどう見てもカラオケボックスにしか思えない映画のオーディション会場で沢田研二を熱唱したり、そこでライバルと出会ったり、釣った小物の魚をめぐって謎の青年と喧嘩したり、俳優をめざすべくバンドを脱退しようとしたら後釜が例のライバルだったり、悪夢になぜか第一話に登場した映画監督の妻が出てきたりするのだが、総じて言えることは、もともと『311明日』の中でも特に「震災」と関係がなさそうに見えた最初の二本にも増して、「311」と「明日」から遠ざかっていってしまっているように思える、ということである。もちろん、この連作には、冨永昌敬の「仙台短篇映画祭」に対する想いが込められている。以前にも引用した彼の言葉を、ふたたび引いておく。
その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。 (「映画制作のこと」、『311明日』パンフレット)
冨永監督とその弟子たちは、この「夢想」を実現するべく新作を撮ったのだ。それは間違いない。八本だから「25分28秒」まで来たわけである。だがそれにしても、前二作以上に、一見しても何度見ても、ほとんど巫山戯ているとしか思われないだろう「武闘派野郎サーガ」の後で、仙台のひとびとによって、いったいどんな「震災と映画」にかんする言葉が交わされるのか。私は正直、いささか緊張して「シネマてつがくカフェ」に臨んだのだった。 せんだいメディアテークの一階、オープンスクエアと呼ばれている吹き抜けのスペースで「シネマてつがくカフェ」は始まった。エントランスにはカフェやショップが併設されており、マイクで話す声はフロアに丸聞こえだから、興味を感じた人はいつでも加わることが出来る。約三十分の「武闘派野郎サーガ」上映後、やはりというべきか、会場は当惑まじりの奇妙な静寂に覆われていたように思う。てつがくカフェ@せんだいのファシリテーターの方が、まず今観終えたばかりの映画への率直な感想を求める。暫しの沈黙の後、ひとりの中年の女性がおずおずと手を上げた。彼女は言葉を絞り出すようにして、ここ仙台から、被災地から遠く離れた、いわば無関係で安全な土地に住む、冨永監督をはじめとする映画作家たちが、このような機会にこうして映画を撮ったということ自体について、率直な感謝の意を述べた。しかしそれにしても、今の映画は何だったのだろう?。そんな戸惑いの空気がいまだ会場に流れていたのは事実だ。その空気を取り払おうとするかのように、冨永監督が比較的長い発言を行なった。語り口���を残しつつ、以下に再構成してみる。
「これは若干説明が必要な作品だなと、僕自身さっき観ながらしみじみ思ったので、ちょっと説明させていただいてもよろしいでしょうか。「震災と映画」というテーマの中で、こういった作品、内容的には震災とまったく関係のない作品を観ていただいたわけですが、なんでこんな作品が出来たのかということをお話させていただければと思います。 遡れば、震災以前になるんですけれども、去年の仙台短篇映画祭で、映画祭にゆかりのある監督何人かに、宮城県内で短篇映画を撮らせるという企画があって、僕も声を掛けられていたんです。それで、どういう映画を作ろうかアイデアを練っていたのですが、主人公を映画監督にして、まあ僕自身がモデ��になっているとまではいいませんが、とにかく監督が主人公で、彼が映画を撮るのに些細な日常に邪魔されるといいますか、映画作りをする上で、日々のあれこれに色々と揺さぶられながらやっているんだということを描こうと考えたんです。映画を作っている人間の生活を描くということですね。そこで、その監督のところに俳優志望の男、しかも物凄く自己主張の強い男がやってきたら、一体どうなるか、というストーリーを思いついた。というのは普段、僕なんかがオーディションや俳優学校の教師をやる際にも、そういう人はよく現れるわけです。かなり誇張はしてますけれども、あの「武闘派野郎」は、われわれにとってはかなりリアルな人物で、よくいる厄介な男という奴なんですね。自分が如何に映画俳優として優れているかをアピールするのならまだしも、どういうわけか、自分が如何に優れた男であるか、演技とは無関係な一芸に秀でた男であるか、あまつさえ強い男であるか、といったことをアピールしてしまう人ってのが実際にいるわけです。どこの世界にもいるかもしれませんけど、一言でいうと、これは馬鹿な人であるわけです。それで、いつかこれを映画にしてやろうと思ってたんですね。 その機が遂に来た、と思ったわけなんですが、そんな時に震災があった。震災後一ヶ月くらいの頃ですか、まだ今年の映画祭が開けるかどうかわからない時期があったんです。当然、僕が依頼されていた企画も断念さぜるを得なくなった。それでスタッフの方達が相談している場に僕がたまたま居合わせた際に、ごく短い映画であれば、みんな何かしら撮ってくれるのではないか、それを集めて上映したらどうか、と提案させていただいて、それはあくまできっかけに過ぎませんけれども、それが最終的に『311明日』になった。 「三分一一秒」の映画を、と依頼されて、それぞれの監督たちが考えたのは、震災と映画ということだけではなくて、震災と映画祭と自分、ということだったと思うんです。あのまま映画祭が中止になってしまっていたら、ある意味で、自分たちも被災することになってしまう。それだけは食い止めなくてはならない。そういう思いで、皆さん映画を撮った。だからまず参加すること、とにかく間に合わせることが何よりも重要なことだった。結果として、皆���ん好き勝手な映画を作っているようにも見える。まったく別の理由で撮りつつあった映画を「三分一一秒」に編集して提出した方もいただろうと思います。だから内容的に震災とまったく関係のない作品も沢山ありましたし、僕の作品もそうだと思います。 僕自身が意識していたのは、先ほどお話した、そもそも東日本大震災があろうとなかろうと撮るつもりだった映画を、そのまま撮ろうということでした。これはひとつの考え方でしかありませんが、そうしないと震災に負けたような気持ちになってしまうと思ったんです。震災の前からやると決めていたことをやる。だから作品の内容自体は、震災などなかったかのようになっていると思います。去年、僕だけ二本、フライングみたいに出したわけですが、ほんとうは、もしも作品の集まりが悪かったら、僕ひとりで十本でも撮りますよ、とか言ってたんです。なのにたった二本だったということに僕自身、しこりを感じていまして、ずっと反省としてあったんです。だからこれは翌年、翌年と繋げてゆくしかない、そう思った。三作目からは、最初の計画の映画監督ではなく、俳優志望の愛すべき馬鹿を描いてゆこう。だから今年、新たに六本持ってきたのは、映画祭から求められたわけでは全然なくて、これはもう自分で決めて勝手にやったんです。だからこそ、この場では、まず続編を観てもらわないと、僕としては話を始められない。なぜなら、これが僕にとっての、震災と映画と自分、震災と映画祭と自分のかかわり方であるからです。震災が起こってから、僕もいろんなことを考えながら生きてきました。けれども、生活人としての自分と、映画人としての自分は混同しないようにしたいのです。 もうひとつだけ言っておきますと、これで完結ではありません。来年もきっと新作を持ってくると思います。僕はさっき、もしも映画祭が中止になっていたなら、東京に住んでいる自分も被災していた、と言いました。映画祭スタッフの皆さんが大変な努力をしてくれたおかげで、僕らは被災しなくてすんだわけです。でもそれは去年で終わりではない。去年の開催は、震災が起こる前から当然決まっていたわけです。しかし今年は明確に震災後です。むしろ今年の方が中止される可能性があったのではないか。今こうして正常に開催されているという事実を、僕は嬉しく思います。だからこそ続編を作って持ってくるべきだと思ったのです。だから来年も再来年も撮ります。どれだけ撮ればいいのか、考えてみたんですけれども、少なくとも最初に集まった本数と同じだけ、四十二本までは撮り続けなくてはならないのではないか、そう思っています。そして四十二本に辿り着く頃には、ようやくこの連作は震災と関係してくるのではないか、そうも思っています。だから来年、再来年もここに来ますので、末永くお付き合いをお願い致します……」
冨永監督の長いスピーチを聞きながら、私は彼が言っていること、彼の話しぶりに、ある紛れもないパフォーマティヴな含意が隠されていることに気づき、静かな感銘を受けた。彼は昨年の仙台短篇映画祭を中止にしないために「三分一一秒の映画」に至る提案をした。それは自分自身が「被災」しないためだと言った。そして彼だけが「三分一一秒」を二本撮った。今年、彼は弟子たちと六本もの「三分一一秒」を自発的に撮って仙台にやってきた。そして彼は来年も再来年も新作と共にここに来ると宣言した。つまり、彼は来年以降も映画祭が中止されることがないように「三分一一秒」を連ねていこうとしているのだ。彼の発言は、弁明でも韜晦でもない。彼はただ、これからも「三分一一秒」は延々と繋げられてゆくので、上映の場であるこの映画祭はちゃんと開催されて欲しい、と祈願しているのだ。なぜならば、そうでないと、たとえ時間が経っていっても、やがて「被災」してしまうから、震災に負けてしまうから。冨永昌敬は本気で「防波堤」を築くために「小石」を積んでいくつもりなのである。 私も発言した。だがそれは、ほとんどが本連載でこれまで書いてきたことの繰り返しなので、ここでは再現しない。私は「震災と映画」というよりも「震災と芸術(表現)」全般についての自分の考えとして、いや「震災」とのかかわり以前に「芸術(表現)」について常々思うこととして、内的な必然性、切実さ、の話をした。「せねばならない」ではなく「しないではいられない」ということ。「こうあるべき」ではなく「こうしかできない(こうしかならない)」ということ。やらなくてもよい、そうしなくてもよい、という当然さを乗り越えて現れるもの。否定(やらない/ではない)の否定としての能動性。責務として引き受けられる(押し付けられる)ものではなく、無為の権利を無根拠に逆転して露出する行為。私には『311明日』という映画の試みが、そしてその中でも冨永昌敬がやろうとしたこと、やったこと、これからやろうとしていることが、そのような意味での切実さ、内的必然性を強く帯びていると思った。誤解を畏れずに言ってしまえば、それは内容やテーマとは別個に存在しているのだ。 今年の仙台短篇映画祭のサブタイトルは「継続ーー物語を続けよう」である。私はパンフレットにテクストを寄稿した。会場でしか配布されなかったものなので、以下に再掲しておきたい。
「明日の映画と映画の明日」
震災以後、誰であれ自分は何も変わっていないとうそぶくのなら、それはもちろん嘘だ。だが、すべてが変わってしまったとか、変わらざるを得ないとか変わるべきであるとか、変わろう変えよう、変えろ変われ、などと言われると、それもどこか間違っているような気がしてしまう。われわれは皆、多かれ少なかれ、否応無しに、すでに変わっており、変わり続けている。認めると認めざるとにかかわらず、われわれ全員が、あの日の「以後」を生きているのだから。何をするにしたって、それはなんらか影響してこざるを得ないだろう。むしろだからこそ、殊更に変化を強調するわけではない、ごく淡々とした営みの中にこそ、不可逆的な変化が滲んでおり、本人自身も気づいていないかもしれない、そんなありさまを見て取ることこそが、たとえば自分のような仕事にやれることなのかもしれないと考えたりしている。 こんにち映画を撮るということは、昔よりもずっとお手軽で簡単なことになっていると同時に、ますますむつかしさを極めていっているようにも思える。デジタル機材の充実は、間違いなく映画制作の現場を変えたし、それは日進月歩を続けてもいる。だが、映画監督として身を立てるとか、自分の映画を不特定多数の観客=他者へと向けて差し出し、後世へと残してゆく、といった事となると、以前より困難になっているのかもしれない。作り手だけでは作品は完結しない。スクリーンを介してカメラと瞳が出会わなくては、映画はほんとうの意味で、この世界に生まれ落ちたことにはならない。だが、メジャーな映画の業界を見回してみると、ゼロ年代を通じて完全に覇権を握った製作委員会の名のもとに、テレビ局やら大手芸能事務所やら広告代理店やら巨大出版社やらの利権と思惑に突き動かされるメディア・ミックスしか、映画が生まれる方法はなくなってきているとさえ思えてくる。そういう、たかだか「商品」でしかないもの(もちろん、それにも良し悪しはあるにせよ)と、われわれが本当に観たい映画とは、同じ「映画」と呼ばれてはいても、もしかすると全然違うものになってきているのではないか。そんな疑いさえ頭をもたげてくる。そろそろ違う名前を用意するべきなのかもしれない。 僕が観たいのは、ある紛れもない必然性をもって生まれてくる映画だ。この必然性は、切実さを伴っていなくてはならない。撮らずにはいられなかった映画、生まれてこないわけにいかなかった映画。切実さは、���人的なもので構わない。それは使命感とか責任感とは違う。もっとある意味では取るに足らない、他人にすぐには伝わらないような、こだわりのようなものでもいい。作られる価値がある映画というよりも、出来はともかく兎に角作りたいという動機だけは煌煌と輝いている映画。役に立つとか立たないとか、ウケるとかウレるとか、そういうことはもうどうでもいい。ただひたすら、ああ映画が撮りたかったのだな、ああこの映画が撮りたかったんだな、と納得してしまうような、強い動機と必然性を帯びた映画が観たいのだ。この気持ちは、前からそうだったけれど、去年の三月一一日以後、ますます増してきている。 仙台短篇映画祭は、そんな動機と必然性を持った映画たちを送り出す、ささやかなプラットホームのごとき映画祭だと思う。誰かのカメラと誰かの瞳が出会う場所としての映画祭。 他のあらゆる芸術と同じく、今のこの状況下で「映画」に何が出来るのか、なんて問い直す必要はない。ただ撮られ、観られるだけでいい。いちばん大切なことは、明日に映画が生まれること、明日も映画が生まれること、明日の映画が生まれることなのだから。大きくなくていい、小さな映画でもいい。小さくてもとても強い映画はあるのだから。そしてそんな映画たちには、われわれ全員が今もその渦中を生きている、あの日からの不可逆的な変化が刻印されていることだろう。僕はそれを、けっして見逃さないつもりだ。
18。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その2
ファシリテーターの方から、彼女自身が昨年『311明日』をはじめて観た時の感想として、ついていけない、と思ってしまった、という発言があった。「三分一一秒」はあまりにも短すぎて、次から次へと矢継ぎ早にスクリーンを駆け去ってゆく小さな映画たちが、忙しなさや焦燥のような感覚を抱かせたということだろうか。これに対して冨永監督は、「三分一一秒の映画」は、実はとてもむつかしいのだ、と応じた。確かにそれは手早く作ることが出来る短さではある。けれどもその短さで一本の映画=物語をまがりなりにも完結させるためには、やはり相応の技術が要る。たぶん自分はまだ「三分一一秒」の正しい使い方を学んでいる途中なのであり、それが次第にわかってくるのと、「震災と映画」についての当事者としての感覚が芽生えてくるのは、同じ時期であるかもしれない、と。これに対して、てつがくカフェ@せんだいの西村氏が発言し、ついていけない、という感覚の意味は、長い短いの問題という客観的な時間よりも、まだ震災から半年しか経っていない時期に、被災した仙台という場所で、フィクションが大量に眼前を通過してゆくのを、何よりもまずからだ自体が受け付けなかったということなのではないか、と述べた。何しろわれわれは、はっきりとフィクションを凌駕してしまったと思える現実の映像を、のべつまくなしに見させられていたのだ。冨永監督はもっぱら映画の作り手の側から話してくれたが、われわれ観客にとって映画とは当然ながら見るものなのだから、そこには身体的なタイミングとマッチングが、やはりあるのだ、と。そしてそれを受けて、ふたたびファシリテーターの方が、あれから一年が経って、今回は少し観た感じが変わった。思えば一年前は、映画だけではなく、他のジャンル、書かれたものも含めて、作品としての良し悪し以前に、すべてがフラットになってしまったような感じがあった。あの頃に較べると、今は中身を咀嚼する余裕が出来てきたように思う、と語った。興味深い応酬である。 このあたりで、やっと場も熟れてきたのか、来場者からもぽつぽつと発言が出て来るようになった。それらは私にとっていずれも、さまざまな意味で示唆的なものだった。幾つかランダムに、仙台の人たちの声を拾ってみたいと思う。 「昨年の映画祭でこの作品を観ました。たくさん映画があって、いろんな感情が次々とわき起こったんですが、もちろん作り手の方々はそれぞれに勇気の要ることだったと思います。でも、観ているこちら側も、感情を揺り動かされること自体が、後ろめたい、という気持ちを感じながら観ていたという印象があります。観ているものに対して、なにかしら自分の感情が変化してゆく,そのこと自体が後ろめたい。その繰り返しの中から、先ほど言われていた「追いつけない」という感覚が生じてゆく感じが、自分にもあったと思います」(女性)
「わたしはずっと映画とか必要じゃないと思っていて、ほとんど観ないで育ったんです。それがたまたま、震災よりずっと前のことなんですけど、冨永監督の短篇映画を観て、そのとき、何かすごい理由があったわけではないんですけれども、親にも悪いし、震災で亡くなった方たちにも申し訳ないのですが、ただわけもなく死にたくてしょうがないと思っていたときに、その映画が、何も考えなくてもいいんだよって言ってくれている気がしたんです。監督がそう思っているということではないと思うんですけど、死にたい死にたいと思っていた頃に、何も考えなくても過ごせる時間があるということを、教えてくれたっていうか。 震災でいろいろあって、大切なひとが亡くなってしまったりした人が、たとえ一時でも、何も考えないで過ごせる時間があって、その時間を楽しめたりするということは、それだけでも映画って必要だな、と思ったんです。だから映画祭が開かれたことが嬉しいし、冨永監督にも来年も来てほしいし、新しい映画を作ってほしいです。短篇映画でも長い映画でも、震災と関係があってもなくても、いろんな映画が撮られて、ここで観ることが出来ること、いろんなものが存在していることが、幸せなんだと思います」(女性)
「ピカソに『ゲルニカ』という絵がありますけども、ピカソの郷里が空爆にあって、その哀しみを描いた絵と言われています。完成した絵は人物が手を広げていて、叫びや哀しみを表しているとされていますが、下書きでは握り拳をしていて、元は怒りの絵だったと言われているんです。わたしは映画ってメッセージだと思うんです。メッセージの伝え方にはいろいろあると思う。いま、震災の哀しみが怒りに変わってきた気がしています。それが次は諦めに変わっていってしまうのが怖いんです。だから怒りを維持させてくれるような映画が観たい。映画は観れなかったのですけれども、わたしは、そう思っています」(男性)
「震災があろうとなかろうと、自分が作りたい作品を撮るしかないという冨永監督の気持ちには賛成しますし、それと同時に、震災の記録を残して欲しいという気持ちもよくわかります。でも、いつか必ず、わたしたちは震災を忘れる必要もあるのではないか。そのための時間が必要なんじゃないか。かなしみや怒りにばかり時間を使っていると、気持ちが過去にばかり向かってしまって、未来をクリエイトできないと思うんです。だから、いずれ忘れるということも大事なのではないか、そう思います」(男性)
「『三月一一日』について、ここ仙台では、被災した東北では、もはやひとつのイメージが出来上がってしまっていると思うんです。わたしたちの誰もが、震災についてのイメージを共有している。そして何を見ても、ついついそのイメージを探してしまって、それを確認しようとしてしまう。でもこの映画を見ても、そんなイメージは見当たらない。探せど探せど、そんなものはどこにもない。それに監督自身が、映画と震災は関係ないって仰っている。でもそれが逆に、わたしたち当事者だけでは打ち破ることのできないイメージの展開を生んでいると思ったんです。映画というものが持っている可能性として、ずいぶんと固くなってしまった構造を壊すような出来事として「三分一一秒」があった、今はそんな気がしています」(男性)
発言された方々は比較的年配の方が多かった。震災を忘れる必要もあると話した男性は、まだ若く見えたし、そう思って発言を読むと、字面だけとはまた異なる印象があるのかもしれない。皆さんそれぞれの立場で、『311明日』について、「武闘派野郎サーガ」について、そして「震災と映画」について、意見を述べられた。ふと気づくと、予定時間をかなり超過していた。最後に手を挙げて発言されたのは、初老の男性だった。同心円状に配置されたベンチの一番外周のあたりに坐っておられた方である。
「一言でも喋って帰らないと、なんだか具合が悪くなりそうなので、ひとに語ることでもないのかもしれませんが、少しだけ話してみたいと思います。映画は去年の九月に観ました。ほんとうは今日の二度目も観たかったんです。一年間が過ぎて、同じ映画をどう見る自分がいるのか確かめたかったんですが、仕事のために来られませんでした。とても残念です。 一年前に見た時のことを思い出すと、作り手たちと似通った感情を持っていたのだという気がします。戸惑いとか迷いとか、もしかしたら照れのようなものとか、あるいは妙な力みとか、そのような感情を、映像を見ながら作り手と共有していた、そんな気がします。ある意味、作る側も見る側も、すごく無理をしている、ある種の無理をしている、それを映画というものを通して共有していた。先ほど、ついていけない、追いつけない感覚、ということを仰った方がいましたが、そういう感覚を私も持ちました。けれども、こういうものを観ようとしている自分って何なんだろう、というのが、ずっと自分の中で引っかかっていて、それはどこかで、震災というものと向き合う自分を確認したい、それを言葉にしていきたい、いろんな感情を通して、真面目腐っていえば、自分を見つめていきたい、みたいなところがあったのだと思います。 先ほど、作り手としての内的な必然性、切実さという話がありました。それだけではなくて、私たち観る側、オーディエンスにも、観る側の必然性ってものがあると思うんです。それは自分にとって何なのだろう、とずっと問いかけながら、『なみのおと』とか『測量技師たち』とか、色んな映画を震災後、観てきました。どうして観るんだろうかと自分に問うてみると、それはやっぱり、震災と自分との距離感を推し量りかねてるんですよね、ずっと。あれから一年半も経っても、一年半しか経ってないっていう言い方もあるかもしれませんが、そこに答えを見つけかねている。たまたま被災地にいるということで、何かを清算できない自分を抱えたままでいる。 冨永さんの今日の映画も、正直いって全然理解できないんです。でも、理解できないから投げ出してしまうのではなくて、わからない自分も大切にしたいな、というか。何かを清算できない、震災との距離感をはかりかねている、ずっと戸惑ったままの自分っていうものを、そのままちょっと抱えていきたいというか。変にわかりたくない、わかったつもりになりたくない、という気持ち。だからきっとこの先もずっと、自分は冨永さんの作る映画を観ていくのだろうと思います」
こうして「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は終了した。最後の男性の言葉に、私は深く感じ入っていた。彼は答えを必死で探しているのだが、それは見つからない。答えはなかなか得られない。そしてどうやらそんなものはないのだろうということにも、彼は薄々(最初から?)感づいていることだろう。それでも彼は探すことを止めることはないし、止められない。東京から来た若造の映画監督たちがこしらえた映画を見たって、さっぱりわからない。だがこのわからなさは、単純な理解や了解の問題���、世代や時代の差異に還元出来るようなこととは、どこか違っている。どうしてこいつらは、よりにもよって、この機会に、こんな折に、こんな映画を、誰かに頼まれたわけでもないのにわざわざ自力で撮って、ここ仙台まで持ってきたのか。何の責任も関係もありはしないのに、どうしてギリギリまで編集や音声の調整を行ない、一台のクルマに同乗して、ボスである冨永昌敬が自ら運転して、東京から数時間を費やして、せんだいメディアテークにやってきたのか。ほんとうにさっぱりわからない。だが確かに、そういうことがあったからこそ、自分は今、ここでこうやって喋っているのだ。正直言って全然わからない。だが、わかったつもりにもなりたくない、そう語っているのだ。 19。「フタバ」から遠く離れて
『フタバから遠く離れて』は、『Big River』『谷中暮色』など、これまではもっぱら劇映画を撮ってきた舩橋淳監督が、はじめて発表した長篇ドキュメンタリー映画である(もっとも彼はニューヨークを拠点として主にテレビ用のドキュメンタリー作品は数多く作っている)。フタバとは福島県双葉町のこと。同町には東京電力福島第一原子力発電所の5号機と6号機があり、更に7号機と8号機の招致も進んでいた。二〇一一年三月一一日、1号機の水素爆発によって、双葉町は全面立ち入り禁止の警戒区域に指定され、一四二三人の町民全員が、埼玉県の旧騎西高校へと避難し、現在も同地での生活を余儀なくされている。原発事故によって、ひとつの町が丸ごと移転したのは、被災地でたった一件、フタバだけである。この映画は双葉町民たちの「以後」の生活を、舩橋監督が九ヶ月間にわたって記録したものである。 この映画の題名には複数の意味が込められていると私は思う。まず空間的な側面から述べると、ここには少なくとも三つの「遠く離れて」がある。まず第一に無論のこと、それは福島県双葉町と埼玉県旧騎西町(現在の加須市)を隔てる約250kmもの物理的な距離のことである。否応無しに故郷から引き離され、途方も無い距離を抱え込まされた双葉町のひとびとの境遇を、この言葉は表している。だがそれだけではない。映画で「から遠く離れて」と聞いて、すぐに思い出されるのは、言うまでもなく『ベトナムから遠く離れて』である。ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニエス・ヴァルダの六名の監督がベトナム戦争をテーマに撮り上げた一九六七年のオムニバス作品。“Loin du Vietnam”という原題には、不毛で悲惨な戦いの続くベトナムと映画作家たちとのあいだに横たわる或る絶対的/絶望的な距離(それは具体的なものだけではなく、非=当事者性とでも呼ぶべき認識ともかかわっている)と、その距離を越えて発言しようとする意志とが共に表現されている。舩橋監督もまた、フタバから遠く離れてある、そうあらざるを得ない自分を絶えず確認しつつ、それでも/それゆえにカメラを構えて撮り続けたのに違いない。彼は広島の被爆二世であると映画の資料には記されているが、そのことがこの作品の動機と関係あるのかないのかは、実のところ本質的な問題ではない。そうではなく、長くNYに住み、現在は東京で暮らす彼が、フタバとの距離をしかと自覚しつつも、距離を何らかの仕方で縮めようとするのではなく(それは結局、どこまでいっても不可能なことだ)、むしろ距離を丸ごと受け止めることによって、この映画を完成させた、ということが重要なのだ。それは報道や記録という行為にかかわる責務の意識というよりも、こう言ってよければ、本能や衝動といったものに属している。何者としての本能や衝動なのかと問われたら、ドキュメンタリー作家としての、映画監督としての、表現者としての、ひととしての、と答えよう。したがって「遠く離れて」の第二の意味とは、舩橋淳の立つ場所を指している。そして第三に、それはこの映画の観客が意識する距離のことでもある。この作品は、東京・渋谷のミニシアターでロードショー公開された。ある場所を定点観測したドキュメンタリー映画が、そこから遠く離れた場所で赤の他人たちによって観られるということ。観客に、彼ら彼女らがスクリーンを見据えている渋谷の映画館と、そこに映っている埼玉の廃校となった高校と、そこに映っているひとびとが引き剥がされてある福島県双葉町、その二重となった途方もない距離をどうにかして実感させること。それは安易な共感や憐憫の発動によっては果たされない(むしろそれは真逆に振れるだけだろう)。フタバから遠く離れて映画を観ている、言ってしまえばただそれだけの者たちに、如何にしてその距離を受け止めさせられるのか。 遠く離れてあるのは空間だけではない。時間的な距離もまた、そこには複層となって横たわっている。映画とは常に過去の缶詰であり、昔にしか行けない、しかも傍観することしか出来ない、いわば一種の欠陥タイムマシンの機能を有している。映画を観るたびに、そこではあの日ある場所で現実にあったこと(それはドキュメンタリーでもフィクションでも同じことである)が何度でも繰り返される。そして必然的に、撮影されることで反復再生可能とされた過去の時間と現在との時間的距離は、刻々と開いてゆくことになる。この映画が「二〇一一年三月一一日以後」の約九ヶ月を描いていることは既に触れたが、それだけの期間にわたり撮影され記録されたフッテージが、編集作業を経て一本の映画として完成し渋谷の映画館で公開されたのは「二〇一二年十月十三日」のことである。ここにある十九ヶ月余という時間。『フタバから遠く離れて』に記録された時間は、永遠にこの内にある。そしてそれは、常にその時々の現在において再生されることによって撮られた過去の時間から、しかしそこにいつまでも同じ時間が佇んでいることでその都度の現在からも、どんどん遠く離れてゆく。今後幾度となく上映されることになるだろう未来の時間の中で、この映画に留められた過去の或る時間は、そのままであり続けることによってこそ、その意味を変えてゆくのだ。 実際のところ、現時点でも、双葉町のひとびとが故郷に戻れる時期はおろか、それがいつかは可能であるのかどうかさえわかっていない。埼玉県への町ごとの避難を決定し主導した双葉町の井戸川克隆町長は、映画の中で名前と肩書きのテロップと共に登場する最初の人物であり、国と東電に極めて 厳しい態度で臨む首長として報道メディアにもたびたび取り上げられている方だが、彼が旧騎西高校内に移転している町役場の仮の町長室(そこはおそらく校長室だったのだろう)で、地図や資料を示しつつ淡々と語る双葉町の歴史は、日本の原子力行政が抱える問題の縮図である(この映画の英語題名は“Nuclear Nation”)。七〇年代、福島第一原子力発電所の5号機6号機を迎え入れることによって巨額の「原発マネー」が入り込み、「福島のチベット」とも呼ばれた農業の脆弱と過疎による税収の低下に伴う困窮��ら一時救われ、ハコ物やインフラ整備などを次々と行なうなど繁栄したが、その後は原発を抱え続けることで得られる固定資産税も年々減少し、二〇〇七年には財政破綻目前となってしまう。新たに町長となった井戸川氏は、国からの交付金と新たな固定資産税以外に町を救う手立てはないと決意し、二〇〇二年の東電によるトラブル隠しがきっかけで長年棚上げされていた7号機8号機の誘致を決定、それは事故が起こる一ヶ月後には着工されることになっていた。つまり明確な原発推進派だった井戸川町長は、しかし今では、それはすべて間違いだったのだと、原発の功と罪を較べてみるならば、罪の方が圧倒的に多かったのだと語る。 映画の後半には、全国原子力発電所所在市町村協議会の事故後初の会合の模様も描かれる。当時経済産業大臣だった海江田万里が挨拶に立ち、すぐに公務のためだと言って退席、次いでマイクを握った細野豪志内閣府特命担当大臣(当時)も発言を終えるやいなや退席という光景には唖然とするしかない。関係省庁の席の前列がほとんど空席となった異様な状態で発言に立った井戸川町長が「なぜこのような思いをしなくてはならないのか、はっきり言って悔しい」と語り出し、被爆検査さえ遅々として進まない現状を訴え、やがて静かに怒りを爆発させる場面は、ネットやテレビでも伝えられた。なぜ自分らの家に住めなくなってしまったのか、悔しい。映画のラスト近く、次の字幕が映し出される。「2011年12月、日本政府は、福島第一原子力発電所が冷温停止状態に達し、事故は収束したと発表」「さらに放射性廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡内に設置する計画を打ち出した。除染が進まないかぎり、町へは5年以上帰還できないといわれている」。 二〇一二年十月十五日、井戸川町長は、いわき市東田町の福島地方法務局勿来出張所跡地に双葉町の役場機能を移す方針を町議会臨時会で明らかにした。年内にも仮庁舎建設に着工し、二〇一三年三月までには移転する計画だという。だが、関東地方に避難している町民も多いことから、旧騎西高校の避難所は当面継続するとのことである。十月十八日には、旧騎西高校の双葉町役場を長浜博行環境大臣と園田康博副大臣が訪問し、井戸川町長に就任の挨拶と意見交換を行なった。町からは十一項目に及ぶ要望書が手渡されたが、長浜環境相は「持ち帰って検討させて下さい」とだけ述べて、具体的な内容については言及しなかったという。かくのごとく状況は推移している。『フタバから遠く離れて』と「今日」との距離は、一日一日広がってゆく。その距離を測定し続けること。 舩橋監督は、映画のプレスシートに寄せた文章にこう書いている。
この映画は、避難民の時間を描いている。1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。今回の原発事故で失われたのは、土地、不���産、仕事…金で賠償できる物ばかりではない。人の繋がり、風土、郷土と歴史、という無形の財産も吹き飛んでしまった。それに対する償いは、あいにく誰も用意していない。用意できるものでもない。 そして、僕たちはその福島で作られた電気を使いつづけてきた。無意識に、加害者の側に立ってしまっていた。いや我々は東電じゃないんだから、加害者じゃない、というかもしれない。本当にそうなのか。地方に危険な原発を背負わせる政府を支えてきたのは、誰なのか。そんな犠牲のシステムに依存して、電気を使ってきたのは誰なのか。 いま僕たちの当事者意識が問われている。
避難民の時間。フタバから遠く離れて生きるひとびとの姿は、当然ながら一通りではない。それぞれの家庭が抱える事情や問題、補償の現状、将来への展望などによって、双葉町民の「距離」の認識は異なるし、それはまさに時間とともに変化してゆく。映画はそうした違いもつぶさに描いている。校舎の入口に飾られた七夕の短冊に幼い手書きの文字で「ふたばに帰りたいです」などとあるのを見ると胸が詰まるが、後半では、避難所生活からマンション暮らしとなった老夫婦が、もう双葉に戻るつもりはない。戻れないだろうし、たとえ戻れたとしても、今より生活が良くなるとは思えない。それに、もうこちらの生活に慣れてしまったのだ、と語ったりもする。二〇一一年七月中旬に東京・日比谷公園で行なわれた抗議デモのシーンでは、数十人の避難民たちが「双葉を返せ!」「俺たちは双葉に帰るぞ!」などと叫びながら路上を練り歩き、最後は自民党本部前でのほとんど戯画的というしかない陳情の場面となる。デモ隊の人たちが必死で訴えているのに、通り一遍の笑顔と握手、空疎な言葉によってしか応じようとしない自民党代議士たちの不気味さ。映画の製作日誌を基にした書籍『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』の中で、舩橋監督はこのデモの直後、抗議に参加した知り合いの女性に「事故がまだ収束しない中で、政府にどうやって双葉を返して欲しい、と思うのですか?」と率直な質問をぶつけてみたと書いている。それに対する女性の答えはこういうものだ。
「あたしらだって、知ってるわよ、帰れないって。今度一時帰宅があるけど、行っても家の中ぐちゃぐちゃで何か持ってこようって気にもならないと思う。あそこに行ったら、もう戻れないだろうなって思う。それはわかっててやってるのよ……無駄だってわかってやってるのよ」
もちろん双葉に帰る願いが永久にかなわないと決まっているわけではないし、その望みを諦めてしまったわけでもないだろう。だがおそらくはもう「帰れない」と、だからデモをしても「無駄」だとわかっていながら、頭の中ではそう認識していながら、故郷を返せ、故郷に帰りたいと、声を上げずにはいられない、そうせずにはどうにもやり切れないという気持ち。この叫びと、もう帰らない、帰らなくてもいい、という発言は、正反対のようだが、どちらも或るひとつの出来事、誰一人として望んだわけではない出来事を端緒としている。「遠く離れて」を自ら選んだのではないという点で、双葉のひとびとは全員が同じ条件に属している。そこから先が異なるのは当たり前である。そこから先しか彼らは選択の余地がないのだから。だからむしろそのような個々の選択を強いられるという事に悲劇があるのである。フタバから遠く離れて、あなたはどうしますか? この問いこそが悲劇なのだ。 『フタバから遠く離れて』は、森達也他の『311』とも、松林要樹の『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』とも、まったく違う感触を持ったドキュメンタリー映画である。『311』の賛否両論をものともせぬ突撃精神も、『相馬看花』の詩的とも思える叙述も、この映画にはない。あるのは対象に対する適切な、きわめて適切な「距離」感である。この「距離」は先に述べておいたように複層的なものである。舩橋監督は『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』で、次のように書いている。
震災後、多くの映像ディレクターが東北に向かった。何かを撮らなければいけないという使命感、もしくは義務感に駆られてキャメラを手にした人がほとんどではないだろうか。告白すると、私も同じように感じ、気仙沼や南三陸町へ訪れもした。何かを撮らなければいけないという衝動ばかりだったのだが何をどう撮ってよいのか、正直わからなかった。地震で無惨に崩壊した家々を写す者、津波に呑まれた死体を写す者、ガイガーカウンターをカメラの前にかざし、どれだけの高い値か興奮して話す者など、さまざまな震災映像があった。しかし、私のケースでいうと、「未曾有の大災害のものすごい映像」を見せることに抵抗があった。車からレンズを突きだして、トラッキングショットで荒野をなめてゆくのは、何も知らない部外者による物見遊山以外の何ものでもないと思った。「見せたもん勝ち」という感性にいかに抗うかが、震災ドキュメンタリーの肝だろうと考えたのだ。
作品名は書かれていないが、これはおそらく『311』への批判でもあるだろう。これに続く記述で、舩橋淳は故・佐藤真監督のドキュメンタリー論に触れ、佐藤による「ジャーナリズム=言語情報として要約できる映像」と「ドキュメンタリー=言語情報でまとめられないもの」という定義と分類を自分も踏襲したいと述べたのち、だが実際にはジャーナリズム的なドキュメンタリーやドキュメンタリー的なジャーナリズムも数多く存在するし、実のところは前者が大勢を占めているのが現状である、しかし自分はジャーナリズム的ではないドキュメンタリー映画を志向すると書いている。映像の力に頼り切るのでもなく、言語化の誘惑になびくのでもない、映画であるがゆえの剰余や冗長性を武器とすること。だが同時に映画であるからこその制約や有限性も大切にすること。その結果『フタバから遠く離れて』は、けっして怒りを露わにすることなく「怒り」を表現し得た、すぐれた「ドキュメンタリー映画」となった。 十月十四日、日曜日の夜、私はオーディトリウム渋谷における『フタバから遠く離れて』上映後トークショーのゲストに招かれて、舩橋淳監督と話した。初対面だった。公開翌日である。観客は十数名だった。トークの前に帰った観客もいただろう。この日の昼間は井戸川克隆町長と双葉町の方々がゲストだったので、そちらは盛況だったのかもしれない。私の人気がないだけかもしれない。六月二十四日、日曜日の午後、私は同じ映画館で『相馬看花』の松林要樹監督とも話した。このときも観客の数は少なかった。やはり私のせいなのかもしれない。だが私は、舩橋淳の文章にあった「当事者」という言葉を、そして「遠く離れて」ということ、「距離」ということを、考えざるを得ない。考え込まざるを得ない。
20。『希望の国』のエクソダス
『希望の国』は、古谷実の十年前の原作を「震災以後」に設定し直して撮り上げた傑作『ヒミズ』に続く、園子温監督による「以後の映画」第二弾である。福島第一原発の事故が未だ真の収束には至っていない今から数年後、架空の「長島県」(長崎+広島+福島)で、ふたたび大規模な原発事故が起こる、という設定の下、或る家族の物語が描かれる。 『ヒミズ』は震災以前からの企画だったが、舞台を被災地にすることによって、紛れもないアクチュアリティと切実さを獲得すると共に、物議を醸しもした。物議は園監督の専売特許とも言えるが、これまでの監督人生を回想した書物『非道に生きる』の中で、彼は「震災直後に被災地を映像に収めること」の是非を多くの人から問われたこと、罪悪感は感じないのかという反応があったと述べてから、こう書いている。
しかし僕が感じていたのは罪悪感ではなく、緊張感に近いものでした。目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない。
この「現実的な既視感」は、舩橋淳のいう「当事者意識」と一続きのものだろう。『ヒミズ』の冒頭は瓦礫の山が延々と続く長回し、文字通りの荒野をなめてゆくトラッキングショットである。それはけっして確信や自信をもってやれたことではなかっただろう。だが、園監督は被災したスタッフの実家や親戚の家を撮らせてもらった際、意外な声を聞く。
そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。「片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった」。さらに1年後に同じ場所で聞いたのは「『いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい』と言う人たちは、忘れても大丈夫な人たちなんだ」という意見でした。
空間的な距離は他人事という感覚をどうしたって強めるし、時間的な距離は忘却のツールとして作用する。この二重の距離を埋めるためのひとつの道具として、たとえば映画というものはある。距離はどこまでも開いていくだろうが、それでもそれを測ることが出来るということには、なにがしかの意味がある筈だ。そう思わなければ、そこにカメラを向けることは出来なかったに違いない。
大事な人を亡くし、直後に大きな被害を受けた人たちは、その現実を忘れたくても忘れようがないと思います。かつて家があった場所は更地になり、やがて国が買い取ってセメントが入り、永遠に住めない土地になるかもしれない。自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶にも留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然ではないでしょうか。 「思い出すからやめてくれ」というのは、被災の映像を見なければ思い出さないということでもある。被災地ではなく、たとえば東京で報道を見て、そう言う人もいる。しかし本当に被災者は、自分は被災者だと声高に叫ぶ人ではないのではないか。僕はそう思いました。10年後、20年後と歳月が経った後に『ヒミズ』を見た人が「やっぱり、あのとき撮ってくれてよかった」と言ってくれることを願っています。
こうして『ヒミズ』を完成させた園監督は、しかしこれでは終われない、と思ったのだという。前作では「震災」を間接的にしか描き得なかった。次はそこでは語れなかった「原発事故」を、正面切って取り上げる。『希望の国』は、このような強い動機によって生み出されることになった。それはしかし、相当な難産であったという。この問題を扱うということだけで、映画への出資を尻込みする者��多く、なかなか製作資金が集まらなかったのだ。しかしなんとか映画は出来上がった。そして『希望の国』は『ヒミズ』と、いや、過去の園子温の映画のどれとも似ていない新たな作品となった。映画のシナリオと製作日誌と後日譚とを合体させた、かなりユニークな書物『希望の国』に、園監督はこう書き付ける。
映画は、ゆっくりと撮れば良いものが撮れるわけではない。一瞬の内に気持ちのまま撮る時もある。 被災地の感情を撮りたいと思っていた。 報道が記録なら映画は記憶。 報道やドキュメンタリーが「真実の記録」なら、「情感を記録する」装置が映画。情感をカメラに記憶させたいと思った。
佐藤真=舩橋淳が示した「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」に加えて、園子温による「フィクション」としての映画の定義が、ここには端的に述べられている。だが「情感を記録する」とは、間違っても(時に園監督が誤解されがちなように)いたずらにエモーショナルでスキャンダラスなだけの、いわゆるセンセーショナリズムを意味してはいない。『非道に生きる』で彼は「震災直後に被災の当事者が何度も思ったのは「寒い」だったろうし、その最中は寒すぎて「この寒さの原因は東電のせいだ、けしからん」なんて論理的なことを考えている暇はなかったと思うのです。出来事の追想ではなく、出来事の真っただ中にいるときの気持ちや情感を、貧弱な言葉でもいいからそれで綴ること、それがドラマ映画にあるべきスタンスだと思います」と述べている。 では『希望の国』は、どんな物語なのか。長島県大原町で酪農を営む小野泰彦と、認知症を患うその妻・智恵子、父親の仕事を手伝う息子の洋一と妻のいずみの四人が主人公である。ある日、マグニチュード8.3の巨大地震がとつぜん襲い、大原町内にあった原発が事故を起こす。この経緯はすべてが現実に福島で起きたことの再現である。原発から半径20キロ圏内が避難区域に指定され、小野家はギリギリでその範囲には入らなかったが、道を一本隔てた隣家は避難を強いられる。かねてから原発の安全性に疑念を抱いていた泰彦はガイガーカウンターを出し、洋一夫妻にここから遠くに逃げろと命令する。父親を愛する洋一は最初は嫌がるが、いずみが妊娠していることがわかり、息子夫婦はオオハラから遠く離れた町で暮らし始める。いずみは泰彦から貰った原発関連の本を読み、医者からも恐ろしい真実を聞かされることで放射能への不安を募らせ、宇宙服で外出するノイローゼ状態に陥る。一方、泰彦と智恵子は静かな生活を続けようとするが、強制退避命令と牛の殺処分命令が届き、遂に泰彦は或る決意をする。 こんな物語のどこが『希望の国』なのかと思うことだろう。誰もが引っかかる「希望」という言葉の含意を、なぜこの題名を付けたのかを、園監督はさまざまな機会に繰り返し説明している。きっかけはやはり『ヒミズ』だった。
(『ヒミズ』の取材で)「絶望に勝ったのではなく、希望に負けた」と僕は何度も言いました。絶望的な状況で「参りました」と白旗を上げる、敗北宣言です。普段は「希望なんてクソくらえ」と思って生きていても、水も食べ物も酸素もなくなって、落ちるところまで落ちたときに、「仕方がないんだ。希望が欲しくなっちゃったんだよ」と言ってしまうようなもの。
だが「それは、やさしい面をした希望ではなく、とても残酷な希望です」とも園監督は言う。「それは「負けた」というネガティヴな表現でしか言えないのです」。『希望の国』は、最初は『大地のうた』という仮タイトルを持っていたという。言うまでもなくサタジット・レイの名作と同じ題名である。園監督はまず、被災地に何度も長期間赴き、現地のひとびとへの取材を行なった。無論、希望などという言葉を被せられるような話はまったくと言っていいほどなかった。当初は現実と地続きの話にするつもりだったが、複数の土地で何人もの被災者から聞いたエピソードをバラバラのまま提示するのは不可能と判断し、架空の町を設定することにした。だがシナリオはなかなか進まなかった。自分が撮ろうとしている映画に確信が持てなかった。そんな折、二〇一二年元旦の早朝、南相馬に居た園子温は、ふと思い立って、20キロ圏内の柵を乗り越えて、海へと向かった。初日の出を見ようと思ったのだ。そして啓示の瞬間が訪れた。
真っ赤な、真っ赤な初日の出でした。こんなに美しい太陽を見たことがない。そう思うくらい感動しました。昨年、人々を襲った津波を生み出した「張本人」のあの海から静かに立ちのぼる朝日。その真っ赤な美しさを息を殺して見つめているうちに、放射性物質をいっぱいに含んだこの大地に到来した新しい息吹を感じ取るようになり、力一杯呼吸をしました。その瞬間、そうだ、『希望の国』というタイトルの映画が作れるぞ!と思ったのです。このタイトルにしたのは、たくさんの論理的な理由を超えて、これが一番です。 『希望の国』と言いながらも、僕は「これが希望だ」と提示するつもりはありません。この映画に描かれたものを希望だと思えるならそう捉えてもらっていいし、希望じゃないと思うのであればそれでいい。こちらから一方的に何かを「希望」だと言うのは強引です。僕は映画が「答え」を出してはダメだと思っています。映画は巨大な質問状です。「こうですよ」という回答を与えるものではないと思うのです。
この映画のタイトルにひとが否応なく抱くだろう疑問は、だから園監督によって敢て選び取られたものなのだ。「あの日の出こそ、僕に突きつけられた巨大な質問状でした。そして心の底で自分は答えを出した。その答えをあえて映画の中では口に出したりはしません」。園子温という映画作家には、とかく「確信犯」という評語が付きまとってきた。だが彼にかんしては、それは自分の正解を持っている者のことではない。彼は「僕は基本的に「想像力を羽ばたかせる」というのが嫌いなんです。なぜなら、想像する自分があてにならないから。「想像力」と言えば聞こえはいいけれど、それは断定とか独りよがりといった言葉にも置き換えられるものだと思います」とも言っている。或いはこうも。「僕の映画は主張しすぎだと言う人がよくいますがーーたしかに僕は映画の中でたくさんのことを「しゃべり」ますがーーそういう人は、僕がそもそも「答え」を用意していないことに気づいていないのです」。巨大な質問状としての映画。『希望の国』という作品が、なぜこのような物語なのか。こんな物語の映画が、なぜ『希望の国』という題名なのか。その答えはすべて観客に委ねられているのだ。 『トーキョードリフター』の監督、松江哲明は、園子温の『奇妙なサーカス』のメイキング映像や『夢の中へ』『紀子の食卓』の予告編を手掛けており、園監督とは公私ともに親しい人物である。彼は最近、映画評論家のモルモット吉田氏と共著で出した『園子温映画全研究1985ー2012』において、『ヒミズ』と『希望の国』について語っている。
松江 園さんが『ヒミズ』で「希望に負けた」という言い方をしましたが、すごく誠実だと思ったんですね。それで『希望の国』を観たときに、これは否定的な意味で捉えてほしくないんですけど、初めて園さんがフィクションに負けた映画だと思ったんです。あんなにノンフィクション至上主義を嫌って、「実在の事件は結末がわかっているからつまらない」と言っていた人が、今回の震災と原発事故に触れて、初めて自分のフィクションを捨てたと思いました。過剰なフィクションを入れ込むことでものを作ってきた人たちが、そんなことさえできないくらいに、現実に圧倒されてしまった。でもその態度は、とても誠実だと思いました。
いかにも松江哲明らしい、それ自体とても誠実な発言だと思う。もちろん園監督は「自分のフィクションを捨てた」とまでは思っていないだろうが、しかしノンフィクション(ドキュメンタリー)であれフィクションであれ、その厳格な定義にてらして、自分は常に完璧な整合性をもって対応していると断言する映画作家が居たとしたら、そんな者の方がずっと信頼に足らない。そうではなくて、迷いながら悩みながら、圧倒されたり負けたりしながら、それでも撮る、それでも作る、ということの中にしか、映画が現実と切り結ぶ術はないのだ。そしてこれは映画以外の芸術にかんしても同じである。 書物『希望の国』の末尾には、詩人でもある園監督が「クランクインの直前に書いた、二〇一一年最後の詩」が据えられている。題名は「数」。この詩は、次のように始まる。
まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。 花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。それが徒労に終わるわけない。まずは一センチメートルとか距離を決める。一つの距離の中の何かを数えなくてはならない。例えば一つの小学校とか、その中の一つの運動場とか、そこに咲いている桜が何本とか、その桜に何枚の花びらがあったとか、距離と数を確かめて、匂いに近づける。その距離の中の正確な数を調べれば匂いと同調する。たぶん俺達の嗅覚は、数を知っている。匂いには必ず数がある。 その町の人口が何人だとか、その小学校に何人いたか、とか、例えばその日のその時間に何匹の虫が、何匹の蝶が、何匹の芋虫が、いたか、をきっかり、調べるべきだ。俺の嗅ぐ匂いは詩だ。政府は詩を数字にきちんとしろ。
詩はまだ続く。私は強く揺さぶられている。園子温という表現者の凄みに、今更ながら瞠目せざるを得ない。「今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない」。数。数えること。計測の意志。そこに流れる紛れもない叙情。叙情を喰い破る強さ。ただの抵抗の身ぶりとは根本的に異なる勇気。「数値に出せないと政治家に言わせるな、数値で出せ、と訴えろ。全てを数えろと言え、数値で出せと言え」。そして園子温は、よく読め、彼は最後に、こう書いているのだ。
「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中に埋もれてゆくものは数え上げることが出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。
21。『言葉』
村川拓也は、毎秋都内で催されている舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー(F/T)」の二〇一一年公募プログラム(主催演目とは別に新進カンパニー向けにエントリー形式で行なわれている)として『ツァイトゲーバー』という作品を発表した。実際に介護の現場で働く男性が全身不随の障害者と過ごす一日を普段通りに淡々と再現する、基本的にはそれだけの内容なのだが、障害者の「フジイさん」を公演毎に観客席の女性から募って演じてもらうという特殊な趣向の一点によって(やらせは一切ないという)、意想外の卓抜にして深遠な劇的効果を上げることに成功していた。この作品はかなりの評判を呼び、まだ無名と言ってよかった村川拓也は一挙に注目されることになった。『ツァイトゲーバー』は二〇一二年九月にも東京都近代美術館で再演されている。 『言葉』は、今年の「F/T」の正式プログラムとして上演された、村川拓也の新作である。この夏、彼は出演者の前田愛美と工藤修三(彼は『ツァイトゲーバー』の「介護士」だった人物である)と一緒に被災地を一週間ほど廻った。各地ではバラバラに別れて行動し、各々が毎日平均六時間もあちこちを歩き続けながら、見たもの聞いたもの感じたこと考えたことなどをメモしていった。台本は、出演者二人のメモに記された膨大な「言葉」を村川が再構成することによって作られている。舞台にはマイクスタンドとスピーカー以外には何もない。工藤と前田はほぼ交互に、過去に自分自身が記した「言葉」を台詞として発話する。連続しているように思えるところもあるが、基本、二人の発話は断絶しており、対話を構成しない。ほとんど何も無い舞台上に「言葉」が響いてゆく。『言葉』は、言ってしまえばこれだけの作品である。前作と同じく、極めてシンプルな作りと言えるだろう。村川は、公演パンフに附されたインタビューの中で、「被災地に限ったことではないと思いますが、現地を訪ね、目の前の様々な印象を捕まえて言葉にしようと突き詰めて考えていくと、どんどん深みにはまっていく感じがあり、それを回避するために“歩き倒す”というような過酷な行程を敢て組みました。歩き疲れてヘトヘトになった身体と頭からは、シンプルで正直な言葉しか出て来ませんから」と語っている。実際、工藤と前田の「言葉」は、文字で書かれたものというよりも、その時その場で二人の脳裡に浮かんだとりとめの無い心象��のままであるかのように思える。青森から福島まで移動しながら、毎日毎日ただ只管歩き続ける中で書き留められた、被災地の今なお残る傷跡への素朴な驚きであるとか、ふと出くわした風景に突き動かされた想像、それだけでは何を意味しているのかよくわからない呟き、単なるぼやきとした思えないような一言、などなど。いったい何故、村川拓也は、このような方法を選んだのだろうか。同じインタビューで彼は、宮本常一からの影響について述べている(私は観ていないが、村川には『移動演劇 宮本常一への旅 地球4周分の歌』という作品もある)。宮本の著作に記録された「過去」の言葉を、現代に生きる人間が語ろうとする際、まず出て来るのは「喋れなさのリアリティー」ではないかと村川は言う。それは「過去」と「現在」のギャップそのものを提示するということである。
僕が以前創った作品はそこまで止まりだったかもしれません。でも、本当はもう少し違うことをやりたいと思っていました。それは、「過去」に書かれた言葉の、その時の情景をそのままダイレクトに舞台上で再生できないか、ということです。それは単に役者が役にのめり込んで喋れば達成されるものでは絶対にないと思いますし、ひょっとするとその言葉を使わない方が、その時の情景に迫れるのかもしれませんが、とにかくその「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるかといったことを探究したい。(略)過去を現在との距離から語るのではなく、過去の現在性を再生させるという、演劇ではほとんど不可能な領域に向かっているのかもしれません。
実は『言葉』には、対になる作品が存在している。映像作家でもある村川が今年完成した中編映画『沖へ』。甚大な被害を受けた宮城県本吉郡南三陸町で、江戸時代から続く互助会「伊里前契約会」の会長を務める千葉正海氏の日々を追ったドキュメンタリーである。村川はカメラを携えて千葉氏とその家族の生活に寄り添い、畏まったインタビューというよりも単なる会話のようにして被写体に話し掛け、千葉氏も気さくに村川の問いに答えてゆく。取り戻しようのない災禍を経て日常を維持しようとする被災地の人々の姿を等身大で捉えた、魅力的なドキュメンタリー映画である。船で沖へ出ていき、当のこの海が襲われた津波について語る千葉氏。クルマに乗って帰り際、不意に村川を呼び止め、カーステで曲を聴かせながら「これ何かわかる?」などと尋ね、まったく唐突にCAROLの想い出を語り出す千葉氏。東京新橋での講演会の帰りにカラオケで熱唱する千葉氏。そんな何でもない場面の数々が不思議な感動を催させる。それは間違いなく、監督である村川拓也と被写体である千葉正海との距離感の適度な縮まりに由るものだと思える。しかしこの映画を制作しながら、村川は一種のジレンマに苦しんでいたという。
『沖へ』の撮影のためのインタビュー中、僕は「全然会話ができていない」という感覚にずっと囚われていた。被災地では色んな方と喋り、また基本的には皆さんよく喋るのですが、その言葉に行き先がない感じがしたんですね。切れ切れでどこにも届かない、行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく。そんなイメージを再現できるような対話や言葉を抽出し、舞台上に乗せることで、観客の中にも無数の言葉が生まれ、むさ苦しいほど充満していくような作品を創りたいと思っています。
やはりインタビューから引いた。こうして村川拓也は『言葉』を創ったわけである。ところで、先には触れなかったが、この舞台には工藤修三と前田愛美以外にも出演者が居る。それはいずれも黒服に身を包んだ(工藤と前田は限りなく普段着に近い服装である)手話通訳の女性たちである。女性たち、と書いたが、彼女たちは三名居り、交替で現れて工藤と前田の「言葉」を翻訳する。最初は舞台脇で控え目に立っているのだが、最後に登場した通訳の女性は、出演者二名が上手と下手の端に座って語っているのに、ただひとり真ん中に立って手話で語り出す。ここに至って観客は、彼女たちが単に公演の為に用意された通訳ではなく、紛れもない「出演者」としてそこに居るのだということに気づかされる。だから『言葉』のキャストは、二名ではなく五名なのだ。手話を解さない私には、彼女たちの身ぶりは(もちろん多少は推察できるところはあるとしても)文字通りの「身ぶり」でしかない。だがそれは「言葉」なのだ。その言葉が私たちにはわからないが、それが言葉であることは知っている。むろん通訳なのだから、今しがた彼か彼女が話した言葉が手話に翻訳されているのだろう。それは知っている。だがそれは「発話」ではない。そこには音がない。私を含む観客のほとんどにとって、それはただ見ることしか許されない「言葉」なのである。 『ツァイトゲーバー』でも、全身麻痺の「フジイさん」役の観客に最初に願い事を尋ね、本番中に三度、任意のタイミングで、その願い事を「台詞」として呟かせる、という「演出」が、驚くべき効果を発揮していた。「介護士」はその言葉に一切反応しない。それは彼が普段からそうしているのか、何を言っているのか聞き取れなかったのか、それともそもそも「フジイさん」の心中で呟かれただけだったのか、観客には判別出来ない。しかし「介護士」役である工藤修三にも、「フジイさん」がいつ、どのタイミングで「台詞」を発するのかは予期出来ないのだから、その「言葉」はいつも不意撃ちのように舞台と客席に響くことになるのだ。 聞こえる/聞かれるべき音として発される言葉と、聞こえない/聞かれない言葉との、矛盾と照応。この意味で、『言葉』は明確に『ツァイトゲーバー』の問題意識を引き継いでいる。手話通訳の「出演者」化によって浮き上がってくるのは、確かに発された言葉が聞かれておらず、発されていないかもしれない言葉が聞こえる、という前作が炙り出した事態に対して、聞こえていえないかもしれないが確かに発されている言葉の実在、である。このことは、この舞台のもうひとつの仕掛け、舞台前に客席に向けてマイクが数本立てられており、無言の場面になると観客の立てる咳や身じろぎが集音され、増幅されてスピーカーから返されるという、やはりシンプルだが秀抜な趣向にも込められている。 被災地に生きる者の「行き場のない言葉」を、そこから遠く離れた舞台上で、当事者ではない「出演者」の声によって響かせる、ということは、結局のところ、不可能なことである。これは「演劇」の限界なのかもしれない。だが、だからこそ「過去の現在性を再生させる」ために、村川拓也は『言葉』の、一見すると迂遠とも思える手法を選択したのだ。彼と工藤、前田の旅は、どこまでいっても(言葉は悪いが)物見遊山の謗りを免れないものではある。『言葉』上演後、映画監督の想田和弘を迎えて行なわれたアフタートークの冒頭、村川自身が「作品を作るために被災地に行った」と語っていた。どれだけ真摯な想いが彼の内にあり、どれほどの震撼がそこに待っていたのだとしても、それはやはり、そうなのだ。だからむしろ問題は、そのことに背を向けない、ということだったのだろう。二人の「出演者」によってメモに書き付けられた「言葉」は、被災地の、被災者の「言葉」ではない。そうではない、そうではありえない、そうなりえないという歴然たる事実を上演すること、それが『言葉』がしていることであると思われる。その「言葉」たちにはーーこう言ってしまってよければーー然程の深い意味も価値もない。ただしかし、そこでは「「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるか」が、無骨なまでに真正直に問われている。そしてそれは、けっして完全なる「非当事者」ではあり得ない筈なのに(それは舩橋淳も言っていたことだ)、しかし「当事者」を自ら標榜することはけっして許されはしない者が、如何にして「当事者」の「言葉」を通訳出来るのか、という取り組みでもあるのだ。 だからこそ、一個の作品としての『言葉』には不満がないわけではない。中盤に、突然スクリーンが降りてきて、ランディ・ニューマンのペーソス溢れる軽やかな歌声をバックに、旅行時のスナップショットがスライドショーで映写される場面があるのだが、旅のドキュメントとしての要素を残しておきたいという意図は汲めるとしても、全体の中では小休止というか、緊張感を緩める結果になっていることは否めない。また、先に述べたように「言葉」は殆どランダムに並べられているのだが、ラストに至って、現地で催される花火大会で離散していた一行が落ち合おうとする展開となる。事情あってそれは果たせないのだが、前田の「言葉」は花火の模様を描写する。そしてラストの一言は「あれ、今揺れた?」。この「言葉」によって『言葉』という一編の芝居が終われたということはあるだろうし、絶妙な余韻が残されたことも確かだ。それにこれらは全てがもともとメモにあった「言葉」である。そこには作為も虚構もない。だが私には、少々上手に終わり過ぎてしまっているように思えた。村川拓也が排したいと思っている(と私が思う)ドラマツルギー的な感覚が入り込んでいるように思ってしまったのだ。もっといつ終わったのかわからないような「言葉」でもよかったのではないか。極論かもしれないが、『言葉』の「言葉」それ自体は、含蓄や情動を持たない、いや、持てない、ということにこそ意味があるのだと思われるからである。
22。「言葉」
『言葉』を含む本年度の「フェスティバル/トーキョー」のテーマは「ことばの彼方へ」である。舞台芸術において言葉=言語は特異な位置を占めている。戯曲やテクストは重要だし、しばしば最初に書かれるものだが、読めば済むのなら上演の必然はなくなってしまう。だが、かといって「言葉」が二義的な要素というわけではない。内外含めて十数本から成るプログラムは、総体として「言葉」と「舞台」をめぐるアクチュアルな問題系を形成していた。その中でも呼び物は、劇作家としても名高いオーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故をテーマに書き下ろした『光のない。』と『光のない II〜エピローグ?』の上演である。今年のF/Tは、他にイェリネク解釈の第一人者といわれるドイツのヨッシ・ヴィーラー演出による『レヒニッツ(皆殺しの天使)』、公募プログラムで重力/Noteによる『雲。家。』と、さながらイェリネク祭の様相を呈していた。 村川拓也は「行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく」と述べていたが、この表現はそのままイェリネクにも当て嵌まる。だがそのあり方は正反対かもしれない。『ピアニスト』『したい気分』『死者の子供たち』といった小説では、引用と参照に満ちた高度に知的な企みの内に遊び心溢れる闊達さやポストモダン文学的なサービス精神(?)も披露するイェリネクだが、とりわけ戯曲は難解さをもって知られている。彼女の劇言語は(やはりオーストリアの小説家、劇作家トーマス・ベルンハルトと同じく)たとえ複数の登場人物が配されていたとしても本質的にはモノローグ的であり、断言と韜晦が奇妙に共存する台詞は強固に閉じた印象を与えつつ、同時に異様な、バロック的と呼んでもいいような過剰な意味性へと開かれてもいる。たとえばそれは、こんな具合である。
ああ、わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない、どうにかしてほしい。あなたの声を響かせてほしい。わたしはわたしを聞きたくない、あなたにわたしをかき消してほしい。ただ、少し前から思っている、わたしはわたしも聞こえない、耳を制御盤にあて、つかもうとしているのに、音を。あなたもそのくらいはできるはず! もっと強く弾いてほしい、難しいはずはない。ここは喚き声ばかり、わたしにはわからない。畜舎? 設備の停止? 設備が停止したならどうして叫ぶのだろう。力づくで押さえているのか。自動停止? だがそれはすべて静まることを意味しない。力は消えることができない。なにかが消えることなど決してない、まだ叫んでいる、怪物の腹の中で、蝉のように、喰われても猫の腹で叫びつづける蝉のように。 (「光のない。」、林立騎訳)
イェリネクはこの度の上演に当たって日本の観客に向けて書かれたテクストにおいて、自分の生活は「ほとんど日本に囲まれているようなもの」だと述べる。なにしろ庭も日本風に竹を植えているのだ。彼女は竹を「地下茎=リゾーム」と言い換え、自らの言葉の様態を重ね合わせてみせる。そして歌舞伎については詳しくないと断わりつつ、たとえば「長いモノローグや技巧的に歪めた声」という点で自分の作風は歌舞伎と似ていなくもないのだと述べる。歌舞伎には「様式化された人工美の規則」がある。「観客は作品を見て読み解き、なにがなにを意味するか知るのでしょう。わたしの作品にそれは不要です。言わばわたしの作品は、過剰に規定されています、わたしは開かれた余地を残しません、竹が隙間を残さず、土があればどこまでも広がるように。竹は必ず防根シートで囲まれます、しかしそれを越え出ることさえあります。なんらかの感覚が、なんらかの意味が、わたしの地下茎を越え出ることはあるでしょうか。あってほしいと思います」。実際のところ、何が主題の芯に据えられているのか、どこから作品が書き出されているのか、という意味では、イェリネクの戯曲は常におそろしく具体的である。即物的とさえ言ってもよい。『光のない。』の「光」とは、福島第一原子力発電所の事故によって施行された計画停電のせいで一時的に関東地方から失われた、松江哲明監督の『トーキョー・ドリフター』に不在の形で映し出されていた光=明かりのことであり、と同時に原発の発電システムそれ自体のことでもあり、ピカドンのピカのことでもある。イェリネクはケルンの劇場から、より抽象的なテーマ(「デモクラシーの黄昏」)で委嘱されたものだったというが、彼女は敢てこの題材を選び、追ってホームページで全文を公開した。そして震災ー事故から一年と一日が経った二〇一二年三月十二日に、「エピローグ?」と題された続編を、やはりHPで発表した。 イェリネクは自分の「言葉」は「過剰に規定されて」いると言う。それは「規則」に従った読解や意味の抽出を必要としていない。言い換えるなら、それは完膚なきまでの誤解/誤読の余地の無さ、ということだろう。だがしかし、だからといってそれは明解であるわけではない。むしろ逆である。竹。夏草。繁茂。どこまでも即物的で直截的足ろうとする意志こそが、見る間に視界のすべてを覆い尽くしてしまうほどに「言葉」を生い茂らせてゆく。イェリネクの文学の全てに言えることだが、膨大な文学的/歴史的引用や参照が多重露光のごとく入り込み、即物性と斥き合うように、テクストを濃密に、息苦しいほどに濃密にしてゆく。二本の戯曲はこうして書かれた。では、日本の演出家たちは、そのようなイェリネクの「言葉」を、どう受け止めたのか? 『光のないII〜エピローグ?』から語ろう。何故なら私が鑑賞したのが、こちらが先だったからである。構成、演出はPort Bの高山明。ここ数年のF/Tの常連アーティストである彼は、劇場という固定されたトポスから脱して、インターネットや移動手段を駆使したさまざまな方法論で、「日本」というコンテクストにおける「ポストドラマ演劇」を試行している。今回の公演は、このようなものだった。事前にエントリを済ませた観客は、一人ずつ新橋の駅前にある「ニュー新橋ビル」から街へと送り出される。持たされるのは十数枚のポストカードが入ったビニールケースと短波ラジオ。ポストカードには次に向かう場所への経路と地図が印刷されている。観客はそれをガイドに新橋駅周辺に設置された「舞台」を経巡る。指定されたポイントに着いたら、観客はカードに記載された周波数に短波ラジオを合わせる。すると、その都度異なる若い女性の声が(それらは被災地の高校生たちの声である)「エピローグ?』のテクストを朗読している声が聞こえてくるのである。ポイントは雑居ビルの一室であったり、小公園だったり、路上だったり、パチンコ屋の店先であったり、空き地であったりする。ポストカードを裏返すと、土屋伸一による被災地の人々や原発作業員たちの写真があしらわれている。一時間ほどの「観劇」を終えて、ふたたび出発点に戻ってくると、一階上でラストシーンを体験してくださいと言われる。そこはビルの最上階である。同じポストカードが大量にある。雲間から光が射し込む青空の写真。一枚お取りくださいとある。裏返すと、そこにはこう記されている。「ニュー新橋ビルから135km、福島第一原子力発電所から91km」。距離。計測。そこにある光。そのイメージ。
真実の言葉は一つとして、言われないままにはしなかった、と彼らは言う、彼らが見たはずはない。目撃証言としてわたしは言う、真実の言葉はどれも、言われないままになっている。容器の水は足りてない、もういい! わたしたちの運命は他の誰でもないわたしたちだけのもの、だが容器の中のあの水が、そう、鉄琴は溶け落ちた、多くの人間が焼け出されたように、だが活発な活動は止まない、ひどく加熱され燃えている、わたしたちの都市の近く、わたしたちは一見無傷な家畜、あの水がわたしたちの運命をもたらすだろう。わたしたちはそれをつかめない。わたしたちのまわりには水しかない、だがそれはまた別の水。さまざまな水! (「エピローグ?[光のない II]、林立騎訳)
延々と続くモノローグ。短波ラジオから聞こえるイェリネクを読む音声は、それぞれのポイントから離れると次第に遠ざかっていき、やがてホワイトノイズに呑み���まれてしまう。私は移動中もイヤホンを耳から外さずにいたので、聴覚は視覚をあっけなく凌駕して、新橋の雑然とした町並みは鈍いノイズに塗れ、そのままの姿で刻々と変容していった。ポイントの幾つかには被災地を如実に想起させるセットもあったのだが、私にはむしろ何でもない新橋の夜(夜だったのだが)の風景の方が「舞台」のように見えたし、誤解を恐れずに言えば、短波ラジオが発するホワイトノイズも、イェリネクのテクストの一部であるかのように思えた。それはとても不思議な体験だった。公演パンフに掲載された土屋伸一との対談の中で、高山明はこう述べている。「福島のある風景を東京のなんの文脈も共有していない空間に再構成した結果は変に決まってます。でも、その不協和音の中にこそ、自分が福島にいないこと、今東京にいるということ、その距離がはっきり見えて来るんじゃないか。演劇を作る時にも観る時にも、感情移入はつきものですが、でも今は、それよりも、僕らの前に現実にある距離を測り、感じることの方が重要なんじゃないのかな」。 「エピローグ?」の末尾には参考文献(?)として、ソポクレース「アンティゴネー」と共に、次の一文が添えられている。「多くの、多くの報道を読んだ」。引きこもり的な生活を続けているというイェリネクは、インターネット経由でそれらを読んでから(読んだから)書き始めた。そうして書かれたドイツ語は、林立騎によって極めてマシーナリーに日本語へと翻訳され、いわき総合高校演劇部の女子部員たちによって朗読され録音された。ここにも複数の距離と複数の翻訳が介在している。高山は対談で、こんなことも言っている。
ウィーンの郊外にツベンテンドルフ原発という、一度も使われないまま、国民投票で廃炉になった発電所があるんです。そこに行くと、「未来のエネルギー」と書かれた垂れ幕がかかったままで、時間が止まっちゃって、未来もフリーズしたような奇妙な感覚に捕らわれる。あの感じはもしかしたら、福島の避難区域の、蒲団がはがれたままの、突然誰もいなくなってしまった部屋と似ているんじゃないかと想像します。僕が『光のないII』を読んで、いちばん表現したい、掴みたいと思ったのは、そういう、時間が失調してしまうような感覚です。それは、原発が欲しいと思って、それが実現して、でも津波で壊れてしまって、今度は原発を止めたいっていう別の願いを持つことになって……と、時間が錯綜して振り出しに戻ったかと思えば、全く別の場所に出ていたりするような感覚でもあります。
「それは〈福島/フクシマ〉が、もはや言葉だけのものとして、終結させられつつあることへの批判でもありますが、それ以後全く違う時間が始まったという意味でもあるんじゃないか」。フクシマから遠く離れて。その時間的空間的距離の自覚。『光のない II〜エピローグ?』の舞台が新橋であったことは恣意的な選択だったかもしれないが(そういえば村川拓也の『言葉』で千葉正海氏が赴いたのも新橋だった)、それは福島や被災地であってはならなかった。そこから絶対的絶望的に遠隔された場所でなくてはならなかった。それはエルフリーデ・イェリネクが、ウィーンの自宅のコンピュータがアクセスするインターネットやテレビ、報道媒体などから得た映像と文字の情報のみを頼りにテクストを書いた、という事実と対応している。しかし同時に、絶対的で絶望的な距離が、安全で無責任な傍観者であることを保証するわけではない、ということも高山は勿論わかっている。これはフィクションではない。別の世界の出来事ではない。われわれは、残念なことに、同じひとつの世界にしか居ない、イェリネクに筆を執らせたのも、遠く離れたアジアの島国で起こったことが、自分の生きる同じ現実の内にある、という実感によるものだったのではないか。「距離」の測定は、連続性の把握でもあるのだから。 観劇を終えて、ニュー新橋ビルの屋上に出てみた。ちょうど歓楽街が賑やかになってくる時間だ。ポストカードを夜空にかざして、私はこう考えた。ここから135km離れた場所の、或る日の空に、この雲と光があった。そして、そこから91km離れた場所に、福島第一原子力発電所がある。
『光のない。』は、京都に拠点を置く劇団、地点を率いる三浦基が演出を担当した。彼は自ら劇作は行なわず、チェーホフの四大戯曲を始め、既存の劇作品を極めて独創的な解釈で上演することによって国際的な注目を集めてきた。また近年は、太田省吾、ジャン・ジュネ、アントナン・アルトー、太宰治などのテクストを再構成した野心的な舞台を次々と発表している。今回も同様で、イェリネクのテクストは役柄にかんする指定のないAとBが交互に語るというものだが、三浦はその全部は採用せず、彼自身の取捨選択によって六割ほどに編集している。そして戯曲では二つの声となっている台詞を、地点の五人の俳優に分散して演じさせている。このことについて、三浦は二→五という処理に意味があるわけではないと語っている。単に彼が信頼を寄せる役者の数が目下のところ五名なのだ(つまり現在の地点は基本いかなる人数の戯曲であっても五人で演じられる)。 地点の演劇をはじめて観る者は、何よりもまず、役者たちの異様な発話にしたたか驚かされることになる。時に「地点語」などと評されるそれは、戯曲に書かれた台詞を、いわゆる自然な口調とは完全に真逆の、シラブルの切断や語の強調、イントネーションの付け方などによって、徹底的に異化してしまう。それは確かに日本語である筈なのに、まるで外国語のように聞こえる。意味性を解体/変容し、異なる次元へと絶えずパラフレーズしてゆくこの手法こそ、演出家三浦基の最大の発明であり、武器でもある。その手腕は今回も遺憾なく発揮されており、私がこれまでに観た地点の公演の中でも、圧倒的な高みに至っていた。それは戯曲に書かれた「言葉」を舞台上に響く「音声」へとメタモルフォーズする。イェリネクの、それ自体過剰なまでに濃密なテクストを、役者の身体によって加圧し、彼らの声を通して煮詰め、何か更に奇怪な、だがおそるべき生々しさを放つものに仕立て上げている。 だが、これだけならば、言ってしまえばいつもの地点である。今回は、そこに厄介な前提が纏わりついている。言うまでもなくそれはエルフリーデ・イェリネクに『光のない。』というテクストを書かせた具体的現実的な出来事のことである。この作品を演出することは、なかば必然的にこの出来事に対する何らかの意見表明を意味してしまう。幸いなことに、この点にも鋭敏な三浦は、公演パンフに附された「演出ノート」において、まず政治と政治性を分割して、自分が問題にしているのは「政治性という普段からちりちりとくすぶっているよくわからない人間の性」の方だと述べる。
政治性とは関係性と言ってもよい。劇は関係性によって成り立つ。誰との? ロミオとジュリエットとのではない。イェリネクは、わたしとあなたとのでもないと言っている。わたしはあなたであり、わたしたちでありあなたたちだと一見、ふざけたことを言っている。イェリネク作品での主語に「わたしたち」が頻出するのは、政治性を問うた結果である。つまりイェリネクが書くのは、物語ではなくわたしたちに起こった「出来事」についてなのだ。残念ながら、震災があった。それに伴う原発事故があった。
そしてこうも述べる。「この劇が、みなさんに反原発を訴えるはずはないし、そんなつもりは毛頭ない」。誤解のないよう言い添えておくが、三浦が言っているのは、悪しき芸術至上主義の標榜ではないし、日和見主義でもない。「政治」は行動とメッセージだが、「政治性」は思考と内省である。そして芸術は、演劇は、後者を追求すべき営み/試みなのだ。 ところで『光のない。』の達成に貢献しているのは、演出家三浦基と地点の俳優たちばかりではない。今回はそこに新たな才能が加わっている。音楽監督を務めた作曲家の三輪眞弘である。私は個人的に、この起用には感嘆を禁じ得なかった。なんと見事な人選だろうと舌を巻いたものである。ひとつには、三輪はコンピュータを駆使した、いわゆるアルゴリズミック・コンポジションの研鑽を経て、演算もしくはその遂行が生身の身体(それはプロフェッショナルな楽器演奏者であることもあれば、ただの素人であることもある)によって行なわれる「逆シミュレ���ション音楽」という独自のアイデアに辿り着き、近年めざましい作曲活動を継続しているのだが、そのユニーク極まるアプローチは、そういえば確かに地点と相通じるものがある、と思えたからだが、もうひとつは他でもない、三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」の起草者であったからである。
いついかなる時でも電気が必ず供給され続けることを前提として、人類が未来を考えるようになってから、ほぼ半世紀が経った。この前提は、近現代の、テクノロジーによって生み出された数々の地球的規模の危機はテクノロジーによってでしか解決できないと考える思想、すなわちひとつの「信仰」の全面化を意味すると同時に、人々が自らの責任と子供達の未来を考えることが、そのまま「今よりもさらにテクノロジーを進歩させること」へと回収される、まったく新しい時代を産み出した。我々はこの状況を、厳然たる事実として認めつつも、この事実に対して自覚的かつ批判的であるために、人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶことにする。
と始まり、「確認しよう。なぜ電気なのか?・・それは、電気エネルギーがすでに我々の社会の、思考の、そして身体の一部であるからに他ならない」と結ばれるこの「宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には一旦脱稿されていたが、一年半のあいだ公表されることはなく、二〇一一年三月十三日に突然、三輪のホームページ上にアップされた。東日本大震災と原発事故を受けての公開であったことは疑いない。「電気文明」の時代における「芸術」と「音楽」について、一読する限りでは突拍子もない主張が述べられているようにも思われるこの宣言文は、しかしながら検討すべき内容を多々有している。そしてここにこそ、三輪眞弘がエルフリーデ・イェリネクと、三浦基と、『光のない。』というテクストと切り結ぶ最大のクリティカル・ポイントが示されていると思われる。
23。「電力芸術宣言」のジレンマ
三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」によって俎上にあげようとしたもの、それは「テクノロジー」と「音楽/芸術」の関係性をめぐる本質的な問題、そしてその前提を成す「テクノロジー」と「(人類の)生」の問題である。三輪はこの「宣言」において、至って即物的に、今日の「テクノロジー」を、その駆動力たる「電力」がなくては維持も進歩も最早あり得ないものと定義する。そして「人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶ」。この呼称は、つまり「芸術」の別名である。
その際、活動の、いや、そもそも人間生存の大前提となった電力供給に我々は常に意識的であらねばならない。一体、電気がどのような物理的特性において、どこから、どのようにして提供されているのか? その実態を把握せずに我々はもはやこの世界を決して語り得ないにもかかわらず、人々はそのことの持つ意味についてあまりに無自覚である。例えば、日本では現在10の電力会社によって(家庭用は)100V/200VAC電力が供給されており、その電力網は県境を越えた「地方」という単位に対応している。つまり地方文化と電力会社はほぼ1対1の対応関係にあるという事実、さらに、東日本と西日本というふたつの領域が50Hzと60Hzの二種類の交流周波数によって峻別されているという事実は、「地方文化の差異」を、それとは本来まったく無関係なはずの、電力各社の電力網区分が代表していることでもある。さらに、それら各地方電力会社が供給する電力の起源に我々は注目する。すなわち、それが太陽由来の電気なのか、そうではないのか?
そして三輪は「太陽エネルギーに由来しない電気はすべて、人間が「資源」という名の下に自然環境に対して行う地球規模の略奪行為として今後断固拒否する」と述べる。過激な主張と言っていいだろう。だが無論「水力、風力、太陽光発電等の太陽由来の電力は容認せざるを得ない」し、現実として「太陽由来の電力」とそれ以外の「電力」を峻別することはわれわれには困難である。そこで差し当たり次のような立場が表明されることになる。「以上のような自覚に基づき、我々はまず、発起人の在住する中部電力が供給する電気によって電力芸術活動を開始し、「装置を伴う/による表現」を電力会社名として名付けられた各地方文化において運動を展開させていくことを目標とする」。こうして「中部電力芸術」が「宣言」されることになったわけである。
言うまでもなく、電気の地域性によって作品が変わることはない。しかし、西洋音楽において、たとえば現代の管弦楽作品が、世界中の都市に遍在するオーケストラという、地域文化の固有性を越えたグローバル・スタンダードを前提として作曲家独自の表現を可能にしていることと同様、グローバル化社会における究極の前提であるユニバーサルな電気を我々がどのように捉える/扱いうるかこそが今、我々に問われているのである。それは地域文化の固有性や作家の独自性を、現在考え得るもっともニュートラルな条件の下に映し出す、ひとつの鏡となるに違いない。
自分の「音楽」が何によって生かされているのか、自分が何によって生かされているのか、そのことにもっと意識的にならなくてはならない。「宣言」の末尾に、三輪は「中部電力芸術家の目標、条件、他」として、以下のような要項を挙げている。
- 電気文明における電気を利用した「装置を伴う/による表現」を電力芸術と呼ぶ。 - 中部電力芸術家は電力芸術を実践する。 - 中部電力芸術家は、浜岡原子力発電所を含む火力、水力発電によって中部電力から供給される60Hz/100VAC電力によって活動を行う。 - ただし、中部電力芸術家は、非太陽由来の電力、すなわち火力発電及び、物質それ自体からエネルギーを収奪する究極の技術としての原子力発電に対して常に批判的である。 - 中部電力芸術の趣旨に賛同する限り、他の電力文化圏(50Hz地方を含む)在住芸術家の、電力会社の壁を越えた積極的な参加を歓迎する。 - 中部電力芸術宣言は作曲家、松平頼暁氏の立ち会いのもと、湯浅譲二氏八十歳の誕生日に構想された後、坂本龍一氏の批判を受けて改訂された。
繰り返しておくが、この「中部電力芸術宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には第一稿が書かれていた。従って三輪眞弘が、この特異と言っていい「宣言」を起草するにあたっての動機には、彼自身の生活や信念といった個人的な条件がかかわっていたのかもしれない(三輪は以前から、CD等のメディアに記録され流通することを本願とする「録音芸術」としての音楽ーー「録楽」と名付けられているーーの様態には鋭い疑問を呈していた)。だがそれはいったん開示されることなく封印され、二〇一一年三月十三日にはじめて公表された。どうしてこのタイミングだったのかを問う必要はないだろう。重要なことは、これが「以前」に書かれた「以後の言説」であったという事実である。そして私たちは、いまだに「東京電力芸術宣言」を持ってはいない。 では『光のない。』の音楽監督として三輪眞弘は何をしたのか? 「電気文明」に拘束された「装置を伴う/による表現」=「芸術」=「音楽」。この等号を射抜くために、三輪は二つの戦略を採った。ひとつ目は、舞台中盤に役者全員がやおら互いの両腕に電極を装着したかと思うと、それぞれ鈴を持つ、そして電気ショックで不随意に手が動くことによって間歇的な音楽が奏でられる、というものである。それはつまり「電力芸術」としての「音楽」が暴力的な直截さによって表現された場面だった。もうひとつ、より重要であったのは、この作品に召喚された異様な「合唱隊」の存在である。舞台前方、左右にしつらえられた陥没に客席を背にして仰向けに横たわり、全員が両足の先しか見えない総勢十数人による混声コーラスは、意味のわかる歌詞=言葉をうたうことは一度としてなく、囁きや呟き、かすれた叫びやかそけき呻きのような声=音を発する。それら複数の音=声はランダムに聴こえるが、実は三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」の代表的な作品である「またりさま」の応用によって、合唱隊のメンバー自身が一種の演算装置となってリアルタイムで作曲=演奏されているのだ。作曲ー演奏ー出音に至るまで「電力」は一切関与していない。それは「電力」が途絶えても、「光のない」世界でも、生まれ/生きることの出来る音楽なのである。合唱隊の「声=音」は、地点の五人の俳優の、エルフリーデ・イェリネクによって書かれ林立騎によって日本語に翻訳され三浦基によって演出された「台詞=言葉」の発話と混在しながら、舞台空間を音響的に埋め尽くしていった。 三輪眞弘は「フェスティバル/トーキョー」のフリーペーパー「TOKYO/SCENE」No.1に「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた『光のない。』の私的パラフレーズ」と題した長めのテクストを寄せている(「「中部電力芸術宣言」の続きとして」 という註釈が添えられている)。そこではイェリネクにも『光のない。』にも地点にも直接言及されることはないが、先にも触れた「音楽」と「録楽」の異なりについて、より詳しい思弁が述べられている。「魔法の鏡」とは、「この世」の営みを複製する「あの世」を可能にする「テクノロジー」のことを指している。
わたしは本当に音楽を聴きたいのか? わたしに音楽は必要なのか?……そうだ。「録楽」ではなく、「音楽」は決して「魔法の鏡」によって分身し、再現され、反復されることはない。 音楽は常に記号から逸脱するからだ。
私には、その奇妙と呼ぶしかない「合唱隊」の、意味性を欠いた、しかし同時に意味生成性が充満してもいる摩訶不思議なサウンドは、Port B『エピローグ?』の、あのFMラジオのホワイトノイズと似た機能を担わされていると思えた。ただし、ラジオは電池が切れたら、音はしなくなってしまう。ただし、ヒトは生命を失ったら、音がしなくなってしまう。「装置」と「人間」は、何によって生かされているか、の違いはあれど、何かによって生かされている、という点は同じである。そして結局のところ「電力」は、双方に深くコミットしている。『光のない。』にしても、光のない、電力のない空間での上演は、無論のこと不可能である。だから「電力芸術宣言」は、自ずからひどくアイロニカルなものにならざるを得ない。ここには明らかに、声を上げつつ口ごもっているような晦渋さがある。それは起草者の三輪眞弘自身、百も承知のことだろう。もしかすると、それが公開されなかった理由のひとつであったのかもしれない。だが、それでも敢て「宣言」する必要が、新たに生じたのである。とはいえ、アイロニーが解消されたわけではない。むしろそれはより深刻度を増し、強力な難問として我々の目の前に立ちはだかっている。「浜岡原子力発電所」という単語があるからといって、この「宣言」はストレートな「反原発/脱原発」を謳っているわけではない。そうであったらむしろ話は簡単だったろうが、そうであればここで検討するには値していない。何故ならば、ここにある紛れもないジレンマこそ「電力芸術宣言」の真の問題提起だと思われるからだ。 ところで、先の「魔法の鏡」は、こう結ばれている。
Lux aeterna luceat eis, Machina(機械よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)。しかし、わたしは祈れるのか? 光はどこから来るのか? 「彼ら」とは誰か? 被災地に置き去りにされた家畜たちのために。
「Lux aeterna luceat eis, Machina」とは、三輪眞弘が二〇一一年十月にサントリー芸術財団の委嘱作品として発表した『永遠の光…オーケストラとCDプレーヤーのための』のラテン語題名であり、本来はMachinaではなくDomine、すなわち「Lux aeterna luceat eis, Domine(主よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)」。グレゴリオ聖歌のレクイエムの一節である。
24。「アクチュアリティ」と「わたしたち」
オーストリアのウィーン在住で、日本には一度も来たことのない作家エルフリーデ・イェリネクが、東日本大震災と福島の原発事故にかんする「多くの、多くの報道を読んだ」ことによって、何ものかに突き動かされるようにして書いてしまった二つのテクスト。それらをそれぞれの方法で現実の舞台へとリアライズした高山明と三浦基という二人の演出家と、三浦に随伴した三輪眞弘という作曲家。彼らはいったい、何をしていたのか?……いや、こんな問い方はいかにも理由ありげでいささかみっともないが、しかしそろそろ、これまでここで私が書いてきたことの全部とかかわって、要するに彼ら(というのは彼ら彼女ら全員のことだ)は何をしているのか、何をしようとしているのか、あらためてじっくりと考えてみる必要があるように思う。たとえば三浦基は、前にも引用した『光のない。』の公演パンフレットの「演出ノート」に、次のように書いている。
リアリティという言葉は、いつの間にかアクチュアリティにすり替わってしまった。私のリアリティとみんなのリアリティなんてかわいい感覚ではもう駄目で、もっと大きな文脈を背負うべきという強制的な響きをもって私には聞こえる。「君にはアクチュアリティがないなぁ」と言われたらちょっと困る。「君にはリアリティがないなぁ」と言われたら、相手を睨むことができるだろう。つまり対話が始まる。が、どうもそんな対話は古いので人々は敬遠する。誰だがわからない立場で、アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術を持った。
「私は、だからアクチュアリティと闘うつもりだ。口が裂けてもこの言葉を簡単には使わないようにしたいと思う」と続けておきながら、すぐさま三浦はこう述べる。「『光のない。』は、東日本大震災と福島の原発事故がテーマになっているアクチュアリティ満載の作品です。嘘です。イェリネクがこうしたテーマを選んだことがアクチュアリティなのではなく、この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したことが、アクチュアルなのである」。 確かに「アクチュアリティ」の一語は現在、以前の「リアリティ」に成り代わって、特権的な地位を占めているかに思える。それはほとんど一種のマジック・ワードと化していると言ってもよい。わたしたちはアクチュアリティに真摯に対峙し得ているか? わたしたちは如何にしてアクチュアルであり得るのか? この自問に「芸術」に携わる者たちはひとしなみに晒されている、そのように映る。だがそれがマジック・ワードであるということは、あたかもそれが口に出される/書き付けられるだけで魔法が成立してしまうかのような誤解と錯覚がまかり通っているということでもある。三浦が辛辣な語調で違和感を表明しているのはそのことだ。彼の言う「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」の問題、つまり「アクチュアリティ」と「わたしたち」との相関が、ことによると事態をより不分明に、悪しき曖昧さに追いやっているということもあるのではないか。 「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」とは、「わたし」が「わたしたち」に変換される回路のことである。イェリネクの戯曲には「わたしたち」という主語が頻出する。それは『雲。家。』に最も顕著だが(この作品には「わたしたち」しか登場しない)、『光のない。』『エピローグ?』でも多くの言葉が「わたしたち」によって語られる。それはたとえば、こんな具合である。
わたしたちはどうして沈黙するのか。わたしたちは正しくなかったのか。それはわたしたちの役に立ったのか。まったく、わたしたちは何も決められない、わたしたちは残らないから。別のなにかが残る。別のなにか! わたしたちが決めていたらわたしたちはわたしたちが今もつものをもたなかった。わたしたちはなにももたかなった、だがなにものでもないものをもつこともなかった。呼びかけに応えわたしたちはなにかを手に入れた。それがわたしたちみなを今ここから引き離す。どうすればわたしたちはわたしたちのあとに来る者たちのことを決められるだろう。だがもう誰も来ないのか。あれほど時間があったのに! (「光のない。」、林立騎訳)
『光のない。』には、ソポクレース「イクネウタイ」とルネ・ジラール「現実的なものの埋もれた声」からの引用がある。『エピローグ?』にも同じくソポクレースの「アンティゴネー」が参照されている。つまりイェリネクは彼女の他のテクストと同様、単一の「アクチュアリティ」へと還元され得るような「言葉」として二本の戯曲を書いているわけではない。それらは常に過剰なまでに多層である。従って、ここでの「わたしたち」もまた無数のレイヤーを成しているに違いないが、それでもやはり、これが他でもないわたしたちのことで(も)あると思わないわけにはいくまい。そして疑いなくイェリネクだって、そのつもりで書いているのである。とはいえ、ここにはおそらく或る種のギャップがある。それはイェリネク的な「わたしたち」とわたしたちの「わたしたち」の間に横たわる懸隔である。たとえば『雲。家。』であれば、そこでの「わたしたち」は第一義的には「ドイツ人」のことであると思われる。だが、それ自体が既に実は単数ではない。それは「ドイツ人」というカテゴリー以外の者を指していることもあるし、そもそも「わたしたちドイツ人」の内にレイヤーがあるのだ。つまり、さまざまな「ドイツ人」が居り、それらが入れ替わり立ち替わり「わたしたち」として語ってみせるのである。こうしてイェリネクの戯曲は、モノローグにしてポリローグという独特の様態を獲得することになる(それゆえ彼女の戯曲は「声」の数がキャストの数を規定しない)。『光のない。』『エピローグ?』でもそれは同じことで、たとえ「東日本大震災と福島の原発事故」がなければ書かれることはなかったのだとしても、二本はいずれもそのことだけに収斂/拘泥しているわけではない。そこで行なわれているのは、こう言ってよければ、もっと複雑且つ豊かな営みなのである。もちろん三浦基の言うように「この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したこと」は重要なことではある。けれども「わたしたち」を名乗ること、「わたしたち」の一員となるということは、常に「わたしたち」以外を措定すること、「わたしたち」ではない誰かを弾き出すことでもある。 たとえば私も批評文を書きながら、時として「私」を「私たち」「我々」などと書いてしまうことがある。これは私に限らず、フィクション以外の文章では散見される現象だろう。ここにはたぶん、素朴な心理学的考察が妥当する機制が働いているのだとも思われるが(独善的になることへの抵抗心と自信のなさ、その反転としての共感や同意の強要…)、それと共に無視することが出来ないのは、日本的と言ってよいかもしれぬ、同胞(無)意識というか、自ら進んで陥る同調圧力というか、複数形一人称で語ることに潜在する奇妙な安心感である。ここには明らかに「個をいち早く捨てる術」の効用のようなものがある。しかし、こうして選ばれた主語としての「わたしたち」には、イェリネク的な多数性が欠けている。それは幾つもの「わたし」が代入し得る可能態としての「わたしたち」ではなく、いわばただひとりの特権的主体を志向する「わたしたち」なのである。ここには罠がある。もちろん三浦基も高山明も、その演出において「わたしたち」をポリローグへと開くことを果敢に実践しているし、それは高いレヴェルで成功してもいる。だが「わたしたち」が「アクチュアリティ」という語のもとに彼らの試みを語ろうとする際、知らず知らずの内に、いつのまにか「罠」に嵌まってしまっていることがあるのではないだろうか? 三浦基が書いていたのは、このことだと思われる。 只の「わたし」が「わたしたち」を標榜することによって、或いは「わたしたち」から承認されることによって、やっとのことで獲得されるような「アクチュアリティ」とは、今ここにある「問題」から目を背けない覚悟や認識や勇気から、甘えた協調の構造や危険な他者排除へとたやすく転じかねないものである。「わたしたち」という呪文が「アクチュアリティ」というマジック・ワードを呼び寄せるだけだとしたら、誰にでも出来る簡単な魔法を使って、もうひとつの魔法を可能にしているだけのことではないのか。このような「わたしたち」は別の言葉にも言い換えられる。それは「当事者」という言葉である。
25。いわゆる「当事者性」について
「フェスティバル/トーキョー」の関連企画として行なわれた「F/Tシンポジウム」のパネルの第一部は「演劇における「当事者の時代」 」と題されていた。登壇者は高山明、村川拓也、『アンティゴネーの旅の記録とその上演』で参加したマレビトの会の松田正隆、写真家の畠山直哉、司会はパフォーミングアーツ・ジャーナリストの岩城京子だった。二時間のあいだにさまざまな話題が出たが、私を含む聴衆の多くがもっとも感銘を受けたのは、ゲスト・スピーカーとして招かれた畠山直哉の発言だったのではないかと思う。 畠山氏は、岩手県陸前高田市気仙町の生まれである。二〇一一年三月十一日のあの時、彼は東京のスタジオに居た。その数日後、氏はオートバイを駆って郷里への旅を敢行する。実家に程近い気仙川周辺を長年にわたり撮影していた未発表の写真と、震災後の写真、「気仙川へ」と題された旅の道程を綴った文章を一冊に収めた『気仙川』は、個人的な感慨を極力排した無機質で形式的な写真作品によって国際的な評価を受けてきた畠山直哉の従来のイメージを大きく塗り替える、きわめて「私写真」的な作品集である。 「気仙川へ」は、このように書き出される。
何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない。誰かが教えてくれるかもしれないと思って、少し期待して待っていたが、誰も何もしてくれなさそうだ。だから僕は自分で、それが見えるところまで動いて行くしかない。でも動きとは時間だ。あの場所にたどり着くまでには時間がかかる。おそらく数日。でも数日後、僕は見ているだろう。そしてすべてを理解しているだろう。僕の町が、家が、家族がどうなったのかを、僕は残らず理解しているだろう。だがそこへたどり着くまでの数日間、僕には何も見えないままだ。僕は何も知らないまま、進まなければならない。
道中、姉からの電話によって、行方の知れなかった母親が津波によって命を落としていたことを知らされた畠山氏は、二〇一一年三月十九日、亡き母と対面することになる。だが「気仙川へ」という文章は、その前日、彼がほんとうの意味で故郷へと辿り着く直前で終わっている。『気仙川』に刻まれた悲嘆は、アーティスト畠山直哉が長い年月をかけて培ってきた美学と倫理によって抑制されながらも、むしろそのことによってこそ、透明な痛ましさを放っている。 「F/Tシンポ」の「演劇における「当事者の時代」 」に畠山直哉が招かれた理由は、あまりにも明らかだろう。パネルの冒頭で、登壇者はそれぞれに「当事者(性)」にかんする立場表明をしたのだが、畠山氏は「この中では自分がいちばん「当事者」に近い存在ということになるのだろう」と語った。関西で生まれ育ち、自分の映画と演劇の取材で被災地を幾度か訪ねただけの村川拓也、同じく被災地出身でも在住でもない高山明、松田正隆と、当然ながら彼の意識/認識は根本的に異なっている。そしてこの座談会は終始、この差異に引き裂かれたままであったように私には思われた。 誤解なきように言い添えておくが、もちろん畠山氏自身は彼の「当事者性」に対して、ほぼ一貫して客観的足ろうと努めているように見えた。彼はけっして個人的な体験のみを軸に語��うとはせず、著書『話す写真』で詳しく述べられている原理的な「写真」論に依って立ちつつ、率直な物言いで他の登壇者や「演劇」へのコメントを行なっていた。 問題は、にもかかわらず、つまり畠山直哉自身の意志と或る意味では無関係に、その発言の数々が、そこでの最も「当事者」と言える者によるものであることを、私たちの方が勝手に強調的に受け取ってしまうということである。たとえば畠山氏は「フェスティバル/トーキョー」のここ数年の傾向にも明確に現れている「ポストドラマ演劇」「ドキュメンタリー演劇」について、何故それほどまでにイリュージョンやスペクタクルを拒否しようとするのか、自分にはよくわからないと疑問を呈した。それは拒否というより断念ではないのか。旧来の良く出来た「劇」をこしらえられない才能や努力に乏しい者たちが、これ幸いと取りすがった方便ではないのか。どうしてよりによってわざわざ「震災」や「原発」を主題にして、フィクションとも呼べないような奇妙な「演劇」を作ろうとするのか。この指摘は非常に鋭い。実際、会場は一瞬、いっそう静まった気さえしたものである。畠山氏は疑いなく、アクチュアルな演劇に対するこのような批判意識を以前から抱いていたのだと思う。つまり彼が表明した疑念は「震災」とも「原発」とも関係はない。だがしかし、それでも彼の問いかけは、その場で「当事者」の濃度が一番高い者による言葉として響いてしまう。いうなれば「アクチュアリティ」による審判の声として聞かれてしまうのだ。繰り返すが、これは畠山氏の意志とはまったく別個の問題である。だが、ここには「当事者性」をめぐる厄介なパラドックスが露わになっていると私は思う。 「当事者」というマジック・ワードの困った所は、同じひとつのイシューについてでさえ、その線引きがまるっきり一様ではない、ということにある。「F/Tシンポ」の第二部は「演劇の言葉はどこにあるのか?」と題して、三浦基、三輪眞弘、林立騎、大澤真幸の四名を登壇者に迎え、私の司会で行なったが、その中でも「当事者性」は暫し話題となった。そこで大澤氏が「究極の当事者とは死者を置いて他には居ない」という意味の発言をしていた。その通りだと私も思う。しかし、だからこそ問題は「究極の当事者」である「死者たち」を除いた「当事者性」のグラデーションになってしまうのではないか。つまり、わたしとあなたの、彼と彼女の、どちらが、より「当事者」と呼べるのか、という問題である。『311』の森達也は、こう書いていた。
被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。 つまり僕は非当事者なのだ。 ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。
冨永昌敬は「仙台短篇映画祭が中止になってしまっていたら、自分たちも被災することになってしまう」と語っていた。『フタバから遠く離れて』の舩橋淳は「いま僕たちの当事者意識が問われている」と書きつけた。園子温は「目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない」と書いていた。それぞれの、さまざまな、幾つもの「当事者性」が、ある。「わたし」は「当事者」なのか「非当事者」なのか? どの程度まで「当事者」であり、どのくらいそうではないのか? おそらくこんなことが言える。「わたしは当事者である」と述べても「わたしは当事者ではない」と述べても、やがて必ず「わたし」には違和感や不足感、そして森達也の言っていた、あの「後ろめたさ」が生じる。「当事者性」の相対比較に晒されるか、それとも他人事を決め込んだ謗りを受けるか。「わたしは当事者である(のではない)」と「わたしは当事者ではない(のではない)」。このまるで正反対のカッコ付きの否定辞が、語るや否や、必ずやってくる。それは具体的な何者かによって齎されるとは限らない。そうであることもあるが、たとえ誰からも何も言われなかったとしても、他ならぬ「わたし」自身が、すぐさま自問を開始し、否定辞を付け加え始めるのだ。 それは避けられない。避けようがない。「究極の当事者」が「死者」であるとしたら、もう一方で、この出来事とは完全に無関係な他人、すなわち「究極の非当事者」もまた、この世界にはひとりも存在していない。エルフリーデ・イェリネクに筆を執らせたのは、そんな遠く離れた、だがヒリヒリと肌を刺すような「当事者意識」であった筈だ。我々は皆、程度は違えど幾らかは「当事者」であり、と同時に、常に中途半端な「当事者」でしかあり得ない。要するに、これが真実である。だがそれでも、私たちはどうしても「当事者性」を問うことを止められない。誠実である者ほど、そうあろうとする者ほど、そうなってしまうのだ。そして自ら問うておきながら、そこに宿る「後ろめたさ」や疾しさ、やるせなさに堪え切れなくなり、「わたし」を「わたしたち」へと昇格させ、あの魔法、あの「個をいち早く捨てる術」によって、「アクチュアリティ」を獲得したと思い込もうとするのではあるまいか。 だが、私が「わたしは当事者なのか?」と問うた時、この問いを自らに向けて発してしまった時、ほんの僅かでもいい、踏み止まって考えてみなくてはならない。この問いは、本当はいったい誰が口にしているのか、と。それは確かに「わたし」であるには違いない。だが、では「わたし」の中の何者がそれを問うているのか。「究極の当事者」である「死者」か、延々と続くグラデーションのどこかに位置する相対的な「当事者」たちか、それとも「社会」とか「世間」などと呼ばれている何かか。それとも「あなた」、つまり自分自身なのか? 畠山直哉は、『気仙川』の「あとがきにかえて」の終わり近くに、こんなことを書いている。
今でも心ある人たちが発している「忘れるな」という呼びかけは、「震災という出来事を忘れるな」「被災者のことを忘れるな」「死者のことを忘れるな」という意味だけで発せられているのではない。あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったりしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。
素朴な意見と断じる人もいるかもしれない。しかし私は、このくだりに二度出て来る「自分」という二文字こそが、何よりも大切なものであると、あらためて思う。それは「忘れるな」よりも、或る意味では重要だ。だがそれは「わたしたち」を拒絶して、単なる「わたし」に留まれ、などというエゴイズムの奨励では無論ない。私が「わたし」であることに堪えられないがゆえに「わたしたち」を目指したとしても、そこに待ち構えているのは「わたしたち」という名の単数でしかない。エルフリーデ・イェリネクのように、真の複数形で「わたしたち」と語り出すか、さもなくば「わたし」へと、ありうる限りの勇気を奮って、ふたたび立ち戻ること。「わたし」が「当事者」であり得るのは、究極的には「わたしであること」の他にはないのだから。これは詭弁ではない。私たちは、自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを、自分が自分であり自分でしかないという明白にして厳然たる事実を、もう一度、何度でも、思い出してみなくてはならない。
26。「わからなさ」を撮るということ
ひと月ほど間が開いてしまったが、年の初めに仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで一月半ばまで催されていた志賀理江子の個展『螺旋海岸』を観るために、約四ヶ月ぶりに東北新幹線に乗った。昨年九月に「仙台短篇映画祭」に呼んでいただいた時、まだ開催前だったが既にチラシが置いてあり、そこにあしらわれた漆黒の中に浮かび上がる艶やかで謎めいたイメージに、強い興味をそそられた。これは時間をやりくりしてでも絶対に来ようと思った。そして予感した通り、展示はおそるべきものだった。 私は志賀理江子という写真家のことをほとんど知らなかった。まとまった数の作品を見たのはこれが初めてである。だからこそ、出会い頭の衝撃は過激なものだった。せんだいメディアテークの六階にある「ギャラリー4200」には、宮城県名取市北釜在住の志賀が、同地でこれまでに制作した243点もの写真が展示されていた。それほど広い空間ではないのだが、エレベーターを降りてまず驚いたのは、ディスプレイのされ方である。スペース中央の柱を軸に、文字通り螺旋状に膨大な写真が配されているのだが、それらは大半が大きく引き延ばされており、通常の写真展のようにシールドされてもおらず、まるで立て看板のように鬱蒼と切り立っている。キャプションは全く無い。確かに一番から九番まで、一応のゾーニングはされてあり、受付で写真家自身による説明文が附された場内配置図のような紙片を渡されるのだが、それ自体があまりにも謎めいていて、マップに振られた番号もあちこちに散らばっているので、順番通りに見て廻ることは難しく、またそれが真に望まれているのかどうかもわからない。いきなり気圧された私は結局、何度も場内をぐるぐると経巡りながら、見落としている作品がまだ何処かに隠れているのではないかという奇妙な不安と緊張に絶えず支配されながら、小一時間ほどを掛けて、とりあえず(おそらくは)全ての写真を見終えたのだった。 志賀理江子は東北の出身ではない。彼女は一九八〇年に愛知県岡崎市で生まれた。ロンドン大学チェルシーカレッジ・オブ・アート卒業後、写真家として活動を始め、最初の作品集『Lilly』で第三三回木村伊兵衛写真賞を受賞した。以来、国内外を頻繁に移動しながら作品を創ってきた。彼女が北釜に居を構えたのは二〇〇八年のことである。その経緯については後で触れるが、まず端的に事実を記せば、彼女は二〇一一年三月十一日の地震と津波を北釜の地で体験した。津波によって、それまでに撮った写真の大半は失われてしまった。このことについても後述する。従って『螺旋海岸』の写真群は、実際には志賀理江子が「震災以後」に北釜で撮り上げた作品から成っている。しかしかといって、直截的にあの出来事が描かれてはいるわけではない。そこに写っているのは、『Lilly』や、その後に発表された写真集『CANARY』と共通する、志賀理江子独特の、徹底的に作り込まれた、こう言ってよければ、きわめてシアトリカルな写真である。たとえば、そこにあるのは、幾つもの正体不明の手が中空に横たわる子供を持ち上げて運びつつある様子であり、夜に映える草木とともに正装をしてこちらを見据える男性の姿であり、地面に横たわる銀色の宇宙服に包まれた何者かであり、砂浜に巨大な渦巻きが幾つも描かれている無人の光景であり、仲睦まじく腕を絡めて闇に立つ老夫婦の、男性の胸を切り株が貫いてるとしか見えない映像である。それらはいずれも奇異と呼んでいい幻想的なイメージであり、少なくとも日常的/現実的なものではまったくない。一言でいうなら『螺旋海岸』の写真群は、いわゆるドキュメント的な作品ではない。 写真家は、先のマップに附されたテキストに、次のように書いている。
写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けています。 演じることは枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為です。 その姿は、日々の生活の様子を切り取ったものではなく、北釜の土地と一体化し、あらゆる物語を表象します。 つまり、写真のなかの身体には「土地」と「物語」が混在しており、後にこれらの写真を見た人に無意識に読み解かれていきます。
この文章には志賀理江子独自の写真観が凝縮されている。個展に合わせて出版された、彼女がせんだいメディアテークの(私も別の企画に参加した)「考えるテーブル」の一環として、個展の準備期間中に七回に分けて行なわれた連続レクチャーの採録を元にした『螺旋海岸|notebook』と、その他幾つかの資料やインタビュー記事などによれば、志賀は写真家としての出発点から、ドキュメント的要素にはほぼ関心がなかったようである。いや、精確に言うと、通常思われているようなスナップショット的アプローチや、場所や出来事を客観的/主観的な視座から「記録」するといったやり方では、「現実」や「世界」に対峙したことにはならない、と彼女は最初からわかっていた。『螺旋海岸/notebook』を繙くと、たぶんに身体的・生理的な感覚から生じたものであったろう違和感や確信を、彼女が多くの経験と学習によって深く煮詰めてきたことがわかる。私の考えでは、ここにはフィクションとドキュメンタリーの二項対立、或いは相互浸透という従来的な思考法を乗り越えるポテンシャルが隠されている。だが今は北釜のことに戻ろう。 志賀は二〇〇五年から機会を得て、仙台、オーストラリア、シンガポールの三箇所でアーティスト・イン・レジデンスとして制作を行ない、その成果を『CANARY』として刊行した。だが彼女自身、「一つひとつの写真を見ても、そこでなにが起こっているのかまったくわからなかった」。その「わからなさ」とは、彼女が十代を捧げたバレエを諦めてカメラを手にした瞬間から始まった「自分(私)」と「イメージ」との間に穿たれる「わからなさ」である。志賀はこの「わからなさ」ゆえに写真を撮るのだと言ってもいいのだが、だからといって彼女は、それをそのままにしておくことは出来ない。彼女は「イメージ」が抱える「わからなさ」と格闘し、それを咀嚼し、我有化しようとして、さまざまな試行錯誤をする過程で、すこぶる興味深いことだが、「言葉」を発見する。そこで彼女は『CANARY』の写真群を自ら見直し、問い直し、それらに「言葉」を付与した一種の姉妹篇『カナリア門』を発表する。それから志賀は、もう一度、東北に、宮城に赴き、そこに長く住んで、作品を制作しようと決意する。だが、なかなか適切な場所が見つからなかった。そこでふと、以前の滞在制作ではあまり立ち寄らなかった海岸の方に行ってみた。そして彼女は、北釜と呼ばれる土地に辿り着いた。
本当になんとなくという感じで、三陸のリアス式海岸、松島や塩龜、七ヶ浜、そして仙台港を抜けて、ひたすらに長い海岸に着いた。誰もいないんです。海と並行するように松林がだーっと広がり「ああ、いい場所だなぁ」って最初はぼんやり思った。そしてどんどん南に行くうちに、いままで訪れたことがない土地(「いままで訪れたことがない土地」に強調濁点)に私は来ているという確信めいた、胸が高鳴るような気持ちになったんです。探検するように周囲を歩き回っていたら、松林は夕日に照らされてむちゃくちゃ幻想的になっていった。とにかくこの場所にずっといたくなるような、やっとここに来られたような、私はここを探していたような……
北釜の海岸の松林に魅せられた志賀は、その足で突撃的に同地のひとびとに当たっていき、さまざまなハードルと手続きを経て、この場所に住まいとアトリエを構えることとなった。どうせ住むなら土地の行事や祭りを公式に撮影する���専属カメラマン」にならないかと言われ、よろこんで引き受けた。こうして彼女は北釜の人間となった。あらためて記すと、それは二〇〇八年の冬のことである。それから彼女は北釜のひとびとと触れ合いながら、少しずつ新たな創造へと歩み始める。だが、一足飛びに記せば、それから二年としばらくして、彼女は同地で地震に遭遇した。やってきた津波は、たくさんの物と人を押し流していった。『notebook』には、震災後まもなくして彼女が知人友人たちに送ったメールの文面が掲載されている。「四月五日 心配してくださったみなさまへ」と表題のついた文章の、前半部分を引用する。
私の住む集落(約三七〇名)では五三名が亡くなりました、現段階で七名はまだ見つかっていません。津波は自然のありのままの姿だったと思います。恐怖の限界を遥かに超えていました。だからあの恐怖の絶頂で息絶えて流されたたくさんの人のことを思うとなにも考えられなくなる。どんな苦しい思いで水にのまれて意識を失っていったのか、一人ひとりのことをどれだけ想っても届くことがないです。 * ただあの日一瞬だけ、時間、生、死、感情、物の価値などが崩壊して、そこにあったすべてが見渡す限り真っ平らになった。そして大雪が降って真っ暗な夜になりました。ラジオで沿岸部では数百人の遺体が見つかったと知り、ここから約八〇キロしか離れていない福島第一原発の事故の状況が繰り返し流れるなか、揺れつづける地面の上でいろいろなことを覚悟した。私は体がはち切れたようで、あらゆることに違和感を感じなかった。けっこうどうでもいいことが次々頭に浮かんできて、体とはこういうものかと思った。 * そしていま、あの均一な暗い夜を取り戻すことばかり考えて、二度と絶対に嫌だけど、でも同時にあの時間が体から消えてしまうのが怖いのです。
志賀は自宅とアトリエにあったハードディスクを津波に持ち去られてしまったが、北釜の集会場に行事を撮った二冊のアルバムが保管されていたことを思い出し、瓦礫の山となった集会場に赴き、それらを必死で探した。運良くアルバムは、「一冊は集会場付近から見つかり、後に北釜の人が見当もつかなかった場所からもう一冊を見つけてくれ」た。それから、瓦礫が撤去された集会場には、志賀の撮ったものだけではない、誰のものとも知れない、拾われた写真が、膨大に集められてくるようになった。「瓦礫に混じって落ちている写真に、なにか無視できない、拾わせてしまう力があるんだなと思いました。そう思わせるぐらい写真というのは風景のなかで目立つのです。いろいろなものが刷り込まれたあの小さな紙というのはぐーっと現実世界に異様に抗っている」。彼女のものらしい大きな写真があったよと言われて行ってみたら、展示で使ったプリントの塩水や泥と写真の薬剤が溶けて混じり、異様な臭いを発していたこともあった。やがて彼女は、写真の洗浄を始める。「おおよそ三万枚強の写真が集会場には集められていました。北釜は一〇七世帯で、一軒に約一〇〇〇枚ほどの写真があったと仮定したら、その約三割が発見され集会場に集められたと認識しています」。『notebook』には集会場を撮った写真も載っている。それはまるで部屋全体が祭壇のように見える。
津波で娘さんを亡くされたあるお母さんは、娘さんの写真を毎日集会場に探しに来ていました。家も流されてしまったから写真が一枚もない。私はその方と肩を並べて写真を探すうちに「彼女が探しているのは写真ではない、娘さんそのものなんだ」と猛烈に身に沁みた。彼女のなかで「娘の写真」が「写真」ではない次元にまで振り切れていたんです。写真はそこになにが写っていようがいまいが、写真であるだけで拾われましたが、その価値は「ただの紙切れ」から「自分の娘そのもの」にまで激しく変化する。その。触れ幅によって写真の価値のあり方を身をもって知らされた気がしました。
こうした体験は、志賀の写真観、彼女の「イメージ」論に、当然のことながら甚大な影響を与えた。それ以前から彼女は、北釜の老女から「遺影」を撮影してくれと請われ、躊躇いながらも初めてそれを行なった経験から、新たに「作品」を撮り始めるための手がかりを得ていた。そして今や、亡くなった「娘の写真」を「娘そのもの」と考えるひとがいる。彼女はかねてより自分の中にあった「無鉄砲な仮定」に或る確信を得る。すなわち写真の撮影は「過去現在未来の時間から解き放たれる空間のための儀式」なのだと。そして彼女は、のちに『螺旋海岸』と題されることになる個展のため、ふたたび撮影を始めた。写っているのは北釜の海岸、砂浜、松林。被写体となっているのは北釜の土地のひとびとである。だが、既に述べておいたように、それらはいずれも著しく非日常的、非現実的な風景となっている。志賀は北釜のひとびとにさまざまな、しばしばかなり奇妙と言ってよい依頼を行ない、ひとびとはよくはわからないまま、だがけっして不審がることはなく、それに快く応じていった。たとえば先に触れた「切り株」の作品の志賀による説明は、次のようなものである。
最近まで松くい虫の害に遭った松は被害の拡散を防ぐために切られていたので、松林には切り株がたくさんあるんです。土地の持ち主の方に「切り株を掘り起こしてみてもいいですか?」と聞いたら承諾してくれたので掘ってみた。砂地だから想像していたよりも簡単に掘れたのだけども、小さめの切り株だと思っていたら根がびっしり生えていた。まだ水分が含まれていたし、ひたすら長くいろいろなところにつながっていて、私にはその木の根が古い写真の中のお父さんのように思えた。それで「掘ってみたんですが、私、お父さんに会ったような気がしました。この松の根と一緒に写真を撮らせてもらえませんか?」と伝えたんです。 木の根が血管にも思えて、おじいさんの体とつながっているようにしたかった。そこで半分に切って身体の前後で挟み込むようにして。大きな根の塊はおじいさんのお孫さんがクレーン車で引き上げてくれて、おじいさんはもう片方の根の断面で体を支えていたから「楽に立ててるよ」と言った。この方の奥さんはこの根を見上げながら「旅行に来たみたいだね」と、おじいさんの隣にそっと寄り添って背中をぎゅっとつかんで背筋を伸ばして立っていてくれた。 (竹内万里子との対話より抜粋)
これに限らず志賀の写真は、いずれも一種のシアトリカルな、フィクショナルな体裁を持っている。しかしそれはよくあるような、芸術家が自分の内なるイマジネーションやヴィジョンに耽溺し、他者や外界を覆い尽くそうとする独善とはやはり違っている。「まずは写真のなかのわからないものをわからないままにしておきたいのです。発酵させるように寝かせておきたいんです」と彼女は言う。「わからなさ」との格闘は続いている。それは志賀理江子という個体と身体の内側にも外側にも、内外をめぐる回路にもある。二〇一一年三月十一日の出来事は、そんな「わからなさ」を丸ごとキャンセルするようなものであったとも言えるし、或いは「わからなさ」の極点だったと言うことも出来る。志賀は「あの日」以後、決定的に変わったとも言えるし、何も変わっていないとも言える。そうした解釈や分析が、いずれも届かないところに(それゆえに、それらの全てが可能になってしまうだろうところに)彼女が相手取る「わからなさ」はある。ただひとつ確かなことは、彼女は撮ることを辞めるつもりはない、ということである。「写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けて」おり、そして「演じること」とは「枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為」である。ここでいう意識や演技とは、カメラを向けられた者から決して消えることのないものだ。志賀はそれらを無視したり隠蔽したりする欺瞞を拒絶し、むしろそれらを増幅し、変調しようとする。そうして、撮る者と撮られる者、見る者と見られる者が一緒になって「まったく違うところ」へとワープすることを希う。 写真に定着された「イメージ」とは、いわば「現実」に織り重なった「虚構」である。それは「虚構」に織り重ねられた「現実」と言っても同じことだ。『螺旋海岸』には、ストレートに震災と関連付けられるような写真は一枚もない(先の集会場の写真も展示はされていない)。にもかかわらず、それは凡百の「震災写真」を凌駕する力を備えている。それは「出来事」の強度に立ち向かおうとする「虚構」としての自覚と信念に依っている。志賀の言う「土地」と「物語」が混じり合うさまとは、正しくこのことである。そして無論のことだが、それは彼女が「現実」を生きていない、という意味ではない。
このあいだ久しぶりに、北釜でお世話になったあるおばあさんと話す機会がありました。彼女は、「わたしね、ここが好きだから、またね、石を拾って、それを積むことから始めたいの、だからそれができるようにいまは草取りしてる」と言って更地になった家の周りの草取りに通っていました。彼女はあらゆる復興計画から自立して自分がどうしたいか自分の頭で考え、それを軸にしてその手で石を拾い、草をむしって、野菜を植えている。もうここには住めないことを十分理解したうえで本気でやっている。社会と欲望の矛先ばかりを考えてしまって、そのことにがんじがらめになってしまった私にとって、社会の一部でどう生かされるかを考える前に、生きることの根底にある生活の小さなことを淡々と実行する彼女に目を覚まされるような気持ちになって、私も彼女のようになりたいと思った。そういう長い時間を生きてきた人、自然に寄り添った人が目の前にたくさんいることはすばらしいことで、教わることが日々あるんです。食べものがないときは芋の蔓を食べたこと、堆肥をつくり背負って売りにいったこと、暗くなったら寝て日が射したら起きること、道ばたに花が咲いているのを見るとうれしくて疲れが吹き飛ぶこと……。彼女が昔のことを話してくれたことを必死に思い出すんです。
「おばあさん」が積もうとしている石は、「仙台短篇映画祭」の映画『明日』のパンフレットに冨永昌敬が書きつけていた「うずたかく積まれた小さな固い石の集まり」と、確かに響き合っているように、私には思える。もちろん疑いなく志賀理江子は、たとえ北釜に住まなかったとしても、震災を自ら体験しなかったとしても、非凡な作品を作り続けていただろう。彼女が北釜に住むことになったのは、いわば偶然と成り行きの産物である。けれども、それを運命と呼ぶのだ。彼女は、彼女にしか可能でないやり方で「あの日以後」を生きている。それはとても複雑な内実を持った行為、営みである。だが同時に、それはとても素朴で単純なことでもある。
北釜の人が遠くから私を見つけては手を振ってくれて話しかけてくれること。「なにやってんの〜。今度なにつくるの〜」って目を見つめてにっこり笑ってくれること。なによりもまずここにいさせていくれること。失敗しても許してくれること。その途方もない優しさみたいなものを彼らから受けるたびに、そのことがあまりにも尊すぎて体が破裂しそうになります。いろいろなところからたくさんの救いの手が私たちの生活に差し伸べられたことによって、この世にはその手が差し伸べられない領域がたくさんあることを実感します。どこかの国で助けられもせず死ぬ人がたくさんいるということ。そしてそれはどうしようもなくそういうこととしてあること。生きていることはあまりに強い。
こう述べてから彼女は、まるで今ふと思ったことのように、次の言葉を言い添える。「だから、これらのことがどのように「芸術」とつながりをもつかなどは全然わかりません」。
27。「0円ハウス」から遠く離れて
『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規がアメリカのPIG IRON THEATRE COMPANYに書き下ろした戯曲である。オガワアヤによる英訳台本を用いて、岡田の立ち会いの下、リハーサルが重ねられ、二〇一二年の九月に同劇団が拠点とするフィラデルフィアで初演された。戯曲の日本語オリジナルは「群像」の二月号に掲載されている。そこに添えられた覚書によると、岡田は「この日本語テキストを用いた上演を、私は想定していませんし、望んでもおりません」とのこと。日本公演は二〇一三年二月、神奈川芸術劇場(KAAT)で、PIG IRONによって行なわれた。この作品は多くの点で、同じくKAATで上演された(本連載でも以前取り上げた)岡田率いるチェルフィッチュの現時点での最新作『現在地』の続編もしくは姉妹篇と看做しうるものとなっている。 事前に戯曲を読んでいたものの、あくまでもアメリカ人の俳優によって英語で演じられることを前提に書かれたこの作品は、実際に舞台で観てみると、日本語で読んだ際には感じなかった、じつに複雑きわまりないニュアンスが込められていることがわかる。まず、この作品には原作が二つある。ひとつ目は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン(森の生活)��。そしてもうひとつはタイトルからも明らかなように、坂口恭平の一連の著作(言動)である。そしてこの舞台には、「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と「坂口恭平」、そして「岡田利規」と「過去の岡田」と呼ばれる人物が登場する。 全三部から成る『ZERO COST HOUSE』は、要約することがなかなか難しい作品である。いや、それはもちろん可能だが、そうすると重要なニュアンスが失われてしまうおそれがある。しかし無理を承知でかいつまんで内容を記すと、第一部「二〇一〇年」の冒頭では、「岡田利規」が『ウォールデン』を読みふける「過去の岡田」を眺めつつ、自らの過去に思いを馳せる。いわく自分は劇作家であり、現在は「気鋭の」とか「十年に一度の逸材」などと呼ばれるような評価を得ている。だが今から十五年前、まだ大学を出たばかりだった頃は、既に芝居はやっていたものの、単純なデータ入力のパートタイムをしていて、そのことに不満は持ってもいなかった。むしろ下手にやりがいのある仕事に就くよりも、余った時間を好きに使えるだけましだと思っていた。そんな「過去の岡田」は、ソローの『ウォールデン』を愛読していて、そこに書かれたライフスタイル、人生哲学に私淑していた。「現在の岡田」は、アメリカの劇団からコラボレーションを依頼されて(それがこの作品なのだが)彼自身の「自伝」を作品化しようと思い立ち、それには『ウォールデン』が不可欠だと考えた。と、そこに突然、見知らぬ男が現れて「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と名乗る。「現在の岡田」と「ソロー」は会話をかわす。いちおう「現在の岡田」は感激してみせるのだが、どこかいまいちノリが悪い。「ソロー」と別れてから、どうせなら十五年前の「過去の岡田」に会わせたかった、正直今は『ウォールデン』を読んでも昔ほど(というか実はちっとも)感動しないのだ、という自分の気持ちを彼の「マネージャー」に述べる。そこに更に男が登場する。名乗るのは第三部になってからだが、男は「坂口恭平」である。「坂口」は「過去の岡田」と対話し、『ウォールデン』は理想主義的な本じゃなく「マジで現実的な本」だと言い放つ。ここまでが第一部。第二部「「ベイカー農場」より」では、「ソロー」が、『ウォールデン』の重要な章である「ベイカー農場」を書いているところに「現在の岡田」がやってくる。ところで第一部から、舞台上には、ここまで述べていない登場人物が何度か出て来ている。それは「ウサギ」の「夫妻」で、どうやら「過去の岡田」「現在の岡田」そして「ソロー」が書いている人物であるらしい。「ウサギ夫」と「ウサギ妻」が「ヘンリー」(「ソロー」が書いている「ベイカー農場」に出て来るソローのこと)とのやりとりを語ると「現在の岡田」は違和感を表明する。それはarrogant(傲慢)という言葉で表現される。『ウォールデン』で示される哲学は、やはり一種の傲慢ではないのか。だが、ここで「過去の岡田」が、しかし「現在の岡田」にとっても、『ウォールデン』はふたたび大事なものになりかけている、と言う。ここで第二部は終わり、第三部「二〇一一年」が始まる。「坂口恭平」が現われて、延々と「岡田利規」との馴れ初めを語る。最初は二〇〇六年、東京で彼の芝居を観たのがきっかけだった。その時からずっと機を伺っていた。「彼と俺が知り合いになるべきときかいつか?」と。それは二〇一〇年にやってきた。やはり「岡田」の芝居を観た後、「坂口」はロビーで「岡田」に握手を求め、「岡田さんの作る芝居くらいヤバい本です」と言って、自著を手渡した。それは「都市の中でゼロ円で家を作って、ゼロ円で暮らしていくための本」、抽象的に言うと「この世界に存在する別のレイヤーをとらえることを読む人にそそのかす本」である。その時の「岡田」の態度は当然ながら微妙だったが、��ういう反応には慣れているので大丈夫。そこで「マネージャー」が話し出す。「二〇一一年三月十一日」の「午後二時四十六分」に地震があって、そのとき自分は「岡田」とたまたま山口に居たのだが、それから二週間後、とつぜん「岡田」が九州に引っ越すと言い出したのだ。もちろん「放射能の影響」が心配だから、である。というか「岡田」は実際に転居し、かつては真っ向からは語らなかったような社会的な発言をするようになる。「マネージャー」は、それはちょっと危険なことではないかと意見を述べるが、「岡田」は「自分がarrogantになってるかもしれないってことを恐れちゃだめだよね」と妙に毅然とした様子である。この「変化」に合わせて、「岡田」が書いているらしき「ウサギ夫妻」も「震災以後」に生活していることにされる。そこでは放射能汚染への恐怖が非常に直截に語られる(ここでの「ウサギ夫婦」のやりとりは、園子温監督の『希望の国』の息子夫婦を思い出させる)。そこで「坂口」がふたたび登場し、彼自身の「自伝」を語りながら、このような「岡田」の「変化」を促したのは、他ならぬ自分なのだと述べる。地震の五日後、福島第一原発事故の推移を見守ってきた「坂口」は、事の深刻さに気づいて家族を伴い東京から避難し、三月中には出身地である熊本に戻って、ツイッターで放射能の危険性をエネルギッシュに訴え続けるとともに、西への避難を呼びかけた。それに応じて妻子を連れて熊本に移住したのが「岡田」だったというわけである。「坂口」は『ウォールデン』を題材に、「思考の解像度」を高めることで世界の「別のレイヤー」を見出す意義を語り、そうして見出された「ゼロ円ハウス」「ゼロ円生活」の可能性を、そしてそのような考え方が「震災以後」に明らかに重要度を増すことになった事実を語り、自分は「新しい政府」を樹立し、自ら「初代内閣総理大臣」に就任することにした、と宣言する。「マネージャー」は、「坂口」のカリスマティックな行動と理念にも、それに過敏に反応した「岡田」にも百パーセント同意することは出来ない。だがどうも「岡田」は本気で「坂口」に共感しているらしい。なにしろ「岡田」は「坂口総理大臣」のスピーチライターまで買って出たのだから。この舞台は「ウサギ夫妻」が「新政府首相」の「坂口恭平」のもとにやってきて「亡命申請」をする場面で終わる。 いちおう付言しておけば、劇中で語られる「坂口恭平」の哲学は、坂口恭平の一連の著作、とりわけ『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』『独立国家のつくりかた』に書かれているものと同じであり、現実の「震災後」の坂口恭平と岡田利規の行動も、ほぼ同じである。チェルフィッチュの『現在地』との連続性は明白だろう。ここではまたもや、あの作品で問われていた「村を出ていくべきか否か」というアンヴイヴァレンスが、重要な主題のひとつとして掲げられている。だがSF的と言ってもよい抽象的な物語だった『現在地』に対して、『ZERO COST HOUSE』は「岡田利規」の「自伝」だとされ、いわばセミ・ドキュメンタリー的な作品として、あからさまに現実との共通項をもって描かれている。けれども、もちろん事はそれほど単純ではない。劇のほんとうのラストは、「マネージャー」の次の台詞で締めくくられる。
マネージャー みなさん、これで岡田利規の自伝的内容の、このお芝居は終わりです。でもみなさん、ここでお話ししたことの全部が実際に起こったことではなくてですね、たとえば実際の岡田さんは坂口さんのスピーチライターなんてやってないですから。岡田さんは劇作家です。
この作品でもっとも重要なのは、この「岡田さんは劇作家です」という、言わずもがなの断言である。この一言によって、この芝居の中で語られたあらゆる事どもが、一挙に虚構化されて、宙吊りにされてしまうのだ。もちろん、繰り返すが劇中で語られる多くの事がらは、現実にほぼそのままの参照点を持っている。だが、かといって『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規による何らかの立場表明や自己肯定を企図した作品ではない。たとえそのように見える部分があったとしても、それらは全て「岡田さんは劇作家です」という断わりによって相対化されることになる。しかしそれは当然、虚構に安住していられるわけでもない。それはすぐさまふたたび相対化され、現実へと投げ返されることになるだろう。そして間違いなく、この絶えざる相対化という運動こそ、岡田利規がこの作品をこのようなものとして提示した理由なのだ。 ひとはなんらかの選択を迫られた時、それもAor Not Aというような決定的な二者択一を強いられた場合、自らが選んだ選択肢の正しさを、まず誰よりも先に自分に対して強弁しようとするし、選ばなかった方の選ばれなくてもよさを妥当なレベルよりついつい強調してしまいがちである。そのようなケースにおいて、フィクションという装置が出来るのは、両論併記、それも単なる「どちらも正しい(=どちらも正しいわけではない)」とは異なる、それぞれの選択の不可逆性を踏まえて、双方の決断の不可避性を共に示してみせることだと思う。岡田利規は、彼ならではの非常にユーモラスかつアイロニカルな方法によって、それをやってのけたのだ。しかもここでは、それらが英語でアメリカ人によって演じられるという巧妙な仕掛けが加わっている。いや、というよりも、その条件があったからこそ、このような特異な作品が構想されたのだ。日本の外で、日本語以外で、これが物語られること自体が、相対化の極端な徹底ということだったのである。だからこそ、それを日本で観るという体験は、私に或る居心地の悪さを催させたのは事実である。それはなんというか、相対化のリミットから、もう一度こちらに想定外に巻き戻ってきてしまったかのような感覚だった。なぜなら私は、われわれは「劇作家」ではないからである。
28。そこに残る者たち
「大地のゲーム」は「新潮」の二〇一三年三月号に一挙掲載された、綿矢りさの長編小説である。舞台はおそらく今から数十年後の近未来の大学キャンパス。女子大生である語り手の「私」は、すでに働いている兄と同居する集合住宅に戻ることなく、他の大勢の学生たちとともに、大学構内に住んでいる。それは夏休みに入る二日前のことだった。「未曾有の大地震が私たちを襲った。そして、また年内に巨大な地震が来ると政府は警告している。夏の大地震よりひどいか、同程度の揺れが私たちを襲うと断言し、対象地域一帯に避難勧告を出した。この大学ももちろん対象地域に含まれている」。帰る家がないわけではない。キャンパスの方が安全ということでもない。だが、それにもかかわらず「私」も、地震で両親を亡くした「私の男」も、他の多くの学生たちも、そのまま大学に居残り続けている。 巨大地震の被害はあまりにも甚大なものだった。「わずか二分の間にこの国の半分が破壊されて五万人が命を失った。その後に亡くなった人間が二万人追加されて、震源地で生活していた私たちのなかに、親族や知り合いを一人も亡くしていない人間など一人もいない」。それは「有史以来最悪の自然災害」として世界中に報道されたほどの規模であった。そしてもう一度必ず、巨大な揺れはやって来る。政府はその時のために特例警戒ベルを設置したが、まだ一度も鳴らされたことはない。避難シェルターがあちこちに作られているが、余程の揺れでもない限り、最早いちいち逃げ込んだりはしなくなっている。大学生たちは無責任な政府や自分たちを見捨てた教授たちをもう信用しようとはせず、キャンパス内で緩やかな自治を行ないながら、それなりに平和に生活している。もちろんトラブルはあるし危険もあるが、それは外の世界でも同じことである。 その中で、俄に頭角を顕わした男子学生がいる。彼はリーダーと呼ばれている。大地震の後の混乱の中で図抜けた行動力とカリスマ性を発揮したリーダーは、学生理事という役職を得て、「私」や「私の男」を含むグループを率いて学内のさまざまな事案にコミットしてゆく。彼は自らの組織を「反宇宙派」と名付ける。「実体のない大きな世界をなんとなく信用する時代は終わったのです。国家を疑い地球を疑い、宇宙をも疑う」というのが命名の理由である。彼はまもなく開催される大学祭で演説をして、外から来た一般の人々にも反宇宙派としての理念をアピールしようとしている。「私」はリーダーの弱点や欺瞞にうすうす気づきながらも、彼に否応のない魅力を感じてしまっている。やはりリーダーとは因縁のある「私の男」も彼女の気持ちの揺れをわかっているが、時おり揶揄するだけで、強く咎め立ては出来ないでいる。 この小説の舞台は、いうなれば「以後の以後」の世界である。「不死の島」の多和田葉子や、『希望の国』の園子温と同じように、綿矢りさは、東日本大震災を直接的に描くのではなく、その後(これから)どうなるのか、そして災禍がもう一度起こったとしたら、果たしてどうなるのか、という想像力を駆使して、物語を構築している。したがって「大地のゲーム」は、一種のディストピア小説の様相を呈することになる。原子力エネルギーを諦めた日本は、全土的に自然エネルギーに転換することで、低エネルギー社会を実現させたが、その代償として、都会から明かりは消え、ひとびとから活気は失われた。リーダーは演説でこう言う。「相��ぐ急激な気象の変化、それに伴う衣食住の変化、また不安定な国内情勢により、私たち国民の平均寿命は年々短くなり、去年、ついに女性は七十代後半、男性は六十代後半となりました。しかし思い出してください、もともと我々は百年を軽々と生きられる民族だったのです。男女とも平均寿命が百年近くまで上がる、確かにそんな時代も過去にはあったのです」。更には巨大地震が、この国を襲った。そして次の揺れも、遠からずやってくる。この状況を生き抜き、かつて日本人が持っていた、百年も生きられたような生命力を取り戻すためには、大きな仕組みや力にすがるのを止め、「頼れるのは自分と周りの人間だけ」という「超個人主義」に目覚め、何事にも「勇気」をもって臨むことが必要だ、とリーダーは訴える。「私たちに足りないのは勇気です。ほかのなにものでもありません。外に出て行く勇気、殻を破る勇気。大きなものを疑う勇気から始めましょう!」。 ���私」と見知らぬ女子学生が校舎の屋上で会話をする場面がある。災害案内板にアクセスし、連絡の取れなかった父親とメール出来たという。彼女は言う。「でも、父親が〝おれたちの昔経験した地震災害も同じくらい規模が大きかった。地震のあとに津波が襲ってきた分、もっと悲惨だったといってもいい。でもあのときからも立ち直れたから、今回も絶対に大丈夫だ〟って書いて送ってきたの。私、それに腹が立って」。「分かる。すごくよく分かる」と「私」は応える。そんな遥か昔の知りもしない出来事と、いま自分たちが直面していることを、どうして比較出来ようか。「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」。 ここで述べておかなくてはならないことは、綿矢りさは京都出身であり、十一歳の時に阪神淡路大震災を体験しているということである(このことは何度かインタビューでも語っている)。つまり「私」と女子学生の会話には、東日本大震災と阪神淡路大震災の関係が重ねられている。災害の規模が問題なのではない。それはあくまでも客観的な視座からの、往々にして無関係な第三者(非当事者)による認識でしかない。重要なことは、それが「私」の体験であるかどうか、なのだ。このような感覚をエゴイズムと断じることは出来ない。むしろ正反対である。なぜならば、柴崎友香の『わたしがいなかった街で』の「わたし」と同じく、ここでの「私」とは「生き残った=死ななかった私」のことであり、その裏側には「死んでいたかもしれない私」が、そして更にその背後には無数の「(私以外の)死んでしまった人たち」が控えているのだから。私は思う。「私より偉い人も、できる人も、美しい人も、みんな死んだ。大地に強い根を張るのはいま生き残った、これからの私たちだ」。煎じ詰めれば偶然と確率の結果でしかない寄る辺なき生存を、「私(たち)」は権利として、また義務として、未来に向けて行使していかなくてはならない。 リーダーはその言動において何よりも「勇気」を強調し、「私」もそれに突き動かされる。しかしこの言葉はけっして単純なものではない。象徴的と言えるのが、前半に置かれたバンジージャンプの挿話である。リーダーに言われるまま、「私」は屋上から飛び降りる。リーダーがすぐさま続く。それはまさしく純粋に「勇気」を試す遊びなのだが、そこには別の意味もある。「あの日のあと、近親者を亡くしたショックや激変した環境になじめずに自殺する人間が、後を立たない。死んだ親族、死んだ仲間たち、考えれば考えるほど引きずり込まれそうになる。大人たちは人の心の傷つきに麻痺して、さらに麻痺させようとしてる。頭をスリルで痺れさせないと、私たちだって危ない。死なないために、飛び降りている」。このように、やみくもな勇気とギリギリの保身は、じつは裏腹になっている。そもそも「外に出て行く勇気」と言いながら、彼らは大学から出ていこうとはせず、巨大地震が来るとわかっているのに、そこから離れようとはしない。物語の最後に、当然のごとく、ふたたび大地震はやってくる。その後、またもや生き残った「私」は、自らに問いかける。
(……)なぜ私たちは、わざわざ危険な土地に、危険と知りながら残ったのだろうか。土地に愛着があったから、土地に執念があったから、大切な人がいたから。土地を踏みしめているときには、そのような理由だと自分で信じ込んでいたが、実は違ったのではないか。 私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。 Bet. 地球全体に広大な敷地を持ちながらも、大地はあの土地にばかり執拗にコインを積み重ね、賭け金の倍率をつり上げる。ディーラーのよく手入れされた細くなめらかな指先、からからと回るルーレットを凝視する賭博者たち、視線の先には今後活発に動くと予想される、大注目の活断層。 天上知らずに集まるパワーとテンションが一等賞の賞金の額を膨大に増し、四方八方からぎゅうぎゅうに押されて耐えきれなくなった地面が口を開き、私たちはその裂け目から暗闇へと飲み込まれる。 でも私たちは、この地から動きたくない。動けない。どれだけ大穴の危険地帯となっても、ここで自分の人生を紡ぎたい。
「大地のゲーム」という題名の意味が、ここでは述べられている。それはどこかバンジージャンプに挑む感覚と似ている。もちろんバンジーは「死なないために、飛び降りて」いたのでもあった。だがバンジーだって事故が起こる可能性はゼロではない。「死なないために」と言いながら、そこには「死ぬかもしれない」が、僅かではあれ常に含まれている。スリルを味わうなどといった皮相な話をしているのではない。ここには、なぜここから逃げないのか、なぜここに留まっているのか、という、おそらく誰もが「あの日以後」に意識的無意識的に問うたことのあるに違いない、あのパラドキシカルな問いへの、答えとは言わないが、ひとつの切実な思弁が存在していると思う。彼女たちは、「私たち」は、私たちは、なぜ、まだ、ここに居るのか? 『現在地』と『ZERO COST HOUSE』の岡田利規が抱えていた問題が、ここでは反対側から問われているのである。 だが惜しむらくは、最後の最後で、綿矢りさは、この思弁を、「私」と「私の男」の、まさに私的な物語に回収してしまっているように、私には思えた。いや、或る意味でそれこそが綿矢の作家としての武器なのだが。とはいえ「勇気」がそうであったように、そこで示されるポジティヴさや希望も、作者自身の考えはどうであれ、やはり一筋縄ではいかない。この小説の末尾は「私は私が抱えられるだけの命を、一つも落とさずにこの道を歩もう」という一文である。この宣言には、いわば毅然とした諦念のようなものが感じられる。その外側には、私が抱え切れない、抱えることの出来ない命たちが、明らかに沢山、存在しているのだからだ。
29。そこに向かう者たち
「In A Large Room With No Light」(最近の阿部小説の例に漏れず、これは曲名で、元ネタはプリンスである)は、「文學界」の二〇一三年三月号に掲載された、阿部和重の短編小説である。二〇一一年の四月、福島の警戒区域内のどこかに秘匿された、埼玉の運送会社の金庫から強奪された五億円を探しに、「日山昭伸」「美里剛洋」「崔哲生」の三人の小悪党が、被災地へと出張ってゆく。映画的と言ってもいいスピーディーな展開と、抜群のリーダビリティを誇る、阿部和重ならではのピカレスクの佳品である。そしてまた、あの「RIDE ON TIME」とはまた別の意味で、確信犯的に不謹慎な小説でもある。震災と原発事故から間もなく、津波によって居住者が亡くなったり、避難したりして無人となった家々や、使用する者の居なくなったATMなどに残されたままの金を盗みに、少なからぬ犯罪者たちが被災地を訪れたことは、その後の報道でも知られることになった。彼らは文字通りのハイエナだが、それもまた震災後の現実である。火事場泥棒の景気のいい話を耳にしながら、その恩恵に浴すチャンスになかなか出会えなかった「日山昭伸」に、小生意気だが頭のキレる舎弟の「美里剛洋」から、奪われ隠された五億円の話が齎される。話を立ち聞きされたせいで仲間に加えざるを得なくなった在日韓国人の「崔哲生」とともに、彼らはミニバンで福島に向かう。おそらくは『幼少の帝国』執筆時の取材に基づくものだろう、具体的な土地勘に彩られた描写は、きわめてリアルなものである。三人のチームは、当然のごとくまるで一枚岩ではない。嘘と策謀と裏切りが連続し、あれよあれよという間に、読者は思いも寄らないラストシーンに辿り着くことになる。大きな余震が起こる。何しろ地震から一ヶ月足らずのことである。「美里剛洋」に裏切られた「日山昭伸」は、致命傷に近い傷を負った「崔哲生」とともにミニバンの車内に居る。そこに大津波がやってくる。それからどうなるかは書かないが、やはりすこぶる映画的な、じつに印象的な幕切れであるとだけ言っておくことにする。 小説的な仕上がりとしては、百戦錬磨の阿部和重にすれば、手慰みの範疇と言っていいのかもしれない(実際、彼はこのような作品なら幾らでも量産出来るだろう)「In A Large Room With No Light」が、書かれた動機とは何だろうか? それは「RIDE ON TIME」の傍らに、この小説を置いてみることで明らかになる。この二編はいずれも、間違いなく他の小説家には絶対に思いつきもしないだろう、きわめて独創的な「津波小説」なのである。阿部和重は、小説によって「津波」を、それが持つ意味を、徹底的に解体しようとしているのだ。 物語の最後に「日山昭伸」は、或る決断をする。それはやむにやまれぬものではあるが、それでも以前の彼であれば、およそありえない選択である。それは「悪党」であればけっしてしないであろう選択である。しかし彼がそれをすることによって、この小説は終わる。そして見事というしかないのは、このエンディングが、そのまま一種の「メッセージ」になっているということなのだ。それは「以後の世界」へと向けた、ほんとうに大切なものとは何なのか、という、ほとんど素朴とさえ呼んでいいようなメッセージである。「RIDE ON TIME」と同じく、阿部和重は言葉にすれば余りにも単純過ぎる、それゆえに賢しい者ほど表立って言おうとはしない、だが紛れもなく重要な真理を、じつに彼らしいヒネクレたやり方で、語ってみせているのである。
30。そこに留め置かれた者
こんばんは。 あるいはおはよう。 もしくはこんにちは。 想像ラジオです。
いとうせいこうの『想像ラジオ』は、こんな呼びかけから始まる。この小説は「文藝」の二〇一三年春季号に掲載され、その後、単行本として刊行された。いとうは震災後、哲学者/小説家の佐々木中と、東日本大震災へのチャリティとして、ヒップホップの流儀で交互に即興的に小説を書き継ぐという試みを行ない、のちに『Back 2 Back』として刊行した。また「今井さん」(「すばる」二〇一二年三月号)、「私が描いた人は」(「文藝」二〇一二年夏季号)という二編のごく短い小説を発表しているが、本格的な作品としては『去勢訓練』(一九九七年)以来、十六年ぶりである。 喋っているのは、DJアークと名乗る人物である。彼はひたすら喋っている。どこか素人ぽくはあるが、それなりに軽妙なトークが、小説ののっけから始まる。だが、すぐさま読者は疑問にとらわれることだろう。「想一像一ラジオ一」というジングルも高らかに、DJアークはノリノリで喋り続けているが、この「ラジオ」とは一体何なのか? その答えはすぐに与えられる。「この想像ラジオ、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。僕はマイクの前にいるわけでもないし、実のところしゃべってもいない。なのになんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかっていえば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、つまり僕の声そのものなんです」。だから「想像ラジオ」。なるほどそれはわかったけれど、でもだからそれは何なのか? そもそもDJアークとは誰で、彼は一体どこから放送しているのか? だが、この疑問にもすぐに答えが与えられる。彼は三十八歳、「三流大学に入って東京に出ると仕送りでエレキギター買って、アフリカのビートを取り入れたちょっとひねくれたバンドに加入して、けっこう評判はよかったもののメジャーデビュー出来ずに裏方として小さい音楽事務所入りましてね」、「そこそこインディーズで売れたメートルズとかマイティ・フラワーとかアトム&ウランとか新人アーティストを色々マネージメントしてるうちに、なんか嫌になっちゃって、といっても十数年やった上でですよ。まあ、そこで見切りをつけて昨日実家に帰ってきたんです。年上の奥さん連れて。川も山も海のあるこの町に」。妻の名前はミサト=美里。彼にはアメリカのジュニア・ハイスクールに通うソウスケ=草助という中二の息子もいる。つまりいわゆるUターン組というわけである。だが、昨日郷里に戻ってきたばかりの彼が、なぜいま「想像ラジオ」の「DJアーク」として喋りまくっている��か? しかも「高い杉の木の上に引っかかって、そこからラジオ放始めるはめになった」とは、どういうことなのか? そして、この当然の疑問に、痛みと悲哀と慈愛に満ちた答えが与えられるのが、要するに『想像ラジオ』という小説なのである。 この小説が載った「文藝」のいとうせいこう特集の一環として行なわれた星野智幸との対談の中で、いとうは震災後の自分の行動について、こんな風に述べている。
(……)世界観が崩壊しましたからね。震災後は映像ばかり見てしまってどうしていいか分からないし言葉なんて一つも役に立たないと思ってたんですよ。でも震災の二日後というタイミングで、ラリー・ハードがDommuneでDJをやったんですよ。ット・ット・ット・ットって四つ打ちで全部インストだったんだけど、四次元に脳が連れて行かれて、そこで何かのエネルギーが補填されていくのを感じた。自分は四つ打ちの音楽は作れない、だけど同じことを言葉でやらなければいけないなと思って、文字DJというツイッターのアカウントを作って、YouTubeもラジオも聴けない状況だったけどツイッターだけは機能してたから、その中でありもしない曲から実際の曲までつぶやいていたんですね。想像すれば絶対に聴こえるはずだ、想像力まで押し潰されてしまったら俺達にはあと何が残るんだと思っていた。
この「文字DJ」の延長線上に「想像ラジオ」という発想が生まれたのだろう。「まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分が出来る限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした」。佐々木中との『Back 2 Back』は即効性を何よりも第一とする試みだった。ツイッターによる「文字DJ」もまたリアルタイム性を最優先させるものだった。だが一編の小説、それも或る纏まりと長さを持った小説は、それらとは異なる。小説は遅い。小説は遅くなる。小説は遅れる。遅れてくる。遅れざるを得ない。だから「遅さ」こそを武器にしなくてはならない。そこでいとうが選んだのが、一言でいえば、死者の声を聴くことを想像する、それも徹底的に、出来うる限りの技を用いて、必死で想像する、ということだった。そして彼はそのことだけを書いたのである。 DJアークは、高い杉の木の上に引っかかったまま、彼の「想像ラジオ」を続ける。ラジオであるからには、リスナーからの電話もあれば、メールだって届く。音楽だってかかる。番組はなかなか賑やかである。しかし読み進むほどに、否応無しに読者は、それらが、あの地震と津波にかかわっているということ、いや、すべてがその話なのだ、ということに気づかされることになる。作者はもちろん、そのことをいつまでも隠したりはしない。DJアークに何が起こり、彼が語りかけている「想像ラジオ」のリスナーたちとは誰なのか、読者には程なく分かる。だから私はそれを書かない。この小説は五章立てであり、第二章と第四章にはDJアークとは別のSという作家が登場する。彼はどこか(というかあからさまに)作者いとうせいこうを思わせる人物である。Sはボランティアに行った宮城と福島で、非常によく似た「樹上の人」の噂を耳にした。大津波が何もかもを押し流していった後、しばらく杉の木の上に引っかかっていた人がいた、という話。それぞれの「樹上にいたのが同じ人であるはずもないが、私にはふたつの体が同一のように思えて仕方なくなったし、それどころかありとあらゆる場所にその体があって我々を見下ろしているように感じられた」。彼は「樹上の人」の声を聴きたいと思うが、しかし「その声が私には聴こえない」。だから「私はもっと集中するべきだと思う」。 第二章で、福島からの帰路、車中でボランティアたちが交わす議論がある。リーダー格の若者が「樹上の人の声」に��だわるSに対して、こう言う。「あのですね、俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。亡くなった人への慰めの気持ちが大事なのはよくわかるんですけど、それは本当の家族や地域の人たちが毎日やってるってことは体育館でも仮設住宅でもいくらでも見てきたじゃないですか。(中略)その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きてる人の手伝いが出来ればいいんだと思います」。これを聞いて、Sは自分を軽々しい人間だと思って恥じ入るが、それでも事態に無関係な者は、他人の死にかかわる「心の領域」に入り込むこと、すなわち「想像」などするべきでない、という考えに完全には納得出来ない。そると別のボランティアの青年が、バイト先の植木職人の親方から又聞きした東京大空襲の話を始める。
……亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ、とおやじさんが仕事帰りに植木道具を置きに行くと奥の座敷から廊下に出てきて茶碗酒片手で俺によく言うんだよ。叫び声が町中に響き渡ったはずだし、悔しくてどうしようもなくて自分を呪うみたいに文句を垂れ続けたろうし、熱くて泣いて怒って息を引きとるまで喉の奥から呻き声あげたんだぞって。先代の親方は、自分が知らないその夜のことをおやじから聞いて、しょっちゅう夢見て飛び起きたんだって言ってたけど、先代は話を聞いて公開したことねえぞって言うんだ。 俺は亡くなるまでのその声を考えるのと、亡くなったあとを想像するのにそれほど差があんのかって思う。恨みはあるし、誰かに伝えたかったこともあるし、それが何だったか考える人がいてもいいし、いやいなくちゃいけないし、それがSさんだったりするんじゃないかって……
しかしボランティアのリーダーは反論する。「それは遠い過去になったから語る人が色々でもむしろ事実を忘れないためにいい」のだが、しかし直近の震災で「自分一人だけ生き残った人に対して、あなたのご家族は今あの世でこんなことをつぶやいてるんじゃないかなんてことを、いくらなんでも口に出来ない」のではないか。その上で彼はSにこう告げる。
これは失礼な言い方でほんとに申し訳ないんだけど、Sさんは元は博多の人で長く東京に住んでて、親戚の誰一人東北にいないし、友達が亡くなったわけでもないと聞いています。そういう人が死者への想像を語る時期でも、そもそも語る問題でもないと俺は思うんです。まして亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱してる。
ボランティアという行為自体が、「甘い想像で相手に接してる限り何度でも、お前に何がわかるんだとつっぱねられるんですよ」と彼は厳しく言う。そこに、更にもう一人のボランティアが話に加わってくる。確かにその通りだ。生半可な同情や想像など、被災地の人たちからしたら、単なるこちらの自己満足、自己欺瞞以外の何でもない。「問題は役に立つか立たないかで、あとは全部考えをやめる」という態度は正しい。だが、それでも「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けることを禁止にしていいのか」とも思う。「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」。
作家っていうのは、俺よくわかんないけど、心の中で聴いた声が文になって漏れてくるような人なんじゃないのかと思うんですよ。その場で霊媒師みたいに話すんじゃなくて、時間かけてあとから文で。しかも確かにそれが亡くなった人の一番言いたいことかもしれないと、生きている人が思うようなコトバをSさんは、なんていうか耳を澄まして聴こうとしていて、でもまったく聴けないでいるってことじゃないか。
これこそ「遅さ」の効用というべきものである。だがリーダーは「禁止してるんじゃない」と応じつつも、それでもやはり、こう述べる。「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解出来ない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上が��だし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」。 このように第二章は、当事者性と想像という行為にかんするディスカッションと言えるものになっている。無論それは作者自身の自問自答でもあるだろう。ところで、第一章の終わりで、DJアークは一曲かけていた。アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水」。ボランティアたちの車内に沈黙が降りたとき、それまでずっと黙っていた運転席の、中一の時に阪神淡路大震災を体験し、それから何年か言葉を喋らなかったという青年が、カーラジオのスイッチは切ってある筈なのに、なぜか音楽が聴こえてくる、と言う。それはジョビンの「三月の水」だ。繰り返しかかっている。誰か男の声も聴こえたと言う。だが、Sには何も聴こえない。 『想像ラジオ』は、痛ましさとやり切れなさに覆われた小説である。十六年ぶりの本格的な小説の題材として、このようなものを選んだ、選ばざるを得なかった、いとうせいこうという作家の勇気に、私は静かに戦慄する。ここでは想像すること、書くことへの、強い動機と強い疑いとが、同時に存在し、激しく鬩ぎあっている。「震災小説」を、「以後の小説」を、ただタイミング良く、小器用に書いてみせるのとは、わけが違うのだ。作者には、この小説が必然的に帯びてしまうだろう、隠しようもない欺瞞が、最初から見えていた。たとえ感涙する読者が居るとしても、その感涙の内にこそ、当事者でないがゆえの、安全地帯から見守っているがゆえの、無傷な憐憫というしかないものが仄見えていることを、書き出す前からよくよくわかっていた。それでも、どうしてもこれは書かれなくてはならなかったのだ。書けない/書かないことへの、ギリギリの否定/逆転としての、書くこと。 先の星野智幸との対談で、いとうせいこうはこんなことを述べている。 死者の声を聴くっていうことが、やっぱり歴史なんだと思うんです。批評家がよくこの小説には歴史がないとか言いますけど、その歴史って小説で考えたら、死者の声でしかないんですよ。相手が大勢であっても、たった一人であっても、死者の声にじっと耳を傾けることにしか歴史はない。もちちん死者っていうのは今生きていないっていうことでいえば、未来の人の声でもある。だからリアルな今の状況を写せば小説家といったら決してそうではなくて、小説が作れる現実というのは死者の声を過去からも未来からも聴いて、その時間が渾然一体となって同じ平面に出ることなんだと思うんです。同じ平面ということでいえばそれが小説のきわめて不自由な側面でもあり、しかし同時に多声的に読める自由さでもあるんですよね。
死者の声を聴く小説。いや、小説とは死者の声を聴くことなのだ。けれどもこの発言は、他でもない『想像ラジオ』を書き終えたからこそ出来たものでもある。いとうせいこうは、あの紋切り型の問い、けっして安易に問われるべきではないのに誰彼無しに何度となく問われてしまった問い、すなわち「〜に何が出来るのか?」という問い、つまり、小説には何が出来るのか、という問いを、真っ向から引き受けるために、ほとんどただそれだけのために、長いブランクを経て、ふたたび小説を書いたのだ。このことは強調しておかなくてはならない。小説は遅くて不自由なものだが、それでもやれることはある。小説にしかやれないこと、小説だけが切り拓く自由が、確かにある。だったらば、やってみる価値はあるのではあるまいか。誰もそれをやっていないようであれば尚更。 しかしもちろん、それは同時に、小説という形式に耽溺すること,小説という行為に安住することを意味しているのではない。いとうはこんなことも言っている。「特に純文学をやっていらっしゃる方々は、間接性しか取らないんですね。直接的にものを言うことを避ける。3・11の後、「とにかく募金を集めよう」って普通に各々のサイトとかにデカデカと書けばよかったように思う。それをやらずに間接的なやり方が目立った。エンターテインメント畑は違ったと思う。ストレートであることを恐れなかった」。『想像ラジオ』の作者は、アクティヴィストでもある。だからこそ彼は、こんな小説を書いた/書けたのだ。「文学者が直接的に言葉を使わなかったということは、逆に言うと作品が間接的に書けていないからじゃないですか? 間接的に書けてこそ、直接性が怖くなくなるんじゃないでしょうか?」。この問い、いや挑発に、一体どれだけの「文学者」が抗弁出来るのだろうか? 小説の終わり、DJアークの「想像ラジオ」は、遂に放送終了の時を迎える。彼はおもむろに「この機会にしゃべっておきたいこと」を語り出す。 今日も明日も想像を求める新しいDJが次々と世界にあらわれる。何人も何人も、日々あらわれる。それどころか、あらわれない日がないんです。いや、今この時もすでに無数のDJたちがやかましいくらいに自分の番組をオンエア���てる。彼らはゴキゲンな放送を続けるでしょう。僕だっていつでも戻ってくる。語りかけるし、話を聴く。その声に必ず耳を澄まして欲しい、リスナーたちよ。また新たに生まれるリスナーたちよ。
この後どうなるのか、もちろん私はそれを書かない。
31。「午後二時四十六分十八秒」
山下澄人の「水の音しかしない」は「文學界」の二〇一一年十二月号に発表され、現在は作品集『ギッちょん』に収録されている。他の山下作品と同様、小説による/小説における「野性の思考」をまざまざと体現したかのような、自由奔放かつ繊細精緻な書法によって、或る出来事が描かれる。 「出勤途中によく駅で会う男がいた。土日をのぞいてほぼ毎日、その男に会った。だからお互い、顔をあわすといつの頃からか、軽く会釈をかわすようになっていたのだけれど、わたしはそれが実は鬱陶しくて面倒くさくて、だから今朝、電車の時間をひとつ早いのに変えた」。それにもかかわらず、彼はその男と今朝もやはり会ってしまい、仕方なく初めて挨拶を交わし、車内で話をする羽目になる。「わたし」は「斉藤」、男は「中嶋」と名乗る。ふたりの家族構成は子どもの年齢も含めて、まったく同じだった。「わたし」は、明日は電車を更に一本早めようと考えつつ、「中嶋」と別れ、会社に着くと、何故か自分の机が移動されている。そればかりか、隣席の「真島」をはじめ、同僚たちの姿がひとりも見えない。課長の「溝口」だけが、昨日と変わらずに居る。怪訝に思って「わたし」が尋ねると、おもむろに「溝口」は答える。
「昨日だよ。すべてが変わったのは。斉藤はいなかったっけ? 昨日の午後、何時だ? 二時過ぎか?」 知らない女が来た。髪が金髪だ。溝口はその金髪の女に 「昨日のあれは、何時だったかな」 と聞いた。女は 「二時四十六分です」 といった。 「だって」 と溝口は私にいった。わたしは話がまったく見えなかったので、それは何ですか、と溝口に聞いた。 「それが何だ、といわれても、それはそれだ、だから何だ、としかいいようがないよ斉藤ちゃん。昨日の午後二時、ええと」 「四十六分」 とわたしはいった。 「そう。四十六分。その時、すべては変わったんだよ。すべてというのは、すべて。全部。全部というのは何もかも。一切合切。外も中も全部。ただ」 溝口はのっそりと立ち上がって、ホワイトボードに黒いペンで「ただ」と書いて、ふたつの字の上に傍点をつけた。
ああ、これはそういう話なのか、と読む者はここでいきなり気づかされることになるのだが、当然のごとく、山下澄人は、この作品をあからさまな「震災小説」として書こうとはしていない。 翌日の朝、電車をもう一本早めたのに、「わたし」はやはり「中嶋」と会ってしまう。ふたりは一昨日の帰宅困難について語り合う。職場に行くと、「溝口」と金髪の女「森林サリー」に加えて、新しい人間が居る。「わたし」と同じ名前の巨漢の男「ビッグ斉藤」と、「わたし」の妻の「ナオミ」によく似た若い男。山下澄人の小説は、通常われわれがリアリズムだと思い込んでいる常識を、あちこちであっさりと逸脱しているが(そして同時に、こっちの方が真の意味でのリアリズムなのではないか、と強く思わせもするのだが)、このあたりからこの作品も、視点や時制や描写が、ゆるゆると解けてゆく。あの日の「二時四十六分」に起こったことを、「わたし」は忘れてしまったのか思い出せないのか、それとも覚えているのだが自分で留め金を架けているのか。あの日のあの時間、一体「わたし」はどうしていたのか。それからどうなったのか。「わたし」以外の連中はどうなったのか。そして「わたし」は今、ほんとうはどうしているのか。何もかもが曖昧にされており、どうにもよくわからない。 それでもどうやら読み進むにつれて、事の次第らしきものが少しずつ推察可能になってくる。「水の音しかしない」が、他の山下澄人の小説と一線を画していると思えるのは、誰もがどうしたって明確な事実性と結びつけざるを得ない、他ならぬ「二時四十六分」に因っている。それゆえに、ここは評価の分かれるところかもしれない。事実は虚構の支えになるが、同時に重石でもあるから。そして確かに『緑のさる』や「ギッちょん」や「トゥンブクトゥ」のような過激な跳躍ぶりを、この小説は必ずしも見せてはいないようにも思える。しかし、それでもこれは山下澄人にとって、どうしても書かなくてはならなかった、書かれなくてはならなかった作品なのだと私は思う。 後半には、次のような場面が現れる。 溝口はタクシーの中にいた。現場に向かうつもりが、そこでの作業は早々と終わったことをタクシーに乗る前に溝口は真島から聞いて、そのまま帰っても良かったのだけれど。せっかくここまで来たのだからと、浜へ向かっていた。運転手にはなまりがあった。午後二時四十六分ちょうどだった。 その十八秒後、突然、広大な土地にいる人間、猫、犬、うさぎ、ネズミ、いたち、ゴキブリ、等々のからだ、建物、電信柱、木、草、地面が、山が、海が、揺れた。 同時に香山が声をあげたから、からだが揺れたのはわたしだけではなかったのだとわたしは思った。揺れる中わたしはカモメが何羽も飛ぶのを見た。揺れがおさまり、興奮した真島が十年以上前に経験した遠い土地での大きな地震の話をはじめた。真島にいわせると、そこでの地震のほうがずっと激しいものだったらしい。 「縦に揺れてから、横に揺れたからな」 わたしたちは浜からあがって、溝口を待った。溝口はタクシーの運転手とさっきの地震の話をしていた。運転手がつけたラジオはどこも地震のニュースだった。「津波」とアナウンサーがいうのが確かに聞こえた。しかしほとんど溝口も運転手も聞いていなかった。わたしはそんなニュースが流れていることすら知らなかった。香山が携帯電話を見ながら原口と何か話していたけれど、その時も確かに「津波」と聞こえた気がするけれど、わたしは飛び交うカモメを見ていたので、ちゃんと聞いてはいなかった。頭の禿げた男が寝グセのついたきれいな女の肩を抱いて浜を上がって来た。女は泣いていた。どこかでサイレンが鳴った。しかしわたしには、というかわたしたちには何のサイレンかわからなかった。
この部分だけを読んだら、紛れもないリアリズム小説の一節だと思われるかもしれない。そしてこのあと、阿部和重の「In A Large Room With No Light」の「日山昭伸」が、いとうせいこうの『想像ラジオ』の「樹上の人=DJアーク」が見舞われたのと同じ事態が、「わたし(たち)」を襲う。 だがしかし、かといってこの小説は、あの日の「午後二時四十六分十八秒」へと遡行してゆき、取り返しのつかない出来事へと収斂していって、悲劇が露わになって、それで終わるわけではない。むしろそこで、むやみと混乱した、だが同時にすこぶる透明な筆致で描かれているのは、あの『想像ラジオ』とはまた別のかたちで、そこにいつまでもいつまでも留められて、繋がれてあるさま、である。そして、そうあるしかないのは、他でもない「わたし」というものが存在しているからである。山下澄人の場合、それは「存在していた」と、過去形で言ってもまったく同じことだし、「わたし」ではない誰か/何か、と言ってしまっても、おそらく同じである。さしあたり「わたし」は「斉藤」という名前を持っているのだが、それは誰もがとりあえず名前を持たされているからに過ぎず、何よりも重要なことは、この体験をした者が現に居た(かもしれない)ということなのだ。「現に」というのも一通りの意味ではないのだが。 結末に向かって、この小説はふたたびしどけなく解け始める。時間が弛み、記憶が変調し、「わたし」の意識が、意識と呼ばれる何かを表す言葉たちが、段々と溶け始める。ふと気づくと「わたし」はまた「中嶋」と、電車内で話している。
「あれからどうしてた?」 あれからというのは、どれからかわたしにはわからなかったけれど、適当に見当をつけて話し始めた。いつも会う男と話すようになった事、会社から真島たちがいなくなっていた事、かわりに森林サリーとビッグ斉藤とナオミに似た若い男がいた事、溝口までいなくなった事、そして結局、会社からいなくなった溝口や真島たちの行方はわからずじまいであり、その事を気にしていても仕方がないと、それ以上考えないようにした事。 「うん」 あとは、ナオミに似た若い男が倒れて、ビッグ斉藤と食事をして、終電に乗り、記憶喪失の夢を見て、終点まで寝過ごしてしまい、公園でそこに住む事を妄想して、そこに住む男を妄想して、妄想した男と会話して、港へ出て、その前に商店街で若い女と子供を見て、港で海に浮かぶ木材を拾い上げて、そこに真島たちがあらわれて、みんなで行った焼き鳥屋でさっき別れたビッグ斉藤が働いていて、ホテルでは森林サリーが働いていて、隣にいた男の顔が思い出せなくて、明くる日みんなと海に行って、原口が何度もはねる魚を見て、地震が来て、揺れて、その後、津波が来て、そしてその津波にのまれた事などを話した。
これはそのまま、この小説の簡潔なあらすじになっている。だが、では、そしてそれからどうなった? どうなったのかを「わたし」は言うことが出来ない。それを言えるのは一人称の話者である「わたし」しかいないにもかかわらず、それからどうなったのかを適当に見当をつけて話すことが「わたし」には出来ない。そうすることがどうにも出来なくなってしまっている、ということが、この小説に書かれていることだと言ってもいいかもしれない。かろうじて可能なのは、解け切った「わたし」の、たとえば次のような混乱した述懐だ。 空は曇っていた。わたしから見える限りの空はねずみ色だった。雨が降っていた気がわたしはしていたが、わたしのからだはたえず濡れていたから雨をあまり意識出来ていなかった。というか、わたしはわたしのからだが濡れているのかどうかさえ、ほんとうはよくわかっていなかった。しかしまだ、濡れるのはよくない、という意識だけはかすかにあったから、わたしは水につかっていた足をわたしのからだが乗っている、わたしが、何か、としか認識していない青い屋根の上に面倒くさいと思いつつ、さっき上げた、と思っていたが、しかし実際はそれは昨日の事だった。わたしは水に飛びかかられた事はおぼえていた。その轟音も。何度も「ごうおん」という音が、なのか、言葉が、なのか、轟音の中、わたしの頭に点滅した。どれくらいの時間、わたしはこうしているのか、わたしはわかってはいなかった。何度か暗くなった事はおぼえていたが、その記憶もわたしからは消えかけていた。それでもわたしは生きていた。息を吸い、吐いていた。心臓は休みなく鼓動し、他の臓器もそれぞれの役目をまだきちんと果たしていた。わたしはまだ生きていた。
「わたしはまだ生きていた」。だから、今、こうして過去形で語っているのである。だが「今」とはいったい何時のことなのか? そもそも「過去形」とは何なのか? 「中嶋」が「あんたとは駅で話すようになんなきゃいけないんだから、元気出してよ」「まだほんとうは俺はあんたに名乗ってもいないんだからさあ」と「わたし」に話し掛けてくる。「この事、思い出せるかな」と「わたし」はふと口に出す。「電車で会った時にさ」。男はもういない。水の音しかしない。 32。良いニュースと悪いニュース
二〇一三年四月十二日、村上春樹は書き下ろしの長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を発表した。発売当日まで、題名以外の一切の情報は明らかにされていなかった。小説としては前作に当たる『1Q84 BOOK 3」が出たのが二〇一〇年四月十六日だったので、ほぼ三年ぶりの新作ということになる。それは、次のような物語である。 タイトルにある通り、主人公の名前は多崎つくる。三十六歳の独身男性で、西関東の鉄道会社の駅舎設計管理部門に勤めている。彼はどういうわけか、幼い頃から「駅」が大好きだったので、夢をかなえたのだと言ってもいい。実際には関東地方に新たに駅を作ることは稀であり、ほとんどの仕事は改修工事絡みなのだが。実家のある名古屋での高校時代、つくるには四人の親友が居た。頭脳明晰な優等生のアカこと赤松慶、熱血漢のラグビー部キャプテン、アオこと青海悦夫、誰もが認める美人で、ピアノを流麗に弾きこなすシロこと白根柚木、熱心な読書家だが、さっぱりとした性格のクロこと黒埜恵理。五人は高校のクラスのボランティア活動を通じて仲良くなり、あっという間にどんな時にも行動を共にするほど親密になった。まったくと言っていいほど性格やキャラクターは異なっていたが、むしろそれゆえにこそ彼らは他の四人に魅力を感じ、必要とし、惹かれ合ったのだ。ただ、つくる以外の四人は、姓に色を示す字が入っていた。だから互いに色のあだ名で呼び合うようになったのだが、色彩を持たないつくるだけは「つくる」だった。そのことにつくるは少しだけ疎外感のようなものを感じていたが、だからといって五人の関係に歪みはまったくなかった。それはまるで正五角形のように完璧な友情だった。 つくるは「駅」を造るという将来の夢のために東京の大学に進学した。他の四人はそのまま名古屋に留まった。それでも五人の仲に変わりはなかったが、大学二年の夏、二十歳を目前に帰省した折、つくるは何の前触れもなく、四人から絶交を告げられた。理由は説明されず、彼にも思い当たることは皆無だった。つくるは甚大なショックを受け、絶望し、放心して、引きこもり、一時は死を強く願うほどの状況に陥る。そしてギリギリの窮地から現実に引き返して来た時には、彼は激痩せして別人に見えるほどの変貌を遂げていた。それからの十六年間、彼は五人の元親友たちと一度も再会していない。そしてこの経験は、つくるの他者へのかかわり方に、当然のことながら多大な影響を及ぼした。その後の大学時代に、たまたまプールで知り合った年下の大学生、灰田文紹(言うまでもなく、ここにも色が含まれている)と親しくなったが、灰田もまた唐突に、つくるの前から姿を消す。それからつくるは、けっしてそう決めたわけではないものの、男女を問わず、誰かと一定以上に距離を詰めることなく生きてきた。だがつくるは最近、仕事の関係で知り合った旅行会社に勤める二歳年上の女性、木元沙羅から、十六年前の五人組からの追放の真相を、今こそ確かめるべきだと言われる。彼女はつくるに「あなたはたぶん心の問題のようなものを抱えている」と指摘し、それを解決しなくては二人の関係は先に進めないと告げる。こうしてつくるは、長い時間封印していたパンドラの匣を開けるべく、彼の「巡礼」の旅に赴くことになる。 多崎つくるの「巡礼」は、故郷名古屋へ、そしてフィンランドの町ハメーンリンナへと、彼を誘う。そこで俄に明らかにされる遠い過去の思いがけない秘密と、そこから掘り出されてくる幾つもの新たな謎、それらに宿る途方もないやりきれなさと不条理、そしてつくると沙羅の関係の展開にかんしては、これ以上は述べない。それよりも、なぜこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、ここで取り上げられているのか、ということについて語らなくてはならない。全十九章から成るこの小説の第三章、つくるが死の間際から何とか生還し、だが体重が七キロも落ちていたという記述に続いて、次のような文章が置かれている。
死にかけているように見えたとしても、それは仕方ないかもしれない。彼は鏡の前で自らにそう言い聞かせた。ある意味では、おれは実際に死に瀕していたのだから。木の枝に張りついた虫の抜け殻のように、少し強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされてしまいそうな状態で、���うじてこの世界にしがみついて生きてきたのだから。しかしそのことがーー自分がまさに死にかけている人のように見えることがーーつくるの心をあらためて強く打った。そして彼は鏡に写った自分の裸身を、いつまでも飽きることなく凝視していた。巨大な地震か、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように。
この小説において、「二〇一一年三月十一日」に多少ともかかわっていると読める言及は、ただこの一箇所のみである。そしてこれは読んでの通り、喩えに過ぎない。周知のように村上春樹は、現代作家としては例外的なほどに比喩を多用する作家だが、ここでの「のように」は、この小説にも膨大に投じられている他の無数の「のように」とは、どこか性質が異なっているように思える。それは言うなれば、いささか唐突に、取ってつけたように見えるのだ。だがそれゆえにこそ、妙に気になってしまう。 もちろん、この点を取り上げて、村上春樹が自身のフィクションを無理矢理「震災」に結びつけようとしているとして批判することは可能かもしれない。ほんとうは全くの無意味な、単なる仄めかしでしかない、真摯さを欠いたはしたない行為であると。だが私は、それとは正反対のことを、これから主張したいと思うのだ。 物語がまだ始まったばかりの第二章で、つくるは沙羅に十六年前の出来事、これまで誰にも話したことのなかった辛い想い出を告白する(それはそのまま読者に対する過去の説明にもなっている)。彼女は当然のごとく、どうしてその時にちゃんと理由を問いたださなかったのか、と尋ねる。
「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」 沙羅は薄い唇をいったんまっすぐ結び、それから言った。「それはきっと危険なことよ」 「危険なこと」とつくるは言った。「どんな風に?」 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を変えることはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を消すのと同じだから」
「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」。沙羅の言葉は、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の通奏低音として、物語の深い所に潜行しつつ、静かに鳴り響いてゆくことになる。タイトルにもある、かつてシロがよく弾いており、灰田がつくるにレコードをくれたフランツ・リストのピアノ曲集『巡礼の年』のように。それはつまり、一度起こったことは二度と消えない、ということである。あったことはなかったことにはならない。これはいわば当たり前のことだ。だがひとはしばしば、さまざまな理由から、時にはやむにやまれぬ事情によって、歴史=過去から目を背けようとするし、忘却どころか記憶や記録からの抹消を試みさえする。そしてそれに成功することもある。しかし、ほんとうは過去は消えてはいない。それはずっとそこにあり、あり続けるのだ。 だがしかし、それはそうであるとしても、なぜわざわざ、忘れた筈の、思い出すことをやめた筈の、ほとんどなかったことになりつつあった筈の過去への「巡礼」に向かわなくてはならないのか。それは、しなくてもいいのではないか。しなくていいのなら、しないままの方が幸せな場合だってあるのではないか。むしろそうすることによって、過去と現在が一直線で繋げられてしまうことによって、過去が現在に襲いかかり、すべてを台無しにしてしまうことが起こり得るのではないか。過去の中には、そっとしておくべきことが、誰にだってあるのではないか。そうも思える。そして実際、つくるの「巡礼」の旅は、世界そのものの悪意と呼んでもいいような、あまりにも酷薄きわまりない事実を明らかにする(登場人物のひとりは「それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった」と表現する)。それでも、それを知らぬままに済ますことは「あなたという存在を消すのと同じ」だというのだろうか。最後まで知らずにいた方がいいことだって、人生には確実に存在しているのではあるまいか。 つくるは名古屋でアオ、アカと十六年ぶりに再会する。アオはレクサスの販売代理店でディーラーとして働いていた。つくるは彼から十六年前の絶縁の理由を聞かされる。それは想像もしていなかったものだった。アオはつくるに謝罪する。十六年経っても、彼は真っ直ぐな人間のままだ。東京の有名大学に十分受かるだけの優秀な成績でありながら、敢て名古屋大学に進学し、大手銀行に就職したものの二年でサラ金へと転職し、更にそこも辞めて自己啓発セミナーまがいのビジネスを始め、大成功をおさめているアカは、表面的には高校時代とはずいぶん人間が変わっていたが、それはむしろ時間と共に彼の芯の部分が露出してきたということかもしれない。アオはアカの商売を快く思っていないようだったが、つくるはアカの率直な話しぶりから、優等生の顔の裏に反骨精神を隠した昔の友人の姿を感じ取る。別れ際に、アカはつくるにふと、こんな話を披露する。 「おれがいつも新入社員研修のセミナーで最初にする話だ。おれはまず部屋全体をぐるりと見回し、一人の受講生を適当に選んで立たせる。そしてこう言う。『さて、君にとって良いニュースと悪いニュースがひとつずつある。まず悪いニュース。今から君の手の指の爪を、あるいは足の指の爪を、ペンチで剥がすことになった。気の毒だが、それはもう決まっていることだ。変更はきかない』。おれは鞄の中からでかくておっかないペンチを取りだして、みんなに見せる。ゆっくり時間をかけて、そいつを見せる。そして言う。『次に良い方のニュースだ。良いニュースは、剥がされるのが手の爪か足の爪か、それを選ぶ自由が君に与えられているということだ。さあ、どちらにする? 十秒のうちに決めてもらいたい。もし自分でどちらか決められなければ、手と足、両方の爪を剥ぐことにする』。そしておれはペンチを手にしたまま、十秒カウントする。『足にします』とだいたい八秒目でそいつは言う。『いいよ。足で決まりだ。今からこいつで君の足の爪を剥ぐことにする。でもその前に、ひとつ教えてほしい。なぜ手じゃなくて足にしたんだろう?』、おれはそう尋ねる。相手はこう言う。『わかりません。どっちもたぶん同じくらい痛いと思います。でもどちらか選ばなくちゃならないから、しかたなく足を選んだだけです』。おれはそいつに向かって温かく拍手をし、そして言う、『本物の人生にようこそ』ってな。ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」
いかにも自己啓発セミナー的に思えるこのエピソードは、先の沙羅の言葉と組み合わされることにより、この小説の核心を成す、重要なテーマを示すものだと、私には思える。この話が表している世界観/人生観のようなものは、読んでのごとくきわめてペシミスティックである。だが、ポイントは話される順番にある。まず「悪いニュース」が提示される。それはおそろしく惨い仕打ちである。出来ることなら回避したい。逃げ出したい。だが「それはもう決まっていることだ。変更はきかない」。この宣言は、明らかに沙羅の言葉と対になっている。彼女が「過去=歴史」について述べていたことを、アカは「未来」について語っているのだ。とにかく途方もなく惨いことが、これから行なわれるのである。それから「良いニュース」が提示される。だがしかし、そこには選択の余地がある。確かにそれはどちらを選ぼうと惨事には変わりなく、だから選択自体が虚しい行為と呼ぶべきかもしれない。だが選ばなければ、自分で選択しなければ、事態はもっと確実に悪くなるのだ。この場合、選択肢の決定それ自体には、実のところほとんど意味はない。そうではなくて、それでも選択する意志を持てるかどうか、悲惨の渦中にありながら、欠片ほどの自由を行使することが出来るかどうかが問題なのだ。どっちもたぶん同じくらい痛い。でもどちらか選ばなくちゃならない。だからしかたなく選んだだけ。そんなおおよそ積極的とは言い難い選択に対して、ウェルカム・トゥー・リアル・ライフという言葉が与えられることの意味、そこにこそ、どうして村上春樹が、突然この小説を書いたのか、という謎へのヒントがある。 最終章、つくるはフィンランドへの「巡礼」から戻ってきたが、沙羅にはまだ会えていない。彼女に報告することが、そして彼女にどうしても問わなくてはならないことが、彼にはある。物語は終わりに向かっている。だが、まるで終着駅の手前で急に電車が点検に入ったかのように、この小説は奇妙な停滞を見せる。つくるはJR新宿駅に来ている。彼はこの駅を眺めるのが好きだ。彼は朝のラッシュアワーの雑踏のことを考えている。「よく暴動が起きないものだ。事故による流血の惨事がもたらされないものだと、つくるはいつも感心する」。そこで、次のような記述が現れる。 もしそんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。その被害はすさまじいものになるだろう。鉄道会社で働く人々にとっても、警察にとっても、もちろん乗客たちにとっても、それは想像を絶する悪夢だ。にもかかわらず、そのような惨事を防ぐ手だては今のところほとんどない。そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ。
村上春樹が、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者たちに取材して著したノンフィクション『アンダーグラウンド』は、一九九七年三月に書き下ろしという形で刊行された。地下鉄サリン事件が起きたのは一九九五年三月二十日だから、ちょうど二年後のことだった。先にも述べておいたが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、二〇一三年四月十二日に書き下ろしで刊行された。二〇一一年三月十一日の東日本大震災から二年と一ヶ月が経っていた。二つの出来事と二冊の本は、ほぼ同様の時間的な関係を持っている。このことは何を示唆しているのだろうか。何かを示唆しているのだろうか。『アンダーグラウンド』が地下鉄サリン事件に対して有していた位置と意味を、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は東日本大震災に対して有している、たとえほとんどそうは読めなくても、ほんとうのところは、そうなのではないか。いや、むしろすぐにはそうと思えないからこそ、それはやはり、そうなのではないのか。そう考えてみると、この小説の物語、この物語のあらゆる挿話、それらの挿話の細部の何もかもが、実はすべて、あのことを語っている、語ろうとしているのではないかと思われてくる。 私はこれを穿ち過ぎだとは思わないし、殊更に好意的に解釈してみせているのでもない(何度も繰り返し述べてきたように、小説であれ何であれ、私は「震災」を取り上げること自体に意義があるとは全然思っていない)。村上春樹という作家の最大の特長は、彼の書く小説が、リアリズムからも私小説からも限りなく遠い、という点にある。村上春樹の作品には、現実がそうであるように意味性を欠いた要素はひとつとして存在していない。その意味が明らかにされないことはあっても、そこには必ず、それがそこにあり、それがそうであるということの理由が存在している。この意味で、村上春樹の小説は、基本的に現実世界との接点を持っていない。それは最初から最後まで作家の脳内にあるのだ。村上春樹の小説はリアリズムとは関係がない。それは常に一種のファンタジーなのである。そしてまた、彼の小説における主人公、一人称ならば「僕」と称し、三人称なら固有名詞で呼ばれる人物は、その物語を語り、この小説を書いている「村上春樹」自身と、他の作家とはかなり異なる形で、曖昧に混じり合っている。それは初期の「僕」たちよりも、近年の作品群、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のような三人称小説において、その特異性を露わにする。たとえば先ほどの引用の最後の「その悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」の「実際に」には強調を示すダッシュが振られているが、それは誰がしているのか? むろん、村上春樹がしているのである。この小説は、多崎つくるという主人公の視点と主観によって綴られていくわけだが、結局のところ、彼はいわゆる物語の主体とは、かなり違っている。つくるは自分を「色彩を持たない」空っぽの存在と感じているが、それを言うなら一色ずつを配された他の登場人物たちは、それぞれの役割と機能を作者から割り振られた、いわば叙述上の要素であるに過ぎない。色を持っていないつくるは、空だからこそ、彼にかかわる人物=要素たちが齎す、さまざまな真実や秘密や嘘や謎を、丸ごと包含することが出来る。そうして、多くの線路が交叉する「駅」をつくるのである。 「巡礼」の最後には、こんな場面が置かれている。
そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
私小説とは、作者が自分自身と同一か、でなくとも限りなく自分に近い存在を小説の中心に据えることにより、むしろ逆に「私」を虚構化してゆくプロセスのことだ。村上春樹がしているのはこれとは真逆である。彼は「多崎つくる」というあからさまな虚構の存在を拵え、その周囲にやはりあからさまに虚構の何人かを拵えて、その関係性の内側に幾つかの虚構の事件を配して、そうすることで、そうすることによってしか可能ではないやり方で、紛れもない現実に起こった、けっして忘却も消去も出来ない過去に起こった、二年前のあの出来事に対して、小説家として、言葉を差し伸べようとしている。彼には言いたいことがあったのだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は「以後の小説」である。
33。「言葉たち」、イントロダクション
あれから二年と数ヶ月が過ぎた。あの日に起こったこと、あの日から起こったこと、今もまだ続いており、いつまで続くのか、いつ終わるのか、いつか終わるのか、いつか区切りが付けられるのかどうか、そもそも何をもって区切りと呼んだらいいのかもわからない、ひと繋がりの、だがけっしてひとつではない、無数の出来事にかんして、たくさんの言葉が、対話が、鼎談が、議論が、さまざまな機会に交わされてきたし、今も交わされている。私は、そうした「あの日」と/の「以後」にかかわる「言葉」の応酬を、幾つも読んできたし、時には直接耳にしたこともあれば、時には(ごく限られた機会にではあるが)自分自身が語ったこともあった。 それらの「言葉たち」の中から、幾つかの断片を拾い出して、以下に並べてみたいと思う。配列はランダムだが、読み進む内に、前後の文脈から抜き出された「言葉たち」が、本論がこれまで辿ってきた道程と、さまざまに響き合ってゆくさまに気づかれることだろう。尚、引用はひとつのまとまりごとに行なっており、基本的に省略はしていない(一箇所だけ中略した部分は「*」で示しておいた)。
34。「言葉たち」その1、ノイズ
高橋源一郎 このあいだ、千宗屋さんていうお茶の武者小路千家の次代の宗主になる人の茶室に招かれたんですけど、その茶室は麻布にあって、東京タワ−向きに窓が作ってあって、反対側には六本木ヒルズが見えるんですけど、茶室って行ったことあります? いい茶室。 大友良英 お寺とかにあるのを見学させてもらったことくらいしかないですね。 高橋 茶室って、千利休が基本形を作ったんだけど、まず狭い、そして暗い。入る時に狭いにじり口から入って、暗いのに窓もない。そしてこれがおかしいんだけど、茶室には掛軸がかけてあって、お茶の作法では、最初にそれを見なくちゃいけない。見て何かを言うわけです。だったら、合理的に考えたら、「明るくしろよ!」ってなる(笑)。鑑賞するっていうのが作法に入ってるのに、わざわざ暗く、ほとんど見えない状況にしている。「なんでこんなことしてるのかね?」って訊いたら、「感覚を鋭くするためです」と。 つまり普段の僕たちは、実は何も見てないんです。明るい中で目に入ってくるものを受け止めているだけ。見るっていうのはお茶で言う「拝見の型」みたいに意識を働かせて、対象に前身して、全神経を込めて見るっていうのが、本当の「見る」。だから普段の「見る」は、見ているうちに入らないっていうのが茶室の思想なんですね。音についても、茶室は真っ暗だから目の次に頼るのは聴覚です。茶室ではお湯を沸かしてるでしょ? 茶を立てる時に何をしてるのかと言うと、お湯がどういう状態かをずっと聴いてるんだって。ずっとシーンとしてるので、聞こえてくるのは自分の鼓動とお湯の音だけ。それではじめてものを考える、と。ここにはある種の合理性がありますよね。一瞬ノイズと反対のような感じがするけど、でも、これは暗くしてノイズを増やして、そして見る、ということ。 なんでこんな話をしたかというと、これを社会にあてはめると、社会のノイズっていうのは弱者なんです。障害を持っている人とか老人とか病気の人とかっていうのはノイズで、そういう人がいないほうがいいって考える。でも、それだと殺さないといけないので、どうするかと言うと、施設に入れちゃう。つまり遠ざける。昔はみんな家にいたでしょ。だから、ノイズが周りにあった。これは実は全部同じ問題で、近代というのは、すべてのノイズをなくそうとする時代です。するとどうなるかと言うと、わかりやすくなって、強い人だけが残る。意味があるものだけ。そうしたかたちが続いてきて、それが今の社会を作っている。だからね、音楽のノイズが一番正当的なんですよ、大友さん!(笑) 大友 いやいや(笑)。でも、ノイズの世界にいる人たちってやっぱりどこか感覚的にそれがわかっているところがあると思うんです。そうやって社会が不要としてたものの中に、自分にとっての大切なもんが実はいっぱいあって、そのことを感覚的に、もしかしたら身体感覚のような感じで知ってるんですね。どうもみんな、強いものとか権威のあるものに対して牙をむくクセがついちゃってるのは、そのためだと思うんです。それは反体制とか、政治的なポジショニングとは明らかに違う。もっと生きてくことの原始的な感覚として、そうなってるような気がします。 (大友良英×高橋源一郎「世界のノイズに耳をすませて」、『シャッター商店街と線量計−ー大友良英のノイズ言論』)
35。「言葉たち」その2、花火
中沢新一 日本のデモの様式は、本当に「様式」です。型がもう決まってしまってるんですね(笑)。僕が学生のときにデモというと、もう「序破急」みたいな……。何か、そういう独特のスタイルがあった。 國分功一郎 (笑) 中沢 でも、外国のデモを見ていると、あまり様式がないでしょう。道端までいっぱいに拡がって、みんな勝手にシュプレヒコールを叫んでいる。そういうのを見ていると「やっぱり日本は様式の国なんだな」と感じますよね。安保闘争のときのデモにもはっきりした様式があって、これに対する機動隊も様式的に振る舞っていた。しかも、そういうデモってだんだん組合主導になってくるじゃないですか。組合主導のデモの様式というのが、また気に入らなかったなあ。 國分 たぶん、みんなそれが嫌で、だんだんやらなくなったんでしょうね。 中沢 センスが悪いから(笑)。それでセンスのある人たちはデモに行くのが嫌になっちゃった。でも、この間の首相官邸前デモではずいぶん風景が違いましたね、半分くらいが「ファミリー・エリア」にいて、「どこが一番よく見えるの?」とか会話していて、これはもしかして花火大会なのかなと(笑)。近年のデモの様式の変化には、高円寺の「素人の乱」のサウンド・デモの影響も大きかったとは思います。 國分 流れている音のリズムや雰囲気もお祭りに近いものでしたね。 中沢 花火大会とデモが接近しているんです。花火大会だと、みんな動かなくていいじゃないですか。デモにおいては「動く」ということは重要な要素ですが、同時に動くと危険性も発生します。歩いていると、押されて警官にぶつかったりして、場合によっては公務執行妨害で逮捕されますからね。でも、花火大会の場合は動かない。動いてくれるのは花火ですから(笑)。集まっているだけで動かなくてよかったというのが、官邸前デモが拡がった大きな要因の一つじゃないかな。 (『哲学の自然』中沢新一、國分功一郎)
36。「言葉たち」その3、アクチュアル
相馬千秋 今回の『光のない。』『光のない II 』の上演は、震災へのいち早い、演劇からの応答でした。しかし、それを持ってアクチュアリティがある、だからよいというふうに受け取られるのは本意ではないんです。では、単なる内容主義や時事ネタではない形で、社会に演劇が必要とされるためにはどう��ればいいか。演劇はどのように他のメディアと拮抗し、その特性を発揮できるか。そういった演劇の「政治性」について皆さんはどう考えられていますか。 高山明 僕は結構、『国民投票プロジェクト』なんて名前のせいもあって、政治的なものをモロに扱う作家だと勘違いされるんですよね(笑)。でもあれだって実際は中学生のインタビューを見せているだけで、内容として政治的なところはないし、そもそも政治運動に興味があるわけでもない。それよりは、さっきの「迷子」の話みたいに(註:これに先立つ部分で高山は、迷子になった外国人が道を尋ねているのを見て、奇妙な感覚に襲われたと語っている。「そこで感じたのが、この失調感覚は、震災後、僕が一時パニックになった時の感覚と似ているなということでした。秩序の崩壊を目の当たりにして、何かがおかしいけれど、それが何かは分からないまま過ごしていた頃の、放射能を体に感じられるくらいのビリビリとした感覚が、その時蘇ってきたんです」)、作品を通じてその人の置かれた環境や思考に亀裂を入れたり、溝を作ったりするようなことができれば、その方が政治的なんじゃないかなと思います。ですから「アクチュアリティ」という言葉は、僕の中では「距離」という言葉と結びつきます。三浦さんも以前発言されていましたが、みんなが共有している時事ネタを扱って、「これがアクチュアルだ」というような舞台は僕も勘弁です。むしろ、そういう距離のない状態になってしまったものに、いかに距離を入れられるかを考えていった方がいい。たとえば、新橋を歩いていても、一九七一年という年を思い出すことはない。でも、『光のない II 』の出発地であるニュー新橋ビルと、福島第一原発が、同じ年に作られたというふうに並べられることで、一九七一年が呼び起こされてくる。そうやって「いま」という時間に中断や亀裂が入ることをアクチュアルと呼びたいし、政治的と呼びたいなと思っています。 三浦基 僕が批判したのはマスメディアで「絆」とかいってお金を集め、思潮社を動員するような、安いモラル��ことなんです。もちろん演劇だって政治に利用されることはあるし、いろんな宣伝文句を使って動員したりもします。特に日本人はみんなで集まってワーッと盛り上がりたいってのがあるし。でもそういうことに歯止めをかける効果は必要だし、意義のあることです。それも税金を使って、経済としては絶対に無理なことをすることに意味がある。ダメな芸術家は「経済効果にはならないけどやる価値があるんです」って言う。もっとダメな人は「少しでも興行収入を増やして、半官半民でやります」って言っちゃう。でも、そういう経済の論理に呑み込まれること、その議論に参加すること自体、絶対にしては行けないと僕は思います。基本的には、現代演劇は無駄。でもしょうがなくて、やるしかない(笑)。それが豊かなことなんだと、私たちは言っていかなくてはいけない。イェリネクの上演にしても、原発の問題を扱うのは辛い。でもそれは日々、われわれが問われていることだし、うすうす抱いているマスメディアへの違和感を提示するきっかけにもなる。それがまず必要なことなんです。 (高山明×三浦基×林立騎×相馬千秋「ことばの彼方へーーイェリネクの演劇言語をめぐって」、『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』)
37。「言葉たち」その4、儀式
磯部涼 小熊さんが言う官邸前デモの達成とは、著書『社会を変えるには』のあとがきで柄谷行人氏の言葉を引いて書かれているように、「デモをやって何が変わるのか」と問われれば「デモができる社会が作れる」ということですよね。そこをどう評価するのか、という問題にようにも思えるのです。 東浩紀 僕は、「デモをやることによってデモができる社会が作れた」というのはトートロジーなので、意味はないと思う。たとえば、「ゲンロンカフェを作ることによって、こういうスペースができる東京になりました」などと言っても仕方がないわけで、スペースを作ったらその次のステップを駆動するために別の目標を決めなくてはいけない。 小熊英二 それについての私の意見は『社会を変えるには』でもっと詳しく書きましたから、ここではくりかえしません。東 言い替えれば、僕はある種の「儀式」を求めている。形式主義者なんだと思います。僕は脱原発というのは「メッセージ」でいいと思っている。「何年までに全廃」とか具体的な行程の話になると、必ずいろいろなところから異議が出て潰れてしまう。そうではなくて、「福島という悲惨な事故があった以上、われわれは基本的に原子力をなくす方向でいきます」という、極めて抽象的なメッセージを掲げて、それを国是としていくというのが大事なんです。 いま政治というとすぐ実現性を求められる。実際にスケジュールを切って、「何年までに脱原発できるの?」と問われれば、いくらでも反論が出てくる。でも僕は原発の問題に関しては、「基本なくす」ということをきちんと宣言し、抽象論として共有するということこそ、政治の役割だと思うんですね。 * 東 民主主義は、そもそもそういう儀式がなくては成立しないものだと思います。 小熊 私の言い方に翻案すれば、「原発が止まることだけが目的なのではなくて、『自分たちの力で止めた』と思える事が大切だ」ということですね。それは冒頭に私が言った運動の二つの評価基準(註:「ひとつは、政策的な運動の目的を設定して、それに即して手段を考えるということ。もうひとつは、目的達成のために人々が参加して、それを通じて成長していくということ」)で言えば、政策的な目的を実現できればいいだけではなくて、みんなが力をつけて政治決定に参加できた自覚を持てることが大切だということです。儀式が必要だというのは、ある意味ではロマンティシズムかもしれないけれど、それがないがために、政治や運動に対する無力感を現実以上に広げてしまったことの影響は大きいですから。 東 日本では99までは成果が積み上がるんだけど、最後の1個のピースがいつもない。僕がこの5、6年ずっと思っているのは、ある種のビジョンを立ち上げることが必要だということです。ビジョンと言うと「大きな物語」のようで悪い印象がありますが、それは「最後の一歩」のことなんですよ。実質をずっと積み上げていった時に、最後にそれをどう名付けるか。そういう儀式が必要なんです。この名付けるという行為がないと駄目なことってあるんです。 (小熊英二×東浩紀「どう“社会を変える”のか」、『踊ってはいけない国で、踊り続けるためにーー風営法問題と社会の変え方』磯部涼編著)
38。「言葉たち」その5、パノラマ
伊東豊雄 2012年の初めに東京都写真美術館で畠山さんが展覧会をされて、最後の部屋で被災前の陸前高田と被災後の陸前高田の写真を同時に展示しておられましたね。ヴェネチアでも同じように被災前と被災後の展示をされて、さらに、会場全体を取り巻くパノラマ写真で被災後1年以上経った陸前高田の写真を展示されました。 畠山さんの写真は、僕が今まで見た畠山さんの写真の中で最も感動的というか、こんなに沈黙してる写真はないと思ったのです。カタストロフィの悲惨な風景でもなく、かといって日常的でもない、あの写真が沈黙すれば沈黙するほど、逆に何かそこに込められている思いみたいなものがすごく伝わってくる。 畠山さんは、昨年お願いした時点では「僕はまだ写真を撮る期になれないんですよ。とてもそんな前向きな気持ちにはなれません」と言われました。決して前向きにとらえた写真ではないのですが、でもあの会場(註:第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展。伊東豊雄のディレクションの下、乾久美子、藤本壮介、平田晃久の三人の若い建築家と、写真家の畠山直哉が参加した。この展示は彼らが陸前高田で取り組んできた「みんなの家をつくろう」プロジェクトのドキュメントとなっている)を覆っていた写真1枚によって、畠山さんはきっとまたひとつ新しい境地に到達したんだなということを実感したのですが、ご本人がいかがですか。 畠山直哉 写真家はとても不思議な立場に置かれている人種です。自分の行為をよく理解できないんですね。 私は今回、4人のアーティストのひとりとしてクレジットされていますが、同時に国際交流基金のカメラマンを奉仕で兼ねました。それで会場設営作業なども撮っていたのですが、展示が完成して「じゃあ、みんな並んで撮りましょう」というときに、僕はカメラの後ろにいるでしょう。そうすると、参加アーティストとしての僕がフレームの中にいないことになる。伊東さんたちがあわてて「畠山さんも入ってくださいよ。こっち、こっち」と呼ぶんですが、もし僕がそっちに行ったら、シャッターを切る人がいなくなる。 まぁ、そのときは、僕もにこにこ笑いながらみんなの間に入って、誰かにシャッターを切ってもらったのですが、そういうときに、カメラマンというのは、やっぱり出来事の外に出なくちゃ仕事にならないんだな、ということを深く感じます。 僕は常に出来事の外に出るという癖がからだにしみついています。だから、大変な出来事を前にしても、自分で意識しないままに、ついそこから外に出ちゃうという態度で振る舞っていることがあまりに多くて、自分でもちょっと精神的にこれは危機ではないのかと思える瞬間がたくさんあります。 日常そういうふうにして写真を撮っていますから、実際に写真を褒められても、ピンとこないわけですね。たぶん時間が経つと、あのときの自分の行為はこういうことだったんだなとわかる瞬間がくるかもしれませんが、今、伊東先生がおっしゃったパノラマ写真で新しい境地に達したかどうかは、今のところ、あまり自分では分析できていないです。 伊東 畠山さんが、写真家はそうやって外側に立たなくてはならないと。そのことをさっきナレーターという言い方で言われたのだと思いますが、あのパノラマ写真は、写真技術の問題としてどうか、あるいはカメラの使い方がどうかという問題を抜きにして、今年の初めに写真美術館で見た畠山さんの被災後の写真は、外側に立てていないという感じがすごくしましたが、今回派もう一度外側から見ることができるようになったのかな、という気がしています。それと畠山さんには陸前高田とほかの場所を撮るのではまったく違う想いがあって、やはりそこがビエンナーレの写真の感動に繋がっているのではないでしょうか。 畠山 そのパノラマ写真について補足しておきますと、あれは今年の6月24日にもと陸前高田駅があった場所のそばにある瓦礫の丘から撮ったものです。撮影をしながら気がついたのですが、カメラをパノラマ雲台に載せてパンニングしていたら、県立高田病院の建物がファインダーに入ってきて、その4階の破れた窓にファインダーの中心線がピタッと合った。そのときに僕は、「あっ、そういえば、あそこまで津波が来たんだっけ!」と思い出したんですよ。カメラは完全に水平が出ているわけですから、僕がそのとき立っているところ、僕のカメラのレンズから下も、水だったんだ!と、その瞬間想像できました。 そう想像しながら、360度のパノラマ写真を24カットに分けて撮影しました。ですから日本館の壁に写真を展示したときは、そのことを英文で入れました。「この写真は津波が来た高さと同じ高さから撮られています。ここから下はすべて水没していたのです」と。目の高さにその文章がありますから、読み終えた瞬間に、自分の目から下が水没しているという想像を観客に与える。そういう効果もあの写真にはあります。 (『ここに、建築は,可能か』伊東豊雄、乾久美子、藤本壮介、平田晃久、畠山直哉)
39。「言葉たち」その6、消失/喪失
和合亮一 自分が消滅するということをどうして求めるのかなってずっと考えてきたんですが、今回の震災で少しわかった気がするんです。消滅する、消えていく、消失する、言葉を失う、家族を失う、平穏な日常を失う、……いろんなものを失ってきたし、あるいは失ったひとをたくさん見てきた……。だからこそ、よりはっきりしてくる「生」といったらいいのかな。一回、一回、そういうものを求めたい、はっきりとした存在を求めたい、確然とした世界を求めたいから、自らの手で消滅させるんだなって思った。言葉を失って、写真を撮ってもう一度、言葉を取り戻した感覚を持ったとき、震災前までは自分の言葉にしがみついてたんだなってわかったんです。やってきたことにしがみついていて視界を狭くしていた。でもすべて消し去って、ぜんぶ投げ出したときに、すごく拙い何かが自分のなかに現れてきた。そういうことを能楽師のかたはおっしゃっていたのかもれないって(註:この直前に、和合は能楽師の津村禮次郎と会話に言及している。「能楽でいちばん自分がうまくいっているときってどんなときですかってお聞きした。そうすると即座に、自分がこの世界にいないって思えたときだっておっしゃった」)。 吉増剛造 言葉を変えると、本当に巨大な喪失、底知れない喪失、あるいは巨大な虚無みたいなもの、……それが世界の次の光を見せるんだよね。……その声を聞かせるんだよね。だからそれは作品、とくに詩をつくっていると必ずぶつかります。いろんな雑音が出てくるし、いろんな言説が出てきますよ。だけどね、それを突破するようなときと、生きかたを与えられたんだよね、……。歌声とシャッターから、何かが詩の傍に出てきた、……ヴィジョンが出てきた、……だから今度の詩集がたいへんな評価を受けるとかさ、芸術家ってそういうことを考えるし、そういうことも大事ではあるけれども、本当はそれだけじゃない、……もっともっと大きな洞穴の眼みたいなものを見たからさ、……だから、これからダンテの『神曲』みたいなものを書かなくちゃいけないのかもしれないし、……だね(笑)。 (吉増剛造×和合亮一「四辻の棒杭、つぶやきの洞穴」、現代詩手帖二〇一三年五月号)
40。「言葉たち」その7、アート
宇川直宏 デモの話なのですが、まず3・11に関するデモはエクストリームである必要性がないのではないか? と。今回の場合は、別に社会的に威圧された少数派の主張を公の場に唱えているわけではないですから。「反原発!」「NO NUKES!」これは八〇年代のハードコアパンクのクリシェでもありましたが、放射性物質によって生活環境が汚染されてしまって、健康が脅かされ、内部被爆の危険に晒されている現状、脱/反原発は大衆の生の声であり、すでに全体意志である訳だから、別にここでエクストリームな主張はむしろ必要ないとさえ思います。マイノリティを含め様々な立場に存在する日本国民が連帯して、法で定められたルールにのっとったうえで、原発問題と対峙して、広く大衆にその主張を知らしめることが目的ですから、逆にマジョリティとしてのアピールが必要なんですよ。つまり暴走しないほうが国民の声として拡散されて行くし、賛同者も増える。DOMMUNEではデモの番組をたくさんやっていますけど、表現のスタイルとしてのエクストリームはけっこうありますよ。このまえ「怒りのドラムデモ」というのがあったんですが、とりあえず���楽器を持っている人たちだけがただ叩いているだけ(笑)。もちろんスネアでもジャンベでも和太鼓でも、自転車のベルでも、フライパンでも、クッキーの缶でもなんでもいい、利権を守っているやつらの鼓膜をぶち破るように、抗議の感情でドラムを叩き続ける!(笑)これは表現として、ある意味エクストリームですよね。 東浩紀 うーん。しかしそれははたしてデモなんでしょうかね。 宇川 デモです。つまりデモは社会の注目を集めて、公共の側に主張を拡散していく、それを世論に変えて行くことが目的なので、怒りや悲しみが、大衆に伝わるのであれば、どんな表現方法をとってもいいわけですよ。しかも現代のデモは、ゴミ拾いも同時に行なわれているので、デモ隊が通ったあとの路上は綺麗になっています。これって巨大な掃除機ですよ。デモ隊はダイソン以上の吸引力(笑)。これって現代アートの世界では赤瀬川原平さんたちハイレッド・センターが、メンバー全員白装束で、とにかく掃除して街並みを綺麗にしてみせた「首都圏清掃整理促進運動」という直接行動と同じで、暴力的なパフォーマンス以上にむしろ異質、ゆえにアピールとして成功しているのだと捉えることもできます。 東 ちょっと意見が違うかな。 僕は、むしろそういう行動は、逆に世の中で許されている感じがするんですよね。居場所が確保されたうえで変なことをやっている。そもそもいまでは、「アート」という言葉自体、本来はエクストリームだったものに社会的な承認を与え、馴致するために使われるものになっているでしょう。要は、「アート」と名づけられた瞬間、攻撃性を失ってしまうわけです。デモにも同じことが言えないですか。だから僕としては、『思想地図β』で震災特集号を作ることを選んだのだけど。 たとえば柄谷行人さんが、反原発デモで「デモをすることによって、日本の社会は変わる。なぜならば人がデモをする社会に変わるからだ」と演説をしていました。僕はちょっと待てと思うわけです。いま柄谷行人に求められるのは、そんな自己肯定的な演説をして聴衆に拍手されることなのか。むしろ柄谷行人は本を書くべきではないのか。デモに一〇回行くよりも本を書くほうがずっと大変なはずではないのか。これはいま、言論人やアーティストがなにをやるべきなのか、一般的な問題と関わっています。政治運動、イコール、デモみたいな発想は疑問です。 宇川 仰るとおり、3・11以降、東さんのような言論人、そして僕のようなアーティストは、どんなアクションを起こすのか? 社会示唆的な価値を問われているのは確かです。とくに自然災害のような人知の及ばない強大な力を見せつけられたあと、作家の本質は炙り出されますからね。でも僕らはそんなステージに本来立っていたのだし、それは作家の宿命だとも言えます。なので、柄谷行人さんは、本を書きながらデモに参加すればいいのだと思います。 (宇川直宏×東浩紀「「ばらばら」から始まるエクストリーム」、東浩紀対談集『震災ニッポンはどこへいく』)
41。「言葉たち」その8、言語
山田亮太 3月11日の後に、詩人の中でもいま詩人は何をすればいいのかと多くの人が考えました。沈黙する人もいれば、いまこそ詩の力をと積極的に行動する人もいました。外からも詩の言葉が求められることが多かったと思います。そんな状況を谷川さんはどう考えられていたのでしょうか。 谷川俊太郎 僕は被災者じゃないから書かないという立場ですね。出来る限り平常心を保った方がいいと考えているから、津波とか震災のことを気にしないようにしてるんだけど、意識下にはあるから、書くと自然にそういうものが出てきてるとは友人に言われましたね。詩ってそういう多義的なところがあるから、流行ったんじゃないかと思うね。 山田 書きたいという衝動はなかったですか? 谷川 ないですね、ぜんぜん。僕は自分から書くとかないんだもん。「どういう気持ちで書いてますか」ってよく聞かれるけど、「原稿料いくらかなと思って書いています」って言うと凄いしらけるのね(笑)。僕はあまり言語を信じていないんですよ。だから書けたところがあって、ああいう災害があった場合に自分の詩が役に立つっていう意識では書けないんです。和合(亮一)さんは自分も被災者として何か言いたくて仕方がなかったし対話したかったというのは凄く理解できるんですが、僕は災害について詩を書くことには後ろめたさがあります。いくつかは書きましたけどね。詩を書くくらいならお金を出した方がいいという立場です。 (現代詩手帖特集版『はじまりの対話 Port B「国民投票プロジェクト」』)
42。「言葉たち」その9、日本語
高橋源一郎 震災の直後、作家たちはみんな「書きにくい」という話をしていました。なぜ書きにくいのかというと、自分の書いたものが読めないんです。日常生活の底に潜む危機とか夫婦の不安とか、存在の不安とか、バカバカしくて書けないし、読めない。つまり、いままでの書き方では危機に対応できない。ただ、これは震災に始まったことでもないという気がします。どういうことかと言うと、ちょうど一週間前に、同じ会場で古井由吉さんの作品集の刊行を記念してトークイベントがありました。僕も登壇したのですが、そこでおもしろいなと思ったのは、古井さんはいま七五歳で、震災以降も書き続けていて、日本文学の王道を行くような人にもかかわらず、自分では全然そう思っていないと言ったんです。僕はその理由を聞いてびっくりしたんですが、自分より若い作家たちは文章がきれいすぎると。彼はいわゆる「内向の世代」に属する作家ですが、彼ら以前の作家たちは、そもそも文法的に誤りがあったり、てのをはが間違っていたりと、文章がめちゃくちゃだった。それに比べて若い作家たちはなぜ、みんなきちんとした日本語を書いているのだろう、と疑問に思ったと言うんです。すごく繊細に、細かな違いを描き出そうとしているのだけれど、その前にもっと考えるべきことがあるだろうと。たしかに古井さんの小説は、いま読んでも日本語が変なところがある。 なにを言いたいのかというと、僕はやはり三月以降、ほとんどの小説が読めなくなりました。自分のなかで言葉に対する感覚がものすごく鋭くなっていて、まさに危機対応の状態なので、ほとんどの小説が読めなかった。たとえば和合亮一さんの詩も、すごくまじめに書かれているのだけれど、だからこそ読めない。一方で、古井さんの文章は読めたんですよ。なぜかと言えば、いろいろなものが間違っているから。つまりどういうことかと言うと、きちんと書けるということは、文章のことしか見ていないということでもあるのではないでしょうか。この世界についてもっと知りたい、それを書きたいと思うと、言葉がおかしくなるはずです、もちろん、小説家は技術によって言葉を整えるのだけれど、そういう、言葉しか見ていない作家の文章は読めなくなってしまった。僕は3・11以降とくに顕著になったのだけれど、本当はいつでもそうでなきゃいけないのかもしれない。 (高橋源一郎×市川真人×東浩紀「3・11から文学へ」、『震災ニッポンはどこへいく』)
43。「哲学」に何が出来るか?
最初からそのつもりだったわけでは必ずしもないのだが、結果として本連載は、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原発事故、ふたつの固く結びついた出来事によって分割されたとされる時間軸をめぐって、より精確に言うなら、あの日「以後」ということ(「問題」という語は敢て使わないでおく)へのかかわり合い、コミットメントのありようをめぐって、とりわけ広義の「芸術」や「表現」或いは「言論」と呼ばれる領域において、私なりに思考を巡らせてみる、というものになっていた。それはもとより何らかの答えなり結論なりを目指してきたわけではない。私はただその時々に出会った/見知った「芸術」や「表現」や「言論」から対象を選び、言葉を書き連ねてきただけである。そしてその道程も、まもなく終わろうとしている。 デイヴィッド・ヒューム研究を出発点とする一連の因果論(『原因と結果の迷宮』『原因と理由の迷宮』『確率と曖昧性の哲学』など)で知られる哲学者の一ノ瀬正樹は、茨城県南部の自宅二階の書斎で、あの日あの時を迎えた。「最初はいつものこととたかをくくっていた。しかし、揺れが激しさを増す。ドアの敷居のところに行って身を守ろうとする。まもなく、生まれて初めて経験する大きな揺れが襲ってきた」。
ここから新しい世界が始まった。まもなく水道が止まり、電気もストップした。私はラジオを持っていなかったので、その日の晩遅くに車載のワンセグでテレビが見られることに思い至るまで、一体何が起こったのか分からずにいた。ようやく情報を得て、東北地方でとてつもないことが起こったことを知る。巨大地震と大津波、東日本大震災である。下半身から力が抜けていくような感覚を覚える。数日間、ロウソクともらい水の生活をした後、ようやくライフラインが復旧するかと思った頃、津波震災の結果として、福島第一原子力発電所一号機から四号機までが次々と爆発した映像を目の当たりにすることになる。三月十二日から十五日にかけてのことである。
それから約二年の時を経て、一ノ瀬正樹は『放射能問題に立ち向かう哲学』という書物を上梓した。右はその「はじめに」から引いた。このように(誰もがそうするように)自身の体験と実感の記述から始めながら、この本の著者の姿勢は、他の数多の「以後の論者たち」とは、かなり異なっている。この本は「東日本大震災と原発事故に起因する放射性物質拡散の問題について、原発それ自体の是非をめぐる政治的問題性やイデオロギー性から一旦切り離して、あくまで放射線被爆の健康影響にまつわる事実認識・事実評価を論じるというスタンスから、哲学専攻の著者が少しずつ書きためてきた哲学ノート」なのである。 『放射能問題に立ち向かう哲学』で展開/吟味される主張は主として四つ、それらはあらかじめ「はじめに」に提示されている。以下に掻い摘んで記すと、(1)「たとえかりに被災地からやや離れた地域に住む人が、放射線被爆によって二〇年後に病死するという事態が発生したとしても、二〇一一年三月十一日に津波によって溺死や打撲死したという人々の方が、圧倒的に余命が短かった」のだし、また「避難生活や仮設住宅暮らしを余儀なくされている方々の、そうした生活に起因する苦悩も、現在進行形の物理的な苦しみであり、晩発的な苦しみよりずっと実在的である」。従って「放射能問題」ばかりクローズアップすることは、却ってマイナスになりかねない。(2)「放射能が原発から漏れ出してしまったという事実はすでに起こってしまったのであり、キャンセルできない」。ゆえに「日本に暮らす限りは、以前よりなにがしか多い不必要な放射線被爆をする蓋然性がやや高いという事態(現存被爆状況)に向き合うしかない」。だからこそ「現存被爆状況」を「程度の問題(a matter of degree)」として冷静に認識しつつ、「この環境の中で私たちはどのように生き抜いていくか、どのように社会を構築し、復興していくか、ひいてはどのように生きる目標や喜びを見いだしていくか」を課題にするべきである。(3)だが「少なくとも放射線被爆という生体的影響に関わる点では、外部と内部の両方の被爆に関して、最初に懸念されていたほどには深刻にならずにすんだという事実も確認するべきである」。「被爆線量の情報からして、余計な被曝はせいぜい胸部CTスキャン一回の医療被曝と同程度」か、それ以下である。そしてこれは国や電力会社の責任や原発の是非とは別個の問題である。 (4)しかしながら「津波震災そして原発事故が人々の心に及ぼした影響は、大変に甚大である」ことは言うまでもない。それゆえに不安や不快や不信、不当な差別や不毛な論争などといった「不の感覚」が、今も大量に社会全体を覆っている。「もしかしたら、この事態こそが放射能問題がもたらした困難の核心、最大の有害性かもしれない」。このような事態の克服をこそ目指さなくてはならない。そのためには「一つの発言、一つの行動には、良い面と悪い面の両方が伴う」という「道徳のディレンマ」に敏感であることが必要である。 これら四つの論点を、一ノ瀬氏は本文で「専門家や有識者の見解に学び、それに沿って考えていく」。『放射能問題に立ち向かう哲学』に先立ち、伊東乾(音楽)、影浦峡(情報論)、児玉龍彦(分子生物学)、島薗進(宗教学)、中川恵一(放射線医学)の諸氏と交わした討議と論考を纏めた『低線量被曝のモラル』も出版されている。各論点の詳細には立ち入らないが、かくのごとき一ノ瀬氏の主張が、少なからぬ反論や疑問に晒されるであろうことは想像に難くない。とりわけ「反原発」をエモーショナルに信奉しているような者には、おそらく大いに不満だと思われる。『放射能問題に立ち向かう哲学』の「おわりに」で、一ノ瀬氏は、現在の状況下では「安全性の度合いを高めること」と「度合いが高められないことが判明したものは少しずつなくしていく��と」、すなわち「度合い」と「少しずつ」という二つの概念が必須であると述べ、だがこのことがなかなかわかられていないと書く。「しかし、どうも私とは異なる捉え方をする方々がおられた。「度合い」と「少しずつ」という論点などは関係なしに、「いかなる被曝も危険」とか「不安を抱くのは当然」といった言説が流通し、そういう捉え方がむしろ社会正義を体現するかのような報道が多々なされたのであった」。
放射線を徹底的に避けること、そういう行動が容易に実行可能であり、しかもそうすることで別の害を発生させないのであるならば、そういう行動を取ることはまったく個人の自由だし、むしろ推奨されるだろう。けれども、残念ながら、私たちの世の中の多くのことは、もっと複雑なのである。一つの害を避けるという行為はそれ自体としてはの労力を必要とするのであり、そのことによって、別の害を産み出してしまうことがあるのである。(略) 放射線被曝を避けようとする「避難」という行為に、まさしくこのことが当てはまる。正直なところ、(中略)いかなる被曝も危険だと主張する方々が何を述べたいのかが私には本当の意味では理解できないのだが、もしそれが、福島原発周辺の広範な地域に住む人々に「避難」を勧めているということだとするならば、それは、現状に関するこれまでのデータからして、有害な勧奨であることはほぼ間違いない。人々を救うどころか、かえって人々を苦しめ、場合によっては死に至らしめてしまいかねない、迷惑な、そして危険な勧めである。(略)ネットなどを通じて、子どもを守るのは親の当然の務めだとして、避難したり、福島産の産物を忌避することなどを宣言している人がいるが、それは、長い目で見るならば、結果として、自分自身に、そして他人にも、害を及ぼす恐れのある危険な行為であることに気づくべきである。せめて、人に語ることなく、自分だけで実行するところでとどめてほしい。他人を巻き込まない行為は、自身が受ける害益はどうあれ、基本的に自由だからである。
この、ほとんど静かな憤怒ともいうべき文章の意味するところを、どう受け止めるかも、読む者によってかなり異なるだろう。私自身はといえば、一ノ瀬氏の主張に概ね同意すると同時に、極私的な「不の感覚」の膨張に突き動かされて、「度合い」と「少しずつ」を頭で理解はしても採用することが出来ず、やみくもに「避難」や「忌避」を表明したがる心性を、やはり否定することは出来ない。私自身はまったくそうは思わないが、そうなってしまう人が存在することを前提にしないで、「以後」を考えることは不可能だと思うからである(一ノ瀬氏の立場も実際にはこれに近い)。ともあれしかし、繰り返しておくが、『放射能問題に立ち向かう哲学』という本の主題はあくまでも「放射線被曝の健康への影響」であり、著者はその中で「原発」にかんして肯定/否定いずれのステイトメントも述べてはいない。そして「放射線」にかんして、科学的なデータや資料、専門家による多数の研究を援用しつつ、論述の構えとしては、一ノ瀬氏が「あの日以前」から長年継続してきた「因果」や「パラドックス」についての思考、すなわち「哲学」を駆使している点が、この本の最大の特長である。つまり一ノ瀬正樹は、こう言ってよければ、単に自分にやれることをやったのである。それはしかし、哲学者としての責務でもなければ、もちろん権利でもありはしない。書名に選ばれた「立ち向かう」という言葉の意味を、私たちは、よくよく考えてみなくてはならない。
44。「私小説」に何が出来るか?
佐伯一麦の『光の闇』と『還れぬ家』は、これまで幾度か取り上げてきた「以後の小説」の風景に、また新たな光を投げかける。どちらも「二〇一一年三月十一日」を挟んで書き継がれたものである。『光の闇』は「欠損感覚」をテーマとする連作として雑誌「en-taxi」に数年がかりで発表された七編の短編に、やはり「欠損」が描かれているが「私小説」ではない「二十六夜待ち」を加えて一冊としたものである。「鏡の話」では聴覚、「水色の天井」では左足、「髭の声」では視覚、「香魚」では嗅覚、「……奥新川。面白山高原。山寺」では声の欠損が、それぞれ主題とされている。佐伯一麦の多くの作品と同様に、それらは作者自身の実人生に想を得ていると思しく、各編に登場するさまざまな欠損を負った人物たちも、おそらくは実在している。健常者であれば、ごく普通に身体に備わっている筈の感覚を何らかの理由によって失った人たちが、しかし「欠損」を殊更に否定的にも肯定的にも捉えることなく、いわば人生のありのままの現実として静かに受け止めている姿が、いつもながらの淡々としつつも鮮やかな筆致で描かれている。 連作が五作目まで発表された後、あの日が訪れた。その後に書かれた「空に刻む」は、一作目の「鏡の話」の後日談である。仙台在住の作家である「僕(「茂崎皓二」という名前を持っている)」は、市民センターの文学講座で知り合ったろうの老人の「堀井さん」が、やはりろうの夫人と二人で住む海に近い自宅を「鏡の話」で訪問していた。「堀井さん」は講座に熱心に通ってきて、「僕」と筆談で会話を交わすようになり、やがてFAXでの個人的なやりとりも始まった。「ろうの人が自分で書き記した体験の話は少ないんです。それを、私は書き残してから死にたいんです。ですから文章の指導をお願いします」と、ある時のFAXにはあった。「鏡の話」では、堀井宅でのひととき、「僕」がロンドン土産に買ってきた万華鏡を夫妻に手渡しつつ、染めた糸を編んで服やアクセサリーを作るアーティストである妻が工芸展に出店するのに同行したロンドンで、急に入り用になった大きな鏡を探して町中を奔走した際の苦労話を筆談で物語る。言葉がちゃんと通じない外国での体験と、耳の聞こえないろうの人々の日常感覚が、穏やかに、やんわりと織り重ねられる。 それから三年近い月日が過ぎた「空に刻む」は、震災後、「僕」が宮城県立美術館で、聴覚障害者でもある画家の松本竣介が一九三七年に描いたとされる『郊外』を見た時のことから語り起こされる。「何層もの深いみどりの森の中にある白い建物は小学校だろうか。その校庭で子供たちが遊んでいる。犬もいる。瀟酒な家々も緑の中に見え隠れして点在している」。それは「メルヘンチックとさえも感じられ、正直のところこれまでは、その絵の前に立つと僕は、多少の気恥ずかしさを覚えないでもなかった」。ところが、あらためて見た『郊外』は、印象がまるで変わっていた。
そこには、震災以後、何度となく想像させられることになってしまった光景が描かれているように、僕には感じられた。 左右に黒っぽい青と深い緑の海藻がゆらめく海の底に、小学校らしい白い建物が沈んでおり、その校庭では子供たちが遊んでいる。犬もいる。そして、背後の“みどりの波間”に、津波に浚われた白い瀟酒な家々が見え隠れしている……、というふうに、同じ画面が、震災前に目にしていたときとは、一変して見えた。 もちろんその風景は、絵を描いた当時に住んでいた東京の落合とも、幼少年期を過ごした岩手県の花巻や盛岡とも言われているが(現実を自由に再構築する名手だった松本竣介だけに、そのどちらでもあったのだと僕には思えるが)、ともかく地上の郊外を描いたことは確かだ。だが、そのときの僕には、地震の後に津波に襲われて流され、海の底に存在しているもう一つの世界の光景と思われてならなかったのだった。
その絵の前で立ちつくしながら「僕」は「堀井さん」のことを考える。海沿いの土地に住んでいた「堀井さん」と奥さんは「家から一キロほどの距離の中学校に逃げ込んだものの、奥さんのほうが津波に呑み込まれて行方不明となっている」。そして「堀井さんは、娘さんの所に身を預けることになったが、いまは誰とも会いたくない、と固く心を閉ざしている」。震災から十日ほど経った頃、「僕」は「鏡の話」と同じように、以前に「堀井さん」の自宅があった場所に行ってみようとする。だが、津波の被害はあまりにも惨く、そこまで辿り着くことさえ出来なかった。 「空に刻む」は、震災から四ヶ月後(それはつまりこの小説が書かれた時のことだ)に「僕」が「堀井さん」に宛てた手紙で終わる。「堀井さんはいま、どこでいかがお過ごしでしょうか」と書き出される文面は、やがて美術館で松本竣介を見たことを語る。『郊外』と一緒に『白い建物』という作品も見た。「絵の中の建物の上には青空が描かれていました。その受苦の色の青を目にして、以前堀井さんから教わった空文字のことを思い出していました」。「空文字」とは、筆談用の紙がない際に、宙に文字を書くことをいう。この言葉を「鏡の話」で「僕」は「堀井さん」から教わったのだった。
堀井さんが、樹々の緑や草花、そして青空に目を留めるようになるのはいつのことになるでしょうか。そのとき、青空に空文字を一文字書くとしたら、どんな文字となるでしょうか。
言うまでもあるまいが、この短編の幕切れがこの上なく感動的なのは、筆談で会話を交わしてきた「堀井さん」に向けて、小説の中の手紙という形で、「僕」が、いや、佐伯一麦自身が、声を投げ掛けているからに他ならない。誰とも会おうとしない、どこに居るとも知れない「堀井さん」は、だがしかし、もしかしたら、これを読むかもしれない。たとえ返事はなかったとしても、この小説の姿を纏った手紙を(それは「手紙の姿を纏った小説」と言っても同じことだ)読んだかもしれない。そんな微かな希いが、この「空に刻む」という小説が書かれた動機であり、存在理由となっている。つまり、この「手紙=小説」も、一種の「空文字」なのである。 連作の末尾となる表題作「光の闇」では、「髭の声」に登場した「僕」の旧友である盲学校教師の「棚橋」が、東北地区の盲学校の弁論大会の審査員を「僕」に依頼してくる。あいにく「棚橋」自身は異動となり、大会には不参加だったが、「僕」は引き受け、盲学校の生徒たちの弁論に耳を傾ける。震災時の体験が聞けるかと思っていたのだが、実際には「すべてが自分の障害に関するエピソードを語ったものだった。自分がいつ、どこで失明したのか。そこからどう立ち直ったのか」。震災から一年後、「僕」は「棚橋」、そしてやはり「髭の声」に登場していた盲学校の「吉岡先生」と「中山先生」、そして初対面の「太田先生」と居酒屋で語り合う。三人の先生いずれも全盲者である。「僕」は気づかなかったが、じつは三人とも、あの弁論大会に出席していたのだった。彼らは「僕」が聞きたかった震災体験を、それぞれに語る。七つの短編小説から成る連作は、こうして幕を閉じる。 長編小説『還れぬ家』は「新潮」の「二〇〇九年四月号」から連載が始まり、約三年半にわたり書き継がれて「二〇一二年九月号」で終了した。途中何度か休載が挟まるが、「二〇一一年四月号」から「二〇一一年七月号」まで二ヶ月のブランクがある。もちろん震災によって中断したのである。連載が再開されたのは第八十章からだと思われる。その間の事情について、やはり佐伯一麦とほぼイコールである「私」は、作中に登場する「二〇一一年三月十五日火曜日」という日付の付いた「震災以後の出来事のメモ」に、こう記す。
電話がようやく繋がるようになり、S編集部より見舞いの電話あり。「還れぬ家」、今月は取りあえず休載とさせてもらうことにしたが、これから先を書き継ぐことが出来るのか、大いに不安となる。連載の今の時点では、作中の「私」は、二〇〇八年八月を生きているところ。そして、父は、連載を始めた翌月の二〇〇九年三月十日に死んだ。あと数回を費やして、その父の死までの半年余りを、現在進行中の出来事として再現させるつもりだった。だが、三月十一日の大震災によって、小説の中の時間も押し流されてしまったのを痛切に感じる。もはや、前に続けて書き進めることは無理かもしれない。父のことが、急に遠景に退いたように感じられる。その実感に就き従って、小説に段差が生まれるのを恐れずに、現在進行中の出来事から回想へと表現を変えるべきか。
そして実際、重度の認知症に陥った父親と、息子の「私」、「私」の妻、母親という四人の家族(他に兄と姉も居るのだが、実家の近隣には住んでいない)の数年間を克明に描いてきたこの小説は、第八十章以降、いきなり父親の死後に記述が跳び、それからは当初の予定であった「父親の死へと至る時間」と、執筆時の現在である「震災以後の時間」が、並行して語られてゆくことになる。それは当然、唐突さを拭えないし、いささか混乱した印象も与えている。それでもやはり、作者はそうすることを選んだ。そうせざるを得なかったのだ。 右の「メモ」とほとんど同じ心境を、佐伯一麦は二〇一二年二月三日に東京大学本郷キャンパスで行なわれた公開講義『震災と言葉』(岩波ブックレットで冊子化されている)の中で語っている。この講義の時、まだ連載は継続中だった。「僕が主に書いている小説は「私小説」と言わ���るジャンルです。(略)その時に思ったのは、自分の実感を裏切りたくない。ということでした。それを裏切らないことが、自分の小説表現の一つの立場であろう、と。そうすると、その前に書いていたやり方では書けなくなってきたという実感が、やはりどうしようもなくあるわけです」。
もう少し具体的に言いますと、例えば小説を書いている時には、時間の流れというものがある。明日とかあさってとか、三ヶ月後とか、あるいは三年前に父はこうだったとか、時間の流れみたいなものがあるわけです。すると、着々と時間の経緯というものがある場合は、それで通用するのだけれども、明日、といってもまだ余震がずいぶん続いているような状況で、明日どうなるか分からない。二週間後とか三週間後とか書いても、自分自身が二週間後や三週間後を信じられない、そういう言い方を、肉体の方が信用していないわけですね。自分自身が、三週間後はこの状態のまま続くとはとうてい思えないという場合に、その三週間後とはどういう意味合いを持つのか。一年後、二年後というのも同様です。
「時間の流れみたいなものを書こうとするだけで、手がこわばるといいますか……」。「メモ」にあった「段差」という言葉が、講義では「断層」とも言い換えられる。「時間の断層」によって「小説」が塞き止められてしまっているのだ。「小説の言葉というのはあくまでも時間の推移というものが信じられるぐらいの日常性がないと、そもそも出てこないということです。それがないと、言葉による表現は成り立たないのではないか」。だが「日常性」は失われてしまった。
さすがに今回の震災みたいなものだけは、事前に考えようにも考えられなかった。いくら仙台では三十年以内に九十九%の確率で大きな地震が起こると言われても、こんなふうになるとはやはり考えられなかった。しかし、それについて僕自身は、書き手としても何となく敗北感のようなものをいまだに持っているのです。ただし、そういう状態の中で、この作品を最後まで書き切るということでしか、これは自分としても乗り越えられないのではないかと思っています。
そして佐伯一麦は、こう語ってから残り数回の連載を経て、『還れぬ家』を完結させた。小説は第百八章まで続いたのち、「早瀬光二の手記」と題されたエピローグで終わる(「早瀬光二」とは作中の「私」の名前である)。「平成二十年三月十一日に、アルツハイマー型の認知症である、と診断された父は、それからきっかり一年の余命を送り、翌年の三月十日に亡くなりました。父の存命中に筆を起こしたときには、これほど早く父が逝くことになってしまうとは思っていませんでした」という述懐から始まる。前に述べたように「新潮」で連載が開始されたのは「二〇〇九年四月号」だった。同誌が発売されたのは三月初旬、雑誌に入稿されたのは二月、ということはつまり、ほんとうに「これほど早く」父親は亡くなったのだ。『還れぬ家』は、その出発時から間もなく、既に一度、或る「断層」を超えていたのである。 この小説自体が「私=早瀬光二(=佐伯一麦)」による一種の「手記」と言えるのかもしれないが、その最後にあらためて「早瀬光二の手記」として置かれた文章には、それまで描かれていなかった父親の葬式、そして震災後に重篤な被害に遭った地域に赴いた時のことが語られている。そこに「聴覚障害者のMさん」の話が出てくる。「ご主人が運転する車で避難所に指定された中学校の建物へ辿り着いたものの、車を駐車場に入れようとした夫が、突然襲ってきた津波に目の前で流されてしまい行方不明となってしまった」という「Mさん」は「震災以降、誰とも会いたくない、と娘のところに身を寄せている」という。「Mさん夫妻」の家には「大きな鏡」があったというのだから、いやがうえにも「鏡の話」と「空に刻む」の「堀井さん」を思い出してしまう。だが、頭文字は異なるし、津波で行方不明になったのが夫なのか妻なのかも違う。しかしそれは、何らかの配慮によるというよりも、「私小説」とは、「小説」とは、そういうことをするものなのだ、ということなのではないか。「堀井さん」や「Mさん」が、実はまったくの虚構の人物であったのだとしても、その事実によって、これらの作品の意味が根こそぎ損ねられてしまうわけではない。なぜならば、そのようなひとは、間違いなく現実に居たに違いないからだ。
45。「世界」が君に救われるように
稲川方人の『詩と、人間の同意』は、『彼方へのサボタージュ』と『反感装置』(いずれも一九八七年刊行)以来、およそ四半世紀ぶりとなる詩人の随想集である。『彼方』は詩論、『反感』は映画を中心とした評論の集成だったが、この本は、ちょうどその中間の表情をしている。 もともとは、もっと前に出る筈だったのが、著者自身の意向によって、この二〇一三年の五月まで、刊行が遅らせられた。更に、当初の予定から書名を変更し、内容や構成も一部改められている。稲川方人は、その理由を、冒頭に据えられた「はじめに」で明確に述べている。
本書の初校ゲラが二〇一一年三月以前に組まれてあったからである。一年ほどゲラを手にすることも避けていて、二〇一二年六月になってようやく目を通した。この「まえがき」も改めている。書名を変えたからといって何が変わるわけでもない。初校に組まれてあったいくつかの文章を割愛したりもしたが、変えようとすること、そして、だが変わらないことーー二〇一一年三月から一定の時間を経たいまの苦い心象だ。ただ、私個人を吐露すれば、変わらないことと「詩」の終わりとはもはや同義にしか思えなくなった。
稲川方人という詩人は、登場した時から「詩の終焉」と共にあった。それは「文学の終焉」と言い換えてもよい。だがその「終焉」は、いつまでも真の幕引きを迎えることはなく、「終わり」の儀式を限りなく引き延ばしながら上演してきた。稲川の言葉は「詩=文学」を終わらせる決意を漲らせながら、しかしその終わらなさから目を背けることもなく、数十年の時間を過ぎ越してきた。そして「二〇一一年三月」があった。そこで何かが決定的に変わったのではなく、それでも変わらなかったということが、終焉が竟にやってきたのではなく、それでも終わらなかったことが、言葉が失われたのではなく、それでも言葉が今なお延命していることが悲劇なのだ。「私の個人的な任意でしかないことだが、「人間の同意」を希求しながら「同意」自体が詩から(文学から)奪われていく過程がこの二十数年だった。二〇一一年三月の出来事がそれを明らかにしたのではなく、以後の時間がそれをあからさまに象徴したのである。そして、その被剥奪の象徴はまだ完了してはいない。この認識をできるだけ直線的に了解したいと私は思う。詩的な(文学的な)当為が無意味かどうかを問うことにたしかにいまは消耗しているが、それが「震災以後」という言説の特権であろうはずはない。また「震災以後」という言辞をめぐる理性的かつ知的な議論も消耗である」。そして詩人は、一切の勿体抜きに、おもむろにこう告げる。
私は福島県南部の区域に生まれ、ある年齢までそこで暮らした。そこが私の「郷里」であり(無意味なことを言うが)それゆえ、自分の生に唯一、同一性を持つ場所である。個人的で超越的なその場所とそこでの経験に即して私は二篇だけ随想を書いたことがある。当初はそれも収めてあったが、削除した。国家/資本の余りにも脆弱な根拠による、余りにも無造作と言うよりほかない「殺戮」と「暴力」から、自分のなけなしの同一性を避けておきたいからだ。また、何ら特異でもなく、なんら特殊でもない「福島」という地名の、この間の異様な顕現にもいっさい与したくない。
この本の最後には、書き下ろしの文章が収められている。「郷里が避難区域になったら、俺はそこに戻って被曝しながら抵抗するよと、オーストラリアン・リトルホースに耳打ちした」という長いタイトルの付けられたその文章は、それ自体かなり長いものだが、読点は一つきり、つまりひと続きの一文である。「国家・共同体そして生命領域に決定的なことが起こっているし、いまこの時刻にもさらに決定的なことが起こりつつあり、またこれ以後も次々に決定的なことが起こるというのがいまわれわれが経験している震災からの予断のない日々であり、その決定的ななにものかは、「以後」とか「以前」とかの理性的なチャートが無意味だと拒んでいるようにも思えるので……」という書き出しを読みながら、私は背筋が伸びるような気がする。そして「私は、ただ私が見るべきものを見て、知るべきものを知るということにしか自分の態度はないと思うようになり、その狭い意志の範囲でも、見るべきもの、知るべきものは多くあって、そのひとつ、ほんとうなら断じて見たくはないし、断じて知りたくはない事象なのだが」、福島第一原発の近くで、罪なき生きものたちの殺戮が起きていることを、詩人は見て、知ってしまった。それから詩人は、かなしみと怒りに打ち震えながら、二十数年ぶりに編まれつつあった本の作業を中断したのだった。
福島第一原発から七十数キロの地に位置する、福島県中通りにある小さな町に生まれ育ち、いまは無産者のひとりでしかない私は、何をするべきかではなく、何を考えるべきなのかと、それを自分の重責とするよりほかないそんな折りふと思い出すのは、子供のころ、と言っても十代の終わりのころは自分には二十一世紀は関係ないと思っていたことであり、一九四九年に生まれている私の年齢が五十歳を越えるのと二十世紀が終わるのとはほぼ同じで、五十歳を越えるころに自分はこの世からいなくなるのが妥当だと子供のころは確信していたので、余分な二十一世紀が始まって間もなく、たとえば二〇〇一年の九月には、ほらやっぱり無用に生きているから見る必要のないものを見てしまうことになるんだと昔の自分のいかにも文学的な感性が正しかったかを痛感したが、それから十年経って、しかし今度は、見るべきものを見る必要に直面している自分を、やはり無用な生を生きてしまったのかと思いながら、
読み続けながら私は、このような文章を、詩人が何を思いつつ書いているのだろうかと考える。ここにあるのは諦念でも断念でもない。それは限りなく絶望に似ているが、しかし彼は、それでも書くことを選んでいる。いったい何のためになのか。そんな問いには、何の意味もありはしない。ただ彼は書いたのであり、だから私はそれを読んでいるのだ。 私は、この連載を、『詩と、人間の同意』の終わりの、長い長いひと続きの文章の終わりで終えたいと思う。
子供や猫や小さな生き物には暮らし難い私の住む借家のある住宅地から多摩川上流へ、いつものように自転車を走らせていると、黒と茶のなんとも優しい顔をした柴犬に出会い、声をかけると、名前はチャミオだと教えてくれたその飼い主の訛りのイントネーションが間違いなく私の郷里の近くだと分かり、「棚倉ですが」と言うと「須賀川だよ」と答えたその声に涙を堪えるのが精一杯で、苦難にある互いの田舎のことを話す気にはまるでならず、行儀よく足下に座ってふたりを見上げていたチャミオに、世界が君に救われるようにと言うしかなかったが、須賀川にいる兄弟たちに見舞金を出すのに苦労したよと言う飼い主のおじさんはもちろん理解してはくれなかったし、「世界」という言葉がいかにも虚しく響いて苦笑いもできなかった。
(了)
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「トランス叢書」にみる韓国現代フェミニズム運動の理論的展開 ――「トランス叢書」第一巻『両性平等に反対する』の紹介
2021年3月24日 影本剛 1.トランス叢書について このかん日本における韓国のフェミニズム運動および文学への関心が高まっていると言われる。しかし理論的展開については、おそらく読んでいる人は多いのであろうが、日本語でまとまった紹介を見かけていない(私が知らないだけかもしれないが)。本稿では私がいくつか韓国の同時代書籍を読んだ中で、とりわけ強い印象を残した「トランス叢書」(既刊四冊)について紹介し、運動と理論の展開の一断面を書いてみたい。この叢書の筆者たちは運動現場のみならず新聞や雑誌のコラムなどにもよく登場するので、現代韓国の思想や運動に関心のある方ならば見聞きしたことがあるだろう。韓国で議論されている思想や運動のスペクトラムの幅を把握するためには四冊全てを横断的に紹介する必要があるが、この記事をいざ書いてみて、かなり省略したにもかかわらず長文になってしまったことと、全く日本語で紹介されていない状況においてはある程度引用文も必要だろうと判断し、今回は第一巻に限定して紹介したい。 この叢書は、「トランス研究会」に集まった人々が論考を寄せて発行しているから「トランス叢書」という名前であるが、その意図は以下のようなものだ。韓国語の発音ではtransは「トゥレンス」程度になるが、あえて日本語風の英語発音である「トランス」を使用する理由として、韓国の近代が日本帝国主義と米国の混在だという現実を想起させようとする脱植民の努力を逆説的に表現した、とのことだ。今回は論じない三冊の題名は、第二巻『韓国男性を分析する』、第三巻『被害と加害のフェミニズム』、第四巻『ミートゥーの政治学』である。第二巻は二〇一一年に出された『男性性とジェンダー』という論集の改訂版である。第三巻は「被害者中心主義」と「二次加害」に対する言説を批判的に考察することでフェミニズム政治学の射程の広さと深さの最大値を確認させてくれる本である。第四巻は安煕正前忠清南道知事への性暴力告発以降、安煕正と彼の権力を必要とするエリート集団がありとあらゆる手段をとって法廷で性暴力を「不倫関係」へと、つまり「道義的にはアウトだが法的にはセーフ」というストーリー制作をいかに試みたのかが徹底的に分析されている。なお、第四巻「ミートゥーの政治学」は『韓国フェミニズムと私たち』(ダバブックス、二〇一九)に紹介されており(一三四頁)、チェックされた方もいると思う。以下では第一巻『両性平等に反対する』の内容と目次構成を紹介し、簡単な要約と論点を記していきたい。 2.『両性平等に反対する』の構成と序文 『両性平等に反対する』の目次は以下のようだ。 チョン・ヒジン「序文 女性主義は両性平等か?」 チョン・ヒジン「両性平等に反対する」 ルイン「淫乱と暴力を考え直す」 クォンキム・ヒョンヨン「未成年者擬制レイプ、何を保護するのか」 リュ・ジニ「かれらがただ一つ理解する言葉、メガリアとミラーリング」 ハン・チェユン「なぜ韓国プロテスタントは「同性愛嫌悪」を必要とするのか」 「両性平等」は一見よいものに聞こえるのでなぜ反対するのかと疑問を抱かれるかもしれないが、まず韓国における「両性平等」が何を意味するものかについて確認することから開始しよう。キム・ウンシルの簡潔な整理を参照すれば、「例えば韓国の女性政策が両性平等政策なのか性平等政策なのかの問題はとても先鋭な論争対象だ。両性平等はジェンダー平等という言葉を理解するのが困難な政府公務員たちのために、二〇〇五年に女性家族部が考案した用語だ。」そして二〇一四年の「女性発展基本法」改正過程で「性平等基本法」案は退けられ、「両性平等基本法」が政策用語として公式化された。(キム・ウンシル「わたしは女性ではないのですか?――「女性」範疇をめぐるフェミニズムの論争」『コロナ時代のフェミニズム』ヒューマニスト、二〇二〇、二七頁)以上のように、「両性平等」という用語には、ジェンダー平等を拒む「ただ二つだけの性」の平等という意味が込められている。保守プロテスタントが「両性平等Yes、性平等No、ジェンダーOut」と叫び「家族解体フェミニズムに反対」する集会を開くように、「両性平等」は「ジェンダー平等」と全く異なる意味として概念化されているのだ。つまり「両性平等」の含意は男性と女性の「平等な結婚生活」に縮小しているのだ(クォンキム・ヒョンヨン『二度とそれ以前には戻らないだろう』ヒューマニスト、二〇一九、二四三頁を参照)。 では具体的に『両性平等に反対する』を見ていこう。チョン・ヒジンの「序文 女性主義は両性平等なのか?」は本書の射程を簡潔に論じている(この叢書全体の特徴であるが、各序文が各巻所収論文の要約が丁寧にされており、ありがたい)。羅蕙錫の「わたしたちが批判を受けないのであれば何によって歴史を満たすのか」という言葉が引用されるように(一九頁)、相互的信頼による批判と論争を期待する問題提起の書であることも明瞭である。目標は「女性主義(feminism)=両性平等」という誤解に対する具体的分析である(七頁)。 「さいきん「両性平等」という言葉ほど反対陣営によって完全に専有された場合はない。その効果も莫大だった。」 「この本は両性平等言説が対照的な論理として誤用される現実に対する問題提起とともに、論理自体の矛盾に注目する。また長いあいだ「先送りされてきた」、あるいは当然なこととして流通してきた韓国女性主義の主要な認識論である両性平等の実態を分析しようとする。」(八頁) フェミニズムはいまだに女性中心主義や女性特権主義という視線から自由ではないのではないかと、両性平等は近代的自由主義と普遍主義(女性も人間)に基盤をおく言説なのではないかと、そして「両性平等」がむしろ女性の努力と抵抗を妨害するのではないかと問題提起をする。女性主義はジェンダーという社会的矛盾を読解することをもって、非可視化されたジェンダーを露わにして抵抗するが、その過程がジェンダーを当然視し、固定する没歴史的やり方になってはならないのだ(一一頁)。 「筆者たちは、この本であつかう同時代韓国社会のイシューは、既存の両性平等パラダイムでは包括できない現実であると見るのであり、両性平等的思惟の軌道の内外を行き来し、別の認識論的道具を動員し(たとえば脱植民地主義)、既存の論争構図を変化させようとする。筆者たちはアイデンティティ・ポリティクス、(男性中心の)平等、女性の社会進出を越え、社会正義としての女性主義を追求する。/女性主義は男性と対立し、男性を代替し、男性に対抗する概念ではなく、新しい社会への移行を提案する思惟だ。女性主義は家父長制の反対言説(counter discourse)ではなく、そうなることもできない。多様な認識者の位置を現わし、その立場と条件を競合する思惟だ。この本がそのような旅程の里程標にならんことを望む。」(一一‐一二頁) なお、本書の編者であるチョン・ヒジンは、さっこんの韓国フェミニズムへの関心の高まりの中で再読されているであろう『韓国女性人権運動史』(明石書店、二〇〇四、山下英愛訳)の編者としても既に日本で知られている。 3.「両性」と「平等」を問い直す チョン・ヒジン「両性平等に反対する」では、両性概念ではほとんどの「女性問題」が解釈できず、両性平等言説では分析・認識・理解することのできない韓国社会の多様な両性関連イシューが論じられる(二三頁)。階級役割や人種役割という表現はないが「性役割」という表現が存在し、「このような単語の存在は、性差別がいかに自然な日常の政治なのか、ジェンダーがいかに認識しにくい社会的構造なのか、いかに脱政治化されているのかを見せてくれる。」(二四頁)そしてオンラインを中心としたミソジニーに反対する女性たちの対応を、あたかもミソジニーと対称的な「男性嫌悪」と命名する思考回路は、性の区別を社会的抑圧制度ではなく対称集団とみなす思考回路が絶頂に達したことを示す。(なお、チョン・ヒジンは別の文章でミソジニーを女性嫌悪と翻訳すると、あたかも対称的であるかのような「男性嫌悪」との対立構図がつくられてしまうと指摘したことがある。チョン・ヒジン「女性が軍隊に行けば平等になるのか」『よりましな論争をする権利』ヒューマニスト、二〇一八、二二二頁の脚注二番)また、両性を二分法的にみる思考の核心的問題は三つあり、第一に位階を対称に偽装し社会的不平等を隠蔽すること、第二に対立する二項の他に異なる存在あるいは異なる思考方法の出現を原則的に封鎖すること。第三に男性と女性の区分は二分法的思考方式の原型として、あらゆる言語のモデル、尺度、起源、典型として人類を支配してきたことにあると指摘する。(三〇頁) そして「平等」について批判的検討を進める。 「女性が男性の基準にあわせる、男性と同じ対応を受けるという意味の平等は、それを実現するさいにも無数の困難が伴うが、このような意味の平等は、とりわけ既得権勢力と等しくなることを意味するから問題だ。女性主義は男性と等しくなること(「高くなること」)ではなく既存の社会を変化させることだ。/現実において平等は男女全てにとってウィンウィンゲームになりえない。女性の地位変化が男性の地位変化に連結する場合はないからだ。別の階級と人種の女性が既存の女性の位置を占める。」(四六頁) 「平等は別の人と等しくなること(sameness)ではなく、一人の人として他の者たちと公正な待遇(fairness)を受けることだ。〔中略〕また平等は、「適用」されえないものであり、そうであってもならない。適用の主体と対象の区別自体がまさに政治の始まりだ。」(四七頁) 「ジェンダー平等(gender equality)の意味は諸性別のあいだの平等や性別制度による差別是正を意味するのであり、両性間の平等ではない。私も戦略的次元でときおり両性平等という用語を使うが、両性平等は女性主義の錨だ。女性主義の目的のうちの一つは社会正義として性差別を撤廃することであり、男女平等を実現することではない。」(四九頁) そして言葉のミラーリングをこえる「労働の「交換」としてのミラーリング」こそ自分の考える「調和する女性主義」であると主張し、「これまで女性主義は性別分業に反対してきたが、じっさい性別分業がきちんと守られていれば女性たちの重労働は軽減されるであろう」(五五頁)という。「女性の社会進出が両性平等ではない。女性主義のパラダイムは「平等」からケア、差異に対する感受性、社会正義、持続可能な地球に対する責任などへと旧劇に移動中だ。」(五五頁)男性には「良心の自由」より「良心の義務」がより重要であり、「見ないことにする政治」が人間本姓として固定化されてしまうのではないかと恐れると述べ、社会は女性主義からオルタナティブな生の知恵を求めねばならないと論を閉じる。 4.クィア言説と犯罪言説を解きほぐす 次にルインの「淫乱と暴力を考え直す―〇〇地検長事件とクィア犯罪学」に移ろう。この論考は、二〇一四年八月に飲食店の前で自慰をして「公然淫乱罪」で逮捕された〇〇〇地検長の事例から始まる。この事件は有力国会議員によって「露出男」として、つまり一般通念的に命名され、理解と議論の方向性を規定(キュレーティング)した(六〇頁)。ルインはこれに対し「露出男」とは異なるキュレーティングをしてみようと提案する。 「社会通念に従う正誤の判断が、ジェンダーとセクシュアリティをどのように構成し、LGBT/クィアの文脈でいかなる意味になるのか、その通念が何を隠蔽し、いかなる秩序を維持しようとするのかを検討したい。このためにわたしは〇〇〇前地検長が行ったと知られる公共の場における性行為が犯罪になるやり方を、クィア犯罪学によって読解しようと思う。」(六二‐三頁) 「本稿で提起したい問いのように、彼の行動をめぐる論争がクィア政治学といかに出会い相互影響を与えているのかが本稿の争点だ。とりわけ彼の淫乱行為が犯罪行為へと転換される過程はLGBT/クィアの歴史と接点を形成する「慣れ親しんだ」瞬間だという点で、彼がいかなる範疇の人間であれ、クィア犯罪学/クィア政治学でこの事件���扱うことがとても重要だ。」(六三‐四) その問いに答えるためにまず韓国においてクィアがどのように歴史的に登場してきたかが整理される。特に重要なのは一九六〇年代、軍事独裁時代にクィアたちがどう報道されたかである。つまり風紀紊乱や事件事故として、犯罪を媒介にしてクィアが登場したのだ。ただ、当時はトランスジェンダーや非異性愛者は、風紀紊乱や軽犯罪など多様な罪名で逮捕されたとしても、存在自体を犯罪とする法も通念もなかった。しかし朴正煕政権の男性を軍人するというプロジェクトは、女性と男性の区分を明確化し、軍人になりうる男性身体の条件を規定する二元ジェンダー規範を支配規範化するものだった。長髪取り締まりは性別がわからない男性を規制するものだと明示された。つまりトランスジェンダーは社会的規制・統治と緊密に結びついた犯罪形態として報道に登場し、その過程を通して社会的に可視化したのだ。ここで「クィア犯罪学」とは何かが以下の引用のように提示される。 「クィア犯罪学はクィア政治学の流れとクィアが歴史的に登場し認識される交差点に位置する。クィア犯罪学の議論は一九九〇年代中盤から登場したが二〇一〇年代に入って本格化・活発化した。それゆえクィア犯罪学をいかに規定するかは依然として論争的であり、最低限の合意がされた概念はないが、先に説明したようにクィアが既存の支配権力を問題視する仕方と軌を一にしていることは明らかだ。であったとしても、クィア犯罪学を説明するためになんらかの概念を採択するのであれば、LGBT/クィアを「犯罪学論議の周辺から中心へと移動させ、クィアを抑圧する道具として犯罪法システムが書かれた方法を調査し、犯罪法システムに挑戦」する学問、というほどである。」(七一頁) ここでは英語圏の諸文献(Carrie Buist, Emily Lenning, “Queer Criminology”など)が引かれて理論的な議論がなされているが、ルインはフーコーとバトラーの批評critique概念を用いて展開していく。それは事件に対して正誤を語るのではなく、事件を分析する過程で隠蔽されるもの、当然視されるもの、隠蔽と当然視の態度によって発生する暴力と、それを可能にする権力構造を明るみに出す作業のことだ。そして問うべきは、〇〇〇地検長が犯罪者なのか、いかなる処罰をすべきなのか、ではなく「公共の場で性行為を犯罪として処罰することが何を意味するのか、このような処罰や論乱が公共性をいかに構成するのか、そしてこのあらゆる論乱は何を隠蔽して保護するのかを問わねばならない」(七四頁)というのだ。 韓国における性犯罪の加害者が非トランス男性である場合、多様な理由が情状酌量され、比較的軽い処罰になることを指摘しつつも、以下のように問題提起する。「性/暴力を問題にしてきちんと処罰することと、淫乱行為それ自体を暴力に還元し性暴力犯罪に準じて論ずることは全く異なる問題だ。」(七六頁)そして韓国の最高裁判所は、公共の場における淫乱行為を「健全な社会通念」や「善良な性的道義観念」に反するとする判決を何度も繰り返しており、それは社会の支配規範を構成してきた。「淫乱行為は犯罪であり、それ自体として深刻な暴力」だと解釈する論理は、クィアパレードを健全な社会通念に反する「公然淫乱」であると主張し、告発するという事例においても活用される。また、小児性愛や児童性愛や児童性犯罪事件は、異性愛の脈絡、つまり成人男性加害者と幼い女性被害者という構図があるにもかかわらず、異性愛や二元ジェンダー関係による事件だとは命名されることはないと指摘し、以下のように述べる。 「加害者を性倒錯症あるいは小児性愛症と規定し、精神異常であると、怪物であると追放するだけだ。つまり異性愛と二元ジェンダーはそれ自体としてかなり狭い範疇であるのみならず、犯罪が最も多く発生して暴力が最も頻繁に起こる実践であるのにもかかわらず、犯罪と最も無関係なものとして規定される。より正確にいえば、犯罪と関連付けられる時は、異性愛を削除した「異常」セクシュアリティ犯罪、病理的幻想、(精神)障害と関連する行為としてのみ命名される。」(八八頁) 「公共の場での性行為を性倒錯症として命名する作業は、その行為がじっさいに「倒錯」なのか「犯罪」なのかが重要なのではなく、異性愛を安全に保護し異性愛を認識から消して隠蔽するあためにつくられた作為的な診断行為だ。」(八八頁) つまり、犯罪を「倒錯」へと追いやることで異性愛‐ジェンダー構造は成功的に保護されるということだ。 5.性の問いを権力関係から分離させない 次の論考はクォンキム・ヒョンヨン「未成年者擬制強かん、何を保護するのか」だ。擬制強かんとは「同意有無に関係なく強かん」とみなし処罰する法条項のことであり、英語のStatutory Rapeだ。韓国の未成年者擬制強かんが適用される年齢は一三歳未満であり、世界で一番低い年齢に属する(日本の法体系といかに重なりいかに異なるのかを調査すればより立体的な紹介になるであろう)。韓国社会で強かんは長い間貞操の問題として思われ来たが、一九九〇年代以降になって個人の性的自己決定権の侵害問題として理解されはじめた。当初、父が「娘の純潔」を保護するためにつくられたこの法は、二〇世紀に入り、未成年者の性を規制しようとするプロテスタントと、訓育名目で成人が子どもや青少年に性的接近することを封鎖せねばならないと主張するフェミニストによって注目された。この相反する二つの立場は、共通点がある。つまり成人と未成年者を性的に中立的存在と仮定するという点だ。しかし現実はそうではない。 「多くの場合、問題は暴力自体ではなく規範的ジェンダーを実践したかどうかによって評価基準が異なるものになる。/他の犯罪と異なり、性暴力犯罪において捜査官と裁判官たちは被害者の状況を絶えず問題視する。」(一〇〇‐一頁) これは服装、外見が問題視されるということだが、被害者の状況を問わないのがただ一つ年齢だ。児童性暴力犯罪統計をみれば、一三歳未満の被害者の性別は女性八七・八%、男性一二・二%だ。しかし一三‐二〇歳の間では男性被害者は四・二%になる。同時に性暴力犯罪者のうち一八歳未満の男性青少年は二〇%に達する。「つまり一三‐二〇歳の女性青少年たちは性暴力犯罪被害者になる可能性、同じ年代の男性青少年たちは加害者になる可能性が高いということだ。」(一〇二頁)にもかかわらず、擬制強かんの報道は性比が等しく、「両性平等という概念が現実を隠す代表的事例」(一〇一頁)になっている。問いは、年齢が問題を隠しているのではないか、ということだ。擬制強かんの議論が出てくるのは、同意決定能力が年齢によって段階的に構築されるという信頼体系に基づく。「重要な点は性暴力において同意有無は個別事件では重要だが、性暴力という社会問題を認識させるさいには不足した概念であると理解すべきである」。(一〇四頁)また、刑法一三歳、児童福祉法一八歳、青少年保護法一九歳など、法によっても何歳以下を未成年と見なすかは異なっている。年齢によるこのような分類は直線的時間感と肉体に対する精神の優越性を強調する近代的主体論に根拠を置く認識論的信念を規範として前提する。そして韓国において擬制強かん法が果たして子どもを保護する法なのかを問う。 「韓国は全世界で最も低い水準の年齢制限を置いているだけではなく、行為者は、被害者が一三歳未満であることを知らなかったり被害者が年齢をごまかしたと主張すれば処罰を免れる。二〇一一年水原地裁刑事一一部裁判部は一二歳の小学生を成人男性三名が協同し強かんしたにもかかかわらず解釈の問題ゆえに無罪判決を下した。被害者が事件後、再びモーテルに戻って加害者たちにタクシー代をねだり、行為途中に呻��する声を出すなど同意に準ずる意志表現をしたという理由だ。」「同意あるいは認知の有無を問わず処罰するという原則は適用されないのだ。」(一一六頁) 「児童・青少年を保育および教育、保護観護、医療行為、職業的必要ゆえに会う成年たちが児童・青少年に性的に接近する行為をすべて優越的地位を乱用した行為だと認定するならば、強いて未成年者擬制強かん法を適用する必要がない。/問題は欲求ではなく欲求の実現を可能にする権力だ。暴行、脅迫、威力、位階は私たちの社会が権力の不法的な使用目録として合意してきたものだ。個人間の同等な関係を妨害する社会的な各種の位階を除去するとき、私たちは「自由」な関係を結ぶことができる。」(一一七‐八頁) 「未成年者擬制強かんの保護法益は青少年の「健康な性的発育」ではなく青少年の「性的自己決定権」であるべきだ。この時性的自己決定権の概念を「セックスする権利」とのみ理解してはならない。性交としてのセックスは自分の欲望と快楽、苦痛とのみ関係するのではなく、必ず他人が関与している。バトラーの主張通りに私たちは「私たちの快楽と苦痛に関して常に相互依存的に存在し、これが人間の脆弱性の根本」なのだ。性的自己決定権は性的主体化(subjectivation)過程を経験する権利、つまり具体的関係性の中で自分の身体を社会的な身体として構成していく権利だ。未成年者たちがはく奪されたのはセックスをする権利ではなく、セックスという行為を決定し責任を負うことができる権利、つまり性的主体になる権利をはく奪されたのだ。」(一二〇‐一頁) また選挙年齢と擬制強かん年齢基準の差は韓国が最大であり、「韓国の青少年たちは政治経済的権利から最も排除されていつつも、男性中心の結婚制度の外の性行為においてのみ法的権利を行使できる。」(一二二頁)なんら権利が与えられていないのに、ただ性に対してのみ同意有無を、満一三歳以降から決定できるということは何を意味するのか。 「父母あるいは成人に対する経済的依存こそが性的自己決定に有害な条件だ。それゆえ未成年者の自由権を、制限するやり方ではなく保障するようにしようとすれば、この問題を青少年の身体的・精神的に「健全な」発達過程の問題という発想から捨てねばならない。むしろより効果的で現実的な性教育を受ける権利、未成年者の安寧と福祉のためによりよい教育環境と政治制度を要求する権利、生活可能な最低賃金を受ける権利などが未成年者の性的自己決定権を可能にする条件だ。擬制強かん年齢上向の可否に対する討論がしばしば「最近の子どもたち」の性的発育に対する(かなり小児性愛的欲望のように聞こえる)事例にはまり込んだり、過去の根深い悪習である早婚を未成年者の性を尊重する事例として誤解するというひどい状況にはまり込む理由は、性を他の社会的関係から独立的で自律的な変数として見なすからだ。」(一二三頁) このように閉じられる議論は、セックスの問題ではなく権力の問題として、年齢そのものではなく年齢によって権威が分配される政治経済学の条件を問わねばならない、ということだ。「選挙権の年齢を下げ、最低賃金を施行し、擬制強かん年齢を上げる」(一二四頁)とき、擬制強かん法を、よりより生を可能にする公的介入の契機として考えることができるのだ。 6.保守プロテスタントはなぜ同性愛嫌悪を必要とするのか 次の論考はリュ・ジニ「かれらが唯一理解する言葉、メガリアとミラーリング――ポスト女性主体の誕生に寄せて」は、ミラーリングに対する状況の整理とミラーリングはヘイトスピーチではなく新しい表現であると評価していく論考であるが、紹介は省略する。 最後の論考はハン・チェウン「なぜ韓国プロテスタントは「同性愛嫌悪」を必要とするのか?」である。この論考の問題提起は以下のようなものだ。韓国の保守プロテスタントはなぜ二〇〇七年に差別禁止法反対を主導したか? なぜ二〇一〇年から反同性愛運動を組織的に展開することになったのか? なぜ二〇一五年になってクィアパレードに対する数万人の反対集会を開くようになったのか? なぜいま同性愛を嫌悪することにかくも総力を傾けるのか? 「韓国プロテスタントにのしかかってきた危機は、単純な信徒数の減少ではなく、はるかに深い底からの崩壊という深刻なものであり、韓国プロテスタントが政治勢力化を夢見て性的少数者の人権運動と正面から出会う場面を発見することになるだろう。」(一五八頁) 韓国の保守プロテスタントが反同性愛運動を積極的に展開した最初の時点は二〇〇七年だ。プロテスタント信者であった金泳三大統領に続く金大中大統領はカトリックであり、反共主義を根幹にする保守プロテスタントの立場からは金大中の太陽政策などは受け入れがたいものだった。また同時に有名牧師の横領事件や教会牧師世襲など、保守プロテスタントに対する社会的信頼も墜落した。盧武鉉大統領の当選(二〇〇二年)は保守プロテスタントが極右政治勢力と本格的に手を結ぶきっかけになり、星条旗と太極旗を掲げた集会を開き、危機をあおっていく。 保守プロテスタントが二〇〇七年に差別禁止法反対を鮮明にした理由は同性愛を罪と教えると犯罪になり、そのような国家の弾圧を通して境界や教会系の学校の自主性が奪われる、というものだった。 「そもそも差別禁止法に最も反対していたのは、この法によって労働者の採用と解雇に制約を受けることになる「全国経済人連絡会」と「韓国経営者総協会」のような財界��あったという点だ。それゆえこの差別禁止法がプロテスタント界の反対にぶつかったのは予想できないことだった。」(一六五頁) これは法務部〔法務省〕も予想していなかったと思われる。(一六五頁脚注一二番) 二〇一〇年に入ると、韓国のドラマ史上、初めて男性同性愛者を主人公にした「人生は美しい」(SBS)が放映されたが、これに抗議する「正しい性文化のための国民連合」による新聞広告が出された。その中身は「「人生は美しい」をみて「ゲイ」になった私の息子がAIDSで死ねばSBSは責任を取れ」という題名の声明書だった。また、二〇一〇年一〇月、国家人権委員会が同性間性行為を性暴力と同一視する軍刑法九二条に違憲の疑いを表明し、憲法裁判所に改正の勧告案を提出した。「反同性愛運動側は焦点を変えて軍隊で同性愛を許容すれば軍隊の基軸が壊れて戦闘力が弱まり、北にのみ有利になり、けっきょく赤化統一されると述べ、安保問題と〔反同性愛運動を〕結びつけた。」(一七一頁)このように二〇一〇年代の政治的イシューが保守プロテスタントにとっていかに受け取られたのかが一つ一つ語られる。 また保守プロテスタントの関心は朝鮮民主主義人民共和国での宣教であり、教団別に宣教地域の分割もしていた。朴槿恵の有名な発言である「統一は最高(テバク)」の背景でもある。また同性愛者に対する嫌悪は、信仰から出たものというよりは、恐怖と嫌悪を通して勢力を拡大する目的によって行われた。「教会を攻撃したい「外部人」を想像することだけでも、ただちに教会に「苦難」がぶつかってきたように設定できる。そしてこの「苦難」はともすれば神がわたしたちを「試される」ことでもありうる。」(一八〇頁) 同性愛を愛や生、アイデンティティではなく性行為としてのみ扱う時、簡単に社会的通念にしたがって道徳的な非難対象になる。政治的に優位を占めたいときに道徳的・倫理的な優越さを見せつけることはありふれた手法だ。つまり「反同性愛をさけぶ者たちは同性愛を真に嫌悪しているのではなく、「同性愛嫌悪」を切実に必要とするのだ。」(一八九頁)そして、性的マイノリティは、「大衆が簡単に思い浮かべることができるステレオタイプのイメージを帯びたありありとした「他者」であると同時に、いかなる抑圧にも屈せず激烈で強靭に抵抗することが明らかな「集団」でもある。かくも素晴らしい「敵」は決して逃すことはできない。このような点で二〇〇〇年代後半に政治勢力化を夢見るプロテスタントと人権増進を夢見る性的少数者の衝突は必然的な出来事だ。」(一八九‐九〇頁)誰がなぜ嫌悪を必要としているのか、それを問わねばならないのだ。 7.まとめ 長々と書いてきたが、「両性平等」という用語が保守的に占有されている中、「両性平等」という用語に込めることのできない諸現場から、現場で使える別の概念をつくっていくために、絶えず理論や歴史を参照し、新たな接合を通して自分たちの力になる議論を模索する諸事例を見ることができる。そして個別化するのではなく社会的文脈の中で事件を解釈するという強い意志も表示されている。ここではトランス叢書第三巻『被害と加害のフェミニズム』の序文から、フェミニズムの展望を描く部分を引用しよう。いかなる磁場で議論せねばならないかが浮き彫りにされている部分だ。 「フェミニズム運動は、一体いつまで被害経験の共通性のなかに意識高揚の「燃料」を求め、怒り、暴露するというやり方を繰り返さなければならないのだろうか。いつも同じ所を堂々巡りするような感を拭えない。問題のある数多の個人を名指し、加害事例のリストを増やし、被害の証拠を収集し、お互いの抑圧された経験の共通性を掘り下げていくことは、結局、女性を被害という現実に押しとどめてしまうのではないだろうか。被抑圧者のアイデンティティが本質主義に出会うとき、解放への展望は失われる。そうなれば、私たちにできることは、せいぜい被抑圧の条件を持ち寄って一緒に暮らす臨時避難所に過ぎない。/「被害者の味方」をして加害者を処罰することは、フェミニズムの目標でも展望でもない。それは単に法治国家の常識であるにすぎない。そのために被害者が人生を賭けなければならないような社会なら、希望はない。フェミニズムは加害者を処罰し、被害者を保護しようという思想ではない。フェミニズムはそれ以上のものだ。フェミニズムはむしろ、被害と加害という位置が与えられる方法そのものに関心を持つのである。(クォンキム・ヒョンヨン「序文」『被害と加害のフェミニズム』教養人、二〇一八、九‐一〇頁) トランス叢書の議論は閉じられておらず、信頼に基づいた批判が待たれている。日本の文脈に移植して直ちに使える議論だとは言えないだろうが、議論を展開していく方法と、何を前提にして議論を始めるべきなのかを思い切って設定すること、そして現場と分離不可能な記述によるエンパワメントの可能性は実感できるのではないかと考える。
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【パトリック・バーン】 2021/1/28 3:27 JST



次回作に向けての作業中。盛り上がってきました。 きっと興味が湧いてくるはず。 一日じゃ時間が足りない。


オッケ、お待ちどおさま。11月3日(選挙日)から12月23日(フリンとシドニーと私がホワイトハウスを潰した時)までの期間をカバーする9000語。 https://www.deepcapture.com/2021/01/november-3-december-23-all-the-presidents-teams/
※パトリックさんの筆がノリにノリまくってしまったようです。 最高に面白いです。
※今回原文はリンク元から参照してください。ひとまず全文の機械訳を。
DJTはいかにしてホワイトハウスを失ったか 11月3日~12月23日 大統領の全チーム 2021年1月27日 31分読む
私とシドニーの関係については あまり多くを語るのは 控えようと思う。一つには、時間が経つにつれて私が彼女のために働き、彼女が質問に答えるのを助けるような関係になった。そして彼女が私の弁護士になったような関係になった。それが何であれ、時間が経つにつれて関係は特権が確実に適用されるものになっていった。人は特権を選択的に放棄することはできないし、他の人に「特権」を主張しながら、共有したいものだけを共有することもできない。私はそれを知っている。しかし、私が言えることは、私たちの関係は、私が情報を持って路上を歩いているだけのボランティアから始まったということだ。
しかし、ジュリアーニ市長は私の弁護士にはなってくれなかったし、私の究極の目的、私の唯一の本当の目的は、11月3日から1月6日までの間に起きた出来事を、私が構築できる限り正直に表現して市民に届けることなので、私の説明にはそれほど制約を受けることはない。それは歴史的に価値のあることに思う。
彼らは私をビジネスマンだと思っていたが、 私としては、 私はこのウェブサイト「Deepcapture.com」の所有者であると自己紹介した。私は、このサイトが2008年のビジネス調査ジャーナリズムで数々の賞を受賞し、米国内の汚職に関する最高のジャーナリズムにも選ばれていることを指摘した。 私は人生の中で他のことをしてきたかもしれないが、それに加えて私はジャーナリストであり、ジャーナリストとしての権利を持っている。つまり、私は調査したいことを調査することができ、私がどのように物事を学ぶかについて多くのことを明らかにする必要はなく、もし私がシドニーやルディのような弁護士と私の調査結果のいくつかを共有したいと感じた場合、それはこのウェブサイトが物事を調査し、そのような弁護士や法執行機関とその調査結果を共有してきた他の数十回と何ら変わりはない。
シドニーとの最初の出会いは、おそらく45分ほど続いた。オフィスビルの半分ほどが空いたスペースに、実質的に一人で座っている彼女と、たぶん同行してきたアシスタントの後輩弁護士を見つけた。彼女は知識が豊富で、心の広い人だった。私が到着したときには、人が言葉を交わしたばかりのときのような奇妙なヒリヒリとした空気が漂っていた。私たちはすぐにビジネスの話に入り、彼女が物事を把握していることが明らかになりだした。彼女は、これらのシステムが作られた初期の頃の人々と連絡を取っていて、すぐに彼女は、私たちがある程度の知識はあってもあまり知らない物語の一部(主に機械の起源とその設計上の欠陥の理由)をカバーしていることを教えてくれた。一方で、私たちが選挙後の3日間に私たちの側がすでにデータから導き出したことを確認すると、彼女は私たちが言っていることに理解を示し、私たちは互いにすぐに彼女がすでに知っていることと物事を結びつけることができた。 それは非常に生産性の高い最初の会話で、彼女は私に、オフィスの反対側に行く必要がある、ルディを見つけて、すぐに私と共有したすべてを彼に伝えるようにと言って話を終えた。
サイバーバディと私はオフィスビルの反対側のルディの側に行った。そこが作戦の中心だと理解していた。
何を見つけたかの説明。私が予想していたのは、弁護士と専門家がいる司令部だ。専門家たちは統計的な仕事をして、導いた答えを弁護士に伝えたり、前に説明したような変則性のある調査を通知されていたりするだろうし、法律が確かに定めた策は何でも利用するだろう。思うに戦争ボードがあり、問題のある州には、関連した日付や進捗やすべきことのすべてが洗い出されているだろう。各州とキャンペーン本部には当然、情報ループがあって、経過の進捗を受ける日々会議電話があるだろう。76歳の一人の紳士が管理するにはかなりの量になるかもしれないと思い、ルディには強力な最高執行責任者(COO)がいるのではないかと想像してみた。私が見つけたのはこれだ:
2割が空席で、さらに3割が机を片付けていた。
ある会議室には、テーブルを囲み、大勢の弁護士が集まっていた。そのうち少なくとも3人は優秀だった。これら弁護士は作戦のラバだった。彼らはそれぞれ1つ以上の州を割り当てられていた。しかし、州レベルかそれ以下のレベルでは、 調査や地元の弁護士が起こした訴訟が、有機的に湧き上がってきていた。私は、ルディの法務チームと選挙運動スタッフの間には、オフィスの1階の2/3を共同で占めていたにもかかわらず、コミュニケーションが0であったことを知ることになった。また、選挙運動のスタッフと地元の団体や弁護士の活動との間にも、コミュニケーションは0だった。それが法的な理由なのか、それとも彼らのやり方なのか、私にはわからなかった。 やがて、後者だとわかってきた。
凡人(メディオクリティ) - 私はそれについて意地悪をするつもりはない。例えば、私はこの人物の性別やその他の詳細を明かすつもりはない(弁護士であり、かつてはもっと有名な政府機関でキャリアを積んだ人を想像してほしい、と言う以外に)。しかし、その凡人がいかに恐ろしいまでに暴走したか、そして凡人の振る舞いが驚くほど破壊的だったのかを考えると、私は単純に「凡人」と呼ぶことにする。
司令官 - ブレイキングバッドのマイクを思う。典型的な警官。タフで、正確で、礼儀正しいが、常にポーカーフェイス、死んだような目。会議では口元は手で覆い何も言わずに座っている。何かを聞かれると口を開くかもしれない。彼が口を開けば必ず何か非常に知的なことを言うだろう。疑問に思うのは、「なぜ彼は自分の意見を自分の中に留めておこうとするのだろうか?」ということだ。
市長 - ルディ・ジュリアーニ。私は1980年代後半をニューヨーク市の病院で過ごしたが、ミッドタウンのステーキハウスやブルックリンの店の外で時折マフィアの殺人事件が起きていたのを覚えている(ビジネスには常に良いことだと言われていた)。ルディは当時は連邦検事であり、マフィアをその後解体した。時と場所が重なっていたからこそ、いつも彼に親近感を覚えていた。9/11には「アメリカの市長」になった。その後も何度か会ったことはあったが、いつ会っても私のことを覚えている気配はなかった。ウォール街と戦っていた時は、彼の警備会社が私のために問題を処理してくれた。彼が覚えているかどうかは疑問だが、十数年前に彼が大統領選に立候補してユタ州を通過したとき、地元の共和党員が私に電話し、なぜか私はユタ州の大きな家の集会で彼を紹介するように頼まれた。私は彼のことを調べて、車を走らせ、ルディ・ジュリアーニについて30秒ほどの短い紹介をした。後を継いだ彼と握手を交わし、これが彼の政治家時代の私とルディ・ジュリアーニとの接触のすべてだ。
その日の質疑応答の中で感動したことを覚えている。頑固なプロライフの具温州から中絶についての質問があった。ルディは質問に対し、「いいえ、女性の中絶を犯罪化する法律は絶対に支持しない」と答えた。「中絶に関する法律は常に医師の活動に向けられてきたが、母親に向けられてきたものではない。中絶をしたからといって女性を刑務所に入れるようなことは絶対にしない。それが君たちが求めていることなら、私は君たちの男じゃない」彼はその瞬間、聴衆の2/3を失ったが、政治家にしては珍しい率直さに敬意を表しただけでも、私を含め、1/3の尊敬を得た。
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それから12年後の金曜日の午後3時頃、私はトランプ陣営と、2020年選挙で表面化した不正を調査、対処し、挑戦するためのルディ・ジュリアーニを中心に結成された法律事務所が共有している、オフィススペースに足を踏み入れた。
それは私が期待していた(上記で説明したような)組織、つまりデータ収集から意思決定、情報のループを経て、地理的に分散した大規模な労働力を成功裏に運営する組織、とは全く異なっていた。法律事務所というのは、いずれにしても管理の悪いビジネスであることは有名だが、そのオフィススペースの中で形作られた法律事務所のキャンペーンスペースは、特にクソみたいなものだった。人々は会議から会議へと漠然とさまよった。私が見た会議は、議題もなく、形式もなく、明らかな緊迫感もなく、自由討論のように運営されていた。
約45分以内に私はルディと30分話すことになっていた部屋に案内された。肉体的には、彼は、私が覚えているよりも祖父のような感じで、少し背筋が伸びていて、鋭くて、いらいらしていた。私はその時点で理解していたことの概要を注意深く説明した。その概要とは、MITの数学博士シヴァ博士による発表や、セス・ケセルによる解説を受けて読者が得るであろうもの、さらには上記にすべて参照される、穴だらけのセキュリティを抱えた選挙ソフトウェアに関する話の一連。私は彼を圧倒することを恐れていたので、単純化しようとした。私が話すあいだ、彼は時々自制的にうなり声をあげており、腑に落ちているのかどうか判断するのが難しかった。わずか10分後、ルディは一緒に座る私の正面で複数の携帯のメールをチェックし始めた。アシスタントの一人と会話し、誰かに使いを送らせる、または報告を受けていた。ほとんど注意を向けてくれない人と話をするのは不思議な感じだったが、横に座っている司令官が、そのまま続けるように合図をした。30分も経たないうちに、事務所の外に案内されたが、ぶらつくように言われた。
結局、ジュリアーニ市長と一緒に小部屋に戻され、再び、起きたことについての説明を求められた。私はさっきの説明で彼を圧倒したかもしれない、木を見て森の中で迷子にさせたかもしれないと気付き、76歳のおじいちゃんのためにするよう簡単にゆっくりと説明した。またしても5-10分もしないうちに、彼はそわそわしだし、時にうなり声をあげ、関係のない用事で人を送り、複数の携帯でメールをチェックし、返信を打ち込んだ... その間、私は軌道に乗ろうとした。しかし、15分後、あの小さなオフィスで何かの匂いを感じた瞬間があった.... 薬?酒?匂いを嗅いで突き止めようとしていた矢先、誰かがまた関係のない問題を抱えて駆け込んできたので、オフィスから追い出されてしまった。
私は再びスタッフの間を歩き回ったが、ほとんどのスタッフは何が起こっているのか何も知らないと公言しており、他の多くは机を銀行の箱に詰めていた。戸惑いながらも、複雑に入り組んだオフィスの中をうろうろしていた。30分後、ホールの下にある別の会議室の外を散歩していると、ルディの聞き覚えのある声で「...こいつの言っていることが全く理解できない.... 」と出入口から聞こえてきた。驚いて角を見回すと、 ルディが移��先の会議室内で、たまたま信心深そうに座るスタッフがいるどのグループにも話しかけていた。
廊下で何人かのスタッフに引き止められた。うちの一人がジュリアーニ市長が必要としているのは、1ページの要約だと言った。非常に簡略化された...1ページ。
別の一人は、グラフとデータを添えて、と付け加えた。
別のもう一人がしゃべり始めて、箇条書きにしてくれと言った。市長は箇条書きが好きなんだ!
しかし、1ページ以上はダメだ!最初のを繰り返した。
卑劣に捉えられるのを承知で言うと、私は侮辱された。凡人と、書き方に意見したりそんな愚かなアドバイスをくれるような20代のスタッフらによって。私は週末までに彼らに何か得られるよう約束した。48時間。私は一つのお願いをした。他の要求については、彼らのうち担当者にした一名を介し、私の指名するサイバーチーム内の一人に電話をかけて調整するべきだと。そうやって組織ができれば、要望に沿った成果物の追跡も維持できるので、すべてクソみたいなショーにならないだろう。
そして、私はその場を離れ、車でDCに戻った。その日の夜遅くまでに、私はルディのチームの別々の人物から、[バッドニュース・ベアーズ内の※ココ後から削除された]多才な私の同僚たちに、3つの異なるオープンリクエストがあったことを知った。一人はこの種の要求の処理を進ませるだけ、一人はその種の要求をただ処理したいだけ。...そしてクソショーが始まった。
あの広くて溶けそうなオフィスの全員が無能だったと主張したいわけではない。言ったように、有能で熟練した弁護士が3人(出入りしていた憲法学者を含めれば4人)いた。[それから、先輩アシスタントのふるまいをするスーパーモデル並みに可愛い21歳がいた(最初「見栄えが悪くなったな、ルディ」と思っていたら、今まで会った中でも彼女がアシスタントとしてもすばらしく有能だったからだと思い直したほどだ)※ココ後から追加] しかし、その雰囲気は絶望的なもので、リーダーシップはゼロ、スタッフは闇をさまよいうろついていて、会議は組織化された規律あるものにほど遠い2年生の自由討論のようだった。
以降、何人かの[堅実な※削]スタッフと数週間にわたって時折連絡を取ったことで、私は自分が到着する直前のあの日に何が起こっていたのかを知った。ルディは「君たちは法廷で選挙不正を証明することはできない!」と断言していて、それは法的戦略の一部にはならないだろうと強く言った。戦略は、手続き上の理由で挑戦することになるだろう、と。「この州のこの郡は、ある規則を持っていたが、同じ州の他の郡は、別の規則を使っていた」「それは、修正14条の正当な手続きと平等の保護に違反する」 私が到着する直前に、ルディとシドニーの間で大爆発が起き、ルディは数十人のオフィスの前で、シドニー・パウエルを怒鳴りつけて彼女を追い払った。この件は選挙詐欺に関わることではないと宣言し、彼の弁護士に手続きのための書類作成をさせた。後日、ルディのチームからの参加者から聞いた話では、当初ルディはそこまでしたくなかったとのことだった。彼は3つの州で多かれ少なかれ形だけの挑戦をして、それで終わりにしたいと思っていた。シドニーの「大局を見失っている」という固執が、最終的には少しだけ手を緩め、より攻撃的な姿勢を取ることを許してしまったのだ。しかし、それでも、選挙の不正行為や大量の不正操作の可能性については何も話題にならなかった。ルディはフィラデルフィアの投票で数百人の死者が出たという話は大目に見ていたが、それ以上に複雑な話は聞きたくなかった。
選挙が終わって数日後の金曜日の午後、私は偶然にもシドニーに出くわした。彼女は私をルディと話しに行かせていたが、新しい形の選挙不正行為の可能性についてルディと話をした。 ルディ��そのことを何も処理していなかっただけで、だからこそ彼はフィラデルフィアで投票した何人の死者がいると思っているのか、私と話をしようとしていたのだ。
その週末、シドニーは彼女の優秀なジュニア弁護士の一人を送り込んで、私とドルフィンスピーカーの数人と一緒に座ってもらった。そのジュニア弁護士は30分滞在することを予想していたが、1時間半後、彼女は隣の部屋に入り、シドニーに電話した。彼女はシドニーに、私たちは商品を持っていること、あるいは様々な州、さらには特定の郡で何が起こっていたかについて、少なくとも十分に理解していることを伝えた。その時点から、私たちとシドニーとの関係は完璧なものとなった。そして、彼らはその資料を自分たちの弁論に取り入れ始めた。
それはそうとしても、私とシドニーがどのように仕事をしていたかについては、これ以上は言わないことにする。
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マーク・トウェインはかつて、友人への長い手紙の最後に、「もっと時間があれば、もっと短い手紙を書いていただろう」と書いている。 市長のオフィスで市長に会ってからの2日間、私には時間があった。日曜日の午後には、私が作成することができる最も単純化された1ページのアカウントの仕上げを行っていた。私の目的は、今回の市長は木の森を見失うことなく、簡潔な1ページで全体のストーリーを把握できるように、ストーリーを簡潔にすること。その時点で、彼が全体像を理解すれば、副請求の各項目に飛び込むことができる。しかし、最初にルディは1ページのブリーフィングを読んで吸収する必要があった(実際には1ページの80%程度にとどまった)。 それは、私自身が言うならば、達成されうる限りの純粋な蒸留物だった。ルディがそれを理解してくれたら、自分たちがどこにいるのか合意したら、他の関連する州のグラフを追加して補足しようと考えたからだ。集まっていた宣誓供述書は、それぞれのポイントを記録するために提出した。そして、そのようなことを繰り返した。しかし、今回は、這って、歩いて、走って、の繰り返しだった。
日曜の夜11時に電話があり、ジュリアーニ市長とその側近がジョージタウンのレストランで食事をしているので、私が書いたものを持って行ってもいいかと言われた。私は服を着て向かったが、到着すると彼の警備員はバーに座って待つよう指示された。市長の個室から誰かが出てきて、市長が私に、私が彼のテーブルに戻らないように頼んだと言うまで、私は45分間そうしたが(警備員はなぜか私のことを心配していた)、結局私の書いた紙を個室に送るように頼まれた。私はそれを送って帰った。
後日、その部屋にいた二人から、私の書いた紙が届いた時のことを聞いた。
まず、午後11時30分から午前1時までの90分間に、ジュリアーニ市長はトリプルスコッチ3本を氷の上で飲み干した。9ショットのアルコールだ。この話に関連する人々は、彼が11時半以前に何を飲んでいたかを保証することはできなかった。
第二に、ルディは皆の前で私の新聞を取り上げ、45秒ほど読んだ後、"あとでやる "と言って新聞を脇に置いた。
三つ目は、凡人がテーブルにいたこと。凡人は1つのポケベルを手に取り、ウンコのように指の間に挟んで、笑いながら発表したらしい「バーンは週末ずっと働いていたのに、これだけ書いているなんて信じられる?」
9時間後の月曜日の朝10時、ルディ・ジュリアーニはシドニー・パウエル、ジェナ・エリスとの共同記者会見に登壇した。ルディは状況の概要を説明した後、シドニー・パウエルを紹介し、誰もがまだ理解していない規模の大規模な選挙不正行為の可能性について議論する予定だった。それは、ここで投票した数百人の死者や数百人の転居ではなく、より深い何か、システマティックなものだと..... 前例がない
計画通りに行くのではなく、ルディ・ジュリアーニは気が散って、夢中になって、40分間ステージの周りで、何百人もの死者がここに投票していたか、どのように違法な人々がそこに投票していたかについての彼の方法をハァハァとパフした..... 彼はおじいちゃんのように自分自身を働かせ、彼が何日も作っていたすべての同じポイントを繰り返すように、髪の毛は彼の顔の両側を走って死んだ、気づかれずに。
その9時間前、彼は90分かけてウイスキーを9杯飲んでいた。 ——————————————————————————————————
もう一つ、ルディの事務所内で当時の話が出てきた。あるペンシルバニア州の弁護士(女性)が、ペンシルバニア州でのファイリングの仕事を引き受けていた。彼女は反対するカークランド&エリスの弁護士から、あまりにも脅迫的で、プロ意識のないメッセージを受け取ったので、カークランドは後にケースINSERT CLIPeから撤退しなければならなかった。震え上がったペンシルバニアの女性弁護士は、提出書類の草案を提出したが、代理人を辞退した。ルディは、ペンシルバニアのファイリングを終わらせてくれる会社を一晩で探さなければならなかった。ついに選挙経験のあるテキサスの弁護士を見つけ、それを完成させ、ペンシルバニアに提出させた。選挙詐欺については言及されておらず、代わりに手続き上の平等保護の議論に焦点が当てられていた。ルディは、それを弁護するためにペンシルバニアの法廷に向かう途中でしか目を通さなかった。 彼はペンシルバニアの法廷に入り、破壊された。
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ルディのチームから電話があった。翌朝ジョージア州に コンピュータ科学捜査の専門家が必要だと。彼らには 『悪用』できる投票機へのアクセス権が与えられていた。問題のライセンスを持ち、認定されたコンピュータ・フォレンジックの専門家たちは、「機械はどこにあるのか?どんな機械なのか?選挙機器の改ざんやいたずらは連邦の重罪であり、どのような法的権限の下で運営されるのか?あらゆる種類の法の執行機関は、後に発生するかもしれない証拠の連鎖の疑問のために、取られたすべての行動を確認し、文書化するのか?」
ルディのチームの反応は 「全てをカバーしている。ジョージア州に行け!」
不安に駆られて、必要な人たちをジョージア州の各地から飛行機に乗せた。彼らはある管区に連れて行かれ、そこで誰かが機械を検査できると漠然と約束していたことが判明した.... しかし、その人はその日そこにはいなかった。あるいは気が変わったのかもしれない。イルカスピーカー達は一日の大半を座りっぱなしでいたが、今度は裁判所の命令で特定の機械へのアクセスを許可している人がいると言われた別の管区に連れて行かれた。そのような人はそこにはおらず、敵対的な郡職員のグループがいた。ルディのチームが手配した弁護士が書類を持って現れるのを待っていたが、彼らは一向に来なかった。何時間も待った後、夕方になると、彼らは車を走らせ、通りを半マイル先の信号機に座っていると、17台のパトカーがライトバーを点滅させながら、彼らが去ったばかりのビルに向かって走っていくのが見えた。マイ・バッドニュース・ベアーズはすぐに、そして無事に巣穴に戻っていった。
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同僚の何人もが、1ヶ月半の間、午後や夕方にルディと時々交流していた。それは、彼が毎日のポッドキャストに過度の注意を払っていたことと、もう一つは彼の飲酒だ。夕方に彼と一緒にいた人たちや午後に彼と一緒にいた人たちには明らかだったことがある:彼は常にクソみたいな顔をしていたのだ。彼自身のスタッフがそれを私たちに話していた。確かに毎晩、あるいはほとんど毎晩、そしてほとんどの午後。それと彼のポッドキャストがルディの人生の唯一の保証だった。
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さて、話を進めて、その代わりに、これまで私がほのめかしていたことを述べてみまよう。選挙後の数日間、人々は国中から連絡を取り合っていた。多くの場合、様々な州の人々のネットワークがあり、投票所で経験したこと、言われたこと、投票監視員が経験したことなど、リグの様々な側面に飛び込んできた。これらの人々は私を見つけるために代表団を派遣した。間もなく、さまざまな出来事の目撃者が飛び込んできて、私を見つけた彼らのネットワーク「リーダー」が現れた。全国各地からボランティアが集まり、その多くは軍や法執行機関での経歴を持つ者であり、ブドウビンを通じて連絡を取り合い、どんな形でも助けてほしいと頼んできた。他の政治的な問題が進行している間、私は同時に、ルディのオフィスで見られると思っていたものを作っていた。ある種の「作戦」だ。サイバー・ガイはすでにいたし、クアンツもいた。内部告発者や関連記事を持つ者多くが、私を探しにDCに飛んできたので、街中のホテルに作戦を仕掛けた。軍将校出身のボランティアの中から、私たちは報告者を見つけ出し、彼らが個人的��専門的に内部告発者や目撃者と会い、彼らの話を聞き、要約を作成するシステムを作った。彼らは、サイバー担当者や他の情報源からの情報をもとに、それらの情報をつなぎ合わせ、11月3-4日に何が起こったのかを、より詳細に把握するための情報を構築していたのだ。
その数ヶ月の間のどこかで、フリン将軍と私は電話で会っていた。私たちの間には、数十年前に私たちの人生の両方で役割を果たしてくれた故人という、奇妙なつながりがあった。マイクとの会話は、別の起業家と会って話すようなものだった。ある時点で彼は現場に到着し、私は様々な方法で集まった才能の集合体について彼に話した:サイバーマン、クアンツ、私たちのサークルへの目撃者と関係者の流れ、複数の報告者の構造、私たちの情報の流れは、すべてをまとめるアナリストのサークルに戻ってきた。 私は、マイクの到着を想定して、全体の構造を大まかに作っていた。彼が到着すると、私の鍵は彼に渡ると理解した。
私は彼から、その構造物の上部をDCから遠く離れた場所に移設してほしいという依頼を受けた。情報の流れは、国中のネットワークを通り、報告者やレポートライターの毛細血管を通って、中央の分析ステーションに入ってくる。ほんの数メートル先には、弁護士でいっぱいのオフィスがあり、私たちが作成している情報を法的に取り入れる役割を果たしていた。私が本能的に構築した構造は、彼が仕事をする法律チームに接続することを望んでいた。私たちは、シドニーとルディの二人が、この仕事の成果を得ることに合意した。
彼が要求した場所に構造物を移動させた。そこには弁護士のチームが配置されていた。しかし、彼らの周りには、役割のはっきりしない様々な人々がいて、私をゾッとさせた。ある元省庁の女性は、大柄で声の大きい女性で、弁護士ではないが、突然現れて、かなりのオーガナイザーであり、ゲートキーパーになっていた。もう一人の参加者は、軍人出身の生意気なイギリス人男性で、突然、自分がこの部屋とあちらの部屋の間のゲートキーパーだと宣言した。なんだか嫌な予感がしてきた。しかし、わずか二日後にフリンから連絡があった。私たちが合意したように(我々二人にとっては当然のことのように、ほとんど会話をする必要がないように見えたが)物事が立ち上がって大雑把になったところで、フリンから電話があり、私に飛んできて後を引き継ぎ、私がDCに戻って一般の人たちと話し始めたいと言われた。我々は、場所を変えながら、ある場所で1時間ほどすれ違うことに合意した。
私は出発の準備をした。私は生意気なイギリス人の男に、3つの重要なメッセージを伝えて欲しいとお願いした。出発前に会う機会のない人にね 彼は同意してくれた。私はそれぞれを簡単に言うと、彼はそれぞれの後に無造作にうなずいた。終わった後、私は彼に理解しているかどうかを尋ねた。彼はさりげなく「うん、全部わかった」と答えた。
「OK.じゃもう一度言ってみて」と私は彼に言った。彼はまばたきもせずに私を見つめた。「わかったって言ったからさ。もう一度言ってみてくれ」彼は実際には言葉を聞いていおらず、何も思いつかなかった。私はペンと紙を持ってきて「3つの覚書きを作ってくれ」と言った。彼はしぶしぶそうした。
何かの理由から、元省庁の女性を連れてDCに戻ることになってた。マイク・フリンが到着する場所に車で向かった。そこに着くと、彼女は横に抜け出して誰かに言った。自分が残るために何かを学んだんだと。フリンが到着して30分間一緒に駐機場で過ごした。私たちは追いついて同期した。キャンプにいたこのイギリス人について疑念を抱いてると彼に話した。周りをうろついてた元省庁の女性についても。それから私は去った。
次の日、DCに戻って知らせを受けた。元省庁の女性は滞在許可を得るために 嘘をでっち上げたと。それが何であれ、それは私が彼女に頼んだことに関係していたか、または彼女にしないように頼んだことに関係していたか、またはいくつかの調査、または何かだった:それが何であれ、それはでっち上げで、自分自身を振り向かせ、田舎のその作戦に留まるように再配置させるために作られたものだった。彼女は直面していて、豆をこぼした:彼女は実際には他の誰かのために働いており、田舎のその作戦に滞在し、スパイして報告することになっていた。彼らはまた、生意気なイギリス人の男と対決し、彼は決して折れなかったと思うが、私は彼がそこにいたすべての人の心の中に間違いなく関与していたと言われている。警備員は2人の登場人物を外に連れ出した。彼らが出て行った後、敷地内の重要な部屋のひとつに、ある種の装置が配線されているのが見つかった。
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今、これはすべての時間が無駄になっていたと言いたいわけではない。私が説明した情報の流れの構造は、私が粗削りにしたものだったが、軍事情報部でキャリアを積んだ三ツ星の将軍に引き継がれ、彼はそれをはるかに良くした。すぐに、それは洗練された分析、レポート、情報を吐き出し、シドニー・パウエルが書いていた報告書に情報を与え、それを埋めるようになった。 私たちは、提供されたすべての情報がルディにも提供されるようにした。
これが、私が引用したようなプレゼンテーションの背景だ。繰り返しになるが、素晴らしい例として、セス・ケシェルに注目してほしい。セスは元陸軍情報部の大尉で、私が先ほど説明した構造の中で重要な役割を果たした。セスは風変わりな男で、確かにスペクトルの中にるが、ポリサイエンスのジャンキーで、管区の数学が大好きだ。このリンク先は21分のビデオになっていて、私が大雑把に作ったものと、マイク・フリンが改良したものを使って自己組織化したチーム内で行われていた仕事の種類の優れた例を提供している。行われていた仕事の種類をよく理解するためには、このビデオの少なくとも一部を見る必要があると思う。
このビデオが再生されない場合は、以下リンクをクリックください。https://youtu.be/xXMW9VNMPT4
それでもDCに戻って、バッドニュース・ベアーズの友人たちと再会したとき、私たちは修復できない断絶に気づいた。 凡人がルディのチームとの接点になってしまい、何もうまく流れていないようにみえたのだ。11月26日、感謝祭の日に、我々はすべてのDCのレストランで一緒に座って、彼らの問題を議論していた。凡人は自分たちをピョンと思っていたようで、「ここに行け、あそこに行け」と説明もなく、「ヘイ、チームメイト、これが問題なんだよ、一緒に取り組んでいくんだよ!」という感覚もないまま、彼らに指示を出していたのだ。情報、計画、アクセスを超管理している。夕食の七面鳥を食べながら、彼らは私にかなり耳を傾けてくれた。彼らの話を信じるのに苦労した。その中には、本当に恐ろしい話もあった。凡人が異性の人や、もしかしたら同性の人を、その場にいる全員に恥ずかしい思いをさせるような方法で口説いていたのだそうだ(私の同僚の一人はある晩、凡人に会いに行こうと誘われ、ホテルのドアが開いたとき、凡人が下着姿で立っていたのだとか)。しかし、今は煮詰まっているという。「翌日には全員がミシガン州のアントリムにいるように」という命令がその日のうちに出ていたからだという。ここでも彼女は、彼らが正確にどこに行くのか、どのような機械に立ち向かうのか、誰の許可を得て機械を開けてハードディスクを画像化するのか、どのくらいの期間そこにいるのか、自分たちでレンタカーを手配するのか、などについての質問には何も答えなかった。そのどれもが説明されていなかった。凡人は、ミシガン州のあんなところやこんなところにいるとの情報を送ってきただけだったのだ。
人生はおかしなものだと思っていた私たちは顔を上げると、確かに私たちのテーブルからほど近いレストランを闊歩していた。私たちはお互いの目にとまり、すぐに凡人は私たちのテーブルの上に立って話していた。それは困った水に油を注ぐための良い機会だったと考えて、私は優雅に私の同僚の前で礼儀正しく会話をして、物事を元に戻すことを意図して、凡人を受け取った。
すぐに、話はミシガン州に変わり、私は午前中の約束の時間にそこに適切な人々を得ることができるかどうかを尋ねられた。私は、これを経営者としての成長の瞬間にしようと思い、「こういう依頼を受けたときには、もっと情報を得たほうがいいんじゃないか」と優しく提案した。同僚は「どこに行くのか?そこにいる人々は協力的なのか? どのような種類のマシンが利用されるのか?どのような法的権限があって、これらの投票マシンのハードドライブの一つを画像化できるのか?人々は宿泊するのか?レンタカーは提供されるのか?ジョージア州で起きたような任務に放り込まれる前の基本的なことだ」
「注目」と凡人は言った。感謝祭の晩餐会で私たちの上に立っていた。 「まず、あなたの会社の構造は何ですか?」
我々はお互いに見つめ合っていたが、そのことについてはあまり考えていなかった。我々は、お互いを見つけて、一緒に世界史的な犯罪のように見えたものを暴くためにしようとしていた人々の束だった。最後に私は言った「我々はバッドニュース・ベアーズだ。私がチームのコーチだ」と。
「オッケー パトリック」と凡人は続けた。「こういうことだ。『明日ミシガンに行く場所を伝えたぞ』でないと無理だと言ってくれれば、できる人を探すよ」
驚いて私は返事をしようとした。そしてさらに驚いたことに、お人好しが私の上で話し始めた「お前のチームに必要な場所を言っているんだ。もしあなたがそれを処理できないなら...」
経済学者の教授の友人が別の教授(左翼の人)にやっていたのを見たことがあるのだが、その人は(左翼の人が良い議論をする代わりにやりたがるように)彼の話を遮り続けていた。 私はただ話し始めた。「まあ、それは私が話し終わったように聞こえるかもしれないが、私は実際にはそうではなかったし、あなたが私の上で話そうとしていると思うかもしれないが、実際にはそうではなかったし、あなたがそうでないと思うかもしれないが、約束するよ、私はあなたよりも長くこれを続けることができる...」などと、一晩中かかっても気にしない勢いで。休憩なしに。約15秒かかって、凡人は私が真剣だと理解したが、私は凡人を黙らせるまでただ何度も何度もそういう風にして話し続けるつもりだった。やがて凡人がしたのは、何かをやや驚いた風に見る、どうやら連邦政府の雇用の数十年間をそのような振る舞いをして逃れてきたようだ。
その時、私は丁重にこう言った。「我々はあなたのために働いているのではありません。我々はボランティアで、あなたがどうすればいいかわからないことを手伝うためにここにいます。 好きな時に他の人を探せばいい。この街での働き方には驚かされますね。グーグルやフェイスブックのような現代的な会社で働こうとしたらニューヨークじゃすぐにクビになる」「最低だな」
普段は人にそんな風に話さないので、自分でもびっくりしたが、あの時はそうだった。私は凡人との会話はナルシストの偏向の絶え間ないゲームであること、 凡人がいかに素人か、「失敗は許されない!」「これをやるか、やってくれる人を見つけるか!」と言いながら歩いている人は、政府内で経営を学んだかもしれないが、もし民間企業に移ったら正午にはクビになってしまうような凡人であることを伝えた。合理的に有能な人は、私の同僚にそのような要求をするときに、関連する情報を提供するだろう。任務でそれらを記入し、彼らにブレインストーミングと貢献ください.... 凡人の目が水を見て、やり過ぎていたことを認識し、私は優しく、柔らかくテーブルから凡人をエスコートするために立ち上がった。私は少しのことを和らげ、物事の上に素敵なファサードを入れて、恥ずかしさの中にある凡庸さを残さないようにしようと努めた。
私たちが別れるときには、凡人は私の方を向いて言った、「心配しないでください。私は大統領と一緒にいます。私はあなたがこのすべてのために完全に信用を得ることを確認します。」
憤慨して、私は自分の席と友人に戻った。数分後、我々は、実際には、凡人が大きなパーティーの一部になっていたことを見て、そのパーティーと一緒に出て行ったのは、ジュリアーニ市長以外の誰でもなかった。私はすぐに横で彼に鞍替えした。午後10時半頃だったので、彼の足取りは不安定なようで、私は彼の肘のところに行き、不安定なおじいちゃんを車までエスコートするようにしていた。我々は話そうとしたが、彼が言っていることは何であれ、私には不明瞭だった。最後に私は彼に言った。「私が直接連絡を取る方法をお願いしてもよろしいでしょうか?」市長は携帯電話を取り出し、私に彼の番号を教えてく��た。
それからの数週間、私はその番号に電話をしたり、メールをした。ルディからの返事は一度もなかった。
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この数週間の間に、私が知り合った優秀なホワイトハウスのスタッフが何人もいた。一般的には20代後半のスマートな若い男女である。中には(全員ではないが)大のトランプファンもいた。彼らはあちこちで詳細を教えてくれたし、選挙運動やルディ、ホワイトハウスの裏で何が起きているのかも教えてくれた。ある晩、私たちが十分に親しくなったところで、私は髪を下ろしてこう言った。「.... これが日常なのか?」 スタッフの一人(そして、心の中では、非常に親トランプ派の一人)は、「これがそうだ。これこそがトランプ・ホワイトハウスだ。4年間すべてのことがこうやって動いてきたんだ。」
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バッドニュース・ベアーズはミシガン州で必要な時に必要な場所を手に入れた。凡人は他の弁護士やルディのチームのスタッフと一緒にそこにいた。彼らは期待されていた管区に行ったが、ジョージア州と同様に、それはバッドだった。予想されていたような集計機ではなかった。そこには当局も法執行機関も令状もなかった。投票所として機能している公共の建物で働いている75歳の穏やかな協力的な女性がいた。
凡人が異性である郡の労働者とおしゃべりしている間、ドルフィンスピーカーは仕事に行った。その場所を経営していた75歳の女性によって判明した話によれば、選挙の翌日に「郡」から何人かの人が現れて、彼女にカードを挿入し、いくつかの異なる入力を使用してマシンを再実行するように指示したという。指示は意味をなさなかった。そして、指示した者たちはおそらく彼女自身のテキストを送信できなかった。老婦人が選択したことは明らかだった。最後に彼女は、郡に知られずに、オリジナルの実行と再実行の両方の紙の監査証跡を保管していて、それらをクローゼットに保管していたことに言及した。我々オタクたちは興奮して、それを提出してもらった。長いカーペットの上に広げて、数分間勉強しているうちに、彼らは何かを見つけ始めた。驚くべきものを。
バッドニュース・ベアーズはついに、代理の人たちとコーヒーを飲んでいたコーヒークラッチから脱却し、ロール紙の中から何を見つけていたかを指摘した。最後に彼らは「あなたは弁護士ですよね?75歳の女性と他の従業員のカップルから宣誓供述書をもらった方がいいんじゃないですか?」「ああ、もちろんです」と凡人は混乱して、そうした。
それらの学習とそれらの宣誓供述書は、ミシガン州で彼自身の選挙詐欺事件を追求していたミシガン州の弁護士に供給された。数日後、判事はそれを読んで心配になったのか、アントリム郡の投票機を正式に悪用するよう裁判所に命令を下した。バッドニュース・ベアーズはアントラム郡に戻り、今度は裁判所の命令を手にしてハードディスクの画像を撮影し、その画像を持ってベースキャンプに戻った。次の4日間で、彼らは1ヶ月分の仕事を(24時間体制でシフトをずらしながら)行い、まずイメージ化されたハードドライブのセキュリティを破り、次にファイルを再構築し、分析した。それはすべてのシステムを介してフィードアップされ、約1週間後に、アントリム郡コンピュータフォレンジックレポートとして知られ、全国的な波紋を巻き起こした目を見張るような報告書として浮上した。
全国的には他にも驚くべきことが起きていた。前述した懸念している連邦職員の何人かは、西部の州での出来事を追跡していて、投票の裏返しがそこでどのように行われていたかを知っていると確信していた。問題なのは、関連する裁判官(民主党)が検査を許可するように求められると、数日間の引き延ばしを主張し、それによって、反対派が中に入って「スマッシュダウン」(コンピュータ科学者の用語で、監査を見越して、事後的に証拠を修正し、すべてが正しく動いているかどうかを確認すること)を行う時間を与えることだった。しかし、彼らはある場所でミスをしてしまい、スマッシュダウンはうまくいかなかった。判明したデータは、不正を示唆するもので、弁護士は、それが州全体のマシンを調査することを可能にする、はるかに広範な命令の根拠になると主張して、裁判官に戻ってきた。 判事は原則として同意したものの、その矛盾点を利用してこのような大規模な命令を正当化する前に、管区のデータを再度検証する必要があると提案した。 心配していた連邦政府の従業員は問題の場所を監視下に置いたが、確かにその夜、署の駐車場には3台の車が停まっていた。今度こそうまくいくように彼らは叩きのめし方をやり直していたのだ。ナンバープレートから左翼の組合のものと判明した。この手の事件の背景には何度も出てくる。朝になるとデータは修正されていて、それ以上の命令は出ていなかった。しかし、彼らは知らないようだったが、問題の科学者たちは、元のデータと粉砕された車の両方を記録するのに十分な資料を回収していた。
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一方、DCに戻ると、ルディの世界から奇妙なことが聞こえてきた。週に10万ドルの給料をもらっていると聞いていたのだが、彼の周囲では、給料のために郵送しているだけだと主張している人もいた。
さらに重要なのは、ルディの作戦から「2億700万ドル」という数字を聞き始めたことだ。共和党が「盗みを止める」ために2億700万ドルを集めたと主張していた。あるバージョンでは、それは3億ドルを超えて成長した。スタッフの噂のあるバージョンでは、これらの数百万ドルのボタンを押しているのは、共和党全国委員会の高官の女性だった。別のバージョンでは、そのRNCの女性と委員会によってすべてが共同で管理されていて、彼らは将来を見守っていると。1億ドルがジャレッドとイヴァンカの将来の弁護のために用意されていたというのがほとんどの説だ。しかし、誰が担当していたにせよ、彼らはすべてのお金の上に座っていた。約束できるのは、そのうちの1ペニーも「盗みを止める」ために使われていないということだろう。国中の共和党支持者が、10ドルと20ドルの寄付金で、数億ドルを飲み込んだとしても.... 皆、騙し取られたのだ。それは大きなジョークになった:11月3日に起こった地獄が何であれ、何が起こったにせよ、リバースエンジニアリングとスクランブル解除を助けるために、共和党員から共和党員に与えられた数億ドルのポットがあり、それに関連した活動には一銭も行かなかったのだ。それはすべて、彼らの唇を舐めているトップの人々によって保持されていた。
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ジョージア州では、争いがシュールになった。知事の娘と付き合っていた青年が巻き込まれ、その後、彼の車が事故で爆発したのだ。(「BIZARRE EXPLOSION CRASH IN GEORGIA - KILLS HARRISON DEAL」2020年12月5日参照)。その事故は本当に高速道路上でおきたことで、車側面を打って爆発した。エンジンは75ヤード先に飛んだ。事故のビデオ(そのほとんどはインターネットから削除されたようだ)は、火の玉の中で燃える車を映す:それはかなり厄介な車の衝突だった。
そのあとで事故はジョージア州捜査局が引き継いだ。3日後、捜査を行っていた警官のひとりが自殺した。
ジョージア州のある派閥が、選挙の数日後から私に接触してきた。これは、法執行機関や準法執行機関の経歴を持つ人々の興味深いネットワークだった。11月4日以来、彼らは盗みを逆手に取っていた。人や場所を監視下に置き、テレフォトで様々な活動を撮影していた。多数の関係者をマッピングし、追跡していた。さらに、一緒にモーテルに滞在し、州内の悪ふざけを管理しているレーニン主義者の幹部という小さな要素まで、主催者を追跡していた。 彼ら自身の理由で、私を助けるこのネットワークは、影に隠れている必要があったが、数週間が経つにつれて、彼らはジョージアで何が起こったかを再構築するのに役立つ良い情報を提供していた。
ジョバン・プリッツァー(今ではユビキタスQRコードの発明者)という名前の技術者が、ジョージア州の選挙への彼の調査について公開した。彼の仕事を説明するジョバンの最高のショートビデオはこちら。
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数週間の間にルディはいくつかの州で公聴会を予定していた。いくつかは準公式なものだったが、ほとんどはホテルのスペースを借りて行わた。彼の主役は8月から一緒に仕事をしていた軍事情報部の大佐で、基本的には「バッドニュース・ベアーズ」が表面化した情報を報告し、総合するために各州に連れてこられた。 大佐は有能で説得力のある仕事をしてくれたが、我々は皆、次のように考え始めた。戦略はあるのだろうか?ルディの戦略は(あるとすれば)裁判所を通過する長い行進のようだ。州や上訴レベルにケースを持って行く。法廷制度を利用して勝てると想像していたが、それはうまくいかなかった。裁判所はどこにでもあり、特に選挙問題に関与することを嫌がり、すでに1月20日を過ぎてから裁判所の日付を設定していたように。それでもルディは、時折の公聴会や毎日のポッドキャストを見ながら、ただひたすらにうろうろしていた。それは何の意味もないように見えた。
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実を結び始めた活動の一つが、選挙への外国人関与の調査だ。これはそれ自体の主題となるだろう。
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マイク、シドニー、私、そして他の人たちは、缶入りの解決策を開発した。それは、私たちが11月中旬に始めたのと同じ案で、次のようなものだ。以前、オバマ大統領とトランプ大統領によって署名された様々な命令の下では、選挙に外国人の関与があった場合、大統領はかなり広範囲の権限を持っていた。数え切れないほどの前線で外国の関与があることには紛れもない証拠があったが、私たちは大統領の権限の狭いセットだけが発動されることを求めていた。判明した情報に基づいて、大統領は必要な行政命令の下で権限を行使して、単に米国のマーシャルと州兵を問題のある5つの郡に送り込み、紙の投票用紙のバックアップを開く。もし大きな食い違いがなければ、トランプ氏は譲歩するだろう。もし食い違いがあった場合、例えば50万票の矛盾票があったとしても、その場合は、その郡や州で選挙の再集計をするなど、より積極的な行動を取ることができる。5つの郡の再集計は1週間以内に簡単に行うことが可能で、さらなる行動を正当化するものであれば、すべての決議を憲法上のタイムラインで行うことができた。
もしくは、47%の有権者が疑っていた選挙の完全性を疑われている選挙を、締め出さなければならないかのどちらかだった。
フリン将軍は、そのような任務のために、美しい作戦計画を立案した。大統領の署名があれば、全てが動き出す。軍隊と州兵の部隊から適切なチームを作り、それぞれに正確な指示を出した。 最も広範囲な計画では、第一波の再集計が全国の17郡で行われ、民主党と共和党で行われ、誰も結果が選ばれたとは言えない。計画の最も拡張的なバージョンでは、紙の投票用紙の再集計に加えて、さらなる法医学的分析のために、これらの投票機のハードドライブの画像化を想定していた(しかし、機械を「押収」しない。機械はそのままにしておき、ハードドライブを画像化してもらうだけであった)。しかし、ピンチの時には、たった5つの郡を訪問して、紙の投票用紙の箱を再集計し、2-3日で予備的な回答を得ることができ、このようにして全国的なドラマの大部分を終わらせることができた。マイクとシドニーには、法的調査、発見草案、将軍の処刑チェックリストがあり、大統領の署名があれば、すべてがスイス時計のように動くようになると。
しかし、物事はどんどん進行していった。ルディは公聴会の準備に出かけた。ホテルの一室で我々の仲間の一人に話してもらう必要があった.... 令状が来ないのを待つ日々.... 計画を持った人がいて、それを実行しているという感覚が全くなかった。憲法の期限が迫っているのを見た。
日は数週間になった。12月に入り、12月も半ばになった。様々な州で問題が渦巻いていたし、サイバーチームがパケット・トラフィックを検査して外国の影響を見つけ、海外から侵入されたスマート・サーモスタットを見つけ、投票用紙がなぜ海外でライブ配信されているのかを調べたりしていた。しかし、マイクと私は、こちら側が尻尾を追っていると感じていた。もう一方の側は時間がないと感じていた。ルディのアプローチは確かにそう捉えられるだろう。
ある時、私は大統領がどのよう��関与し続けているのかを知った。定期的に、ルディ・ジュリアーニと凡人がホワイトハウスに行って大統領にブリーフィングをしていたのだ。本当に、冗談じゃない話。私の同僚曰くその人ともう一瞬も仕事をするくらいなら辞めると宣言したほどひどい人物と、メールを送るのに苦労してドタバタした日々を過ごしていた76歳のおじいちゃんが、大統領に何が起きているのか、どんな選択肢があるのかを説明していたのだ。最初は何かの悪ふざけかと思ったが、確認してみた。凡人と市長は、この世界史的な任務を阻止するという究極のポイント・パーソンだった。
フリンと私は気分が悪くなった。私たちの間では、「なぜこんなことをするのか?」ということがよく話題になっていた。大統領の子供たちは、引退したり、激励会に参加したりしていなかった。 私たちは、大統領のチームから目に見える戦略を見出すことはできなかった。行進命令もなく、ただ組織がうろうろしているだけで、そうしているうちに溶けていくのだ。あまりにも悪質な凡人のため、我々は凡人が我々の仲間と直接接触しないように特別な手配をしなければならなかった。そうでなければ彼らは逃げてしまうだろう。全ての混乱は76歳の紳士に導かれていた。彼は国に愛されていたが、6週間後には歴史上最も洗練されたサイバー窃盗事件に 死者?投票したんだよ!聞いたか?
そして、なぜそれをしていたのかを思い出すだろう。アメリカのブランドは「選挙」だ。アメリカのブランドは「選挙」だ。極めて正確で戦略的な方法で妥協されたと思われる国政選挙があった。外国の関与の手の内を示し、我が国を乗っ取ろうとする中国の陰謀の一部であるかもしれない。それが、私たちが辞めるべきではなかった理由だ。
だからこそ、クリスマスの数日前に マイク、シドニー、そして私は チャンスを掴む時が来たと決心した。招待状なしで、手探りでも手探りでも、ジェダイ・マインド・トリックでホワイトハウスに入り、執務室に入り、大統領と話をすることにした。
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二〇〇八年の断片集
これは二〇〇八年の断片を集めたもの。二十三歳から二十四歳の記録。二〇〇九年の断片集もある。
七月
何も読まない人は幸いだ。
眼鏡をかけないとほとんどの女性は美人に見える。
金持ちも貧乏人も、感じられる幸せの容量は同じだ。
長く話す人は思慮が無く、短く話す人は愚鈍である。
法律が増えれば増えるほど犯罪は増える。
男は学問をしないと莫迦になる。女は学問をすると莫迦になる。
真面目に生きようとすればするほど不真面目に生きざるをえなくなる。不真面目に生きようとすれば人は自然と真面目になる。
八月
同期の女の子たちが下宿に来たとき、大きな蜘蛛を見つけ、「早くやっつけなきゃ」と言った。でも私は殺さなかった。全ての命は尊い。だからこそ、それを奪うには快楽を求める心が必要だ。恨みや嫌悪感や投げやりな心で命を奪ってはならない。それが命への礼である。
駅前に昼飯を食べに行って戻る途中で中学生くらいの見知らぬ少女に「こんにちは」と挨拶をされて、私は「おっーす」と返事をした。よく日焼けしてぽっちゃりとした女の子だった。記憶にない。
女性の先輩職員。良く言えば女性的、悪く言えば女性的。
大いなる誤算。知的障害児に興味はあったし、今でも興味はある。しかしそれは文学的な興味であって療育への興味ではない。
もし私が心から愛する女性がいるとすれば千人の男に抱かれた十四歳。
人生は無為だ。日本全土を巡る放浪の旅をするか、インドネシアに移住するか。
日々の生活に倦怠を感じたら何かを創作して形に残す。物語でも、絵画でも、音楽でも。それが子供である必要はない。
もっと野菜を食べよう
電車内での痴漢がなぜ罰せられるのかというと、痴漢は数百円から数千円で買うべき「服の上からの臀部の愛撫」や「下半身への性器の擦りつけ」などといった行為を無銭で楽しもうとしたからだ。すなわち痴漢は窃盗と同じ種の犯罪である。同じ理由で強姦も強盗と同じ種の犯罪であろう。
もし誰かが他の人に「あなたの好きなタイプは何?」と質問した場合、質問者は、回答者が異性のあるタイプ(イデア)を追求するために異性とつき合うもののだと予め規定してしまっている。実際には様々な異性の違いを楽しむために異性とつき合う人がいるというのに。そういう人間にとって「好きなタイプ」を定めてしまうことは無意味で味気のない行為だ。例えば私が「好きなタイプは?」と聞かれて「双子」と答えるのも双子の微妙な違いが好きだからに他ならない。
聞いた話によれば博多は結婚適齢期の独身女性が同年代の男性より多く、若い女性にとっての激戦区だという。或いは独身志向が強いのか。
男は、彼自身に興味のある女を賢いと思い、彼自身ではなく他の男に興味のある女を愚かだと見なす。だから全ての女を愚かだと断定する男は、どの女にも好かれていない、と思い込んでいるのだ。
私は他人の肉体を物質としか見なせない。例えば美女の肉体は何か貴重な物質であり、臭い男の肉体は何か臭い物質である。舌、唇、鼻、耳朶、乳首、陰唇、いずれの他人の肉片も博物館に保管されてしまう。
もし婚約者が元娼婦であっても結婚を完遂できる原動力が真実の愛だとしたら、私は純潔の処女ですら愛さない。
私は思う。仕事が嫌であればあるほど休暇の浮遊感は大きくなる。これは余暇を楽しむ為だけに労働している私にとって、都合の良いことではないか。まとまった休みが定期的にとれて、しかもその余暇が楽しいとしたらこれほど私に合っている仕事は無いんじゃなかろうか、と。
久しぶりに共感できる主人公トマーシュを見出すことができた。彼のように軽く生きたい、その軽さに耐えられないくらいまでに。
どんな社会体制であろうと、それが大勢の人間が集う社会という形式をとる限り、それに馴染めない人間が必ず存在する。そんな人間がとりうる手段は二つ。浮遊するか、絶望するか。あらゆる革命と変革は彼らとは無関係に為されている。
多くの若手経営者は織田信長を崇拝するが、そのうちほとんどの経営者は信長的人物を社員として採用しない。
職場の上司であるA係長は「結婚相手は妥協で選ぶな」と言うが、彼は自分が妥協で選ばれたかもしれない可能性を全く考慮していない凄い奴だ。
文学は少年期の私をどうしようもなく破滅せしめ、青年期においてどん底より救いたもうた。
女性と一緒の職場で、かなり動く仕事なので、よく乳房を触る。私は謝らない、気付かないふりをする。女性が「すいません」と謝ると惚けた顔をして軽く会釈を返す。
娼婦を尊敬できない男はあらゆる女を尊敬できない。
理想の老後。自営業か自由業で京都近郊に住む。東京近郊に、離婚した最初の妻との間に作った娘が夫と住んでいる。一年に一回だけ、娘を訪れる。私は彼女の子供たちから「京都のおじちゃん」と呼ばれ不思議がられている。というのも彼らにとっては三人目の祖父だから。週に一度、五條楽園に赴く。月に一度、長旅に出る。読書は欠かさない。
子供が欲しい、と私が思うときに浮かぶ光景は、一ヶ月に一度、裁判所が許可した時間だけ、まだ幼い娘か息子とレストランで会食し、帰り際にすぐ飽きられることが分かっている玩具を贈る場面。娘であればベッドに並んで忘れ去られる熊のぬいぐるみ。「何であのおじちゃんは熊さんのぬいぐるみばっかりくれるの?」小学生に上がったら絵本にしようかな。
もし私に、成人して未だに童貞の息子がいれば、かつてボルヘスの父がしたように、売春宿へ息子を送ろう。そんな理想の家庭を思い浮かべる。
恥骨が痛い。
美女や美少女をよく見かける街は美人が多いのではない。女性が街を歩いても安全な街なのだ。
人間が知覚できる事象はこの世界の極僅かなことに過ぎない。感覚が鋭敏であればあるほど、その人の知覚世界はより色彩に溢れ音楽に満ちて起伏に富み揺らぎ歪み傾いでいる。現代人が霊的存在について余り語���ないのは、現代生活が感覚を鈍くさせているからだ。しかし火はいつまでも物質の揺らぎ、すなわちこの知覚世界の裏側に干渉し続けている。人よ、火を燃やせ、世界を超越せよ。
既に自分が正気と呼ばれるものを喪い、狂気の領域にあることを、数年前から薄々と気付いている。
職場での私は人生の裏を生き、休暇中での私は人生の表を生きる。
私は女性と議論をしない。いくら言葉を交換しても、お互いの思想と志向の違いを再認識するだけだからだ。そしてその段階に至った場合、私はその違いを知ることに興味が持てない。だから私は言う「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
今一番やりたいこと、中学生のときからの夢。どこからか女児を捕獲してきて、押し入れの中で飼育、調教し、優れた女性に育て上げること。
人間存在の悲劇を噛み締めた。
九月
福祉業は風俗業と同じで、水のような商売である。仕事の結果は形にならずに流れていき、客の記憶の中にだけ残るのだ。
新入社員の陥り易い思想的誤りは、自分に上司を殺害する権利があると思い込むこと。
法律で私の体を罰することができても、私の魂までは罰することができない。
今の仕事を続けるくらいなら、一九四五年四月初頭に大ベルリン防衛地域司令官に任命された方がましだ。
給料とは、働いたがために心を蝕むようになった苦しみと失った幾らかの正気の代償として労働者が得る金銭のこと、サラリー。
子宮のない女性は男性にとって「性の試験管」である。
中絶禁止も同性愛禁止も獣姦禁止も自慰禁止も旧約聖書創世記第三十八章第九節でのオナンの行為に対する第十節での主の怒りに由来する。しかし、人類はもう子種の浪費を許されるほどに殖えたのではないだろうか?
放浪の旅に出たい。
白地で絵は描かない。すべて黒地の上に描く。
若いときの苦労と快楽は買ってでもせよ。
もし私と結婚して離婚を言い出さない女がいたら、私は彼女の理性を疑う。
「今朝は強姦したかい?」が朝の挨拶代わりになるような都市。その都市でそう挨拶されたのなら私は快活に答えよう「ああ、今朝は女児を二人だけだ」
男根のない男性は女性にとって「お払い箱」だ。
中学生のころはサド侯爵の書く小説の倒錯的な場面を読んでよく興奮したものだが、今読み返してみて、その哲学的記述には感心するが、倒錯性は何も感じなくなってしまった。すなわち、勃たないのだ。
三日に一度は射精しないと健康に悪いそうだ。
女性に懸案事項の説明を請われて私が説明すると、大抵の女性は「私さんは私のせいにした」と非難する。単に私は事実を述べただけなのに女性に内在する被害妄想癖が私を卑怯者に仕立て上げるのだ。ゆえに私は説く「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
生理痛による発言ならしょうがない。
早稲田大学に通っていたころの記憶が、今は全くない。
私の働くK学園では誕生会と称してその月の誕生者を祝い、誕生カードを送る。先輩職員方はカードに百文字くらいの感動的な文章を綴る。けれど私は、文字は「おたんじょうびおめでとう」と名前くらいで、あとは動物の絵を大きく描く。先輩職員はそれを見て「文字が少なすぎる」と注意する。おかしい。園生は文字が読めないか読めても読み辛い人が殆どなのに、文字を多く書くのは保護者向けに書いているからだ。なんだかんだ偉そうなことを言ったって職員連中は知的障害者のことを考えていないのだ。
産まれるまで気づかなかった。生きることがこんなに大変だったなんて。
少しまともな知能を持っていれば理解できると思うが、この福祉社会は健常者と障害者にとっては生きやすいけれど、その中間に生きる半端者にとってはまことに生きにくい。
放浪に備えて知能指数七十前後の話し方を習得しなければならない。そうすれば同情や施しを得やすくなるだろう。
人の性格はその人の祖先の生業から遺伝を受けると考える。私の祖先は今昔物語にも載せられた鈴鹿峠の山賊であった。すなはち略奪・狩猟・採集・漂泊を生業とする山の民だ。福祉職なんて性分ではない、放浪者こそ最もふさわしい。
職場で大事なことは飲み会や余暇活動などで自分の味方を増やすことであり、それは私が最も苦手とすることだ。むしろ得意とするのは敵を増やすこと。
職場の人間がみな緑色の眼で私を見ている。奴等はまともな人間じゃない。
もしこの学園の職員のまま死んだら、悔やんでも悔やみきれない。
A係長に「やめちまえ!」と罵られたのだから今すぐ辞めても構わないだろう。むしろ辞めた方が有難く思われるはずだ。邪魔な奴がいなくなったと。
「すごい着想力ですね」と言うところを「すごい着床力ですね」と言ってしまった。
失踪を決意した次の日の職場の奴等はなんだか心優しい。
看護婦さんの注射が上手くて、少しも痛くなかった。
心を鬼とせよ。奴等は飢えた猛獣だ。おまえの臀肉を狙っている。
失踪して、日本中の山々を彷徨する。歩兵第三十一聯隊の福島泰蔵大尉が私の師匠だ。
人類は幼形成熟であり全て人類は成形(天使形態)に変態する寸前で死ぬ、という幻想。天使の蝶
地球を覆う現代文明という代物は、依存症ないしは文学的な意味での依存から成立している。
全ての人類が物質的依存から解放され流浪の旅に出た瞬間、現代文明は衰退し、文化とほとんど差の無い放浪文明が萌芽する。
私にとって「衰退」は悪い意味を持たない。なぜなら「進化」と「退化」は「変化」の類義語という認識しか持ちえないからだ。
だって進歩と退歩のどっちがいいかなんて誰にも分からないだろ?
K学園では、遅番勤務上がりの二十二時からミーティングが開かれる。クラスミーティングは三人の担任で開かれ、係長ミーティングは三担任に係長を加えて開かれる。留守録によれば、昨夜ミーティングがあったらしい。でも私はそのことを知らされておらず、その時には疲れ果てて自宅で寝ていた。これが昨今の事態の本質である。同じクラスの先輩職員は新人の私に満足な情報を与えず、それでいて私が「ちゃんとやっていない」と罵るのだ。先輩職員は「分からないことは聞かないとこちらも教えることができません」という態度だが、超能力者でもない私にはいつミーティングが開かれるかなんて知るよしもない。
どいつもこいつも腐りきっている。
九月十五日、新宿駅で下野国住人エーリク氏(「沈黙のソネット」)と出会い、神保町で昼飯を食べて東京駅で別れた。思考する脳と発話する舌の相違の甚だしさが一つの人格を形造る。
たったそのことを理解するだけでこんなにも親しみが湧くというのに。
必ず連絡しよう。
判断を中止してください。理解しようとして下さい。
ひとつの職場やサークルや組織に長くいるということは、陰口を叩かれる人から陰口を叩く人になるということだ。
管理職とは判断しなければならない職務だ。部下の人格さえも、誤解とともに。
仕事をすると人生が色褪せて見える。
曉の空は美しい。夜が怒りと悲しみに溢れていたからこそ
おまえは妊娠したての子宮に夫以外の陰茎を突き立てられて、なんとも思わないのか?
青年は旅の人。道連れは記憶だけ。
映画「Into The Wild」を観た。すなわち「Into The Mind」だった。
新宿を歩く人々は本来の美しさを失っている。
十月
現代文明世界はアリストテレス的人間観の上に立脚している。故に、私のようにポリス的動物であることを捨てて放浪し無宿、社会常識に則った思考は不可能であるために言語的思考のみを行うことで価値の変造をもくろむ「獣」はやがて排除される。
ただし、ディオゲネス的世界市民主義が台頭するのであれば話は変わってくる。
資本主義の豚どもよ、犬となれ!
犬どもよ、広場で自慰をせよ。
本当にエコを実現したいのであれば、冷蔵庫も車もクーラーもあらゆる文明機器を捨ててディオゲネスのように生きればよい。それ以外のエコは全て偽者のエコだ。
真実のエコは全人類の穏やかなる自殺である。
たぶん、文明機器を捨てた現代人は、亡命先で奴隷マネスに逃げられたディオゲネスのようになるだろう。
「おかしな話だよ、マネスのほうはディオゲネスなしにも生きていけるが、ディオゲネスのほうはマネスなしでは生きていけないだろうとすれば」
文明社会とは人間をひたすらに脆弱な動物にさせる機構だ。もう二度と野生には戻れないほどに。ここでは人間はひたすらにちっぽけになるだけだ。
青年よ、常に己の中の獣を調教しておけ。そしていざという時には牙を剥き、爪を立てて、おまえを侮辱した奴らに目にモノを見せてやれ。
かつて大学時代に海驢という女に言い寄られた季節のことだ。ふと私の中に「あの女に会いたい」という感情が起こった。その感情を確かめるために、私は自慰をした。すると面倒くさくなって余りその女に会いたくなくなった。私は重ねてもう一度自慰をした。すると全く会いたくなくなった。二、三日して袋に種が満ちると再び私の中に「会いたい」という感情が芽生えた。ゆえに私は結論付けた。恋愛とは性欲の文学的表現に過ぎないと。
私と彼女とは違う地平に立つ人間であった。前者は「人間の地平」に立ち、恋愛は蔑ろにしても人間は尊んだ。一方、後者は「恋愛の地平」に立ち、人間は蔑ろにしても恋愛は尊んだ。そのため後者は私にメールで別離を告げた上に自意識過剰な主張を何度も送りつけて来た。彼女流の恋愛観ではそれが至極正しく、真っ当なことのように思えたのだろう。それに対し前者はあくまでも人間としての防衛線を保つことしかできなかった。
彼女は自分の精神的あるいは肉体的欲求を充たすためだけに私を利用したにすぎなかった。そのために「恋愛」という文法を用いた。それに対し、私は人間であるという前提の上に立っていた。ゆえに二つの歯車が歯をあわせることはなかった。
『百年の孤独』のブエンディーア一族は愛なくして繁殖した。一族の最後の者は叔母と甥の近親相姦によって産まれたためにその呪いとして豚のしっぽを持って産まれ、蟻のむさぼるところとなった。しかし百年に及ぶ一族の歴史の中で「豚のしっぽ」は初めて愛によって産まれた子供であった。
『百年の孤独』は単行本を三冊買い、合わせて六回読んだ。私が長編小説をここまで繰り返して読んだのは他に例のないことだ。
琉球美人は琥珀色の肌、引き締まった細い肢体と小顔を特徴とするけれど、秋田美人は朱を散らした色白の肌、ふくよかな肉体と顎先を集約点として突き出た面長を特徴とする。
選びがたく、悩ましい。
一夫一妻婚という制度の発明は多くの人間を罪人とした。つまり、一夫一妻婚という制度を継続する限り、社会は姦淫罪を量産せざるをえないのである。
法律の数だけ、罪がある。
あらゆる家庭の災厄は、一夫一妻婚が生んだ。
一夫一妻婚が形作る「家庭」は、ある種の子供たちにとっての牢獄である。
私にとっても、「家庭」は牢獄だった。
ディオゲネスは人間をよく理解していた。ゆえに彼は結婚を否定した。そして、彼は女性の共有と当然の結論としての子どもの共有を主張した。
女が産んだ赤ん坊の父親が誰か、なんてことはどうでもいいじゃないか。
私は沖縄から奄美に至る航路で、仰向けに寝ながら「死の恐怖」を超越した。超越したとき、肩から背中にかけて熱いモノが走った。目からは涙が溢れ、こめかみを濡らした。
そのとき、私は一度、死んだのである。
「死の恐怖」は小学二年生の私を捕え、十五年に及び、私の心を鷲掴みにして離さなかった。それは常に無感覚への恐怖、偉大なる世界が消滅することへの恐怖であった。
死によって他人が私を忘却するとか、そういったことは恐れなかった。「死への恐怖」はきわめて個人的な問題であった。
死後に感覚があるのならば、人間はその新しい感覚で永遠を生きるだろう。もし、死後に感覚がないのならば、死は何ら思い悩むことではない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの思想の私なりの解釈である。
「死への恐怖」は克服した。しかし、私はまだ完全に「死」んだわけではない。
今までは常に捕われてきた人生だった。これからはこちらが捕える人生である。
蟹田駅で特急に乗り、青函トンネルを通って木古内駅で降りた。すると、もう電車がなかった。しょうがないので駅近くの公民館の前で野宿をした。二十三時に寝て五時に起きた。小雨が降っていて、寒かった。吐く息が白い。
北海道では寝袋の下にアルミシートを敷いて大地に体温を奪われるのを防がないと危険だ。今の寝袋は零下十度まで快眠、零下二十度まで生存できるそうだが、零下二十度でも快眠できるようにしたい。
『闇の左手』の、アイとエストラーベンの氷原越えを復習しよう。
北海道の面積はオーストリーより広く、北海道の人口五六〇万人はデンマークより多く、道内総生産額GDP約二十兆円はマレーシアやチェコよりも大きい。また、道内の陸上兵力は三万七千人でベルギー・ポルトガル・南アフリカ。キューバの陸軍と同規模である。そして道内だけの食料自給率は二百パーセントに届こうとしている。
北海道は数値上では充分に一国として独立できる。独立後の国名はもちろん「アイヌモシリ」、人間の大地。
私は、その大地を歩く。
さすがに放浪する資金に先が見えたので札幌市南区澄川にアパートを借りた。
まだ鍵をもらえない夜に、不動産会社の女性社員が自宅に泊めてくれた。北海道の人はやたらと親切だ。
ちなみに私は女性社員宅で、晩飯を食べてから朝までいびき一つかかずに熟睡していたようだ。
どうやら寝言の癖は治ったらしい。
PHSを買った。
もし宇宙の果てまで行けるという宇宙船があるのならば、地球上で想定しうるあらゆる幸福を諦めてでも、私は宇宙飛行士になる。
そして、私の死体は永遠に宇宙をさまようだろう。
ある人が言っていた「全ての女性は男でふさがっており、あぶれた男は彼女たちの体が空くのを待っている」という感覚を今日、はじめて味わった。
那覇の人と札幌の人は語尾に「さー」をつける。なぜ?
ちなみに私は一日の大半を欲情して過ごし、半日は半勃し、四分の一は勃起している。というのも私の神経はズタズタになっていて、脳が異常なまでに興奮物質を分泌するからだ。
物理的に、私は「狂人」である。ゆえに小学4年生の私を「気が違っている」と評したあの女性教諭は正しかったのだ。
まず買わなくてはいけないのは掃除機、それと便座カバー。
尊大な解釈だが、中学生の私は自分のことを「桁外れの出力で凍結してしまった電算機」に喩えていた。今ならさしずめ「お祓い箱」と喩える。
大した運動もしないのに疲れやすい人というのは、たいてい脳内で体力はおろか生命力さえも過剰消費しているものだ。
ハローワークで調べたところ、私の適職は技能職か芸術家だという。
北海道のスーパーでは玉ねぎとじゃがいもがそれぞれ一個十円で買える。食うのには困らなそうだ。
中古パソコンを買った。ネットを繋げば、さぁさ始まる楽しくも愉快なNEET生活。
野菜を凍らせないために冷蔵庫を買った。
近所の澄川若草公園のベンチに男子高生が腰掛け、女子高生が前から枝垂れかかり、野合していた。北海道はおおらかだ。
夕方になると近所でやたらと陸自将校を見る。昨日は将校さんがスピードくじを買っていた。
今、私の中で福満しげゆきが熱い。
『コレラの時代の愛』を手に取った途端に涙が溢れてきた。さすがガルシア・マルケスである。本を持つ者にも訴えかける。ましてや読む者へは。
宇宙の最果てを超え、宇宙化以前空間の有り様を地球に報告する使命を帯びた超光速航宙船「エスペラント」
推進機関は決まっている。原子力だ。
はてさて、膨張しているという宇宙の辺涯はどのようになっているのだろう?
乗組員は地球に未練のなくなった七人の若者、日本国から二十八歳、タンザニア人男性二十五歳、イスラエル人男性二十三歳、フランス人女性二十七歳、インドネシア人女性二十五歳、ペルー人女性二十二歳、国籍不明少女十九歳。それと修理用ロボット三台。
航宙船の大きさ、全長二四〇メートル、幅三〇メートル。乗組員は訓練により、航宙船を自力で組み立てることが可能である。
船内には恒星熱で駆動する五つの栽培室、三つの畜産室、三つの水槽室があり、その他にも食料加工機が装備されている。船内で半永久的な食料生産が可能である。
凍眠室では肉体を凍結することで老化を遅らせることが出来る。しかし完全に止めることはできない。
この銀河は今、宇宙のどのあたりを漂っているのだろう?
船内の娯楽は様々で、読書・運動・遊戯・音楽・絵画など地球上でできることはほぼ船内でできる。
これは娯楽というより使命に近いが、性交が七日おきに違う相手と行われる。ただし自分の遺伝子を継承した異性とは性交しない。
宇宙化以前空間についての報告書をまとめるのは私の何世代か後の子孫になるだろう。
図書室には地球人類の叡智の集約である五十万冊が書籍と電子文書とで保管されている。
本の記述言語も船内共通語も人工言語である。
乗組員は医療知識を身に付けており、簡単な外科手術なら執刀可能である。また薬剤、輸血用血液も完備されている。
酸素は栽培室や庭園内の植物で生成される。水は使用後に循環、濾過、消毒される。糞尿は堆肥となり栽培室に回される。
トイレ、洗濯、洗浄では水を一切使わない。
航宙船は地球に帰還することはない。可能であれば宇宙化以前世界で居住惑星を見つける。
もし、宇宙膨張説が誤りで、宇宙に果てなどなかったとしたら、彼らの人生の意味とは?
いずれにせよ彼らも他の死者と同じように忘れさられるだけだ。
甜菜の糖度は水に浮かべて量る。
もし私が四十年後、人生について語るとすれば、「人生は語りえないこと」と「人生を語るのは恥さらし以外の何物でもないこと」を語るだろう。
大朋めがね、最高。
よく映画などで「この街に知り合いは誰もいない」なんて主人公が出てくるけれど、今の私がそれだ。
「マシニスト」はけっこう凄い映画。
昼下がりの真駒内公園は心地好いが、日が翳ると寒い。
カレーはインド人にとっての味噌汁である。
私の安アパートの一階には若い女が二人の幼女と住んでいる。1Rに女三人、そして幼女のうちの一人は養護学校に通っている。見たところ知的障害ではない、身体的な障害だと思う。
私は酒を飲まないし、酒が嫌いだけれど、時々飲みたくなる酒がある。一つは黄酒、もう一つはサングリア。そして大抵すぐ飽きる。
ローマ帝国時代は葡萄酒を水割りしないで飲むことは下品なことだった。
葡萄酒一に対し蜜柑果汁を三か四の比率で混ぜ、小さく切ったバナナを入れて冷蔵庫で冷やして飲む。これが我流サングリア。底に残ったバナナが一番おいしい。
日本の宗教、寺院や神社が信仰を失った理由は落ち着いて座れる場を市民に提供しなかったからだ。私もそうだが、現代の若者で休日に仏前や神前の座敷へ行き、無料で何時間も座っていられる者は何人いるだろうか?
ポテトチップスを食べながら歩いていたら四羽の烏が数キロメートルも私の跡をつけてきて、途中で烏同士の縄張り争いが始まった。ブランコに乗った女児が、烏の襲撃から走って逃げる私を見て笑っていた。
まだ仕事が決まらない。やはり職業適性診断システムの通り、「工」のつく職業を目指した方がいいのだろうか?
そうだ。私は稼業に生き甲斐は求めないのだから、工場の歯車になることに悔いはない 。
そういえば、小学生のころの放課後は主に炬燵で横になってテレビを見ていた。学校生活で甚だしく疲労していたのだ。
人と向き合う仕事ではどうしても甚だしく疲労せざるをえない。
近所から��岩山が見えるけれど、どうやらそこで初雪が観測されたらしい。もう札幌は冬だ。
こんな自堕落な生活がいつまで続くのだろう?
「命の続く限りだ」
日能研札幌が私に試練を与えた。小学五年生のテキストを使って模擬授業をして、出来が良ければ私を雇うというのだ。
真冬日の存在にびびり、紅衛兵が被るような帽子と電気ストーブを買った。
夜間の水抜きは十二月から始めよう。
札幌市中央図書館へ行く。蔵書は充分ではないものの悪くはない。
岩明均は古代ギリシャ世界に主題を置いている。塩野七生は中世イタリアが主題だった。赤羊は十九世紀のヨーロッパに主眼を置いているという。私も時代と地域を特定した主題があるといいなぁと思っているけれど特に思い浮かばない。
まぁ私には「帝国」という物語世界があるし。
敢えて言うなら、二十世紀エスペラント運動に携わった奇特人を取り上げると面白そうだ。
母の私への愛情が、一般の母子愛のようなものではなく、所謂「共依存」の一方通行であるならば、これまでの二十四年弱を説明しやすくなる。
十一月
戦争がなくて女性を共有できて食べる物に困らず各成人に満足な住居が割り当てられ、言論と思想と信教の自由がそこそこあり、働けば働いた分だけ暮らすのに困らない給料を貰えて老後は年金が保証され、学費と医療費が無料の国。それが私の政治的目的だ。
つまり空想的社会主義。
それと人類人主義だか世界市民主義だかよく分けられない個人のあり方が私の基幹思想だ。
よって、ここに「空想的社会主義人類人党」を掲げる!
政権交代は選挙によるもの、そして政体の転換は民主的な投票によるものが好ましい。
思想を根拠とした暴力と殺害は厳しく禁止する。
キリスト教的異性独占行為である結婚制を廃止し、十八歳以上の労働者あるいは学生である男女が抽選で定められた相手と三日毎に共同交配所で生殖行為をする交配制を敷く。妊娠から出産までは人類人政府が完全に支援し、交配に因って誕生した父親不明の子どもたちは人類人政府が「人類の子どもたち」(filoj de homaro)として十八歳まで養育する。ただし母親は六歳まで自分の子どもを育てる権利を有する。もちろん義務ではないので育児放棄も可能だ。
同性愛者は「特殊交配所」を利用できる。
「人類の子どもたち」への教育は「人類人主義」(homaranismo)と「性欲の賛美」に基づいて行われる。
資本主義的異性寡占行為である恋愛の宣伝行為や過剰な恋愛賛美は個人的な趣味と芸術的表現以外ではこれを制限する。
いかなる場所であっても人類人は抽選で定められた相手以外の人類人との性交を禁止される。十三歳以上十八歳未満同士の性交、及び十三歳以上十八歳未満の「人類の子どもたち」と人類人との性交は性欲の解消と自己存在の確立のための行為としてこれを許可する。
すべての人類人は共同食堂を有する共同住宅が付与され、その見返りとして都市部では共同職場、近郊部では共同工場、農村部では共同農場にて労働する義務がある。
労働には対価として報酬と七十歳以降(もしくは退労勧告後)の年金が共通通貨ステーロ(stelo)で、そして交配する権利が与えられる。労働者及び退労者は医療費が無料である。
十八歳で全ての「人類の子どもたち」は人類人となる。人類人になった次の一月から、人類人は希望とそれまでの学校成績、そして試験を考慮した上で各種大学校に入学できる。そこで四年間、学問或いは職業訓練などに励む。学費は無償。もちろん、大学校に通わずそのまま労働者となる選択もある。
共同住宅での居住が困難な各種障害者は共同食堂を有する共同施設に入所でき、施設付属の工場や農場での労働を行うことによって労働者と同じく報酬と年金を得ることができる。もちろん交配する権利も与えられ、その対象は障害の程度により共同施設内の異性と施設外の異性とに分けられる。
刑務所では付属の工場や農場で労働している者に限り報酬と年金、そして刑務所内の異性と交配する権利が与えられる。
共同交配所は感染症の恐れがない限り、病院の患者も利用できる。
全ての「人類の子どもたち」はエスペラントを国際補助語として学ぶ。また全ての「人類の子どもたち」は各人の母語によって教育される権利を有し、母語による教師のいない学科は国際補助語エスペラントで教育される。第一外国語、第二外国語以下の外国語は個人の選択によって決定される。
共同住宅は一棟につき三十~五十戸(三十人から五十人)を収容し、共同住宅が十棟前後集まって一つの島を形成する。そして島が幾つか集まって区が形成され、区が幾つか集まって行政単位として、都市部の市、近郊部の町、農村部の村が形成される。区が設けられない場合もある。共同交配所は島単位で運営される。
人類人政府が統治する領域内で、島から島への移動は自由である。すなわち「空想的社会主義人類人共和国、日本群島」東京市世田谷区第三粕谷島第五棟第二十三号から「空想的社会主義人類人共和国、パリ盆地」パリ市第三区第十八島第一棟第十二号への移住は共同住宅の空きさえあれば誰でも可能である。必要なのは法律的処理と引越し作業だけだ。
移住先での行政サービスは母語で行われる。不可能な場合はエスペラントが用いられる。そのため人類人政府が統治する領域であれば善き人類人はどの共和国のどの島へ行っても行政サービスの内容を理解することができる。またどの人類人政府でも共通通貨ステーロ(stelo)が用いられているので、身元証明書と共通通貨を携帯していれば人類人はどの人類人政府へも簡単に旅行することができる。
死ぬと遺体は共同墓地に葬られる。遺産は全て人類人政府が没収し、家財道具は再利用される。
地球があますことなく全て空想的社会主義人類人共和国によって統治されたとき、(自己主張が激しく自意識過剰な反体制者どもは未だに音楽やテロで抵抗しているのだろうが)現生人類は己の種族の性欲の激しさに驚くことだろう。
複十字健診センターで肺のレントゲン写真を撮った。
私は中一から中三までツベルクリン反応は全て陰性で、そのためにひどく膿の出る注射を六回射った。
体育祭の度に注射されたところが膿んでぐちゅぐちゅになるので、体育祭の練習は嫌いだった。
それほど嫌な思いをしたのに、結核にかかっていたら笑える。
子規も啄木も同じ鳥のことを表す漢字だ。その鳥の口の中は赤い。
まるで結核患者の吐血のように。
札幌の地下鉄には網棚がない。
私は幼稚園に年中組から入った。そして最初の登園日に幼稚園のおもちゃを家に持って帰った。もちろん私に悪気はない。誰も「持って帰っちゃダメ」とは言わなくて、家でもそのおもちゃで遊びたかったから持って帰ったのだ。
私はそういう子どもだったし、今も多分にそういう人間だ。これを我が儘と呼ぶのは勝手だが、私は自身を「暗黙の了解のわからない人種」だと解釈している。
悪いのは「暗くて黙っているのになぜか了解している人種」だ。黙っていないで話せばいいのに。
シャルル・フーリエの『四運動の理論』を読み始めた。愉快だ。
十二月
買ってあったのに神聖なるアスパラガスを食べ忘れていたため、尿が臭い。
北海道の靴底は内地と違うらしい。
鶏の心臓と肝臓が半額だったので臓物カレーを作った。まずかったし、臓物である必要性がなかった。
半月弱だけ働いた九月分の給料が六万円だけ振り込まれていた。時給制の契約社員だから当然だが、奇特なことよ。
それでドミノピザを頼んだら、配達員が茶髪で小柄で猫を連想させる女の子、アキモトさんだった。お釣りを数える指先のたどたどしさがバイト経験の薄さを物語っている。思わず「ゆっくりでいいよ」「ご苦労様」などと優しい声をかけてしまった。
これが逆の立場であれば、私はアキモトさんの食べるであろうピッツァの上に己の白濁精子をバタァの如く振りかけたであろうに。
水商売とは「やったことが形に残らず水のように流れていく商売・仕事」の意である。
「福祉業は水商売なんです」と某知的障害児施設の幹部が言っていた。
かつて医師であった渡辺淳一が小説家になると決めたとき、母に「そんな水商売はやめなさい」と言われたという。
しかしよく考えれば、小説家の仕事は文章という形で残される。もし医師が医学研究を行わなければ、接客業である医師の方こそ水商売である。
水商売と非水商売のと境界は生産物の永続性や仕事の複数性について思考せざるをえず、曖昧である。ゆえに水商売の定義は難しく、渡辺淳一の例のように単なる負の意味を持つ言葉としてしか使われていない。
第三次産業はそもそも水商売である。
映画「レッドクリフ」を観た。「赤壁」に非ず。
九月までハリウッドのアクション映画だろうと私が思っていたのは事実だ。
蜀三将が強すぎて、かつ格好良すぎる。
官渡の戦いと赤壁の戦いは三国志の二大盛り場だけれど、まだ三国鼎立はなっていないんだよね。小学生のころは赤壁の戦い時の情勢がよくわかっていなかった。
中村師童(甘寧)が頑張っていた。
八卦陣には身震いがした。
規制が入って乳房は映せない。
前半は戦闘と外交の連続で、主線の通っていない名場面の羅列映画、すなわち駄作かな?と思ったけれど、お茶の場面で一本の線がすうっと引かれた。
赤壁の戦いは三国志版トロイ戦争だったのだ。
趙薇(尚香)の演技が浮いている。喜劇向きだな。
一番良かった場面は、次回の予告。次の主題は火と風だ。
この映画を観たあとの私なら一騎当千である。
滑舌が余りよくないので「公序良俗」と言おうとすると「公女凌辱」となってしまう。
ネットに繋がっていないパソコンはただのゲーム機だ。
電話窓口「私さまは、テレビの地上デジタル移行への対策はどのようになさっておいででしょうか?」 、私「テレビを買わないようにしています」
夜の狸小路は面白い。
まだ二十代も前半なのに、新しいことを始めるのにさえ「腰が重い」とは。
負けたいと願う心は知りたいと願う心である。
小麦は米より必須アミノ酸の量が格段に少ないので、パンだけで必要な栄養を摂るのは難しく、どうしても肉が必要になるのだ。
逆に言えば米は必須アミノ酸を多く含むので、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べただけで栄養は充分なのだ。
日本人女性が段々と痩せ形になったのは食事の洋風化のお蔭なのだ。
中古冷蔵庫のホース接続部から水が漏れるので調べたら、ゴムが弱くなっていた。仕方ないのでヨドバシカメラで四七二円の替えを買って付け直した。
じゃがいもを四つに切ってサランラップでくるみ、七五〇Wで三分チン。それにマヨネーズと青海苔をかけたものを小腹がすいたら食べている。二キログラムを一九八円とかで売るのが悪い。
札幌の良いところ。東急ハンズとハローワークとブックオフとヨドバシカメラとアニメイトととらのあなとメロンブックスと紀伊國屋書店とドンキホーテとダイソーがお互い歩いて行ける距離にあること。(毎日一巡している)なのに人通りが渋谷や秋葉原よりも少ないこと。
そういえば、私が高校二年生のときはアニメイトとメロンブックスは狸小路の雑居ビルの二階にあったような気がする。
時計台はいつ見てもしょぼい。でも旧北海道庁は素晴らしい。
奄美大島もそうだったけれど母娘や母子をよく見掛ける。
朝起きて、今朝は特にしばれるさーと思ったら、粉雪が降ってたさー。
藻岩山の山頂付近に雪が積もっていた。風が吹くと皮膚に刃を当てたように冷たい。
昼になると雪の粒が大きくなって降りしきる。この分だと積もりそう。藻岩山が見えなくなった。
昼過ぎにはまた粉雪に戻った。
ローマ教会は一二八二年に全シチリア島民を破門したことがある。
ガブリエル・ガルシア・マルケスの登場人物は名を替えてあちこちにいる。
ガブリエル・ガルシア・マルケスはノーベル賞受賞講演中に、スペイン語文法の単純化と文法規則の人間化、そして正字法の撤廃を訴えた。
今日、たい焼きを食い逃げした女の子に体当たりされたような感覚を味わった。
国際補助語エスペラントを図書館で借りた入門テキストで復習している。新たな発見もあり奥深い。 ベネズエラの正式名称は「ベネズエラ・ボリバル共和国」である。
将来日本で福祉戦争が起こる。福祉をする側(貧困層)と福祉をされる側(富裕層)の間の闘争だ。
大学二年生のころ、札幌市北区出身の友人が「そのゼミの先輩の彼女は風俗嬢なんだよ」と馬鹿にしたように言っていた。確か業種はヘルスだったと思う。
私はしかし生粋の文学青年であったので、その先輩は「本物の愛とは何かを知る男」だと感心したものだった。
世に云う恋愛には三種ある。一に肉体的征服感、二に精神的連携、三に依存。いずれも正しい。
女性や青年はこれら三種に序列をつけたがるが、本能より出る感情ではない。
もし恋人が風俗嬢の場合、肉体的征服感を主とする者は悶え苦しみ、精神的連携を主とする者は仕事を応援し、依存する者は依存し続けるだろう。
江戸時代、豪商や文人は吉原の高級娼婦を正妻に身請けしたし、仏蘭西にも『椿姫』という高級娼婦との恋愛を描いた小説がある。
何も人生は女性のために生きるのではなく、自分自身のために生きるのだから先進的な近代人たちはあまり妻の過去や職業にこだわらなかったのだ。
ましてや現代人をば。
札幌で諸兄が遊ぶとしたら薄野ではなく、南六条東三丁目の交差点を豊平橋の方へ行って右手にある二つの会館はどうだろう。
少なくともその豊平川沿いの会館群は十九時くらいから薄野の風俗店が閉まる〇時以降も午前三時まで営業している。脱法営業だからだ。今日までなら行くことはないけれど、明日の幕開けとともに始まった空白の三時間でなら行く価値はある。
カネマツ会館と五条東会館とあり、黄色地の看板で飾ってあるのですぐ分かる。共に二階建平屋風となっていて中には小さな飲み屋が軒を連ねている。
坂口安吾は高校生のときに読んで挫折したが、さもありなん。小僧っ子にはわからんさ。
手に職じゃないけれど前の住居からアクリルガッシュを持ってきたのでアクリル画を再開した。
私は全て絵画は部屋の装飾のために描かれると信じ、絵画による自己表現というものを信用していない。
掛軸はそもそも飾るものであるし、ルネッサンス期のアトリエでは壁画を製作していた。
絵画は装飾品であるからこそ芸術であり、美術なのだ。
私の部屋には本棚がなく、また買わない予定であるから、寂しい白壁が広く空いているのだ。
街のあちこちに水色の函がおかれ、滑り止めの砂が満載だ。冬支度である。
これは「常に凡ゆる断片」
私の現在の研修生という立場は気楽だ。職場へ行く義務はない、しかし職場へ行って研修するとただ呆っと座っていただけでも給料が出る。七時間いれば日給は一万を超すが残念なことに交通費は出ない。
結局、履歴書を出して面接したところ、全てに受かっていた。
大学五年間で一度も病院にかからなかったし、四、五年生のときは特に無病息災だった。それは生活が閉塞的であったからだ。しかし小学生どもと触れ合う職場ではいつ伝染されるか怖くて堪らない。
結核ではないことを証明しなければならない。
ミニシアター系の映画は気取った芸術学生や頭の悪い女子大生が「こんな映画を観る自分っておしゃれ!」と観るものと相場が決まっているが、私も観る。今日はシアターキノで「敵こそ、我が友」を観た。
私はフランス人気質でフランス映画がよく合うので、フランス映画を多く上映するシアターキノは選ぶ苦労がない。
政治はえげつない。民主制であろうが、独裁制であろうが国家が人間の集合体である限り、醜い。
クラウス・バルビーは残忍な性格だったろう。しかし悪だったのだろうか? 悪とはきっと温和な性格をしていると思う。
風呂に入らないまでも足だけでもお湯に浸らせるだけで眠り心地が全然違う。
北海道では小学生でも棒を「ぼっこ」、唐揚げを「ざんぎ」と言う。
電車を「汽車」と言うのは分かる。というのは汽車と呼んでいた時代と今とで利便はほぼ同じだし、電車は山手線や京王線こそが呼ばれるに相応しい。
職場を二十一時に出発し歩いて自宅まで帰ると一時間半でつく。もちろん手袋、帽子(フード)、マフラーは必要だが。
「かたわ少女」という障害者の女の子を攻略するゲームが海外で製作中らしい。
しかし知的障害児が登場しないのが残念だ。白痴少女は萌えるのに。
男は女が弱い立場にあるときだけ、女を守ろうとするし、大切にして真剣に愛そうとする。
それは彼女たちが「この人がいないとこの先自分を愛してくれる男が現れないかもしれない」と不安に思っていることを男が知っているからだ。
男は女が自分より弱い位置に立っていないと安心できない。
というのは男は、一度男を知った女は男なしではいられないこと、そして女は常に男を乗り換える機会を伺っていることを知っているからだ。
女にとって男は靴と同じである。足裏は一度靴になれると直接地面を踏む痛さには耐えられないし、履き古した靴は履き替えたいと思うだろう。あるいはまだ新しくても見栄のために違う靴を物色したりする。それにサイズが大き過ぎてもダメだし、小さ過ぎてもダメだ。
だから、賢明な男は、いわゆるまともで競争相手のいそうな女は遊び感覚でしかつきあわないのだ。
つまり、障害を持つ少女或いは女性というのは現代社会では稀に見る「愛され女」なのだ。
死は恐れるに足らず。人間は死なない。なぜなら死ねば人間ではなくなるから。
怒るな、褒めよ。大事なことはチンパンジーが教えてくれる。
日本の大衆文化が幼稚なのは、大衆文化を形成するための大衆、つまり充分に余暇のある人々が生徒と学生に限られていて、成熟した大人は仕事に追われて忙しく文化どころじゃないからだ。
すると数の論理で中学生、高校生、専門学校生や女子大生に受けの良い番組、音楽、小説、漫画があたかも日本中の注目を浴びているかのように見える。或いは情報媒体がそう見させている。
いわゆる恋愛主義が社会を支配する主流思想に思えるのはそういった中学生や高校生の未熟さや幼稚さが大衆文化の前線を陣どっているからだ。
少しでも文化に興味のある人であれば仕事に就いて余暇を奪われることを恐れるだろう。そして無職への風当たりの強さに怯むのと同時に大衆文化の幼稚化を憎まなければならない。
まともな大衆文化を形成するには充分な数の大人が充分な量の余暇を持つ必要がある。そうやって数の論理で生徒・学生文化を日本大衆文化の一分野へと押し戻していかなければならない。
恋愛主義を一派閥へと駆逐し、男女の関係を“人間の地平”に立脚するものにしなければならない。
とりあえず私はキノカフェでフランス映画を観て、市立図書館で坂口安吾と旧共産圏とラテンアメリカの文学を読もう。
皇帝、国王、大統領は偉大で、豪華な外見をしていなければならない。たとえ黒革金銀細工の財布の中身が空であっても。
職場を出ると粉雪。
十一月二十日の札幌市内における最高気温、零度以下。
つまり真冬日。
そして、朝起きると人生でかつて経験したことのないような積雪。
水抜きしないと水道管が凍る。
起床時の室温、三度。
湯たんぽを購入。
氷雪上を歩くため、靴にスパイクをつけた。
そんな晩に狸小路で演奏している音楽愛好家がいる。
零下三度の札幌で、私は豊平川沿いを自宅まで歩き、やっと帰宅する。
帰宅時の室温、一度。
私を雇った職場が入っているビルに北海道で一番有名な政治家が所属する個人政党の本部がある。
だから今日は政治の話をしよう。
狸小路で日本共産党のDVDをもらった。
それはまさに志位書記長のファン・ディスクだったが、つらつらと全編を鑑賞してしまった。
あやうく共産党のファンになりそうだった。しんぶん赤旗日曜版を定期購読して、日本共産党に入党しそうになった。
旧共産圏を生きた人の小説を読むと、共産主義もそれほど悪くはないと思えてくる。
悪いのは共産主義じゃなくて独裁的な指導者と我が儘で自己主張の激しい反体制者だけだ。
けれど、そもそも私は人間集団が嫌いなんだ。
だからどこかの政党に入ることはまずしない。
それに大学時代に身近に見てきた「共産党」は醜悪だったし、第一に私はデモとか行進とかの集団行動が嫌いなんだ。団結しようとするのは現実から逃げているからだ。
もっとやり方がスマートなら、話を聞いてくれるかもしれないのに。やり方が顕示的で、目的へと努力する前から諦念が感じられる。まるで知的障害児や駄々っ子のようだ。
つまり私は共産主義には興味があるが、共産党はあまり好ましく思っていない。
しかし一国を動かすためには何かしらの政治学を学ばねばならない。大学の政治学部に入学するか既存政党に入るか、独学で習得するか?
よし、独学しよう。そして政党は私が自ら創ればいい!
大学四年生の夏、就職活動を諦めたときから生きている感覚に乏しくなってきたんだ。だんだんと。
早口でまくしたてる人は苦手だ。いや、人ではなくて早口が苦手で、早口で喋られると泣きたくなる。特に女性に多い。
早口な人と吃っている人のどちらを選べと言われたら間違いなく吃っている人を選ぶ。
早口な女性は別に頭の回転が速いのではない。なぜなら思考によって、ではなく記憶と憶測だけで話すからだ。
つまり早口の女性は言葉を持たない。彼女たちは壊れかけたテープレコーダーに過ぎないのだ。
職を探す度に共産主義を羨望する。
自動的に職は与えられて然るべきだと思う。
働く時間というのは私にとって死の時間である。
なぜ己の死を自分で探さねばならない?
私は常に余暇か副業が生きている時間なのだ。
これは逃げ、なのか? 或いはそういう生き方なのか?
「辞めさせた、或いは辞めた職場は労働者の次の仕事を見つける義務がある」という法律を作って欲しい。
逃げられた職場も。
「よく働こう」とするのではなく「よく生きよう」とする者にとって資本主義は残酷だ。
ニートさんとかフリーターさんを問題視する人は、まず面接で若者を見捨てる人を問題視した方がいいよ。とブックオフとパン屋チェーンのアルバイト面接に落ちた私が言う。やっぱり大学時代のバイトと同じ業種しか雇ってくれないのか? なんだ、この職業カースト制は?
私だって美味しいパンを作って主婦層や職業婦人からモてはやされたいのに。
生きているのかなぁ、本当に? 自分。
佐賀県からこの一週間、このブログへのアクセスがなかった。
その程度の教養レベルか!佐賀県の教育委員長は職務怠慢により死刑!
或いは佐賀県にパソコンは無いのか?
中学生のころ、スナッフビデオは都市伝説だと聞いて、「ならば自分たちで作ればいいんじゃないか」と思った。
抑圧された子供は、一人暮らしをすればできるかもしれないことを妄想するものだが、私の場合、その全てが犯罪がらみだった。
さて、私はこの見知らぬ百五十万都市で市民記者に登録した。
仕事における電話の秘訣は、相手に電話したことを後悔させないことだ。
空想的社会主義者の食卓。【切り餅(磯辺か餡)三個と納豆】【玄米フレーク五十グラムに牛乳かけ】【蒸し馬鈴薯と野菜スープ】【インスタント麺と蒸し馬鈴薯】【御飯と魚介缶詰と味噌汁】【ピザトースト二枚と野菜スープ】【カレーライス】【食パン二枚と目玉焼き】
空想的社会主義者の食事への心得。粗食、同一性保持、昼食は朝食と夕食のつなぎ。
空想的社会主義者の主要飲料は【牛乳】で、【野菜ジュース】や【珈琲】や【茶】は嗜好品として飲む。牛乳を多く飲む日は必ず納豆などの大豆食品を食べるべきである。
空想的社会主義者の栄養補給剤は【エビオス錠】である。
これは決まりではないが、豚肉と鰭や鱗のない魚は食べない。肉製品と乳製品を一緒に食べない。血を食べるのはダメ。
イスラエル国歌「ハティクヴァ」は物哀しい。
ラーメン! フライングスパゲッティモンスター。
実家にいたころは飽食気味で、私はやや肥満だった。
母は愛情を食事でしか表現できない人だったからだ。
学園時代はよく食べた。しかしよく戦ったので痩せた。
今は粗食で痩せた。
今日、昨日、一昨日は図書館(徒歩五分)とスーパーマーケット(徒歩三分)に行く他はずっとパソコンの前で過ごした。
おかげでウンコが硬い。
二ちゃんねる系のサイトに今更ながらはまっている。
もう仕事とかどうでもいいや。面接とかで人間性試されるの嫌いだし。
ほら、お外は怖いし。寒いし。
いつの間にか雪降ってるし。
火星に土地でも買って移り住もうかな?
やれやれ
人間は今でこそ呼吸し、食べ、排泄し、寝て、思考している。
しかし数年後か数十年後には思考は消え去り、記憶もなくなるだろう。
私はもしかしたら今までの人生の四倍の時間を生きるかもしれない。しかし決して五倍は生きないだろう。
思考と記憶の消滅、それを人は「死」と呼ぶ。
症例はいくつもあるにも関わらず「死」の問題は医学によっては解決されていない。ただ宗教だけがこれを信仰により解決させようとしている。
人はこう思うだろう。なぜ必ず「死」ぬ人間に思考が与えられたのか?と。思考さえなければ「死」を思い悩むことはなかったのに、と。
私はこう考える。誰かがこう仕組んだのだ「人間よ、その『死』とやらについて思考せよ」と。
で、私は考えた。人間は「死」ぬ、ゆえに有限だ。しかし人間の集合体である人類は半永久的に存在する。この違いに意味が存在する。
人間が「死」ぬのはなぜか?それは人類全体に更新を与えるためだ。つまり個人の人生というのは人類という種族全体の繁栄のためにある。
恐竜は失敗した。しかしあの時代にはあの形態が最適だった。今の時代は人類の形態が最適である。しかしいつ人類の絶滅が訪れるかわからない。
個人やある人間集団の私欲のために人類が犠牲になるとしたら、死んでいった人類はもとよりその個人やその人間集団の人生も無駄になる。なぜなら彼らは人生を無駄なことに使ったからだ。或いはそれも人類の試行錯誤なのか?
ゆえに私は結論付けた。人間の人生を活かすには常に自身のためではなく人類のために生きよ、と。私の宗教的信条でもある。
私が二〇〇七年二月に生み出した「人類意志こそ神」という真理は今もゆるぎない。
その結論ゆえに私は人類人主義と世界市民主義を支持する。
世界連邦を唱えるバハイ教はある意味では正しい。世界中心都市論と世界政府論を除いては。
ゆえに私は「宗教団体に所属しているか?」に関しては無宗教だが、「信仰を持つか?」については有信仰だ。
人類全体へのゆるぎない信仰。
警察犯処罰令第一条第三号「一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者は、三十日未満の拘留に処せられる」。私、危なかったなぁ。
ちなみに昨日は十五時すぎでマイナス三度だった。気温がプラスになることはなかった。
フードか帽子を被らないと顔が凍る。
キブツの子供は母親と離れて暮らす生活を強いられるので就学前は夜尿や指しゃぶりなどの情緒的未発達が見られる。
しかし子供の家での十八年間に及ぶ集団生活を経て、青年期になると非神経症ともいうべき環境適応能力と高い社会奉仕意欲を示すという。
人口の十%にも満たないキブツの人がイスラエルを率い、パレスチナ人どもから国を守ってきたと言っても過言ではない。
キブツはどこかスパルタと似ている。
母親の愛にくるまれてすくすく育ち、教育を終えて社会に出る際に新しい環境に適応できず引きこもりになったり神経症を患ったりする日本とは正反対である。
また家族という、気の違った両親の作る牢獄に囚われることなく、子供は成長することが出来る。そのことの、なんという幸福。
キブツ制度が全く善くて素晴らしいと賞賛するわけではないが、日本人はキブツなどの社会主義制度を少しは見習うべきだよ。
なぜ働けるし、働く意志のある人間が働けないのだ?労働力の余剰をどうして解決しようとしないのか?
ギリシャ的な暴動を起こしたいさね。ヘルメット、鉄パイプ、ナイフ、クロスボウ、火炎瓶を装備してさ。戦うんだ。
見えない何かと。
そのために私は筋トレを欠かさない。
正しい太り方をしよう。正しく太った人は美しい。
正しく太った人は、間違って痩せた人より美しい。
皆さんも親になれば分かると思うが、愚かな親は「子供は家庭にさえいれば良く育つ」と信じ、施設に預けられた子供を見ると「可哀想に!」なぞと言う。
これは親の傲慢であり、怠慢だ。
ある種の家庭に産まれた子供にとって、家庭とは牢獄に過ぎない。
悪しき家庭は普通の施設にさえ劣る。
もちろん、部下に怒鳴りつける上司がいるような施設は失格である。やたら怒鳴りつける父親がいるような家庭が失敗であるように。
家庭は人生の不条理の始まりである。結婚がそうであるように。
不倫の存在は結婚制度の不完全さと失敗を裏付けている。
なぜ男性は一人のやがては醜く老いる女性と共に生きねばならず、女性は一人の頑固で我が儘な男性に肉体を支配されなければならないのだ?
ならば結婚制度をなくし、複数の男性と複数の女性が乱交する交配を制度化すればいい。
そして交配を道徳とする。
これで家庭は消滅し、家庭起源の不幸も消え去る。
女性と子供を家庭という牢獄から解放しなければならない。
これはおいしいぞ
不満があるなら耐えてはならない。叫ばなければ、心弱き者はいつまでも弱いままだ。
INTER LUPOJ KRIU LUPE!
祖父の最初の記憶は航空機である。私は祖父の住む福岡まで航空機で遊びに行った。
両親の結婚式のときに某Hグループのエレベーター専門子会社の社長に就任したと聞くから、その時は既に退職していたのだろう。
それから祖父は奈良の西大寺に引っ越した。奈良での記憶はあまりにも大きい。
遊園地へ車で行く途中で私が寝てしまい、目覚めたら祖父宅の前だった。
祖父は三重県の山奥の出身で、憲兵として猿田彦神社を守っていたら終戦になったという。
カメラ好きで本好きだった。本好きは私まで遺伝したが、カメラ好きは父までの遺伝で止まってしまった。
最近、腰を痛めて歩行困難になったので東京区内に引っ越した。
父から連絡があり、今から急遽、私はAIRDO二十便で羽田空港へ向かう。
明日を迎えるかどうかは、分からないという。
こんなに揺れた飛行はチュニス・カルタゴ空港からシャルル・ド・ゴール空港への飛行以来だ。
連絡から二時間半で私はすでに機上の人だったため、荷物が近所徒歩五分の図書館へ行く際と同じ量である。
東京は雨が降っていることもあるけれど蒸し暑い。
この三ヶ月で私は巨大大陸辺縁にある弧状群島の知床から那覇までを一往復分移動したことになる。
私は行動する直前にはその行動について考えない。そのために行動に躊躇はない。
そのせいで今まで様々な困難があったけれど、今回は良かったのかもしれない。
考えてみれば祖父は昨日で八十四歳である。私があと四日で二十四歳であるように。
まだまだ十分とは言えないが神々に文句はつけられない年齢だ。
容態は少し落ち着いたようだが、まだ危ないらしい。
十二月六日に、大阪の釜ヶ崎で暴動事件が起こっていたという。引き金をひいたのは暴力的で犯罪的な西成警察署による労働者への暴行事件だった。
「連れて行かれた西成署の三階の個室で、四人の刑事に代わる代わる顔を殴られ、紐で首を締められ、足蹴りされ、挙句の果てに両足持たれて逆さ釣りにされた。気が遠くなると、スプレーをかけられたと言う。生活保護を打ち切ると脅かされて、その店に近づかないという始末書まで書かされている。」(西成署警察官の暴行に抗議する!)
年末における雇用問題の原因は、報道をみるかぎりでは労働者の選択肢の狭さに原因がある。
いや、労働者はそもそも選択なんてしたくはないのだ。だって仕事のために生きているわけではなく、生きるために仕事をしているのだから。
経営者はもちろん「仕事にために生きる人」を求めるだろう。已むをえないことだ。しかし従業員もそれに右に倣え、では自分で自分の首を絞めているようなものだ。面従腹背が必要である。
そういう意味で、日本の労働者は正社員も派遣社員も労働意識が低い。
企業が、「お客様のためにある」時代は終わりを告げた。これからは「従業員のためにある」企業が求められている。
労働力の均衡という面から見れば、学業を終えた健康な成人には自動的に職が与えられてしかるべきなのに。
情況の囚人という心理実験によれば、派遣社員も正社員になれば正社員ばりの働きをするし、正社員も派遣社員になればそれだけの働きをする。あらゆる面接や選別は無意味であって、人事が行うべきはしかるべき職を与え、仕事の結果を見て評価を与えるのではなく、「こういう結果であってほしい」という仮定の評価を実際に与えてしまうことだ。
十二月二十二日には札幌に帰る。
トロヤ点への新たなる月の飛来、止まない月震、超未来人類と新興恐竜との共存などについて有機的に考えようとしているが、果たせない。
六百円で大根サラダ・鴨肉三切・味噌汁・鳥肉たっぷりの丼物・アイスが食べられる地下一階のカフェ・ダイニングバーを見つけた。
十二月二十日に開店したジュンク堂へ行った。池袋級書艦だった。エスペラント関連書籍は十冊以上、なんと『百年の孤独』のスペイン語版も置いてあった。
札幌はジュンク堂、とらのあな、アニメイト、ブックオフの並びが熱い。
JRタワーのヴィレヴァンが狭いなぁ、嫌やなぁと思っていたらロフトの中にもあった。でも、ヴィレヴァン下北沢店の足元にも及ばない。
アリストテレスは貨幣を万物の尺度とする資本主義的世界を想定した。その一方でディオゲネスは貨幣を変造した罪でシノペを追放され、世界市民となった。彼は貨幣(常識、慣習)を変造したのだ。
純連のみそラーメンは美味しかった。
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犬
照明を落とした会議室は水を打ったようで、ただ肉を打つ鈍い音が響いていた。ビデオカメラに濾され、若干迫力と現実味を欠いた殴打の音が。 とは言え、それは20人ほどの若者を釘付けへするには十分な効果を持つ。四角く配置された古い長机はおろか、彼らが埋まるフェイクレザーの椅子すら、軋みの一つも上げない。もちろん、研修旅行の2日目ということで、集中講義に疲れ果て居眠りをしているわけでもない。白いスクリーンの中の光景に、身じろぎはおろか息すらこらしているのだろう。 映像の中の人物は息も絶え絶え、薄暗い独房の天井からぶら下げられた鎖のおかげで、辛うじて直立の状態を保っている。一時間近く、二人の男から代わる代わる殴られていたのだから当然の話だ――講義用にと青年が手を加えたので、今流れているのは10分ほどの総集編という趣。おかげで先ほどまでは端正だった顔が、次の瞬間には血まみれになっている始末。画面の左端には、ご丁寧にも時間と殴打した回数を示すカウンターまで付いていた。 まるで安っぽいスナッフ・フィルムじゃないか――教授は部屋の隅を見遣った。パイプ椅子に腰掛ける編集者の青年が、視線へ気付くのは早い。あくびをこぼしそうだった表情が引き締まり、すぐさま微笑みに変わる。まるで自らの仕事を誇り、称賛をねだる様に――彼が自らに心酔している事は知っていた。少なくとも、そういう態度を取れるくらいの処世術を心得ている事は。 男達が濡れたコンクリートの床を歩き回るピチャピチャという水音が、場面転換の合図となる。とは言っても、それまで集中的に顔を攻撃していた男が引き下がり、拳を氷の入ったバケツに突っ込んだだけの変化なのだが。傍らで煙草を吸っていたもう一人が、グローブのような手に砂を擦り付ける。 厄災が近付いてきても、捕虜は頭上でひとまとめにされた手首を軽く揺するだけで、逃げようとはしなかった。ひたすら殴られた顔は赤黒く腫れ上がり、虫の蛹を思わせる。血と汗に汚された顔へ、漆黒の髪がべっとり張り付いていた。もう目も禄に見えていないのだろう。 いや、果たしてそうだろうか。何度繰り返し鑑賞しても、この場面は専門家たる教授へ疑問を呈した。 重たげで叩くような足音が正面で止まった瞬間、俯いていた顔がゆっくり持ち上がった。閉じた瞼の針のような隙間から、榛色の瞳が僅かに覗いている。そう、その瞳は、間違いなく目の前の男を映していた。自らを拷問する男の顔を。相手がまるで、取るに足らない存在であるかの如く毅然とした無表情で。 カウンターが121回目の殴打を数えたとき、教授は手にしていたリモコンを弄った。一時停止ボタンは融通が利かず、122回目のフックは無防備な鳩尾を捉え、くの字に折り曲がった体が後ろへ吹っ飛ばされる残像を画面に残す。 「さて、ここまでの映像で気付いたことは、ミズ・ブロディ?」 目を皿のようにして画面へ見入っていた女子生徒が、はっと顔を跳ね上げる。逆光であることを差し引いても、その瞳は溶けた飴玉のように光が滲み、焦点を失っていた。 「ええ、はい……その、爪先立った体勢は、心身への負荷を掛ける意味で効果的だったと思います」 「その通り。それにあの格好は、椅子へ腰掛けた人間を相手にするより殴りやすいからね。ミスター・ロバーツ、執行者については?」 「二人の男性が、一言も対象者に話しかけなかったのが気になりました」 途中から手元へ視線を落としたきり、決して顔を上げようとしなかった男子生徒が、ぼそぼそと答えた。 「笑い者にしたり、罵ったりばかりで……もっと積極的に自白を強要するべきなのでは」 「これまでにも、この……M……」 机上のレジュメをひっくり返したが、該当資料は見あたらない。パイプ椅子から身を乗り出した青年が、さして潜めてもいない声でそっと助け船を出した。 「そう、ヒカル・K・マツモト……私達がMと呼んでいる男性には、ありとあらゆる方法で自白を促した。これまでにも見てきたとおり、ガスバーナーで背中を炙り、脚に冷水を掛け続け――今の映像の中で、彼の足元がおぼづかなかったと言う指摘は誰もしなかったね? とにかく、全ての手段に効果が得られなかった訳だ」 スマートフォンのバイブレーションが、空調の利きが悪い室内の空気を震わせる。小声で云々しながら部屋を出ていく青年を片目で見送り、教授は一際声の調子を高めた。 「つまり今回の目的は、自白ではない。暴力そのものだ。この行為の中で、彼の精神は価値を持たない。肉体は、ただ男達のフラストレーションの捌け口にされるばかり」 フラストレーションの代わりに「マスターベーション」と口走りそうになって、危うく言葉を飲み込んだのは、女性の受講生も多いからだ。5年前なら考えられなかったことだ――黴の生えた理事会の連中も、ようやく象牙の塔の外から出るとまでは言わなくとも、窓から首を突き出す位のことをし始めたのだろう。 「これまで彼は、一流の諜報員、捜査官として、自らのアイデンティティを固めてきた。ここでの扱いも、どれだけ肉体に苦痛を与えられたところで、それは彼にとって自らが価値ある存在であることの証明に他ならなかった。敢えて見せなかったが、この行為が始まる前に、我らはMと同時に捕縛された女性Cの事を彼に通告してある――彼女が全ての情報を吐いたので、君はもう用済みだ、とね」 「それは餌としての偽情報でしょうか、それとも本当にCは自白していたのですか」 「いや、Cもまだこの時点では黙秘している。Mに披露した情報は、ケース・オフィサーから仕入れた最新のものだ」 ようやく対峙する勇気を振り絞れたのだろう。ミスター・ロバーツは、そろそろと顔を持ち上げて、しんねりとした上目を作った。 「それにしても、彼への暴力は行き過ぎだと思いますが」 「身長180センチ、体重82キロもある屈強な25歳の男性に対してかね? 彼は深窓の令嬢ではない、我々の情報を抜き取ろうとした手練れの諜報員だぞ」 浮かんだ苦笑いを噛み殺し、教授は首を振った。 「まあ、衛生状態が悪いから、目方はもう少し減っているかもしれんがね。さあ、後半を流すから、Mと執行者、両方に注目するように」 ぶれた状態で制止していた体が思い切り後ろへふれ、鎖がめいいっぱいまで伸びきる。黄色く濁った胃液を床へ吐き散らす捕虜の姿を見て、男の一人が呆れ半分、はしゃぎ半分の声を上げる。「汚ぇなあ、しょんべんが上がってきてるんじゃないのかよ」 今年は受講者を20人程に絞った。抽選だったとは言え、単位取得が簡単でないことは周知の事実なので、応募してきた時点で彼らは自分を精鋭と見なしているのだろう。 それが、どうだ。ある者は暴力に魅せられて頬を火照らせ、ある者は今になって怖じ気付き、正義感ぶることで心の平穏を保とうとする。 経験していないとはこう言うことか。教授は今更ながら心中で嘆息を漏らした。ここのところ、現場慣れした小生意気な下士官向けの講義を受け持つことが多かったので、すっかり自らの感覚が鈍っていた。 つまり、生徒が悪いのでは一切ない。彼らが血の臭いを知らないのは、当然のことなのだ。人を殴ったとき、どれだけ拳が疼くのかを教えるのは、自らの仕事に他ならない。 手垢にまみれていないだけ、吸収も早いことだろう。余計なことを考えず、素直に。ドアを開けて入ってきたあの青年の如く。 足音もなく、すっと影のように近付いてきた青年は、僅かに高い位置へある教授の耳に小さな声で囁いた。 「例のマウンテンバイク、確保できたようです」 針を刺されたように、倦んでいた心が普段通りの大きさへ萎む。ほうっと息をつき、教授は頷いた。 「助かったよ。すまないな」 「いいや、この程度の事なら喜んで」 息子が12歳を迎えるまで、あと半月を切っている。祝いに欲しがるモデルは何でも非常に人気があるそうで、どれだけ自転車屋に掛け合っても首を振られるばかり。 日頃はあまり構ってやれないからこそ、約束を違えるような真似はしたくない。妻と二人ほとほと弱り果てていたとき、手を挙げたのが他ならぬ目の前の青年だった。何でも知人の趣味がロードバイクだとかで、さんざん拝み倒して新古品を探させたらしい。 誕生パーティーまでの猶予が一ヶ月を切った頃から、教授は青年へ厳しく言い渡していた。見つかり次第、どんな状況でもすぐに知らせてくれと。夜中でも、仕事の最中でも。 「奥様に連絡しておきましょうか。また頭痛でお悩みじゃなきゃいいんですけど」 「この季節はいつでも低気圧だ何だとごねているさ。悪いが頼むよ」 ちらつく画像を前にし、青年はまるで自らのプレゼントを手に入れたかの如くにっこりしてみせる。再びパイプ椅子に腰を下ろし、スマートフォンを弄くっている顔は真剣そのものだ。 ふと頭に浮かんだのは、彼が妻と寝ているか否かという、これまでも何度か考えたことのある想像だった。確かに毎週の如く彼を家へ連れ帰り、彼女もこの才気あふれる若者を気に入っている風ではあるが。 まさか、あり得ない。ファンタジーとしてならば面白いかもしれないが。 そう考えているうちは、大丈夫だろう。事実がどうであれ。 「こんな拷問を、そうだな、2ヶ月程続けた。自白を強要する真似は一切せず、ただ肉の人形の用に弄び、心身を疲弊させる事に集中した。詳細はレジュメの3ページに譲るとして……背中に水を皮下注射か。これは以前にも言ったが、対象が仰向けで寝る場合、主に有効だ。事前に確認するように」 紙を捲る音が一通り収まったのを確認してから、教授は手の中のリモコンを軽く振った。 「前回も話したが、囚人が陥りやすいクワシオルコルなど低タンパク血症の判断基準は脚の浮腫だ。だが今回は捕獲時に右靱帯を損傷し中足骨を剥離骨折したこと、何度も逃亡を試みた事から脚への拘束及び重点的に攻撃を加えたため、目視では少し判断が難しいな。そういうときは、圧痕の確認を……太ももを掴んで指の型が数���間戻らなければ栄養失調だ」 似たような仕置きの続く数分が早送りされ、席のそこかしこから詰まったような息が吐き出される。一度飛ばした写真まで巻き戻せば、その呼吸は再びくびられたかのように止まった。 「さて、意識が混濁しかけた頃を見計らい、我々は彼を移送した。本国の収容所から、国境を越えてこの街に。そして抵抗のできない肉体を、一見無造作に投棄したんだ。汚い、掃き溜めに……えー、この国の言葉では何と?」 「『ゴミ捨て場』」 「そう、『ゴミ捨て場』に」 青年の囁きを、生徒達は耳にしていたはずだ。それ以外で満ちた沈黙を阻害するのは、プロジェクターの立てる微かなモーター音だけだった。 彼らの本国にもありふれた集合住宅へ――もっとも、今画面に映っている場所の方がもう少し設備は整っていたが。距離で言えば100キロも離れていないのに、こんな所からも、旧東側と西側の違いは如実に現れるのだ――よくある、ゴミ捨て場だった。三方を囲うのはコンクリート製の壁。腰程の高さへ積んだゴミ袋の山へ、野生動物避けの緑色をしたネットを掛けてあるような。 その身体は、野菜の切りくずやタンポンが詰められているのだろうゴミ袋達の上に打ち捨てられていた。横向きの姿勢でぐんにゃり弛緩しきっていたが、最後の意志で内臓を守ろうとした努力が窺える。腕を腹の前で交差し、身を縮める姿は胎児を思わせた。ユーラシアンらしい照り卵を塗ったパイ生地を思わせる肌の色味は、焚かれたフラッシュのせいで消し飛ばされる。 絡みもつれた髪の向こうで、血管が透けて見えるほど薄い瞼はぴたりと閉じられていた。一見すると死んでいるかのように見える。 「この国が我が祖国と国交を正常化したのは?」 「2002年です」 「よろしい、ミズ・グッドバー。だがミハイル・ゴルバチョフが衛星国の解放を宣言する以前から、両国間で非公式な交流は続けられていた。主に経済面でだが。ところで、Mがいた地点からほど近くにあるタイユロール記念病院は、あの鋼鉄商フォミン一族、リンゼイ・フォミン氏の働きかけで設立された、一種の『前哨基地』であることは、ごく一部のものだけが知る事実だ。彼は我が校にも多額の寄付を行っているのだから、ゆめゆめ備品を粗末に扱わぬよう」 小さな笑いが遠慮がちに湧いた矢先、突如画面が明るくなる。生徒達同様、教授も満ちる眩しさに目を細めた。 「Mは近所の通報を受け、この病院に担ぎ込まれた……カルテにはそう記載されている。もちろん、事実は違う。全ては我々の手配だ。彼は現在に至るまでの3ヶ月、個室で手厚く看護を受けている。最新の医療、滋養のある食事、尽くしてくれる看護士……もちろん彼は、自らの正体を明かしてはいないし、完全に心を開いてはいない。だが、病院の上にいる人間の存在には気付いていないようだ」 「気付いていながら、我々を欺いている可能性は?」 「限りなく低いだろう。外部との接触は行われていない……行える状態ではないし、とある看護士にはかなり心を許し、私的な話も幾らか打ち明けたようだ」 後は病室へ取り付けた監視用のカメラが、全てを語ってくれる。ベッドへ渡したテーブルへ屈み込むようにしてステーキをがっつく姿――健康状態はすっかり回復し、かつて教授がミラーガラス越しに眺めた時と殆ど変わらぬ軒昂さを取り戻していた。 両脚にはめられたギプスをものともせず、点滴の管を抜くというおいたをしてリハビリに励む姿――パジャマを脱いだ広い背中は、拷問の痕の他に、訓練や実践的な格闘で培われたしなやかな筋肉で覆われている。 車椅子を押す看護士を振り返り、微笑み掛ける姿――彼女は決して美人ではないが、がっしりした体つきやきいきびした物言いは母性を感じさせるものだった。だからこそ一流諜報員をして、生き別れの恋人やアルコール中毒であった父親の話まで、自らの思いの丈を洗いざらい彼女に白状せしめたのだろう。「彼女を本国へスカウトしましょうよ」報告書を読んだ青年が軽口を叩いていたのを思い出す。「看護士の給料って安いんでしょう? 今なら簡単に引き抜けますよ」 「今から10分ほど、この三ヶ月の記録からの抜粋を流す。その後はここを出て、西棟502号室前に移動を――Mが現在入院する病室の前だ。持ち物は筆記具だけでいい」 暗がりの中に戸惑いが広がる様子は、まるで目に見えるかのようだった。敢えて無視し、部屋を出る。 追いかけてきた青年は、ドアが完全に閉まりきる前から既にくすくす笑いで肩を震わせていた。 「ヘンリー・ロバーツの顔を見ましたか。今にも顎が落ちそうでしたよ」 「当然の話だろう」 煤けたような色のLEDライトは、細長く人気のない廊下を最低限カバーし、それ以上贅沢を望むのは許さないと言わんばかり。それでも闇に慣れた眼球の奥をじんじんと痺れさせる。大きく息をつき、教授は何度も目を瞬かせた。 「彼らは現場に出たこともなければ、百戦錬磨の諜報員を尋問したこともない。何不自由なく育った二十歳だ」 「そんなもんですかね」 ひんやりした白塗りの壁へ背中を押しつけ、青年はきらりと目を輝かせた。 「俺は彼ら位の頃、チェチェン人と一緒にウラル山脈へこもって、ロシアのくそったれ共を片っ端から廃鉱山の立坑に放り込んでましたよ」 「『育ちゆけよ、地に満ちて』だ。平和は有り難いことさ」 スマートフォンの振動は無視するつもりだったが、結局ポケットへ手を突っ込み、液晶をタップする。現れたテキストをまじまじと見つめた後、教授は紳士的に視線を逸らしていた青年へ向き直った。 「君のところにもメッセージが行っていると思うが、妻が改めて礼を言ってくれと」 「お安い御用ですよ」 「それと、ああ、その自転車は包装されているのか?」 「ほうそうですか」 最初繰り返したとき、彼は自らが口にした言葉の意味を飲み込めていなかったに違いない。日に焼けた精悍な顔が、途端にぽかんとした間抜け面に変わる。奨学金を得てどれだけ懸命に勉強しても、この表情を取り繕う方法は、ついぞ学べなかったらしい。普段の明朗な口振りが嘘のように、言葉付きは歯切れが悪い。 「……ええっと、多分フェデックスか何かで来ると思うので、ダンボールか緩衝材にくるんであるんじゃないでしょうか……あいつは慣れてるから、配送中に壊れるような送り方は絶対しませんよ」 「いや、そうじゃないんだ。誕生日の贈り物だから、可愛らしい包み紙をこちらのほうで用意すべきかということで」 「ああ、なるほど……」 何とか混乱から立ち直った口元に、決まり悪げなはにかみが浮かぶ。 「しかし……先生の息子さんが羨ましい。俺の親父もマツモトの父親とそうそう変わらないろくでなしでしたから」 僅かに赤らんだ顔を俯かせて頭を掻き、ぽつりと呟いた言葉に普段の芝居掛かった気負いは見られない。鈍い輝きを帯びた瞳が、おもねるような上目遣いを見せた。 ��先生のような父親がいれば、きっと世界がとてつもなく安全で、素晴らしい物のように見えるでしょうね」 皮肉を言われているのか、と一瞬思ったが、どうやら違うらしい。 息子とはここ数週間顔を合わせていなかった。打ち込んでいるサッカーの試合や学校の発表会に来て欲しいと何度もせがまれているが、積み重なる仕事は叶えてやる機会を許してはくれない。 いや、本当に自らは、努力を重ねたか? 確たる意志を以て、向き合う努力を続けただろうか。 自らが妻子を愛していると、教授は知っている。彼は己のことを分析し、律していた。自らが家庭向きの人間ではないことを理解しなから、家族を崩壊させないだけのツボを的確に押さえている事実へ、怒りの叫びを上げない程度には。 目の前の男は、まだ期待の籠もった眼差しを向け続けている。一体何を寄越せば良いと言うのだ。今度こそ苦い笑いを隠しもせず、教授は再びドアノブに手を伸ばした。 着慣れない白衣姿に忍び笑いが漏れるのへ、わざとらしいしかめっ面を作って見せる。 「これから先、私は傍観者だ。今回の実習を主導するのは彼だから」 「皆の良い兄貴分」を気取っている青年が、芝居掛かった仕草のお辞儀をしてみせる。生徒達と同じように拍手を与え、教授は頷いた。 「私はいないものとして考えるように……皆、彼の指示に従うこと」 「指示なんて仰々しい物は特にない、みんな気楽にしてくれ」 他の患者も含め人払いを済ませた廊下へ響かぬよう、普段よりは少し落とした声が、それでも軽やかに耳を打った。 「俺が定める禁止事項は一つだけ――禁止事項だ。これからここで君たちがやった事は、全てが許される。例え法に反することでも」 わざとらしく強い物言いに、顔を見合わせる若者達の姿は、これから飛ぶ練習を始める雛鳥そのものだった。彼らをぐるりと見回す青年の胸は、愉悦でぱんぱんに膨れ上がっているに違いない。大袈裟な身振りで手にしたファイルを振りながら、むずつかせる唇はどうだろう。心地よく浸る鷹揚さが今にも溢れ出し、顔を満面の笑みに変えてしまいそうだった。 「何故ならこれから君達が会う人間は、その法律の上では存在しない人間なんだから……寧ろ俺は、君達に積極的にこのショーへ参加して欲しいと思ってる。それじゃあ、始めようか」 最後にちらりと青年が寄越した眼差しへ、教授はもう一度頷いて見せた。ここまでは及第点。生徒達は不安を抱えつつも、好奇心を隠せないでいる。 ぞろぞろと向かった先、502号室の扉は閉じられ、物音一つしない。ちょうど昼食が終わったばかりだから、看護士から借りた本でも読みながら憩っているのだろう――日報はルーティンと化していたが、それでも教授は欠かさず目を通し続けていた。 生徒達は皆息を詰め、これから始まる出し物を待ちかまえている。青年は最後にもう一度彼らを振り向き、シッ、と人差し指を口元に当てた。ぴいん、と緊張が音を立てそうなほど張り詰められたのは、世事に疎い学生達も気がついたからに違いない。目の前の男の目尻から、普段刻まれている笑い皺がすっかり失せていると。 分厚い引き戸が勢いよく開かれる。自らの姿を、病室の中の人間が2秒以上見つめたと確認してから、青年はあくまで穏やかな、だがよく聞こえる声で問いかけた。 「あんた、ここで何をしているんだ」 何度も尋問を起こった青年と違い、教授がヒカル・K・マツモトを何の遮蔽物もなくこの目で見たのは、今日が初めての事だった。 教授が抱いた印象は、初見時と同じ――よく飼い慣らされた犬だ。はしっこく動いて辺りを確認したかと思えば、射るように獲物を見据える切れ長で黒目がちの瞳。すっと通った細長い鼻筋。桜色の形良い唇はいつでも引き結ばれ、自らが慎重に選んだ言葉のみ、舌先に乗せる機会を待っているかのよう。 見れば見るほど、犬に思えてくる。教授がまだ作戦本部にいた頃、基地の中を警邏していたシェパード。栄養状態が回復したせいか、艶を取り戻した石炭色の髪までそっくりだった。もっともあの軍用犬達はベッドと車椅子を往復していなかったので、髪に寝癖を付けたりなんかしていなかったが。 犬は自らへしっぽを振り、手綱を握っている時にのみ役に立つ。牙を剥いたら射殺せねばならない――どれだけ気に入っていたとしても。教授は心底、その摂理を嘆いた。 自らを散々痛めつけた男の顔を、一瞬にして思い出したのだろう。Mは驚愕に目を見開いたものの、次の瞬間車椅子の中で身構えた。 「おまえは…!」 「何をしているかと聞いているんだ、マツモト。ひなたぼっこか?」 もしもある程度予測できていた事態ならば、この敏腕諜報員のことだ。ベッド脇にあるナイトスタンドから取り上げた花瓶を、敵の頭に叩きつける位の事をしたかもしれない。だが不幸にも、青年の身のこなしは機敏だった。パジャマの襟首を掴みざま、まだ衰弱から完全に抜けきっていない体を床に引き倒す。 「どうやら、少しは健康も回復したようだな」 自らの足元にくずおれる姿を莞爾と見下ろし、青年は手にしていたファイルを広げた。 「脚はどうだ」 「おかげさまで」 ギプスをはめた脚をかばいながら、Mは小さく、はっきりとした声で答えた。 「どうやってここを見つけた」 「見つけたんじゃない。最初から知っていたんだ。ここへお前を入院させたのは俺たちなんだから」 一瞬見開かれた目は、すぐさま平静を取り戻す。膝の上から滑り落ちたガルシア・マルケスの短編集を押し退けるようにして床へ手を滑らせ、首を振る。 「逐一監視していた訳か」 「ああ、その様子だと、この病院そのものが俺たちの手中にあったとは、気付いていなかったらしいな」 背後を振り返り、青年は中を覗き込む生徒達に向かって繰り返した。 「重要な点だ。この囚人は、自分が未だ捕らわれの身だという事を知らなかったそうだ」 清潔な縞模様のパジャマの中で、背中が緩やかな湾曲を描く。顔を持ち上げ、Mは生徒達をまっすぐ見つめた。 またこの目だ。出来る限り人だかりへ紛れながらも、教授はその眼差しから意識を逸らすことだけは出来なかった。有利な手札など何一つ持っていないにも関わらず、決して失われない榛色の光。確かにその瞳は森の奥の泉のように静まり返り、暗い憂いを帯びている。あらかじめ悲しみで心を満たし、もうそれ以上の感情を注げなくしているかのように。 ねめ回している青年も、Mのこの堅固さならよく理解しているだろう――何せ数ヶ月前、その頑強な鎧を叩き壊そうと、手ずから車のバッテリーに繋いだコードを彼の足に接触させていたのだから。 もはや今、鸚鵡のように「口を割れ」と繰り返す段階は過ぎ去っていた。ファイルの中から写真の束を取り出して二、三枚繰り、眉根を寄せる。 「本当はもう少し早く面会するつもりだったんだが、待たせて悪かった。あんたがここに来て、確か3ヶ月だったな。救助は来なかったようだ」 「ここの電話が交換式になってる理由がようやく分かったよ。看護士に渡した手紙も握りつぶされていた訳だな」 「気付いていたのに、何もしなかったのか」 「うちの組織は、簡単にとかげの尻尾を切る」 さも沈痛なそぶりで、Mは目を伏せた。 「大義を為すためなら、末端の諜報員など簡単に見捨てるし、皆それを承知で働いている」 投げ出されていた手が、そろそろと左足のギプスの方へ這っていく。そこへ削って尖らせたスプーンを隠してある事は、監視カメラで確認していた。知っていたからこそ、昨晩のうちに点滴へ鎮静剤を混ぜ、眠っているうちに取り上げてしまう事はたやすかった。 ほつれかけたガーゼに先細りの指先が触れるより早く、青年は動いた。 「確かに、お前の所属する組織は、仲間がどんな目に遭おうと全く気に掛けないらしいな」 手にしていた写真を、傷が目立つビニール張りの床へ、一枚、二枚と散らす。Mが身を凍り付かせたのは、まだ僅かに充血を残したままの目でも、その被写体が誰かすぐ知ることが出来たからだろう。 「例え女であったとしても、我が国の情報局が手加減など一切しないことは熟知しているだろうに」 最初の数枚においては、CもまだMが知る頃の容姿を保っていた。枚数が増えるにつれ、コマの荒いアニメーションの如く、美しい女は徐々に人間の尊厳を奪われていく――撮影日時は、写真の右端に焼き付けられていた。 Mがされていたのと同じくらい容赦なく殴られ、糞尿や血溜まりの中で倒れ伏す姿。覚醒剤で朦朧としながら複数の男達に辱められる。時には薬を打たれることもなく、苦痛と恥辱の叫びを上げている歪んだ顔を大写しにしたものもある。分かるのは、施されるいたぶりに終わりがなく、彼女は時を経るごとにやせ細っていくということだ。 「あんたがここで骨休めをしている間、キャシー・ファイクは毎日尋問に引き出されていた。健気に耐えたよ、全く驚嘆すべき話だ。そういう意味では、君たちの組織は実に優秀だと言わざるを得ない」 次々と舞い落ちてくる写真の一枚を拾い上げ、Mは食い入るように見つめていた。養生生活でただでも青白くなった横顔が、俯いて影になることで死人のような灰色に変わる。 「彼女は最終的に情報を白状したが……恐らく苦痛から解放して欲しかったのだろう。この三ヶ月で随分衰弱してしまったから」 Mは自らの持てる技術の全てを駆使し、動揺を押さえ込もうとしていた。その努力は殆ど成功している。ここだけは仄かな血色を上らせた、薄く柔い唇を震わせる以外は。 その様をつくづくと見下ろしながら、青年はどこまでも静かな口調で言った。 「もう一度聞くが、あんた、ここで何をしていた?」 再び太ももへ伸ばされた左手を、踏みつけにする足の動きは機敏だった。固い靴底で手の甲を踏みにじられ、Mはぐっと奥歯を噛みしめ、相手を睨み上げた。教授が初めて目にする、燃えたぎるような憎悪の色を視線に織り込みながら。その頬は病的なほど紅潮し、まるで年端も行かない子供を思わせる。 そして相手がたかぶるほど、青年は感情を鎮静化させていくのだ。全ての写真を手放した後、彼は左腕の時計を確認し、それから壁に掛かっていた丸い時計にも目を走らせた。 「数日前、Cはこの病院に運び込まれた。お偉方は頑なでね。まだ彼女が情報を隠していると思っているようだ」 「これ以上、彼女に危害を加えるな」 遂にMは口を開き、喉の奥から絞り出すようにして声を放った。 「情報ならば、僕が話す」 「あんたにそんな役割は求めていない」 眉一つ動かすことなく、青年は言葉を遮った。 「あんたは3ヶ月前に、その言葉を口にすべきだった。もう遅い」 唇を噛むMから目を離さないまま、部屋の前の生徒達に手だけの合図が送られる。今やすっかりその場の空気に飲まれ、彼らはおたおたと足を動かすのが精一杯。一番賢い生徒ですら、質問を寄越そうとはしなかった。 「彼女に会わせてやろう。もしも君が自分の足でそこにたどり着けるのならば。俺の上官が出した指示はこうだ。この廊下の突き当たりにある手術室にCを運び込み、麻酔を掛ける。5分毎に、彼女の体の一部は切り取られなければならない。まずは右腕、次に右脚、四肢が終わったら目を抉り、鼻を削いで口を縫い合わせ、喉を潰す。耳を切りとったら次は内臓だ……まあ、この順番は多少前後するかもしれない。医者の気まぐと彼女の体調次第で」 Mはそれ以上、抗弁や懇願を口にしようとはしなかった。ただ歯を食いしばり、黙ってゲームのルールに耳を澄ましている。敵の陣地で戦うしか、今は方法がないのだと、聡い彼は理解しているのだろう。 「もしも君が部屋までたどり着けば、その時点で手術を終了させても良いと許可を貰ってる。彼女の美しい肉体をどれだけ守れるかは、君の努力に掛かっているというわけだ」 足を離して解放しざま、青年はすっと身を傍らに引いた。 「予定じゃ、もうカウントダウンは始まっている。そろそろ医者も、彼女の右腕に局部麻酔を打っているんじゃないか?」 青年が言い終わらないうちに、Mは床に投げ出されていた腕へ力を込めた。 殆ど完治しているはずの脚はしかし、過剰なギプスと長い車椅子生活のせいですっかり萎えていた。壁に手をつき、立ち上がろうとする奮闘が繰り返される。それだけの動作で、全身に脂汗が滲み、細かい震えが走っていた。 壁紙に爪を立てて縋り付き、何とか前かがみの姿勢になれたとき、青年はその肩に手を掛けた。力任せに押され、受け身を取ることも叶わなかったらしい。無様に尻餅をつき、Mは顔を歪めた。 「さあ」 人を突き飛ばした手で部屋の外に並ぶ顔を招き、青年はもぞつくMを顎でしゃくる。 「君達の出番だ」 部屋の中へ足を踏み入れようとするものは、誰もいなかった。 その後3度か4度、起き上がっては突き飛ばされるが繰り返される。結局Mは、それ以上立ち上がろうとする事を諦めた。歯を食いしばって頭を垂れ、四つん這いになる。出来る限り避けようとはしているのだろう。だが一歩手を前へ進めるたび、床へ広がったままの写真が掌にくっついては剥がれるを繰り返す。汗を掻いた手の下で、印画紙は皺を作り、折れ曲がった。 「このままだと、���っさり部屋にたどり着くぞ」 薄いネルの布越しに尻を蹴飛ばされ、何度かその場へ蛙のように潰れながらも、Mは部屋の外に出た。生徒達は彼の行く手を阻まない。かといって、手を貸したり「こんな事はよくない」と口にするものもいなかったが。 細く長い廊下は一直線で、突き当たりにある手術室までの距離は50メートル程。その気になれば10分も掛からない距離だ。 何とも奇妙な光景が繰り広げられた。一人の男が、黙々と床を這い続ける。その後ろを、20人近い若者が一定の距離を開けてぞろぞろと付いていく。誰も質問をするものはいなかった。ノートに記録を取るものもいなかった。 少し距離を開けたところから、教授は様子を眺めていた。次に起こる事を待ちながら――どういう形にせよ、何かが起こる。これまでの経験から、教授は理解していた。 道のりの半分程まで進んだ頃、青年はそれまでMを見張っていた視線を後ろへ振り向けた。肩が上下するほど大きな息を付き、ねだる様な表情で微笑んで見せる。 「セルゲイ、ラマー、手を貸してくれ。奴をスタートまで引き戻すんだ」 学生達の中でも一際体格の良い二人の男子生徒は、お互いの顔を見合わせた。その口元は緊張で引きつり、目ははっきりと怯えの色に染まっている。 「心配しなくてもいい。さっきも話したが、ここでは何もかもが許される……ぐずぐずするな、単位をやらないぞ」 最後の一言が利いたのかは分からないが、二人はのそのそと中から歩み出てきた。他の学生が顔に浮かべるのは非難であり、同情であり、それでも決して手を出すことはおろか、口を開こうとすらしないのだ。 話を聞いていたMは、必死で手足の動きを早めていた。どんどんと開き始める距離に、青年が再び促せば、結局男子生徒は小走りで後を追う。一人が腕を掴んだとき、Mはまるで弾かれたかのように顔を上げた。その表情は、自らを捕まえた男と同じくらい、固く強張っている。 「頼む」 掠れた声に混ざるのは、間違いなく懇願だった。小さな声は、静寂に満ちた廊下をはっきりと貫き通る。 「頼むから」 「ラマー」 それはしかし、力強い指導者の声にあっけなくかき消されるものだった。意を決した顔で、二人はMの腕を掴み直し、背後へと引きずり始めた。 Mの抵抗は激しかった。出来る限り身を捩り、ギプスのはまった脚を蠢かす。たまたま、固められたグラスファイバーが臑に当たったか、爪が腕を引っ掻いたのだろう。かっと眦をつり上げたセルゲイが、平手でMの頭を叩いた。あっ、と後悔の顔が浮かんだのもつかの間、拘束をふりほどいたMは再び手術室を目指そうと膝を突く。追いかけたラマーに、明確な抑止の気持ちがあったのか、それともただ単に魔が差したのかは分からない。だがギプスを蹴り付ける彼の足は、決して生ぬるい力加減のものではなかった。 その場へ横倒しになり、呻きを上げる敵対性人種を、二人の男子生徒はしばらくの間見つめていた。汗みずくで、時折せわしなく目配せを交わしあっている。やがてどちらともなく、再び仕事へ取りかかろうとしたとき、その足取りは最初と比べて随分とスムーズなものになっていた。 病室の入り口まで連れ戻され、身を丸めるMに、青年がしずしずと歩み寄る。腕時計をこれ見よがしに掲げながら放つ言葉は、あくまでも淡々としたものだった。 「今、キャシーは右腕を失った」 Mは全身を硬直させ、そして弛緩させた。何も語らず、目を伏せたまま、また一からやり直そうと努力を続ける。 不屈の精神。だがそれは青年を面白がらせる役にしか立たなかった。 同じような事が何度も繰り返されるうち、ただの背景でしかなかった生徒達に動きが見え始めた。 最初のうちは、一番に手助けを求められた男子生徒達がちょっかいをかける程度だった。足を掴んだり、行く手を塞いだり。ある程度進めばまた病室まで引きずっていく。そのうち連れ戻す役割に、数人が関わるようになった。そうなると、全員が共犯者になるまで時間が掛からない。 やがて、誰かが声を上げた。 「このスパイ」 つられて、一人の女子生徒がMを指さした。 「この男は、私たちの国を滅ぼそうとしているのよ」 「悪魔、けだもの!」 糾弾は、ほとんど悲鳴に近い音程で迸った。 「私の叔母は、戦争中こいつの国の人間に犯されて殺された! まだたった12歳だったのに!」 生徒達の目の焦点が絞られる。 病室へ駆け込んだ一人が戻ってきたとき手にしていたのは、ピンク色のコスモスを差した重たげな花瓶だった。花を引き抜くと、その白く分厚い瀬戸物を、Mの頭上で逆さまにする。見る見るうちに汚れた冷水が髪を濡らし、パジャマをぐっしょり背中へと張り付かせる様へ、さすがに一同が息を飲む。 さて、どうなることやら。教授は一歩離れた場所から、その光景を見守っていた。 幸い、杞憂は杞憂のままで終わる。すぐさま、どっと歓声が弾けたからだ。笑いは伝染する。誰か一人が声を発すれば、皆が真似をする。免罪符を手に入れたと思い込む。 そうなれば、後は野蛮で未熟な度胸試しの世界になった。 殴る、蹴るは当たり前に行われた。直接手を出さない者も、もう目を逸らしたり、及び腰になる必要はない。鋏がパジャマを切り裂き、無造作に掴まれた髪を黒い束へと変えていく様子を、炯々と目を光らせて眺めていられるのだ。 「まあ、素敵な格好ですこと」 また嘲笑がさざ波のように広がる。その発作が収まる隙を縫って、時折腕時計を見つめたままの青年が冷静に告げる。「今、左脚が失われた」 Mは殆ど抵抗しなかった。噛みしめ過ぎて破れた唇から血を流し、目尻に玉の涙を浮かべながら。彼は利口だから、既に気付いていたのだろう。まさぐったギプスに頼みの暗器がない事にも、Cの命が彼らの機嫌一つで簡単に失われるという事も――その経験と知識と理性により、がんじがらめにされた思考が辿り着く結論は、一つしかない――手術室を目指せ。 まだ、この男は意志を折ってはいない。作戦本部へ忍び込もうとして捕らえられた時と、何一つ変わっていない。教授は顎を撫で、青年を見遣った。彼はこのまま、稚拙な狂乱に全てを任せるつもりなのだろうか。 罵りはやし立てる声はますます激しくなった。上擦った声の多重奏は狭い廊下を跳ね回っては、甲高く不気味な音程へと姿を変え戻ってくる。 短くなった髪を手綱のように掴まれ、顎を逸らされるうち、呼吸が続かなくなったのだろう。強い拒絶の仕草で、Mの首が振られる。彼の背中へ馬乗りになり、尻を叩いていた女子学生達が、体勢を崩して小さく悲鳴を上げた。 「このクズに思い知らせてやれ」 仕置きとばかりに脇腹へ爪先を蹴込んだ男子生徒が、罵声をとどろかせた。 「自分の身分を思い知らせろ、大声を上げて泣かせてやれ」 津波のような足音が、身を硬直させる囚人に殺到する。その体躯を高々と掲げ上げた一人が、青年に向かって声を張り上げた。 「便所はどこですか」 指で示しながら、青年は口を開いた。 「今、鼻が削ぎ落とされた」 天井すれすれの位置まで持ち上げられた瞬間、全身に張り巡らされた筋肉の緊張と抵抗が、ふっと抜ける。力を無くした四肢は生徒達の興奮の波に合わせてぶらぶらと揺れるが、その事実に気付いたのは教授と、恐らく青年しかいないようだった。 びしょ濡れで、破れた服を痣だらけで、見るも惨めな存在。仰向けのまま、蛍光灯の白々とした光に全身を晒し、その輪郭は柔らかくぼやけて見えた。逸らされた喉元が震え、虚ろな目はもう、ここではないどこかをさまよってる――あるいは閉じこもったのだろうか? 一つの固い意志で身を満たす人間は、荘厳で、純化される。まるで死のように――教授が想像したのは、『ハムレット』の終幕で、栄光を授けられ、兵達に運び出されるデンマーク王子の亡骸だった。 実際のところ、彼は気高い王子ではなく、物語がここで終わる訳でもないのだが。 男子トイレから上がるはしゃいだ声が熱を帯び始めた頃、スラックスのポケットでスマートフォンが振動する。発信者を確認した教授は、一度深呼吸をし、それから妻の名前を呼んだ。 「どうしたんだい、お義父さんの容態が変わった?」 「それは大丈夫」 妻の声は相変わらず、よく着こなされた毛糸のセーターのように柔らかで、温かかった。特に差し向かいで話をしていない時、その傾向は顕著になる。 「あのね、自転車の事なんだけれど、いつぐらいに着くのかしら」 スピーカーを手で押さえながら、教授は壁に寄りかかってスマートフォンを弄っていた青年に向かって叫んだ。 「君の友達は、マウンテンバイクの到着日時を指定したって言っていたか」 「いえ」 「もしもし、多分来週の頭くらいには配送されると思うよ」 「困ったわ、来週は婦人会とか読書会とか、家を空けるのよ」 「私がいるから受け取っておく、心配しないでいい。何なら再配達して貰えば良いし」 「そうね、サプライズがばれなければ」 「子供達は元気にしてるかい」 「変わらずよ。来週の休暇で、貴方とサッカーの試合を観に行くのを楽しみにしてる」 「そうだった。君はゆっくり骨休めをするといいよ……そういえば、さっきの包装の事だけれど、わざわざ紙で包まなくても、ハンドルにリボンでも付けておけばいいんじゃないかな」 「でも、もうさっき玩具屋で包装紙を買っちゃったのよ!」 「なら、それで箱を包んで……誕生日まで隠しておけるところは? クローゼットには入らないか」 「今物置を片づけてるんだけど、貴方の荷物には手を付けられないから、帰ったら見てくれる?」 「分かった」 「そっちで無理をしないでね……ねえ、今どこにいるの? 人の悲鳴が聞こえたわ」 「生徒達が騒いでるんだよ。皆研修旅行ではしゃいでるから……明日は一日、勉強を休んで遊園地だし」 「貴方も一緒になって羽目を外さないで、彼がお目付け役で付いていってくれて一安心だわ……」 「��んないい子にしてるさ。もう行かないと。愛してるよ、土産を買って帰るからね」 「私も愛してるわ、貴方」 通話を終えたとき、また廊下の向こうで青年がニヤニヤ笑いを浮かべているものかと思っていたが――既に彼は、職務に戻っていた。 頭から便器へ突っ込まれたか、小便でも掛けられたか、連れ戻されたMは床へぐったり横たわり、激しく噎せ続けていた。昼に食べた病院食は既に吐き出したのか、今彼が口から絶え間なく溢れさせているのは黄色っぽい胃液だけだった。床の上をじわじわと広がるすえた臭いの液体に、横顔や髪がべったりと汚される。 「うわ、汚い」 「こいつ、下からも漏らしてるぞ」 自らがしでかした行為の結果であるにも関わらず、心底嫌悪に満ちた声がそこかしこから上がる。 「早く動けよ」 どれだけ蔑みの言葉を投げつけられ、汚れた靴で蹴られようとも、もうMはその場に横たわったきり決して動こうとしなかった。頑なに閉じる事で薄い瞼と長い睫を震わせ、力の抜けきった肉体を冷たい床へと投げ出している。 糸の切れた操り人形のようなMの元へ、青年が近付いたのはそのときのことだった。枕元にしゃがみ込み、指先でこつこつと腕時計の文字盤を叩いてみせる。 「あんたはもう、神に身を委ねるつもりなんだな」 噤まれた口などお構いなしに、話は続けられる。まるで眠りに落ちようとしている息子へ、優しく語り掛ける母のように。 「彼女はもう、手足もなく、目も見えず耳も聞こえない、今頃舌も切り取られただろう……生きる屍だ。これ以上、彼女を生かすのはあまりにも残酷過ぎる……だからこのまま、手術が進み、彼女の肉体が耐えられなくなり、天に召されるのを待とうとしているんだな」 Mは是とも否とも答えなかい。ただ微かに顔を背け、眉間にきつく皺を寄せたのが肯定の証だった。 「俺は手術室に連絡を入れた。手術を中断するようにと。これでもう、終わりだ。彼女は念入りに手当されて、生かされるだろう。彼女は強い。生き続ければ、いつかはあんたに会えると、自分の存在があんたを生かし続けると信じているからだ。例え病もうとも、健やかであろうとも……彼女はあんたを待っていると、俺は思う」 Mの唇がゆっくりと開き、それから固まる。何かを、言おうと思ったのだろう。まるで痙攣を起こしたように顎ががくがくと震え、小粒なエナメル質がカチカチと音を立てる。今にも舌を噛みそうだった。青年は顔を近付け、吐息に混じる潰れた声へ耳を傾けた。 「彼女を……彼女を、助けてやってくれ。早く殺してやってくれ」 「だめだ。それは俺の仕事じゃない」 ぴしゃりと哀願をはねのけると、青年は腰を上げた。 「それはあんたの仕事だ。手術室にはメスも、薬もある。あんたがそうしたいのなら、彼女を楽にしてやれ。俺は止めはしない」 Mはそれ以上の話を聞こうとしなかった。失われていた力が漲る。傷ついた体は再び床を這い始めた。 それまで黙って様子を見守っていた生徒達が、顎をしゃくって見せた青年の合図に再び殺到する。無力な腕に、脚に、襟首に、胴に、絡み付くかのごとく手が伸ばされる。 今度こそMは、全身の力を使って体を突っ張らせ、もがき、声を限りに叫んだ。生徒達が望んでいたよう���。獣のような咆哮が、耳を聾する。 「やめてくれ……行かせてくれ!! 頼む、お願いだ、お願いだから!!」 「俺達の国の人間は、もっと酷い目に遭ったぞ」 それはだが、やがて生徒達の狂躁的な笑い声に飲み込まれる。引きずられる体は、病室を通り過ぎ、廊下を曲がり、そして、とうとう見えなくなった。Mの血を吐くような叫びだけが、いつまでも、いつまでも聞こえ続けていた。 再びMの姿が教授の前へと現れるまで、30分程掛かっただろうか。もう彼を邪魔するものは居なかった。時々小馬鹿にしたような罵声が投げかけられるだけで。 力の入らない手足を叱咤し、がくがくと震わせながら、それでもMは這い続けた。彼はもう、前を見ようとしなかった。ただ自分の手元を凝視し、一歩一歩、渾身の力を振り絞って歩みを進めていく。割れた花瓶の破片が掌に刺さっても、顔をしかめる事すらしない。全ての表情はすっぽりと抜け落ち、顔は仮面のように、限りなく端正な無表情を保っていた。まるで精巧なからくり人形の、動作訓練を行っているかのようだった。彼が人間であることを示す、手から溢れた薄い血の痕が、ビニールの床へ長い線を描いている。 その後ろを、生徒達は呆けたような顔でのろのろと追った。髪がめちゃくちゃに逆立っているものもいれば、ネクタイを失ったものもいる。一様に疲れ果て、後はただ緩慢に、事の成り行きを見守っていた。 やがて、汚れ果てた身体は、手術室にたどり着いた。 伸ばされた手が、白い扉とドアノブに赤黒い模様を刻む。全身でぶつかるようにしてドアを押し開け、そのままその場へ倒れ込んだ。 身を起こした時、彼はすぐに気が付いたはずだ。 その部屋が無人だと。 手術など、最初から行われていなかったと。 自らが犯した、取り返しの付かない過ちと、どれだけ足掻いても決して変えることの出来なかった運命を。 「彼女は手術を施された」 入り口に寄りかかり、口を開いた青年の声が、空っぽの室内に涼々と広がる。 「彼女はあんたに会いたがっていた。あんたを待っていた。それは過去の話��」 血と汗と唾液と、数え切れない程の汚物にまみれた頭を掴んでぐっと持ち上げ、叱責は畳みかけられる。 「彼女は最後まで、あんたを助けてくれと懇願し続けた。半年前、この病院へ放り込まれても、あんたに会おうと這いずり回って何度も逃げ出そうとした。もちろん、ここがどんな場所かすぐに気付いたよ。だがどれだけ宥めても、あんたと同じところに返してくれの一点張りだ。愛情深く、誇り高い、立派な女性だな。涙なしには見られなかった」 丸く開かれたMの口から、ぜいぜいと息とも声とも付かない音が漏れるのは、固まって鼻孔を塞ぐ血のせいだけではないのだろう。それでも青年は、髪を握る手を離さなかった。 「だから俺達は、彼女の望みを叶えてやった。あんたと共にありたいという望みをな……ステーキは美味かったか? スープは最後の一匙まで飲み干したか? 彼女は今頃、どこかの病院のベッドの上で喜んでいるはずだ。あんたと二度と離れなくなっただけじゃない。自分の肉体が、これだけの責め苦に耐えられる程の健康さをあんたに取り戻させたんだからな」 全身を震わせ、Mは嘔吐した。もう胃の中には何も残っていないにも関わらず。髪がぶちぶちと引きちぎられることなどお構いなしで俯き、背中を丸めながら。 「吐くんじゃない。彼女を拒絶するつもりか」 最後に一際大きく喉が震えたのを確認してから、ぱっと手が離される。 「どれだけ彼女を悲しませたら、気が済むんだ」 Mがもう、それ以上の責め苦を与えられる事はなかった。白目を剥いた顔は吐瀉物――に埋まり、ぴくりとも動かない。もうしばらく、彼が意識を取り戻すことはないだろう――なんなら、永遠に取り戻したくはないと思っているかもしれない。 「彼はこの後すぐ麻酔を打たれ、死体袋に詰め込まれて移送される……所属する組織の故国へか、彼の父の生まれ故郷か、どこ行きの飛行機が手頃かによるが……またどこかの街角へ置き去りにされるだろう」 ドアに鍵を掛け、青年は立ち尽くす生徒達に語り掛けた。 「君達は、俺が随分ひどい仕打ちをしでかしたと思っているだろう。だが、あの男はスパイだ。彼が基地への潜入の際撃ち殺した守衛には、二人の幼い子供達と、身重の妻がいる……これは君達への気休めに言ってるんじゃない。彼を生かし続け、このまま他の諜報員達に甘い顔をさせていたら、それだけ未亡人と父無し子が増え続けるってことだ」 今になって泣いている女子生徒も、壁に肩を押しつけることで辛うじてその場へ立っている男子生徒も、同じ静謐な目が捉え、慰撫していく。 「君達は、12歳の少女が犯されて殺される可能性を根絶するため、ありとあらゆる手段を用いることが許される。それだけ頭に入れておけばいい」 生徒達はぼんやりと、青年の顔を見つめていた。何の感情も表さず、ただ見つめ続けていた。 この辺りが潮時だ。ぽんぽんと手を叩き、教授は沈黙に割って入った。 「さあ、今日はここまでにしよう。バスに戻って。レポートの提出日は休み明け最初の講義だ」 普段と代わり映えのしない教授の声は、生徒達を一気に現実へ引き戻した。目をぱちぱちとさせたり、ぐったりと頭を振ったり。まだ片足は興奮の坩堝へ突っ込んでいると言え、彼らはとろとろとした歩みで動き出した。 「明日に備えてよく食べ、よく眠りなさい。遊園地で居眠りするのはもったいないぞ」 従順な家畜のように去っていく中から、まだひそひそ話をする余力を残していた一人が呟く。 「すごかったな」 白衣を受付に返し、馴染みの医師と立ち話をしている間も、青年は辛抱強く教授の後ろで控えていた。その視線が余りにも雄弁なので、あまりじらすのも忍びなくなってくる――結局のところ、彼は自らの手中にある人間へ大いに甘いのだ。 「若干芝居掛かっていたとは言え、大したものだ」 まだ敵と対決する時に浮かべるのと同じ、緊張の片鱗を残していた頬が、その一言で緩む。 「ありがとうございます」 「立案から実行までも迅速でスムーズに進めたし、囚人の扱いも文句のつけようがない。そして、学生達への接し方と御し方は実に見事なものだ。普段からこまめに交流を深めていた賜だな」 「そう言って頂けたら、報われました」 事実、彼の努力は報われるだろう。教授の書く作戦本部への推薦状という形で。 青年は教授の隣に並んで歩き出した。期待で星のように目を輝かせ、胸を張りながら。意欲も、才能も、未来もある若者。自らが手塩にかけて全てを教え込み、誇りを持って送り出す事の出来る弟子。 彼が近いうちに自らの元を去るのだと、今になってまざまざ実感する。 「Mはどこに棄てられるんでしょうね。きっとここからずっと離れた、遙か遠い場所へ……」 今ほど愛する者の元へ帰りたいと思ったことは、これまで一度もなかった。 終
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」 5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。 Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。 C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。 しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。 MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。 03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。 また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。 またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。 ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。 3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。 3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。 遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。 20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。 なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。 また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。 事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。 王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。 起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。 犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。 静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。 数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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TEDにて
セバスチャン・スラン&クリス・アンダーソン : 人工知能(AI)とは何であり、何ではないか
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
教育者であり起業家であるセバスチャン・スランは、人類をルーティンワーク(繰り返し作業)から解放して創造性を解き放つためにAIを使って欲しいと考えています。
TEDのキュレーターであるクリス・アンダーソンとの刺激と情報に満ちた対話を通し、スランはディープラーニング技術の進歩と、AIの暴走を恐れるべきでない理由、退屈でつまらない作業を機械が行うことで社会システムがいかに良くなるかについて語ります。
スランは言います。「興味深い発明でこれまでに為されたのは1%くらいのものでしょう。人間はものすごく創造的であり、AIは創造力を現実のものにするパワーになると私は信じています」
人工知能と機械学習は、60年くらいの歴史があるんですが、最近まで目覚ましい結果は出ていませんでした。近頃になってようやく、機械を賢いものにするのに必要な規模の計算能力やデータセットが得られるようになったからです。
その仕組みはこうです。たとえば、スマートフォンのプログラムを作ろうと思ったら、ソフトウェアエンジニアを雇ってすごく長いレシピを書いてもらうことになります。「水が熱すぎたら温度を下げる冷たすぎたら温度を上げる」みたいな感じにそのレシピは10行とかではなく何百万行にもなり得ます。
今時のスマートフォンには、1200万行のコードがあり、ブラウザーには500万行のコードがあります。しかも、レシピに何か欠陥があるとコンピューターをクラッシュさせかねません。だから、ソフトウェアエンジニアはあんなに稼いでいるんです。
ところが、今やコンピューターが自分でルールを見付けられるようになっています。専門家がステップに分解し、あらゆる事態に対して、ルールを書く代わりにコンピューターに例を示してルールを自分で導かせるのです。
その良い例が、最近Googleが買収した囲碁プログラムのAlphaGoです。通常ならゲームをさせるには、あらゆるルールを記述することになりますが、AlphaGoの場合、何百万という対局を見て自分で独自にルールを導き、現役のチャンピオンを下してしまったのです。
その何が嬉しいかというとプログラミングの重荷がデータへと押しやられ、ソフトウェアエンジニアはそんなに頭が良くなくともよくなったことです。それが可能になったというのが大きな転換点でした。
今日では、専門的な人間の思考を模倣できるくらいに強力になりました。しかも、コンピューターには、人間が見られるよりもずっと多くのデータを見ることができます。AlphaGoは何百万という対局を検討しますが、人間にはそんなに沢山検討することはできません。
Googleは千億以上のウェブページを見ていますが、千億ページを読める人間はいません。だから、コンピューターは人間に見付けられないようなルールを見付けることができるのです(注意、大量のデータがないと実現できません)
子育てを考えてください。最初の18年間であらゆる事態に対するルールを教え込み、それから世に出すわけではありません。躓き、倒れ、立ち上がり、はたかれ、ぶたれ、楽しい経験をし、良い成績を取り、そうやって自分で見付けていくのです。
それが、今、コンピューターにも起きているのです(注意、概念がデータとして数値化されている場合のみです)
それによって、プログラミングが突如、簡単なものになります。考える必要はなくただ沢山のデータを与えれば良いのです。そして、ニューラルネットワークも使っています。「ニューラルネットワーク」というのは、こういう機械学習アルゴリズムを指す専門用語で1980年代頃から研究されています。
ここに出ているのは、Facebookのフェローであるヤン・ルカンが1988年に作ったもので、人の脳のように段階的にデータが伝播するようになっています。脳と同じわけではありませんが模倣したものです。段階的になっています。最初の段階で視覚的な入力から、へりや棒や点を抽出します。
次の段階でもう少し複雑なへりや形、半月形なんかを取り出します。最終的には、非常に複雑な概念を構成することができます。アンドリュー・エンは、膨大な量の画像から猫の顔や犬の顔を見付けられるようになることを示しました
機械学習を集合知と組み合わせているようなクラウドソーシングを使っているのは、私たちばかりではありません。UberやDidiは運転についてクラウドソーシングを使っています。Airbnbは宿泊業についてクラウドソーシングを使っています。今では、沢山のことに使われていて、バグの発見やタンパク質の折り畳みなど様々なクラウドソーシングがあります。
懸念されるのは、AIが実際にやっていることと意識を持ったAIによる支配の脅威のような話が混同されることです!
AIに一番持って欲しくないものが意識です。台所に行ったら冷蔵庫と皿洗い機が恋に落ちていて、私の態度が悪いと食品を冷やしてくれないなどというのは勘弁して欲しいです。そんな製品を買う気はないし欲しくありません。私に言わせるならAIは常に人間を拡張するものでした。
人間を拡張し増強するものです!カスパロフは、まさに正しくて人間の知恵と機械の知恵の組み合わせによって、私たちは強くなれるのです。機械が人間を強くするというあり方は機械の始まりからありました。農業革命が起きても蒸気機関や農機具が自分で農業をできるわけではなく、人間を置き換えはしませんでした。
人間を強くしたのです。このAIの新しい波は、種としての人類をずっと強いものにするでしょう。
さらなる懸念として、機械学習というのはルールの書き換えであり、コードの書き換えです。コンピューターが自分のコードを書き換えるということはいかがでしょうか?AlphaGoでは、まさにそういうことがありました。コンピューターが自分自身を相手に対局をして、新たなルールを学びました。
しかしAlphaGoが、世界を支配するという懸念はまったくないでしょう。チェスさえできないのです(注意、人間が手作業でデータとして構築、整備していないため)
これまでのAIで成功したものは、すべてごく特化したものであり、1つのアイデアに基づいています。すなわち、膨大な量のデータです。AlphaGoがああもうまくいった理由は、膨大な数の碁の対局にあり、AlphaGoには車の運転も飛行機の操縦もできません。
GoogleやUdacityの自動運転車は膨大なデータを糧にしており、他のことは何もできず、オートバイの制御さえできません。特定の領域に特化したものでガンのアプリもそれは同じことです。「汎用人工知能」と呼ばれるものについてはほとんど何も進展がありません。
一般相対性理論とかスーパーストリング理論を作ってくれと頼めるようなAIはありません。まったくの初期段階なんです。
この点を強調するのは、不安を目にしていてそれは認めたいからです。しかし、私が何か1つのことを考えるとしたら、私が問いたい疑問は「ルーティンワーク(繰り返し作業)的なものを何か取り上げて、100倍効率化できるとしたらどうか?」ということです。300年前には、みんな農業をやっていてルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをしていました。
今日では、75%の人はオフィスで働いていて、ルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをしています。私たちは、スプレッドシート奴隷になったのです。低レベルの労働だけじゃありません。
医者もルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをしているし、弁護士もルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをしています。AIが私たちの肩越しに見ていて、ルーティンワーク(繰り返し作業)的なことを10倍とか50倍とか効率化してくれるという時代が間もなくやってくるだろうと思います。それが私の考えていることです。
すごくワクワクすることですね。そこへ至る道のりは、ある人々には怖いものかもしれません。コンピューターがルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをドライバーよりもずっと上手くできるようになったなら、今やよく話題になることですが、突如、何百万という���が失われることになり、それで可能になる輝かしい部分を手にする前に、社会システムは革命的な状況を通過することになるでしょう。
ひとつ楽観的な意見を言わせてください。300年前のことを考えてみてください。ヨーロッパは140年もの間。戦争に明け暮れ、誰も読み書きできず、皆さんのしているような仕事は何もありませんでした。投資銀行家にせよ。ソフトウェアエンジニアにせよ。ニュースキャスターにせよ。みんな野に出て農業をしていました。
なんでこんな話をしているかというと私たちは過去における進歩とその恩恵については良く理解できます。
iPhoneとか。飛行機とか。電気とか。医薬品とか。私たちは、80まで生きたいと思っていますが、300年前には無理な相談でした。しかし、私たちは同じルールを未来には適用しないのです。私のCEOとしての仕事を振り返ってみると9割はルーティンワーク(繰り返し作業)的で楽しいものではありません。
毎日4時間をルーティンワーク(繰り返し作業)的で馬鹿みたいなメールに費やしています。それをやらなくて済むようにしてくれるものを切望しています。なぜか?それは、私たちはみんなものすごくクリエイティブだと思うからです。TEDのコミュニティはことのほかそうでしょう。
でも、ブルーカラーの人であってもそうなんです。ホテルのメイドを捕まえて一緒に飲んでご覧なさい。1時間後にはきっとクリエイティブなアイデアを手にしています。アンソニー・ゴールドブルームの言うように、これは機械にはできないことです。しかし、効率性、生産性はありません。
AIの力によって創造力を現実のものに変えられるようになるでしょう。もし、Googleを1日で作れるとしたらどうしますか?ビール片手に次のSnapchatになるものを思い付き、それが何であれ翌朝には運用開始できるとしたら?
それがもうSFではなくなるのです。これから起きることは、歴史上すでに経験していることです。農作業からの解放。後には、工場労働からの解放によって、ものすごい創造性が溢れ出て多くのものが生み出されました。今回のは、さらに、すごいものになるでしょう。そして、素晴らしい副作用もあります。副作用の1つは、食べ物や医薬品や教育や住居や輸送などが金持ちだけでなく、みんなにとってずっと手に入りやすくなることです。
これはAIの専門家として強く信じていることですが、創造性や独創的思考という面で本当の進展というのは見られません。
私が見ていることにみんなも気付いて欲しいんですが「人工知能」という言葉は、すごく怖いものに見え、コンピューターが突如として支配者となる映画を作るスピルバーグのような人もいますが、でも、それはテクノロジーにすぎないのです。私たちがルーティンワーク(繰り返し作業)的なことをする手助けをしてくれるテクノロジーです。
進歩が見られるのはルーティンワーク(繰り返し作業)的な部分です。法務的な資料を見付けるとか、契約書の草稿を作成するとか、胸のX線写真の検査をするとか、そういったことはとても特化したことであり、人類への脅威があるとは思いません。私たち人間こそが超越的な人間になるんです。
向き合いましょう。私たちは自らを超越的な人間にしたのです。大西洋を11時間で泳ぎ渡るとか、ポケットから装置を出して遙か彼方のオーストラリアにいる人に叫び、リアルタイムで向こうからも叫び返してくるとか。物理的に無理なことで物理法則を破っているのです。
できた暁には、見聞きしたことすべて会った人すべてを記憶するようになるでしょう。
私たちのIQは、コンピューターと協業すれば、1,000以上にもなるでしょう。私たちの子供には、綴り字の授業なんかなくなるでしょう。綴りの問題はなくなるので数学の問題もなくなります。そして、起きることはみんながすごくクリエイティブになれるということです。
実際、私たちはクリエイティブなんです。それが人類の秘密兵器です。しかし、効率性、生産性はありません。
技術が、すべてのことを解決できると言いますが、我々が、100倍エネルギー効率のいい乗り物を作ることができるとすれば、大枠としてこれは正しい意見です。
しかし、エネルギー効率ではなく、生産性を高めた結果、イギリスは見事に産業が空洞化してしまいました!
もう一度言います!!エネルギー効率ではなく、生産性を高めた結果、イギリスは見事に産業が空洞化してしまいました!!
何度でも言います!!エネルギー効率ではなく、生産性を高めた結果、イギリスは見事に産業が空洞化してしまいました!!
これでもバカのひとつ覚えのように、生産性を高めますか?基本的人権も無視して・・・
考えてみてください。人類の歴史を見れば6〜10万年というところですが、発明とか技術とか、私たちがありがたいと思う作られたもののほとんどはこの150年間に発明されています。まあ、本とか車輪はもう少し古いですが、あと斧も。でも、電話とか、スニーカーとか、この椅子とか、現代的な製造技術、ペニシリン。
私たちがありがたいと思うものの多くがそうです。これからの150年で人類はさらに多くのものを発見するでしょう。物事が発明されるペースは遅くではなく早くなっています。興味深いもので既に発明されているのは1%くらいのものだろうと思います。
古代からの人類が蓄積した膨大な概念。
ケビン・ケリーの言う「人工知性」
ロビン・ハンソンの言うように、一神教での仕事や労働の概念、定義などがトーマスクーン「科学革命の構造」で言うところのパラダイムシフトを起こし、ベーシックインカムや年金を毎月支給されるだけで生活できるようになるかもしれません。
そうすれば、アンソニー・ゴールドブルームの言うように、機械に先んじる可能性が開けるでしょう。
キャシーオニールによると・・・
思考実験をしてみましょう。私は、思考実験が好きなので、人種を完全に隔離した社会システムがあるとします。どの街でも、どの地域でも、人種は隔離され、犯罪を見つけるために警察を送り込むのは、マイノリティーが住む地域だけです。すると、逮捕者のデータは、かなり偏ったものになるでしょう。
さらに、データサイエンティストを探してきて、報酬を払い、次の犯罪が起こる場所を予測させたらどうなるでしょう?
あら不思議。マイノリティーの地域になります。あるいは、次に犯罪を犯しそうな人を予測させたら?あらら不思議ですね。マイノリティーでしょう。データサイエンティストは、モデルの素晴らしさと正確さを自慢するでしょうし、確かにその通りでしょう。
さて、現実は、そこまで極端ではありませんが、実際に、多くの市や町で深刻な人種差別があり、警察の活動や司法制度のデータが偏っているという証拠が揃っています。実際に、ホットスポットと呼ばれる犯罪多発地域を予測しています。さらには、個々、人の犯罪傾向を実際に予測しています。
ここでおかしな現象が生じています。どうなっているのでしょう?これは「データ・ロンダリング」です。このプロセスを通して、技術者がブラックボックスのようなアルゴリズムの内部に醜い現実を隠し「客観的」とか「能力主義」と称しているんです。秘密にされている重要で破壊的なアルゴリズムを私はこんな名前で呼んでいます「大量破壊数学」です。
民間企業が、私的なアルゴリズムを私的な目的で作っているんです。そのため、影響力を持つアルゴリズムは私的な権力です。
解決策は、データ完全性チェックです。データ完全性チェックとは、ファクト(事実)を直視するという意味になるでしょう。データのファクトチェックです!
これをアルゴリズム監査と呼んでいます。
ヨーロッパでの一般データ保護規則(GDPR)でも言うように・・・
年収の低い個人(中央値で600万円以下)から集めたデータほど金銭同様に経済的に高い価値を持ち、独占禁止法の適用対象にしていくことで、高価格にし抑止力を持たせるアイデア。
自分自身のデータを渡す個人も各社の取引先に当たりデータに関しては優越的地位の乱用を年収の低い個人(中央値で600万円以下)に行う場合は厳しく適用していく。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
(個人的なアイデア)
アメリカのノーベル賞受賞経済学者ミルトン・フリードマン、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」も言うように、金融危機2008、コロナショック2020などの急落に直面する対策として、ゼロ金利、マイナス金利、金融政策が出尽くした後に、よく登場する最速実行再分配政策が、個人への緊急的な現金給付!!!
各国によってスピードは異なるが、政策閣議決定後、人間の限界を遥かに超えるスピード。1秒以内で現金到着が理想。各国競争してみれば、今後の恒久対策として中央銀行のデジタル通貨なども考慮しつつ、新産業が産まれプラスサムになるかもしれません。
MMT(Modern Monetary Theory)によると、現状の貨幣での現実的なアイデアとして、社会保障に還元される日本の消費税は現状維持しつつ、現金給付額にも消費税がかかるので現金給付額を上げて、毎月給付にすると消費税率と社会保障費下支えとが均衡状態になる?と同時に、実体経済の経済成長率「g」の下支えにも寄与する?
これらの総量が、急激な不況時の資本収益率「r」以上なら、もしかして?回復して正常な経済環境に戻る期間も短縮できるかもしれません。
日本では、2020年4月20日に二週間前のデータ。緊急事態宣言を出した4月7日辺りのR0は2.5。R0は基本再生産数と呼ばれる。
緊急事態宣言後はR0がいくつか知りたい。1以下?新規感染者数から退院者数を引いた値が実質的な感染者数の値。
数式に時間軸がないため、緊急事態宣言解除のための指標としてR0の値を出せれば各局面の政策発動タイミングをコントロールできる可能性は高まる。
リアルタイムでR0の値を出せれば、わかりやすくなるかもしれない。
今後は、スペイン風邪同様第二波三波に備え緊急事態宣言を解除!給付金支給をもう数度実行してもいい、同時に緊急事態宣言を再び発動して、1年かけて5、6回繰り返し、新規感染者数をピークアウトさせて分散、減少させていく!
コレしかないが、解除のタイミング。発動のタイミングの数値的な根拠が不明。
発動は、クラスターが発生しやすいチェーン店などの大規模な場所から早期閉鎖が原則とデータから判明した!
今までは、パンデミック時の対策としてデータのないスペイン風邪の書物や言葉を参考にしていたが、インターネットの発展やCPU、GPUがムーアの法則によりスーパーコンピューターの領域に現代は突入している。
情報技術が発展し、スマートフォンとして手のひらサイズに収まり、ウイルスを感染予防するための距離を広げながらも、データとして全世界と光速で共有できるため、そのスピードとウイルス伝播のスピードと伍している?局面ごとに対策を適性に行えば伝播速度を上回りコントロールできる感じもある!ラリーブリリアントが構築したシステムの功績もあります。
量子コンピューターも量子超越性を達成してることもプラスです。
解除は、この局面でもっとも効果的なソーシャルディスタンス領域をかんたんに実行。かんたんに実現できる小規模な所から。
新規感染者数の数値を注視しながら、段階的にレベルを10個に分けて条件設定する。
週単位で地域によって新規感染者数に応じて解除拡大や解除縮小しつつリアルタイムに現状のレベル数を情報として一日単位で各地域から個別に発信していく方法がベスト。
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日米外交史の専門家が心底危惧する、日本の「尖閣無策」 ロバート・D・エルドリッヂ 1月の初旬、中国の潜水艦が潜航したまま尖閣諸島の大正島の接続海域を航行した。これまでにないレベルの挑発行為である。日本は政府も国民も尖閣危機を騒ぐ割には、事態の深刻化を全く止めることが出来ていないし、その気配すら見えない。全くの無策、お手上げ状態なのである。何故なのか? 戦後日米外交史の専門家で、アメリカ海兵隊の基地問題担当者として沖縄で活動した経験も持つ著者が、日米両国に責任がある尖閣問題の起源を読み解く。 東ヨーロッパで考えた尖閣への教訓 つい最近、東ヨーロッパに行ってきた。スイスでシンポジウムに参加した後、まだ行ったことがなかったブルガリア、ルーマニア、モルドバを回った。 そして最後に訪れたモルドバで印象的なことがあった。この国はロシアとの間の領土問題を抱えている。ロシアが、国土の一部を実際に占拠している状況だ。 地元の大学で尖閣問題に関する講演を行ったが、そこで、50代の研究者にあった。大学の学科長だった。彼は英語が得意ではなく、長くソ連圏の教育を受けていたような人なのだろう。アメリカ人である私を警戒しているようだった。 しかし、講演の後、その態度は全く変わった。まず「ありがとう」のあと、「大変ためになった。示唆を受けた。感謝します。参考にします」といってきたのである。講演中、一所懸命メモを取っていた姿が印象に残っている。彼は彼なりに、自分の国、超大国に隣接する小さな国の国益を考えているのだと思った。 そこで改めて認識したことは、いったん、領土を隣の大国に占領されてしまうと、もう取り戻すことが出来ないということだった。この形は、北方領土の事例とよく似ている。 東欧に行く直前、中国の潜水艦が、尖閣諸島の接続水域を潜水したまま航行した。これまでにない挑発行為であり、尖閣問題が日本にとっていま最も緊張度の高い領土問題であることが改めて示された。ところが、日本政府をはじめ、政治家、国民のほとんどは無関心である。 この尖閣諸島もまた、中国に奪われてしまったら、還ってこない。そして、日本の戦後の領土問題は、北方領土に加え、韓国が1954年に武力によって獲った竹島のすべて日本にとって不幸な形で決着することになってしまう。 領土の一部でもとられると、その相手と隣接している以上、その国の主体的な外交はできなくなる。モルドバ国内では、NATO加盟を希望している声が多いが、それはロシアが絶対許さないし、その現実に、その意思を強要している。 つまり、尖閣諸島を奪われてしまうと、日本は対中国外交で主体性がなくなってしまう。中国の顔を一層立てなければならなくなるからだ。このことが歴史や他地域の国際政治に学ぶべき教訓なのである。日本は、北方領土問題と竹島問題からだけでも分かるはずだ。 尖閣で起きうる日本の敗北 日本の尖閣政策は、一言で言うと、「奪われるようなことがあったら取り返す」につきる。しかし、占領されると還ってこない、という教訓から考えると、意味のない非現実的な原則に立っていることになる。まず奪われないようにすることを考えなければならないはずだ。 つまり日本は尖閣問題に政策も持っていないし、戦略もないのである。それゆえ私は「尖閣無策」とよんでいる。 もう一つ、今回の東欧訪問で学んだことがある。 これも歴史的なロシアの手法だが、影響力を及ぼしたい国や地域に、まずロシア人を送り込むのである。ロシア民族、ロシア語話者の人たちが、そこでコミュニティを形成している。これら「在外ロシア人」を守るというのが、対外政策の言い訳になるのである。 ロシアが2014年にウクライナのクリミアに侵攻して自治共和国として編入したことが、その直近の例となる。 ドイツも、第二次世界大戦前に同じやり方をした。「ドイツ系住民を守るため」が、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランドへの軍事行動や領土併合の表向きの理由となった。 中国もまた、沖縄へ多くの中国人を送り込み、日本国内に多くの中国人が在住している。日本だけではない。南アジアやアフリカにも万人単位で送り込んでおり、東南アジアには歴史的に多くの中国系住民が実際に生活している。 このことが、例えば、沖縄で独立運動などが本格的になった場合や、そのほかの地域でも何かの問題が起きた場合、中国が口を出し、さらにそれだけではなく、手を出す理由になる。世界の歴史がそれを証明している。 現時点で、尖閣問題は、あくまで隣国間の領土問題、外交問題だが、中国人の住民の人口が、日本国内、特に南西諸島に増えれば増えるほど、別な次元の問題が起きてくる。 以前から議論になっていることだが、中国には在外中国人を有事の際にあらゆる形で動員することが出来る「国防動員法」という法律がある。だから、中国人が送り込まれれば込まれるほど、内側と外側からの圧力が高まることになる。 このように、領土問題を甘く見てはいけない。一部でも主権を失うと、主体的な外交はできなくなるし、内政も妨害を受けるからである。 日本は政策がないから、海上保安庁と自衛隊という現場に任せっぱなしになる。海上保安庁には大変な負担がかかっているし、航空自衛隊もスクランブルで振り回されている。 去年、その回数が減ったことから、中国は平和を望んでいると評価する人たちがいた。これは昨秋の共産党大会があったので控えただけだ。あれから、また、回数は増えており、主張も激しくなっている。 最近、自民党政府も、中国といい関係を築くことが出来ると思っているようだが、すごく甘く極めて危険というしかない。 安保条約第5条の幻想 中国は尖閣諸島をとりたい。沖縄を支配下に置き、日本までも完全に中立化させたい。 これに対し、日本は、最悪の場合、有事になったら日米安全保障条約の第5条の適用で対応しようとしているが、極めて限界がある。第5条は、安保条約の発動条件を、日本の施政権下にある領域で、どちらかの国が攻撃を受けた場合とした規定である。 それを、外から見てうかがわせる良い事例がある。アメリカの高官が来日する際、また、日本の高官が訪米する際、尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲であることを確認する発言を延々と繰り返している。 これは私から見ると、恋人同士の関係に似ていると思えてならない。「まだ私のことを愛しているの?」と念押しを繰り返さなければ安心できないという、ある意味、気持ち悪い関係である。 尖閣諸島が日米安全保障条約の適用範囲であることは、1971年の沖縄返還協定の批准の際に、アメリカ議会における証言で認めらている。したがって、それ以上、確認をとらなくてもよい事柄なのだ。 このことは、国際社会から見れば非常におかしく見える。同盟が強固なものならば、確認の必要はないのである。日本政府が聞けば聞くほど、日米同盟は脆いと思われてしまう。 その上、第5条が適用できる事態だけで済むとは限らないのである。そもそも、第5条シナリオが有効な状況というのは、簡単な事態なのである。つまり、武力行使の対象となったので日米が対処する、ということだ。 問題は、第5条適用以外のシナリオだ。例えば、海上で日中間で何事か起こった場合。中国は情報戦、広報外交がうまいので「日本が先に撃った」という雰囲気にされかねない。 日本から先に攻撃した場合とアメリカが認識すれば、第5条は適用されない。さらに力を行使しても解決をする、時のアメリカの政権が中国よりであれば、なおさら行動しない可能性が高い。 そもそも、大きな矛盾を孕んでいる。アメリカ政府が、日本の施政権を認めつつも領有権を認めない日本の領土に対して、防衛義務があることはおかしいと指摘するアメリカ国民がいるので、もしその数が増えれば政府として行動し難くなることも忘れてはならない。 さらに、武装した漁民などが尖閣諸島に上陸した場合など、ほかに、条約上のグレーゾーンがある。 例えば、尖閣諸島の領域に中国などの船が入り、「故障」し、修理用の部品や、船員の食料などの補給の理由で、2隻目、3隻目が入り込み、いつの間にか、対応し切れないほどの船や人数がいる。 当然、その間、中国は、軍艦と変わらないほど武装化されている、日本の巡視艇に当たる海警の船を出し、中国の漁民を守ると名目で派遣し、情報収集のためにも船を派遣する。 この緊迫した状況の中で、現在の日本政府に退去させる力があるだろうか。このような事態は、容易に想像できる。 実は、返還前に、小規模ではあったがシナリオの前半に似ている事態が台湾との間で発生したことがある。このときは、米軍が退去させた。 日本は、いつもの外交カードである、「対話による」解決を選ぶだろう。しかし、そうした方法は、そもそも正当性がない中国の主張を正当化し、彼らの立場を強化することにつながる。 このようなことを日本政府は、46年間、一貫して繰り返している。なぜ、日本人は歴史や教訓を覚えないだろう? そもそも、中国は、尖閣諸島における日本の主権を認めていないので、「退去する理由がない」と反論できる。それでも平和裏に退去させようとしたら、何か別な条件を飲まされかねない。 これは主張や立場の違いではなく、国益をめぐる国際政治の厳しい現実なのだ。力を行使しても解決をする中国は、他の国と比較できないほど国益を追求している国だ。そろそろ日本も甘え考えを捨てて、真の国益を追求しないといけない。。 アメリカの日和見 最も警戒しなければならないことは、尖閣問題に対するアメリカの現在のスタンスに、根本的な誤りがあることだ。上記で言及したように、日本の施政権を認めるが、アメリカは、実は尖閣領有権問題に関しては中立方針をとっているのである。 今のアメリカの方針では、日本の領有権については、肯定も否定もしていない。しかし、同じように論理的に考た場合、中国の領有権主張については否定していないことになる。 もし中国が第5条に抵触するような軍事的な作戦を展開した場合に、アメリカが中国に対して、何らかの言及や行動を行おうとしたら、中国は、アメリカは中国の領有権を否定していないのであるから、口も手も出すべきでないと主張できるのである。 これがおそらく一番恐ろしいシナリオである。最初から何もできないからだ。 このように、尖閣問題の起源は、アメリカの中立政策にある。 戦争が終わってから27年間の占領・統治期間、アメリカは沖縄が日本の領土であるという方針をとってきた。国際的にも、サンフランシスコ平和会議の際、南西諸島に対し日本は潜在主権があるという見解を、アメリカのダレス国務長官が言明したことで、広く認識されている。 ここでいう、南西諸島を、尖閣諸島を含む形で、アメリカは占領・統治している。つまり、尖閣諸島は旧沖縄県の南西諸島の一部であり、日本は沖縄県に潜在主権を保有しているというのが、返還までのアメリカの立場だった。 しかし、1971年6月の沖縄返還協定締結の際、台湾と中国の尖閣諸島領有権問題が浮上した。台湾はその頃まで、アメリカの同盟国であった。また、同年7月にはニクソン大統領の訪中が発表された。そのための折衝が、水面下でキッシンジャー補佐官によって行われていた。そのため、両国も主張に対して、アメリカは曖昧な姿勢をとってしまったのである。 このことは日本にとって死活的な問題を残している。 紛争の際、アメリカが、中国に対して口を出した場合、中国は、このアメリカの立場の穴を鋭く指摘できるので、アメリカの軍事行動を制約することが出来る。 従って、この穴は早急に埋めなければいけない。 尖閣への不作為が世界に示すもの このように、尖閣諸島問題はアメリカに大きな責任がある。しかし、それは沖縄返還まででのことである。返還以降については、はっきり言って、日本政府に大きな問題がある。 他国から領有主張があるにも関わらず、日本政府は、実効支��や施政権を示すための行動を行ってこなかったのである。 もちろん海上保安庁などが、尖閣諸島を日本領として警備してきたのであるが、実効支配を示すために必要な装置、つまり公務員の常駐、港・へリポート、気象台、灯台の建設などは何も行ってこなかった。 しかし、日本の他の他国の領域に隣接する離島には、ちゃんと行っているのである。なぜ尖閣諸島にだけ行おうとしないのか。しかも、こうした措置は、国際公共財になり、国際社会によって歓迎される。 日本は何もしないことによって、中国に対してだけではなく、国際社会に対して、尖閣諸島の領有権に対して自信がない、というメッセージを発し続けているのである。 このことに対して日本政府が示す唯一の理由が、「中国政府を刺激したくない」である。少なくともそういう態度を実際に取り続けている。では、中国は日本を刺激していいのだろうか。国際法違反を繰り返して犯してもいいのだろうか。 傲慢な対外政策をとる国に対して、対処する力がある国は、はっきりNOといわなければならない。そうしなければ、フィリピン、ベトナムなどより力の弱い国は、なおさら、傲慢な国の思い通りにされてしまう。 尖閣諸島問題は、単に日本だけの問題ではない。この地域全体の問題である。 先に触れた今年初頭の、中国艦船の尖閣諸島接近ルートをみると、中国は、この日米の問題を理解したうえで行動しているとしか思えない。 中国の潜水艦と艦艇が接近したのは大正島であった。実は、ここは米軍の演習場でもある。 にもかかわらず、アメリカはこのことについて、表立って非難していない。水面下では何か言っているかもしれないが。 アメリカが公に非難しないことを中国は喜んでいるだろう。少なくとも、そうしないことを計算したうえでの行動だったと思う。それゆえ、この中国の行動は、アメリカへの挑戦でもあるといえる。 歴史教訓を思い返すと、対外的に傲慢な行動をとる国に対し、融和政策をとることは、結局、高いコストを払うにつながる。 このままでは、後々、日本は、東ヨーロッパの小国のようになりたくなければ、問題解決のために、軍事的な対応を迫られるまで、追い込まれかねない。そのことは、非常な覚悟が必要なだけではなく、コストもまた非常に高くなる。 しかし、今の段階で賢い方法をとれば、そのような事態を、より低いコストで回避できる。これは、前述した気象台、港などの整備や公務員の常駐など措置で、行政的手法による予防的政策だと思う。 どちらがいいか。日本は自身の判断で選択していただきたい。しかし、時間があまりない。 安倍政権内で中国が動くまで待つか、それとも、先に自信を持って、積極的に尖閣諸島における行政的な態勢を確立し、国際社会における日本の立場を強化していくのか、を決める時期だ。
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