#美濃市文化会館
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#おでかけ #美濃和紙あかりアート展 #美濃市文化会館
駐車場に戻る道すがら、通りかかった美濃市文化会館の中でも何か展示がされているようだったので立ち寄ってみることにしました。
展示されているのは主に市内の小中学生の作品。色遣いも大人の作品よりカラフルで、二階の廊下にずらりと並んだ作品たちは結構見ごたえがありました。

三日月を立体型にするのは結構難しそうなのに、うまく可愛い形になってるなぁ。背景が暗いので、まさに夜空に浮かぶ月のよう。

なるほどヨーヨー釣り。その発想はなかった、というようなものが作品にされていて面白いです。
和紙で灯りを作ろう、となった時に、ぱっと焼き芋とかヨーヨー釣りが題材として思い浮かぶか、という。多くの人はどうしてもインテリアとしての灯りの姿かたちから逃れられないだろうなと思います。発想力というか、それを灯りとして仕立て上げるアイデアはすごいなぁ、と思うのです。

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妻を殺害した疑いがかけられている元長野県議会議員の丸山大輔被告(50)の初公判が10月16日に行われた。裁判の冒頭、丸山被告は「妻を殺害したのは私ではありません」と容疑を否認し、妻の実家への借金などを理由に殺害したという検察の主張と真っ向から対立している。 真相究明の一助となるため、丸山被告の人柄や経歴、夫婦関係について追った当時の記事を再公開する。(初出:「週刊文春」2022年12月15日号。年齢、肩書等は当時のまま) ◇◇◇ 「地元のために汗を流します。貢献したいんです」 2022年10月22日、長野県塩尻市の会館には300人を超える後援者が一堂に会していた。この日行われたのは、来年の統一地方選の決起集会。地元選出の後藤茂之経済再生担当相や百瀬敬塩尻市長が控える中、自民党の丸山大輔長野県議(48)はマイクを握り、飄々とした表情で挨拶をした。 だが、約1カ月後の11月28日、丸山は妻・希美さん(享年47)に対する殺人容疑で逮捕されたのだ。 「昨年9月29日の未明から早朝にかけ、塩尻市の自宅兼事務所で希美さんを窒息死させた疑いが持たれている。希美さんの首には絞められた跡や抵抗した際に付いたと見られるすり傷があり、喉の骨の一部が折れていた」(社会部記者) 事件前日の晩、丸山は同僚議員と飲食し、「その後は長野市の議員会館にいた」と全面否認を続けている。 県議の傍ら、約140年続く酒造会社「笑亀(しょうき)酒造」の四代目当主を兼務していた丸山だが、自らが杜氏となって世に出した酒は「深みがなく、まるで水のように軽かった��(同業他社)と酷評されている。周辺取材で浮かび上がったのは、まさに「笑亀」のような半生だった――。 地元の名門校から一浪して慶応大へ 1974年、丸山は塩尻市内��2人きょうだいの長男として生まれた。中学時代の同級生が振り返る。 「中学時代は吹奏楽でチューバを演奏していた。言われたことをちゃんとこなすタイプで、リーダーシップをとる感じではなかった」 中学卒業後、丸山は地元一の名門校である県立松本深志高校に進学。 「D(丸山のあだ名)はチャラくて陽気な男で、高2の頃には美人の同級生と付き合っていた」(高校の同級生) 「あの同窓生と1回だけヤッた」 一浪を経て、慶応大学経済学部に合格。すると、次第に“欲望の刃”を周囲に向けるようになる。 松本市内の宴会場で催された高校の同窓会に参加した丸山は、勢い良く酒を呷ると、同級生の女性に“性的サービス”を要求。その場には白けた空気が漂った。 「彼は友人に『あの同窓生と1回だけヤッた』と吹聴するなど、異性関係をひけらかすようになっていきました。当時、父親が東京の信濃町にマンションを持っており、そこで1人暮らしをしていましたね」(友人) 大学卒業後、丸山は公認会計士を目指す。ところが、2002年に父が事務所内で倒れ、急逝。丸山は27歳で家業を継ぐことを決意し、帰郷する。杜氏の修業を積む一方、塩尻青年会議所に積極的に出入りし、理事長を務めた。 「父親の死後、昔からの杜氏が辞めてしまった。丸山は杜氏の真似事をして奮闘していたが、所詮は素人。濁ってるし、腐ってるしで飲めたもんじゃなく、得意先の飲食店はどぶに流して捨てていたほど」(後援者) 教育熱心だった希美さん そんな苦境を陰で支えたのが、糟糠の妻だった。 1974年、希美さんは400年以上続く木曽漆器で知られる町に生まれた。実家は約100店舗ある木曽漆器店のうち3本の指に入る名店。都内の大学を卒業した彼女は一時、実家で経理業務を担当していたという。 「希美さんと丸山は青年会議所を通じて知り合い、意気投合。結婚後に2人の子宝に恵まれた。長男が産まれたとき、旦那さんは酒蔵にちなんだ名前をつけて、『この名前、どうですかね』と嬉しそうに話していました」(希美さんの知人) 一方、琴を嗜む希美さんは長男にピアノやサッカーを習わせ、教育熱心な母の顔を周囲に見せていた。 「酒屋では食えない」と政治の道へ だが、家業は茨の道が続いた。夫婦の奮闘虚しく酒造りは軌道に乗らず、丸山は「酒屋では食えない」と周囲に吐露。別の道を模索して地元企業グループの御曹司だった高校の同級生に相談したところ、政治への道が拓けたのだ。 当時の市長の全面支援を得た丸山は、2015年の統一地方選でトップ当選。晴れて県議としての人生をスタートさせた。ところが――。 松本城を望むホテルに約60人のメンバーが集まったのは、2018年1月のこと。同窓会が催されたその日、会場を見渡した丸山は「今日は随分少ないじゃねえか」と悪態をついた。学校関係者が振り返る。 「丸山は自分が話したい女性と話すために『どけ!』という態度で周りの同級生を恫喝し、割って入ったりしていた。泥酔し、終始ぞんざいな態度でしたね」 表に出始めた“卑猥”な性癖 地元有力者に担がれているという慢心と共に表に出始めたのが“卑猥”な性癖だった。2020年1月15日深夜、丸山の姿は塩尻市内のバーにあった。ウルフルズの曲「ええねん」がかかると、おもむろにマイクを握り、替え歌を披露する。 「ちんこ出したらええねん~♪」 同店関係者が明かす。 「その日は青年会議所OBの飲み会でした。近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』の替え歌で『ギンギラギンで縦振りだぁ!』と叫び、連れてきた30代の女性をカウンターの前に立たせ、ひたすら股間をすり当てていました。常連のフィリピンパブで下半身を露出し、“ちんちん踊り”をする様も頻繁に目撃されていましたね」 そんな丸山が、密かに熱い視線を送る女性がいた。 長野県庁議会棟2階にある自民党県議団。会派室の職員として20年にわたり仕事をこなしてきた地元出身のA子さん(41)だ。 「2人は不倫している」と囁かれるように 彼女を知る県議会議員が仕事ぶりを評する。 「県議団が雇っている職員で、字が上手いもんだから重宝されていた。御礼状など『一筆書いて』と頼むと、きちんと仕上げてくれる。議員の体調を心配するなど気遣いもできる子で、年配の女性が多い中、自民県議のアイドル的な存在です」 5、6年前に離婚し、今は独り身のA子さんに、丸山は急接近していく。 「半年ほど前から複数の県庁職員が長野市内でディナーをする2人の姿を目撃するようになり、『2人は不倫している』とまことしやかに囁かれるようになった」(県庁関係者) 妻の実家に多額の資金援助を… 他方、丸山は酒造会社の経営を巡り、妻と意見が対立するようになっていく。 「経営難に喘いだ末、希美さんの実家に助けを求め、多額の資金援助をしてもらったのです。“担保”として12年2月、会社の建物のうち1棟を希美さんに贈与。一帯の物件には1億円の根抵当権も付けられています」(漆器店関係者) 丸山が希美さんを連れ、行きつけの寿司店に顔を出したのは昨年夏のこと。座敷で出迎えたのは、10人前後の後援会関係者だった。 「支援者が『奥さんにも食わせてあげてほしい』と言って2人を招いたんです。帰り際には支援者の畑でとれた野菜を渡されていました。彼女は3歩下がって付いていく人。それが最後に見た姿だった」(店主) それから約1カ月後、酒に酔った丸山は自家用車のハンドルを握り、議員宿舎から自宅へと向かった――。 県警は“重要参考人”として、A子さんを複数回にわたり聴取している。 「A子さんの存在を巡り、夫婦関係が悪化したことが殺害動機の1つになっていると見て、裏付け捜査が進んでいる」(前出・社会部記者) 希美さんの遺体の第一発見者は、当時小学1年生の次男だった。両親を失った2人の息子は、東京に住む希美さんの親族宅に預けられているという。
〈初公判で無罪主張〉妻の実家に借金も…妻殺害で起訴の丸山大輔元県議(50) 長野県警が聴取していた不倫相手は“自民党のアイドル”だった(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
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「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」展
大阪市立東洋陶磁美術館で、リニューアルオープン記念特別展「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」を見る。惹句にあるように“オールスター・珠玉の約380件(国宝2件、重要文化財13件含む)”が揃った、なんとも贅沢な特別展である。全面的に撮影可能。無料のアプリをダウンロードすれば音声ガイドも聞ける(書き起こしもあって文字でも読める)。
また、美術館の公式サイトでは収蔵品画像オープンデータが公開されており、この展覧会に出品されている作品も参照することができる。さらに、公開されている画像は“当館への申請が必要なく、自由にダウンロード、複製、再配布することができます。例えば出版物やウェブサイトへの掲載、講演会等でのスクリーンへの投影、テレビ番組での放送、販売商品への印刷など、営利・非営利に関わらず利用が可能です”とのこと。でも、公式画像は美しいけれども展覧会の臨場感(?)が出ないので、いつもどおり自分で撮ったしょぼいスマホ写真を載せることにする。
展示は全部で13のパートに分かれており、それぞれに格好良さげなタイトルがついている。
1 「天下無敵(てんかむてき)-ザ・ベストMOCOコレクション」
この展示室では陶磁器と六田知弘の写真作品《壁の記憶》との取り合わせが楽しめる。《壁の記憶》は写真家が世界各地で撮った壁の写真のシリーズのようである。展示風景はたとえばこんな感じ。

このようにコーディネートされており、意外性もあってなかなかよかった。上の赤い写真作品の壁はベネチア(イタリア)、下の白っぽいのはサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)。

展示室から展示室へと移動する途中に特別あつらえらしい展示ケースがあり、国宝の油滴天目が鎮座していた。たしかに美しいが、正直なところ自分の好みではあまりなく、油滴天目なら以前別の美術館で見た別のもの(もっと油滴が細かくて繊細に光る感じ)のほうが好みだったなあと思い出すなどした。

2 「翡色幽玄(ひしょくゆうげん)-安宅コレクション韓国陶磁」
青磁好きにはたまらない展示室。あれもこれも全部青磁、もちろんクオリティも高い。


3 「粉青尚白(ふんせいしょうはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
下の写真の3点は日本では三島とか三島手と呼ばれるタイプの焼き物。三島は朝鮮半島製のほうが日本のより圧倒的に良い出来で、とても好き。

そして次の3点は粉引の瓶。日本の茶人などの間で好まれたタイプで、たしかに良い風情である。

4 「清廉美白(せいれんびはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
《青花 草花文 面取瓶》。日本では「秋草手」と呼ばれる文様。面取の具合も文様も端正で美しい。

《白磁 角杯》。遊牧民族が酒などを飲むのに用いていた角の形の杯を模したもの。王室用の白磁らしく、品がある。

ロビーの展示ケースにあった、ルーシー・リー《青ニット線文鉢》。

これもロビーにあった、《青花 虎鵲文 壺》。18世紀後半、朝鮮時代の作。ここに描かれた虎が美術館のキャラクターに採用されて「mocoちゃん」と呼ばれることになった。MOCOは美術館の英語名の略である。

6 「優艶質朴(ゆうえんしつぼく)-李秉昌コレクション韓国陶磁」
《青磁象嵌 雲鶴文 椀》。象嵌技法にすぐれた一品。釉薬の貫入がまったくないのも特徴。

《白磁鉄地 壺》。下半分はちょっと見には焼き締めのようだがそうではなく、鉄絵具を塗ったもの。16世紀朝鮮時代の作だが不思議と現代的に見え、たとえば「ルーシー・リー(あるいは誰か他の現代の陶芸家)の作品だよ」などと言われたらつい信じてしまいそうである。無理を承知で言うならこれはうちにも欲しい。

6 「陶魂無比(とうこんむひ)-日本陶磁コレクション」
中国や朝鮮半島の優品を見てしまうと、日本の焼き物は正直かなり見劣りしてしまう。悪くないものはあるのだが、ほうっと溜め息をついたりつくづく感心しながら眺めるようなものはなかなかない(好みの問題かもしれないが)。そんな中で自分の目に留まったのはこれ。料理が映えそうなデザインで、実際に使ってみたいと思った。

7 「陶花爛漫(とうからんまん)-李秉昌コレクション中国陶磁」
このパートに展示してある作品は、古いものだと新石器時代ごろまで遡る。中国文明の先進ぶりを目の当たりにして恐れ入る。この下の美しい白磁の杯も、さすがに紀元前とまではいかないが隋の時代(7世紀)の作。高台に釉薬が溜まって緑がかって見えるのもチャームポイント。

8 「喜土愛楽(きどあいらく)-現代陶芸コレクション」
現代の作家の作品がロビーにいくつか並んでいた。下の写真は金子潤《2フィート・トール・ダンゴ》。ガラス張りのロビーだが、作品の背後には薄手のシェードが掛けてあった。

9 「明器幽遠(めいきゆうえん)-安宅コレクション中国陶磁」
MOCOのヴィーナスこと《加彩 婦女俑》。自分がお目にかかるのはこれで2度目である。360度回転する展示台にお乗りあそばされている。

こんなふうに回っておられる。

後ろ姿のなんと優美なことか。

《黒釉刻花 牡丹文 梅瓶》。白化粧をした上に黒釉をかけ、黒釉を削り落として文様を表現する技法(掻落し)で作られたもの。掻落しで自分の好みに合うものはあまり多くないのだが、これは堂々とした存在感でひときわ目を引いた。

《木葉天目 茶碗》。本物の木の葉(桑の枯葉)を焼き付けて作られた天目茶碗。加賀藩前田家伝来との���と。

10 「天青無窮(てんせいむきゅう)-安宅コレクション中国陶磁」
点数は少ないが、うっとり眺めてしまうようなものばかり集めた特別な室。
《青磁 水仙盆》。これは以前この美術館を訪れた際にも見たので、またお会いできましたねと声をかけたくなった。宋の時代に宮廷用の青磁を生産していた汝窯の逸品。美しいが、これよりもっと素晴らしいのがこの世に存在している(台湾の故宮博物院が持っている)というのもまたすごい。

国宝《飛青磁 花生》。自分のスマホ写真では到底うまく色を再現できないのが残念。

この特別な展示室では自然光による採光がなされているのが大きなポイント。青磁の微妙な色合いをよく見ることができるとされる。

11 「皇帝万歳(こうていばんざい)-安宅コレクション中国陶磁」
中国の皇帝の身辺を彩るにふさわしい、文様が華やかだったり色鮮やかだったりする作品の多い室。
《釉裏紅 牡丹文 盤》。銅顔料が使われており、たまたま中央部の牡丹の花のところだけ赤っぽく濃いめに発色したというのがおもしろい。

抹茶色が特徴的な《茶葉末釉 双耳方形瓶》。茶葉末釉は個人的にそれほど好きな色ではないのだが、これはとても出来が良いように見えて印象に残った。

12 「百鼻繚乱(ひゃくびりょうらん)-沖正一郎コレクション鼻煙壺」
いわゆる嗅ぎタバコ入れが勢ぞろい。下の写真はほんの一部である。

この虫づくしのはどこか現代的な感じがする。とてもいい。虫好きな人がこぞって欲しがるのではないか。自分も欲しい。

13 「泥土不滅(でいどふめつ)-現代陶芸コレクション」
現代の陶芸作家の作品がいくつか展示されていた。これは星野曉《表層・深層》。

併設のカフェには「陶片クッキー」なるメニューがある。これは注文せざるを得ない。作家がひとつずつ彩色(アイシング)を施しているというから凝っている。ふたつとも涼しげな色合いなのは、もしかして夏だから? 海や水辺をイメージしたとか? 別の季節にも行ってクッキーの色合いを確かめてみたい。なお、味のほうはいまいち口に合わなかった……惜しい。

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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年8月3日追記 4335文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある お兄さんいるらしいがあった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 上野城のお堀の高さ日本2位? 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった 小学校までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから だからそういう人には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ���もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと���さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅷ
花鳥誌2024年8月号より転載

日本文学研究者
井上 泰至
14 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
初出は『ホトトギス』昭和十一年四月号「句日記(昭和十年四月)」。「四月二十二日。風早西ノ下に句碑を見、鹿島に遊ぶ。伊豫松山、黙禅邸。ホトトギス会」と前書き。『五百句』にほぼ同文の注記あり。
この句の詠まれた事情については、『ホトトギス』昭和十三年十二月号巻頭に虚子自身が書いた「阿波のへんろの墓」の一文がある。虚子が新田宵子夫妻・池内友次郎夫妻・高濱(当時)章子と故郷西ノ下を訪ねた消息を書いたものである。まずは決まって訪れる大師堂の大きな松に佇み、裏手にある「阿波のへんろの墓」を確認したが、なかったのであった。虚子の証言によれば、江戸時代の標準的な書体である御家流で書かれた古いものであったという。
虚子は碑が無くなっているのを嘆きつつ、恐らく行き倒れの曰くなどがあろうことを想起し、子供時代に目撃した遍路の一行を回想している。二、三歳の頃、遍路の女に抱き上げられ、大師堂まで連れていかれた想い出を語り、おそらくその女は、自分と同じくらいの子供を無くしていたのだろう、と語っている。このエピソードは、その後自分の人生を振り返った『虚子自伝』(昭和二三年刊)でも書き記されており、虚子のふるさとの記憶として刻印されていたことがうかがえる。
「遍路」は『ホトトギス』雑詠欄によって季題になった。一見古そうに見えて新しい季題である。西村睦子『「正月」のない歳時記』(本阿弥書店)によれば、大正十三年に三句登場して以来、昭和九年までに二六〇句も載る人気の季題となった���指摘されている。虚子が季題を選んだ改造社版『俳諧歳時記』春の巻(昭和八年刊)に、虚子の詳しい解説と例句の二七が確認でき、出典はすべて『ホトトギス』からである。虚子編『新歳時記』(昭和九年刊)にも同様に詳しい解説付きで立項され、例句二二を数える。つまり、伊予出身の虚子によって「遍路」は季題になったのであり、この句はその例句として加えられ、そのトドメを打ったのである。
『俳諧歳時記』の解説につけば、春の、しかも女性の景物としてのこの季題のイメージが確認できる。弘法大師の巡礼にあやかって、四国に散在する八十八か所を順拝する全道程一二〇〇キロ、日数四〇日余りを要する。宗旨・老若男女を問わず、服装は軽いが、三月から四月の季節がよくなる時期に、菜の花・青麦・紫雲英の鮮やかに彩られた道をぞろぞろと通る。この風景との一体化が単なる「巡礼」でなく、季語としての「遍路」の拠って立つところであると特記する。
特に若い娘たちは華やかなセルの着物に、白木の納札挟みを胸高にかけ、鬱金や浅黄色の手甲脚絆をつけ、同じ色の姉さま冠りの上に真っ白な菅笠をかぶり、緋の腰回しもあらはに裾を端折り、白木の杖をついた姿を虚子は詳細に活写している。高濱年尾の次の句などは、この虚子が特記した美しさの方に拠ったものであろう。
お遍路の美しければあはれなり
虚子の句にもどれば、山本健吉『現代俳句』に的確な評がある。まず「遍路の墓」とだけあって無名であることがかえって叙情を増すこと、「阿波」の地名から、浄瑠璃でよく知られた、長年別れた母と出会うもそれと気づかない巡礼お鶴(「傾城阿波之鳴門」)の連想で、子別れの哀話が想像されることを指摘する。
さらに健吉は重要なことを言っている。「遍路の墓」そのものに、春の季感はない。むしろ春の季語「遍路」が置かれることで、子供時代の春遍路の記憶と現在の春とが結び合わされるのであって、新興俳句の中でも有季定型を守った水原秋櫻子の流れの季感主義を批判している。季語は言葉そのものに意味があるのか、言葉の背後にある季感に意味があるのか? これは有季定型俳句の一大論点である。
過剰な、「今」「此処」にこだわる季感主義では、この虚子の句などは取り落とされてしまう。言葉が残ることによって、過去の季感を学び、それを想起し、対話する。下手をすると昨今頻出する「昭和の日」俳句の甘い回想句の氾濫のような惰性に堕ちてしまうのだが、言葉の由来や歴史性を無視しては、多くの俳句の財産を無くすことも自覚しておくべきだろう。掲句はその文脈において、今日重要な意義を持っていると言えよう。
15 白酒の紐の如くにつがれけり
この句の成立は若干の問題を含む。『ホトトギス』昭和二十年六月号の「句日記(昭和十九年三月)」には、「三月四日句謡会。鎌倉要山、香風園」の前書に「白酒の餅の如くに濃かりけり」「瓶のまま白酒供へ雛は粗画」と併記される。
しかし、『六百句』には、前日の「(昭和十九年)三月三日 家庭俳句会。日比谷公園。丸之内倶楽部別室」と注記され、〈洋服の襟をつかみて春寒し〉と共に掲載される。
「句日記」では、「洋服の」の句の他、「春草を踏まえて鳩の足あかし」「斯く行けば春風寒し斯くは行く」「その中に大樹芽ぐは物々し」といった吟行句が並び、「白酒」句はない。
すなわちこの句は当初、雛祭を題詠的に詠んで四日の鎌倉の句会に出したものだったが、後に三日の家庭俳句会での作、ということにしてしまったものなのである。
虚子の句集における注記は、必ずしも実際に忠実なわけではなかったことが知れるが、これは掲句を三日の発表ということにした方が、効果があると考えたからであろう。なお、家庭俳句会は、婦人俳句会などとともに『ホトトギス』に立ち上げられた、女性中心の句会で名句が多く生まれている(『俳壇』二〇二四年七月号「座談会」(西村和子・井上・堀切克洋)。そのこともこの発表時期の変更という「操作」の理由ではなかったかと思う。
掲句は、端的にして的確な比喩によって、「白酒」の様態を鷲つかみにした写生句で、間然とするところがなく、名句としてはよく引かれるものの、解説は意外に少ない。
ポイントは「白酒の」の「の」である。これが「や」では、なぜいけないか?「や」「けり」と切れ字が重なることを嫌ったのは、すぐわかる。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村 草田男
この句のように上五とそれ以下の間に「飛躍」があるなら、切れ字が重なっても問題はないが、「白酒」の句は典型的一物仕立てで、「や」では煩い。
「の」の効果はそれだけではない。「紐の」と「の」を畳みかけることで、「白酒」の様態に焦点を当てることができる。
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり この庭の遅日の石のいつまでも 蛍火の今宵の闇の美しき 立秋の雲の動きのなつかしき
以上のような虚子の作例につけば、上五の下に「の」を軽くつけて、以下で「の」を繰り返して、リズムを作り、対象にフォーカスを当てていったことに気づかされる(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
「白酒」の句の主題は、液体の動きにあるので、「つがれけり」と用言でまとめた。虚子は「眼」の詩人ではあるが、これをことさらに強調せず、さりげなく、品よく提示してみせる。鷲づかみの「写生」にありがちな生々しさを包むデコレートの感覚(井上「品格ある写生」『俳句』二〇一九年四月号)こそ、作家虚子の「写生」を代表するものとして、ここに指摘しておきたい。
*先月号記事に脱落がありました。「紅梅の苔は固し不言」の句は『ホトトギス』九年二月号で『五百句』同様「二月二十二日。臨時句会。発行所。」と前書きされています。記してお詫び申し上げます。(筆者)
『虚子百句』より虚子揮毫
15 白酒の紐の如くにつがれけり
16 紅梅や旅人我になつかしき

国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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01/24 柴寮偶記
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2023.12.22fri_tokyo
目覚めてすぐにXとインスタを開き、ガザの同行をチェックする。
手にキャンディーを握りしめたまま子供が死んでいる。 少年が泣き崩れて、父親の死体にしがみついている。 生後間もない赤ちゃんが返り血を浴びて泣いている。 目が覚めると家族全員を失い、自分の右目もなくしていた男の子が泣き叫び、地面を叩いている。

その写真や映像をリポスト及びストーリーズでシェアする。ここ数日、これを繰り返している。 この悲惨な写真や映像が、誰かの目に突然飛び込むことに躊躇がないわけではない。これを見せたいと思っているわけではない。僕もこんな悲惨なものは見たくない。目をそらしたい。でもいちばん見たくないし本当は見せたくないと思っているのは、この惨劇を撮影した人たちだろう。その彼らが「Don’t Look Away(目をそらさないで)」と発信しているその苦しみを想像すれば、何もしないでいることは僕にはできない。ガザでは子供の死体から目をそらしても、そのそらした先にも別の子供の死体が転がっている。これが現実だと伝えている。
子供が起きたので朝ごはんの準備、そしてこども園に連れて行く。帰宅してデスクワークをする。伊藤忠アビエーションと日本エヤークラフトサプライに「イスラエル軍の兵器を製造しているエルビット・システムズとの業務提携を解消してください。ガザでの大虐殺に加担しないでください。これ以上、死の商人として世界に名を馳せないでください。命を奪うのではなく、命を救う行動をお願いします。」と意見を送る。本当は昨日の一斉抗議にあわせて送りたかったのだが、都合がつかなかった。
妻と外出し、昼食を孫市というラーメン屋で食べる。久しぶりの孫市は麺が今までよりもちもちに感じてとても美味しかった。その後、一橋大学に移動。学生有志による「パレスチナに涙を」という、パレスチナへの連帯を示すアクションに参加する。参加者は赤い絵の具で涙を一粒描く。その間、虐殺で亡くなった人たちの名前が読み上げられる。そのほとんどが10歳に満たない子供たちだ。とても一時間では読み上げきれませんと教えてくれた学生は、今みんなで植民地主義や帝国主義について学んでいるところですと言った。

僕はこの虐殺がなぜ起こったのか、何が起こっているのかについて学び始めて、自分がどれだけ無知で、それどころか全く知ろうとしていなかったということを痛感した。民族浄化やシオニズムという言葉も知らなかったし、パレスチナがどこにあるのかすらまともにわかっていなかった。知れば知るほど、自分の無関心を恥じ入った。そして帝国主義についても無知だった。国連での停戦決議を拒否するアメリカ。それに足並みを揃えて決議を棄権するウクライナ。侵略されている国が他国の侵略を止めようとしない。なんだかいろんなことがボロボロと崩れていくようだった。次々に欺瞞が暴かれるこの感覚は身に覚えがあった。それは東日本大震災の後に感じたものとよく似ていた。
帰宅してデスクワークの続きをする。夕方になり子供たちをこども園に迎えに行く。帰りに精肉店で豚レバーを買う。もう20年以上前になるが、人生で一度だけフォアグラなるものを食べたことがある。その濃厚な旨味は噂に違わぬものだった。そこでこの豚レバーで、擬似フォアグラを作ってみようと思いついたわけである。しかしいざ作る段になって調べてみると、バルサミコ酢が必要だとわかる。我が家にそんなものはない。が、黒酢ならある。さらにはちみつも必要だとわかったのだが、そこは安心せよ、最近急に父親がはちみつに凝り始め、一本6,000円の高級品をよこしたのだ。と、これなら黒酢だろうが豚レバーだろうが全部覆すだろうと自分に言い聞かせて完成させた疑似フォアグラソテーは案外旨く、子供たちに好評であった。
午後から仕事に出ていた妻が戻ったので、子供たちのお風呂と寝かしつけを任せて立川駅へ向かう。パレスチナの国旗と、ていせんとひらがなで書いたカードを首から下げて駅の入口に立つ。金曜の夜の駅は、飲み会帰りの人たちが行き交っている。ときどきカードに視線をやる人がいるが、そのまま通り過ぎて行く。 SNSを通してだけパレスチナの情報に触れていると、僕のタイムラインに時々現れる、上映や展示の告知や、あまりに以前のままの光景に戸惑うという倒錯が起き始める。戸惑いならいいが、それがだんだん憤りから苛立ちに変わりそうで、これはよくないと思い、世間は一体どう感じているのかを一度この身に染みさせようと思ったのだ。その結果、話しかけてきたのは「ていせん?ていせんって…あの箱型の、自分は車両庫に勤めてるんですけど、ていせん持ってこいって言われて、はい!って持っていくあの箱型の…?ていは丁って書いて、せんは数字の千で…あの箱型の?あ、戦争の?戦争の停戦の?」と勘違いした男だけで、彼はチラシを受け取ることなく足早に去った。これが現実だ。 そもそも関心のない人は、これがパレスチナの国旗であることにすら気づかないのかもしれない。子供でも読めるようにとひらがなにしたものの、こんな夜遅くには酔っぱらいしかいない。あまりに無策だった。やはり何も知らない人たちに訴えるには、アベ政治を許さない!くらい強く明確でなければならないのか。すかしたアーティスト気質などいらない。あとやっぱり人数は大事だな、だからデモに参加したほうがいいのか、などと思い巡らせていると一時間はあっという間で、次はもっと策を練ってから来ようと決めて駅を後にした。

帰宅して、Xとインスタで外務省前や首相官邸前のデモの様子をチェックする。今日もアメリカ大使館、首相官邸、外務省に即時停戦の意見を送る。タイムラインにまた「Don’t look away」の文字。ベッドに横たわった一歳にもならない赤ちゃんの死体と、その母親が悲鳴をあげて泣いている映像が現れる。母親は目を覚まさせようと赤ちゃんを揺すっている。これが現実だ。そしてその映像をリポストする。こういう映像を見るたびに、普通に生きていることに罪悪感を感じる。美味しいものを食べても罪悪感を感じる。家族で笑っても、そのあとに罪悪感がやってくる。自分がこの虐殺に対して声を上げたり行動しているのは、その罪悪感のせいかも知れない。自分の心を殺さないためなのかもしれない。もうこんな映像は見たくない、もうひとりも殺すな。そう言葉にするまでに失われれたあまりにも多くの命に対して、罪悪感でいっぱいだ。 とここまで書いて、この文章が現実の時間に追いつく。もう夜明け前だ。2歳の息子がうなされている。悪い夢をみているのだろうか。もうすぐ来る朝に、またいつもと同じような映像を見ることになるのなら、この現実も悪夢を見ているのと変わらない。もう寝ます。朝になれば妻の誕生日だ。
これを書くにあたり肩書が必要と言われたのですが、やっぱり必要ですか。今は何の肩書も持ちたくないと思っています。前回は映画作家という肩書でこの日記を書いたけど、今はそんなものはいらないと思っています。ただの個人として、人間としてこの現実と向き合って、この世界を受け止めなければいけないと思っています。何の立場もなく、人間としてこの虐殺を終わらせたい。人間として殺すなと言いたい。見殺しにしたくない。僕の場合は自分の無知と無関心を心底恥じ入って、そうすればあとはもうやるだけ、と覚悟は決まりました。そしてやれることはたくさんあると知りました。同じように思っている人がいれば、これを読んでみてください。とても簡単だし、やれることはまだあります。そしてあなたが本当に思っていることを言葉にしてほしい。 https://docs.google.com/document/u/0/d/1IUVPD02DGo5GPPM6ZU2WB0FYES4eGAaXZio07hq07hc/mobilebasic
Stop Genocide! Ceasefire Now! From the river to the sea, Palestine will be free!
-プロフィールー 波田野州平 43歳 東京都立川市 インスタ https://www.instagram.com/inscumgram/ X https://twitter.com/kotobanishimasu HP https://shuheihatano.com/
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新刊「令和ブルガリアヨーグルト」本日発売
※長いです 三年以上ぶりの新刊です。待っててくれた人もとくに待ってなかった人もお待たせ! 題名からお察しのとおり、全面的に株式会社明治様にご協力いただいた、明治ブルガリアヨーグルトを題材にした話です。 ・主人公は20代前半の内気な人間と乳酸菌 ・恋愛要素なし・エロもなし ・乳酸菌がよく喋る、乳酸菌以外もわりとよく喋る ・料理が得意ではない人に向けたちょっとしたヨーグルト料理レシピを交え ・ブルガリアのちょっとした歴史なんかも知れる(ここはA面全開ですが) ・ハートウォーミングなお仕事&推し事コメディ(だいたいB面) です。先日インタビューしてくれたライターさんが、会うなり「マジこれ何考えて書いたんですか!? 天才ですね!」って言ってくれました。なのでたぶん私天才だと思う。このインタビューは12月初旬発売のダヴィンチに載ります。ありがとうございました。 主人公の「推し」はブルガリア菌です。ややこしくて申し訳ないんですが登場するブルガリア菌が「主人公の推しのブルガリア菌(騎士)」と「在野のブルガリア菌(桿菌)」の二種類います。よく喋る(ドラマで橋本さとしさんが演じてくださる)のは在野のほうです。作中では在野のブルガリア菌が、歴代の加奈ちゃんレベルでものすごく良い働きをしてくれて、楽しくなっていろいろ書いてたら私史上最高枚数になってしまいました。お話も長いけど書いてた期間も長く、ブルガリア菌に愛着沸いちゃってたので、最後の段落書いてる最中、お別れするのが悲しくて泣いてしまった。編集者曰く「これをどんな気持ちで読めばいいのかまったく判らないけどとりあえずなんか謎に感動した」、そんな物語。『CAボーイ』を読んでくださった方、茅野ちゃんのその後が判ります。あと誰も興味ないでしょうが岡林のその後も判ります。この岡林、ドラマにも出てきます。配役聞いてびっくりしました。発表されたら私と一緒にびっくりしてください。
表紙絵はまめふくさんにお願いしました。めちゃかわな菌たちに心がむぎゅっとなりました。まことにありがとうございました。 デザインは、ずっと「いつかお願いしたい」と憧れていた名久井直子さんにお願いできました。感無量です。まことにありがとうございました。
歴史監修は元二松学舎大学学長、現在は北里大学に籍を置かれる菅原淳子先生にお願いしました。まことにありがとうございました。指摘出しをしていただいた後日、対面でも三時間くらいお話しさせていただいたんだけど、「淑女」ってこういう人のためにある言葉だなあって思った。気品溢れるすごく素敵な先生でした。私も学生時代に授業を受けてみたかったです。 自分が好き勝手に書く小説とは責任の規模が違ったため、ほんっとうに多岐にわたって調べました。今の私はたぶん、歴史研究が生業でも趣味でもないのに何故かブルガリアの歴史にやたら詳しい東アジア人ランキングの八百万位くらいには入ってる。乳酸菌にやたら詳しいIT業界出身の40代小説家ランキング五万位くらいにも入ってる。取材��させていただいた株式会社明治の皆さま、文化や言語などいろいろ教えてくださったブルガリア大使館のS氏、登場人物ごとの地元密着濃度まで考慮して方言指導してくださった岩手の友人、関連業界で働く友人たち、ご協力まことにありがとうございました。
★雑談 作中で飯野さんが推している「山手線の各駅を擬人化したアイドルっていうか駅員」は実在します。太田くん(婚外恋愛~でハッチを演じてくれた俳優さん)が目白なのでなんとなくチェックしつつもとくにハマることもなくスルーしてきたんですが、今年に入って宝塚の推しの卒業のため週3くらいで有楽町に通っていた時期、毎回神田で乗り換えてたらほんのりと神田に愛着が沸いてきてしまいました(エスカレーターの壁にめっちゃ印刷物貼ってある)。これが戦略か。カレー食べたい。
★おまけ ヨーグルトを使ったお手軽料理をいろいろ作っていた中で、文字数の関係で主人公に作らせることができなかったが、これは美味しいから他の人にも食べてほしいと思った辛いパスタのレシピ 二人分
材料 ・低脂肪や無脂肪ではない普通脂肪な無糖プレーンヨーグルト200~300mlくらいを限界まで水切りしておく ちょっとミント入れてもいい ・スパゲティ じゃなくてもパスタ類ならなんでも 200g ・みじん切りにした玉ねぎ 1/2個ぶんくらい ・にんにく一片 薄切りにする ・バージン以上のランクのオリーブオイル 適量 ・生ハラペーニョ(緑色) 二~三個 ビニール手袋着用のうえ種を取り荒く刻む。手袋しないと指痛くなります。 ☆トマトジュース200ml ☆砕いた「鍋キューブ」鶏塩味(なければブイヨンでもコンソメでもなんでもいい)一個 ☆魚料理向けハーブミックス 適量 なければバジルとパセリだけでも うちでは朝岡スパイスの「ハーブシーズニング」を使用しています ☆さばの水煮缶 一個 中の汁もぜんぶ使う ☆マッシュルームをスライスしとく 生でも水煮でも 適量 ☆ハリッサ 大匙1くらい ☆トマトケチャップ フライパンに二回しくらい ・塩 トマトジュースが無塩の場合、味見して塩気が足りなかったら足す
1 玉ねぎを半透明になるくらいまで炒め、別皿にうつしとく 2 大き目のフライパンにオリーブオイルとにんにくを入れ、弱火で良い感じにする 3 2のフライパンにハラペーニョと炒めた玉ねぎ入れて火力を上げ軽く炒める 4 3のフライパンに☆ぜんぶ入れてよく混ぜ、サバは適当に崩す 5 10~15分くらい中火~弱火で時々かき混ぜながら煮る そのあいだにパスタ茹でる 6 茹でたパスタを湯切りしてオリーブオイルを軽くまぶしたあと、4のフライパンに入れて混ぜ、ソースが絡んだら皿に盛る 7 上に水切ったヨーグルトを丸く可愛く盛る 8 粗びき黒胡椒(材料外)をかける かけなくてもよいです 私は辛い食べものが苦手なので(しかし夫が辛いもの大好きで)、粉チーズでは間に合わず、辛いパスタにはブラータチーズかマスカルポーネを載せていました。が、頻繁に食べるには両チーズとも高価すぎて「これもしかして水切りヨーグルトで代用できるんでは……?」と思ってやってみたレシピです。低脂肪や無脂肪では試していないので味の保証ができません。残ったホエーはコットンパックやガスール溶かす水代わりにするのがおすすめですが、アレルギーが出る人もいるのでご注意ください。ヨーグルト入りのボディスクラブで痒くならない人なら���ぶん大丈夫です。私の二冊前の本「手のひらの楽園」はエステティックに関する話なので、このあたりの美容系の話題にご興味がある方はぜひ。
★おまけ2 主演の鞘師さんが以前めんつゆのドラマの主演をされてて、おしめしドラマ化が決まったあと、配信探して全話拝見しました。レシピいろいろ参考になったので、私からも、とっておきのめんつゆずぼらレシピ「たぬきごはん」を。 ・ごはん一膳 ・市販の天かす(いか天入ってるやつ) カレー食べるスプーンに山盛り二~三杯 ・めんつゆ(にんべんの金色のラベルのやつ) 味が濃いので最初は小匙以下くらいで試してください ・罪悪感を軽減するための緑色の食材 好きなだけ。お勧めはえだまめ。 ・あれば白炒りごま 好きなだけ よく混ぜる→おいしいけどすっごい不健康だこれ!! 食後に明治ブルガリアヨーグルト食べとけばプラマイゼロになるかも!!※ならないかも。
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2023年上半期に見た展覧会
0103 大竹伸朗展@MOMAT 0107 パリ・オペラ座 響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館 0118 没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡@千葉市美術館 0121 江戸絵画の華【第一部 若冲と江戸絵画】@出光美術館 0121 特別展「毒」@国立科学博物館 0131 アンディ・ウォーホル・キョウト@京都市京セラ美術館 0131 大阪の日本画@大阪中之島美術館 0205 佐伯祐三 自画像としての風景@TSG ★0219 交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー@東京都庭園美術館 *1 0223 YUMING MUSEUM@TOKYO CITY VIEW 0226 マリー・ローランサンとモード@Bunkamuraザ・ミュージアム ☆0226 ヴォルフガング・ティルマンス「Moments of life」@エスパス ルイヴィトン東京 *2 0228 ルーヴル美術館展 愛を描く@国立新美術館 0318 鳥絶技巧 ―渡辺省亭を中心に―@加島美術 0318 DUMB TYPE 2022:remap@アーティゾン美術館 0318 アートを楽しむ−見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館 0325 生誕100年 柚木沙弥郎展@日本民藝館 0329 レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才@東京都美術館 0329 特別展「東福寺」@東京国立博物館 0329 芳幾・芳年─国芳門下の2大ライバル@三菱一号館美術館 0407 建物公開2023 邸宅の記憶@東京都庭園美術館 0409 横尾龍彦 瞑想の彼方@神奈川県立近代美術館葉山 0409 美しい本-湯川書房の書物と版画@神奈川県立近代美術館鎌倉別館 0415 本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション@練馬区立美 術館 ☆0419 クリスチャン・ディオール、 夢のクチュリエ@MOT *3 ★0419 志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」@MOT *4 0421 江口寿史イラストレーション展「東京彼女」@東京ミッドタウン日比谷 0422 今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティ アートギャラリー 0422 エドワード・ゴーリーを巡る旅@渋谷区立松濤美術館 0423 国宝・燕子花図屏風 光琳の生きた時代1658~1716@根津美術館 0423 インターメディアテク開館十周年記念特別展示『極楽鳥』@インターメディアテク 0429 「重要文化財の秘密」 問題作が傑作になるまで@MoMAT 0503 生誕140年特別展 アトリエの朝倉文夫@朝倉彫塑館 0503 「買上展」藝大コレクション展2023@東京藝術大学大学美術館 0505 芸術家たちの南仏@DIC川村記念美術館 ★0506 江戸絵画お絵かき教室@府中市美術館 *5 ☆0507 マティス展@東京都美術館 *6 0527 ブルターニュの光と風@SOMPO美術館 ☆0527 憧憬の地ブルターニュ@国立西洋美術館 *7 0603 大阪の日本画@TSG *8 0618 ベルギーと日本@目黒区立美術館 *9 0623 愛のヴィクトリアン・ジュエリー@大倉集古館 ★0623 木島櫻谷―山水夢中@泉屋博古館東京 *10 ☆0623 伝説のファッション・イラストレーター 森本美由紀展@弥生美術館 ☆0624 ジョルジュ・ルオー ―かたち、色、ハーモニー―@パナソニック汐留美術館 0624 恐竜図鑑―失われた世界の想像/創造@上野の森美術館 0630 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
*1 とても内容の濃い、咀嚼しがいのある展覧会。2時間は見た。これまで断片的には知りつつ、総体としてどのように組み合わさっていたかは正しく理解していなかった、アール・デコ前後の動きの相互関係がよくわかった。ただしそれらは単純に一本の線で示されるものではなく、行きつ戻りつしながら、ジグザグと進んでいく。なるほどそれは「ポリフォニー」であり、カタログなどの「はじめ」から「おわり」に向かうメディアでは説明がし辛く、まさしく展覧会という場で見せるにふさわしいテーマ。結局本の方が、ストーリーを語りたいだけで言えば資料集めやすいじゃんね、という問題が常につきまとう中、まさしくこれは「展覧会」である意味がある展覧会。 *2 写真の見方はいまだによくわからないのだけれど、これが自分の気持ちにぴったりくるものなのはわかる *3 聞きしに勝る資本力。MOTからすれば、ほぼ貸し館的な企画である一方で、牧村虎雄や河野通勢の油絵とのコラボレーション展示など、学芸員の矜持を感じるスポットも。 *4 ディオールも吹っ飛ぶ内容。いきなり現れる大型映像インスタレーションから目が離せない。一見無関係に見える2者の展示に通底するテーマに触れた時、鳥肌が止まらない、です。 *5 いくらなんでも面白すぎる。今回のテーマは「お絵かき」で正直ナメてた(ナメてないけど)が、要するに作品がどのようにして描かれてるかを絵師目線で紐解いて、鑑賞者に対して絵をより開いた内容にするという、いつもの金子節。いつもそうだけど、府中の展示で学んだ内容は、後々に他の展示を見るときにジワジワ効いてくる知識なのでありがたい。そんな「お絵かき」というテーマが通底しつつ、後はいつもの「こんなおもろい絵出てきたよ」というご開帳・・この辺の、「春の江戸絵画まつり」定番の出し惜しみのなさは相変わらず凄い。もうちょっとゆっくり見せて!と言いたくなるくらい次から次へ面白い絵が襲来して、頭の中が大渋滞になる至福。あー、前期も来ればよかった。 *6 僕はマティスが好きなのでありがたく拝見したけれども、展覧会としてはややボリュームに欠けたのは正直なところ。そもそも、ポンピドゥーセンターのコレクションだけでは確かにちょっと難しいよね・・・一方で、時代順のレトロスペクティブの形でマティスを見るのは初めてで、どの時代の絵も「ああマティスだな」と思う絵なんだけれども、その前後関係を復習できたのは面白かった。あとは彫刻のセクション、あそこがもう少し、マティスの画業とどこまで結びついているのか丁寧な説明があると良かったな。「形態」っていうキーワードは何回か出ていたけれども、結局は色彩の話に隠れてそのテーマが見えづらくなっていたような気がします。 *7 さる筋によると本当に偶然テーマが被ったみたいですが、これは2本まとめて見るべき展覧会だったなと。ホワイトインターナショナル企画の方が扱っている時代と流派の幅が広くて、いくつもの絵画の流派を通して、「ブルターニュ」という題材が繰り返し変奏されていくような構成が面白かった。一方で、絵画として見ごたえのある作品が多かったのは当然西美の方だったのだけれども。。リュシアン・シモンの絵画は日本人好みな感じがした(当然僕も好き)、今後その画業に光が当たることはあるのだろうか。 *8 大阪で前期見たけれど、案外後期の方が好みかも。 *9 ベルギーに学んだ日本人画家(とその師匠)の作品や、ベルギー美術の日本における受容の様相を紹介する試み。展示の中であまり総括のようなセクションがなかったので、図録の巻頭エッセイを読んだところ、「ベルギー美術の日本における受容は散発的かつ偶然のものにすぎないが、ベルギーは小国というハンデがあるし、そもそも海外の美術の流入などはもともと偶発的なものである」的なまとめ方がされていて、なんと正直な、と。確かに、わざわざテーマ設定をしている割に、さほど大きな影響関係が見られるわけではなく、そういう意味では練馬でやってた「日本の中のマネ」にちょっと似ているなとも思いました。 *10 とても良かったです。色の使い方とか、とても好みだった。日本画で素直に「あ、いいな」と思えたのが初めてだったので、それが嬉しく、思わず画集を手に取る。木島櫻谷は図版でしか見たことがない画家だったので、やはり日本画は(もちろんなんでもそうですが)実物を見ると違うな、と思った次第。
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ポケモン×工芸展

麻布台ヒルズギャラリーで「ポケモン×工芸展 美とわざの大発見」を見る。2023年3月に国立工芸館から始まった同展の巡回展で、ベテランから若手まで20名の工芸家がポケモンを題材に作品を制作するというコンセプトが魅力的である。自分はポケモン未履修なので世界観もモンスターの名前も何もかもよく知らないのだが、それでも大いに楽しめた。とはいえ元ネタは軽く確認したいので、ポケモンの名前や性質についてはポケモンずかんを参照した。
作品そのものももちろん良かったが、展示会場内で流れていた制作現場の映像がとても興味深かった。制作の過程をほんの少し知るだけでも作品を見るときの解像度が少し高くなる。しかし紹介されていた作家は少なく尺も短めだったのが残念。可能なら制作の模様を映像でもっと見たかった。会場で長い動画を流すのは難しそうなので、公式サイトに長めの動画が用意されていればよかっただろうと思う。
以下おおむね展示順に。
吉田泰一郎によるシャワーズ、イーブイ、サンダース、ブースター。銅とその化学変化を活かした作品。

金属で表現された、この毛並み感。眼球は七宝の輝き。

今井完眞の手びねりの陶。ゼニガメ、コイキング、フシギバナ、キングラー、アーボック。

上の画像の中央にいるフシギバナはチラシやポスターのメインビジュアルに選ばれている。たしかにこの面構えなら選びたくなる。

福田亨の木象嵌による作品《Floor》。一見すると地味だが、畳の模様などももちろん木象嵌で、細かいところまでしげしげ見る工芸品らしい楽しみがある。

満田晴穂の《自在コクーン・スピアー》。コクーンが進化するとスピアーになる、その二者を組み合わせた作品。

葉山有樹の《森羅万象ポケモン壷》。めくるめくポケモン世界に吸い込まれそうな絵付。


須藤玲子《ピカチュウの森》。垂れ下がっている黄色いものは全部ニードルレースのピカチュウである。

新實広記《Vessel -TSURARA-》。ポケモンの技「つららおとし」をテーマにした作品。このガラスの物体を覗き込むようにして鑑賞することが意図されている。

田中信行《無題》のテーマはポケモンの技「かげうち」で、漆の作品にふさわしい。角度によって形が違って見える。


城間栄市の紅型。これは展示室出口近くの映像に制作の情景が映っていた。


池田晃将のサイバーな螺鈿作品、《電光投擲捕獲箱》《未知文黒御影茶器》。二度見三度見しても飽き足らず何度見でもしてしまう。これも出口近くの映像に制作場面あり。


池本一三のガラス作品シリーズには、携帯型ゲーム機を初めて触った作家がポケモン(ソード・シールド)をプレイしてついには殿堂入りまで果たしたという道程が結実している。

林茂樹《月光 Pokémon Edition》。ポケモンというとつい多様なモンスターを思い浮かべるが、これはモンスターではなくポケモントレーナーにフォーカスした作品。磁器製。

坪島悠貴の可変金物。これは動くところが見どころなので、展示品の隣にそれを見せる映像があった。

桑田卓郎のピカチュウ焼きもの各種。窯業地美濃の量産技術が活かされており、工芸はなにも一点ものの芸術品ばかりではない、むしろ量産されるモノのほうが本道だよなと思い出させてくれる。

水橋さおりの友禅。あまり和装したい欲はないのだけれどもこういう着物ならちょっと着てみたいかもしれない。


田口義明《乾漆蒔絵螺鈿蓋物「遊」》。漆、蒔絵、螺鈿と、伝統工芸の技術が集結している。

人間国宝、桂盛仁によるルギアの香合。

小宮康義の江戸小紋。地味な着物等が掛かっているようにしか見えないし、最大限近づいても、なんなら単眼鏡を使っても、文様がとても細かいのでモチーフがわかりにくい。しかしパッと見にはわからない、誰にでもわかるものでもない、見る人が見ればわかる、というのはまさに江戸の粋であろうと思う。

鑑賞後に特設ショップで購入した、ゲンガー・ゴーストの江戸小紋くるみボタン。ここまで近づいてもなお一目瞭然では全然なく、「見る人が見ればわかるかもしれない」レベル。

桝本桂子の陶芸作品多数。ぶんぶく茶釜などを想起させるような造形の焼きもの。どれもかわいかったが個人的にいちばんかわいいと思ったのが下の2点。ロコンとマホミル。


植葉香澄の陶の作品は伝統文様が特徴的。下の画像はポスターのビジュアルのひとつに選ばれた《羊歯唐草文シェイミ》。ポスターのは真正面から撮った写真なので、横顔を。

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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年7月14日追記 3538文字】
三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明
伊賀市で有名なのが 伊賀流忍者 伊賀牛 松尾芭蕉 俳句 上野城 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ
最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった
小学校までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ
小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森
中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ その時が一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 スレスレ生活
1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい
2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める
るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた
1973年8月1日生まれ(もうすぐ51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画
松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた
二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で
令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開
SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める
2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい
◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」
【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」
【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」
【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」
【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」
◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」
【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」
【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」
【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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2023年6月11日 配役(role)から逸脱する瞬間
市川沙央の『ハンチバック』を読みたくて大学図書館と市の図書館を調べてみたけれど、文學界5月号はともに誰かに借りられているので、読めそうになかった。その話をドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』読書会のときにしてみたら、そのときのメンバー四人とも『ハンチバック』を読みたいらし���ったので、四人で割って一人300円ずつくらい負担して文學界5月号を買うことになり、おかげで明日には読めるかもしれない。
***
小説で言えばヴァージニア・ウルフの『波』も読みたい。ここ数ヶ月くらいは脳が壊れていてほとんど小説を読めない状態だったので、『ハンチバック』と『波』をきっかけにしてまた読めるようになったらいいな。
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ふと思い出したけれど、数日前の日記に書いたメンタルクリニックの待合室での待ち時間の間、何をすればよいのかよく分からなくて、ずっとwikipediaで「あさま山荘事件」のページを見ていた。
その中にはよく覚えている箇所が一つあって、それは2月20日。当初は人質を縛り付けて口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたものの、その姿が山岳ベース事件で縛られてリンチされた同志と重なったから坂口が独断で縄を解き、人質を交えて夕食を取ることになる。
そしてそのとき、電気ジャーでご飯が炊きあがってすぐに食べようとしたのを見て、人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」と言う。それを聞いて犯人たちの側がしばからくご飯が蒸れるのを待ち、人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べる、という犯人と人質の間での雑談がここにはあり、事件そのものの緊張感との不釣り合いさ。
人は何らかの役割を演じる訳だけど、その役割(role、配役)から逸脱する瞬間のようなものが、確かにある。匿名ラジオの353回で、ARuFaが「放課後過ぎて先生の性格が違うとき好き(ただの人としての先生が出ちゃっているとき)」ということを言っていたけれど、それもroleからの逸脱の瞬間で、そこには特有の美しさがあるかもしれない。与えられたもの、与えられた形式からの逸脱。
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今日の音楽。シャフル再生で流れてきた溶けない名前の「幽霊少女は八月を殺す」は突き刺されるような音で、Pixiesの「Monkey Gone to heaven」と、いよわの「パジャミィ」と「地球の裏」も聴いた。the cabsの「花のように」。
大森靖子。脱方ハーブ、握手会、風営法、放射能。
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マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』を読み返している。
特に精神疾患と資本主義の間の関係、そして精神疾患の物質化の功罪について。
〈それゆえ、もし注意欠陥多動性障害(ADHD)のようなものが病理であるのなら、それは後期資本主義に特有の病理なのである。――それはハイパーメディア化された消費文化の娯楽=管理回路に接続されていることの結果なのだ〉(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、p70)
〈個人の内面に渦巻く精神的葛藤は犠牲者を出さずにはいられない。マラッツィは双極性障害者の増加とポスト・フォーディズムの関連性について研究しているが、ドゥルーズ=ガタリが述べるように、もし分裂症が資本主義の外縁を特徴づける症状だとすれば、双極性障害とは、資本主義の「内部」に固有の精神病だといっていいだろう〉(p93)
〈現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害〔にまつわる認識〕を化学・生物学化(chemico-biologization)していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している〉(p98)
特に3つ目の引用について考えることが多くて、まず素朴に考えれば、精神障害が科学・生物学化されること(たとえば鬱病はセロトニン濃度の低下によって、ADHDはノルアドレナリンおよびドーパミンの機能の偏りによって説明される)は悪いことではなくて、むしろ私たちにとって利益があることだったと思う。
なぜなら、精神障害を物質的に考えることによって、「心の問題」とか「甘えている」とか「努力が足りない」といった形で本人の「心」の問題にしてしまうような考え方を解体できるから(それに、問題が自分の脳の神経伝達物質にあるのだと考えられることで安心する、ということはある)。
でも、ここでマーク・フィッシャーが指摘するのは、そのような精神障害の科学・生物学化(chemico-biologization)によって資本主義が利益を得るという点。
〈全ての精神障害が神経学的な仕組みによって「発生」することは論を俟たないが、だからといってこのことはその「原因」について解明するものではない〉(p99)
〈例えば、鬱病のセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。〉(p99)
すべての精神障害が神経学的な仕組みによって「発生」することは間違いないし、(もちろん、まずはそのことについての正しい理解がないといけない)のだけど、しかし、だからといって、精神障害の原因がすべて個人の神経伝達物質のみに還元されてはいけないし、社会的・政治的な領域にその原因を求めなくてはいけない(実際、間違いなくそこにも原因は存在する)、というのがここでのマーク・フィッシャーの主張なのかな、と思う。
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バイトに行くために夕方の梅田をうろうろしていたら、何らかのコスプレイベントがあったらしくて、ピンクと水色の二重らせんみたいな超てんちゃんの長い髪の毛と後ろ姿だけが見えて、すぐに消えてしまった。
日曜日の梅田、人が多すぎて、どのカフェを見ても埋まっているし、何だか疲れてしまう。バイト前の時間、どこかで本を読んだり文章を書いたりしようと思って安上がりにするためにマクドナルドで冷たいローストコーヒーとツイストのソフトクリームを頼んだ。260円。二階のスペースはほとんど人で埋まっていて何かの巣みたいで、マクドナルドという空間は好きだけど、ハンバーガーとポテトの匂いは資本、という感じがしてときどき嫌になる。
資本、資本、と言えば、最近、いま「オタク」と呼ばれる(もしくは呼ばれていた)人たちに対して一種の嫌悪感を持ってしまうのは、彼ら/彼女らが資本(あるいは資本主義)に対してあまりにも迎合的に見えてしまうからだと思う。
何かを推すこと、何かのファンである、ということは元々資本からは一定の独立性を持っていたはずだけど、いまではもう資本に飲み込まれてしまっている。
資本はあらゆるフロンティアを侵食し、資本の増殖の手段へと変えていく。でも、もちろん自分自身もオタク(と呼ばれるような人種/だった)わけで、その意味では同族嫌悪でもあるのかも。更に言えば、「お前は一体どうやって資本に対して抵抗しているのか」と聞かれたのなら、どんな抵抗だってできてはいないわけで、ただ泥になって眠っているだけ。夢を見ているだけ。いつも思うのは、どうして現実世界よりも、夢の中の感情の方がリアルなのだろう。
ふと、手元にある処方箋の「◆きょうのおくすり◆」と書かれた紙を読む。
〈効能効果:脳内の神経細胞の間で情報を伝える神経伝達物質を調節し、症状を改善する作用があります〉
***
いつの間にか、ずいぶんと長くなってしまった。
(何人がこの日記を読んでいるのか分からないですが、もし読んでいる人がいるのなら、二枚貝は現在ドゥルーズ+ガタリ『カフカ マイナー文学のために』およびドゥルーズ『批評と臨床』を読んでいるので、もし一緒に読みたい人がいた場合、Twitter等でDMを送ってくだされば、読書会という形式でともに読みます)
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沖縄:楽園の光と影
冬休みに沖縄本島へ旅行したので、ちょっとばかし、僭越ながら感想を。
沖縄へ行ったのは生まれて初めてなので、初心者らしく、那覇市と本島南部をめぐっての旅行とした。中部、北部は、またの機会があれば、ということで。
冬とはいえ、気温 17 度くらいで秋のような感じがする。22 度まで上昇した日もあり、さすがに初夏のように暑く、那覇市内のモノレールでは冷房が効いていた。これだけ温暖だと、移住する人が多いのも分かる。

さて、琉球民族の創世神話によれば、東の海の彼方にニライカナイという楽園があり、太古の昔そこからアマミクないしアマミキヨという女神が、沖縄本島の東に位置する久高島(クダカジマ)へ降臨し五穀を伝えたという。沖縄本島の南部にある聖地、斎場御獄(セーファウタキ)から、この久高島を拝むことができる。この斎場御獄へ行ったが、隆起珊瑚による巨岩がのしかかるようにそびえ立ち、非常に神秘的かつ迫力あって圧倒的。上の写真は、その聖地にある三庫理(サングーイ)という最高聖地のパノラマ写真で、今でも神女と呼ばれる神に仕える女性たちしか入ってはいけない区域がたくさんある。
大和民族が戦国時代にあって乱世を過ごしているころ、琉球王朝は、ひとあし先に琉球列島の統一を果たし、中国、台湾、日本、そして東南アジアはマレー半島のマラッカ王国やインドネシアのマジャパイト王国といったイスラム国家にいたるまで、広範囲にわたって大いに交易し活躍した。東南アジアには琉球王国の商館がいくつも点在し、イスラム商人との商談で熱気を帯びていた。また中国とは冊封体制に入り、明の皇帝から琉球国王の称号をさずかり、盛んに貿易を行った。

しかし江戸時代初期に、琉球王国の富に目をつけた島津藩が、武力をもって琉球王国へ侵攻。それ以来、琉球王国は中国と大和民族との二重支配を受けつつも、行政的には独立国家として存在し続けた。このために、琉球地方の文化は、中国と大和との両方の影響を色濃く受けつつ、独自のものへ昇華し、独特の進化を遂げるに至った。
首里城へ行けば、往時の琉球王国の活躍ぶりや、二重支配に苦しむさまなどがよく分かる。ちょうど年始イベントとして首里城にて行われた琉球王朝の宮廷の踊りや民族舞踊の踊り手たちの集合写真。

大和民族のものとは違う、あでやかで鮮烈な色彩感覚が、南洋の青空とシャープなコントラストをなして目にしみる。首里城の正殿は、一見、紫禁城のミニチュア風に見えなくもないが大和民族の建築と同じ唐破風(からはふ)があり、その上に龍が乗っているところが、なんともハイブリッド文化ぶりを発揮していて興味深い。しかも単に混ぜただけでなく、それがさりげなく沖縄独特の味付けでもって昇華されているところが、おもしろい。

また、首里城から南へ下ると金城町の石畳道があり、ここも古色豊かで風情満点。沖縄民家にかこまれた石畳道を歩くと、いつの時代にいるのかも忘れる。NHK 朝ドラ「ちゅらさん」の主人公の家も、ここの民家を借りて撮影された。
だが明治時代に入り、帝国日本政府は琉球王国に対し、清との冊封関係を廃止するよう通告、これを琉球王国が拒否すると武力で琉球へ侵略、ここに琉球王国は消滅した。これを日本では琉球処分という四文字熟語だけで表現しているが、独立国家を武力征服したその帝国主義的実態は、韓国併合と同じく琉球併合と言ったほうが良いのではないか。
やがて起きた太平洋戦争における日本唯一の地上戦、それが沖縄。
大戦末期、米軍は、沖縄本島を、来たるべき日本本土上陸作戦のための拠点として占領すべく、1945 年4月に沖縄本島への上陸作戦を開始。対する日本軍は、やはり沖縄を本土決戦のための前哨戦とするも、米軍を撃退するのではなく、あくまで本土決戦を遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄を利用した。つまり、極力長く持久戦に持ち込むことで米軍が本土上陸するのを遅らせたのであり、沖縄は本土を守るための捨て駒として利用されたのである。
米軍が投入した戦艦や巡洋艦などによる艦隊は 200 隻以上におよび、激しい艦砲射撃が沖縄を襲い、先ほどの斎場御獄にも、砲弾が着弾して炸裂した直径数メートルものクレーターが、にごった泥水をたたえて今なお存在する。

そしてもうひとつの戦跡、ひめゆりの塔と資料館は、私にひとつの大きな疑問と宿題を残した。
戦前、那覇市にあったひめゆり学園は、教師になることを夢見る女学生たちが学んだ場であった。彼女らは、沖縄戦のため看護兵として動員された。米軍は沖縄本島の北部と中部を一ヶ月ほどで制圧するも、南部では日本軍がおびただしい陣地や地下壕をはりめぐらし、その激しい抵抗に遭って、この小さな島の狭い南部だけを制圧するのに2ヶ月以上もかかった。そしてこの南部にて、ひめゆり学園の女学生たちは看護のため投入された。
太平洋戦争当初、ひめゆり学園では毎年、美人投票が行われるなど、おだやかな毎日が続いていた。だが、教師になるべく勉強していた彼女らは、臣民の模範となるべく、戦前の軍国主義教育を受けた軍国少女たちでもあった。だから日本が勝つことを信じ、降伏することを恥とした。敗戦色が濃くなると、お国のために射撃訓練も経験し、慣れない銃の反動で肩を痛める者もいたという。看護兵に動員されても赤十字がかかげてある病院施設は攻撃されないと信じ、注射や点滴などの作業にも熱心に取り組んだ。しかし米軍は全てを無差別攻撃し、ひめゆり学園の女学生たちは、その半数以上が命を落とした。
資料館では、英語と日本語の両方で、戦前から戦後までの様子が描かれている。それを観て私の中にわきおこった疑問と宿題とは、これをいかにして戦勝国の人々に伝えるか、であった。
帰国子女の私がかつて直面したのは、たとえばアメリカ人が「日本が真珠湾を奇襲したから、我々は原爆を落としたのだ。結果、我々は全体主義国家を打破し、民主主義の世界を取り戻したのだ」という自負心あふれる論調であった。東アジアの人なら「我々の祖父母は日本軍に乱暴され殺されたのだ。その報いが沖縄であり原爆だ」などと言うかもしれない。アメリカでは、真珠湾攻撃での悲話が語り継がれている。たとえば撃沈した戦艦の中に生存者がいて、救いを求めるべくハンマーで艦体を必死で叩く音で知らせるのだが、それがやがて聞こえなくなった、という話。そんな人たちに、いくら沖縄戦や原爆の悲惨さを訴えても、なかなか彼らのこころには届かない。リメンバー・パールハーバーは復讐の合言葉だが、ノーモア・ヒロシマはノーモア戦争なのだという反戦思想は、彼らには響いてこないのだ。私には重い宿題が残った。
正義は国や民族によって違う、それは教育によって刷り込まれる。我々の民主主義とて、遠い未来から見れば原始的な思想かもしれない。我々が教育によって刷り込まれた殻をやぶって、ほんとうの反戦・平和へと実現するためには、どうしたらいいのか。正義は違えど共存できることを証明するには、どうしたらいいのか。
平和祈念公園へ行けば、そこには平和の礎(へいわのいしじ)と呼ばれる石板がえんえんと続き、その表面には沖縄戦の犠牲者ひとりひとりの名が刻み込まれて、とむらいとしている。沖縄人や日本軍だけでなく、韓国朝鮮人、台湾人、中国人、米軍、英軍の犠牲者まで、とむらっているところが、全世界の平和への祈りとなっている。沖縄戦では 12 万人が犠牲になり、12 万人の未来が消えた。

黙して語らぬものは、それゆえに語るべきものが、あまりに大きい。
ささやかながら献花。そこから見下ろす太平洋は、冬とはいえ青い亜熱帯の海の色で、何事も無かったかのように、波がひねもす打ち寄せ、ただ潮騒だけが、静寂をつつみこんでいた。

嘉数の丘(かかずのおか)に登り、そこに残された日本軍のトーチカの残骸を前に、全世界へ黙祷。ここは大戦中の激戦地で、米軍が忌まわしい丘とまで呼んだという。トーチカは激しい銃撃戦のため原形をとどめないまでにぼろぼろになり、鉄骨がむきだしになっていた。
そして丘の上から見下ろすは、普天間基地。
一説には、日本の敗戦が視野に入っていた 1945 年4月に米軍が沖縄上陸作戦を強行したのは、すでに米政府は日本敗戦後の世界情勢を考えており、共産圏へ対抗すべく橋頭堡として沖縄を手に入れて要塞化しておきたかった、という思惑があったからだとも言われる。いずれにせよ沖縄は米軍の要塞の島となったことに、変わりは無い。
戦争が終わり、ようやく我が家へ帰ってきてみれば、家はブルドーザーでつぶされ米軍が使う滑走路の下敷きになっていたという沖縄の人々。その上に、日本の国防がなりたっている皮肉。
普天間基地には、オスプレイが8機ならんで見えた。オスプレイが危険かどうか、そんなことはどうでもいい。それより基地の周囲には背の高いマンションがびっしり密集していて、こりゃーこんなところに基地をつくったらいかん、と強く思った。現に 2004 年には、米軍大型ヘリの墜落事故まで起きているし。

カミさんが言ってたが、沖縄では敗戦はあっても、まだ終戦を迎えていないのだ。
関空やセントレアのように海上に造られた空港や、全国にある赤字垂れ流しローカル空港を、米軍と共同利用できるようにして、基地を分散させたらいい。でもそんなことすれば、地元民は猛反対するだろうし、韓国や台湾も在沖縄米軍をあてにしてるから反対するだろうが、自分がいやがることを沖縄だけに押し付けるのは、やはり良くない。騒音は爆音でうるさいし、墜落事故は怖いし、やっぱオスプレイは来てもらいたくないし、米兵で治安悪化するだろうが、沖縄の負担が軽くなるなら、受け入れるしかない。韓国や台湾での有事における初動が遅れるというなら、それをカバーするような外交政策と戦略をたてたらいい。日本の首相や地方自治体の首長連中は孤独な決断を迫られるが、国土の 0.6 %の面積しかない沖縄に、全国の米軍基地の 75 %が密集する負担を軽くするためなら、いずれは歴史がその英断をたたえることになるのではないか。
そして、沖縄の経済は基地に依存しなくても良いよう、海底資源を開発するとかしたらいい。琉球トラフにプレート境界ならでの海底温泉でもあって、そこでレアメタルでも見つかれば儲けもの。

那覇市の最大観光スポット国際通りと第一牧志公設市場「まちぐぁー」では、あふれんばかりの活気に圧倒される。市場の持ち上げシステムを使い、1階で熱帯魚やカニなどを注文し、2階にて調理してもらって食す、うまい!! 沖縄そば、うまい!! 夜は居酒屋でイラブー(海蛇)汁、うまい!! アグー豚、うまい!! ゴーヤ、うまい!! 海ブドウ、うまい!! なに食っても、うまい!! こんなうまいもんばっかりに囲まれて沖縄の人は、ずるい。
ライヴハウスにて、ネーネーズのライヴを観る。かつて坂本龍一のアルバム「Neo Geo」「Beauty」に参加した沖縄民謡を歌う若い女性アーティストを中心に結成された、女性4人組の沖縄民謡ポップス集団、それがネーネーズ。メンバーチェンジのため初代メンバーはいなくなったが、今でも那覇市のライヴハウスを拠点にアルバム出したり全国ツアーしたりしている。そのライヴハウスで彼女たちを観た。楽しい歌と語り、皆でカチャーシーなる沖縄伝統の振り付けで踊るも、観客全員が盆踊り状態になってしまい、やはり沖縄人には勝てない。

外国人観光客も多く、島のあちこちで韓国人観光客がヒュンダイのハッチバック型レンタカーを乗り回しているのに出会う。韓国には、ここまで南にある島は無いからね。日産の電気自動車 LEAF も、那覇市内のそこらじゅうでレンタカーとして走っている。
でも、その足元がかつての大戦の激戦地であり、今では地上の楽園となっているという実感は、やはり現場にたってこその説得力。こればかりは、ほんとうに現場へ行かないと、その押しつぶされそうなくらい圧倒的な実感がわいてこない。
サザンの桑田による歌に「平和の琉歌」というものがある。私は桑田は汗くさいまでに暑苦しくて苦手だったが、ネーネーズによるカバー版には、深く考えさせられた。詳しくは「たるー」という人による下記サイトでの解説を読んでほしいが、要約すると、標準語による原曲に対し、カバー版では琉球語での歌詞が追加されており、大和民族たる桑田が「愛を植えましょう この島に」と言えば、琉球人のネーネーズは「情けを知らせてあげたい この島の」と琉球語で返事する。愛や情けが必要なのは琉球ではなく、大和民族なのではないかと:
ひめゆり学園の生存者は、米軍が沖縄の子供たち相手に開いた学校にて、米人教官の助手教師として働いた。彼女らは子供たちと共に、民主主義という慣れない言葉に初めて接した。
そしてその上に、今の楽園のような南の島、沖縄がある。
2013年01月08日19:54 初出
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅲ
花鳥誌2024年3月号より転載

日本文学研究者
井上 泰至
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
『年代順虚子俳句全集 第二巻』明治三十九年の項に「四月中の作句と覚ゆるもの」とある中の一句。『ホトトギス』には同年七月号に載る。「さくら狩」は和歌以来の言葉で、いささか俗な「花見」に比べて、雅趣のある言葉だ。「鷹狩」同様、花を求めて歩く意がある。筵を敷いて眺める「花見」が「静」だとすれば、「さくら狩」は能動的な含意を持つ。星野立子はこう解釈する。
桜を見に山に分け入りました。桜の名勝地吉野とか鞍馬でしょうか。山道を辿っていると百姓家か、由ある人の住居か、ある家の垣根が長く続いているあたりに出ました。どのような人が住んでいることかと思いながら通り過ぎました。桜狩というのですから花を見る目的で山路を歩いているのでありましょう。その山人の垣根づたいも一再ならずあったかも知れません。兎に角、山に住んでいる人の家の垣根づたいを過ぎ去ってなお奥の方へ分け入りつつある時の情景であります。
散在する山間の桜なればこその「狩」である。そして、立子がほのめかすように、「山人」という言い方に一種の軽い「謎」があって、家の主人をあれこれ想像する気分も受け取���る。
謡曲の世界を背景に見ようとする向き(清崎敏郎「研究座談会」)があるのは、脇が桜を訪ね、桜にちなんだ精霊のシテが山人の仮の姿で現れるような能を想定したのであろうが、そのような曲はない。「狩」の言葉の持つ雅趣が、そういう踏み込んだ解釈を提示させる事情は理解できる。
中七の「垣根づたひや」という言い回しには、軽い浮かれた感じがあり、そこに山間に「一花所望」とばかり、花を求めて逍遥する気分の楽しさを感じ取ればよい。句全体もア行音が繰り返され、リズムがいい。
なお、1番「美しき人や蚕飼の玉襷」は他者を詠んだ「他」の句。2番「山寺の宝物見るや花の雨」は自分を詠んだ「自」の句。3番「芳草や黒き烏も濃紫」は、「他」、そしてこの句は「自」ということで、虚子は意識して配したか。自他の区別は虚子が親しんだ連句の発想である。四句「や」が入った句が続いた。
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
大正二年二月十一日、三田俳句会で発表されたものである。この句会は岡本癖三酔(廉太郎)が起こしたもの。『ホトトギス』には同年三月号に載る。『贈答句集』の前書には、「大正二年・俳句に復活す」とあって、小説に転じていた虚子のいわゆる「俳壇復帰」を象徴する句として位置付けられてきたが、実態は、陰影に富んでいる。
虚子が遠ざかっている間、河東碧梧桐の活動は旺盛で、俳句の流れは碧梧桐によって、古典的世界を離れ、詰屈な文体に新奇の題材を衒った新傾向俳句が流行していた。周囲からも、当時隆盛の自然主義の影響もあって、俳句はいずれ季題中心の世界から離れると考えられていた。虚子は、当時「負け組」と捉えられていたのである(拙稿「明治末年の俳諧史―池田常太郎『日本俳諧史』をめぐって」『連歌俳諧研究』一三三号)。
しかし実際は、大方の予想に反して虚子が平明にして余韻ある俳句、古典文芸としての俳句を主張し実践することで、後の『ホトトギス』王国を築くに至ったということになる。その時の虚子の戦略は、日露戦争後の不況と青年の「煩悶」を前提に、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎ら不遇の若者の主観的俳句を拾い上げるとともに、地方の中間層を開拓して俳句の大衆化に向かうという二つの路線を用意していたようだ。作家の発掘と俳句愛好者の「市場」開拓という双方を兼ねる複眼が、虚子の戦略であった、ということになる(拙著『近代俳句の誕生』「Ⅳ 大虚子への道程」)。
掲句へ戻ろう。強くとも、駘蕩たる春風から湧いてくる「闘志」とは、単純な情熱ではないだろう。争いを好まなかったように見えるが、虚子に「比類のない勝負師の魂」を見て取ったのは山本健吉(「俳人虚子」『俳句』昭和三十四年五月)だった。勝ち負けは、彼の脳裏に常にあり、彼に盾ついた者は、たいてい最後に敗れ去り、虚子は黙殺による勝利を、常に収めている。だが、そのような意識は、ほとんど表面に現したことがないのは、自制力が強かったからだ、とも言っている。
後に赤星水竹居の『虚子俳話録』(昭和二十四年)で、虚子はこうも振り返っている。
私は自分の事は結局自分で解決せねばならぬと、いつも考えています。病気の時なんか苦痛をこらえながら、いっそう深くそんな事を感じます。
俳壇復帰の直前、腸を病んで長期にわたり臥せっていたから、この句の成立に関連しては、考えておくべき問題である。こうした我慢強さが、何に由来するかと言えば、健吉の見るところ、それは自身を恃む気持ちの強さによる、ということなのである。
水竹居も健吉も、この粘りと寡黙と忍耐強さを徳川家康のようだと比定している。
なお、掲句と一対の次の句は、隆々とした力強い太い筆勢。特に「春」と「闘」は、力感に溢れ、一句の眼目となっている。
『虚子百句』より虚子揮毫
1 美しき人や蚕飼の玉襷
2 山寺の宝物見るや花の雨
3 芳草や黒き烏も濃紫
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
6 葛城の神臠はせ青き踏む
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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ニューヨークタイムズ掲載記事 和訳公開
『イリュージョニスト』の脚本を担当したピーター・ドゥーシャンの執筆した記事が、ニューヨークタイムズに掲載されました。幾多の山を乗り越えて、奇跡の5回公演へ。その道のりを記した記事の和訳を公開いたします。
The New York Times: https://www.nytimes.com/2021/02/17/theater/the-illusionist-musical-tokyo-pandemic.html

次なるトリックは… 新作ミュージカルをパンデミック中に東京で開幕させること
本記事の著者が脚本を執筆した『イリュージョニスト』は、初めての公演を予定していた。ロックダウン、死の悲しみ、がん、そして隔離により道を遮られても、作品の上演を止めなかった。
『イリュージョニスト』の脚本家ピーター・ドゥーシャンが、東京での公演初日を7000マイル離れた場所から見守る。(撮影:ピーター・ドゥーシャン)
ピーター・ドゥーシャン著
2021年2月17日
離陸前の座席で、私は信じられないほどの達成感を感じていた。この(ほぼ空席の)飛行機にたどり着いたことだけで、大したことを成し遂げたように思えたのだ。海外へ旅をすることが許されるなど、奇跡だと。JFK空港へ、このフライトのこの席へたどり着くまでの道のりが既に、とても長く険しいものだった。
始まりは2016年のこと。スカイプを通じて、ロンドン在住の作詞作曲家マイケル・ブルースとともに、スティーヴン・ミルハウザーの短編小説を基にした2006年の映画「幻影師アイゼンハイム」を原作とした、ミュージカルの第一稿を書いていた。そしてその後、第二稿、第三稿、第四稿と書き進め、作品開発のためのワークショップを二回行った。
2020年末に東京で迎える世界初演に向けて私たちは準備を進めていた。演出家のトム・サザーランドは、日本の大きな演劇制作会社である梅田芸術劇場との実りある実績があり、彼らは新作ミュージカルの開発に意欲を示していた。『イリュージョニスト』は梅田芸術劇場にとってはその機会であり、クリエイティブ・チームにとっては、脚本や音楽を更に磨くチャンスであっただけでなく、作品にとって大変重要かつまだ準備を進めていないイリュージョンという要素を取り入れる最高のタイミングでもあった。(主人公はマジシャンなので。)
しかし、コロナウイルスが発生した。アメリカやイギリスの劇場は閉鎖され、私は心配しながら日本の状況を追った。海外からの渡航が止められたときには取り乱したが、第一波のときにウイルスをコントロールできていた様子を見て、気持ちが少し落ち着いた。劇場は閉鎖されていなかったため、たとえクリエイティブ・チームが来日できないとしても、計画通りに公演は上演できそうだった。
何があっても、この公演を実現したいと私は考えていた。私が関わっている作品のうち既に、2020年に予定していた地方公演が2つ中止になった。1つ目は脚本を手掛けたミュージカル、もう1つは脚本の監修を務めていた作品。この追い込まれた業界で働く多くの人と同じように、たとえ小さな欠片でもいいから、私も何かしらの成果を残したいと、必死になっていた。
梅田芸術劇場は、12月に予定していた世界初演の主役に、三浦春馬を迎えることを発表していた。19世紀末ウィーンのイリュージョニスト、アイゼンハイム。彼は初恋の相手との再会を果たすが、彼女は今やハプスブルク家の皇太子の婚約者となっている。彼女を取り戻そうとするアイゼンハイムは、入念に築き上げられた脆い社会秩序を覆らせる。(映画ではエドワード・ノートンが演じた。)
東京で上演された『キンキーブーツ』でも主演を務めていた三浦は、2019年に行われた『イリュージョニスト』日本語版(市川洋二郎翻訳)のワークショップに参加していた。力強くカリスマ性に溢れた彼のアイゼンハイムは、この作品にとって大きな支えになることは間違いなかった。この公演、そして三浦の参加は、大きな話題を呼び起こしていたようだった。
7月18日、朝起きると一通のメールが私のもとへ届いていた。30歳の若さで、三浦が亡くなったと日本のメディアが伝えた。カンパニー全体がショックを受け、悲しみに包まれ、どのように進むべきか、果たして進むことができるのか悩んだ。
これまで、私は「ショー・マスト・ゴー・オン」に対して懐疑的だった。許されないような労働行為を許容するよう、労働者を強制する言葉のように感じていたからである。しかし、今回はこのフレーズの中に、真剣な思いを感じていた。演劇とは、本来、コミュニティのものである。今辞めてしまうより、公演に関わる全員が集結し、上演することの方が、少しでも癒しになるはずだ。諦めることで、一体何を得られるのだろうか?
そして、プロデューサーたちから、いくつもの質問が飛んできた。東京で隔離期間を過ごすことはできるか?どれくらいスピーディーに日本領事館に行くことができるか?(救いの手が伸びた:日本が就業ビザを許可しはじめた!)作品の幕間休憩をカットしてもいいか?(お手洗いでソーシャルディスタンスをとるため、休憩が長くなってしまう。)スケジュールをずらすことは可能か?公演期間を短縮することは?
イエス、全てにイエス。何にでもイエス。何が何でも上演をしたい。

ドゥーシャンは稽古のために東京へ飛んだが、隔離期間の間に、アメリカへ帰国することが最善と判断し、自宅へ戻り再度隔離した(撮影:ピーター・ドゥーシャン)
主役を再度キャスティングすることはあまりに心苦しく、カンパニー内から決めることとした。もともと皇太子役を演じる予定だった海宝直人に、アイゼンハイム役を務めてもらうこととなった。
そして、もう一つの壁に突き当たった。トムが大腸がんという診断を受けたのだ。完全回復することは間違いないと彼は自信を持っていたが、治療を続けるためにはロンドンに居続けなければならなかった。つまりは日本への旅はできない。マイケルと私は、トムのことを心配し、「自分の身体を一番に考えるように」と彼に懇願した。
しかしトムは、病気が作品の妨げとなってはならないと断固とした強い思いを持っていた。プロデューサーたちが再び��闘し、計画を考えた。ライブ映像を使用し、トムはリモートで演出をすることに。このパンデミック以前には考えられなかった解決法が、今や私たちにとって、進むための唯一の選択肢となっていた。
旅に必要な許可を全て得て、私はJFK空港へ、このフライトへ、この席へとたどり着いた。そして一枚、自撮りをした。考え得るトラブルは、もう全て起きた。そんな明らかな安堵を感じていた。
その後、全ての岐路において、あらゆる安全策と予防策が講じられた。フライトの前にPCR検査を受け(値段に見合わない高級医療機関で鼻に綿棒を挿入)、羽田空港着陸直後にも再度検査(唾を誘発するためにブースの壁に貼られた梅干しの写真を見ながらの唾液検査)。2週間の隔離期間を経た後に稽古へ参加する予定であったが、隔離期間を終えた後だとしても、東京での滞在を最大限に満喫することはできなかった。屋内での外食やバー、美術館等、人が密集するところは全て避けると合意したのだ。
稽古場での感染予防対策は広範囲に渡った。毎日稽古場に到着すると、参加者たちは私物を個々の衣類袋に入れ、通勤中に着けていたマスクも取り換えた。制作が用意した新しいマスクを、毎日の稽古中に着用することが義務付けられた。稽古場内の食事は禁止され、携帯電話の充電器の共有さえ許可されなかった。稽古は、定期的な「換気休憩」によって中断された。
東京のホテルで過ごした隔離期間1週目、私はZoomを通じて稽古に参加した。振付家のスティ・クロフが既に稽古場に通っていたが、その他の海外クリエイティブ・チームは隔離を続け、稽古が進行する中、WhatsApp(※海外で主流のチャットアプリ)で会話をしていた。その1週間で、私たちは作中の15分ほどを削り、1曲を書き換え、様々な角度から飛んでくるダメ出しを乗りこなした。1幕もののこのミュージカルの前半のステージングが付いた。
すると、隔離期間8日目の朝、プロデューサーから一本の電話をもらった。役者のうちの一人が、コロナウイルスの症状を訴え、陽性反応を検出したとのこと。稽古は中断された。稽古場に参加していた19人のキャスト、何名かのプロデューサー、演出部、制作、そしてたまに立ち寄るのみのオーケストレーターや歌唱指導を含む多くのカンパニーメンバーが、その日の夕方に検査を受けるとのことだった。
カンパニーの中でも楽観的な考えの人たちは、実行していた感染予防対策の成果が検査結果に反映されるはずという希望を持っていた。陽性反応を示した俳優と、その人物と濃厚接触をした人たちが隔離期間を終えた2週間後には、稽古を再開できると。
翌日の夕方、Zoomでのプロダクション・ミーティングにて、リード・プロデューサーによって検査結果が伝えられた。7名の陽性者。キャスト5名、スタッフ2名。我々の努力は、感染の拡大をある程度抑えたかもしれないが、完全に防ぐことはできなかった。変わり続ける状況に順応していくことが益々困難となってきていた。プロデューサーは言った、「時には、歩き去ることが一番勇気のいることだ」と。
もし再開するのであれば、稽古場の人数を必要最低限に抑えることが必要だと私は理解した。そして、正直、稽古場の中に留まることに対して、不安を感じたことも事実だった。リモートで参加する設備が既に整っていたこともあり、私はニューヨークへ戻る決断をした。

東京のホテルの一室にて、『イリュージョニスト』の稽古に参加(撮影:ピーター・ドゥーシャン)
JFK空港から帰宅し、そのまま再度の隔離期間に突入した。毎日のプロダクション・ミーティングでは、全ての会話が両言語できちんと伝わるように、通訳たちを介しながら進めたため、何時間にも及び、私は毎朝5時から参加していた。その中で、梅田芸術劇場チームが、前に進む道を示してくれた。狭いスタジオで稽古をすることを不安に感じていたため、1300席のキャパシティと安全な広さを持つ日生劇場であれば、よりリスクの少ない環境で稽古できると。
稽古期間を短縮しなければならない。役者同士の接触を減らすため、ステージングを簡略化しなければならない。イリュージョンを実現する時間がないため、マジックそのものよりも、マジックに対するリアクションにフォーカスを当てるようシーンを作り直さなければならない。
観客には、コンサート版のステージングになるとアナウンスし、残念な思いを持つ方たちには返金をしなければならない。
イエス。全てに対してイエス。何が何でも上演したい。
数日間のリモート稽古を再開した頃、菅義偉内閣総理大臣が東京都の緊急事態宣言を発令。公演中止。振付家はロンドンへと帰国。しかし、実際には緊急事態宣言による劇場閉鎖命令は出なかった。他の作品が上演を続けるのであれば、我々の作品もそうすべきでは?公演中止は取り消し。
有難いことに、カンパニー内の陽性者で重症の人はいなかったが、再開の日程が近づく中、再び仕事ができるまでには健康を取り戻せていない者もいた。初日を後ろ倒し、公演期間を更に短縮することを私たちは許容できるか?既に簡略化されているステージングを、更にシンプルにすることは可能か?
そして今回も再び、イエス。しかし、なぜイエスなのだろうか?なぜ私たちは、これほどまでに戦い続けていたのだろうか?真実の脆さについて問いかけるこの作品の物語が、時代にあまりにも即していたからだろうか?あるいは、これまで既に多くの困難を乗り越えてきたのだから、どんな新しい障害物を前にしても、怯むことは非論理的だと感じたからだろうか?
それとも、たとえ自分勝手でも、私たちの努力を示す何か―何でもいいからその何かが欲しいという必要性に、突き動かされていたからだろうか?50%のキャパシティでの最低限の公演期間…それが実際にどれほど役に立つと言うのか?東京で何が起ころうと、イギリスのクリエイティブ・チームと私は、そして作品自体は、麻痺するような待機期間に戻るだけのことだ。それぞれの国で劇場が再開するときを待つだけ。今この作品を上演することで得られるものは、作品を上演したという事実だけだ。それだけが、十分な理由になり得るだろうか?

死の悲しみを乗り越えた後、海宝直人が『イリュージョニスト』の主演、アイゼンハイム役を務めた(撮影:岡千里)
私が東京を去った翌日から1か月が経ち、『イリュージョニスト』は稽古場での稽古を再開。クリエイティブ・チームからは、マイケルだけが日生劇場に通っていた。ロンドンにいるトムとスティは、朝4時に起きて参加。アメリカで私は、ほぼ毎日朝3時まで稽古を見ていた。作品の形は素早く作られていった。それ以外に方法はないのだ。
稽古のプロセスには距離を感じたが、ミュージカル業界の人であれば理解できるような喜びがたくさんあった。何年間もピアノ1本での演奏しか聞いたことがなかった音楽が、ついにフルオーケストラによって色づき、前田文子の豪華で緻密な衣裳が舞台の照明を吸収し、俳優たちの役作りを更に際立たせ、ミステリアスで才能に溢れる海宝直人がアイゼンハイムになっていく様子を見つめた。
信頼のおけるいつものZoomで、私は1月27日の初日公演を観劇した。カーテンコールでは、喜びと安堵で役者たちは嬉し涙を流した。終演後、プロデューサーの一人がスマートフォンを持ち、各楽屋を歩き回り、私たちもキャストに思いっきり祝福を浴びせることができた。
スクリーンというフィルターを通しても、舞台裏の歓喜と興奮を感じとることができた。7000マイル近く離れた場所からでも、私は公演初日の高揚感を経験した。再び演劇を作っている、作品を上演している、と。
2日後、予定された5公演を無事に終えて、『イリュージョニスト』は幕を閉じた。後は待つのみ。
The New York Times: https://www.nytimes.com/2021/02/17/theater/the-illusionist-musical-tokyo-pandemic.html
By Peter Duchan
Feb. 17, 2021
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