#野笹無免許運転
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#継父#RGV250γsp#無事故・無違反#斉藤友宏#菰田洋平#吉田努#山下未来#大場麻未#無断またぎ#無断いじくり#一斉体罰#ミジメ#甘ったれてゃ居られない#k型試験#学科試験#技能試験#生嶋宏#生嶋竜一#全面的に甘い#四肢切断#期待外れ#休学歴有り#過年度生歴有り#原級留置歴有り#斉藤雄二#斉藤昌俊#ニート#東京都東村山市出身#中島里恵#野笹無免許運転
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二子玉川の堤外地に建つマンションが高値を付けてる事に嘆いて小字地図という面白いものを公開してくれた人がいる。 でもその事をまとめたtogetterではそれに対して間違ったり不適当なツイートばかり拾ってるので指摘するよ。 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2381841 過去の経緯 二子玉川には堤防の切れ目があった。陸閘ともいう。閘はパナマ運河などの閘門の閘で、板で締め切って水をブロックして水位を変化させるものだ。それが陸にあるから陸閘。 https://maps.app.goo.gl/DKKV4c1kefy3BVSE9 余談だがこの道は結構重要��道で、江戸時代の矢倉沢往還(青山通り大山道)だった。真っ直ぐ行って多摩川に出たところに渡船(二子の渡し)があったのだ。川を渡って崖を上ると二子の宿場に着く。 ここは瀬田村の一部で、スレッドで指摘されている通り、瀬田村の字堤外と呼ばれる無人地帯であった。 こんな辺鄙な所だったが、渋谷からほぼ路面電車の玉川電鉄が開通し、その終点の「玉川」という駅が出来た。この路線は溝の口を目指しており道路橋の二子橋を走る事になっていたのだが、その二子橋がまだ出来ないので暫定の終点である。 すると交通が便利になったので人が訪れるようになった。そして多摩川沿いに料亭が立ち並ぶようになった。当時の料亭は料理だけじゃなくて芸者遊びとかそういうの込みの業態である。 ここは瀬田村堤外とロクな地名ではなかったので、対岸の二子と駅名の玉川をとって「二子玉川」と呼ばれるようになった。 元々瀬田の崖の下には殆ど人が住んでいなかった。出水リスクがあるからである。堤防は基本無いか、霞提である程度の出水を前提としていた。そこに人が住み始めたら危ないに決まっている。また鉄道が次々開通すると他の低地にも人が住むようになる。 そして以前から洪水危険地に住んでいた住民と新住民が「堤防を作ってくれ」という陳情をするに至り、近代的な連続堤で多摩川を封じ込める、という工事がなされる事になった。二子橋の開通が遅れたのも堤防の工事を先行させる為である。 だがこれに反対をする者も居た。その一つが二子玉川の料亭業者達で、堤防で目隠しされたら商売上がったりだ、と言うのである。 そこでここの料亭地域ではこの地域を川の中に取り残す形で堤防が築かれる事になった。 しかしそれだ���料亭群に行くのにいちいち堤防上りが必要だ。そこで堤防に切れ目を入れて先のリンクの陸閘を2つ作る事にした。一か所縦のスロットが見えるが、多摩川の水位が上がる時はここに板を入れる。それだと水圧で折れてしまうので、水防活動で後ろ側に土嚢を積みまくって抵抗力にする。これを角落しと言う。 料亭だけの場合は万が一の場合は逃げれば良いし、自分たちで了承した事だし建て直しすれば良い。だが昭和に入ると戦争があり料亭どころではなく全て潰れてしまった。そして戦後の復興と経済成長で宅地不足となり、この危ない土地は売られて住宅地として転用されてしまったのである。 新堤防を作ったのに被災 長らくこのままだったがもういい加減何とかすべしという事になり、あいも変わらず新堤防に反対する住民も居たが話をまとめて、住宅と川の間に新堤防を作る事になった。2008頃から事業スタートし、数年で堤防は完成した。何しろ何もない河原に堤防を作るだけなので工事は早い。 ところがだ。2019年に台風19号が暴れ狂うと、新堤防は機能していたのに一体は浸水して泥まみれになってしまったのだ!何故だ!? それは、二子玉川駅の上流側が手つかずだったからである。 https://maps.app.goo.gl/uQur4hgpRZnac7tB7 左側に囲い板が立っているが、これは慌てて工事を開始した為で、但し堤防はまだ出来ていない。右を見るとタワマンがあるが野村不動産のプライドタワーだ。幾分土地嵩上げされていてこの土地の危険性は認知しているものと思われる。 こっちに堤防が無いので、ここで泥水が自由に溢れ出し、それが駅の下側を通って堤防工事完了地帯に入り込んで浸水被害を出してしまったのだ。なんでこうなったんだ?なんで駅の北側は工事しなかったんだ? お役所仕事 何故駅を挟んで片方は堤防工事完了、もう他方は手つかずとなったか? それは「管轄違い」のせいなのだ。 多摩川は青梅から下流は国土交通省が管理し、この辺は京浜河川事務所が管轄する。 ところが、駅の北側で野川が合流しているのだが、この野川の管理をするのは東京都であり、建設局第二建設事務所が管轄なのだ。そしてこの堤外地帯の駅の北側は野川に接しているのだ。 つまり、長年の懸念だった堤外地問題を解決するために住民の合意を取りつけ、国の方は急いで事業化して堤防を完成させた。それから10年近くが経つのに、東京都の方はちゃんと連携せずにほけーーとしていて事業化していなかった。そこに巨大台風が来たので野川に逆流してこんな被害が出てしまったのである。 野川沿いには堤外地を避けた旧堤防と連続する堤防がある。新堤防を延長してこの国道246の下で堤防に接続する必要があるのだが、堤防合流地点付近にはスペースが足りず、家が建つ土地を買収する必要がある場所もある。また、二子橋の橋桁は低い場所があり、https://maps.app.goo.gl/MoH89VVFBWFW7jWBA 堤防高に支障する。これはこのままだと橋桁に当たった水が横に流れて堤防を削ってしまう。そういう事どうすんの?な���だが、どうせ何もやっておらん筈だ。 余談だが二子橋は架け替えられていないのでアスファルトの下に玉電のレールが残っていると思われるよ。 堤外地の扱いや感覚は昔と今じゃまるで違う 堤外と言う字が付けられていた場所に住むのにリスクを考えて居ないのはマズイ、というのは確かにそう。 だが字が堤外だから住んではならないと書いている人は昔と今の治水を混同している。 昔は河川が氾濫するのは云わば当たり前だった。だから堤防を築くのだが、今と違って霞提など、切れ目があってある程度の氾濫を許容する設計が多かった。また堤防を造る際も、今のように流路を封じ込めるものではなく、流路からかなり離れた場所に造る事が多かった。河川は蛇行するのが専らなので、その蛇行の外側という離れた場所に堤防を作った。その堤防で守られていない所は全て「堤外地」だ。そこでは洪水では家も田畑も沈んでしまう。 これは荒川なのだが、 https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.799750&lng=139.655095&zoom=14&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 笹目村や戸田村などの埼玉側は堤防が流路から1km程離れているのが判るだろうか? 一方、東京側は堤防そのものがない。これは東京側は台地の崖から1~2km程の所を川が流れているから、狭い地域を堤防で守るのはコスパが悪いって事でそのままなのだ。 これら全ての土地が堤外地である。洪水では田畑も沈むし、集落もなるべく作らない。家を建てる場合は微低地を選んで嵩上げもする。でもそれでも浸水は免れないし死ぬ人も居た。 二子玉川付近だと霞提もこの辺は余りなく、低地には住まない、瀬田や溝の口の高台に住み耕作地には歩いて通う、という生活様式だった筈だ。すると「堤外」と名づけられた字以外も全て堤外地である。 今この地域が危険なのは、先に説明したように堤防工事で外されてその時に堤外地となった為だ。字が付けられた時分の事ではない。だからこの堤外地の字が「堤外」であるのは偶然でもあるわけだ。大正の治水が原因で堤外の字が付けられたわけではないから。 なので話の種や潤滑剤として字 堤外の事を言うのは良いのだが、それが決定要因であるかの様に語る人は、近代とそれ以前の治水の違いや、それによる堤外地の扱い、感覚を混同している。 ~~~長くなったので続く その2 https://anond.hatelabo.jp/20240612183016
二子玉川の堤外地問題と小字地図に関して幾つか指摘その1
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣��ているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだ���濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆���してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよら��出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文��中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝���の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であって���存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの���新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいた��とを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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大正時代の商店(唐津)
住所 個人店名 取扱商品(大正10年9月25日) 電話 魚屋町 請負業伊藤三治郎 塗工部・錺工及銅工部 魚屋町 井上袈裟五郎 綿布・綿糸・洋太物卸商 魚屋町 宮崎治三郎商店 呉服 127 魚屋町 岸川商店 煙草元売捌・各石油会社特約店・各保険唐津代理店 47・219 魚屋町 松隈商店 和洋菓子類製造卸商 魚屋町 平田屋薬舗 薬種・賣薬・染料商 江川町 藤生酒塲 醸造元 143 江川町 横田屋商店 米穀食料品・荒物雑貨商・福島足袋代理店・富士味噌代理店 大石町 花月 御料理 50 大石町 笹谷工業所 衡器製作免許商・岸川商店ゴム部専属タイヤ卸 大石町 小宮幸一商店 内外諸紙類・襖用品各種・製圖用紙各種 一切 106 大石町 牧川鷹之祐商店 各国陶磁器・養蠺具・名産唐津焼販売 120 大石町戎小路 中村商店 銘酒「梅豆羅」醸造元 413 大手口 中住家 会席・御料理 57 大手口 辻薬店 和洋薬種・賣薬漆類・繒具洋酒 225 大手口 古賀洋酒店 ビール・サイダー 406 大手口 岩井屋本家 高等御旅館 210 大手口 唐津自動車商会 自動車 150 大手口 マツヤ小間物店 斬新頭飾品・手芸品材料・有名化粧品 大手口通り 中島又次郎 呉服反物類・新古衣類一切 大手小路 梅月 料亭 260 郭内 唐津醤油株式会社 醤油醸造元 435 刀町 浪花家 会席御料理仕出し 74 刀町 大一雑貨店 和洋雑貨・メリヤス・タオル卸問屋 刀町西詰 唐津電気企業所 熊本逓信局認定私設電話受員 445 唐津 博多屋旅館 26 唐津駅前 唐津運輸本店(小野原愛吉) 貨物運送・物品販売業 157 唐津警察署前 大原商店 元祖唐津名物松露饅頭 唐津市 北九州鉄道株式会社 351・441 唐津新町 鶴田電気商会 電気機械据付内外線 唐津貯蓄銀行前 中村自転車店 自転車・精良麵麭菓子 唐津停車場通り 橋口屋旅館 480 唐津停車場通り 合資会社福紗屋呉服店 卸問屋(関東尾州物・西陣九寸・兵兒帯地・綿布一切 唐津停車場通り 商号八百徳事 深見喜市商店 乾物鰹節・罐詰荒物商 唐津名産 231 唐津停車場通り 平喜屋旅館 108 唐津停車場通り 牧川洋品店 和洋雑貨商 454 唐津停車場前 山城屋旅館 唐津停車場前 玉屋旅館 335 唐津停車場前 千歳屋旅館 361 唐津町 元祖雲丹商会(井上好太郎) 唐津名産 珍菓 うにあられ 唐津町 産業無盡株式会社 銀行と同じく免許事業 356 唐津満島港 坂本圓藏商店 海陸運送業・石炭材木萬問屋・砂、砂利商・石粉、石灰販売 227 京町 ハタザキ第5支店 スイナー萬年筆 京町 平田屋鐵商店 和洋鋼鐵・銑鐵・レール・パイプ 85 京町 田村商店 太物・和傘・盆提灯の卸小売 京町 平岡時計店 各国時計類・眼鏡・指環・貴金属装身具商 264 京町 大塚呉服店 461 京町 クワノ 日用雑貨 138 京町 宮川商店 久留米絣縞・呉服太物卸商 京町通り 平岡油店 石油・鑛油・軽油・各植物油 408 木綿町 中道家 会席御料理 137 木綿町 食堂自由亭 和洋御料理 319 木綿町 脇山元太郎 魚類仲買・蒲鉾製造・鯛のおぼろ製造・折���仕出し 51 木綿町 三菊 御料理 木綿町 わたや 御料理 73 木綿町 岩崎商会 氷販売 237 木綿町 水月 御料理 215 熊の原 松岡酒店(松岡小兵衛) 酒販売(醸造元 百武茂十:若木村)--若水 153 呉服町 岡口屋衣服店 新古衣服・蚊帳・厚司・マント。コート・ふとん 336 呉服町 草場呉服店 132 呉服町 博多屋えり店 御半襟のみ 呉服町 煙草屋呉服店 呉服太物商 230 呉服町 松尾榮治郎本店 新古衣服・呉服太物 436 呉服町通り 美やこや 鼈甲と貴金属・御婚儀用御櫛笄(くし・かんざし) 呉服町横通り 浦田定吉商店 魚類仲買 337 米屋町 井徳屋 御料理 米屋町 有松 西洋御料理(古館酒場前) 米屋町 新玉 御料理 紺屋町 藤本芳治郎商店 博多屋硝子店事 紺屋町 田中呉服店 呉服太物・子供衣類一切 材木町 大黒屋楽器店 琴・三味線商(琴・三味線・尺八・バイオリン) 材木町横通り 宮崎耳鼻咽喉科院 長崎医学士 5 中町 みどり 御料理 414 中町 島家 御料理 311 菜畑 世界館 活動写真常設館 238 西唐津港 第一花屋 御料理 46 西寺町 松浦写真館 東潮湯 木村旅館 117 札の辻橋北側 遊楽園 各国農産種子・水田肥料紫雲英・製氷卸販売部・洋食御料理 船宮 東洋飲料株式会社 東洋サイダー・三ッ葉サイダー 80・432 本町 鹿島屋商店 元祖 羽二重餅(唐津中学校・唐津女学校・各小学校御用達) 本町 白石写真館 159 本町 新岩井屋 御旅館 20 本町 掬水 御料理 118 本町 中野霓林 唐津焼竈元御小売 本町 前山歯科医院 日本歯科医学士 本町 石田文明堂 活版石版印刷 347 本町 立花商店 唐津名物 唐津半紙 151 水主町 中道屋事 築山平吉商店 畳表・上敷・花呉座に付属品一式 307 水主町 横尾商店 洋鐵・金物類一式 354 明神小路 谷口牧場 純良牛乳 235 呼子港 山下善市 松浦漬(宮内省御用品) 呼子港 中川民太郎商店 けずり節 呼子港 野添繁太郎商店 けずり節 增本興行部 唐津町近松座・相知町相知座経営 308 ㈱近藤紙商店 国産唐津紙輸出商・製紙原料販売 444 喜望舘 御旅館 156 藤松眼科医院 眼科専門 228 ㈱唐津銀行 ㈱西海商業銀行 ㈱唐津貯蓄銀行 ㈱相互銀行
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戦争と祖父と河童のはなし
これからお話し聞かせようと思うのは、わたしの祖父が話し聞かせてくれた祖父自身の物語ということになるでしょうか。まだわたしの幼い頃にきかせてくれたはなしで、祖父は晩年そうなったようにアルコール依存性にもなっておらず、盛んに渓流釣りにもでておりましたから、頭脳にも足腰にもかくじつに衰えが忍びよっていたとはいえ、まだまだ壮年の余力を蓄えもっていた時期になると思われます。ですから、あのきわめて寡黙だった祖父が、酒を呑んでもなお押し黙っていた祖父が、痴呆か酒かで気の触れたように語り出したとはとても思えないのです���ですから、つまり、何が言いたいかといいますと、わたしは祖父の話し聞かせてくれた物語を真実だと思っている。嘘いつわりではないと思うのです。
その日、わたしがオウム貝の貝殻へ海底の音を聴きに行こうとすると、祖父はいつものように住宅の店舗部分で趣味の彫刻をしていました(商売はほとんどが配達で済んでしまうので、お客はめったにやって来ません)。祖父の無口は当時からよく知っていましたから、勝手に貝殻に耳をあて、満足してから住宅部分にもどろうとすると、珍しいことに祖父がちょっとと呼び止める。
ーこれ、なんだと思うら?
ー河童、かな
ーそうだら、河童だら
祖父はフクロウやニホンオオカミや、あるいは河童など、一風変わった動物を好んで彫っていました。
そして、学徒動員って知ってるら、と唐突に祖父の物語がはじまったのです。わたしは学校の図書館で不覚にも『はだしのゲン』を読んでしまい、一時はノイローゼになって窓硝子にも近づけなくなるほどでしたから、戦争についてあるていどの知識はありました。
おらは、と祖父はとくとくと語り続けました。
終戦の間際の頃、村の有志たちといっしょに学生志願兵として遠州地方の生まれ故郷を飛び出しました。目指すは浦賀、そこへ学徒動員のための訓練兵が集っていたのです。灰色の空高くを空襲へ向かうB-29の隊連が黒い機影となって通過するのを幾度と眺めながらの、何十日間かけての徒歩での行程でした。それでも足どりは軽いものでした。何しろお国のため、天皇陛下のためですから、意気揚々と歩みを進める。時にはだだっ広い田園地帯のさなかで偵察中のアメリカ機から機銃掃射を受けることもありましたが、天皇陛下万歳と叫べば、銃弾はふしぎと我々のからだをよけていくのでした。
長い旅と幾たびもの野宿に疲れはてていた我々でしたが、どうにかこうにか浦賀港にまで辿り着くと、たちまち疲れは吹き飛びました。横須賀一帯は大規模な空襲を受けたときいていましたが、浦賀の海には水上を埋め尽くすほどの軍艦が大日本帝国の国旗を潮風に雄大にはためかせていたのです。その光景を目の当たりにした我々は、その場で大きく万歳、万歳と、万歳を幾度も繰り返しました。
訓練所に入寮すると、さっそくボロのモンペに代わって格好良い軍服が支給されました。これを身に纏っただけで、もう戦争に勝った思いがしたものでした。
さて、訓練がはじまり、初日こそはどうにか持ち堪えたものの、三日目には来る場所を間違えてしまったと確信しました。そこでの訓練はとても練兵と呼べたものではなく、如何にして死ぬかを叩き込まれるものだったのです。これでは命がいくつあっても足りはしない、実際つまらないことで上官に恥をかかせた訓練兵が実演習と称して手榴弾を引かされ爆死しました。
その爆死を目の当たりにした翌日、わたしと村でいちばん仲の良かった為三は脱走を企だてました。こんな馬鹿げたところにいるぐらいなら非国民になったほうがましだ、と為三は言い放ちました。それから数時間後、為三は歩哨の兵に射殺され、わたしだけが辛うじて訓練所から脱走することができました。脱走の直前に、どちらかが死んでもいいようにあらかじめ交換しておいた為三の家族への手紙を握りしめながら、見晴らしのよい場所を避けて、身を隠しやすそうな山のほうへ、山のほうへと必死になって走り続けました。
いったいどれぐらい走ったことでしょう、気がつくと土砂降りの大雨のなかをひとり疾駆していました。周囲は深い灰色いブルーの一色で、この雨がわたしを追手から逃してくれたのだと不意に悟りました。機械仕掛けの運動のように駆け続けていた足の歩幅を徐々に狭め、半ば強引に立ち止まると、真っ直ぐに降りしきる雨の線をようやく感じました。じぶんがこうして前にも後ろにも動かず、ただじっと立ち止まっていることが不思議でなりませんでした。すこしでも油断すれば、また足が勝手に駆けだしそうで、駆けだしそうで。そうなりそうになるのをぐっと堪えながら、唯々目のまえをしきりに流れてゆく雨の線を眺めました。
やがて、雨があがり、ここがいったい何処なのかはともかく、山間の森のなかにいるらしいことが知れました。ボタボタッと樹々から雨の滴が落下し、すぐ近くの沼には水に浮いた睡蓮の群れが水玉の雫を葉の表面にいくつもたたえている。もう死んでいるのかもしれないと本気で考えました。よもや走りながらに死んでいて、今更になって死んだことに気づいたのか。ところが、たしかに息をしているし、両足で立っている、何よりもびしょ濡れで居心地の悪い軍服が生きていることを物語っている。
ーヘイ、ジャップ!
死んだ心地も束の間、背後からの唐突な呼び声に心臓が縮み上がった。でも、たとえ逃亡兵相手とはいえ、日本兵がジャップなんて物言いはするだろうか。懼るおそる両手をあげてふりかえると、そこには戦前の映画でみたことのある西部劇の農家のような格好(色褪せた水色のジーンズに野球帽をかぶって、腰には黒皮のウエストポーチをまわしている)をした河童が立っていました。河童はおもむろにウエストポーチから笹の葉に包まれた握り飯とキュウリの一本漬けを差し出して、食うか、と言った。(ごめんなさい、ここはさすがに脚色で、��っさいにはただ食い物を差し出されたとしか聞かされていません)その途端にも腹がぐううと鳴ったのは言うまでもありません。ただでさえ少量の配給に、その日は日がな一日何も食べていなかったのです。
食べながらでいいから聞け、と河童は言いました。ずっとお前のことを後からつけてきた。今日は逃げ切れたかもしれないが、その格好ではいずれ捕まってしまうだろう。だから服を交換してやる。この格好なら逃亡兵とは気づかれまい。まもなく日が暮れる。今宵はこの沼で宿をとるといい、すぐ近くに眠るのに丁度よい洞穴がある。食って着替えたら案内しよう。明日になったら、我ら河童一族に伝わる釣りの極意を教えよう。これさえ覚えてしまえば、しばらくは食いっぱぐれることもあるまい。
河童と服を取り換えながら、何故こんなに親切にしてくれるのか、と尋ねると、お前のあたまのてっぺんには皿がふたつある(おそらく、つむじのことだと思われます)。皿のふたつある人間は、まだ人と河童の分け隔てなかった時代の、いにしえの河童の子孫である証拠だ、と言う。ついでにこの服はどうしたのか、尋ねると、戦争の始まる前、渡日中のアメリカ人に相撲で勝利して、尻子玉を抜くかわりに巻きあげたのだそうだ。とても気に入っていたが、同胞のためなら仕方がない、せいぜい大切にしてくれ、と河童はさいごに付け加えました。
翌朝は稀にみる晴天となり、河童から釣りの極意を学ぶこと二十九つ。余すところ七十もの(すなわち全部で九十九の)奥義があるといいますが、差し当たりはこれだけで十分だろうということでした。それから三日三晩、山間の釣りの要所を河童と巡りながら、実演を交えた練習をして、三日目の月のでた晩に河童は山奥深くの滝の上から滝壺の中へと消えてゆきました。
逃亡兵の身分では平地の里へは下りて行かれませんから、人里離れた山から山をつたって故郷の遠州地方を目指しました。その帰省の旅は、平地を歩いた行きの旅とは比べものにならない多難な道のりで、あっというまに季節がひとつ、ふたつと過ぎ去ってゆきました。しかし河童のお陰で食料には不自由なく、ときには戸籍を持たないサンカと呼ばれる放浪民の集団と鉢合わせることもあり、物々交換でシカやイノシシの肉にありつけることすらありました。
ところが、みっつめの季節が過ぎ去ろうという頃、どうしても米が食べたくて食べたくて仕方なくなり、ついつい平地の里へ下りていくと、よそよそしい態度が祟ったのかあっさりと憲兵に捕まってしまったのです。そこでもう堪忍して浦賀の訓練所から脱走してきたことを洗いざらい白状すると、憲兵は呆れたように笑いながら言うのです。原爆の投下、ソ連軍の参戦、日本軍の降伏、玉音放送、それらをこの時���ちどきに知りました。わたしが山間で釣りをしながら逃亡の旅を続けているあいだに、日本国はポツダム宣言を受諾して大東亜戦争に終止符を打っていたというのです。1945年の夏が過ぎ、涼しさのこみ上げてくる季節でした。わたしは憲兵に捕まるどころか帰りの汽車の切符まで持たされて無事に故郷に帰ることができました。
ひとしきり話し終えると、祖父はわたしの頭を撫でながら言いました。
ーお前さんの頭にも皿がふたつあるら。ほれ、おらの頭にもふたつある
そう言って野球帽を外した祖父の頭はとうに禿げあがり、ふたつのつむじの位置はおろか、むしろ、河童の頭そのもののようにみえるのでした。
晩年の祖父は先にもいった通り、アルコール依存性と痴呆を併発して、誰にも黙ったままふいにどこかへ消えてしまうのでした。家を探すと釣り道具がないので、どうやら渓流釣りに出かけたらしい。でも、あんなからだで、酒気帯びで車の運転だってままならないのに。ひと晩じゅう帰って来ないなんてこともままあり、とうとう急流にでも流されたのか、祖母と母が耐えかねて捜索願いを出そうする。そんな祖母たちを父がよく宥めていました。お義父さんの釣りの腕前は確かですから、川で死ぬなんてことはありえませんよ、と。父は海釣りが専門でしたが、釣りにかけては専門誌にも紹介されるほどの腕前で、そんな父をもってすら、お義父さんの釣りの技術は凄いと唸るのでした。
度重なる失踪のせいで祖父は運転免許を取り上げられ、ついでに祖母の手で家じゅうのお酒も隠されてしまいました。それでも所有の裏山までよったよったと歩いて出かけてゆき、祖母のはなしでは裏山の小屋にお酒を隠してこっそり飲んでいるんだわ、と。
まもなく祖父は風邪を拗らせて肺炎であっけなく亡くなりました。棺のなかの祖父は白い死装束こそ身にまとっていましたが、その上から色褪せた水色のジーンズと黒皮のウエストポーチと野球帽とが被せられ、いつもと大して変わらない姿で火葬場に入っていきました。祖父が生涯に渡り身につけたトレードマークたちを棺に一緒に納めるなんて、ずいぶんと気の利いた演出だと思い、いったい誰が発案したのか家族に尋ねてまわると、遺書にそうするように記してあったということでした。
祖父の死後、祖父の管理していた裏山の手入れが行き届かなくなり、季節ごとに結構な量の栗や果物が実っては無駄に落ちるだけで勿体ないということになりました。そこで祖母は、ほとんどタダも同然の値段で駆けだしの若い農家に裏山を丸ごと貸してやり、収穫も好きにしていいという契約を交わしたのですが、数ヶ月が経つと、若者が逃げるように裏山を離れてゆく。そんなことが二度三度と続い��のです。
このお話は祖父から話し聞いたことを書き記したものですが、何しろ幼い頃のことで記憶が曖昧な部分もあります。そこでわたしと同じく祖父のはなしをきいた祖父の弟が、戦後に祖父と為三の物語を自費出版した『軍靴の響き』という小説を参考にしている部分があります。その小説にはやはり河童は出てこず、祖父もあの小説は嘘っぱちだとぼやいていたのですが。
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はじめに 神奈川県警や新潟県警の「不祥事」を機に警察改革の必要性が論議されてきたが、本稿では最近の奈良県警汚職を取り上げ、警察腐敗の実態と原因を解明し、警察の自浄能力に期待する警察改革がいかに無力であるかを具体的事実に基づいて明らかにしていきたい。同時に、奈良県における日本共産党や民主団体等の取組とその教訓、さらに警察改革の課題と方策を検討したい。 一 奈良県警汚職・奈良佐川急便事件の概要 ?@奈良県警交通部交通企画課長・中野英平警視と刑事部暴力団対策課意見聴取官・川口正幸警視の二人が奈良佐川急便?鰍ニその関連会社から合計二三五〇万円を越える現金などを受け取っていた贈収賄事件、?A奈良佐川急便の原田義男元副社長と関連会社の上田晃市元社長(いずれも県警OB)が奈良県警の現職警察官十二人の名義で架空の給与振込口座を作り、預金通帳とキャッシュカードを「だまし取り」、総額五千万円以上の裏金を捻出していた詐欺事件、?B交通違反もみ消しの公用文書毀棄事件、?C犯歴などの個人情報・交通取り締まり情報の漏洩事件、?D中野警視を含む数人の県警幹部が高級乗用車を奈良佐川急便の関連会社から低廉な価格で譲り受けた疑惑、?E奈良佐川急便の関連会社の自動車修理工場で二十一名の警察官が「格安の費用」で車検を受けていた疑惑など、一九九一年以来の長期間、多岐にわたる汚職・不正腐敗が交通警察や暴力団対策の部門を中心に発生していた。 二 奈良県警汚職の特徴 今回の奈良県警汚職は警察官と民間企業との癒着・腐敗事件であるが、県警が三月段階で約五〇人の警察官から事情聴取したと明らかにしているように、奈良佐川急便からの「甘い誘い」に群がった警察官が多数にのぼっていることが一つの特徴である。 第二の特徴は、腐敗の中心に座っているのがノンキャリアのトップグループの県警幹部だという点である。 県警の警察官二千二一六人(定数)の中で、警視長は一人(県警本部長)、警視正は五人、警視は九二人に過ぎない。中野警視、川口警視らは県警本部長、警務部長ら県警トップを占めるキャリア組(警察庁からの出向者)に次ぐポストにあり、県警の捜査実務の実質上の中心を担い、人事にも大きな影響力を持っていた。 第三の特徴は、企業側が多数の退職警察官の再就職を受け入れ、彼らが中心となって県警との癒着・腐敗を深めてきたという点である。 奈良佐川急便にはこの八年余りの間に、十二人の奈良県警OBが「天下り」し、いずれも同社やその関連会社の要職に就いている。 第四の特徴は、県警の癒着相手の企業が暴力団や右翼とつながりのある奈良佐川急便という会社であったという点である。 佐川急便?梶i本社・京都市)の創業者佐川清は右翼の大物故笹川良一と親交があった。一九七三年頃、佐川急便が奈良県内で佐川の商標と制服を使って宅配する業務の委託契約を結んだ相手は右翼団体「大日本菊水会」会長川井春三が設立した新日本開発??(後に新日本輸送??)であった。川井会長が一九八九年に死去し、山口組系暴力団と交遊があったといわれる山田勝弘が次第に社内で力をつけ、山田は一九九〇年に県警を退職した原田を迎え、一九九三年に宅配業務の営業権を新日本輸送から二億円で買い取って独立し、奈良佐川急便を設立して社長に就任した。 奈良佐川急便の年間売上高は約五二億円(昨年度)にのぼり、県内同業者一八二社のトップである。こうした急成長の陰で、同社は様々なトラブルを抱えたといわれる。 独立前から指摘されていた右翼団体や暴力団とのかかわりを絶てず、佐川急便本社から「右翼対策費」等の名目で借り入れた総額が二五億円にものぼっていたという(「朝日」四月二一日)。 山田や原田が中野警視、川口警視ら多数の警察官に金銭提供や接待を重ねてきた目的は、第一に右翼や暴力団への対策及び様々なトラブルの場合に備えて「用心棒」としての役割を期待したものと考えられる。また、運送会社にとっては運転手の免許の取消・停止などの行政処分は業務に著しい支障が生じることから、交通違反のもみ消し、犯歴情報の漏洩等の見返りも期待していたものと思われる。 三 奈良県警の消極的姿勢と批判拒否体質 1 県警はこの問題についてきわめて消極的姿勢を取り続けてきた。 事件が表面化してから二か月近くも公式な記者会見を行わず、県議会でも「調査中」と繰り返して具体的な説明を拒んできた。世論やマスコミの批判を受けて、ようやく調査及び収賄事件の捜査を始めた。三月九日、一〇日に奈良佐川急便や中野警視の自宅などの関係先を捜索し、三月一五日に中野を懲戒免職、川口を停職六か月の処分とした上で、収賄の容疑で奈良地検に書類送検した。 口裏あわせなどによる証拠隠滅が行われやすいという贈収賄事件の性格、収賄額の大きさ、事案の悪質さ等に照らすなら逮捕が当然であり、書類送検は「身内に甘すぎる」との批判が噴出したのは当然である。 2 奈良地検は四月中旬、県警に対する厳しい批判と検察に対する期待の声を受けて、大阪地検や京都地検の応援を受けて関係先の再捜索など独自の補充捜査を行うことを決定した。 あわてた県警は地検に捜索の「合同実施」を申し入れ、そのため捜索の着手が一日遅れて四月一八日となった。ところが県警本部は「捜索はあくまで合同。地検単独ではない」「県警の捜査が不十分で地検がやり直すわけではない」と強調し、体面を保つことに固執した。 地検との「合同捜索」より一日早い四月一七日に県警は原田と上田を詐欺の容疑で逮捕したが、これは世論の高まりとそれを受けての地検の動きの反映と見るべきである。 3 奈良地検から収賄容疑で自宅の捜索を受けた四月一八日、中野元警視は焼身自殺した。 収賄側の中心人物の自殺により、贈賄側からの依頼の趣旨の特定など贈収賄事件の捜査に大きな影響が出ることは避けられない。県警は三月一五日の書類送検後、時折携帯電話で連絡はとったものの、一か月以上中野元警視の所在場所を把握していなかったという驚くべき事実も判明した。「究極の逃亡であり、徹底した証拠隠滅である」容疑者の自殺を招いた県警の責任は重大である(「日経」四月二〇日)。 4 県警の独善的な批判拒否体質、無反省な姿勢は詐欺事件の現職警察官らの役割に関する説明でも示された。 県警刑事部長は、原田らの逮捕後の記者会見で「警察官らは名前を使われただけで金は受け取っていない」「被害者だ」とまで述べたのである。 しかし、現職警察官らが見返りなしに運転免許証のコピーを渡したとは、到底考えられない。案の定、その後の県警の調べで十二人のうち数人がギフト券や金券を受け取ったり、飲食接待を受けたりしていたことが判明した。 5 川口警視がいまだに逮捕されていないのも理解し難い。 川口は、携帯電話の使用料の収賄容疑事件に加え、詐欺事件でも「架空口座」の名義人となっている。さらに奈良佐川急便本社の放火事件(一九九九年七月)に関する捜査情報を事件担当者からしきりに聞き出し、奈良佐川急便に流していた疑いも持たれている。証拠隠滅のおそれが強く、速やかな身柄の確保が当然である。 四 奈良県警には自浄能力がない 1 県警のこのような自己保身優先のもみ消し体質は過去からの一貫したものである。 県警暴力団対策課警部補Aは、知人(暴力団関係者)からの依頼を受けて犯罪捜査の名目で照会文書を偽造し、NTTドコモから携帯電話加入者の住所、氏名などの個人情報を入手した。これを知人に流したとして有印公文書偽造・同行使、公務員職権乱用罪で二〇〇〇年三月一〇日懲役二年、執行猶予四年の判決を受けた。 NTTドコモから不自然な照会がなされたとの連絡を奈良県警が受けたのは一九九九年六月である。県警はAから任意で事情聴取を行い、違法照会の事実を確認しながら、精神状態が不安定になったとしてAを入院させた。Aについては覚せい剤を常用しているとの情報も寄せられていたが、県警は尿検査を実施しなかった。 神奈川県警の一連の不祥事を受けて警察庁が同年九月に通達を出したが、その二か月後に奈良県警は事情聴取を再開し、Aの逮捕に踏み切った。尿検査を実施したが、もはや覚せい剤使用を確認できなくなっていた。 Aは捜査段階、公判を通じて情報を流した暴力団関係者の氏名を明らかにしなかった。 県警の覚せい剤使用の「もみ消し」に照らすと、情報提供先についてもAが黙秘したのではなく、暴力団との癒着構造の露顕を恐れた県警上層部の意図が働いた疑いが濃厚である。 2 綿貫茂県警本部長は今回の県警幹部による汚職(奈良佐川急便事件)について、県議会の答弁では「個人の資質」の問題だとして、再発防止のための教育の徹底を強調するだけであった。 しかし、「不祥事」が続出することは個人の資質を超えて警察組織自体が深刻な問題を抱えていることを示している。しかるに、「個人の資質」の問題と繰り返す県警に自浄能力がないことは明らかである。 県警は三月一六に人事異動を発令したが、今年から警部補以下の異動の公表を取りやめるという情報公開に逆行する姿勢を示す始末である。 五 公安委員会や検察は役割を果たしているか 1 公安委員会の役割について 公安委員会の姿が全く見えない。県警が中野警視、川口警視の懲戒処分と書類送検を発表した後、報道陣の取材を県警が妨げ、結局公安委員は記者会見さえ行わなかった。県議会では県警の捜査は「身内に甘い」との県民の声にどう答えるのかとの日本共産党県会議員の質問に対して、公安委員長は「(逮捕しなかったことは)専門家が��査し、判断したもの。尊重する以外にない」と答弁しただけである。 2 検察の捜査について 県警の自浄能力が期待できない以上、検察の対応に期待がかかる。この間、任意捜査という県警の「身内に甘い」捜査手法を認めてきた点では検察にも責任がある。中野元警視宅の捜索と同時に同人の逮捕に踏み切らなかったことは、県警への配慮を優先させた検察のミスである。 検察には中野元警視の自殺という困難を乗り越えて、贈収賄事件とこれに関連する疑惑の全容の解明、さらに県警の腐敗構造の深部に迫る捜査を期待したい。 ところが奈良地検は、中野元警視の死亡で便宜供与を裏付ける証拠を固めきれず公判維持は困難と判断し、贈賄側の山田、原田を起訴猶予にする方針を固めたと報じられている(「毎日」五月三日)。また三年近くも携帯電話使用料金の支払いを受け続けていた川口警視についても便宜供与と入金との因果関係がはっきりせず、公判の維持が難しいと不起訴にする方針だと報じられている(「毎日」五月四日)。 金銭を受け取ったことについて二人の警視は「深く考えなかった」「友人ということで甘えてしまった」などと供述したが、金銭の授受を認めながら、その趣旨について合理的な説明が出来ない以上単純収賄罪の成立は明白である。一刻も早く贈賄側の原田元副社長、収賄側の川口警視を逮捕し(山田元社長は病気と報じられている)、請託内容についての徹底的な取調べを尽くすべきである。贈賄側、収賄側の誰一人も逮捕せず、任意の事情聴取だけで請託内容が特定できないとして受託収賄はおろか単純収賄でも起訴を見送るというのでは、検察もみずからの職責を放棄するものといわざるをえない。 奈良地検は五月八日、現職警察官の名義を使い架空の銀行口座を開設して通帳とキャッシュカードを詐取したとして、有印私文書偽造・同行使、詐欺の罪で原田と上田の二人を奈良地裁に起訴した。「裏金づくり」目的の犯行だとされているが、報道されている限りでは、「裏金の使途」の解明が進んでいない。裏金が警察官に対する賄賂として使われたのか否かの追及が重要である。 検察は、五月二五日には、元社員の厚生年金基金からの脱退一時金約二二万円をだまし取ったとして詐欺などの罪で原田を起訴した。 県警は六月二十五日、現職警察官四人を懲戒処分の上、収賄や地方公務員法(守秘義務)違反などで書類送検し、事実上の捜査終結を宣言した。 検察と県警は協議の上、?@現職警察官については逮捕せず、すべて不起訴処分とする、?A県警OBの原田、上田らの容疑については何件かの容疑は起訴処分に持ち込むとの方針を固めたものと思われる。世論やマスコミの厳しい批判が無視できないため、警察OBの原田らの起訴によって世論に配慮しながら、現職警察官については中野元警視の自殺などを口実にすべて不起訴処分で幕引きをはかろうとしている。 右の推測が当たっているとすれば、検察と警察の癒着ぶりを示すものとして厳しく批判されなければならない。右翼・暴力団との深いつながりが指摘されてきた奈良佐川急便と県警幹部との贈収賄容疑が今回の奈良県警汚職の要である。その贈収賄事件で一人の逮捕者も出さず、起訴もしないというのでは、公訴権を独占する検察の役割は到底果たし得ない。 (注)奈良地検は七月十三日、収賄事件で警察官三人を不起訴(嫌疑不十分など)にし、地方公務員法(守秘義務)違反事件などで四人の警察官を罰金六万円から三十万円の略式起訴にした。 六 日本共産党や民主団体などの取り組み 1 一昨年来の奈良県警の不祥事について、党県議団(山村幸穂団長)は毎回の議会において取り上げ、?@公安委員会及び県警を情報公開条例の実施機関に含めること、?A公安委員会の警察からの独立及び外部監察制度の導入等の警察不祥事への抜本的対策を講じること、?B警備公安優先を改め、住民に密着する部門に警察官を重点配置することなどを求めてきた。 今回の事件発覚後の二月~三月の県議会で党県議団は総務警察委員会、予算委員会及び本会議でこの問題を取り上げた。「今回の事件についての公式発表があまりにも遅い。報道はたくさんあるが、いっさい警察からの発表がないというのは県民無視の態度だ」「二〇〇〇万円を越える多額の金銭の収賄容疑にかかわらず、なぜ逮捕されずに勤務させてきたのか。車を隠した疑いなど、証拠隠滅と思えるような事実も報道されており、納得できない」「四〇数名の警察官を調べたという根が深い事件だ。ところが、県警本部長は個人の問題だと言う。教育をいくら徹底すると言っても繰り返し同じことがおこっている。今回の事件の全容解明と徹底的な組織改革が必要ではないか」などと追及した。 党県議団のこのような議会での質問は、その都度地元マスコミを通じて報道された。 国会では衆議院内閣委員会で松本善明議員が三回連続で取り上げ、特に三月一六日の委員会で、「逮捕をして罪証隠滅ができないよう��して、徹底的に捜査をしなければ、捜査完了とは絶対に言えない」と追及し、伊吹文明国家公安委員長から県警のやり方は「常識からは外れたことだ」との答弁を引き出したことは、その後のたたかいに大きな力となった。 党奈良県委員会は県警本部及び県公安委員会に対し「今回の不祥事件は、単に『個人の問題』として対処するのではなく、徹底捜査と厳正な処罰を行って全容を公表し、抜本的な再発防止策を確立するように」と申し入れ(三月一四日)、送検の四日後には地検に対して「県警幹部職員の贈収賄事件は、速やかな逮捕を含む徹底捜査をおこない、厳正かつ適正な公訴権の行使」を申し入れ(三月一九日)、更に近畿管区警察局にも県警への指導監督の徹底等を申し入れた(三月二一日)。六月二十一日にも、改めて県警本部、県公安委員会及び地検に対して「徹底捜査と全容解明」を求める申し入れをおこなった。 これらの関係機関への申し入れも、マスコミ各社がその都度報道し、世論の形成に一定の効果があったことは間違いない。さらに、「しんぶん赤旗」と奈良民報が正確かつ時宜にかなう報道を行った。「しんぶん赤旗」は「主張」欄で二度取り上げ(三月二六日、四月二四日)、赤旗編集局の記者が二度に亘って奈良入りして独自取材に基づく特報記事を掲載した。 2 国民救援会が三月二一日、県警及び奈良地検への申し入れを行った。同じ頃、情報公開を求める市民団体からも県警や奈良地検などへの申し入れが行われた。 四月一七日には弁護士有志が中野元警視と川口警視を収賄の容疑で奈良地検に刑事告発した。三月下旬から準備に入り、奈良弁護士会会長経験者四名(私もその一人)を含む六人の呼びかけに応じて短期間のうちに奈良弁護士会会員三二人(会員の三割を超える)及び奈良県内在住の大阪弁護士会会員二二人の合計五四人(内代理人が一〇人)が名を連ねた。裁判官や検事のOBを含む多数の弁護士らの「灰色決着を許さない」との意思に基づく刑事告発は、地検が独自捜査に乗り出す上で重大な契機となったものと見られる。 七 取組の到達点と教訓 1 取組にあたってどの配慮と心掛け。 第一に、事件の性格と位置づけを正確に分析し、その上で取組の県民的意義を明らかにすることにつとめてきた。 新聞報道から間もない三月三日に党県常任委員会のもとに田辺実県委員長を責任者とする「対策チーム」を組織し、私も一員として参加した。ここでの討議及び県常任委員会での検討という集団的論議を経て、このような県警の不正・腐敗は、県警と一部の私企業の癒着にとどまらず、奈良県内に巣くう暴力団やそれと癒着して県政を支配している自民党政治の深部に迫る問題であり、県政革新にとって避けて通ることのできない問題の一つとして位置づけて対策を進めていくことが確認された。 第二に、正確な事実の把握に努めたことである。我々は捜査権を持たないが、報道される諸事実を全面的に掌握分析し、さらに関係者からの聴き取りや登記簿等の閲覧など可能な限りの情報収集に努めてきた。 第三に、県民世論を代弁して敏速かつ的確な質問や申し入れを行ったことである。講演会や小集会、街頭宣伝でも取り上げ、ビラへ掲載するなど、県警汚職の実態と真相解明への取組の広報にも力を入れてきた。 第四に、可能な限り広範な人々との共闘を進めることに配慮した。有志弁護士による刑事告発の取組などはその典型である。 第五に、当面は今回の県警汚職の徹底追及に力を集中するが、同時に過去からの諸問題も点検・総括し、長期の展望をもってたたかいを進めていくことを確認したことである。 奈良県の党と民主勢力は、戦後の平和と民主主義、生活擁護、政治革新をめざすたたかいの中で、右翼・暴力団、「解同」や統一協会などの暴力・無法な攻撃に直面してきた。各地における「解同」の暴力・無法とのたたかいは歴史に刻まれている。また、四年前の御所市における産廃業者が右翼・暴力団を使ってしかけてきた党と市民に対する攻撃を打破したたたかいも重要な教訓となっている。 こうした状況のもとで、当面、県警の不正・腐敗を暴露追及し、県警民主化の方向を示してたたかうとともに、奈良県における右翼・暴力団や「解同」などの策動の実態を明らかにして、これらを打破するねばり強いたたかいを推進していくことが重要である。 2 これまでの取組の成果と教訓 第一に、県警は三月一五日の二人の警視に対する懲戒処分と書類送検で「事件の幕引き」をはかろうとしたが、厳しい世論の批判と監視の下で、県警の思惑通りには収束していない。 しかし、県警は何ら真摯な反省をしておらず、県警の組織的責任を避けるための策動を続けている。県民世論を一層喚起し、真相の徹底究明への取組の強化が求められている。 第二に、県警の汚職・腐敗の実態の一端が県民に広く知られ、県警の民主的改革の必要性が明らかになった。 県議会での追及、関係諸機関への申し入れ活動がマスコミとの連携のもとに進められ、またきめ細かな広報活動とあいまって県民世論の形成に役割を果たした。 第三に、県警の汚職・腐敗をただす広範な人々との結集がはかられつつある。党奈良県委員会が主催した「県警の不正・汚職を糾弾する真相報告集会」(六月二七日)には国民救援会をはじめとする民主団体や刑事告発に取り組んだ有志弁護士らが多数参加した。 第四に、県警問題は、県民生活を守る上でも、県政革新の事業を推進する上でも避けて通ることのできない重要な課題であることが鮮明になったことである。 八 警察改革の課題と方策 1 昨年の警察法の一部改正では根本的解決ははかれない 今回の奈良県警汚職は例外的な事件ではなく、全国各地で同種の事件が山積していることは疑いない。今や警察の信頼は著しく失墜し、事態は極めて深刻である。「危機的事態は警察に対する民主的管理制度の欠如と警察の閉鎖的体質が永年に亘り複合的に作用して生じた我が国の警察の根本的病弊がもたらした」ものである(昨年五月の日弁連定期総会決議)。 昨年七月の警察刷新会議の「緊急提言」を受けて、政府は警察法の一部改正案を国会に提出し、昨年一二月に警察法が改正された。警察官の職務執行への文書による苦情の申し出に対し、公安委員会が処理結果を文書で通知する制度を導入した点など、前進面もあるが、肝心の公安委員会の警察からの独立や第三者による外部監察制度の導入などは見送られた。 警察の閉鎖的体質を打ち破り、民主的管理制度を確立しない限り、根本的解決にはならない。現に、これだけ厳しい国民的警察批判の下でも、昨年一年間に不祥事で懲戒免職や停職などの処分を受けた全国の警察官及び警察職員は前年より一九〇人も増え、過去一〇年間で最多の五四六人にものぼっている。 あれだけ問題となった神奈川県警や新潟県警でも改善のきざしが見えない。神奈川県警では盗犯係の現職刑事による連続空巣事件、音楽隊所属警部補の同僚女性職員刺殺・無理心中事件、茅ヶ崎警察署員による連続強制わいせつ事件等が続出している。また新潟県警でも県警交通機動隊長らの交通違反もみ消し事件、飲酒ひき逃げ事件などが起こっている。新潟東署の巡査長のストーカー行為が昨年六年に発覚後も署長らが八か月余も県警本部に報告していなかったことも判明した。 2 警察改革の方向ー日本共産党の提案 警察が「個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持する」という本来の責務を果たすためには、警察の管理制度と閉鎖的体質を根本的に改める警察法等の抜本改正が急務である。 ポイントは日本共産党が、昨年十一月一日付で公表した警察法「改正」案への対案(大綱)に示されている。 第一に、公安委員会の警察からの独立と権限の強化である。第二に、警察情報については、現に捜査中の事件の捜査上の秘密に属するものを除き、全面的に公開する制度を実現すること、また公安委員会の議事録を公開することが重要である。第三に、警察への外部監察制度の導入であ��。 3 公安委員会以外の外部機関による警察活動のチェック機能を高める改革として、?@検察体制の強化、?A検察審査会制度の改正、?B付審判制度の拡充、?C警察官適格審査会制度の導入などの課題がある。 また警察の組織・運営の民主的改革として、?@キャリア制の抜本的見直し、?A警備公安優先を改めること、?B憲法及び人権教育の徹底、?C労働組合の結成及び活動の保障などの課題がある。 このように法改正を伴う警察制度の抜本的改革を実現するには、政治革新を図ることが第一である。自民党、公明党などの政権与党、更にこれらと基本路線で一致する民主党、自由党などが中心の政権の下では、警察制度の抜本的改革はきわめて困難である。政治革新のために力を集中することが求められるゆえんである。 4 しかしながら、警察改革は、日本共産党が参加する民主的政権の誕生まで先延ばしすることが許されない緊急の課題である。 同時に警察の不正・腐敗にメスをいれることは、暴力団やそれと癒着して行政を支配してきた自民党政治の深部にせまる問題であり、政治革新にとって避けて通ることのできない重大な課題である。 警察改革の推進のためには、立法提案や制度要��ばかりでなく、全国各地で警察の不正・腐敗追及のねばり強い取組を積み重ねていくことが大事である。 神奈川県では、神奈川県警の一連の不祥事の後、民主団体などが企画した連続シンポジウムなどを契機に、市民による警察監視の組織「警察見張番」を全国で初めて発足させ(昨年七月)、積極的な活動を継続している。元神奈川県警本部長らによる覚せい剤使用もみ消し事件の刑事確定記録の閲覧を横浜地検に認めさせるなどの成果を上げている。 新潟県警では、県警本部長と関東管区警察局長らの「雪見酒・かけマージャン」接待の際の宿泊代・飲食代等の返還を求める住民監査請求や支出関係書類の公開請求等の取り組みを進めている。本年一〇月からは全国的に都道府県警察及び公安委員会も情報公開の実施機関となるので、警察関係文書の公開請求が今後の取組の有力な手段となりうることは明らかである。 神奈川や新潟などの活動に学び、幅広い市民の参加する警察監視の市民組織と民主団体、革新政党が連携しながら全国各地で警察の不正腐敗を追及する取り組みを展開することが重要である。 (さとう・まさみち)
奈良県警汚職「奈良佐川急便事件」に迫る-警察には自浄能力なし-
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