#1975年秋���まれ
Explore tagged Tumblr posts
Text








内田莉紗は大特一種キャタピラ限定及び普通二種MT免許証を所持しております。初等旅客運転者講習8時間受講又は再試験適性検査学科試験試験場コース内経て路上試験となりますと万が一不合格ならば運転免許証全種類失効並びに無期欠格余儀なくされ、ミジメになるばかりです。交通事故や交通違反にならない為にも車間距離を十分に取り、安全運転徹底せねばならない譯です。
健太郎居候2025年秋附けで『半世紀』則ち『50歳』を迎えますから、以前よりパワーアップ出来そしてジンゴから柔道の技1度も受けられなく済ませりゃありがたいです。内田莉紗って紺色スパッツを脚にクチュクチュさせていたとは驚き桃の木山椒の木ですし、チュッしてみたくなります。💝
2025/02/18
#内田莉紗#普通二種MT#再試験#一発勝負#不合格失効#無期欠格#大特キャタピラ限定#学科試験90%#技能試験80%#深視力検査#堀北真希#安西進#甘ったれてゃ居られない#エンジョイ剥奪#菰田洋平#田村幸二#後無ければ先も無い#切羽詰まる#視野狭くなる#ミジメ#無事故・無違反#1975年秋生まれ健太郎居候#結婚#中島里恵#羊膜#体液#レ↑ラ##追い詰まれる#e−girls北風と太陽
0 notes
Quote
貨物駅としての役割は1975年に廃止されており、今年でちょうど50年です、貨物駅や神田市場、また水運として現在のヨドバシAkibaの場所に存在した船溜まりなど「輸送・運輸」は秋葉原の歴史で大きなテーマですね
Xユーザーの天野マウスさん
4 notes
·
View notes
Quote
1987年5月3日午後8時15分ごろ、朝日新聞阪神支局に、全身黒ずくめの男が散弾銃を構えて押し入った。 男は小尻知博記者(享年29)と犬飼兵衛(ひょうえ)記者(当時42)に対し、散弾銃を発射。小尻記者が殺害され、犬飼記者は重傷を負った。 ここから露見した一連の事件は、犯行声明に「赤報隊一同」と記されていたことから「赤報隊事件」と呼ばれ、世間を震撼させた。しかも、事件は未解決のまま、2002年に時効を迎えている。 「赤報隊事件には、統一教会の関連団体『国際勝共連合(以下、勝共連合)』を含め、信者が関係している可能性があると思っています。末端の信者の暴発がなかった、とは言い切れません」 そう証言するのは、大江益夫氏だ。現在75歳の大江氏は、1992年に統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の広報担当になり、翌年から1999年までの7年間、広報部長の要職を務めてきた人物だ。 その間に、桜田淳子氏の合同結婚式参加などがあり、大江氏は教団の “激動期” を目撃してきた。60年近く旧統一教会員として過ごし、教団の深部を知り尽くしている。 そんな大江氏を朝日新聞元記者で「��撃事件取材班キャップ」だったジャーナリストの樋田毅氏は熱心に取材してきた。そこで、旧統一教会による事件への関与の可能性をめぐるさまざまな情報を得たという。2018年に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)も出版している樋田氏が、こう話す。 「事件前に、勝共連合の名前で『アカサタンを殺すことだけが生きがい』と書かれた脅迫状が、朝日新聞社に届いていました。信者たちにとって、“サタン” は排除すべき存在。 “サタン” が文鮮明教祖(当時)の身に危害を加えるかもしれないと考えれば、朝日は抹殺すべき存在になっていたかもしれません」 2023年2月の衆議院予算委員会で、日本共産党の宮本岳志議員も「朝日ジャーナル」編集長だった筑紫哲也氏のコラムを引用する形で、この脅迫状の存在を取り上げ、当時の谷公一国家公安委員長に対して、赤報隊事件の再捜査を求めていた。事件後も兵庫県警が統一教会、勝共連合を捜査していた。 そして、大江氏もこう話す。 「統一教会には、かつてのオウム真理教のような敵対者を『ポア(殺害)する』という発想はありません。しかし、共産勢力と戦う勝共連合の “武闘派” となると、話は別です。侵略者に対しては武器を持って戦うという軍人精神的な発想があったと思います」 樋田氏はこれらの取材をまとめ、『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)を8月20日に上梓する。 そこであらためて、本誌は大江氏を取材した――。 事件当時、すでに教団の幹部として、日韓トンネルの建設を推進する関連団体「国際ハイウェイ建設事業団(当時)」の事務局長だった大江氏は、「赤報隊事件」の犯人像について、こう話す。 「単独犯ではなく、グループだったと思います。ヒットマン以外に逃走を助ける人物、声明文を書く人物、依頼者などがいたはず。犯行を指揮した人物は、教団関係者だった可能性が高いかもしれません。 いずれにしても、犯行に関わった人物は、全員が共同正犯。罪はみな同じだと私は思っています」(以下、断わりのない発言は大江氏のもの) 朝日新聞阪神支局に押し入ったのは、全身黒ずくめのヒットマン1人だった。大江氏は “実行犯” についてふたつの可能性を感じているという。 「赤報隊事件は用意周到に準備され、犯人が見せた腰だめの撃ち方、銃身を短く切った散弾銃の使用など、プロの犯行とみられ��いました。 ひとつは “ヤクザ組織” が絡んでいる可能性です。当時の教団側の関係者に “闇社会” との関わりがまったくなかったとは言い切れません。また、あの残虐な事件は、そういった人間でないとできないと、思うところもあるからです。 しかし、勝共連合のなかにも “武闘派” は存在していました。これが、もうひとつの可能性です。もともとは、旧ソ連が日本に攻めてきた場合、先頭に立つのは自衛隊ですが、その後方支援という位置づけで生まれました。勝共連合が民間防衛を担うという発想でした。 この組織に属する信者たちは、実際に軍事訓練をおこなっていたのです。私自身も、何度も陸上自衛隊に体験入隊しました。ふだんから、山中で散弾銃の訓練もやっていました。こうした信者が400人ほどおり、元自衛官や元警察官もいたのです。そうした “武闘派” の信者が実行犯だったのではないかという推測も可能だと思います」 じつは今回、大江氏が『懺悔録』を世に出すという情報が、旧統一教会内に事前に広がった。教団は出版を踏みとどまらせようと、大江氏に対して執拗に圧力をかけてきた。 「京都の山里にある私の自宅に、教団の人間が突然来るのです。これまでに十数人来ました。彼らが何を危惧しているのかといえば、やはり『赤報隊』に関する記述でした。 安倍(晋三)元首相の銃撃事件があり、2023年には宗教法人法に基づき、政府が教団に対する解散命令を裁判所に請求する事態になっています。ここにきて『赤報隊事件と統一教会が関係がある』と言われたら、教団は潰れてしまうということでしょう。 でも、私は『断定的な言い方はしていない』と言って追い返しました。自宅に押しかけてきたなかには、かつての私の部下たちもいました」 そんななか、なぜ大江氏はあえて赤報隊について語る決意をしたのか。『懺悔録』でも記したように、こういう思いがあるという。 「信者の可能性がある犯人がこの世、あるいはあの世で、のうのうと生きていることが許せないのです。犯人が口をつぐんでいるのであれば、私が犯人の代わりに、小尻さんとご遺族に謝罪しなければならない。そう考えたのです。絶対に謝罪が必要です。そうでなければ、私はあの世で亡くなった小尻さんの霊と会うことができない」 だが、大江氏は赤報隊事件について語るためだけに、樋田氏の取材に応じたわけではなかった。長年、旧統一教会内部で抱いていた教団運営への違和感があったのだ。 そして、それをすべて樋田氏に打ち明けようと思ったきっかけがある。 「樋田さんと “川口君” の五十回忌の法要でばったり会ったんです。そこで、私は『これは腹を割って話さないといけないな』と思いました」 大江氏が口にする “川口君” とは、1972年、革マル派のリンチを受けて殺害された早稲田大学生・川口大三郎さん(享年20)だ。当時、早大で旧統一教会系の学生団体「原理研究会」に所属していた大江氏は、革マル派と対峙していた。 そのため、大江氏は川口さんの死を悼み、2021年秋におこなわれた五十回忌まで供養を続けてきた。 そして、五十回忌法要には、川口さんの事件に関するノンフィクション『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)を出版した樋田氏も出席していた。 その後の交流を通じて、「最後の懺悔」を受け止めてくれるのは樋田氏しかいないと思うようになったという。 大江氏は「かつての統一教会は、こんな教団ではありませんでした。私たちは、なぜ韓国の教団本部に巨額の送金をするようになり、霊感商法といわれるような悪質な行為をおこなうようになったのか」と、次のように話す。 「私は1966年、17歳のときに統一教会に入信しました。教団には『開拓伝道』という布教活動があります。学生時代には、自分で廃品回収をしてお金を作り、屋根裏部屋のような部屋を借りる。そこを足場にし、廃品回収をしながら伝道活動をおこないました。非常に清貧な暮らしでした。自分が行く教会の教会長さんを中心にして、統一教会は家庭的な教団でした」 その教団の性質が大きく変わったのは、今から49年前の1975年のことだったという。 「それまでは伝道活動が中心でしたが、1975年から経済活動が始まります。統一教会は韓国でできた教団です。伊藤博文が初代韓国統監に就任した1905年から、日本による韓国の植民地支配が始まったと統一教会はとらえています。 それが終わる1945年までの40年間について “贖罪” しなければならない。統一教会には『40年の蕩減(とうげん)復帰』という教えがあります。なので、日本の信者は韓国の本部に40年にわたって送金を続けるとして、経済活動に励むことになった。そのスタートが、1975年だったんです。 そうすると、経済活動が強化されるなかで、霊感商法が始まりました。『先祖の霊や祟りを取り除くには、霊力のある高額な壺などが必要だ』という考え方は、キリスト教にはありません。『先祖の怨(おん)を解くための献金』についても同様です。しかも、韓国への送金は40年間を過ぎた現在も続いていて、日本の信者を苦しめています。 これは『40年の蕩減復帰』の教えから外れていて、約束違反ではないか。やりすぎなんですよ。全財産を捧げるような献金をさせてはいけません。教団も受け取るべきじゃないんです」 韓国の教団本部への高額の送金が、日本の教団の性格を歪め、さまざまな問題を引き起こしてきた。 「今、教団には解散命令が出されようとしています。それを回避するには過去に遡って、高額献金を反省し、���害者に補償する必要があります。自分の家族が路頭に迷うような献金を求めるのは、公序良俗に反しています。日本の教団は、多額の送金を求め続けてきた韓国の本部から独立する必要があります。それが、解散命令を免れる唯一の道です。 なぜ、こんな単純なことがわからないのでしょうか。私は、これまでもこうした問題提起を教団内でしてきましたが、“危険分子” とみなされ、意見は通らなかった。でも、教団は間違っていたのだから、反省しなければいけないのです。力不足かもしれませんが、私自身も霊感商法を後押しする側にいた問題を含めて、懺悔したいと思います」 現在、旧統一教会への解散命令請求が東京地裁で審理されているが、大江氏は末端の “純粋な信者” たちに向けて、こう提言する。 「統一教会は全国に300の教会があります。しかし、解散命令が実施されると教会施設のほとんどはなくなり、礼拝をする場所がなくなる。これは信者にとっては大変なことです。私は、家庭が教会になればいいと思っているのです。 建物がなくても、毎日礼拝する場を家庭に作ろうということです。このままだと、絶望する信者が増えていくだけです。私は、2024年6月で教団を退会しました。それでも、家に礼拝の場があります。私は退会後も、礼拝を欠かしていません」 本誌に対する大江氏の告白は2時間に及んだ。彼が長く過ごしてきた教団が、この言葉を聞いて、悔い改めることはあるのか。
「赤報隊事件」旧統一教会・元広報部長が明かす “散弾銃訓練”と “武闘派”…教団からは「懺悔本」出版への圧力も(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
4 notes
·
View notes
Text
総務省の推計によりますと、4月1日現在、国内に住む15歳未満の子どもは1366万人で、去年より35万人減って1400万人を割り込み、1982年から44年連続の減少となり過去最少を更新しました。
男女別では男子が699万人、女子が666万人となっています。
年齢別では12歳から14歳は314万人、0歳から2歳は222万人で、年齢層が下がるほど数が少なくなっています。
また、総人口に占める子どもの割合も、去年より0.2ポイント低い11.1%と過去最低となり、1975年から51年連続の低下となりました。
都道府県別では子どもの割合が最も高いのは沖縄県で15.8%、次いで滋賀県と佐賀県がいずれも12.7%などとなっています(去年10���1日現在)。
一方、最も低いのは秋田県で8.8%、次いで青森県が9.8%、北海道が9.9%などとなっています。
0 notes
Text

【岐阜県美濃市松森595 マツモリビル Live Spot DiAngelo予定】 2025年3/8(土) 19:00頃~ 服部正嗣(ds & more)ハクエイ・キム(p) デュオライブ ¥3,500(前日迄のご予約)/ ¥4,000(当日) 1ドリンク・軽食オードブル付 お問合せは 〈E-mail〉[email protected] 〈TEL〉090-4115-4235
昨年中に東京都内と岐阜県内の二拠点を構えたドラマー服部正嗣による、今後の時勢に向けてこちら岐阜のローカルスポットでの軌跡です。服部くんは昨年8月と12月のソロライブを経て、続く初のギグワークとしてピアニスト/ハクエイ・キムとのデュオを敢行。ハクエイさんは美濃市DiAngeloでも00年代に始まる数々の思い出の中、コロナ・パンデミック2020年秋のソロピアノ(ライブ配信)以来になります。今回は店主にとっての新旧の出会いがクロスする日程。春に向けて期待がじわりと膨らみます!
*****
服部正嗣 - Masatsugu Hattori (ドラマー & More) MI Japan 名古屋校で学んだ後、大学在学中より活動を始める。主にジャズを基本にしながら、時代に於ける先鋭的な審美眼を求められるシーンで幅広く活躍。スガダイロートリオなどスガダイローの諸作に参加。古谷淳 the otherside quartet や Stand Alone-404 のメンバー。レコーディング、ライブサポートとして馬喰町バンド、新垣隆、世武裕子、岩崎大整、中西レモンなど多数務める。その他共演者として、石井竜也、市野元彦、Aimer、OMSB、片山広明、菊地成孔、K-BOMB、SHING02、坪口昌恭、橋本絵莉子(チャットモンチー)、林栄一、林正樹、南博、向井秀徳(ZAZEN BOYS)、山下洋輔、ヨシダダイキチ、類家心平、���田永(Open Reel Ensemble)、Kit Downes、Roy Campbell、Laurent Larcher、Momchil Atanasoff、Chris Kasprzyk、Viktor Benev、Ola Szmidt、Piotr Damasiewicz、など多数。
2012年 - 後楽園ホールで開催された対戦型企画「BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE 2012」オープニングアクトとして千住宗臣とドラムバトルを繰り広げる。 2014年 - テレビ朝日「題名のない音楽会」にスガダイローtrioとして出演。 2015年 - 白井晃演出、内博貴主演の舞台「ペール・ギュント」に参加。/ B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」に大野和士の指揮による日本初演参加。/ パリ・コレクションでのISSEY MIYAKE Spring Summer 2016のショーに出演。 2016年 - 映画「ディストラクション・ベイビーズ」の劇中音楽に向井秀徳と共に参加。/ アニメ「機動戦士ガンダム サンダーボルト」の劇中音楽に参加。音楽監督は菊地成孔。 2018年 - Aimer Fan Club Tour “ete"に参加。/ 映画「生きてるだけで、愛。」の劇中音楽に参加。 2020年 - 映画「佐々木、イン、マイマイン」の劇中音楽に参加。 2023年 - ソロプロジェクトでEUツアー敢行。
ハクエイ・キム – Hakuei Kim (ジャズピアニスト/作編曲家) 1975年京都市に生まれ札幌市で育つ。韓日クォーター。5歳からピアノを始める。オーストラリア、シドニー大学音楽院(ジャズ科ピアノ専攻)卒業。これまでに、札幌シティ・ジャズ・フェスティバル、香港インターナショナル・ジャズ・フェスティバル、韓国・光州ワールド・ミュージック・フェスティバル等に出演。2016年にはトライソニークで米国デトロイト・インターナショナル・ジャズ・フェスティバルに出演。現地オーディエンスやメディアから高評価を受ける。2018年には初のヨーロッパツアーを敢行し、フランス、イタリア、ドイツでの公演を成功させた。その他の活動としては、TV東京全国ネット『美の巨人たち』のエンディング・テーマや日韓合作映画『道〜白磁の人〜』(高橋伴明監督作品) のエンディング・テーマの作曲、TV朝日系列全国ネット『越路吹雪物語』で大地真央が歌う主題歌の編曲、クリスタル・ケイ、新妻聖子、綾戸智恵、平賀マリカ、平方元基、川島ケイジ (敬称略)等のレコーディングや編曲、コンサートでの音楽監督等がある。 現在、国内外を問わず活動中。
2005年 DIWより「Open the Green Door」でインディーズ・デビュー。その後、同レーベルより3枚のアルバムをリリース 2009年 ピアノ・トリオ「Trisonique/トライソニーク」を杉本智和(b)、大槻”KALTA”英宣(ds)と結成 2010年 渡辺貞夫の『Sadao with Young Lions』のツアーに参加 2011年 ユニバーサル ミュージックよりアルバム『Trisonique』でメジャー・デビュー 2012年 ソロ・ピアノ・アルバム『Break the Ice』、DVD『Solo Concerts』リリース 2013年 アルバム『A Borderless Hour』リリース 2015年 韓国伝統音楽ユニットの新韓楽とトライソニークとのコラボレーション・アルバム『HANA』をリリース 2018年 約6年振りとなるソロ・ピアノ・アルバム『Resonance』をリリース 2019年 フランスを代表するパーカッション奏者、グザヴィエ・デサンドル・ナヴァルとのパリ公演を収めた最新作『Conversations in Paris』を発表
1 note
·
View note
Text
10月18日 金【暮らし】
ひと筆ひと筆、
丁寧に描かれたアートピース。
温かなお飲み物が恋しくなる季節に、
母国フィンランドよりやってきました。
.
.
メーカー:ARABIA /アラビア
シリーズ:Rosmarin /ロスマリン
モデル:コーヒーカップ&ソーサー / Sモデル
デザイナー:Ulla Procope / ウラ・プロコッペ
年代:1966 -1974
サイズ(cm):カップ Φ8.0×H7.0
ソーサー Φ12.5
made in Finland
ロスマリンはフィンランド語で
「ローズマリー」を意味し、
温かみある色合いの花模様が特徴です。
一点一点筆で絵付けされています。
.
.
メーカー:ARABIA / アラビア
シリーズ:Ruija / ルイヤ
モデル:コーヒーカップ&ソーサー / Sモデル
デザイナー: Ulla Procope / ウラ・プロコッペ
絵付け:Raija Uosikkinen / ライヤ・ウォシッキネン
年代:1975 -1981
サイズ(cm):カップ Φ8.0×H7.0
ソーサー Φ12.5
made in Finland
ハンドペイントで描かれた
モスグリーンの葉とブラウンの花。
プラム/すももの実と葉を描いたと言われています。
ベースのベージュ色とのコントラストが美しく、
どこか優しい印象です。
.
.
いずれも淡く透明感のある色調から表れる、
まるで水彩画のようなグラデーションは、
当時のアラビア社の自由な表現力と
絵付け師の技術の高さを感じさせます。
母国でも出会えなくなってきているようです。
是非店頭にてお手にとってご覧くださいませ。
.
.
クラシノ
【暮らし】の企画展
「秋の北欧食器 展」
~10/26 sat
0 notes
Text
毎日が記念日
10月11日は…
「リンゴの唄」の日
1945年10月11日、戦後初めて制作・公開された映画『そよかぜ』が封切られ、並木路子が歌う挿入歌「リンゴの唄」は戦後を象徴する大ヒット!
赤いりんごに くちびる寄せて
黙ってみている 青い空🎶
歌詞は少ないけど
いっぱい、伝わる昭和の歌は大好き!
【疑わしいAI-イチロウによる10月11日の出来事】
1986年 - イスラエルがモサッド作戦を実施:イスラエルの諜報機関であるモサッドは、パレスチナ解放機構(PLO)の指導者、イブラヒム・ナジ・アル=ナジャールをチプラ(チュニジア)で襲撃し、彼を暗殺しました。この出来事は「秋の雷」として知られています。
1968年 - アポロ7号が打ち上げ:アメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ7号が、アポロ計画の一環として初めての有人宇宙飛行に成功裏に打ち上げられました。このミッションでは、宇宙船のシステムや乗組員の健康状態をテストすることが主な目的でした。
1975年 - アイスランドで女性の権利が強化:アイスランドでは、1975年10月11日に全国的な女性ストが行われました。これは、男女平等と女性の権利を求める抗議行動で、アイスランド政府が女性の権利を強化する方針を採る一助となりました。
0 notes
Text
医学部入学者、女性が4割占める 求められる「人生を自分で決める力」―不正入試から5年
2/19(月) 14:00配信244
世間を騒がせた医学部不正入試の発覚から5年。性別、年齢による不当な差別の是正により、2023年度の医学部(医学科)入学者選抜における女性の入学者は4割*1に上昇した。女性医師が半数以上となる日も遠くない。女性医師が増え続けることで日本の医療はどう変わるのか。女性ライフクリニック(東京)理事長の対馬ルリ子医師らが立ち上げた日本女性医療者連合(以下JAMP)は不正入試問題に関し、発覚以前から独自に調査を進めて情報提供を行ってきた。不正が明らかになった真相と女性医師への期待を対馬氏に語ってもらった。
◇不利な扱い「必要悪」との空気
医学部入学者の女性比率
―医学部不正入試問題は、JAMPが問題発覚に先駆けて調査を進めていたそうですが、不正に気付いたのはいつごろでしょうか。 対馬 10年ぐらい前に日本医師会の理事の先生とお話しする機会があり、「日本の女性医師はこんなに増えている」とグラフを見せてもらいました。医学部入学者の女子の割合を見ると、一定のラインで上昇が止まり、まるで定規でも当てたかのようにほぼ横ばいで推移していました。2000年以降、女性医師は世界的に見ても増加傾向にあり、経済協力開発機構(OECD)の加盟国では35歳未満の女性医師の比率が軒並み5割を超えて増え続けているにもかかわらずです。「あり得ない」と不思議に思い、調査を始めました。
OECD各国における女性医師の比率
その頃から研修医や若い女性医師の間では、女子は男子よりも医学部合格のボーダーラインが高いという共通認識がありました。女性は出産や育児で辞めていくから入りづらいのは仕方がないと、差別を「必要悪」と思い込まされているようでした。私たちはこれを絶対に見過ごすわけにはいかないと思い、社会学者の上野千鶴子さんに教えを請いながらデータを精査したところ、医学部は他学部との比較でも受験者に対する合格者の割合が女子だけ低いという事実が浮かび上がったのです。 医学部長会議や全国病院会議のような場所で内部告発しても、真剣に取り合ってもらえずにスルーされてしまうことは目に見えていたので、発表の機会をうかがっていました。2018年に東京医科大の不正問題で世間がざわつき始めた頃、JAMPのホームページに掲載された論考を見つけた読売新聞の記者から���材を受け、大きく取り上げてもらえるタイミングで情報提供しました。
◇就労後の長時間労働が前提
対馬ルリ子医師
―つまり、一部の医師や受験生は、入試での差別をある程度分かっていたということですね。 対馬 過去には国公立でも合格者の9割が現役男子であるなど、明らかに女子と多浪生が門前払いされていると思われる大学もありました。予備校の先生からも「女子は不利」と露骨に言われていたようです。国立の医学部で入試を担当していた教官も「学力試験だと上位は女子が多くなってしまう。かといって面接をしても女子の方がしっかりしていてコミュニケーションの能力も高いので、男子よりも点数が高くなる。どうやって男子を引き上げるか苦慮している。医師を職場や地域にとどめておくためには男子を取る必要がある」と公言していました。 私たちは不正を容認するのではなく、そもそも「医師の働き方」を問題にすべきなのではないかと思いました。女性医師が職場を離れていくには理由があります。日本の医師の働き方は長時間労働が前提で、家に帰らずにできるだけ長く病院にいる必要があります。受け持ちの患者さんに何かあって呼ばれたら、病院に駆け付けなければいけません。結局、家庭とか家事とか子育てといった、仕事以外のことを専業主婦に丸投げできる人しか家族を持った後も病院に長時間居続けることができないのです。誰もが普通に家に帰れてプライベートも大事にできる、男性にとっても女性にとってもそういった人間的な生活を維持できる働き方を実現することが必要なのではないかと考え、5年前に提言を行いました。
◇仏は産婦人科医の8割が女性
産婦人科病院の医師たちと(仏)
―女性医師が増え続けることには男性医師だけでなく、女性医師にも抵抗があったようですが。 対馬 医師の定員は決まっているので女性が増えれば男性は減る。家庭を持つ女性医師にとって男性医師のサポートが不可欠だと思われています。 昨年の秋、フランスの産婦人科病院を訪問したのですが、同国では産婦人科医の8割が女性と聞いて驚きました。理由を聞いたところ、少し前までは男性の方が多かったけれど、仏政府が女性たちに真摯(しんし)に向き合い、耳を傾けて大胆な改革を行ったところ、働き方が大幅に変わり、産婦人科で働きたいという女性が増えたそうです。 そもそも医療やヘルスケアは女性向きの仕事だと言っていました。婦人科や産科を担当している女性医師や、医学部教育や地域で性教育を行っている女性医師、心のケアを行う女性医師たちとも話したのですが、社会貢献や後進を育てる仕事に週に3日勤務しても管理職になれるとのことでした。
◇性と生殖に関する健康と権利を獲得
性暴力やDV被害者の救済センターMaison de femmeにて(仏)
―仏ではどのように改革が進められてきたのでしょうか。 対馬 日本では認知度が低いのですが、世界では「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)」*2の実現に向けた数々の取り組みが行われていて、仏の改革もその一つです。 仏はカトリックの国なので、かつては非常に封建的で、「女は結婚したら子供を産んで育てないといけない」「妊娠したら中絶してはいけない」というように、自ら選ぶ権利は与えられていませんでした。 1967年に避妊の合法化とピルの承認がなされ、教育課程に性教育が加えられました。1970年代には産まない自由を求めて運動が展開され、1975年に人工妊娠中絶が合法化されました。これにより、女性は「自分の身体に関することを自ら決定する権利」を獲得し、その後の男女平等を目指す社会運動につながっていきます。1998年には性教育が義務化、2001年に中絶と避妊に関する法律の改訂を受けて学校性教育が法定化されました。仏の女性たちは若い頃から自分の身体を自分のものとし、自己決定するための教育を受け、生涯にわたって健康でいられるよう国や地域から支援を受けているのです。 現在、仏は少子化対策の成功モデルにもなっていて、子どもを何人産んでも仕事と両立できる手厚いサポート体制、パートナーも1人で子供の世話ができるようにトレーニングを受けさせるといった、子育て中でも働きやすい環境づくりを職場と国が一緒になって推進し、制度化してきたようです。 今回、渡仏して感じたのは、同国の女性たちの「発言し続けて引き下がらない強さ」です。この国では常に戦って勝ち取ることが日常的に行われています。そうでなくては、本当に困っている人たちの現状について誰も気が付かないからです。日本の女性は困ったことがあって「こうだったらいいのに」と思っても、「こんなもんだろう」と諦めている人が大多数ではないでしょうか。結局、問題解決が先送りになります。諦めなくていいし、諦めないでほしい。それを伝えるのが今の私の使命だと思っています。
◇声を上げムーブメント起こす
NPO法人女性医療ネットワークによる女性の健康学校「ジョイ・ラボ」
―この5年間でどのような活動を行ってきたのでしょうか。 対馬 社会を変えるには世論を動かし、政策や制度を変えることが重要です。政治家や官僚に何度も話をしてきました。今では厚生労働省や経済産業省も聞く耳を持ってくれています。内閣府男女共同参画局も理解を示し、一緒に取り組もうとしてくれています。 ただ、���部科学省にはまだ旧態依然とした風潮があり、「決まったルールに従ってほしい」と言われます。同省は性教育の普及にもずっと背を向けてきました。日本ではどの業界でも「それは自分が解決することではない」と声を上げない人が多く、むしろ発言しないことが良しとされています。教育は日本の社会を変えていくあらゆる取り組みの根幹を成すものです。いろいろな立場の人たちが自由に発言し、皆がそれに耳を傾け、より多くの声を生かしていく文化をつくっていく必要があるのではないでしょうか。 ―不正を廃止したことで、女性の医学部入学者数は4割に達しました。このままいくと半数を超えるのも時間の問題だと思われます。今後、医師の働き方は変わっていくのでしょうか。 対馬 例えば、仏ではいろいろな事情で医師の就業時間を過ぎてしまった場合は、緊急でない限り、その日に予定していた手術を延期することは普通に行われています。患者さんもそのあたりは理解しているようで、医師にはしっかり休養を取ってから手術に臨んでもらった方が安心だと思っているようです。 女性の数が増えたからといって、組織の意思決定者の女性はなかなか増えていきません。自分に発言力が付いてからとか、立場が偉くなってからというのではなく、まずは現場の人たちがどんどん声を上げてムーブメントを起こしていけばいいと思います。 女性医師が4割になった、5割になったから終わりではなく、6割、7割になってもいいと思います。そうすると、医療も変わり、医師の働き方も変わります。それに応じて制度や体制、文化も変わるでしょう。男性を隅に追いやるのではなく、男性も働きやすい環境を一緒につくっていけばいいのです。
◇やればできる、諦めない
第1回フェムシップドクター養成講座
―「女性は当直や救急を避ける」という声もあります。 対馬 私自身は手術を執刀するとアドレナリンが上がり、達成感がありますので、手術は大好きなのですが、「24時間やれ」とか「休まずにやれ」とは言われたくありません。若い人も仕事を頑張りながら子どもも産んでみたいし、自分のプライベートの時間も充実させたいと思って当然です。女性に限らず男性もそうだと思います。だから、いろいろな人が力を合わせて、オペもやるし、当直もやれるときにはやるみたいなシンプルな勤務体制と評価制度をつくった方がいいですね。 琉球大学の銘苅桂子(めかるけいこ)医師は、もともと外部の病院で働いていたのですが、より高度な医療を学ぶために「琉球大の産婦人科の医局で働かせてほしい」と申し出たところ、「子どもがいる女性はカウントできない」と一蹴されたそうです。「だったら無給でもいいから働かせてほしい」と粘り、無給で働いていたのです。すると担当教授が変わった途端、「まさに君は働く女性のロールモデルだ」と称賛されることに。3人の子育てをしながら実績を積み、評価���れ、周産母子センターで同大医学部初の女性教授に就任しました。 教授となった銘苅医師は次々と内部の改革を進め、女性は育児で仕事を辞めなくていい、男性も育児休暇が取れて子どもの面倒を見られる、子育て中も仕事へのモチベーションが維持できる体制をつくりました。誰でもやればできるのです。しかし、多くの女性は子どもを見てくれる人がいないと諦めてしまいます。今の日本は責任とやりがいがなく、女性が子どもを産んでもつらい、産まずに働いてもつらいみたいな社会が出来上がってしまっているのです。
◇女性の底力が社会を変える
―女性たちが今できることはありますか。 対馬 日本で「SDGs」というと「環境」のことばかりに注目が集まっていますが、17のゴールの中で日本が一番遅れているのは「ジェンダー平等」です。日本の女性は声が小さい、層が薄いと言われています。そもそも何もせずに諦めから始まっているので、持てる力をどれだけ発揮できるかというところにはまだチャレンジしていないんですよね。私は日本の女性の底力はきっとすごいに違いないと信じているので、これから皆がチャレンジすればいいと思うのです。 日本全体がこんなに後退し、勢いを失ってしまっているのは皆が我慢して諦めているからであり、本当にもったいないことです。今後、女性の活躍で期待されるのは「発言力」であり、それは「社会を変えていく力」です。そこにこそ地球の未来があると私は考えます。医療界を変えるとかいうレベルの話ではなく、すべての女性たちが手を取り合い、声を上げて、自らの生き方を決めていく。女性が世界を変えていく時代が来ています。(了) 聞き手・文:稲垣麻里子、企画:河野恵美子(大阪医科薬科大学医師) 対馬ルリ子(つしま・るりこ) 日本産科婦人科学会専門医。医学博士。専門は周産期学、ウィメンズヘルス。 1984年弘前大学医学部卒業。東京大学医学部産婦人科学教室入局、都立墨東病院周産期センター産婦人科医長などを経て、2002年にウィミンズ・ウェルネス銀座クリニック(現女性ライフクリニック銀座)を開院。産婦人科、内科、乳腺外科、心療内科、泌尿器科などで協力して全人的女性医療に取り組む。2003年NPO法人「女性医療ネットワーク」設立。2020年に一般財団法人日本女性財団https://japan-women-foundation.org/を立ち上げ、女性を救済する医師「フェムシップドクター」を養成するなど、企業や団体と連携しながらすべての女性を支援するための活動に注力している。 【注】 *1) 文部科学省資料 https://www.mext.go.jp/content/20231010-mxt_daigakuc02-100001375_01.pdf *2) 1994年にカイロで開催された国際人口開発会議において提唱された概念。人間の生殖システム、その機能と(活動)過程のすべての側面で、単に疾病、障害がないというばかりでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることを指す。
0 notes
Text
講談社的漫畫雜誌03(少女向)
关于講談社漫画杂志的少年向和青年向我们已经总结过啦,可以统一归类为男性向,今天我们聊聊少女向的部分。
なかよし(好朋友)
なかよしラブリー(好朋友Lovely)
るんるん(废刊)
別冊フレンド(别册Friend)
少女フレンド(少女Friend)
デザート(Desert)
姉フレンド(电子)
mimi
Amie
ARIA
なかよし系列
なかよし(好朋友)
发行时间:1954年12月 -
人群向:少女、小、初中生少女
发行��:大约是每月3号
增刊号:なかよしラブリー(好朋友Lovely)(2004年 - 2011年)、なかよしデラックス(好朋友deluxe)(1978年12月号 - 2011年秋の号)
代表作:美少女战士(美少女戦士セーラームーン)、圣少女(怪盗セイント・テール)、小红豆 (あずきちゃん)、魔法少女樱(カードキャプターさくら)、Da!Da!Da! (だぁ!だぁ!だぁ!)、小甜甜 (キャンディ♡キャンディ)、Hello 阿班 (おはよう!スパンク)、魔力小金鱼 (きんぎょ注意報!)、奇迹女孩 (ミラクル☆ガールズ)等等。
与小学馆的『ちゃお』和集英社的『りぼん』并列为面向小、初中生少女的三大漫画杂志之一。『なかよし』是日本目前出版的最古老的漫画杂志(甚至包括过去出版的漫画杂志在内。),它这也是现存讲谈社出版的所有的针对幼儿、儿童、少年和少女的杂志中最古老的杂志。
70年代末期,伴随着小甜甜 (キャンディ♡キャンディ)、Hello 阿班 (おはよう!スパンク)等作品的连载,销量也水涨船高达到180万本。即使到80年代也保持在100万本以上。
不过等到1989年新的編集長入江祥雄上任时,杂志的销量已经下滑到78万部。为了应对这种情况,考虑到当时本杂志与集英社的『りぼん』都是以恋爱漫画为中心,有着儿童部门工作经验的入江将杂志的方向转向奇幻,目的是让『なかよし』的目标受众可以比『りぼん』更低。如搞笑系列『魔力小金鱼 (きんぎょ注意報!)』、战斗女主角系列美少女战士(美少女戦士セーラームーン)、超自然系列『奇迹女孩 (ミラクル☆ガールズ)』等少女元素的漫画连载了。特别是『美少女战士』从杂志初期就获得了极大的反响,动画版也逐渐走红,掀起了巨大的热潮,带动了杂志销量在93年一度冲破200万,超过了集英社的『りぼん』。
不过后续杂志的销量逐渐下滑,99年已经滑落到70万,也一度在三大小初学生向的少女杂志中排名下降到第3。2006年集英社的『りぼん』下滑更为严重,让『なかよし』上升到第2。
电子版从2015年6月发行的2015年7月号开始发行。
なかよしラブリー(好朋友Lovely)(休刊)
发行时间:2004年 - 2011年
人群向:少女
发行日:年3回刊 - 年4回刊 - 年5回刊
代表作:温泉店的小老板娘(若おかみは小学生!)、名侦探梦水清志郎事件簿(名探偵夢水清志郎事件ノート)等等。
除了原创的一次性连载外,还出版了『なかよし』杂志连载作品的加版以及新人和年轻人的一次性连载。一开始,主要作品的内容往往统一在一个(稍微刺激的)特殊主题之下,但之后,特殊主题的设定就变得模糊了。而且,由于有从『なかよし』主刊转移的连载作品,反之,也有向『なかよし』主刊转移的连载作品,所以方向越来越接近《Magazine SPECIAL》
るんるん(废刊)
发行时间:1991年 - 1998年
人群向:少女
发行日:季刊 - 双月刊
代表作:水手战士V (コードネームはセーラーV)、セキホクジャーナル等
目标人群针对比『なかよし』更年轻的少女。最初是作为『なかよし』的增刊号『なかよし増刊るんるん』,所以风格与『なかよしラブリー』一致,93年正式创刊。发表的作品大部分为原创作品,也有本刊的番外篇。此外,短篇和搞笑漫画与主刊相同。98年1月号事实废刊。
フレンド系列
別冊フレンド(别册Friend)
发行时间:1965年3月 -
人群向:少女
发行日:每月13号
简称:『別フレ』
代表作:Lady Love、憑いてますか、MARS、蜜桃女孩 (ピーチガール)、恋文日和、Only You-翔べない翼-、美川べるのの青春ばくはつ劇場、極楽青春ホッケー部、純愛特攻隊長!、我太受欢迎了,该怎么���?(キララの星、私がモテてどうすんだ)等等。
1965年以『週刊少女フレンド』的姐妹杂志创刊,创刊名是『別冊少女フレンド』,刚出版时除了漫画之外,还刊登了有关明星和时尚的文章。1972年1月号作为漫画杂志出版。1984年改名为『別冊フレンド』并沿用至今。
2006年-2012年期间杂志的理念是『满足十几岁少女的野心和愿望』(「10代の女の子の野望や欲望を叶える漫画雑誌」),读者也以15-16岁的高中生为中性。而目前杂志的理念已经变成『一定能实现和帅哥恋爱的梦想的少女杂志』(「イケメンとの恋が絶対叶う憧れ満載の王道少女漫画誌」),只有不到50%的读者是青少年,超过30%的读者年龄在30岁以上。
少女フレンド(少女Friend)(废刊)
发行时间:1962年 - 1996年
人群向:少女
发行日:周刊-半月刊-月刊
派生杂志:別冊フレンド
代表作:窈窕淑女 (はいからさんが通る)、生徒諸君!、不思議のたたりちゃん等等。
诞生于 1962 年,继承了12 月号后停刊的月刊『少女クラブ』(少女club)的一本周刊 。运用了在『少女クラブ』和『なかよし』中培养的少女杂志制作技巧以及『周刊少年Magazine』中积累的制作周刊的经验。
次年(1963年),集英社的『マーガレット』创刊,双方竞争非常激烈。1970年,小学馆的『少女コミック』周刊化,竞争愈发激烈。虽然诞生了譬如窈窕淑女 (はいからさんが通る)、生徒諸君!等优秀作品,但杂志本身的势头在下滑。1974年改成半月刊,91年调整为月刊,96年10月号废刊。许多人对这本讲谈社著名的少女漫画杂志的停刊感到惊讶。
デザート(Desert)
发行时间:1996年7月 -
人群向:10代・20代女性
发行日:每月24号
姐妹杂志:THEデザート(1999-2015)
代表作:萌男���是柑橘色(モエカレはオレンジ色)、カンベンしてちょ!、おねがいキューピッド、天使之声(天使の唄)、コスプレ☆アニマル、邻座的怪同学 (となりの怪物くん)、谎言游戏 (ライアー・ライアー)、太陽之家 (たいようのいえ)、只要你说你爱我 (好きっていいなよ。)等等。
1997年7月作为『Kiss』的增刊创刊,最初刊登『少女フレンド』的青年漫画家的作品,而后『少女フレンド』休刊,就接管了这本杂志的作品。
以『新王道的恋爱故事』主题的作品为特点,旨在成为『10代・20代女性』当中最美味的少女漫画杂志。『一个色彩斑斓、精彩的男孩让女孩们明亮而充满活力。』是作品的特征,许多作品都有『美丽和成人的设计』,以适应读者的年龄段。由于其中包含许多『少女漫画典型的浪漫元素』和『坚强而独特的角色』的作品,它受到了读者的欢迎。
姉フレンド(电子)
发行时间:2016年12月1日 -
发行日:每月1号
代表作:ウソ婚等。
『別冊フレンド』和『デザート』共同出版的电子杂志,口号是大人喜欢的萌系少女漫画(「大人のラブきゅん少女コミック誌」)。在发布之时,读者的反应是“具有侵略性”、“价格合理”以及“标题具有挑衅性”。
其他
mimi(休刊)
发行时间:1975年8月(1975年10月号)- 1996年12月(1997年2月号)
人群向:少女
发行日:月刊→月2回刊→月刊
姐妹杂志:mimi Excellent(1985-1993)、mimi DX(1978-1987)、mimi Carnival(1987-1997)、kiss(1992-)
代表作:源氏物语 (あさきゆめみし)、アイドルを探せ、くにたち物語、白鳥麗子でございます!、心言手语 (君の手がささやいている)、ロンタイBABY等等。
最初针对十几岁的女性,包括女孩漫画以及偶像和时尚信息。 20世纪80年代,以『あさきゆめみし』(大和和紀)、『アイドルを探せ』(吉田まゆみ)等作品而受到欢迎。 20世纪90年代,标语改为“年轻人的娱乐”和“新戏剧性漫画!”。
Amie(废刊)
发行时间:1997年1月 - 1999年初
人群向:少女
发行日:每月24号
代表作:悪霊シリーズ、CLOVER等等。
名称来源于法语单词,意思是『朋友』,口号是『稍微大一点的なかよし』(「ちょっと大人のなかよし」),以『なかよし』毕业后的人群为对象的少女漫画。
虽然有人气漫画家的人气作品,但是发行量并没有增加,于是在1998年6月份休刊,此后作为『なかよし』的增刊不定期出版。1999年初夏号发布后就不再发行,事实上废刊了。
ARIA(休刊)
发行时间:2010年7月28日 - 2018年4月28日
人群向:20代女性
发行日:每月28号
代表作:恶���系列 (ゴーストハント)、異域之鬼、これは恋のはなし
概念是『优秀的天马行空』,以『非凡的少女漫画』为基础,出版了许多不符合恋爱框架的带有幻想元素的少女漫画。
尽管自创刊之后发行量一直在下降,但进击的巨人的衍生作品让2013年11月号售罄,同年12月号因受欢迎而重印,售罄并重印。 2014年1月号开始全面连载时,发行量增加了五倍。
2012年7月27日,网络漫画发行网站“pixiv Comic”开始转载ARIA的部分杂志作品,此后,『pixiv Comic ARIA』开始转载ARIA的杂志作品,连锁作品已被转让,网站独家作品也开始连载。另一方面,『pixiv Comic ARIA』也有被转移到杂志上出版的情况。
2018年4月28日发售的6月号决定休刊。
(少女篇就说到这啦,下一期聊聊其他女性向的杂志)
0 notes
Text
2023年12月4日に発売予定の翻訳書
12月4日(月)には21冊の翻訳書が発売予定です。 俳優・歌手で今年のNHK紅白歌合戦への出場も決まっている伊藤蘭さんの『Over the Moon~わたしの人生の小さな物語』はデータ上翻訳となっているので含めましたが、エッセイ集です。 あと、『おてんばルル』のイヴ・サンローランはあのデザイナーなのか気になりますが、版元ドットコムには著者に関する情報はありません。
学校現場における里親家庭で暮らす子どもへの支援
ジョン・デガーモ/著 中村豪志/監訳 高石啓人/監訳 上鹿渡和宏/監訳 佐藤明子/訳
明石書店

黙々 聞かれなかった声とともに歩く哲学

高秉權/著 影本剛/訳
明石書店
反資本主義

デヴィッド・ハーヴェイ/著 大屋定晴/監修・編集 中村好孝/翻訳 新井田智幸/翻訳 ほか
作品社
真夜中の愛撫
リサ・マリー・ライス/著 上中京/翻訳
扶桑社
米国経済白書2023
『米国経済白書』翻訳研究会編/編集
蒼天社出版
姿なき招待主(ホスト)
グウェン・ブリストウ&ブルース・マニング/著 中井京子/翻訳
扶桑社
救出 (上)
スティーヴン・コンコリー/著 熊谷千寿/翻訳
扶桑社
救出 (下)
スティーヴン・コンコリー/著 熊谷千寿/翻訳
扶桑社
ビル・エヴァンス・トリオ 最後の二年間 : TIMES REMEMBERED
ジョー・ラ・バーベラ/著 チャールズ・レヴィン/著 荒井理子/翻訳
草思社
Over the Moon~わたしの人生の小さな物語
伊藤蘭/翻訳
扶桑社
毛沢東の兵、海へ行く――島嶼作戦と中国海軍創設の歩み
トシ・ヨシハラ/著 田北真樹子/翻訳 山本勝也/監修
扶桑社
毎朝の1秒が人生を好転させる! 魔法のハイタッチ
メル・ロビンズ/著 野口孝行/翻訳
KADOKAWA
七年の最後
キム・ヨンス(金衍洙)/著 橋本智保/翻訳
新泉社
中国のはなし : ――田舎町で聞いたこと
閻連科/著 飯塚容/翻訳
河出書房新社
宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選
顧適/著 何夕/著 韓松/著 宝樹/著 陸秋槎/著 陳楸帆/著 王晋康/著 王侃瑜/著 ほか
新紀元社
ヴェトナム(下) : 壮大な悲劇 1945-1975
マックス・ヘイスティングス/著 平賀秀明/翻訳
白水社
ロシア 奪われた未来 : ソ連崩壊後の四半世紀を生きる
マーシャ・ゲッセン/著 三浦元博/翻訳 飯島一孝/翻訳
白水社
第三の波 : 二〇世紀後半の民主化
サミュエル・P・ハンティントン/著 川中豪/翻訳
白水社
ANNA : アナ・ウィンター評伝
エイミー・オデル/著 佐藤絵里/翻訳
河出書房新社
だれも教えてくれなかった エネルギー問題と気候変動の本当の話
ジャン=マルク・ジャンコヴィシ/著 クリストフ・ブレイン/著 古舘恒介/翻訳 芹澤恵/翻訳 ほか
河出書房新社
おてんばルル
イヴ・サンローラン/著 東野純子/翻訳
河出書房新社
0 notes
Text
柴田元幸+秋草俊一郎 『ブルーノの問題』刊行記念トーク&朗読

現代アメリカ文学を代表する作家のひとり、アレクサンダル・ヘモンの最初期短編集『ブルーノの問題』(書肆侃侃房)の刊行を記念して、 訳者である柴田元幸さんと秋草俊一郎さんのトーク&朗読イベントをtwililightで開催します
---
イベントに向けてお二人にコメントをいただきました。 -- 秋草: アレクサンダル・ヘモンは私が大好きな作家の一人です。『私の人生の本』につづいて『ブルーノの問題』も世に出すことができてとてもうれしいです。 当日はヘモンやほかの作家のことなど、いろいろとお話しできたらと思います。
柴田: 20年以上前に、スチュアート・ダイベックから『すごい若手がいる』と教えてもらった作家アレクサンダル・ヘモン。そのヘモンの第一作を訳せて感無量です。刊行を一緒に祝っていただけますように。 --
以下、版元サイトにも『ブルーノの問題』訳者あとがきから、お二人のコメントが引用されています。 --
原書が刊行されてから二十数年が経過し、サラエヴォ包囲自体は過去の出来事になったかもしれないが、むろん優れた小説はこの程度の時間で古びるものではないし、そもそもユーゴスラヴィアの惨事と消滅そのものは過去の話であっても、同じような事態が日々世界で生じていることは言を俟(ま)たない。(柴田元幸)
ヘモンがナボコフとのあいだに感じる親近感は語彙という面からくるものではなく、故郷を喪失した作家が共通して抱える「埋め合わせてくれるものは言語だけ」という感覚だという。(秋草俊一郎) --
当日はQ&Aの時間も設けます。 ぜひご参加ください。
-- 日程:2023年11月8日(水) 開場:19時 開演:19時30分 終演:21時 会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28- 10 鈴木ビル3F/三軒茶屋駅徒歩5分)+配信 料金: 来店参加(定員18名さま):2,000円 来店参加+『ブルーノの問題』¥2,970=4,970円 配信参加:1,000円 配信参加+『ブルーノの問題』¥2,970=3,970円 *チケットはすべて見逃し配信付き(1ヶ月間)
https://peatix.com/event/3732939/view
-- 【出演者プロフィール】 柴田元幸(しばた・もとゆき) 1954年生まれ。東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、スチュアート・ダイベックなどアメリカ現代作家を中心に翻訳多数。著書に『アメリカン・ナルシス』、訳書にジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』、エリック・マコーマック『雲』など。講談社エッセイ賞、サントリー学芸賞、日本翻訳文化賞、早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌『MONKEY』日本語版責任編集、英語版編集。
秋草俊一郎(あきくさ・しゅんいちろう) 1979年生まれ。日本大学准教授。専門は比較文学・翻訳研究など。著書に『アメリカのナボコフ―塗りかえられた自画像』、『「世界文学」はつくられる 1827-2020』、訳書にドミトリイ・バーキン『出身国』、ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフの塊 エッセイ集1921-1975』、アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』、ホイト・ロング『数の値打ち―グローバル情報化時代に日本文学を読む』(共訳)など。
【著者プロフィール】 アレクサンダル・ヘモン(Aleksandar Hemon) 1964年、旧ユーゴスラヴィアの構成国だったボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の首都サラエヴォで生まれる。大学卒業後、メディア関係の仕事を経て、1992年に文化交流プログラムによって渡米。滞在中にサラエヴォがセルビア人勢力によって包囲されたことで帰国不能になり、そのままアメリカに留まる。母語ではない英語で作品を発表するようになり2002年に発表した長編『ノーホエア・マン』で高く評価される。ほかの代表作に『ラザルス計画』(未訳、2008年)や『世界とそれがかかえるすべて』(未訳、2023年)などがある。現在はプリンストン大学でクリエイティブ・ライティングを教えるほか、『私の人生の本』のようなエッセイ、音楽、映画・ドラマ脚本といった分野でも活動している。映画『マトリックス レザレクションズ』ではラナ・ウォシャウスキー、デイヴィッド・ミッチェルと脚本の共同執筆も務めた。
0 notes
Text




#違反更新訣別#甘ったれてゃ居られない#警察署にて簡素な免許証更新#一斉体罰#地獄の特訓苛酷#無事故・無違反#エンジョイ剥奪#ミジメ#1975年秋生まれのケジメ#後無ければ先も無い#結婚に取り組む#ふざけては居られない#パラダイスを拾う#切羽詰まる#引きこもり#ニート#穀潰し#snep#生活苦#遊び人#すねかじり#お見合い重要#真剣交際#家庭持ちたくなる#改心#見習う#2025年秋50歳#落ち着き#愚かさに限界#せっかち
0 notes
Text
ENDLESS 130 COLLECTION その5

1975年式ホンダシビック1200RS(1,169cc)です。この初代シビックは1972年から1979年まで販売されました。1973年にはアメリカの厳しい排ガス規制(マスキー法)をクリアしたCVCCエンジン(この時は1,500ccのみ)が搭載され、のち75年に1,200ccもCVCC化され世界的な大ヒット車となってますね。1200RSは馬力をUPし、足回りをチューンしたモデルです。RSは「 レーシング」ではなく「ロードセーリング」の略。

さて、私が20代後半に初めて買ったクルマ(もちろん中古です)がこのRSより下のグレードの1200GLです。GLは「グランドラグジュアリー」の略。小型大衆車で「ラグジュアリー」も無いだろうとは思うのですが、そこはそれ、当時の私には嬉しかったですね。色は紺でした。そうそう、30歳前後の時そのクルマで秋田に帰ると、秋田の友人はすでに1200RSに乗っておりました。(もしかしてちょっと後に出来た1500RSLだったかも知れない) で、男鹿半島に2台でドライブに行った時、山中や海岸沿いのアップダウンロードで登りの都度、悔しいけどスーッと離されていましたね。その1200GLの後、二代目の「スーパーシビック」三代目の「ワンダーシビック」とシビックを三代乗り継ぎました。現在シビックは十一代目になっているそうですね。(2023/9/19)
0 notes
Text
2023/09/12
BGM: Tears For Fears - Mad World
今日は早番だった。いつものように仕事をする。そして昼休みに詩を書く。Discordで岡田有希子の話題になり、そこからぼく自身の年齢について話が及ぶ。実は今年でぼくは48になる(1975年生まれ、つまり純然たるロスジェネなのである)。Discordを使っていて思うのは実に若い人が多いことで、そういう若い人にぼくはいったいどう映っているのか興味を持つ。そこから、ぼくは大人になれたのかについて考えた。過去にこの「大人になる」ということについてずいぶん悩んだっけ……ぼくが子どもの頃、「オタク」であることがとある誘拐事件を機に話題になったことを思い出す。あの頃はまだアニメやライトノベルやゲームに代表されるオタク文化がいまほど盛んではなかったので、そこからコミケや秋葉原に代表される活発な活動が白い目で見られたりしていたのではなかったか。ぼくは���イトノベルもアニメも結局かじっただけの知識しかないのだけれど、その代わり文学や音楽をそれこそマニアックに楽しみ自分の趣味に固執する人間だったので人から「オタクだ」とか言われたこともあったのだった(みだりにこういうことを書くのは差別的な響きが伴うとも思うので気をつけないといけないけれど、そうした「マニアック」「オタク的」な関心のありようはぼくの発達障害と関係があるのかもしれない)。
ここからいろいろな方向に話を持っていくことができるかもしれないけど、今回はそこから「大人になる」ということについてそのまま考えたい。ぼくは情けないことに、自分の内面の成長は思春期でいまだ止まったままのような実感を抱く。ひらたく言えば、ぼくはいまでも「10代や20代の時間」を生きているような気がする。それどころかもっと幼いかもしれない。50代も目の前なのでそろそろ「自分の人生の終わり」や「次世代に託すもの」なんてテーマについて考えないといけないのかもしれないけれど、実を言うと今日だってぼんやり「毎日のんべんだらりと詩やブログで食っていきたいなあ」なんてチューインガムをクチャクチャかみながらアホなことを思ったりしたのだった。過去、50代という年齢についてぼくは古井由吉や大江健三郎の小説を読んだり、十河進さんのコラムを読んだりしてつかんだイメージとして「円熟期」というものがあった。バカなことにうつつを抜かさず、落ち着いてじっくり腰を据えて自分自身のテーマと取り組み、内省を深めていく……といったようなことだ。読む本にしてもうわついた本ではなくディケンズを読んだりハイデガーを読んだり(ちなみにどちらもいまだ読んだことはない。『存在と時間』は関心があるのだけれどずっと挫折を繰り返していまに至るのだった)。
でも、最近柄谷行人『言葉と悲劇』を読んでいてそこで柄谷行人が言っていたこととして印象に残っていることがある。柄谷はふと、「五歳の子供は、もうすべてを了解しているのではないだろうか」と言っている。五歳という幼い年齢なりにその子は人生の悲哀や不条理感を肌で感じ、そして悟ることさえあるかもしれないといったことだ(とぼくは受け取る)。五歳というのはまあ言葉の綾だろう。若い頃の幼い、まだ何にも染まっていない(よく言えば汚れていない)感受性ゆえにわかることというのがあるはずだ。ぼくはいまでも自分の心が若いというか幼いことを自覚する。ここまで考えて、自分の中のセンシティブな部分というかいまだ大人になりきれていない、すれっからしになれていない部分を思う。そして、そういう未熟とされる時期、人から見れば「すばらしい青春時代」と言われるだろう時期を生きる10代・20代の青少年たちがその内面で抱えている葛藤について思い至る。いや、それを言い出せば老年を生きる人だって葛藤があるわけだ。文学でそうした葛藤を描いた作品はないだろうか(いや、絶対にあるわけでぼくがフォローできていないだ。耕治人はすぐれたものを残していたが……あとは誰だ)。特にこれから、老いを語った作品というのは需要があると思う……つらつら書いていくとこんな「で、オチは?」な話になってしまうのである。なんともはや。
夜、20時からイタローさんのラジオに参加する。そこで話させてもらう。やはり事前に青写真をもっと作ってから話すべきだったか、頭が真っ白になる瞬間があって話が止まってしまったり、やたら話が込み入ってゴキゴキにねじれてわかりにくくなってしまったり、自分のコミュニケーションスキルの限界(下手くそさ)を知ることとなった。ただ、イタローさんが適宜話を振って下さったのでそれにアシス��されて話すことで自分の中の未整理の感情(これも語弊がある言い方をすればアイデアのガラクタ)がすんなりまとまって、それが実にありがたかった。結局、これまた極論というか乱暴過ぎる話になるのかもしれないけど、英会話にしても日常的なコミュニケーションにしても「完成品を差し出そうとする」ことに固執しすぎるのは現実的ではないのかもしれない。いや、自分の中で言いたいことをあらかじめはっきりさせて話すのはそれはそれで大事なことだ。ただ、そうして自分の中で完成させたものを差し出す過程で「それはおかしいですね」ということになり、自分の間違いや限界に気づかされることもあるだろう。その時、それを「ナイスエラーだ」と感じられるかどうか……そうして自分がついついやってしまう「エラー」(ひらたく言えば「しくじり」「恥」)とどう直面するか。そのつきあい方がわかるということも大人になるステップなのかなと思った。
0 notes
Text
23年コンサート#103
8月6日 御茶ノ水 RITTOR BASE
湯浅譲二・電子音楽の個展
上演前に「沖縄海洋博メインパビリオンの音楽」(1975)が流れる。なにか懐かしい雰囲気と痛みと悼みを感じる。上演開始時には「NHKホールの開演ベル」(1973)。不明なことにこれが湯浅譲二作品とは知らなかった。ということは自分が最も多く聴いている電子音楽作品、日本人作曲家の作品かもしれない。
プログラムは、1.「プロジェクション・エセムプラスティク」(1964)7’49”、「ホワイト・ノイズによる“イコン”」(1967)12’18”、「ヴォイセス・カミング」(1969)20’57”、「マイ・ブルー・スカイ」(1976)15’47”、そして「ホワイト・ノイズによる“イコン”」5ch, 2023Ver. 。作品の間に作曲者へのインタビュー動画を挟む(シュトックハウゼンの電子音楽制作方法をこき下ろしてニヤリ)。
「イコン」に圧倒された。宇宙��な広がりが空間を満たしたり細胞的な微小なものが微かにうごめいたり、それが渾然一体となって響く。2chでも充分凄かったが、最後の5chでは音が渦巻き、上の方に広がるようで、もはやスピーカーの存在を感じなかった。なお、上演前にスタッフの方が「初日(前日)の後に調整したので今日の方がいい音響になるはず」といった内容の話をされていた。
「イコン」と比べると「マイ・ブルー・スカイ」は技術的にはより進化した作品だろうが、何故か自分の心身には響いてこない感覚があった。それから「ヴォイセス・カミング」第2部の会話から間投詞や接続詞等だけを抜き出したコラージュ。論理より情緒的で間合いや空気感を大切にする。会話・議論で相手を追い詰めないが本質を突き詰めず曖昧に終わる。現在を生活している身としては、今が作曲者の意図せざる皮肉の対象になっているのではないかと感じてしまった。
90分間照明を落としての音響体験、トンネルの中のような、というかやはり閉所的な場所で大音響を聴くのは正直疲れた。電子音楽通の方はどうして平気なのだろう…。「イコン」は広く明るい場所でまた聴きたいと思った(金沢のタレルの部屋や、秋吉台の中庭で上演したらどんな感じだろうか)。
0 notes
Text
Harry Teardrop- “discolor ”Interview
ニューヨークのアンダーグラウンドで彼は完全に独立した立場を保ちながら、限られたリソースの中で特別なものを生み出している。デビューEP「1000Backyard Pools」ではパワフルで爽快なギターロックと甘くストレートに歌ったリリックが印象的だった。
新曲「Discolor」では自己不信や未来に不安を抱えながらも、自らのアイデンティティや経験、築いてきたもの大事にしながら自分を信じて前に進むことを歌っている。

NewSingleとは別でAmbient Track「May’s always humming something 」が同時リリースされており、 街の音や人の会話、様々な日々の環境音がサウンドに影響を与えている彼の「音」へのこだわりを感じる1曲となっている。
ニューヨークで活動しながらもアジア人としての文化的アイデンティティに誇りを持ち作品に反映されていたり、インターネットを使って積極的に日本のミュージシャンたちと交流があることも興味深かったため メールインタビューをお願いし今回快く引き受けてくれた。
Discolor + May’s always humming something- out now★←
Instagram@HarryTeardrop
Twitter@harryteardrop
★新曲のコンセプト、制作、レコーディングについて教しえてください。
この曲では、まずインストルメンタルから始めました。ドラムのプログラミングそれに合わせてギターやベースのパートを書きます。最初は歌詞はありませんでしたが、「Discolor」という言葉だけが頭の中に浮かんでいました。なぜその言葉が潜在意識に浮かんでいるのか、それが私にとって何を意味するのかを考えました。数日間歌詞を書いたり書き直したりしているうちに、「I won't quit even if I'm discolored(変色しても諦めない)」というフレーズが浮かびました。この曲は、自己不信に直面したときに希望を見つけること、そして自分自身の道を辿ることがどれほど困難であってもそれに従うことについての歌です。
★作品作りどのようにして行われますか?
私の創造的なプロセスは非常に散漫です。なぜ何かを作りたいのかはあまり分かりません。ただそれは痒い所に手が届くような感覚。音楽的には、通常はコンピュータ上でアイデアのインストゥルメンタルを作り始めます。しかし、詩を書いたり、映像を作ったり、服を作ったりスプレーを吹いたり、すべては同じ源から生まれています。ただ自分自身に対して正直であることを心がけています。

★新曲「Discolor」のMusicVideoについて教えてください
ロンドン出身の親友であるSoren Harrisonと一緒にビデオを作りました。数か月前、彼がニューヨークに来ると話していたので一緒に作品を作りたいと思いました。私は彼の作品のファンであり、4年以上も前から彼の仕事に魅了されています。Sorenがニューヨークに到着する前日に曲を完成させ、翌日にビデオを撮影しました。 ほぼ即興で決めて街のお気に入りのスポットを巡りました。その中には、私にとってのニューヨーク最初の思い出の場所である自然史博物館やセントラルパークなどもあります。私には予算はありませんでしたが彼が私と一緒にビデオを作ることに快く協力してくれたことにとても感謝しています。彼は普段、より大きな予算でビデオを制作していますが、私と一緒にDIYで制作ができたこと、それは愛です。

★あなたの音楽的な影響はどのようなものがありますか?
名前を挙げるのは難しいですが、私のお気に入りのアーティストの中にはThe Cribs、Bill Evans、Mazzy Star、Ride、The Replacements、My Bloody Valentineがいます。Oasis、Blink-182、The Strokes、The 1975も聴いて育ちました。
★あなた自身について教えてください
私の母はベトナム出身で、父は中国出身です。兄のGrey(Push Ups)が生まれた直後に、彼らは私が生まれたニューヨークに学校のために引っ越しました。私たちが育つ間に、家族はよく引っ越しをしました。私はニューヨーク、オレゴン州ポートランド、上海、カリフォルニア州オレンジ郡といった場所で育ちました。変わる世界を理解するために、いつも音楽に頼ってきました。6年前、私は学校のためにニューヨークに戻り、"Harry Teardrop"として音楽をリリースし始めました。まだ自分の人生を見つける途中ですが、この地球に存在できることに感謝しています。
★どのようにして音楽のキャリアを始めましたか?
私は5歳のときにドラムを始めました。記憶に残る限り、音楽はずっとそばにありました。11歳か12歳のときに曲を書き始め、高校の時にGaragebandでプロデュースする方法を学び、Soundcloudで本当にひどいデモ音源をリリースしました。18歳のときに "Harry Teardrop"として最初の曲「Chinatown」を発表しました。当時の自分をほとんど認識できないくらいですが、それが私の音楽の本格的なキャリアを築けると愚かにも信じるきっかけとなりました。それにもかかわらず、それに伴う困難があるにせよ、私はそれをうれしく思っています。もし自分を出し切っていなかったら、東京の新しい友人であるあなたとは繋がることはなかったでし���う!

★周りのシーンについてどう感じていますか?他のバンドとのつながりはありますか?
ニューヨークの創造的な人々は常に互いに出会っています。みんながお互いを知っているか、友人の友人を知っているような感じがします。ニューヨークで活躍しているアーティストたちと仲良くしているけれど、特定のシーンに所属しているとは感じません。私はバンドでもなく、電子音楽のアーティストでもありません。その中間にいます。また、アジア系アメリカ人のアーティストでもありますが、それはアメリカで最も多様な都市でも珍しいことです。でも、私は慣れてきた感覚なので、それで構いません。新しいアイデアが毎日交換されている都市に住めていることにただただ幸せです。
★聴いている日本のアーティストはいますか?
たくさんの日本の音楽を聴いています。最近は、新しいCruyffのアルバムがとても好きです。
youtube
私のお気に入りの日本のアーティストには、スーパーカー、ART-SCHOOL、Number Girl、m-flo、Strawberry Machine、くるり、宮谷大輔、原神玲がいます。
★あなたとSATOH(LINNA FIGG/Kyazm)はInstagramでお互いをフォローしていますね。どのように知り合いましたか?
@SATOH←
SATOHが大好きです!彼らは私にとってとてもクールです。どうやって知り合ったかは覚えていませんが、多分lil soft tennisを通じてだったと思います。彼らの音楽がどれだけ本物に感じるか、私は大ファンです。最近、LINNA FIGGとはビデオ通話をしましたが、彼の英語の上手さに驚きました!私は本当は日本語を学びたいと思っていますが、東京では多くの人が英語を話すので便利です。今年の後半には一緒に東京でショーをする予定です。
私は実際に会ったことはありませんが、DYGLやSATOH、Lil Soft Tennis / Heaven、JUBEEなど、いくつかの日本のミュージシャンを知っています。そこに行けばたくさんの友達ができるだろうと思っています。その考えだけでとてもワクワクします。私は日本に行った際にはパーティーでDJをしたいと本当に思っています。
★2023年の現在の/夢の目標は何ですか?
2023年のメインの目標は、秋にデビューアルバム「Inbetween Webs」をリリースし、記憶に残る映像と共に提供することです。また、ロンドンと東京でショーを行いたいとも思っています。しかし、大局を見れば、私は人々にインスピレーションを与えたいし、大きな窓のある自分の家に住み、猫と妻、将来は子供も欲しいです。それまでは、手に入るすべての勝利を受け入れます。

★あなたの音楽の魅力は、日本で話題となり、多くの熱狂的なファンがいます。日本のファンへのメッセージはありますか?
それは本当に信じられないことです!音楽の大きな要素の一つは文化的アイデンティティです。私がアジア人であるため、日本の人々は私をそのまま受け入れてくれるので、時にはここアメリカよりも日本の人々により理解されていると感じることがあります。私の母も90年代に日本で英語の先生をしていたので、私は日本の文化への愛を育んできました。年を重ねるごとにその愛はますます深まり、お気に入りのアーティストたちを発見しました。日本に行って、思いっきりパーティーを楽しみたいです!
_______________________________________________
【English 】↓
★Please tell me about the concept, production and recording of the new single .
Thank you! I'm so happy it resonates with you. For this song, I started with the instrumental. I usually start with programming the drums on my computer and then write the guitar/bass parts over that. I didn't have any lyrics at first but I had just the word, "Discolor". I thought hard about why that word was floating around in my subconscious -- what it means to me. After a few days of writing and re-writing the lyrics, I wrote the line "I won't quit even if I'm discolored". To me, the song is about finding hope in the face of self-doubt. It's also about following your own path, as challenging as that may be.
★what does your creative process ?
My creative process is so scattered. I never really know why I want to make something. It just feels like an itch that I need to scratch. Musically, it usually starts with making an instrumental idea on my computer. But I also write poetry, make visuals, sometimes make clothes or spraypaint-- it all comes from the same place. I just try my best to be honest with what I'm doing.
★Can you tell me about your new music video?
I made the video with my good friend Soren Harrison, who's from London. A few months ago he told me he was going to be in New York. I knew I wanted to make a video with him because I've been a fan of his work for over 4 years now. I actually finished the song the day before he flew into New York and then we shot the video the day after. It was all so spontaneous, just going around my favorite spots in the city. Some of them are places where my first memories were formed like the Natural History Museum and Central Park. As with pretty much everything I do, there was no budget. I'm so grateful he was willing to DIY it with me because he usually makes videos with way bigger budgets. That's love.

★who are your musical influences?
I have too many to name but a few of my favorite artists are The Cribs, Bill Evans, Mazzy Star, Ride, The Replacements, and My Bloody Valentine.
Growing up though it was Oasis, Blink-182, The Strokes, probably The 1975 too.
★can you tell me about your personal history?
My mom is from Vietnam, my dad is from China. Right after they had my brother Grey (Push Ups), they moved to NYC for school where I was born. Our family moved around a lot when Grey and I were growing up. I grew up split between NYC, Portland, Oregon, Shanghai, and Orange County, California. Somehow we always turned to music to make sense of our changing world. 6 years ago, I moved back to NYC for school and started releasing music as "Harry Teardrop". I'm still figuring out my life with each new day but I just feel grateful to be here on this earth.
★how did you start your music career?
I started playing drums when I was 5 years old. Music has been around as long as I can remember. I started writing songs when I was 11 or 12 and then learned how to produce on Garageband when I was in high school, releasing really shitty demos on Soundcloud. I put out my first song as "Harry Teardrop", "Chinatown" when I was 18 and even though I barely recognize the person I was back then, it led me to foolishly believe I could make a real career out of my music. I'm glad it did, despite the challenges that come with it. If I had never put myself out there, I would never be connecting with you, my new friend in Tokyo!
★how do you feel about the scenes around you ?
Do you have any connections with other bands?
Creative people in New York are always bumping into each other. I feel like everyone knows each other or knows a friend of a friend. Even though I'm friendly with so many artists coming out of New York right now, I don't feel like I'm part of any particular scene. I'm not a band, nor am I an electronic artist. I'm somewhere in between. I'm also an Asian American artist which is rare, even in the most diverse city in America. That's how I've been my whole life though so I'm used to that feeling. I'm just happy I get to live in a city where new ideas are being exchanged every day.
★Are there any Japanese artists you listen to ?
Yes! I listen to a lot of Japanese music. Most recently, I've been really loving that new Cruyff album. Some of my favorite Japanese artists are Supercar, ART-SCHOOL, Number Girl, m-flo, Strawberry Machine, Quruli, Daisuke Miyatani, and Rei Harakami.
★You and SATOH(LINNA FIGG/Kyazm) follow on Instagram each other. How did you get to know each other?
I love SATOH! They're so cool to me. I don't remember how we found each other, maybe through lil soft tennis. But I'm a big fan of how genuine their music feels. Linna figg and I had a facetime call recently, I was surprised by how good his English is! I really want to learn Japanese but it's convenient that a lot of people in Tokyo speak English. We're working on playing a show together in Tokyo later this year. I'm just trying to find a sponsor to fly me out there, so if you know of any brands that would be interested, let me know!
★Are there any other Japanese musicians you are close with?
I've never met any of them in person but I know DYGL, SATOH, Lil Soft Tennis / Heaven, and JUBEE, to name a few. I know once I go out there I'll make so many friends. Just the thought is so exciting to me. I really want to DJ a party while I'm out there too.
★What are your current/dream goals for the upcoming ?
My main goal for 2023 is to release my debut album "Inbetween Webs" in the fall accompanied by memorable visuals. I also want to play shows in London and Tokyo. In the grand scheme of things though, I just want to inspire people, have my own house with huge windows, and have a cat, a wife, maybe kids someday. Until then, I'll take every win I can get.
★ The appeal of your music is a hot topic in Japan, and you have many passionate fans. Do you have a message for your Japanese fans?
That's so crazy to me! Such a big part of music is the cultural identity aspect. Sometimes I feel more understood by people in Japan than even here in the US because I'm Asian so they can see me for who I am. My mom was also an English teacher in Japan in the 90s, so I grew up with a love for Japanese culture. That love has only grown as I've gotten older and discovered my favorite artists from there. I can't wait to come out there and party my brains out hahaha.
22 notes
·
View notes