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通りの人が少し減った。屋台の店灯りが反射して、石畳がつやつやしてみえる。結花はその石畳を真新しいサンダルで踏んで歩いていた。サンダルだけじゃない、浴衣もお父さんにねだって買ってもらった新品だ。去年まで白地だったけど、今年はちょっとお姉さんっぽい紺色の花柄。……だけど結花の隣にはだれもいない。だって、と口がとがりかけたのを綿菓子をくわえてごまかす。 だって、由利ちゃんも誘うって言うんだもん。私あの子とあんまり仲良くないの、陽ちゃん知ってるはずなのに。 つまるところ喧嘩して、一緒に行こうって言ってたのが一人になってしまったのだ。お母さんが心配してお兄ちゃんに一緒に行くように言いつけてたけど、お兄ちゃんも自分の友達のところに行ってしまった。口止め料もらったからいいけど。いいよべつに。もっとふんだくってもよかったけど綿菓子でゆるしてあげる。 ぽん、と軽い破裂音の後ひゅるるるるるるとおなじみの音が聞こえてきた。ふり仰ぐと竹林の間にちょうどぱっと花火が開いたところだった。緑一色の大輪。遅れてドン、と爆発音。次々にひゅるるる、ひゅるるるると花火が咲いていく。赤とか金とか、ちょっと変わった土星型とか。 しばらく見とれてしまってからはっとして花火と逆方向に歩き出す。べつに、去年も見たし。もう見飽きたし。陽ちゃんたちは見てるだろうけどさ。 ちょうちんの並ぶ石段を上がり、鳥居をくぐった。ここなら誰もいないと思ったけど祭見物ついでに来た参拝客が並んでいてそこそこ混んでいた。これ以上人のいないところを探すのもつかれる気がしたので、お行儀は良くないけど石段の一番上に腰かけた。あっ浴衣よごれるかな。……ま、いっか。誰も見ちゃいないんだし。 ちょっと遠い花火を眺めながら綿菓子を食べる。あ、咲いてからきらきらってするやつだ。加奈ちゃんが好きだって言ってたやつ。こっちはなっちゃんが好きって言ってた……。去年みたのとおんなじのばっかり、あーつまんない。今年もみんなで見に行ってるんだ、よく飽きないなー由利ちゃんたちい。 手持ち無沙汰になってしまいどうしようかな、と参道に並ぶ屋台の屋根を眺める。帰っちゃいたいけど今帰ったらお兄ちゃんが私と一緒にいないの、お母さんにばれちゃう。いまさら河川敷まで行くのもいやだなあ。 参拝客もほとんど降りてしまって賽銭箱前に数人残るだけになっていた。ここはここで落ち着く場所になりそうだけどずっといるのも退屈だし……。 同い年くらいの子が白狐のお面をつけながら歩いていた。え、お面。500円ぐらいして高かったからやめといたのに。買えるなんていいなあ。おこづかいいっぱいもらったのかな。さっき見たお面屋さんには無かったからよそのかな。見ているとおかっぱ頭の後ろでひもを結ぶのに手間取ってそのまま石段まで来てしまった。 「待って、危ないっ」 足をすべらせて「わ」と両手があがったところを無我夢中でつかんで引っ張る。女の子はその場にしりもちをついて、結花は砂利にひざをついてちょっとすりむいた。 「いたた……。ごめん、ありがとう」 「ちゃんと前見んとあぶないよ……」 女の子はこまったようにくしゃっとしてわらった。 見たことない顔だから、やっぱり地元の子じゃないと思う。お面のひもを後ろで結んであげた。 「はいできた。しっかり結んどいたでね。外す時はほどくんじゃなくてそのまま頭ぬいたほうが楽やよ」 ありがとう、とまたくしゃりとわらう。 「そうだ名前は? どこ小? 親は? 今日来とらんの?」 「あっ、えっと……」 「あごめんちょっと一気にききすぎたわ。私結花。早瀬結花。元町東小四年」 女の子はなんだかだいぶこまった顔をした。あ、これはもしかして。ピンと来た。 「親にだまって来たんやろ。大丈夫、私もにたようなもんやし誰にも言わんから」 ぱあっと顔が明るくなる。 「わたし篠田葛葉。小学校は……ちょっと遠いとこ」 くずは、呼ぶとちょっと嬉しそうににこにこする。ゆかちゃんと呼ばれて妙にくすぐったかった。聞き慣れない声で名前呼ばれることってあんまりないし。っていうかちゃん付けとかひさしぶりすぎる。低学年までじゃない? 学校によるのかな。 「もしかして、ゆかちゃんもひとり?」 「ゆかでええよ。お兄ちゃんどっか行ったでさ」 「じゃあ一緒にまわろ」 手を差し出された。……別に、誰か一緒にいるならまわりたいとか思ってたわけじゃないけど。葛葉が一人でまわるの嫌ならつきあってあげないこともないんだから。それだけだからね? 誰にというわけでもなく言い訳しながら「うん」と応えてその手をとった。
葛葉があまりにじっと見ていたので綿菓子の残りは葛葉にあげた。 「ご、ごめん気になって。ありがとう」 「ええよ、もうそれ飽きたで。食べたことないの?」 「うん、こっちの方あんまり来んでさ……」 さっそく頰につけてしまってあわててぬぐっている。お面買えるくらいお金持ちなのにもっと安い綿菓子を食べたことないなんて。変なの。あれかな、加奈ちゃん家みたいに晩ごはん入らなくなるから屋台で食べ物は買いませんって言われてるのかな。 独特の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ああいいにおい。300円かあ、でも6個入ってるからお得かな。 「私あれ食べたい。くずはも食べる?」 「たこ焼き? うーん。わたしはあっち食べるでええわ」 「かき氷? それ食べ終わってからにせな溶けてまうよ?」 たこ焼き屋の前に並び、1パックを受け取って戻ると葛葉はほっぺたをパンパンにしてもごもご言っていた。おかえりって言ったんだろうか。綿菓子食べてからにしないとって言ったけどそんなに焦ってつめこむことないじゃない。 「だ……だって食べたいでさ」 「そんなに詰め込んだら食べにくいやろ……。後にしよ、あとに。私も食べたいし」 ほっぺたをふくらませたままもごもごしている葛葉の隣であつあつのたこ焼きを頬張る。はふはふしていたら隣から強い視線を感じてつまようじを一本渡した。一回あつっと声が聞こえてからはふはふする。 屋台の屋根の隙間からしばらく花火を眺めて、それからいろんなお店をまわった。 金魚すくいで結花が今までで最高の3匹捕獲を達成しガッツポーズをしている横で葛葉は三枚目のポイを破っていた。店番のお兄さんのトークが面白くてつい立ち止まった輪投げ屋では葛葉がぜんぶの輪を大当たりの的に通して大きな袋いっぱいのおもちゃをもらい、結花は全部暴投、かろうじてラムネ菓子一個を手に入れた。射的は結花も葛葉もノーコンで参加賞のちょっと大きめのあめ玉を一個ずつもらった。あめ玉をなめながら列に並び、葛葉はブルーハワイ、結花はいちごのかき氷を買った。 「なんでブルーハワイにしたん。もうブームすぎたやろ」 「わたしが食べたことないでよ。いちごは定番すぎやない?」 べー、としてくる舌が真っ青だったのでべー、と真っ赤な舌でお返ししてやった。しゃくしゃくとストローで氷のまだ白い部分を刺す。 「次どこ行く? ヨーヨー釣り? スーパーボールすくいもあるよ」 葛葉がまわるのにつきあうつもりだったのに、いつのまにか結花の方が葛葉をひっぱって歩いていた。スーパーボールに興味津々だったので連れて行く。 「これがスーパーボール? もっと大きいのかと思ったのに」 「見たことないの? これね、地面に思いっきり投げつけたらすっごい飛ぶんやよ」 さっき金魚すくいでポイをかたっぱしからダメにしたこともあって、お店のおじさんからポイのつかいかたを教えてもらってからスーパーボールすくいをはじめる。金魚だったらポイ1枚で3匹もすくえたのにスーパーボールは水流のせいもあって3個すくうのに3枚つかい切ってしまった。葛葉はほぼ枠だけになってしまった3枚目のポイでなんとか一個、オレンジ色がかった透明のをすくいあげていた。 「けっこうまわったね。くずははまだ時間大丈夫?」 「そろそろだけど……。そうだ、行きたいお店があるんや。こっち」 ぐい、とひっぱられて立ち上がる。とったばかりの緑のキラキラしたスーパーボールをためつすがめつしていたのを急いで袋にしまう。葛葉は先に人混みに駆け出している。待ってって、はぐれちゃうじゃない。 白地に鞠の描かれた浴衣を追いかけて、人混みをすり抜け追いかける。途中で見知った顔がいたような気がしたけどあいさつもそこそこに通り抜けた。こっちは鳥居に近いほうだっけ、河川敷に近い方だっけ。方角もわからなくなったころにやっと葛葉は足を止めた。屋台の並ぶ通りからちょっと奥に入ったそこそこ人通りのある路地裏。一軒のお店の前で手まねきする。藁の生垣がぐるっと敷地を囲っていて中は見えない。 「屋台やないの? 立派そうなお店やん」 「入って。大丈夫やよ、今日お祭りやで子どもが入っても誰も気にせんよ」 それ、普段は子どもが入るとこじゃないみたいじゃない。葛葉がためらいなく入っていってしまって取り残されてしまう。周りは知らない大人ばっかりだ。呼んでも葛葉は出てこない。……中で待ってくれてるならずっと待たせるのも悪いし。別に心細くなったわけじゃないんだから。自分に言い聞かせて足を一歩踏み入れた。 ひかりが見えた。 暗い藁のアーチをくぐった瞬間、ふわっとやわらかい光に包まれた。 はっと顔をあげて息をのむ。壁一面、高い天井まで、そして天井にもたくさんの風鈴がさがっていた。柄はひとつもついてないけどオレンジ色の照明に照らされてつやつや光っててとてもきれいで、まるで宝石みたいだ。藁のすきまからふきこんで来た風にゆられて風鈴がいっせいに音を鳴らす。 「わあ……!」 思わず声をあげた。すごい、すごい……水の中にいるみたい。シャラシャラと水流みたいに音がふきぬけていく。風がおさまりまた静かになっていく。チリ、チリンとひかえめな音がいくつか残る。 壁一面の風鈴に見とれる人の間から葛葉のお面がひょっこりのぞいた。ちょっとずれて顔も見える。結花に気づいて「あ」と口が開きうれしそうにはにかんだ。 「よかった、ついてきてる」 「急に走らんでよ。はぐれるかと思ったやん」 「ごめん。あんまり時間なかったでさ」 こっち、と手をひかれて人混みに入った。何かに並んでいる大人の足もとをくぐりぬけて奥の建物に向かう。そっちにもお店があった。 結花たちの身長からはちょっと高すぎる受付台を、葛葉がこんこんとたたいて窓口の店員さんを呼ぶ。すっとガラスの窓が開いて和服姿のおねえさんが身を乗り出した。葛葉はおもいっきり背伸びしてできるかぎりおねえさんに顔を近づけて何か言い、おねえさんはにこにこと優しげにほほえんで頭をひっこめた。 「何、くずは。買うの?」 うん、とうなずいて窓口の方に向き直りそわそわと見つめる。 大人たちの列の方はさっきより短くなったと思ったらまた人が来てもっと長くなった。あっちで何を売ってるんだろう。誰もこっちに気づかないどころか見もしないけど。なんでだろう……? 「はい」 「ありがとう! これお代」 声がしてふりかえると、戻ってきたおねえさんが葛葉に包みをわたしているところだった。手のひらサイズでぽっこりふくらんだ茶色い紙袋。おみせのなまえも中身のなまえも書いてない。 「はい、ちょうどおあずかりしました。良いひとときを」 ガラス窓がすっとしまっておねえさんの姿はまた見えなくなった。葛葉はうれしそうにぎゅっと包みをだきしめて、それから結花の方にそれを差し出した。 「……え?」 「あげる。ゆかに、プレゼント」 「え、でも……」 予約までして、楽しみにしていたものじゃなかったの? どうして私にあげようなんて。 「今日すっごくたのしかったでさ」 「そんな、もらえんよ。こんな高そうなん」 いいから、と包みを押し付けられて受け取った。何かまるくてかたい……包み紙のがさがさする音にまじって爪のあたったコンと硬い音が響いた。ガラス……? 「……ひとは終わったら、すぐ忘れてまうでさ。これはおまじない」 包み紙の上に葛葉の手がのる。何を言ってるのかわからなくて、結花は葛葉の顔を見た。 「忘れんとって。できたら覚えとって。それで……」 葛葉が顔をあげて、目があった。視界の端に真っ白な尾がちらりと見えた。 「それでまた会ったら、今日みたいに一緒に──」
「結花! 雨降ってきたで帰るぞ!」 すぐ近くで大きい声がして、気がついたらずぶぬれになっていた。ばちばちと石畳を雨粒がたたいている。お兄ちゃんも傘はもっていなかったみたいでずぶぬれだ。周りの人もうちわを傘代わりにして走っていく。 「ごめん、もう帰るね、……あれ……?」 誰かさっきまで一緒にいたはずなのに、そこには誰もいなかった。ぎゅっと包みを抱きかかえて「あ」と思い出す。そうだ葛葉、葛葉は……? 「どうした、早よ帰ろう、風邪ひくぞ」 「待ってお兄ちゃん。女の子見なかった? 狐のお面つけてる……」 「見てない。もう帰ったんやないか。ほら帰るぞ」 腕をひっぱられて走り出す。浴衣に雨がしみこんで寒くなってきた。葛葉は本当に帰ったのかな。はぐれただけで、雨の中寒いのにまだ探してたりしないかな。 「晴れてたのになあ急に降り出して──」
ズドン! 「きゃっ」 「わっ!」
ピシャッと一瞬ものすごく眩しくなって、すごい音がした。地響きもあったし耳がきんきんした。 「かみなり、かみなりが近くに落ちたんだ。早う帰ろう。危ない」 「待って、落とした……」 濡れた包みを拾い上げてはっと息をのむ。やだ、嫌だ。まって……。 がちゃり。 にぎりしめた包みの中で、何かがこすれる音がした。
🎐
軒先に風鈴をぶらさげて、網戸を閉めた。蝉もうるさいし、もうだいぶ暑いけど今日はもう少しだけ窓を開けておこう。……別に風鈴の音が聞きたいとかいうわけじゃないけど。っていうかこれそもそも音しないし。 風鈴には金色の線がたくさん入っていた。 あの後結花は割れたガラスを袋ごとずっと宝箱に入れて保管していた。両親にもう捨てようと言い聞かされても譲らず、成人して家を出る時も持ち出してきてしまった。「金継ぎ」という技術を知って雑貨屋で道具を揃え、見よう見まねで破片をつなぎ合わせたのが去年の夏のこと。コツンコツンと金具があたる音がするだけで響きもしないけど、あの日の稲妻がはしったような線を、結花はとても気に入っていた。去年は何もなかったけど。今年こそ何か……。もしかしたら。 インターホンが鳴って窓辺を離れる。宅配便だ。昨日注文しておいたやつ──
どこかでチリンと音がした。 ▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎
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夢売り
寄ってらっしゃい見てらっしゃい、
ありとあらゆる鍵があり、ありとあらゆる扉あり、
ありとあらゆる持ち主が、ありとあらゆる客招く。
どんな鍵をご所望で?どんな夢がお望みで?
なあに扉の向こうには、見知らぬ世界が待っていて、
それを夢と呼ぶのです。
おとぎ噺の夢はこちら、甘美な恋はあちらの扉。
戦場もあればペットの夢もあれば懐かしいあの人の夢もありますよ。
その店は最近そこにできたのかそれともいつも横の道を通り抜けるはずの俺の視野が狭くて気づかなかっただけなのか知らないがちょっと古い建物の並ぶ団地の一角に建っていた。何でそこに建っているんだろうと思わずにいられないような立地で、漆喰で固めた崖からはんぶんはみだして、そのはみでた分は崖の下からわざわざ鉄骨を組んで支えている。周りの家はほとんどがおそらく築70年とか80年とかそれ以上とかそろそろ建て替えろよ状態で、そんな日本の家屋の建ち並ぶ中にある中世ヨーロッパ風建造物はいやでも人目をひき、異彩を放っていた。この空気を読まない建物にちっとも気がつかなかった俺の注意力は大丈夫なんだろうか。
何でそこが店とわかったかと言うと白地の看板にでかでかと赤い字で「店」と書いてあったからで、何の店だかさっぱりわからないその看板に興味を引かれて近寄るとそれでもやっぱりわからなくてよーく見ると表札の所に「夢屋」とちっこい字で書いてあった。
夢屋。子供服の店だろうか。だいたいこれが店の名前とも限らない。表���に書いてあるのだから常識的に考えれば夢屋というのはこの家に住む人の名字である。
「いらっしゃいませ」
いきなり背後から声がして俺は何もやましい事はしていないのだがぎくりと硬直してしまった。恐怖を感じるのでせめて足音をたてて近づいて欲しい。
声をかけてきたのは「店員」というやたらと目立つはがきサイズの名札を付けた女の人だった。名札が無かったら「店員」とわからなかったに違いない。それらしい制服などではなく光沢のある薄緑のドレスを着ていたから。厳しかった残暑も終わり、朝晩は少々冷えるようになったこの季節にうす布の袖無しドレスで寒くないのだろうか。俺は制服の冬服移行期間になるなり夏服をクリーニングに出したというのに。
「あー…ここ何のお店なんだ?」
「夢屋です」
だから何を売ってる店なんだよ。
細い目をする俺を無視して「店員」はカツコツとハイヒールを玄関に続く石畳に左右交互におろして行った。
「どうぞ中へ」
それだけ言ってカツコツとハイヒールの音を響かせながらさっさと中に入って行く。俺はあわてて後を追って中に入った。
入って、驚いて立ち尽くした。店なのだからと陳列棚があってそこにずらりと商品が整列している様子を想像していたのだがそこは服屋でも酒屋でもなかった。壁いっぱいに、床にも天井にも、様々な大きさの、様々な形の、様々な色の、様々な扉が、ところせましと並んでいたのだ。
扉には一つ一つ「海」��の「飛翔」だのへたくそな赤い字が書きなぐられた白い紙が赤茶色に錆びたねじで打ち付けられていた。ほとんどの扉に取っ手があったがどうやって開けるのかさっぱりわからない扉もあった。
「初めてかね?」
後ろで太い声がしてぎくりとした。さっきほどではなかったけど。
振り向いてその服装のセンスに絶句した。背の低い太ったおじさんである。立派な黒ひげはこの建物の雰囲気に非常に似つかわしい。青いシルクハットというものを俺はおそらく初めて見たがなかなかフォーマルな色である。そして赤い蝶ネクタイ。シルクハットの色に合う色だ。そして黄色いシャツに濃い黄緑の燕尾服、真っ赤なズボン。健康に気をつけていらっしゃるのか紫色の腹巻きを燕尾服の上からしている。首から下は見るべきではなかったのかもしれない。「店長」という名札からしておそらくこの店を経営している人なのだろう。
「ここって何売ってるんだ?扉?」
「店長」の奇妙な服装から無理やり目をそらして気になっていた事を尋ねる。「店長」はにこにこして片手で立派な髭を撫で付けながらもう片方の手でズボンのポケットから鍵の束を引っ張り出した。束が揺れ、じゃらじゃらと金属非金属のぶつかり合う音が部屋に響く。
「夢じゃ」
「店長」はニタニタとこちらに笑いかけ、手元も見ずに束から二、三の鍵を選び出して「店員」の持ってきた木製の机に並べた。
「わしは、夢を売っておる」
言いつつ、赤い色鉛筆で何やら紙に書きなぐっていく。扉のプレートや「店員」の名札と同じ、汚い字だ。
「嬉しい夢も、腹立たしい夢も、悲しい夢も、楽しい夢も、何でもござれ。さあさあ、ひとつどうだね」
俺は右から二番目の鍵を手に取った。思ったよりも重さを感じる金属製の鍵で、クローバーを模した持ち手に緑色の石がはまっている。
「値札がついてないけど。何円?」
「税込一万九千八百円じゃ」
…高価(たけ)えよ。とても俺の所持金で買える値段じゃない。ため息をついて机に戻す。
「安価なものをお望みならどうぞ奥へ」
「店員」が淡々とまるで台本を棒読みするかのように告げると同時に「店長」が足下に落ちていたはしごをかつぎあげた。三段しかないはしごが何の役に立つのか非常に疑問だが。はしごをがしゃがしゃ鳴らしながら壁の扉の一つにどすどすと入っていく「店長」の後ろを「店員」が無表情についていく。俺はあわてて後を追いかけた。
夢を売り続けてはや三年、数人常連もいて不景気だろうが好景気だろうがおかまいなしに商売年中大繁盛のこの店はもちろんお金のない一見(いちげん)さんも大歓迎。わざわざそういう人たちのために無料貸し出しコーナーも用意してあるのだという。ただしレンタル用の夢は時間が五分から十分と短いもの、内容がいまいちのものが多いそうだ。最も高価な夢は四十八時間のオーダーメイド品。値段は恐ろしくて俺の口からは言えない。国家一つ潰しそうな値段と言えば想像つくだろうか。しかし購入者は年に数人いるのだそうだ。金くれ。
「さあさあここがレンタルエリア。種類は豊富、でも短くてちょこっと物足りないとお思いならばさあさああちらへ、お金はいりますがもっといいのを見られます」
「店員」はセリフを棒読みし、みょうちくりんな服装に似合わず「店長」はシルクハットをとって優雅に一礼してみせた。そして顔を上げるとともにさっきと違う鍵の束をさしだす。すべて似たり寄ったりの形のプラスチック製だ。
「どんな夢があるんだ?」
「それは見てのお楽しみ」
「札を見るのじゃ。それでわずかなりとも予測がつくじゃろう」
俺はところせましと扉の敷き詰められた広間を見まわしてため息をついた。どれだけ広いのだろうこの家はと思う程にたくさんの部屋と長い廊下にまだ他の部屋に続くのではないかと思われる扉がうんざりするほどあるのだ。外から見ると普通の、そんなに巨大だと言うわけでもない洋館だったはずだ。家の構造がどうなっているのか知らないが怪しい店に入ってしまったらしい事が今更遅いがわかってきた。そもそも夢を売ると言うが、睡眠時に脳が情報をごちゃまぜにして作る映像を売れるはずがない。夢は個人が見るものであって第三者がどうこうできるものではない。
でも興味があった。俺は駄目元で適当に鍵束から一つ引き抜いた。
「これにするよ。どの扉だ」
「店長」が無言で広間の端の木製の古そうな扉を指差した。近づいていって試しに鍵穴に突っ込んで回してみて回らなかった。
「夜に夢で来るといい。早寝をする事。遅刻厳禁じゃ」
夢を貸し借りできるわけが無いと決めてかかっているくせにわざわざいつもより三時間も早くベッドに潜り込んだ俺はなんだかんだ言って騙されやすい奴なのだろうか、それともただたんに週末課題をやっつけるのが面倒でさっさと寝てしまいたい気分だったのだろうか。とにかく俺は「店長」の言いつけ通り早寝をして意識が沈んだらいつの間にかあの「店」とでっかい看板を掲げた洋館の前に突っ立っていた。夢で来る、とはこういうことを言うらしい。ようこそいらっしゃいました、と丁寧に礼をする「店員」の横をどすどすと「店長」が通り抜けていく。俺はあわてて後を追って中に入り、扉の廊下を走った。
「これじゃ。どう考えて、どう行動するも自由。さあ行くのじゃ。お前さんの世界へ」
他にも客が来ていてそちらの対応に行くのだろうか、昼に見た扉の前に俺を残して「店長」はまたどすどすと他の扉へ入っていった。もはやどこもかしこも扉だらけでどこが入って来た廊下に繋がる出口やらさっぱりわからない。どうやらこの扉の中に入るしか無いようだ。昼間回してみて開く気配がなかったんだから、夜になったから、夢で来たからといって同じ扉を開けられなかった鍵で開けられるわけが無いと全く期待せずに突っ込んだ鍵はぐるりとまわった。少々勢い余ってそのまま扉は開いた。真っ暗だ。でもかすかに、草のにおいがする。
開いた扉の先に、吸い込まれるように足を踏み入れた。ゆったりした風がさあっと通り過ぎてさわさわと音がした。一面の雑草がまるで水面のように波打つ。どこかでちろちろこぽこぽと水の流れる音がする。小川があるのかもしれない。
揺れる草の間に埋もれるように小川がきらきら一部分だけ光らせていて、そのほとりに人がいた。無地の白い半袖シャツ、茶色の長ズボン。髪が中途半端に長いがたぶん男。同い年かもしれない。時折吹く風にシャツやズボンや髪をはためかせながらそいつは何かを両手で大事そうに包んで立っていた。
「何、それ」
近づいて尋ねるとそいつは俺の声にぴくりと反応し、ばっと振り向いた。まるで背後の敵に対峙するかのような反応だったので俺は思わず身を引いた。そいつはじいっと俺の目を疑わしげに見て、いい加減居心地が悪くなって目をそらしかけた頃にようやくすっと警戒を解いた。
「誰?どうしてここにいるの?」
いきなり質問かよ。しかも質問の答えを聞く気は全く無いようですぐに何かを包んでいる両手に目を落とし、俺に見せるようにそっと開いた。
さあっと黄緑色の柔らかい光が現れ、少し暗くなってまた明るくなった。呼吸をするようにゆっくりと明滅を繰り返す光はすうっとそいつの手を離れてしばらくその場で浮遊し、どこかへ飛んでいった。
「ほたるだよ。久しぶりに見つけたんだ」
そいつの言葉を片耳で聞きながら俺はほたるの飛んでいった先を追った。どこへ行ったか完全にわからなくなって空を仰いで思わず息をのんだ。
月の無い空に、一面の星。どこまでも続く、濃紺の大きな空いっぱいにひろがる星のうみ。
「わあ…」
俺はつい声を漏らしていた。はるかかなたまで何に邪魔される事も無く手で触れられそうな空が続いているのだ。いつもビルや電線で切り取られた平べったい空を見ていたから、こんな星で彩られた球面の空ははじめてだった。俺はそのままその場に寝そべって空を見上げた。背中の土と草が冷たくて気持ちいい。
「届くかな」
隣に寝そべったそいつがせいいっぱい手をのばした。もちろん空の星はひとつもつかめず、指は宙をかく。
「無理だろ。っていうか、その体勢で手が届いてたらとっくに俺たちは宇宙で頭打ってるぜ」
そいつは頑固にもしばらく口をへの字に曲げて右腕をゆらゆらさせていたが急に何かを思い出したようにそばに置いてあった小さなリュックサックを探って何やら取り出した。その筒の片端を目に当ててまた寝転ぶ。
「望遠鏡?」
「うん。こっから見るとさ、みんな同じに見えるけどこれで覗いたらみんな少しずつ違うんだよねえ」
渡されたそれで空を見てまた驚いた。そんな小さな望遠鏡では普通に見ると��と大差ないと思っていたのだが全部白だと思っていた星が青や赤や緑や色んなもやもやした雲みたいなのを引き連れているのまで見えた。もっと見ていたくなった。
「ねえ、もしあのうちどれか一つに行けるんだったら、どの星に行きたい?」
望遠鏡を受け取りながらそいつはもう一方の手で星々を指した。どの星と言われても俺は個々の星の名前など太陽と月と水金地火木土天海冥(すいきんちかもくどってんかいめい)ぐらいしか知らない。
「おまえはどこ行きたいんだよ」
「へへ、ぼくは、…ひみつ。そのうち教えるからさ」
要するにおまえもどの星に行きたいかなんてちぃっとも考えてなかったんだな。ため息をついてまたこの壮大な星空を見上げて、俺もどれかに行ってみてもいいかもな、みたいなことを考えた。
こう言うのも何だか変な表現だが俺は夢から帰って来た後(たぶん出口があってそこから出て来たと思う)目覚ましの設定を忘れた寝室の時計がとんでもない時間を指しているのを発見して大慌てで通学路を暴走した。一限目にギリギリセーフで間に合った。昨日早寝をしたせいで英語の予習をしておらず十分間立たされたり友達に借りた漫画を朝急いでいたせいか忘れて来ていたりレンタルした夢の弊害はさんざんだったのだが俺の頭の中身は一日じゅう夢の事でいっぱいだった。今日も友達のカラオケの誘いを断ってそうそうに帰宅しさっさとインスタントラーメンで夕食を済ませて普段より四分の一日も早くベッドに潜り込んだ。
開けた扉の先はやはり昨日と同じ草原だった。あいつはまだ来ていない。昨日と同じ場所で昨日と同じように寝っ転がって空を眺める。少しずつ動いているように見えて面白いなあなどと見ながら考えて、しばらくするまでそれが当たり前の事だというのに気がつかなかった。昔の人が地球がとまっていて空が動��ているのだと主張した気持ちはよくわかる。このきらきらの粒をのせた紺色の空はゆっくりゆっくりと移動しているように見えるから。ふと気がつくと、昨日あいつを届くわけないだろうと笑ったくせに今懸命に寝転がったまま空に手を伸ばしている自分がいて苦笑した。
それにしても。あいつは本当に男なんだろうかという今日の昼休憩に星図鑑を眺めていてふと疑問に思った事をもう一度考えてみる。あの雰囲気は何か男らしくないような気がする。とはいえ女だったら「ぼく」という一人称は明らかにおかしい。ズボン履いてたから服装から判断はできないし、髪も中途半端な長さだったし、胸は…確認してなくてよかった。もしあいつが女だったら俺は変態だ。
「はやいね」
噂をすれば陰ということわざはよく知っているが考えただけで本人が来るとは思わなかったので思わず飛び起きて三メートルぐらい走った。昨日と同じ服装のそいつは目をまんまるにしたが俺のオーバーリアクションよりはまだましだ。
「悪い。びっくりした。…で、何それ」
俺はそいつが右手に提げた馬鹿でかい旅行鞄を指差した。まさかここで野宿する気じゃないだろうな。俺の質問にそいつは無言でそのチャックをジイイと開けておもむろに…スコップと土木作業用ミニ手押し車を取り出した。用途も旅行鞄の中に入っていた理由も全然理解できない。何を考えているんだ。
「塔をつくるんだよ。河原の石で」
「何のためにそんなものをこんなところで作るんだ」
「決まってる」
そいつはにやっとわらって俺を見て、ばっと突き上げるように空を指差した。
「星に行くんだよ。ずっとずっと積み上げていったらそのうち着くかも」
「ありえねえ」
ばっさり切り捨ててため息をついた。夢の中でまで寝言を言うな。しかしどうやら俺は怒らせてしまったようでそいつは涙目になって俺を睨んだ。
「もちろん色んな方法を試してみるよ。はしごも作ってみるさ。宇宙船だってつくるさ!どの星でもいい、どんな星でもいい、」
ああ、まあ確かに宇宙船なら行けるだろうが…。
「何をしてでもぜったいぜったい…わたしは星に行く」
はあ、と俺はため息をついた。論点がずれている。
「手っ取り早く宇宙船つくって飛んで行った方が早いだろうが。ここ夢の中だしそのくらい簡単にできるだろ?石積み上げてみるとか無意味な事してないで」
「意味なんかいらない。ぼくは意味が欲しいんじゃない。そんなもの後から勝手についてくるんだよ。意味が欲しければとっとと宇宙船組み立ててひゅーんと宇宙の果てまで行けばいいじゃないか、ぼくなんかほっといてさ」
ほっとけるわけねえよ。泣いて高くなった声を聞いていられなくなって目をそらした。そらした先は光の海のような空。誘うようにゆらゆらと波立って見える。足に比較的大きな石がぶつかり、ため息をついてそれを拾い上げる。しばらくそれを見つめて片手に持ち替え、思いっきり振りを付けて直上にぶちあげた。
どの星でもいい。俺の願いが届きますように。
「…何してるんだよ。今のが宇宙船?」
「宇宙船の…発射テストってことにしてくれ。あれに乗って星にたどり着けるとは思えない」
そいつはしばらくぽかんとして俺の顔を見つめていたがやがてふっと吹き出し、きゃらきゃらと笑い転げた。しばらくしてどすんと俺がさっき投げた石が積み上げられた石の上に墜落してくずしてしまい、いっきにそいつは仏頂面になって手伝えとばかりにスコップを持たされた。
手の届かないものは最初から望まない。そうやって俺は色んな事をあきらめてきた。でも、本当に手の届かないものかどうかなんて実際に手を伸ばしてみないとわからないじゃないか。
でかい石を一個拾い上げて積む。積んで高くなったところで星に届かないのはわかっている。でもそこまで高くなったら下を見下ろせばいい。そこは広大な宇宙の一点だ。自分自身がその一点だ。そこからのびる逆さまの石の塔の先に星があるはずだ。俺は今その星に思う存分体をくっつけてその星の一部を使って塔をつくっている。それでいい。見下ろしてみて、それでどうするかなんて知らない。意味なんかなくていい。たぶん後からついてくる。
唐突に目が覚めて、何か不安な気持ちで寝室を見回した。普段と全く変わりない。時刻を確認するために勉強机のライトをつけて見たらまだ五時にもなっていなかった。ベッドに入る時間が早すぎたせいだろうか、そのまま眠れず漫画を読みあさって起床予定時刻を待った。朝食は適当に割った卵をフライパンに載せて調理して食パンと一緒に食べていつもよりだいぶ早めに家を出た。自転車にまたがって、いつもと同じ通学路を学校目指してこぎ出した。
その空き地は最近空き地になったのかそれとも前から空き地でそこに店があったという俺の記憶が間違っているのか知らないがちょっと古い建物の並ぶ団地の一角にあった。何をどうしたって狭すぎて宅地としては使えなさそうな立地で、隣の家からトラック一台分ぐらいの幅の先は漆喰で固めた急な崖になっている。周りはどこもかしこも家が密集状態で、そんなひしめき合うような家屋の群の中にぽつんとある空き地はいやでも人目をひいた。
しかしおそらくそこに店があったというのは俺の記憶���いではないようだ。なぜそう言えるかというと「売地」というどこぞの不動産会社の看板の下に汚い赤い字ででかでかと「店跡地」と書いてあったからで、よーく見るとその下に「長年のご利用、誠にありがとうございました」とちっこい字で書いてあった。
からからと自転車を押して歩く音が聞こえて振り向くと、俺と同じ高校の制服を着た女子が歩いてきて空き地の前で立ち止まった。そしてしばらく何も言わずに看板を見つめていた。中途半端な長さの髪と制服のスカートが後ろから吹いてくる風にはためく。女子の制服を着ていたが、そいつが誰だかすぐわかった。俺は風の音に負けないように、そいつに届くように、そいつが一字一句逃さず聞き取れるように、大声を出して言った。
「俺さ、将来絶対宇宙飛行士になる。どの星でもいいから行ってみせる」
突然の宣言に驚いたようにそいつは振り向いて、そっと微笑んだ。
「わたしも絶対どこかの星に行く。先に行ったら待ってるから」
「俺が先に行って待ってるさ」
しばらくじっと見つめ合ってからふたりしてにぃっと笑った。そして「店跡地」の看板に目を落とし、空き地の上に広がる空を見上げる。
早朝のうすい青色の空には白くかすれた雲が浮かんでいた。電線で切り取られた、平坦な空。でも、きっとあの雲の向こうには、無数の星の散らばる広大な夜空がひろがっている。
寄ってらっしゃい見てらっしゃい、
ありとあらゆる鍵があり、ありとあらゆる扉あり、
ありとあらゆる持ち主が、ありとあらゆる客招く。
どんな鍵をご所望で?どんな夢がお望みで?
なあに扉の向こうには、見知らぬ世界が待っていて、
それを夢と呼ぶのです。
さあさあ鍵を手に取って、さあさあ足を踏み入れて、
きっと見つかる探し物。
きっと見つけるあなたの未来。
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やっと見つけた。
少年は緊張と興奮で弾んだ息を整えながら歩調を緩めた。街の中央、噴水広場の一角にある豪奢な石造りの邸宅。あの男は口からでまかせなどではなく本当に有力で財力のある人物なのだろう。今からお前が馬鹿にしたこの魔具(マグ)で自慢の家が木端微塵になるのを見て自分の愚かさを思い知るがいい。土下座させて店から巻き上げた金を返させてさらに迷惑料ももらおうか。
手の震えをおさえつつ布袋から金属のコップを取り出す。一見すると装飾の一切無いシンプルな日用品だがこれは正真正銘父の工房でつくられた19+の魔具だ。向きをあわせて後は力をこめるだけ……。
「はいストーップ」
突然スーツの男が出現しさっと魔具を取り上げた。そしてもう一人、メガネの男がバインダーにはさまれた紙をめくって読み上げる。
「魔具NO.2253『缶砲台』の使用には兵士資格が必要です。無資格使用は魔具法80条に則り……」
「おい返せよそれ!」
「無資格のまま所持している魔具については発見次第こちら、魔具管理所にて一時預かりとの規定が……」
「なーなーおーいアンペル」
魔具をとった方の男が困惑といった感じで少年を下から見下ろしながら口を挟んだ。
「これ資格以前の話っ」
「ああ、そういえばこの魔具は19+だな。キミまだ12ぐらいだろう」
「15だ。返せ」
「年齢違反には違いない。魔力(マーリー)不足が観測されていないことには疑問が残るが……。まあいい、大人しく署まで……」
そこでやっと黒いバインダーから顔を上げて少年と目が合う。点になった目で少年を眺め回してから気まずそうな表情の相棒と顔を見合わせる。スキあり、とばかりに缶砲台に手をのばすと意外にも身軽なシルクハットの足さばきでひょいと避けられ足払いをかけるとタイミングよくジャンプされ失敗に終わった。
「金髪黒目に浅黒い肌……。キミ、流者(ルシャ)だよな?」
「なーなーおいアンペル!流者(ルシャ)って魔具をつくれるけど使えないんじゃなかったっけっ」
上からと下からとそれぞれ眺めまわされて不愉快に思いつつ少年は自分も相手の片方――魔具を取り上げた男を眺めまわしていた。ぴしっと体にフィットしたスーツを着ているのも、高級そうな革靴を履いているのも、かっちりしたシルクハットも、いかにも街(バージス)の貴族といった感じで魔具管理署という職業にふさわしいと思うのだが問題はそれが逆さまだということだ。つまり、シルクハットから黒く細い脚らしきものが生えて体を支えていて、本来の足はというと天に向かってV字開脚。なんだこいつ。
一方アンペルと呼ばれたメガネの男も書類と目の前の実物に困惑していた。本来魔力(マーリー)を持たないはずの部族の子供が魔具についてよく知らないまま並みの術師以上の大魔力を使う……なんだこいつ。
「氏名、アス・フェン。歳は15。流者(ルシャ)。無資格使用未遂の魔具は『缶砲台』。間違いないか」
口をとがらせてうなずき、アスは差し出されたカップを手にとった。同時に空の陶器の表面にオレンジの光紋が広がり底から湯気をたてるコーヒーが湧き出る。
「お? 驚かないのかーい?」
「父さんが魔具師だから。こういうのは見慣れてる」
父、魔具師と書類に書き込むアンペル。一応魔具使用違反の取り調べだ。うっかり答えたアスは上目づかいにアンペルをにらんでカップを置いた。
「魔具法って、何だよ。街(バージス)にはそんな法律があるのか」
「お前、魔具師の子なのに知らねえのかっ。なーなーアンペル説明してやって」
テーブルにシルクハットで立ち至近距離で唾をとばす逆さま男(さっきヴォルターと名乗った)をうっとうしげに追い払いアンペルは例えば、とポケットから水道の蛇口を取り出した。ハンドルをひねるとアンペルのコップにとぷとぷと水が注がれた。
「これは5歳から使えて資格も要らない魔具だ。誰が使っても問題ない。だがキミが使おうとした缶砲台は19歳以上、さらに兵士資格が必要だ。これは内戦を防ぐため。わかるな?」
「19+って魔具の強さの目安じゃないのか」
「年齢制限表示だ。どんな魔具でも一定以上の魔力(マーリー)を必要とする。個人差はあるが魔力(マーリー)は年を取るとともに強くなるものだから、年齢で規制されている」
アンペルが自分のメガネを指さすとふちが端から一気に青く光り、レンズがキラリと不透明になった。そのままあちこちを見回してまたスッと透明に戻す。
「これは23+の千里眼鏡(テレスコープ)。キミの家の夕食は羊肉の包み焼きだな。豪華な夕食じゃないか」
千里眼鏡(テレスコープ)で何を見てきたのかまた書類に何か書き込むアンペル。覗き込もうとするとバインダーの端が突然伸びて危うく額に刺さりかけた。これも魔具か。
「魔力(マーリー)が十分ねーのに魔具を使おうとするとな、こーなる!」
書棚で何か探していたヴォルターがシルクハットでぴょんと器用に脚立から飛び降りてくるっと回る。顔面すれすれを通過する靴を避けつつヴォルターのシルクハットが魔具なのだと理解する。
「いやーガキの頃両親が空間転移魔具(テレポーター)でほいほいあちこち出かけるのがうらやましくってさっ。オレも行くーってろくに知識もないまま力をそそいでボーン、だ」
ぎょろっとした目でシルクハットを見上げて(見下げて?)にやりと歯を見せる。頭は完全にそれと融合してしまい、さらに足が生えて代わりに自前の足は動かなくなったらしい。暗い話を陽気にしつつ、でも便利だぞこれーっとぴょんぴょん跳びはねまくってみせる。その手にはカラフルな袋。
「あっ! ……ヴォルター、それは私の大事なスイーツだ! 返せ」
「職場に自分用スイーツとは感心しないなあアンペルさんっ」
「頭を使う職業柄スイーツは必要不可欠!」
「ほらほらまだ取り調べ中だろっ! これは食っといてやるからさっさと済ませて取りに来-い」
「おまこらまて」
ぴょんぴょんとおちょくるようにテーブルの周囲をぐるっと回って腰から先を振りながら出て行った。アンペルは肩をいからせてそれを見送り、突然スイッチでも切り替えたように真顔で椅子に戻った。
「で、ろくに知識もないままキミが噴水広場でこの魔具を使おうとした目的は何だ」
「……」
「手短に話してほしい。早くあれを奪還しなければ私のアフタヌーンティーが糖質ゼロになってしまう」
前言撤回全然切り替わってなかった。
「……あの野郎が、うちの魔具はどれも何の役にも立たないガラクタだ、って馬鹿にしやがったんだ。とっとと店閉めちまえって」
「ただの悪口だろう。相手にせず放っておくのが一番だ」
「それだけじゃねえんだよ。あの野郎裏で手ぇ回してて、あいつが来た翌日から銀行屋は金おろさせてくれねえし身に覚えの無い借金をとりたてに金貸しが来るし、その金貸しの連中は店の品物に手ぇ出すし。街中じゃあうちの悪評をばらまきにばらまいて、おかげで昨日もまともに商売できやしねえ」
アンペルはわずかにまゆをひそめた。
流者(ルシャ)は魔具をつかえないことを理由にたびたび街者(バジャ)から差別を受けている。しかし街者(バジャ)は街者(バジャ)で自分たちが使う魔具を自分ではつくれないため流者(ルシャ)は大事にされる傾向にあり、流者(ルシャ)が実際に迫害をうけたという報告は今までにも無いはずだ。銀行屋が絡むとなれば相手は財力がある。財力のあるものが流者(ルシャ)差別に動いたのか。人は金に弱い。その財力に操られて流者(ルシャ)差別が進めば最悪……
「おいアンペルさん。取り調べしてるのに上の空かよ」
「ああ、すまない。……“あの野郎”の名はわかるか?」
「セレスト・クロンだよ。高名な魔導師なんだってな。そいつがうちに来て、今まで色々な魔具を使ってきたがこんなにひどい魔具は初めて見たとかぬかしやがったんだ」
「帰ったよ」
アスが自分のテントに戻った頃にはもう夕暮れ時になっていた。お帰り、と玄関布の向こうから声だけ聞こえてふわっと暖かい香りがする。���つものスープのにおいだ。
「夕食、もうすぐできるから店の人呼んできてもらえるかしら」
店のテントはもう少し街(バージス)に近い通りにある。夕食の買い込みでにぎわう露店の通りを抜けて、営業を終えテントが仮畳みされた道具街(バージス)へ出た。
“流者(ルシャ)”というのはその呼び名通り流れ者で、それぞれ決まった季節に街(バージス)に立ち寄り露店を開いて生活している。例えば干物商なら冬直前期に保存食の買い込みを狙ってやって来るし、織物商もこの時期は毛皮商人がほとんどを占める。アスたちの一族は夏に北の山で魔具の材料となる石や金属などを採り、山が雪で閉ざされる冬にこの街にやってきて魔具を制作しながら売る。今年は良質の石がとれたから良い魔具ができて繁盛しているはず……なのだが。
急ぎの注文でも請けたのだろうか、テントを畳まずたいまつの下で剣を鍛えなおしている鍛冶屋の向かいに、肩をおとして品物を片付ける集団を見つけた。
「おーい、お疲れ」
「ああ、アスか。何してたんだ今まで。もう閉店だぞ」
「悪い悪い。ちょいと野暮用が。夕食、できたってさ」
おお、と男たちの疲れた顔が少し緩んだ。その中に唇をかんで箱に魔具をしまう父の姿を見つけた。今日も奴らは来たのだろうか。店の男たちの表情からするに、噂のせいでろくに売れなかったのだろう。父の頬に今朝は見なかったうすい傷があるのが見える。刃物で脅されたのだろうか。話しかけようと近くへ行ったが言葉が見つからず黙々と片付け作業を手伝う。許せない。あの野郎。今度会ったらぶっとばしてやる。
「あー……。まだいいか。もう閉店時間か」
振り返ればスイーツメガネ男。
「げ」
ごつっ
条件反射で出した声の直後に頭上から拳襲来、その場で悶絶。
「痛ってえな兄貴!何すんだ」
「『げ』は無えだろ。失礼だ」
失礼もくそもあるか散々個人情報引き出した後三時間もの焼き菓子トークにつき合せやがって。また会ったな、とひらひら振る手にこの魔具の先っぽ刺してやりたい。
「何しに来たんだよ……」
「何って、魔具を返しにだ。そちらが店主か。私は魔具管理署調査官のジム・アンペルと申します。本日昼過ぎ、噴水広場にてアス・フェンさんがこちらの魔具を使用しようとされました。資格違反、年齢違反ということで魔具法に則り署で一時預かりとさせていただきました」
黒いバインダーにはさんだプリントを淡々と読み上げて缶砲台を手渡す。早口でまくしたてられた文言に父は目を白黒させてそれから軽くアスをにらんだ。他の男たちの目も集まって気まずくなり肩をすくめてそっぽを向く。
「ところで、つかぬ事をきくが……。お子様の親戚に街者はいるか?」
「? いや、ワシの知る限り一族はみな流者(ルシャ)だ。……何か?」
「彼、魔力(マーリー)があるようだが」
「……」
「……」
しばらくの沈黙の後父とその他大半の目が不審者を見る目に変わった。気圧されたアンペルが慌てて持っていた小箱をアスに投げてよこす。使って見せろ、と言われたがどう見ても拳大のただの箱で開かないし使い方もわからない。見たことの無い魔具だ。
「うちは武器系専門の魔具屋だから武器以外の魔具はよく知らない」
「それはランプだ。貸せ。ほら、ここを開いてここに魔力(マーリー)を」
立方体の箱の金具をいくつかいじると箱の角の一つが欠けるように開き、アンペルが魔力(マーリー)をこめるとその中央部分があわく光った。渡されたそれを眺めまわしてからアスもそれを適当に手の中で転がし、トントン、と箱の中央部を指でつついてみる。
パン
乾いた金属音とともに指さした部分がはじけとんだ。金属片が首筋をかすめてアンペルも冷や汗をたらす。半信半疑どころか全疑に近かった父と店員たちは目を丸くして破裂した箱を凝視した。
「……アス君、力こめすぎだ」
「使い方知らねえって言っただろ。見よう見まねでやったらこうなっただけだ」
父がアスの手から今や残骸となったランプをひったくるように奪い取り、しげしげと眺めまわす。信管や火薬の類が入るようなスペースはもちろんそこには無い。
「ええと、アピールさん、じゃったかな?これはどういう……」
「アンペル。ご覧のとおり、息子さんには魔力(マーリー)がある。それも同い年の街者(バジャ)ならわずかに明るくするのがやっとのレベルの魔具を、破壊してしまうほどの」
「……」
「これほどの魔力(マーリー)だ。コントロールする術を学ばないとうっかり魔具を暴走させかねんし、魔導師資格の方に師事されることをおすすめする」
残骸を受け取り、ポケットにしまいながらメガネを直して笑う。
「すぐにとは言わない。ゆっくり考えて、心が決まったら魔具管理署まで来てほしい」
言い終わると同時にカチッと音がしてアンペルの姿が掻き消えた。呆然と虚空をながめて立ち尽くす父の前でアスは握った手に目を落とす。
――バージス、クリオロ通り北361番地リント国魔法省魔具管理署調査官、ジム・アンペル
渡された紙切れにはそう書かれていた。
夕食後(腹立たしいことに羊肉の包み焼きだった)、父に呼ばれてテントを抜け出し露店街へ向かった。もうすぐ深夜という時間だが酒場の多い通りはまだまだにぎわっていた。
「アス。こっちだ」
飲屋(クワス)から父が手招きするのに気がついて中に入る。カラカラン、と入店を知らせるベルが店内の話し声にすいこまれていった。仕事を終えた魔具師や露天商が思い思いのベンチやソファに腰かけて近くに座った他の客と語り合う、そんな感じの店だった。見れば街者(バジャ)も数人話の輪に混じっている。広間の奥のステージで見世物が始まったらしく客がそちらへ集まっていく。店員と二言三言軽口を交わして父は果実酒を手に戻ってきた。
多くの客とは反対側、ステージから離れるように丸太に腰かけて渡されたコップをすする。ほわりと甘い香りがのどから体にひろがる。まだ冬は序の口とはいえ最近かなり冷えてきている。温かい飲み物は指先をあたためるのにうってつけだった。
「あのクロンとかいう野郎、まだ店に来てんのか」
グラスを手に飲みもせずうつむいたままの父に耐えかねて話を振る。父はああ、と一言うなずいてやっと一口酒を口にふくんで背筋をのばした。
「今日は借金の利子だと言って自在剣をとって行きおった」
あの店の隅に置いてあったシンプルな短剣のことだな、と脳裏に店内図を描く。装飾は少ないものの剣先の湾曲が美しく、気に入っていたのでそんな奴の手に落ちたのが非常に腑に落ちない。それを使おうとして魔力(マーリー)不足でリバウンドでも起こせばいいのに。腕が剣と融合してうまく食器を持てない“あの野郎”を想像してみたが剣がもったいないのでやめた。家を爆破してさっさと取り戻してしまいたい。
「アス、お前を今晩ここに呼んだのはその話ではない。魔力(マーリー)の話だ」
「わかってる。魔力(マーリー)が、どうしたんだよ」
「魔力(マーリー)を持つ者は魔具をつくれない。これは知っておるな」
「いや知らない」
言葉を続けようとしていた父、絶句。親戚に魔力(マーリー)を持つ者は居ないし一族と街者(バジャ)の交流もそんなに深くはないがしかしどこかで耳にする話のはず、というか数年前に説明したぞ息子よ。
父に軽くにらまれてアスは目をそらす。いちいち覚えてねえよそんなこと。
「……理由はわかっておらんが、魔力(マーリー)持ちは魔具をつくれない。つまりお前は魔具師にはなれぬということだ」
「その台詞前にもきいた。父さんが教えてくれた通りに作っても魔具にならなくて」
「そ・れ・が・お前が魔力(マーリー)を持っとるせいだと言っとるんだ!」
つい声が大きくなり、ステージの方には届かなかったがカウンターの店員の白い目が刺さる。父は肩をすくめて平謝りし、腹いせとばかりにアスの頭をこづく。
「……アス、お前は店を継げない。今までいつかお前も魔具をつくれるようになると信じて魔具づくりを教えてきたが、お前にはその素質がない」
「いーよ、別に。店を継ぐとか魔具師になるとか、そんな深く考えてなかったし」
物覚えが妙に悪いと思っていたら案の定だった。このバカ息子、父は心中で罵倒しておく。
「オレは魔術師になればいいんだろ? 明日アンペルさんの所に行って魔導師資格の人紹介してもらう」
父は降らすの酒をぐいっと一気飲みしてから勢いよくアスの頭にチョップをくらわせた。頭悪くなるじゃねえか、と頭をおさえて文句を言うアスの頬を今度は軽くはたく。
「自分の将来を甘く見るな。お前が思っているよりずっと大きなことなんだぞこれは。真面目に考えておるのかお前は!」
「な……んだよ考えてるに決まってんだろ。魔具師にはなれないけど魔術師にはなれるってきいて今ちょっとほっとしてんだよ」
いつのまにか双方立ち上がってにらみ合う形になり、いつ手放したのか二人のグラスは中身を床にぶちまけて転がっていた。まだかなりの身長差のある父を見上げる。いつもはどこか穏やかな光のあるその���がいつになく鋭く厳しいものになっているのに気が付いて若干ひるんだ。
「アス。魔術を選ぶなら一族を抜けなさい」
表情とはかけ離れた穏やかな言葉が父の口から紡がれる。しかし内容は鋭く耳に突き刺さった。
「魔術の先生のところへ行ったら、もう二度と一族の元へ戻ってはならん」
語尾がふるえ、続けかけた言葉を一旦飲み込む。どういうことだよ、と開きかけたアスの口を片手でふさいで後は畳み掛けるように早口になる。
「魔術を使うお前はもう家族ではない。ワシはもうお前の父親ではないし、お前はもうワシの子を名乗ることはできん。よいな」
「……、何言ってんだよ……どういう意味だよ、父さん」
「……」
父は何も言わずに立ち上がり、グラスを拾い上げてしかめ面の店員に返しにいく。アスが追いすがるとうっとうしげに振り払い、たたらを踏んで尻もちをついたアスを蹴飛ばして床に転がした。グラス返却のついでに酒代とチップの支払いを終えて足早に出口に向かう。
「待って、父さん」
「もう二度と父と呼ぶな」
早口が最後一言返ってきて直後に父の姿が消え、アスはあわてて出口周辺に群がる客を押しのけて店を飛び出した。
ほとんどの店が明かりを落とし、街路灯も一部消えた酒場街。どこを曲がって行ったのか、人通りの少ない道に父の姿はもう見当たらなかった。
翌朝、目を覚ましたアスは自分の寝具を直してからあくびをかみころしつつ食堂を兼ねているテントへ向かった。寝違えたらしく首が痛くて左を向けない。ふああ、と今度はかみ殺し損ねてあくびがもれる。もう他の店員たちや女たちは食事を終えて出かけて行ったのかテントには誰も居らず、部屋の真ん中に空の鍋だけが残されていた。食器を手にあれオレの分、と頭をかいて舌打ち。誰だ朝っぱらから食い意地張ってる奴。他人の分まで食ってんじゃねえ。
「アス」
テントの玄関布をわずかにめくって母が覗き込んでいた。その手にはスープの入った食器。
「はやく食べちゃって。お父さんやお店の人に見つかったら、お母さんが怒られるから。ほら早く」
「どういうことだよ」
「……私からは言えない。はやくして。人が来る」
渡されたスープを行儀悪くかきこんで飲み込む。とっくに冷めて冷たく、あまりおいしくなかった。母はアスが平らげるのを見届けるなりテントを出ろと急かし、外を気にするそぶりを見せる。何を急いでいるのかわからないままに玄関布に手をかけると母がその手を握りしめ入れ替わるように中に入った。
「行きなさい。戻らないで。でも忘れないで。父さんも、母さんも、本当はあなたを愛している」
すれ違いざまに耳元でささやき声がきこえドンッと背中を突き飛ばされつんのめるようにテントを追い出される。ちょうどテントの前を通りがかった通行人にぶつかってしまい、慌ててあとずさって平謝りした。いつもなら見ず知らずの人間でも気をつけろよ、ぐらいで済むのだが今日は違った。ぶつかった相手は父の店で昔から働く者で、顔見知りだったのでほっとした直後その男は予想だにしない言葉を吐いた。
「触んじゃねえ穢らわしい!」
さらにその場で印を結び、とっとと出て行けの一言を置き土産に去って行く。何だっけあの印。山で採掘初めの儀式で見たような。……悪霊払いの印だ。
「ちょっとおい、待てよ」
追いかけようとすると道ゆく人々が顔をしかめて過剰に広く道をあけた。なんだよ、と顔を向けると目を伏せて決して合わせないようにする。一歩近づくと二歩下がる。露店の通りにさしかかった所では生卵や腐った野菜が飛んできて上着や髪を汚した。
「何するんだ! いたずらじゃすまねえぞおい!」
声を張り上げると近くにいる人がみな耳を塞ぎ悪霊払いのまじないが合唱される。一歩進めば商いの場を穢すなと罵声がとぶ。
ようやく道具街に入り、父の店に着いた。露店街の連中が追って来ていないのを確認してほっと胸をなでおろす。
今朝はずいぶんと冷えている。手がかじかんだのか袋から魔具を取り出す兄の手つきが緩慢で頼りなく、小型魔銃を取り落としそうになった。アスは横からさっと手をだして受け止め、手伝う、と他の袋を手に取った。
「触るな泥棒!」
ドッ
一瞬聞こえた衝撃音がどこで聞こえたのかわからなかった。とにかくえぐられるような痛みが腹部にじりじりと走り始め地面に転がったまま背を丸める。もう一発同じ場所に一撃。ようやくそれが自分に突き込む音だと理解した。身をよじって次の一撃を避けようとすると今度は背中に痛みが走った。
「やめろ、オレだ、アスだ!」
「誰だそれは! 街者(バジャ)が勝手に商品を触るんじゃねえ!」
「オレは流者(ルシャ)だ! 髪と肌見りゃわかるだろ!」
「流者(ルシャ)になりすますあくどい街者(バジャ)め……! その口にどとしゃべれねえようにしてやる!」
「みんな来てくれ!この穢らわしい餓鬼がうちの商品に手を出しおった!」
父の声に反射的に顔を上げる。そこを蹴り飛ばされ、吹っ飛んで別のテントに衝突する。陳列棚を崩された鍛冶屋の店主は怒りの声をあげて手に持っていた何かをアスの腕に押し当てた。
「−−−−っ!!!」
熱い。痛い。熱い。熱い熱い痛い痛いいたいいたいいたいあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛
戸口で音がした気がしてアンペルは読みふけっていた資料から顔をあげた。ヴォルターが調査を済ませて戻ってきたのだろうか、と考えてからすぐに打ち消す。彼ならノック以前に部屋の中に直接ドロンするに決まっている。
コンコンコン
今度ははっきり聞こえた。呼び鈴ではなく戸をたたいているということは訪問者は流者(ルシャ)か。今日流者(ルシャ)と会う約束はあっただろうか。
ばんばんばんばんばん
いい加減うるさくなってきたのでとりあえず思考停止で玄関に向かう。ドアを開けると体当たりしようとしていた少年が勢い余って転がり込んできた。
「アス君?」
「アン……ペル……さん……」
見上げてきた目に一瞬息をのむ。つい昨日見たやんちゃそうな強い光はその瞳には無く、見開いた目は焦点が定まらないまま右往左往していた。見れば服はズタズタ、体のあちこちにあざが浮き浅い切り傷が走っている。さらに左腕はひどい水ぶくれで腫れ上がっていた。
「入れ。すぐに手当てする」
半ばひきずりこむようにアスを招き入れて棚から治療道具を出す。あざには湿布、切り傷には絆創膏で半日もすれば元通りになるが火傷についてはそうもいかない。スプレー式の消炎魔具はヴォルターがやかんをひっくりかえした時に使い切ってしまって手持ちがなかった。とりあえず状態を見ようと腕をつかむとぐにゃりと嫌な感触。折れている。
さっきからやたらと背をまるめて腹部をおさえる仕草も気になる。少し迷ってから内視眼鏡(エンドスコープ)にかけかえて確認し、薬をのませて処置した。かなりの大魔力なので魔力監視に引っかからなければいいが。
「……何があった?」
服を着替えさせて落ち着いたのを見計らって声をかける。アスはそれに答えず目をふせてしまう。食べ物で釣ってみようとラスクと紅茶を出すと飛びつくようにかぶりついた。
「うまいか」
「うん。……このラスクが特に」
「わかるか?それはこの前教えた店のラスクでな。全粒粉の白パンをよく焼いて……」
「あーはいはい」
バターのこだわりから砂糖の産地までまだまだいくらでも伝えるべき魅力が詰まっているのだが昨日も最後まで聞いてもらえなかったので断念する。次はチョコレートの話にでも変えてみるべきかもしれない。
「……流者(ルシャ)の街から追い出された」
菓子袋をあさる手が止まった。
「流者(ルシャ)のふりした街者(バジャ)だって、父さんが周りの人をあおって、みんな穢らわしいとか言って悪霊扱いして」
アスはうつむいてソファの上で膝をかかえた。アンペルはそれを見つめて唇をかんだ。事態は予想以上に早く進行しているようだ。こちらも早く手を打たなければ。
ポケットから円盤(ハンドル)を取り出す。それと菓子袋をお供にアスが座るソファに座った。振動に驚いたアスが顔を上げると同時にソファが床から浮き上がる。
「わっわっわっ……」
「動くな。これはバランスをくずしやすい」
円盤表面のボタンをいくつか押すとソファは器用に部屋の調度品をよけて階段へ移動して二階へ上がり、開いた窓から横向きに外に出た。それから自動操縦に切り替えるとゆっくりと前へ加速していく。
「これも魔具かよ!」
「東部の民間伝承を魔具に応用してみたそうだ。もっともあれは絨毯だが」
空中は地上よりも寒く、しばらくすると手がかじかんできた。あいにく手袋を忘れてきたので息をふきかけ、さすってほぐす。
「やっほアンペルっ!」
キッ
いきなり眼前にヴォルターが現れて思わず緊急停止ボタンを強打してしまった。運転手であるアンペルはソファとリンクしている操縦盤のおかげで落下をまぬがれたが、アスは慣性の法則に従いそのまますごい声をあげながらふっ飛んでいく。
「……何だ、ヴォルター。調査は終わったのか」
「……先に同乗者回収っ!」
ソファを急発進させ落ちていく���スを追う。最終的には屋根の上に墜落する直前にヴォルターが持っていた容疑者捕獲網でなんとか回収。
「てめおま何いきなり死ぬかと思ったぞおい!」
さっきの落ち込みはどこへ行ったやら眉をつりあげてぎゃんぎゃんわめくアスの相手をお前のせいだと押し付けておいてヴォルターが持ってきた資料に目を通す。
「アス君。セレスト・クロンという男が最初に来た時の店主とのやりとりを知っているか?」
「あ? ああ。あの野郎、何かごっつい魔具を買おうとしてて、父さんは証明証が無いと駄目だと言ったんだ。そこからもめて」
やはりそうか。
眼下に広がっていた街がとぎれ、代わりに水が広がる。アスがこれが海か!と興奮して叫んでいるが残念、湖だ。湖のほぼ中央に城がにょっきり生えており、アンペルはそれめがけてハンドルを切った。
「アス君。キミが会ったセレスト・クロンは偽物だ」
「は?」
「本名ロード・スレイバー。首都(キャピタル)で有名な富豪だ。魔導師資格を持っていないから欲しい魔具が買えず業を煮やしたんだろう」
「魔導師資格?」
「魔力(マーリー)の大きさには個人差があるっ!魔力(マーリー)の特別強い奴だけがゲットできる資格っ!魔導師資格があれば自分の歳より上の魔具を買ったり使ったりできるのさっ!」
城の中庭にゆっくりと着地し、円盤にロックをかける。長方形の建物にカラフルなキノコがにょきにょき生えたような奇妙なこの建物は魔具管理署の入る魔法省本庁舎だ。
「魔具管理署調査員ジム・アンペル、ただいま戻りました」
呼び鈴に話しかけて緑の木戸を開ける。アスとヴォルターを招き入れ、会議室へ向かう。
「ああ、アンペルか。ちょうどいいところに」
会議室はちょうど会議中で並べてくっつけられたテーブルの中央に資料を山と積んでスーツの署員たちが何やら議論していた。資料の上には画面が浮かんでいて資料の一つと見られる魔具を映し出してゆっくり回転していた。
「うちの魔具だ!」
思わず出した声に署員の目がいっせいにアスに集まる。ヴォルターにアスを捕まえさせておいて席につき、配布資料にざっと目を通す。
今回の事件の発端は隣国で使用者未登録の資格必須魔具が押収されたことだ。南にあるその国と北方を行き来する魔具師系流者(ルシャ)との交易は乏しいのでこの国の人間が魔具を横流ししている可能性が高い。資格の無い者が魔具を購入・使用することはもちろん違法だ。それでここ数週間にわたり調査を続けてきたがようやく首謀者とその協力者を絞り込めたようだった。
「犯人らの目星はつきましたが、どうしますか。泳がせておいて購入現場で現行犯逮捕しますか」
「いえ、違法入手のために流者(ルシャ)差別を行って流者(ルシャ)を奴隷化しようとする動きがあります。すぐにでも手を打つべきだと思います」
会議は犯人逮捕の計画へと進み、アスとヴォルターは退出となった。
食堂でパンとスープの簡単な夕食をもらってからアスは庁舎の仮眠室に通された。固いベッドに毛布と簡素な寝床だ。自分は流者(ルシャ)のテントを追い出された身、寝床が確保できたのは幸運だった。贅沢を言えば枕が欲しいところだ。
ため息をついてアンペルからもらったミニ扇風機を手の中で転がす。暇なら魔力(マーリー)のコントロールの練習でもしておけと渡されたもので、網の中に回転羽が入った赤子用玩具のガラガラのような形をしている。最初は案の定大魔力(マーリー)をぶち込んで室内で竜巻を起こしてしまいひっくり返った簡易ベッドやテーブルをすべて直すはめになったが大分慣れてきた今ではテーブルの上に畳んで置いた服が吹っ飛ぶ程度でおさえられている。この数時間の成果としては上出来なんじゃないだろうか。
つまるところ眠れないのだった。窓の外は真っ暗で何も見えず壁時計はとっくに深夜をまわりもうすぐ早朝という時刻だ。
部屋の外が急に騒がしくなったのはそれから数分後だった。ばたばたと慌ただしい開閉音に、ようやくうとうとしかけていたアスは寝ぼけ眼をこすりながら起きあがり、仮眠室の外に顔を出した。
「おや、アス君。すまない、起こしてしまったかな」
「起きてた。魔具持ってみんなどうしたんだ?」
「容疑者ロード・スレイバーを発見した。今から逮捕に向かう」
署員たちがそれぞれ思い思いの装備を身につける中アンペルも魔銃や捕獲網など必要になりそうな魔具を身につける。もちろん空間転移(テレポーター)であるシルクハットも忘れずに。
「オレも行く」
「アス君はヴォルターと一緒に留守番しててくれ」
言うと思った。軽くにらむとヴォルターがひょーいと肩に乗ってきて意味ありげに超至近距離でウインクしまくってきた。うぜえ。あと重い。
「……あー……。わかったよ。大人しくしてる」
白々しく目をそらしながら言うとアンペルも
「じゃあ留守の間頼む。くれぐれもヴォルターの目を盗んで勝手に外にでることのないように」
物わかりの良い少年ですな、と他の署員が感心したようにつぶやき、シルクハットをかぶって消える。他の署員に続いてアンペルも空間転移(テレポート)した。全員が出発してしまうと日の出前の中庭は急に静かになる。
「……」
「……」
「さてアス君っ。準備準備っ」
ぴっと投げられた物を受け取ると見覚えのあるラスクだった。ヴォルターの手にはカラフルな袋。またスったのか。ありがたく頂いてから部屋着の上に支給されたコートを羽織る。
アンペルに言われたのはヴォルターの目を盗んで勝手に出るな、これだけだ。一緒に出てしまうことには全く問題ない。
空飛ぶソファはヴォルターにとっては魔力(マーリー)不足で使えなかったのでボートで湖を越えて馬車で出立した。ヴォルターはその形態上、馬を御せないので手綱はアスが握っている。
「お前の魔力(マーリー)は何のためにあるんだよ……」
「えーと、空間転移(テレポート)っ?」
ヴォルターの道案内を頼りに右へ左へ暗い森を縫うように走って行く。暗すぎてアスには何も見えないがヴォルターは双眼鏡を目にあてて的確に指示を出す。それも魔具か。森を抜けて田舎道に出た頃にはもう空が白み始めていた。もうすぐ日の出だ。
「ロード・スレイバーだっけ、あの野郎どこに居るんだって?」
「街(バージス)の北部、鐘楼付近」
そっちがあの野郎の家か。噴水広場の邸宅は他人の家だったわけだ。無関係どころか名前を騙られたという点で被害者に当たる人間の家を危うく木っ端みじんにするところだったのだと思うとアンペルたちに感謝の気持ちがちょっとわかないでもなかった。
「あ、移動したっ。そこ左に曲がって、あ、右行って」
「どっちだ!直進するぞ!」
「容疑者が空間転移(テレポート)したっ。……俺だけなら空間転移(テレポート)でついていけるのになーっ」
「……」
街に入り、噴水広場に着く。ロード・スレイバーが街じゅうを空間転移(テレポート)しまくっていて方角が定まらずそこで停車。
「……っていうか空間転移(テレポート)するんじゃ捕まえても逃げられちまうだろ」
「錨(アンカー)っていう魔具があるのさっ。さっきの網もそれっ」
言いながら積んできた荷物から弓を取り出して矢をつがえる。噴水の真上に狙いを定めて弦を引く。
ズドン
突然突き上げるような衝撃があって馬車から放り出された。驚いて逃げ出した馬に気をとられてから噴水の方をふりかえるとさっきまでちょうどヴォルターが狙っていたあたりに黒服の男が出現していた。ロード・スレイバーだ。すぐさま体勢を立て直してヴォルターは弓を引こうとする。
「危ねえっ!」
馬車が爆発して炎に包まれ、爆風で数メートル飛ばされる。
「おいヴォルター!貴様何をやっているんだ!」
どうやら最初からここに誘い込んでヴォルターが錨を撃ち込む作戦だったらしく、複数の署員がロード・スレイバーを取り囲むように現れる。しかしそれは相手にはお見通しだったようで彼ら目がけて噴水広場のあちこちから迎撃の矢が火を吹いた。矢にあたり墜落しつつ署員の一人が放った魔銃がロード・スレイバーの手をかすった。それに気をとられたところを別の署員がシルクハットに狙撃してふきとばす。
「ヴォルター、やれ!」
言われるより先にヴォルターは矢を放っていて、それは火矢ひょいひょい避けながらありえない距離を飛んでシルクハットを貫いた。その間に署員たちは次々に火矢に射落とされて着地する。どうやら火矢は浮遊魔法を無効化するものらしい。地上に何人協力者が居るのか噴水広場周辺の建物の影から水や風の塊もさっきからひゅんひゅん飛んできている。
「なーなーアンペルはっ」
飛んできた水の塊が直撃してずぶぬれになりながら近くの署員にきくと他の署員が放った錨にあたって陸路で向かっているとの返答があった。相変わらずのドジっ子め。ドジっ子は向こうも同じだったようでロード・スレイバーも協力者が放った火矢にあたって墜落しているが。
「容疑者確保っ!」
署員が声をあげて一斉に飛びかかり網を放つ。
ズッ ゴオォォォオン
大きな音をたてて噴水が爆発した。飛びかかった署員たちがふきとばされて水をかぶる。
「ははっ。ははははははははっ」
爆発の中央、噴水のあった所に男が立っていた。さりとて特徴のない、強いて言うなら高級そうな服を着ている事が特徴の男は間違いなく父の店の品物にケチをつけ強奪していったあの野郎だった。
「見ろ。やはりあの店主の言葉は嘘だったのだ。資格がなんだ、数値がなんだ。使えるじゃないか、僕にも」
男が持っているのは陶器製のつ��。もちろんただのつぼではなく魔具の一種で、アスが使おうとした缶砲台の上位互換、40+の『壷砲台』だ。男の年齢は外見からして30代前半といったところだから男の魔力(マーリー)は平均より少しは上といったところなのだろう。男はさらに広場の一角にある露店の並びを次の標的に定めて魔力(マーリー)を込める。
「馬鹿やめろ!」
止めようと飛び込もうとしたヴォルターをスーツのすそをひっぱって引き戻し、一拍遅れて発射された空気の塊がうなりをあげて飛来し着弾する。避難した露店商の代わりに露店に潜んでいた署員らが崩落する店からあたふたと逃げ出すところに水砲が襲いかかる。
「何っ!止めんなよっ」
「あの魔具は着弾点で大爆発をおこすタイプなんだよ!直撃したら怪我じゃ済まねえぞ!」
「何売ってんだお前の店っ!危なすぎっ!」
「元々は穴堀り工事の魔具なんだよ!工程について文句はあるけどとりあえず何とかしろあれ」
ピキッ
固い音がしてヴォルターが不自然につんのめり、その場に鋭い氷を残して空間転移(テレポート)した。周りを見ればさっき水をかぶっていた署員たちが氷でその場に縫い付けられて身動きできなくなっている。
「一人逃したか……。彼は火矢にあたっていなかったんだな。まあいい、これで邪魔はなくなった。さあみんな、僕らに魔具を売らない流者(ルシャ)たちを潰しに行こう。次はテント街だ。魔具師を採りに行くぞ!」
おおおおお、と広場に面した建物の窓という窓から鬨の声があがる。
「彼らに罰を!我らには魔具の自由を!」
それぞれ低級の砲撃魔具を手にした服装もバラバラな一般街者(バジャ)たちの歓声に包まれて、タイミングを見計らったように魔動車が広場に滑り込んでくる。待っていたとばかりに男はつぼを肩に担ぎあげ、
ゴン
にぶい音がして飛んできた鉄塊でつぼが粉々に砕けた。自分の肩口を見つめて呆然とする男目がけて車は突進する。
「アンペルっ!遅いっ」
魔動車に乗っているのはアンペルだった。運転士を魔銃で脅しつつもう一方の銃でロード・スレイバーに狙いを定める。
「アンペル危ねえ!」
直後車がスレイバーの協力者の集中砲撃に遭い、あっという間に煙に包まれた。駆け寄った所に空気砲をつっこまれ逸れたそれが建物にあたってバラバラと壁材が降ってくる。なんとか近づいてひしゃげた魔動車のドアに手をのばす。これは開かないかもしれないと思っているとすぐ真横にヴォルターが現れて車の一部を切り崩した。気絶している運転士をひきずりだしてさらに中をのぞくがアンペルの姿が見当たらない。
「おい、アンペル!返事しろ!」
呼びかけたが答えは無く、声に反応して飛んできた水砲が背後で破裂してずぶぬれになる。
「……相変わらず無茶苦茶っアンペルっ……!」
砂けむりの向こうに目をこらしたヴォルターがあきれたようにため息をついた。あの砲撃をどう避けたのかロード・スレイバーに肉迫し喉元に魔銃を突きつけていた。アンペルがにやりと口角を引き上げ、スレイバーはバッと飛び退る。
「お、お前なんかに……」
往生際悪くベルトに挿していた金属を構える。『自在剣』だ。剣先に灯った火で剣が鈍く光る。それをふりかざし、
「よせっ!」
叫んだのはヴォルターだった。地面に氷で繋がれたシルクハットを外そうとじたばたするがびくともしない。スレイバーは全く気に留めずそのままアンペルに飛びかかる。
ゴォッ
スレイバーが一気に火に包まれた。盛大に炎を吹き出し燃え上がる剣がぬめぬめと形態を変え使用者であるスレイバーに襲いかかる。スレイバーは慌てて剣を捨てようとするが引っ付くどころか触れている所からじわじわと浸食していく。リバウンドだ。
さっきまで署員たちを狙っていた水砲がスレイバーに集中し署員たちも噴水があった所から湧き出る水で消火にあたる。しかし自在剣の炎は使用者を包むだけでは飽き足らず水砲の魔力(マーリー)をたどって広場に面した家々へ燃え移っていく。スレイバーの協力者たちが次々に逃げ出して消火作業が止まり、火は一気に勢いを増した。熱で氷が溶けて動けるようになった署員も火や煙に巻かれて立ち往生する。
「アスっ!ぼさっとすんなっ!消火っ!」
ヴォルターがバケツに汲んだ水を手近な火にばしゃばしゃかけ始めて、はっと我に返る。だからお前の魔力(マーリー)はなんのためにあるんだ。まあ自分も他人のこと言えないけど。手の中にある魔具に目を落としてちょっとため息をつく。
「……」
ひらめいた。
「ヴォルター、ちょっとそれ貸せ」
昼前に街(バージス)の噴水広場で大規模な爆発と竜巻があり広場周辺の建物が浸水&半壊したというニュースをラジオで聞きながらアスはホットケーキを口に運んだ。噴水に爆発物でも仕掛けられたのかしら、怖いわねえとの店員の世間話を聞き流してシロップに手を伸ばす。
「美味いか?」
「美味いっていうか物珍しい。初めて食べる味だ」
アンペルの行きつけだという菓子屋、ハーミルンではホットケーキ等軽食も出していて、アスたちは昼食代わりにホットケーキを食べながら休息をとっていた。浸水被害は極局地的なもので、噴水広場に面した建物だけで済んでいたので広場からちょっと離れたこの店には全く影響はみられない。店員も客もどこか遠くで起こった超常現象のように聞き流し次に入った、街(バージス)の大富豪が逮捕されたというニュースに耳を傾ける。
「時にアス君。魔導師資格者に師事する心構えはできたか」
「……独学でも結構コントロールできるようになったし何も師事しなくても」
「どこがコントロールできてるんだっ!」
すかさずヴォルターの魔具が降ってきてゴーン、と衝撃が頭に響く。床に落ちたそれを拾ってみると木製の腕だった。何に必要と思ってこんな魔具持ち歩いてるんだ……。ご丁寧にも指を揃えてチョップの形に仕上げてある。
「……アス君。わかっているとは思うがこれはその……竜巻を起こすような魔具じゃない」
テーブルの上に置いたミニ扇風機をつつきながらアンペルが額をおさえてため息をつく。正しくは竜巻を起こせるような魔具じゃない。扇風機というからには風があたって涼しい程度に中の羽が回転するものだ。
さっきからラジオで流れている噴水広場浸水事件は実はアスが主な原因だった。広がる火事を一瞬で終わらせようと水の入ったバケツにミニ扇風機を突っ込んで思いっきり魔力(マーリー)をぶち込み洗濯器よろしく広場に巨大な水竜巻を発生させ豪快に水浸しにしたのだ。スレイバーの一味と魔具管理署署員の魔具戦を見た周辺住民が避難済みだったから良かったものの、今後何かあるたびに今回のような大掛かりなことをされてはたまらない。魔具管理署会議室では今まさに噴水広場周辺住民への手当金や建物の修復代金の予算組みが行われている最中なのだ。
「あれはさすがにやり過ぎたと思ってる。本当はこれくらい抑えられる」
と言うがそっと魔力(マーリー)を注がれたミニ扇風機は羽を高速回転させて近くにあった焼き菓子の箱をあっさり吹き飛ばした。アンペルが即座に腕を伸ばして捕まえたので店員からにらまれることは無かったが。代わりにアンペルがアスをにらみつけると不満そうに口を尖らせて目をそらせた。
「……その、魔導師資格の奴って、誰だよ」
「……私だ」
細い目でアンペルを見上げる。そういえばアンペルの家は魔具だらけだったしそのほとんどがヴォルターには扱えないほど大きな魔力(マーリー)を必要とする物だった気がするが。
「セレスト・クロンは知っているな?」
「知ってるさ。ロード・スレイバーが名前を騙った、国有数の魔導師だろ。あの野郎のことを指してるのかもしんねえけど最近は首都じゃなく街(バージス)に来てるって……」
言いながらアンペルを二度見する。まさかそんなはずは。資料はやる気無さげに棒読みしてだいたい偉そうでスイーツ好きの男が大魔導師って、……嘘だろ。だいたい魔力(マーリー)が年齢とともに強くなるものなら目の前に居るこの男は見た目まだ30にもなってないじゃないか。
「呼び方は変わらずアンペルでいい。その名前は有名すぎるのでな」
「……アンペルっ。もう隠しても無駄っ。多分」
カラン、と客の来店を知らせるベルが響き白いスーツ姿の男たちが入ってくる。店員のいらっしゃいませの言葉を無視してリーダー格らしいずんぐりとした背の低い男を先頭にまっすぐアスたちのテーブルにやって来る。
「セレスト・クロン氏。お迎えにあがりました。至急首都(キャピタル)にお戻りくださいませ」
アンペルはさっきより盛大にため息をついて頭をかいた。やっぱり内視眼鏡(エンドスコープ)なんて大魔力を使うんじゃなかった。あれを感知されたに違いない。
「首都(キャピタル)に戻られましたらひきつづき現在進行中の事業へ御尽力頂きますが、その前に魔法省からも呼び出しがございます。今回の公共建造物破壊の件、納得のいく説明を期待しておりますとのことです」
「……」
「……」
一同沈黙の後アスに視線が集まった。
何でオレなんだよと騒いで抵抗するアスをひきずってアンペルが退出し、店内に静けさが戻る。
「……また来るかねえ、アンペルさん」
「来るさっ。もう一人魔導師をつれてねっ!」
そして数年後。
大魔導師セレスト・クロンに並んでアス・フェンの名がリント国に知れ渡ることになるが、これはまた別の話。
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うん、うん、わかった、と壁に向かって繰り返す。あーもうわかったうるさいいつも同じ細かいことを何度も何度も。ちゃんとやってるから、あーもうわかったてば。ママ、いつ帰って来る? もうすぐ帰る、で通話が切れて、受話器を置きながらため息が漏れた。久しぶりに電話がつながったと思ったらこれだ。
「ママ、もうすぐ帰って来るって。」
子供部屋に声をかけると「はーい! お片づけの時間なのです!」と子供向けアニメの決めゼリフが微妙に甲高いうめき声に混ざって聞こえてきた。何事かと見に行けば床に転がったピンクうさぎのぬいぐるみがおもちゃ箱の下敷きになってバタバタもがいていた。何だうさぎか。
箱をちょっとずらしてやったが存在に気づかずチカの足が踏んづけて、ぎゃっ、と悲鳴が上がった。散らかっていたぬいぐるみやままごとセットを拾い上げてはぽんぽん玩具箱に放り込むのを眺めながら自分は勉強机に戻って数学の課題にとりかかる。あともうちょっとで解けそうなんだけど、うーん……。どこ間違えたんだろ。
「ねえちゃん読んでー。」
さっきまで数字が並んでいた場所をぬいぐるみ的なクマの絵が占領していた。チカの最近のお気に入り、「さんびきのくま」。
「自分で読みなよ。私来週テストなんだってば。そんなの読んでるヒマ無いって。」
「うー……。わかった。」
口を尖らせて部屋の隅に座り込む。自分で読むと言ったってまだ平仮名すら読めないはずなんだけどページをめくりながら一字一句間違いなく文を読み上げ始めた。全部おぼえてるのか……。内容覚えてるのに読んで何が楽しいんだ。っていうかその記憶力私に分けろ。あと声出して読まないでよ気が散るから。
書き写しミスを直してやっと最後の問題を解き終わったところでタイミングよくインターホンが鳴った。ちょっと待ってて見て来るから、と玄関に出るとガチャガチャと金属音が続いて扉が開いた。ママだ。
「ただいまあ。買い物してたらちょっと遅くなっちゃった。お腹すいたでしょ。今日はおいしいお土産があるんだよー♪」
スーパーのレジ袋二つを任されて中身を覗き見る。一つはいつも通りにんじんとかたまねぎとかその他野菜類だったけどもう一つは妙に軽くて白い四角い箱。
「ママおかえりー! おみやげ? なに、なに?」
周りを飛び回るチカを避けつつリビングのテーブルで箱をあけた。現れたのはイチゴのホールケーキ。三人用のようで一般的なホールケーキより若干小振りだがめったに我が家の食卓に載ることの無い高級品であることは間違いない。中身を確認してぃやったあ、とチカが両手をあげて万歳。
「ケーキだ! ケーキ、ケーキ!」
「飛び跳ねないの、下の人に迷惑でしょ。」
ママは舞いあがるチカに苦笑しながら他の食材を冷蔵庫に分けて入れて、さあ夕ご飯作るからね、と中華鍋を取り出した。中華! どんな高級料理だろう。
今日の夕飯は何か高級料理というわけでもなく無難に酢豚で、でもいつもは入っていないパイナップルが混入していた。豚によく合っておいしい。
「……何かいいことあったの?」
「うん! 和志が明日デートしてくれるって!」
「……よかったじゃん。」
最近喧嘩して目をあわせてくれないとか次はいつデートしてくれるんだろうとか言ってたけどいつのまにか仲直りしたらしい。
「ママ、その人と結婚するの?」
「そのつもり。明日しっかり話し合うつもり。」
新しくパパになるらしいその人は普段わりとぼけっとしてて、不器用で、でも優しくて気がまわるいい人なんだそうだ。半分どころか多分にママののろけが入っているので正確な情報じゃないだろうけどまあ悪い人ではなさそうだしうまくやっていけるんじゃないかな、と頭の隅で軽く考えて箸を置いた。
「結婚してほしくない?」
「ううん、応援する。そりゃパパのポジションに他の人が入って来るの抵抗ないってわけじゃないけど、パパポジションの人が来ればお金のこととか、色々楽になるんでしょ。何よりママの支えになる人がいつも側にいてママが幸せになってくれれば私もうれしいし。」
うえ。何か綺麗事言い過ぎて口だけ私の顔からがっぽりはずれてどっか遠くでぺちゃくちゃしゃべってる感覚。嘘は言ってないけど本音を省略しまくったらこんなクサいセリフになるのか。うええええ……。
「そっか、ありがとう。」
はにかんで照れたように顔をふせながらケーキを切り分けて、いつも苦労かけてごめんね、もうちょっと我慢してね、と笑った。そのまま流れで始まったのろけ話を流れで右から左に聞き流してフォークを手に取る。自分のケーキを細断して大事に大事に味わうチカの隣、空っぽの皿の前でピンクうさぎは不満そうにそっぽを向いていた。
「桜庭(さくらば)、最近親どう」
四限の数学の後、課題ノートを半分運びながら多田がきいてきた。
「どうって、なに。別にふつうだよ��何いきなり。」
「いや、俺の知り合い桜庭ん家近くらしいんだけどさ、夜遅くに結構その……さわいでる? っていうか」
「わ、ごめん聞こえてる? 近所迷惑になってるって言っとく。ありがと、教えてくれて。」
他人ん家の事情に探り入れてくんなうっとーしー、このまま嫌な話に移行したらノート全部持たすぞとか思いつつ職員室がすぐ近くであることに感謝する。
何が不満なのか多田は眉間にしわを寄せて職員室のを示すプレートを睨み上げて数秒黙ってから中に入って行った。先生はまだ戻っていなかったのでデスクに積んでおく。他の先生に言づてを頼んで職員室を出ると先に出た多田がまだ待っていた。そんな気をつかわなくてもいいのに。何やら周囲を気にしているので時折目を落とすのにつられて手元をみるとCMでよく見るようなタッチパネル式情報端末を握っていた。校則違反じゃんか。それも職員室前で。没収くらっても知らないぞ。
「あ……のさ、メアド教えてくれん?」
「何唐突に。私携帯持ってないんだけど。」
「マジで!? なんで? 親厳しんか?」
「前住んでた所立地のせいで電波悪くて。そのまままだ買ってもらってない。」
そっかー、と目に見えて落胆してスマホをポケットに滑り込ませる。そのポケットをさぐってメモ帳を取り出して何か書き付け始めた。……早く携帯買ってもらわないとマズいな。
どうやらこの学校では携帯は日常生活必須アイテムのようで転校初日にもクラスの女子からライン交換しようとかツイッターのアカウントはとかという話になって、カナが携帯を持っていないことを知ると人だかりは一気にはけてしまった。今更手に入れた所で手遅れかもしれない。
「あの、これ」
メモ用紙を一枚破って渡された。11ケタのアラビア数字。
「家電(いえでん)はあるんだろ。何かあったらいつでも連絡して」
「ありがと。……今はいいや。」
とりあえず適当にポケットにしまっておいて、昼食を買いに多田と別れた。
「ねー、“パパ”ってどんな感じ?」
「どんなって。……そっか、チカはまだ小さかったもんね。」
ウサギとクマとブタという、どう考えても弱肉強食が成立しそうな組み合わせで家族ごっこをするチカの頭をなんとなくなでる。ママ役をわりあてられたはずのピンクウサギが妙にいばりくさってクマに家事を押し付けまくっていた。クマとブタはされるがままゆっさゆっさとゆられている。
「ええと、いつも仕事で遅くて、でも土日はたいてい家に居て遊んでくれて……。」
どんなって言われると意外と単語が出て来ない。優しかったり厳しかったりちょっとお茶目だったり、何にせよカナにとってもパパがいたのはもう五年も前の話で、早くも記憶が曖昧になっている気がする。パパはそこまでスーパー善い人だったか。たまに理不尽に不機嫌になって怒鳴り散らすようなことはなかっただろうか。そっちの方が人間らしくて、自分の近くに居た人という感じがする。
鍋の中でとろけていたカレールゥがとろぷつと湯気を立て始めた。チカにご飯をよそわせてその上に解凍した冷凍カレーをぶっかける。今日はママがいないからルゥが二割増だ。リビングのテーブルに持って行くとすでにスプーンも並べられていた。行儀よくテーブル上に座らされたウサギの前にもプラスチック製の先割れスプーンが転がっていた。そんな期待の目で見られてもウサギの分なんか用意してないし。
席についてそのまま食事を始めると「ねえちゃんいただきますは?」と手を合わせた妹に睨まれた。うるさいなあ、とスプーンを口に加えたままふがふがと手を合わせると「口にもの入れたまましゃべらない!」とすかさず声が飛んだ。あーもう、どこのオカンだあんたは。ウサギも馬鹿笑いすんな……。年下オカンに叱られ続けるのも癪なので素直に従って食事を続行する。
「あー、明日も雨だよー……。」
画面いっぱいに並んだ傘マークにチカが肩を落とした。
「何かあったっけ明日。」
「ゆうちゃん家、明日旅行に行くんだって。」
ゆうちゃんって誰だ。知り合いと親戚の名前を脳内検索していつもチカを預けているおばさんの名前がヒットした。いい歳して「ゆうちゃん」て。
「明日土曜だからチカは家でしょ?」
「おみあげ買ってきてくれるって言ってたよ。」
「おみやげね。……チカ、今日もデザートあるよ。」
「え、本当!」
わー、小学生って単純だな。いや、もうすぐ小学生であって正確には小学生ではないのだけれど。昨夜うきうき気分のママののろけ話を一通り聞かされた後に学校帰りにデザート買って帰りなさいと500円玉を渡されたのだ。ケーキは昨日食べたのでプリン二つ、240円なり。残りはどうしようかなー。
食後のプリンを平らげて、迷いつつも電話を手にとった。邪魔しちゃうかな、邪魔しちゃったら悪いなと思いながら押し慣れた番号にかける。ちょっと遅れてぷるる、と鳴り始める。
15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
まだ今からつながるような気分でしばらく固まって、受話器をおろした。期待していたわけじゃないけれど気がついたらため息がもれている。いやホント、期待していたわけじゃないけれど。
「またマンマ?」
「ママ、ね。」
「あの人ママじゃないよ、だってチカのこと知夏って呼ぶもん。ママはチカのこと、ちぃちゃんって呼ぶんだよ。」
畳部屋で布団を敷いていたはずのチカが右手に持っているのは積み木だった。遊んでないで皿洗い手伝ってよ。そういう自分だって皿洗いほっぽって電話かけてたけど。チカはしばらくその角棒を手の中でもてあそんでから耳に当てて「もしもしママー?」とかやりはじめた。ママにかけていると言う設定なのに相手はもしもしこちらウチュウジンですと返事して、「今日ねーチカねーつみきしてあそんだのー。」と話し出す。見ているとピンクうさぎは困ったようにえーとママを誘拐したから身代金をとかぼそぼそさらりと学前児童相手にとんでもないことを口走りやがったのでじろりとにらむと、ウサギはおどけるように軽く肩をすくめてみせた。
ジリリリ、と耳障りなアラームが鳴った。
「お風呂お湯入ったって。チカ先入っていいよ。」
「えー。一緒に入るー。」
しょうがないなとタンスからパジャマを引っ張り出す。自分がいつから一人で風呂に入ってたのか覚えが無いけどそろそろ一人で入ってもいいんじゃないだろうか。
「ねー、今日ママいつ帰って来る?」
「今日はデートだから遅いよ多分。……チカが寝た後じゃない?」
ピン ポーン
ちょうどインターホンが鳴って二人で顔を見合わせた。ママが帰って来るには早すぎるから、お客さんかも。でも夜中に、誰だろ? チカが目をくりくりさせて「パパだったりして。」とにんまりしてみせる。
しばらく間があってからガチャガチャと金属音を立てて鍵がくるりと回る。あーなんだママか。思ったより早かっ
一瞬で視界がぶっとんで頭の中に思考が戻ってきた時にはリビングの床に転がっていた。ぎゃあぎゃあとチカの泣き声が響いている。体を起こすと手に革ひもが触れた。ママの黒バックだ。左目のあたりが食い込むようにズキズキと熱を持っていて視界が悪い。黒バックから水筒が顔をのぞかせていた。アレか。
「ねーちゃ、ねえちゃんっ。」
アレに追われてチカが畳部屋から転がり込んできた。その体をストッキングの脚が蹴り飛ばして流しに衝突しガシャンと音が立つ。
「なんでてめえら片付け済んで無いんだ! 今から先に風呂だってか? やること、すませろって、いつもいってるよ、なっ?」
ガスガスと蹴りつけられてチカがうめき声をあげる。その口がねーちゃんデンワ、と動いた。
そうだ電話。早く電話かけないと。ママに。早く帰って来てって。
固定電話に飛びついて聞き慣れたプッシュ音で目的の番号を呼び出す。途中から、二重に聞こえ始めてチカを蹴る音がやみ、アレが部屋を出て行った。
ぷつり。電話がつながる音。
『はい桜庭です』
落ちついたママの声。玄関の方からも聞こえるのでチカが不思議そうに覗き込もうとして、あわてて引き止める。
「ま…ママ?」
電話の向こうのこの人もアレに成り代わられているんじゃないかと急に不安になって声が小さくなる。しかし返って来たのはいつもの穏やかな声。
『どうしたの佳那。ちゃんと夕飯は食べた?』
「うん。……冷凍カレー。デザートはプリンだったよ。」
ちがうちがう、そんな日常的な穏やかな話をしたいんじゃなくて、でもこうやって時間を稼いでたらママが戻って来るかもしれないし。いつもそうだし。今からお風呂に入る所だったとか、宿題で一個わからない所があるから後で教えてほしいとか、どれから話せばママが戻って来るだろう。
『佳那。いろいろ話したいみたいだけどちょっと電池が……』
「待ってママ。」
電池切れの警報が聞こえ始め電話を切られそうになってあわてて受話器を耳に押し付ける。
「ママ、いつ帰って来る?」
ぷつ、ツー、ツー、ツー……
通話が切れて、呆然と電話を見つめる。誰かがこっちに戻って来る。チカがカナの脚もとまで這ってきていてすがりついた。反射的に抱きしめて玄関と反対側へひきずって移動させ、覚悟をきめてリビング入り口に立った人影を振り向く。真後ろ、目と鼻の先にいた。
「まーたいたずら電話か? ああ?」
髪をつかんで揺さぶられてずきんと左目が痛み、電話を取り落とした。
「受話器を投げるな! 物は大事に使えって言ってんだろ!」
耳元で大音量がひびいてクラクラした所で腹に衝撃。うずくまったら今度は顔を何かにぶつけた。ママによく似た声が耳から大音量で突入してわんわんと反響している。何言ってるかわかんない、わかんない。どうすればいいんだよ、どうすれば、どうすれば静かになるんだよ。
至近距離で怒鳴るアレはなぜか怒った顔というよりも泣いていて、びっくりしてよく確認しようとしたら殴られてそれどころではなかった。
「お前らが、いるからっ……お前らがいるからっ……」
腹にぐりぐりと拳を突き込まれて息がつまる。うめいたら平手がとんできて頬がひりひりした。鼻がくっつきそうなほど顔が近づいて来る。
「いいか? これは私が悪いんじゃないの。お前らがいるから悪いのよ。和志ね、自分の子とお前らと平等に見れる気がしないからお前らをどっかに預けろっていうのよ」
「預けたら、いいじゃん……。」
平手。さらに首に手が伸びてきた。なんとか頭をずらして避けると腹に拳がさらに食い込んだ。
「お前らを育てるために和志に頼りたいのに、預けられるわけないじゃない」
「預けたら他の子、育てられるんでしょ……。」
また首。今度は避けられずに徐々に息がつまる。
「ねえちゃんこっち!」
はっと顔をあげると椅子を移動して電話前から玄関へ直通路ができていた。玄関をチカが開け放ち、外廊下の灯りが遠いのに妙に目にまぶしくうつった。チカの手ににぎられたウサギもにげろ!と叫んでいる。
体をひねって抜け出し、一直線に玄関へ。風呂場前の水浸しの床を飛び越え脱ぎ捨てられた上着を踏んづけ裸足のままで。思い切りドアを閉めて階段を駆け下りる。チカを追い抜き後ろを振り返る。閉まったドアの向こうから「お湯出しっ放しじゃねえか何やってやがんだ!」と怒声がずいぶんとはっきり聞こえた。どうやらすぐには追って来ない。今のうちに距離をかせがないと。
「チカ、早く。」
「へ、わ。」
同じように振り向きながら降りていたチカが続きの段を踏み外した。くるんと体が回転し、ゴン、ドンと転がり落ちる。
「チカ!」
��地面に激突する前に何とかキャッチし抱きかかえてとにかく方向も考えずに走り出した。
逃げなきゃ。早く。どこかへ。どこへ? 遠いところ。なるべく、遠い所。
走っていたら途中バス停を見かけた。それは道路を挟んだ向こう岸だったのでそのまま走り続けていたらその先のバス停にちょうどバスが到着した所だった。なんとか発車前に追いついて乗り込む。お金あったっけ。ある、デザート買った残り。ポケットの中に入ってる。
ぐっしょり濡れ鼠の姿を見て同乗する大人たちが眉をひそめる。おばあさんが何か言いかけたのでにらみつけて黙らせた。何も聞かないで。放っといて。説明するのも、なんかもう面倒くさい。
「ねえちゃん、どこ行くの?」
チカがおろして、と体をゆらしてきいてきた。よかった、無事みたいだ。駅、とりあえずそう答える。駅まで行けば色んな所に行けるはず。そこから、えっと、おばあちゃん家に行こう。最後に行ったのはずいぶん前だし降りる駅もわからないけど、まあどうせお金十分になくて誰かの車にでも乗せてもらうことになるだろうからその人が地名を知ってれば大丈夫。だからとりあえず駅行って……。
駄目だ。ポケットの中でちゃりんと小銭が音をたてた。この一年バスに乗ってなかったから忘れていたが自分は今中学生。もう大人料金で、だから駅までも行けない。運賃板に目を走らせると一区間分にしかならなかった。
ボタンを押して停まった停留所ですいません降りますと運賃箱に料金を放り込んでさささと降りた。運転士が何か言いたげな顔をしたけどゆっくり話してる場合じゃないし、無視。アスファルトの上の小石が足の裏を刺した。
「ねえちゃん、ここ駅じゃないよ。」
「ごめんお金足りないから駅まで行けない。……とりあえず、どっか見つからない所で休もう。」
雨粒が視界をさえぎってうっとうしい。左目の傷は切れているのか雨がしみてズキズキにヒリヒリが加わり始めた。チカも頬に傷を作って雨で薄まった血が頬をつたっていた。チカはその傷を気にするよりも眠くてたまらないようで歩きながらうつらうつらしている。そういえばいつもならもう寝ている時間だ。
おぶさって、と背中を向けてチカをおんぶして、目についた公園に入る。運動公園とかいう無駄に広そうな所。フェンスを回り道して中に入るとずぶりと泥で足が滑って転びそうになり、あわててチカを背負い直して体勢を整えた。
真っ暗な遊歩道を歩くうちにどんどん雨で体が濡れて来た。髪が頬にはりついて、セーターもシャツも通り抜けて水がしみ込んできて寒い。どこか、屋根のある所。後、明るい所。ゆるやかなカーブをまがりベンチの横を通り過ぎる。全速力で走ってきたせいか、足が重くてだるかった。さっきのベンチに座ってしまえば良かった。今から戻って座ろうか。足が止まる。
ペチャ、とチカを支える腕に何かが触れた。この感じ、多分ピンクうさぎだ。もうちょっと頑張れ、な感じでベチャ、ベチャ、と優しくたたく。運んでんのは私であってウサギは乗ってるだけじゃないかとちょっとイラッとしつつその苛立ちを利用して足を前にだす。
どうしてこうなっちゃったんだろう。皿洗いを後回しにしたから? 違う。お風呂に入るのを優先したから? 多分違う。だってアレはその時もう家にいた。パパが死んだから? 違う。アレが家に来るようになったのは最近だ。じゃあ、なんで?
自分達が、いたから? 家を飛び出す前にアレが口走った言葉を反芻する。数日前に「ママは二人がだーいすき。だから生活は大変だけど、一緒に生きて行こうね」と笑っていたのは、ママだったはずで、だからアレはママじゃない。アレは、ママじゃない。
ママ、戻って来るかな。戻ってきたら私たちがいないことに気がついて探してくれるだろうか。それとももう、ママは。
ぼったん。粘った液体がタイヤから垂れた。つり下げられた白バンに絡み付いた藻は緑を通り越してドス黒く、ぼったん、ぼったんとドブ水を垂らしている。
ぺろーん、と軽快なテロップ音が鳴り、視界の上下に文字が現れる。どこかでアナウンサーが地域のイベント紹介をする時と同じく興味無さげな他人事口調で淡々と何かを言っている。シナイのノウドウでジコがアリマシタ。ウンテンしていたダンセイのシボウがカクニンサレマシタ。ケイサツは……サンとミてミモトのカクニンを……。
……はやくかわれ
民放ならCMでもいい。早く次のニュースにかわって。次のVTRにうつって。
やがて音声が次のニュースに切り替わり、アナウンサーの声が多少和やかになっても画面は切り替わらないままで、
ぼったん。ぼったん。
したたる水音がだんだんと近くなって眼前にせまり、ぴちゃっと一滴、冷たくはねた。
ぴちゃっ、と頬に何か触れて、目が覚めた。また一滴落ちてきて見上げると天井から水が降ってきていた。雨漏りしているみたいだ。外の雨はますます激しさを増し、ボックスの灯りに照らされた路面でびちびちと白く跳ねていた。アナログチャネルの雑音のような雨音がガラス一枚隔てた向こうからくぐもって聞こえる。
チカはカナに抱きついたまますやすやと寝息を立てていた。階段から落ちたときについたのだろう傷はもうふさがっていて、かさぶたの近くにあざが浮いていた。右手に握ったままのウサギが首をしめられる形になっていて、へるぷみーとじたばたしていた。苦しいわけないだろ……。
目の前に設置された緑の電話機をぼんやり眺める。今じゃ街では絶滅危惧種なこれが公園の敷地内に設置されていたのはラッキーだった。でもいつまでもここに居るわけにもいかない。狭いおかげでお互いの体温があんまり逃げなくて外よりは暖かいが背中にあたるガラスからその冷たさがだんだんしみこんできている。
これからどうすればいいんだろう。とりあえずばあちゃんの所へって出て来たけど既にたどり着ける気がしない。手元に残った2枚の10円玉ではこれ以上もうどこにも行けない。深夜という時間帯と、場所が場所なだけあって近くを誰かが通る気配もなく、車に乗せてってもらうという選択肢も無い。
ぽん。ウサギがチカのひたいに手をあてた。つられてカナも手をのばしてそのいつもより高い温度に気がつく。雨で冷えたのかもしれない。この状態じゃ外に出て人を探すわけにもいかない。ウサギがちょっとやすめと袖をひっぱる。一緒にいてやるから、やすめって。
「あんたじゃチカの熱さげれないじゃん。」
そうだ、ぼくはもう二人をまもれない。でもいつでも一緒にいるから。チカがカナにひっついているように、カナもぼくにひっついていいんだ。だいたいそんなことを喋りながら小さな手で鼻をなでなでして、カナがついくしゃみをするとガラスにぶつかって床に落ちた。
あわてて拾い上げたけど何か違う気がした。耳をつまんだのに文句を言わない。ちょっと、ねえ起きてる? とボタンの目のあたりをデコピンしてみたり、ゆさゆさ揺さぶってみても反応がない。当たり前のようにただのぬいぐるみがカナの指先でぷらぷら揺れているだけだった。
どうしよう。誰か、誰か。
ウサギがしゃべらなくなっちゃった。誰に言えばなおしてくれるんだろうと考えてからまず誰に言ってもまともに対応してくれる人が居ないことに気がついた。とにかく今は、誰かに、アレ以外の人に助けてもらわなくちゃ。
目の前の電話機のコイン投入口に一枚放り込んで押し慣れた番号を呼び出す。息を潜めて待っているとだんだん頭がふらふらしてきた。倒れまいと電話機にしがみつき、コール音を数える。
15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
どういう仕様なのか投入したコインは回収されてしまって戻って来ず、手元には10円玉が一枚だけ残った。後一回。ママの携帯にかけて、出なかったらこれで終わりだ。もう一回かけてつながる保証は無い。でも他にかけるところなんて……。
ふと思い出してポケットをさぐる。数学の課題を出しに行った帰りにもらったメモがくしゃくしゃに突っ込まれていた。これで、誰も出なかったらもう誰も迎えに来ない。この辺りを誰かが通るまでは気づいてももらえない。反応しないウサギのぬいぐるみをぎゅうっとにぎりしめて、書いてある番号をひとつひとつ、押して行く。
プルルルルルル、プルルルルルルルル、プルルルルルルルルル、……。
一回、二回、三回……。ああ、駄目かも。夜遅いもんなあ、寝てるよね。五回目。
ガチャっ。
「はい。多田です」
出た。びっくりしてしばらく沈黙してあわてて桜庭です、えとあの、12ルームの、と付け加える。同時に今硬貨を入れたばかりなのに電光表示の0が点滅を始めた。やばい、こんな深夜にとか言ってるけどそれどころじゃ無い。何言えば、とりあえず助けてって、あと場所伝えなきゃ。
「あのっ。」
ぷつっ。ツー、ツー、ツー。
電話はあっさり途切れて、ついに足の力が抜け、崩れ落ちるように座り込んだ。同時に手から受話器がすっぽぬけ、顔面すれすれを通過してゆらゆらとぶら下がる。
雨音がどこか遠くで聞こえている。電灯がジジリと音をたて、時折風がびょうとふく。
チカをウサギと一緒に抱きかかえて、ぷらんと垂れた受話器に手をのばした。耳にあてても何も聞こえない。
「もしもしママ?」
聞こえない。
「ねえママ、迎えにきて。」
応えは無い。わかってる。無音の電話機の向こうが、ママにつながっていたらと想像する。大丈夫、私にはパパがいつもついてるから、待っていられる。だから迎えに来て。
待ってるから。
「ねえママ。今日はいつ帰って来る?」
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Photo
だから僕は、旅に出た。
ゴト、タタンと乱暴な振動を背中に感じながら過ぎ去る風景を横目に眺める。流れて行く田園風景が夏の日差しにぎらりと照らされじりじりと僕を焼く。
「まもなく●●、●●です。お出口は右側です。●●から先、○○方面へお越しのお客様は……」
列車は徐々に速度を落として田舎の駅に滑り込み、席に座っていた乗客たちが待ちきれないようにそれぞれの荷物を抱えて立ち上がり、ドアの周りに集結する。ホームに停まった列車のドアが開くなり「同じホームの向かい側、2番ホーム」目がけて手荷物満載のくせにみんな短距離猛ダッシュ椅子取り合戦で乗り換え電車になだれ込む。スーツケースを引く馬面、登山リュックを背負ったニワトリ、それについていくヤギ。僕にはそんなふうにしか見えないやつらが我先に席につき、少し落ち着いた頃にようやく列車は走り出す。座り損ねたウシがオロオロと通路を行ったり来たりするのを横目に僕はイヤホンを耳にかけた。
次に停まった駅で入ってきた昆虫三体がドア付近で、つまり僕の近くでベラベラとうるさくしゃべり始めた。ケバいくらいに厚化粧したカマキリとバッタ二種。似合わねーよ気持ち悪い。足下に適当に放り出されていたそいつらの鞄の一つを軽く蹴っ飛ばしてやったら持ち主だったらしいカマキリが隣のショウリョウバッタと触覚をゆらしてこっちを睨み、鞄を移動させて、また何事も無かったようにベラベラとしゃべり始めた。イヤホンから頭を刺す音楽は、流行っているからと入れただけの興味も無い曲で、だからわざわざ外の騒音に腹をたてる理由は無かった。
列車は田舎を抜け、やがて都市部に入る。うるさかった虫は列車を出て行き、代わりにそれが生き物なのかも怪しい異形のモノたちが乗り込んでくる。紫色のスライムのように顔がぬめぬめとくずれたヒト、頭が真っ白なA4コピー用紙のヒト、水色でのっぺらぼうで、半透明になっているヒト。それぞれスーツに身をつつみ、空いている席にぐったりともたれ込む。
頭では、わかっているのだ。ドアの閉まる音を背面に、車内放送を聞き流し、僕は繰り返す。わかっている。目の前のモノはヒトであって、決して異形でも虫でも動物でも無い。そう見えているだけだ、そう見ているだけだ。目の前のモノをじっと凝視して、中年のおっさんの疲れた横顔がうっすら見えたがすぐに黄色く泡立つ液体に覆われて見えなくなった。酒臭い。
列車が都市を離れ、再び山道にさしかかると異形たちは一人、また一人とクマや蜂に姿を変え、日が落ちる頃にはみんな降りていた。僕はまた一つ乗り継いで、今度は座って曲に耳を傾ける。良さがまるでわからないが繰り返し聞こえるサビのメロディーは、悪くない気がした。
教室の夢を見た。いつだったか、中三の頃だったか。「高瀬舟」のラストシーンが黒板に描かれていた。病気で働けなくなった弟が、兄にこれ以上迷惑をかけぬようにと自害を試みる。ところが剃刀を首に刺したまま死に切れず、苦しい、殺してくれと頼まれ兄は剃刀を引いた。授業の主題は、この兄の行動が島流しの刑を受けるほどのものだろうか考えてみよう、確かそんな道徳みたいなものだった。殺人罪として裁きを受けるべきだと考えるヒトは手を挙げて、と国語教師が言った時、僕以外にも少数だったが数人が手を挙げていた。しかしクラスのリーダー格の女子が、彼は弟を助けるためだったのだから単純に殺人罪ではおかしいと言いだすと、みなそうだそうだとそれが答えだとばかりに口をそろえ、私もそう思いますと次々に似たような意見が教室に溢れかえった。国語教師はどの意見も否定せず、ただ感心したようにリーダー格の女子の演説に耳を傾けていた。気がつけば誰ひとり残らず同じ意見を口にし、同調し、その意見をもった理由を語り合う会になっていた。
僕はいまだに意見を切り替えられず、だってそれでは、ヒトを殺して「そのヒトが殺してくれといったんだ」で無罪になるってことじゃないか、と眉をひそめていた。意見を言う順番が僕に回ってきたとき、僕の舌は嘘を吐けずに思ったままをしゃべってしまった。教室が静まり返り、異質なものを見るような目が集まってから、次のヒトに順番は移った。
消えてしまいたかった。まるで赤く華やかな金魚の群れに迷い込んだ黒い小魚のような、居るだけで悪目立ちしているような、ああ、どうして僕はみんなと同じように考えられないんだろう。みんなは同じ方向を向いて、同じ流れに身をまかせて、パッチリ目を開いてそれが当たり前のように同じ顔をして口をパクパクさせている。誰かが言った意見が正解。誰かが言った言葉は真理。教室にはその言葉が溢れかえっているから、ただ口をパクパクさせておけばそれが自分の言葉になる。
流れなんて見つからない。口をパクパクさせても言葉がそこから出て来ない。僕にはきっと、この教室で泳ぐためのエラが無いのだ。流れに会わせるヒレも無いのだ。スイミーにすらなれない僕にこの教室で居場所があるだろうか。居る価値があるだろうか。むしろみんなが泳ぐのを邪魔しないように、居なくなるべきではないのか。小さく挙手をしてトイレに行く許可を取り、僕は水槽を出た。
「間もなく終点」のアナウンスに目を覚まし、凝った肩をほぐしながら立ち上がる。荷物は特に無いからスマホをポケットに突っ込みドア前に立つ。時刻は日付をまたいだ頃。おそらくこれがこの駅の最終列車だろう。代わりにポケットから出した切符を見下ろす。これは流行っているゲームを買うために貯めていたこづかいで買ったものだ。そのゲームさえやっていれば、同じ水槽で同じ方向をむいて口をパクパクしていられると思っていた。けれど魚になれない僕にはもう意味も無いものだった。フクロウや蛙の頭をしたヒトが同じドア前に並んだ。
ヒトが、人に見えるところへ。
明日乗る列車は、僕をそこへ連れて行ってくれるだろうか。
僕はそこに、居られるだろうか。
駅を出て、目についたカラオケボックスへ向かう時、ビルに映った僕の背中でパチャリと背びれが雨を弾いた。
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