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akyskaa · 9 months
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その一縷の違和感は、きっとどうしようもなく正しくて
映画『PERFECT DAYS』の一部ネタバレを含むので、鑑賞前で鑑賞予定がある方は読むのをお控えくださいませ。
映画『PERFECT DAYS』を観た。東京の公衆トイレ掃除を仕事にする、とある男の何気ない日常を描く物語だ。
男の名はヒラヤマと言い、彼は毎日決まった時間に起き、髭を剃り、歯を磨き、紅葉の枝に水をやって、仕事に出かけ、フィルムで美しい木漏れ日の写真を撮り、決まった銭湯に出かけ、決まった酒屋で酒を飲み、帰宅して本を読んで就寝する。そんなヒラヤマの何気ない毎日の中に、さまざまな人との出会いと別れが交差していく様が描かれる。
映画が示唆するのは言わずもがな「あたりまえの日々の中に潜むささやかな幸せたち」で、どれだけ似たような日々を送っていたとしても二度として同じ日など存在しないこと、私たちは多くを持たない何気ない日常でも幸せに生きていけるのだということ、さらには私たちがどれだけ唯一無二な存在であるかを教えてくれる。
この映画を観て、すばらしいなと思った。キャッチコピーの通り、こんなふうに生きていけたらな、とも思った。でも、同時に感じたのは、「一縷の違和感」だった。それは、あまりにも完璧すぎるヒラヤマのルーティーンと、時折ちらっと見え隠れするヒラヤマの煩悩(アオイヤマダ演じるアヤちゃんに頬にキスをされた後の立ち振る舞いだとか、選ぶ店のチョイスがあまりにも粋すぎることとか)から。この男は、なぜ、こんな人生を歩んでいるのだろう。何か理由があるはずだ。あまりに完璧なルーティーンとその僅かに見せる煩悩がどうしても結びつかなくて、そう思わざるを得なかった。
その違和感が確信に変わったのが、生き別れた実の妹との再会するあのシーンだ。煌びやかな洋服に身を包まれた彼女は、「お父さんも今は変わったのよ」などと、どうやらヒラヤマが家族とうまくいかなかったであろうことを示唆する。きっと、ヒラヤマの家庭はとても裕福で、でも何か衝突があったのだろう、そしてそのことが彼の運命を変えてしまったのだろう、と思った。
実際に、観賞後にヴィム・ヴェンダース監督のインタビュー動画を見ると、ヒラヤマは「昔はサラリーマンとして裕福に生きていた」設定であることを明かしていた。やはりそうなのか。これは、一度煩悩にまみれた経験のあるヒラヤマという男の、出家の物語なのか。
そう考えると、本作のキャッチコピーである「こんなふうに生きていけたなら」という言葉に対する見方もどんどんと変わってくる。これは、ありきたりに考えると「映画を観た人がヒラヤマに対して抱く感想」としての言葉のように思えるけれど、実はこれは、ヒラヤマが、ヒラヤマ自身に語りかけている言葉に他ならないのではないかと思うのだ。
捨てたいけれど捨てきれない煩悩。ヒラヤマは、自分を律するために、あえて完璧なルーティーンを自分に課している。その中に確かな幸せも感じる、仕事や木々の光にも救われている、けれどもその中に寂しさも、割り切れなさもまだ抱えている。だからこそ、「こんなふうに生きていけたなら」と、自分自身に願わざるを得ない──。そんな思いが、ラストシーンの泣いているような笑っているようなヒラヤマの顔に込められているように感じた。
この物語は、ヒラヤマの希望と絶望の物語じゃないかと思う。そしてそのことこそが、私にとっての希望になる、とも思うのだった。
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akyskaa · 1 year
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ずっと嫌だった
ひさしぶりにtumblerを開いた。最後の更新が2021年の2月だったので、もう2年半近くも更新していないことになる。いくつか昔の文章を読んで、このtumblerは数年前、私にとってすごく救いだったことを思い出した。なんとなく、「これは私の文章だ」と、卑下することなく思うことができたのだ。今も自分のための文章をnoteの定期購読マガジンで書き続けているけれど、tumblerではまた違った種類の文章を書くことができた。
文章にはいろんな種類があって、それはきっと、ひとつの媒体だけでは表現することができない。洋食や和食、中華など食の種類によって合う器が違うように、文章もひとりの中にきっといろんな種類が存在して(少なくとも私はそう)、そしてそれぞれ���、ぴったりと合う器が必要なのだと思う。「SNSを使い分ける意味がわからない」と思う人もいるかもしれないけれど、私には、Twitterもnoteもインスタも紙の日記も全部必要。私は多国籍料理屋なのだ。これからは不定期にtumblerも更新していこうかな、と思う。
嫌な夢を見た。自分が心の中でひっそり嫌だとずっと思い続けていたことを、その対象の人に打ち明けるという内容だった。「本当はずっと嫌だった」と、私は夢の中で泣きながらその人に訴え続けていて、その内容があまりにリアルだったから、「ああ、私は嫌だったんだ」と気づくことができた。これまで嫌だという自覚はなかったんだけれど、きっと私は嫌だったんだと思う。自分も知らない自分について夢に教えてもらうことが、私には少なからず存在する。
ここ数日何人かの人から、「受け入れる力が強い」「寛大だ」「聞き上手」などと、私の「受け手」としての能力を褒められる機会が続いたことも影響しているのかもしれない。幼い頃からずっと言われ続けてきたことだけれど、私はずっと嫌だった。「話を聞いてくれる人」として、私を消費するのはやめてくれ。誰かにもっと話を聞いてほしい。人の話を聞くのは好きだけれど、心の底ではずっとどこかでそう思い続けている自分がいる。だから私は、ずっと文章を書いているのかもしれないけれど。
「そうじゃないんだよ」と、自分についてわかってほしいのにわかってもらえないもどかしさをずっとずっと抱えていて、それが最近は異様なまでに苦しい。「ずっと嫌だった」という声が、歳を重ねるごとに大きくなっていて、それにどんどん抗えなくなっている。自分の厄介さについてこんなにも考えてしまうのは、きっと『だが情熱はある』を観たことも少なからず影響している。
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akyskaa · 4 years
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生きることで生きる
生きることで生きていきたいな、と、最近の私はずっと思っている。
私にとって生きること。友達と話すこと。おいしいものを食べること。本を読むこと。映画を見ること。部屋を居心地のいい空間に整えること。恋をすること。旅をすること。好きなお店に行くこと。考えること。新しい何かと出会い、感動すること。五感をめいっぱい使うこと。そしてそれらを、文章に書くこと。
生きる。そのことを文章に書く。そしてお金をいただき、私はまた、生きていく。
生きることで生きられるのは、つまり、生きることで「食べていける」のは、私にとっては文章があるからで、それを何よりうれしく思う。だって、私にとって文章は「生きること」のひとつだからだ。
まだまだ完全に「生きることで生きている」とは声を大にしては言えなくて、食べるためにしている行為もあるけれど、でも、その精度を少しずつ、少しずつ上げていきたいなと思う。文章以外の「食べていくこと」につながる「生きること」も増やしていきたいと思う。そしていつか声を大にして、私は生きることで生きているのだ、と言えるようになりたい。だから今まで以上に、私は、生きることを真剣にやっていきたい。
何も特別でなくていいのだと、最近はしみじみ思っている。普通の人が、普通の人生を幸せに送る。めいっぱい生きる。私にとって、それが何よりも特別で尊いこと。
自分が「生きる」ことをしていれば、いろんなテーマに出会うだろう。もしかしたら今後、大切な人を失うかもしれない。自分の健康を失うかもしれない。誰かに傷つけられ、誰かを傷つけてしまうかもしれない。新しい命に出会うかもしれない。大切な人に出会うかもしれない。そうしたら、今日、2021年2月12日時点での私の「生きること」なんて、未来の自分からしてみれば、まったく「生きること」ではなくなっているのかもしれない。
自分にとっての「生きること」は、日々変わっていく。ただ、そんな、変わりゆく生きることの延長線上にあることで、私はこれからも生きたいのである。ありきたりな言葉にすると、等身大でいたい、ということなのかもしれない。普通だね。でもそれが私の心からの幸せなんだろうなと、心から思う最近の日々。
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akyskaa · 4 years
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たしかめる年に
体調を崩して、年末の10日ほど誰にも会っていなかった。クリスマスの楽しみにしていた予定も、年末に最後に会っておきたかった大切な友人との予定も、全部キャンセル、キャンセル、キャンセル(私はクリスマスにいい思い出が本当になくて、きっとたぶん、呪われている)。
こんなにも長いあいだ一人きりで過ごしたのは、いつぶりのことだろうとふと思う。実家で暮らしていたときには必ず誰か人がいたし、社会人になってからも、気づけば誰かと住んでいる時間が長かった。だから10日間もまるまる完全に一人きり、まったくもって誰にも会わないというのは、もしかすると過言ではなく、人生ではじめてのことかもしれなかった。
このまま誰にも会わずに年を越えていくのかな〜と思っていたら、体調が思ったよりも早くに回復して、年越しは人と過ごすことができた。ひさしぶりの人肌が本当に本当にうれしくありがたく、ずっと拝んでいたように思う。
家族以外の人と過ごす年越しははじめてだった。「年越しそばを食べよう」と約束していたのだけれど、私の実家では夜ごはんとして年越しそばを食べるので、当日、夜ごはんをちゃんと食べたあと、0時をすぎる直前にそばを作って食べることに驚いた。あ、本当にちゃんと「年越し」そばなんだ〜〜!と感動した。年越しに関しては私は純度100%で明石家のルールしか知らず、ほかの家庭がどんな風に過ごしているのかを知る由もなかったので、年越しそばの食べ方にもいろいろあるんだなあ、としみじみ感心したのだ。自分の中のあたりまえがやさしく覆され、誰かのあたりまえと交わっていく瞬間はいつだって心地がいい。
自分じゃない人のおうち、作ってもらったおいしい手料理、年越しそば、紅白、YouTube、失敗した年越しジャンプ、家族への電話、友達との電話、気持ちばかりの正月料理、白味噌のお雑煮、おつまみ、昼寝、桃鉄。まるまる2日、ここぞというばかりに寝正月をして時間を溶かした。実家にいるとなんだかんだで親戚への挨拶だとかお祝いの準備だとかでバタバタとしているので、こんなにもまったく「何もない」正月ははじめてだった。ほとんどスマホも触らず、ただただ目の前の娯楽と快楽に身を委ねる。何もないことがこんなにスペシャルなことだなんて、思いもしなかった。
幸せな時間を終えて2日ぶ���に家に帰ってくると(といっても徒歩15分ほどの移動なのだけれど)、ひとりの時間はひとりの時間でやっぱり好きだな、と思った。年末年始、みんなちゃんと自粛をしているのか、アパートの隣人たちがとても賑やかだ。隣の部屋のカップルは夜中3時くらいまで大笑いしているし、上の住人は何をしているのだか、信じられないほどドタバタと足音を立てている。斜め向いの住人はここ数ヶ月ほどずっとベースの練習をしていて、エンドレスで同じメロディをひたすら奏で続けている。AirPodsという名の最強の耳栓を買っておいてよかったなと心から思う。
2020年は、誰かと一緒にいることについてひたすら考えた年だった。2021年は、2020年に見つけた自分なりの答えのようなものを、きちんとていねいに、たしかめていく年にしたい。一人ひとりとの関係性を深める速度と方法をきちんと見つめて、好きな人たちとともに歩んでいくぞ。
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akyskaa · 4 years
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うつり変わるすべての世界に
「ああ、今年も1年、あっというまだったねえ」。
毎年この時期になると、誰かと会うたびにそう言っている。過ぎ去る月日の速さに驚き、その年々のできごとに思いを馳せる。誰かとその年を振り返るこの季節の雰囲気が、私はとても好きである。
けれど、今年はそのセリフを一度も口にしていないことに気がついた。今年も1年、あっというまだったねえ。……あっというま? いやいや、今年は私にとって、まったく「あっというまではない」1年だった。
あれからまだ1年なのか、と思うと信じられないような、二度と思い出したくない出来事が今年はたくさんあった。パートナーとの別れ、大切な人の死。あまりにもたくさんの変化が起き、あまりにもたくさん傷つき、あまりにもたくさんの自分の弱さと向き合った。でもその分、あまりにもたくさんの大切な人たちと出会い、あまりにもたくさんの人に支えられた1年だった。そして今、年の瀬に思うことは、2020年はあまりにも長かったけれど、あまりにも素敵でかけがえのない、生涯忘れることがないであろう大切な1年だった、ということだ。
今年は「離婚」という大きなできごとを通して、本当にいろんなことを感じ、考えた。けれど、そこで感じたことを書いた文章を、私は一度も公の場所には出していない。前のパートナーと私のあいだには共通の知人友人がかなり(本当にかなり)多いため、コラムやエッセイなど、自分の「生」の文章で当時のことを書くことは、相手または周りの人を傷つけたり、嫌な気持ちにさせてしまう可能性があるからである。ためらいがある、というよりは、書くつもり(書いたものを出すつもりが)が微塵もない。実名を伴う文章にはその分傷が伴う。私は誰かにとってのお守りとなるような文章を書きたい、それはこの1年でも、自分の中で確固たる指針となったことのひとつだった。だからそういった「生」の文章で自身の過去の結婚生活を綴ることは、きっとこれからもないんだろうなと思う。
とはいえ、やっぱり、私はどうしたって書かないと前に進めない人間だ。もちろん自分の中ではいろいろと考え終わって整理がついているものの、「あの時間は、自分にとってどういったものだったのか」ということに対する「本当の気持ち」は、書くことでしか見つけられないと思っている。書くことによって気づかされることが、私の中の世界にはたくさん、たくさんある。
はじめて「小説を書きたい」と心から思った。私は今まで自分から小説を書きたいと思ったことはなかったけれど、はじめて、フィクションとして昇華しなければいけない自分の気持ちがあることに気づいた。誰も傷つけないために、どこまでが嘘で、どこまでが現実なのかは自分だけにしかわからない、そんな、本当と嘘を織り交ぜたような小説を書きたいと思った。信頼している編集者の人が伴走してくれ、今、少しずつ書いている。これは私のための小説だ。私が私を救うための小説なのだ。うまいとか下手とかが問題ではない、私のための。そう思いながら書いている。
うつり変わるすべての世界に、敬意と愛情を注げる人間になりたい。未来に左右されない過去の記憶は存在し得ない、だからこそ、未来を大切に生きていたい。今と未来を大事にすることが、きっと過去への肯定にもつながると信じて、今日も、明日も、今年も、来年も、しっかり一歩ずつ踏みしめて生きたいと願う。体調は悪いです。
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akyskaa · 4 years
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giveについて
生花を部屋に飾ることに、挑戦をしている。
今までの私は、何かを育てることがとにかく苦手だった。植物に水をあげることも、飼っていたペットに餌をやったり散歩したりすることも(親やおばあちゃんに世話は任せっきりだった)。自分が相手のために何かをする、ということが、とにもかくにも苦手だったのだ。
なんで苦手だったんだろうと考えてみると、私は誰かに何かを与えなくとも、何かを与えられ続けてきた人生だったからだ、と思う。こんな言い方をするといけすかないなと思うけれど、私はとにかく周囲から、甘やかされて生きてきた。かわいいね、大切だよ、これをしてあげる、あれをしてあげる。そうやって無償の愛を与えられ続けてきた私は、「与えられること」があまりにも当たり前になっていて、誰かに何かを与えるということができない人間になっていた。人にもらったお花もすぐに枯らしてしまった。サボテンですら枯らした。恋愛も、自分に与えてくれなくなったとたんに、なんだもう与えてくれなかったのかと勝手に落ち込み、すぐに切り捨てるような恋ばかりしていた。本当に最悪だと思う。
でも、与えられ続けるだけの人生では、本当の意味で幸せになれないなということに、なんというか、ここ1年ほどで気づいたのである(遅いね)。もちろん与えられることはうれしい、誰かに愛されることはとても幸せ。でも、与えられることで幸せを得るということは、自分ではない誰かに自分の幸せの主導権を握られていることともイコールで。だって相手が与えてくれなくなった瞬間に、ぽっかり穴が空いたような気持ちになる。どこでどう自分の幸せを担保していいかがわからなくなる。一方、与えることで幸せを得られるということは、自分の幸せを、ちゃんと自分で確保できるということにもつながると思う。
もちろん、自分が幸せになるために与えるわけではないけれど(それだと見返りを求めていて、結局は相手に委ねていることになるから)。純粋に、理屈なんてなく、大切な誰かのために何かをするって、幸せなことなんだよね。誰かに何かを与えることが、自分と相手両方の幸せにつながっていたら、こんなにうれしいことはないなって思う。
そんな考えの変化もあってか、自然と生きているお花を飼いたいな、と思うようになった。毎日水を変える時間は幸せだし、茎が曲がっていたらなんで曲がっちゃうんだろうと調べてお花に優しいことをしたりする。花の香りを嗅いでいい匂いだったら、ありがとうって心のなかでつぶやいている。そんな自分に対してどうしちゃったの、と思わなくもないけれど、でもそんな自分のことが、嫌いじゃないな、と思う。
最近、禅の思想に触れることが多かったからかな、さまざまな執着や期待から解き放れつつあることを感じます。自然に、正直に生きていたい。
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akyskaa · 4 years
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すべてはきっとつながっていて
豊島美術館がだいすきで、かれこれ3ヶ月のうちに3回も足を運んでいる。毎月のように行く人はなかなかいないのか、ついには受付のお兄さんに「……また来たぞ……!?」みたいな顔をされた(自惚れかもしれない)。
この美術館は、写真撮影が禁止なこともあって、魅力や雰囲気は行ってみないとわからない、としか言いようがないのだけれど、「母体」というその作品の名の通り、作品を観賞している人たちはみんな、まるで母親の胎内にいる赤ん坊のように言葉を失い、陽の光に照らされたガラスの宝石のような水滴を見つめたり、目をつぶって風を感じたり、その場に寝転がってみたりする。
「地上に存在することは、それ自体、幸福であるのか」。内藤礼さんの作品に通ずるこのテーマが、自然の光、風、音、空の美しさとともに体に語りかけてくる。豊島美術館は、五感を使って自分という存在について見つめ直すことができる、一言で言うと「禅」のような空間だと思う。美しいと思う箇所が、訪れるたびに変わる。自分と世界の境界が、すうっと溶けて馴染んでいく。
「自然よりも、自然を感じるね」。一緒に行っていた人が、隣で一言、そうつぶやいた。私も同じことを思っていたので、なんだかうれしくなった。切り取られることで見えてくる世界がたしかにある。松村圭一郎さんが、著書『はみだしの人類学』の中で書いていた、この言葉を思い出した。
「分断」は、かならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない。
そして、美術館のミュージアムショップにて、パラパラと内藤礼さんに関わる本をめくっていると下記のような言葉に出会った。
"近年、人がバラバラに暮らす社会を「無縁社会」などと呼称するようになっている。ネガティブな意味で使用されているが、仏教用語で使う無縁は少し理念が異なる。そもそも仏教では、すべての存在も現象も縁によって成り立っているとするため、縁が断絶されたという意味での無縁は成り立たない。"
"だから、無縁とは執着から離れた無境界を表す言葉になる。三縁の慈悲という教えがあって、衆生縁の慈悲(自分の都合による慈悲)、法縁の慈悲(修行のように実践する慈悲)、無縁の慈悲 (なんのこだわりもなく境界もない慈悲)の三つのうち、「無縁の慈悲」こそが理想なのである。"
すべてはきっとつながっていて。けれど私たちは、切り取らないとしばしば「つながっている」ことを感じられない。そう、大自然よりも豊島美術館が私たちに自然を教えてくれるように。私たちには目の前にある大きな大きな現象を「どう見るのか」という額縁が必要で、それがきっと、言葉だったり音楽だったり、肩書きだったり関係性だったりするのだろう。
本当は、すべては「つながっている」ことを再認識するためにあるのだと思う。だからそういったものが、不幸のきっかけになってしまうのは本末転倒だ。分断はつながりを生むためにある、つながりを再認識するために分断がある。そう考えると、少しだけ世界を優しく見つめなおすことができるんではないかなあ。
世界がつながっていることを認識するために、私は今日も文章で世界を切り取っているのだと思う。
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akyskaa · 4 years
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「変えた」ではなく「変わっていた」
無性に、いろんなことを「変えたくなる」時期というものが存在する。というよりも、無意識的にいろんなことを「変えていた」(もしくは変わらざるを得なかった)時期で、それに「気づいた」という方が、ニュアンスとしては正しいのかもしれない。
数年間ずっと愛用していた香水や化粧品、普通のドラッグストアで購入していた洗濯用洗剤、髪の毛の色や眉毛の形。割と、気に入ったもの(または、思考停止して慣れきったもの)はずっと使い続ける性質を持つ私にとって、こういった「使い続けていたもの」を変えることはあまりない。しかも、「生活に改革を起こすのだ!」といった能動的な意気込みがあったわけでもなく、日々出会う、いろんな人や出来事がきっかけで、自然と変えようと思えて起きた変化なのだからおもしろい。
中学生の時にバドミントン部に入っていて、そこではかなり厳しい筋トレやランニングなどのトレーニングがあった。私はそれらが大嫌いだったのだけれど、続けているうちに、ある日ふと、自分に体力や持久力がついていることを感じる瞬間があった。今でもその時の感覚は鮮明に体じゅうが覚えていて、ランニングコースの終盤あたり、秋の風を切って走っていたその時に、いつもならバテているはずの体が「まだまだ走れるよ」と声をあげていたのだ。
変わる瞬間は、ある日突然訪れる。もちろん毎日少しずつ人の心や体や生活は変化しているのだけれど、それが「変わった」と明確に感じる瞬間、ボーダーラインはたしかに存在する。それまでは、自分に起きている細やかな変化は気づかない──いや、気づけないものなのかもしれない。
私は今、「変化」を噛み締める時期にいるなと思う。今の自分の生活や性格や仕事、身の回りにあるすべてのもの・人・コトが私はとても大好きで、数年前に比べて、確実にいい変化が起きている。またきっと、変化を感じられない停滞期が訪れるのかもしれないけれど、それに対しても、今の自分なら前向きに捉えられるんじゃないかな。がんばれ、わたし!
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akyskaa · 4 years
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夢みたいだね
「夢みたいだね」と、夕陽を見ては、毎日のように言っている。
毎日同じ時間にやってくる、全然違う夕陽の景色。太陽と、海と、空気の色が混ざってできる虹色のグラデーション。本当に、夢の中にいるみたいなのだ。色が淡い記憶となって、心の中に溶けていく。
無理することがほとんどなくなった。もちろん自分のことを無力だなぁと感じたり、まだまだ頑張らなきゃなぁとは日々思っていて、そのための努力はこれからも続けたいけれど、自分の無力さを必要以上に卑下したり、逆にそれがゆえに意地を張ったりすることがほとんどなくなった。
逗子に住んでいた頃は、けっこう無理をしていたのだ。「海がある生活、最高だ〜」などとキラキラした内容を発信しながら、裏ではメソメソ泣いていた。表向きの自分と、本当の自分の差に、勝手に辛くなったりしていた。そうしていたのは自分なのに。
けれど、今は、本当に思ったことを、本当に思った分だけ発信するようになった。それを素敵だと言ってもらえることは、なんとうれしいことなんだろう。何より、自分で自分のことを幸せな人だなぁと思えるなんて、自分の生活を夢みたいだと思えるなんて、なんと素敵なことなんだろう。わかってもらえなければ、それでいいのだ。自分がちゃんと自分の味方でいられるから。それってとってもすごいことだと思う。
夢みたいだね。そう言えるこの日々の記憶があれば、多少つらいことがあっても、生き延びていけるような気がするのです。
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akyskaa · 4 years
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貪るように人のことを知りたい、と思える夜は尊いなと思う。それと同時に、そんな夜が訪れると、最近のわたしはすこし怖くなってしまう。
知りたいという感情があるということ、それは生きたいと思う気持ちとイコールなのではないかと思う。そして、誰かに知りたいという感情を持ってもらえること、それは生きていてもいいよと言われていることとイコールなのではないかな、と思う。
一方で、そう思わせてくれるほどの力があるからこそ、「知りたい」という気持ちには、魔物のような側面があって、その魔物がひょこりと顔を出してしまうと、知りたいという美しい前向きなはずの気持ちはあっというまに、嫉妬や憎悪という名の醜い刃物になる。
そのこともわたしは痛いほどに知ってしまっていて、だからこそ、今までのような純粋無垢な気持ちで、なんでもかんでも「知りたい」と思うことができなくなっている(人に対して、に限るけれど)。
誰かと出会って、魅力的だなと思っても、知ろうとすることに対する積極性、速度のようなものがおだやかになっている。貪るような夜はたしかに魅力的なのだけれど、それよりも、貪りたい気持ちをあえて抑制して、そのことが結果的に「知りたい」という気持ちを大切に守っているような、今はそんな夜を大切にしていきたいなあ。
自分が何も知らない(知りきれない)ことに自覚的でありながら、それでも知りたいと思うことと、知った方がいいことと、知らなくてもいいことと、知りたくないことを、ちゃんと分別して選んで生きていきたいのです。
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akyskaa · 4 years
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「よそ者」として。
出張で、京都に来ている。自分が生まれ育った街に「仕事で」来るというのは、なんとも新鮮な感覚だな、と思う。
会社員時代も、大阪で開催されるイベントに出展するから、などといった文脈で関西出張があったりしたけれど、それは開催地が関西であるだけで、その土地を深く知る理由にはつながらなかった。けれど今回のお仕事は、「その土地を知る」ことが目的としてある。そんな風に、真っ向からの目的が伴う関西出張ははじめてで、「よそ者」として味わう京都は、どこか知らない街のようで、今まで気づかなかった魅力にあふれていて、まったくの新しい顔を見せてくれるな、と思った。
お寺のこと、老舗のこと。22年間暮らしていた京都には、当たり前だけれど膨大な歴史が流れている。そんな脈々と流れる土地の歴史に思いを馳すことができるのは、私が今東京に住んでいて、ある程度の「よそ者」としての感覚を手に入れたからなのかもしれない。
「よそ者」になることって、時には必要なのかもしれないな。当事者意識が大切だなどと言われる世の中だけれど、主体性を持ちすぎることで見えなくなってしまうものはたしかにある。それは、人間関係においてもそうで。離れてみるからこそ見えるものは、たしかに、たしかに存在するのだ。客観と主観の行き来、と、言葉にするとありきたりだけれど、でも、やっぱりそのふたつはとても大切で、そういった行き来ができる状態を、何事においても担保していきたいと思うなどした。
もっと、自分が住む土地や住んでいた土地、関係性を築いていきたいと思う土地のことを、知ろうとしていきたいな、と思う。知らないことがたくさんある、という事実は、そのまま生きる希望にもつながる、とも。
最近のお仕事は、どれも自分にとって必要だと思えるばかりで、こんな風に生きて、学んで、お金がもらえるということが、幸せでたまらないなあ、と思う、月曜日の夜なのでした。
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akyskaa · 4 years
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解釈よりも感覚を共有する
友達と共同生活をはじめて、はや2週間以上が経過した。
家族でも恋人でもない人と暮らすのは人生はじめてだったので、はじめる前は「いったいどんな感じなんだろう?」と心の中が不思議な好奇心で包まれていた。事前の予測では、なんとなく自分は共同生活には向いていないんじゃないかなあ、とかも思ったりしていたのだけれど、それは大きな間違いだった。今一緒に暮らしている人たちが本当に素敵な人たちばかりで、この生活をずっと続けたい、とさえ思ってしまっている自分がいる。
家族や恋人は、その関係の近さがゆえに、ついつい自分たちが「他人」であるということを忘れ、必要以上に踏み込みすぎてしまうことがあるけれど、あくまでも「他人」という前提を忘れない前提がある関係性の人たちと住むのは、とてもとても心地がいい。それは解釈よりも感覚を共有している、という感じに近くて、なんと言えばいいのだろう、生活において粒度の粗いままつながれるという経験が、今の私には新しくて、とても合っている。ポカリの広告コピーに「自由は、ひとりになることじゃなくて誰といても自分でいられること」というものがあるけれど、まさにそんな感じ。みんなでいても、一人になれる。みんな、ちゃんと、自由なのだ。
おいしいご飯を一緒に食べて、ばかみたいに笑い転げて、くだらない話も真面目な話もして、酔っ払って、遊んで、歩いて、いろんなものを見て、感じて、共有して。
心と体が満たされると、誰かの幸せを思わず願っている自分に出会う。今の自分のことが、私はとても好きだなあ、と思っている。
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akyskaa · 4 years
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最近のこと
心は穏やかで満たされているけれど、時々、じくりとした鈍い痛みを胸の中に感じる。全身の血液が、ぶわわ、と音を立ててざわめくような感覚がして、どうしようもなく不安になる。ただ、こういった痛みや不安さえも、「昔感じた感覚と似ているな」と感じてしまう自分の器用さが憎い。
最近のできごと。 おたがい大切に思い合っていた人と、憎み合って関係性が終わってしまった。
最近のできごと。 以前、ひどいことを言われて関係性を絶った好きだった人と、再会して関係性が復活した。
関係性は、予想もしなかったできごとによって、絶たれたり、ふたたびつながったりする。ただ、完全に絶たれてしまう関係性など、今の今まで一度もなかったな、と思うと、別に人生において起きる決別はすべて一時的なものであり、大したものではないのかもしれない、とも思う。けれど、それでもやっぱり、関係性が絶たれるきっかけとなる、鈍器で殴り殴られるような感覚は、何にも変えがたくしんどいものだ。いつもいつも。
一度複雑に絡まってしまった関係性は、ほぐしてもとに戻すことはできない。おたがいのことを、客観的に、純粋に見れるようになるまでは、かならず時間が必要になる。絡まってしまったものが近くにある限り、たとえ自分の心が冷静で「もう大丈夫、客観的に見れるようになった」と思っていたとしても、それは偽りの客観性であり、時間が必要なのだ。かならず。
“ 生きてたらいろいろあるよ。でもね、何年かたったらどんなことでも大したことじゃなかったって分かるから。人間はさ、そうやって毎回自分に裏切られながら生きていくしかないんだよ “
このセリフを、「自分に裏切られながら」と言える白石一文さんは、希望を持っている方なんだな、と思う。だって、人生における何某かのできごとが、自分の心を再起不能なほどに傷つけられると信じているから、再起不能なほどに傷つけられてしまうほど大切なものがあると信じているから、こういうセリフが生み出されるのでしょう。
ちゃんと傷つく人はすごい。わたしは、すぐに忘れてしまって、本当の意味で傷つくなんてこと、めったにない。いや、傷ついてはいるけれど、手っ取り早い治療法を見つけているだけで、その傷とちゃんと向き合っていないだけなのかもしれないなあ。ちゃんと傷ついて、その傷と向き合わなければ、と思う。
“もの書く者の葛藤だけが、人間の、解決不能の孤独や絶望に寄り添える”
これは、『永い言い訳』の主人公、作家の津村のセリフだ。今こそ、書かなければ、と思う。
というわけで(?)、しばらくのあいだ、海の近くで暮らしている。家族でも、恋人でもない人と生活をともにするのは人生ではじめてで、あたらしい街、あたらしい風景、あたらしい店、あたらしい人。目を閉じるといつでも波の音が聞こえて、窓を見やると、海はいろんな表情を見せてくれる。朝起きて、海を見ながら仕事をして、本を読んで、ともだちと話して、夜はおいしいお酒を飲んで。
自由だな、と思う。いままでの人生の中で、いまがいちばん。人間関係にも、仕事にも、お金にも、何にも囚われることがなく、なんでもできるなあと思う。こういう生き方を、私は望んでいたのかもしれないなあ。
ここ数年で、急速に、自分の人生の純度が高まっているような気がする。日々、戸惑うこともまちがうこともあるけれど、誰に何を言われようと、自分が見つめるべきと思ったものを見つめながら生きていこうと思うよ〜。
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akyskaa · 4 years
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なくなれば生まれる
ある程度の「わかりやすさ」を大切にして生きてきた。自分の肩書き、書く文章、やっている仕事などについて、誰かが見た時に、その誰かができるだけ混乱しないよう、理解しやすいよう、できるだけ「わかりやすさ」を心がけて生きてきた。そう意識するようになって幾年かが経ち、その「わかりやすさ」はひとつの私の特徴になってきたように思う。
けれど、最近、自分で自分のことがよくわからない。というより、自分のことが全然わかっていなかったということに気づいた。そして、わからないのだから、今はわかりにくいままでいようと思うようになった。今まで私は、「わかりやすさ」という盾を持って、自分自身本当はわかっていないことたちから、目を背けていただけのような気がしている。
なんだって、わかりやすく言ってしまうことは簡単だから。自分をわかりやすい言葉で定義することは、楽だから。でもそれは、自分自身と向き合う機会を損失していることでもあるのだと思った。
自分のことがあまりよくわからないということだけが、今の私にとって、明確にわかっていること(それをちゃんと探したいと思っていることもわかっていること)。だからツイッターのプロフィールもよくわからない感じにした。だってわからないんだもん。
仕事のあいまに散歩がてら隅田川を歩いていると、川岸に止まっている屋形船がカフェ営業をしているのを見かけた。コロナの影響で屋形船の予約が入らず運営できないから、昼間、船を解放してカフェとして営業しているのだという。
三密ではないので(というより誰も客がいなかったので)、試しにそこで一杯ビールを飲むことにした。なんと、先週土曜日の営業開始から今までではじめての客らしかった。貸切の屋形船で見る、隅田川を歩くマスク姿の人々、太陽が反射して光る水面、気持ちよさそうに空を飛ぶ鷺、手元にある細かな水滴がついた冷えたグラス。ちょっと不思議な貸切屋形船で飲むビールの味は、きっと長く、思い出として残るのだろうと思った。
なくなれば生まれる。屋形船が、夜の営業と引き換えに、昼間のカフェ営業を始めたように。「わかりやすさ」がなくなった私にも、きっとその分、何か新しいものが生まれるはずなのだ。
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akyskaa · 4 years
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誰がために。
気がついたら、前回の更新から3ヶ月もの時間が流れていた。「最近書いていないなあ」と自覚できるくらいの「最近」は、たいていの場合において短い時間ではないことを、私は今までの経験から知っている。
3ヶ月。そのあいだ、私は自分の考えや感じたことを、話し言葉(最近ラジオをはじめた)だとか、友達とのメッセージやオンライン通話でのやりとりだとか、Twitterでの短い文章だとか、そういったものたちで発散していた。
けれど、やっぱりそういったものたちでの発散を通してみて思うのは、自分にとっての思考は、ある程度の長さをもった文章を書くことでしか成し得ないのではないか、ということだ。
言葉は日々、いろんなプラットフォームに乗って、日常の中を通り過ぎている。あるときは文字単体に、あるときは歌に、あるときはマンガに、あるときは話し言葉に、あるときはプレゼンテーションに。そして、そのプラットフォームによって、言葉に付随する情報の量は変わっていく。文字、声、表情、空気、メロディー、図やイラスト、タイミング……。
言葉が乗るさまざまなプラットフォームがある中で、私はやっぱり文字で(正確に言うなら文字を中心として)伝えることに、何よりも興味を持っているのだなと思う。自分の気持ちを伝えるためには、文章という手段が、いちばん、いちばん、心地いいのだ。
今日の夕方ごろ、とある一通のメールがiPhoneに届いた。メールを開くと、そこには、私が2ヶ月前に書いたnoteの文章へのサポートとメッセージをお知らせする、noteからの通知があった。
もうこの世にはいない、大切な人へ向けた、大切な文章。それを、なんとその人の奥さんがたまたま見つけてくれ、わざわざメッセージをくださったのだ。
メッセージには、文章に対する感謝の言葉とともに、「線香をあげて、声に出して読んで、主人に聞いてもらいました」と書かれてあった。思わず涙がこぼれた。書いてよかった。いや、書いていてよかった、そう思った。
文章を書く仕事をしていると、書くものを褒めてもらえることもあるけれど、たまに「あかしの文章、そんなに好きじゃない」などと言われることもある。つい数ヶ月前までは、たとえ好きと言ってくれる人がたくさんいようとも、そういった数人の言葉に、傷つき、落ち込むこともあった。
けれど私は、そういう人のために書いているのではないのだとあらためて思う。
私は、目の前の誰かのために、大切な誰かのために、そして、他でもない自分自身のために書いている(書くようになった)。もちろんまだまだ文章は下手くそで未熟だけれど、少なくともその動機は、誰のどんな批判によっても邪魔されることのない大切な自分の感情で、私自身が守ってあげなくてはいけないものなのだ、と思うのです。
最近の私は、どんどんブレない精神を身につけていて、いい感じだと思う(自分で言うのもなんだけれど)。今年はもっと、いろんなものから解放されていくんだ。
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akyskaa · 5 years
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長いか短いか
最近、仲良くなった人もしくは仲良くなれそうだなと思った人に、「人生を長いと思うか短いと思うか」という問いを投げかけることがある。するとだいたいの人は私と同じ答えが返ってきて、男女とか年齢とか職業とか、そういったわかりやすい属性・カテゴリよりも、よっぽど「同じ側にいる人か否か」がわかるような気がしている。
ずっと、どこかで虚しさを感じている。それが生い立ちなのか、何がそうさせるのかわからないけれど、何をしていても虚無感が私の周りには立ち込めている。究極のところ、私はどうだっていいのだと思う。なんだっていいと思っているのだと思う。大切な人と一緒にいたとしても、大切だと思っていたとしても、究極のところでは大切にしきれない自分がいるのではないかと思う。世の中に興味を持つことなんて、本当の意味でできないのではないかという苦しさが、いつも自分にはつきまとっている。それでも大切なものを見つけなくてはいけないのではないかという使命感が、なおのこと自分を苦しめる。
何かに夢中になれる人はすごい。自分がそうなれないからこそそういった人々に惹かれるのだと思うし、そういった人の人生を自分の中に吸収してみて、はじめて感じる気持ちはたしかにある。だから編集者とかライターという仕事をしているのだと思うし、その仕事に意味を見出せてはいるけれど、やっぱりどこかで他人事から脱せないのだ。
自分が生きている意味みたいなものを見いだせている人は本当にすごい。そう思うと同時に、そう思うからこそ、何にも本当の意味で心を動かされることができない自分の空っぽさに、いい加減、嫌気がさしてくる。自分の感動とか感受性みたいなものが、実は嘘っぱちなのではないかと思ってしまうことがたしかにあって、そういうときが私は一番、いちばん苦しい。
自分の人生に意味はないと、心の底から思ってしまう自分がいる。みんな本当に、自分の人生に意味を見出しているのだろうか。そうだとしたら、自分はなんなのだろうか? このずっと人生にまとわりついている虚無感みたいなものは、なんなのだろう。ずっと苦しくて、私は最近すごくめげそうになるんです。
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akyskaa · 5 years
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ひょんなところから煩悩が
1月末から今にかけて、移動が多くて少し疲れている。この3週間で、東京→愛媛→東京→京都→東京→岡山→東京と移動した。来週は法事でまた京都に帰省しなくてはいけないので、それが終わったらしばらくは東京で大人しくしていようと思う。完全にガタが体にきてしまっている(いつもにも増してすぐに体が疲れてしまう)し、それに、家で1日中ダラダラとコンテンツに触れる日がないと、私は私を守ってあげられないんだった。
昨日からの2日間は岡山にいた。デニム兄弟がやっているホステル「DENIM HOSTEL float」へ。floatは、想像力というキーワードをとても大切にしていて、その「想像力が思わず豊かになってしまうような環境づくり」の一貫として「本」の文脈をもっと増やしていきたいそうで、それのお手伝いをさせてもらっている。チーム名(プロジェクト名?)は「まどろみ文庫」。金井塚くんとようへいくんの3人を中心に進めていて、本格的に稼働していくのはこれからだけれど、とっても楽しみな取り組みなのです。
今回は「まどろみ文庫」のキックオフ的なイベントだった。駒沢大学駅にある本屋スノウショベリングの店主・中村さんをお呼びして、本にまつわるいろいろなコンテンツを楽しんだ。本の中に出てくるお酒を実際に作ってもらい、その本の該当箇所を読みながら嗜む「ブックテンダー」にはじまり、10分間の雑談からその人に合った本を選書してくれる「レコメン堂書店」、なかでも私がお気に入りだったのは、「短歌倶楽部」というコンテンツだった。詳細は長くなるのでここでは省くけれど、どう転んだっておもしろい、というよりもおもしろがれる、いいコミ��ニケーションだなと思った。おもしろがれる��白があるっていいよね。
それにしてもfloatにいる人たちはおもしろい。探究心が強く人当たりがやわらかで、個性が強いのに居心地がいい。私も5月と6月に、長期滞在させてもらうことにした。児島、いいとこ。float、いいとこ。イベントに来てくれた人も気さくでやさしくていい人たちばかりでとても心が穏やかになった。ひかるちゃん若月くんカップルとお話できてうれしかった。なみえさんに再会できてうれしかった。我我の写真展にも行けてうれしかった。しまだのカレーがとっても美味しくてうれしかった。お寿司を食べたらお腹をくだした。お腹をくだしたこと以外はとってもとってもうれしい気持ちでいっぱいだった。
それにしても帰りの新幹線、ひょんなところから金井塚くんの煩悩が垣間見れたのがすごくよかったな。煩悩は予期せぬところからひょっこりやってくる。私もそうだ。
明日は大事な打ち合わせが夜に一件入っているので、その準備を少ししてから寝たいなと思う。頭がはたらかないYO〜〜〜〜!
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