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30分間
無機質の連続、ドアの閉まる音、狭い通路。
誰しもが小さな四角い板を見続ける。
目が悪くなりそう。
というより、頭が悪くなりそう。
印象が全てを決める世界で、私は貴方に出会った。
私もどうやら、頭が悪くなってしまったようで。
微笑みかける。
小心者のイヤリングが揺れる。
今日のは綺麗だね。
退屈そうな貴方が笑う。
蛍光灯は白く燃えて、夜を照らす。
どちらにせよ、地下に昼も夜もないけれど。
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原風景というものがあるらしい、ということは知っていたが、別段それを意識することはなかった。要約すれば「人の心のなかにある原初の風景で、懐かしさをおぼえるもの」であるという。昔ながらの田園地帯であったりとか、平凡な住宅街であったりするなど、人によって様々であるともあった。Wikipediaって便利だなぁ。 昨日は付き合いのある先輩のライブが21時半からあるというので、フラフラと遊びに行って23時くらいに家に戻った。起きたら13時である。全部クソ暑いのが悪い、体力がっつり持っていかれた。バカ。バカ気温。 大学に行ったとしても大して興味のない講義しか残っていないのが分かっていたから、適当に本屋で漫画を買って図書館で借りた本もちょっと読もうかなと、バスに乗って隣町の喫茶店に入るつもりで支度をした。 バスを降りて橋を渡っている時にふと原風景の話を思い出した。ああ、橋も運河もそんなにヨソでは見ないな。なんか懐かしいな。 俺の育った町は運河のすぐ傍である。小学生のときは運河を越えた先は違う学区であったので、ちょっとした冒険だった。大きなお祭りがある日に夕方自転車で越えるもので、また、お母さんの車の助手席に乗って越えるものだった。 中学校は運河を越えて通学した。朝、上流で死んだボラが大量に流れてきて時々臭かったのを覚えている。大体行きも帰りも家がそこそこ近いやつら同士で適当に集まって、大声で歌を歌いながら運河を越えた。 その後進学した高校は逆方向にあったのでほとんど縁がなくなってしまった。運河も見なくなった。その頃の俺は名駅とか大須ばかり行っていたから。 その代わり最近はなぜかよく運河の辺りをうろちょろすることが多い。夜中に腹が減って牛丼食べに隣町に行ったり、こうやって大学をフケてコーヒー飲みに来たり、女の子にフラれて水面を見に来たり。 日本最大らしいこの運河は俺の町を区切る線だったりした。文字通り対岸の小学校のことは知らなかった。始めからあったから境界でしかなかったが、センチメンタルな気分になった時にその境界の上で遠くのツインタワーの光を見るのがマイブームである。 自分の町を客観的に捉えなおす、ということはなかなか難しいことだと思う。当たり前にずっと育ってきて、久々に地元に帰ったときに懐かしくなる、くらいだろう。 ただ、町には一つ一つ特徴があのだ、と俺は考えている。そこに住んでいる人々が平凡な町だとどんなに思っていたとしても、実はよそ者からしてみれば刺激に満ち溢れているのだ。高低差がある、線路がある、河がある。用水路が、県道が、海が、やけにカーブする道が、変わった理髪店が、送電線が、確かにそれぞれある。そしてこれは町に限った話ではない、とも思う。 平凡に思える価値観や世界観、見た目、取り巻いている環境、キャリア、経験、前回書いた話を引き合いに出すなら「こだわり」だとかは、実に人それぞれで、刺激的で、魅力を持っている。その割に、当人が気付かないばかりか他人ですらそれに価値を見出ださないことも多いのは不思議なことだ。 少し前に、友人から「彼女は私と考え方が合わないからダメだ。」という話を電話でされたことがある。気持ちは分かる。同じ価値基準を持った人と話す方が楽しいだろうから。一方、この電話は、私とその友人の考え方がまるきり違うことを再確認する機会でもあった。 人との関わりは他にも色んな種類があって、そのうちのひとつに同じ考えの友達を作る、というのがあるのではないだろうかというのが俺の考えだ。さっきの話で言うなら、自分の町によく似た町に住んで、不自由を感じない、というのに例えられるだろうか。ただ、散歩するのであれば変な町の方が楽しい。めちゃくちゃに山の中だったりとか、個人経営の訳わかんねえ喫茶店が三軒もある町とかの方がよっぽど歩いていて楽しい。 随分立腹していた様子だったのでそんなことよう言わなかったが、実際のところ考え方が違う人間こそ仲良くしておくべきだと俺は思う。 原風景は、読んでいるひと(今のところ甘楽くんくらいだろうけど)にとってどんなものだろうか。どんな所に育って、どんな風景に見慣れているの���ろうか。 どんな見た目で、どんなこだわりがあって、どんな音楽を、小説を、映画を、ゲームを、食事を愛したり、懐かしく思ったりするのだろう。 俺は人と話すのが好きです。人のことを知るのが好きで、運河のギリギリ見えない町で育って、ロックのCDと週刊少年ジャンプが部屋の床に沢山積んであります。 それぞれに原風景を持った大勢の知らない人と、死ぬまでに数えきれないくらい擦れ違って、そのうちの何人かと言葉を交わすのだ、と考えるとゾクゾクします。 これからもよろしく。 (水野友介)
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家に帰るまでの
中身のない会話だったと思う。
まるで耳に入ってこない自分の声が、ただただ煩く感じていた。
自分の騒音には、一体何に対して起訴すればいい? 答えはない。有理数をゼロで割る時の様なタブーだと考えている。
だから騒音も止まない。注意してくれる善良な保安官さんも居ない。
様々な人間を見てきた。十人十色とは言うが、ある程度は同じに見えた。同じ色に見えた。
そんな彼らからして、僕はどう見えるのだろうと、少しだけ思って、君の声に遮られた。
僕には君の色が僕と同じだったらいいのにと思うことしかできない。ちょっとだけ恥ずかしい。
火をつけられた訳じゃないのさ、今夜は。
マルボロがいつもより甘く感じます。
春だのにこんなに寒い今夜は、少しだけ君の体温が感じやすくていい。少しだけ君の言葉が暖かくていい。
その会話の一つ一つが、ジッポーの様に火花を立てているみたいで、冷や冷やするんだ。
恐らくは、その先は、一度進めば引き返せない、のだと思う。
僕はただただ、オイル切れを願うばかりなのさ。
(明日葉甘楽)
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【備忘日記】魔法使いの俺
ヤマザキコレ『魔法使いの嫁』を読んだ。
色々と感想はあるが、あるものをあるがままに受け入れて過ごす人物たちの様子と、彼らの生き方が(若干おしつけがましくあるものの)緻密に描写されていて、普段生きている我々の世界にはない出会いを楽しむことができた。
友人から借りてベッドで黙々と読んでいるうち、ある場面でページを捲る指を止めてしまった。魔法を使うための杖を作るシーン、そのなかでも材料となる木を選ぶコマが不思議と好きで、どうしてそんなにも気になるのか読み終わってから一度考えてみた。結局得心のいく答えは導き出せなかったが、きっと木の「いわれ」が面白かったからだろうと思う。作中では他にも風習や習俗について言及する場面があり、そこでも私は恐らく作者が意図しない以上に関心を持って読んでいたような気がする。
思い返してみれば私は昔からそういった類のものが好きで、歯が初めて抜けたときから最後に生え替わるまで、二階に向けて投げたり二階から投げたりしていた。夜中の蜘蛛は邪険に扱わないし、毎年の正月には鏡餅と玄関飾りだけは用意するようにしている(不精な性格のせいで大掃除だけはできたりできなかったりだが)。父の実家は割と裕福だそうで、そういえば小学生の頃に年始の挨拶に行ったときもお神酒を親戚一同で飲んだ覚えがある。そのため父も行事や作法といったことには他の家庭の父親よりもちょっと詳しいのだろう。最近は父母ともに仕事が忙しいので簡単に済ますことがほとんどであるが。
さて、『魔法使いの嫁』の木材選びのシーンであるが、きっとそうした環境で育ったことがこの関心の根底にある気がしてならない。きっと民間で口伝えされてきた風俗のことが愛しくてたまらないのだろう。おまじない、呪い、しきたり等々はその土地で生きてきた人々の生活の一部で、時には畏れだとか敬意をもって何世代も行われてきたものであり、それをよそ者の目で眺めるのが好きである。近年ではこういった風俗が失われてきているのが残念でならないのだ���、その一方で廃れていなければこんなにも惹かれなかっただろうとも思う。廃墟マニアの感覚と似ている。ちなみに廃墟も好きだ。
廃れていった理由は現代の生活の様式とマッチしなかったからだろう。節分の日に豆を撒いたりする家庭はまだ多くあるだろうが、ヒイラギの葉を飾る家は少なくとも自分の目で見たことがない。『魔法使いの嫁』に登場するキャラクターの言葉を借りるなら、「科学のせい」だ。無病息災を願って節句毎に色々と飾りつけられたまじないの道具よりも健康保険と抗生物質の方がよっぽど我々の息災に役立ってくれているのは明らかである。それを嘆いて「日本の伝統が―――」などと滔々するのは他の人の仕事であるからそちらに任せるとしても、役立たないことにこそ魅力があると考えることはしばしばある。
価値観の異なる人同士は1週間でも一緒に生活できないだろう。我々の生活は役に立たないもの、無駄なものを切り詰めて効率的にやりくりしているように見えて、その実こだわりや美学に基づいているからだ。
例えば髪を洗う石鹸はどんな香りがしてもいいだろうし、本棚に並ぶマンガの巻数がバラバラでも、作り置きした食事を温めずに食べても、極論非効率ではないはずなのである。そこを「それはなんかちょっとイヤ」と回避するのがこだわりであり、2018年の水野流に言い換えるなら「ロマン」である。もちろん上に挙げたこだわりをどうでもいいと感じる人はいるだろうし(私は飯が冷たかろうが結構そのままいく)、また自分でも意識していない些細なこだわりを持っている人もいるだろう。だからこそそれを理解できないまでも許容もできない人間とやっていくことは不可能である、というのが先ほどの共同生活に嫌気がさすという話の根拠である。
「ロマン」とは何だろうかと最近考える。「やってもやらなくてもいいことをやる事」「好きだが、無駄なことをする事」に近いというのが今のところの結論だがまた変わるかもしれない。世の中にはその反対で「嫌いだが、必要なことをする事」が結構多く存在していることにやっとぼちぼち気が付き始めて若干の絶望を味わっているところで、それらから自衛する手段を考えることが増えた。
マンガ、ゲーム、アニメ、映画、仮面ライダー、セックス、オカルト、読書、短歌、おしゃべり。お笑い、散歩、演奏、ロック、建物、歌、ツイッター、旅行、食事、服。全部無駄である。だからこそ愛しい。
俗に言うオトナのセリフには、もっと現実を見ろ、なんていうのがよくあるが、これらを見ずしてなにが現実であろうか。「役に立つ」ものばかりを見て現実と言い張るのは片手落ちである。ロマンのない生活に耐えられる人間などどこにいるのだ。
意味のないこだわりを持つことこそが膨大なストレスを消し飛ばし、理解されないロマンに基づいて行動することこそが、「役に立つ」生活に意味をもたらしてくれると、私は信じてやまない。
お気に入りの銀のピアス、サイコーのロックを流してくれるステッカーまみれの音楽プレーヤー、青いスニーカーを履いて繰り出したどうでもいい散歩、それらは抗生物質なんかよりもよっぽど私を元気にしてくれる。
(水野友介)
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習作としての亡霊 水野友介
消し忘れたラジオからノイズ混じりに人の声がしている。聞き取れないほどの大きさで、女性が何事か話している。 汚れたレースカーテンの向こうから光線が直進してきている。一面薄い雲に覆われた空が、白痴の太陽に透かされているのだ。ガラス窓だったそれは、今はその枠だけになってしまって、朝の風を部屋に軽々しく招きこむ。カーテンが揺れると、背の低い草についた露の香りとともに冷え冷えとした大気が入り込んできた。
彼は目を覚まして身体の向きを変えた。鳥の声がしている。長男と思しき一羽が下品な冗談を言って妹たちを困らせているのが遠くの方から聞こえてくる。 綿がこぼれて薄くなってしまった布団から這い出して、弱々しくラジオのつまみをひねり、バンドを80.5に合わせた。一昨日と同じニュースを同じキャスターが読み上げている。そうしてから彼は、右足を引きずりながら部屋の隅の小さな冷蔵庫に向かった。いつでも瓶のペプシコーラが詰まっているそこから一本を取り出し、飲む。王冠をこじ開ける必要はない。唇から離した瓶は飲みかけのコーヒーマグとなってしまい、彼はそれを部屋の中央のローテーブルに置いた。
このアパートメントの三階から見えるものはそう多くない。遠くの景色は霧で隠されていて、輪郭が判然としておらず、天候と気温はいつも同じものばかりだ。錆だらけのガスステーションと小さな空地、まっすぐな道路の他に彼が見ることのできるものはない。鳥や犬、自動車たちは口ぐちになにかを話しながら霧の向こうから来て霧の向こうに去っていく。
彼が窓から外に出てみると浜辺であった。潮騒だけが強烈に響き渡るブルーグレイの海だ。砂に小さなステップがまばらに生えている。粗末な花束がいくつも波打ち際に置かれていて、波が寄せるたびにそれらの内のいくつかが遠くの霧の中へ流されていくものの、一向に数は減らない。彼は水平線を左に見ながら歩き、しばらくすると何も無くなってしまったので、部屋のベッドで寝ることにした。
ラジオからは四日前と同じ内容のニュースが流れていた。ロケットが打ち上げに成功したらしい。コーヒーの湯気が部屋中に充満して息も難しいほどだ。
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Hotel,in my pillow
足を取り外すことができたらいいのにと、常日頃思う。疲労は足から来て、脳まで届く物だと感じている。その後、段々と下っていって、目、口、首、肩、腕と、連鎖していくのだ。
人の体を憂うのには、まだまだ早いと思われそうなものだけれど、今、倒れそうというほどではないけれど、といった疲労が溜まり続けている。
ああ、疲れた。
エスプレッソの飲み方を知っているだけで、少しだけ愉悦感に浸れる程には疲れた。
コンビニで買えるデザートを、気休めの為に楽しんで、明日の早朝にある数々の怒号を忘れる。いや、忘れられるわけではないけれど。
呼吸をすることができるゼリーに飛び込みたい。伊勢神宮の神秘さと豊かさが満タンの森林の中にいたい。ふかふかの羽毛布団で丸丸一日眠り続けていたい。猫アレルギーに引っかからない猫カフェに行きたい。フクロウのお腹の羽の中に指を突っ込みたい。好きな人と過ごしていたい。
いくつもの叶えることが難しい、小さな夢で溢れている。疲れているというのは、そういうことだと思う。
けれど、まぁ、何だ、細かい幸せにも目を向けないといけない。
お湯があったかい。椅子が柔らかい。プリンが甘い。タバコが美味しい。さっきすれ違った子がとても可愛い。
だとか。
必要なものは揃えなければいけないけれど、娯楽だってなくちゃならない。それを勝ち取るための疲労だったら、労ってあげなければいけないな。
とりあえずは気分だけでも、倦怠感を紛らわす類のものに変えていかないといけないな。
2018/03/01 煩雑會 明日葉甘楽
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ごあいさつ
おはようございます。
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もしかしたらそれは短歌かもしれませんし、詩かもしれません。評論やロックバンドのアルバムのレビュー、イラスト、エッセイだったりする場合もあります。
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ついでに自由にお互いの更新した文章を読めるなんて素敵だと思います。
もちろん煩雑会の存在を一切知らない方もお立ち寄りください。
次の更新がいつかはメンバーの気分次第です。
2018年2月10日夜明けちょっと前 煩雑会理事 水野友介
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