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[今年もありがとう、ザルツブルク、さようなら、オーストリア]
今年は1ヶ月以上となった夏のオーストリア滞在。とにかく過密スケジュールで息切れしがちだったけれど、なんとか全日程を終えることができた。 昨年よりもさらにヘヴィな仕事を抱えていたため、このブログも全く読み返したり推敲する余裕がなく、書きっぱなしの垂れ流し状態。反省することしきりである。
おかしなところはこれから帰国してぼちぼち訂正するつもりでいるのですが、お読みくださった方には、乱文を改めておわびします。 そして、今年もお付き合いくださったことに、心より感謝申し上げます。 また次回、再開できる日を、書き手の私もとても心待ちにしています。
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[ザルツブルクからグラフェネッグ音楽祭へ]
8月23日のコンサートをもって今年のザルツブルクの予定はすべて終了。 24日にウィーンに移動し、24日、26日の2日間、首都近郊のグラフェネッグという場所で最近盛り上がりを見せている音楽祭に出かけてきた。 グラフェネッグは、かつてメッテルニヒ家が所有していたお城がある場所で、ネオ・ゴシック風の城館と素晴らしい英国式風景庭園がある。音楽祭はここを会場にして7年前からスタートしたとのこと、現在はウィーン出身の大御所ピアニスト、ルドルフ・ブーフビンダーが総監督を務めている。期間は8月半ばから約一ヶ月間、途中、ウィーンフィルも何度か出演する。 グラフェネッグまではウィーンから直通の鉄道便もない不便なところだが、音楽祭期間はコンサートに合わせて楽友協会の裏手からシャトルバスが運行する。会場までは約40分。帰りもこのバスで帰れば簡単に行き来できるという段取りになっている。 ここを訪れる気になったのは、地元の友人がかねてから行きたがっていたということに加えて、ここ数年はこちらに張り付き状態で、めっきりザルツブルクに出演しなくなってしまったブーフビンダーの演奏が聴きたかったためだ。 グラフェネッグ音楽祭の会場は、故アーノンクールの娘で建築家のマリー・テレーズ・アーノンクールが設計した半オープンエアの音楽堂、ヴォルケントゥルム。こちらの音響が素晴らしいと聞いたが、正直半信半疑だった。 1日目はヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団、プログラムはブラームスのヴァイオリン協奏曲とスメタナの『わが祖国』、ヴァイオリン・ソロはニクライ・スナイダー。この日は夕方から雨予報が出ていたため、会場はもとお城の馬場を改造した室内ホールに変更。こちらはなかなか良いホールだった。 2日目は晴天のためいよいよヴォルケントゥルムへ。ファビオ・ルイージが振るデンマーク国立交響楽団、そして待望のルドルフ・ブーフビンダーのソロでベートーヴェン、ビアノ協奏曲第3番と、後半にカール・ニールセン交響曲第4番。 ブーフビンダーのベートーヴェンが本当に素晴らしくて、これが聴けて本当に幸せだったけれど、グラフェネッグはひとことで言って、正直音楽に集中できる場ではなかった。なにしろヴォルケントゥルムがいくら素晴らしいとはいえ、半オープンエアなので音が抜けていく。もちろん、この音楽堂は、堂外の芝生にいる人にも聞こえるように、ピクニックコンサートの要因も重視しながら設計された建物だ。舞台上で奏でられる音楽の音色に、虫の声、鳥のさえずりが混ざって聞こえるのはなかなか素敵なものだったが、しかし、悲劇的だったのは、グラフェネッグの上空が、ウィーン国際空港を離着陸する旅客機の航路になっているらしいことだ。コンサートの最中、20分おきに微かではあるが飛行機の音が耳に入ったのは本当に残念だった。 そして、もう一つは天候のことである。19時30分開演で、終焉はほぼ22時である。9月にもなると、郊外部は夜はかなり冷え込んでくる。もう聞いていて寒くて寒くて、最後はまったく集中できない。見ると、舞台上のオケメンもみんな毛布を身体に巻きつけて弾いている。こうなると、もう一体なんでここまでして、という気になってきた。
夏は都市でのコンサートやオペラがオフになり、郊外部でこういう音楽祭が無数にある。オーストリアでも、グラフェネッグなどはまだ歴史が新しい方で、ブレゲンツの湖上音楽祭や、インスブルックでは古楽音楽祭も毎年盛り上がっている。しかし、やはり音楽を聴くのに適した環境というものは絶対にあるわけで、オーストリアは自然が本当に美しい国なので、自然と音楽の融合というアイデアは確かに素晴らしいものではあるけれど、そもそも音楽とは人為のいとなみなのであって、自然の中に無理やり埋め込むとなると、それはそれで大変おかしなことになってくる。 他方、そこはもうザルツブルクは本当に特別で、歴史の中で醸成されてきた都市そのものがアルプスを背景にまるで芝居の書き割りのように美しく在り、そこに本格的なコンサートホールが三つもどーん、と構えている。まあ時々は大雨に見舞われたりもするわけだけれど、ここではあくまで音楽がメインであることには変わりない。このことの贅沢さを、よそを覗いてみて改めてしみじみと実感せずにはおれなかった。 老若男女、多くの人がピクニック気分で音楽を楽しむというアイデアは本当に素敵だと思う。ただ、個人的には、ピクニックしながら音楽を聴くのは、あまり好きではないのである。しかも、寒さに震えながら、となるともはや論外である。
グラフェネッグは行ってみていい経験にはなったけれど、来年もう一度、とは、残念ながら全く思わない。
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[ラストコンサート・クレンツィス+ムジカエテルナ最終夜]
飛ぶように過ぎていったザルツブルク音楽祭、最後の演奏会はベートーヴェンチクルスの最終夜だ。
日を重ねるうちに、大絶賛の批評も手伝ってかだんだん加熱していくチクルス演奏会。今日はとりわけ前方席はプレス関係者が多かったようだった。 プログラムは第8番と第7番。昨日と同じく、成立年代と逆の演奏順だ。 7、8はテンポからしてもティンパニやトランペットの入り方にしても、この演奏者にぴったりな曲だろう。五日間演奏してきて、どのメディアからも大絶賛を受けてまさしく今年の音楽祭の「帝王」と化したクレンツィス。もはや怖いものなし、飛ぶ鳥を落とす勢い。それも手伝って、今日は特にノリノリだった。とにかくアップテンポでひたすら前にでていくベートーヴェンだ。全楽章アレグロ、アレグレット、スケルツォで勢い良く行く8番はとにかく鳴り響きつつフィナーレまで持って行ったが、7番はもう少し表情がつく。ここでも、2楽章のイ短調をふわーっと眩暈的な強弱をつけて演奏していたのが気になるが、もうこういうのにもいい加減慣れてきた。 有名な最終楽章はまさに最大限にはじけてフィナーレ。会場は即、おーっという叫び声とともに総立ちである。やれやれ。
これで、現在のクラシック界で一番の話題と人気を集めている���ーチスト、テオドール・クレンツィスと、彼が率いるピリオド演奏のアンサンブル、ムジカ・エテルナによるベートーヴェンの交響曲を全曲聴かせていただいた。ベートーヴェンの交響曲といえば、日本人が大好きなカテゴリーなので、日本でも演奏の機会が多いし、考えてみれば贅沢な話だが、ウィーンフィル(ティーレマン)もベルリンフィル(ラトル)も日本で近年チクルス演奏をしていて、幸いなことに両方とも聴く機会に恵まれた。ムジカエテルナとウィーン、ベルリンを比較する意図など毛頭ないのだが、ひとつだけ、ベートーヴェンの交響曲の世界は、本当に深い。古典音楽を構成するすべての要素がここに全て詰まっていると言ってもいいだろう。なので、これを全曲集中的にライブで聴いていると、なんというか、徐々に心がひたひたと満たされていくような、幸せな感覚が湧いてくるものだ。しかし、今回は違った。とにかくびっくりの連続で、あっけにとられてるうちに五日間が過ぎてしまった。そして、最後の夜は、正直言って、このパフォーマンスにすっかり飽き飽きして座っていた。 「のだめカンタービレ」でも有名な第7番。私の隣の席にいたイスラエル人の夫婦も、前に座っていたオーストリア人のグループも(もちろん彼らは「のだめ」を知る由もないだろうけれど)、リズムに合わせて足を踏み鳴らし、握りこぶしを作った腕を振りながらクレンツィスと一体になってノリノリで聴いていた。思うのは、ベートーヴェンの交響曲はこんなにノれる音楽なのか、ということである。フィナーレはいつも輝かしいし、のちに続く交響曲の作曲家たち、ブラームスもブルックナーもマーラーも、生の歓びに向かって輝きを放つような、楽聖の終楽章に憧憬を抱いていたはずだ。しかし、この光り輝くフィナーレが伝える世界は、ロックンロールのような、ズンズンとビートを取りながら高揚感へと導くものとは異質なのではないか。良い演奏に出逢うと、冒頭の問題提起から緩徐楽章、スケルツォへ、そして最後にくる終楽章はひとつのつながりで、それは聴く方が足を踏み鳴らしてビートを取らずとも、その輝きは直接ハートに飛び込んでくると私は思うのだ。 これは厳密にはベートーヴェンの音楽ではなく、ベートーヴェンをベースにしたクレンツィスの音の世界にほかならない。だからこそ、好きでなければすぐに飽きる。彼がしていることはすごいことだし、こうして、形式化したクラシック音楽の世界に極めて積極的かつラディカルな形で議論を呼び起こすのは素晴らしい。ただ、彼のつくり上げたベートーヴェンの交響曲は、私の中でいろいろな演奏家によって塗り重ねられ、醸成されてきた理想系とは、残念ながらあまりにもかけ離れたものだった。
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[クレンツィス+ムジカ・エテルナ、ベートーヴェン・チクルス4日目]
第9番合唱つきの歓喜の歌声に導かれたように大歓声のなかにスタートを切ったムジカエテルナのベートーヴェン交響曲全曲演奏も、4日目の今日から終盤に入る。そうこうしているうちに、演奏会の合間を縫って指揮者のメディアトークなどが行われて、SNSを見ていると、いかにもそれらしいクレンツィス語録も増えてきた。「古典をそのまま演奏するような音楽には、自分は全く興味を持たない」、等々、見ていると故意に煽っているのか、と思えるほどの勢いだ。
演奏会の方は、4日目にしてようやくかぶりつきの席を割り当てられた。ただし、どこに座るかは、もはや絶対にわがままは言えないのはわかっている。このチケットは周囲で買えなかった人も多いし、コンサートの前には毎回「チケット求む」の人がホール前に大勢立っている。
今日は第6番「田園」→第4番、という、交響曲の中でも特に人気の高い鉄板プログラムである。演奏順が成立年代と逆だが、曲のすわりとしてはこれでいいのだろう。特に、この演奏者のベートーヴェンはとにかく「弾ける」のが特徴だから、4番は終楽章で思いきり弾け飛んでフィナーレも作りやすいだろう。 一列目で聴くと、また聴こえ方が違うので、いろいろ感じることもあった。このオケの持ち味は弦パート。バイオリン1、2とヴィオラが合わさった時のハーモニー、ピリオドならではの儚さとざらっとした荒さが相まって、独特の魅力的な音色である。チェロの壁の厚さもいいのだけど、おそらくそういう指示なのだろう、アレグロやプレストへと強い音でテンポアップする箇所など、6人全員が常に弓を楽器に当てて打って音を出すところに、どうしても違和感を感じる。これは今日に限ったことではない。この現象は、ガシガシ引いていてつい当たっちゃった、という感じであればカッコいいのだが、効果を狙ってやるとちょっとくどい感じになるのは否めない。 そして、今日はこのチェロパートにアクシデントが。舞台側から2番目に座っているセカンドの奏者が、3楽章の終わりから曲間を取らずに「嵐」の4楽章に移行するときに、なんと、弓を破壊!! …楽器を弾く聴き手ではないので詳しくはわからないけど、見ると、チェロの弓の上部のチップに近いところで、弓毛がそっくり外れてだらりと垂れている。チェロパートの6人はお互い顔を見合わせて肩をすくめたりしていたが、4楽章に入るとすぐ総奏なのに、チェロが一人全く弾けない状態なのだ。しばらく呆然と座っていた彼、いきなり立ち上がって楽屋に消え、3、4分して新しい弓を手に戻ってまた弾き始めた。…これは…。バイオリンの弦が切れた時は、後ろの奏者から楽器をもらってスペアを前に送るそうだし、ウィーンフィルなんかだと、控えの楽器が舞台上に用意されていることが多い。弓の事故には、何かマニュアルはないのだろか。少なくとも、しばらくの間チェロが一本抜けた状態はかなりまずいと思う。クレンツィスも気になったらしく、前半終了後すぐ、この奏者に声をかけて事情を聞いていたようだ。しかし、チェロの1番2番、その後もパート譜を落としたりいろいろ落ち着かない。もちろん、演奏が良ければなんでも許されるのだろうけれど、ある程度のステージでの振舞いというのもあると思う。少なくともステージで演奏する時は、オペラの暗いピットにいる時よりも、多少緊張感があってもいいと思った。
さて、今日、前列で第6番をじっくり聴いてみて、いくつかの箇所に、これまでの演���では聞いたことがないような序奏部分や導入部分がちょこちょこと付け加えられているのに気づいた。果たして、クレンツィスのオリジナルなのだろうか。主題が始まる前に、バイオリンソロでふわーっと導入の旋律をつけたりするのだが、これは賛否両論だろう。例えば、モーツァルトの、ほとんど上演機会のないオペラを発掘してきて聞かせるような場合なら、こういうのも大いにありだと思う。ただ、ベートーヴェンの交響曲は、私も含め多くの人が聞き慣れて、曲を細部まで記憶しているから、こうした冒険はなかなか難しいのではないだろうか。 クレンツィスのタクトがやはりあまりにもアイキャッチングである。楽章の終わりにはたいてい、曲げた左肘をぐいっとつきあげて、横顔を見せたまま頭を後ろにそらすキメのポーズ。そのたびに、刈り上げて一部を長く伸ばした独特のヘアスタイルがふわっと後ろになびく。客席からはため息と興奮気味のささやき声が漏れる。…クレンツィスには心の中に強い反骨精神があって、曲の解釈ひとつにしても、「伝統に沿わず、自分なりの世界観を完成させ、アピールしていく」という強固な意志があるのだ。音楽家としてのこのスタンスに、実は、服装や髪型、舞踏のような指揮スタイル、そしてオケを立って演奏させることも含めて、すべて連関していると思うのだが、しかし、聴き手は必ずしもそこまで賢くない。この場所で4夜演奏してきて、すでに、一部の観客はクレンツィスのダイナミックなアクションを見たくて、期待に胸を膨らませている。そして、なんだかアニメのキャラみたいなその外見に胸をときめかしているご婦人も多そうだ。…クレンツィスよ、ビジュアルも一度ウケてしまうと社会への迎合となりかねないのだよ。ご注意召されよ !!
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[サイモン・ラトル+ロンドン交響楽団、二日目、マーラー9番] ラトルとロンドン交響楽団は連続2日の日程。今日はマーラー交響曲第9番1曲だけ、休憩なしのプログラムだ。昨日はツィメルマンの共演もあり、スラヴ舞曲もありで、どちらかといえばファンサービス的な面のやや強い演奏会だったのに対し、本日はマーラーの中でも比較的長くて重い交響曲の一本勝負なので、どちらかといえば演奏者も本日の方が力の入るところだろう。 聴く側も、2日目になるといろんなことがわかってくる。このオケは、管パートが本当に素晴らしい。安定感があるけれど、決して飛ばしすぎず、どの楽器も本当に上手で音も美しい。 特に、二楽章のレントラー風の部分で、元のトリルに乗せてファゴット、オーボエ、クラリネットと、テーマを渡していくところなどは、それぞれの楽器が豊かな表情をつけていて、ここは管楽器の競演が聴ける部分なので、このオケの真骨頂といった雰囲気だった。 そして、今日もラトルが素晴らしい。右斜め上でじっと見ていたが、彼のタクトの魅力は、見ていて指示がわかりやすいところ。これはあくまで一観客の視線で言っているのだが、例えば、サーっと指揮棒を払うと、その先の楽器をこう鳴らしたいんだ、と見ていてよくわかる。オケ視線はまた別なのだろうけれど、こういう指揮を見ていると、指揮者が頭に描く曲の理想のデッサンを見ながら聴いているようで、とても楽しいのである。これは、ライブの醍醐味だと思う。 マーラー最後の交響曲の、第四楽章。冒頭の弦のアタージョが、厚みがあってなおかつ繊細で、本当に美しかった。そして、「死に絶えるように」のラストまでが本当に一歩一歩じっくり計算されていて、少しずつ音楽が弱まっていき、死に絶える感じに近づいていく。今日のラトルの演奏、少し気になってさりげなく時計を見ながら楽章の時間をラフに計っていたのだが、そんなにハイテンポに聞こえないのに時間的にはそれほどゆっくりもしていなかった。第一楽章で32分ほど。ただし、最後のこの末尾の部分はものすごくゆっくりと持って行っていて、だからこそ、音楽の最後の吐息が本当に感動的だった。そしてさらに、ラトルが棒を下ろすまでの時間が長かった。客席も静寂。それから、あちこちから「ふむ」「ふむ」という納得したようなため息が上がり、一気にブラヴォーと大アプローズ、スタオベへ。重さはあるけれど随所に音楽の楽しみを秘めた、素晴らしいマーラーだった。
今年は祝祭大劇場のスケジュールはこれで終わり。あとは、モーツァルテウムでのベートーヴェン・チクルスを2回ほど残すのみである。 いろいろ抱えていたり、尋ねてくる人が何度かあったりして、いつもよりもさらに飛ぶように過ぎていったザルツブルク音楽祭だが、また来年、この場所に座る機会があるように、祈るばかりである。
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[サイモン・ラトルがロンドン交響楽団と初ザルツブルク!]
この6月はベルリン・フィルが大騒ぎだった。なにせ16年間首席指揮者を務めたサー・サイモン・ラトルが任期満了で英国に帰ることになったからだ。オケメンも聴衆も「ラトルさん、ありがとう!!」一色になって送り出した。 さて、そのラトル氏は、昨年からすでにロンドン交響楽団の音楽監督に就任し、ベルリンフィルの任期満了とともにこちらの首席指揮者に就任したようだ。ザルツブルクでは、今回が新就任オケとのお披露目的な出演となる。それにしても、ロンドンで開催中のBBCプロムスで、先日土曜日にラヴェルのオペラ『子供と魔法』をともに演奏し、その後すぐにザルツブルク入りして、全く別のプログラムを2日間にわたって弾くというスケジュールなので、実にタフである。 サー・サイモン・ラトルはベルリンフィルの首席時代、現地で若い聴衆層の開拓や青少年の音楽教育プログラムなど、社会的にも様々な貢献を残してきた。音楽活動の領域では、言わずもがなである。それゆえ、昔はロスフィルなどにもいたはずなのに、あまりにもベルリンに馴染みすぎていて、もうすっかり、ラトルといえばベルリンフィルがもれなく付いてくるような感覚を抱いてしまっていた。なので、ラトルがポディウムに立つと、頭が勝手にベルリンフィルを想像していまうのだが、いやいや、もうこの二つの演奏家は別々なのだ。だいたい、目をつぶって聴いていても、このオケはベルリンフィルとはまるで違う音色で鳴るのである。 時は流れる。ラトルの互角のカウンターパートだったあのやたら元気なドイツ人集団は、新しいキリル・ペトレンコというヘッドをみずから選出し、5日後にはこの新首席とともに同じ劇場に出演するスケジュールになっている。こんなことは当たり前のことだろうから、当事者たちはなんとも思っていないのだろうが、思い入れのある聴衆は、一抹の寂しさと甘酸っぱさをかみしめながら見守っているに違いない。 ラトルとロンドン響のザルツブルク初共演コンサートは今日と明日、2日間のスケジュールで、本日がバーンスタイン、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、明日がマーラーの9番というプログラムである。 本日前半は、バーンスタインのピアノ独奏つき交響曲「不安の時代」(交響曲第2番)。交響曲として作曲されながら、ピアノ協奏曲的な色彩が色濃い作品である。1940年代の雰囲気を表して詩人のオーデンが書いた作品「不安の時代」を表題にとっていて、第二次世界大戦の時代に社会を包んだ不穏な空気が音楽にも落とし込まれている。作曲家のバーンスタインが2018年に生誕100年を迎えることで、今年はいろいろなところでその作品が演奏されているが、この「不安の時代」に関しては、作曲家自身が奇しくも1959年のザルツブルク音楽祭で自らニューヨークフィルを指揮しており、こちらはCDにもなっている。 今日のピアノ独奏は、クリスティアン・ツィメルマン。無調音楽風から、映画音楽を思わせるセンチメンタルなメロディ、そしてジャズやラグタイムの調べまで、いろいろな音楽の要素が詰めこまれたこの作品を、メリハリのあるピアノソロでしっかりリードしていて、とてもよかった。なにしろ、ツィメルマンとラトルの阿吽が、演奏に何ともいえない安定感をもたらしている。ピアノのアインザッツを指示するところなどは、笑顔でアイコンタクトしていたりと、二人の信頼関係がしっかり見て取れる。 ロンドン響が、ベルリンフィルとはまた違った味わいで、なかなかしっかり聴かせてくれた。特に印象深かったのは、パートIIで、硬派な表情を構築していた音楽が、突如ジャズ風に変わるところ。ビートを取りやすい曲想に、結構ノリノリで入っていく演奏が多いのに、こちらは跳ねすぎないよう適度に抑えながら、ただし、例えば7人奏者総出で打ち鳴らすパーカッションはとても洗練されたストロークで、全体にセンスの高さを感じさせられ、思わず夢中にさせられた。 ツィメルマンはソリスト・アンコールでラフマニノフの前奏曲を演奏。彼もまたすごいキャリアを持つスターだが、やはり最近は腰を痛めて全然出演できないことも多く、演奏できても、心配になるほど調子が悪かったのだ。しかし、今日は、協奏部分もソロのアンコールも、スターの貫禄を見せつけるような勢いで、聴いていて嬉しくなった。見た感じも最近になく颯爽としてして、本当に調子が良さそうだ。 後半のプログラムも盛りだくさん。ドヴォルザーク、ヤナーチェクと、チェコの作曲家でかためて、まずはドヴォルザークの「スラヴ舞曲」作品72を1-8番まで全曲演奏。これはすごい聴きごたえである。 思えばラトルは「スラヴ舞曲」が大好き(のよう)だ。ベルリンフィルでも、ある時期以降は、アンコールがあるとしたらたいていはスラヴ舞曲だった。チェコとのつながりは、奥さんのマッダレーナ・コジェナゆえか、などと余計なことを考えてしまうのだが、7番などはもういつもすごい迫力で、興奮の中に幕を閉じるコンサートの終幕には相応しい選曲でもあった。オケは変わっても、そのラトルの指揮でこの組曲が全曲聴けるのは、うれしい機会である。 全部の楽器の音が前に出て前に出て、そして最後には音の爆弾になって炸裂するようなベルリンフィルと、新しく首席を振るロンドン響の音とは、本質的に全く違う。こちらの方がうんと冷静で、どちらかといえば少々お上品な音を作るオケである。スラヴ舞曲も、出だしの1番などは、あたかもウィーンのポルカのような趣きで、だが、これはこれでまた違った味わいがあり、聴いていて楽しめた。しかし、なかでもやはり力がこもるのは第7番。曲の有名度も手伝ってか、ここで客席が耐えられなくなって思わず拍手に出た。作品72の曲集では、このあとにもう一曲、静かなレントの第8番が続くのだが…。だが、そこはもうラトルが神対応であった。大アプローズに、一度指揮台から降りて笑顔で頭を下げたあと、コンマスの顔をのぞき込んで、「どうする? ここでやめておこうか?」と、ゼスチュアも交えて会話している。コンマスはしきりに首を横に振っている。相談の結果、もう一度客席を振り返ると、ベルリンフィルのプロモーションなどで聞き慣れた、決して流暢ではないけれど、しっかりと聞き取りやすいドイツ語で、「みなさん、もう少しだけあるんです。お聞きください」とさらっと語りかけ、「もう一曲あるのに…」とハラハラしている人たちをホッと笑顔にさせた。このあたりのラトル、それはもう上手としか言いようがない。 最後の曲はヤナーチェクのシンフォニエッタ作品40。作曲家がチェコ民族主義の体育協会、ソコルのために書いたファンファーレをバックボーンにした作品である。通常のトランペット3本に加えて、舞台最後部にファンファーレのバンダ・トランペットが9本ずらりと並んで、合計12本が高らかに鳴り響く、重厚かつ華やかな曲である。今日のブログラムは金管パートが大事な作品ばかり。この最後のシンフォニエッタは、少しも揺るぎのない12本のトランペットと金管のみごとな総奏を輝かせて、このオケの強みをしっかりと印象づけた。
とにかくもう、サイモン・ラトルが素晴らしい。昨秋くらいまで、ほぼ世界各地でベルリンフィルの追っかけみたいなことをしていたが、こうしてみてみると、私の心を鷲掴みにしていたのはベルリンフィルなのか、それともラトルの仕掛ける音楽の魅力だったのか、もはやわからなくなるほどだ。みごとなのは、ラトルのタクトが、どんな難解な現代作品でもぜったいに退屈にさせないことだと思う。ベルリンでは「世界初演」の披露などもしばしばあったが、現代曲を聴いて、「騒音!!」のように感じて逃げ出したくなったことは一度もなかった。今日のプログラムにしても、バーンスタインの前半や、ヤナーチェクも、解釈ともって行き方によってはもう帰りたくなるような肩の凝る演奏に陥るかもしれない。ただ、ラトルの手にかかると、すべてが音の魔法のように魅力を持って輝き始めるのだ。これは、オケメンも聴衆もあっという間にその心を捉えてしまう愛されキャラとともに、もう天性としか言いようがないだろう。音楽の楽しさという意味では、今日の演奏会が、今年のザルツブルクのオーケストラコンサートの中でも、ひときわ抜きん出ていたと思う。 こうして、ベルリンフィルを去って初めて、ラトルという一人の指揮者の資質とすごさに正面から向き合う機会をもらっている。明日のマーラーが本当に楽しみだ。
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[マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル → クレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェンチクルス三日目へ]
1日2本建ての過密スケジュールもいよいよ今日が最後。 まず17時からマウリツィオ・ポリーニのピアノリサイタル。 私がまだ子供だった頃、ポリーニといえば、ピアノ界の神様みたいな存在だったが、そのポリーニも今年76歳。歳を重ねても尋常でないほど練習をするらしく、そのために故障していることが多いのだとかなんとか、とかく最近はあまりいい噂を聞かない。私がヨーロッパでポリーニを聴くようになって5年くらいになるが、正直言って現在の彼の生演奏は、往年の演奏の面影もないような状態である。それでも、やはり何かしら魅かれる部分があって、音楽祭のスケジュールを組む時に、何となく買ってしまうのが彼のリサイタルのチケットなのだ。 今日のプログラムは、前半がブラームスの二つの夜想曲、シューマンのピアノソナタ第三番、後半がショパンだけで、夜想曲作品62、ポロネーズ作品44、子守唄作品57、スケルツォ作品39。 弾き始めのブラームスは、美しい旋律の出し方に思わずハッとした。ポリーニ、ひょっとして良くなっているのか??一昨年より昨年が良かったけど、今年の方がまたずっといい。叙情的でしっとりとした夜想曲は、故意に硬質に作っているところはあったが、見事だった。ふむふむ、と思いつつ聞いていると、技巧を凝らしたシューマンのグランドソナタはもうボロボロ。指が回らない箇所もたくさんあって、そういうミスが曲が進むほど多くなってくる。ひょっとしてスタミナがなくて、弾いていくとだんだん疲れてくる、とか、そういうことなのだろうか。ただ、本人は鼻歌で旋律をなぞりながら、ごくごく上機嫌で弾き進めている。 後半はショパンだけになるが、かつての神業的な録音の記憶が存在するせいなのか、こちらの方がさらに不可解な演奏だった。テンポが速くなると必ず指がすべるし、全体に変な硬さがあって、メロディをスムーズに出していかない。こういうのがあるから、心無い人たちに「劣化が甚だしい」などと陰口を叩かれるわけだ。しかし、音をどんどん飛ばして弾き進むショパンを聴いていると、やはりポリーニならではの美しさというものは明らかにある。何しろ高音がキラキラときらびやかで美しし、そして、ショパンの曲で中間部で変調するとき、短調から長調になるときに、ふっとした彼独特の間合いがあって、それが本当に魅力的なのだ。これこそ技巧を超えたうまさ、というのだろうが、おそらく若い頃のポリーニの演奏に魅了されたことのある人は、現在の彼の演奏の中にも、こういう深い魅力を巧みに読み取ることができるのだと思う。 そして、やっぱりすごいのはスターの貫録だ。こんな(失敬だが)ボロボロの演奏をさらっと短時間で弾いて、無条件にこれだけ多くのブラヴォーが飛ぶピアニストはポリーニだけだろう。今年もピアノリサイタルはたくさん聴いてきたが、観客のテンションの高さはポリーニの時が最高レベルだったと思う。しかし、こういうアプローズは、今日の演奏だけではなくて、録音も含め、彼がこれまでの人生の中で積み上げてきた業績すべてに対するリスペクトとして解釈したい。 ***
18時50分に祝祭大劇場でリサイタルが終演して、モーツァルテウムでのベートーヴェン・チクルス開演が19時30分。かなり忙しいスケジュールである。 クレンツィスのベートーヴェン交響曲チクルス演奏会は本日で三日目。プログラムは2番と5番「運命」である。 3日目にしてようやく前方席で聴くことがかなったが、当然のことながらどこに座るかによって聴こえ方が全然違う。音のバランスとしては2夜目の中央列が良かったが、前列だと、総奏になった時の迫力がより強く伝わってくる。1夜目に強く感じたムジカエテルナの、土俗的とも呼べるような独特の「雑味」も、ここで聴いた方がより強く感じられる。 クレンツィスのベートーヴェンがとてもユニークなアプローチであることはいまで聴いてきてよくわかったが、この解釈の良さは、初期の古典的な色を残す作品よりも、中期から後期になって編成も拡大し、作曲家自身がいろいろと着想を盛り込んだ作品の方がどうやらおもしろそうだということも、少しずつ分かってきた。今日の演奏でも、2番よりも5番が断然よかった。 前に座ってじっくり聴いていて思ったのだが、クレンツィスはどうやらオリジナルののスコアを多少いじってもいるようだ。ベートーヴェンの交響曲はどれも聴きなれた曲ばかりで、これまでの自分なりのイメージを思い浮かべながら聴いていると、時どきハシゴを外されるようなガツンとした感覚がある。それが何だろうとずっと思っていた。おそらく、パート譜を微妙に変えたり、反復をしなかったり、小節を飛ばしたりをしているのだろう。記憶と異なる部分が妙な感覚を生み出すのだ。 とてもエキセントリックな解釈なのだが、最高に良かったのは第四楽章だった。かなりのハイテンポで突っ走るのだけれど、それが痛快と思えるような小気味よさがあった。メリハリを利かせてドラマティックに仕上げた、その企図がここではとても成功していると思った。こういう作り方は、やはり日頃オペラを演奏しているオーケストラであることを強く感じさせずにはいない。 曲が終わったあと、指揮者が引いてもお客さんの拍手が止まらない。オケはまだ舞台の上にいる。クレンツィスはしばらくして戻ってきて、戸惑ったような笑顔で指揮台に上がり、「こんなことってあんまりないんだけど…」と、相当困惑した口調で語りかける。オケに指示したあと、「5番第1楽章の別ヴァージョンです」。まさかのアンコール、先ほどの運命の主題の第1楽章を別の解釈でリピートである。そして別バージョンとは?…、本番よりオーソドックス。つまり、クレンツィスのフィルターをかけない、素のままのベートーヴェンである。なるほどね。今回のツィクルスは、ここまで冒険して演奏しているということが改めてよくわかった。そしてここで「普通ヴァージョン」をあえて演奏するということは、「ここまで面白くしているんだよ」ということを観客にアピールする意図があったのだろうか。 ところで、今日の演奏会で、突如、面白い記憶がよみがえった。…というか、むしろ記憶力悪いんじゃないの? とも言える話なのでお恥ずかしいのだが、備忘録として記しておきたい。今日は座席が3列目だったので、舞台がよく見える。クレンツィスの表情もここだとよくわかるのだが、私の記���を引っ張ったのは、彼の派手なジャンプだった。ややオーバーアクションな指揮者なので、時どき指揮台の上でかなり力を込めて飛ぶ。ドン、と着地すると、このホールは舞台があるのに、私が座っているところまで衝撃が伝わるのだ。あまり好きになれないこのドン、というジャンプは…。一気によみがえったのは、2011年の2月に、短期留学の学生を引率して、ウィーン楽友協会大ホールで、若い聴衆向けの「ジュネッセ」というコンサートシリーズを聴いた時の記憶だった。あの夜の指揮者、絶対彼にちがいない。このドーンという音を立てたジャンプもそうだし、そして、あの日はモーツァルトの「ジュピター」だったが、古典の作品を解体していくようなエキセントリックな解釈も、クレンツィス以外には考えられない。帰宅して、すぐに検索をかけた。キーワードに、"Currentzis Jeunesse Musikverein 2011" と入れたら、楽友協会は過去のコンサートの情報もアーカイヴしてあるから、すぐに出てきた。
https://www.musikverein.at/konzert/eventid/18105
2011年2月17日で、オケも同じムジカエテルナ、ピアニストのアレクサンドル・メルニコフがソリストとして参加したようだが、のちにリサイタルにも数回出かけているメルニコフのこの日の記憶は、残念ながら何もない。鮮明に覚えているのは、とにかくざらっとした手触りのモーツァルルトが非常に奇異な感じをよび起こしたことと、指揮者の名前が何と発音していいのか読めなかっことだ。そして、ホール内で学生たちが写真撮影などをしていて遅く出たら、カールスプラッツ広場側に、旧式の、いかにも東欧から来たふうの大きなバスが止まっていて、終演後のオケメンたちが楽器を抱えて次々に乗り込んでいたことも妙に記憶に残っている。おそらく、終わったらすぐに次のツアーの目的地に向かっていたのだろう。時間も遅かったし、とても寒い冬だったので、見ていてずいぶん大変そうな印象を受けた。あれから7年。若者向けのコンサートにバスで移動して出演していたムジカエテルナとクレンツィスが、いま、本当にスターになろうとしている。だが、彼らのやっていることはほとんどあの頃と変わらないのだ。古典を解体して再構築するようなアプローチも、音を立てて派手にジャンプするタクトのスタイルも。彼らがこのまま自分たちのやりたいことをストレートにアウトプットしていって、それが正当な形で認められていくよう、心から願いたい。
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[ウィーンフィル、4週目はヘルベルト・ブロムシュテットのブルックナー] 4週目のウィーンフィル・コンサートシリーズは、ヘルベルト・ブロムシュテット。今年のウィーンフィルのコンサートは全5回で、これが終わるとあとは来週のヴェルザー=メストを残すだけとなる。今年は初回から4回を聴けたので、ずいぶんじっくりと楽しんだことになる。 本日のプログラムは、「2かける4は…注目!」というタイトルになっている。「注目!」(直訳すると「注意して!」だろうか)はドイツ語で"geb acht!"で、achtは数字の8の意味もあるので、2×4=8 にかけているのだろう。ダジャレ風ではあるが、つまりは、プロムシュテットが振るのは2曲の交響曲で、それがシベリウスの4番とブルックナー4番、ということなのだ。 4つながりなのだが、実はこの選曲は考え抜かれたものだろう。未完の第8番、初期の合唱つきクレルヴォ交響曲も含めて数えるとシベリウスの交響曲は全九曲(!)ということになるが、ちょうど真ん中に挟まれた第4番(1911年完)は、それまでの叙情的な交響曲作品の曲想とは打って変わって、作曲家の悩める精神の内省に入り込むような、難解で硬派だが、峻嶺のような毅然とした趣を秘めた作品である。そして、その音の構築性には、なんとなくブルックナーに通じるものがある。プログラケの前半と後半と、近現代の交響曲の粋をじっくり楽しめるようになっているわけだ。(ちなみに、この交響曲で有名な、終楽章のグロッケンは、今日は鉄琴のグロッケンシュピールを使用)。 ウィーンフィルは、音楽祭期間中に交代で夏休みを取るので、今日はだいぶんメンバーが入れ替わっている。ダナイローヴァはフォアシュビーラー席で、コンマスは主席のライナー・ホーネック。フォルカー・シュトイデも、いつの間にかいなくなっている。菅パートなどもほぼ総入れ替えしていたので、今日のコンサートがひとつの時期的区切りだったのかもしれない。 ネルソンス、サロネン、ムーティ、と、すごいマエストロのもとで色々な音楽を聴かせてくれたウィーンフィルだが、プロムシュテットがポディウムに立つとなると、お客さんの期待としても、もう絶対にブルックナーは外せないだろう。そして、この「ロマンティック」がもう本当に素晴らしかった。週の途中に色々なものを聴いているので、やはり週末ここに戻ってきて思うのは、返す返すもウィーンフィルのすごさである。作曲のスケッチの際、ザンクト・フローリアンのパイプオルガンを使っていたというブルックナー。他の作曲家にはないな音の塊の作り方は、私には、どうもこの経緯と関係があるような思われて仕方がない。ともあれ、大編成になったオケがさらに総奏になって響き渡るのが真骨頂のその交響曲だが、大音響になっても、一つ一つの楽器の音がつやを帯びながらそれはそれは美しく前に出て行く感じが、さすがとしか言いようがない。 ブロムシュテットは7月に91歳になったばかりのはず。さすがにちょっとお年を召した感じになってきたが、それでも指揮は本当に見事。今日の曲目は、二つの作品とも、マエストロはスコアなしで、改めてその貫禄をしみじみと感じさせられた。 ブルックナーの交響曲は、オーストリア人にとってある意味ソウル・ミュージック的な位置付けであるらしく、毎年、ウィーンフィル+ブルックナーという組み合わせでくると、ドイツ語を話すお客さんは心底熱狂する。今日も、終曲後、ややフライング気味のブラヴォーがあった後、1分以内に会場は総立ち状態に。マエストロは、全パートの奏者と丁寧に握手を交わすが、アプローズの時、ホーネックの後ろに控えていたダナイローヴァが、何度も涙をぬぐっていたのが印象的だった。オーケストラににとっても、今日はルーティンのコンサートでは決してなく、感動的な演奏だったのではないかと思う。 私の今年のウィーンフィル・コンサートシリーズはこれで全て終了。ウィーンフィルはこの秋には来日公演が予定されているので、オケ自体とはしばしの別れ、という感じだが、できればまた来年、マエストロ・ブロムシュテットとこの場所で会いたいと、心から願うばかりである。
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[クレンンツィス+ムジカエテルナ、ベートーヴェン・チクルス2日目]
私の音楽祭のスケジュールもいよいよ最終週に突入した。 1日2本立ての慌ただしい計画もちょっと落ち着いて、夜、モーツァルテウムにクレンツィスのペートーヴェン交響曲チクルス2日目の演奏を聴きに出かける。 水曜日の祝日に、ほぼお祭り騒ぎ的に幕を開けたチクルス、先日はホールもオケの演奏向けの場所ではなかったし、熱狂的満員御礼の会場のなかで座った席もだいぶん横に振っていて、しかも、第九という少々特殊な作品でもあったため、演奏としっかり向き合うことができなかった気がして、今日が心待ちだった。 とにかく相当人気が高かたったクレンツィス、今年はチケットをかなり優遇していただいていて、良い場所にばかり座らせてもらっていたのに、今日だけは13列目の端っこ。やはり難関だったようだ。例年でも、ここまで後列に座ったことはさすがにない。が、シューボックス式の音響の良いホール、思ったよりひどくなくて、音のバランス的にもむしろすごく良かった。ただし、このホールは狭いので、満員まで人がギュギュウに入ってしまうと空気が循環しない。しかも空調は原則、演奏中止めてしまうので、もう酸欠になりそうになりながら、話題沸騰の「炎のベートーヴェン」を聴いてきた。 本日のプログラムは、1番のあとに休憩を挟んで、3番、いわゆる「英雄」という組み合わせである。 クレンツィスのベートーヴェン、最初の印象ではとにかくテンポが早い。ぐいぐい突っ込んでいくので、そのスピードに置いていかれそうだ。ただ、注意して聞いていると、全体をただハイテンポにしているわけではなく、場所によっては今どの箇所なのか見失うほどにダラダラに緩めてみたりもしているのだ。それに、第九の時にも気になっていた、音の強弱のメリハリを異常なまでに強調してつけていくのもやはり気になった。 クレンツィスの指揮は最大限にビジュアル系である。彼の活動をそれなりに追っていくと、ビジュアル効果を気にしてタクトを決めるようなタイプの指揮者ではないことはよくわかるのだが、他方で、彼独自の身体言語のようなものを持っていて、それが非常に視覚を捉えるのである。前回、初めてのライブがオペラだったため、ピットの中ではあまりよくわからなかったのだが、交響曲全曲となると、ついついクレンツィスばかりを凝視することになる。その全身をくまなく最大限に使った独特の動き方はなかなか美しくて、時に現代舞踊のように見えることすらあった。そして、第1番のフィナーレで人差し指を立て、客席に横顔4分の3くらいを見せて、ティンパニーにアインザッツを出すシーンなど、あまりにドラマティックすぎて呆然とさせられた。これは…。そんなにクラシック好きでない人でも、クレンツィスには夢中になるだろう。まさに、退屈なクラシック界を一気に変えていく新しい時代のヒーロー誕生である。いや、プロモーション会社やレコード会社の現在のクレンツィスの売り方は、少なくともそうなのだ。これでいいのか、クレンツィス。引き返すならいましかないぞ。…ここのところ、ずっとそんなことを心の中で思っている。 ムジカエテルナ。悪くはないのだが、完璧さには欠けている。このアンサンブルに熱狂する前に、この点はちゃんとわかっておいたほうがいい。どう見ても弱いパートがいくつかあるし、そして、合奏がハッとするほど素晴らしい弦パートにも、いまひとつ足りない部分がある。それは、第3番の終楽章のピチカートの折れ方などを見れば如実にわかる。そのあとに続く、2本のバイオリンソロパートも、かき消えんばかりで心もとなかった。 もちろん、帝王クレンツィスが自分が納得するまで指示出しをしているから、全体のレベルとしてはものすごく高いのだ。ただ、まだ青さの残る若いオケと、エキセントリックなまでに個性的な音楽を作っていくクレンツィスの演奏を、もう少し静かに聴きたいと思うのだ。今年のザルツブルクは、最初から彼らの絶賛大成功がお膳立てされていて、ものすごく頑張るアーティストの努力と情熱がその上をから滑りしていく感じが非常に居心地悪いのである。 ベートーヴェンの交響曲は、楽聖の人生の悩みを、いわば四コマ漫画にまとめたような面がある。純粋でナイーヴな問題提起、慰め、悩みと怒り、そして最後は必ず喜びの賛歌のフィナーレである。クレンツィスの、輝かしく走りきる音楽は、このフィナーレにこの上なくうまくはまっていく。この点だけは、好みかどうかは別にして、文句なくかっこいいし、聴いていて楽しめると思う。まだまだ今日が二日目で、主要作品は先に残っている。残る3日が楽しみだ。
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[アンドラーシュ・シフ 平均律クラヴィーア曲集 全曲演奏]
アンドラーシュ・シフは今年は2日間のスケジュールで、8月12日と本日の16日、バッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏を披露した。 12日に第1曲集、16日に第二曲集を弾く。 平均律クラヴィーア曲集は、第1集と第2集、それぞれ、24の調すべてを使った24の前奏曲とフーガからなっている。なかなか演奏会で全曲演奏の機会はないと思うので平均的な演奏時間はわからないが、CDにすればだいたい4枚組になるので、これを一気に弾いてしまうというのは、なかなかチャレンジングな試みだと思う。 どのホールも、普通にしていると最新のスタインウェイ・ピアノが用意されているザルツブルク音楽祭だが、シフは楽器にこだわり、ベーゼンドルファーや、私物のベヒシュタインを持ち込んだこともあった。今年はバッハの平均律という、原点に帰るようなプログラムをぶつけてきたシフ、楽器の方はあたかもふふと何かのこだわりを手放したかのように、舞台には普通のスタインウェイがポツンと乗っていた。 バッハの作品に関しても多くの演奏を残しているアンドラーシュ・シフ。古楽を聴く人の中には、作曲家が生きた時代の楽器と奏法にとにかくこだわる人も多いので、そういう立場からいえばスタインウェイでバッハを演奏することそのものが邪道なのかもしれないが、まあ、細かいこだわりはおくとして、シフのバッハのこれまでの録音は、非常にオーセンティックな演奏が多かった。今回の連続演奏会での演奏も、特に何か冒険をするというわけではないのだが、よく聞いていると、バッハが「すべての調を網羅する」意図で書いたこの曲集、ひとつひとつの調に色をつけながら、まるで24ページの美しい絵本のように仕上げていく。演奏しながら、曲に抱く自分なりのイメージをていねいに伝えようとする意図がとてもよくわかった。フーガもけっして構築的に表すのではなく、右手と左手で入れ替わるパートが時に絡み合い、揺らいで、意外な音を作り出すようなこともある。高音部はキラキラさせたまま、中〜低音部を、わりと粘りのある濃い音に作っているせいもあるのかもしれない。見ていると、ペダルを、けっして踏み込まず、だがごく微細に使って、綿密に音の感じを計算しているようだった。しかし、こんな仕掛けをいろいろ盛り込みながらも、全体としてオーソドキシーという領域からはけっして足を踏み出さず、きわどい演奏にならないところは、さすがシフである。
1日目のシフは、もう鬼気迫る雰囲気だった。きちんとチョッキ付きのスーツに蝶ネクタイで、昨年までより随分フォーマルな出で立ちだ。そしてこの日は、24の前奏曲とフーガを、ほとんど曲間も取らず、2時間足らずで一気に弾ききった。これは大変にタフである。この日は客席もすごく良かった。シフが好きで毎年聴きに来ている人も多かったし、こんな、彼のピアノを「聞きたくてたまらない」聴衆をかぶりつきにぞろっと揃えて、この人たちが息もつかないで聴き入る中のことであった。最後、ロ短調のフーガを弾き終わるとすぐに会場は総立ちになる。この日のシフは、魂が演奏に入りきってしまったような顔つきで、何度か呼び出されるとおもむろにもう一度ビアノの前に座り、「ゴルトベルク変奏曲」のアリアを弾き始めた。シフファンらしき一列目の若い日本人の女性はもう頬を上気させて笑顔で聴いていたが、私は、ひょっとしてシフは、休憩なしで2時間の平均律で消耗しきった聴衆を尻目に、このまま変奏部分に突入するのではないかと、本気で密かに心配してしまったほどだった。さすがにそれはなかったが、そのくらいハイテンションだったということだ。 2日目の今日は少し雰囲気が違っていて、恐ろしいようなところがなくなり、若干落ち着いている感じだった。それだけに、演奏もぐいぐい引っ張っていく部分が少なく、より繊細になっているように思えた。 1日目が相当疲れたのか、プログラムに告知無く、今日は13集まで弾いたところで、ふと舞台を下がってしまった。あとで隣席の人に聴いたら、2日分を一冊に綴った販売プログラムではなく、ウェブで印刷する最新の演奏曲目一覧のページでは、「途中休憩あり」と注意書きされていたようなので、やはり急に決まったことなのだろう。 それにしても驚いたのは、7時半開演で9時前に休憩が入ったら、多くのお客さんは終演と勘違いして帰路についてしまったことだ。特に私が座っていた一階前方ではこの誤解帰宅の傾向が著しく、一列目などはほとんど人が残っていなかった。隣席の婦人と顔を見合わせ、肩をすくめるしかなかった。そういえば、13まで弾いてシフが中間アプローズに答えていた時、一列目のお客さんたちはやたらシャッターを押しまくっていたが、本当に終わりだと勘違いしたのだろう。 悲しいことだが、ザルツブルクのセレブ風観客のレベルの低さがここに如実である。バッハの平均律!!! 24の調があるから24の前奏曲とフーガがあるんじゃないのか!? だいたいみんな曲を知らないし、その成り立ちも知らないということだ。毎年ここに来て、客席に座っていて、時たま、周囲に座っているヤツは全員バカなんじゃないんですか??とふっと思うことがあるのだが、今日のようなことがあると、その予感がバッチリ的中していることが、言い訳の余地もなく明証されたことになるわけだ。 そして、今日は私の横の座席6席と後列7席くらいを、アメリカ人の観光客が占領していて、この人たちがもうありえなかった。平均律クラヴィーア曲集は、作品として聴き手にとってもかなり忍耐力を要する。聴いていて、メロディが楽しめるというわけではないし、むしろ、実験風な音の迷路に迷い込むような部分が多い。普段、バッハや鍵盤楽器の演奏を全く聞かない人にはついていけないところが大きいだろう。このグルーブ、前半で十分飽きていたのに、不運にも休憩を認識して帰ってきて、後半はもう退屈仕切っていた。しかも、9時くらいに始まって10時20分に弾き終わっているから、もう帰りたくてたまらない。22集のフーガのラストで、真ん中に座っていた初老のおじさんが「終われ終われ、ここで終われ!」と小声で変な魔法をかけていて、もうこれは犯罪じゃないのかと思えてきた。最後に大ブラヴォーの中、アプローズを受けるシフを、このグループはみんなで拍手もせずに憎々しげな憎悪の眼差しで睨んでいた様子が脳裏を離れない。 音楽祭もそろそろ終わりの日程に入ってきて、週が明けてから、これまで会場で見かけたり言葉を交わしたいわゆる音楽通の人々がそろそろ引き上げ始めていることも確かである。これほどまでの聴衆ミスマッチはさすがにあまりないと思うが、シフさんが本当にお気の毒である。平均律の全曲演奏の機会そのものにあまりめぐり合うことはないだろうし、しかもシフとなるとかなり贅沢な経験で、演奏も渾身のものだっただけに、この最後はとても残念だった。
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[ロッシーニ 『アルジェのイタリア女』]
チェチェーリア・バルトリは今年はこちらの作品で出演した。 よく知られているロッシーニの作品である。演出はベルギーの二人組ユニット、モーシュ・ライザー+パトリス・コーリエ、ピットに入ったのはジャン・クリストフ・スピノジとアンサンブル・マテウス。演出もアンサンブルも、バルトリ��の共同制作も多く、安定のコラボレーションである。
ザルツブルクは演劇や音楽の世界では一応アカデミックな位置づけなので、新演出を含めて毎年4、5作ぶつけてくるオペラ作品は実験的で革新的な演出が多くて、一般受けするものとはけっして言えない。イタリアオペラもモーツァルトも、ヨーロッパ内の歌劇場の普通のレパートリーの方が、よっぽどしっとりしたものが見られるだろう。こういう経験値から、私の場合も、毎年のスケジュールから徐々にオペラのプログラムが減っている。今年は祝祭劇場は『魔笛』だけに抑えたが、それでもこちらと昨日の『ポッペア』だけで、もうしばらくオペラ観たくない、というくらいげんなりしてしまった。
そんな中で、毎年歌姫(というより「歌の女王」という貫禄だが…)チェチェーリア・バルトリが仕込むプログラムは、かなりエンタメ性を前面に押し出したプロジェクトになる。これは、難解な作品ばかりみせられてアタマがグルグルになりそうになっているお客さんには、本当に素晴らしい息抜きになるだろう。 妃に飽き飽きしたアルジェの君主ムスタファが、新しい妻にするからとイタリア女をさらってこさせる。さらわれたじゃじゃ馬娘、イザベッラの元の恋人リンドーロはムスタファのもとで奴隷にされており、イタリアからイザベラについてきた自称「伯父」のテッデーオもイザベラに気がある。こんな登場人物の間で醸されるドタバタ恋愛喜劇である。 とにかくバルトリがいろんな意味ですごい。一幕の誘拐場面からして、ラクダにまたがって登場である。そのほか、バスタブに横たわって泡風呂で歌ってみたり、ラストシーンはクルーズ船までステージに「入港」させる。もうこのスペクタクル性と無茶ぶりは、女王にしか許されないものだろう。さすがは大スター、舞台上でまとうオーラ感も半端ではない。特にこの作品では、昨年のアリオダンテのように男装とかではなく、終始華やかなリゾートドレスを身につけているので(こういうのが本当に似合うのだ)、もうバルトリ様の周りに少女漫画のようなキラキラの星が終始散り輝いているかのようだった。そして歌がもうめっぽううまくてチャーミング。 チェチェーリア・バルトリに関してはそれほどファンというわけでもないのだが、なんとなく流れで毎年見ている。2015年が『ノルマ』、16年が『ウェストサイド・ストーリー』、そして昨年が『アリオダンテ』。考えてみると、ベルカント→ミュージカル→バロックオペラと続いてきて、バルトリが最も得意とするロッシーニはこれまで見る機会を持てなかった。そして、バルトリのロッシーニ、本当に良いのである。歌詞の言葉をたくさん詰め込んで早口言葉のように歌うのが19世紀前半のオペラの特徴だが、語り始めから歌詞を丁寧に、そしてベルカントの技法は堂々たるものである。 本日はお相手も素晴らしかった。ムスタファにイルダール・アブドラザコフ、テッデーオにアレッサンドロ・コルベッリ。特にバスバリトンのアブドラザコフは世界中のオペラハウスでこの役を歌いこなして定評があるようだが、歌に安定感があって上手なだけでなく、演技も素晴らしい。道化役のコルベッリも同様で、バルトリと三人が絡んで歌うことが多いので、見事な「ロッシーニの多重唱」がたっぷり楽しめる仕掛けになっている。 二枚目のリンドーロ役のテノール、エドガルド・ロチャは本当に美しい声で一瞬は聴き惚れるが、多少不安定なのがちょっとドキドキさせられた。ロチャ、長い独唱部分で、ロッシーニ特有のまくしたてる歌唱をしばらくやっていると、音程が「はっ?」となる時があるのだ。後半はだいぶんとのってきて随分良くなっていたが、若い歌手なので今後に期待したい。 最後はムスタファをだまして、とらわれていたイタリア人の奴隷たち全員と船で逃亡するシーンで大団円。なんとラストでは、舳先に立ったブルーのドレスのバルトリとタキシード姿のロチャが、あの「タイタニックのポーズ」で決めてみせる。…いったいどこまでサービス精神旺盛なんだ?? 見ていて心配になってくるほどだ。しかし、ここまでされるとお客さんは熱狂して大喜び。カーテンコールではスピノジもステージに上がり、そして、舞台からアンサンブルのいるピットに乗り出すようにして終曲の大合唱をアンコール。客席からは手拍子まで湧いていた。こういう雰囲気は個人的にはあまり好きではないが、演奏者はみんなとても楽しそう。バルトリ・オペラは毎年こうなので、あらゆる面で素晴らしいプロダクションなのだと思う。昨日とは対照的に、時間が短く感じられる公演であった。
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[モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』、そしてクレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェン・チクルスもいよいよスタート!]
今年の音楽祭もいよいよクライマックス。この時期になると一日二本立ての日が続くから、聴き手としての体力と感性のキャパシティも大いに試されることになる。 こちらのカレンダーでは宗教上の祝日の8月15日(聖母昇天の祝日)、まず午後3時から「モーツァルトの家」劇場にてモンテヴェルディのオペラ『ポッペアの戴冠』。指揮はウィリアム・クリスティ、演奏はレザール・フロリザン、演出はヨーロッパでも超左派の革新的演出家、オランダのヤン・ロワース。 モンテヴェルディの『ポッペア』はここ数年、日本にいても鑑賞の機会がとても多かった。モンテヴェルディが昨年が生誕450年の記念イヤーだったこともあるし、古楽オペラの中では比較的演奏時間が短いので、舞台に載せやすい、ということもあるだろう。とりわけ昨年秋、鈴木優人指揮のバッハコレギウム・ジャパンの公演は、長くくっきりと印象に残るような、素晴らしい演奏だった。日本には優れた古楽演奏者がいるので、いい演奏に出会う機会も多くなるが、しかし、この『ポッペア』に関しては、たとえ音楽が素晴らしくても、なかなかそのストーリーを追うのが大変だ。つまり、私たちがモラルとして持っている「善は勝つ」的な価値観が一切通用しない、悪人がハッピーエンドになるプロットなので、それをどう捉えるかに戸惑うわけだ。ネローネ(ネロ)帝は部下オットーネの妻ポッペアに恋し、ポッベアも女帝の地位が欲しいこともありネローネに執心している。哲学者セネカにそのアンモラルをつかれると、ネローネは直ちに自ら命を絶つように命じ、妃オッターヴィアは流刑にし、ポッペアを殺めようと図ったオットーネも国外追放し、邪魔者をすべて追い払ったのちに、ふたりの愛のアリアの中にポッペアが戴冠するのである。 これはヘンデルの縺れまくるあらすじのレベルをはるかに超えて、とても現代人には理解しがたい世界なので、よくある演奏会形式で淡々と歌っていくのが無難な落とし所と言えるだろう。 私自身も、『ポッペア』を観るときはあまりいろいろ考えないようにしていたのだが、たまたま昨秋、バッハコレギウムの演奏を聴く直前に、ボッカッチォの『デカメロン』をつれづれに読んでいた。ペスト流行時のフィレンツェで、疫病を避けて田舎にこもった男女10人がそれぞれ1日に1話ずつ10日間小話を語るという一種の箱物語で、その話の内容は、言ってみれば中世風与太話なのだが、この物語集には、それこそ『ポッペア』風のストーリーがザクザク埋まっている。年寄りのもとに嫁いだ若く美しい妻が、うまく夫を追い払って若い恋人とハッピーエンドなどはワンパターンか?と思うほど繰り返し出てきて、そして、この類の話を聞いている美しい淑女たちが大喜びで、「それはそれは歯が抜けるほどお笑いになりました」とあるのである。これを読んでいると、なんというか、近世以前のヨーロッパには、現代とは違った笑いのツボがあるのではないか、と思えてきた。ボッカッチォとモンテヴェルディの間には200年の時代差があるにせよ、『デカメロン』の物語のパラダイムは、何度聴いても謎だった『ポッペア』のストーリーに接近するヒントを与えてくれるような気がしたのだ。 もしかしたら、ギリシャの人々が、都市の円形劇場で、とんでもない悲惨な内容の神話劇を見てはカタルシスを得ていたように、中世やルネサンスの人々もまた、受け入れがたいほどぶっ飛んでいるオペラや音楽劇の「逆さまの世界」に「歯が抜けるほど」爆笑しながら憂さ晴らしをしていたのでは?…そう思うと、ポッペアの歌詞やレシタティーヴォの言葉のひとつひとつが改めて味わい深く思えてきた。 こういう視点もまた、もしかしたら「無理やりこじつけ」のひとつのパターンなのかもしれないが、古い物語を無理に現代風に解釈しようとせず、これはこれで昔の人のお楽しみ、という風に向き合うおうとすると、意外と毒々しくなく綺麗に収まってくるのがこの作品ではないかと思う。 さて、今日の『ポッペア』には、この類の繊細な切り口ははなから期待できそうもなかった。作品のプロモーションフィルムでは、演出のロワースが攻撃的な口調で「この作品にはセクシュアリティとエロティシズムを読み取るしかない」みたいなことを言っていて、なんだかひどい「ポッペア」になりそうだ、などとも思っていた。 ネローネは、かの有名なネロ帝で、興味本位の歴史秘話が古くから多く語られ、猟奇的なエピソードが一人歩きしがちな皇帝である。歴史の業界では、いまは、どのような人物、事件に関しても、従来語られたイメージを覆す慎重な分析が常識になってはいるが、演出家の世界ではまあそういうのは通用しないのだろう。舞台イメージをちらっと見たら、もうそこは、1960年代のハリウッドが作った古代ローマの空想世界のように、ズバリ酒池肉林であった。 もうとにかく舞台がうるさい。全曲を通して、ロワースが率いるダンス集団、ニードカンパニーのダンサーたちが踊りまくっている。中央にお立ち台があって、そこに、磁石で動く自動人形のように、結局終幕まで、ダンサーが交代で終わりのないピルエットの回転を続けていた。そしてそのダンスたるや、犯したり傷つけたり、ダンサーも最後は血まみれで、なんだか見ていてげんなりした。セネカが死のうという時に、歌手の足元に若い男性がひとりゴロゴロ音を立てて転がってきたのは、もうもはや謎である。 クリスティとレザールフロリザンはさすがに見事な演奏だった。写真のように、舞台の前にオーケストラピットがあって、中央にそれを渡る通路があり、客席側に張り出した前舞台へと繋がっている。通路でオケピが分断される形だが、こうして形成された二つの空間に、チェンバロを一台ずつとリュート、テオルベ、チェロによる通奏低音を置き、そして、旋律を導く楽器として、右側にはオーボエ二本、左側にはバイオリン二本という配置をしていた。いわば、ほぼ同じ編成のアンサンブルが左右に二つ、相似をなして向き合っているのだ。クリスティは左側のチェンバロで弾き振り、そして、右側のピットではベノワ・ハルトワンがもう一台をジャカジャカ鳴らして華やかだった。奏者もさすがうまくて、ひとつひとつの楽器が、輝き出るような音色で鳴っていて、本当に良かった。 オペラ全体としては、原色ケバケバの、泥沼の悪人物語として仕上げているから、ソニア・ヨンチェヴァのポッペアは、夫を捨て邪魔者を容赦なく追い払う、ごく分かりやすい烈女である。ヨンチェヴァの声と歌唱は以前から古楽向けではないと思っていたけれど、今回のような大きな劇場で、しかもダンサーの入り乱れる中でこの役を歌うには、危なげなところがなくてなかなか良かった。元々の女王様キャラなので、「烈女」というイメージにもピッタリ合っていた。 ネローネ役のケイト・リンゼイは、ちょっとイッちゃってる雰囲気の、ドラッグ中毒の両性具有的ロックスターみたいな独特のキャラクターを作っていた。ネローネとポッペアはソプラノ同士の「女の子カップル」になるから、お色気烈女のヨンチェヴァと、この危ない中性的なネローネが、危ういけれどチャーミングなカップルとしてそれなりにうまく釣り合っていたと思う。リンゼイの声が個性的。どちらかといえば声帯を開いて大きな声を出すヨンチェヴァとは対照的に、細く伸びのいい独特の声で、喉を回して歌う箇所などは思わず聴き惚れた。 セネカのレナート・ドルチーニとアモーレのレア・デザンデレがなかなか聴かせる歌唱をみせ、そして、ポッペアの乳母、アルナルタのコントラルト、ドミニク・ヴィスがコミカルな演技と歌いで客席を惹きつけた。 音楽は極上、歌手も悪くはないのだが、全体に、歌として聞かせるというよりは、物語を語って聞かせるような演奏になっていて、極力歌手に「歌わせないように」指示しているかに思える場面も多かった。『ポッペア』は何度も観ているので、演出が多少ひどくてもさらっと聴いて楽しめるかもという気持ちでいたが、休憩含めて三時間半あまり、じっくり聴いて、ただただしんどい『ポッペア』であった。 ***
『ポッペアの戴冠』終演後、一時間半で頭を切り替える。 20時開演で、お隣の「岩場の馬場」劇場では、今年最大の期待のコンサートシリーズ、テオドール・クレンツィス率いるムジカエテルナによるベートーヴェン交響曲全曲演奏チクルスが、いよいよ今日から開幕した。 クレンツィスとムジカエテルナは、ザルツブルクでは昨年、おなじ会場でモーツァルトの『皇帝ティートの慈悲』のピットに入り、即座に話題を独占した。ロシアのペルミから積極的にヨーロッパ中で客演して、時とともにどんどん人気が高まっているから、今年は、まだ出演歴の浅いオケとしては異例の四回連続演奏会が決まったところ、スケジュール発表になるやチケットの引きが殺到し、たちまち完売してしまったようだ。聞くところによると、今年の最難関チケットは、ドミンゴでもネトレプコでもなく、クレンツィスだったということだ。 とはいえ、チクルスの会場は今日だけがやや規模の大きい岩場の劇場で、あとの三回は少し小さいモーツァルテウムなので、祝祭大劇場での公演に比べると出回ったチケットそのものが少ないということもあるのだと思う。
チクルス初回は、楽聖最後の交響曲、第9番「合唱つき」からスタート。コーラスも、この若きマエストロのもとで歌っているペルミオペラ付きの合唱団をつれてきている。会場に入ってみると、開演前から皆すごい熱気で待ち受けている。そして、楽屋がないこの劇場、脇の通路から登壇したムジカエテルナ、皆頬を上気させ、初々しい。少しだけ遅れて舞台に上ったクレンツィスは相変わらずのオーラ感。脚にぴったりとしたレギンスのようなパンツ、そしてジャケットではなく、ふわりとタックをとったチャイナシャツの黒づくめである。 とにかくクレンツィスのタクトに目が釘付けだった。音楽の中に深く入り込み、まるで作曲家の精神が憑依してしまったかのようなエキセントリックさだが、見ていると、何をどうしたいのかが比較的よく分かる指揮ではある。オペラの時もそうだったが、棒は持たない主義らしい。そして、ムジカエテルナは全員が立ったままの演奏(最後の写真、譜面台の高さに注目していただきたい)。そこに生み出される独特のスヒード感があると言われるが、確かにかなりハイテンポで先へ先へと前のめりに進行するベートーヴェンだった。テンポも完全にクレンツィス独自のペースだが、各所にかなり個性的な作り込みをほどこしている。特に印象深かったのは、四楽章の「歓喜」のテーマを、チェロから奏ではじめて総奏に持っていくところ。チェロの導入を、極端に弱音にさせている。これは、蠢めく音のカオスの中から希望のメロディが流れ出すところなので、静かに旋律が響き始めるアイデアはいいのだが、ただ、この超弱音を、ふっと時々ゆるめて大きくさせたりしている。歓喜のテーマを奏でる音が、フーッと弱くなっては、またウワン、と妙に大きくなる。この眩暈のような作り込みがあまり好きになれず、また随所にこういうことを仕掛けているから、出来上がったベートーヴェンがあまりにクレンツィス色に染まりきっている。これは絶賛して受け入れるか、首をかしげるか、二つに一つのところだと思う。 クライマックスの合唱部分は、オケもコーラスもすきなくまとめてさすがに迫力だったけれど、クレンツィスの"Alle Menschen werden Brüder"は、人類の歓喜の歌ではなく、まさに、帝王のファンファーレとして響きわたった。両手を広げて”Freude”を導き出すクレンツィスは、まさに自らの勝利の響きを引き出しているようにしか見えなかったのだ。あまりにもユニーク。この演奏者については、もう、それしかないだろう。 「岩場の劇場」は音響がよくないので、まだ決めつけはできないが、ムジカエテルナもまだまだ若いオケだ。その響きには青臭く未熟な部分が多い。今日の第9番では、バイオリンは力強く美しかったけれど、低弦部は若干弱く、ホルン、トランペットはだいぶんバラバラしている。そして、全体に雑味を含む音色で、でもこの点は、クレンツィスのキャラクターと理想に合っているのかもしれない。 これはこれでこのオケの特質にもなってくるだろうが、ただ、いまのようにいろいろな形で情報が拡散されてしまう時代、クレンツィスとムジカエテルナのような、物質的な無駄を排除し、自己を研ぎ澄まして音楽と向き合うような芸術家が、安易に情報ソースに乗せられてどんどん拡大し、新しい時代の立役者にまつりあげられる過程が、なんだか空恐ろしかった。何も考えず、終曲を待って即座にブラヴォーを叫ぶ人たちは、本当のベートーヴェンがどんな作曲家で、どんな演奏がオーセンティックで、クレンツィスがそこから離れて何をしようとしているのか、そんなことには微塵の興味もないだろう。音楽が商売道具に利用される切なさを、クレンツィスとムジカエテルナのスターダムへの道のりに、感じざるをえないのである。 このチクルスを四回全て聴けるのは、特権ともいえるほどの幸運だが、会場がモーツァルテウムに変わったら、少しはじっくり聴けるかもしれない。明後日が楽しみだ。
#salzburger festspiele#lincoronazionedipoppea#williamchristie#lesartsflorissants#theodorcurrentzis#musicaeterna#beethoven
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[ウィーンフィル+リッカルド・ムーティ、ダニール・トリフォノフ ピアノリサイタル]
時間が経つのは早いもので、音楽祭に来てそろそろ三週間! 毎年、8月半ばになって日程が後半に入ると、日々のプログラムが詰め込みになってくる。私のスケジュールも、今日から3日間は、毎日二本立ての予定である。ひとつひとつの公演をもう少しじっくり楽しみたいけれど、そこはまあ仕方がない。
今日はマチネで3週目のウィーンフィル・コンサートシリーズで、三週目にピットに入るのは毎年リッカルド・ムーティである。今年のプログラムは、はシューマンの交響曲第2番と、シューベルトのミサ曲第6番変ホ長調。 ひょんなことから、先日日曜日に、このコンサートのゲネラルプローベに招待していただいた。この記事に貼った一枚目の写真がプローベ、二枚目が本日の舞台である。私は舞台に演奏者がいるときには写真をとらない主義なのだが、プローベの時は終始わさわさとオケメンが出入りしている。一枚目、ウィーンフィルのメンバーたちがラフなTシャツ姿でステージに上がっているのをご覧いただけると思う。まさに、素顔のウィーンフィルである。ちなみに、後半ミサ曲ではウィーン国立歌劇場合唱団がコーラスで入るのだが、こちらも本番の黒の正装ではなく私服で、女性の合唱隊員は多くの人が可愛らしいオーストリアの民族衣装、ディアンドルを身につけていたのが印象的だった。 ムーティとのコンサートの初日は日曜日の夜。その直前のゲネプロは実質の通し稽古なので、演奏をほとんど止めることなく、ほとんど本番の演奏会と変わらない形で練習が進むが、ただし、時おりマエストロの指示が入る。どんな指示をするのか興味津々だったが、そのほとんどが、「ピアーノ!」「モルト・ピアーノ!!」の連呼で、ユーモアを交えた大げさな身振りで、前に出ようとする各パートの音をしつこいまでに抑制していくものだった。プローベを見ているときは、ほほう!、とにかく高性能のウィーンフィル、最後の調整はとにかく音を抑えることなのか、などと興味深く思って眺めていた。 ところが、いざ本番を迎えてじっくり観て聴いてみると、いろいろなことがわかった。まず、ムーティはウィーンフィルとの本番では指揮台でほとんど派手な動きをしない。これは例年のコンサートでも体験済みのことだが、ほとんど指示を出さないのは、ゲネプロ以前のプローベで、しっかりと作り込んであるからこそなのだと、いまさらながら感慨深かった。音楽は、聴衆として受け取る時の演奏がその全てではなく、一回の演奏の背後には、演奏に関わる人たちの様々な理想や哲学や思いが込められている。そのことに、時には思いをいたすべきだろう。 そして、あのダメだし「ピアーノ!!」の意味は…。 過去二週間に、音楽の理想の昇華のようなコンサートシリーズを聴いてきた。最初がアンドリス・ネルソンス、2週目にエサ=ペッカ・サロネン。どちらもすごいマエストロで、それぞれの演奏は本当に心を揺るがせるようだった。ただ、こうしてムーティの回を迎えてみると、やはり若い指揮者たちは、理想的な音で鳴るウィーンフィルを、可能な限りダイナミックに鳴らす傾向にあるような気がする。それはそれで迫力が味わえるし、オケのいいところが全部前に出るので、必然的に素晴らしいものになるのだが…。 ゲネプロでとにかく音を抑え込んでいたムーティの演奏は、本番で仕上がってみると、なるほど、決して全開に鳴らし切らない、抑制の効いたなんとも言えない美しさが秘められている。どのマエストロとのコンサートも本当に素晴らしいのだが、しかし、ムーティにしか出せないこの音は、ウィーンフィルに伝統の、秘蔵の美音でもあるのだ。 シューマンの交響曲は、さすが、と思わせるような素晴らしさ。弦が細かい音形を覆い被せるように奏でる場面が多い曲だが、コンマスのシュトイデ、フォアシュピーラーのダナイローヴァから低弦パートまで、完璧な形で連携していく。ティンパニーも金管も、飛び出さず、調和がとれた完璧なシューマンだった。 シューベルトのミサ曲は、ソプラノのクラッシミーラ・ストヤノーヴァはじめ、五人のソロ歌手と合唱が入り、舞台は一気に華やぐ。シューベルトが死の年に書いた最後のミサ曲だが、ときに調を微妙に揺るがせて、新しい音楽への予感を抱かせながら、ブラスやティンパニのパートが、どこか素朴な聖歌を思わせる懐かしさも秘めている。カトリックのミサ次第に沿って進む曲だが、ムーティのまとめ方は、オペラを思わせるような華やかなアプローチで、むしろ大ホールでの演奏には相応しく感じられた。 歌手とコーラスが登場するので聴き手の目はそちらに行きがちだが、このミサ曲、実際には管楽器、特にトランペット2本、トロンボーン3本がだいたい出ずっぱりで音を出している。演奏時間もほぼ一時間なので、プローベの時には最後はへたって少々ダラっとなっていたのが、気の毒なほどだったが、そこはさすがウィーンフィル、本番ではきりりとまとめて、アニュス・デイが良いフィナーレになっていた。 ***
夜はダニール・トリフォノフのピアノリサイタル。21時という、最も遅いスタートである。 ダニール・トリフォノフのリサイタルは、今年のスケジュール計画で最大の失敗だった。ソリスト・コンサートは先行セット券でまとめ買いしたはずなのに、なぜかこれだけがリクエストが抜け落ちていたのである。こちらに来てから気づいて急いでサイトに入ったところ、残っていたのは、写真でご覧の通り、舞台上の追加席だけだった。ここはまあ、アーティストがステージから引くときに間近で顔が見れることくらいが利点で、普通は観客が座るところではないので、あまりいい席とは言えない。音響も、ホールはここに人が座ることを考えて設計されていないから、楽器が近い割には、迫力を持って響いてこない感じである。残念だが、仕方がない。
ベルリンフィル・デビューをライブで聴いて以来、気になって追っかけ?ているトリフォノフ。先日の、カピュソン、ハーゲンとのトリオは本当に凄い演奏だった。そして今日のソロコンサートは、「ショパンのオマージュ、そのTour d'Horizon」。「トゥーア・ドリゾン」は、広い視野、まあ、ここでは「鳥瞰」くらいに理解して良いのだろうか。同時代から現代まで、ピアノを愛する全ての人にインスパイアを与え続けてきたショパン。多くの作曲家がショパンへのオマージュやその作品の変奏曲を作曲した。トリフォノフは、前半でシューマンからラフマニノフ、チャイコフスキー、グリーグからモンポウにいたるまで、作曲家たちがショパンにインスパイアされて書き上げた様々な作品を鳥瞰し、そして後半は自身のアプローチでショパンのソナタ第2番を聴かせるという素敵なアイデアを持ってきた。 ショパンの変奏曲は、バッハやモーツァルト、ハイドンの音楽とはちがい、変奏曲を編曲しても、スケルトンのような構造性が新たに浮き彫りになる面白さにはなかなか至らない。むしろ、ショパンの作品の断片が散りばめられた感覚の方が先に立つ。前半の作品群にはなかなか馴染めなかったが、やはり耳に迫ったのは、トリフォノフの技巧である。背後からで手も指もほとんど見えなかったのが残念だが、繊細なタッチで美しい音を出すことなどほとんど考えず、とにかく要はピアノをどれだけ鳴らせるかなのだ。背後から見ているとトリフォノフは本当に華奢で、あの細い体からどうやって、と思うほどのパワーで弾いていくのが魔法のようだった。鍵盤の両端まで伸びる手は細いけれど大きくて、本当にピアノを弾くために生まれてきたようだ。シューマンからチャイコフスキーまでは曲間を取らず弾ききったが、曲の進行とともに客席にトリフォノフの体温とテンションが伝わって熱狂していく様子が手に取るようにわかった。前半大ブラヴォーで終了し、そして後半にぽつんと置かれたソナタ第2番。これはもうトリフォノフのやりたい放題、独壇場である。まさに、ベルリンフィルで最初に聴いた時に圧倒された、「ロックンローラー」の顔の健在ぶりを見せつけられた。有名なソナタで、近くで聴く人の中には演奏に合わせて指を動かすお客さんもいほどだが、とにかく崩す! もう原型をとどめないほどに、メロディも音形も積極的に破壊していく。第二楽章のスケルツォで、音を立ててペダルを連踏していたのには思わず眉をひそめたが、しかし、まあ、ロックンローラーだからこれもアリなのだ。 一番心に触れたのは、第三楽章のレント、有名な葬送行進曲である。厳かに主題に入って、途中で変ニ長調のトリオの挿入部。まるで雲の間に晴れ間がのぞくような部分だが、ここを進行とともに次第に弱音にしていくのである。それはもちろんオリジナルの曲にはない、トリフォノフの独自の解釈とアプローチである。暗く厳かなレントに陽だまりのように現れるトリオが、次第にか弱く、かそけき響きに沈んでいくのが本当に儚くて切なくて、音の魔法に心を打たれた。ほぼ1800人満員で入った会場がこの弱音に聞き入り、その静けさが世界を吸い込んでしまうようだった。鍵盤を叩きまくるところからの、このあまりにも優しく儚いトリオは、人によっては演出過剰で好きになれないかもしれない。しかし、音をどう表現して出していくかという問題は、例えば室内楽のビアノパートやリートの伴奏でも彼は考え抜いてやっていて、それが非常な効果を表しているから、やはりトリフォノフの最大の面白さのひとつは、超絶技巧よりも意外とこういう部分にあるのではないかと思うのだ。 アンコールは一曲のみ、プロコフィエフのソナタ2楽章。 さて、今日は幸か不幸か、舞台袖という中途半端で微妙な場所に座ってしまったのだが、アーチスト本人がアプローズのとき目の前を横切っていくから、その様子がよくわかる。近くで見ていて、まだ30歳にならないトリフォノフの、ステージマナーの素晴らしさにも感嘆した。ステージでは客席の三方を向いて笑顔で会釈し、そして何より、いくらダメだって言われても絶対スマホ撮影しようとする大バカ者の客が溢れているザルツブルクで、ステージから下がる時に、明らかに歩みをゆっくりにしているトリフォノフ。これはどう見ても、撮影したいお客さんにシャッターチャンスを与えているとしか思えなかった。どこまでサービスするんだ、トリフォノフ。ステージ際まで花束を持って駆け寄ったファンにも、丁寧に対応していたのにも好感が持てた。ロックンローラーでも、このステージマナー。なかなかナイスガイである。別にファンってわけじゃないけどね(笑)。
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[マティアス・ゲルネ 歌曲の夕べ]
猛暑が続いたザルツブルクも少しずつ天候が変わってきた。昼間は晴れて暑かったのに、夕方から土砂降りの雨に。その驟雨が止んだころ、20時、マティアス・ゲルネの「歌曲の夕べ」が開演した。今年の伴奏は、音楽祭の総監督を務めるマルクス・ヒンターホイザーである。 プログラムはシューマンの歌曲だけで固めた。ニコラウス・レーナウの詩による6つの歌とレクイエム、「隠者」、アイヒェンドルフの詩によるリーダークライス、ヴィルヘルム・マイスターによる歌曲集、「ライオンの花嫁」、そしてメアリー・スチュアートの詩による五つの歌。シューマンの「歌曲の年」と言われる1840年と、晩年の49年から52年くらいに書かれた作品である。 先週、オペラ『魔笛』でゲルネのザラストロを聴いて、正直がっかりした。声が出ていない上に、歩き方も少しおかしくて、とっても調子が悪そうだったからだ。それゆえ、昨年があまりに素晴らしかったので即決でチケットを頼んでいた「歌曲の夕べ」はどんな感じなんだろう、と気にしていたわけだが、どうやら杞憂だったようだ。相も変わらず、聴き手の心の最も敏感な部分にそっと触れるような、ベルベットのごとき美声である。これは…、と思った。ゲルネは一流のバリトン歌手で、ウィーンからメトロポリタンまで、世界中あちこちの歌劇場でワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、その他様々な作品の役柄を広く歌っている。だが、彼はやはりどちらかといえばリート向きの歌手なのではないのだろうか。揺れ動くプロットの中で固定されたひとつの役を歌うよりも、むしろリートという詩と音楽の小宇宙を自分で作り上げていく方が得意なタイプなのだと思う。そして、いまさら気付くのも愚かだが、声域の問題もある。バリトンとはいえ高音を美しく歌い上げるゲルネには、ザラストロは音域的に少し厳しいかもしれない。少し調べたら、パパゲーノ役で出演することも多かったようだ。
何はともあれ、ドイツ歌曲を歌うバリトンの中で、マティアス・ゲルネは現在、まちがいなく最も優れた歌手のひとりに入るだろう。詩の言葉をひと言ひと言大切に音楽にのせて、独特の世界を描き出すさまは本当にみごと。ドイツロマン主義の詩人たちの独自の世界観、森や山や川の流れや、静謐な月の光や薔薇色の頬の娘たちが、ピアノしかない舞台の上に、幻灯のように浮かび上がるかと思えるようだった。人間の生と死と自然と。死の影が顔をのぞかせる場面では、ゲルネはあたかもタナトスの深淵を覗き込んだ預言者のように、恐怖に目を見開き、身を震わせる。その表現力がもうすごい。休憩なしでほとんど曲間も取らずに1時間40分をぶっ通しで歌い続けた。 ゲルネのリートはオーソドックスな歌唱ではなく、一曲一曲が彼自身が創り出すドラマに仕上がっているのだが、伴奏のヒンターホイザーも、その迫力ある演劇性とまったくちぐはぐなところがないほどに、ピタリと寄り添う好演だった。
開演時間が遅かったせいか、夕立と荒天のせいなのか、客席がややざわついていたのが残念だった。その原因の一つは、もしかしたら、ゲルネが曲順を若干変えて歌っていたことにもあるのかもしれない。私も含めて、リートの演奏会の場合、お客さんの多くはプログラムのテキストを見る。ずーっと見ながら聴くか、チラ見しながら聴くかは好き好きだが、少なくとも、詩の意味が理解できた方がリートの世界には入りやすい��、かといって、リート歌唱では単語を独特のやり方で分節するので、歌だけ聴いていても、たとえネイティヴでも歌詞全部は聞き取れない。私はチラ見派だが、それでも、手元のテキストとまったく違う歌詞の歌が始まると、やはりザワッとしてしまうし、それが声に出てしまう人もあるだろう。しかし、最後のディミヌエンドまで考え抜かれたゲルネの演奏、その余韻にひっそりと聴き入ることができない場面があったのは、ちょっと残念である。
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[ジョヴァンニ・アントニーニのモーツァルト・マチネ、ウィーンフィル室内楽コンサート]
土日はモーツァルト・マチネがあるため、つい欲張って一日二本立てのスケジュールになってしまう。三週目のモーツァルト・マチネ、指揮者はお気に入りのジョヴァンニ・アントニーニ。しかも、ソリストにここ三年音楽祭の常連になっているヴィルデ・フラングである。プログラムは前半がモーツァルトが1779年に書いたとされる英雄劇、「エジプト王タモス」間奏曲と終曲、続いてフラングとローレンス・パワーのヴィオラで協奏交響曲。複数の楽器のソロを含む、シンフォニーとコンチェルトの中間のような協奏交響曲。18-19世紀には多くの作曲家がおびただしい数の作品を作曲したが、売れっ子でオペラや声楽曲の依頼が絶えなかったモーツァルトは珍しく殆どこのジャンルの曲を残していないという。ソロの楽器が複数、しかも弦楽器二本となると、オケの合奏部分からソロが時々ふんわり飛び出ていく感じがなんとも優しい雰囲気のコンチェルトになる。フラングが断然うまいが、ヴィオラのパワーも互角に弾いてくる。とてもいいコンビである。フラングの作る音の美しいことといったら。コンチェルトのソロなので、技巧を披露する箇所もあり、後年につけられたカデンツァも含まれているが、そこで惜しみなく披露する技巧を決して嫌みに感じさせない、自然で、そしてモーツァルトのコンチェルトにぴったりの、優しく細く繊細に伸びる、本当に綺麗な音である。昨年、紅一点の四重奏でショスタコーヴィチの交響曲の室内楽版を骨太に弾ききったことを思えば、そのレパートリーの広さと音楽言語の引き出しの数の多さはおののくばかりである。そしてパワーのヴィオラは力強いが飛び抜けず、二楽章の、ソロどうしの静かな掛け合いなどは、しばしうっとりと聴き惚れるほどだった。フラングはこうして合わせて弾くのがとても楽しそうで、天才的なバイオリニストだけれど、多重奏に中心を置いたその活動領域から見ても、やはりソロで弾きまくるよりも他の奏者とのコラボが好きなのだろうと感じた。 ソリスト・アンコールがあって、笑顔でフラングとパワーが舞台に戻ってくる。弓を構えたところで、パワーがフラングを促して楽器を交換��「キラキラ星変奏曲」を奏で始めるが、フラングはヴィオラが弾きにくそうでイライラ。スルスルといい調子で弾くパワーからおどけた調子でバイオリンを取り返し、それぞれ自分の楽器を手にしたところで、振り出しに戻って弾き直し。舞台でこんなコントを演じてしまうほど、ザルツブルクはフラングにとって馴染みの場所になったということだろう。 後半はモーツァルトのオペラ「ルチオ・シッラ」序曲、その後がアントニーニの真打ち、ハイドンの交響曲103番「太鼓連打」である。2032年までにハイドンの交響曲全曲演奏・録音を目指しているアントニーニ。やはりハイドンを一曲くらいは聴きたいところである。自由自在に動き回るアントニーニの変てこタクト。膝を使って、時には手が地面につくほどかがんだり側屈したり。こうやって作り出すハイドンは、かなりハイ・テンポでユニークである。ティンパニーが冒頭から勇ましく大活躍する103番だが、打楽器が作るテンポを低弦に落とし込んでいくなど、構造的にはかなりモダンなアイデアにあふれている。その構成をわかりやすく、しかも楽しく聴かせる好演だった。
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夜は同じモーツァルテウムで、ウィーンフィルのメンバーによる室内楽コンサートを聴く。今年の室内楽はコンサートミストレスのアルベナ・ダナイローヴァを中心として構成されたアンサンブルである。一曲目はバイオリンのミラン・セテナ、ヴィオラのゲルハルト・マルシナー、チェロのタマス・ヴァルガとの四重奏でフーゴ・ヴォルフのイタリアン・セレナーデ。続いてコントラバスのヘルベルト・マイヤーが加わってドヴォルザークの弦楽五重奏曲第2番、そして休憩の後にマイヤーがチェロのラファエル・フリーダーに交代して、チャイコフスキーの弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」。プログラム全体にイタリアの雰囲気を漂わせる粋な選曲だが、特に最後の曲はチャイコフスキーがオペラ「スペードの女王」を作曲するためフィレンツェに滞在中、故郷ザンクトペテルブルクの室内楽協会に捧げて書いたという経緯があるとのこと。この「スペードの女王」をウィーンフィルは現在岩場の劇場でマリス・ヤンソンスと共に上演中なので、それを考えてもこの演目は何とも心憎い。 毎年のウィーンフィルの室内楽コンサートは、普段オケ全体として聴いている奏者を改めてソリストとして鑑賞するという、本当に貴重な機会である。今年はアルベナ・ダナイローヴァ。コンマス/ミストレスの場合はオケでもソロパートが多いので、ダナイローヴァにしてもフォルカー・シュトイデにしても、普段の演奏会でもそのうまさに感嘆する瞬間は多くある。その奏者がほぼ出ずっぱりでその音楽の世界観を披露してくれるわけなので、これはもうすごいことである。そして、ダナイローヴァがもう本当にすごいのだ。ゆるぎなく強い音。しかも、さすがに世界随一のオケを率いるだけあって、ただ主張して飛び出していく強さではなく、他の奏者と調和しながらリードしていく強さというのか。そして、女性奏者がついつい見られがちな「優しさ」や「優雅さ」とはほど遠く、勇ましいといえるほどエネルギッシュに、難曲をぐんぐん引っ張っていくさまが、じつに痛快であった。 いまさらここでいうことではないが、ウィーンフィルは全員が秀逸な奏者なので、どの楽器も素晴らしくて、特にチャイコフスキーになって楽器の数が増え、ある旋律を次々と渡していくところやピチカートで響きあうところなど、6本の楽器が作り出す音の世界に陶然となった。 チャイコフスキーが力強いロンドで終わると、熱狂的なブラヴォーで6人が何度か呼び戻された後、コントラバスのマイヤーも再び加わって、ドヴォルザークのワルツをアンコール。
室内楽は、オペラともオケとも違う、ある意味特殊な世界なので、弦楽重奏曲を聴くためにザルツブルクに通うディープなファンも少なくない。昨日もそうだったが、華やかさよりも実を求める客席である。昨日は落涙する人すらいたが、今日もまた素晴らしい演奏であった。だいたい、チャイコフスキーの室内楽の名曲を、最高の演奏で二夜連続で聴けるなど、あまりない機会だろう。まさに音楽祭の醍醐味を味わった週末である。
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[ルノー・カピュソン、クレメンス・ハーゲンとトリフォノフ]
音楽祭の日程もちょうど半ばにさしかかってきた。週末からはいよいよプログラムも一日にオペラ数本同時上演のような豪華絢爛モードに入ってくるが、今日はその直前のしばしのお休みなのか、音楽祭全体で唯一のコンサートがこちらの室内楽だけというスケジュールになっていた。 俊英バイオリニストのルノー・カピュソンとハーゲンカルテットのチェリスト、クレメンス・ハーゲン、そしてあのダニール・トリフォリフがトリオで演奏するプログラム。もちろん、お目当てはトリフォノフである。昨年のザルツブルクはウィーンフィルとのコンチェルトとマティアス・ゲルネのリートの伴奏で出演したトリフォノフ。今年はこのトリオのコンサートと来週にソロリサイタルが予定されている。そして、トリフォノフこそ、音楽祭のプログラムを一瞥して、まず聴きたいと思ったアーチストのひとりだった。 本日のプログラム、前半は、トリフォノフとカピュソンのデュオで、ドビュッシーとフランクのバイオリンソナタ。これはもう見るからにカピュソンのリクエスト選曲だろう、と思わずにいられない、近代フランス尽くしの曲目である。ドビュッシーから聴いていて、絶対いいはずなのに、何かどうしてもストンと落ちないところがあった。なぜだろう。つらつら考えていて、フランクの秋楽章くらいになってようやく、うますぎるカピュソンの演奏が、全く自分の好みでないことに気づいた。パロックヴァイオリンも極めたというカピュソンだが、曲の作り方がいわば直情型で、弓の当たりも絞り出すように強い。特にフランクなどは、エモーショナルにアプローチしていくと本当にきりがないから、聴いていて少し消化不良気味になってくる。トリフォノフも突っ走るバイオリンに負けじとどんどん曲をデフォルメしていくので、私などにはなかなか全体を把握しにくい演奏だった。 釈然としないまま後半を迎えるが、もちろん、今日の演奏会のメインは、後半、クレメンス・ハーゲンを迎えたチャイコフスキーのピアノ三重奏曲作品50「偉大な芸術家のために」。この曲だからこそ、トリフォリフが必要だし、そしてトリフォリフのピアノパートをどうしても聴きたいのである。 才気走る分、つい飛び出しちゃうやんちゃなカピュソンのバイオリンだが、三重奏になると、それを受け止めるチェロパートが入るので、なんとなくしっくりと落ち着いてしまうものだ。そして、ハーゲンのチェロがもう本当に素晴らしい。強さと同時になんとも言えないツヤのある音で、この壮大な変奏曲を深遠に語るように仕上げていく。ハーゲンのチェロがいぶし銀のような渋さを持つ分、作品全体を通して変奏でチ��ロに絡んでいくカピュソンのバイオリンのキラキラ感との対比がまた、独特の魅力を作り出している。ただし、カピュソンはキラキラはしているけれど、基本的に力で押していく奏者である。そしてトリフォノフのピアノが徹底した硬派だから、今日のピアノ三重曲は、美しいメロディを大切に保ちながらも、全体に、どちらかといえば甘さを排した、男性的なチャイコフスキーに仕上がっていた。2楽章の変奏に入ると、トリフォノフのソロパートが本当に美しい。主題を静かに奏ではじめるが、前面で掛け合いを展開する弦楽パートの合間に、彼のピアノが独自の時空を切り開くような瞬間が何度もあって、そのたびにはっとさせられた。 チェロとバイオリンが旋律の対話を延々と繰り広げていく2楽章。そのラストは、まるで男同士の逃げ道のない決闘を眺めているような悲壮感が満ち溢れ、空気が震えるような鬼気であった。チェロとバイオリンが、自身の辞世の句を苦しげに投げ合いながら、最後にゆっくり息を引き取っていくように咽んで曲が幕を閉じる。チェロとバイオリンとピアノが作り出すこの極限まで切り詰められた音のドラマは、まるでヴェリスモ・オペラを見るような迫力を秘めていた。フィナーレは本当に鳥肌が立って、客席には涙を流している人すらあった。そして最後は総立ちの熱狂的ブラヴォーである。 会場を出るとき、誰かがささやくようにつぶやいた"Morire!"という一言がいまも耳を離れない。イタリア語で、「もう死んじゃう!!」といった意味合いか。それほどに、心震える演奏だった。
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[ロジャー・ノリントン、モーツァルト『ハ短調ミサ曲』]
今日のコンサートは、モーツァルテウムとザルツブルク音楽祭が共同企画したモーツァルト『ハ短調ミサ曲(大ミサ曲)』演奏会。カメラータ・ザルツブルク管弦楽団とザルツブルク・バッハコーア、ルーシー・クロウ(ソプラノ1)、ケイティ・コヴェントリー(ソプラノ2)、ルペルト・チャールズウォース(テノール)、エドワード・グリント(バス)、そして指揮がサー・ロジャー・ノリントン。会場は、カトリック都市ザルツブルクでも最古のペーター教会である。 もう10日ほどこの地で音楽を聴き倒しているが、ずっと通してかなり音響の良い音楽ホールが会場だった。宗教音楽を教会で、というと、非常に理想的な環境のように思えるが、これはこれで全く違ったアコースティックの環境になるので、耳が慣れるのにしばらくかかる。少なくとも、漆喰のヴォールトで天井が底抜けに高い分、オケの音はクリアには聞こえない。モーツァルトの宗教曲の中でもこのハ短調ミサが最も編成が大きいから、スペース的にも、祭壇前のひな壇の細いスペースにオケと合唱がぎゅうぎゅう詰めになっている。しかし、これも聞き慣れてくると、合唱と合奏が、音楽ホールにはないふわっと柔らかい感じに混ざり合って上昇するような響き方は、なかなか素敵でもある。
モーツァルトはこのミサ曲を、1782年ごろ、特に誰の依頼を受けるともなく書き始め、翌年くらいまでに半分ほど作曲して放り出してしまったらしい。カトリックのミサ曲はキリエで始まりアニュス・デイ、イテ・ミサ・エストで終わるというふうに形式が決まっているが、途中書きかけや欠落している部分もあり、それを後年の研究者が加筆したものを上演することになる。本日の演奏は、2005年にロバート・D・レヴィンが手がけた補筆版によるものであった。
1782年といえば、モーツァルトがウィーンに居を移して間もない時期である。ウィーンにやってきた野心家の作曲家は、この地で多くの啓蒙知識人と交流を持つ。その一人が、マリア。テレジアの侍医だったゲラルド・ファン・スヴィーテンの息子で、当時ヨーゼフ2世のもとで検閲官を務めていたゴットフリート・ファン・スヴィーテンである。スヴィーテン父子は膨大な図書コレクションとともに、古い楽譜を大量に蒐集していて、その中には、18世紀当時、流行遅れとみなされてまったく演奏されなくなっていたバッハやヘンデルの譜面が数多く含まれていた。モーツァルトはこれらの「掘り出し物」に心底夢中になって、週末ごとにファン・スヴィーテン家に通いつめて閲覧していたことを、父に宛てた書簡の中でも自ら報告している。ミサ曲ハ短調は、おそらくこの研究の成果がそのまま盛り込まれたであろう作品で、普通に聴いていても、合唱の和声の立て方など、バッハのカンタータのコーアを連想せずにはいられない部分が多い。声部が螺旋のように弧を描いて上がっていくところなど、天才モーツァルトがバッハを研究して消化してアウトプットするとこうなるのか、と、実にしげしげ聴き入ってしまう。 本日の演奏、カメラータ・ザルツブルクは、言うまでもなくこの領域の音楽を演奏させたらなかなか右に並ぶものはないくらいのオケである。指揮者の意図だと思うが、ソリストは全員、英米系の歌手で揃えていて、この4人が文句のつけようもなく上手だった。この時代になると歌手の技巧を駆使して聞かせることもつねに忘れることがないモーツァルト、ソリストは随所での技を強いられるが、代役で入ったコヴェントリーを含め、危なげのない素晴らしい歌唱である。そして、バッハコーアもとても良かった。グロリアの「精霊とともに」やクレドの「ホサナ」など、聴かせどころをじっくりと聴かせて、本当にいい合唱だった。全体を見事に作り上げたノリントンのタクトが、とても端正。今年84歳になって、椅子にかけての演奏だが、指揮はものすごくエネルギッシュ、生み出される音楽は繊細の極みである。
ザルツブルク音楽祭では、定期的にこのペーター教会でハ短調ミサを上演するということで、演奏の歴史は1927年にまでさかのぼるという。1993年にはニコラウス・アーノンクールとコンツェントゥス・ムジクスが、そして2013年にはグスターヴォ・ドゥダメルとシモン・ボリヴァルが演奏を披露している。ノリントンが指揮台に立つのは1996年に続いて二回目らしい。いずれにしても、近代以降の作品や華やかなオペラが目をひく音楽祭で、モーツァルトによる宗教音楽の、上質な演奏に触れ得たことの幸せを思いたい。
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