光る向こうの影の熱
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
参考ストーリー・・・フィーチャースカウト2マヨイ編
着替えを終えてレッスンルームを後にして、巽が向かったのはガーデンテラスだった。練習のあとに飲もうかと用意してあった蓋付きの保温タンブラーと、ES内に設置された休憩所から貰ってきた二つの紙コップ、それから個包装のビスケットをいくつか、テーブルの上に並べる。秋も深まり、夏から暑さに負けじと咲き続けてきた八重咲きのジニアや、ほころび始めたシュウメイギクの白い花びらが、柔らかな風と光を受けてきらきらと揺れていた。
ふわりと草木が揺れるたび、金木犀のいい香りが漂ってきて、巽の心は静かに凪いでいった。きっと大丈夫だという確信があった。一彩と藍良の二人に任せて、自分はここで待とうと思った。三つ葉のクローバーの持ち主が帰ってきた時、それを温かく出迎え入れる庭園を用意しておこうと。
秋風に吹かれ、青磁色の横髪がふわりと舞い踊る中、遠くわずかに聞こえた複数人の足音に、巽は顔を上げた。しばらくすると、その足音は巽の想像した通りの三人組を連れて次第に大きくなっていった。マヨイを挟んで手を繋ぎ、空いた片手で手を振る一彩と藍良の姿がはっきりと目に映る。巽は思わず頬をゆるめて微笑んだ。手を振り返すと、二人は少し早足になって巽の方へと駆け寄ってきた。間に挟まれたマヨイが、慌てたように歩幅を合わせる。
「タッツンせんぱぁ〜い!」
「巽先輩! マヨイ先輩を見つけてきたよ!」
最後にはバタバタと靴底を鳴らして、藍良と一彩が元気よく巽を呼んだ。巽が黒のアンティークチェアからゆっくりと立ち上がろうとすると、一彩がさり気なく手を差し出して、巽のことを支えた。
「おや、お早いお帰りで何よりです。さあ、どうぞ。おかけになってください」
「あ、あのう、巽さん……これは……」
及び腰のマヨイが、首をすぼめて巽の顔とテーブルに並んだ品々とを交互に見た。巽はニコリと口角を上げ、マヨイのためにと椅子の背を引いた。
「カモミールブレンドのハーブティーですよ。マヨイさんがお戻りになってから淹れようと思いまして……覚えておいでですかな? 以前ご一緒にマロンタルトを頂いた時にお出ししたものなのですが……」
マヨイは椅子に座ろうとしなかった。巽を支えていた一彩の手が離れていき、巽は自分の両足でしっかりとマヨイに向き直った。
「心が落ち着く良い香りだとおっしゃっていましたので、ちょうどいいかと思いまして。ですが、何かリクエストがあれば、別のものをご用意しますよ。如何致しますかな」
「い、いえ、あの……確かカモミールとスペアミント……それからオレンジピールのブレンドティーでしたよね? 大変美味しかったのでよく覚えていますし、何も不満などないのですが……そうではなくて……」
かすかに震えだしたマヨイの体に、繋いだままだった藍良の手が、マヨイのそれをギュッと握りしめる。それを見て巽は柔らかく微笑んだ。やはり、この子たちに任せてよかった。
「たっ、巽さん!」
弾かれたように顔を上げたマヨイに、巽はできるだけ穏やかに見えるようにと目を細めた。
「はい。なんでしょう」
ようやく視線が絡んだ。マヨイは、巽の透き通る葡萄酒のような色の瞳に、ほっと肩の力を抜いた。力強く握りしめていた藍良の手をやんわりと振りほどき、みぞおちのあたりで両手を組み直す。
「……申し訳ありませんでした。練習中でしたのに、皆さんを置いて、身勝手に逃げ出してしまって」
まっすぐで、正直な謝罪だった。
マヨイは揺れる瞳を逸らすことなく、巽を見つめた。巽は微笑みをそのままに、もう一度椅子の背を引いた。
「ふふ。よほど驚かれたのでしょうね。あるいは、不安を駆り立てられてしまったのか。……どちらにせよ、こうしてマヨイさんが戻られたことを嬉しく思います。さあどうぞ。お茶菓子もご用意してありますよ」
再び促されると、少しの躊躇いを見せながらも、マヨイは椅子に腰掛けた。それを見届けて、巽も先程まで自分が座っていた椅子の背を引く。
「いいなァ。タッツン先輩、今度は四人でお茶会しようね、おれ、最高にラブ〜いお菓子を用意するよォ」
「僕たちもご一緒したかったけれど……ごめんね巽先輩、マヨイ先輩。敬人塾は時間厳守だから」
「時間厳守っていうか、仕事が押して遅れる人もいるんだけどねェ。これもヒロくんに常識を覚えてもらう課題の一環らしいっていうかなんていうか……とにかくそろそろ行かなきゃ!」
「ウム! 有意義な時間にしてくるよ! 今日はお茶会での作法などを質問してもいいかもね!」
「うーん、蓮巳先輩にお茶会の話したら、茶道とかの話になっちゃいそう〜……」
「それじゃあ先輩たち、行ってくるよ!」
「あっ、おれも。いってきま〜す!」
年少の二人が大きく手を振って駆けていく。
はい、ではまた今度。呟いた言葉に反応して、一彩が振り向きもう一度手を振った。ちょっとヒロくん、危ないから! 藍良にどやされて、一彩はまた前を向いて走り出した。巽は二人の背中を見送って、持参した蓋付きタンブラーに手を伸ばした。
「……マヨイさん? どうかされましたか」
うつむいたマヨイの長い前髪が、青白い肌にほの暗く陰を落とす。マヨイは両膝の上で握りしめていた手を更に強く握り込んで、視線をうろうろと左右に振った。
「その……先程は一彩さんと藍良さんが探しにきてくださって、でも、あの……巽さんの姿が見当たらなくて、私……呆れ果てて、ついにお見捨てになられたのではないかとばかり……」
「あぁ……すみません。余計に不安を煽ってしまいましたな。気が回らずに申し訳ないことをしました」
「い、いえ! とんでもないです、こんな……わざわざお茶もお菓子も用意してくださって……むしろ気を回し過ぎなくらいです、私には勿体ないくらいの――」
言いかけて、口をつぐむ。
巽は黙って言葉の続きを待った。マヨイは数秒まばたきを繰り返したのち、意を決したように眼差しを凛と光らせた。
「……いいえ。そうでした。私は、勿体なくない者にならなくてはいけないんですよね」
瞳の奥の、燃えるような決意の揺らめきを、巽は目を細めて見つめていた。ああ、美しいと、口に出すのはやめておいた。せっかくの真剣な表情に、水を差すようなことはしたくない。
「ソロライブの件。お受けになるのでしょう?」
すべてを察したかのように問いかけると、マヨイはいまだ自信がなさそうに声を低く潜めて、視線を落とした。
「そ、う、ですね……プロデューサーさんにはきちんとお返事をしました。先程、斑さんからソロアイドルについて色々お話を伺って。自分でもどうしたいのか考えて……怖いけど、嫌なわけではないんです」
両膝に置いていた手をもじもじと組んで、マヨイは続けた。巽は紙コップにタンブラーの中身を注いで、立ちのぼる湯気にほっと一息をついた。ほんのりと甘いカモミールに、ミントとオレンジの爽やかな香りが混ざって心地良い。どうぞと言ってテーブルの上に置くと、マヨイはそれを両手で包んで持ち上げた。湯気に鼻先を近づけると、マヨイの表情も幾分か穏やかになった。巽はその様子を嬉しそうに見ていた。
「俺もソロ活動が長かった身ですし、お役に立てるようなら何かお話しましょうか?」
もうひとつの紙コップに自分が飲む分を注ぎながら、巽が尋ねた。しばらく、沈黙が続いた。ハーブティーを注ぎ終わって巽が顔を上げると、マヨイは再び硬い表情を作って、唇をまっすぐに結んでいた。真意を図りかねて、巽の表情もうっすらと曇る。何か余計なことを言ってしまったのだろうか、と。
「……まあ、ESの仕組みもない頃の、昔話ですから。今の時代では参考にならないかもしれませんな。重ね重ね、不甲斐なく申し訳ありません」
「ちっ、違いますっ!」
思わぬ勢いで否定され、巽は目を丸くした。
巽を驚かせたことにハッとしたのか、マヨイはすみませんすみませんと謝罪を重ね、首をふるふると横に振った。わずかに吹いてきた秋風に、二人の手に持つ紙コップから、清涼な香りが舞い上がる。マヨイはそれを吸い込むようにして大きく深呼吸すると、紙コップを持つ手にぎゅっと力を込めた。
「……その。ソロアイドルのことを調べてみて、巽さんのお顔が浮かんだのは確かです。ですが……お話する��で痛みを伴うこともあるでしょう。良い事ばかりではなかったはずですから。……それを巽さんは私に、私だけに、教えてくださったから」
秋風がまた、柔らかく吹いて、二人の横髪を優しく揺さぶる。
「……傷つけたくなかったんです」
巽は、伏せられたマヨイの長いまつげをじっと見つめていた。胸の奥がうんと熱く、どこか息が詰まるような、けれど掛け替えのない救いだと信じられるその熱は、かつての傷口を癒やすかのように体全体へと広がってゆく。
巽が黙って耳を傾けていると、マヨイは沈黙に耐えかねてか急に早口になった。
「で、ですから巽さんが頼りないとか不甲斐ないとかではないんです! 誤解なさらないでください、本当は今すぐその温かな背に匿われて守られたいくらいなんです! どうか信じてくださいぃぃ!」
「俺の背に? ……あっはは! 隠れたいのなら、背ではなくてこちらのほうが良いのではないですか? 俺の両腕は空いていますよ」
巽が思わず噴き出し、胸の中心をポンと右手で示して見せると、マヨイはか細い悲鳴を上げながら肩を強張らせた。
「ヒィ! ほほほ、抱擁は刺激が強すぎますぅぅ! 背の温もりを感じるくらいがちょうどいいんですっ!」
「あは……はぁ……失礼しました、マヨイさんからそんな言葉を聞くことになるとは、あの頃からは夢にも思わず……少しからかいすぎてしまいましたな」
ああ、いつかのエレベーターでの会話を思い出す。いついかなる時も自己を卑下しては他者と距離を取るこのひとが、自分の前で柔らかく微笑んでくれたことが嬉しかった。それが今では、こんなにも近くに。
「……せっかくです。冷めないうちに、お茶を頂きましょう。そしてよろしければ、飲みながら俺の昔話を聞いて頂けませんか」
ふう、とハーブティーの表面に息を吹きかける。ゆらゆら揺れる稲穂色の水面は、暮れる前の眩しい日差しを受けて、まばゆく輝いていた。
「……巽さんがお話ししたいということであれば……いいえ、どうか聞かせてください。私も知りたいです。巽さんが、どんなお気持ちで、舞台に立っていたのか」
マヨイの目には再び、覚悟を決めた時の凛とした光が宿っていた。巽が紙コップに口をつけると、マヨイもそれにならってハーブティーを一口飲んだ。少しだけほっとした表情になったマヨイに、巽も穏やかな表情を携えた。
「ALKALOIDの皆さんとステージに立つことが当たり前になった今、昔を振り返ると、少しばかり寂しいような気もしますけどね。あの時も確かに、俺は多くの人々の熱意に支えられていましたよ」
「……それが、善意の搾取のような形で行われたライブだとしても?」
巽が驚いて口をつぐむと、マヨイは真剣な面持ちで巽の目を見つめた。不安と憤りの入り混じった、複雑なまなざしだった。胸の奥がまた熱く揺り動かされる。ああ俺はこのまなざしと近しいものを去年の凍えそうな季節に受け取ったことがある。あの時感じた熱と同じ。愛しい隣人が自分のために感情を膨らませてくれる喜び。人生で何よりも得難く、何よりも求めてきた想いの交差。
目頭に集まる熱の気配に、巽はまばたきを繰り返して笑った。マヨイは眉を潜め、心配そうに巽を見ていた。
「ふふ……君がそうしてかつての俺を案じてくれることが、こんなにも心救われることだとは思いませんでしたな……。ありがとうございます、マヨイさん。同じ学び舎のアイドルたちからはそうした態度を取られたこともありましたけれど、それでも俺にはジュンさんたちと、あの子がいてくれましたし……」
揺れる黄金の輝きに再び目を落とす。甘い香り。過去を思い出す時の痺れるような痛み。それでもかき消されることのない愛おしい記憶たち。
「それに。舞台を作るスタッフの皆さん、プロデューサーさん、何より観に来てくださるファンの方々がいらっしゃいました」
震えそうになった指先にわずかに力を込めて目をつぶる。神よ。思わず祈りの言葉が脳裏によぎった。どうかこの痛みを抱きしめ、再び光の元へと歩み出せたことを、誇れるようにお導きください。ゆっくりと目を開けると、生い茂る新緑の木々を思わせる青緑の瞳が巽の視線を受け止めてくれた。ああなんという祝福だろう。今、この傷と共に歩む相手はもはや神だけでないのだということ。それがどれほど願ってやまないことだったのか、巽はまだ言葉にして表せなかった。あまりに嬉しくて、奇跡のようで、文字に記せば嘘になって消えてしまいそうで。
胸に秘めて抱えたままなら、きっとどこまでも歩いていける。
それだけの熱を貰った。
同じことを返せたならばと切に願う。
きっとこの四人のうちの誰よりも他者を惹きつけてやまないアイドルである君に。
「……舞台の上でスポットライトを浴びるのは、確かに俺一人です。けれど、光は俺以外のあらゆるものに反射して、強くまばゆく、濃い影を落としました。きっとマヨイさんのステージもそうなるはずです」
それは祈りであり、同時に強い確信だった。
誰もが成功を信じて疑わないだろう。プロデューサーさんも、そう思って一番に君に打診してくれたのでしょうね。口数の少ない、それでいてまなざしでよく語る人だ、と巽は小柄な背中を思い浮かべた。今頃きっと、ステージ衣装の制作に取り掛かっている頃だろう。あの方は仕事が早い。すぐにでも衣装合わせに呼ばれることだろう。その時は、個人衣装を身にまとったあの時のように、皆で集まってお祝いをしようか。四人でお茶会をする約束もある。巽はこれから数日のうちに起こるであろう出来事に思いを馳せて、くすりと小さく笑みを零した。
「ほら、今ではそれに加えて、関係者席に観に来てくださる同輩も多くいますし。俺も観に行きますよ、マヨイさん。遠くから見守ることしか出来ませんが、心はいつも君と共にあります。一彩さんと藍良も、俺と同じ気持ちだと思いますよ」
いつだったか、あの子も俺のライブを観にきてくれましたよね。
巽は、つう、と目を細めた。
鼻孔をくすぐる甘い香り。消えない痛み。この稲穂のような黄金色は、君の瞳によく似ている。
「……私」
マヨイが口を開き、巽はゆっくりと顔を上げた。
「私、見せびらかしたいんです。ALKALOIDの皆さんと過ごした時間を、そこで得たものを、皆さんから力を分けて頂いて、ようやく光を浴びた、私の輝きを」
どくどくと指先が脈打って、巽は乾いた喉につばを送り込んだ。マヨイは何度もまばたきを繰り返しては、小さく息を吐き出して、言葉を区切った。
「とても、怖いですけど。一人で舞台になんて、考えるだけで震えてしまいますけど。でも見てほしいんです。こんなに素敵な皆さんのおかげで、私はここまで進んできたんだ、と」
あの日に受けた傷が消えることは、今後一生ないのだとしても。
「あの、巽さん」
抱えたまま、それでも歩いていけたなら。
まだ俺に、愛した者と同じ希望を抱くことが許されるのならば。
「髪を、結び直して頂けますか」
マヨイが紙コップをテーブルの上に置き、右胸に落ちる黒いリボンを指先で撫でつけた。以前行ったライブで、マヨイの髪がほどけたのを直したことがある。その後も何かにつけてマヨイや一彩、藍良の身だしなみを整えるのが習慣になっていたが、こうして改めてマヨイから手直しを頼まれるのは初めてのことだった。どくん、と指先が脈打つ。巽もゆっくりと紙コップをテーブルの上に置いて、マヨイのことを見つめた。マヨイは熱を帯びた視線に少しだけおののいて、小さく悲鳴を上げた。しばらく左右に視線を泳がせたあと、おそるおそる巽の熱を受け止める。耳元が赤く染まり、マヨイは声を潜めた。
「そ、そのう……やっぱりこれ以上近付くと私、ドキドキしてしまって……溶けてしまいそうで。ですが、巽さんの指が髪に触れ、その結び目を丁寧に直す時。そのことを思い出すだけで、胸が熱くなって……私は一人ではないのだと信じられるんです」
いけませんでしょうか。
不躾なお願いでしょうか。
マヨイが震える声で問いかけた。巽は、目頭に集まる透明な熱を押し込めるように、いいえ、と首を横に振って笑ってみせた。
「お任せください。……君のためなら、俺は何度でも祈りを込めて、その艷やかな髪を梳きましょう」
透き通る紫の瞳にまっすぐ見つめられて、マヨイは一層、顔を赤く染め上げた。もごもごと唇を動かしたあと、テーブルの上のハーブティーを一口飲んで、お願いします、と立ち上がる。一歩一歩と近付いてくる愛おしいひとに、その背が受ける太陽の光に、痛む膝に落ちた三つ編みの影に、巽はゆっくりと一度目を閉じて微笑んだ。
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右手小指の虹と咲く
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
※ スタライBNSの影ナレのネタバレを含みます
見送りのアナウンスを終え、総勢八名の出演者が一人ずつ名乗りをあげて、最後の挨拶の声が揃った。
会場からの鳴りやまない拍手に紛れて、マヨイの心臓はうるさく鳴っていた。
スタッフからの合図でマイクに音が入らないのを確認し、大きく息を吐き出す。ざわつく心臓を抑えながら見下ろした青磁色のつむじ。首筋を伝う汗の量に、マヨイはわずかに青ざめた。
「……もう、しゃべっても大丈夫だよねェ」
藍良のささやき声に、ウム、と低い返事があった。
マヨイ同様、胸に吸った息を全部吐き切ったあと、藍良は隣に座る巽の背中に右の手を添えた。
「タッツン先輩、待ってて。おれ、控え室から水持ってくるから」
「タオルも必要だよね。巽先輩はしばらくここで座っていてほしいよ」
緊迫した雰囲気で藍良と一彩が声をかけると、巽は数秒沈黙した後、いいえ、とか細い声で呟いた。
「二人とも、ありがとうございます。ですが、ここはスタッフの方の出入りもありますから。俺も一緒に、控え室まで戻りますよ」
「でも、さっきはかなり危なかったよ。すぐに立ち上がるのは危険じゃないかな」
「うん。おれもそう思う。無理しちゃダメだよ、もうあと一時間ちょっとしたらまた始まるんだか���……」
出来るだけ責め立てるような言い方にならないようにと、控えめに、柔らかい声で、二人がなだめた。巽は無言でにこりと目を細めた。額に大粒の汗を光らせながら気丈に笑って見せた巽の、ある種の頑なな表情に、一彩も藍良も顔を見合せて困ったように眉を寄せた。普段は頼もしく感じる芯の強さが、今回ばかりは障壁のように立ちふさがる。
巽はいつものように大丈夫ですよとは言わなかった。巽は嘘をつくのが得意ではない。それが対面では尚のことだった。だから、滅多なことでは言葉を偽らないし、ここで巽が沈黙を選んだことは一彩に確信を与えた。きっと、自分たちが思うよりもずっと、巽の状態は良くない。
「巽さん」
一彩がハッとして振り返る。
一拍遅れて藍良が、そして巽が、顔を上げた。
「もうあとほんの数歩だけ、歩けますか」
そこにはペットボトルを二本と、今回のツアータオルを二枚抱えたマヨイが立っていた。
「マヨイ先輩! ありがとう、助かったよ!」
「え、えええっ!? もしかしてマヨさん、今の間に行って帰ってきたの!?」
「お二人とも、巽さんを支えてください。どうぞこちらへ」
驚く藍良に取り合うこともせず、マヨイが背を向けて歩き出す。
巽が立ち上がる素振りを見せたので、一彩と藍良は慌てて巽の腕の下に自分の肩を潜り込ませた。一彩が空いた片手に椅子を掴んだのを見て、マヨイが小さく会釈をした。
「……スタッフの方に、許可を頂いて参りました。この位置であれば、休んでもらうのにいいだろう、と」
マヨイが指示した場所に再び置かれた椅子へ、巽がゆっくりと腰を下ろす。
「……ありがとうございます。マヨイさん」
「ねえ、タッツン先輩、他に欲しいものはある? なんでも言ってね、おれたちが持ってくるからね……」
「ふふ。そのお気持ちが何より嬉しいですよ、藍良さん。一彩さんも、本当にありがとうございます」
「仲間として当然のことをしたまでだよ。……巽先輩。次の公演まで、よく休んでほしい。反省会は、ひとまず僕たちだけで行うから」
「……一彩さん。この数日で随分と頼もしくなりましたね。それではお言葉に甘えるとしましょうか」
時折ふらふらと頭を揺らしながら、巽が笑った。
藍良が不安げに一彩のほうを見る。一彩は巽の微笑みをしばらくじっと見つめてから、意を決したように藍良に向き直った。
「行こう、藍良」
「う、うん……タッツン先輩、あとでね」
「はい。またあとで」
「それと、マヨイ先輩は――」
「私はしばらくここに残ります」
いつか聞いた覚えのある険しさで、マヨイは凛と言い放った。
一彩は少し驚いたように目を見開いてから、ほっとしたように頬を緩めて、小さく息を吐き出した。
「うん。ちょうど僕からも、それをお願いしようと思ったところだよ」
一彩の言葉に応えるようにほんの少しだけ口角を上げて、マヨイは頷いた。
「ありがとうございます。フフ……しばらくしたら、ちゃあんと控え室に戻りますからねぇ……」
「ウム! では藍良と二人でMCの振り返りなどをして、待っているよ! それじゃあね!」
大きく手を振る一彩に、マヨイは目を細めて応じた。一彩は駆け出す直前、藍良に手のひらを差し出した。藍良もそれを自然と握った。不安がる藍良を思ってのことだろう。手を繋いで走り去っていく後輩二人の背中を見送って、マヨイは深く深く息を吐く。
「先ほどスタッフの方に、氷の手配をお願いしておきました。じきに届くと思います」
「……すみません。ただでさえ過密なスケジュールで動いているのに、余計な仕事を増やしてしまいましたな」
震える息を、細く、長く吐き出しながら、巽がゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、全身からどっと吹き上がった疲労の色に、マヨイは奥歯を嚙みしめた。後輩二人の手前、弱ったところは見せたくなかったのだろう。流れ出る汗もそのままに、巽は少し重心を前へと傾けた。開いた両足の間には、今や、生白い腕が力なく伸びている。
「……膝、ですか。……それとも足首を?」
広げたタオルを巽の肩にかけながら、マヨイが尋ねた。揃いのライブTシャツに着替えた巽の肩は、心なしかユニット衣装を身に纏う時よりも華奢に見えた。
「正直、どこが痛むのかも判然としません。……怖いですな。次の公演が始まるまでに、どこまで回復するのか、俺にも見当がつかないんです」
緊迫した声だった。
ごくり、と生唾を飲み込んで、マヨイが口を開きかける。けれど、なんと声をかけるのが正解なのか分からずに、再び唇を強く結んでしまった。マヨイが言葉を探している間に、スタッフの一人がビニールの袋と、椅子一脚を持って駆け寄ってきた。巽の横で立ち尽くすマヨイのためにと用意してくれたものだった。マヨイは両肩をすぼめて何度もお礼を言い、氷の詰まったビニール袋を受け取った。去っていくスタッフにお辞儀を重ねたあと、濡れてしまわないように、控え室から持ってきた自分のタオルにくるんで、巽のほうへと差し出す。
「あの……お膝に乗せて、構わないでしょうか……」
巽の反応は鈍かった。数秒遅れて、ええ、と低い肯定が響く。
マヨイが恐る恐るしゃがみ込み、冷たいタオルのかたまりを膝に当てると、巽はまた長く息を吐き出した。
「……ありがとうございます。マヨイさん。こうしていると、心なしか落ち着くような気が致しますな。炎症の類いであれば、冷やすことで多少は引いてくれるでしょうし」
ほう、と肩の力を抜きながら、巽はようやくいつもの穏やかな口調を取り戻した。その陽だまりのような声色に、マヨイもひとまず胸を撫でおろす。巽はだらんと下ろしていた両腕をぎこちなく持ち上げて、氷の袋を手で押さえた。マヨイは巽の両手に力が戻っていることを確認してもまだ、自分の手をそこから離せなかった。
「マヨイさん。俺に構わず座って頂いて大丈夫ですよ。マヨイさんもお疲れのはずでしょう」
「いえ、ですが……」
マヨイが言い淀むと、巽は強張った口の端を無理にあげて笑いながら、目を伏せた。
「……今の俺が何を言っても、気を遣わせてしまうだけですな。すみません」
氷を押さえる巽の手に、ぎゅ、と強い力がこもる。
うつむいてしまった巽の鼻先に落ちた暗い影に、マヨイは慌てて椅子を引き寄せた。マヨイが腰を下ろす様子を横目に見ながら、巽はこうべを垂れたまま深く息をついた。
「お恥ずかしい限りです。本当に……たった三日間の公演にすら耐えうる足ではなくなっているなんて」
「一日五曲、いいえ六曲を、毎日四公演も踊り続けているんですよ。普段のライブとは訳が違います」
「ふふ。お心遣い、痛み入ります。ですが、求める声に応じてこそのアイドルでしょう」
声の柔らかさに反して、言葉の端々には強い自責が滲んでいた。
巽は顔を上げなかった。目も合わせずにじっと膝の辺りを見つめている。マヨイはそれが酷く不安だった。
「一彩さんや藍良さんに、申し訳が立ちませんな。あの子たちは歓声に応え、一公演を終えるたびに驚くほど成長しているというのに。俺は、年長者ぶって助言をしておきながら、この有様です。きっと目の前で俺がよろめいたことで、不安な思いもさせてしまったことでしょう。……余計な心労をかけてしまいました。君にも」
マヨイは大きく頭を横に振った。三つ編みの結び目が激しく踊って、汗にまみれた首を打つ。
「巽さん」
呼びかけると、巽はようやくわずかばかり顔を傾けてマヨイを見た。マヨイは体の向きを巽のほうへと直して、なるべく真っ直ぐその目に映るようにと祈った。マヨイの祈りを察してか、巽はゆっくりと体を起こし、透き通るようなふたつの瞳をマヨイのそれと交えた。ぽたり、と互いのあごの先から、汗が滑り落ちる。
「すみませんでした。私、後半のほうは巽さんとの掛け合いでつい……腰の位置を低くしすぎてしまって。巽さん、全部、合わせくださったでしょう」
「あぁ――ああ! ふふ、あれは楽しかったですな。普段よりも高揚しているマヨイさんの姿に、俺もつられてしまい……」
「巽さん! 私は謝っているんです!」
マヨイは思わず声を荒げて、目元を鋭く吊り上げた。
巽はしばらくぽかんと口を開けたまま、マヨイのことを見つめていた。次第に、再び表情を硬くしながら、困ったように眉尻を下げていく。マヨイはその姿にはっとして、必死さのあまり叱りつけるような口調になってしまったことをすぐさま悔いた。
「……懺悔であれば、それを聞くのが俺の役目なのでしょうが。マヨイさんは何も悪くはありませんよ。その日その時、最大限のパフォーマンスをファンのみなさんにお届けするのが、俺たちアイドルの仕事です。君はそれを立派に果たしただけです」
巽のそれは本心だったのだろう。途中、マヨイに向けて優しく細められた目は、どこか誇らしげにも見えた。
最善を尽くしましょう、というのは巽の口癖のひとつだった。最新の精一杯、という歌詞を天まで届くかのような声で歌い上げる巽の姿は、その強い信念――信仰の在り方をよく表しているようで、この人にぴったりだと思ったことをマヨイは思い出す。けれど、己の心身を痛めつけるほどの決死の羽撃きを、一体誰が望むというのだろう。
その命を削るような精一杯の果てに、失うものの大きさを思えば。それは、あまりにも。
「……マヨイさん?」
反応のないマヨイを案じてか、巽が震える声で呼びかける。マヨイは強く下唇を噛み締めたあと、意を決して大きく息を吸い込んだ。次に出てくる言葉を察せずに、巽がわずかばかり身構える。
「次の公演。私と合わせるところはせめて、無理をしないでください。巽さんが一番楽なように。特に、膝の曲げ伸ばしは……どれだけ浅くなっても構いません。私がその場で合わせますから」
マヨイは凛とした声で言い放った。
巽は、驚いたように目を見開いて押し黙った。
「他の部分でも。間に私が挟まるフォーメーションであれば、こちら側でいくらでも帳尻を合わせます。ですからどうか、どうか無理だけは――」
ほとんど神に祈るような必死さで、マヨイは巽に呼びかけた。けれど視線の先に呆然としたような巽の表情を捉えて、じわじわと不安がこみ上げる。
「……君は。本当に。どうして落ちこぼれなんて呼ばれていたのでしょうね」
何の話を、とマヨイは酷く混乱した。
今はあなたの話をしているんですよ、と危うく声を荒げそうになるところだった。巽には、時々こういうところがあった。こちらの話を真剣に聞いてくれているはずなのに、どこかここではない遠くを見ているかのような、同じようで全く別の話をふわりと差し込んでくる。あとになってから、ああこれはひと続きの話だったのだ、と気付くことが多いのだが、今のマヨイにそれを受け止めるだけの余裕はなかった。気が急いてむずむずと唇を動かすマヨイに構わず、巽はぼんやりと視点をずらして話し続けた。
「俺には勿体ないくらいの、素晴らしいひとです。舞台上で周囲を気遣うだけの余裕。それをしながら誰よりも目を引く完璧なパフォーマンス。まさに華がある、という言葉が相応しいでしょう。……それをこんな形で。文字通りに足を引っ張ってしまって。懺悔をするのは俺のほうです」
ああ、そこへ繋がるのか、とマヨイは深く息を吐き出した。何を憂いているのだろう。どれほど素晴らしいパフォーマンスも、一人きりで閉じこもっていては陽のあたる場所へは出られない。それを教えてくれたのは。
「……私のような者に、そのような評価が適切とは到底思えませんが」
マヨイは目頭に滲むものを必死になって押し留めた。どうして今自分のような存在がここにいられる��思っているのだろう。あの薄暗い天井裏から、勇気を出して姿を出そうと、そう心に決めたのは誰の力があって。
「けれど。もしも。仮に。……巽さんの目に、私がそのように映るのであれば。答えは決まっています」
どうしてそんなこともあなたは気付いていないのだろう。
「あなたに出会わなかったからです」
ついに瞳の奥から溢れ出した涙が、マヨイの頬を伝った。巽の動揺が、氷を支える手の震えに現れる。巽が手を伸ばす前に、マヨイは流れる涙を空いた片手で懸命に拭った。
「私だけじゃありません。一彩さんも、藍良さんも。私たちが巽さんの言葉に、どれほど背を押されて……正直ぞっとします。ここにいるのが巽さんでなかったら。私の、私たちの未来はどうなっていたのだろう、と」
すん、すん、と何度も鼻を鳴らして、マヨイは溢れる思いを押し込めた。これ以上は巽を困らせてしまう。それはマヨイの本意ではない。
「あなたが水を与え。光を注ぎ。あなたが咲かせた花です。……ですからあなたのお側で咲きます。文句は言わせません」
涙を堪え、鋭い目つきで凛と言い放つと、巽は唇を一直線に結んでマヨイを見据えた。真剣な表情だった。マヨイはどうか伝わってほしいと祈り続けた。タオル越しに氷を握り続けた手のひらが、少しずつ感覚を失っていく。それでもマヨイは添えた片手を離さなかった。
「巽さんはきっと……本当は一瞬の閃光のように、鮮烈な輝きと共に、散ることも厭わない方なのでしょうけれど」
思い出す。
あの日空中庭園で聞いた過去のこと。
危険を顧みず既存のシステムに抗ったこと。
��の結果多くを失っても、今再びこうしてステージに戻ったこと。
確かにその魂が凄まじく強靭だったからこそ、自分たち四人はこうして出会えたのかもしれなかった。足が折れようとも諦めずにアイドルで在り続ける巽の精神力がなければ、今のALKALOIDは在り得なかった。けれど、これからは、これから先のことは。
「ずっと。ずうっと。あの日そう言ったはずです。私……嘘や誤魔化しのつもりで言ったんじゃありません。私は本気で……絵空事だと嗤われても、誰一人欠けることなく、この四人で、これから先もずっと、ずうっと……」
今、この人を失ったら。
私たちは、私たちでいられなくなる。
そんな簡単なことも分かってもらえないというのなら、今の自分に価値などあろうか。どれだけ歌やダンスが上手くなっても、もっとずっと掛け替えのないものを守れなくては意味がない。
私は私の貰ったものと同じだけの熱を返したい。
ただそれだけ。どうかそれだけ。
届きますように。
「……だからお願いです。本当に。どうか無理だけはしないで」
溢れた想いがまた一筋の涙になって頬を滑り落ちた。ぎゅう、と片手に力を込めて、氷のかたまりを握る。二人の手の熱と、巽の体温で、氷は随分と溶けてしまっていた。マヨイはうつむいて鼻をすすった。
「……マヨイさん。また髪が」
すっかり穏やかになった巽の声が、マヨイの名を呼んだ。マヨイは黙ったまま、巽の膝を見つめていた。
「一度ほどいて結び直しましょう。……どうか顔を上げて」
ほんのわずかに滲んだ祈りの色に、マヨイがそっと視線を上げる。目が合うと、巽はほっとしたように眉尻を下げて笑った。触れてもよろしいですかな。問いかけに、マヨイは小さく頷いた。巽が両手を氷から離す代わりに、マヨイはもう片方の手でそれを支え直した。
「マヨイさん。ALKALOIDのダイヤ担当、風早巽としての、俺のチャッチコピーを覚えておいでですか」
しゅる、と黒いリボンがほどかれて、マヨイは鼓動が早くなるのを感じた。さっきまでとさほど距離感も変わらないはずなのに、髪に触れられていると思うと急に緊張してきてしまう。硬直したマヨイが返事をできないでいると、巽はぬくもりのある声でそのまま続けた。
「遅咲きのニューホープ。一度は潰えたはずの俺の希望に、水を与えてくれたのは君たちでした」
マヨイはゆっくりと巽の瞳を見つめた。
巽は、マヨイの髪をその長い指で梳いて、綺麗に三本に分けると、つう、と目を細めて笑った。
「もう二度と咲き誇ることはないと。あの頃と同じ足には、戻らないのだと。……だからこそこのような奇跡はいつ終わってもおかしくないと。俺はいつも思っていましたよ」
巽の視線はマヨイの長い髪に向けられている。
こんなに大切な話をしているのに、目が合わないということがマヨイには酷く心細かった。
「……想像するだけで恐ろしく。けれど常に頭の片隅にあって、消えてはくれない。今この瞬間も。そしてきっと。この先も、ずっと」
不意に、巽の表情から笑みが消える。
痛いほどの想いに同調して、マヨイは心臓を掴まれたような心地になった。
「それでも」
三つに分けた長い髪を丁寧に編み込みながら、巽はまばたきを繰り返した。長いまつげ。薄暗い舞台袖に、わずかばかりの光が差し込んで、それを照らし出す。
「それでも、まだ。――まだ俺のもとに。慈愛の雨が降り注ぐなら」
細い黒のゴムで三つ編みを縛ったあと、長いリボンを綺麗なちょうちょ結びにして、巽はしばらく目を閉じた。
ああ、祈りの声だ。諦めないと叫び続ける、衝動の声だ。マヨイの頬を、もう一筋の涙が伝った。
「……うん。よし。はい、これで完璧ですな。綺麗ですよ、マヨイさん」
巽は長い黙祷のあと、まるで何もなかったかのような明るい声色で、マヨイと視線を交えた。流れ続ける涙に気付き、頬を強張らせる。
「巽さん」
マヨイは溶け残った最後の氷をぎゅっと掴んで、まっすぐに巽を見た。巽に負けないくらいの、頑ななまなざしだった。
「約束してください。今ここで」
巽は透き通る紫の瞳を大きく揺らした。
マヨイは視線を逸らさない。この人がうんと頷くまで逸してなるものかと、躍起になって目尻を釣り上げた。
「……ああ。そう。あの雨のあとも」
泣き出しそうな巽の瞳が、ゆっくりと細められる。
「虹をかけてくれたのは、君でしたね」
かすかに震える声。
不安の現れなのか、喜びの現れなのか、それともその両方なのか。マヨイには分からなかった。ただ、必死になって伝えようとしたことの一端が届いたのだと、そのことに安堵してマヨイはまた少し泣いた。
「でしたら俺も。君との間に、俺の虹を置きましょう」
そっと三つ編みの結び目に触れたあと、巽は右手の小指をマヨイの胸の前に差し出した。
「約束します。故障してばかりの、酷く歪な体ではありますが。……俺もまだ、君たちと同じ場所で咲いていたいですから」
巽は空いた左手で、膝の上に乗ったぬるい水のかたまりを撫でつけた。もう痛みは引いただろうか。まだ氷が足りないだろうか。すっかり穏やかさを取り戻した巽の表情からは、足の具合を伺い知ることは出来ない。けれどきっと、このあとに教えてくれるだろう。痛むのか、まだ冷やしたほうがいいのか、テーピングは必要か――
「叶うのなら、いつまでも」
この願いを同じくするのであれば、きっと。
「どれほど歪であろうと。重ねてみせます。必ず。お安い御用ですよ、こんな……これと比べたら、ちっとも……舞台の上でなら私、難しいことなんて、きっと一つもないんですから……」
マヨイはぽろぽろと溢れる涙をそのままに、差し出された小指に自分のそれを絡ませた。約束。そう、聖書の虹は、神様がくださった約束の証なのでしたね。マヨイはまた巽の言葉の一端を理解して、ようやく頬をゆるめた。分かること、分からないこと、重なること、重ならないこと。きっとこれからもたくさん増えていくだろう。過ごした時間の分だけ。けれど今ここで重ねた小指のことを、ずっとずっと覚えていたいとマヨイは願う。ぎゅう、と小指に力を込めると、同じだけの力がマヨイのそれを握り込んだ。触れた指から伝わる熱に、じりじりと体が熱くなる。急に意識が追いついてきて、マヨイは小さく唸り声を上げた。
「……あ、あぁぁあああ駄目です! 今になって緊張してきました! た、巽さんの指が今日も、わた、私の髪に触れて……それどころか指先にまで……も、もう充分でしょう!? これ以上は心臓が破裂してしまいますから、離してくださあああい!」
マヨイが小さく悲鳴を上げると、巽は強く握り込んだ小指をぱっと離した。思わず体がのけぞって、ビニールの袋がべしゃりと音を立てて滑り落ちる。その音に驚いてマヨイが再び悲鳴を上げると、巽はようやくクスクスと声を立てて笑った。
「俺としては、こちらの方にも慣れて頂きたいものですが」
ゆっくりと立ち上がろうとする巽を慌てて制して、マヨイが落ちたビニール袋を拾い上げた。すっかりぬるくなってしまった水に、経過した時間のことを思う。
「ありがとうございます……マヨイさん」
戻りましょうか、二人で。
巽が言って、マヨイが頷いた。手を貸して頂けますか。巽の問いかけに、それでしたら勿論、と返答して、マヨイは立ち上がった。触れることにも、触れられることにも慣れないけれど、少しでもこの人の支えになれたならいい。マヨイは丁寧に編み込まれた自分の髪を見下ろして、そこに残る熱のことを、心の内で愛おしく抱きしめた。
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ロストヒューマンの塵
カップリング/ReS。・・・陣&章臣(千秋&奏汰)
参考ストーリー・・・Saga前編・後編
「三年A組守沢千秋! 止まりなさい!」
廊下を駆け抜ける力強い足音をかき消すかのように、遠く突き抜けるような甲高い静止が響き渡る。
おうおう、若人のエネルギーに負けない声量だねぇ。興味本位に保健室のドアを開け、顔を出すと、ちょうど仁王立ちしたあきやんがクソ真面目な早歩きで通り過ぎていくところだった。
「い、いや、これはその……! 緊急事態なんです! 一刻も早く向かわないと手遅れに、いや! もう既に手遅れではあるんだが!」
こっちはこっちで耳慣れた常連の声だった。常連になってもらっちゃ困るんだが、と一年の春先から苦言は呈してきたんだが、ついぞ三年の冬になっても改善することがなかった。思いのほか切羽詰まったような態度の守沢が、ゆっくりと速度を落としながらこちらを振り返る。俺のことには気付いていないのか、その正義感に溢れる琥珀色の瞳は、困ったように揺らめきながらも真っ直ぐにあきやんを捉えている。何故だか知らんが、赤地に白い星の模様が入った大きなバスタオルを牽制のように両手で広げ、じりじりと後退を試みているようだった。
危ねえなぁ、振り向くか立ち止まるか、せめてどっちかにしろよ。
クソ真面目さではあきやんに引けを取らない守沢は、煮え切らない態度で数秒あきやんと対峙した後、くうぅ、と悩ましげな悲鳴を上げ、ついにバスタオルをぶんぶん振って駆け出した。
「すっ、すまん! 今回限りは見逃してくれ! あいつのレスキューが終わり次第、戻ってきて反省文を書きます!」
「あっ! こら! 待ちなさ――」
あきやんが言い切る前に、守沢は走り去ってしまった。「奏汰ぁぁぁ!」と叫ぶ声が遠くから聞こえて、レスキュー、大きなバスタオル、既に手遅れ、の意味を知る。深海のやつ、またこんな時期に噴水に突っ込んでるのか。そりゃあ一大事だし、守沢が一秒でも早く向かいたい気持ちも分かる。ただでさえこの時期は風邪もインフルエンザも流行るのに、こじらせて肺炎とかになろうもんなら洒落にならん。俺らの仕事なんてのは、できるだけ少ない方がいい。こればかりは楽をしたがって言っているわけでは断じてない。
俺が守沢の行動に納得している間に、深々と息を吐く音が聞こえて顔を上げる。悩ましげに額を押さえつけながら��あきやんがこちらへ向かって歩いてくる。眉間に刻まれたしわはいつも通りといえばそうだが、俺から言わせりゃ、いつもより少し多めに回っております、といった風貌だった。
「全く……反省文は校則違反をした自覚と反省を示すために書くものであって、書くこと自体が違反の免罪符になるわけではないんですよ」
「アハハ。あいつアホ真面目だからなぁ」
苦々しいお小言に対して返事をすると、予想外の反応だったのか、紫色の瞳が大きく見開かれた。
話しかけられたんだと思った俺も、なんだただの独り言だったのか、と少しだけ恥ずかしくなる。
「陣……見ていたんですか」
照れ隠しに眼鏡のテンプルをなんどもいじって、あきやんは視線を反らした。
「あれが真面目なものですか。あの子が私の注意を聞いて廊下を立ち止まったことなど数えるほどしかありませんよ」
「数えるほどはあるのかよ。ますますアホで真面目だな。てかあきやん、守沢のこと結構好きそうなのになぁ~何だぁ? もしかしてまだ根に持ってんの?」
「あなたじゃないんですからそんなことで態度を変えるようなことはありません!」
「えっ。心外だな~俺だってそんなことしないっての……」
「……まあ。印象的だったので、記憶が鮮明なのは事実ですけどね。あんな風に表立って野次を飛ばすような子ではなかったでしょう」
ぱちくり、と二度まばたきをする。
あきやんは俺の心を当然のように見透かして、呆れたように眉尻を下げた。
「何を意外そうにしてるんです。覚えているに決まっているでしょう。生徒の顔と名前が分からないようでは教員失格ですからね」
昔は目立たずとも大変真面目な生徒でしたよ。規則を破ったことなどない、地味ですが模範的な生徒でした。それに生徒会の発足にも一役買ってくれた子ですからね。蓮巳君が署名の件を嬉しそうに報告してくれたことも、昨日のことのように思い出せます。
意外や意外、守沢のことを昔から知っていたのは俺だけではなかったようだった。
守沢の過去を訳知り顔で語ったあきやんは、その直後にハァ~とくたびれたため息をよこした。
「それが今や、廊下を走り放題の問題児のようになってしまっているんですから。困るんですよ。走る理由は理解できますが、周囲の生徒に示しがつかない」
「ハハ。若人と違って、先生は大変だねぇ。規則違反を取り締まらなきゃいけない規則でがんじがらめだ」
「茶化すのはおやめなさい。あなたも教師の端くれでしょう」
「教師じゃなくて養護教諭だも~ん」
「ああ言えばこう言う……昔から変わりませんねあなたは」
「どうかね。変わっちまったもんの方が多いと思うけど? それも悪い方にな」
淡々と事実を言ったつもりが、あきやんはそうは受け取らなかったらしい。
急に黙るもんだから、まるで意地悪でも言って黙らせたみたいだ。居心地悪いな、どうしたもんか、と唇をモゴモゴさせていると、再びバタバタと足音が聞こえてきた。さっきよりも人数が多い。レスキューとやらは成功したのだろうか。しばらく二人分の靴音を聞いていると、廊下の向こうから下足で上履きに履き替えた二人組が姿を現した。一人はさっき守沢が持っていったデカいバスタオルにくるまれているが、くるん、と頭頂部から顔を出した独特の癖毛のおかげで、誰なのかはすぐに分かった。あきやんはまた一つため息をついて、怖そうな顔を作って腕を組んでみせた。けれどそれも長くは続かず、守沢が深海の肩を抱えて心配そうに歩いてくると、心なしか困ったように唇をへの字に曲げた。
「ほら、奏汰、ちゃんとこれで拭いて暖房のある部屋にいろ。着替えなら俺の体操着を貸してやるから」
「うう~……だめですか? もうあと『いっぷん』だけでいいですから……」
「駄目だ駄目だ! 噴水は駄目だ! 代わりにあとで銭湯の水風呂に入れてやるから、な? もう少しだけ我慢してくれないか」
「でも、おへやにいると『かんそう』が……っくしゅん」
「あ~ほらもう、くしゃみしてるじゃないか! だから冬の噴水は駄目だって何度も言うんだぞ! だが……うん、よし分かった。霧吹きを用意してくるから、五分だけ待ってくれ!」
「『きりふき』ですか? それってどういうものですか? 『ふんすい』のかわりになりますか?」
「ああ! 乾燥を防ぐには役立つはずだぞ! 確か手芸部の部室にあったはずだから、もう一っ走りして斎宮に頼み込めば五分で――」
守沢は深海の説得に夢中で、目の前のあきやんに直前まで気付かなかった。ふと顔を上げた瞬間の「あっ」という間抜けな声に、あきやんはものすごくあからさまにため息をついてみせた。
「……佐賀美先生。急患のようですよ」
「へ?」
「そ! そうなんです! 佐賀美先生! すみませんが奏汰をしばらく頼めますか」
「あぁ、そりゃ構わない、っつか……風邪っぴきの面倒は俺の仕事だけど……」
「守沢君」
「はい! あと五分だけお待ち頂けたら反省文を――」
「走るのはおやめなさいと何度言わせるんですか、全く。職員室の観葉植物の前に、霧吹きがありますから、そちらのほうが早く済みますよ。五分もかかりませんから、走らずお行きなさい」
守沢は驚いたように目を丸くしていた。っくしゅん。深海の間の抜けたくしゃみに、はっと我に返ったように肩を上下させる。
「あっ……ありがとうございます! お借りします!」
「声が大き……こら! だから走らずにお行きなさいと言って――」
守沢が駆け出した瞬間、ポケットから何かが落ちてカツンと固い廊下の上を弾んだ。
なんだなんだと目で追って、それが何かに気付いてハッとする。
「おい! 守沢!」
怒鳴るような声になって、隣にいたあきやんと深海が大袈裟に肩を震わせた。
大きくつんのめってからこちらを振り向いた守沢に、右手人差し指で落としたものを指し示す。守沢よりも先に、落ちたものが何だったのか、深海も気付いたようだった。ちあき。少しだけ焦ったような鼻声がバスタオルの隙間から漏れ出た。動き出そうとする深海をそっと制して、落とし物を拾いに行く。数秒して守沢も気付いたのか、顔面蒼白になってこっちに駆け寄ってきた。
「よっこいしょ……っと。うー、腰にくるな、年だなやっぱ……」
片手に拾い上げたソフトビニールのヒーローフィギュアは薄汚れていて、所々に傷がついていた。千切れてしまったのをテープで貼り合わせた形跡もある。かなりの年代物だ。幼少期からずっと大切に持ち歩いているのだろうか。膝に手をあてて上体を起こすと、引き返してきた守沢と目が合った。今となっては珍しいが、その目は初めて保健室で会った時のように、わずかばかり怯えて見えた。
「佐賀美先生」
「はいよ。よかったな、俺が落としたのに気が付いて」
「はい。……すみません。助かりました。ありがとうございました」
「あー……。お前さぁ、もうちっと気を付けろ。前ばっか見てると大事なもんを落っことすぞ」
フィギュアを守沢に手渡す。たまには教師らしく説教でも、というわけでもなかったんだが、それはあきやんの怒声よりも守沢の心に刺さってしまったようで、守沢は歯痒そうに眉尻を下げて目を閉じた。
「はは……すみません。以後気を付けます。ありがとうございます」
握りしめたフィギュアをそうっと大事そうにズボンのポケットにしまう。
けれど、��れも束の間、ちらっとバスタオルにくるまった姿を一瞥すると、守沢はさっきよりは控えめという程度の駆け足で職員室へと向かっていった。俺は小さくため息をついた。さっきは茶化しちまったけど、今ではあきやんの気持ちがちょっとだけ分からなくもない。
「ありゃ、またやるな。ほんとさぁ、毎回拾ってやれるわけじゃないんだから。世のため人のためもほどほどにしといてくんないかな~」
「おや。流星レインボーの台詞とはとても思えませんね。ファンが聞いたら泣きますよ」
「おえ~やめてくれ~昔の栄光なんて虚しいだけだってのに……」
「……うふふ」
「ん? どうした? お前さんは早いとこ保健室に入ってくれると助かるんだがな」
「いいえ。あなたもヒーローだったって、ちあきにきいたのをおもいだして。『ほんとう』だったんだなぁって」
守沢のやつ、あることないこと吹き込んでないだろうな。
げげ、と口を歪めたいのをなんとか堪えて、深海を保健室に押し込む。
「ほれ。ベッドは全部空いてるから、好きなとこに寝転がって、布団被って待ってろ。お前さんのくしゃみが悪化したら、あとで守沢が泣くぞ」
「むぅ……それはこまりますね……ほんとうは『だんぼう』のきいた『おへや』はいやなんですけど……」
しぶしぶ、という感じの雰囲気を隠すこともなく、それでも最終的には大人しく保健室のドアをくぐった深海を見て、俺は正直感動を覚えていた。どいつもこいつも言うこと聞かない連中だなぁと思いつつ、深海だけは最後まで誰にもその自由を奪えないのだと思っていた。
――いや。それこそが俺の勘違いで、深海がようやく自由になったのがこの冬、ということなのかもしれない。真冬に噴水に入るのも、守沢を困らせたくない気持ちも、その自己矛盾にぶつぶつ文句を言うのも、今になってようやく――人生で初めて得たものなのかもしれない。
あいつが、他の何もかもを振り落としてまで助けたかったものが、今の深海の姿なのかもしれない。
「……? ぼくの『かお』に、なにかついてますか?」
澄んだ海の浅瀬のような瞳を真っ直ぐに向けて、深海は首を傾げた。
「いいや。なんにも。強いて言うなら、まだ濡れてんだよな~。ちゃんと拭いとけよ、髪」
「はあい……くすくす。『りゅうせいれいんぼぉ』の『ちゅうこく』ですから、ぼくもまもらないといけませんね」
ちあきにしかられてしまいます。
そう言い残して、深海は保健室の奥へと進んで行った。
ハァ~と何度目かのため息をついて、ゆっくりと音を立てずにドアを閉める。沈黙を保ち続けるあきやんに目を向けると、それに気付いてかあきやんもこちらに視線を合わせた。
「つか、なんだよあきやん。守沢の肩持つの? もう脱退済み、ってか、何年も前に卒業したヤツの話なんだからさ。どいつもこいつも……過去の幻想ばっか追っててもらっても困るよ」
「幻想と言い切るには、早計だと思いますけどね。私は」
りゅうせいれいんぼぉ。
独特の口調でそう告げた深海の、柔らかい笑みが頭をよぎる。
途端に胸のどこかがじくじくと鈍い痛みを放って、俺の呼吸は鈍くなる。
幻想だ。そんなものは。
お前が憧れたヒーローたちと違って、俺は誰のことも助けられなかった。大事なものは全部落とした。
だから。
「他人の落とし物について、貴方が語るのは。どうにも、腹が立ちますね」
だから、目の前の大切だった後輩が、こうして追いかけてきたことを、有難くも申し訳なく思う。
「ごめん」
白々しく聞こえたかもしれなかった。
それでもあきやんは、それ以上俺を責めることはしなかった。
「分かってるよ、あきやん」
俺が振り落としてきた全てのものも。
その中にお前が含まれてることも。
それなのに今度は同僚としてもう一度俺の前に現れてくれたことも。
「お前が全部、 拾っといてくれたことも」
俺が俺のせいで失くしたいくつもの欠片たちは、この春に始まった企画によって、ほんのわずかだけれどもこの世によみがえった。やっぱり、分不相応だと思う。ああいうステージや予算ってのは、こんな老いぼれじゃなく、未来のある若人に与えられるべきだ。今でもその考えは変わらない。だけど。
「……私は」
後悔がないって言ったら、それは、嘘になっちまうから。
「あの時、手遅れになる前に。走っていればよかったのかと」
遠く、廊下の向こうをぼんやりと見つめるあきやんの瞳には、規則を破ってばかりの真っ赤なヒーローが映っているのだろう。廊下を走るなと注意するあきやんの毅然とした態度に、その堅苦しい声色に、ごくごく個人的な苦悩が混じっているだなんて、誰が気付くだろう。
「いつも後悔していましたよ。もっと早くに渡せたのに、と」
俺くらいは――俺だからこそ、気付いてやらなきゃいけなかったのに。
「……どうせ受け取らなかったよ。俺のじゃない、って言ってさ」
ああ、本当の本当に、俺は世界一の大馬鹿者だった。
そんな大馬鹿に、いろんな連中がお節介を焼いてくれた。
空にかかる虹のような、一瞬の輝きための、奇跡みたいな一年だった。
お前が背負うことなんかなかったのにな。全部が全部、俺の身勝手のせいなのに、真面目で、面倒見がよくて、俺より俺のことを大事にしてる。俺の後悔の一部を、振りほどいて置き去りにした何もかもを、まだここにあるぞって突き付けてくる。俺が「ゴミだから」って丸めて後ろに捨てたものたちのことを、まるで流れ星が振りまいたきらめきみたいに言う。
それが果たしてそこまで輝かしいものなのかどうかは分からない。
だけど、捨て去ってしまっていいものでもない。
少なくとも俺にとって大事なものだったってことを思い起こさせる。
遅くても早くてもきっと届かなかった。
だから、言う。何度でも。
「まあ。こんなオッサンになってからでしか。駄目だったけどさ」
あれは虹のような輝きだったと。
「ありがとうな。ずっと持っててくれて」
晴れ間がのぞく、たったの一瞬を、辛抱強く待ち続けてくれて。
「あきやん」
呼ぶと、銀のフレームがちかちかと光って、その奥にある紫の瞳をほの白く輝かせた。
まだその目には、手遅れにならないようにとひた走るヒーローの背が見えているのだろうか。でもな、あきやん。あいつだっていろんなものを落とすんだぜ。今日みたいに。だから、見つけたやつが、拾って手渡してやんなきゃいけないんだよな。
「お前の落としたものは、誰かが拾ってくれたか」
そんな当たり前のことも今日まで気付かなくって、ごめんな。
「……さあ。どうでしょう。でもきっと、どこかにいるんでしょうね。私が気付いていないだけで」
そっか、と小さく息をつく。
そうだといい、そうに違いない、と俺は願う。
ヒーローなんて信じちゃいなかったあの頃の俺に、何もかも適当なまま「虹」を名乗らされていた当時の自分に、今だったら言えると思う。
拾ってやれ。
立ち止まらずに駆け抜けていく星々の塵を。
いつかそれがきらめく時を、お前だけは信じ続けてやれ、と。
遠くで守沢が、職員室に向かって直角におじぎをしている姿が見える。きっとすぐに走ってやってくるだろう。大事なものを守り抜くために。あきやんの注意なんて、きれいさっぱり忘れて。
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逆光とその透過率による太陽の証明
カップリング/ReS。・・・ゲシュタルト&カミーユ
※ コバルト視点の話です
※ ゲシュタルトは出てきません
天井にまで達する巨大な本棚が、今日も視界を埋め尽くす。
ぼんやりと青い照明に照らし出された自分の影をコツコツと踏みつけながら、あと三つ、と頭上にかかるアーチを数えた。
身動きの取れる避難者の多くはカースティシティやソピア・エンドへ移動したとはいえ、このような広々とした空間を目の前にすると、やはり驚きを隠せなかった。エリューズアーカイブに残った研究者たちの多くは今日も慌ただしく活動している。研究にいっそう打ち込む者、負傷者の治癒にあたる者、外部との連絡を取り合う橋渡しとなる者。ゼルプストを浄化した今、ヘルレルム国内だけでなく、他国からの連絡便も頻繁に飛び交っており、エリューズアーカイブの職員を含め、その対応に追われる者たちも多い。この通路は、それを微塵も感じさせない静けさだった。
なるほど。
この規模の結界を施すとなれば、イルが『実在』に呼び出されたのも頷ける。
硬質な足音に紛れて、時折カチカチとなる右腕にゆっくりと目を落とす。イルから手渡された腕輪の中央には、加工された六角形のレガリアがはめ込まれており、そこには見慣れない魔方陣が刻まれていた。
なくさないようにね。
淡々としているようで、どこか温もりのある声で、イルは私に告げた。
念のためにと最新型のレガリア通信機も渡されたが、つまり、これらがなければいくら『構造』副代表の私であっても、最悪この通路を延々と歩き続けることになりかねん、ということなのだろう。正規の手続きを踏み、面会を申し出なければ、部屋へ辿り着くことさえできない。随分な念の入れようだ。この先にいる人物の肩書きを思えば、それなりに厳重な対応を求められるのも分からないではないが。
あと一つ。
最後のアーチをくぐると同時に、腕のレガリアが赤く光った。合図があったら、そこを左に。イルから指示された通りに通路を曲がると、ようやくそれは現れた。
扉に触れようと右手をかざし、ほんの少し、躊躇した。
なんだかんだ、これまで一対一で話す機会はなかった。側にはいつもニッケルか、ゲシュタルトか、あるいはその両者がいた。自分でも困惑している。この静けさの向こうに一人で踏み入るのが、何故こうも心細いのか。だが、ここで頼まれ事を放棄して帰るわけにはいかない。握りしめた白銀の右手は、黒の手袋に深いしわを刻んだ。意を決して扉をノックする。どうぞ。返事があったのを確認して、私はようやく鈍色に光る古びたドアハンドルに手をかけた。
「……なんだ、その顔は。私が見舞いに来るのがそんなに意外か」
目が合うのと同時に息を飲んだカミーユは、慌てたように口をぱくぱくと動かした。
「い、いえ。そういうわけでは。すみません、この時間にはよくイル君が様子を見に来るので、てっきり……」
普段身にまとっている水色のローブの印象が強いせいか、入院着を思わせる真っ白いシャツを羽織ったカミーユは、なんだか別人のように思えた。おまけに首回りが目立つが故に、瘦せこけたのが丸分かりだ。
扉を閉めてベッドへ近づくと、カミーユは気まずそうに視線を左右に揺らしたあと、私の顔をゆっくりと仰ぎ見た。
「そう、ですね。あなたが今、ゲシュタルトさんの側を離れるのは……それについては確かに、意外だとは感じましたが」
気を悪くしたわけではないと理解したのか、カミーユの声はだんだんと落ち着きを取り戻していった。
別に私とて、常に怒りをあらわにしているわけではないのだが、どうも周囲からはそうとは見られていないらしい。納得のいかない話だ。私よりも、むしろニッケルの方が血の気は多いと思うのだが。
ふん、と軽く鼻息を飛ばす。見下ろすカミーユの青い瞳は、弱った肉体に反して、いつも通りの熱意を感じさせた。
「……そのゲシュタルトたっての願いだ。カミーユの容態はどうだと、様子を見てきてくれないかと、顔を合わせる度にうるさくて敵わん。ニッケルと共に、人の心配をしている場合かと何度も言い聞かせたのだがな」
思いのほか大きく溢れたため息の音が、静謐な部屋の中にこだました。カミーユは、今の発言に何か思うところがあったのか、唇を一直線に結ぶとそのまま押し黙ってしまった。
ほんの数秒の沈黙を、やけに長く感じた。
双方に口を閉じれば、衣擦れの音さえも聞こえない。不気味なほどに静かな、いいや、停滞した部屋だった。入る前の躊躇いとはまだ別の居心地の悪さが、全身を覆うようにまとわりつく。ああ、私はこの沈黙と停滞の正体を知っている。無意識のうちに眉をひそめている自分に気づき、形容しがたい気持ちになる。
「だが、まあ……その様子では見に来て正解だったのかもしれん」
肉体の損傷はなかったと聞いた。
危惧されていた魂の汚染についても、エリューズアーカイブに帰還して半日も経たないうちに回復を見せたと。
我々が昏睡状態のゲシュタルトを連れ帰ったときも、各学派に的確な指示を出し、臨時とはいえこの場の医療体制を整えたのは記憶に新しい話だ。だというのに。
「すみません。せっかく来てくださったのに、何のもてなしもできず……どうぞお掛けになってください。確か……いつもイル君やスレムさんが座る椅子が、部屋のどこかに……」
今のカミーユは、首から下の肉体を、自分の意志では動かせない。
倒れた当初は、指の一本ですら満足に曲げられなかったらしい。
会話は以前と変わらず可能なので、本人も酷く混乱しているのだと、つい数日前スレムたちと情報を共有する中で知った。ただの過労ならばまだいい。恐怖と絶望による干渉が、今になって肉体のほうに現れた可能性も高い。余計な負荷を与えると考え、ゲシュタルトには黙っていたのだが、どうも見通しが甘かったらしい。
「……このことを、ゲシュタルトさんに?」
まぶたの先で、短いまつげが大きく震え、青の瞳が半分ほど覆われる。
私はベッドからだいぶ離れてポツンと置かれていた丸椅子を片手で拾い上げ、カミーユと目を合わせられる位置まで持ってきて腰かけた。
「ああ。報告させてもらう。流石に……この有様を見て、ゲシュタルト相手に嘘はつけん」
そうですか、と諦めたように呟いたカミーユは、浅く静かな呼吸をしたあと、再び両のまぶたに強く力を込めた。
目を閉じようとしたのか、瞬きが上手くいかないのか、あるいは不甲斐なさに顔を歪めたのか。今の状態からは知る由もない。
沈黙は、我らの間を隔てるように、重たく横たわった。おそらくはカミーユの肉体を強制的に休ませるため、あらゆる情報を遮断しているのだろうが、あまりにも厳重すぎるが故に閉塞感すら覚えるこの部屋の雰囲気は、カミーユの身動きを封じる要因になってはいないだろうかと、柄にもなく案じてしまうほどだった。
ゲシュタルトが執拗に頼み込んでこなければ、知ることすらなかった。
この場に複雑な結界が張られたことも、息が詰まるような部屋の空気も、衰弱した肉体の青白さも。
見えなければ、ないのと同じだ。
そうしてきっと、過ぎていっただろう。我々には関係のない話として。
「……情けない限りです。どんな反動や後遺症があったとしても治療してみせる、なんて豪語しておきながら……自分がこうなる予測の一つも出来なかった。こうなってしまっては、今度こそ本当に只のお荷物だ」
「いいや。そもそもおまえは我々『構造』とは根本的に在り方が違うのだ。あのゲシュタルトですら、ゼルプストの絶望にあてられて魂も肉体も限界を迎えたのだぞ。軟弱な人間がなんの備えもなく無茶をすれば当然そうなる」
むしろよくその程度で済んだものだと、私は各地で起きた反転現象を思い出しながら感心していた。
アレーティアですら、門から漏れ出る恐怖に魂を侵されたのだ。あれよりもはるかに濃い絶望のエネルギーで満たされた空間に身を置きながら、カミーユは最後まではっきりと自我を保っていた。レガリア通信機の位置情報を正確に捕捉し、最短距離で駆けつけたことがダメージを最小限に留めたのだろうが、それだけではないはずだ。やはりその技術と意志の強さは称賛に値する。ゲシュタルトに比肩するとは言い難いにしろ、並大抵の研究者に出来る��とではない。
「ゲシュタルトさん……そうだ! ゲシュタルトさんこそどうなったんです!」
肩を強張らせてぎこちなく身を震わせたかと思うと、カミーユは苦しげに片目を歪めたあと大きく咳き込んだ。血でも吐くのかとおののくほどの酷く乾いた咳に混じって、ガシャン、ガシャン、と何か硬いものが床に落ちる音がする。カミーユは何度か大きな咳を繰り返したのち、ヒューヒューと弱い呼吸を取り戻すと、見たこともないような忌々しい目つきで床に落ちたそれらを見下ろした。
上半身を起こそうとして失敗したのだろうか。――そんなことすら難しい状態なのだろうか。
目の前の痛みを「その程度」などと判断した自分の浅はかさを恥じた。思うように肉体を動かせない絶望の深さなど、我らが一番よく知っているだろう。この停滞感を永遠に感じるほどに、嫌というほどに味わっただろう。
あんな痛み���もう二度と御免だと。
強く強く願ったはずだろう、それなのに。
「……ゲシュタルトのことは、ニッケルが見ている。安心しろ。おまえが想定していたよりもずっと、ゲシュタルトの回復は早い。我らが目を見張る程に……それこそおまえの容態を知らせろと、毎日駄々をこねるくらいにな」
先の振動でベッドから滑り落ちた機器を二つ、床から拾い上げ、カミーユの手に握らせてやる。
一つはレガリア通信機を応用した小型の緊急通報装置だった。
相も変わらず、ゲーゼルシャフトで一番混乱の渦中にあるのは最大学派である『実在』だ。自らの肉体を武器とする『構造』の研究員よりも、非戦闘員を多く抱える『実在』の死傷者が最も多いのは当然のことだった。加えて腕の立つ研究者たちは、ゲーゼルシャフト復興のために学派を超えて別働隊を組むことが決まった。人員不足はどこも大して変わらない���思っていたが、『実在』では我々のように見知った人間が付き添っていられる状況ですらない、ということだ。苦肉の策だが無いよりはいい、何かあったらすぐに駆け付けると――これもまたスレムが苦虫を嚙み潰したような顔で話していたことだ。
「そう、でしたか……」
カミーユは弱々しくも渡された機器を握ろうと、わずかに指先を動かした。頬の筋肉の弛緩が見て取れる。全身の強張りも、ゆっくりと解けていっているようだった。こんな状態で他人の安否確認に一喜一憂するなど、やはりお人好しはどこまでいってもお人好しだ。これを相手に「政略に長けた小賢しい奴め」などと目くじらを立てていた、あの頃の自分が馬鹿らしいとさえ思える。いや、あれはゲシュタルトを守るために必要な警戒であったと、頭では分かっているのだが。
呆れてため息をつきかけた時、もう一つの機器を目視して驚いた。見覚えがあるどころか、あまりにも馴染みがあるものだった。自身の肉体を、機械によって拡張する『構造』の発明品。おそらくは、身動きが取れないカミーユに代わり、神経系の微弱なエネルギーを捉えて動くよう設計された補助機械のコントローラーだろう。これがあれば、一人でも栄養剤の摂取くらいは可能になる。
誰が。
いつの間に。
「ああ……これですか。ファーガスさんたちが、『構造』のみなさんに掛け合って、わざわざ用意してくださったんですよ」
先程とは打って変わって柔和な空気を纏わせながら、カミーユは言った。こうして話していると、普段と何も変わらないように思えてしまう。取り付けて構わないか。尋ねると、お手数をおかけしてすみません、と許可ではなく謝罪が飛んできた。ふん、と鼻息を一つ飛ばして、その指先に装置をはめていく。
「僕が倒れたという、その日のうちに。負傷者も多く、資源も限られている中で……本来ならば、代表であるゲシュタルトさんや、あなたがた副代表に意見を求め、指示を仰ぐべき状況だったはずです。それなのに……みなさん口を揃えて言うんです。確認するまでもない。ゲシュタルトさんなら必ずそうする、と……」
いつの間にか目尻に集まっていた液体が、小さな嗚咽をきっかけにして頬へと滑り落ちた。ゲシュタルトさん。かすれた声が、小さくその名を呼んだ。あの時、あの瞬間と同じ、暖かく眩しいものを尊ぶかのような眼差しだった。
「……よかった。ゲシュタルトさんが無事でいて。僕が倒れてしまったあと、ゲシュタルトさんが目を覚ましたのかどうか、ずっと気掛かりでしたから」
静かに喜びと安堵に満ちてゆくカミーユをよそに、私の心境は複雑だった。
それもこれもラストレガリアになったウーシアの影響なのだと思うと、とてもじゃないが手放しに「よかった」という気持ちにはなれなかった。だがゲシュタルトの予想通り、ラストレガリアを持たず、ラビュリントスの加護もなく、生身であの空間に飛び降りたカミーユの容態がここまで急変したのだから、いい加減、我らもあの裏切り者の存在価値を認めなければならないということだろう。
ウーシアがいなければ死んでいた。
我らの声は届くことなく。
只、命の恩人が傷つき、地べたに転がるところを見ているしかなかった。
あの時からまるで変わらない。
私は、私たちは、あの時から、何一つ。
「ありがとうございます。コバルトさん」
「……礼を言われるようなことはしていない。おまえもやはり、ゲシュタルトと同類なのだな。人の心配をしている場合か。ただの過労で済めばいいが、まだ診断はつかないのだろう」
「ええ、本当に……この国の状況を思えば、今だって一分一秒が惜しい。僕は僕で、早く動けるようになって、みんなと合流しないと……」
「だから、そういう意味ではない。どうしておまえはそうなるのだ、原因不明で治療方針も固まっていないのだから、せめて余計なことを考えずに休めと言っているだけだ。それがなぜ伝わらん」
思わず額を押さえた右手に、六角形のレガリアがカチリと音を立てる。
こうでもしないと、這ってでもここを出ようとしてしまうと、そういうわけか。
スレムが頭を悩ませていた姿が突然自分事のように思えて、こめかみのあたりがズキズキとしてきた。我らが代表もたいがい強情で無茶苦茶だが、こちらはこちらで相当の無茶しいというわけだ。一見やりすぎに思えるイルの結界も、一概に責められたものではない。
「少なくとも、その思考の偏重は心身の回復の妨げになる。必要以上に自分を責めるな。それで何が変わる。むしろ害だ、やめておけ」
内部の人間からは言いづらいことだろうと、あえて強い口調で釘を刺す。
カミーユにも自覚はあったのだろう。わずかばかり間が開いたあと、そうですね、とやけにあっさり頷いた。そういえばウーシアが死んでしばらく経ったあの頃も、さまざまな学派のトップがさんざん言って聞かせてようやく休養を取ったのだった。わざわざゲシュタルトまでもが、ちょうど俺も気晴らしがしたかったなどと言い、建物の外へと誘い出そうとして。なんだか酷く懐かしく思える。今回ばかりは、私の一言だけでおとなしくなってくれるといいのだが。
「……はあ。しかしどうしたものか。このまま現状を報告すれば、ゲシュタルトの奴、見舞いと称して面会許可をもぎ取り、この場で治療のための研究を始めかねんぞ」
「はは……それは困りますね。今あの人に無茶をさせるわけには。何せ、この国を救った英雄です。僕のせいで万が一のことがあっては、ゲーゼルシャフトのみなさんにも、国の民にも、合わせる顔がない」
冗談なのか本気なのか、微笑みを浮かべながら朗らかに言ったカミーユに、ぴくりと口の端が引きつる。
相変わらずといえば相変わらずだ、けれどそれは、これまで学派同士の対立や個人間での競争を是とし、協調を、組織の力というものを侮ってきた、数多の――私たちのような研究者にも責任があるのだろう。
だからこそ伝えなければならない。
「おまえは自らの功績を低く見積もりすぎだ」
“この国を救った英雄”が、どうして最後まで絶望に立ち向かえたのか、その真実を。
「確かに、常時において凡俗どもに任せるような雑務に忙殺され、あちこちで居眠りをする姿は、お世辞にも代表に相応しい態度とは言えなかったが……」
「それは、その……ええ、おっしゃる通り、反論の余地もありません……」
「だが。今回に限っては別だ。何をそこまで卑下することがある。おまえがどれほど価値ある発明をしたのか、民はともかく、ゲーゼルシャフトに理解できない連中は一人もいない」
気づけば両膝の上で、強く拳を握っていた。
あちこちで体のパーツが軋む音がする。何に突き動かされているのか上手く説明できない。歯がゆさに募っていく苛立ちは、目の前の困惑した表情に向けたものではなく、言いたいことの一つもろくに伝えられない自分に対してのものだった。数年前の私が見たら、この必死さを鼻で笑うだろう。他学派の連中を相手に何をそこまでと。けれど今は。
「……分かっています。それでも僕は、何度でもこのことを唱えるでしょう。これは僕一人の功績じゃない。ここにいるゲーゼルシャフトの研究員、そしてそれをサポートしてくれた全員の功績ですと」
「その全員が学派を超えて協力するよう、声をかけたのはおまえだ。おまえが普段から、一人一人の研究員たちと向き合ってきたことが、成果に繋がった」
「それは……そうですね。今ではきちんと理解しているつもりです。僕は僕の役割を、きちんと果たせたのだと。それは……胸を張って、誇っていいことなのだと」
カミーユは青い瞳をまっすぐにこちらへと向けて、小さく笑みを浮かべた。
憑き物が落ちたような、晴れやかにも見えるその表情は、以前のカミーユからは到底出てこない類いのものだった。
折り合いがついたのだろう。自己の価値。存在意義。この戦いの中で、多くの人間が恐怖という絶望を乗り越えて、到達したのであろう何らかの果て。
けれどまだ。
「それでも、やはり最終的には協力すると決めてくださったみなさんのおかげなんです。僕一人が特別なわけでは」
「なぜ」
まだ伝えていない。
「なぜ、なぜだ。なぜこうも……! 貴様には見えなかったのか! あの瞬間のゲシュタルトの目の輝きが! ウーシアの力が、我らの声が、あれほど引き戻してもなお残酷にも消えゆかんとする命の火が……! 一瞬にして煌煌と照らし出されたのだぞ! それがなぜ分からん!」
最も重要な真実を。
あの瞬間、確かにこの目に焼き付いた、忘れもしない光景のことを。
「……僕の方こそ、理解に苦しみます。何故こんなにも……コバルトさんが、ゲーゼルシャフトという組織全体ではなく、僕個人を評価したがるのか」
困惑するカミーユは眉を寄せながら、それでも解答を手繰り寄せようと、次の言葉を待っていた。
沈黙は数分にも渡った。それでもカミーユは、私の目を見つめたままだった。
高ぶった感情に言葉が追いつかない。
いいや、今まで語ることを怠ってきたツケが回ってきただけなのかもしれない。
震える喉にゆっくりと酸素を送り込む。過去十数年の間にゲーゼルシャフトで経験したさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。
「――同じだったからだ」
軋む金属パーツ。
「あの日、ウーシアに告げた言葉と」
口にした途端、眩い光に照らされたような安らぎと、途方に暮れるような暗澹とが同時に押し寄せる。
「……どういうことです?」
要領を得ない話し方をしている自覚はあった。
それでもカミーユは辛抱強く聞く姿勢を崩さなかった。
何一つ見逃さないように。何一つ取りこぼさないように。
直接目の当たりにすると、そのまなざしの強さに驚くばかりだった。
同時に恐ろしくもあった。過去から今に至るまで、我々に欠けていたものを喉元に突き付けられているようで。
だからここへ来るのを躊躇ったのだと、今になってようやく理解した。
じわじわと記憶に蝕まれそうになる肉体を必死に繋ぎとめるかのように、握った拳は力を増していく。
ああ、このように在れたのならば、私たちも、あるいは。
「おまえは見つけたんだ。ゲシュタルトのことを」
「僕が……? ……確かに通信レガリアの位置情報を辿って、ゲシュタルトさんの居場所を特定したのは僕ですが」
「ええい、そういうことを言っているのではない!」
体中に張り詰めたエネルギーを抑えきれず、勢いづいて立ち上がる。
背後で丸椅子が倒れる音が盛大に響き渡り、カミーユはびくっと肩を震わせた。反射的に歪んだ表情を見て、我に返る。何をしているのだ、私は。
「……すまない。おまえが病人であることを失念していた。違うのだ、責めているのではない、本当に……」
「大、丈夫、ですよ。きっと、何かとても重要なことを伝えようとなさって……それよりも、どうか続きを。……すみません、まだ思考が上手く働いていないようで、話の意図が掴めなくて……」
騒音に対して過剰に反応したのか、先ほどよりも呼吸が浅くなっているのが目に見えて分かる。
本当に何をしに来たのだ。見舞いに来た人間が、余計に具合を悪くさせてどうする。本来ならば、頭を冷やして出直すべきだ。責任だなんだといっていくら正当性を確保しようとしても、結局こんなものは、単なる自己満足に付き合わせているだけでしかないのだから。
だが、ここまできて引き返すことは許されそうになかった。目の前で青く揺らめく瞳が、こちらを射抜いて離そうとしない。
最後まで聞く気なのだな。
こんなにも拙い、ゲーゼルシャフトの研究者にあるまじき、非論理的な話し方であるにも関わらず。
真剣に耳を傾けるべき大切な話なのだと、ただそれだけを感じ取って。
「……これまでの非礼を詫びよう。おまえのような存在は、ゲーゼルシャフトだけでなく、どこを探してもそうそう見つかるものではない」
恐怖は畏敬へと変容した。
頭の中にひんやりと、心地よい風が吹き抜けたような爽快感がある。
私は倒してしまった丸椅子をゆっくりと両手で持ち上げて、なるべく音を立てないように、そっと座り直した。
今なら見つめられると思った。ここに至るまでの軌跡のすべてを。
「おまえがもたらしたんだ。風前の灯火だったゲシュタルトの魂が、肉体が、再び燃え盛るほどの膨大な希望を」
今でも生々しく思い出せる。
止まった心臓。凍ったような手足。あのまま息絶えてもおかしくなかった。死ぬわけがないと、必ず生き返ると、どれだけ虚勢を張っても覆せないものがそこにはあった。我らの呼びかけに目を覚ましたあとも、死の気配は大きくなるばかりで、もうおしまいだと誰もが思った。遠い空から、ゲシュタルトの名を呼ぶ声が降り注ぐまでは。
あの時、あの瞬間のゲシュタルトの瞳を、私たちは忘れることがないだろう。
「見つけた、というのは。なにも物理的な話だけではない。おまえはゲシュタルトのヘリオスシステムを更なる高みへと導いた。補助というにはあまりに大きい。あれほどの絶望を浄化に至らしめた、叡智の結晶……」
口に出しながら、それもどこか的外れな説明に思えて、言葉に詰まる。
単純な成果物の問題でもない。想定外の援軍が、思いもよらない戦力の増強が、あの場において希望になったことは疑いようのない事実だ。だがそれでもあの光に満ち足りた想いの核は、きっとそこにはない。
「……ゲシュタルトの研究を」
目を背けるな。
「役立たずだと、嘲笑わず。邪魔だといって、蹴飛ばさず。地位を脅かされるからと、『ないもの』として扱うこともしなかった」
我々の、『構造』の、かつての過ちから。
あの時、あの会議室で見出されたはずの、一人の「てんさい」の孤独から。
「この国の希望だと信じ、この国を救うのだと信じ、全ての研究者に向けて高々と掲げてみせた。功績を奪う魂胆もない。政治的な駆け引きも何もない。ただ、全ての民を救うためだけに――」
その願いが、その具現としての結晶が、ゲシュタルトの目にどれほど眩しく映ったことか。
肉体を共にする我々であっても、真に理解することなど到底できない。だが共有したものが確かにあった。
「……おまえからあのレガリアを受け取ったゲシュタルトの肉体は、透き通るように光って見えた」
それはいつか人工太陽についての研究資料を集めていたときに知識として得た、ある現象の名を思い起こさせた。
太陽の昇る国では、植物の葉をかざすだけで、照明や顕微鏡など使わずともその葉脈をはっきりと目視することが可能なのだという。
我々は、いまだその現象を実際に確かめたことはない。
だがあの時に思ったのだ。ああ、まるで――
「血管が浮き立ち、細胞の一つ一つが再生していく様がはっきりと見えた」
まるで太陽に、からだを透かしたかのようだと――
「カミーユ。おまえは言ったな、見失うはずがないと。だがそれは当たり前のことではない。とても稀有なことだ。……本当に、稀有なことなのだ。今まで、それはウーシアだけの……」
己の至らなさを直視して、思わず下唇を噛みしめる。
全てが終わり、全てが始まったあの日。
我々はゲシュタルトに絶対の忠誠を誓った。
これから先は、どんなことがあろうともゲシュタルトの味方でいるのだと。
ゲシュタルトも我らの誓いを信じてくれた。我らのことを、一番信頼する研究者だとまで言ってくれた。けれどそこにはどうしても超えられない一線があった。
超えられるのは、ただ一人だけ。
「……ウーシア代表」
「おい、間違えるな。『実在』の代表はおまえだカミーユ」
「それは……そうですが……」
鋭くカミーユを睨みつけると、カミーユは歯切れ悪そうに言って、小さく咳払いした。
私は思わず深々とため息を吐き出していた。
どいつもこいつも、いまだにその名を尊いものであるかのように呼ぶ。癪には障るが、無理もない。ウーシアの存在はあまりにも大きすぎた。
何もかもを見通すウーシアの能力は、才あるものの未来を見逃さなかった。例えそこにどんな思惑があったにしろ――恩を受けた人間は、その事実をなかったことにはできない。それはゲシュタルトも例外ではない。本当は理解していた。何故、我々では駄目なのか。恐怖から目を背け、直視することを避けていただけだ。
我らは知っていたはずだった。
我らに差し伸べられた救いの手が、ゲーゼルシャフトで正当に評価されるまで、一体どれほど長い年月、どれほど多くの同胞から迫害を受けてきたか。
知っていて、なんとも思わなかった。そこにあるのに、見ようともしなかった。見えなければ、ないのと同じだ。
自分たちには関係のないこと。そうやって全てを見過ごした。
あの頃の過失を、今更になって取り戻すことなど不可能だ。この先どれほど恩に報いようとも。一生消えることはない。私たちの過ちだ。
「……死人は超えられない。過去をやり直すことも出来ない。我々は、ついぞゲシュタルトを見つけることが出来なかった」
どれほど副代表としてゲシュタルトを支えようとしても、我々はゲシュタルトの孤独に少しも触れられはしなかった。
ゲシュタルトの内側には、ウーシアだけが立ち入ることを許された空洞があった。
唯一の理解者が、倫理と秩序をとうの昔に手放していたと知った時、その心中は如何ほどのものだったろう。
それでもゲシュタルトは再びウーシアを受け入れた。また会えたと、これからも議論が出来ると嬉しそうに語った。
肉体が滅びてもなお、ラストレガリアへと形を変えて、そこに収まり続けるウーシアの存在。
誰も、ウーシアのようにはなれない。
そう思っていた。あの瞬間までは。
「おまえは違う。ウーシアと同等……いいやそれ以上の希望をもたらした。絶望に食われて穴だらけになった魂を埋め尽くすほどの光……。根拠もなしに憶測を語っているわけではない。ゲシュタルトの肉体と合体していた、この合金姉妹が保証しよう」
忘れない。
止まった心臓。冷え切った肉体。
それらが脈打ち、確かな熱を取り戻すまでの、奇跡のような出来事を。
「……本当に、いつ死んでもおかしくなかったんだ。本当に。……本当に」
唇が震え、それ以上言葉を発することが出来なかった。
こみ上げてくる嗚咽を必死になって抑え込む。ありとあらゆる感情が血液のように体中を駆け巡る。顔を上げていることすら困難になって、小さな呻き声をあげながらうつむいた。
「コバルトさん」
呼びかけに応じることが出来なかった。
今、少しでも顔を動かそうものなら、先ほどと同じように、どこへ向かってエネルギーが放出されるか分かったものではない。
代わりに膝の上の拳をこれでもかと強く握る。カミーユは柔らかい声で話を続けた。
「あなたがたお二人が、最後まで諦めずゲシュタルトさんに呼びかけ続けてくれたからこそ、僕たちはゲシュタルトさんを失わずに済んだんです」
語るにつれて、か細く、消え入りそうな声になっていくのを、黙って聞いていた。
わずかに鼻をすする音がする。よく泣く奴だ。思わずつられてしまいそうになるくらい。
「……今でも体が震えます。あの場に到着するのが、あと一秒でも遅かったら、と思うと。あの場に間に合うことが出来なかった可能性を考えただけで、僕は……」
大きく深呼吸をして、ようやくほんの少しだけ顔を上げる。
青白い頬を滑って落ちる大粒の涙は、拭われることなく白い枕に染みを作っていた。
「ウーシア……さん、も。おっしゃいました。全ての研究者たちが、等しくこの国の希望なのだと、ですから」
涙に濡れた青の瞳がきらりと光る。
そしてこちらへと向き直る。
今度は見つめ返すことが出来た。そういえば、同じなのだな。どうしてこれまで気付かなかったのだろう。
「ゲシュタルトさんにとっての希望に、あなたがたが含まれないはずはない。その……ゲーゼルシャフトの研究者として、なんの根拠もない話をするのは、恥ずべき行為なのかもしれませんが……」
青い目だ。ゲシュタルトと同じ。
月に照らされた紺碧の夜空と、そこに輝く星々を思わせる。
この国の象徴のようなまなざしを持つ者���
「……もういい」
ふと肩の力が抜けて、呼吸が楽になった。
カミーユは血色の悪い顔をさらに真っ白にして口をつぐんだ。私は慌てて右の手のひらを突き出した。
「いや、違う、その。納得した、という意味だ。だからもういい。……本当は議論する余裕などろくにないはずだろう。邪魔をしてすまなかった。今はよく休んでほしい……ゲシュタルトの恩人は、我々の恩人だ」
両足に力を入れて立ち上がる。随分と長居してしまった。どんな話をしたのかと、ゲシュタルトから質問攻めにされそうだ。
「あの、コバルトさん」
丸椅子を元の場所に戻そうと片手で掴んで移動すると、背後から恐る恐るという声色で呼びかけられた。
振り向いて、ほんの少しだが先ほどとは体の向きが違うことに驚き、息を飲む。
「僕の……その……容態の件なのですが……」
「――それとこれとは話が別だ」
「そう……ですか……そうですよね……」
観念したように小さくため息をつくと、カミーユはわずかに浮かせていた頭を深々と枕に沈めた。
やはり見間違いではないようだった。
楽観視するわけではないが、少しずつ可動域が増えているのは確かだろう。これならば、想定していたよりもゲシュタルトを動揺させずに済むかもしれない。
「……なるべく。ここが騒がしくならないよう、努力はしてやる」
それでも、やはり止められない時は止められないのだが。
何せ我らが『構造』の代表は、副代表の我々の説得を何度でも押し切るほどに、強情で無茶苦茶なのだ。
私の言葉を聞いて、くすりと微笑をこぼすと、カミーユは細めた目をどこか遠くへと向けた。
「ゲシュタルトさんに伝えてください。どうせ騒がしくするなら、ここではなく、あの場所で……ゲーゼルシャフトに戻ってやりましょう、と」
静かな部屋の閉塞感を打ち破るかのような、凛とした声だった。
「ああ、承った」
私が力強く頷いて見せると、カミーユは泣き腫らした目を細めてまた微笑んだ。
頬に残る涙の軌跡は、すぐにも乾いて、明日への導となるだろう。
私たちも負けてはいられない。右腕のレガリアが再び赤く眩しく光って、私は重く古めかしい扉を押し開けた。
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終章 生まれたての宇宙
朝日がまぶしい。
色とりどりの野菜を横目に見ながら、降り注ぐ光を頬に受ける。踏み出した煉瓦道はよく乾いていて、コン、と小気味いい靴音を響かせた。すぐに夏が来るんだろう。足元に伸びる影の濃さに、翠は目を細める。
二度目の夏だ。
顔を上げて歩く、最初の夏だ。
「――おはよう」
まだ少し遠くに見える半袖に、挨拶を投げてみた。さすがに、まだ聞こえないか。ただの独り言になってしまったようで、じりじりと恥ずかしさが湧いてくる。けれど、翠の口の動きに気付いてか、その影は小走りになって翠のもとへと駆けてきた。
「おはよッス」
ぴたりと翠の目の前で停止した鉄虎は、少し背筋を伸ばして、照れ臭そうに笑った。
「なんか、くすぐったいッスね、待っててもらうのって……」
細められた琥珀色が、太陽を跳ね返して光る。
泣けるくらい奇跡的で、いとおしい光だった。
「そうだよ、俺……ずっと、くすぐったかったんだよ……」
翠が笑い返して、どちらともなく歩き出す。
「それは……申し訳なかったッス」
「え、と……ううん。くすぐったいけど、嫌じゃなかったから」
足元に影がふたつ、寄り添うように並んだ。
「そうッスね。俺も……嫌じゃないッス。なんか……ちょっと嬉しいッスね」
はにかんだ鉄虎の横顔に、翠はむずむずと唇を動かした。
「……もっかい、抱きしめとく?」
「えっ? いや流石に路上ではちょっと……翠くん、ちょっとあのひとに似てきてないッスか?」
「はあ? いくら鉄虎くんでも言っていいことと悪いことがあるけど?」
「え!? 今のそんなにッスか!? 分かんないッス、コミュニケーション難しいッス!」
唸り声をあげて頭を抱える鉄虎に、ごめんごめん、と眉尻を下げて翠が謝った。
軽く視線を向けると、隣を歩く鉄虎の腕の生白さが映る。記憶よりも細くて戸惑う。
「痩せたね」
声をかけると、鉄虎は自分の腕をまじまじと見つめて、ふん、と一度鼻息を飛ばした。
「うん。結構痩せちゃったッス。また鍛えないと」
「……ちゃんと食べれてる?」
「食べてるんスけどね~お粥とかばっかりだったから。ちょっと飽きてきたッスよ」
返ってきた言葉の中に、気負いはなかった。鉄虎は再び自分の腕や手のひらをぼんやり眺めると、小さく息を吐き出した。肉、食いたいッス。本心であろうその言葉に、翠は思わず笑った。
「七夕祭が終わったら、さ。みんなで食べに行こうよ」
翠が言うと、鉄虎は驚いたように顔をあげた。自分でも意外に思っていた。そう遠くない未来のことを、こんなにも明るく思い描けたことはなかった。鉄虎はしばらく食い入るように翠の目を見て、そして嬉しそうに笑った。
「打ち上げ、したいッスね。みんなで」
目尻によったしわに、わずかに雫が滲んだ。
それは照りつける太陽を映してきらきらと光り、瞬きのうちに消えていった。
「て、てとらくんっ……てとらくん~!」
交差点で信号を待っていると、遠くから呼ぶ声が聞こえた。忍くん。呟いた鉄虎は、瞳を揺らした。駆け寄ってきた忍は、挨拶を交わす前に鉄虎の体にぎゅっと飛びついた。
「ごめんね。忍くん」
忍の背中に手を回して、抱きしめ返す鉄虎を、翠もうるんだ目で見守っていた。
忍は首を振るような仕草で鉄虎の肩に顔をうずめた。
「怒ってくれていいんッスよ。鉄虎くんのアホ、って」
「う、ううぅ~……! 鉄虎くんもあほでござるけど、拙者は大馬鹿者でござるっ! ごめんね鉄虎くん。堪忍、堪忍でござる……」
「はは、じゃあ、お互い様ッスね。……忍くんもありがとう」
ぽんぽん、と忍の背をなだめるように叩いて、鉄虎が体を離した。
忍と視線を交わす頃には、もうすっかりいつも通りの表情に戻っていた。
「ああーっ! 隊長っ! 南雲隊長!」
「お、おはようございます! もう大丈夫なんですか!?」
声色の大きく異なる二人分の呼びかけに、三人揃って顔をあげる。
駆け寄ってくるでこぼこな後輩の姿に、鉄虎はまた少し目をうるませて応じた。
「はよッス。もう大丈夫ッスよ、ほんとに――ごめんね。二人にも心配かけちゃったッスね」
「そうですよ! 心配したじゃないですか!」
「ばかッ! 俺たちが無理言ったせいで倒れちゃったんじゃないかっ! 隊長、本当にすいませんでした。俺もう、わがまま言いませんから……」
泣き出しそうな環は、鋭い目つきで望美の背中を叩いたあと、恐縮したように身を縮ませて、深々と頭を下げた。環に怒鳴られたのがよほどショックだったのか、望美までもがションボリとうなだれてしまった。申し訳ないやら、ありがたいやら、物珍しいやらで、鉄虎は眉尻を下げて苦笑した。
「わがままなんかじゃないッスよ。……今度は、みんなで企画書、作ろっか。みんなで、みんなの夢を叶えていくッス。だから、これからもやりたいことは言ってくれるッスか?」
そっと環の肩に手を添えて鉄虎が尋ねた。
環は体を起こすと、ぼろぼろと涙をこぼしながら、はい、と返事をした。
「あれっ!? 仙石先輩! びっくりしたぁ、ちっちゃくて見えませんでした! おはようございます!」
「うーん! 今日も清々しいくらい馬鹿正直でござるな! おはようでござる!」
「おはようございますすいませんほんとうにもう」
「たまちゃん今だよ!」
「え、え!? ほんとにやるの!? しかも今!?」
「やるよ! 今しかないよ、せーのっ。シューシュっと!」
「さんっ! じょう!」
望美の掛け声に合わせて、たどたどしく二人が何かのワンフレーズを歌う。
ぽかんと口を開ける鉄虎と翠をよそに、忍の瞳がみるみるうちに輝き出した。
「おっ……おおぉ!? どうだったでござるか!?」
「はい! 最高でしたありがとうございました!」
「最高でしっ、あっ、あのあと二十話まで見ました!」
「まー!? マジでござるか!?」
「サブスクで見れるの分かったんで! 二人して深夜まで大盛り上がりでした!」
「いやもう、めちゃめちゃ面白くて……続きが気になって気になって……」
「そっ、そうでござろう~!? 拙者イチオシの作品であるからして!」
「今度の打ち上げまでに二番も歌えるようにしときますね! 絶対一緒に歌ってくださいね!」
「うん、うん! 絶対、約束でござるよ!」
「やったあ!」
「やったぁ……!」
忍と望美と環がハイタッチを交わす軽快な音が空に響く。
鉄虎と翠は一度顔を見合わせてから、大盛り上がりの三人に視線を投げた。
「忍くん、これ……」
忍ははっとして鉄虎を見上げた。
高揚に赤らんだ頬が次第に照れを滲ませて、耳まで真っ赤に染まる。
「い、いやあ、その。拙者一人で演出練りながら一年の指導とか……ぶっちゃけ無理だったゆえ! 拙者がうんうん唸ってる間、二人には動画を見てヒーローのなんたるかを勉強してもらってたんでござる!」
「自分ら、風雲絵巻のステージも見てたんで、忍者がヒーローなの、全然違和感ないっていうか、むしろ見慣れてるっていうか……かなりかっこよくて……!」
「え~!? 今年はみんなで忍者してヒーローショウやらないんですか!? 僕も先輩たちとシュシュっと参上したいです! ていうか忍者同好会めっちゃ興味出てきました」
「うわーっ! 忍者同好会はいつでも誰のことも大大大歓迎でござるっ! くううっ、こんな日がついに。拙者感激でござる。やっぱ布教って大事でござるな……!」
しみじみと噛みしめるように言った忍に、鉄虎と翠はもう一度、物言わず視線を交わし合った。
「……忍くん、最近誰かに似てきてないッスか?」
「えっ? なんのことでござろう?」
キョトンとする忍のことをまじまじと見つめてから、鉄虎は思わず噴きだした。翠も口を押さえて笑った。なんでござるかっ。叫ぶ忍の声に覆いかぶさって、チャイムが高らかに響き渡る。環が大げさに飛び上がって悲鳴を上げた。
「走るッスよ!」
鉄虎の合図で、一斉に駆け出した。
歩幅も違う、走る速さもまちまちな五人の両足は、コンクリートの歩道をそれはそれは賑やかに打ち鳴らした。先頭を軽快に走る忍と望美。そこから少し離されて、息も絶え絶えな環が続く。鉄虎はそのすぐ横につけながら、環にエールを送っていた。翠は一番後ろから、四人の真っ白い背中を見つめて、あまりのやかましさに少し笑った。
俺は、ここにいたい。
やっぱりまだ、自分は嫌いで、自信もないけど、この足音のひとつでありたい。
汗だくになりながら翠は思った。そしてそれと同じかそれ以上に、ここにいてほしいと強く願う。地面に目を落とす。そこに伸びる、ちぐはぐな影模様のうちのひとつ。ここにいてほしい。自分が嫌いで、自信がなくて、それでも走ろうと努力し続けるあのたくましい背中に。
「ひえ~やばいでござる!」
「先輩! あきやん先生がスタンバってます!」
「ラストスパートッスよ~!」
「はひぃ、が、がんばりま……!」
「わわっ! 無理はしないでいいッスからね!? 忍くんたちは先行ってくれていいッス――」
前方に傾いた環の体を軽く支えると、鉄虎はぱっと体を起こした。
身を翻す、その一瞬がスローモーションみたいに見えた。
「翠くん」
振り向く瞳が、燃え盛るような光を携えて翠を射抜く。
まっすぐに見つめ返して、翠は声を張り上げた。
「大丈夫。……走るよ!」
翠の声に、鉄虎は鮮やかに笑った。
願い、願われ、叶え合って、ここに在りたい。
一緒になって走っていきたい。
たとえこの手の内側になんにもないんだとしても。
生まれたばかりのここから、新しい宇宙に向かって。
誰かのヒーローであるために。
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六章 星座をなぞって描くように
放課後に制服のまま電車に揺られることなんて、何回あっただろう。
扉の上の路線図を、時折確認しながら、翠は窓の外の景色をぼうっと見ていた。今まで友達と呼べるような存在は地元にかたまっていて、電車でどこかへ遠出するような仲でもなかった。時々乗るにしても、数駅したら降りてしまうことがほとんどだし、家族で移動する時はだいたい車だ。だから翠は、電車に乗るとき、いつも少し緊張している。
膝の上に乗せた手を、軽く握り直す。
酷く汗をかいていた。
普段の緊張など些細なものだ。鳴り続ける左胸のやかましさに、翠は注意深く、ゆっくりと息を吐き出した。
電話口で鉄虎は見舞われることを相当渋った。
明日には行くッスから。ふたりとも、もっと他にやることあるッスから。俺んち、実は結構遠いッスから。散々理由を挙げてきたが、忍は折れなかった。いま行かないと拙者たち、もう二度とヒーローなんて名乗れない。ぐずぐずと鼻を押さえながら、強い口調で忍が言うと、鉄虎は観念したのか、電話を切った数分後に住所を送信してきた。
結構遠い、という鉄虎の言葉は本当だった。
夢ノ咲の最寄り駅から、片手では足りない数を数えたところで降り、一度、電車を乗り換えて、またしばらく揺られる。分かりにくかったら、来なくて大丈夫だから。往生際悪く追記された一文を、翠はそっと指でなぞった。
正直どこかで乗り間違えないか心配だった。こんなに長く電車に乗るのは、校外ステージのために、流星隊のみんなと行動する時くらいだった。遠いなぁ。込み合っているわけでもないのに、翠は肩をすぼめて縮こまった。
こんなに遠いのに、毎日。
店先の並んだトマト。時期外れの��んご。射し込む逆光。
おはようッス。立ち上がる時の、少し不安げな微笑み。
思い浮かべて涙がこぼれそうだった。右側の扉が開きます、ご注意ください。アナウンスにつられて、顔を上げる。ホームに書かれた駅名は、降車駅のふたつ前のものだった。もうすぐだ。熱くなった両目で、再び路線図を確認した。
一年半もの間、鉄虎が一人きりで通い続けたこの道を、翠は初めて踏みしめる。
★
鍵開けるね。
ポーン、と通知音がして、短い一文が携帯の画面を横切る。翠が顔を上げると、目の前の扉からガチャンと錠の回る音がした。身構える隙も与えず飛び出てきた鉄虎は、翠の姿を見上げて少し黙った。
「え、と……忍くんは……」
それもそのはずだ。すべてのやり取りは忍がしていたし、住所を聞き出したのも忍だった。
翠はただ、忍の隣に居ただけ。刺さる視線に耐えきれず、翠はうなだれた。
「忍くんは、一年生とレッスン……」
「ああ……そう。そうッスよね」
「……ご、ごめんね、俺なんかが来て……」
「いや、そういう意味じゃないッスよ、ごめん……上がって。翠くん」
取り繕うように口で笑って、鉄虎は翠を招き寄せた。翠は黙って、少しやつれた鉄虎の背中を追った。
「いやー、情けないとこ見られちゃったッスねー」
話しかけてくる鉄虎の口調は妙に明るく、翠の緊張と不安を静かに煽った。お茶でいいスか? まるで普通に遊びに来た友人をもてなすような対応に、翠は慌てて「いいよそんなの」と首を振った。
「具合、どう……」
「んー……熱、下がんなくて。なんか、ずっと、ぼーっとしちゃって。まあ、ただの風邪だとは思うんスけど。なんでか長引いちゃって」
「そう……あ、これ、差し入れ」
「うわ~ありがたいッス! なんかほんと……気ぃ遣わせちゃって申し訳ないッスね」
「い、いや、親が持ってけって……そんな気にしなくていいから……」
案内されたリビングで、抱えた紙袋を渡すと、翠はまた肩をすくめた。本当は、違う。親は知らない。翠が一人で電車を乗り継いで、ここにいることを。その紙袋の中身も、自分の少ない小遣いの中から捻出したものだ。なんで、ごまかしちゃうんだろう。咄嗟に口をついた言葉に、自己嫌悪が立ちのぼる。座って。鉄虎に促されて、翠はのろのろと椅子を引いた。りんご。中身を見た鉄虎がぽつりとこぼした。一瞬、琥珀色の瞳が、熱っぽく揺らめく。
「ごめんね」
はっとして、顔を上げる。
鉄虎の視線は、深く、紙袋の底に落ちたまま。
「迷惑、かけてるッスよね。一年の指導も、書類の提出も、色々あるって時に」
この声を、さっき、電話越しに聞いた。
「迷惑なんかじゃ……」
頬の辺りから、サァ、と血の気が引いていく。とても同じ人間から発せられたものとは思えなかった。その声はいつも、力強く空気を震わせて、翠の背中を押してくれた。こんなにも不安定な鉄虎の姿を、一度だって見たことはなかった。去年の終わりごろ、翠を叱り飛ばした時でさえ、そのまなざしは鋭く光っていた。
「一年の子は、忍くんが見てくれてる。書類も……一回だけ書いたことあるからって……」
「そっか。さすが忍くんッス。俺がいなくても、なんでも……そう、なんでも、出来ちゃうんスよね。別に。やっぱ――」
唇の端が、不自然な笑みを作って、固まった。
「……やっぱ、俺」
元に戻る保障もないのにね――
呪いのような言葉がよみがえる。
「ほんとに……ほんとにどうしちゃったの?」
ゾワゾワと心臓のあたりが麻痺していくような感覚に、翠は顔を歪めた。
「別に。どうもしてないッス……」
「そんなわけないじゃん……疲れてるんだよ……ゆっくり休んだ方がいいよ……」
「……そういうわけにはいかないでしょ。一日でも早くレッスンに入らないと。間に合わないッス。去年なんか、散々だったじゃないッスか。あんなのは御免ッスよ、もう」
苦々しく言った鉄虎の瞳は、去年の今頃のようにわずかに血走っていた。ステージ上での成功よりも、練習の出鼻をくじかれた思い出のほうが強いのだろう。けれどあの時感じた焦燥は前へ向かうためのエネルギーだった。そうやって、彼はずっと立ち上がってきたはずだった。
今は。
「今年こそ、ちゃんと……ちゃんと最初から、最後まで成功させなきゃって。なのに……なにやってんスかね、俺は」
力なくうなだれて、吐き出されたため息。体の真ん中に通っていた一本の芯を、粉々に打ち砕かれてしまったかのような虚ろさで、鉄虎は肩を落とした。
「はは。こんな時期に倒れるようじゃ、先が思いやられるッス。隊長失格ッスよ」
乾いた笑いと共に自嘲がこぼれる。本当に信じられなかった。度重なる失敗に自分を責めることはあっても、投げやりになったことなど一度もない。失敗しても、自信をなくしても、鉄虎はいつだって前を向いていた。
「……そんなことない」
「そんなことあるッス」
「ないよ! だってあのひとなんかもっとしょっちゅう一人で倒れてたのに誰もそんなこと言わなかったじゃん!」
「当たり前じゃないッスかッ!」
悲痛な叫び声に、翠の息がとまる。
「あれと一緒にしてほしくないッスよ! 全っ然……! 比べたら失礼ッス! 俺みたいなのと、あのひとのこと!」
噛み締めた唇の隙間から、荒く息が吹き出した。
痩せ細った首に、筋が浮き上がって痛々しい。
「……そりゃたしかに完璧じゃなかったッスよ。けど俺、知ってる。隊長が、どんだけ頑張って、誰かのために体張ってきたかって。……大将、言ってたッス。昔は今からじゃ考えられないくらい酷い時代で、頑張っても頑張ってもちっとも報われなくって、それでも諦めなかった連中だけが、今、本当に輝いてるって。そんな中であのひとは一年間全部を費やして俺たちを育てながら、ちゃんと自分の夢まで叶えたんスよ、なのに」
ぐにゃ、と歪になった口元が、苦しそうに息を吸った。
「俺は、こんな。大将や隊長たちが残してくれた、こんなに優しい世界でさえ、自分が自分がって、そればっかで……誰のためにも頑張り切れないのかって、思ったら、もう」
立ってらんなくて。
最後の言葉はかすれて、しんとした部屋の中でなければ聞き取れないほどの声だった。長い沈黙が横たわった。鉄虎は荒々しい呼吸を押し込めるように深く息を吐き出して、眉尻を下げながらついでのように小さく笑った。
「もう、無理ッス。こんな隊長についてくるひとなんかいるわけないって……分かってるのに。体、動かないんスよ。ハハ。なさけないッスね、ほんと」
「やめてよ」
翠が遮ると、鉄虎は口の端をピクリと引つらせて黙った。翠は下唇を強く噛み締めていた。
頭が煮えそうに熱い。ふつふつと、腹の底から何か危ないものが湧き上がってくるのを感じて、翠は大きく深呼吸をした。
「なんで……何笑ってるの。誰もそんなこと言わないし、思ってないから……」
「こんな風に笑ってでもいないとさ。ボロボロに崩れ落ちちゃうくらい、俺、ホントは弱いんスよ。がっかりした?」
「がっかりなんかするわけないじゃん!」
ついに抑えられなくなった腹の内側が、勢いよく飛び出していった。
普段出さない大声に、鼓動が倍ほども早まっている。それでも構わず翠は続けた。
「頑張ってる人は頑張ってるっていう、それだけですごいんだ! みんな知ってる! 鉄虎くんがどれだけ頑張ってきたかって」
「じゃあ頑張れなくなった俺はどうなるんスかッ!」
テーブルの上に、握った右の拳が乱暴に叩きつけられた。
「頑張るだけしか能のないヤツが頑張れなくなったら! そんなの、もう……なんの価値もないじゃないッスか……」
そんな衝撃よりもずっと強く、鉄虎の言葉が頭を揺さぶる。
「……なんで、翠くんが、泣くんスか」
言われてようやく、翠は生ぬるいものが頬を伝っていることに気付いた。
「……わ、かんないよ、そんなの……」
小さい嗚咽を喉の奥で鳴らして、翠は数時間前に泣き腫らした目を更に赤くさせた。
「そんなの俺が聞きたいよ。なんなの……? もうグチャグチャだし……怒ってるのか、悲しいのかも、よく、わかんないし……」
親指の付け根で頬を何度も何度もぬぐいながら、翠がぐずぐずとしゃべる。
「なんで、翠くんが……怒るんスか」
鉄虎は困惑を隠し切れずに、怪訝そうに眉をひそめた。
「そんな、泣くほど……なにが悲しいんスか……言ってくんなきゃわかんないッスよ……」
苛立ちを抑えるように低く潜めた声でそう言うと、鉄虎は翠の返事を待つかのようにしてしばらく黙った。重々しい沈黙に、翠が鼻をすする音だけが悲壮感を帯びて響く。
「……大事なもののこと、否定されたら、誰だってムカつく……」
「はぁ? 翠くんがそれ言うんスか」
なんとかひねり出した答えに、思いがけず棘のような声が飛んできて、翠は体を震わせた。
後ろめたい部分を鋭く刺し貫かれたようで、体が強張る。
「俺らが今までどんだけ……いや、もういいッスけど別に……」
投げやりな態度にカチンときたすぐあとに、長い時間をかけてこうさせたのは自分なのだと思い知る。酷い自己嫌悪が襲ってきて、今にも死にたくて仕方がなくて、翠はまたしばらく黙った。
「……ごめん」
申し訳程度の謝罪は、鉄虎の表情を余計に歪ませた。
「で?」
催促の一文字に、翠は唇を噛む。
一体、俺にどうしろっていうんだろう。何を説明したって納得なんかしない癖に。
熱を持った頭が今度こそ明確に苛立ちを訴えてきて、翠は必死で息をした。駄目だ、こんなんじゃ。愚痴を言うなら簡単だ。でも俺は、そうじゃないものを届けにきたはずなんだ。肩を上げながら大きく息を吸い込んで、翠は再び口を開いた。
「……もう。なんか。今、何言っても、なんにも意味ないじゃん。……俺なんかが何言っても、さぁ? やっぱり全然、届かないんだって……貰いっぱなしで何も返せない自分が、あんまりで、情けなくて――悔しいっていうか。そういう自分にも、腹立つ、っていうか……」
どうしても愚痴っぽさが抜けなくて、またやってしまった、とすぐさま後悔した翠に、意外にも鉄虎は理解を示した。
「あぁ……そう、ッスね。それは、ほんとに……泣きたいくらい、悔しいことッスよね……」
ぼうっと床を見つめた後、小さく頷くと、鉄虎は眉間に深くしわを作って、額の辺りをぐりぐりと拳で押さえながら目をつぶった。
「……翠くんの言ってること、よくわかんないッス。俺、翠くんにあげられたものなんか、ないッスよ」
熱っぽい、焦点の定まらない瞳が虚ろに宙を見る。
「なんにもしてないよ。なんも、出来なかった、今まで、結局あの日も……今も俺、空っぽで」
遠く、半年ほど前のことを思い返す鉄虎の琥珀色の目が、ゆらりと一瞬波打った。
誤魔化すような瞬きのあと、鉄虎は一度ぎゅっと目をつぶって、大きく息を吐き出した。
「……ごめんね。あんだけ大口叩いと��て、ひどいッスよね。人一倍努力してれば、俺も……空っぽじゃなくなるって、思いたかったッスけど。みんなの隊長で、いたかったッスけど。やっぱり俺に、そんな資格ないッス。ごめん。翠くん。もう、ほんとに――帰ってくんないッスかね」
ゆっくりと顔をあげた鉄虎は、翠の目を見てぎょっとしたように小さく肩を上下させた。
「翠くん」
「なんだよ」
翠は自分の表情に気付かない。
「なんなんだよ、もう」
沸騰した頭に歯止めは効かない。
「ふざけるなよ」
両膝の上で強く強く拳を握ると、翠はより一層怒りに声を震わせた。
「なんで俺がここに来たのかちょっとは考えろよ……!」
歪めた唇から飛び出した言葉の横暴さは、これまでの比ではなかった。無気力で、いい加減な態度で、いつもいつも文句ばかりで、それでもこれほど理不尽な生の感情をぶつけたことは一度もなかった。翠は両手に握りしめたズボンの布地にしわがつくのも構わず、強く強く力を込めた。遠くの電線の上で鳩が鳴く。間抜けな響きが数回、静まり返ったリビングにこだまして、すぐに消えた。
「……なんスか」
押し留めていた瞳の揺らぎが、耐え切れずに大きくうねって水気を帯びる。
「なんなんすかぁ……もぉぉ……!」
ぐにゃり、と歪んだ口元から、混乱と怒りがないまぜになって吐き出される。
「ふざけてないッスよ。なんなんスか。てか、こっちの台詞ッスよ。なんでまた怒るんスか。わぁっかんないッスよ。そんなの。なんで、翠くん、こんなとこいるんスか。わかんないよ。ちゃんとわかるように説明してよ。自分のこともわかんないで、さぁ、翠くんはほんと何しに来たんスか。だから俺、言ってるんじゃないッスか。帰れって――」
泣き出す寸前の弱々しく揺らいだ声が、あまりに正しく翠を貫いた、その時だった。
ブーッ、と大きく響いた音と振動に、鉄虎の体は跳ね上がった。怯えたような表情が、テーブルに置かれたオレンジ色の携帯を見つめる。ブーッ、ブーッ、と震え続ける携帯に、翠ははっとして、大きく息を吸い込んだ。
「そっ……! 出て! それ!」
困惑の色を隠せない鉄虎に、翠の気は急いた。
数十秒に渡って鳴り続ける携帯のバイブ音。間違いない。それはメールや通知の類いではなく、遠い場所から“応答せよ”と投げかけてられている、“今この瞬間”を求める誰かの声。
「いいからっ……出てよ、お願いだから……早く!」
鬼気迫る表情の翠に、鉄虎はとうとう携帯に手を伸ばし、画面を見た。
しのぶくん。
呟く声に、翠は翠たちの願いが叶ったことを確信した。
鉄虎の指が手の中の四角い画面に触れる。
耳に当てるより早く、つんざくような声が飛び込んできた。
「鉄虎くん!? 鉄虎くんでござるか!?」
鉄虎は、画面の向こうを食い入るように見つめていた。
「いっ今拙者たちっ! 定例会っ! おわったとこでござるけど!」
多分、成功したんだ。
翠は、鉄虎の様子を注意深く伺った後、おずおずと顔を近づけて、画面の表示を見た。
そこには予定した通り、声だけではなく、忍の姿が鮮明に映し出されていた。
けれど。
「おい! おい鉄虎!? ちゃんと食えてるか!? よく寝てるか!?」
「お、お熱があるならええと、からだをあったかくして、たくさんお水を飲んで、それから、それからっ……!」
「友ちゃんも創ちゃんも、ちょっと落ち着くんだぜ。パニック映画のひとみたいになってるんだぜ? 鉄ちゃ~ん元気~?」
「元気なわけがないだろッ! 鉄虎は、鉄虎はなぁ……うぅ〜これが落ち着いてなんかいられるかっ! みんながみんなお前みたいに超人じゃないんだ!」
「いいや友也。天満くんの言う通りだ、少し落ち着け。……友人を励ますんだろう。しっかり言葉を選んだ方がいい」
「す、いません、北斗先輩、俺……自分が情けなくて……ごめんな、ごめんな鉄虎……!」
固く口を結んだままの鉄虎に、翠はかける言葉を失っていた。
どうして氷鷹先輩まで。
聞いてたのと違う、それに、氷鷹先輩だけじゃ――
「はいっ! 友くんどいてどいて! 遊木先輩もはいっ! 俺にカメラ向けて~鉄くん! 俺もお見舞いにいくからね! 嫌がったって無駄なんだからね! だから観念して俺にも住所を教えて、お願いしますこのとーり!」
「差し入れは何がいいかな? アニキ、言い出したら聞かないからね~もう諦めちゃったほうがいいんじゃない? せっかくだから欲しいものはなんでも奢ってもらっちゃえ! このチャンス、逃したら勿体ないよ!」
「みどちゃん! みどちゃんは素敵な魔法使いな~!? 鉄ちゃんもみどちゃんも、雨上がりに生まれたばかりの透き通った虹の色です! どんな魔法をかけましたか!? 宙にも教えてください!」
「ソラ、あの子は魔法使いじゃないヨ。……ヒーローというんダ。そうだろウ?」
「……どういう風の吹き回しだ、逆先。流星隊とはさほど縁がないだろうに、やけに物知顔だな」
「酷い言われようだナァ……彼らは奏汰にいさんの宝物だし、そうでなくともソラと仲良くしてくれてる良い子たちだからネ。ボクだって普通に気にかけてるヨ。……さて。ソラたちの声は届いただろうかラ、そろそろもうひとつの魔法を届けるとしようカ。ワン、ツー」
「ああぁぁ~バカバカ愚民っ! キュートなボクの姿がまだ画面に映っ――」
騒ぐ桃李のすぐ隣で、おや、と弓弦が口元を抑える姿が映し出されたのも束の間、ブツッとかすかな音がして映像が別のものへと切り替わる。
「……鉄虎クン?」
鉄虎の瞳が大きく波打った。
鳴上先輩。
呟いた声は、かすれていてほとんど聞こえない。
「ああ……よかったわァ……んもう心配しちゃったじゃない……!」
「んああっ!? なっ、なるちゃん!? な、泣かんといて~!?」
「あ~あ。ナッちゃん泣~かした~」
「おいおいお前ら、こっちは真剣なんだから茶化すなよ……南雲! 高峯! ちゃんと映ってるか? 聞こえてるか~?」
「テートラ~? あっはは! やっほやっほ! こんな時期に倒れちゃうとか、いよいよち~ちゃんにそっくりだね〜!」
「いやいやいやマジで今その話題だけはご勘弁くださいってマジで。南雲ごめんな、こいつの言うことは気にしなくていいからな! ゆっくり休めよな。提出書類のことなんか気にしなくていいからな。締切近いヤツは、分かる範囲で仙石に書いてもらったし。あとからシレッと修正あります〜っつって出してくれりゃあ、俺がなんとかしてやる。情けないとか思ったりするなよ~? 全校生徒の困り事をフォローするのが生徒会役員の務めだからな!」
「ま~くんもとい生徒会長様は他人にこきつかわれるのが趣味の超ド変態なのだ~」
「余っ計なこと言うなよ! あらぬ誤解を生むだろ!」
「おぉいテメーらいい加減うるっせ~ぞ! 俺様の声が聞こえね〜だろうがッ!」
「お前のほうこそ、落ち着け大神。お前に大声を出されると、俺の声も、俺の伝えたいことも、南雲に届かなくなる。それは困る……南雲、聞こえるか。聞こえているなら、どうか返事をしてくれ」
――押忍。
呼びかけに、弱々しくもはっきりと、鉄虎が応えた。
「南雲。お前の肉体は確かに、少しばかり小さいかもしれない。だが、お前は弱い生き物などでは決してない。……きっとこれから強く、もっと大きくなれるはずだ。肉を食え、南雲。肉を食って、充分な休息を取り、大きくなってここへ戻ってこい」
「いいや。あどにす殿。聞けば南雲は肉も食えぬほど衰弱しておるのであろう? おぉ、なんと嘆かわしい……いつ何時も快活な笑顔を絶やさぬ太陽のような子であったあの南雲が……! くう、我、今日この日まで何の“ふぉろお”も出来ぬとは一生の不覚! このような体たらくで深海殿に会わせる顔などどこにあろうか、ええいかくなる上はこの場で切腹を」
「だああ! 話をややこしくすんなテメ~ら! ちったぁ黙りやがれ! おい鉄くん! 聞いてっか!? シャキッとしろってんだよ! なあ! こちとらようやくS1で流星隊をブッ倒せると思って楽しみにしてんだからよう!」
「やーめーろ! ヘタクソか! ああぁ~もうまともにひとを励ますこともできないのかお前らッ! よし。オーケー分かった。もう切っていいぞあんず! これ以上やらかすと南雲の負荷が減るどころか激増しちまう!」
「あははっ! 現場からは以上でーっす! じゃね! テトラ! ターカミン!」
「おっ、お待ちくださいお姉さま! 私も南雲くんにYellを――!」
クスクス、とこれまでよりワントーン高く笑い声が響いてすぐ、ブツッと音がして、今度こそ画面は通話終了の文字を映し出した。鉄虎はしばらくの間、黙ってそれを見つめていた。
「――なんで」
閉じたはずの蛇口から、ぽたり、ぽたり、と同じだけの水が落ちるように、唇から自然と溢れてるようにして、その言葉は繰り返された。
「……なんで? なんで……」
下がりきった眉尻。震える細い声。
ゆらめく水面のような瞳。
それは深い深い水底に小石を投げた時のわずかな波紋のように。
何かが届いていると信じたい。
「そんなの」
翠の声も、少し震えていた。
何故だが翠のほうが泣いてしまいそうだった。
「鉄虎くんが、鉄虎くんだからだよ。……それ以外にないよ」
確かに温度差はあった。
けれど、本当に、本当にたったの数人で始まったはずだった。
ひなたくん。ゆうたくん。真白くん。紫之くん。翠は自分が把握しているだけの名前を思い浮かべた。誰かが声をかけて広げたのか、それとも噂を聞きつけて自主的に加わったのか、今の状況では分からない。でも本当に何の興味も関心もないのならこんなことをわざわざ手伝ったりはしないはずだ。
「多分、だけど」
思い返す、一年間の軌跡。
去年の七夕祭。海賊フェス。海の家でのお手伝い。流星祭。ハロウィンパーティ。風雲絵巻。イブイブライブ。冬のMV撮影。ショコラフェス。船上でのライブに、初春の頃にはfineとのドリフェスもあった。きっと翠の知らないところでもっと多くのことがあった。心配してくれた司。泣き崩れる嵐。吠える晃牙。真剣なアドニスの声。
「例えば、だけど、さ……これがもし俺だったら……こんなに集まってくれてないと思う。鉄虎くん……鉄虎くんはいつも……俺と違って面倒くさがらないで。誰が相手でも、一生懸命に関わって……だから――」
ああ、どうして。
「い、やだ」
どうしてこんなに簡単なことが伝わらないんだろう。
「やだ、嫌だよ行かないでよ。なんでってそんなのこっちの台詞じゃん。なんでだよ、なんで……嫌だよ、ねえ行かないで」
肩を震わせて泣く翠のことを、鉄虎はじっと見つめていた。
「なかったことにしないで」
初めて叱ってくれたひと。
初めて逃げちゃいけないと思ったひと。
怖くても、勇気を出して怒ってくれたひと。
怖くても、勇気を出して向き合おうと誓ったひと。
あの時鉄虎くんがいなかったら俺は。
「死ぬときは一緒って言ったじゃん」
一生。
どこにいても。
自分のことを嫌いなまま。
「いった、くせに」
翠は力の限りに両手を握りしめた。血管が青く浮き出して、手のひらが熱を帯びる。
「なんだよ。クソ、ふざんなよ。裏切んのかよ、嘘つくのかよ。俺のこと――おれのこと叱っといて逃げんのかよ。何だよそれ、ふざっけんな」
熱くなった右手で濡れた頬を何度も何度も拭いながら、返事も待たずに翠が吐き捨てた。反応なんかどうでもよかった。怒られたって仕方がないような身勝手を叫んだ。それでも衝動を抑えられなかった。拭っても拭っても溢れてくる涙が、熱くなった指先をすり抜けてぼたぼたと膝に落ちていく。もう駄目かもしれない。今日で全部おしまいかもしれない。段々と弱気になっていく心が別の涙を生み出して、頬の上でぐちゃぐちゃに混ざる。
「……逃げたくない」
ぽつり、とかすれた声が放たれた。
翠は小さな嗚咽を漏らして、静かに視線を動かした。
「にげたく、ない。逃げたくない」
最後まで耐えるように小刻みに震えていたまぶたが、ついにゆっくりと閉じられて、大粒の涙を溢れさせていく。
「――翠くん俺」
勢いよく顔を上げた鉄虎が翠の目を見た。視線が絡むと、鉄虎は顔をくしゃくしゃに歪めて泣き崩れた。透明なしずくが、その頬を伝っていくところを、ようやくこの目で見た。今まで何回ひとりきりで涙を流したのだろう。何回、その心を独りきりにさせたのだろう。
もう、しない。
させたくない。
翠は両膝の上で固く握りしめられた鉄虎の手の甲に、そろそろと自分の右手を伸ばしていった。手、握ってもいい。尋ねると、こくん、と小さな頷きがあった。翠の指先が触れるより早く、鉄虎が手を伸ばしてきて、翠は余計に涙ぐんだ。手の伸ばすために少しだけ浮かせた細い腰が、椅子に戻らずゆっくりと床へ沈み込んでいく。翠は追いかけるように慌ててしゃがみこんで、鉄虎の手を握りしめた。とても冷たかった。鉄虎は冷えた指で翠の手首を触ると、そのまま腕を伝って翠の体を掴み、強く抱きしめた。
強張った両腕が広い背中にしがみつく。力の入れ方が分からないのだろう。痛みすら感じるほどのきつい抱擁に、翠はそっと目を閉じて、熱くなったその背を撫でた。こんなに今にも崩れ落ちそうな体で、投げ出すことも出来ず、どうにか抱えて連れていこうとする鉄の意志。その足をいつだって歩ませるもの。翠にはないもの。だからこそ尊くて眩しいもの――どうしても失いたくないと願ってしまうもの。
「鉄虎、くん」
泣き叫んだあとの枯れた喉から、雑音みたいな声が出た。
「あの……あれ、さっきの……ほんとは俺が自分で、買ってきたんだ」
腕の中で、鉄虎がわずかに動いた。
衣擦れの音の中に、聞き返すような小さな声が聞こえた。
翠は加速し続けていく心臓の音に押し潰されてしまわないように、震えながらも大きく大きく息を吸い込んだ。
「バカみたいだと、お、思われても、し、しょうがないけど……俺、怖くて。こんなの持ってって、い、いらないって拒否られたらどうしよう、って。鉄虎くんはそんなこと、きっと言わないのに。勝手に怖がって、言い訳して、誰かにやらされてるんですって顔して……ほんとに卑怯でろくでもないよ……ごめん。ごめんね。これ、俺が選んだんだ。俺が、鉄虎くんのために、選んできたんだよ。こんなこともろくに言えなくてごめん。俺、今まで鉄虎くんに言えなかったこと、たくさんあるんだ。ありがとうも、ごめんねも、それ以外も。今度からちゃんと言うから、だから――」
すん、と鼻を鳴らして、翠は鉄虎の体をぎゅっと抱きしめた。
すがるような、助けを求めるような仕草だった。
流れ星に願いをかけるような切実さ。
「……ごめん、また……何言ってるか、わかんないよね……」
返事を待つことに耐えられなくて、何度も何度も謝罪を重ねた。
ばくばくと破裂しそうな心臓の音がきっと鉄虎にも伝わっているだろうと思うと、恥ずかしさで死んでしまいそうだった。怖い。当たり前だ。こんなこと人生で一度だってやってこなかった。今日が初めてだ。翠は涙でにじむ目元を鉄虎の肩にそっと押し付けた。
鉄虎くんが初めてだ。
「ううん」
耳元ではっきりと聞こえた否定の言葉に、翠の心臓が大きく跳ね上がった。
慌てて肩から顔を上げる。なんだろう。何に対しての返事だろう。混乱する頭を必死に持ち上げて、翠は鉄虎の表情を正面から捉えた。
「翠くんが、今。変わろうって、勇気出してくれた、って。それくらい、わかるッスから」
泣き腫らした琥珀色の目をまっすぐ翠へと向けて、鉄虎は言った。
真剣なまなざしだった。
いつだってそうだった。
戻ってきた。帰ってきた。俺のよく知っている鉄虎くんの目だ。
安堵で体中から力が抜けていく。翠はそのまま鉄虎の胸にゆっくりと倒れこんだ。わ、と少し焦ったような声がする。鉄虎は、よろめきながらも翠の体をきちんと受け止めてくれた。
「俺、さぁ……」
自然と背中に回した腕に、ぎゅっと力を込める。
「ほんとに消えて、なくなりたいわけじゃ、ないんだ……」
すすり泣く声に混ざって、翠の鼻声がぼそぼそと響く。
「俺、いつも。鬱だ死にたい。消えちゃいたい、って。でもほんとは……」
鉄虎は黙って聞いていた。
「ここに、いたいんだ。でも、不安で、押し潰されそうだから。誰かにいていいよって、言ってほしくて、いつも。ほんとのほんとは――」
冷え切っていた体は、もう随分と温もりを取り戻していた。
まだ足りない、と翠はその背を丁寧に撫でる。
「鉄虎くんがくれたんだよ」
でかいだけの自分の体が、このひとを温めるものであってほしいと願う。
「俺、お返ししにきたんだ」
いつか貰ったぶんの熱と、せめて同じだけ。
「そっ、か」
翠の背中に、温かいものが触れる。
「……ごめんね、翠くん」
呼応するように、鉄虎の右手が、うるさく鳴り続ける心臓の裏側を撫でていく。
翠が、ううん、と首を振るより先に、鉄虎は小さく咳払いをした。
「ん、や……ありがとう、ッスよね。……お返ししにきてくれて、ありがとう」
――ようやくマイナスからゼロに進んだような気がする。
鉄虎の照れたような、くぐもった声に、翠は耳元がざわつくのを感じながら安堵した。
ぐるる、とおなかの辺りに弱い振動が走る。翠が気付くよりも早く、鉄虎が耳を赤らめた。
そんな時間だっけ、と翠は顔をあげて時計を探す。
「……なんか、色々吐き出したら、おなかすいてきちゃったッス」
照れ隠しに小さく笑って、鉄虎が頬をかいた。
「……りんご、むこうか?」
「え。翠くん、りんごむけるんスか? すごい」
「ん、まあ、いちおう……八百屋の息子だからね……」
「それ、うさぎにできるッスか?」
予想外の返答に、翠はうるんだ青い目をぱちくりと丸く見開いた。
「で、できるけど。なんで?」
聞き返すと、鉄虎はなんてことのないように言った。
「いや……翠くん、好きかなって……」
何の話か分からずに返事に窮する翠に、鉄虎は一瞬はっとしたように口を開けて、それからこめかみのあたりを一生懸命にさすった。
「あ、えと。……もう、ちょっとだけ居て、くんないッスか、ね」
ちょっと、心細くて。
率直な物言いに、翠は少し驚いて、じわじわと何かがこみ上げてくるのを感じた。
「それに、こんなに……俺一人じゃ食べきれないッスよ。せっかく、美味しそうなりんごなんで……一緒に食べてってほしいッス」
いつしか俺は、この少し焦げついた赤い星と自分とを線で結んで浮かび上がった模様のことを、特別大事に想うのかもしれない。
「えぇっ、なんでまた泣くんスか? 俺……またなんか言ったッスか?」
焦ったようにおろおろとこちらを伺う、琥珀色のまっすぐな光に、翠は何も言えなかった。
胸がいっぱいで、とても言葉に出来なかった。こんなにも当たり前に、てらいなく、側に居ていいと告げてくれる。自分が同じものを返せるのかなんてわからない。けれどせめて次に泣く時も一緒でありたいと強く思う。
思うだけじゃ終われない。
そうなるように、歩くんだ。
触れたりんごの赤が、泣けるくらい綺麗だった。同じ色をした夕陽がゆっくりと落ちる頃だった。もうすぐ星が見える。いつか願うだけでなく、誰かの願いを拾い上げて抱きしめられたなら、と思う。そうやってひとの願いと願いは繋がって、広がって、大きなひとつ絵になっていくのだろう。
まばゆい黄色と、くすぶる赤のすぐとなり。
今、淡くとも光ろうと瞬きをした。
こぼれたしずくは流れ星のように、息苦しくもまばゆいこの宇宙の片隅で、ほんの一瞬輝きを放って、静かに燃え尽きていった。
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五章 正義のこどもたち
チャイムが鳴るのと時を同じくして、廊下を踏み鳴らすけたたましい音が響く。
購買へ向かって一目散に走る生徒たちの足音だ。授業を終えた教師が、呆れたようなため息をついて、教室をあとにした。ざわつくクラスメイトたち。少し出遅れて購買へ向かう者。ガーデンテラスへ向かうのであろう、数人のかたまり。昼休みの浮き足立った空気は、からりと晴れた今日の陽気によく馴染む。そしてそれは、陰鬱とする翠の背中をいっそう丸く縮ませていた。
右手に握った小さな金属が、カチリと鳴る。
さんさんと日の射す廊下に暗い影を落としながら、翠は大きくため息を吐き出した。わざわざ貴重な昼休みに、別棟まで歩くのが億劫、という話ではない。そんなものは四月の初めにどうにかこうにか飲み込んだ。ならばこのため息は一体どこからくるものか――そう考えて、翠はゆっくりと手の中のものに視線を落とすのだった。
これを持って歩くのは、鉄虎の役目だった。
誰が言い出したわけでもない。最初からそうだった。授業が終わると、一番に駆け出して、職員室から鍵を借りてくる。時折、翠や忍がついていくこともあるが、受け取るのは必ず鉄虎だった。鉄虎が部活でいない日は、忍が代わりを務めていたから、翠がこの銀色に触れる機会は、今の今までなかった。
たかが部屋の鍵くらいで、大げさだと自分でも思う。けれど翠は気が重かった。二度、三度とこの鍵を受け取るたびに、「いない」という現実が両肩にずっしりとのしかかる。鉄虎が学校を休んでもう五日目になる。忍とふたりで送った「大丈夫?」というメールにも、いまだ返信がない。ただの風邪、というのは担任から聞いた話だが、翠は不安で仕方がなかった。
たどり着いた視聴覚室のドアを押し開けながら、翠は何度目かの深いため息をついた。窓から射す光だけの、薄暗い部屋。こんなに広い部屋だったろうか。心細さに押し潰されそうになりながら、蛍光灯のスイッチを入れる。ぱっと明るくなったはずの室内は、それでもどこか陰を帯びていた。長机の上に鞄をおろし、弁当箱を取り出して、座り込む。忍が来る前に食べ始めてしまったほうがいい。先日ふたり一緒にいただきますと手を合わせたら、忍はあっという間におにぎり二つを平らげてしまい、その先の作業を任せっきりにしてしまった。どうせ役には立てないと思っているが、だからといって忍が頑張っている間、のんびり弁当箱を抱えているわけにもいかない。焦燥に駆られながら箸を動かす。頭上から流れる昼の放送をぼんやりと聞きながら、翠はまたひとつ、ため息をこぼした。
「翠くんっ! お疲れ様でござる!」
おかずを半分ほど胃に押し込んだところで、前方のドアが勢いよく開いた。購買のビニール袋と、通学鞄を抱えた忍が、弾丸のように飛び込んでくる。ずいぶんと息を切らしていて、忍は翠の横に座り込むなりぺたりと机につっぷしてしまった。
「お、お疲れ、忍くん……」
「はぁ〜メッチャ疲れたでござる、遊木殿、なかなか捕まえられなくて……あっちこっち飛び回っちゃったでござるよ。遅���なってかたじけない」
「ううん、全然……原稿どうだった?」
「オッケー出たでござるよ~! これでひとつ肩の荷がおりたでござる~!」
「よかった……」
翠がほっと胸を撫で下ろすと、忍はゆるんだ笑みを浮かべて翠を見上げた。おもむろに体を起こし、握っていたビニール袋に手を突っ込む。翠も、慌てて箸を持ち直す。忍は机の上におにぎり二個を並べて、頂きますと両手を合わせた。いつもながら、そんなに少量で倒れてしまわないのだろうか、と心配になるのだが、これでもまともな食事になったほうだ。昨年の今頃など、無報酬のボランティアばかりで、きちんとした仕事といえば遊園地でのヒーローショウくらい。モモッチとサンダーの餌代が~、と悲鳴をあげながら、忍が謎の丸薬をかじることも日常茶飯事だった。秋口になってからは、少しずつ校外からのオファーも増え、冬を迎える頃には相応の報酬を得られるようになっていったが、その状態を維持させることがこれほど大変なことだとは、当時の翠たちは考えもしなかった。
拙者、またヤモリで食いつなぐことになるかも。
数ヶ月前、あまりの先行きの不透明さに、珍しく忍も真顔になっていたことを思い出す。隣でもりもりとおにぎりを頬張る忍のつむじを見下ろして、翠はもう一度安堵の息をこぼした。
新しい五人になって、初めての大舞台。
それも昨年の再演を、昨年と同じかそれ以上に成功させるという、大きな目標。
「すごい賭けだったよなぁ」
数日前に友也からかけられた言葉に、翠も忍も、最初は首を傾げた。
友也は二人の反応を見て、ぎょっと目を剥いていた。
「おっ……おいおい無自覚だったのかよ!? はぁ~そうか……まあ、気負いがないぶん、いいライブになった、ってことかもしれないけど……」
お客さんから好評を得た演目を、別のキャストでなぞるって、すごい勇気のいることなんだぞ。確実に前回の完成度と比較されるし、シナリオがいいなら尚のことだ。役者の力量が、全体の評価に直結する。鉄虎は本当によくやったよ。ライブの話じゃないけど、俺、リバーシ……RJRの再演とか、絶対にやれない。
語るにつれ、少しずつ青ざめていく友也の表情を目の当たりにして、翠はようやく事の重大さを理解した。ただ歌うこと、踊ることに必死で、自分たち五人が運命の岐路に立たされていることなど、気付きもしなかった。
鉄虎は気付いていたのだろうか。
気付いて背負ったのだろうか。
一人で。
「ふい~、次はこっちでござるな」
忍の長いため息に、翠は慌てて残りの白米を口に押し込んだ。購買部のビニール袋はあっという間におにぎりのゴミを飲み込んでいて、白い持ち手を固く結ばれていた。
「今日明日あたりで終わらせないと、そろそろマジでやばいでござるし」
鞄の中から取り出した分厚い紙の束を、机の上でトンと整えて、忍はそのページをめくり始めた。翠は空になった弁当箱を包み直しながら、忍の渋い表情を伺った。
「隊歌とスパノヴァと……シューティンスターもオッケーでござろう? あと出したことない曲っていうと……」
「アンリミも、まあ……最悪よくない? 急造だったけど、一応こないだアンコールでやったわけだし……」
「んんん~。最悪、そうでござるな。鉄虎くん、嫌がりそうでござるけど……正直まったく手付かずの流星花火とかのが圧倒的にヤベエでござるからして」
「……これ、ほんとに全曲さらわなきゃ駄目かな……? 新曲も増やすんだよね……?」
「そりゃそうでござるよ~。どこまで残れるか分かんないけど、勝ち抜き戦で持ち曲なくなるとか洒落になんないでござる。準備だけはしておくべきでござろう」
きっぱりと言い放った忍に、翠は低くうめき声をあげてうなだれた。
「ですよね……そうですよね……」
「あはは。大丈夫でござるよ。翠くん、立ち位置変えなくていいんでござるから。拙者も翠くんも、これまで一年間、体が覚えた通りに動けば何の問題もないでござる。大変なのは――」
「うん。分かってる」
言葉を遮られ、忍は一瞬、目を見開いた。
うなだれた翠の、青の両目がうるんで揺れる。
「誰が、大変なのかは……俺にも、分かってるから……」
来ない返信。
修正だらけの演出案。
最後に聞いた、悲鳴のような声のこと。
きっと、あの赤い背中にのしかかる重荷の一つたりとも、翠は分け合うことができない。それがあまりに情けなくて、憂鬱で、今すぐにでも消えてしまいたくなる。けれど決めたのだ。ここにいると。一緒にいたいと。一度、全部を投げ出して逃げた場所に、自分の足で戻ってきた。そんな自分を、“ここにいていい”と受け止めてもらった。
足手まといにだけはなりたくない。
「……こっち、もらうよ。去年の曲なら、俺もだいたい、雰囲気分かるから……」
机に広がる数枚の用紙を拾い上げて、翠は、深く深く、息を吐き出した。やれることは、うんと少ない。それでもやるしかない。シャープペンシルをノックする音が、二度、小さく鳴って、翠は口をつぐんだ。忍もこくりと頷いて、残りの書類に目を落とした。
★
ひとしきり書類に目を通し、忍がうーんと天井に向かって体を伸ばしたその時だった。
コンコン、と軽快なノック音が、前方のドアから響いた。忍と翠の両肩が、大きく上下する。そして互いに顔を見合わせている間に、ドアノブは躊躇なく回され、見慣れたふたつのオレンジ色が、ドアの隙間から顔を覗かせた。
「おっ、やっぱここにいた! 失礼しまーす!」
「失礼しまーす。今いいかな?」
同じ声質。
ほんの少しだけ違うトーン。
ぱあ、と忍の顔色が明るくなっていき、つられて翠も俯きがちだった頭をあげた。
「ゆうたくん! ひなたくん!」
飛び上がって駆け出した忍に、ゆうたが笑顔で手を振った。ドアを押して入ってくる二人の姿に、遅れて翠も立ち上がる。
「あっはは、翠くんぐったりしちゃってるね~! 演出案練ってた?」
「うん、そう……もう疲れたし今すぐ帰りたい……」
「色々忙しいときに押し掛けてごめん……てか、アニキももっと悪びれなよ。作業してるとこにお邪魔しちゃってるんだからさ」
「いやいや! お邪魔なんて、そんなことないでござるよ! けど、どうしたんでござるか?」
「ふふ、ちょっとね」
ゆうたは小さく笑って、ひなたと視線を絡ませると、二人揃って背筋を伸ばして、忍と翠に向き直った。
「俺たち、流星隊の一年生たちに、ちゃんとご挨拶したいな~って思ってさ」
「そのことで相談に来たんだよね!」
忍が息を飲んで、ゆっくりと翠を見上げた。翠も同じように、忍を見た。
「余計なお世話かもしれないけど……今のうち顔合わせしといた方がいいかなって。初めてのS1なんだし。初戦の相手と面識あった方が、あの子たちもちょっとは気が楽じゃない?」
「なんなら一緒にレッスンしたっていいしさ! 去年はTrickstarと合同だったんでしょ? 今年は俺たちとどうかな?」
「合同練ってことにしとけば、俺たちが、あの子たちを見ててあげられる。その間に、二人は演出のこととか、細かい調整ができるじゃない?」
「ねっ! 結構いい案だと思うんだけど!」
忍の片目が、ほんの一瞬揺れ動く。
「どう……かな?」
しばらくの沈黙のあと、ゆうたがささやき声で返事を促し、小首を傾げた。
「……願っても無い申し出でござるよ! ふたりとも!」
歓声とも、悲鳴ともとれる甲高さで、忍が叫ぶ。忍は次の瞬間にはゆうたの胸に飛び込んで、ぎゅっと顔をうずめていた。ゆうたは驚いたように目を丸くしたあと、やわらかく微笑んで忍の背中をそっとさすった。顔には出さないようにしていても、忍もずっと不安だったのだろう。ゆうたの背中に回された小さな手は、差し伸べられた優しさにすがるかのように、力いっぱい握られている。
「正直拙者たち、もう、いっぱいいっぱいでござるしっ! 二人がいてくれたら百人力でござる!」
「あはは、さすがに本当に百人に分身はできないけどね! それくらいの力にはなりたいなぁ」
「そうそう! 鉄くんがいない間、俺たちにどーんと頼ってよ! 頑張っちゃうよ!」
「きっと鉄虎くんも喜んでくれるはずでござるよ……! まってね、拙者ちょっとメールしてみる……」
すん、と鼻をすすりながら、忍が携帯を取り出した。
それを見守るひなたの表情は、静かに陰りを帯びていく。
「メール、まだ返ってこないんだっけ」
翠は、答えを求めるひなたの視線から、逃げるようにうつむいた。返事を聞く前に全てを察したのか、ひなたは眉を寄せ、苦々しく唇を噛んだ。
「……うん」
「……そっか。ほんと、何事もないといいんだけど――」
「ひぎゃっ!」
その場にいた全員の体が、大きく跳ねた。
声の主に、三人の視線が集まる。注目を集めていることに気付いているのかいないのか、黄色い片目は何か恐ろしいものでも見るかのように、手の中のものを凝視していた。
沈黙の中、ブーッ、ブーッ、と振動が伝う。
「……誰から?」
ささやいたのは、ひなただった。
忍は答えなかった。答えるかわりに、そろそろと携帯を耳にあて、その着信に応答した。
「て……鉄虎くん? 拙者でござるけど……」
ひなたとゆうたが顔を見合わせて、険しい表情を作る。忍くん、スピーカー。低く潜めたひなたの声に、忍は小刻みに頷き、画面の端を操作した。ノイズの混じった音声が、静まり返った部屋に響き渡る。
「……もしもし? 忍くん?」
くぐもった声だった。
それが電波を介したせいなのか、風邪のせいなのか、あるいは別のなにかが原因なのか。誰にも分からなかった。ただ、明らかに普段の鉄虎と雰囲気が違う、ということだけを、その場にいた全員が感じ取っていた。
「も、もしもし? うん、拙者……と、あと翠くんと、ゆうたくんたちも……あ、こ、これ、聞こえるようにしちゃっていいでござるか?」
「あー。うん。むしろその方が都合いいッスね……お願いするッス。メールのこと、みんなと話したかったし……」
「わ、わざわざ電話させちゃって申し訳ないでござる……。急かすつもりはなかったんでござるけど」
「ううん。俺が勝手にかけただけッスから。……ごめんね。ふたりとも、全然連絡……返してなくて……」
「そんなの全然いいんでござるよ! 無事ならそれで、なによりでござる、ねっ、翠くん!」
急に画面から顔をあげた忍に、翠は呼吸をとめた。
三人の視線が、翠のこわばった頬を見つめる。
「……翠くん?」
画面の向こうから、呼ぶ声がする。
翠が恐る恐る忍の横に並ぶと、忍は携帯のマイク部分を、ゆっくりと翠の胸元に差し出してきた。翠は、数秒ためらったあと、それを受け取った。機械の重さが、手首にずっしりとのしかかる。
「て、鉄虎くん……俺……」
「……ごめんね。迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃ……電話、だいじょうぶなの。しんどそうだけど……」
「ん、大丈夫ッス。別に、のど痛いとかじゃないから……ほんとごめんね」
「い、いいよ。謝らないで……大丈夫だから……」
受け答えをしながら、翠は頭が真っ白になっていくのを感じていた。 これは、一体、誰の声なんだろう。思わずそう疑いたくなるほどだった。背中を嫌な汗が伝って、身震いしかけた時に、忍の小さな手がそっと翠の手に重なった。忍の顔も、すっかり青ざめていた。しばらく間があって、鉄虎が吐いたのであろう息が、ボボ、と雑音のようになってこだました。
「んで、一年生の――てか、合同練のことッスけど」
「あ、そっ、そうでござる! ゆうたくんとひなたくんが提案してくれて……」
「ほんと、気が回んなくて申し訳ない限りッス。ほんとは俺が、こういうのちゃんとやるべきだったッスよね」
「いっ! いやいや鉄虎くんのせいじゃ! 拙者たちも考えが至らなかった故! 今回は二人にフォローしてもらって、助かっちゃったでござるな~!」
「ほんと、有り難い話ッス。……やるなら早いほうがいいッスよね。後ろに伸ばしても、練習日、減るだけだし……」
「もしもーし? 鉄くーん? 鉄くんが構わないなら、明日にでもサクッと挨拶して始めちゃうよ~?」
一歩引いて会話を聞いていたひなたが、忍の後ろから大きく声を張り上げた。振り向いた忍が分かりやすく表情を和らげる。視線に気付いたひなたが、忍に向かって片目をつぶった。ひなたくん。呟いた鉄虎の声に、ひなたは身を乗り出した。ゆうたもそれにならって、通話できる距離まで歩み寄った。
「俺たち、結構前から練習室を押さえてあってさ! ほら、あそこ。クルージングライブの時、使ったとこ。ちょうど今日から使えるようになったんだけど、俺たち二人じゃさすがに広すぎるな~って!」
「まだ申請してないんだったら、一緒にどうかな。部屋代も折半できるし、経費削減できて一石二鳥!」
「今なら人気急上昇中の売れっ子アイドル、2winkの特別指導付き!」
「お買い得ですよ~! お客さん!」
ひなたとゆうたが交互に次々としゃべるのを見て、忍が口をぽかんと開けた。まるで台本でも読み込んできたかのような台詞がよどみなく続く。今度はゆうたがウインクしてみせて、忍はその心遣いに涙を滲ませた。
忍は大きく深呼吸をすると、一瞬目つきを鋭くさせて、携帯に向き直った。
「……どうでござろう? ゆうたくんもひなたくんも、やる気満々でござるし。拙者は、お言葉に甘えちゃっても、いいんじゃないかな~って思うんでござるけど……」
返事を待つ間の空白が、いやに長く横たわる。
気付けば、ひなたとゆうたも真顔に戻って、携帯の画面を食い入るように見ていた。
「……鉄虎くん?」
「――分かったッス。そしたら明日の放課後にお願いしたいッス。俺も行くッスから」
「えっ、え!? てっ、鉄虎くん、それ、大丈夫なんでござるか!?」
「大丈夫ッスよ、明日には絶対……」
「無理はしなくていいんでござるよ、ここは拙者たちが」
「無理じゃないッスから!」
きいん、と耳を裂くような異音が轟いて、忍は思わず端末を遠退けた。
ばくばくと、心臓が脈打っている。忍もひなたもゆうたも、顔をしかめたのち、はっと我に返って忍の手元を見た。
沈黙が、あまりにも重たく、目の前に横たわる。
「――ごめん。ごめんね、ほんと、明日には、行くから。絶対……絶対明日、行くから。ごめんね、ひなたくんたちも――じゃあ――」
「てっ、鉄虎く」
忍が慌てて叫んだが、画面には通話終了の文字と、通話時間が表示されているばかりだった。
ひなたとゆうたが、物言わず視線を交わす。
「どうしよう」
愕然と手元を見下ろしながら、ぽつり、と忍がこぼした。真っ暗になった画面から、ゆっくりと顔をあげる。うつろだった黄色の片目は次第にゆがんで、堪えていた涙をついに溢れさせた。
「全然……ぜんぜん、だいじょうぶじゃないでござる。鉄虎くん、だいじょうぶじゃないでござるよ、どうしよう――」
せり上がってくる嗚咽で声がかすれていた。ゆうたが一歩、忍の側へと近付いて、震える肩をなだめるようにして手を添える。ひなたも大きく息を吐き出し、困惑した様子で額を押さえた。
「……ちょっと事態を甘く見過ぎてたよ。まさか、こんなの……ほとんど拒絶反応じゃん」
「拙者たち、そんなに信用ないんでござるか? 拙者たちが不甲斐ないから、だから、だから鉄虎くん、無茶ばっかりするんでござるか? 頼ってくれないんでござるかっ?」
「いや、違うと思う……むしろ逆かな。アニキの嫌な予想、当たってるんじゃないの」
考え込むような仕草で唇に手を当てたゆうたが、静かに口を開き、ひなたを見た。
「そうっぽいよね〜……一番当たってほしくなかったんだけどね……」
額に添えていた両手をわずかにずらし、顔を覆うと、ひなたはもう一度深々と息を吐き出してから、勢いよく面をあげた。普段からは想像もつかないほど、険しい目つきだった。
「やっぱり、簡単に引き下がるんじゃなかった。うっとうしがられても、嫌な顔されても、もっと早くにとめるべきだったんだ。……なんとかしなきゃ。このままじゃ鉄くん、本当に戻ってこれなくなっちゃう」
「――そんな」
沈黙を貫いていた人物の、この世の終わりかのような鳴き声に、三人は一斉に顔を上げた。
仰ぎ見た先の、血の気の引いた頬の色に、忍が息を飲む。ぴくり、とひなたの目の端が痙攣して、次第に苛立ちを帯びていく。その気配感じ取ったのか、翠はいっそううろたえて、肩をすぼめた。
「ちょっと……しっかりしてよ。翠くんまで動揺してたんじゃ、困るよ。ほんとに取り返しのつかないことになっちゃうよ」
「わかっ……分かってるよ、でも」
「俺たちも一緒に考えるからさ。だからさ、ちょっと落ち着こうよ。ね?」
「落ち着いてなんか……! 無理だよ! このままじゃ鉄虎くんが」
「だから! 鉄くんのためにこれからどうするかって話をするの!」
「どうするって……まさかどうにか出来ると思ってるの!? こんなのもう俺たちなんかの手に負える問題じゃ」
「あのっ……さぁ!」
突然荒げられた声に、翠も忍も大きく肩を震わせた。
「でもとか無理とかの前にもっと言うことないの!? ちょっと本当にあんまりなんじゃない!?」
ゆうたまでもが、滅多に聞かない、聞いた覚えもないようなひなたの怒声に、不意をつかれたように目を見開いていた。ひなたくん。同じ声色で、戸惑うような、たしなめるような呼びかけが響く。ひなたは黙らない。
「なんで翠くんが泣くのさ! 今一番泣きたいのは鉄くんだと思うけど!? ひとりぼっちで戦って、助けての一言も言えなくなって、大丈夫大丈夫ってボロボロになって! そんな鉄くんのSOSにさ……応えなきゃってちょっとでも思わない!? 黙ってないでなんとか言いなよ!」
「ひなたくんってば!」
強い力で腕を引かれ、ひなたはようやく口をつぐんだ。
「俺たちここに喧嘩しに来たの? そうじゃないでしょ。ひなたくんの方こそ落ち着きなよ」
見つめ合った同じ色の瞳が、同じように滲んで交互に揺らめいた。
ひなたは唇を歪めて俯いてしまった。しばらくの沈黙ののち、ゆうたが口を開く。
「ごめん。余所のユニットの連中が、首突っ込んで、こんな……偉そうなこと言ってさ。でも俺たち……今まで何度も、何度も流星隊に助けてもらったんだよ。だから俺たちも、何かできたらって、思ったんだ」
同意を求めるかのようにして、ゆうたがひなたの様子を伺う。
ひなたは大きく一度深呼吸をして、震える声でゆうたの言葉を引き継いだ。
「今度は俺たちが助けるって思ったんだ。守沢さんはユニットも違う、何の接点もない俺たちのことまで面倒見て、助けてくれた。……鉄くんはあの冬。上手く行ってなかった俺たちのために、走ってきてくれた。俺たちにひとりで戦わなくていいんだって、教えてくれた。だから鉄くんたちが困ったときはお返しするって決めたんだ。一人で背負い込まなくていいんだよって、今度は俺たちが言う番なんだよ」
一息に言い切ると、ひなたは翠の顔をちらりと盗み見たあと、もう一度大きく息を吸い込んで、数秒止めてから、ゆっくりと吐き出した。意図してそうしたのだろう。この瞬間に、怒りや苛立ちの表出は随分と収まっていた。
「……翠くんもそう教わったんじゃないの? 今度は翠くんの番なんじゃないの? そうやって、助け合って、お互い様で、みんながみんな、誰かにとってのヒーローで……あのさ。こんなこと、俺みたいな部外者に言われなくちゃ分かんないっていうんならさ。だとしたら、そんなのってほんと……あんまりだよ」
言い終わると、ひなたもゆうたも黙ってしまった。
翠の反応を待っているのか、それともこれ以上は何も響くものがないと口をつぐんだのか、どちらにせよ空気は重くなる一方だった。沈黙の中、カチリ、と時計の長針がひとつ進み、授業の準備���促す予鈴が高らかに鳴り渡る。その音に混ざってカツカツと廊下を踏む神経質な音が響き、次第に大きくなっていく。
「貴方たち一体、何事ですか!」
ドアを開けた第一声に、全員がびくっと背筋を伸ばした。
その場で飛び上がりそうだった忍が、代わりに素早く声の主を振り返る。
「何って」
忍の片目が細身のメタルフレームに縁取られた紫の瞳を捉える前に、ひなたはなんてことのないように切り出した。
「見ての通り。ちょーっと喧嘩がヒートアップしちゃって! ふっかけちゃったのは俺のほうなんで、反省文、俺が書いたらいいですかね?」
「……ああぁもうまたそうやって一人で全部やろうとする! あんまりなのはどっちなわけ!?」
「え!? あ、いやその、そ、れはさぁ~またちょっと別の話っていうか……」
「全く……お止しなさい」
これまでと立場が反転したかのようなやり取りをするひなたとゆうたに、章臣はやれやれといった調子でこめかみを抑えた。
「ただでさえ普段の行いが悪いんですから、こんなことでわざわざ書く必要のない反省文を増やすことはないでしょう。言っておきますが、一人で悪を被っても、誰も救われませんよ」
ひなたは面食らったように目を見開いて、少し黙った。数秒して、はい、と大人しく返事をする。珍しく聞き分けのいいひなたに、今度は章臣の方が目を見開くことになった。章臣は大きくまばたきを二度した次の瞬間、よろしい、と満足げに頷くと、四人の顔を静かに見渡して、目元を濡らした翠のことをじっと見つめた。
「……気分が優れないのであれば、保健室へ。仙石くん。付き添ってあげなさい」
「ひぃ、あ、はい!」
「貴方たち二人は教室へ。すぐに本鈴が鳴ります。授業に遅れることのないように」
「はい」
「……はーい!」
翠以外の三人が、それぞれに返事をする。章臣は体の前で腕を組んで、ひなたとゆうたが廊下へ出ていくところを見張るような鋭い目つきで見送った。
「仙石くん、鍵を。ここは私が施錠しておきます。……急ぎなさい」
「しっ、承知!」
「ああこら! 違いますよ、廊下は走らない!」
翠の白シャツの裾をむんずと掴んで走りだそうとした忍を、章臣が大きな声で呼び止めた。
忍は前につんのめって、ぴゃ、と短い悲鳴を上げていた。
「悔いのないように行動しなさい、ということです。……失ったものは、元には戻りませんからね」
章臣の横顔は、数日前に翠が見たひとの凛とした面影と、よく似ていた。
★
静まり返った廊下に、二人分の頼りない足音と、教室から漏れ聞こえる教師の声とが混ざり合って響く。翠も忍も黙りこくっていた。時折、ずるずると翠が鼻をすする音が聞こえ、忍はその度に伺うように目だけを動かして翠を見た。
保健室には誰もいなかった。テーブルに手書きのメモが置いてあり、何かあれば呼んでくれ、と携帯の番号が書かれていた。章臣はこのことを知っていたのだろうか。忍はクリーム色のカーテンで囲まれた保健室の中を一望し、ベッドを隠すカーテンが全て開いていることを確認してから、意を決したように翠を見上げた。
「翠くん、その……拙者、いてもいい? ……いない方がいい? ……でござるか?」
翠は俯いたまま返事をしなかった。
「その……色々、話さなきゃいけないことも、確かにあるんでござるけど。翠くんが無理したら、元も子もないでござるし」
腫れ物に触るかのような忍の優しい声色に、翠はだんだんと顔を歪めていった。苛立ち。情けなさ。見えないトンネルの出口を見つめ続けているような、どうしようもない、途方もない気持ち。あの日の鉄虎の表情がよみがえってきて、ようやくその心中を慮る。
今更理解できたって手遅れなのに。
「み、翠くん。あの――」
「わかってるよ」
吐き捨てるような自分の声。
きもちわるい。
「わかってる。わかってるんだ、助けにいかなきゃって……でも無理だ。もう無理だよ、俺なんか行ったところで何ができるっていうの? 忍くんは? みんなだって――ほんとは思ってるんじゃないの? もし、ほんとに“そう”ならさぁ……っ! できることなんかなんにもない! もう俺たち素人にどうこうできる問題じゃないんだ!」
息継ぎもろくにせず、翠はそう言い放つと、ゆっくりと崩れ落ちていって保健室のひんやりとした床に両膝をついた。
「……もっとはやく気付かなきゃいけなかったんだ」
ぺたん、と座り込んでうなだれる。
折れた首の後ろに蛍光灯の光が当たる。
力が抜けてしまい小刻みに震える両膝の上、暗く影を落とす。
「鬱で、死にたくなってからじゃ、遅いんだ。そんなの、そんなの俺がいちばん、分かってたはずなのに。こわいからって見ない振りして、黙ってそのままにして――……最低だ……俺やっぱりヒーローになんか、なれなかったんだ。もう……もうだめだ……一年間みんなに甘えてなんにもしてこなかったツケが回ってきたんだ、俺、俺は、鉄虎くんを……鉄虎くんを助けられないんだ!」
過呼吸のように荒々しくなっていく息の隙間に言葉をねじ込むようにして、最後の最後には力任せに叫んでいた。翠は堰を切ったように大声で泣き出した。窓の隙間から入ってきた風が、パステルカラーのカーテンをゆったりと揺らす。その穏やかさが、翠の悲壮さをいっそう濃く浮かび上がらせている。
「みどりくんの」
ぼうぼうと遠ざかる翠の耳に、忍の吸い込む息の音が響く。
「みどりくんのあほッ! 助けられなくても行くんでござろう!? 行ってどうにもならなくても……ひとりで放っとくより、ずっとずっとマシでござろうッ!」
頭上から降り注ぐ怒号に翠は思わず泣くのをやめて声の主を仰ぎ見た。忍は見たこともない形相で、真っ赤になった頬を膨らませ、また一度、大きく息を吸い込んだ。
「拙者だって何が出来るかなんてわかんない! いまさら――今更なんの力にもなれないかもしれない。でもじゃあ拙者がしたいことは無駄な努力でござるか? ただの意味ないおせっかいでござるか!? そうじゃないはずでござるッ! だって鉄虎くんは――」
ぴく、と小さな唇が痙攣した。
次第に震えは大きくなり、忍の大きな瞳から涙が一粒こぼれ落ちていった。
「鉄虎くん。ありがとうって言ってくれた。怖くて、テンパって、たすけてって泣いてただけの……ただ横で突っ立って、アホなこと言ってるだけのダメな拙者に……ありがとうって……」
濡れた頬をそのままに、小さく嗚咽を漏らすと、忍は目つきを鋭くさせた。
「だから意味なくなんかない。ゼロじゃないなら、それはちゃんと――ちゃんと誰かに届くんだから!」
小柄な躯体が、自分の図体よりもうんと大きく見えて、翠は何も言えなくなった。
強い子だ。
あの日、あの場所から逃げなかった人だ。
俺には眩しすぎて、やっぱり同じようになんてとても無理で、余計にうずくまって消えてしまいたくなる。
「……ごめんね。ほんとは拙者だって、翠くんに……偉そうなこと言える立場じゃ、ないでござるよ」
失��の色を深めていく翠に、忍はそう言うと弱々しくため息を吐き出し、ゆっくりとしゃがみ込んで、小さな膝を両腕で抱え込んだ。視線は合わなかった。忍は暗い瞳で淡いグリーンの床をじっと見つめると、膝をぎゅっと強く抱きしめて、そこに顔をうずめた。
「一人でいいやって、閉じこもって。怖くてずっと、避けてたこと、いっぱい……でもね。鉄虎くん、言ってたんでござる。……翠くんは、仲間のピンチを放っておくようなひとじゃないって。いいんでござるか? 何もできないって、諦めちゃうんでござるか? 翠くんは――ほんとのほんとにそれでいいんでござるか?」
たしなめるような、なじるような、それでいて暖かく包み込むような声で、忍が言った。
翠くんは。
それがどんな気持ちで放たれた言葉なのか、翠には分からない。
けれど。
「よく、ない」
それはどこか流れ星に願いをかけるような切実さを携えているように思えた。
脳裏によみがえる。笑った顔。困った顔。怒った顔。そして考える。
きっと知らない、それを言った時の複雑なまなざしのこと。
「よくない、よくない、ぃ……よくないよぉ――」
そんなの、直接本人に言えよ。
だなんて。
一体どの口で言えるんだろうと、自分の身勝手さを叱りつけながら、翠は震える喉を動かしてわんわん泣いた。あの子に願われた通りの自分でありたい。たとえもう手遅れでも。自分には荷が重いのだとしても。あの日、逃げないと誓った、ここにいたいと叫んだ自分に、やっぱりあれは嘘でしたなんてどうしても言いたくない。
「翠くん」
うん。
ぐずる喉を震わせて、頷き返す。
「力を貸してほしいでござる。拙者ひとりじゃ、ダメかもしれない。でもみんなとなら――仲間と一緒なら。それが、それでこそ、流星隊でござる。一緒になんとかするんでござる。仲間のピンチを救うんでござる」
すん、と鼻をすすって、忍は目元を拭った。
乱れた前髪の隙間から、金の瞳がふたつ覗いて、稲妻のように鋭く光った。
「拙者も翠くんも、ヒーローなんでござるから」
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四章 重力崩壊
「こっ、のぉ~! 落ちぶれ、貴族のっ、クセに! 生意気だぞ~!」
「そういう、ことは! 我々に! 勝ってから! 言ってもらいましょうか成金貴族!」
「むき~! テニスだったら絶対負けないのに~!」
「姫ちゃん落ち着くんだぜ~! 連携が崩れちゃうんだぜ!」
「今です春川くん! 攻めていきますよ!」
「HaHa~! みんなでバドミントン楽しいな~? 宙はとっても気に入りました!」
なんで、あんなに元気に動き回れるんだろう。
体育館の壁にもたれかかって、両膝を抱え込んだ翠は、目の前で走り回る同級生たちの姿にげっそりと肩を落とした。隙間から吹いてくる風は生ぬるく、湿気を帯びて翠の体力を奪い続ける。今年の梅雨明けは、例年より早い見込みです。連日流れるテレビのニュースに、うそつけ、と悪態をついた。朝から酷い濁り方を見せていた空は、雨こそ降らないものの、翠を心の底から憂鬱にさせた。
「ちょっと~暗い暗い! 暗いよ翠くん! そんなんじゃ幸せ逃げちゃうよ~?」
頭上から降ってきた底抜けに明るい声に、翠はあからさまに眉をひそめた。別に、逃げてもいいし。投げやりに答えると、ひなたは「ふーん」とどうでもよさそうに言って、翠の隣に腰をおろした。一人にしておいてほしかったのに。内心、そうは思ったものの、さすがにこのあと同じコートに立つ相方を邪険にするわけにもいかず、翠は座り込んだひなたのことを恨みがましくじっと見ていた。
「ずいぶん機嫌が悪そうだけど、どうしちゃったのさ。ライブは大成功だったって聞いたけど?」
「……誰にきいたの」
「忍くん。ま、聞いたのは俺じゃなくてゆうたくんだけどね!」
「あ、そう……」
そっけない翠の対応に、ひなたは動じなかった。
すごいお客さんだったらしいね。さっすが流星隊。一年生の子も堂々としてたって、話題になってるみたいだよ――会話するでもなく一方的に話し続けるひなたに、翠は辟易しきっていた。視線の先では、光のスマッシュが決まったのか、桃李と宙が嬉しそうに跳びはね、司だけが悔しそうに唇を曲げていた。
ライブが成功したというのは事実だった。
去年と同じ舞台。
遊園地でのヒーローショウ。
スーパーノヴァの再演。
「やりたいことがあったら、どんどん言ってほしいッス」
鉄虎の言葉に、後輩二人は目を輝かせて即答した。
勢いに圧倒されて、やや仰け反った鉄虎の背中を昨日のことのように思い出せる。実現させるためには、小さなことからコツコツと、ッス。まずはどうしても公園での定期的なヒーローショウとか、ゴミ拾いとか、そういうボランティア活動がメインになっちゃうッスけど。申し訳なさそうに告げた鉄虎に、二人は「やります」と嬉しそうに笑った。去年度の実績があるとはいえ、抜けた先代の穴は大きい。それを分かってか、望美も環も恐ろしく熱心にレッスンをこなし、どんな小さなライブにも手を抜かなかった。
「自分たちが入ったことで、流星隊の人気が落ちるなんてこと、あっちゃいけませんから」
普段あれほど気弱な環が、毅然とした表情でそう告げたのが、とどめだったように思う。
その日を境に鉄虎はあまり笑わなくなった。
昼休みも放課後も、隙を見ては企画書に赤ペンを引いて唸るような日々が続いた。外部の仕事を拾ってくるのは、翠たち三人が思っていたより遥かに困難だった。プロデュース科に頼ろうにも、あちらはあちらで新入生の育成に手一杯で、去年のように各ユニットのことを気にかけられる状態ではなくなっていた。かろうじて忍が生徒会経由で取ってきた仕事が成功したからよかったものの、鉄虎の表情は沈んだままだった。
――あのひとは、やっぱりヒーローだったんスね。
ぽつりとこぼれた言葉の意味が、最初、翠には分からなかった。疲れきった鉄虎の右手がスーパーノヴァと書かれた企画書の束を高々と掲げ、一年生が割れんばかりの歓声をあげたその時になって、ようやく理解した。あの真っ赤な背中はいつも、たった一人であちこちを飛び回り、そんな努力の形跡など微塵も見せずに、誰かの願いを叶えていったのだということ。そして、あれと同じ色を背負った重圧から、鉄虎は必死で駆けずり回っていたのだということ――
「鉄くんはさ」
心臓を掴まれたような悪寒が身体中に走る。
「大丈夫なのかな」
心を読まれたのかと思った。
血の気の引いた指先を握る。
隣を伺えば、ひなたの深いエメラルドの瞳が悩ましげに細められていた。
「……本人は大丈夫って、言ってるけど……」
「うーん。翠くんが相手でもそうか。困ったなあ。俺も友くんも、結構あの手この手で話しかけてるけど、大丈夫の一点張りだし。……なんとかしてあげたいんだけど。鉄くん、ちょっと頑張りすぎ。あんなんじゃそのうち倒れちゃうよね」
「……流石に、倒れるまで無茶しないとは思いたい……あんな分かりやすい反面教師がいたんだし……」
「反面教師がいるのとそれを自分に活かせるかどうかは別物だよ」
冷ややかな視線が、どこか遠くを見つめるように投げ出された。
ゾワ、と背中を嫌なものが駆けていく。
「ていうか、本気でそう思ってるんなら、ちょ~っとおめでたいんじゃないかな〜」
独り言のように呟くと、ひなたは今さっきまでの騒がしさが嘘のように黙ってしまった。
不穏な沈黙が、湿気と混ざり合って、ドロドロと質量を増していく。
「ひなちゃん! 交代な~!」
呼び声がして、翠もひなたも顔をあげた。
黄色い髪をふわふわと揺らしながら、宙が駆け寄ってくる。
「宙くん」
名前を呼び返しながら、ひなたが立ち上がった。ちょっと前までは苦手だと思っていたのに、今この場に限っては声をかけてくれて助かったとさえ思う。隣の不快な重圧が小さくなって消えたのを感じて、翠は身勝手にもほっとしていた。
コートの隅では、勝敗が決まったにも関わらず、桃李と司が睨み合いを続けていた。光の姿はそこにはなかった。代わりに遠くの方で、走るな天満、と教師の怒声が響いていた。
「おつかれ! アンドおめでと~! すっごい接戦だったね!」
「なかなか終わらなくて楽しかったな~? 次のゲームも今みたいにずーっと続いてほしいです! 宙はバドミントンが大好きになりました!」
「あはは、それはよかった。よーしじゃあ俺も頑張ってこよっかな! ぐんぐん勝ち上がって宙くんたちと当たりたいよね! 翠くん!」
「いや、俺に振らないで……ていうか勝手にやる気出されても困る――」
重い腰を上げてようやく立ち上がると、目線の高さに待ち受けていた形相に翠は息を飲んだ。
「ねえねえ、まっさかと思うけどさ~あ?」
この、時折見せる、辛辣な態度。
「鉄くんにも同じこと、言ってないよね」
薄々勘付いていた。だから近寄ってほしくなかった。
去年の今頃苛立ちと共にぶつけられた言葉が脳裏によぎる。俺、そんな子たちと一緒にやるの、嫌だな。オレンジ色の髪だけじゃなくて、きっと中身も似てるんだろう。翠は眉をひそめた。わざわざ嫌がることを分かった上で踏み込んでくる姿があの暑苦しい太陽の背中と重なって見えるところも、翠を不機嫌にさせた。
「……言わないよ」
爛々と見開かれた相貌を、睨み返すように見据えた。どうにも、今日の自分は酷く虫の居所が悪い。いつもだったらこんなことは絶対にしないはずだ。だって、余計に面倒なことになるに決まっている。そう思いながらも、翠は嫌悪感を隠せなかった。
「二人とも、どんより曇り空の灰色な~? 何か嫌なこと、あったんですか?」
肩の辺りで、小動物の耳のような黄色が、フワ、と揺れた。
驚いて見下ろせば、青とも緑ともつかない不思議な色の瞳が、空気の重さを打ち消すように輝いていた。翠が返事に窮した数秒の間に、ひなたは二度まばたきをして、いつもの明るさを取り戻していた。
「ううん! なーんにも!」
そう言って笑い、コートのほうへと駆けるひなたの背中を、翠は険のある表��で見送った。
なんにもないわけないじゃないか。下唇を噛んで、俯きがちに歩き出す。
「みどちゃん」
呼び止められて振り向いた。この子が自分の名前をこうして呼ぶのは、珍しい。なりゆきで何度か一緒に遊んだことはあっても、翠にとって宙は友達の友達で、特別親しい間柄というわけでもなかった。それでも宙の声に含まれる気遣いの色は本物だった。宙のように実際色が見えるわけではないが、それくらいのことは翠にも分かった。
「みどちゃん、大丈夫ですか? もう、ず~っと長い間、みどちゃんのまわりで色が濁って、みどちゃんの色が……よく見えないな?」
ううん、と片目をこすって、宙は不安そうに眉をよせた。
「……俺の色って、どんな、」
すがるようなか細い声だった。あまりの不甲斐なさに、消えてなくなってしまいたい、と思った。誰でもいいから助けてほしいと、心のどこかで考えている自分のことが、嫌で嫌でたまらなかった。同時に、不機嫌の理由を突きつけられたような気がして、翠の心はいっそう濁った。
単なる自己嫌悪じゃないか。
かっこわるい。
「普段のみどちゃんはもっと、お日さまの光をいっぱいに受けたみたいな、淡くて明るい葉っぱの色な~。でも……宙が灰色のぐるぐるじゃない時のみどちゃんを最後に見たの、もう随分前のことです」
「……元々、灰色なんじゃないかな……」
「そんなことはありません! それにみどちゃん、ステージに上がると時々、弾ける花火みたいにとってもカラフルになる瞬間があるな~! きっとモヤモヤに隠れて今は見えないだけです! だから、モヤモヤを吹き飛ばして、宙はまたみどちゃんの色と出会いたいな~? 何かお手伝いできますか?」
真剣に考え込んで小さく唸った宙の、鮮やかな黄色のつむじを見つめて、翠はもう一度唇を噛む。どうして、誰もがみんな、こんなに他人のために一生懸命なんだろう。自分のためにすらろくに動けない自分が、余計に惨めだ。黙ったままの翠の、うつろな視線の先で、ポンと軽快な音が鳴る。驚いて少し仰け反ると、宙はその小さな手のひらに、まっしろい鳩を一羽、乗せていた。
くる、くる。
あっけにとられる翠の顔を見上げて、鳩は小さく鳴いた。
かわいい。
けど、どこから?
呟いた翠に、宙はにっこりと笑った。そしてまたポンと煙を起こして、手の中のものを消してしまった。翠は目を丸くして、からっぽになった宙の、小さな手のひらを見つめていた。
「宙はまだ、ししょ~みたいに魔法が上手く使えません。大ししょ~みたいなマジックも難しいな~? でも願います! みどちゃんの色がキラキラの、本当の色になるように!」
ぱちん、と鳴らした宙の指先に輝くネオンのような光に、翠は目を瞬かせた。
なにかの見間違いかな。
数回のまばたきのあと、その光は跡形もなく消えてしまった。
「みどちゃん」
いってらっしゃい。
見送りの挨拶に、はっと我に返って顔を上げると、コートの向こうでひなたが大きく手招きをしていた。
「うん……ありがとう、春川くん」
駆け出した両足は、不思議と少し軽くなっていた。それが魔法だというのなら、翠は宙のことを立派な魔法使いだと思う。
でも、もし本当に魔法が、あるのなら。
「どーしったのっ? 翠くん。宙くん、手品でも見せてくれた?」
いつも通りの朗らかな笑みを携えて、ひなたがラケットを投げてよこした。
慌てて受け止めながら、うん、とぎこちなく返事をする。
「そっか。……よかった」
穏やかにそう言って、ひなたはコートの中央線をまたいでいった。さっきまでの淀んだ空気は、綺麗さっぱりなくなっていた。不思議だ。ラケットのグリップを握り直しながら、翠も自分の位置についた。
本当に魔法があるのなら。
それをかけてあげたいのは、もっと。
俺なんかじゃなくて。
脳裏にちらつく黒いえりあし。その項垂れた首が、疲弊した背中が、同じように少しでも軽くなればいいのにと、願わずにはいられなかった。ピィ、と吹き鳴らされたスタートの合図に、翠は深々と息を吐き出した。
★
「あれっ? 嵐ちゃん先輩なんだぜ?」
教室のドアの前に佇む人影を見て、光が駆け出した。あいつ、元気すぎ。汗だくの桃李がげんなりと眉間にしわを刻む。一ヶ月ほど前までは甲斐甲斐しく注意を飛ばしていた桃李だったが、全く聞く耳を持たないのでとうとう諦めたらしい。
「あらしちゃーんせーんぱーい」
大声で叫びながら手を振る光に、嵐は顔を上げて、あら、と口元を押さえた。
「やァだ、体育だったのねェ。道理で誰もいないはずだわ」
「うん! さっきまでバドミントンしてたんだぜっ! グランドがぐちゃぐちゃだからって、最近ずっと体育館にぎゅうぎゅう詰めで、オレすっごく窮屈だったんだぜ~」
「そうよね、最近雨ばっかりでなかなか外を走れないもの。アタシも思った以上にストレスだわ」
「きっとアドちゃん先輩に聞いてもおんなじこと言うんだぜ! アドちゃん先輩も絶対、広いとこのほうが好きだもん! やっぱり世界は広いほうがいいんだぜっ!」
「ウフフ。また随分と話が大きくなったわねェ。アタシは別に体育館でも言うほど困らないけど……あっ! あらヤダ司ちゃん!」
ぞろぞろと教室へ入っていく集団を、嵐が慌てた様子で呼び止める。ちょうど廊下から教室へと踏み込んだばかりの司が、つんのめって半回転した。邪魔ぁ、と桃李が低く吐き捨てたが、幸い司の耳には届いていないようだった。
「はい、鳴上先輩! 司でしたらこちらに!」
「危ないところだったわァ、司ちゃんに用があったのよアタシ。今日の練習なんだけどね、訳あって押さえてた場所を他に譲ることになったの。申し訳ないんだけど、放課後はスタジオの方に来てくれるかしら?」
「承知致しました、ではそちらへお伺いします。……しかし、わざわざお立ち寄りくださるとは。この程度のこと、Mailして頂ければ結構ですのに……」
不思議そうに小首を傾げる司を、ぼんやりと眺めたあと、嵐は教室のドアからわずかに中を伺って、小さく息をついた。
「……どうかなさいました?」
「鉄虎クン、は……そうね。このクラスじゃないものね」
「ええ。彼はA組です。何かご用でも?」
「用って程でもないんだけど……ちょっとだけ、ね。急に心配になっちゃったの。……思い詰めてるカンジだったらフォローしてあげたかったんだけど」
「そう――でしたか」
ほんの少し、察したように表情を曇らせて、司が相槌を打つ。
「鉄ちゃん、どうかしたの?」
きょとんと目を丸くさせて、光が嵐と司を交互に見た。
言い淀んだ司の横で、嵐は「なんでもないわ」と微笑んだ。
「アタシの杞憂で済むんなら、それに越したことはないのよ」
付け足された祈りのような言葉に、司も静かに頷いた。
「それじゃ司ちゃん、放課後にね」
「……はい。また後ほど!」
「光ちゃんもあんまり変なとこ走っちゃダメよォ? 椚センセに叱られちゃうから」
「ええ~? うーん、分かったんだぜ~……」
光がしぶしぶ返事をすると、嵐は「ホントに分かったのかしら」と困ったように眉尻を下げて笑った。駆け足で教室に戻っていく光と、軽く会釈をした司に、嵐もひらりと右手を振って歩き出す。
「あっ、あの」
それは予想外のことだったのだと思う。
呼び止められた嵐は、訝しげな表情でゆっくりと振り向いた。
そして声の主を捉えると、納得したように「あぁ」と頷いた。さほど面識があるわけではなかったが、顔くらいは覚えられていたのだろう。どうも、と首をすくめて、翠は胃のあたりで両手を組んだ。
「その、鉄虎くん……何か言ってました、か――」
――やっぱりやめておけばよかった。
みるみるうちに後悔したのは、嵐の長いまつげがぴんと伸びて、次第に怒りを滲ませ始めたからだった。
「あのねェ」
凄みの利いた低音が、翠の鼓膜をふるわせる。
飲み込んだ息が、ヒ、と悲鳴のように鳴った。
「聞きたいのはアタシの方だわ。あの子、一体どうしちゃったっていうの? ちょっと見ない間にこわァい顔になっちゃって……似合わないったらないわ。眉間にシワの寄ったアイドルなんて泉ちゃんだけで充分よ、全く」
一歩、また一歩と嵐が詰め寄ってきて、翠は大きく後ずさった。捲し立てられた言葉が、ぐるぐると頭の中を駆けめぐる。ぎゅっと握った体操服の裾。廊下の隅に落ちた視線。嵐はくの字に折れた翠の体を一瞥して、ため息まじりに前髪をかきあげた。
「アナタ、同じユニットでしょうに。アタシに声をかけるだけの勇気があるんならね、ちゃんと本人を気にかけてあげなさいな」
冷ややかな声だった。
勇気を出したつもりで、一番肝心なところから逃げた卑怯者。そうなじられたようで、ぐわん、と頭の後ろが痛んだ。やっぱりやめておけばよかった。再び後悔がわいてきて、目頭に滲む。
いつもこうじゃないか。
中途半端になにかして、なにかした気になって、安心したいだけ。
本当にやるべきことは、別にあるのに。
分かっているのに。
「……ごめんなさい。流石にちょっと、言い過ぎだわ」
顔を上げてくれる?
ほんの少しやわらいだ口調に、翠は恐る恐る、目だけを向けた。絡んだ視線の先、淡い紫の瞳。何度かの瞬きのあと、悔やむように眉をさげて、嵐は息を吐き出した。
「あぁ、やだ、これじゃただの弱い者いじめじゃない。カッコ悪い。そうよね、自分の不甲斐なさを棚に上げて、偉そうなこと言えた義理じゃないわよね。でもどうしても見過ごせなかったのよ、アタシ。アナタには分からないかもしれないけど……人がボロボロに崩れ落ちる瞬間なんて、本当にあっという間なんだから」
渋い表情のまま一息にそう言うと、嵐は目を細め、ぼんやりと虚空を見つめた。
「崩れ落ちたあと、元に戻る保障もないのにね。……残酷な世界よねェ」
ゾ、と背筋が凍る。
粟立った両腕を、反射的にさすった。
嵐は、頬に片手を添えて大きくため息を落とした。
「そろそろ、着替えないといけないわよね。授業が始まっちゃう。……鉄虎クンには、アタシからも声をかけてみるわ。お互い勇気を出しましょ、“翠クン”」
え、と弾かれたように顔を上げる。名前。翠がそう呟くと、嵐はやわらかく微笑んだ。
「あの子がそう呼ぶから、ついね。イヤだったかしら?」
いえ、別に。ゆっくりと首を横に振ると、嵐は満足そうにもう一度笑って、じゃあね、と身を翻した。翠はしばらくそこに立ち尽くしていた。翠クン。翠くん。頭の中で、呼ぶ声を思い出そうとして、急に恐ろしくなった。一緒になって浮かんでくる表情の中に、笑顔が見つからない。翠くん。みどりくん。最近、呼んでくれることさえ少なくなった。行きと帰りの重たい沈黙。また明日。呟くとき、頬に落ちる、暗い陰。
「高峯くん」
「ひっ」
大きく肩を震わせて振り向くと、そこにはぎょっと目を見開いた司が立っていた。
胸元にはきちんと結ばれた、青のネクタイ。
「す、すみません。驚かせてしまったようで」
「いや、俺も、すごい声出しちゃって……びっくりしたよね……?」
「ふふ。少々驚きましたが、お気になさらず。それより高峯くん、ご無事でしたか?」
「ぶ、無事って、何が……」
「いえ……鳴上先輩は、普段はお優しい方なのですが、ひとたびお怒りになるとそれはそれは恐ろしい形相でこちらへ詰め寄っていらっしゃいますので……」
我が身のことのようにぞっとする司の表情に、翠は少し驚いた。
「……朱桜くんが怒られることなんかあるの」
この品行方正で、完璧にも思える小さな王様が。
不思議に思って尋ねると、司は普段の凛々しさから一転して、恥ずかしそうに頬をかいた。
「私もPerfectではありませんから。人としても、Leaderとしても、まだまだ未熟者です。ご指導頂くことの方が多いですよ。……意外でしたか?」
うん、と素直に頷いた翠に、司はもう一度照れたように笑った。先日も、後輩と激しい口論になって、先輩方に叱られたばかりでして。続く言葉に、ぽかんと口が開く。
「誰しも、Perfectな人間にはなれないものですね。……私も認められるようになったのは、つい最近のことですが。叱られて、Supportして頂いて、それが悪いことではないのだと思えてからは随分楽になりました。なにせ先代がああですから私の失態など可愛いものです。あそこまでFreedomに生きるのは命じられても困難というもの……ああいえ、すみません、これは余計な話でした」
照れ隠しなのか、ただの愚痴なのか、司は一息にそう言うと、口元に手をやって咳払いした。
なんだか、ただの同級生みたいだ。
間抜けな感想を抱きながら、翠はまばたきを繰り返した。
戦場で戦う背中しか知らなかった。遠い世界の人間だと勝手に思い込んでいた。完璧な人間なんかいない。いつかの赤い炎が、目の奥によみがえる。
それでいいんだと、あんたも言っていたっけ――
「……彼も、あまり思い詰めないといいのですが」
は、と我に返る。見下ろした司は浮かない表情で眉をひそめていた。胸のあたりがぞわぞわしてきて、翠はきつく両手を組み直す。戻りましょう。司が促したちょうどその時、チャイムが響いた。少しして入���てきた教師は、体操着のままの翠を見て意外そうな顔をしていた。あと一時間。掛け時計の短針を静かに見つめながら、翠は小さく身を縮ませていた。
★
「それじゃあ俺、鍵取りに行ってくるッス――」
教室から勢いよく飛び出してきた鉄虎は、廊下へ降り立ってぴたりと動きを止めた。
むぎゅ。忍がぶつかったのか、後方で潰れたような悲鳴があがる。
「お、お疲れ……」
かすれた声で言って、翠は鞄のひもを握り締めた。お疲れッス。返事をしながらも、鉄虎の目は不思議なものを見つめるようにきょとんとしていた。
「あれっ? どうしたんでござるか? 今日部活でござろう」
「うん、今から行く……けど……」
鉄虎の肩の向こうから、背伸びした忍のまるい頭がのぞく。煮え切らない語尾に、鉄虎はゆっくりと眉をひそめた。部活、遅れるッスよ。生真面目な、硬い声が飛んでくる。うん、とまたひとつ頷き返して、翠は縮こまった。忍は不安そうに、翠と鉄虎の表情を伺っていた。
「な、鳴上先輩が」
呻くような、苦しい声だった。鉄虎は少し目を見開いた。
「心配、してた。……鉄虎くんのこと……」
また。逃げる。
頭のうしろが、ズキ、と痛んだ。
数秒の沈黙があった。拙者、鍵、取ってくるね。囁くように忍が言って、そうっと鉄虎の背中に触れる。鉄虎が返事をする前に、忍は音もなく廊下を駆けていった。ぼう、とその背中を見送りながら、鉄虎も静かに呟いた。鳴上先輩。
「……いつの話ッスか?」
「さっき……五限のあと、たまたま会って」
「先輩、なんて」
「……最近。顔がこわい、って」
かお。
繰り返して、ぺたり、と頬に手をやる。
自覚すらなかったのかと、再び悪寒が走った。アタシに話しかける勇気があるのなら。よみがえった叱咤の言葉に、強く、強く両手を握りしめる。
「てっ……鉄虎くんは、その……大丈夫なの?」
絞り出したそれが、翠にとっての精一杯だった。ばくばくと鳴る心臓を必死で押さえつけながら、沈黙に耐える。なにか、誰か、何か言って。祈るように一度目をつぶり、思い切って顔を上げた瞬間、翠はまた静かに後悔するのだった。
「大丈夫ってなんスか」
低い声。
寄せられた眉。
不服そうに曲げられた唇。
「な、んで怒るの……」
「別に怒ってないッス」
「だから、顔、怖いんだって……」
「元々こういう顔ッスよ。で、何が大丈夫じゃないんスか」
「そうは言ってないじゃん……ただ、その……ちょっと頑張りすぎなんじゃないかって、思っただけで……」
一時間前、体育館で聞いた台詞をなぞり返す。
言いたいことはもっとある。このところ減った口数のこと。目の下のなくならない隈。
「大丈夫ッスよ」
それを誤魔化そうとする、不自然なほどの明るい声。
「俺、頑丈ッスからね! ちょっと頑張りすぎるくらいがちょうどいいッス!」
「頑丈なのは、まあ、そうかもしれないけどさ……あんまり根詰めすぎてもよくないっていうか……照明案、帰ったあともやってるんでしょ?」
「だって、やんなきゃ終わんないッスから。さっさとやっつけて、一日も早くレッスンに入らないと。間に合わないッス。去年なんか散々だったじゃないッスか。あんなのは御免ッスよ、もう」
鋭い声で言い放った鉄虎の瞳は、去年の今頃のようにわずかに血走っていた。ステージ上での成功よりも、練習の出鼻をくじかれた苦い記憶のほうが強いのだろう。
「今年こそ、ちゃんと成功させるッス。休んでる暇なんかないんスよ」
あの時感じた焦燥と危うさだ。
とめなきゃ。
「でも……でもさぁ。それでもし、鉄虎くんが倒れちゃったりでもしたら俺たち」
「倒れないッスよ!」
翠��言葉を遮って力の限りに吼えると、鉄虎ははっと顔をあげて息を飲んだ。
「……ごめん。ごめんね。大声なんか出して。びっくりさせちゃって……翠くん、もうそろそろ、行かないとじゃないッスか? 部活、ちゃんと出ないと、ダメッスよ」
ぎこちない笑顔で笑いかけてくる鉄虎に、翠はもう何も言えなかった。
振り絞った勇気は粉々に散ってしまった。これ以上は、踏み込めない。
「俺、忍くんと、待ってるから。……また、あとでね」
無言で頷き返すと、鉄虎は申し訳なさそうに眉尻をさげたまま、廊下を駆けていった。翠も萎縮した体をなんとか動かして歩き出す。鉛のように重たい足だった。本当はもう何もする気にならなかったし、このまま家に帰って寝てしまいたかった。けれど、頭の中でガンガンと鳴り響く鉄虎の声が、翠を立ち止まらせてはくれなかった。待ってるから。その言葉を置き去りにして帰るなんて、できない。滑り落ちてくる涙を手の甲でぬぐいながら、翠は歩き続けた。
遅れて体育館に入ってきた翠を見て、真緒は驚いたように目を見開いた。
そしてすぐに真剣な表情になって、声を潜めた。
「今日は帰るか? 高峯」
問いかけに、帰れません、と首を振る。
渋い顔をした真緒は、分かった、とだけ言って翠の肩をぽんと叩いた。翠の動きはいつも以上に酷い有り様だった。それでも翠は懸命にボールを追った。途中、とげのある声で叱咤を飛ばしていたスバルも、次第にその必死さに口をつぐんだようだった。気付けば時間は過ぎて、真緒が終了の号令をかけていた。
「タカミン、しゃがんで」
その言葉に翠が反応する前に、スバルは器用に背伸びして、翠の頭をぐしゃぐしゃと撫でていった。驚いて固まっていると、「みんな帰るぞ~」と真緒の声がした。荒い呼吸を整えながら時計を見やる。行かなきゃ。大きく深呼吸をして、翠は歩き出した。
ごめん 先帰る
着替え終わって携帯を開くと、予想もしなかった一文が液晶の上部に浮かんでいた。受信したのは一時間ほど前のこと。一体、何が。戸惑いながら画面をなぞると、その数分後にもう一通、メッセージが送られていた。
部活が終わり次第、至急AV室に来られたし。
いつもはかわいいと感じるカエルのユーザーアイコンが、今日ばかりは不吉なものに見えて仕方なかった。いま行く。返信を打ちながら、慌てて部室を飛び出した。
「おっ、おいっ! どうした高峯!」
尋ねた真緒の声は、翠の耳には届かなかった。
★
「し、忍くんっ……」
飛び込んだ視聴覚室で、ぽつんと座る忍は、翠の顔を見るなり椅子から飛び上がった。
「翠くんっ! おつかれでござる!」
「うんお疲れ、鉄虎くんは――」
ぜえぜえと短く息を吐きながら、翠は部屋を見渡した。
いない。
携帯の画面を見た時から分かっていたはずなのに、自分の目で確かめてようやく実感が湧いてきた。いない。鉄虎くんがいない。先帰る。頭の中でぐるぐると文字が躍る。不気味なほどに真っ赤な西日が強く目の奥に差し込んで、酔いそうで、気持ち悪い。
「それが……鉄虎くん、一時間くらい前に、なんかぼーっとするって言い出して……熱でもあるんじゃないかって、保健室に行かせたんでござるけど……」
そのあとすぐ佐賀美先生が来て、先に帰らせるぞって、鞄とか、持っていっちゃったんでござるよ。詳しいことは、拙者にもよく。風邪とかござろうか。心配でござる。やっぱり疲れが溜まってたんでござるな――
説明しながら忍は鞄に荷物を詰め込んで、翠のもとへと駆け寄ってきた。翠は、忍の声を聞きながら呆然としていた。
「……帰る、でござろう? 翠くん」
忍が、不安げに眉を寄せ、翠の腕をつつく。
「――うん」
返事をしながらも、翠はがらんとした視聴覚室を、しばらくじっと見つめていた。
そこから先のことは、あまり覚えがない。気付いたらもう家で、夕飯を食べ終えて、布団の上に横たわっていた。酷く疲れていて、目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだった。今の翠にとっては都合がよかった。このまま起きていたら、嫌な予感が身体中を埋め尽くして、はち切れてしまいそうだ。ゆっくりと呼吸をして、布団を頭までかぶり直す。どうか、俺のろくでもない予感が、的はずれでありますように――眠る間際の切実な願いは、叶わなかった。
翌朝鉄虎は翠を迎えにこなかった。
次の日も、そのまた次の日も、こなかった。
梅雨はすっかり明けてしまった。晴れ渡る空の下、ひとりきりで歩く商店街はあまりにいつも通りで、翠は途方に暮れてしまった。
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三章 青と黒と、赤くないつま先
「おはようッス」
「……おはよう」
ぴん、と背筋を伸ばして、今日も鉄虎は翠を迎え入れた。
「きれいなりんごッスね」
昨日仕入れたばかりの真っ赤な球体に、鉄虎の視線が落ちる。その頬は、逆光で薄暗い。
「これ、きれいだよね。……なかなか見かけないんだけどね、この時期にりんごって」
「そうなんスか?」
「うん。ほんとは旬が三月までだから……でもこれは、七月くらいまでおいしいやつ」
「へえ、物知りッスねー」
鉄虎は感心したように声をあげて、少し腰を屈めた。艶やかなりんごが、琥珀色の瞳に映り込んで、赤みを増している。しばらく眺めてから、鉄虎は体を起こして「行こっか」と翠を見た。翠が頷いて、二人揃って煉瓦道に出る。眩しさに、翠は目を細めた。いい天気ッスよね、今日。特に返事を求めるでもなく、鉄虎はそう呟くと、ゆっくりと右足から歩き出した。
「緊張してるッスか?」
翠が肩を上下させると、鉄虎はじっと翠の青い目を見上げてきた。数日前、寝不足でしぼんでいた琥珀色は、いまだに生気を取り戻していないように見えた。
「……俺、ここんとこ、緊張してない日がないんだけど……」
「はは、そんなにッスか」
「生きてる心地がしないよ……元々そんなになかったのが余計……」
「まあまあ。たぶん、今日が山場ッスから。気合い入れて乗り切るッス、ほら、翠くん背中!」
扉をノックするかのような動きで、背骨の辺りを小突いてくる鉄虎に、翠は小��く悲鳴を上げた。思わず伸ばした背筋。桜の枝が、今日も近い。
「猫背になってるとナメられちゃうッスよ」
目の下に細かいしわを作りながらギュッと笑って、鉄虎は歩みを早めた。遠くから、鉄虎くーん、と忍の声がする。おはよッス。叫び返す鉄虎の隣で、翠はぎくしゃくと自分の背骨をなぞっていた。
その日、放課後を迎えるまでの時間が、途方もなく長く感じた。
他の二人も同じだったのか、終礼後に廊下へ出ると、ぐったりした様子の鉄虎と忍が、おつかれ、と声をかけてきた。
「はあ、いよいよでござるな……」
「……口からなんか出そう」
「頑張って押し戻すッス」
「むりいわないで……」
胃のあたりをさすりながら、翠は歩き出した二人のあとを追った。ぎこちなく先を行く忍に対して、鉄虎の足取りは確かだった。黒いつむじから、読み取れることは何もない。いつも通りなのか、いつも通りを装っているだけなのか、翠は判別できなかった。なんでもいいから、早く終わってほしいな。ただ強くそう思っていた。目の前を行く小さな背中は、誰かの希望も絶望も、何もかも背負い込んでしまう。重さに耐えかねて、いつか潰れてしまうかもしれない。
そうなる前に、早く。
薄情なことを考えている自覚はあった。けれど翠にとって、それは見ず知らずの後輩の一喜一憂よりも、ずっとずっと大事なことだった。
「開けるッスよ」
扉の前に立つ鉄虎の、真剣なまなざしに、翠の想いはいっそう強まった。ぎゅっと唇を一直線に結んだ忍が、小さく二度頷いて、翠を見た。翠も静かに頷き返した。じゃあ、行くッス。手にかけたドアノブを、力一杯押して、鉄虎は部屋へと入っていった。忍と翠も、あとに続いた。
「あっ。お疲れ様です!」
一番手前に座っていた長身痩躯の一年生が、鉄虎たちを見るなり、はきはきと声を張り上げて立ち上がった。驚いて三人一斉に立ち止まると、その一人の挨拶を皮切りに、パイプ椅子に腰掛けた一年生たちは続々と立ち上がり、お疲れ様です、お疲れ様です、と声をあげていく。ひえ。忍のか細い悲鳴が、鉄虎と翠の耳にだけ届いた。
「え、ええと……お疲れ様ッ……で、です」
固い声で挨拶を返して、鉄虎が瞬きを繰り返す。
「あ、いや。いやいや。みんな、座ってくれていいッス。押忍」
ふー、と長い息を吐いて、鉄虎が両手のひらを下へと向ける。一年生たちが、ゆっくりと腰をおろしていく様を見届けると、鉄虎もようやく歩き出した。その後ろに隠れるようにして忍が続き、隠れたくても隠れきれない翠は、肩をすぼめて俯きがちに歩いた。用意しておいた長机にたどり着き、パイプ椅子の背を引く。正面にずらりと並んだ一年生のことを、翠は直視できなかった。三人分にコピーしておいた志願書の束を、ぎゅっと掴んで下を向く。
「あぁっ?」
突然、真横から飛び出した声に、翠は思わず身を震わせた。
そっと横目で伺えば、鉄虎が目を丸くして、向かい側を見つめている。
「な、なに?」
「どうしたんでござるか?」
「いや……翠くん、あの子」
顎で示された方向に目をやって、翠は息を飲んだ。鉄虎たちの視線に気付いてか、左から二番目に並ぶ小柄な一年生は、肩を強張らせて俯いてしまった。
レッド。
鉄虎に向かって、そう叫んだ人物だった。
あの子、流星隊の志願者だったのか。道理で。
深々と納得しながら、翠はコピー用紙の束を鉄虎へ手渡した。二束のうち一束を隣の忍に配ると、鉄虎は再び眼前を一望した。
「あー、と……それじゃあ、揃ってるみたい、なので。始めたいと、思います」
動揺しながらも、用意した進行表を読み上げる鉄虎に、忍も翠も姿勢を正した。並んだ一年生たちも、伸ばしていた背筋を更にぴんと張った。
改めまして、流星隊隊長、南雲鉄虎です。よろしくお願いします。
慣れない丁寧語で文章を読み上げる鉄虎を、忍と翠は静かに見守った。
メールでお伝えした通り、今回が最終選考です。悔いのないように、全力で臨んでください。ええと、それでは、始めます。まずは、お名前を。それから、メールにてあらかじめお送りさせて頂きました質問に、お答えください。ここまで何かありますか。……ありませんか。それじゃ、一番左端――あ、俺たちから見て、左なんで、そちら側の方から順番に――お願いします。
言い終えて、鉄虎が小さく一息つくと、先程真っ先に挨拶をした背の高い一年生が、「はい!」と威勢よく返事をした。
答えてもらう内容は、三点。希望するカラー。流星隊を希望したきっかけ。そして。
流星隊に入ったら、どんなことをしたいか。
「一年B組、磯貝望美です! 希望のボウに美しいと書いて、ノゾミです。流星ブルーを志望しました。高峯先輩や深海奏汰さんのような、一点、突き抜けた個性を身にまといつつ、クールで格好良いヒーローを目指したいと思っています!」
忍が「ングッ」と噴き出すのを堪え、間髪入れず鉄虎が肘で小突いた。翠は全身を硬直させていた。早く。早く終わってしまえ、こんなもの。冷や汗をかきながら、両手をもぞもぞと膝の上で動かす。
「格好良さだけなら他のユニットでもいいはずッ……ですけど。なん、どうして流星隊に?」
望美、と名乗った一年生は、きょとんと切れ長の目を見開いた。他のユニット。そんなことそもそも考えたこともない、とでも言いたげな表情だった。望美は考えを巡らせるように、斜め下に視線を向けると、数秒して、滑らかに話し始めた。
「流星隊って。一等賞じゃなくても、格好良いんです」
激しく主張するような声色ではなかった。それはどちらかといえば独り言のようであり、話すことで、自分の中の考えを整理するような類いのものだった。
「勝ち負けで決まる強さって、記録には残りますけど……あっという間に忘れ去られるんです。その時だけもてはやされて、食い散らかされて、それっきりです。誰かの心に、ずっと残り続けるって、本当にすごく、難しい」
淡々とした口調で望美は続けた。視線はどこか遠い世界を見ているかのようだった。
「でも流星隊は、それをやってのける格好良さなんです」
その目が突然、強い光と熱を帯びて、翠たち三人を射抜いた。
三人とも、揃って小さく息を飲んだ。
「その場その時だけで消費されるような、一過性のものじゃない。ずっとそこに在る。……空の青とか。そういうものです。誰でも無限大に、鮮やかに変身できる。それを信じられる。高く高くどこまでもこの空を飛んでいきたい。そんな憧れを、夢見る気持ちをくれるのが流星隊だと思っています。誰かの心に一生涯、強く残り続ける。その人が、その人の道を走っていくためのパワーに、エンジンになり続ける。そういうものに僕はなりたい。だからです」
明瞭になった意志を、強くなぞるような、力のこもった声だった。数秒、圧倒されて、無言が横たわる。最初に息を大きく吸ったのは、鉄虎だった。
「……っと、ありがとう、ございます。どうぞ着席してください。ええと、じゃあ……次の方」
絞り出すようにそう言うと、隣に並んだ一年生が、反射で肩を震わせた。ずいぶんと小柄に見えるが、恐らく背丈は鉄虎と同じくらいだろう。はい、と弱々しく返事をする、俯きがちな表情を覗き込むようにして、鉄虎は少し、前のめりになった。
「一年A組、平良環です。え、と……環状線の、かん、と書いて、たまき、です。ブラック志望、です……よろしくお願いします」
先ほどの自己紹介にならってか、漢字の説明をその場で加える。一拍、間があいて、大きく息を吐く音がした。翠は、膝に置いた両手のひらに、キリキリと力を込めた。目の前の緊張はあまりに膨大で、空気を伝って翠の呼吸を詰まらせた。
「卒業なさった、守沢千秋さんや、南雲隊長のようなヒーローに、自分もなりたくて……入隊を希望、しました」
鉄虎の下まぶたが、わずかに動く。
「俺、あ、や、ぼく。ぼくは。流星隊に、なったら――」
次第に、視線が床へと落ちていく。細くなって、ついに消えてしまった少し低めの声に、鉄虎や忍だけでなく、すでに自己紹介を終えた隣の望美までもが、酷く心配そうな目で環のことを見た。注目を集めたことに気付いてか、環は一層、体を強張らせた。沈黙は長かった。あぁ、今、頭真っ白だろうな。固まってしまった一年生と、いつかの自分が重��って、翠は無性に恥ずかしくなった。今すぐ消えてしまいたいだろうな。出ない言葉。動かせない手足。他のみんなは出来るのに、なんで俺だけ――
「なんで、ブラックを選んだんスか?」
瞬間、温度が下がったようだった。
「答えてほしいッス。なりたいのは、ブルーじゃなくて、ブラックなんスよね。なんでそう思ったんスか」
語尾を濁そうともしなくなった鉄虎に、翠は、恐る恐る目だけを動かした。忍も同じように鉄虎を盗み見ていた。鉄虎は険しい表情をしていた。二人は横たわった空気の重さに耐えながら、静かにそれを見守っていた。どくん、と、それぞれの耳の奥で鼓動がこだましている。忍も翠も勘づいていた。鉄虎だけが、無意識だった。
その険しさは、決して怒りや苛立ちからくるものではなかった。
目の前で揺らぐ小さな炎に、風を送るかのような、同時に、一歩間違えたら吹き消してしまうんじゃないかと案じるかのような、真剣なまなざしだった。鋭い眼光の裏側に、答え合わせを待つような祈りがにじむ。翠は、そのざわついた祈りを、隣で強く感じ取っていた。
誰かに「これ」と割り当てられたわけでもない。選択肢はもう一つあった。
それでもこの子は自分で選んだ。どうしても理由を聞きたかった。
なんで、なんでわざわざブラックに――
「こく、てん、の」
絞り出された声に、鉄虎が身を乗り出す。
「黒点の、熱。なので。ブラックは。それに、憧れて。それに、なろうって、自分も……なりたい自分を、あ、諦めたく、なくて! です!」
低く、唸るような声が、小さく見える体の奥から発せられた。
「太陽は、無理でも。せめて、その一部になら、なれるんだって。人は誰でもなりたい何かに変身できるって……それを自分は、流星隊に、南雲隊長に、教えてもらいました。なのに最初から諦めてしまったら……流星隊から貰ったもの、全部、駄目にしてしまう、だから」
泣き出しそうな瞳の奥が、揺らいで見えた。
涙ではなかった。鉄虎も忍も、そしても翠も、その瞬間に確信した。
炎だ。
「……流星隊になったら。昨年、スーパーノヴァのステージで、守沢さんが言ったことを、自分も誰かに届けたいです。生きる気持ちを肯定してくれる、ヒーローになりたいです。自分も誰かに、“生きてていいんだ”って、ひとりでもいいから、届けたいです。南雲隊長のあとに続いて――俺も太陽の一部になりたい、ので、だからどうしても」
気付くと翠は、両手をきつく握っていた。顔などあげていられなかった。隣で鉄虎が、忍が、まっすぐに炎の色を見据えている。それはきっと、あの人によく似ているのだろう。翠は下唇を噛み締めた。
「どうしてもブラックが、いい、と、その……思いました……すいません。ありがとうございました」
以上です。
そう言うと彼は、身を縮ませて俯いてしまった。
「……ありがとう、ございました。着席してください。……次の方。どうぞ」
鉄虎が促し、隣の一年生が、やや緊張した面持ちではきはきと名前を述べる。その声をぼんやりと聞きながら、翠は立ち込める空気の重さを全身に感じていた。そのあと何人もの一年生が、熱っぽく想いを語った。けれど全く頭に入ってこなかった。同じように俯いたままであろう、ひとりの一年生のことで、いっぱいだった。
鉄虎と忍は、何度か相槌を打ちながら、目の端でお互いを捉えていた。翠だけは、強く手を握りしめたまま、最後まで、顔をあげられなかった。
★
「率直に、思ったままを答えるッスよ」
いいッスね。
腕組みをした鉄虎が神妙な面持ちで二人の顔を見回した。忍も翠も、重々しく頷き返す。うん、と最後に鉄虎も頷いて、机の上に一枚ずつ広げたA4サイズの書類をじっと見下ろした。
「じゃあ、せーので。まずはブルーから。……せーのっ」
三つの指が、掛け声に合わせ、ぴたりと一点を指し示した。ごくり。忍の小さな喉が鳴る。
鉄虎は少し顔を上げて、深々と息を吐き出した。
「じゃあ、次ッス。……せーのっ!」
さっきよりも、力のこもった声だった。
突き出された人差し指の、つめの先を、全員でじっと見つめる。
数秒して、その視線は互いの両目を伺うように、ゆっくりと左右に動いた。
「は……はあ~! よかった! よかったでござる!」
「おぉぉ……満場一致……スね。なんか、そんな気はしてたッスけど」
「やっぱりふたりとも、拙者とおんなじこと思ってたんでござるな……あ~! よかった~!」
緊張感から解き放たれて、忍が机の上に突っ伏した。翠も、とめていた息を、思い切り吐き出す。よかった。ここで意見が割れたらどうしようかと思った。
「じゃあ、連絡入れないといけないッスね」
「そうでござるな! さっそく文面を考えるでござるよ!」
「忍くん突然元気になってない……?」
「いや~だって拙者、もう、楽しみで楽しみで!」
赤らんだ頬に手を当てて、忍が笑った。
明るくなった空気を吸い込んで、翠のからだも温度を取り戻していく。
「今年は拙者たち三人だけでも頑張って行かねば~などと。正直、思っていたんでござる。それがこんなに早く、新しい仲間に出会えるなんて……拙者本当に、嬉しいんでござるよ」
こうして忍が周りを省みずに喜びを弾けさせるのは、うんと久しぶりのことだった。普段通りでなかったのは、鉄虎と翠だけではなかった。忍もまた、この息が詰まるような数日を、なんとか堪えていたのだろう。喋り始めた忍は、このところの鬱憤を晴らすように、次から次へと言葉を並べた。
「前のブルーがアレ過ぎてアレでござるけど、戦隊モノのブルーといえばクールなかっこいい系でござるし! これで世間一般のイメージに一歩近付いたでござるな!」
「え、いやどうかな……あの子、かっこいいけど、クールっていうより不思議ちゃんって感じじゃなかった……?」
「あー確かに深海さんみたいなガチの神秘じゃないッスけど……似てなくもないんスよね、なんかこう、パンチ? 破壊力みたいなのが……」
「あーうん……分かる……」
「あはは、それはそれで流星隊の血筋って感じでござるな~! もう一人の子も、すっごく良い子でござったし……拙者には分かる、分かるでござるよ~緊張で固まりながらも己の意志を伝えようとするあの姿……! くぅぅ! あの時拙者、内心がんばれがんばれって、めちゃくちゃ応援してたんでござるよ~! ふたりともそうでござろう!?」
同意を求められた鉄虎は、一瞬ポカンとして、翠に視線を投げた。
翠もぼんやりと、鉄虎の目を見つめた。
「あっ、あれっ? もしかして拙者だけ? がんばれがんばれって思ってたの、拙者だけ?」
興奮から一転、慌てふためく忍の姿に、鉄虎はいきなり噴き出した。
翠は驚いて肩を上下させた。
「えっ!? なんで爆笑してるんでござるか!?」
「あ、あっは、忍くん、ほんとっ」
「なんでござるか!? 拙者なんかヘンだった!?」
「あはは、いや、いいんスよ。変じゃなくて……やっぱ忍くんがいてよかったと思っ……あっははっ」
「爆笑しながら言われると微妙でござるよ!?」
「うん、ごめん、でもちょっと……はーっ、そうッスよね。……嬉しいッスよね」
ひとしきり笑って、鉄虎は苦しそうに目元を拭った。訳が分からないまま、忍もまた「えへへ」と笑った。二人がこんな風に笑うの、いつぶりだろう。翠がふたつの笑顔を噛み締めていると、片方の琥珀色が、視線に気付いて翠の目を見た。
そしてすぐに逸らした。
一瞬捉えた瞳の揺らぎに、翠の目の奥も、ほんのりと熱を持った。
「……なんで、ちょっと……泣きそうなの」
すん、と鼻をすすったのは、翠だったか、それとも鉄虎か。
「なんでもないッス。……なんでもないッスよ」
そう言って、鉄虎はもう一度親指で目元を拭った。それが残った二人に対する涙なのか、零れ落ちた大勢に対するものなのか。翠には分からなかった。確かめることもできなかった。ただ、もうこれ以上、この優しい両の手が、誰かの希望を折らなくて済むのだと思うと、それだけで心が救われた気がした。これから楽しみでござるなぁ。忍の言葉に、そうッスね、と頷き返す鉄虎の横顔は、屈託のない笑みを携えていた。
今だけは、選ばれた子たちへの祝福で満たされていても、許されるよね。
翠は、一緒になって笑いながら、机の上に広がったままのプリント用紙を、そっと隠すように集めてまとめた。窓の外で、桜の枝が、豊かに若葉を繁らせていた。
★
「翠くーん! お疲れ様でござる!」
荷物を抱えて廊下へ出ると、扉の前で忍がぴょんと跳びはねた。
「お疲れ、忍くん……鉄虎くんは?」
「職員室でござるよ、鍵借りてくるって!」
「あぁ……」
翠が頷くより早く、忍は上履きを鳴らし歩き始めた。狭い歩幅でせかせかと進む忍は、どこか浮き足立って見える。いつにも増して上機嫌な忍のつむじを見下ろして、それもそうか、と翠は息をついた。昨日の夜からずっと憂鬱を膨らませている翠と違って、忍はこの日を心待ちにしていたのだった。
今日、新しくなった流星隊は、五人で初めての活動日を迎える。
「一年生の子、もう集まってるでござろうか……はぁ~! 緊張するでござるな~!」
「口からなんか出そう……」
「それこないだも言ってなかったでござるか?」
「言ったかも……」
胃のあたりを撫で付けながら翠は肩を落とした。ただでさえ自分が二年生だという自覚がないのに、後輩が出来るだなんて。翠の心が、からだが、ひとつも追いつかないままに世界は速度を上げていく。先を歩く忍の軽快な足取りすら、今は翠を焦らせた。
視聴覚室に向かう途中、階段を駆け上がってきた鉄虎と合流した。お疲れッス、翠くん。そう言って鉄虎は翠の背中を軽く叩いた。反射で背骨がぴんと伸びる。驚いて見下ろすと、鉄虎は「そのまま、まっすぐッスよ」と目を細めて笑った。
「はー、しっかし緊張するッスねー」
「初顔合わせでござるからな。はあー、拙者もドキドキしてきたでござる……」
「忍くんは大丈夫ッスよ、人見知りなだけッスから」
「人見知りだからこそ初日が超難関なんでござるよ~!」
「いや、俺たちが最初に会ったときも結構普通に話してたよ、忍くんは」
「そうでござるか? こいつ変なやつだなっておもわなかった?」
「ええと……それはノーコメントで……」
「なんででござるかッ!」
あはは、と鉄虎の笑い声が廊下に響いた。頬を膨らませる忍の姿に、翠もぎこちなく笑みをこぼす。胃の辺りの違和感は、まだ拭えない。
「あ。あれ……一年の子ッスかね」
たぶん、ブラックの子。
廊下の先に、たたずむ人影を見つけて、鉄虎が指をさす。ほんとでござる。忍が頷いて、背伸びをした瞬間だった。
背後から、ひとり分の足音が猛スピードで駆けてきて、翠たちをびゅんと追い越す。
「たまちゃん!」
「いっ、いそ、がっ、わあぁっ」
忍の横髪が乱れ、翠が風圧におののき、え、と鉄虎が呟いた時には、前方の人影はふたつに増えていた。ふたつに増え、ひとかたまりになって、廊下に倒れこみそうになっていた。
「たま」
「ちゃん……?」
怪訝な顔の鉄虎がゆっくりと近づくと、長身痩躯の人物は今しがた追い越した三人が誰だったのかようやく理解したようで、「あっ、お疲れ様です!」と声を張り上げた。廊下をはしるな。桃李の金切り声が、翠の脳裏によみがえる。
「……もしかして、すでに仲良しなんでござるか?」
背後からタックルを食らって前かがみになった体と、そのぐったりと落ちた肩を親しげに抱えるもう一人とを、忍が交互に見た。
「はい! 仲良しです!」
「なかよし……」
「え!?」
「あ! い、いや! 仲良し! 仲良しです!」
……ほんとでござるか?
低く呟いた忍に、鉄虎と翠はゆっくりと顔を見合わせた。自分たちは、とんでもないものを引き入れてしまったのではないだろうか。一抹の不安を抱えながら、鉄虎は視聴覚室のドアに、借りてきた鍵を差し込んだ。
「え、え~……とりあえず」
目の前にちょこんと腰掛けたデコボコな二人組を見やって、鉄虎は渋い声をあげた。片方の目には熱意と希望が。片方の目には動揺と緊張が。見た目だけじゃなく、中身もデコボコなんスね。浮かんだ第一印象を飲み込んで、うーみゅ、と言いよどむ。忍と翠は、鉄虎の心中を察しながら、黙って次の言葉を待っていた。
「改めて自己紹介でもするッ、あ、いや。自己紹介でも、しましょう、かね?」
「なんで敬語……しかも変……」
「いやちょっとしゃべり方わかんなくなって……」
「南雲隊長!」
「お、押忍! なんッス、でしょうか!?」
動揺しているのは、鉄虎くんも同じなんだなぁ。
両手に拳を作って吼えた鉄虎の声量に、翠は耳と、胃のあたりを軽く押さえた。
「隊長、そのなんたらッス、て言うの、やめてしまうんですか? どうしてですか! 後輩にナメられるからですか!」
「ゲフッ」
「ちょっ、てっ、鉄虎くん……!」
「僕、あれ格好良くて好きだったんです。でもやめちゃうんですか! 大丈夫です! 僕らそんなことでナメたりしませんから! 引き続きどうぞ!」
「ちょっ、ちょっと待つッス、圧がすごいッス」
「鉄虎くん語尾、語尾出てるでござる」
「仙石先輩のそれは素なんですかキャラ作りなんですか?」
「ヒェッ。矛先が拙者にッ」
「うわ……」
「わあっ! 鬱だ死にたいですか!? それってキャラじゃなくて性格的なやつですよね!?」
「ウワ……」
「ぃぃいそっ、ひいてる、先輩引いてるから」
「えっ? たまちゃんなに?」
「す、すっ……すいませんすいませんほんとうに」
切れ長の黒目をキョトン、と丸くして、マシンガントークの主は首を傾げた。とんでもないものを引き入れてしまった。数分前の予感が的中してしまったことを確信し、鉄虎と翠は静かに額を押さえた。忍は身を縮ませて、翠の腕に引っ付いていた。
「改めまして、一年B組、磯貝望美です!」
「一年A組、平良環です……」
温度差の激しい自己紹介だった。
南雲鉄虎ッス。高峯翠……。仙石忍でござる。なんとか平静を装って、三人も名前を名乗る。
何かが吹っ切れたのか、鉄虎は普段の話し方に戻っていた。
「ええと、二人はもう顔馴染み? なんスね?」
「はい!」
煌々と光らせていた瞳をいっそう輝かせ、望美は嬉しそうに答えた。
隣でくたびれたように俯く環も、同意するように小さく頷いた。
「中学が同じとか、そんな感じスか?」
「あ、いえ! 僕たち去年のハロウィンに知り合ったんです。夢ノ咲のライブ会場で」
「で、です。もうすぐ流星隊、っていうときに、自分、ペンラの電池、切れちゃって……」
「僕、ちょうど隣にいて。予備の電池持ってたので、あげたんです」
「ほんっと死ぬほど感謝しました……」
「半泣きだったねたまちゃん」
「うん……」
当時のことを思い出したのか、今にも泣き出しそうな環は、目元を少しこすって、すみません、と何故か謝った。
「じゃあまだ……会って半年くらいなんスね。へえ、もっと長い付き合いかと思ったッス」
「出会い自体は最近ですけど、冬場はしょっちゅう会ってたので! 学校帰りに歌の練習したり、振り付けの解析したり!」
「それは……めちゃめちゃ仲良しでござるな……」
「はい! 仲良しです! そしてそんなに怯えなくても!」
「ひえ~堪忍、堪忍でござる、拙者超絶人見知るタイプの忍者であるからして~……!」
「え、二人って家近いんスか? 学校帰りって……中学違うんスよね?」
「あ、はい、結構近い……近いよね? たまちゃんも夢ノ咲徒歩圏内だし」
「も?」
鉄虎と忍の声が重なった。はい、と軽快に頷いて、望美は続けた。
「僕、元々第一志望、夢ノ咲の普通科だったんです。陸上強いし、家すぐそこなんで」
「ええっ? そうなんスか?」
「そうなんす。商店街から道二本分夢ノ咲側で、あ、覚えてないと思いますけど、実は高峯先輩、同中です」
「ええぇ!? う、うそでしょ……!? ごめん全然覚えてない……」
「だと思いました! 大丈夫です! 僕、影は薄い方ですから!」
「説得力ゼロどころかマイナスでござるな……」
「たまちゃんはギリギリ隣の学区なんですけど……ほら、いつもヒーローショウやってる公園あるじゃないですか。あの辺りです」
「で、です。です」
「台詞だいぶ取られてるけど環くんは大丈夫でござるか?」
「だ、だいじょぶです、だいじょぶです」
おもちゃの人形のようにカクカクと頷いた環に、忍がようやく笑った。自分より緊張している人間がいると冷静になる、というやつだろう。翠も二人のやり取りに、ほんの少しほっとした。
「……なんでまた、普通科からアイドル科に」
安堵したのも束の間、独り言のようなつぶやきに、翠の心臓は跳ねた。隣で鉄虎が不思議そうに首を傾けている。他意はないと分かっていても、手のひらに嫌な汗をかいてしまう。望美は再び目を丸くしていた。四人の視線が、飄々とした黒い瞳に集まっていく。
「遊園地で、高峯先輩を見かけて」
沈黙に気圧されることもなく、望美は口を開いた。翠の両手が、びくっと震える。
「着ぐるみ抱えて、歩いてくのを見かけて。まさかと思ったんですけど、あまりにも似てたんで……気になって観に行ったんです。スーパーノヴァ。そしたら本当に高峯先輩が歌って踊ってるじゃないですか。びっくりしましたよ。そんなことするような人じゃないの、知ってましたから。びっくりして、でも、めちゃめちゃ格好良いなって……それで変えました。進路」
そんな、機種変更でもするみたいにあっさり。
翠は頬にたまった唾を飲み込んで、ゆっくりとうなだれた。自分の存在が、誰かの人生を変えてしまうなんて、漫画のなかの出来事だと思っていた。あるいは現実に起こったとしても、自分とは全く無縁の、もっと輝かしい人間のもとにしか訪れないものだとばかり。
事の重大さと、それに見合わない自分の有り様に、頭が重くなる。隣で忍が、金色の片目をきらきらと輝かせて、翠を見上げていた。鉄虎は視線を動かさなかった。へえ。そうだったんスね。相槌を打つ声は、さっきと変わらないように聞こえた。
「あ! たまちゃんはもっと前からのファンなんです! すごいんです古参なんです!」
「もっと前……って、え? それスーパーノヴァより前ってことッスよね?」
それっていつから。
全員の視線が、色素の薄い瞳に注がれる。環は一瞬固まったあと、助けを求めるように望美を見た。望美は何故だか満足げに微笑んで頷いた。ええ、と数秒うろたえたあと、観念したのか、環は重々しく深呼吸をして語り始めた。
「え、ええと……二年くらい前、から……なんですけど……」
予想外の数字に、鉄虎たちは思わず顔を見合わせた。
二年前。そんな頃、一体自分は何をしていただろう。アイドルになるだなんて夢にも思わない。明日のことすら曖昧なまま、惰性で生きていた中学時代を思い返し、翠はぞっとした。鉄虎も忍も、なにか思うところがあるのか、食い入るように環のことを見つめていた。
「自分、学校まで行くのに、あの公園の横、通るんです。……夕方家に帰ろうとすると時々……制服のまま歌ってる人がいて。……それが守沢千秋さんで。遠巻きに見てたんです、ずっと」
誰も、それを見たことがないはずなのに、目の奥には同じ景色が浮かんでいた。
望まれずとも、めげずに声を張り上げて、正義を歌うヒーローの姿。
「いつも守沢さん、一人で。お客さん……というか、見てるこどもたちも少なかったんですけど、去年……あ、いや一昨年か……一昨年の冬、もう一人増えたんです。深海奏汰さん……それが去年の今頃には五人になって、集まってくるこどもたちも、どんどん増えて……」
そこから先は、三人の良く知る流星隊の姿だった。
まばらだった観客は、いつしか数えきれないほどになり、ファンレターやプレゼントを貰うことも一度や二度ではなかった。
「守沢さん、すごく、嬉しそうで。……全然よく知らないのに、俺まで勝手に、嬉しくなって。もっとちゃんと、応援したいって思って。ステージ、観に行きました。それがスーパーノヴァで……もう、本当に、感動して……自分もああなりたいって……そこからずっと、流星隊のこと、追いかけてきました。……本当に。今、夢みたいなんです。ありがとう、ございます。せいいっぱい、頑張ります。よろしくお願いします」
環の目の端ににじむ涙は、一秒ごとに増えていき、ついに一筋の尾を引いてその頬を滑り落ちた。すん、と鼻を鳴らしたのは、忍だった。望美は、今まで見せたことのない穏やかな微笑みを浮かべて、誇らしげに環のことを見つめていた。
「……こっちの台詞ッスよ」
環が、ようやく顔を上げた。今日、初めてちゃんと目が合ったッスね。ほっと胸を撫で下ろしながら、鉄虎は右手を差し出した。
「不甲斐ない先輩かも知んないッスけど……俺たちも、精一杯努力するッスから。二人の力を貸してほしいッス」
望美の両目が輝きを放つのと、環が泣き崩れるのと、ほとんど同時だった。よろしくお願いします! 叫ぶように言って、望美は鉄虎の手を握りしめた。隣では忍がもらい泣きして目元をこすっていた。
「うっ、うう~っ、こんな良い子たちが仲間になってくれるなんて……いくら神さまに感謝しても足りないでござる! 拙者今、めちゃめちゃ環くんのこと抱きしめたい気持ちでいっぱいでござる!」
「え! 先輩! 僕もお願いします!」
「……望美くんはもう一週間くらい待ってもらっていいでござるか?」
「なんでですか!?」
「こ、心の準備が必要でござるからして……」
望美と忍のやり取りに、鉄虎は笑っていた。ズキズキと痛んでいた胃のあたりがようやく落ち着いて、翠も肩の力を抜いた。
どうなることかと思ったけれど、意外とうまくやっていけるかもしれない。翠にしては珍しく、前向きに新しい仲間のことを受け止めていた。癖の強い二人ではあるが、前任の変人っぷりに比べれば可愛いものだ。しみじみと去年の濃さを思い返していると、よし、と鉄虎が頷いて、おもむろに立ち上がった。
「そんじゃあ早速ッスけど、今日はプロデュース科で服の採寸してもらうッスよ」
鉄虎に続いて忍と望美が、一拍遅れて、翠と環が立ち上がる。
「あ、荷物は置いてっていいッスよ、鍵かけるんで。採寸が終わったら戻ってきて、そんでまだ時間が大丈夫だったら、口上のこと、チラッと相談したいッス。ブルーの口上、深海さんバージョンだと色々アレッスから」
「あ、はい! 僕はちょっと青い海からやってこれないです!」
「冷静に聞くと字面がヤベエでござるな」
「も、燃える闘魂は、なんとか……がんばります……」
「あー、その、もしよかったらなんスけど……ブラックも新しく考えてみるの、どうッスかね? あれってたぶん、守沢さんが俺たち用に作ったやつッスから」
「す、すいません……泥で汚れてる自信はあるんですけど……」
「あはは。ほんとはその自信だけで充分、努力の証ッスよ。……でもせっかくッスから。それぞれの光るものに合わせて決める方が、きっといいッス」
「そうでござるな! 伝統も大事でござるけど、一年ごとに変化するのがニチアサのお楽しみのひとつであるからして!」
「大体深海さんのあれ、本人が考えたやつだしね……」
「そういう翠くんも勝手に改変してたでござるし」
「ウ……そ、そうだけど……」
「僕ゆるキャラパワーのやつ好きでしたよ、色々と貫いてて」
「や、やめて、誘惑しないで、そっちに戻したくなる……」
ぞろぞろと廊下へ足を踏み出し、最後に出た鉄虎が視聴覚室のドアを閉めた。ガチャン。錠が回った音を確認して、左右にドアノブをひねる。うん、と頷いて顔をあげると、すぐ側に環が控えていた。さっきより幾分かマシになってはいたが、その顔は、緊張でまだ少し青白い。
「……大丈夫ッスよ」
つう、と細めた琥珀色の両目を、環がおそるおそる見つめ返した。
絡んだ視線の奥で揺らぐかすかな炎に、鉄虎は赤い背中を思い出していた。
「環くんは、絶対大丈夫ッス」
確信を持った鉄虎の声に、環は驚いて目を見開いた。
「どうかしたッスか」
鉄虎が聞くと彼は、そんなこと誰からも言われたことないです、と自信なさげに呟いた。
鉄虎は少し笑って続けた。
「周りに見る目がなかっただけッス。きっとそのうち、みんなから言われるようになるッスよ」
環は訳が分からず何度もまばたきを繰り返していたが、鉄虎が歩き始めると、慌ててあとをついてきた。ふたりとも置いてくでござるよ~。忍が振り向いて声をかける。ごめんごめん、と謝りながら、鉄虎は隣を歩く環を横目に見た。
絶対に揺らぐことない、鉄のような意志。
それはしるべとなって行く道を照らし続ける。歩みを止めなければどこまででも行ける。全く真逆に見えるのに、どこかあの人と似ているように思うのは、瞳の先が見つめるしるべが同じだからだろう。
おろしたての上履きが鳴らす弱々しい音を聞きながら、足元に目を落とす。ふと、隣を歩く自分のつま先の青が目に入って、鉄虎は息を飲んだ。
――じゃあこの足はどこへ向かっているんだろう。
一瞬、止まりかけた右膝を、強引に前へと突き出して駆け出した。環も、ええっ? と小さく悲鳴をあげたあと、置いていかれないようにと廊下を蹴った。斜め後ろから迫る足音に、鉄虎の鼓膜はぼうぼうと低く鳴っていた。
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二章 誰かの願いが叶う頃
両親に急かされてまぶたを擦りながら表へ出ていくと、鉄虎は屈み込んで、商品棚に積み上げられたトマトの山をじっと見つめていた。
「あ、おはよッス」
足音に気付いて、鉄虎が体を起こす。
「……おはよ」
逆光が眩しい。
目を細めながら、翠は鉄虎のもとへ向かった。かかとが四つ、赤い煉瓦道に音をたてる。今日もよく晴れている。遠くに薄く浮かんだ雲を眺めていると、隣で鉄虎が、ふあ、と大きく口を広げた。
「眠そうだね」
「んー……そうッスね、正直寝そう」
「き、気を付けて歩いてよ……? 今は俺がいるからいいけど……」
「押忍、なんとかシャキッとするッス。午後には新歓なんだし……次あくびしたら翠くん、俺を殴ってほしいッス」
「えぇ、嫌だよ……頑張って起きてて、あと、あくびもしないで……」
「あはは。善処するッスよ。翠くん結構手厳しいッスね」
目の下を撫でつけながら、鉄虎は笑い、すぐに真顔になって息を吐いた。あんまり、寝れてないのかな。うつらうつらと揺れるつむじを横目で見下ろしながら、翠は肩にかけた鞄のひもを握った。手のそばで、青いネクタイがしわを作る。
商店街を抜けるまで、鉄虎はあまり言葉を発しなかった。今となっては別段珍しいことでもない。行き帰りを一ヶ月も共にすれば、話すことも少なくなる。翠は最初こそ、沈黙をもて余し、何か言わなきゃと焦っていたが、慣れてしまえばその沈黙を心地良いと感じるまでになった。それなのに、今日の息苦しさは一体何だろう。
「いるッスね」
しばらく歩いて、鉄虎がぽつりとこぼした。視線の先には、真新しい赤のネクタイ。うん、いるね。返そうとした瞬間、何人かの希望に満ちたまなざしが翠の両目を捉えた。ゾッとして思わず肩をすくめる。高峯さん。遠くで声が上がった。そういえば、忍くんも同じような目に合ったって言ってたっけ。
もう手遅れだというのに、翠は出る限り背中を丸めた。鉄虎は何も言わなかった。こんな時いつも背中に添えられる温かい手のひらは、だらんと地面に向かってのびている。それが酷く心細かった。見知った通学路に発生した異質なざわめきは、波のように広がって、翠のもとへと押し寄せた。高峯さん、高峯先輩、高峯翠――
左胸が、恐ろしい速さで鳴っている。
「れっ、レッド」
ばつん、と空間をまるごと切り取られたような感覚が走った。
首筋にかいた嫌な汗が静かに引いていく。翠が顔をあげると、声の方向に、一人の学生が立ち尽くしていた。気づけば鉄虎も、同じほうを向いていた。半開きだったまぶたは爛々と見開かれ、ある一点を凝視している。
真新しい、赤のネクタイ。
「あ、ごめっ、すいませ……失礼しました!」
ものすごい速度で大きく��度頭を下げると、その一年生は走り去ってしまった。やや強引に人混みをぬっていくその背中は、道行く新入生たちの視線を集め、図らずも翠に寄せてきた波を蹴散らしていった。
「なん……スか、今の……」
呆気に取られた様子の鉄虎が、脱力したように肩を落とす。
重たげなまぶたが再び現れて、噛み殺していたあくびが、ふあ、と溢れた。
「今の子、レッドって……」
「ね。ん~、なんスかね、隊長のファンとか?」
「いや、だから……」
本当に、半分くらい寝てるな。
あまりにも他人事のような反応に、翠は珍しくはっきりと声をあげた。
「鉄虎くんのことでしょ。流星レッド」
ぱちり。
琥珀色の瞳が、まあるく見開かれる。
「あ、そ……あー、そっか。そうッスね……」
「……ほんとに大丈夫……?」
「んん、大丈夫、大丈夫ッス、ちょっとあんまり、頭、働いてなくて」
こめかみのあたりを揉みほぐすように、鉄虎は両手で頭を包んだ。
「あれ、でも新歓……」
「え?」
「新歓、まだッスけど」
「そ、そうだけど。それがどうしたの?」
「俺、レッドって名乗ったの、まだ三回くらいッスよ。それも、公園のヒーローショウ……」
言われてみれば確かにそうだった。
最後にステージに上がったのは返礼祭。鉄虎はまだ、ブラックの衣装を着ていた。
流星隊の次期隊長が鉄虎であることはほとんど周知の事実であったにしろ、今、鉄虎のことを一瞬で“レッド”と認識できるファンは、おそらく少ない。
「……ほんとに。何だったんスかね」
不思議そうに首の後ろを手をやって、鉄虎は遠い目をした。視線の先で群れを成す青い背中。その奥にそびえ立つ白い校舎に向かって、鉄虎も翠も、再びゆっくりと歩き始めた。
★
「おーい鉄虎! 朗報朗報!」
昇降口で上履きに履き替えて、階段を上ると、上の階から友也の声が降ってきた。
「こぉら! 廊下をはしるなぁ~!」
前副会長を思わせる馴染み深い怒声が、少し遅れて甲高く響いて、そして何人もの足音にバタバタとかき消された。
「鉄ちゃん翠ちゃん! おっはよ~なんだぜっ!」
「あ、おはよッス」
「おはよ……」
「二人ともおはよ……なんか眠そうだな?」
「……そんな分かりやすいッスか?」
「うん。目の下とかすごいぞ? 大丈夫か?」
「まあ、昼までにはなんとかするッスよ、リハあるし……それよりなんスか、朗報って」
「あ、そうだそうだ。生徒会がユニットオーディションの専用フォーム、用意するって!」
「へ?」
「も~ぉっ! はしるなって言ってるのにぃ~! ボクの言うことを聞けっ! 新歓前にペナルティつけられたいの!?」
「え~? こんなの走ってるうちに入らないんだぜ?」
「いやさっきおもっくそダッシュダッシュ言ってたでござるが……」
「あれっ? 忍くん? チーッス」
「二人とも~おはようでござる~」
「おはよ忍くん……どうしたの……?」
光の後ろでぜえぜえと息をする桃李と忍は、額にかいた汗を手の甲で少し拭った。その後ろから「まってくださぁい」とか細い悲鳴が上がる。桃李が我に返ったように振り向いて、すぐさま眉尻を下げた。
「はじめぇ~ごめんね~」
「朝からバタバタしてるッスね~」
「あはは。こんなバタバタする予定じゃなかったんだけどな。気付いたらもうすぐ朝礼って時間で焦ったよ。俺たち、オーディションってユニット側で勝手に開催していいもんなのかどうか、確認しときたくてさ。さっきまで生徒会室にいたんだ」
「拙者は忍者同好会のポスター掲示の許可を貰いに! それでお三方と遭遇したんでござる」
「ああーなるほど理解したッス」
「それがさ~仙石のやつ、ずーっとドアの前でへばりついて動かないから、何事かと思ってたら、緊張してノック出来なかったっていうんだよ。あんなに会長と仲良いのに今更だろ?」
「思った以上に忙しそうだったんで気が引けちゃったんでござるよ~! ドアの隙間からチラ見したら衣さ、か、会長殿も御不在でござったし……急ぎの案件でもなかったゆえ、明日にしよっかな~どうしよっかな~って考えてるうちに光くんがタックルしてきて……」
「ごめんごめん! だって忍ちゃん邪魔だったんだぜ!」
「邪魔とか言うなよお前……まあそんでさ、聞かれて困る話でもないっていうか、むしろ仙石も聞いといた方がよくないか? ってなって。四人一緒に姫宮に取り次いでもらったんだよ」
友也が、追い付いてきた創に目配せしながら言った。おはようございます~。乱れた横髪を手ぐしで整えながら、創は弱々しく挨拶をした。おはよう、と翠も小さく返した。
「リハの時に説明する予定だったらしいんだけど、特に問題はないだろうって、教えてもらったんだ。学内のポータルサイト使って、各ユニットに志願書を送れるようなシステムを、新歓のすぐ後に公開するんだって。プロフィールとか、志望動機とかが入力できて……ウェブで送れる履歴書みたいなもんだってさ」
「さっすが姫ちゃんなんだぜ~! オレはよくわかんないけど、画期的? なんだって!」
「ふっふ~んっ。創たちも色々考えてがんばってるっていうのに、このボクが自分の仕事をサボるわけがないでしょ~? ……今年は大々的に新メンバーを集めたいユニットが多いみたいだし。新規に立ち上げるより、既存ユニットに入りたいっていう一年生も相当数いるみたい。なら、そういう要望はちゃんと拾わなきゃね」
自慢げにふんぞり返っていた桃李が、数回瞬きをして、声色を落とした。
「……今までは、やる気のあるユニットだけが個人的に人材を集めてたけど。チャンスは平等に与えないと。それがボクの義務なんだし」
薄いまつげの先が、光を帯びている。
それはどこか儚げで、慈愛に満ちていて、前会長の深いまなざしを思わせた。
「……そういうわけだから。喜べ平民どもっ! ボクの功績をたたえて感謝し……こ~らぁ! 走るなって言ってるでしょ~!?」
「急げ創! 光、また昼休みにな!」
「了解なんだぜっ!」
「翠くんもまたあとで」
「う、うん……」
廊下に響くチャイムを合図に、一斉に走り出す。桃李くんも遅れちゃいますよ。創が言って、桃李も渋々小走りになる。集合場所講堂だからな、わかってるんだぜ、はぁ~今から緊張するでござる。足音に混ざって聞こえてくる同級生の声を拾いながら、翠は黙って、自分の真新しい上履きを見つめていた。
★
結論から言うと、新歓のステージは上手くいった。
歌詞を間違えることもなく、ステップが絡まることもなく。決められた持ち時間内に、決められた一曲を。音響トラブルもなし。そのあとのユニット紹介までは、リハーサルの時ときっちり同じだった。
ただ一点。
最後の最後、客席側��ら予想以上の歓声を受けたことを除いて。
「ふい~目がしょぼしょぼするでござるな~」
A4サイ���のコピー用紙を、トン、と机で揃えながら、忍が息をついた。同じように、翠も束にしたそれを整えて机に置き、大きく肩を落とす。
「聞くところによると、これでも少ない方らしいんでござるけど」
「はあ……? 嘘……これで少ないとか……」
「やーべぇでござるよな。神崎殿なんか、めちゃめちゃ分厚いバインダー抱えて歩いてたでござるし……一目で却下するものも多いのでそれほど大変でもない~とかなんとか言ってたでござるが」
「一目で却下ってなに……? 怖……そんなことあるんだ」
「うん。分母が大きいぶん、ありふれた動機とか内申目当ての願書が目に余る、って……いやー恐ろしい話でござるな。拙者こういうの、やってないどころか、守沢殿に引っこ抜かれただけでござるし」
俺も、と翠が呟くと、忍はほっとしたように眉尻を下げて笑った。そうでござるよな。そう言って再び、書類の束に目を落とす。
「あ、確認終わったッスか?」
ぎい、とドアの開く音が鳴って、二人とも顔を上げた。ばたん。ゆっくりとドアを閉めた鉄虎が、クリアファイルの中身を出しながら歩いてくる。
「終わったでござるよ~おかえりなさ~い」
「ウィース。こっちも部屋、取れたッスよ。こないだ合同練で使ったとこッスけど、いいッスよね?」
「うん、あそこなら結構広いし……ありがとう、鉄虎くん……」
翠の隣に腰掛けて、使用許可書、と書かれたプリントを机に置くと、鉄虎は大きくひとつ息を吐いて、天井に向かって腕を伸ばした。見ていいッスか? 大きな書類の束の、すぐ隣により分けられた数枚を見下ろして、鉄虎が言った。忍と翠は、顔を見合わせてから、同時に頷いた。
「一応拙者たちも、先入観のないように、一束にまとめてから目を通したんでござるけど……ほとんど鉄虎くんがよけてったメンバーと一致したんでござるよ」
書類の右端に記された小さなレ点を指しながら、忍が言った。初め、ひとつしかなかったそのしるしは、忍と翠が書き足して、みっつに増えていた。
「……そっか。うん、そっか。二人も似たような意見っていうなら、ちょっと安心したッス」
責任重大ッスから。
眉間にしわをよせながら呟いた鉄虎に、翠は忍の表情を盗み見た。
やや緊張した面持ちの忍に、翠も息を詰まらせる。
「……ほんとは、全員会ってあげたいくらいなんスけど。流石に俺も、そんなわけにいかないってことくらい、分かってるッスから」
「うん。申し訳ないけど、俺たちじゃこんな大人数、面接なんて無理だし……」
「できる限りのことをするしかないでござるな。正直周りの話聞いてると、もっと少なく絞ってもいいくらいでござるし――」
書類を持つ鉄虎の指が、わずかに震えた。忍はそれを見逃さなかった。
「――けど拙者! このメンバーで問題ないでござるよ! あとは直接会ってビビッと来るかどうかでござるな!」
「うん。俺も……いいと思う」
明るく言い放った忍のことを、後押しするように翠も頷いた。
鉄虎の頬のこわばりが、ほんの少し、ほぐれた気がした。
「そんじゃあ、腹括って連絡するッスかね」
「あ、送信する文章、考えてみたでござるよ! 面接会場だけまだ空欄でござるけど」
「あ~助かるッス。んと、これの最後に、詳細は後日メールにてお知らせ致します、で、どうッスかね?」
「そうでござるな、じゃあそれ付け加えて……あのう、それと一応……こっちも作ってはみたんでござるけど」
口ごもった忍が、鉄虎の表情を恐る恐る伺う。
鉄虎は、気だるげな琥珀色を一瞬、揺らめかせて、うん、と頷いた。
「じゃあ俺、こっち側、進めるッス」
「……いいんでござるか?」
「うん。文面、大体分かってるし。適任ってやつッスかね」
「でもこれ、結構な量だけど……」
「平気ッスよ。全文同じなんスから。あ、これ持ってっていいッスか? 携帯からじゃ面倒なんで、パソコン室でやっつけてくるッスよ」
机の上にずっしりと積まれた書類の束を、片手に引っ掴んで、鉄虎は立ち上がった。見上げた忍の表情は不安そうだった。自分も、きっと同じ顔をしているんだろう。翠は視界の端で忍の片目を捉えながら、ざわつく胸をそっと撫でた。鉄虎は、二つのつむじを見下ろすと、二度まばたきをして、少し笑った。
「なぁんスか。二人とも。そんな顔しないでほしいッスよ。俺、機械音痴ッスけど、メールくらい一人で送れるッス。ちゃんと、全員にメールして、ちゃんと――」
まぶたの端が、痙攣するように震える。
「シュレッダー」
瞳が、光を失うまでに、一秒。
「しとくッスから」
永遠にも思える沈黙が、重力を帯びてのしかかる。
額に冷たい汗が滲んで、気付けば翠は、爪が食い込むほど強く手のひらを握っていた。
「てっ……鉄虎くん、やっぱり」
「そんじゃあ二人はその子たちに集合時間と場所の連絡、お願いできるッスか?」
一時停止を解かれたかのように、鉄虎が歩き出す。翠の声は、鉄虎に届かなかったのか、鉄虎は振り向くこともしなかった。
「……任されたでござるよ! 隊長殿!」
ドアノブに手をかける鉄虎の背中に、忍が叫んだ。ようやく鉄虎は動きをとめて、二人のことを視界に入れた。
「はは。んじゃ、頼むッス。文面はそれでオッケーッスから」
ばたん。
閉まるドアの向こう、鉄虎の表情はもう分からない。しばらく翠も忍も、真っ白いドアから目が離せなかった。耳元で鳴る心臓の音が少しだけ落ち着いた頃、翠はゆっくりと忍のほうを見た。
「忍くん、今の……」
「……すっかり忘れてたでござるな。鉄虎くん……鉄虎くんだけは」
このふるいにかけられたことがあるのだ。
今日と同じく花の咲き乱れる四月。
その希望を、一瞬で手折られた記憶がある。鉄虎にだけは。
手元に残された十数枚の書類をじっと見つめて、忍は大きくため息をついた。
「鉄虎くん、優しいから。こぼれ落ちた子のこと、考えちゃうんでござろうな。だからこそ流星レッドは、鉄虎くんしかあり得ないんでござるけど……」
歯がゆいでござるなぁ。
独り言のように吐き出された忍の言葉に、翠は無言で頷いた。一体、鉄虎くんは、どんな気持ちであの希望のかたまりを引っ掴んでいったんだろう。どんな気持ちで、それを手折る決意をしたのだろう。考えるのが恐ろしくなって、翠は強く目をつぶった。これ、手分けして進めるでござるか。忍がエントリー用紙を拾い上げる音が、やたらと大きく響いた。頷くことしか出来ない翠は、忍の右手が差し出す数枚の用紙を見つめながら、廊下へ飛び出していった力ない背中のことを、何度も何度も、思い返していた。
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一章 まっすぐ
なりたくなくても、体は勝手に大人になっていく。
春が来て、桜が散るのを見るたびに、翠はうんざりと時の早さを思い知る。去年より少しばかり近くなった枝との距離に嫌気がさして、猫背気味に歩く。自ずと視線が落ちていき、ついには去年よりも随分汚れたスニーカーのつま先を捉えた。
翠くん。まっすぐ、まっすぐ。
はっとして顔を上げると、真っ青な空が視界に映った。まっすぐ、まっすぐ。かっこいいのが台無しッスよ。春休みの間中ずっと、背中を叩かれながら歩いたこの道。
――まっすぐ。まっすぐ。
大きく一度深呼吸をしたあと、胸のうちで、記憶の声と重なるように唱えながら、そうっと背筋を伸ばしてみる。桜の枝は、やっぱり近かった。あぁ、なりたくもないのに、俺はどんどん大人になっていく。胸にさげた青いネクタイに違和感を覚えながらも、翠は早朝の通学路をとろとろと歩いた。朝練なんか、去年はなかったのにな。大きなあくびを隠しもせずにひとつこぼして、翠は隣に居ない小さな熱源のことを想った。
「……はよー、ございます……」
半袖の体操着に着替えて、体育館の扉をおそるおそる滑らせる。ダムッ。わずかな隙間から飛び出してきたボールの弾む音に、びくっと身体がはねあがる。
「おおっ。来たな~高峯!」
弱々しい翠の声をきちんと拾い上げ、振り向いたのは真緒だった。
半袖の体操着。黒いズボンのサイドには、見慣れない色のラインが一本。
「あれ、衣更先輩だけ、すか……他の先輩は……」
まだですか、と言いかけて、翠はしまったと口をつぐんだ。このひとはもうただの“先輩”ではないのだ。周りの同級生がろくに呼ばないせいで、いまだ馴染まないその敬称を、翠も、そして他の後輩たちも、ついつい忘れてしまう。本人も気にかけていないばかりか、唯一「会長様」と呼んでくる弓弦に対しても、お前に呼ばれると余計に仰々しいんだよなぁ、と怪訝な顔をしているのだという。
ま、いい加減、慣れなきゃいけないんだけどな。
言葉と共に吐き出された、大きなため息のことを思い出し、翠は静かに身をこわばらせた。
直接その場に居合わせたわけではない。偶然、部室に入ろうとした時に聞いてしまった。サリ~は偉ぶるの向いてないもんね~。スバルの身も蓋もない言葉に、「やっぱそう思うよな~」と苦笑をこぼしていたのは、つい数日前の出来事だ。後輩の前では毅然とした態度であれこれ指示を飛ばしていた真緒が、こうして人知れず弱音を吐いているのだと知って、翠の憂鬱はいっそう膨れ上がった。この人ですらそうなのだ。慣れるわけがない。新しい肩書きも、やたらと近く感じる桜の木の枝も、胸元の青い布地にも。
むずがゆく噛んだ下唇に、真緒は目に見えてまばたきを増やした。気まずい沈黙ののち、翠を気遣うかのようにして、いつもの下がり眉が現れる。
「悪ぃ! それなんだけど……あはは、スバルのやつ寝坊でもしてんのかな~。それか、すっかり忘れて大吉の散歩してるか、だな。まあいいや。ごめんな、こんな朝早くから呼び出しちまってさ」
「いや、その、別に……家の手伝いとかで、早いのは、慣れてるんで……」
「そうか~? ならよかったけどな。ほんとはさ。昼休みとかのがいいかなって思ったんだけど、俺の方の都合でさ、この時間しか取れなかったんだよ」
ダム、と床を叩くボールの音に、翠の肩が上下する。
「お節介だろうけど、ちょっと心配になっちまって。お前ら、一年生へのパフォーマンスは考えてあるか?」
ああ、くすぐったい。
その名称は、今、自分たちのひとつ下を指す言葉なのだ。
「2winkはメンバー変更もないし問題ないとして……。fineはなんたって、あの皇帝陛下のお墨付きだからな。姫宮のやつ、もう一人で企画を立てるだけの力もあるし、伏見のサポートもある。Ra*bitsの三人も、仁兎先輩に頼らずに頑張ろうってやってきたおかげで、運営のことは一通り出来るようになってるみたいだ。春川にはまだ逆先がついてるし、朱桜のことだって凛月と鳴上がフォローするだろ?」
ひとつ、ふたつ、と右手の指を親指から順にたたみ、最後に小指を折り曲げたところで、衣更はちらりと視線を翠に投げた。
「まあ、その。なんだ。お前ら、大丈夫かなって」
下がり眉のまま、はぐらかすように笑うと、真緒は小脇に抱えていたボールを指の上で回し始めた。
「仙石にも声かけといたんだけど、あいつはなんていうか、変なとこで豪胆だからさ。まあ拙者たちでなんとかするでござるよ~とかいって、なーんかイマイチ状況がよく分かんなかったんだよなぁ~」
伸ばした語尾が、高い天井に吸い込まれていった。
静まり返った朝の体育館に、また一瞬、沈黙が横たわる。
「……だからお前に言っとこうと思って」
交わらなかった視線が、ついに絡んだ。
ごくり。乾いたのどに、唾が落ちる。
「い、一応。考えて、あり、ます。……流星隊歌をやるんで」
間違えませんように。
本番でもないのに、祈るような気持ちだった。
「返礼祭の時、みたいな配置で。守沢さんのパートを鉄虎くん、深海さんのパートを俺が歌うってことで……。俺が、歌うのに、必死になっちゃうんで。そのぶん忍くんが、舞台を飛び回るようなパフォーマンス、多めで。……って感じ、です」
再び訪れた沈黙に、息苦しさは増した。呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。答え合わせを待つにしたって、テストの時とはわけが違う。教えられたことをきちんと覚えているか、なんて、単純な話ではないのだ。
正解はない。
多分、誰にもわからない。
それなのに、試されて、時には手酷く批判されて、冷めた目つきで「もういいよ」なんて言われたりする。
――この人に限っては、間違ってもそんなこと言わないだろうけど――そうと分かっていても翠の動悸は収まらなかった。黙り込んだ翠の前に、ふー、と長いため息が落とされる。
「そっかそっか、ちゃんと考えてんだな。あ~よかった……」
大きく肩を落とし、ボールを抱え込んだ真緒に、翠は別の焦りを覚えた。
「いや、考えたっていうか、俺はなんにも……ほとんど鉄虎くんと忍くんが決めたようなもんで……」
しどろもどろになりながら、首をすぼめる。罪悪感にも似た、大きな黒い塊が、重たく頭にのしかかって翠を俯かせる。
視線の先の長い足は、まだほんの一歩だって、ここから動いちゃいない。
それなのに、“ちゃんとしてる”みたいに思われるのは、なんだか嘘をついてるみたいで。
「俺もさ。大事なところは北斗やスバルがバシッと決めちまうから。……俺ってなんにも出来ねーんだなって、思ったこともあるよ。何回も」
――翠くん。
「けど、大きな流れを作るには、土台が必要なんだ」
まっすぐ。まっすぐ。
ふと、いない熱源が、背中に触れた気がした。
「絶対。ここ一番、って時に、上でどんだけ好き勝手暴れても、崩れない土台ってやつが。損な役回りだけどさ。いざって時、そういう力が爆発したりするんだぜ。高峯」
恐る恐る顔をあげると、真緒は真剣な眼差しで翠を捉えていた。
夢は叶う。
そう言い放たれたあの日の、身を切るような寒さだけが、ゆっくりと思い起こされる。
他人事だと思っていた。
次の春に、自分を待ち受けるのが、そんな輝かしいものだとは思いもしなかった。
今も、まだ。
「支えてやれよ? 無限に育つ大自然、だろ! そら構えろ! パス!」
「うわっ!? だっ、やめ……!」
思わず顔面を手で覆った翠に、真緒はボールを飛ばすのを止め、少し困ったように笑った。
★
「えーっと、それで確か、去年のfineとKnightsって、オーディションしてたんだよな?」
「はい! それと、その前に書類選考があったって、桃李くん言ってました」
「ってことは……いったん書類選考のためのフォーマットを作って、期限決めて、提出してもらって……人数絞れたとこでオーディション用に部屋を確保して……」
「ちょっ、ちょっと待ってほしいッス! メモが追いつかないッス!」
もたつく右手を力任せに動かしながら、鉄虎が叫んだ。
はっとした表情で鉄虎を見た二人は、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ごめん鉄虎」
「いや、申し訳ないのはこっちッス……もう大丈夫なんで、話続けてほしいッス」
視線を下に向けたままそう言うと、鉄虎は険しい表情で眉をひそめた。これ、あとから読み返せるんスかね。書き殴った不恰好な文字を睨みつけていると、友也と創が気遣うように目配せをして、一呼吸置いた。それが余計に申し訳なく思えて、鉄虎は肩を強張らせた。
「うっひゃあ~」
頭上から間抜けな声が上がる。
三人が顔をあげれば、二つの似た顔が、別々の表情を浮かべて机の上を見下ろしていた。
「な~んかさ、ホント大変なんだね! 俺たちそういう面倒なことなくてよかったよね~ゆうたくん!」
「確かにそういう苦労はしなくて済むもんね……っていうかアニキはなんでここにいるわけ?」
「ええ~? だってこのメンバーでオレだけA組だなんて! 酷すぎるよ! 生徒会長の陰謀だ! 今年こそゆうたくんと一緒のクラスだって信じてたのに!」
「いや。お前ら一緒にしたら先生たちどっちがどっちか分かんなくて困るって」
「ふふ、そうですね。僕もまだまだ一瞬じゃ判別できませんし」
「あとうるさい、ひなたが」
「おまけに鉄くんとも離ればなれだなんて! あんまりだ! 残酷だ! 鉄くん、アタイがいないからって浮気なんかしちゃダメなんだからねっ!」
「聞いてないよこいつ……」
呆れたようについた友也の溜め息に、続く言葉はなかった。気付いた友也が、創が、ゆうたが、ほんの少し目を見開く。ひなただけが一人、臆することなく、その沈黙に触れることを選んだ。
「おーい。てーつくーん? お返事ないと寂しいよ~?」
頬に触れそうなオレンジの髪が視界を横切ってようやく、鉄虎は弾かれたように顔を上げた。
「うわっ! 近ッ! なん、え、なんスか?」
「だから、俺がいないからって浮気しちゃダメだよ~? って話!」
「はは。なんスか~それ」
「ええ~!? 何その反応! もっと寂しがってよ! もう朝教室に入ってもそこに俺の姿はないんだよ!?」
「いや全然居たじゃないッスか今日」
淡々と続く指摘に、ひなたが反論の息を吸う。吐き出そうとして、思い留まる。
ぼんやりとした琥珀色の瞳は、机の上の乱雑な文字を見下ろしていた。
「それに、まあ。離れたのは、ひなたくんだけじゃないし」
もう一度、友也と創が、静かに目配せをする。
ゆうたの目が、それと同じ色、同じ形の瞳を、ほんの一瞬伺うように見た。
「寂しい? 鉄くん」
んん~、と低く唸り声を上げて、鉄虎は首をひねった。投げかけられた言葉を、自分に当てはめようとしても、どうにもしっくりこない。確かに不思議な気分ではあった。低く見せようとするせいで、変に悪目立ちするあの栗毛色の頭が、同じ教室にいないというのは。かといって、去年の自分たちも四六時中一緒に居たわけではないし、寂しがるほど距離が近かったのかというと、それは違う。むしろ今の方が落ち着くような気すらする。
そういう類いの不安ではないのだ。
この、みぞおちの辺りの、消化しきれない異物感は。
「……代わりに。忍くんが一緒ッスからね~。寂しいとか、そういうのはないッスけど……」
「そう! 俺は今年も忍くんと同じクラス! ありがとう神様衣更様!」
「っていうかお前ら、別に会長がクラス分けしたわけじゃないからな? あんま言ってやるなよな~あの人真面目に受け取っちゃうぞ?」
「あれっ? そういえば忍くん、どこ行っちゃったんでしょう」
「あ、諜報活動ッス。一年の教室、チラッと覗いてくるって」
自分の書いた漢字の間違いを、ぐりぐりと黒く塗りつぶしながら、鉄虎は答えた。十数分前、昇降口で鉄虎と一緒になった忍は、教室までやってきてひなたとゆうたに挨拶をすると、自分の机に鞄を置いて廊下へと飛び出していった。いつものように軽快に上履きの底を鳴らして、あっという間に忍の背中は見えなくなった。一年の教室。まだ馴染まない呼び方も、忍が言うと、当たり前のことのようだった。
「あ~あ、俺も一緒に行けばよかったなあ。忍くん、日に日に足が速くなってるんだよね。追いかけようとしたのにさ」
「あっはは! 今朝のは早かったね~! さっすが忍者!」
「笑い事じゃないよ、結構いろんな意味でしょんぼりしたよ、俺……」
ぼそぼそと呟いたゆうたに、ひなたは軽やかに笑った。その横で、よし、と頷いた友也が、空気を切りかえるように両手を叩いた。
「そんじゃ、とりあえず朝の会議はこの辺にしとくか!」
「午後はフォーマット、一緒に考えましょうね! 僕、お昼休みになったら桃李くんに去年のこと、もっと聞いてみます」
「押忍! 本当に助かるッス!」
「ふふ。助かってるのは俺も同じだって、何度も言ってるだろ。リーダーなんて……柄じゃないしさ~。正直鉄虎が同じクラスでほっとしたよ。一緒に頑張ろうな」
友也がくたびれた声で弱音を溢すと、ようやく鉄虎の肩から余計な力が抜けていった。それがお世辞や励ましの類いであったら、きっともっと、落ち込んでしまっただろう。安堵の息をひとつ吐いて、鉄虎が弱々しく笑い返すと、友也もほっとしたように笑った。隣で創も、優しく目を細めていた。
「うんうん! 頑張れ頑張れ~! いい後輩から引き抜かれちゃうからね、やるなら早い方がいいと思うよ!」
「はは。余裕っつうか、他人事ッスね~ひなたくんは」
「ふふん。そりゃあ2winkは俺とゆうたくんとで既に完成されちゃってるからね! 三年生が抜けたユニットには悪いけど、今年はトップの座、もらっちゃうよ!」
「より一層高みを目指して精進! って気持ちはもちろんあるけどね。油断大敵!」
「ま、簡単に負けちゃう気なんかこれっぽっちもないけど! そういうわけで、鉄くんもファイトファイト~!」
「ん~、そッスね……」
曖昧に頷いて、首の後ろをかく鉄虎の仕草に、二人は思わず顔を見合わせた。
二度ほどぱちくりと瞬きをして、ぴったり同じ速度で鉄虎に向き直る。
「乗り気じゃないの? すごい数の志願者だって話だけど……嬉しくない?」
少なくとも、朝会った忍はかなり興奮した様子でゆうたに報告してきた。拙者、ここまで来るのに何人も声かけられて、もうマジめちゃめちゃにビビったでござる。身ぶり手振りをまじえながら、小さな体をぴょんと跳ねさせる忍は、その数秒後に、赤らんだ頬のまま教室から飛び出していった。それに引き換え、鉄虎の纏う空気の重さといったら、憂鬱を越えてどこか危うさを感じるほどだった。
「いや、嬉しいッスよ。俺だってほんとは嬉しいんス、去年の俺たちの……頑張りが、実ったってこと、だし、でも」
思わず両手で額を押さえて、机の上に覆い被さる。
肘の下で、ずる、とルーズリーフが動いて、鉄虎の体は少し沈んだ。
「隊長……守沢さんに憧れて、って子が多いのは、事実だし。それに」
まばたきの隙間に、浮かんだのは去年の春。
こんなはずじゃなかったと愚痴ばかりだった、数ヶ月間の苦い記憶。
「本当にヒーローに憧れて名乗りをあげた子たちが、俺みたいなのにふるいにかけられるのって……それってなんか、すごい――」
理不尽だな、って。
「鉄くん」
呼び声に、顔を上げる。
めったに見せることのない冷ややかな瞳が、遠く、ここにはない何かを見据えるように、細められている。
「世界はね、理不尽にできてるんだよ。俺たちが生まれる、ずーっと前から」
どき、と心臓が跳ねる。
最後まで言ってないのに、なんで。
自分の内側を見透かされたような、あるいは透けた身体の更に向こう側、もっと別のものを見ているかのようなひなたの言動に、鉄虎は何と返事をすべきか迷った。真意を図りかねているうちに、ひなたは細めていた瞳をパッとまるくして、いつものように笑った。
「だから、気にしなーい、気にしない! 鉄くんは見かけによらず難しく考えすぎなんだからさ! もうちょっと流れに身を任せてみてもいいと思うよ?」
労るように二度、軽く肩を叩かれて、鉄虎も少し笑った。どうしてそんなことまで伝わるのだろう。ひなたの方こそ、見かけによらず、よく考えている。自分のことよりも、うんと、誰かの心のことを。
「そう言うアニキは、ちょっと流れに身を任せすぎだと思うけどね」
沈黙を守っていたゆうたが、大袈裟に呆れてみせる。
「そんなことないよ! 時々いい感じに任せてるだけ!」
ひなたが反論した。鉄虎は笑っていた。まだ、どことなくぎこちなかった。
数分して、忍が転がるように教室に入ってきた。おかえり、と鉄虎が言う隙もなく、一目散に駆け寄ってくると、忍はその勢いのままゆうたの背中に飛びついた。
「ひっ、ひとがたくさんでヤッベエでござる!」
「あっはは! そりゃあそうだよ! 出てった人数と同じか、それ以上に入ってきてるんだもん。おかえり忍くん」
「ゆうたくんただいま~! いやまあそうなんでござるけど! 拙者、忍術を駆使してあんなに巧妙に隠れてたのに、見つかって仙石忍だーって言われちゃって! ちょっとした騒ぎになっちゃって、慌てて逃げ帰って来たんでござるよ!」
「えっ? 名指しッスか?」
思わず鉄虎が聞き返すと、忍はぜえぜえと息をしながら、うん、と頷いた。
「拙者も聞き間違いかな~と思ったんでござるけど。なにせ拙者、この一年アイドルとしてそれはどうなの? ってくらい忍んできたでござるし」
「え? いやいや忍くん、結構最初から忍んでなかったッスよ」
「えっ!?」
「えぇっ?」
「はは、忍んでるやつは一人で同好会立ち上げたり、自主的に外の仕事拾ってきたりしないよ。なぁ、鉄虎」
「そッスよ。風雲絵巻の時だって、先陣切って企画練ったりしてくれたじゃないッスか」
「いやあれは拙者が企画したわけではなく! 神崎殿が声をかけてくれただけでござるし!」
「でもぼく、ウィッシングライブはほとんど仙石くんのアイデアって聞いてますよ」
「ああ~! あれな! すごい規模だったよな。各ユニットから一人ずつなんてさ」
「あ~れも三毛縞殿が協力してくれたから出来たんであって拙者が特別何かしたわけでは~」
「いいじゃんいいじゃん! 忍んでなんかいられない~って自分でも言ってたんだしさ! 目立っていこうよ忍くん!」
「ひ、ひなたくんそれ聞いてたんでござるか!? は、はずかしいでござる~!」
「ちょっとひなたくん、あんまり忍くんをからかいすぎないでよ」
「ゆうたくんてば、あの時ライブ出れなかったからって俺に当たるのは格好悪いザマスよ?」
「そういうんじゃないから! あれは確かに俺もすっごく出たかったけど!」
むきになって言い返すゆうたの背中から、するりと忍が抜け出して、鉄虎くん、と小さく声をかけてきた。
「さっきね、拙者のこと……流星イエローって。言ってくれた子がいたんでござる。ちっちゃい声だったし、びっくりしちゃって、ちゃんとは見れなかったけど……すっごくキラキラした目だったんでござるよ」
えへへ、と照れ臭そうに笑う忍を、鉄虎はまっすぐに見た。上気する頬のその奥に、誰かの憧れが見える。去年の自分も、同じように光線を放っていたからわかる。
「きっと、流星隊のこと、すっごく好きなんでござるな」
ズキ、とみぞおちのあたりが軋む。
「……むふふ。拙者たち、本当に今日から先輩なんでござるなぁ」
嬉しそうにこぼした忍の声に、鉄虎は重く、うん、と頷いた。わかる。痛いほどにわかる。だから余計に考えてしまうのだろう。まっすぐな憧れが、必ずしも昇華されるわけではないのだという現実を。
五人揃って流星隊。
選ばれるのは、二人だけ。
★
「……そっか。じゃあ、やっぱり新入生、入れるんだ……」
弁当箱の白米に箸をつけながら、翠はため息混じりに呟いた。
「いれる、って、いうか……志願者がいるのに、選考しないわけにはいかない、っていうか……」
薄暗い表情で口ごもると、鉄虎も手にした焼きそばパンの封を開けた。頭上のスピーカーからは、お昼の放送です、と忍の声が響いている。数秒、間があいて、今度はもっと長く、大袈裟に、ため息の落ちる音がした。翠はそれを黙って聞いていた。
「普通に、三人だけでもやっていけるはず、って張り切ってた分、なんか……力の具合が変なんス。駄目ッスね、何事も柔軟に対応しなきゃってのに。俺、融通利かなくって」
うつろに落とされた視線の先で、手付かずのままの焼きそばパンが、くしゃりと握られる。
いつの間にか、スピーカーからは音楽が流れていた。返礼祭で2winkが歌った曲だった。
「それは……しょうがないよ。俺もかなり、戸惑ってるっていうか……」
「うん」
「すぐに切り替えられる方が、特殊じゃん……」
「でも友也くんたちはやれてるんスよ」
「そりゃ……紫之くんたちはそうだろうけどさ。おんなじようにはできないよ」
「そんなこといったらずっとなんにもできないじゃないッスか!」
ビク、と身をこわばらせ、翠は一瞬、息をとめた。しまった。引いていく血の気に、恐る恐る顔を上げる。伸びた前髪の隙間から、鉄虎の大きな瞳が見える。
ほんの一瞬の、怯えたような表情。
「あっ、ち、ちが……ち、ちょっとびっくりしただけ、だから。俺、別に、なんとも……大丈夫、だから……」
「――うん」
頷いた鉄虎は、ハの字にしていた眉毛をぎゅっと寄せて、何か堪えるように、小さく唇を噛んだ。
「ごめんね」
「あ、謝らないでよ……ほら、なんでも言うって決めたんだしさ……」
「うん。でも」
心臓のあたりが痛む。
翠は、細く長く、息を吐き出しながら、目を逸らした。
正面から放たれるまっすぐな熱に、耐えうるだけのものが、翠にはない。
「やっぱり、今の言い方は悪かったと思うッスから。ごめんね、翠くん」
あぁ。なんでこうなるのかなぁ。
「……ううん。俺の方こそ」
浮かぶ想いに反して、体は曖昧な返事しかできなかった。放送は、随分前に終わっていた。もうすぐ行かなきゃッスね。一口もかじられなかった焼きそばパンは、どこか物憂げにくたびれていた。鉄虎はものの数秒でそれを詰め込むと、広げていたルーズリーフを片付け始めた。翠は、水分の飛んだ白米の表面を眺めて、また深く息を吐いた。
心も、言葉も、体も、なんて重たいんだろう。
ひとつだって思うように動かせない。
それどころかひとつ駄目になると、あとがつっかえて、何もかもが止まってしまう。
「翠くん、お弁当」
気遣うような、珍しいくらい控えめな声で、鉄虎がこぼした。
「あと十分も、ないッスけど」
鉄虎くんは悪くないのに。
「うん……あとで食べるよ」
鉛のような体を引きずるようにして、翠はようやく弁当箱のふたをしめた。静かに待つ鉄虎の、くすぶるような視線に急かされて、ぎこちなく荷物をまとめる。戻ろっか。鉄虎が言って、先を歩いた。廊下へ向かう鉄虎の足取りは、固い表情に反して軽い。時折確かめるよう���振り向いてくる琥珀色に、酷く申し訳ないと思いながらも、翠は何も言えなかった。
なんで。
「じゃあ、また放課後に」
教室の前で別れたあとも、翠はしばらく動けなかった。チャイムの音で我に返る。お腹すいたな。今になってぼんやりそんなことを考える自分が、情けなくて仕方なかった。
どうして動けないんだろう。
どうしてみんな、こんなものを、当たり前のように動かせるんだろう。
俺は、俺だけが、ぐずで、のろまで、座り込んで泣くことしか出来なかったあの日のまま。
しみるような夕陽のオレンジが、まぶたの裏によみがえる。それは翠のからだを絡めとり、呪いように留まり続け、終わりのチャイムが聞こえても消えることはなかった。中身の詰まった弁当箱のことを、翠が思い出したのは終礼の少しあとだった。
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序章 雨降って地、ぬかるむ
「忍くん」
いつもの快活な声とはまったく真逆の、消え入りそうな音色に、忍は最初、別の誰かに呼ばれたのだと思った。
思わず周囲を見回そうと、視線だけ動かして、やめた。今この視聴覚室にいるのは忍と、もうあと一人だけだった。それだけは疑いようがなかった。そしてそのか細い声は、間違いなく目の前の人物から発せられたものだった。
「どっ……」
どうしちゃったんでござるか。
声をかけようとして、忍は喉を詰まらせた。くっつけた二つ分の机を挟んで、向かい合ったひとの表情はやけに暗く見える。頭上から降り注ぐ蛍光灯の青白い光が、俯く頬に、その下に広がるコピー用紙の束に、不穏な影を落としている。忍は言葉を探した。単に難しい顔つきだとか、真剣になって眉をひそめる仕草だとかはよくあることだった。真面目だけれど少しばかり不器用なその人は、慣れない申請書の作成によく独特の唸り声をあげていた。どうしたでござるか。事務仕事ばっかりで疲れちゃうでござるな。拙者たちも、だんだんこういうのに慣れていくんでござろうか――忍はそのたびに明るく場を取り持って、重くなりがちな空気を蹴散らしてきた。それが自分の役目だと思っていた。
けど、今のは。
ごくり、と唾を飲み込む音が響いた。何か、あったんでござるか。意を決しておずおずと口を開いたその瞬間、忍の用意した言葉を押し戻すかのようにして、鉄虎はぱっと顔をあげ、いつも通りに目を細めて力強く笑った。
「これ。さっさと片付けて、みんなで帰ろっか! 翠くん時間通りに部活終わるッスかね~」
視線を申請書の上に落とし、慣れない油性ボールペンを走らせる鉄虎は、小さな鼻唄を一瞬響かせて、黙ってしまった。伏せられたまつげから、それ以上のことは読み取れなかった。
ちょうど、梅雨が明けるかどうかのさかいめだった。
朝方曇っていた空も既に晴れ渡り、鮮やかな夕日を輝かせている。けれど、窓から射すオレンジの光は、鉄虎の頬の片側にだんだんと濃い陰を刻んでいき、忍の不安を静かに煽った。
聞けばよかった。
忍が心の底から後悔したのは、数日あとのことだった。
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なんにもないや 全8話
カップリング/ReS。・・・鉄虎&翠
※ ES時空にいかなかった新流星隊の捏造小説
※ 新2年生全員とオリジナル1年生が登場します
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そよぐ枝葉に偽果の芯
ReS。・・・巽&藍良
カップリングではない赤スートの信頼関係のお話
知る力と見抜く力とを身に着けて、
あなたがたの愛がますます豊かになり、
本当に重要なことを見分けられるように。
(フィリピの信徒への手紙 第1章9節〜10節)
風早巽、って、すごいお名前ですよねぇ。
呟いたマヨさんの、ほう、と肩を下ろすような動きに、おれは首をかしげた。
タッツン先輩の名前?
口に出した途端、バカみたいにおんなじこと聞き返しちゃった、と恥ずかしくなったけど、マヨさんはおれのことを馬鹿にするでもなく、生温かい目を向けるでもなく、ほう、とした表情のまま、そうです、そうです、と二回頷いた。
名は体を表す、とは、よく言ったものですけど。実際にそのさまを目の当たりにすると、私、どうしてもおののいてしまうんです。私には、あまりにも眩しすぎて。
切れ長の目をゆっくりと更に細めて、マヨさんは言った。おれは胸のどこかがギュッと痛くなって、マヨさんと同じように目を細めた。
なんかわかるなァ。
おれが言うと、マヨさんは眉をハの字にしたまま、急にニコッと三日月みたいな目をして笑った。
藍良さんも、充分に可愛らしくて、眩しい存在ですよ。
おれはその視線に、いつものごとく居心地の悪さを感じて身をよじる。ねぇ、マヨさんはタッツン先輩のどのへんが眩しい? どうにか話題をそらしたくて尋ねたおれの頭んなかは、穏やかにゆっくりと頬をさらうようなタッツン先輩じゃなくて、もっと鋭くて、一直線に駆け抜けてくるツバメが起こす、どう頑張っても避けようがないつむじ風みたいな――そんなやつのことでいっぱいだった。
マヨさんは、なんでかさっきはしなかったはずの生温かい目をしておれを見て、また少し不気味に笑った。そうですねぇ。うんと細められていた目は、一度ゆっくりと閉じられたあと、なめらかな動きで左下へと向かう。
風、という単語があれほど似合う方も、なかなかいらっしゃらないと思いますが……やはり印象が強いのはお名前の方でしょうか。巽、というのは、南東の方角を指す言葉ですけれど。あの字は、ゆずる、とも読みますから。卑しい私はどうしても、我欲に塗れた己の醜悪さを責められているように思ってしまって。
ポカン、と口を開けてしまったおれに、マヨさんは飛び上がりそうなくらいに肩を震わせて、ごめんなさいごめんなさい、と慌てた様子で首を振った。わわ私なんかの言葉じゃ何も伝わらないですよねぇぇ訳のわからないことを言ってしまってすみませぇぇんっ!
おれは呆れてしまって、思わず息をついた。マヨさんがまた怯えたように小さな悲鳴を上げたから、すぐにハッとして、だめだめ、と大きく頭を振る。
謝んなくていいんだよォ、おれの物分りが悪いのがいけないんだろうし……ごめんねマヨさん。
しょぼくれたおれに、マヨさんはしばらく黙ったあと、縮こまっていた身体を元に戻しながら穏やかに笑った。
巽、という漢字を見てみましょうか。藍良さん、スマホはお持ちですか?
うん、と返事をしながら、おれはポケットに手を突っ込んだ。たつみ。打ち込んだ文字に、予測変換がバタバタ暴れて、見慣れた文字を先頭に持ってくる。
己という字がふたつ、隣同士になっているでしょう?
マヨさんの声が飛び込んできた瞬間、おれはあっと声をあげていた。わかる。わかった。これがものすごくタッツン先輩っぽい字ってこと。マヨさんはおれの声を聞いて、そうでしょうそうでしょう、と満足そうに大きく頷いたあと、ほう、とした表情に戻っていった。おれは静かに、マヨさんの言葉の続きを待った。
汝の隣人を愛せよ、という言葉がありますが。あの方の名前、魂の在り方は、まさにこの言葉が相応しいことでしょう。ですが、生まれ落ちた瞬間からこれほど崇高な理想を負わされて、何故あんなにも心穏やかでいられるのか、と。……私は不思議でたまらなくて。
真昼の太陽から目を守るみたいに、つう、と細められたターコイズグリーンは、どことなくおれたちのユニットカラーと似ていた。
清らかで、痛い程、眩しくて。
……私には逆立ちしたって出来ないことですから。
マヨさんは、下げっぱなしの眉尻を余計に下げて、片頬だけを歪めて小さく笑った。本当のところ、そうかなァ、とおれは疑問に思ったけれど、その長いまつげが落とす影の濃さにどうしても身に覚えがあって、結局最後には黙ってしまった。そっかァ。そんなふうに、曖昧な返事をしてしまったと思う。頭のなかを、真っ赤なツバメが駆け抜ける。そうだよねェ、と言えなかったのは、おれにとってのマヨさんだって充分に痛いほど眩しかったから。
あれは、一体いつどこで話したんだっけ。目まぐるしく夏が過ぎて、おれたちはおれたち自身をどうにか守れたみたいだけど、みんなが眩しいのも、おれだけが「もどき」なのも、なんにも変わらないまま、ただ雲だけがだんだんと薄く高く青空の上を流れるようになっていった。
◆
ちょっとした二度寝のあと、遅めの朝ご飯を食べて散歩することに決めたのは、人恋しさのせいだった。
よく晴れた空のした、両手の指を絡ませて、うーんと大きく伸びをする。食べたばかりのフレンチトーストがおなかを圧迫して、おれはすぐに腕をおろした。足取りは、思ったよりも軽かった。こういう時、最初に向かう場所はここ、って決めてあるからかもしれない。きれいに舗装されたライトブラウンの道を踏みながら、空を見上げる。きっと会えますように。わざわざ手を組むことはしなかったけど、おれは無意識のうちに、会いたいひとの仕草を真似ていた。だんだんと強くなる花のかおり。歩くスピードをちょっとだけ落として、きょろきょろと、注意深く辺りを見回す。普段、みんなと一緒にいる時はそんなこと絶対にあり得ないのに、ひとりでいる時の先輩は、あんまりにも違和感なく草木やお花の中に溶け込んでしまうものだから、おれは時々、あのひとのことを見逃してしまう。
遠く小さく噴水が見えてきた頃、そのすぐ近くにしゃがみ込む見慣れた後ろ姿を発見して、おれは思わず駆け出していた。
「タッツンせんぱァ~い!」
大声で呼ぶよりもほんの少し早く、どうしてかおれに気付いたらしい先輩は、おれの声が響くのとほとんど同時に顔をあげて、こっちを向いた。
「おはようございます。藍良さん」
穏やかな笑顔が、こんなに遠くからでもよく分かる。
地面を蹴る足に自然と力がこもった。そのままでいいのに、タッツン先輩はわざわざ身体を起こして立ち上がった。
「どうされました? 俺に何か、急ぎの御用ですかな」
転がり込むみたいにタッツン先輩の正面まで駆け寄ったおれは、そのまま抱きつくのをなんとか抑えて急停止した。
「ううん。最近あんまりみんなと会えてなかったから、タッツン先輩のこと見つけられて、嬉しくなっちゃった」
ドキドキしたままの心臓を右手で撫でつけながら、思ったことをすっかり吐き出して、おれはだらしなく「えへへ」と笑った。今のおれ、めちゃくちゃこどもっぽくて、恥ずかしいな。じんわりと熱くなってきた両耳のことを、タッツン先輩は満面の笑みで吹き飛ばした。
「俺も、藍良さんにお会いできて嬉しいですよ」
こんなセリフを、握手会でもないのに、あの風早巽に言ってもらえるなんて。
おれは舞い上がっちゃって、もう一度ふにゃふにゃの声を出して笑った。
「えへへ。嬉しいなァ。さっきね。おれ、タッツン先輩に会えますように、ってお祈りまでしちゃったんだァ」
「ふふ、それはそれは。光栄なことですな。では、天に祈りが通じたこと、俺もともに感謝いたしましょう」
先輩は細めていた目をほんの数秒だけ閉じて、そしてゆっくりとおれを見た。
静かになったおれたちの間に、ぱしゃぱしゃと噴水の音が流れていく。
「藍良さん。俺でよければ、祈りを捧げるまでもなく、スマホで呼び出して頂ければどこへなりとも伺いますよ」
おれ���そこで、自分の心臓がすうっと落ち着いていることに気が付いた。
じゃあ、今度会いたくなった時は、連絡するねェ。
おれが言うと先輩は、是非、と笑った。
「タッツン先輩は、お庭のお手入れ?」
「ええ。ちょうど、つい先程まで、高峯さんと一緒に水やりと野菜の収穫を行っていました。今は、草木たちの色や呼吸に癒やされていたところです」
目線を下に落として、タッツン先輩が言った。めいっぱいに花を植え込んだカラフルな花壇じゃなくて、整えられてるのかどうかもわかんない雑草みたいなほうを向いて言うもんだから、おれはやっぱり、先輩ってちょっと変わってるなと思った。
「野菜の収穫かァ。そういえば高峯先輩、こないだちっちゃいキュウリの写真、見せてくれたっけ。あれ、ラブかったなァ」
「ふふ。藍良さんと高峯さんは、同じ部活動の仲間でしたな」
「そうそう。バスケ部ね。ていっても先輩、ほとんど顔出さないし、おれも別にあんまり行かないけど。でもレアな日だと寮まで一緒に帰れたりして……あっ。たま~にタッツン先輩の話題も出るんだよォ」
「俺の?」
キョトンとした顔で聞き返してきたタッツン先輩に、おれは思わずにやけそうになる。レア反応、頂きました、って感じ。だぁいすきなタッツン先輩の、こんなにもラブ~い一面を見せてもらえちゃうなんて、おれって今日も幸せ者だなァ。
「うん! 高峯先輩も、タッツン先輩のこと、優しくって頼りになるって。おれさ。それ聞くと、なぁんか自分のことみたいに嬉しくなっちゃうんだァ」
大好きなもの。
大好きなひと。
ずっと、「変」だって。「おかしい」って言われてきたこと。
それを他の誰かにも褒めてもらえることが、嬉しくてたまらなかった。そうでしょ、そうでしょ、って手を取り合って踊り出したい気分。おれが推してるだぁいすきなひとは、こんなにもラブくて優しいんだよォ、って世界中に見せびらかしたくなる。
タッツン先輩は、黙っておれの話を聞いていた。
おれはハッとして、おればっかりしゃべりすぎちゃったことを少し反省して、慌ててタッツン先輩の目を見た。
「ねェね、このあとは何の収穫があるの? おれもラブ~いのがなってるとこ、見てみたいなァ」
話題を振られた先輩は、ぴくりと眉毛を上下させて、穏やかな微笑みのうちに、ほんのりと真剣さを漂わせた。
「そうですね、夏野菜がちょうどこれで終わってしまいましたから……」
タッツン先輩が、菜園のある方向をちらっと見たあと、考え込むようにしてあごに手をやる。おれはそれを聞いて、ちょっとだけ肩を落とした。なあんだ。こんなことならもうあと一時間だけでも早く起きるんだった。おれ、タイミング悪いなァ。でも、だって、部屋が変わってから緊張であんまり寝られなくて、休みの日はなかなか起きられないことも多いし、今日はどうしても、のんびりしたかったし。
ウジウジし出した自分のことが嫌になりかけたその時、タッツン先輩は目だけを動かしておれを見て、一度大袈裟に「ふむ」と頷いてみせた。
「しばらくは、植え付けが中心になるそうです。藍良さん。実は今度、苺を育てよう、という話が出ているんですよ」
「えっ! いちごォ!」
おれが勢いよくオウム返しすると、タッツン先輩は唇の両端をきれいに持ち上げてニッコリと笑った。
「スイカの栽培に成功したことが嬉しかったんでしょう。ひなたさんは、苺もいいけど実のなる木をドーンと植えよう、なんて、今から張り切っていますし。……藍良さん、よければ座りますかな」
お時間が許せば、ですが。
そう言ってタッツン先輩は視線を奥へと向けた。座るって、テラスのところ? と思ったら、タッツン先輩から少し離れた場所に、布地の背もたれがついた黒いアウトドアチェアが一脚、ぽつんと置いてあった。
「今朝、部屋を出る際に晃牙さんが、貸してやるよと申し出てくださいまして」
ニコニコ顔のまま言ったタッツン先輩に、つられておれも嬉しくなった。さっすが大神晃牙。あのひと、ウワサの神対応が素だったってことがまずもってすごいんだけど、何よりおれたちのだぁいすきなタッツン先輩のこと、同室のひとが大事にしてくれてるってことが分かって、おれはそれが一番うれしい。
「おれはいいから、タッツン先輩が座って。でも、時間はあるから。もうちょっとおしゃべりしようよォ。ね?」
タッツン先輩は、ピカピカに磨き上げた宝石みたいな両目を更に輝かせると、「是非」と少し高めの声でお返事をして、椅子のほうへと歩いていった。おれはその後ろについて歩く。なんだかおっとりした大型犬が、しっぽだけを元気よく振ってるみたい。そんなこと言ったら怒られそうなものだけど、タッツン先輩なら笑って受け止めてくれる気がするから不思議だった。
「いちご、もうじき植えるの?」
「植えるのは、少し先のことになりそうですな。十月になったら苗を買いに行こうと誘われました」
「へぇ、そうなんだァ。くだものの木は? りんごとか、うーん……柿? とか? ていうかそもそも、木なんてそんな簡単に育てられるもんなのかなァ」
「ふふ。物にもよりますが、意外とすくすくと育ってくれるようですよ。植物はたくましいものですな。俺も見習わなくてはなりません。確かに、野菜と違って年数がかかりますし、地面に直接ではなく鉢植えで、となると少々小振りな果実になるようですが……」
アウトドアチェアの肘置きに片手を添えながら、タッツン先輩が慎重に腰かける。
おれはそれを、ちょっとだけハラハラしながら見守る。
「それもまた、愛らしさを感じますな。己の知恵と時間を惜しみなく与えた存在というのは、どんなものであっても愛おしいものですから」
深く腰かけたタッツン先輩は、おなかの前で両手を組んでから、柔らかくほほ笑んだ。
おれは、その隣にしゃがみこんで、ちっちゃくなって、きらきら光る赤紫の瞳をうっとりと見上げていた。
「ウフフ。いいなぁ。ちっちゃい実がたくさんなってるとこ、おれ、見てみたい。……せっかくみんなが頑張って、手間暇かけて育てるんだもん。いーっぱい、美味しいのが実ってくれたらさァ……うれしいよねェ」
両膝を抱え込んで、ぎゅ、と頬に押し付ける。
どうしてか、心臓のあたりがチクチクと痛む。
「藍良さん」
呼ぶ声に、反射で顔をあげた。
「くだものの果実は、必ずしも我々が食べられるものであるとは限らない、ということを。藍良さんはご存知ですか?」
降り注ぐ太陽の光と目が合いそうになって、思わず片手をかざす。
チカチカする目の奥をなだめようと、おれはまばたきを繰り返した。指の隙間から恐る恐る覗いたタッツン先輩は、さっきと変わらず穏やかにおれを見つめていた。
「えっ、と……どういうこと? くだものは、ええっとぉ、果実のことで……それって食べられるものじゃないの?」
言われた言葉を上手く飲み込めなくて、眉間にしわが寄っていく。
タッツン先輩は、くす、と息をこぼして控えめに笑った。
「偽の果実、と書いて、ぎか、と読む言葉がありましてな。藍良さん、よければ今、検索をかけて頂けませんか。俺はどうも、まだスマホの操作が苦手でして」
おれは、喉のあたりをほんの少しだけ強ばらせながら「うん」と頷いて、おしりのポケットからスマホを取り出した。
本当は、おれ、もうタッツン先輩が上手にスマホを使えるってこと、知ってる。一人で調べものだってできるし、メールもチャットも、ヘンテコな誤変換とかしないし、レスポンスだって早い。これがもしヒロくん相手だったら、自分でやんなよ、できるクセに、なんて怒っちゃうかもしれない。
でも、なんでかタッツン先輩に対しては、おれ、タッツン先輩の言う通りにしてみてもいいかもって思うんだ。
だってタッツン先輩は、ぜったい、おれたちに意味のないことはさせないから。今だってきっとおれがやることに意味があって、そんで、あとは、もしかすると本当の本当にスマホがちょこっとだけ苦手なのかもしんないから。だとしたら、おれはおれにできることで、少しでも力になりたいって思うから。
だからおれはタッツン先輩のことを今日も信じちゃう。
検索ボタンを押して、ズラッと画面上に並んだリンク先を「出たよォ」と見せる。ぱちりと目が合った。ありがとうございます。低く優しく響いた声に、おれの確信は強くなる。
「そうですね、出来れば図解のある……ああ。これなんか如何ですかな」
「……なんか、難しいことばっか書いてある……気がするゥ……あっでもこの図は見覚えがあるかも。んんんん~むかぁし学校の授業でェ~……」
おでこの中心を手の甲でぐりぐりと押して、おれはしばらく唸り声をあげていた。だけどおれの頭の引き出しはどこも開く気配を見せなくて、おれはおれにがっかりしてしまう。なんにも覚えてないじゃん、おれ。ばかじゃないの。ぞわぞわと胸のあたりが騒ぎ出して、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「ではおさらいを致しましょうか」
ふわりと頬を撫でるような、柔らかい声がした。
顔をあげると、タッツン先輩がおれのスマホをすいすいとスクロールしていた。藍良さん、これを。親指と人差し指で拡大された部分を覗き込む。図が二種類あって、下のほうの図に、さっきタッツン先輩が言っていた「偽果」って単語が書いてある。
「この、子房と呼ばれる部分がふくらんだものを、果実と言うんですな。藍良さん、桃や柿のことはお好きですか?」
「う、うん。美味しいから、好き……ええと、桃とか柿の、いつも食べてる部分てこと、だよねェ。あ、みかんもそうって書いてある」
タッツン先輩はニコリと笑った。
正解です。
おれはほっと胸を撫でおろした。
「ええっとォ、じゃあ下の、偽果のほうはァ……りんごとか、いちご……」
おれは、いつの間にかタッツン先輩から差し出されたスマホを両手で受け取っていた。
「……茎? 茎の一部? えぇ~!? おれ、そんなのを食べてたのォ!?」
「ふふ。イメージが掴めましたかな?」
「すごぉ~い、こんなに違うんだァ。全部おんなじだと思ってたよォ~」
ほわァ、と大きく息を吐き出しながら、食い入るように見ていた画面を遠ざける。途端に身体のちからが抜けて、おれはポカンとしてしまった。
「じゃあ、りんごの果実って……いつも切り取っちゃう芯のとこなんだ……」
その通りです、藍良さん。タッツン先輩が明るく言った。
おれはむず痒さにちょっと唇を動かしたあと、またほんの数秒、それを噛み締めた。
「……藍良さん?」
スマホを握る指先に、力が入る。
「なぁんか。さぁ」
心臓のあたりがモヤモヤして、苦しくて、おれはスマホごと自分の両手をそこへ押し付けた。うずくまるような体勢になって、余計に息苦しい。
「桃だって、りんごだって。……同じくらい美味しいのに。ヤだなァ、偽物なんて。なんか、おれたちのことみたい」
地面に落ちた自分の影がやけに濃くて、近くて、そこに向かって悔しい気持ちが溢れだす。
だって、やっぱり許せないから。おれの大事なひとたちを「もどき」だなんて。あんなに眩しいひとたちのこと、劣等生だなんて。
それとおんなじ箱に入れられた、ほんとに「もどき」なおれの気持ちなんかお構いなしで。
「ふふ、そうですな。他者から勝手に偽物だと決めつけられて、それによって俺たちは不本意な扱いを受けたのですから。その気持ちは当然のことです」
どろどろの渦を巻いていくおれに、タッツン先輩の言葉は変わらず優しかった。
伸びる影の黒さが、ほんの少し薄らいだ気がした。
「藍良さん」
名前を呼ばれて、もう一度、顔をあげる。
今度は、ゆっくり。気を付けて。
うっかり太陽のことを直視しちゃわないように。
「俺はね。この真の実のことを、愛おしく思うんです」
ひかりを背負ったタッツン先輩の表情は、薄暗いはずなのに、ちっとも霞んで見えなかった。
「芯のみ?」
ぼんやりした頭で聞き返す。
先輩は、口の端をちょこっと持ち上げた。
「まことの果実、という意味ですな。まあ、この場合は芯と同義なので、それもまた真理でしょう」
おれの聞き間違いと勘違いをカラリと軽やかに、なんでもないことみたいに丁寧に拾い上げて、タッツン先輩は話を進めていく。あ、間違えちゃった、なんて身体がこわばる暇もなかった。おれはそのことに驚くほどホッとして、最後のほうなんか何言ってるのかよくわからないけど、とにかく「うん」と頷いた。
「偽りの果実であっても、美味しいものはある、というのは本当のことです。けれど、その奥にある芯こそが実りの成果であるということもまた、我々にとって大切な事実だと、俺は思いますよ」
タッツン先輩は、目線をおれから外して、どこか遠くのほうを見た。
「美味しいもの、快楽を伴うもの……目に見えて役に立つものだけが。俺たちの心身を支えているわけではありませんから」
不意に、おなかの前で組んでいた指がほどかれる。
骨ばった大きな片手は膝まで伸びていって、関節のあたりを、ゆっくりと一度さするように前後した。おれの目はその動きに釘付けになってしまった。胸が痛んで、ぎゅっとして、だけどどうしてかおれ自身がやさしく頭を撫でられているような、不思議な心地が��た。
「……ですが。そうですね」
ぼうっとするおれに気付いてか、タッツン先輩はおれに視線を戻した。
「俺の言葉も、今の藍良さんにとっては、不要なものと感じられるかもしれませんな」
叱るでもなく、がっかりするでもなく、当たり前のことみたいにそう言ってほほ笑んだタッツン先輩は、一呼吸置いてからおれに向かってまた唇を動かそうとする。
――それもまた。
聞こえていないはずの声が、猛スピードで脳内を横切った。
「ううん」
おれは咄嗟に口を開く。
「タッツン先輩の言葉は、ぜったい、おれにとって無駄じゃないから」
なんでかは、わかんないけど。
でも絶対に、そう。
それだけ分かってる。
「……タッツン先輩?」
長い長い沈黙に、ざあ、っと噴水の音が混ざり込む。
気付けばタッツン先輩は、いつもは三日月みたいな口元を一直線に結んで、おれのことを見おろしていた。おれは手に持ったスマホを落としそうになりながら、慌てて膝立ちになった。
「お、おれ、もしかして何か、変なことを言っちゃった?」
さっきよりうんと近付いた視線に、タッツン先輩は少しだけのけ反ると、ぱちくりと二回、まばたきをした。
「いえ。……俺は、単なる枝のうちの一つですから。俺自身をぶどうの木だと思われては、確かに困るのですが」
さっきまでりんごの話をしていたはずなのに、タッツン先輩は唐突にそう言って、ほほ笑みのあと眉だけを少し寄せた。タッツン先輩がこうやって言葉を濁すのは珍しいことだった。おれはぞわぞわする胸のあたりをなだめるみたいに両手で押さえる。
「……いいえ。でしたら俺も」
タッツン先輩は、両膝の上に無造作に置いていた手をしっかりと組み直して、お祈りをする時のように目を閉じた。数秒して、今度は目だけじゃなく腰の位置を斜めにずらして、おれのほうへと向き直る。
「木と果実とを結びつける、善き枝で在り続けましょう。君にとっての」
その表情に見覚えがあった。
瞬間、色鮮やかによみがえる、舞台袖のワンシーン。
黒の軍帽を被ったあとの凛々しい顔つき。
袖幕を颯爽とゆく足元。巻き起こる風。嵐のなかを突き抜けていく透明な声。
無数のライトが眩しすぎるあの場所で、なにがあってもおれたちを取りこぼさないようにと張り巡らされた、目には見えないちからのこと。
「ねぇ、タッツン先輩」
痛いくらい、眩しい。
「はい。何でしょう」
いつだったかのマヨさんの言葉を思う。
おれに何ができるだろう。
おれは、おれは何を返せるんだろう。
黙ったおれに優しく語りかけてくるその瞳は、うんと小さくてとびきりに甘い、一粒のぶどうみたいにも見えた。
「おれ、ほんと……ばかだし、物分り悪いけどさァ……でも、それでも、タッツン先輩はまたこういうお話、してくれる?」
おれは泣きそうになりながら、せめて大好きなこのひとの眩しさから目を逸らさない人間でいたいと、強く願った。
だって、タッツン先輩がどんなに凄いひとでも、たったのひとりでいるタッツン先輩の横顔は、きっとさびしいから。おれはその隣に、一緒に、並んでいたいって思うから。
だから神さま。
「ええ」
醜いあひるの子でも、どうかまだ居させて。
必死に飛ぶから。
隣にいさせて。
「勿論。……喜んで。愛しい子」
小さなぶどうが、きれいな水を浴びたあとみたいにうるうると反射する。
細められた目のやさしさに、おれは今にも泣きそうで、でも泣いてなんかいられない、って大きく深呼吸をした。
今日はやっぱり、午後から自主練をしよう。無茶して潰れてしまわないように、マヨさんとかに見てもらって。それから、それからあとで、ぶどうの木のことを調べてみよう。難しい言葉ばかりで、なんにもわからないかもしれないけど。おれだけは、みんなみたいに眩しくない「もどき」かもしれないけど。でも、不器用なこのからだでも、知らないものを知ることくらいはきっと、できるはずだから。
今日、この場所で。
おれが検索ボタンを自分の指で押したみたいに。
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風花が夏に染む
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
消毒剤の匂いというのは、かすかであろうとやはり自分にとっては毒の類いなのであろうと、マヨイは思う。
持て余した両手を何度も組み替えながら、鼻をかすめるそれに思いを馳せる。清められた空間というのはどうにもそれだけで居心地が悪い。天井から降り注ぐ蛍光灯の光にはこのひと月ほどで随分と慣れたものの、ここには瘴気を取り除こうとする人々の願いが痛いほど込められている。自分のような穢れた存在がこんなところにいては、その切実な願いを害してしまいそうで、酷く落ち着かない。
――あぁ、ですが。
前回訪れた時は、こんなことを考える余裕など、ありませんでしたね。
緊張によるまばたきを幾度となく繰り返しながら、それでもマヨイはこの居心地の悪さに、少しだけ安堵していた。マヨイがここを訪れるのは二度目だ。あの日は完全に気が動転していた。目の前の人の安否だけがただただ心配で、今これほどまでに強く感じる匂いのことが、ちっとも分からなかった。
自分より慌てている人を見ると逆に落ち着くというのは、本当なのですな。
額に脂汗を浮かべながら、世紀の大発見でもしたかのような顔で、無邪気に言った巽のことを思い出す。何をのん気な、と思いながら、マヨイは必死になってその体を支えた。病院について受付が済んだあと、長引きそうなので先に帰っていいですよ、などと言われても、簡単にはい分かりましたと頷くことはできなかった。
本当に、一日がかりになってしまいそうなので。助けが必要になった際には、必ずマヨイさんに、連絡を致しますので。……一彩さんと藍良さんを放っておく方が、心配なので。
どうか俺の頼みを聞いてくれませんか。最後の最後にそう言われ、まっすぐに目を見つめられてようやく、あぁ、これはもう折れるしかない、とマヨイは首を縦に振った。本当に強情なひとだと思った。一彩と藍良が心配だったのは本心だろうし、マヨイとしても気を揉んでいたので、巽のほうから二人を支える役割を与えられたことは有り難くもあったのだが。
ポーン、と前方で電子音が鳴る。
診察室との間に掲げられた電光掲示板が、三桁の番号を映し出す。診察室、五番にお入りください。アナウンスに従って、一人の患者がゆっくりと立ち上がり、歩いていく。マヨイは長く息を吐き出したあと、馴染みのない清浄な空気をめいっぱい体に取り込んだ。十数分前、青磁色の後ろ髪が吸い込まれていった三番の診察室は、いまだにその扉を固く閉ざしている。
あの日はきっと、帰って正解だったのだろう。
右の親指で、左手の手袋のふちをいじりながらそんなことを考える。ただ待つことしか出来ないというのは思った以上にこころを削られる。きっと巽は、一彩や藍良だけでなく、マヨイのことをも気遣ったのだろう。やるべきことがある、というのはそれだけでいくらか安心を得られるものだ。あの日最後まで巽に付き添っていたら、あまりの無力さに、己を責めてしまったかもしれない。
ポーン、とまたひとつ、電子音が鳴った。
マヨイは静かに深呼吸を繰り返す。薬品の匂い。清らかな人々の願い。肺に満ちていくそれに、けれどマヨイは消えてしまいたいとは思わなかった。今日は決して帰らない。最後まで側に居る。誰に役割を与えられたのでもない。自分の意志で決めたことだった。ひと月前なら、こんなことは考えもしなかった。光におののきながらも、清らかな毒にあてられながらも、マヨイがここに座っていられるそのわけを、くれたのは巽だった。
もちろん巽だけというわけでは決してない。多くの友人を得た今、マヨイの存在を肯定してくれるひとは信じられないほど多くいる。それでも、最初の最初にそれを与えてくれたのは、確かに彼だった。
さんさんと降り注ぐ蛍光灯の白。真新しい匂いが鼻をつくエレベーター。あの日の呼吸のしやすさを、マヨイはきっと忘れることがない。
同じものを返したい。
ただそれだけの願い。
伏せたまつげの先に記憶を思い返していると、がらがらと扉の滑る音がした。失礼致します。低く、それでいて澄み切った声が礼儀正しく響いて、マヨイは顔をあげた。マヨイから見てずっと右側、診察室の奥に向かって軽くお辞儀をする巽の姿が見える。巽は青磁色の頭をゆっくりと起こすと、身を翻して���き出した。相変わらずわずかばかり���足を庇うような仕草はあるが、引きずるほどの不自然さはないので、マヨイはほっとした。
巽はいつもの穏やかな表情で待合室の硬い床を踏み、マヨイの元へと戻ってきた。巽さん。マヨイが小声で呼びかけると、視線が絡んだ。途端に巽がきょとんと目を見開いたので、マヨイは思わず息を飲んだ。
「た、巽さん? どっ……どうかされましたか?」
瑞々しい葡萄によく似たふたつの瞳が、マヨイをじっと見下ろしている。
「いえ」
二、三度まばたきをしたあと、巽は戸惑ったように答えた。一拍遅れて浮かべた笑みは、どこか、ぎこちなかった。
「待合室で、俺を待っている人がいる、というのが。その……どうも、慣れなくて」
随分と、くすぐったいものなのですな。
最後にぽつりと独り言のようにこぼして、巽はマヨイの右隣に腰をおろした。分厚いソファのクッションが、鈍く沈んで音を立てる。横目に盗み見た唇からは、深く長く、息が吐き出されていた。それが疲労の色なのか、ほどけた緊張の証なのか、マヨイには分からなかった。
「あ、あの。いつもは――」
口にしかけて、飲み込んだ。
「……いつも。お一人、で」
数秒ののちに辿り着いた問いかけは、適切なものだったらしい。
「ええ」
当たり前のことのように、軽やかに頷いた巽のことを、マヨイはまっすぐ見ることが出来なかった。
「私」
握っていた両手に力を込める。
しわを作る黒い布地を見つめたまま、マヨイはまばたきを重���た。
「私、ずっと。思い違いをしていました。巽さんは、私と違って……とても、とても優しくて。人望があって、頼りになって、ですから。……ですからきっと。そこには多くの慰めと労わりがあったものだとばかり」
すみません。
込み上げてくる罪悪感から逃げるようにして、謝罪を述べた。それはあまりにも身勝手で、卑怯な行いで、マヨイはすぐに後悔した。ごめんなさい。自己嫌悪と謝罪とを繰り返しながら、深くうなだれてしまったマヨイに、巽は困ったように眉を寄せて笑った。
「マヨイさんは、やはり俺のことを買いかぶりすぎですな」
風早さーん。
看護師が、はきはきとよく通る声で名前を呼んだ。立ち上がろうとする巽の腕をとっさに支えると、巽は少し驚いたあと酷く嬉しそうに微笑んで、ありがとうございます、とマヨイの手を握った。二人一緒に並んで歩いて、看護師からクリアファイルを受け取った。痛み止めが出ています、と説明を受けて、院内を移動する。痛むんですか。おずおずと尋ねると、なだめるような声色で「お守りのようなものですよ」とはぐらかされてしまった。
待合室に並んで腰掛けて、番号が表示されるのを待った。同じように順番を待つ人々は、一人だったり、連れ合いがいたりと様々だった。不安げな表情。慣れた様子。疲れ切った顔。落ち着いた佇まい。見えるようで見えない、ありとあらゆる感情が、人の数だけそこにあり、整然と同じ方向を向いて並んでいる。
「……つらくは、ありませんでしたか」
ポーン、と会計を促す電子音が鳴り響く。
三桁の数字がいくつも掲示板に映されて、前方に座っていた老人が、よろめきながら立ち上がった。
「どうでしょうか。あまり、悲観したことはなかったように思います。一人でいる時も、神は俺と共にありましたし」
問いかけは、電子音に掻き消されることなく、きちんと巽に届いたらしい。失礼なことを聞いたのではないか、とマヨイが青ざめた頃、巽はようやく口を開いた。
「むしろ、それは俺にとって、幸運なことだったかもしれません。自らの過ちを省みる時間が、俺にはどうしても必要でした。俺は……どうしようもなく、人間ですから。虚勢を剥がし、己の罪と向き合う、ただそれだけのことが。一人にならなければ、為せなかったのです。やはり神は俺のことをよく見ておられますな」
穏やかな声だった。
あまりにも穏やかだったから、マヨイは言葉を失ってしまった。
一体この柔らかな面差しに、どれほどの苛烈さが内包されているのだろう。その理不尽なまでの孤独に対し、己を罰するために必要であったなどと、どれだけの人間が同じように言い切れるだろう。眩しいひと。清らかなひと。己の内側に生まれた黒い染みをただのひとつも赦すことができず、渦巻く怒りも後悔も失望も何もかも、たった一人で抱きしめて昇華してしまったひと。
悲しいほどに強いひと。
この世の全てを恨んでもおかしくなかったはずなのに。
「――ですが」
焼き切れそうなくらいに乾いた喉が、細く弱く、息を吸い込んだその時だった。わずかに湿度を帯びた声が、俯き続けたマヨイの顔を上げさせた。巽は、どこか遠くの方を、ぼんやりと見つめていた。
「今。一人きりの病室で、再びベッドに横たわったとしたら、それは」
陰りを見せた紫色が、静かに伏せられていく。落ちた視線の先。くの字に曲げた右の足。おもむろに手を伸ばし、膝のあたりを軽く撫でつけると、巽はまばたきを重ねた。
「それはとても。……とても寂しいでしょうな」
聞き覚えのある声色だった。
思い出す。
よく晴れた空の下。生い茂る木々の緑。
密やかに、無防備にさらけ出されたこころのひび割れ。
ポーン、と電子音が鳴り響いた。はっとした巽が、掲示板の数字を見て「あぁ」と息を漏らす。数人の患者が椅子から立ち上がり、窓口に向かって歩いていく。膝に置いていた手に、ゆっくりと体重をかけていく巽を見て、マヨイは慌ててその腕を掴んだ。巽は、やはり一瞬驚いたように目を見開いて、それからほっとしたように眉尻をさげて微笑んだ。ありがとうございます、マヨイさん。律儀に礼を告げると、巽はマヨイの腕に掴まった。
院内処方の薬を受け取ったあと、会計を済ませて病院を出た。自動ドアのガラスが左右に別れると、途端に蒸し暑い空気が襲ってきて、マヨイは思わず呼吸をとめた。真夏日ですなぁ。感心するように呟いた巽が空を仰ぐ。つられてマヨイも顔を上げる。冴え冴えとした青の空は、もう随分と高いところに太陽を招いている。マヨイは顔をしかめて、空いた左手を目の前にかざした。夏は苦手だ。こんなに眩しくされては薄汚れたこの身がいつ蒸発してしまうか分かったものではない。降り注ぐ日光に耐えかねて弱々しく呻き声を漏らすと、くすりと巽が笑った。
「日傘のひとつでも持って出るべきでしたな。気が利かず、申し訳ありません。なるべく日陰を通って帰りましょう」
繋いだ手と手が、巽の声に合わせて微かに上下する。巽が一歩、足を踏み出す気配を察知して、マヨイもゆっくりと歩き出した。
「そろそろ正午を過ぎた頃でしょうか。もう少し早く終わるかと思っていたのですが、なんだかんだ長引いてしまいましたな。藍良さんたちには、先に食べてくださいとお伝えしましょう」
足もとに出来た短い影を踏みながら、巽が言った。タッツン先輩たち、午前中で終わるんだったら、お昼は一緒に食堂で食べようよォ。出かける少し前、寝ぼけ眼で提案してきた愛らしい子のことを思い浮かべる。それは名案ですな。嬉しそうに笑って返した声のことも。
「お腹をすかせて俺たちを待っているようでは、あんまりですから。もっと早くに、連絡をしてあげればよかった。俺はどうも、すまほを持ち歩いていることを忘れがちでいけません。……マヨイさん、もう大丈夫ですよ。手を離してくださっても」
巽はそう言うと、重ねていた指先から力を抜いた。
「熱いでしょう。俺の手は」
マヨイは日射しに目を細めたまま、巽を見た。マヨイと目が合うと、巽は少しだけ首を傾けて、促すように繋がった手を揺らした。
数センチだけ背の高い彼のことを、以前はとても、とても大きく感じたものだった。その透き通るような美しい髪の色も。グラスに注いだ葡萄酒のような目のことも。眩しすぎて、直視するのを避けることすらあった。
「……マヨイさん?」
返事のないマヨイを不安に思ったのか、巽の表情が硬くなる。
マヨイは足を止めた。一拍遅れて巽も立ち止まった。まだ手は触れ合っている。ゆるんだ巽の骨ばった左手を、黒い指先が捕まえている。マヨイは視線を落とした。外へ出てから数分も経っていないのに、手袋の内側でかいた汗が、じんわりと指の付け根に滲んでいた。
「どうされました。具合が悪いのですか。もうじき木陰に入りますから、そこで少し休んで――」
マヨイはごくりと一度喉を鳴らすと、節くれ立った指のあいだに自分の黒い指を滑り込ませて強く強く握った。巽の声は、そこでふつりと途切れた。
熱い。
脈打つ自分の指先が更に温度を上げていく。火照るからだ。降り注ぐ真昼のひかり。あぁひと月前ならこんなこと想像もつかなかった。この手が彼に触れる日など永遠に来ないと思っていた。触れたら最後、清らかさに当てられて消し飛んでしまうと本気で思っていた。馬鹿げた自分の思い違いにこの人は一体何度心を痛めたのだろう。
何度自分を責めただろう。
“本当は俺なんて清くも正しくもないのに”
べたつく親指の腹で、滑らかな指の側面をなぞる。布越しに骨のかたちを確かめていると、ゆるんでいた指先が次第に強張っていくのがよく分かった。マヨイさん。困惑を訴えるかのように名を呼ばれても、マヨイは手を離さなかった。遠くでごうごうと風が唸り声をあげている。数秒遅れて熱風が、強く頬へと吹きつけた。視界の端で三つ編みが踊る。長い横髪がばらばらと広がって、カーテンのように目の前を遮る。マヨイはその隙間から、一瞬、ぼんやりと虚空を見つめた。脳裏をよぎる。見たこともないのにやけにはっきりと浮かぶ。薄暗い病室。ベッドに横たえた身体。一人、手を組んで静かに祈るひとのすがた。
寂しい。
どこか遠くへ攫われてしまいそうな儚さで、横顔が呟いた。
「――毎日」
首筋を伝う大粒の汗が、ゆっくりと胸元まで落ちていき、白いシャツに染みを作る。
「毎日、お見舞いに行きます。私が」
じりじりと肌の焼かれる音がする。それは次第に痛みを伴って、マヨイの意識を引き戻す。
何度目かのまばたきののち、ぼやけていた視界が鮮明になっていくのを感じて、マヨイははっと面を上げた。
「あっ……あぁ、ちが……違うんです! そんな、不幸な未来を願っているわけでは決して! わたし、私はただ、その――」
必死で首を横に振りながら釈明の言葉を並べる。けれど最後まで言い切ることなく、マヨイは息を詰まらせた。隣で立ち尽くす巽は風に乱された前髪を整えることもせずマヨイのことを見つめていた。怖いくらいに真剣な目つきだった。乞うような視線だった。重たい沈黙が、続きを急かすかのように横たわる。あぁ、やっぱり、さっき見たのは。マヨイは軽く目を閉じて呼吸を整えたあと、握りしめていた巽の手を、胸の高さまで持ち上げた。
「もしも。また、巽さんが長く、長く病床に臥せることがあったとしても。私が。きっと寂しくさせません。一彩さんも藍良さんも、同じことを言ってくださるはずです。巽さん」
骨ばったぬくい手の甲に、もう片方の手のひらを重ねる。汗でべたついた黒の手袋が、じっとりと他人の肌に密着するのを感じて、マヨイは生唾を飲み込んだ。こんなもの、不快に思われて振り払われても仕方がない。不潔だと罵られて、突き飛ばされても文句は言えない――以前ならそう思っただろう。マヨイは目尻に涙を溜めた。
目の前のひとは嫌がる素振りひとつ見せなかった。
それが、それがどれほど。
「……巽さん。藍良さんから、連絡が来ていましたよ。遅くなっても、私たちが帰ってくるまで待っていると。……気をつけて帰ってきてね、と」
マヨイは両手に力を込めた。いつもそうだった。巽はただの一度もマヨイのことを拒まなかった。もう少しも躊躇うことはない。清くも正しくもないその身に触れてただありのままを受け入れたい。あなたが私にそうしてくれたように。
「私が。私たちが、共にあります。今は。巽さんのすぐ隣に」
指先が、喉が、心臓がどくどくと脈を打っている。倒れてしまいそうなほど熱い。暑い。こめかみから滴り落ちる汗をそのままにして、祈るように手を握っていると、不意に何かがマヨイの顔に触れた。
「本当に」
熱を孕んだ指の背が、頬の汗を拭い取る。
優しい手つき。まるで壊れ物でも扱うかのような。
「本当に、怖かったんです。足を失うことよりも何よりも。次は、君たちを失ってしまうのかと」
この距離でなければ、聞き取ることも難しいくらいに、低くて、かすれた声だった。
包み込んでいた巽の指が、強い力でマヨイの右手を掴み返す。こんなに幸福でいいのでしょうか。指先に込められた痛いほどの力に反して、あまりにも弱々しく呟くものだから、マヨイは潤んだ目を細めて少し笑った。
「……貴方が教えてくれた幸福ですよ。一人ではないのだと。人は、認め合い、支え合い……生きていくのだと」
マヨイが言うと、巽は、静かにゆっくりとマヨイの腕に寄りかかってきた。痛みますか。できるだけ優しく問いかけた。巽はかすかに頷いて、小さな声で「少しだけ」と答えてくれた。
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等しさのひずみ
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
朦朧とした意識の中で、必死になって首を横に振り続けた。
どうか捨て置いてください。一人にしてください。私のような者のために、心を配らないでください。何度も何度も言葉を変えてはうわ言のように繰り返した。吐きそうだった。身動きの取れない肉体も、日の当たる世界に少しも馴染めない澱んだ魂も、何もかも手放して今すぐ楽になりたかった。やはり、こんな生き物は、地上に存在してはいけなかったのです。誰かの足を引っ張ることしかできないのならば、いっそ居ない方が何十倍もマシだったでしょうに。唇の裏を強く噛み、己の生をことごとく憎んだ。一刻も早くこの場から立ち去りたいのに、自力で足を動かすことすらままならない。すみません。ごめんなさい。喉の奥から搾り出した謝罪は掠れていて、その声の醜さに、いよいよ消えてしまいたいと願った時だった。
「マヨイさん」
その声は苦悩に満ちていた。
「すみません」
声色に反して、伸びてきた両手には一切の迷いがなかった。
反射的に身構えた私の腕を強く掴んで、易々と引っ張りあげると、彼は光に透かした葡萄酒のような清らかな瞳で、真正面から私を射抜いた。
「少々手荒な手段を取らせて頂きます。苦情はのちほど受け付けますので……どうか今は、耐えてください」
ようやく踏みしめたと思った地面が、次の瞬間、遠のいた。宙に浮く重々しい両足に、体を包むひとの温もりに、思わず涙が伝った。ごめんなさい。すみません。呟いたそれが声になったかどうかも分からないまま、私の意識はゆっくりと暗がりに沈んでいった。
*
わずかに響いた物音に、自然とまぶたが開いていた。
もしや、ついに死んでしまったのでしょうか。見慣れない景色と真昼の光の眩さに、ぼんやりとそんなことを思った。
「あぁ……起こしてしまいましたかな」
聞こえてきた言葉に感じたそれが、安堵だったのか、失望だったのか、自分でもよくわからなかった。視線を動かすと、濃紺の布地をかき分けて、穏やかな微笑みで自分を覗き込むひとの姿が映る。巽さん。掠れた声でも、きちんと届いたのでしょう。巽さんはほっとしたように目元を緩めて柔らかく笑った。
「ご気分は如何ですか。まだ、顔色が優れないようですが……」
「あの……ここは……私はあのあと……」
「ここは星奏館ですよ。越して間もない、俺たちの住まいです。僭越ながら俺が運び込みました。その様子だとあれから一度も起きていないようですな。小一時間ほど前に伺った時も、よく眠っておられましたし……マヨイさん、喉が渇いてはいませんか。水か何か、お持ちしましょうか」
「い、いえ! いいえそんな滅相もない……! 大丈夫です、お気遣いなく、本当に……すみません、大丈夫ですから……」
言いながら、情けなさに耐えられなくなって口をつぐむ。一体どこが大丈夫なのでしょう。重たい体を横たえて、ろくに起き上がることも出来ない有り様で。黙った私に、巽さんは薄く微笑んだまま、少し困ったように眉尻をさげた。心臓がいっそうキリキリと締め上げられて、思わず布団の下に鼻をうずめる。
「……今。何時なのでしょうか」
陰鬱とした気持ちのまま、そう尋ねた。
「ちょうど。三時を過ぎたところですよ」
聞かなければよかったと、すぐに後悔した。
「ビラは、半分ほどを配り終えましてな。皆、休憩中です。……すみません。俺もしばらくしたら、また戻らなくてはならないんですが。何かあればすぐに呼んでください。やはり水の一杯でも取ってきましょうか。それとも他に、欲しいものがありますかな。キッチンにあるものや、この近くで買えるものであればすぐに」
「すみません」
はっと目を見開かれた葡萄酒の色が、薄い膜に遮られてぐにゃりと歪む。頬をすべる水滴。呻くような自分の声。醜い。消えてしまいたい。視界を塞ぐように布団に潜り込んだ、けれど、その願いが叶うことはなかった。
「ごめんなさい。すみません。何も――何もお役に、立てない、どころか、わた、わたし」
嫌だ。消えたい。赦されたい。いいえどうか赦さないで。布で覆われた仮染めの闇の中、矛盾は幾重にも膨れ上がっていく。
「わたし、のせいで。すみません。私が――私がこのような卑しい生き物なばっかりに。何も出来ないばかりか、ひとさまの貴重な時間までも奪って、こんな――申し訳ありません。ごめんなさい。どうかもう、私に構わずに行ってください。お願いですから――」
これ以上私が惨めな生き物であることを突きつけないで。
体の内側で想いが弾け散って、小さな小さな呻き声へと変わった。どうしていつもこうなのでしょう。どうしていつも、何をしても、何をされても、己の歪さを思い知るのでしょう。特別虐げられることも、特別施しを受けることも、感じる痛みは同じようなものだ。だってそうでしょう。そもそも私という生き物がこれほどまでに弱くも愚かしくも卑しくもなければこのひとはこんなふうに自分の身を切り分けずに済んだのだから。どうして私はいつもいつも心根の美しいひとたちから何かを奪うことしかできないのでしょう。ひとの優しさを、引け目なく受け取ることすら出来ないのでしょう。こんなふうに生まれ落ちたくはなかった。もっと普通に、この世の大勢と同じように、在りたかった。叶わぬ夢と知りながら地上に這い出した私が愚かでした。早く帰らなくては。こんなふわふわの温もりで出来た闇ではなく、冷え切った土の匂いで満ちる、私の生きる世界へと――
「マヨイさん」
不意に、肩のあたりを押さえられて、息がとまる。
「あの場で倒れたのが、貴方でなくとも。俺は同じことをしたでしょう。それが一彩さんでも、藍良さんでも、あるいは先刻顔を合わせたばかりの他のユニットの方々であっても。俺の行動は、何一つ変わりません」
凛とした声が、清廉に、けれど稲妻のように激しくまばゆく。陰惨としたこの胸の中心を貫いた。
「……ですから。己を特別に卑下する必要など。どこにもありませんよ」
それは、どんなに強く風が吹いても決して揺らぐことのない、このひとの魂にまっすぐに根をおろす信念の表れだったのでしょう。なだめるように一度、二度、と手のひらが上下して、やんわりと肩を叩いた。分厚い布越しで、温もりなど少しもわからなかった。私にはそれが有り難かった。昼間のように強く、熱く、触れられてしまったならばきっと。今度こそ私はその鮮烈さに心を保っていられなくなるでしょうから。
「……すみません。やはり今日の俺は、卑怯者でしたな。たとえ時間がかかっても、貴方のほうから歩み寄ってくれるのを待つつもりでいたのですが、どうしても……放ってはおけなくて」
お嫌だったでしょう、他者から触れられるのは。
穏やかに問われて、私は布団にくるまったまま、大きく首を横に振った。数十センチ先で、わずかに息を飲む気配があった。恐る恐る、被った布団を手で押しのける。隙間から覗き見た彼は、少しだけ驚いたように瞬きをしたのち、うんと目を細めて甘やかに微笑んだ。
「――それはよかった」
ああ。美しい。
天から降り注ぐ蛍光灯の光が、伏せたまつげに当たって、あまりに眩しい。
「けれど、次からは。ええ。きちんと貴方に許可を得るように致しましょう。求められてもいないのに、何かを与えようなどというのは……酷く傲慢なことですからな」
きっぱりと言い切った直後、肩に置かれていた手のひらが遠ざかる。思わず身を起こしてその手の行方を追いかけた。ずるりと布団の落ちる音がして、はっとする。何をしているのでしょうか。名残惜しい、だなんて、そんなことを一瞬でも思った自分の浅ましさに体中が熱を帯びる。巽さんはそんな私の動揺に気付いているのかいないのか、うーん、と大きく伸びをしたのち、深く息を吐き出した。
「さて。俺はそろそろ戻ります。仕事の方は、滞りなく進んでおりますのでどうか気に病まず……などと。ふふ。胸を張って言えたのならよかったのですが。やはり慣れないことは難しいものですな。俺自身もこういったことには無縁に過ごしてきてしまいましたし、特に一彩さんなどは、声かけのコツを掴むのに苦心していましたよ。藍良さんが随分よくやってくださっているのと、Ra*bitsやValkyrieの皆さんが手慣れていらっしゃるので、今回は彼らの存在にすっかり助けられています。神のお与えになった巡り合せに、感謝しなくてはなりませんな」
朗らかに語るその声は、いつものように爽やかだった。
「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すればその報いは良い。誰しも完璧には生きられません。故にこそ、人は助け合い、生きていくんです。マヨイさんも、今日はどうかよく休んで、また別の機会に俺たちを支えてください」
よいしょ、と可愛らしい掛け声をあげると、巽さんは勢いをつけて立ち上がった。去り際に湿気のひとつも見せないところが潔い。本当に風のようなひとだ。きっとこのひとは、同じことを、同じ目をして、同じように多くの子供たちにも説くのでしょう。そう思えることが本当に心地良かった。同じなのでしょう。このひとの目に映る、ありとあらゆるものたちは。同じなのでしょう。私はその大勢のうちのたったの一人にしか過ぎないのでしょう。
それが。
こんなにも心安らぐことだとは。
「……ええ。そうですね」
ようやく、思うように声が出せた。
巽さんは歩き出す寸前で足をとめると、わざわざ視線を落とし、私の遥か頭上でにっこりと目を細めて笑った。私もほんの少しだけ頬を緩めた。再び前を向いて歩き出す横顔に、天井から白い光が降り注ぐ。
「私も……いつかはお役に立ちたいです。巽さん」
呟いた声は、聞こえていても、いなくても、構わなかった。これもおそらく祈りのたぐいなのでしょう。口に出して唱えることで、それだけで心が潔白に保たれるような、そんな言葉のつもりでした。
「ええ、ええ……こんなに良くして頂いたんですから。私のような者に、出来ることがあるかどうかは分かりませんが……」
大きく息を吸い込んで、吐き出した。もう苦しくはなかった。生きていてこんなにも呼吸が楽なことがあるのかと思うと涙が出そうだった。
「もしも、巽さんが……同じように倒れてしまうことがあったなら、その時はきっと……きっと私がお助けしますから……」
溢れそうな感情を抑えるように、一度まぶたを閉じてから、ゆっくりと開いた。去りゆく背中に、微笑みを返そう。たとえそれが貴方のように美しくはなくとも。そう決意して、ベッドからほんの少し身を乗り出して、私は思わず息を飲んだ。
「――巽さん?」
些細な違和感だった。
背中の強張り。ほんの一瞬、不自然に震えた右膝の裏。
「ああ――いえ」
声の抑揚。聞き覚えのない不穏な揺れ。
私でなければ気づくこともなかったであろう、そんな程度の。
「すみません。よく、聞こえなかったもので。……何か。おっしゃいましたかな」
静かに振り向いた表情だけは、いつもと変わらないように見えた。心臓がどくどくと脈を打つ。いいえ、なにも。不格好に口を歪めて笑った私に、そうですか、と軽く微笑んで、巽さんは部屋の扉を、音も立てずに開けて出ていった。
ぱたん。
閉める時にだけ響いた小さな音に、張り詰めていたものがほどかれる。ああ。これは。もしかして、拒まれてしまったのでしょうか。違和感の理由に思い至って、その瞬間、自分でも驚くほどに愕然としていた。ぐつぐつと、内側から澱んだものが再び湧き上がってきて、私を黒く染め上げていく。やはり、私の薄汚れた両手では、貴方の清らかな身体を支えることなど、赦されないのでしょうか。問うても答えなど返ってくるはず���なく、広げた両手を強く組み、ため息と共にうなだれて少し泣いた。
ただ等しく在りたいと願うだけのことが。
私にとっては、かくも難しい。
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灰は天へと昇れない
カップリング/ReS。・・・なし
風早巽の独白
目が覚めた時、傍らで響いた大きな悲鳴とすすり泣きに、酷く現実味がなかったことをよく覚えています。
今にして思えば麻酔のせいだったのでしょう。ぼんやりとした頭で再び意識を手放しながら、俺は心のどこかで考えていたのでした。
どうせならば、いっそ――このまま天へと召し上げられてしまいたかった、と。
光あれ、と言われた瞬間の世界とは、このようなものかもしれませんな。
深い眠りからさめた正午、まばゆく清らかな日差しに包まれながら、あまりにも自分の肉体と魂に輪郭がないので、俺は思わずそう思いました。自分が何者で、どのような姿で、何をすべきなのか。その全てから遠のいて、ただただ光を浴びている。平和だ。それは、俺が久しく忘れ去っていた感覚でした。
起き上がろうと身をよじり、動かない片足に気付いて息を飲む。痛みはありませんでした。痛みどころか、それが体の一部であることが、俺には感じられませんでした。まだ麻酔が効いているから、と説明を受けたことを思い出し、俺はじわじわと己の輪郭を取り戻していきました。自分が何者で。今、どのような姿で。つい先日まで、一体、何を成そうと足掻いてきたのか――
数秒、呼吸をとめたあと、ゆっくりと吐き出して目をつぶる。主よ。遅ればせながら、真っ白な掛けシーツの上で両手を組み、俺は祈りを捧げました。主よ、今日という一日をお与えくださったことに感謝します、こうして――
こうして俺の足を折り曲げてくださり。
俺の中にある、怒りの炎を吹き消してくださったことに、感謝致します。
もう、この手が誰のことも傷つけず済むようにしてくださったことを。心より感謝します。荒れ狂うこの胸に安堵とやすらぎを与えてくださったことを。感謝致します、主よ、主よ、あぁどうか。
どうか何一つ救うことが出来ずいたずらにひとを傷つけただけの愚かな俺をお赦しください。
永らえてしまった俺に、贖罪の道を。隣人のため、この身を捧げて生きる術を、お示しください。
それすら叶わないというならば俺という存在に価値などありましょうか。もう二度と、舞台に立てないのならば。もう、二度と、誰のもとにも。光を届けることが出来ないというならば。抜け殻のようなこの肉体に、どんな意味が残るというのでしょうか。
今後動くかどうかも分からない片足を引きずり俺は一体どのように生きればよいのでしょうか。どうかお導きください、神よ――
願わくば一刻も早く痛みを取り戻せますように。
失ったものの重さを、しかと確かめられますように。己の罪と向き合えますように。痛みを抱きしめ、己を抱きしめ、また歩こうと顔をあげられますように。希望を、光を、この目の内側に思い出せますように、そうでなければ。
そうでなければ生きていたって仕方がないではありませんか。
俺はいつの間にか、組んだ両手を額に押し当てていました。こんなことならば自分の意思など、選択など、信じるべきではなかった。悔やんでも悔やみきれず、そんな俺の過ちのせいで他人を傷つけたという事実にこころが耐えられず、ついには頬にしずくがこぼれ落ちました。陽の光は穏やかでした。あふれ続ける涙を照らしてきらきらと輝いていました。こんなにも世界は美しいというのに俺だけが灰色に濁っていて、俺はしばらく、顔をあげることが叶いませんでした。
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