性中立的な言葉
対象の性別を限定しない、性中立的な言葉の覚書。見た目等で他者の性別を勝手に判断しないこと。誰かを排除していないか考えること。自戒を込めて。
※私による造語は「*」を付している
〈敬称接尾辞〉
-さん
性中立的な敬称接尾辞。
-ちゃん/-くん
性中立的な敬称接尾辞として使用することもでき、必ずしも対象の性別を限定しない。親しみを込めて呼ぶときに用いる。
※相手の承諾を得てから使うこと。
〈三人称代名詞〉
かのと【彼人】
性中立的な三人称代名詞。RPGゲーム『Ikenfell』において ze/zim の訳語として「彼人(かのと)」が使われている。
かのひと【彼人】
性中立的な三人称代名詞。翻訳者の木原善彦氏が単数 they の訳語として「彼人」を提案している。
※性中立的な三人称代名詞「彼人」は2010年代前半に同時多発的に造語されたと考えられるが、「かの-ひと」というコロケーションは古くから存在する。
かれ【彼】
性中立的な代名詞として「彼」を使用する例がある。現代では男性の代名詞として主に使われるが、代名詞「彼女」の登場以前は女性にも用いられていた。
※男性性を表現する代名詞「彼男」が提唱されている。
かれ【渠】
代名詞「彼女」の登場以前に、文学作品などで性中立的な三人称代名詞として使用されていた。
〈関係性〉
えんくる・おんくる*【遠來】
性中立的な叔母/叔父/伯母/伯父の言い方。英語の auncle の音写。
しぶ*【枝分】
性中立的な姉/兄/妹/弟の言い方。英語の sib の音写。
しぶりん*【枝分隣】
性中立的な兄弟姉妹の言い方。英語の sibling の音写。
クワモア*[quoimour]
かけがえのない存在であるが交際関係にない相手。何(quoi)+愛(amour)の造語。
※「かけがえのない」にはクワロマンティック(quoieomantic)的な含意があり、相手に恋愛的な惹かれを抱いている必要はない
パラモア*[palamour]
かけがえのない存在であり交際関係にないが継続して性的関係にある相手。親友(pal)+愛(amour)の造語。
※「かけがえのない」の含意については「クワモア」に同じ
〈フィクション〉
NL[Non-binary Love]
ノンバイナリーラブ。性別二元論を前提としない親密な関係性、またはその作品やジャンルの総称。
※GL/BLに対応する異性愛作品やジャンルの総称として「NL」が使われているが、これは「ノーマルラブ」の略称であり、同性愛をアブノーマルなものと位置づけてしまう問題がある。
※人口に膾炙した「NL」とは異なる意味であるため、草創期である現在は「NL」と「NbiL」の併記を提案する。
ReSo
既存のカップリング概念にあてはまらない関係性(ポリアモラスな関係性や恋愛・性愛を含まない関係性)、またはその作品やカテゴリーの総称。人間関係(rerationship)+解像度(res.=resolution)の造語。「レゾ」と読む。ReSo愛好家をReSoner(レゾナー)と称す。
※概説記事はこちら。タグ使用の際は必読のこと。
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四章 神々の黄昏
桜の蕾は膨らんだまま、花開くことはなかった。
今年も随分と遅咲きなのだと、衣更が鼻をすすりながら教えてくれた。ほんの数分前の出来事だった。花粉症か。わざとらしく聞くと、ええ、今日は特に酷くて、目も鼻も、ぐしゃぐしゃです、と半笑いで返された。
「副会長、今まで、」
「衣更。もうそんな肩書きは、俺にはないぞ」
小さくしゃくりあげるような泣き声がして、俺は衣更の背に手のひらを添えた。随分と筋肉質な背中だった。それは表からは決して見ることが出来ない、衣更の努力の結晶だった。
「今まで、本当に、お世話になりました。蓮巳先輩」
思い返せば、衣更も俺にとっての“愛し子”というやつなのかもしれないな、などと、今さらのように思う。
初めて出来た後輩だった。
いつの間にか小間使いのように滑り込んできて、生徒会の雑用を文句も言わず小器用にこなし、気付けばその中核を担い、革命と板挟みになりながらも俺を思い遣るような、普通で、優しくて、少しばかり損な人間だった。
何を与えてやれたのかも分からない。
そればかりか踏みにじられてばかりだったろう。
なのに、今ここで流される涙が、感謝からくるものだというのだから、俺の成したことも無駄ではなかったのだと心から喜べる。
夢ノ咲を頼んだぞ。
どん、と背を叩きながら、想いを託す。はい、と返ってきた言葉は、力強かった。
校庭へ出ると、在校生と卒業生がごったがえして写真を撮っているところだった。晴天を背景にして、まばらに薄紅を生む緑の木々が、完全な冬の終わりを告げていた。桜が咲くのはいつ頃だろう。去年はうんと遅かったが、例年通りなら入学式にはその儚い花弁を咲き誇らせているだろうか。
祝いの日には少し殺風景にも思えたが、その代わり、とでも言わんばかりに、退場の際に在校生から渡された大輪の花束が、そこかしこで瑞々しく香りを放っていた。去年のプログラムにはなかったことなので、予算は大丈夫だったのか、などと余計な心配をしてしまう。素直に感傷に浸ればいいものを、これも俺の悪癖のひとつだ。
「旦那ぁ!」
野太い声が遠くからあがり、周囲の後輩たちがすぐさま道を開けた。それが恐れや怯えからくる行動などでは決してないことは、傍目に見ても明らかだった。すまねえな、と大きな花束を頭上へ掲げながら、こちらへ向かって歩いてくる鬼龍を見るいくつもの眼差しは、憧れや尊敬の色を濃く滲ませていた。
「よう、卒業、おめでとさん」
「お前もな。日数が足りて何よりだ」
「はは、一瞬、ヒヤリとしちまったけどよ。これでも一応、三年生は皆勤賞だからな。……先生に言われたよ。あとほんの数日怠惰であれば、留年でしたでしょうね、ってな」
ばさり、と乱雑に花束を肩へと引っかけて、鬼龍が安堵の息をこぼす。
「ありがとな。俺を、こっち側に引っこ抜いてくれて」
二人分の花束が、むせ返るほどの香りを放って、息がつまった。
「……感謝をするのは俺の方だ」
礼など言われるようなことを、俺は一度たりともしたことがないと思っていた。全ては自分と、自分の分身ともいえる幼馴染のためだった。利用できるものはなんだって利用した。それで何をなくしても、自業自得だと思っていた。
「じゃあ、お互い様ってこったな」
カラリと笑った鬼龍が、左の拳をそっと向けてきた。ああ。枯れそうな声で頷いて、俺はそのごつごつとした指のふしに、己のそれを軽くぶつけた。今日という一日の中、初めてじんわりと目元に熱を感じた。本当に、いい戦友を得た。
お前の船出が明るいことを、俺は心から祈っている。
言葉にはしなかったが、鬼龍は合わせた指のふしを離す一瞬、何かを感じ取ったように目を細めて笑った。それで充分だと思った。
「……鬼龍。神崎をどこかで見ていないか」
「あぁ、あいつなら、生徒会の手伝いをしてるってよ。いつの世も人員不足だな、あそこは。友人のぴんちを放っては置けまい、つってよぉ。衣更たちと一緒に椅子の片付けとかしてるよ。ま、俺たちの場合は卒業の後も一個、仕事があるしな。別れの挨拶は、そこでもいいだろうよ」
そうだな。安心したように頷けば、旦那の過保護も直んねえのな、と軽口が飛んだ。返す言葉もなく黙ると、鬼龍の豪快な笑い声が、あたりいっぱいに響いた。
「あ、いたいた。お~い! 敬人く~ん!」
その目立つ笑い声が目印になったのだろうか。
遠くから呼ばれた気がして顔をあげると、頭上高く突き上げられた右手が俺に向かってぶんと振られていた。
貧弱そうに見えるのに、よく通る声だなと、初めて聞いた時から思っていた。
それと同時に、笑っているのに、全てが他人事だと言わんばかりの冷めた目が、ずっと気がかりだった。
すみません、すみません、と謝りながら人混みをかき分ける青葉の目は、今、ほんの少しでも柔らかくあるだろうか。
「おう、どうした。蓮巳のことでも撮りに来たか?」
「ああ、いえ。それが、夏目くんにこっぴどく叱られまして。こんな日まで他人事でいるんじゃない、そんなに暇だったら、迷惑か���た人間ひとりひとりに謝って回ったらどうなのーって。取り上げられちゃいました。ビデオカメラ」
あはは。
愉快そうに笑う青葉は、貰った花束もどこかへ置いてきたのか、空の両手をひらりと上へ向けた。その右頬は、ほんの少し赤くなっていた。大方、逆先に力一杯つままれた跡だろう。気持ちは痛いほど分かるが、あいつも相変わらず、本音を出すのが下手くそな奴だ。俺にそんなことを言われようものなら、大昔の武器を取り出して豆をぶつけてきそうなので、特に口を出さずに今日の日を迎えてしまった。
「あれっ? そのボタン、鬼龍くんがもらったんですか?」
突然話題を振られた鬼龍が、あ? と驚いたように声を漏らす。ボタンといえば、南雲が第二ボタンを貰っていったという話を、数週前にしたばかりだったが。
「それ、宗くんがものすごく気に入ってた、一点もののボタンなんですよ。贔屓のクリエイターが、手作りしてるものなんだとかで。何の衣装に使おうか~って、暇があるたび言ってたの、俺、覚えてます。まあ、暇なんて、そうそうないんですけどね、宗くんの場合」
聞いてもいないことをぺらぺらとよくしゃべる青葉は、ぽかんと固まった鬼龍の表情を全く気にしていなかった。よくよく見れば、なくなったはずの場所には、マーガレットをモチーフにしたような金古美のボタンがきちんと収まっていた。
あの野郎、と舌打ちをする鬼龍は、どこか焦ったように歯を噛みしめていて、俺はその姿の珍しさに少し笑った。つられたように、ふふ、と微笑んだ青葉に、そういえば、と我に返る。
「青葉、さっき俺を呼ばなかったか」
「お、おう、そうだぜ。撮影でも��えなら、逆先に言われた挨拶回りってやつか?」
「あっ、そうでした」
古めかしい動作でポンと手を打つと、青葉は相変わらず他人事のようにしれっと重要なことを言ってのけた。
「俺の用は、それとはまた別なんです。敬人くん、呼ばれてましたよ、英智くんに」
◆
ごった返す人混みをかき分けて、もつれそうな足を動かし進む。途中、噴水の辺りから「どうした!? 緊急事態か!?」「『きんきゅうじたい』ですか~?」などと間の抜けた声を聞いた気がしたが、今、そんなスチャラカ軍団に返事をしている余裕はなかった。
「敬人! 遅いじゃないか敬人、ねえ、ちょっと頼まれてくれないかい?」
駆け付けたガーデンテラスで、いつもの特等席に座った英智は、俺をなじりながらも、随分と機嫌の良さそうな声を歌うように響かせた。
「卒業祝いにね、渉に贈りたいものがあるんだけれど」
「……贈りたいものというのは、そのちぐはぐな大量の花束か?」
ぱちくりと目を瞬かせた英智が、ほとんど体を覆い隠すほどの巨大な花の群れに目を落とす。花束を抱える腕さえも見えない始末で、俺の目から見えるのは花まみれになった英智の生首と、辛うじて見える細長い膝下だけだった。
「ふふ、これは可愛い可愛い桃李から、僕への個人的なプレゼント。花束をね、作りすぎちゃったんだって。あんまり愛らしすぎて、抱きしめてしまったよ。考えなしに全部を受け取ったら、見ての通りさ」
「阿呆、身動きが取れなくなるほどものを抱えるんじゃない。誰が世話を焼くと思っている、度し難い」
「えぇ~? 敬人にだけは言われたくないなぁ。こんな時期になるまで自由に動けなかった癖に」
俺の持つ花束の、何倍もの大きさ、何倍もの数のそれの奥から、英智の青い目がじっと俺を見つめる。
「俺は、特に不自由なくやってきたつもりだったが?」
ス、と眼鏡を直したのは、少しでも心のうちを見透かされないように――だろうか。
「どうだかね」
意地悪く目を細めた、性格のねじれ切った俺の幼馴染は、クスクスと笑ってから数秒、穏やかにその目を閉じた。
「さて、敬人の話はどうでもいいんだ。上を見てごらん。屋上に気球が見えるだろう? 見間違いでなければ、あれは先日僕が渉に贈ったものだ。頼むよ敬人」
「人をガーデンテラスまで呼びつけて、このうえ屋上まで走らせる気か?」
「君は両手いっぱいに花束を抱えた僕を屋上まで上がらせる気かい?」
分かり切ったやりとりのあと、俺が諦めたように息をつくのと、勝ち誇ったように英智が笑うのと、ほとんど同時だった。
「最後の我儘さ」
どうだかな。
頭の隅に浮かんだ捨て台詞を飲み込んで、俺はまた走り出した。
◆
関わり合いになると面倒な噴水周辺を回避しようと裏手側へ回ると、茂みの中から何かが転がるように飛び出てきて、俺は思わず身を強張らせた。橙色の散切り頭。髪の所々に緑の葉を乗せ、右手に数枚の用紙を握ったそれは、見間違うことなく月永だった。
「あれ! ケイトだ! なあ、ケイトなら知ってるだろ、テンシのやつ、どこ行った?」
唖然とする俺をよそに、制服についた汚れをぱたぱたと払いながら、月永は立ち上がった。
「英智、なら……ガーデンテラスに居るが……」
「ガーデンテラス! りょーかい! 覚えたぞ! たぶん!」
「お、おい! 英智に何の用だ! 事と次第によっては――!」
そのまま今しがた俺が走ってきた道を駆けようとする月永に、大声で呼びかけると、月永はステージ上でターンを決めるようにくるりと美しく半回転して俺に満面の笑みを見せた。
「テンシにラブソングだ!」
じゃーなー!
右手に携えた紙束を頭上へ高々と掲げ、満足げに言うと、月永は猫のように走り去ってしまった。
ただただその背中を見送ることしか出来なかった間抜けな俺は、肩で息をしながら、しばらくぽかんと立ち止まってしまった。遠くの喧騒が、笑い声が、すすり泣く声が、ぼんやりと耳に響く。なんだったんだ、今のは。理解が追い付かないところへ、またひとつ、駆けてくる足音を聞いた。
「あっ、ちょっとぉ蓮巳ぃ!! 今あのアホがここを通ったでしょ!?」
「あ、ああ、アホ……というか月永なら、ガーデンテラスに……」
「あああっもう!! なぁんでそんな僻地まで行くかなぁ!! こんな日くらい大人しく後輩共に祝われてよねぇ!! あんなアホでもそこそこの人気者なんだからさぁ!!」
「……ふ、はは、お互い、最後まで苦労、するな……」
気の抜けたような笑いとともに、あぁ、と悲鳴を上げながら両膝に手をつくと、瀬名は少し目を見開いて、焦ったように俺の背に手を添えた。
「ちょ、ちょっと……そんなに息切らしてどうしちゃったわけ?」
「使いっぱしり、だ。さっき校庭から、ガーデンテラスまで呼び出されたかと思えば、今から屋上に行くことになった」
「はぁ~? あんたってさぁ、ほんっと……」
呆れたような瀬名は、途中で言葉を切って数秒黙ると、どこから取り出したのか一本のミネラルウォーターを俺に寄越した。
「それ。まだ、開けてないから」
「……いいのか」
「なんていうか……ちょっと、他人事じゃないからねぇ。……あんたの呆れたお人好し具合にはさぁ、こんな程度の報いくらい、あってもいいでしょ」
じゃあね。
小走りに、月永が駆けていった道をなぞるように遠ざかる瀬名の、その力強い足取りに、俺はゆっくりと上体を起こした。
あいつらの旗は、どうなるのだろう。
ようやく五人でまとまったかと思えば、あっという間に世代は次へと移っていく。字面だけ見れば、なんとも虚しい。だが瀬名が決死の想いで守り抜き、月永が再び突き立てたその旗は、明日も明後日も、誇り高くこの場所でたなびくのだ。それは無駄なことなどでは決してない。
――そういうことだろ、生きるって。
あの時言えなかった返事を、そうだな、と静かに返し、俺はミネラルウォーターを一気に飲み干した。
そしてまた走り出す。
何の為などと言われても、もうよく分からなかった。ただ、何か変わるなら、誰か救われるなら、今日が最後だと思った。あいつなら赦してくれると思った。
自分の羽をもぎ取った、本来なら憎かろう、あの偏屈な子供のことを。
◆
「おやおや、こんなところにどなたがお出ましかと思ったら!」
ぜえぜえと息を切らして、最後の一段をのぼりきると、青空を背景に艶やかに舞い踊る銀色の長髪が、何故か嬉しげに俺を迎え入れた。
馬鹿と煙はなんとやら、だ。
派手な気球を屋上のすみに侍らせて、日々樹渉は一人、つま先でくるりと一回転をして、俺に向かってうやうやしくお辞儀を寄越した。
「生憎だったな。観客が少なくて」
「いえいえ! とんでもない! たったの一人であろうと、お客様はお客様ですから! それに、たとえ観客が一人もいなかろうと、私が何かを演じれば、それは既に演劇なのですよ」
相変わらず、こいつの言うことは理解しがたい。
対話するのを早々に諦めた俺は、返答を考えるのを放棄して、小さく息を吐き出した。
「英智が探している。貴様に贈りたいものがあるそうだ」
「うーん、あの人、先日そこの気球をプレゼントしてくれたばかりじゃないですか。まったく、呆れてしまいますね。一体私の何処がお気に召したのでしょう。いまだに不思議なんですよ」
「奇遇だな、俺もその点に関しては一生涯あいつと分かり合えない」
「うふふ。これはまた随分嫌われたものですねえ。私、貴方とも少しは仲良くなれたと思っていたのですけれど?」
「冗談じゃない、貴様に関わるとろくなことがないんだ、結局鳩は出なかったし」
「根に持ちますねえ~」
あっはっは、とからかうように笑った日々樹の細い目は、あの日俺にシルクハットを寄越した時とよく似ていた。
「……貴様は、変わらんのだろうな」
「何がです?」
「卒業しても、という話だ」
「ええ。それはそうでしょうとも。私の日常の中から、学生生活というものがなくなるだけなのですから。なんら変わりはありませんよ。ああ、今までユニット活動で制限されていた芸能活動がこれでギュギュッと詰め込まれてしまうでしょうから、こんな風にのんびり話す時間が減るのは――ほんの少しばかり寂しくもありますね」
淡々と滑らかに物語る日々樹の口から零された最後の言葉に、息を飲む。
ぱちくり、と瞬きをしがてら、俺と視線を絡ませると、形容しがたい奇妙は表情で、日々樹は困ったように眉尻を下げた。
「自分でも、驚いているんですよ。こんなに惜しくなるとは思いませんでした。こんなにも、愛しいと思えるものが増えるとは、思っていませんでした」
半回転。颯爽と、音もなくターンを決めれば、銀の髪が翻る。毛先が、ふわりと、俺の頬を撫でるようにかすめていった。
「貴方がたの都合で決められた五奇人という仲間のこと。周囲から化け物と呼ばれ、自らもそれを受け入れたこの道化師を、命懸けで手に入れようとした英智のこと。それと……こんな私のために、奇跡の仇討ちを果たしたあの子のことも」
背を向けた日々樹の表情を、声色から伺うことなど俺に出来るはずもなかった。
ただほんの少し、普段よりも低く、穏やかに聴こえるそれに重ねるように、俺も言葉を放り込んだ。
「……貴様にひとつ、聞いてみたかったことがある」
はい? と返事をした日々樹は、わずか俺を振り向く仕草を見せて、その先を促した。
「どうだった、愛弟子に持たせた革命旗を、特等席から見る気分は」
しばらく、静寂が横たわった。
まだ強く吹く春の風が、俺の短い横髪を乱れさせる。
「――ええ、それはもう」
最高でしたよ。
日々樹の声は、そんな荒々しい風の中、驚くほど凛と、美しく響いた。
「想像以上の世界を見せてくれましたからね。お礼を言わなくてはなりません。英智にも、彼にも」
煽られた銀の髪の向こう、横顔が見えた。俺の知らない微笑みを携えていた。思い返しているのは、あの春の決勝戦だろうか。あるいは、数ヶ月前の、奇跡のようなウィンターライブか。
全ての始まりの男は、今ここで、何を想う。
「そして貴方にも」
は、と視線を交わすと、日々樹はいつもの薄笑いを貼り付けて、俺にニコリと笑いかけていた。
「……気味の悪いことを、言うな、俺は何もしていない」
「おやおやぁ? 今更しらを切るなんてらしくない! 実行に移せたのは天祥院財閥の財力あってのことでしょうけど、初めにシナリオを書いたのは貴方でしょう? 夢見がちで穴ぼこだらけでしたけれど、なかなかに上等でしたよ。だからこそこの日々樹渉が自らその穴を埋めて差し上げようと思ったわけです」
仰々しく両腕を天に差し出しながら、舞台の台詞のようにまくし立てると、日々樹はその腕を静かにおろし、囁くように言った。
「そして最後のピースとして、あの子を選んだのは間違いではなかった」
つう、と細められた紫の瞳が、浮かべているのはつややかな短い黒髪。
「正直、私もほっとしてます。とびきりの良い子ですからね。時々、とびきりのお馬鹿にもなりますけど、それさえ愛おしい」
――いつだったか、あの子が屋上へ迎えに来たことがあったな。
何故か今、そんなことを思い出した。
「幸福に、道を歩んでほしい。独りではなく、大勢で。手を取り合って」
私が彼にあげられるものは、それくらいですから。
消え入りそうな声でそう言うと、日々樹はまたもやくるりと半回転のターンを華麗に決めて、強張る俺の体に一歩、近付いた。
「さて���右手のひと! これはそんな貴方へのささやかなお礼です! さあさ、お手をどうぞ? ワン、ツー、Amaging!」
白い煙と共に、ポン、と小気味良い音が鳴って、俺は思わず目をつぶった。手の平に、どこか馴染みのあるような、金属の重さを感じ、ゆっくりと目を開ける。
「預かりものです。待っていますよ。旧い旧い、貴方の愛すべき隣人が」
それもそのはずだった。
二年もの間、俺はそれを手にし、あの部屋へと出入りしていたのだから。
「私も向かいます。――愛すべき、短命の天使の元へ」
微笑んだ日々樹は、俺が何か言う前に気球へ乗り込んで、あっという間に空へと飛び上がってしまった。相変わらず、突飛で、俺に対して薄情なやつだ。度し難い。
これからのぼり降りする階段の数をうんざりと思い返しながら、俺は手の中の鍵を、強く握りしめた。
◆
手すりに体を預けながら、踏みしめるように、一段一段を降りていく。
通りすがりに窓の外を覗けば、今もなお雑踏は雑踏のままに、かたまりを形成していた。別れが惜しいのだ。校庭の賑わいはやまない。それに引き替えここは静かだ。きっともう、誰も残ってはいないだろう。俺と、あの人以外は。
チャリ、と音を鳴らす銀の鍵を、指先につまんで見つめる。
誓いも、企ても、駆け引きも、裏切りも。二年前の、あの部屋から始まった。そして俺だけが残った。英智が、衣更が、姫宮が、時折やってくる日々樹や伏見が、あの部屋を随分と明るく、賑やかにしていった。それでも忘れたことなど一度もなかった。
十字路は、いまだにあの場所に在るのだということ。
渡り廊下へと続く、最後の一段を降りると、窓の外で、ひらりと花弁が舞い落ちた。桜が咲くのは、まだ先だったはずだが。気になって校庭を見下ろすと、外の連中も驚いたように空を見上げていた。降り注ぐのは薄紅色の花弁。おおかた、派手好きなあの道化師が、気球からばらまいているのだろう。奴の奇行には、常日頃手を焼かされてきたが、今日ばかりはなかなか粋な事をしてくれる。一度、大きく深呼吸をして、俺は別棟の三階を目指し、花舞う渡り廊下の中央をひとり歩いた。
廊下の行き止まりから、さらに一階分の階段を、震える膝でのぼり切る。
辿り着いた、一番端の白いドア。
そうっと、手を添えて、呼吸を整える。
心を決めて、思い切りドアノブを捻った。体当たりでもするかのように内側へ飛び込むと、入った瞬間ザアッと風が吹きぬけて、窓越しに見えていた薄紅の花吹雪が、眼前を覆い尽くすように迫ってきた。
――朔間さん。
呼ぼうとしたそれは、風圧に負けて、声にならなかった。春風がやんだあと、目元を守っていた右腕をゆっくりと降ろすと、その人は机の上に行儀悪く腰かけながら、呆然と俺を見つめていた。花まみれになった漆黒の横髪を、気にも留めていない様子だった。
「……何を、驚いているんだ、あんたが――呼びつけたんだろう」
「あ、あぁ……そうじゃな。そう、じゃった。いや、よく応じてくれたのう、蓮巳くん。こんな老いぼれの呼び出しに――」
はらり、と乱れた前髪の上から、花びらが一枚、卓上へと滑り落ちる。
「――いや、なんか……やっぱ、やめようかな。うん。お前の前じゃ、こっちの方が、なんでかしっくりくるような気が、するから」
あー、と伸びをするように両腕をあげると、朔間さんは、開け放たれた生徒会室の広い窓を見やって、ぎこちなく笑った。
「見ろよ、敬人。渉のやつ、どっから花びらまいてんだ? こないだ貰ったっつう、デカい気球からか?」
「あぁ……あんたの言う、通りだ。それで、俺は、屋上から、またここまで降りてくる、羽目にだ、な」
「はは、息、整ってからでいいよ。時間は、有限だけどさ。今日くらい、ゆっくりしてもいいだろ」
ごめんな。たらい回しにさせてさ。
謝りながらも、朔間さんの赤い瞳は、どこか愉快そうだった。昔からそうだった。俺が、あちこち奔走するさまを、隣で見ながら楽しそうに笑っていた。子供扱いして、からかっているのだと思っていた。
俺はただ、悔しさを背負って闇雲に走るばかりだった。
そうではなかったのだと、気付きもせずに。
「……あれ、薔薇だろうな。綺麗なピンクだ。桜の代わりに、振りまいてんのか、渉。なかなか粋なことするじゃねえか」
花言葉は、感謝、だったっけ。
ぽつんと呟いたそれが正しいものなのかどうか、俺には分からなかった。
そんなことより、今しがた一人歩いた渡り廊下で、この人と同じことを感じた事実が、どうしようもなく目頭を熱くさせた。
「朔間さん」
そう呼ぶと、彼は呑気に頭の上に花びらを乗せたまま、うん? と軽く首を傾げた。
「あの時、言えなかった答えを、聞いてくれないか」
あんたはもう、覚えてなんか、いないかもしれないが――
そう続けようとして、息を飲んだ。
「聞くよ」
漆黒のまつげを震わせながら、泣き笑うような微笑を浮かべた朔間さんは、頬に貼りついた花びらをひとつ、そうっと取り除いて、俺の目を見つめ返した。
「それを俺は、ずっと、聞きそびれたまま、今日まで来ちまったんだ」
最後の杭を、抜いてくれよ、敬人。
返礼祭の時に呟いた洒落を再び口にして、朔間さんは俺の言葉を待った。
「俺は」
言えばきっと、馬鹿にされる。
昔々、そんな風に強がったせいで、伝えられなかった本当の言葉を、今なら素直に、思うままに、言えるような気がした。
「輝きたかったんだ」
“あの空で光る星のように”
思い返せばあの一瞬のステージが、俺の求めた全てであり、革命を起こそうと躍起になっていた頃、まだ見ぬ誰かに見せたかった景色��のものだった。
一面の虹模様。
サイリウムの波。
何も持たない者たちが、あがき、奇跡を起こし、手にいれた、本物の輝き。
「誰だって、何も持たない者だって、努力すれば報われる世界が欲しかった」
おいでおいで、と無邪気に呼ばれ、制服のまま間抜けに歌わされたことについては、少しばかり、悔しさもあるが。
あの時確かに思った。
俺が見たかったのは、これだったのだと。
本当は、他の誰に見せるわけでもなく、自分の、この両の目で、見たかった景色なのだと。
「一度くらい、光を浴びてみたかったんだ。誰かでなく、俺自身が」
確かに、英智のために、と動いたのも本心のひとつだった。あれは金と権力だけを振りかざす子供のようで、ほしいほしいと命を削るように財と力を行使していたのを俺はよく知っていた。あいつを見ていると苦しかった。あいつの苦しみは、俺の苦しみだった。��い幼い頃の話だ。
俺たちが見たい景色は同じなのだと思っていた。
俺たちは、自らのあがきで手にした力をもって、虹の橋を渡りたかったのだ。
いつだったかの幼い頃、祖父は教えた。人生は苦行だと。生きて徳を積み、魂の輪廻から外れることこそが、我々にとっての幸福なのだと。英智に出会うことさえなければ、その教えを俺は信じたのかもしれない。
けれどその、決死の覚悟で削られた命が、今この場所でなく、死んだあとに評価されるなんて、あんまりじゃないか。
報われる方法が、あの世で解脱することだけだなんて。
そこから俺のシナリオは始まったのだ。
道化師の言うところの、“夢見がちで穴ぼこだらけ”のシナリオは。
「俺はさ、お前のためだけなら旗を振ってやってもよかったんじゃないかって、思ったこともあるんだ」
絡まった視線を、先に外したのは朔間さんの方だった。
「けど、お前、優しいからさ。俺とお前、ふたりだけ助かる世界なんか、欲しくなかっただろ? 自分と同じか、それ以上に苦しんで、あがいてる奴を放って、自分だけ助かるなんて、ゆるせなかっただろ?」
ズキン、と体の何処かが痛んだ。
その伏せられた真っ赤な双眸が、あまりに切なく見えたせいだった。
「お前の、そういうさ。青臭いところ、っていうか。誰も彼もを、なんとか等しく救いたいって無謀な気持ち、俺は結構好きだった」
だから余計に悲しかったのかな。
ぼう、と独り言でも呟くように、溢れ出たそれこそが、この人の本心なのだとすれば。
本当に、そうだとすれば、どれほど残酷なことを、俺は。
「俺、お前に言ったよな。俺は本当は、化け物でも、吸血鬼でも、なんでもないって。……俺だって平等に扱われたかったよ、せめて、敬人、お前にだけはさ。一人で旗振って、聖人よろしく民衆を導くなんて、そんなのって――あんまりじゃねえか。それに、知ってんだろ? 孤独な先導者の末路は、火炙りの刑だ、って……結果的に似たようなことになっちまったのは、皮肉なもんだけどな」
あいつらには、謝っても謝り切れねえよ。
自分と共に青春を謳歌した、四人の仲間に向けて、彼は黙祷するように目を閉じた。
処刑されたのは、自身ではなかったこと。
五奇人としての友の最期を、見届けることすら出来なかったこと。
それらもまた、彼が夜闇の世界へ身を潜めた大きな要因だったのだろう。自分が表だって動くことで、生まれる犠牲の多さを思い知ったのだろう。
けれど。
「やっぱりさ。一緒に振りたかったよ。革命の旗はさ。俺一人じゃなくて、誰かと」
この人は再び陽の当たる場所へと手を伸ばしたのだ。
世界を変えるために。
自ら見出した“何者でもない星々”へ。
そしてこの学院に、たった一人舞い降りた、奇跡のような少女の元へ。
「だったら――あんたの夢は、叶ったんだな」
負け惜しみのように、聞こえてしまったかもしれなかった。
だがそれは俺の、心からの祝辞だった。
どうか伝わってくれと、祈るようにその目を見つめた。
「お前の夢だって、叶ったんだろ?」
泣きそうに眉を寄せて笑う、特別神様に愛され生まれ落ちたこの人が、もう孤独ではないということが、俺には嬉しかった。
「ああ。あんたが――あんた達が、用意した、破天荒な四人と、一人のおかげでな」
ふ、と零した俺の笑みに、朔間さんは小さく息を吐き出すと、乱暴に机から飛び降りた。
窓から舞い込んで、卓上に積もった薔薇の花弁が、はらはらと床に零れ落ちる。気にも留めず、ずかずかと俺の正面へやってくると、朔間さんは、二度ほど瞬きをしたあと、息を吸い込んで、俺の左手をうやうやしくすくい上げた。
その手のひらに、乗せられた小さなものは。
「やるよ。あとで捨ててもいい。俺が渡したいだけ。けどまあ、こいつを死守するの、DDDで勝ち残るよりよっぽど大変だったってことくらいは、言わせてくれよな――」
確か、ここに入れたままのはずだ。
ズボンの右ポケットに、手を突っ込む仕草を、朔間さんはぽかんと見つめていた。カチ、とプラスチックの安っぽさが、爪に当たって響く。
「……敬人?」
「あんたの心臓は、まだ必要なんだろう?」
小さな小さな裁縫箱の、一番取り出しやすい場所に位置するハサミを抜き取って、己の制服に差し込む。ブツ。糸の切れる音が確かに聞こえた。俺は、ほどけた糸の隙間から、丁寧にそれを取り出して、目の前の胸元に突きつけた。
「生きていくんだろう。ここで。目印の旗を掲げて」
そして待つのだろう。
あんたと共に、自分の意志で、歩こうと決めた仲間のことを。
「敬人、」
「俺は、きっとあんたに背中を見せられる人間にはなれない。大神や羽風のように、この理不尽な世界を、走って行けるだけの力はない。それは自分が一番よく理解している。俺は、そっち側には行けない」
ほんの少し、うつむけば、己のくたびれた上履きが目に留まる。三年間、この学院のあらゆる場所を駆けずり回った、歴史の残骸。
決めたじゃないか。
全てを抱えて、それでもなお前を向いて、歩いていくのだと。
幾重にも汚れ、泥を被り、血の海を踏みしめてきた、この両の足で。
「だがもしいつか少し先の未来であんたの旗を支えることができるなら、俺は、」
言い切る前に、俺の視界は開け放たれた窓を綺麗に捉えていた。
視界の隅で、ゆるい巻き毛が、ふわりと揺れている。肩の上に乗せた額を擦りつけるように動かすと、朔間さんは、俺を抱える腕に力を込めた。
「……四年も待ってらんないぜ?」
「……抜かせ。四年後俺が敏腕プロデューサーになるまでに落ちぶれたりでもしたら、いい笑い者だぞ」
「はは、誰に向かって言ってんだよ。……朔間零ちゃんだぜ?」
強気に放たれた言葉は、泣きそうな声に乗って、俺の耳をくすぐった。
体を離すその一瞬のうちに、俺の手から金の心臓を奪い取ると、朔間零は笑った。
俺はそれを、美しい、と思った。
「どこにいても、分かるように響かせてやるよ。俺の声を。魂の叫びを。誰かと一緒に輝きたかった、あの頃自分で手放した、夢みたいなアンサンブルを――」
開け放たれた窓から、春風が強く舞い込んで、分厚いカーテンを強引に揺らす。
いつかまた、十字路が訪れ、道を選ぶ時。俺は今日という日を思い出すだろう。
この人の乱れた黒い前髪を。
その後ろで、奇跡のように踊る、深紅に染まる旗のことを。
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三章 荒野に歌を祝福を
「敬人ちん」
そんなトンチキな敬称をつけて俺を呼ぶのをゆるされるのは、この学院においてただの一人しか存在しなかった。
図書室に向かう廊下の途中、背後を振り向けば、数冊の本を抱えた仁兎が真ん丸な赤い目を瞬かさせていた。腕の中の背表紙に数秒、視線をやって、要らぬ世話かと思いつつも立ち止まり、仁兎が近付いてくるのを待った。
「資料なら、進路指導室にもいくつかあるぞ」
「ん~ん。あそこはもう見たんだ。薫ちんに教えてもらった」
「羽風に?」
思いの外大きな声が出てしまい、はっと口を押さえる。廊下は静かに。貼り紙に筆で書いた己の文字を思い返していると、仁兎は噴き出すのを堪えるようにして小さく笑った。
「そ。あいつ、ああ見えて、ちゃんと考えてるんだよ。生きる、ってことをさ。まあ、それで結局、資料が要るのはおれだけになっちゃったわけだけど」
手元の本と、プリントの入ったファイルを見下ろして、仁兎は目を細めた。穏やかな、笑うような仕草だった。
「大学はもう決まったんだ。ただ、どの分野に進むか、やっぱり迷っててさ。色々見るなら、あそこのがいいと思って。おれ、けっこう図書室詳しくなったんだぜ~? つむぎちんたちと書庫の整理とかしてさ」
行き先が同じであることを察してか、仁兎は俺より先に歩き出した。横に並ぶと、金髪のつむじが見下ろせる。表情は伺えない。小さな歩幅に合わせてゆったりと歩を進める。仁兎は、いつもと変わらない、少し舌足らずな口調で話しながら、抱えた一冊のファイルを数ページめくった。
「ほんとはこのまま放送系に進もうかと思ってたんだけど……初年度に、うまいことコマを取れれば、一通りのことは広く浅くやれそうなんだよな。道を絞るのは、それからでも遅くないって、いっそ開き直っちゃおうかと思ってさ。ただでさえ、出遅れてるんだ」
開いたファイルを閉じる音が、ぱたん、とやけに響いた。
「おれはアイドルしかやってこなかった」
――その一言に、どれほどの闇と傷が含まれているのか。
一年目は、斎宮宗の操る至高の天使として。
二年目は、糸のもつれた空洞の人形として。
三年目は、ようやく一人の、自我を持った人間として。
「でも、それも全部、自分で選んだことだから」
それを今、全て抱きかかえて、進もうというのだ。
小さな体の、一体何処にそれだけの力があるのだろう。不思議でたまらなかった。壊れたものは、元に戻らない。いつだったか瀬名が独りごちるようにそう言っていた。この数年の間、壊れたものなど山のように存在する。けれど仁兎も、つぎはぎ合わせの状態からここに至るまで、歩いて来たのだ。
やめようと思えばいつだってやめられた。
それは夢ノ先学院のどの生徒に対しても言えることだった。
単なる惰性だけで生き残っていられるような世界ではない。去年の大規模な革命から、その傾向はよりいっそう顕著になった。努力しなければ評価されない。それを理解した上で、惰性でなく、自己の確固たる意志をもって、信念を貫き通したものだけが、今、この緑のネクタイを首に携えている。
「……そうか」
小柄な仁兎の白いカーディガンから、俺のものと同じネクタイが覗いている。俺はその色に、仁兎の覚悟と、ここまでの道のりを想い、胸のうちで静かに称えた。
「斎宮は、海外へ行くと言っているようだな」
「はは。あいつらしいよ。芸術が芸術として、正しく評価される所へ行くんだ。むしろそれ以外有り得ないだろ? 向こうで認められるんなら渉ちんとの共演も夢じゃない」
「あぁ……昔はよくやっていたな。斎宮が演出と脚本、日々樹は……いったい何人分の役を演じ分けていたんだか……」
「すごかったよなぁ~あれ。なんで演劇科に入ってくれなかったんだ、って、あっちの先生らは結構、悩ましい顔してたみたいだぞ」
あはは、と笑う口元が、数秒してふとまっすぐに結ばれる。そっか。ひとこと放って、仁兎は黙考するように口をつぐんだ。
図書室へ向かうのであろう生徒が、立ち止った俺たち二人を追い越して歩いていく。
「でも、追いかけたりしないよ。おれは、おれの道を行くんだ。一年、いろんなやつらに恨まれながら、それでもみんなに助けられて、ここまで生きてきたんだから」
その背中を見て、焦るような気持ちは、きっともう何処にもないのだろう。
そう在るために、考え抜いて、見定めたのだろう。まっさらな大地から、己の進むべき道を。
「強いんだな、お前は」
「ううん、弱いよ。みんながいたからここまで来れた。友ちんに創ちん、光ちん、テニス部の連中、放送委員の二人、それに他のユニットの奴らも……おれだけの力じゃない。一人じゃ生きていけないんだ。人間って」
うんしょ、と資料を左腕に抱え直し、右手の親指から順に数を数え、最後にぎゅっと握りしめると、仁兎は大きく息を吸い込んだ。
「なあ、敬人ちん。おれ、天祥院に、お前のしたことは消せない、おれたちの記憶からも消えないって、言ったことあるんだ」
ス、と血の気の引くような感覚がした。
続く言葉を待つ間、指先が冷えて、眩暈でも起こすかと危ぶんだほどだった。
何を言われても、受け止めるしかない。
奥歯を噛み締めて覚悟を決めると、仁兎は、声色を変えることなく、うん、と一度頷いて、小さく微笑んだ。
「でも、同じだったんだな。あいつも、敬人ちんも、自分の足で立ち上がって、どんな道でも歩いてやるって思えるやつらを、待ってたんだろ?」
俺は、色素の薄くなった唇を、ぼう、と開けてそれを聞いた。
「よかったよ。おれは、三年間、ここに居られて」
三年間。
その全部を、大切なものとして抱きかかえ、前を向く。
「敬人ちんは、後悔してる?」
それが、一体、どれほど困難なことか。
「……後悔、しそうなことは、何度もあった」
誰にも晒したことのない、懺悔のような想いが、溢れて口から零れていった。
潰すことしか出来なかった。
それを修復する手伝いも、してやれなかった。
「けど、お前が、お前たちが。歩みをとめなかったから。俺も、前へ進むことを許されたんだと思う」
輝かしい夢を抱いて、初めて舞台袖に立ったあの子兎らが、どれほど涙を流したのか、俺には分からない。そんなものをいちいち目の当たりにしていては、どうにかなってしまうと思った。やはり、鬼龍や斎宮の言うことは当たっているのだろう。俺は、他人に何か与えることもたいがい下手だが、奪うことが得意というわけでもないのだ。
だから嬉しかった。
もう一度、天の川の下、彼らと相まみえたことが。
「……お前たちのマーチングに、励まされたんだろうな」
柄にもないことを言ってしまった、軽く咳払いをしながら視線を床に落とすと、仁兎は、へへ、とくすぐったそうに笑った。
「まだまだ続くよ、敬人ちん。あいつらのマーチングは、俺が抜けたあとも、どこまでも、空高く、続くんだ。……その道を開いてくれたのは敬人ちんだろ?」
うんと背伸びをして、満面の笑顔を見せつけるようにして、仁兎はその白い歯を見せた。
「ありがとう。あいつらに、全力でぶつかってくれて」
あぁ、こんなところでも。
ニ、と細められた、うさぎのように赤い両目。
手渡された裁縫セットの硬さがよみがえる。
礼を言われるようなことなど、何もないのに。
「あっれぇ、なずなくんじゃん。と、蓮巳くん? 何々、どういう組み合わせ?」
弾かれたように、二人して声の方を向く。
向かい側――図書室の方向から歩いてくる、くすんだ金髪に、片眉を吊り上げる。薫ちん。仁兎が呼ぶと、やっほ、と羽風は右手を振った。
「偶然居合わせただけだ。特に意味はない」
「うん。おれが資料見に行こうとして、たまたま途中で会ったんだよな~」
「ああ。蓮巳くん、暇さえあれば鬼の形相で棚の整理してるもんね。実はあれ、結構後輩に怖がられてたんだって、知ってた?」
「別に鬼の形相などしているつもりはないんだがな……」
「まあね。昔に比べたら、うんと優しい顔になったと思うけどね」
お前にそんなことを言われる筋合いはない、と言い返す間もなく、羽風は軽く後ろを振り向いて、手ぶらになった両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「俺は、色々と、返してきたとこ」
何を。
聞くまでもなかった。
仁兎が、両腕のそれをそっと抱え直すのを、俺は目の端で捉えていた。
「必要、なくなっちゃったから」
そっか。
仁兎が低く、けれどどこかすっきりした声で相槌を打つ。
「よかったな、薫ちん」
「あはは、うん。なんか、まだ、執行猶予付き、みたいな感じだけどね」
「大丈夫だろ~? おまえなら、きっとさ。……うん。おれはもうちょっと、色々借りてくるかな。じゃあな~!」
羽風と入れ替わるように背を向けた仁兎が、俺を置いて足早に進んでいく。手を振る羽風の、憑き物が落ちたような横顔が、どこか憎たらしくて、俺は両腕を組みながらフンと鼻を鳴らした。
「ようやく腹を決めたか」
「ええ~ちょっと……そんな親みたいな顔でほっとしないでくれる?」
「俺とて不本意に決まっている。しかし、夢ノ咲の卒業生が華々しく芸能界で活躍しないと我が校の今後が云々――などと言われる立場でもあるんだ。……まあ、そのあたり、英智の気苦労には到底及ばんだろうがな」
軽く眼鏡を直しながら当てつけがましく言い放つと、羽風は突然頬を強張らせて、表情を曇らせた。
「……蓮巳くんはさ」
……少しばかり、言い過ぎたか。いや、こいつの進路に関して口喧しく上層部から聞かれ続けたのは事実だ。これくらいの文句は受け付けてもらわねば気がすまん。代わりに俺もあらゆる罵倒を受け流そう。それだけのことをした自覚もまた、俺にはある。
「……天祥院くんのために、薔薇色の青春時代を、棒に振ったの?」
何を言い返されるかと身構えていたところへ、存外真面目な質問を寄越されてしまい、俺は拍子抜けしてしまった。ハア、と大袈裟に聞こえるように、わざとため息を放る。顔色を伺うような羽風は、「俺、そういう馬鹿みたいに真面目な奴を、一人知ってるからさ」と案じるように続けた。
「貴様までそんなことを言うのか。……呆れてものも言えんな」
それが誰のことを指しているのか、なんとなく察しはついたが、あんな正義の味方と一緒にされてはたまらない。
「そんなわけがないだろう。俺の人生は俺のものだ。英智の掲げた目標が関わってくることも、まあ、多少はあるし、そこは否定できんが。あくまでも、共感、賛同できるから道を共にしただけだ。貴様、覚えていないのか? 一度派手に喧嘩をしたことがあったろう」
「ああ~あのなんか暑苦しいやつね、覚えてる覚えてる」
「あれだって、英智の言いなりになっていたならば、紅月は解散していたんだぞ。そんなことをさせてたまるか、全く、俺には俺の船がある。舵を取るのも俺自身だ」
そして、その航海を支えられるのは、同じ船に乗った同志だけだ。
真っ赤なオールバックと、紺碧の艶やかなひとつ結び。それでも各々、その双眸で捉えた世界の形は異なるはずだ。当然だろう。違う生き物なのだから、同じ場所に立っていても、見える景色が一緒とは限らない。
「……だから、ここまでだ。あいつと道を同じくできるのは」
結局俺は、あの陶器の釉薬のような透き通る青の目と、同じものを見られるわけがなかったのだと、気付いたのはいつのことだったろう。
七夕祭の時? 喧嘩祭の時? いいや、本当はもうずっと前から分かっていた。
最初から最後まで、俺たちの未来図はどこか大幅にずれていたのだ。
「寂しい?」
やんわりと尋ねられ、羽風の灰色の瞳を覗く。微弱に揺れる、波のような目元を見て、あぁ、と合点がいった。それは俺に向けての疑問符でなく、同意や共感を求めるために発せられたものなのだと。
こいつも、厄介極まりない水浸しの友人と、もうじき道を別つのだ。そしてそやつは、行く道を誰にも明かさないまま卒業するのだと言う。
それが寂しいのだろう。
羽風薫という男は、存外一人では生きていけない生き物なのだと、気付いたのも今頃になってからだった。
「寂しくはないが、心配、だな。何度言い聞かせても、生き急ぐところがちっとも直らん。あいつ、次に会うのは僕の葬儀の時かもね、とか、平気で言うんだぞ。冗談に聞こえん」
「はは、うちとは真逆だ。足して半分に割れたらいいのに。もうちょっと、生き急がせたいんだけどなぁ、あの人のことは」
思い描いた人物と、遠からず近からずのところを引き合いに出されて、ぎくりと鼓動が跳ね上がる。己の寂しさを隠すための話題転換だということに、気付いてもなお、俺の動悸は収まらなかった。
「そこを、どうにかするのが、お前の役目なんだろう」
あれが命を削るに値すると判断するだけの何かを、羽風薫という男は持っている。
だから承諾したのだろう。そうでなければ動かない人だ。痛いほど分かっている。
「出来るかな」
不安がる要素など、どこにある。
あの人が共に歩くと決めたこと以上の評価が、この世界の何処に存在するというのだ。
「……出来なかった俺に、何か言う資格があると思うか?」
様々な言葉を飲み込む俺に対し、ハッと息を吸い込む音が、端からも聞こえるほどに大きく響いた。底意地の悪い言い方をしてしまった。狼狽える羽風に、申し訳なく目を逸らす。
「違う、そんなつもりじゃないよ。ごめん……ていうか、そうじゃないよ。俺だって、あんな頃の朔間さんを、どうこう出来るわけないって思うし、実際、当時はそう思ってたわけだし。それで、全部諦めて、流されて……今までずっと、情けなくぼーっとしてさ……」
ポケットに入れていた両手は、いつの間にかだらんと力なく地面に向かっておろされていた。
「朔間さんに、もっと頑張れよって言われた時だって、俺は何もしなかった」
灰色の双眸が、虚空を映すようにぼんやりと陰る。俺はこの目を知っている。あの時、あの稚拙な策略とステージを、遠巻きに見世物扱いした時と、似た色だ。虚無を抱えた瞳。全てを諦めた、戦うことを放棄した人間の目。
「俺がさ。頑張ろうと思えたのは、頑張ったら報われるんじゃないかって、嘘でもそんなことを思えるような世界になってからだよ」
それはまさに青天の霹靂と言うに相応しい出来事だった。
羽風薫という男が、あのサイリウムの渦の中に残る決意を固めたのは、本当の本当に、ここ数日のことであるらしい。
何故それを俺が知っているのかというと、あの黒髪の吸血鬼が、俺を見るなり勝手に呼び止めて、聞いてもいないのに報告してきたせいなのだが。
「多分さ、色んな人が傷付いて、色んなものをなくしたと思うよ。でも、今の子たちは……っていうか、俺もそのうちの一人だけど……その恩恵を受けてるわけじゃない。それはさ、蓮巳くんたちが、更地になったところから、種を蒔いた結果だと思うよ」
綺麗事のような話をされている、と、どこか他人事のように聞いていた。傷付いたものが元に戻ることはないし、撒いた種が芽を出す保証など何処にもなかった。
俺の、俺たちの革命は、運良く、奇跡的に、ただの破壊行為で終わらなかっただけなのだ。たまたまその奇跡を、何を思ったのか意図的に起こそうとしたモノたちがいたからこそ、俺たちの殺戮は、意味あるものとなった。
「あの人だって、何か大事なものをなくしたから、変わろうって思ったんじゃないの」
奇跡を起こせるだけの、人間離れした連中が、あらゆる場所に駒を置き、続編のようなハッピーエンドを描いたことで。
「そういうわけだから、俺はただ、タイミングがよかったってだけ。……でも、決めたからにはさ。ここからは、ちゃんと歩いていかなきゃだよね。あのおじいちゃんを、棺桶から叩き起こしてさ」
にへら、といつものように軽薄な笑みを浮かべた羽風は、じゃあね、と廊下を歩いていった。弛緩した表情に反して、その足取りは確かで、力強かった。ふわりと風が吹いても、もう何処へも流されそうになかった。決めたのだろう。この何もない更地から、一歩踏み出すことを。
あの人と共に。
不安など微塵も感じなかった。上手くやるだろう。あいつの足は、自分が思うより遠くへいくためのものを備えている。歩き出したのならば、きっとあの光の中に、居続けることができるだろう。
羨ましいか。
そうっと己に問いかけてみた。
心は静かに首を振った。おそらく、俺の物語は、ここまでなのだ。けれどもう充分だ。
この広大な世界の中で、主人公になれる一瞬があっただけで、俺はもう、それでよかったのだ。
一呼吸置いて、図書室へ向かう足を再び歩かせた。主人公であろうとなかろうと、人生は無情にも続いていく。ならば俺も、俺の道を選び取らねばなるまい。
あの小娘を、一年かけて叩き上げた成果が、ここへ来て俺の力になってくれるかもしれんな。
ふと、革命の象徴となった、未熟な少女の面影を思い起こし、微笑を浮かべた。俺の選ぼうとする道は、あの人の元へと繋がってくれるだろうか。俺の撒いた種は、いつか新芽を生むのだろうか。
英智。
いまだに入退院を繰り返す、病弱な幼馴染みの名を、小さく呼んだ。俺とお前の夢は、まだまだ続いていくと信じていいだろうか。
幼い頃の小さな背中を思い出す。
俺たち二人だけの物語は、きっともう、ここでおしまいだ。けれどいつか何処かで交差するだろう。お前の目指す大きな野望と、俺の思い描く矮小な夢は、同じでなくとも、そう遠いところにあるわけではないのだから。
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二章 冬の日々、憧れた春
一度目のノック。返事はなかった。
二度目のノック。前回より、数を多く、強めに。やはり反応はない。
三度目のノック。部屋の主はようやく気付いたのか、入りたまえ、と俺を招き入れた。
「何か用かね? 生憎手を離している隙がなくてね、手短に済ませてくれると助かるんだが?」
来客に向かって目もくれず、手元に集中している斎宮は、思っていたほど機嫌を損ねてはいなかった。自己のペースを乱されることや、己の領域を侵されることに酷く神経質な彼のことだから、無視されるか、反応があるとしてもあからさまに嫌な顔をされると思っていた。
「作業中すまんな、だがこちらも生憎、用があるのはお前ではない。影片はいるか? 書類の不備があるので書き足してほしい」
ぴくり、と針を持つ手が一瞬鈍る。深い深いため息のあと、斎宮は縫い物を続けながらブツブツと小言を並べた。
「全く……あれは本当に出来損ないのガラクタだね。今回ばかりは大丈夫だろうと任せておいた結果がこれとは、嘆かわしいにも程があるというものだ。もうあと少しだけ集中力があれば、そこそこのモノになるだろうに……寄越したまえ、いつまでに書かせればいい?」
「期日はまだ先だ。しかし明後日には生徒会に再提出してくれると助かる。処理は衣更が仕切っているからな。ギリギリに書類を増やして負担をかけたくない」
「フン、甘いね、君も。在学中に慣れない仕事を山ほどさせておけば来年楽だとは思わないのかね?」
「節分祭の取り仕切りだけでも充分てんやわんやしただろう。今頃はプロデュース科の始動についても案件を抱えているはずだ。……あいつらには意地の悪いことしかしてやれんかったからな。これくらいはいいだろう」
「……まあ、君がそう言うのならば、僕がこれ以上口を出すこともない。いいだろう、すぐにでも呼びつけて書き直しを……と言いたいところだが、実はこちらも色々あってね。今あれは使い物にならない。仕方がないから、今回だけ特別に僕が書いてやろう。さ、何処を直せばいいのだね?」
「ああ、助かる。曲目の横に、分数を書くところがあるだろう、ある程度の目安で構わんが……」
「この僕が、自分の作り上げた作品の一分一秒を覚えていないとでも?」
「――言うと思ったぞ、いや、助かるな、本当に」
俺ではなく、衣更が、と続けると、斎宮はほんの少し呆れたように笑った。
さらさらと紙面にインクが乗る音を聞きながら、手芸部の部室、もとい斎宮宗の城砦を見回した。ゴシック調の衣装が所狭しと並ぶなか、間に挟まる中華風の祭り衣装。ハンガーにゆったりとかけられた羽衣のような薄布は、七夕祭の衣装だろうか。幅が広いな、と感心していると、部屋の隅に立て掛けられた二本の旗が目に留まった。
「そういえば――お前たちにも、旗を振る曲があったな」
「あぁ、あるね。それが何か?」
書いた数字を再度確認するように目を上下に動かす斎宮は、見向きもせず頷いた。
「月永がな。このところ毎日のように弓道場に旗を持ち込んで、むやみやたらに振り回している。気が散ってかなわん。よければなんだが、扱い方を教えてやってくれ」
「月永?」
ぼう、とした斎宮の視線が、ようやく俺と交わったのはその時だった。
新曲の振り付けで、旗を使いたいそうだ。説明すると、ふむ、と肯定とも否定とも取れない曖昧さで、斎宮は頬杖をついた。手に持った書類は、おそらく完璧に書き終わっている。
「……月永も、変わってしまったね」
過去を思うように遠い目をすると、斎宮は小さく溜め息をついた。
「それは、悪い意味でか?」
手元の書類に手を伸ばすと、ほとんど同時に差し出された。ありがとう、と受け取りながら、俺は伏せられた斎宮のまつげに視線をやった。
「いいや。他意などないよ、事実を述べただけだ。……まあ、あの芸術的な旋律の数々が、凡人相手に漠然と大量消費されることに対しては、大いに憤慨しているところだけれどもね!」
フン、と鼻息を荒くして、斎宮は腕を組むと、それも束の間、また針に手をやって、衣装を作り始めた。
「優しいんだな、斎宮は」
そして以前より、それが表に出るようになった。
余計なお世話なのだよと返ってくるのを待ちながら、俺は書類を確認していた。あるいは、用が済んだのなら出ていけ、だろうか、などと予想しながら。
「君ほどではない」
その一瞬、酷く間の抜けた顔をしていたと思う。
「りゅ……鬼龍がよく言っていたよ。あいつはお優しすぎるんだ、とね」
あやうく落としかけた紙切れを慌てて持ち直して、斎宮を見ると、斎宮はもう自分の手の中のものに集中していた。
「正義の鬼を名乗るには、あまりに他人を想いすぎたのだろうよ、君という人間は」
よし、と縫い目を撫で付けて頷くと、鮮やかな手つきで玉結びを施して、斎宮は糸を断ち切った。返礼祭はユニット衣装の予定、と聞いているので、出来上がったそれは別のライブで使うのだろう。表地と裏地の両方を一通り確認し、斎宮はそれを木製のハンガーに通して、クローゼットの一番奥にかけた。
「これを持っていきたまえ」
書類を握っていない左の手のひらに、斎宮が何か握らせてきた。プラスチックの、硬質で冷たい質感。手を開いて確認すると、それは小さな裁縫セットだった。意図が分からず角度を変えながら見つめると、詰め込まれた中身が、ジャラ、と音を立てる。
「じきに、必要になる時が来ると思ってね。準備のいい君のことだが、こういったものは持っていないはずだ。衣装のほ��れなどは鬼龍が直していたと聞いている」
「確かにこの手の類いは所持していないが……何故俺に渡す? ホワイトデーだから、とでも言うつもりか? 生憎お前に何かやった覚えは――」
怪訝に思い斎宮の表情を伺ってはっとする。
慈愛に満ちた、愛すべきものを想う眼差し。
こいつが、こんな目をする時は。
「……仁兎のことを。黙認してくれたのは、君なのだろう。その礼だとでも、思ってくれたならいいよ」
お茶のひとつも出せなくてすまないね。
そう言うと、斎宮はまた布地を取り出して、数枚の製図と見比べ始めた。俺は、何と返せばいいのか分からず、邪魔をした、と軽く頭を下げ、斎宮の城をあとにした。
◆
「……噂をすれば、というやつか」
生徒会室へ向かう途中、見かけた真っ赤な髪の色と、それに対峙する暑苦しい話し声に片眉を上げた。
あいつはお優しすぎる。
斎宮の台詞を、奴の声に置き換えて再生すれば、なんともしっくりきてしまい、俺は苦々しく唇を噛んだ。
「おう、なんだよ旦那。俺の悪い噂話か?」
俺に気付いた鬼龍は、からかうように笑いながら軽く右手を挙げた。隣で話し込んでいた守沢も、蓮巳! と俺の名をでかでかと呼んだ。廊下は静かに。あの阿呆は張り紙が見えないのだろうか。もうそんな注意をするのも三年目となると疲れてしまって、俺はため息まじりに眼鏡を直した。
「勝手に悪いと決めつけるな」
「そうだぞ! お前は見た目こそ怖いが、根はとっても良い奴だからな!」
「はは。んなこと言うのはてめぇくらいだよ、守沢」
「いいや、そんなことはない。鬼龍の優しさは、きちんと周りに伝わっているさ。だからせがまれたんだろう?」
せがまれた?
俺が小首を傾げていると、鬼龍は照れ臭そうに鼻の頭をこすりながら、それを隠すように、ったく、と呆れたように言い放ち、己の腹部のあたりを見下ろした。俺も、その視線につられ、ある一点の不自然さに気付く。
ない。
ブレザーを留める、ボタンのうちの、片方が。
「こんなのよ、女どもの欲しがるもんだっつーのに、鉄のヤツ、譲らねえんだよ。絶対絶対、俺にください、ってよ。他にやるアテもねえから、くれてやったんだけどさ」
「好かれている証拠じゃないか。なぁ?」
「にしたってよぉ……なんで第二ボタンなんだろうな」
「あぁ、それについては……」
「心臓に一番近いから、だったな?」
驚いて顔を上げると、守沢は普段通りの快活な微笑みで、唖然とする俺と鬼龍に笑いかけてきた。
「意外か? こういうの、俺が知っているのは」
自分でもそう思ってのことなのだろう。
特に気分を害するでもなく、守沢は続けた。
俺は、そういえばこいつ、運動能力に目が行きがちだが、実は文系だったな、などとぼんやり思い返していた。
「この話をな、南雲たち相手にもしてやったんだが、たいそう驚かれてしまってなぁ。隊長、もしかしてロマンチストなんスか? とか、気味の悪そうな顔をされてしまったので、流石の俺も若干へこんだぞ。奏汰なんかは、なんで『しんぞう』をもっていかないんでしょうね? なんて末恐ろしいことを言い出すし……」
「はは、深海、あいつマジで怖ぇな」
「全く……お前たちのスチャラカさは相変わらずだな……聞くに耐えん」
そのスチャラカ軍団の健闘が、俺たちの計算を狂わせ、革命への一歩を生みだしたのだから、それもまた捨てたものではないのだが。
ふう、と己のペースを取り戻すように、一呼吸つく。自分の制服に一列整然と並ぶ金のボタンを見下ろして、そのひとつをそうっとつまんだ。
「……叶わぬと知っているから欲しがるんだ。ああいうものは。せめて代わりに、思い出くらいは、とな」
別れの時は、刻一刻と迫っている。
いくら決別できたと頭で分かっていても、気持ちはそう簡単に前ばかりを向けない。
お守りにでもしたかったのだろうな、と、赤いメッシュの少年を思い浮かべる。大将、大将、と随分となついていたのを、俺もよく知っている。南雲がなついてくれない、と愚痴をこぼした守沢のことも、覚えている。太陽のような少年だった。鬼龍や守沢は、自ら強く光を放つ、という意味合いで比喩を用いたが、俺はそれよりも、どこまで沈んでも、必ず明日にのぼってくる、そんな印象の方が強かった。本人は嫌がりそうなものだが、そういう所は守沢によく似ている。
諦めず、何度も何度も、不格好に立ち上がる泥臭さ。そんな人間にこそ、俺は報いがあってほしい。そしてそのための制度が、仕組みが、今の夢ノ咲にはある。下級生の中にもそれを実感しているものが、少なからずいるはずだ。
ここから歩みを止めないための拠り所にしたかったのだろう。
憧れた人間の、最も心に近い部分を貰い受けることで。
「……鉄のやつ、本当にあんなもんでよかったのかな。もっと、なんか、いいもん欲しがりゃいいのによ。こんなちっこいボタン一つで、嬉しそうにしてよ……」
「いいんじゃないのか? あいつが欲しいって言うんなら、それが一番だろう」
「そりゃそうなんだが……あぁ、ヘタクソな自分が嫌になっちまうな。もっと、何か残してやれたらよかったなぁ」
「今さら言っても後の祭りだろう。あまり気に病むな。それに、そのあたりの不器用さは、俺も人のことを言えんからな。……己の自己満足から切り離されたところで、何かを惜しみ無く与えるという行為は、言葉にすると簡単だが、実際行うのは酷く困難だ」
梅の花咲き誇る、少し前の乱痴気騒ぎを思い出す。
あの人は、あの人の言うところの“愛し子”に、何か残せたのだろうか。最後の最後まで重い腰を上げなかったあの人が、惜しみなく与えようと思えたのは、一体何がきっかけだったのだろうか。
「……少し話が過ぎた。忘れろ、今のは」
「いいや」
やんわりとした否定に守沢の方を見やる。赤茶色の目は露ほども笑ってはおらず、真剣に俺の言葉を飲み込もうと瞬きをしていた。
「そうだな。……俺もなにか、与えられていたのなら、いいんだけどなぁ」
本当のところ、こいつは酷く真面目な奴なのだと、知らないのは関わりの薄い後輩どもだけだ。想うという行為において、守沢の横に並び立てる人物を、俺は知らない。
明星スバルという器に才能を見出した人間は数あれど、その孤独に、悲しみに、寄り添った上級生はこいつだけだった。
流星隊の一年生にしてもそうだ。何処へもいけないはみ出し者の寄せ集め。一人では歩き方も知らない、ましてや立ち方すら分からない者をわざわざ選んでユニットに加えていったのだ。初夏の頃、英智がその在り方に頭を抱えていたことも、よくよく記憶している。
自己の輝かしい最後の一年間を棒に振ってまで、こいつは後輩に何かを残すことを選んだ。一体どれほどの人間が、同じ事をできるだろう。その点において、俺は素直にこいつを尊敬している。俺は、与えるという行為が、酷く苦手らしい。
「お前さんは充分よくやったろうがよ。後輩相手に、分け隔てなく愛情振り撒いてさ。俺ぁ、そういうの苦手だからよ、すごいことだと思うぜ」
「ん? あぁ、あれはどうだろうなぁ。お節介の押し売りみたいなものだから、またちょっと別の話になるけどな」
はは、と濁すように半端に笑って、守沢は引きつった口もとをまっすぐにした。その視線は、普段と比べ驚くほど不安げで、何かを祈る子供のような気弱さがあった。
「貰うことも、あげることも出来なかった奴のことを、な。……考えていた」
鬼龍が一瞬、息を止めるのと、俺が脳裏にとある人物を思い描いたのと、どちらが先だっただろう。あれに関しては、もはや三毛縞の力をもってしてもどうにもならないところに、ぽつりとひとり佇んでいるのだ。気に病むことなどないだろうに、守沢もさぞかしあれに思い入れがあるのだと見える。それもそのはずだろう。
自らの力で奪い取ったわけでもなく、その尾びれをむしり取ったわけでもない。
あれはあれの意志で、二本の足で立ち上がり、地上で歩くことを決めたのだ。守沢千秋という男の隣で。
「……お前は、そう言うかも知れねえけどよ」
口を開いたのは、鬼龍だった。
「自分が、誰に、何を与えてやったかなんて……気付かないことの方が多いもんだぜ。なあ、旦那」
鬼龍の切れ長の目が、やんわりと弧を描く。
仁兎。
囁くような斎宮の声がよみがってきて、あぁ、と俺も頷いた。おのが為の身勝手な行為に対し、時を経て、礼を言う人間がいるかもしれない。それは、その時になってみるまで分からないものだ。
「そう、だろうか。……うん。そうだといいんだがなぁ……」
弱々しく笑うヒーローの背を、鬼龍が勢いよく叩く。守沢の悲鳴と、気合注入だ、という鬼龍の笑い声が、廊下に響いた。
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一章 世界のゆりかご
俺は、俺の選択を後悔してなどいない。
どうだか。そう言って小馬鹿にするように笑った英智に、眉を潜めたのは春の初めのことだった。結論を言ってしまえば、英智の言うことは当たっていた。訂正しよう。俺は、俺の選択を後悔しないための証明が、ずっと欲しかったのだ。
あの日、英智が息も絶え絶えに敗北を認めたあの瞬間、俺の胸には安堵が浮かんでいた。
◆
桜の蕾が膨らんでいる。
廊下の窓から見える木々の様子に、目を向けることなどこの三年の間に何度あっただろう。いまだに吹く風は冷たく、渡り廊下へと足を進めれば両腕を抱えたくもなるというものだ。ただ、眼下に落ちる己の影と、それを投影する暖かな日射しに、春が来たのだ、��確かに感じた。
最初で最後の、穏やかな春だ。
一年目は、すっかり感情のない目で学院を一望する英智の横に据えられて、右も左も分からないまま立ち尽くしていた。入学式の記憶もあまり鮮明ではない。旧友――いや、もはや知人というべき朔間零との再会も、特別印象に残っているかというと、実のところそうでもない。何故そこまで俺を覚えているのか、何故そこまで親しげに話しかけてくるのか。そんな不信感は、漠然と覚えているのだが。
それより何よりも。
あの、艶やかな銀の髪が目の前で翻った瞬間の、英智の高揚が、あまりにも俺にとって衝撃的過ぎたのだ。
夢ノ咲史上、最高得点を叩き出したその男は、堂々と、まるで己の劇場を闊歩するかのように講堂へと上がり、意味の分からない演説をして、去っていった。あれが始まりだった。英智は、その背中の白い羽をむしり取ってでも、手に入れようとした。気高く美しい、その奇才の持ち主を。
それを単に憧れという言葉で済ませるべきなのか、あるいはもっと別の、特別な感情で呼ぶべきなのか、俺は今でも図りかねている。それこそ、性別さえ違っていれば、今頃英智はあらゆる手をつくして奴をものにしていたかもしれない。そんな馬鹿げたことを考える。自分も随分と毒されたものだ。青い木々が生みだす影をぼんやりと眺めながら、暇を持て余している自分に気付いて溜め息をついた。
二年目の冬の終わり。
あんな頃は季節の変化を感じる余裕すらなかった。生徒会による大規模な改革。英智の入院。去る者。追う者。繋ぎ止める者。おそらく俺だけではないだろう。あの節目、あらゆるものが揺れ動き、そして桜がすっかり散り切ったその頃に、あらゆるものは、在るべきところへきちんと収まったのだ。
穏やかな春だ。
頬を撫でていく緩い風に、目を細める。渡り廊下のアーチが作る影の中を、ほんの少しゆっくりと歩いた。あちこちから聞こえる歌や、地を鳴らすリズムは、返礼祭へ向けての練習だろう。
今、彼らの未来は、輝いているのだろうか。
赤と青のジャージ姿を横目に、俺は目的地を目指した。心を鎮める場所だけは、三年の間、ずっと変わらなかった。それに今なら下級生の出入りも少ないだろう。一人になるには、きっとちょうどいい。頬に受ける日射しがちりちりと肌を焼き始めた。俺は、緩めた速度をいつも通りに戻し、弓道場へ向かう足を早めた。
◆
「なあなあケイト~。ハタ振っていい?」
ぬっ、という効果音が聞こえてきそうなほど唐突に、床にねそべったそれは俺の袴のすそを掴んだ。
思わず飛び退くと、うーん、という唸り声をあげながら、ごろんごろん、と寝返りをうつ。その体の下には白い布が横たえられており、おそらく“ハタ”の一部なのだろうということが伺えた。道場に上がる前に立ちふさがった、図体のでかい動物を見下ろしながら、俺は眉間に力を込めることとなった。
「月永……お前はまた、一体何をやらかそうと……」
「いや! 今回のは真面目な話だぞ! そう! すごく真面目だ!」
「どこがどう真面目なのか俺に理解出来る言語で説明しろ、話はそれからだ」
「ええ~!? うーん! ダメだ! それは無理だ! 代わりにこれを聴け!」
獣のごとく飛び上がったかと思うと、月永は俺の両耳にイヤホンをねじ込んで、何故か得意げに笑った。ねじ込むならねじ込むで、中途半端に落ちそうなやり方をするな、と心中で文句を言いつつも、流れてくる音に口をつぐんだ。宅録か何かの、雑音混じりのそれは、おそらくKnightsの新曲だろう。月永にしては珍しく、すでに歌詞が乗っていて、コーラス部分には小さく瀬名の声が混じっていた。
「……振り付けの一環、というわけか」
「さっすがだな~ケイト! なんも言わなくても伝わった! じゃ、そういうことで」
「待て待て待て、だからといって弓道場で旗を振っていい理由にはならん。というか、普通に気が散る」
「え~その程度の集中力なのか~? ケイト、そんなんじゃ社会に出てやってけないぞ」
「弓を引く集中力と社会生活を円滑に行う力は全くの別物であるしそれをお前に説教させる謂れはないはずだが?」
「いーやある! 大いにある! 芸能活動歴でいったらおれの方が先輩なんだぞ~? ここは守られた空間だからな、昔と違って。一歩外へ出たら、それこそアレだぞ、アレ。ん? アレってなんだっけ、うん、そう、治外法権なんだぞ? おい、聞いてんのか? ケイトってば!」
「ええい五月蝿い!! 喧しい!! お前が聴けというから聴いているんだろうが!!」
「あ! そうだった! ごめんなケイト!」
へへ、と都合よく笑うと、月永はまた道場の床に寝転がってしまった。渋々、一曲聴き続けながら、俺も床の上に膝をついた。
ピアノとボーカルと、時折入るコーラスだけ。それは曲の骨組みともいうべき簡素なものだった。それでもこの曲が、どんな想いで作られたか、それがどれほど奇跡的なことであるのか、分からないわけはなかった。
よく、ここまで。
「……良い曲だな。月永。五人で歌う曲として、完璧に仕上がっている」
「それ」
ボソ、と落ちた静かな声は、がらんとした弓道場の中に、やけに響いた。
「分かるもんなんだな」
いつの間にか、月永は体を起こして胡坐をかいていた。
「もうさ、逃げてる時間なんか、ないんだよ」
外したイヤホンを受け取る表情は、無邪気な子供のそれから、現実を見据えた大人のものへと変化していた。
「居場所なんかないと思ってた。全部、四人で歌える曲しか、書かなかった。でも違った。あいつら、ほんとに、おれを待ってたんだ。もう時間がない。それは、おれが、バカだったのが、原因だけど。でもまだ、間に合うってセナが……みんなの目がさ。言うんだ。こんな、遅くなっちゃったのに、まだ」
ぎゅう、と床に広がる布を両手が握れば、真っ白なそれにしわが寄った。近くに置いていた黒いサインペンが、わずかに転がる。
「割れたコップは、元に戻らないけどさ。リトル・ジョンは子供を産んだよ。だからおれも新しく誓いを立てるんだ。新しい旗を、真っ白な旗を掲げてさ、それを、次のやつに渡すんだ。そういうことだろ、生きるって」
みすぼらしい散切り頭はそのままに、月永は幸福そうに微笑んで、同意を求めるように俺を見上げた。
あの日の、血まみれで、崩れ得落ちそうで、それでも必死で笑う月永の顔が、ふとよぎって、そして消えた。
よく、ここまで、帰ってきてくれた。
「あっ!! なんか今降りてきた!! インスピレーションが!! 神からの天啓が!! よしよし、今浮かんだおれの音は今のおれにしか書けないぞ!! 今だ!! 命短し、作曲せよ、おれ!!」
感傷に浸る俺を完全に置き去りにして、月永はまた白い布の上に寝転がってしまった。存在感の薄かったサインペンは、今や月永の意のままに音符を紡ぎ出し、まるでインクと共に命を削るかのように、布地を黒く染め上げていた。緊張の糸が解けたように、ほう、と息を吐き出す。こうなったら最後、表も裏も布地を真っ黒にするまで、ここを動かないだろう。今日は諦めて、書庫の整理でもしようかと、俺もゆっくり立ち上がった。
こういう、一瞬一瞬の強い衝動で動けることは、理解しがたい反面で感服することもある。今しかない、という、強迫観念にも似た、命を燃やす行為。周囲にまではっきりと伝わるほどの、“生”のエネルギーー
だから、お前はこいつと友達になりたかったんだろう、英智。
「おおっと!」
誰かと肩がぶつかって、慌てて体勢を立て直す。はっと顔を上げると、数センチ上から、鮮やかな翡翠の瞳が心配の色を浮かべていた。
「大丈夫だったか? 敬人さん」
「ああ、すまん。……どうした、こんなところに珍しいな」
「はっはは、古巣みたいなもんだろう? そう不思議がってくれるな、寂しいじゃあないか、敬人さん」
転びそうなところを支えていた三毛縞の右手が、ボン、と俺の腕を二度ほど叩く。やめろ馬鹿力、と手で払いのけると、これは失敬! と軽々しい謝罪が返ってきた。俺は振り向いて、静まり返った道場の気配を伺った。
「……月永なら、今は無駄だぞ。瀬名が来てこっぴどく叱りつけて、ようやく言うことを聞くかどうかだ」
「いいや、用があるのは敬人さんなんだなあ、ちょうどよかった」
わずか、声色が変化したのを捉え、声をひそめる。
「事と次第によっては、場所を変えるが」
翡翠の両目が一瞬、にい、と細められた。
「流石、察しがいい。敬人さん、いつも人に囲まれているからなあ、苦労したんだぞ? 一人になるのを狙うなら弓道場だと踏んでいたが、いや、これは千載一遇! またとない機会を得た! レオさんのインスピレーションには、もうあと一時間ほど沸いていてもらわないとなあ」
「本題に入れ、三毛縞」
話の導入が長いのは、お互い悪い癖だ。
短く三毛縞の台詞に割って入ると、ようやく貼り付けていた笑顔を完全に消し去って、その精悍な顔を現した。
「……ソロユニット制度の、件なんだが」
唾を飲み込む音がした。それは俺の発したものではなかった。
「あれを、残すことは出来ないか?」
ここまで真剣な三毛縞を見るのはいつ以来だろうか。それこそ、月永を連れていく、と一方的に告げた時、見たきりかもしれない。
「残す利点は?」
「んー、これは、完全に俺個人の願望になってしまう。学院全体に、大きな利益はないかもしれない。それでもいいか?」
「聞くだけならな。通るかどうかはまた別だ」
そう言うと三毛縞はほんの少し安堵したように肩を落とし、深呼吸するように大きく息を吸い込んでから、遠くを見つめてぽつんと零した。
「光さんに、選択肢を残したいんだ」
チカ、と西日が眼鏡のふちに反射した。
その一瞬、何かが美しく一本に繋がったような気がした。
「あの子の目指すところは、他の子たちよりうんと遠くだ。足並みが揃わなくなった時、逃げる道を用意しておきたい――いや、これは逃げじゃない。孤独に挑む、狭き門を、あの子のために残したい」
熱を増していく三毛縞は、だらんと下げていた両手を、いつの間にか強く握っていた。
反対に俺は、どこかこの状況を俯瞰して見ていた。物珍しがっていた、というと不謹慎に思われそうだが、それが一番近い感情だった。昔の三毛縞なら、もっと力でねじ伏せるようにして、ソロユニット制度を残しただろう。
「卒業したあと、俺があの子に出来ることはうんと少ない。また海外を飛び回る日々になるからな。……昔の夢ノ咲ならおおよそ考えられない話だが、今の夢ノ咲なら、きっと、あの子の夢と未来を守ってくれるだろう」
こんな、壊れ物を扱うように、大切な我が子の頭を撫でるような、人間味のある輩では、なかったのだ。三毛縞斑という男は。
「お前は、アイドルを辞めると思っていたんだがな」
数秒、呼吸を止めたあと、観念したとばかりに三毛縞は笑った。少し困ったような、自分でも、何かに困惑しているような顔をしていた。またしても、物珍しい、と思ってしまった。
「はは、鋭いなあ。実はそのつもりだった。だがなあ敬人さん。ちょっと考えたら分かることだったんだ。可愛い可愛い後輩から絶交を叩きつけられる、なんてことになったら、もうなあ、俺は敵わないんだ。だったらもう少しフラフラしてみようと思う。あの子が、俺に追い付いて、追い越して、もっとうんと遠くまで駆け抜けるまでは。……俺はな、敬人さん」
この男に、迷いなどないと思っていた。
「ずっと、背中が見たかったんだ。誰かの」
まぶたの奥で、漆黒の髪が揺れる。
「……狭き門を通れるのは、純朴な子供だけ、という話があったな」
数ミリ落ちた眼鏡を中指で上げ直し、一呼吸置く。西日は随分沈んで、東の空から薄い紺色が迫ってきていた。
「上手くやれるか分からんぞ。過度な期待はするな」
「はは、そんなことを言って、敬人さんが俺の期待を裏切ったことはないぞお?」
「お前の期待は、な」
「敬人さん」
着替えようと足を進めた俺の背後に、三毛縞が穏やかな声を投げて寄越す。振り向けば、その翡翠の目は、何かを見透かすかのように、夕陽を跳ね返して光った。
「敬人さんの前にも、門は用意されている。狭き門は、見落とすだけで、そこにあるんだ」
黙ったままの俺に、三毛縞はにこりと笑って手を振った。俺は何も言わずに、部室の方へと歩き出した。
穏やかな春だ。
ではその先は?
素足の冷たさが、気にならないほど暖かいこの日和に、俺は何処へ向かっていこうとしているのだろう。
頭の後ろで、ママー! と叫ぶ月永の声が響いた。俺は、二人がくぐるであろう門の向こう側を想像し、静かに呼吸を零した。
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生者のフラッグ 全4話
カップリング/ReS。・・・敬人&零 / 千秋&奏汰 / レオ&泉 / 英智&渉 / 紅郎&宗 他多数
※ ES時空にいかなかった卒業式ネタです
※ 進路の捏造があります
※ 三年生ほぼ全員出ます
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転がる岩、君に朝が降る
カップリング/ReS。・・・敬人&零
参考ストーリー・・・クロスロード
「坊主、目がいいよなぁ」
その時俺は、唐突に発せられた言葉の不当さに、一秒と経たず眉をひそめた。声の主を見やると、積まれた書類に手もつけず、のんびりと頬杖をついている。魔物のような赤い目が俺をじっと見る。意図は読めない。あるいは意図などなく、ただ単に俺が眉をひそめる姿を楽しんでいるだけなのかもしれない。
「そう言うあんたの目は一体どうなっている? 仕事もせずに暇そうに寛ぐくらいなら眼科で視力でも測ってきたらどうなんだ? ……見ての通り、俺はドがつく近眼だ。眼鏡がないと、自室ですら不自由する」
「視力のこと言ってんじゃね~んだよ。お前、よく見えてるよ。他人のことも、自分のこともな」
そういうの、その歳じゃ貴重なんだぜ。
一つしか変わらない癖にそう言ってのけた朔間さんは、細めた両目で俺を見てから少し笑った。おそらく本人は褒めたつもりなのだろう。うん、と確かめるように頷くと、上機嫌に足を組み、また椅子の背に沈み込んでしまった。
「さっすが、この俺様ちゃんをこんな仰々しい席に座らせるだけのことあるよな~」
「……あんた滅多に座らないだろう、その椅子」
「趣味じゃねーもん、座り心地は悪くね~けど」
「分かったから、早くこっちの書類に判を押してくれ。珍しく座ってるんだからちょうどいいだろう」
へーへー、と適当に返事をする朔間さんを横目に、中指で眼鏡を押し上げため息をついたのは春先の事だったろうか。確かに、審美眼という意味合いであれば己のそれは比較的上等のものだろう。だが、だからといってそれが俺に一体何をもたらしてくれたというのだろう。むしろこんなもの、ない方が幸せだったかもしれない。
俺は今、あの時あの人に褒められた自分の見る目を少しだけ恨んでいる。
「どうした、怖じ気づいたか、坊主」
消灯された生徒会室に脅すような声色が響く。
明かりがないこと以外、普段とそれほど変わらないはずなのに、まるで世界から切り取られた異空間のようだ。それもこれも、全て目の前の人物から発せられる異様な空気によるものであることは明白だった。
「見くびるなよ、怖じ気付いてなどいない。……俺の尽くした最善が果たして最適解なのかというと、不安は残るがな」
「ハハ、そういうことを正直に言っちゃうところが、お前の愚かで愛おしいところだよな」
からかうような口調でそう言うと、朔間さんは釣り上げていた両目を細めてから、少し肩で息をして、いつものように柔らかく俺を見た。
「そんじゃあ、ここは俺に任せてさ。さっさと帰ってよく寝ろよな。お前死ぬほど早いもんな、朝」
あんたが遅すぎるんだ、という反論を飲み込んで、夜目を凝らした。月の薄明かりが生白い肌を照らし出す。数秒して、朔間さんは足下に散乱させた書類を一枚拾い上げた。紙の触れる音が静かに鼓膜を揺らす。
「……朔間さん、本当に今晩ここに残るのか。確かに俺の名前で申請は出してあるので問題はないはずだが」
「あー、まあそうだな。……言ったろ、感傷だって。正直仕事なんかもう片付いちまったよ。褒めてくれよな、坊主」
ビリ、と書類を破く音が再び鳴り始めた。この短い間に、一体どれだけのものを処理してしまったと言うのだろう。俺が一晩かけて、せめて半分ほどは片付けようと思っていた紙の束は、もはやほとんど細切れになって床に降り注いでいた。
こんな人を相手に、俺は明日、何をしようというのだろう。
「そうだ、途中まで送ってやろっか、蓮巳ちゃん。夜道は危険だし」
それでもやるしかない。
あの日のように逃げ出すことはもう出来ない。
そもそも初めからこの世界に逃げ場など、ありはしないのだから。
「……いらん、年頃の女子じゃあるまいし」
「だから言ってんじゃねーか。やることは終わっちまったんだ。俺様の暇潰しになれよ、光栄だろ?」
重たい体を引きずって、それでも進むしかないんだ。
生に飽き飽きしたあんたが、なおもこの世界に縛られたままでいるように。
「夜はなげ~んだ。お前が思うより、ずっと」
窓の外で、月が輪郭を濃くしていた。
朔間さんは散らばった紙屑を踏みながら俺の横を通り過ぎると、キイとドアノブを回して廊下へと出た。俺は、何も言わずに後に続いた。
校内に俺たち以外の生徒は見受けられなかった。まるで人除けを施されたかのようだ、などと非現実的なことを思う。実際は職員室に明かりがあるし、先刻俺は当直の椚先生に申請書類を出したばかりだった。それでもそう思わせるのはこの人の、人ならざる雰囲気のなせる技だろう。昔もそうだった。あんたはまるで物語から出てきた美しい魔物で、あんたに会う時、俺はいつも高揚していた。
今でもその印象は変わらない。ただ俺一人だけがさめてしまった。
物語からも、憧憬からも、何もかも。
「朔間さん、バイクは」
「んー?」
靴を履き替え、そのまま正門に直進する朔間さんを呼び止める。変な話だ。俺は先日、この人の校則違反を咎め、やめるように言ったはずなのに。
「今日は置いてきた。歩こっか。いいだろ、敬人」
歩こっか。
あの日、初めてライブハウスへ向かった時も、同じ言葉を聞いた。
朔間さんは、まるで何か特別な儀式でもするかのような丁寧な仕草で、俺を自分の隣へと招き寄せると、ゆったりと歩き出した。
深い深い夜に、それでも地面へふたつ濃い影を落とすほど、月が目映い。御伽噺に出てくる月は、きっと今日のような姿をしているのだろう。異世界の入り口として描かれることも数多くあるほどだ、加えてこの人の横を歩けば現実味が希薄になっていくのも無理はない。大昔も、自分以外の人間が朔間さんと話しているところを見るまでは、その存在を信じられなかったほどだ。
今もこんな不気味なまばゆさの下、よりいっそうその美貌を増しているように見えるのだから、やはりこの人は人間などではなく、神か魔物の類ではなかろうかと勘ぐってしまう。
でもそれは違う。
この人は人間だ。
俺と同じ世界に生きる、同じ生き物だ。
だからこそ絶望は深いのだと、俺はうんと前から知っていたはずだろう。
「お前、さっき言ったよな」
濃い夜の紺に映える、凛とした声が路上に響いた。遠くで車のヘッドライトが、アスファルトを照らしては過ぎ去る。
「最適解なのか分からない、不安だ、って。そんな浮ついた武器で本当に俺様に勝てると思ってるのか知らねえけど、まあさ、それはいいよ。そういうお利口そうで意外と無鉄砲なところがお前を気に入った理由の一つでもあるし。解せないのは、なんでお前が柄にもなく急いてるのかってことだ。今回のことで思い知ったろ。時間がない中で、使える頭は限られてんだ。魔法や奇跡でもない限り、今日明日のことで革命なんて起こせやしない。本当は分かってんじゃねえのか」
珍しく、よくしゃべる。
そう直感したのは間違いではなかった。雄弁は銀、沈黙は金。そう言ったのは朔間さんだった。
「答えを聞かせろ、敬人。お前が大事だから言う」
だから名を呼ばれて目を合わせたことを、後悔した。
「辞めちまえ、他人のための革命なんて」
その真っ赤な瞳の奥には、不安と祈りが、隠しきれずに浮かんでいた。
「……他人の、ため……?」
ふつふつと、煮えたぎるような、怒りにも似た感情が胸の内に渦巻いて熱を生む。
英智。脳裏によぎった幼馴染みの、苦しそうな、恨めしそうな横顔を想う。一体どれだけの怨念がそこにあるだろう。そして同じようにもがき苦しんで、散っていった人間が、この一、二年の間だけでどれほどいることだろう。明日は我が身だ。
それらは決して。
「他人事なんかじゃない」
ようやく喉から捻り出した言葉に、眼前の流麗な眉毛が僅か歪む。
「これは……凡人が、自分たちの足で、この世界を歩くために必要なことだ。こんな、正直者が馬鹿を見るだけの残酷な世界で、あんたのように軽々と、難関難問を飛び越えていける奴ばかりじゃない、そうじゃないんだ、こっちは。あんたいつだったか俺の目を褒めてくれたよな。だが中途半端にそんなものだけ良くたって、何の力にもならない。いっそ底抜けの馬鹿でいた方が、俺はあんたから目を逸らさずに済んだ」
一息に言ってしまうと、空になった肺が軋んで痛む。喉が、頭が、割れるように熱い。冷えた晩秋の空気を大きく吸い込むと、この酷くうねる炎の正体がうっすらと見えてきた。心底嫌な目だ。ここまで理解していながら、俺は俺の口に、戸を立てられないのだから。
「昔の俺がどうしてあんたに会いに行くのを辞めたか、あんた、分かってないわけないだろ」
ああ、そうだ。
これは『不甲斐なさ』だ。
「知ってるよ」
でもそれでよかった。
耳を疑うような台詞に、荒くなった呼吸がすうっと凪いでいく。
「お前が賢い奴で、よかったんだよ。……知らず知らずのうちに、壊しちまう前に、離れてくれて、本当によかった」
遠い遠い目をしながら、突き当たりの道路に行き交うヘッドライトとテールランプの赤を、朔間さんは眺めていた。
「敬人」
もう顔を上げることは出来なかった。
「駄目か。このまま、俺と、愉快に一年過ごすってのは」
あと一度でもその目を見てしまったならば、気付かなかった振りなど、俺には出来なくなってしまうから。
「……その答えも、分かってるんだろう」
顔をわずかに伏せたまま、俺も道の先で行き交う白と赤の光を目の端に捉えていた。
「俺は、そっちへは行けない」
俺自身を、俺とよく似た偏屈な幼馴染を、そしていつか、俺たちの後ろに現れるかもしれない「輝きたかった誰か」をも出来ることならば俺は救いたい。俺のようなありふれた人間でも、真剣に足掻いて、舞台の真ん中で光を浴びて許される、そんな世界を俺は見たい。
だから、あんたと一緒に、緩やかな死は待てない。
「……やっぱお前は、連れて逝けねぇんだな」
やろうと思えば俺をそそのかして自分のものにする事ぐらい簡単に出来ただろうに、何故それをしなかった?
疑問に思う俺に応えるように細められた赤い双眸に、気付かれぬよう息をのんだ。
ああやはり俺は今、この目が憎い。
じゃあな、と消え入るような声を残して、朔間さんは夜闇の中へ溶けてしまった。瞬きの合間に、街灯の薄らぼんやりとした光が点滅する。
あんたの想いの丈に気付かないような愚者であれたならよかった。あんたを利用して世界を変えたいなんて、大それたことを考える頭がなければ。純粋にあんたへの憧れだけでこの腐った世の中を生きていけたなら。いや、それではきっと、あんたは俺の愚かさにすぐ飽きてしまうだろう。結局のところ、俺が人の領域を超えるしか、方法はなかったんだ。
お別れだ、朔間さん。
交わることのない線を引き続け、明日、俺たちは信念を以て殺し合う。
朝日が昇る頃、あの薄暗い生徒会室の玉座で、あの人は一体何を思うだろう。
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終章 生まれたての宇宙
朝日がまぶしい。
色とりどりの野菜を横目に見ながら、降り注ぐ光を頬に受ける。踏み出した煉瓦道はよく乾いていて、コン、と小気味いい靴音を響かせた。すぐに夏が来るんだろう。足元に伸びる影の濃さに、翠は目を細める。
二度目の夏だ。
顔を上げて歩く、最初の夏だ。
「――おはよう」
まだ少し遠くに見える半袖に、挨拶を投げてみた。さすがに、まだ聞こえないか。ただの独り言になってしまったようで、じりじりと恥ずかしさが湧いてくる。けれど、翠の口の動きに気付いてか、その影は小走りになって翠のもとへと駆けてきた。
「おはよッス」
ぴたりと翠の目の前で停止した鉄虎は、少し背筋を伸ばして、照れ臭そうに笑った。
「なんか、くすぐったいッスね、待っててもらうのって……」
細められた琥珀色が、太陽を跳ね返して光る。
泣けるくらい奇跡的で、いとおしい光だった。
「そうだよ、俺……ずっと、くすぐったかったんだよ……」
翠が笑い返して、どちらともなく歩き出す。
「それは……申し訳なかったッス」
「え、と……ううん。くすぐったいけど、嫌じゃなかったから」
足元に影がふたつ、寄り添うように並んだ。
「そうッスね。俺も……嫌じゃないッス。なんか……ちょっと嬉しいッスね」
はにかんだ鉄虎の横顔に、翠はむずむずと唇を動かした。
「……もっかい、抱きしめとく?」
「えっ? いや流石に路上ではちょっと……翠くん、ちょっとあのひとに似てきてないッスか?」
「はあ? いくら鉄虎くんでも言っていいことと悪いことがあるけど?」
「え!? 今のそんなにッスか!? 分かんないッス、コミュニケーション難しいッス!」
唸り声をあげて頭を抱える鉄虎に、ごめんごめん、と眉尻を下げて翠が謝った。
軽く視線を向けると、隣を歩く鉄虎の腕の生白さが映る。記憶よりも細くて戸惑う。
「痩せたね」
声をかけると、鉄虎は自分の腕をまじまじと見つめて、ふん、と一度鼻息を飛ばした。
「うん。結構痩せちゃったッス。また鍛えないと」
「……ちゃんと食べれてる?」
「食べてるんスけどね~お粥とかばっかりだったから。ちょっと飽きてきたッスよ」
返ってきた言葉の中に、気負いはなかった。鉄虎は再び自分の腕や手のひらをぼんやり眺めると、小さく息を吐き出した。肉、食いたいッス。本心であろうその言葉に、翠は思わず笑った。
「七夕祭が終わったら、さ。みんなで食べに行こうよ」
翠が言うと、鉄虎は驚いたように顔をあげた。自分でも意外に思っていた。そう遠くない未来のことを、こんなにも明るく思い描けたことはなかった。鉄虎はしばらく食い入るように翠の目を見て、そして嬉しそうに笑った。
「打ち上げ、したいッスね。みんなで」
目尻によったしわに、わずかに雫が滲んだ。
それは照りつける太陽を映してきらきらと光り、瞬きのうちに消えていった。
「て、てとらくんっ……てとらくん~!」
交差点で信号を待っていると、遠くから呼ぶ声が聞こえた。忍くん。呟いた鉄虎は、瞳を揺らした。駆け寄ってきた忍は、挨拶を交わす前に鉄虎の体にぎゅっと飛びついた。
「ごめんね。忍くん」
忍の背中に手を回して、抱きしめ返す鉄虎を、翠もうるんだ目で見守っていた。
忍は首を振るような仕草で鉄虎の肩に顔をうずめた。
「怒ってくれていいんッスよ。鉄虎くんのアホ、って」
「う、ううぅ~……! 鉄虎くんもあほでござるけど、拙者は大馬鹿者でござるっ! ごめんね鉄虎くん。堪忍、堪忍でござる……」
「はは、じゃあ、お互い様ッスね。……忍くんもありがとう」
ぽんぽん、と忍の背をなだめるように叩いて、鉄虎が体を離した。
忍と視線を交わす頃には、もうすっかりいつも通りの表情に戻っていた。
「ああーっ! 隊長っ! 南雲隊長!」
「お、おはようございます! もう大丈夫なんですか!?」
声色の大きく異なる二人分の呼びかけに、三人揃って顔をあげる。
駆け寄ってくるでこぼこな後輩の姿に、鉄虎はまた少し目をうるませて応じた。
「はよッス。もう大丈夫ッスよ、ほんとに――ごめんね。二人にも心配かけちゃったッスね」
「そうですよ! 心配したじゃないですか!」
「ばかッ! 俺たちが無理言ったせいで倒れちゃったんじゃないかっ! 隊長、本当にすいませんでした。俺もう、わがまま言いませんから……」
泣き出しそうな環は、鋭い目つきで望美の背中を叩いたあと、恐縮したように身を縮ませて、深々と頭を下げた。環に怒鳴られたのがよほどショックだったのか、望美までもがションボリとうなだれてしまった。申し訳ないやら、ありがたいやら、物珍しいやらで、鉄虎は眉尻を下げて苦笑した。
「わがままなんかじゃないッスよ。……今度は、みんなで企画書、作ろっか。みんなで、みんなの夢を叶えていくッス。だから、これからもやりたいことは言ってくれるッスか?」
そっと環の肩に手を添えて鉄虎が尋ねた。
環は体を起こすと、ぼろぼろと涙をこぼしながら、はい、と返事をした。
「あれっ!? 仙石先輩! びっくりしたぁ、ちっちゃくて見えませんでした! おはようございます!」
「うーん! 今日も清々しいくらい馬鹿正直でござるな! おはようでござる!」
「おはようございますすいませんほんとうにもう」
「たまちゃん今だよ!」
「え、え!? ほんとにやるの!? しかも今!?」
「やるよ! 今しかないよ、せーのっ。シューシュっと!」
「さんっ! じょう!」
���美の掛け声に合わせて、たどたどしく二人が何かのワンフレーズを歌う。
ぽかんと口を開ける鉄虎と翠をよそに、忍の瞳がみるみるうちに輝き出した。
「おっ……おおぉ!? どうだったでござるか!?」
「はい! 最高でしたありがとうございました!」
「最高でしっ、あっ、あのあと二十話まで見ました!」
「まー!? マジでござるか!?」
「サブスクで見れるの分かったんで! 二人して深夜まで大盛り上がりでした!」
「いやもう、めちゃめちゃ面白くて……続きが気になって気になって……」
「そっ、そうでござろう~!? 拙者イチオシの作品であるからして!」
「今度の打ち上げまでに二番も歌えるようにしときますね! 絶対一緒に歌ってくださいね!」
「うん、うん! 絶対、約束でござるよ!」
「やったあ!」
「やったぁ……!」
忍と望美と環がハイタッチを交わす軽快な音が空に響く。
鉄虎と翠は一度顔を見合わせてから、大盛り上がりの三人に視線を投げた。
「忍くん、これ……」
忍ははっとして鉄虎を見上げた。
高揚に赤らんだ頬が次第に照れを滲ませて、耳まで真っ赤に染まる。
「い、いやあ、その。拙者一人で演出練りながら一年の指導とか……ぶっちゃけ無理だったゆえ! 拙者がうんうん唸ってる間、二人には動画を見てヒーローのなんたるかを勉強してもらってたんでござる!」
「自分ら、風雲絵巻のステージも見てたんで、忍者がヒーローなの、全然違和感ないっていうか、むしろ見慣れてるっていうか……かなりかっこよくて……!」
「え~!? 今年はみんなで忍者してヒーローショウやらないんですか!? 僕も先輩たちとシュシュっと参上したいです! ていうか忍者同好会めっちゃ興味出てきました」
「うわーっ! 忍者同好会はいつでも誰のことも大大大歓迎でござるっ! くううっ、こんな日がついに。拙者感激でござる。やっぱ布教って大事でござるな……!」
しみじみと噛みしめるように言った忍に、鉄虎と翠はもう一度、物言わず視線を交わし合った。
「……忍くん、最近誰かに似てきてないッスか?」
「えっ? なんのことでござろう?」
キョトンとする忍のことをまじまじと見つめてから、鉄虎は思わず噴きだした。翠も口を押さえて笑った。なんでござるかっ。叫ぶ忍の声に覆いかぶさって、チャイムが高らかに響き渡る。環が大げさに飛び上がって悲鳴を上げた。
「走るッスよ!」
鉄虎の合図で、一斉に駆け出した。
歩幅も違う、走る速さもまちまちな五人の両足は、コンクリートの歩道をそれはそれは賑やかに打ち鳴らした。先頭を軽快に走る忍と望美。そこから少し離されて、息も絶え絶えな環が続く。鉄虎はそのすぐ横につけながら、環にエールを送っていた。翠は一番後ろから、四人の真っ白い背中を見つめて、あまりのやかましさに少し笑った。
俺は、ここにいたい。
やっぱりまだ、自分は嫌いで、自信もないけど、この足音のひとつでありたい。
汗だくになりながら翠は思った。そしてそれと同じかそれ以上に、ここにいてほしいと強く願う。地面に目を落とす。そこに伸びる、ちぐはぐな影模様のうちのひとつ。ここにいてほしい。自分が嫌いで、自信がなくて、それでも走ろうと努力し続けるあのたくましい背中に。
「ひえ~やばいでござる!」
「先輩! あきやん先生がスタンバってます!」
「ラストスパートッスよ~!」
「はひぃ、が、がんばりま……!」
「わわっ! 無理はしないでいいッスからね!? 忍くんたちは先行ってくれていいッス――」
前方に傾いた環の体を軽く支えると、鉄虎はぱっと体を起こした。
身を翻す、その一瞬がスローモーションみたいに見えた。
「翠くん」
振り向く瞳が、燃え盛るような光を携えて翠を射抜く。
まっすぐに見つめ返して、翠は声を張り上げた。
「大丈夫。……走るよ!」
翠の声に、鉄虎は鮮やかに笑った。
願い、願われ、叶え合って、ここに在りたい。
一緒になって走っていきたい。
たとえこの手の内側になんにもないんだとしても。
生まれたばかりのここから、新しい宇宙に向かって。
誰かのヒーローであるために。
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四章 重力崩壊
「こっ、のぉ~! 落ちぶれ、貴族のっ、クセに! 生意気だぞ~!」
「そういう、ことは! 我々に! 勝ってから! 言ってもらいましょうか成金貴族!」
「むき~! テニスだったら絶対負けないのに~!」
「姫ちゃん落ち着くんだぜ~! 連携が崩れちゃうんだぜ!」
「今です春川くん! 攻めていきますよ!」
「HaHa~! みんなでバドミントン楽しいな~? 宙はとっても気に入りました!」
なんで、あんなに元気に動き回れるんだろう。
体育館の壁にもたれかかって、両膝を抱え込んだ翠は、目の前で走り回る同級生たちの姿にげっそりと肩を落とした。隙間から吹いてくる風は生ぬるく、湿気を帯びて翠の体力を奪い続ける。今年の梅雨明けは、例年より早い見込みです。連日流れるテレビのニュースに、うそつけ、と悪態をついた。朝から酷い濁り方を見せていた空は、雨こそ降らないものの、翠を心の底から憂鬱にさせた。
「ちょっと~暗い暗い! 暗いよ翠くん! そんなんじゃ幸せ逃げちゃうよ~?」
頭上から降ってきた底抜けに明るい声に、翠はあからさまに眉をひそめた。別に、逃げてもいいし。投げやりに答えると、ひなたは「ふーん」とどうでもよさそうに言って、翠の隣に腰をおろした。一人にしておいてほしかったのに。内心、そうは思ったものの、さすがにこのあと同じコートに立つ相方を邪険にするわけにもいかず、翠は座り込んだひなたのことを恨みがましくじっと見ていた。
「ずいぶん機嫌が悪そうだけど、どうしちゃったのさ。ライブは大成功だったって聞いたけど?」
「……誰にきいたの」
「忍くん。ま、聞いたのは俺じゃなくてゆうたくんだけどね!」
「あ、そう……」
そっけない翠の対応に、ひなたは動じなかった。
すごいお客さんだったらしいね。さっすが流星隊。一年生の子も堂々としてたって、話題になってるみたいだよ――会話するでもなく一方的に話し続けるひなたに、翠は辟易しきっていた。視線の先では、光のスマッシュが決まったのか、桃李と宙が嬉しそうに跳びはね、司だけが悔しそうに唇を曲げていた。
ライブが成功したというのは事実だった。
去年と同じ舞台。
遊園地でのヒーローショウ。
スーパーノヴァの再演。
「やりたいことがあったら、どんどん言ってほしいッス」
鉄虎の言葉に、後輩二人は目を輝かせて即答した。
勢いに圧倒されて、やや仰け反った鉄虎の背中を昨日のことのように思い出せる。実現させるためには、小さなことからコツコツと、ッス。まずはどうしても公園での定期的なヒーローショウとか、ゴミ拾いとか、そういうボランティア活動がメインになっちゃうッスけど。申し訳なさそうに告げた鉄虎に、二人は「やります」と嬉しそうに笑った。去年度の実績があるとはいえ、抜けた先代の穴は大きい。それを分かってか、望美も環も恐ろしく熱心にレッスンをこなし、どんな小さなライブにも手を抜かなかった。
「自分たちが入ったことで、流星隊の人気が落ちるなんてこと、あっちゃいけませんから」
普段あれほど気弱な環が、毅然とした表情でそう告げたのが、とどめだったように思う。
その日を境に鉄虎はあまり笑わなくなった。
昼休みも放課後も、隙を見ては企画書に赤ペンを引いて唸るような日々が続いた。外部の仕事を拾ってくるのは、翠たち三人が思っていたより遥かに困難だった。プロデュース科に頼ろうにも、あちらはあちらで新入生の育成に手一杯で、去年のように各ユニットのことを気にかけられる状態ではなくなっていた。かろうじて忍が生徒会経由で取ってきた仕事が成功したからよかったものの、鉄虎の表情は沈んだままだった。
――あのひとは、やっぱりヒーローだったんスね。
ぽつりとこぼれた言葉の意味が、最初、翠には分からなかった。疲れきった鉄虎の右手がスーパーノヴァと書かれた企画書の束を高々と掲げ、一年生が割れんばかりの歓声をあげたその時になって、ようやく理解した。あの真っ赤な背中はいつも、たった一人であちこちを飛び回り、そんな努力の形跡など微塵も見せずに、誰かの願いを叶えていったのだということ。そして、あれと同じ色を背負った重圧から、鉄虎は必死で駆けずり回っていたのだということ――
「鉄くんはさ」
心臓を掴まれたような悪寒が身体中に走る。
「大丈夫なのかな」
心を読まれたのかと思った。
血の気の引いた指先を握る。
隣を伺えば、ひなたの深いエメラルドの瞳が悩ましげに細められていた。
「……本人は大丈夫って、言ってるけど……」
「うーん。翠くんが相手でもそうか。困ったなあ。俺も友くんも、結構あの手この手で話しかけてるけど、大丈夫の一点張りだし。……なんとかしてあげたいんだけど。鉄くん、ちょっと頑張りすぎ。あんなんじゃそのうち倒れちゃうよね」
「……流石に、倒れるまで無茶しないとは思いたい……あんな分かりやすい反面教師がいたんだし……」
「反面教師がいるのとそれを自分に活かせるかどうかは別物だよ」
冷ややかな視線が、どこか遠くを見つめるように投げ出された。
ゾワ、と背中を嫌なものが駆けていく。
「ていうか、本気でそう思ってるんなら、ちょ~っとおめでたいんじゃないかな〜」
独り言のように呟くと、ひなたは今さっきまでの騒がしさが嘘のように黙ってしまった。
不穏な沈黙が、湿気と混ざり合って、ドロドロと質量を増していく。
「ひなちゃん! 交代な~!」
呼び声がして、翠もひなたも顔をあげた。
黄色い髪をふわふわと揺らしながら、宙が駆け寄ってくる。
「宙くん」
名前を呼び返しながら、ひなたが立ち上がった。ちょっと前までは苦手だと思っていたのに、今この場に限っては声をかけてくれて助かったとさえ思う。隣の不快な重圧が小さくなって消えたのを感じて、翠は身勝手にもほっとしていた。
コートの隅では、勝敗が決まったにも関わらず、桃李と司が睨み合いを続けていた。光の姿はそこにはなかった。代わりに遠くの方で、走るな天満、と教師の怒声が響いていた。
「おつかれ! アンドおめでと~! すっごい接戦だったね!」
「なかなか終わらなくて楽しかったな~? 次のゲームも今みたいにずーっと続いてほしいです! 宙はバドミントンが大好きになりました!」
「あはは、それはよかった。よーしじゃあ俺も頑張ってこよっかな! ぐんぐん勝ち上がって宙くんたちと当たりたいよね! 翠くん!」
「いや、俺に振らないで……ていうか勝手にやる気出されても困る――」
重い腰を上げてようやく立ち上がると、目線の高さに待ち受けていた形相に翠は息を飲ん���。
「ねえねえ、まっさかと思うけどさ~あ?」
この、時折見せる、辛辣な態度。
「鉄くんにも同じこと、言ってないよね」
薄々勘付いていた。だから近寄ってほしくなかった。
去年の今頃苛立ちと共にぶつけられた言葉が脳裏によぎる。俺、そんな子たちと一緒にやるの、嫌だな。オレンジ色の髪だけじゃなくて、きっと中身も似てるんだろう。翠は眉をひそめた。わざわざ嫌がることを分かった上で踏み込んでくる姿があの暑苦しい太陽の背中と重なって見えるところも、翠を不機嫌にさせた。
「……言わないよ」
爛々と見開かれた相貌を、睨み返すように見据えた。どうにも、今日の自分は酷く虫の居所が悪い。いつもだったらこんなことは絶対にしないはずだ。だって、余計に面倒なことになるに決まっている。そう思いながらも、翠は嫌悪感を隠せなかった。
「二人とも、どんより曇り空の灰色な~? 何か嫌なこと、あったんですか?」
肩の辺りで、小動物の耳のような黄色が、フワ、と揺れた。
驚いて見下ろせば、青とも緑ともつかない不思議な色の瞳が、空気の重さを打ち消すように輝いていた。翠が返事に窮した数秒の間に、ひなたは二度まばたきをして、いつもの明るさを取り戻していた。
「ううん! なーんにも!」
そう言って笑い、コートのほうへと駆けるひなたの背中を、翠は険のある表情で見送った。
なんにもないわけないじゃないか。下唇を噛んで、俯きがちに歩き出す。
「みどちゃん」
呼び止められて振り向いた。この子が自分の名前をこうして呼ぶのは、珍しい。なりゆきで何度か一緒に遊んだことはあっても、翠にとって宙は友達の友達で、特別親しい間柄というわけでもなかった。それでも宙の声に含まれる気遣いの色は本物だった。宙のように実際色が見えるわけではないが、それくらいのことは翠にも分かった。
「みどちゃん、大丈夫ですか? もう、ず~っと長い間、みどちゃんのまわりで色が濁って、みどちゃんの色が……よく見えないな?」
ううん、と片目をこすって、宙は不安そうに眉をよせた。
「……俺の色って、どんな、」
すがるようなか細い声だった。あまりの不甲斐なさに、消えてなくなってしまいたい、と思った。誰でもいいから助けてほしいと、心のどこかで考えている自分のことが、嫌で嫌でたまらなかった。同時に、不機嫌の理由を突きつけられたような気がして、翠の心はいっそう濁った。
単なる自己嫌悪じゃないか。
かっこわるい。
「普段のみどちゃんはもっと、お日さまの光をいっぱいに受けたみたいな、淡くて明るい葉っぱの色な~。でも……宙が灰色のぐるぐるじゃない時のみどちゃんを最後に見たの、もう随分前のことです」
「……元々、灰色なんじゃないかな……」
「そんなことはありません! それにみどちゃん、ステージに上がると時々、弾ける花火みたいにとってもカラフルになる瞬間があるな~! きっとモヤモヤに隠れて今は見えないだけです! だから、モヤモヤを吹き飛ばして、宙はまたみどちゃんの色と出会いたいな~? 何かお手伝いできますか?」
真剣に考え込んで小さく唸った宙の、鮮やかな黄色のつむじを見つめて、翠はもう一度唇を噛む。どうして、誰もがみんな、こんなに他人のために一生懸命なんだろう。自分のためにすらろくに動けない自分が、余計に惨めだ。黙ったままの翠の、うつろな視線の先で、ポンと軽快な音が鳴る。驚いて少し仰け反ると、宙はその小さな手のひらに、まっしろい鳩を一羽、乗せていた。
くる、くる。
あっけにとられる翠の顔を見上げて、鳩は小さく鳴いた。
かわいい。
けど、どこから?
呟いた翠に、宙はにっこりと笑った。そしてまたポンと煙を起こして、手の中のものを消してしまった。翠は目を丸くして、からっぽになった宙の、小さな手のひらを見つめていた。
「宙はまだ、ししょ~みたいに魔法が上手く使えません。大ししょ~みたいなマジックも難しいな~? でも願います! みどちゃんの色がキラキラの、本当の色になるように!」
ぱちん、と鳴らした宙の指先に輝くネオンのような光に、翠は目を瞬かせた。
なにかの見間違いかな。
数回のまばたきのあと、その光は跡形もなく消えてしまった。
「みどちゃん」
いってらっしゃい。
見送りの挨拶に、はっと我に返って顔を上げると、コートの向こうでひなたが大きく手招きをしていた。
「うん……ありがとう、春川くん」
駆け出した両足は、不思議と少し軽くなっていた。それが魔法だというのなら、翠は宙のことを立派な魔法使いだと思う。
でも、もし本当に魔法が、あるのなら。
「どーしったのっ? 翠くん。宙くん、手品でも見せてくれた?」
いつも通りの朗らかな笑みを携えて、ひなたがラケットを投げてよこした。
慌てて受け止めながら、うん、とぎこちなく返事をする。
「そっか。……よかった」
穏やかにそう言って、ひなたはコートの中央線をまたいでいった。さっきまでの淀んだ空気は、綺麗さっぱりなくなっていた。不思議だ。ラケットのグリップを握り直しながら、翠も自分の位置についた。
本当に魔法があるのなら。
それをかけてあげたいのは、もっと。
俺なんかじゃなくて。
脳裏にちらつく黒いえりあし。その項垂れた首が、疲弊した背中が、同じように少しでも軽くなればいいのにと、願わずにはいられなかった。ピィ、と吹き鳴らされたスタートの合図に、翠は深々と息を吐き出した。
★
「あれっ? 嵐ちゃん先輩なんだぜ?」
教室のドアの前に佇む人影を見て、光が駆け出した。あいつ、元気すぎ。汗だくの桃李がげんなりと眉間にしわを刻む。一ヶ月ほど前までは甲斐甲斐しく注意を飛ばしていた桃李だったが、全く聞く耳を持たないのでとうとう諦めたらしい。
「あらしちゃーんせーんぱーい」
大声で叫びながら手を振る光に、嵐は顔を上げて、あら、と口元を押さえた。
「やァだ、体育だったのねェ。道理で誰もいないはずだわ」
「うん! さっきまでバドミントンしてたんだぜっ! グランドがぐちゃぐちゃだからって、最近ずっと体育館にぎゅうぎゅう詰めで、オレすっごく窮屈だったんだぜ~」
「そうよね、最近雨ばっかりでなかなか外を走れないもの。アタシも思った以上にストレスだわ」
「きっとアドちゃん先輩に聞いてもおんなじこと言うんだぜ! アドちゃん先輩も絶対、広いとこのほうが好きだもん! やっぱり世界は広いほうがいいんだぜっ!」
「ウフフ。また随分と話が大きくなったわねェ。アタシは別に体育館でも言うほど困らないけど……あっ! あらヤダ司ちゃん!」
ぞろぞろと教室へ入っていく集���を、嵐が慌てた様子で呼び止める。ちょうど廊下から教室へと踏み込んだばかりの司が、つんのめって半回転した。邪魔ぁ、と桃李が低く吐き捨てたが、幸い司の耳には届いていないようだった。
「はい、鳴上先輩! 司でしたらこちらに!」
「危ないところだったわァ、司ちゃんに用があったのよアタシ。今日の練習なんだけどね、訳あって押さえてた場所を他に譲ることになったの。申し訳ないんだけど、放課後はスタジオの方に来てくれるかしら?」
「承知致しました、ではそちらへお伺いします。……しかし、わざわざお立ち寄りくださるとは。この程度のこと、Mailして頂ければ結構ですのに……」
不思議そうに小首を傾げる司を、ぼんやりと眺めたあと、嵐は教室のドアからわずかに中を伺って、小さく息をついた。
「……どうかなさいました?」
「鉄虎クン、は……そうね。このクラスじゃないものね」
「ええ。彼はA組です。何かご用でも?」
「用って程でもないんだけど……ちょっとだけ、ね。急に心配になっちゃったの。……思い詰めてるカンジだったらフォローしてあげたかったんだけど」
「そう――でしたか」
ほんの少し、察したように表情を曇らせて、司が相槌を打つ。
「鉄ちゃん、どうかしたの?」
きょとんと目を丸くさせて、光が嵐と司を交互に見た。
言い淀んだ司の横で、嵐は「なんでもないわ」と微笑んだ。
「アタシの杞憂で済むんなら、それに越したことはないのよ」
付け足された祈りのような言葉に、司も静かに頷いた。
「それじゃ司ちゃん、放課後にね」
「……はい。また後ほど!」
「��ちゃんもあんまり変なとこ走っちゃダメよォ? 椚センセに叱られちゃうから」
「ええ~? うーん、分かったんだぜ~……」
光がしぶしぶ返事をすると、嵐は「ホントに分かったのかしら」と困ったように眉尻を下げて笑った。駆け足で教室に戻っていく光と、軽く会釈をした司に、嵐もひらりと右手を振って歩き出す。
「あっ、あの」
それは予想外のことだったのだと思う。
呼び止められた嵐は、訝しげな表情でゆっくりと振り向いた。
そして声の主を捉えると、納得したように「あぁ」と頷いた。さほど面識があるわけではなかったが、顔くらいは覚えられていたのだろう。どうも、と首をすくめて、翠は胃のあたりで両手を組んだ。
「その、鉄虎くん……何か言ってました、か――」
――やっぱりやめておけばよかった。
みるみるうちに後悔したのは、嵐の長いまつげがぴんと伸びて、次第に怒りを滲ませ始めたからだった。
「あのねェ」
凄みの利いた低音が、翠の鼓膜をふるわせる。
飲み込んだ息が、ヒ、と悲鳴のように鳴った。
「聞きたいのはアタシの方だわ。あの子、一体どうしちゃったっていうの? ちょっと見ない間にこわァい顔になっちゃって……似合わないったらないわ。眉間にシワの寄ったアイドルなんて泉ちゃんだけで充分よ、全く」
一歩、また一歩と嵐が詰め寄ってきて、翠は大きく後ずさった。捲し立てられた言葉が、ぐるぐると頭の中を駆けめぐる。ぎゅっと握った体操服の裾。廊下の隅に落ちた視線。嵐はくの字に折れた翠の体を一瞥して、ため息まじりに前髪をかきあげた。
「アナタ、同じユニットでしょうに。アタシに声をかけるだけの勇気があるんならね、ちゃんと本人を気にかけてあげなさいな」
冷ややかな声だった。
勇気を出したつもりで、一番肝心なところから逃げた卑怯者。そうなじられたようで、ぐわん、と頭の後ろが痛んだ。やっぱりやめておけばよかった。再び後悔がわいてきて、目頭に滲む。
いつもこうじゃないか。
中途半端になにかして、なにかした気になって、安心したいだけ。
本当にやるべきことは、別にあるのに。
分かっているのに。
「……ごめんなさい。流石にちょっと、言い過ぎだわ」
顔を上げてくれる?
ほんの少しやわらいだ口調に、翠は恐る恐る、目だけを向けた。絡んだ視線の先、淡い紫の瞳。何度かの瞬きのあと、悔やむように眉をさげて、嵐は息を吐き出した。
「あぁ、やだ、これじゃただの弱い者いじめじゃない。カッコ悪い。そうよね、自分の不甲斐なさを棚に上げて、偉そうなこと言えた義理じゃないわよね。でもどうしても見過ごせなかったのよ、アタシ。アナタには分からないかもしれないけど……人がボロボロに崩れ落ちる瞬間なんて、本当にあっという間なんだから」
渋い表情のまま一息にそう言うと、嵐は目を細め、ぼんやりと虚空を見つめた。
「崩れ落ちたあと、元に戻る保障もないのにね。……残酷な世界よねェ」
ゾ、と背筋が凍る。
粟立った両腕を、反射的にさすった。
嵐は、頬に片手を添えて大きくため息を落とした。
「そろそろ、着替えないといけないわよね。授業が始まっちゃう。……鉄虎クンには、アタシからも声をかけてみるわ。お互い勇気を出しましょ、“翠クン”」
え、と弾かれたように顔を上げる。名前。翠がそう呟くと、嵐はやわらかく微笑んだ。
「あの子がそう呼ぶから、ついね。イヤだったかしら?」
いえ、別に。ゆっくりと首を横に振ると、嵐は満足そうにもう一度笑って、じゃあね、と身を翻した。翠はしばらくそこに立ち尽くしていた。翠クン。翠くん。頭の中で、呼ぶ声を思い出そうとして、急に恐ろしくなった。一緒になって浮かんでくる表情の中に、笑顔が見つからない。翠くん。みどりくん。最近、呼んでくれることさえ少なくなった。行きと帰りの重たい沈黙。また明日。呟くとき、頬に落ちる、暗い陰。
「高峯くん」
「ひっ」
大きく肩を震わせて振り向くと、そこにはぎょっと目を見開いた司が立っていた。
胸元にはきちんと結ばれた、青のネクタイ。
「す、すみません。驚かせてしまったようで」
「いや、俺も、すごい声出しちゃって……びっくりしたよね……?」
「ふふ。少々驚きましたが、お気になさらず。それより高峯くん、ご無事でしたか?」
「ぶ、無事って、何が……」
「いえ……鳴上先輩は、普段はお優しい方なのですが、ひとたびお怒りになるとそれはそれは恐ろしい形相でこちらへ詰め寄っていらっしゃいますので……」
我が身のことのようにぞっとする司の表情に、翠は少し驚いた。
「……朱桜くんが怒られることなんかあるの」
この品行方正で、完璧にも思える小さな王様が。
不思議に思って尋ねると、司は普段の凛々しさから一転して、恥ずかしそうに頬をかいた。
「私もPerfectではありませんから。人としても、Leaderとしても、まだまだ未熟者です。ご指導頂くことの方が多いですよ。……意外でしたか?」
���うん、と素直に頷いた翠に、司はもう一度照れたように笑った。先日も、後輩と激しい口論になって、先輩方に叱られたばかりでして。続く言葉に、ぽかんと口が開く。
「誰しも、Perfectな人間にはなれないものですね。……私も認められるようになったのは、つい最近のことですが。叱られて、Supportして頂いて、それが悪いことではないのだと思えてからは随分楽になりました。なにせ先代がああですから私の失態など可愛いものです。あそこまでFreedomに生きるのは命じられても困難というもの……ああいえ、すみません、これは余計な話でした」
照れ隠しなのか、ただの愚痴なのか、司は一息にそう言うと、口元に手をやって咳払いした。
なんだか、ただの同級生みたいだ。
間抜けな感想を抱きながら、翠はまばたきを繰り返した。
戦場で戦う背中しか知らなかった。遠い世界の人間だと勝手に思い込んでいた。完璧な人間なんかいない。いつかの赤い炎が、目の奥によみがえる。
それでいいんだと、あんたも言っていたっけ――
「……彼も、あまり思い詰めないといいのですが」
は、と我に返る。見下ろした司は浮かない表情で眉をひそめていた。胸のあたりがぞわぞわしてきて、翠はきつく両手を組み直す。戻りましょう。司が促したちょうどその時、チャイムが響いた。少しして入ってきた教師は、体操着のままの翠を見て意外そうな顔をしていた。あと一時間。掛け時計の短針を静かに見つめながら、翠は小さく身を縮ませていた。
★
「それじゃあ俺、鍵取りに行ってくるッス――」
教室から勢いよく飛び出してきた鉄虎は、廊下へ降り立ってぴたりと動きを止めた。
むぎゅ。忍がぶつかったのか、後方で潰れたような悲鳴があがる。
「お、お疲れ……」
かすれた声で言って、翠は鞄のひもを握り締めた。お疲れッス。返事をしながらも、鉄虎の目は不思議なものを見つめるようにきょとんとしていた。
「あれっ? どうしたんでござるか? 今日部活でござろう」
「うん、今から行く……けど……」
鉄虎の肩の向こうから、背伸びした忍のまるい頭がのぞく。煮え切らない語尾に、鉄虎はゆっくりと眉をひそめた。部活、遅れるッスよ。生真面目な、硬い声が飛んでくる。うん、とまたひとつ頷き返して、翠は縮こまった。忍は不安そうに、翠と鉄虎の表情を伺っていた。
「な、鳴上先輩が」
呻くような、苦しい声だった。鉄虎は少し目を見開いた。
「心配、してた。……鉄虎くんのこと……」
また。逃げる。
頭のうしろが、ズキ、と痛んだ。
数秒の沈黙があった。拙者、鍵、取ってくるね。囁くように忍が言って、そうっと鉄虎の背中に触れる。鉄虎が返事をする前に、忍は音もなく廊下を駆けていった。ぼう、とその背中を見送りながら、鉄虎も静かに呟いた。鳴上先輩。
「……いつの話ッスか?」
「さっき……五限のあと、たまたま会って」
「先輩、なんて」
「……最近。顔がこわい、って」
かお。
繰り返して、ぺたり、と頬に手をやる。
自覚すらなかったのかと、再び悪寒が走った。アタシに話しかける勇気があるのなら。よみがえった叱咤の言葉に、強く、強く両手を握りしめる。
「てっ……鉄虎くんは、その……大丈夫なの?」
絞り出したそれが、翠にとっての精一杯だった。ばくばくと鳴る心臓を必死で押さえつけながら、沈黙に耐える。なにか、誰か、何か言って。祈るように一度目をつぶり、思い切って顔を上げた瞬間、翠はまた静かに後悔するのだった。
「大丈夫ってなんスか」
低い声。
寄せられた眉。
不服そうに曲げられた唇。
「な、んで怒るの……」
「別に怒ってないッス」
「だから、顔、怖いんだって……」
「元々こういう顔ッスよ。で、何が大丈夫じゃないんスか」
「そうは言ってないじゃん……ただ、その……ちょっと頑張りすぎなんじゃないかって、思っただけで……」
一時間前、体育館で聞いた台詞をなぞり返す。
言いたいことはもっとある。このところ減った口数のこと。目の下のなくならない隈。
「大丈夫ッスよ」
それを誤魔化そうとする、不自然なほどの明るい声。
「俺、頑丈ッスからね! ちょっと頑張りすぎるくらいがちょうどいいッス!」
「頑丈なのは、まあ、そうかもしれないけどさ……あんまり根詰めすぎてもよくないっていうか……照明案、帰ったあともやってるんでしょ?」
「だって、やんなきゃ終わんないッスから。さっさとやっつけて、一日も早くレッスンに入らないと。間に合わないッス。去年なんか散々だったじゃないッスか。あんなのは御免ッスよ、もう」
鋭い声で言い放った鉄虎の瞳は、去年の今頃のようにわずかに血走っていた。ステージ上での成功よりも、練習の出鼻をくじかれた苦い記憶のほうが強いのだろう。
「今年こそ、ちゃんと成功させるッス。休んでる暇なんかないんスよ」
あの時感じた焦燥と危うさだ。
とめなきゃ。
「でも……でもさぁ。それでもし、鉄虎くんが倒れちゃったりでもしたら俺たち」
「倒れないッスよ!」
翠の言葉を遮って力の限りに吼えると、鉄虎ははっと顔をあげて息を飲んだ。
「……ごめん。ごめんね。大声なんか出して。びっくりさせちゃって……翠くん、もうそろそろ、行かないとじゃないッスか? 部活、ちゃんと出ないと、ダメッスよ」
ぎこちない笑顔で笑いかけてくる鉄虎に、翠はもう何も言えなかった。
振り絞った勇気は粉々に散ってしまった。これ以上は、踏み込めない。
「俺、忍くんと、待ってるから。……また、あとでね」
無言で頷き返すと、鉄虎は申し訳なさそうに眉尻をさげたまま、廊下を駆けていった。翠も萎縮した体をなんとか動かして歩き出す。鉛のように重たい足だった。本当はもう何もする気にならなかったし、このまま家に帰って寝てしまいたかった。けれど、頭の中でガンガンと鳴り響く鉄虎の声が、翠を立ち止まらせてはくれなかった。待ってるから。その言葉を置き去りにして帰るなんて、できない。滑り落ちてくる涙を手の甲でぬぐいながら、翠は歩き続けた。
遅れて体育館に入ってきた翠を見て、真緒は驚いたように目を見開いた。
そしてすぐに真剣な表情になって、声を潜めた。
「今日は帰るか? 高峯」
問いかけに、帰れません、と首を振る。
渋い顔をした真緒は、分かった、とだけ言って翠の肩をぽんと叩いた。翠の動きはいつも以上に酷い有り様だった。それでも翠は懸命にボールを追った。途中、とげのある声で叱咤を飛ばしていたスバルも、次第にその必死さに口をつぐんだようだった。気付けば時間は過ぎて、真緒が終了の号令をかけていた。
「タカミン、しゃがんで」
その言葉に翠が反応する前に、スバルは器用に背伸びして、翠の頭をぐしゃぐしゃと撫でていった。驚いて固まっていると、「みんな帰るぞ~」と真緒の声がした。荒い呼吸を整えながら時計を見やる。行かなきゃ。大きく深呼吸をして、翠は歩き出した。
ごめん 先帰る
着替え終わって携帯を開くと、予想もしなかった一文が液晶の上部に浮かんでいた。受信したのは一時間ほど前のこと。一体、何が。戸惑いながら画面をなぞると、その数分後にもう一通、メッセージが送られていた。
部活が終わり次第、至急AV室に来られたし。
いつもはかわいいと感じるカエルのユーザーアイコンが、今日ばかりは不吉なものに見えて仕方なかった。いま行く。返信を打ちながら、慌てて部室を飛び出した。
「おっ、おいっ! どうした高峯!」
尋ねた真緒の声は、翠の耳には届かなかった。
★
「し、忍くんっ……」
飛び込んだ視聴覚室で、ぽつんと座る忍は、翠の顔を見るなり椅子から飛び上がった。
「翠くんっ! おつかれでござる!」
「うんお疲れ、鉄虎くんは――」
ぜえぜえと短く息を吐きながら、翠は部屋を見渡した。
いない。
携帯の画面を見た時から分かっていたはずなのに、自分の目で確かめてようやく実感が湧いてきた。いない。鉄虎くんがいない。先帰る。頭の中でぐるぐると文字が躍る。不気味なほどに真っ赤な西日が強く目の奥に差し込んで、酔いそうで、気持ち悪い。
「それが……鉄虎くん、一時間くらい前に、なんかぼーっとするって言い出して……熱でもあるんじゃないかって、保健室に行かせたんでござるけど……」
そのあとすぐ佐賀美先生が来て、先に帰らせるぞって、鞄とか、持っていっちゃったんでござるよ。詳しいことは、拙者にもよく。風邪とかござろうか。心配でござる。やっぱり疲れが溜まってたんでござるな――
説明しながら忍は鞄に荷物を詰め込んで、翠のもとへと駆け寄ってきた。翠は、忍の声を聞きながら呆然としていた。
「……帰る、でござろう? 翠くん」
忍が、不安げに眉を寄せ、翠の腕をつつく。
「――うん」
返事をしながらも、翠はがらんとした視聴覚室を、しばらくじっと見つめていた。
そこから先のことは、あまり覚えがない。気付いたらもう家で、夕飯を食べ終えて、布団の上に横たわっていた。酷く疲れていて、目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだった。今の翠にとっては都合がよかった。このまま起きていたら、嫌な予感が身体中を埋め尽くして、はち切れてしまいそうだ。ゆっくりと呼吸をして、布団を頭までかぶり直す。どうか、俺のろくでもない予感が、的はずれでありますように――眠る間際の切実な願いは、叶わなかった。
翌朝鉄虎は翠を迎えにこなかった。
次の日も、そのまた次の日も、こなかった。
梅雨はすっかり明けてしまった。晴れ渡る空の下、ひとりきりで歩く商店街はあまりにいつも通りで、翠は途方に暮れてしまった。
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一章 まっすぐ
なりたくなくても、体は勝手に大人になっていく。
春が来て、桜が散るのを見るたびに、翠はうんざりと時の早さを思い知る。去年より少しばかり近くなった枝との距離に嫌気がさして、猫背気味に歩く。自ずと視線が落ちていき、ついには去年よりも随分汚れたスニーカーのつま先を捉えた。
翠くん。まっすぐ、まっすぐ。
はっとして顔を上げると、真っ青な空が視界に映った。まっすぐ、まっすぐ。かっこいいのが台無しッスよ。春休みの間中ずっと、背中を叩かれながら歩いたこの道。
――まっすぐ。まっすぐ。
大きく一度深呼吸をしたあと、胸のうちで、記憶の声と重なるように唱えながら、そうっと背筋を伸ばしてみる。桜の枝は、やっぱり近かった。あぁ、なりたくもないのに、俺はどんどん大人になっていく。胸にさげた��いネクタイに違和感を覚えながらも、翠は早朝の通学路をとろとろと歩いた。朝練なんか、去年はなかったのにな。大きなあくびを隠しもせずにひとつこぼして、翠は隣に居ない小さな熱源のことを想った。
「……はよー、ございます……」
半袖の体操着に着替えて、体育館の扉をおそるおそる滑らせる。ダムッ。わずかな隙間から飛び出してきたボールの弾む音に、びくっと身体がはねあがる。
「おおっ。来たな~高峯!」
弱々しい翠の声をきちんと拾い上げ、振り向いたのは真緒だった。
半袖の体操着。黒いズボンのサイドには、見慣れない色のラインが一本。
「あれ、衣更先輩だけ、すか……他の先輩は……」
まだですか、と言いかけて、翠はしまったと口をつぐんだ。このひとはもうただの“先輩”ではないのだ。周りの同級生がろくに呼ばないせいで、いまだ馴染まないその敬称を、翠も、そして他の後輩たちも、ついつい忘れてしまう。本人も気にかけていないばかりか、唯一「会長様」と呼んでくる弓弦に対しても、お前に呼ばれると余計に仰々しいんだよなぁ、と怪訝な顔をしているのだという。
ま、いい加減、慣れなきゃいけないんだけどな。
言葉と共に吐き出された、大きなため息のことを思い出し、翠は静かに身をこわばらせた。
直接その場に居合わせたわけではない。偶然、部室に入ろうとした時に聞いてしまった。サリ~は偉ぶるの向いてないもんね~。スバルの身も蓋もない言葉に、「やっぱそう思うよな~」と苦笑をこぼしていたのは、つい数日前の出来事だ。後輩の前では毅然とした態度であれこれ指示を飛ばしていた真緒が、こうして人知れず弱音を吐いているのだと知って、翠の憂鬱はいっそう膨れ上がった。この人ですらそうなのだ。慣れるわけがない。新しい肩書きも、やたらと近く感じる桜の木の枝も、胸元の青い布地にも。
むずがゆく噛んだ下唇に、真緒は目に見えてまばたきを増やした。気まずい沈黙ののち、翠を気遣うかのようにして、いつもの下がり眉が現れる。
「悪ぃ! それなんだけど……あはは、スバルのやつ寝坊でもしてんのかな~。それか、すっかり忘れて大吉の散歩してるか、だな。まあいいや。ごめんな、こんな朝早くから呼び出しちまってさ」
「いや、その、別に……家の手伝いとかで、早いのは、慣れてるんで……」
「そうか~? ならよかったけどな。ほんとはさ。昼休みとかのがいいかなって思ったんだけど、俺の方の都合でさ、この時間しか取れなかったんだよ」
ダム、と床を叩くボールの音に、翠の肩が上下する。
「お節介だろうけど、ちょっと心配になっちまって。お前ら、一年生へのパフォーマンスは考えてあるか?」
ああ、くすぐったい。
その名称は、今、自分たちのひとつ下を指す言葉なのだ。
「2winkはメンバー変更もないし問題ないとして……。fineはなんたって、あの皇帝陛下のお墨付きだからな。姫宮のやつ、もう一人で企画を立てるだけの力もあるし、伏見のサポートもある。Ra*bitsの三人も、仁兎先輩に頼らずに頑張ろうってやってきたおかげで、運営のことは一通り出来るようになってるみたいだ。春川にはまだ逆先がついてるし、朱桜のことだって凛月と鳴上がフォローするだろ?」
ひとつ、ふたつ、と右手の指を親指から順にたたみ、最後に小指を折り曲げたところで、衣更はちらりと視線を翠に投げた。
「まあ、その。なんだ。お前ら、大丈夫かなって」
下がり眉のまま、はぐらかすように笑うと、真緒は小脇に抱えていたボールを指の上で回し始めた。
「仙石にも声かけといたんだけど、あいつはなんていうか、変なとこで豪胆だからさ。まあ拙者たちでなんとかするでござるよ~とかいって、なーんかイマイチ状況がよく分かんなかったんだよなぁ~」
伸ばした語尾が、高い天井に吸い込まれていった。
静まり返った朝の体育館に、また一瞬、沈黙が横たわる。
「……だからお前に言っとこうと思って」
交わらなかった視線が、ついに絡んだ。
ごくり。乾いたのどに、唾が落ちる。
「い、一応。考えて、あり、ます。……流星隊歌をやるんで」
間違えませんように。
本番でもないのに、祈るような気持ちだった。
「返礼祭の時、みたいな配置で。守沢さんのパートを鉄虎くん、深海さんのパートを俺が歌うってことで……。俺が、歌うのに、必死になっちゃうんで。そのぶん忍くんが、舞台を飛び回るようなパフォーマンス、多めで。……って感じ、です」
再び訪れた沈黙に、息苦しさは増した。呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。答え合わせを待つにしたって、テストの時とはわけが違う。教えられたことをきちんと覚えているか、なんて、単純な話ではないのだ。
正解はない。
多分、誰にもわからない。
それなのに、試されて、時には手酷く批判されて、冷めた目つきで「もういいよ」なんて言われたりする。
――この人に限っては、間違ってもそんなこと言わないだろうけど――そうと分かっていても翠の動悸は収まらなかった。黙り込んだ翠の前に、ふー、と長いため息が落とされる。
「そっかそっか、ちゃんと考えてんだな。あ~よかった……」
大きく肩を落とし、ボールを抱え込んだ真緒に、翠は別の焦りを覚えた。
「いや、考えたっていうか、俺はなんにも……ほとんど鉄虎くんと忍くんが決めたようなもんで……」
しどろもどろになりながら、首をすぼめる。罪悪感にも似た、大きな黒い塊が、重たく頭にのしかかって翠を俯かせる。
視線の先の長い足は、まだほんの一歩だって、ここから動いちゃいない。
それなのに、“ちゃんとしてる”みたいに思われるのは、なんだか嘘をついてるみたいで。
「俺もさ。大事なところは北斗やスバルがバシッと決めちまうから。……俺ってなんにも出来ねーんだなって、思ったこともあるよ。何回も」
――翠くん。
「けど、大きな流れを作るには、土台が必要なんだ」
まっすぐ。まっすぐ。
ふと、いない熱源が、背中に触れた気がした。
「絶対。ここ一番、って時に、上でどんだけ好き勝手暴れても、崩れない土台ってやつが。損な役回りだけどさ。いざって時、そういう力が爆発したりするんだぜ。高峯」
恐る恐る顔をあげると、真緒は真剣な眼差しで翠を捉えていた。
夢は叶う。
そう言い放たれたあの日の、身を切るような寒さだけが、ゆっくりと思い起こされる。
他人事だと思っていた。
次の春に、自分を待ち受けるのが、そんな輝かしいものだとは思いもしなかった。
今も、まだ。
「支えてやれよ? 無限に育つ大自然、だろ! そら構えろ! パス!」
「うわっ!? だっ、やめ……!」
思わず顔面を手で覆った翠に、真緒はボールを飛ばすのを止め、少し困ったように笑った。
★
「えーっと、それで確か、去年のfineとKnightsって、オーディションしてたんだよな?」
「はい! それと、その前に書類選考があったって、桃李くん言ってました」
「ってことは……いったん書類選考のためのフォーマットを作って、期限決めて、提出してもらって……人数絞れたとこでオーディション用に部屋を確保して……」
「ちょっ、ちょっと待ってほしいッス! メモが追いつかないッス!」
もたつく右手を力任せに動かしながら、鉄虎が叫んだ。
はっとした表情で鉄虎を見た二人は、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ごめん鉄虎」
「いや、申し訳ないのはこっちッス……もう大丈夫なんで、話続けてほしいッス」
視線を下に向けたままそう言うと、鉄虎は険しい表情で眉をひそめた。これ、あとから読み返せるんスかね。書き殴った不恰好な文字を睨みつけていると、友也と創が気遣うように目配せをして、一呼吸置いた。それが余計に申し訳なく思えて、鉄虎は肩を強張らせた。
「うっひゃあ~」
頭上から間抜けな声が上がる。
三人が顔をあげれば、二つの似た顔が、別々の表情を浮かべて机の上を見下ろしていた。
「な~んかさ、ホント大変なんだね! 俺たちそういう面倒なことなくてよかったよね~ゆうたくん!」
「確かにそういう苦労はしなくて済むもんね……っていうかアニキはなんでここにいるわけ?」
「ええ~? だってこのメンバーでオレだけA組だなんて! 酷すぎるよ! 生徒会長の陰謀だ! 今年こそゆうたくんと一緒のクラスだって信じてたのに!」
「いや。お前ら一緒にしたら先生たちどっちがどっちか分かんなくて困るって」
「ふふ、そうですね。僕もまだまだ一瞬じゃ判別できませんし」
「あとうるさい、ひなたが」
「おまけに鉄くんとも離ればなれだなんて! あんまりだ! 残酷だ! 鉄くん、アタイがいないからって浮気なんかしちゃダメなんだからねっ!」
「聞いてないよこいつ……」
呆れたようについた友也の溜め息に、続く言葉はなかった。気付いた友也が、創が、ゆうたが、ほんの少し目を見開く。ひなただけが一人、臆することなく、その沈黙に触れることを選んだ。
「おーい。てーつくーん? お返事ないと寂しいよ~?」
頬に触れそうなオレンジの髪が視界を横切ってようやく、鉄虎は弾かれたように顔を上げた。
「うわっ! 近ッ! なん、え、なんスか?」
「だから、俺がいないからって浮気しちゃダメだよ~? って話!」
「はは。なんスか~それ」
「ええ~!? 何その反応! もっと寂しがってよ! もう朝教室に入ってもそこに俺の姿はないんだよ!?」
「いや全然居たじゃないッスか今日」
淡々と続く指摘に、ひなたが反論の息を吸う。吐き出そうとして、思い留まる。
ぼんやりとした琥珀色の瞳は、机の上の乱雑な文字を見下ろしていた。
「それに、まあ。離れたのは、ひなたくんだけじゃないし」
もう一度、友也と創が、静かに目配せをする。
ゆうたの目が、それと同じ色、同じ形の瞳を、ほんの一瞬伺うように見た。
「寂しい? 鉄くん」
んん~、と低く唸り声を上げて、鉄虎は首をひねった。投げかけられた言葉を、自分に当てはめようとしても、どうにもしっくりこない。確かに不思議な気分ではあった。低く見せようとするせいで、変に悪目立ちするあの栗毛色の頭が、同じ教室にいないというのは。かといって、去年の自分たちも四六時中一緒に居たわけではないし、寂しがるほど距離が近かったのかというと、それは違う。むしろ今の方が落ち着くような気すらする。
そういう類いの不安ではないのだ。
この、みぞおちの辺りの、消化しきれない異物感は。
「……代わりに。忍くんが一緒ッスからね~。寂しいとか、そういうのはないッスけど……」
「そう! 俺は今年も忍くんと同じクラス! ありがとう神様衣更様!」
「っていうかお前ら、別に会長がクラス分けしたわけじゃないからな? あんま言ってやるなよな~あの人真面目に受け取っちゃうぞ?」
「あれっ? そういえば忍くん、どこ行っちゃったんでしょう」
「あ、諜報活動ッス。一年の教室、チラッと覗いてくるって」
自分の書いた漢字の間違いを、ぐりぐりと黒く塗りつぶしながら、鉄虎は答えた。十数分前、昇降口で鉄虎と一緒になった忍は、教室までやってきてひなたとゆうたに挨拶をすると、自分の机に鞄を置いて廊下へと飛び出していった。いつものように軽快に上履きの底を鳴らして、あっという間に忍の背中は見えなくなった。一年の教室。まだ馴染まない呼び方も、忍が言うと、当たり前のことのようだった。
「あ~あ、俺も一緒に行けばよかったなあ。忍くん、日に日に足が速くなってるんだよね。追いかけようとしたのにさ」
「あっはは! 今朝のは早かったね~! さっすが忍者!」
「笑い事じゃないよ、結構いろんな意味でしょんぼりしたよ、俺……」
ぼそぼそと呟いたゆうたに、ひなたは軽やかに笑った。その横で、よし、と頷いた友也が、空気を切りかえるように両手を叩いた。
「そんじゃ、とりあえず朝の会議はこの辺にしとくか!」
「午後はフォーマット、一緒に考えましょうね! 僕、お昼休みになったら桃李くんに去年のこと、もっと聞いてみます」
「押忍! 本当に助かるッス!」
「ふふ。助かってるのは俺も同じだって、何度も言ってるだろ。リーダーなんて……柄じゃないしさ~。正直鉄虎が同じクラスでほっとしたよ。一緒に頑張ろうな」
友也がくたびれた声で弱音を溢すと、ようやく鉄虎の肩から余計な力が抜けていった。それがお世辞や励ましの類いであったら、きっともっと、落ち込んでしまっただろう。安堵の息をひとつ吐いて、鉄虎が弱々しく笑い返すと、友也もほっとしたように笑った。隣で創も、優しく目を細めていた。
「うんうん! 頑張れ頑張れ~! いい後輩から引き抜かれちゃうからね、やるなら早い方がいいと思うよ!」
「はは。余裕っつうか、他人事ッスね~ひなたくんは」
「ふふん。そりゃあ2winkは俺とゆうたくんとで既に完成されちゃってるからね! 三年生が抜けたユニットには悪いけど、今年はトップの座、もらっちゃうよ!」
「より一層高みを目指して精進! って気持ちはもちろんあるけどね。油断大敵!」
「ま、簡単に負けちゃう気なんかこれっぽっちもないけど! そういうわけで、鉄くんもファイトファイト~!」
「ん~、そッスね……」
曖昧に頷いて、首の後ろをかく鉄虎の仕草に、二人は思わず顔を見���わせた。
二度ほどぱちくりと瞬きをして、ぴったり同じ速度で鉄虎に向き直る。
「乗り気じゃないの? すごい数の志願者だって話だけど……嬉しくない?」
少なくとも、朝会った忍はかなり興奮した様子でゆうたに報告してきた。拙者、ここまで来るのに何人も声かけられて、もうマジめちゃめちゃにビビったでござる。身ぶり手振りをまじえながら、小さな体をぴょんと跳ねさせる忍は、その数秒後に、赤らんだ頬のまま教室から飛び出していった。それに引き換え、鉄虎の纏う空気の重さといったら、憂鬱を越えてどこか危うさを感じるほどだった。
「いや、嬉しいッスよ。俺だってほんとは嬉しいんス、去年の俺たちの……頑張りが、実ったってこと、だし、でも」
思わず両手で額を押さえて、机の上に覆い被さる。
肘の下で、ずる、とルーズリーフが動いて、鉄虎の体は少し沈んだ。
「隊長……守沢さんに憧れて、って子が多いのは、事実だし。それに」
まばたきの隙間に、浮かんだのは去年の春。
こんなはずじゃなかったと愚痴ばかりだった、数ヶ月間の苦い記憶。
「本当にヒーローに憧れて名乗りをあげた子たちが、俺みたいなのにふるいにかけられるのって……それってなんか、すごい――」
理不尽だな、って。
「鉄くん」
呼び声に、顔を上げる。
めったに見せることのない冷ややかな瞳が、遠く、ここにはない何かを見据えるように、細められている。
「世界はね、理不尽にできてるんだよ。俺たちが生まれる、ずーっと前から」
どき、と心臓が跳ねる。
最後まで言ってないのに、なんで。
自分の内側を見透かされたような、あるいは透けた身体の更に向こう側、もっと別のものを見ているかのようなひなたの言動に、鉄虎は何と返事をすべきか迷った。真意を図りかねているうちに、ひなたは細めていた瞳をパッとまるくして、いつものように笑った。
「だから、気にしなーい、気にしない! 鉄くんは見かけによらず難しく考えすぎなんだからさ! もうちょっと流れに身を任せてみてもいいと思うよ?」
労るように二度、軽く肩を叩かれて、鉄虎も少し笑った。どうしてそんなことまで伝わるのだろう。ひなたの方こそ、見かけによらず、よく考えている。自分のことよりも、うんと、誰かの心のことを。
「そう言うアニキは、ちょっと流れに身を任せすぎだと思うけどね」
沈黙を守っていたゆうたが、大袈裟に呆れてみせる。
「そんなことないよ! 時々いい感じに任せてるだけ!」
ひなたが反論した。鉄虎は笑っていた。まだ、どことなくぎこちなかった。
数分して、忍が転がるように教室に入ってきた。おかえり、と鉄虎が言う隙もなく、一目散に駆け寄ってくると、忍はその勢いのままゆうたの背中に飛びついた。
「ひっ、ひとがたくさんでヤッベエでござる!」
「あっはは! そりゃあそうだよ! 出てった人数と同じか、それ以上に入ってきてるんだもん。おかえり忍くん」
「ゆうたくんただいま~! いやまあそうなんでござるけど! 拙者、忍術を駆使してあんなに巧妙に隠れてたのに、見つかって仙石忍だーって言われちゃって! ちょっとした騒ぎになっちゃって、慌てて逃げ帰って来たんでござるよ!」
「えっ? 名指しッスか?」
思わず鉄虎が聞き返すと、忍はぜえぜえと息をしながら、うん、と頷いた。
「拙者も聞き間違いかな~と思ったんでござるけど。なにせ拙者、この一年アイドルとしてそれはどうなの? ってくらい忍んできたでござるし」
「え? いやいや忍くん、結構最初から忍んでなかったッスよ」
「えっ!?」
「えぇっ?」
「はは、忍んでるやつは一人で同好会立ち上げたり、自主的に外の仕事拾ってきたりしないよ。なぁ、鉄虎」
「そッスよ。風雲絵巻の時だって、先陣切って企画練ったりしてくれたじゃないッスか」
「いやあれは拙者が企画したわけではなく! 神崎殿が声をかけてくれただけでござるし!」
「でもぼく、ウィッシングライブはほとんど仙石くんのアイデアって聞いてますよ」
「ああ~! あれな! すごい規模だったよな。各ユニットから一人ずつなんてさ」
「あ~れも三毛縞殿が協力してくれたから出来たんであって拙者が特別何かしたわけでは~」
「いいじゃんいいじゃん! 忍んでなんかいられない~って自分でも言ってたんだしさ! 目立っていこうよ忍くん!」
「ひ、ひなたくんそれ聞いてたんでござるか!? は、はずかしいでござる~!」
「ちょっとひなたくん、あんまり忍くんをからかいすぎないでよ」
「ゆうたくんてば、あの時ライブ出れなかったからって俺に当たるのは格好悪いザマスよ?」
「そういうんじゃないから! あれは確かに俺もすっごく出たかったけど!」
むきになって言い返すゆうたの背中から、するりと忍が抜け出して、鉄虎くん、と小さく声をかけてきた。
「さっきね、拙者のこと……流星イエローって。言ってくれた子がいたんでござる。ちっちゃい声だったし、びっくりしちゃって、ちゃんとは見れなかったけど……すっごくキラキラした目だったんでござるよ」
えへへ、と照れ臭そうに笑う忍を、鉄虎はまっすぐに見た。上気する頬のその奥に、誰かの憧れが見える。去年の自分も、同じように光線を放っていたからわかる。
「きっと、流星隊のこと、すっごく好きなんでござるな」
ズキ、とみぞおちのあたりが軋む。
「……むふふ。拙者たち、本当に今日から先輩なんでござるなぁ」
嬉しそうにこぼした忍の声に、鉄虎は重く、うん、と頷いた。わかる。痛いほどにわかる。だから余計に考えてしまうのだろう。まっすぐな憧れが、必ずしも昇華されるわけではないのだという現実を。
五人揃って流星隊。
選ばれるのは、二人だけ。
★
「……そっか。じゃあ、やっぱり新入生、入れるんだ……」
弁当箱の白米に箸をつけながら、翠はため息混じりに呟いた。
「いれる、って、いうか……志願者がいるのに、選考しないわけにはいかない、っていうか……」
薄暗い表情で口ごもると、鉄虎も手にした焼きそばパンの封を開けた。頭上のスピーカーからは、お昼の放送です、と忍の声が響いている。数秒、間があいて、今度はもっと長く、大袈裟に、ため息の落ちる音がした。翠はそれを黙って聞いていた。
「普通に、三人だけでもやっていけるはず、って張り切ってた分、なんか……力の具合が変なんス。駄目ッスね、何事も柔軟に対応しなきゃってのに。俺、融通利かなくって」
うつろに落とされた視線の先で、手付かずのままの焼きそばパンが、くしゃりと握られる。
いつの間にか、スピーカーからは音楽が流れていた。返礼祭で2winkが歌った曲だった。
「それは……しょうがないよ。俺もかなり、戸惑ってるっていうか……」
「うん」
「すぐに切り替えられる方が、特殊じゃん……」
「でも友也くんたちはやれてるんスよ」
「そりゃ……紫之くんたちはそうだろうけどさ。おんなじようにはできないよ」
「そんなこといったらずっとなんにもできないじゃないッスか!」
ビク、と身をこわばらせ、翠は一瞬、息をとめた。しまった。引いていく血の気に、恐る恐る顔を上げる。伸びた前髪の隙間から、鉄虎の大きな瞳が見える。
ほんの一瞬の、怯えたような表情。
「あっ、ち、ちが……ち、ちょっとびっくりしただけ、だから。俺、別に、なんとも……大丈夫、だから……」
「――うん」
頷いた鉄虎は、ハの字にしていた眉毛をぎゅっと寄せて、何か堪えるように、小さく唇を噛んだ。
「ごめんね」
「あ、謝らないでよ……ほら、なんでも言うって決めたんだしさ……」
「うん。でも」
心臓のあたりが痛む。
翠は、細く長く、息を吐き出しながら、目を逸らした。
正面から放たれるまっすぐな熱に、耐えうるだけのものが、翠にはない。
「やっぱり、今の言い方は悪かったと思うッスから。ごめんね、翠くん」
あぁ。なんでこうなるのかなぁ。
「……ううん。俺の方こそ」
浮かぶ想いに反して、体は曖昧な返事しかできなかった。放送は、随分前に終わっていた。もうすぐ行かなきゃッスね。一口もかじられなかった焼きそばパンは、どこか物憂げにくたびれていた。鉄虎はものの数秒でそれを詰め込むと、広げていたルーズリーフを片付け始めた。翠は、水分の飛んだ白米の表面を眺めて、また深く息を吐いた。
心も、言葉も、体も、なんて重たいんだろう。
ひとつだって思うように動かせない。
それどころかひとつ駄目になると、あとがつっかえて、何もかもが止まってしまう。
「翠くん、お弁当」
気遣うような、珍しいくらい控えめな声で、鉄虎がこぼした。
「あと十分も、ないッスけど」
鉄虎くんは悪くないのに。
「うん……あとで食べるよ」
鉛のような体を引きずるようにして、翠はようやく弁当箱のふたをしめた。静かに待つ鉄虎の、くすぶるような視線に急かされて、ぎこちなく荷物をまとめる。戻ろっか。鉄虎が言って、先を歩いた。廊下へ向かう鉄虎の足取りは、固い表情に反して軽い。時折確かめるように振り向いてくる琥珀色に、酷く申し訳ないと思いながらも、翠は何も言えなかった。
なんで。
「じゃあ、また放課後に」
教室の前で別れたあとも、翠はしばらく動けなかった。チャイムの音で我に返る。お腹すいたな。今になってぼんやりそんなことを考える自分が、情けなくて仕方なかった。
どうして動けないんだろう。
どうしてみんな、こんなものを、当たり前のように動かせるんだろう。
俺は、俺だけが、ぐずで、のろまで、座り込んで泣くことしか出来なかったあの日のまま。
しみるような夕陽のオレンジが、まぶたの裏によみがえる。それは翠のからだを絡めとり、呪いように留まり続け、終わりのチャイムが聞こえても消えることはなかった。中身の詰まった弁当箱のことを、翠が思い出したのは終礼の少しあとだった。
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序章 雨降って地、ぬかるむ
「忍くん」
いつもの快活な声とはまったく真逆の、消え入りそうな音色に、忍は最初、別の誰かに呼ばれたのだと思った。
思わず周囲を見回そうと、視線だけ動かして、やめた。今この視聴覚室にいるのは忍と、もうあと一人だけだった。それだけは疑いようがなかった。そしてそのか細い声は、間違いなく目の前の人物から発せられたものだった。
「どっ……」
どうしちゃったんでござるか。
声をかけようとして、忍は喉を詰まらせた。くっつけた二つ分の机を挟んで、向かい合ったひとの表情はやけに暗く見える。頭上から降り注ぐ蛍光灯の青白い光が、俯く頬に、その下に広がるコピー用紙の束に、不穏な影を落としている。忍は言葉を探した。単に難しい顔つきだとか、真剣になって眉をひそめる仕草だとかはよくあることだった。真面目だけれど少しばかり不器用なその人は、慣れない申請書の作成によく独特の唸り声をあげていた。どうしたでござるか。事務仕事ばっかりで疲れちゃうでござるな。拙者たちも、だんだんこういうのに慣れていくんでござろうか――忍はそのたびに明るく場を取り持って、重くなりがちな空気を蹴散らしてきた。それが自分の役目だと思っていた。
けど、今のは。
ごくり、と唾を飲み込む音が響いた。何か、あったんでござるか。意を決しておずおずと口を開いたその瞬間、忍の用意した言葉を押し戻すかのようにして、鉄虎はぱっと顔をあげ、いつも通りに目を細めて力強く笑った。
「これ。さっさと片付けて、みんなで帰ろっか! 翠くん時間通りに部活終わるッスかね~」
視線を申請書の上に落とし、慣れない油性ボールペンを走らせる鉄虎は、小さな鼻唄を一瞬響かせて、黙ってしまった。伏せられたまつげから、それ以上のことは読み取れなかった。
ちょうど、梅雨が明けるかどうかのさかいめだった。
朝方曇っていた空も既に晴れ渡り、鮮やかな夕日を輝かせている。けれど、窓から射すオレンジの光は、鉄虎の頬の片側にだんだんと濃い陰を刻んでいき、忍の不安を静かに煽った。
聞けばよかった。
忍が心の底から後悔したのは、数日あとのことだった。
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なんにもないや 全8話
カップリング/ReS。・・・鉄虎&翠
※ ES時空にいかなかった新流星隊の捏造小説
※ 新2年生全員とオリジナル1年生が登場します
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そよぐ枝葉に偽果の芯
ReS。・・・巽&藍良
カップリングではない赤スートの信頼関係のお話
知る力と見抜く力とを身に着けて、
あなたがたの愛がますます豊かになり、
本当に重要なことを見分けられるように。
(フィリピの信徒への手紙 第1章9節〜10節)
風早巽、って、すごいお名前ですよねぇ。
呟いたマヨさんの、ほう、と肩を下ろすような動きに、おれは首をかしげた。
タッツン先輩の名前?
口に出した途端、バカみたいにおんなじこと聞き返しちゃった、と恥ずかしくなったけど、マヨさんはおれのことを馬鹿にするでもなく、生温かい目を向けるでもなく、ほう、とした表情のまま、そうです、そうです、と二回頷いた。
名は体を表す、とは、よく言ったものですけど。実際にそのさまを目の当たりにすると、私、どうしてもおののいてしまうんです。私には、あまりにも眩しすぎて。
切れ長の目をゆっくりと更に細めて、マヨさんは言った。おれは胸のどこかがギュッと痛くなって、マヨさんと同じように目を細めた。
なんかわかるなァ。
おれが言うと、マヨさんは眉をハの字にしたまま、急にニコッと三日月みたいな目をして笑った。
藍良さんも、充分に可愛らしくて、眩しい存在ですよ。
おれはその視線に、いつものごとく居心地の悪さを感じて身をよじる。ねぇ、マヨさんはタッツン先輩のどのへんが眩しい? どうにか話題をそらしたくて尋ねたおれの頭んなかは、穏やかにゆっくりと頬をさらうようなタッツン先輩じゃなくて、もっと鋭くて、一直線に駆け抜けてくるツバメが起こす、どう頑張っても避けようがないつむじ風みたいな――そんなやつのことでいっぱいだった。
マヨさんは、なんでかさっきはしなかったはずの生温かい目をしておれを見て、また少し不気味に笑った。そうですねぇ。うんと細められていた目は、一度ゆっくりと閉じられたあと、なめらかな動きで左下へと向かう。
風、という単語があれほど似合う方も、なかなかいらっしゃらないと思いますが……やはり印象が強いのはお名前の方でしょうか。巽、というのは、南東の方角を指す言葉ですけれど。あの字は、ゆずる、とも読みますから。卑しい私はどうしても、我欲に塗れた己の醜悪さを責められているように思ってしまって。
ポカン、と口を開けてしまったおれに、マヨさんは飛び上がりそうなくらいに肩を震わせて、ごめんなさいごめんなさい、と慌てた様子で首を振った。わわ私なんかの言葉じゃ何も伝わらないですよねぇぇ訳のわからないことを言ってしまってすみませぇぇんっ!
おれは呆れてしまって、思わず息をついた。マヨさんがまた怯えたように小さな悲鳴を上げたから、すぐにハッとして、だめだめ、と大きく頭を振る。
謝んなくていいんだよォ、おれの物分りが悪いのがいけないんだろうし……ごめんねマヨさん。
しょぼくれたおれに、マヨさんはしばらく黙ったあと、縮こまっていた身体を元に戻しながら穏やかに笑った。
巽、という漢字を見てみましょうか。藍良さん、スマホはお持ちですか?
うん、と返事をしながら、おれはポケットに手を突っ込んだ。たつみ。打ち込んだ文字に、予測変換がバタバタ暴れて、見慣れた文字を先頭に持ってくる。
己という字がふたつ、隣同士になっているでしょう?
マヨさんの声が飛び込んできた瞬間、おれはあっと声をあげていた。わかる。わかった。これがものすごくタッツン先輩っぽい字ってこと。マヨさんはおれの声を聞いて、そうでしょうそうでしょう、と満足そうに大きく頷いたあと、ほう、とした表情に戻っていった。おれは静かに、マヨさんの言葉の続きを待った。
汝の隣人を愛せよ、という言葉がありますが。あの方の名前、魂の在り方は、まさにこの言葉が相応しいことでしょう。ですが、生まれ落ちた瞬間からこれほど崇高な理想を負わされて、何故あんなにも心穏やかでいられるのか、と。……私は不思議でたまらなくて。
真昼の太陽から目を守るみたいに、つう、と細められたターコイズグリーンは、どことなくおれたちのユニットカラーと似ていた。
清らかで、痛い程、眩しくて。
……私には逆立ちしたって出来ないことですから。
マヨさんは、下げっぱなしの眉尻を余計に下げて、片頬だけを歪めて小さく笑った。本当のところ、そうかなァ、とおれは疑問に思ったけれど、その長いまつげが落とす影の濃さにどうしても身に覚えがあって、結局最後には黙ってしまった。そっかァ。そんなふうに、曖昧な返事をしてしまったと思う。頭のなかを、真っ赤なツバメが駆け抜ける。そうだよねェ、と言えなかったのは、おれにとってのマヨさんだって充分に痛いほど眩しかったから。
あれは、一体いつどこで話したんだっけ。目まぐるしく夏が過ぎて、おれたちはおれたち自身をどうにか守れたみたいだけど、みんなが眩しいのも、おれだけが「もどき」なのも、なんにも変わらないまま、ただ雲だけがだんだんと薄く高く青空の上を流れるようになっていった。
◆
ちょっとした二度寝のあと、遅めの朝ご飯を食べて散歩することに決めたのは、人恋しさのせいだった。
よく晴れた空のした、両手の指を絡ませて、うーんと大きく伸びをする。食べたばかりのフレンチトーストがおなかを圧迫して、おれはすぐに腕をおろした。足取りは、思ったよりも軽かった。こういう時、最初に向かう場所はここ、って決めてあるからかもしれない。きれいに舗装されたライトブラウンの道を踏みながら、空を見上げる。きっと会えますように。わざわざ手を組むことはしなかったけど、おれは無意識のうちに、会いたいひとの仕草を真似ていた。だんだんと強くなる花のかおり。歩くスピードをちょっとだけ落として、きょろきょろと、注意深く辺りを見回す。普段、みんなと一緒にいる時はそんなこと絶対にあり得ないのに、ひとりでいる時の先輩は、あんまりにも違和感なく草木やお花の中に溶け込んでしまうものだから、おれは時々、あのひとのことを見逃してしまう。
遠く小さく噴水が見えてきた頃、そのすぐ近くにしゃがみ込む見慣れた後ろ姿を発見して、おれは思わず駆け出していた。
「タッツンせんぱァ~い!」
大声で呼ぶよりもほんの少し早く、どうしてかおれに気付いたらしい先輩は、おれの声が響くのとほとんど同時に顔をあげて、こっちを向いた。
「おはようございます。藍良さん」
穏やかな笑顔が、こんなに遠くからでもよく分かる。
地面を蹴る足に自然と力がこもった。そのままでいいのに、タッツン先輩はわざわざ身体を起こして立ち上がった。
「どうされました? 俺に何か、急ぎの御用ですかな」
転がり込むみたいにタッツン先輩の正面まで駆け寄ったおれは、そのまま抱きつくのをなんとか抑えて急停止した。
「ううん。最近あんまりみんなと会えてなかったから、タッツン先輩のこと見つけられて、嬉しくなっちゃった」
ドキドキしたままの心臓を右手で撫でつけながら、思ったことをすっかり吐き出して、おれはだらしなく「えへへ」と笑った。今のおれ、めちゃくちゃこどもっぽくて、恥ずかしいな。じんわりと熱くなってきた両耳のことを、タッツン先輩は満面の笑みで吹き飛ばした。
「俺も、藍良さんにお会いできて嬉しいですよ」
こんなセリフを、握手会でもないのに、あの風早巽に言ってもらえるなんて。
おれは舞い上がっちゃって、もう一度ふにゃふにゃの声を出して笑った。
「えへへ。嬉しいなァ。さっきね。おれ、タッツン先輩に会えますように、ってお祈りまでしちゃったんだァ」
「ふふ、それはそれは。光栄なことですな。では、天に祈りが通じたこと、俺もともに感謝いたしましょう」
先輩は細めていた目をほんの数秒だけ閉じて、そしてゆっくりとおれを見た。
静かになったおれたちの間に、ぱしゃぱしゃと噴水の音が流れていく。
「藍良さん。俺でよければ、祈りを捧げるまでもなく、スマホで呼び出して頂ければどこへなりとも伺いますよ」
おれはそこで、自分の心臓がすうっと落ち着いていることに気が付いた。
じゃあ、今度会いたくなった時は、連絡するねェ。
おれが言うと先輩は、是非、と笑った。
「タッツン先輩は、お庭のお手入れ?」
「ええ。ちょうど、つい先程まで、高峯さんと一緒に水やりと野菜の収穫を行っていました。今は、草木たちの色や呼吸に癒やされていたところです」
目線を下に落として、タッツン先輩が言った。めいっぱいに花を植え込んだカラフルな花壇じゃなくて、整えられてるのかどうかもわかんない雑草みたいなほうを向いて言うもんだから、おれはやっぱり、先輩ってちょっと変わってるなと思った。
「野菜の収穫かァ。そういえば高峯先輩、こないだちっちゃいキュウリの写真、見せてくれたっけ。あれ、ラブかったなァ」
「ふふ。藍良さんと高峯さんは、同じ部活動の仲間でしたな」
「そうそう。バスケ部ね。ていっても先輩、ほとんど顔出さないし、おれも別にあんまり行かないけど。でもレアな日だと寮まで一緒に帰れたりして……あっ。たま~にタッツン先輩の話題も出るんだよォ」
「俺の?」
キョトンとした顔で聞き返してきたタッツン先輩に、おれは思わずにやけそうになる。レア反応、頂きました、って感じ。だぁいすきなタッツン先輩の、こんなにもラブ~い一面を見せてもらえちゃうなんて、おれって今日も幸せ者だなァ。
「うん! 高峯先輩も、タッツン先輩のこと、優しくって頼りになるって。おれさ。それ聞くと、なぁんか自分のことみたいに嬉しくなっちゃうんだァ」
大好きなもの。
大好きなひと。
ずっと、「変」だって。「おかしい」って言われてきたこと。
それを他の誰かにも褒めてもらえることが、嬉しくてたまらなかった。そうでしょ、そうでしょ、って手を取り合って踊り出したい気分。おれが推してるだぁいすきなひとは、こんなにもラブくて優しいんだよォ、って世界中に見せびらかしたくなる。
タッツン先輩は、黙っておれの話を聞いていた。
おれはハッとして、おればっかりしゃべりすぎちゃったことを少し反省して、慌ててタッツン先輩の目を見た。
「ねェね、このあとは何の収穫があるの? おれもラブ~いのがなってるとこ、見てみたいなァ」
話題を振られた先輩は、ぴくりと眉毛を上下させて、穏やかな微笑みのうちに、ほんのりと真剣さを漂わせた。
「そうですね、夏野菜がちょうどこれで終わってしまいましたから……」
タッツン先輩が、菜園のある方向をちらっと見たあと、考え込むようにしてあごに手をやる。おれはそれを聞いて、ちょっとだけ肩を落とした。なあんだ。こんなことならもうあと一時間だけでも早く起きるんだった。おれ、タイミング悪いなァ。でも、だって、部屋が変わってから緊張であんまり寝られなくて、休みの日はなかなか起きられないことも多いし、今日はどうしても、のんびりしたかったし。
ウジウジし出した自分のことが嫌になりかけたその時、タッツン先輩は目だけを動かしておれを見て、一度大袈裟に「ふむ」と頷いてみせた。
「しばらくは、植え付けが中心になるそうです。藍良さん。実は今度、苺を育てよう、という話が出ているんですよ」
「えっ! いちごォ!」
おれが勢いよくオウム返しすると、タッツン先輩は唇の両端をきれいに持ち上げてニッコリと笑った。
「スイカの栽培に成功したことが嬉しかったんでしょう。ひなたさんは、苺もいいけど実のなる木をドーンと植えよう、なんて、今から張り切っていますし。……藍良さん、よければ座りますかな」
お時間が許せば、ですが。
そう言ってタッツン先輩は視線を奥へと向けた。座るって、テラスのところ? と思ったら、タッツン先輩から少し離れた場所に、布地の背もたれがついた黒いアウトドアチェアが一脚、ぽつんと置いてあった。
「今朝、部屋を出る際に晃牙さんが、貸してやるよと申し出てくださいまして」
ニコニコ顔のまま言ったタッツン先輩に、つられておれも嬉しくなった。さっすが大神晃牙。あのひと、ウワサの神対応が素だったってことがまずもってすごいんだけど、何よりおれたちのだぁいすきなタッツン先輩のこと、同室のひとが大事にしてくれてるってことが分かって、おれはそれが一番うれしい。
「おれはいいから、タッツン先輩が座って。でも、時間はあるから。もうちょっとおしゃべりしようよォ。ね?」
タッツン先輩は、ピカピカに磨き上げた宝石みたいな両目を更に輝かせると、「是非」と少し高めの声でお返事をして、椅子のほうへと歩いていった。おれはその後ろについて歩く。なんだかおっとりした大型犬が、しっぽだけを元気よく振ってるみたい。そんなこと言ったら怒られそうなものだけど、タッツン先輩なら笑って受け止めてくれる気がするから不思議だった。
「いちご、もうじき植えるの?」
「植えるのは、少し先のことになりそうですな。十月になったら苗を買いに行こうと誘われました」
「へぇ、そうなんだァ。くだものの木は? りんごとか、うーん……柿? とか? ていうかそもそも、木なんてそんな簡単に育てられるもんなのかなァ」
「ふふ。物にもよりますが、意外とすくすくと育ってくれるようですよ。植物はたくましいものですな。俺も見習わなくてはなりません。確かに、野菜と違って年数がかかりますし、地面に直接ではなく鉢植えで、となると少々小振りな果実になるようですが……」
アウトドアチェアの肘置きに片手を添えながら、タッツン先輩が慎重に腰かける。
おれはそれを、ちょっとだけハラハラしながら見守る。
「それもまた、愛らしさを感じますな。己の知恵と時間を惜しみなく与えた存在というのは、どんなものであっても愛おしいものですから」
深く腰かけたタッツン先輩は、おなかの前で両手を組んでから、柔らかくほほ笑んだ。
おれは、その隣にしゃがみこんで、ちっちゃくなって、きらきら光る赤紫の瞳をうっとりと見上げていた。
「ウフフ。いいなぁ。ちっちゃい実がたくさんなってるとこ、おれ、見てみたい。……せっかくみんなが頑張って、手間暇かけて育てるんだもん。いーっぱい、美味しいのが実ってくれたらさァ……うれしいよねェ」
両膝を抱え込んで、ぎゅ、と頬に押し付ける。
どうしてか、心臓のあたりがチクチクと痛む。
「藍良さん」
呼ぶ声に、反射で顔をあげた。
「くだものの果実は、必ずしも我々が食べられるものであるとは限らない、ということを。藍良さんはご存知ですか?」
降り注ぐ太陽の光と目が合いそうになって、思わず片手をかざす。
チカチカする目の奥をなだめようと、おれはまばたきを繰り返した。指の隙間から恐る恐る覗いたタッツン先輩は、さっきと変わらず穏やかにおれを見つめていた。
「えっ、と……どういうこと? くだものは、ええっとぉ、果実のことで……それって食べられるものじゃないの?」
言われた言葉を上手く飲み込めなくて、眉間にしわが寄っていく。
タッツン先輩は、くす、と息をこぼして控えめに笑った。
「偽の果実、と書いて、ぎか、と読む言葉がありましてな。藍良さん、よければ今、検索をかけて頂けませんか。俺はどうも、まだスマホの操作が苦手でして」
おれは、喉のあたりをほんの少しだけ強ばらせながら「うん」と頷いて、おしりのポケットからスマホを取り出した。
本当は、おれ、もうタッツン先輩が上手にスマホを使えるってこと、知ってる。一人で調べものだってできるし、メールもチャットも、ヘンテコな誤変換とかしないし、レスポンスだって早い。これがもしヒロくん相手だったら、自分でやんなよ、できるクセに、なんて怒っちゃうかもしれない。
でも、なんでかタッツン先輩に対しては、おれ、タッツン先輩の言う通りにしてみてもいいかもって思うんだ。
だってタッツン先輩は、ぜったい、おれたちに意味のないことはさせないから。今だってきっとおれがやることに意味があって、そんで、あとは、もしかすると本当の本当にスマホがちょこっとだけ苦手なのかもしんないから。だとしたら、おれはおれにできることで、少しでも力になりたいって思うから。
だからおれはタッツン先輩のことを今日も信じちゃう。
検索ボタンを押して、ズラッと画面上に並んだリンク先を「出たよォ」と見せる。ぱちりと目が合った。ありがとうございます。低く優しく響いた声に、おれの確信は強くなる。
「そうですね、出来���ば図解のある……ああ。これなんか如何ですかな」
「……なんか、難しいことばっか書いてある……気がするゥ……あっでもこの図は見覚えがあるかも。んんんん~むかぁし学校の授業でェ~……」
おでこの中心を手の甲でぐりぐりと押して、おれはしばらく唸り声をあげていた。だけどおれの頭の引き出しはどこも開く気配を見せなくて、おれはおれにがっかりしてしまう。なんにも覚えてないじゃん、おれ。ばかじゃないの。ぞわぞわと胸のあたりが騒ぎ出して、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「ではおさらいを致しましょうか」
ふわりと頬を撫でるような、柔らかい声がした。
顔をあげると、タッツン先輩がおれのスマホをすいすいとスクロールしていた。藍良さん、これを。親指と人差し指で拡大された部分を覗き込む。図が二種類あって、下のほうの図に、さっきタッツン先輩が言っていた「偽果」って単語が書いてある。
「この、子房と呼ばれる部分がふくらんだものを、果実と言うんですな。藍良さん、桃や柿のことはお好きですか?」
「う、うん。美味しいから、好き……ええと、桃とか柿の、いつも食べてる部分てこと、だよねェ。あ、みかんもそうって書いてある」
タッツン先輩はニコリと笑った。
正解です。
おれはほっと胸を撫でおろした。
「ええっとォ、じゃあ下の、偽果のほうはァ……りんごとか、いちご……」
おれは、いつの間にかタッツン先輩から差し出されたスマホを両手で受け取っていた。
「……茎? 茎の一部? えぇ~!? おれ、そんなのを食べてたのォ!?」
「ふふ。イメージが掴めましたかな?」
「すごぉ~い、こんなに違うんだァ。全部おんなじだと思ってたよォ~」
ほわァ、と大きく息を吐き出しながら、食い入るように見ていた画面を遠ざける。途端に身体のちからが抜けて、おれはポカンとしてしまった。
「じゃあ、りんごの果実って……いつも切り取っちゃう芯のとこなんだ……」
その通りです、藍良さん。タッツン先輩が明るく言った。
おれはむず痒さにちょっと唇を動かしたあと、またほんの数秒、それを噛み締めた。
「……藍良さん?」
スマホを握る指先に、力が入る。
「なぁんか。さぁ」
心臓のあたりがモヤモヤして、苦しくて、おれはスマホごと自分の両手をそこへ押し付けた。うずくまるような体勢になって、余計に息苦しい。
「桃だって、りんごだって。……同じくらい美味しいのに。ヤだなァ、偽物なんて。なんか、おれたちのことみたい」
地面に落ちた自分の影がやけに濃くて、近くて、そこに向かって悔しい気持ちが溢れだす。
だって、やっぱり許せないから。おれの大事なひとたちを「もどき」だなんて。あんなに眩しいひとたちのこと、劣等生だなんて。
それとおんなじ箱に入れられた、ほんとに「もどき」なおれの気持ちなんかお構いなしで。
「ふふ、そうですな。他者から勝手に偽物だと決めつけられて、それによって俺たちは不本意な扱いを受けたのですから。その気持ちは当然のことです」
どろどろの渦を巻いていくおれに、タッツン先輩の言葉は変わらず優しかった。
伸びる影の黒さが、ほんの少し薄らいだ気がした。
「藍良さん」
名前を呼ばれて、もう一度、顔をあげる。
今度は、ゆっくり。気を付けて。
うっかり太陽のことを直視しちゃわないように。
「俺はね。この真の実のことを、愛おしく思うんです」
ひかりを背負ったタッツン先輩の表情は、薄暗いはずなのに、ちっとも霞んで見えなかった。
「芯のみ?」
ぼんやりした頭で聞き返す。
先輩は、口の端をちょこっと持ち上げた。
「まことの果実、という意味ですな。まあ、この場合は芯と同義なので、それもまた真理でしょう」
おれの聞き間違いと勘違いをカラリと軽やかに、なんでもないことみたいに丁寧に拾い上げて、タッツン先輩は話を進めていく。あ、間違えちゃった、なんて身体がこわばる暇もなかった。おれはそのことに驚くほどホッとして、最後のほうなんか何言ってるのかよくわからないけど、とにかく「うん」と頷いた。
「偽りの果実であっても、美味しいものはある、というのは本当のことです。けれど、その奥にある芯こそが実りの成果であるということもまた、我々にとって大切な事実だと、俺は思いますよ」
タッツン先輩は、目線をおれから外して、どこか遠くのほうを見た。
「美味しいもの、快楽を伴うもの……目に見えて役に立つものだけが。俺たちの心身を支えているわけではありませんから」
不意に、おなかの前で組んでいた指がほどかれる。
骨ばった大きな片手は膝まで伸びていって、関節のあたりを、ゆっくりと一度さするように前後した。おれの目はその動きに釘付けになってしまった。胸が痛んで、ぎゅっとして、だけどどうしてかおれ自身がやさしく頭を撫でられているような、不思議な心地がした。
「……ですが。そうですね」
ぼうっとするおれに気付いてか、タッツン先輩はおれに視線を戻した。
「俺の言葉も、今の藍良さんにとっては、不要なものと感じられるかもしれませんな」
叱るでもなく、がっかりするでもなく、当たり前のことみたいにそう言ってほほ笑んだタッツン先輩は、一呼吸置いてからおれに向かってまた唇を動かそうとする。
――それもまた。
聞こえていないはずの声が、猛スピードで脳内を横切った。
「ううん」
おれは咄嗟に口を開く。
「タッツン先輩の言葉は、ぜったい、おれにとって無駄じゃないから」
なんでかは、わかんないけど。
でも絶対に、そう。
それだけ分かってる。
「……タッツン先輩?」
長い長い沈黙に、ざあ、っと噴水の音が混ざり込む。
気付けばタッツン先輩は、いつもは三日月みたいな口元を一直線に結んで、おれのことを見おろしていた。おれは手に持ったスマホを落としそうになりながら、慌てて膝立ちになった。
「お、おれ、もしかして何か、変なことを言っちゃった?」
さっきよりうんと近付いた視線に、タッツン先輩は少しだけのけ反ると、ぱちくりと二回、まばたきをした。
「いえ。……俺は、単なる枝のうちの一つですから。俺自身をぶどうの木だと思われては、確かに困るのですが」
さっきまでりんごの話をしていたはずなのに、タッツン先輩は唐突にそう言って、ほほ笑みのあと眉だけを少し寄せた。タッツン先輩がこうやって言葉を濁すのは珍しいことだった。おれはぞわぞわする胸のあたりをなだめるみたいに両手で押さえる。
「……いいえ。でしたら俺も」
タッツン先輩は、両膝の上に無造作に置いていた手をしっかりと組み直して、お祈りをする時のように目を閉じた。数秒して、今度は目だけじゃなく腰の位置を斜めにずらして、おれのほうへと向き直る。
「木と果実とを結びつける、善き枝で在り続けましょう。君にとっての」
その表情に見覚えがあった。
瞬間、色鮮やかによみがえる、舞台袖のワンシーン。
黒の軍帽を被ったあとの凛々しい顔つき。
袖幕を颯爽とゆく足元。巻き起こる風。嵐のなかを突き抜けていく透明な声。
無数のライトが眩しすぎるあの場所で、なにがあってもおれたちを取りこぼさないようにと張り巡らされた、目には見えないちからのこと。
「ねぇ、タッツン先輩」
痛いくらい、眩しい。
「はい。何でしょう」
いつだったかのマヨさんの言葉を思う。
おれに何ができるだろう。
おれは、おれは何を返せるんだろう。
黙ったおれに優しく語りかけてくるその瞳は、うんと小さくてとびきりに甘い、一粒のぶどうみたいにも見えた。
「おれ、ほんと……ばかだし、物分り悪いけどさァ……でも、それでも、タッツン先輩はまたこういうお話、してくれる?」
おれは泣きそうになりながら、せめて大好きなこのひとの眩しさから目を逸らさない人間でいたいと、強く願った。
だって、タッツン先輩がどんなに凄いひとでも、たったのひとりでいるタッツン先輩の横顔は、きっとさびしいから。おれはその隣に、一緒に、並んでいたいって思うから。
だから神さま。
「ええ」
醜いあひるの子でも、どうかまだ居させて。
必死に飛ぶから。
隣にいさせて。
「勿論。……喜んで。愛しい子」
小さなぶどうが、きれいな水を浴びたあとみたいにうるうると反射する。
細められた目のやさしさに、おれは今にも泣きそうで、でも泣いてなんかいられない、って大きく深呼吸をした。
今日はやっぱり、午後から自主練をしよう。無茶して潰れてしまわないように、マヨさんとかに見てもらって。それから、それからあとで、ぶどうの木のことを調べてみよう。難しい言葉ばかりで、なんにもわからないかもしれないけど。おれだけは、みんなみたいに眩しくない「もどき」かもしれないけど。でも、不器用なこのからだでも、知らないものを知ることくらいはきっと、できるはずだから。
今日、この場所で。
おれが検索ボタンを自分の指で押したみたいに。
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風花が夏に染む
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
消毒剤の匂いというのは、かすかであろうとやはり自分にとっては毒の類いなのであろうと、マヨイは思う。
持て余した両手を何度も組み替えながら、鼻をかすめるそれに思いを馳せる。清められた空間というのはどうにもそれだけで居心地が悪い。天井から降り注ぐ蛍光灯の光にはこのひと月ほどで随分と慣れたものの、ここには瘴気を取り除こうとする人々の願いが痛いほど込められている。自分のような穢れた存在がこんなところにいては、その切実な願いを害してしまいそうで、酷く落ち着かない。
――あぁ、ですが。
前回訪れた時は、こんなことを考える余裕など、ありませんでしたね。
緊張によるまばたきを幾度となく繰り返しながら、それでもマヨイはこの居心地の悪さに、少しだけ安堵していた。マヨイがここを訪れるのは二度目だ。あの日は完全に気が動転していた。目の前の人の安否だけがただただ心配で、今これほどまでに強く感じる匂いのことが、ちっとも分からなかった。
自分より慌てている人を見ると逆に落ち着くというのは、本当なのですな。
額に脂汗を浮かべながら、世紀の大発見でもしたかのような顔で、無邪気に言った巽のことを思い出す。何をのん気な、と思いながら、マヨイは必死になってその体を支えた。病院について受付が済んだあと、長引きそうなので先に帰っていいですよ、などと言われても、簡単にはい分かりましたと頷くことはできなかった。
本当に、一日がかりになってしまいそうなので。助けが必要になった際には、必ずマヨイさんに、連絡を致しますので。……一彩さんと藍良さんを放っておく方が、心配なので。
どうか俺の頼みを聞いてくれませんか。最後の最後にそう言われ、まっすぐに目を見つめられてようやく、あぁ、これはもう折れるしかない、とマヨイは首を縦に振った。本当に強情なひとだと思った。一彩と藍良が心配だったのは本心だろうし、マヨイとしても気を揉んでいたので、巽のほうから二人を支える役割を与えられたことは有り難くもあったのだが。
ポーン、と前方で電子音が鳴る。
診察室との間に掲げられた電光掲示板が、三桁の番号を映し出す。診察室、五番にお入りください。アナウンスに従って、一人の患者がゆっくりと立ち上がり、歩いていく。マヨイは長く息を吐き出したあと、馴染みのない清浄な空気をめいっぱい体に取り込んだ。十数分前、青磁色の後ろ髪が吸い込まれていった三番の診察室は、いまだにその扉を固く閉ざしている。
あの日はきっと、帰って正解だったのだろう。
右の親指で、左手の手袋のふちをいじりながらそんなことを考える。ただ待つことしか出来ないというのは思った以上にこころを削られる。きっと巽は、一彩や藍良だけでなく、マヨイのことをも気遣ったのだろう。やるべきことがある、というのはそれだけでいくらか安心を得られるものだ。あの日最後まで巽に付き添っていたら、あまりの無力さに、己を責めてしまったかもしれない。
ポーン、とまたひとつ、電子音が鳴った。
マヨイは静かに深呼吸を繰り返す。薬品の匂い。清らかな人々の願い。肺に満ちていくそれに、けれどマヨイは消えてしまいたいとは思わなかった。今日は決して帰らない。最後まで側に居る。誰に役割を与えられたのでもない。自分の意志で決めたことだった。ひと月前なら、こんなことは考えもしなかった。光におののきながらも、清らかな毒にあてられながらも、マヨイがここに座っていられるそのわけを、くれたのは巽だった。
もちろん巽だけというわけでは決してない。多くの友人を得た今、マヨイの存在を肯定してくれるひとは信じられないほど多くいる。それでも、最初の最初にそれを与えてくれたのは、確かに彼だった。
さんさんと降り注ぐ蛍光灯の白。真新しい匂いが鼻をつくエレベーター。あの日の呼吸のしやすさを、マヨイはきっと忘れることがない。
同じものを返したい。
ただそれだけの願い。
伏せたまつげの先に記憶を思い返していると、がらがらと扉の滑る音がした。失礼致します。低く、それでいて澄み切った声が礼儀正しく響いて、マヨイは顔をあげた。マヨイから見てずっと右側、診察室の奥に向かって軽くお辞儀をする巽の姿が見える。巽は青磁色の頭をゆっくりと起こすと、身を翻して歩き出した。相変わらずわずかばかり片足を庇うような仕草はあるが、引きずるほどの不自然さはないので、マヨイはほっとした。
巽はいつもの穏やかな表情で待合室の硬い床を踏み、マヨイの元へと戻ってきた。巽さん。マヨイが小声で呼びかけると、視線が絡んだ。途端に巽がきょとんと目を見開いたので、マヨイは思わず息を飲んだ。
「た、巽さん? どっ……どうかされましたか?」
瑞々しい葡萄によく似たふたつの瞳が、マヨイをじっと見下ろしている。
「いえ」
二、三度まばたきをしたあと、巽は戸惑ったように答えた。一拍遅れて浮かべた笑みは、どこか、ぎこちなかった。
「待合室で、俺を待っている人がいる、というのが。その……どうも、慣れなくて」
随分と、くすぐったいものなのですな。
最後にぽつりと独り言のようにこぼして、巽はマヨイの右隣に腰をおろした。分厚いソファのクッションが、鈍く沈んで音を立てる。横目に盗み見た唇からは、深く長く、息が吐き出されていた。それが疲労の色なのか、ほどけた緊張の証なのか、マヨイには分からなかった。
「あ、あの。いつもは――」
口にしかけて、飲み込んだ。
「……いつも。お一人、で」
数秒ののちに辿り着いた問いかけは、適切なものだったらしい。
「ええ」
当たり前のことのように、軽やかに頷いた巽のことを、マヨイはまっすぐ見ることが出来なかった。
「私」
握っていた両手に力を込める。
しわを作る黒い布地を見つめたまま、マヨイはまばたきを重ねた。
「私、ずっと。思い違いをしていました。巽さんは、私と違って……とても、とても優しくて。人望があって、頼りになって、ですから。……ですからきっと。そこには多くの慰めと労わりがあったものだとばかり」
すみません。
込み上げてくる罪悪感から逃げるようにして、謝罪を述べた。それはあまりにも身勝手で、卑怯な行いで、マヨイはすぐに後悔した。ごめんなさい。自己嫌悪と謝罪とを繰り返しながら、深くうなだれてしまったマヨイに、巽は困ったように眉を寄せて笑った。
「マヨイさんは、やはり俺のことを買いかぶりすぎですな」
風早さーん。
看護師が、はきはきとよく通る声で名前を呼んだ。立ち上がろうとする巽の腕をとっさに支えると、巽は少し驚いたあと酷く嬉しそうに微笑んで、ありがとうございます、とマヨイの手を握った。二人一緒に並んで歩いて、看護師からクリアファイルを受け取った。痛み止めが出ています、と説明を受けて、院内を移動する。痛むんですか。おずおずと尋ねると、なだめるような声色で「お守りのようなものですよ」とはぐらかされてしまった。
待合室に並んで腰掛けて、番号が表示されるのを待った。同じように順番を待つ人々は、一人だったり、連れ合いがいたりと様々だった。不安げな表情。慣れた様子。疲れ切った顔。落ち着いた佇まい。見えるようで見えない、ありとあらゆる感情が、人の数だけそこにあり、整然と同じ方向を向いて並んでいる。
「……つらくは、ありませんでしたか」
ポーン、と会計を促す電子音が鳴り響く。
三桁の数字がいくつも掲示板に映されて、前方に座っていた老人が、よろめきながら立ち上がった。
「どうでしょうか。あまり、悲観したことはなかったように思います。一人でいる時も、神は俺と共にありましたし」
問いかけは、電子音に掻き消されることなく、きちんと巽に届いたらしい。失礼なことを聞いたのではないか、とマヨイが青ざめた頃、巽はようやく口を開いた。
「むしろ、それは俺にとって、幸運なことだったかもしれません。自らの過ちを省みる時間が、俺にはどうしても必要でした。俺は……どうしようもなく、人間ですから。虚勢を剥がし、己の罪と向き合う、ただそれだけのことが。一人にならなければ、為せなかったのです。やはり神は俺のことをよく見ておられますな」
穏やかな声だった。
あまりにも穏やかだったから、マヨイは言葉を失ってしまった。
一体この柔らかな面差しに、どれほどの苛烈さが内包されているのだろう。その理不尽なまでの孤独に対し、己を罰するために必要であったなどと、どれだけの人間が同じように言い切れるだろう。眩しいひと。清らかなひと。己の内側に生まれた黒い染みをただのひとつも赦すことができず、渦巻く怒りも後悔も失望も何もかも、たった一人で抱きしめて昇華してしまったひと。
悲しいほどに強いひと。
この世の全てを恨んでもおかしくなかったはずなのに。
「――ですが」
焼き切れそうなくらいに乾いた喉が、細く弱く、息を吸い込んだその時だった。わずかに湿度を帯びた声が、俯き続けたマヨイの顔を上げさせた。巽は、どこか遠くの方を、ぼんやりと見つめていた。
「今。一人きりの病室で、再びベッドに横たわったとしたら、それは」
陰りを見せた紫色が、静かに伏せられていく。落ちた視線の先。くの字に曲げた右の足。おもむろに手を伸ばし、膝のあたりを軽く撫でつけると、巽はまばたきを重ねた。
「それはとても。……とても寂しいでしょうな」
聞き覚えのある声色だった。
思い出す。
よく晴れた空の下。生い茂る木々の緑。
密やかに、無防備にさらけ出されたこころのひび割れ。
ポーン、と電子音が鳴り響いた。はっとした巽が、掲示板の数字を見て「あぁ」と息を漏らす。数人の患者が椅子から立ち上がり、窓口に向かって歩いていく。膝に置いていた手に、ゆっくりと体重をかけていく巽を見て、マヨイは慌ててその腕を掴んだ。巽は、やはり一瞬驚いたように目を見開いて、それからほっとしたように眉尻をさげて微笑んだ。ありがとうございます、マヨイさん。律儀に礼を告げると、巽はマヨイの腕に掴まった。
院内処方の薬を受け取ったあと、会計を済ませて病院を出た。自動ドアのガラスが左右に別れると、途端に蒸し暑い空気が襲ってきて、マヨイは思わず呼吸をとめた。真夏日ですなぁ。感心するように呟いた巽が空を仰ぐ。つられてマヨイも顔を上げる。冴え冴えとした青の空は、もう随分と高いところに太陽を招いている。マヨイは顔をしかめて、空いた左手を目の前にかざした。夏は苦手だ。こんなに眩しくされては薄汚れたこの身がいつ蒸発してしまうか分かったものではない。降り注ぐ日光に耐えかねて弱々しく呻き声を漏らすと、くすりと巽が笑った。
「日傘のひとつでも持って出るべきでしたな。気が利かず、申し訳ありません。なるべく日陰を通って帰りましょう」
繋いだ手と手が、巽の声に合わせて微かに上下する。巽が一歩、足を踏み出す気配を察知して、マヨイもゆっくりと歩き出した。
「そろそろ正午を過ぎた頃でしょうか。もう少し早く終わるかと思っていたのですが、なんだかんだ長引いてしまいましたな。藍良さんたちには、先に食べてくださいとお伝えしましょう」
足もとに出来た短い影を踏みながら、巽が言った。タッツン先輩たち、午前中で終わるんだったら、お昼は一緒に食堂で食べようよォ。出かける少し前、寝ぼけ眼で提案してきた愛らしい子のことを思い浮かべる。それは名案ですな。嬉しそうに笑って返した声のことも。
「お腹をすかせて俺たちを待っているようでは、あんまりですから。もっと早くに、連絡をしてあげればよかった。俺はどうも、すまほを持ち歩いていることを忘れがちでいけません。……マヨイさん、もう大丈夫ですよ。手を離してくださっても」
巽はそう言うと、重ねていた指先から力を抜いた。
「熱いでしょう。俺の手は」
マヨイは日射しに目を細めたまま、巽を見た。マヨイと目が合うと、巽は少しだけ首を傾けて、促すように繋がった手を揺らした。
数センチだけ背の高い彼のことを、以前はとても、とても大きく感じたものだった。その透き通るような美しい髪の色も。グラスに注いだ葡萄酒のような目のことも。眩しすぎて、直視するのを避けることすらあった。
「……マヨイさん?」
返事のないマヨイを不安に思ったのか、巽の表情が硬くなる。
マヨイは足を止めた。一拍遅れて巽も立ち止まった。まだ手は触れ合っている。ゆるんだ巽の骨ばった左手を、黒い指先が捕まえている。マヨイは視線を落とした。外へ出てから数分も経っていな��のに、手袋の内側でかいた汗が、じんわりと指の付け根に滲んでいた。
「どうされました。具合が悪いのですか。もうじき木陰に入りますから、そこで少し休んで――」
マヨイはごくりと一度喉を鳴らすと、節くれ立った指のあいだに自分の黒い指を滑り込ませて強く強く握った。巽の声は、そこでふつりと途切れた。
熱い。
脈打つ自分の指先が更に温度を上げていく。火照るからだ。降り注ぐ真昼のひかり。あぁひと月前ならこんなこと想像もつかなかった。この手が彼に触れる日など永遠に来ないと思っていた。触れたら最後、清らかさに当てられて消し飛んでしまうと本気で思っていた。馬鹿げた自分の思い違いにこの人は一体何度心を痛めたのだろう。
何度自分を責めただろう。
“本当は俺なんて清くも正しくもないのに”
べたつく親指の腹で、滑らかな指の側面をなぞる。布越しに骨のかたちを確かめていると、ゆるんでいた指先が次第に強張っていくのがよく分かった。マヨイさん。困惑を訴えるかのように名を呼ばれても、マヨイは手を離さなかった。遠くでごうごうと風が唸り声をあげている。数秒遅れて熱風が、強く頬へと吹きつけた。視界の端で三つ編みが踊る。長い横髪がばらばらと広がって、カーテンのように目の前を遮る。マヨイはその隙間から、一瞬、ぼんやりと虚空を見つめた。脳裏をよぎる。見たこともないのにやけにはっきりと浮かぶ。薄暗い病室。ベッドに横たえた身体。一人、手を組んで静かに祈るひとのすがた。
寂しい。
どこか遠くへ攫われてしまいそうな儚さで、横顔が呟いた。
「――毎日」
首筋を伝う大粒の汗が、ゆっくりと胸元まで落ちていき、白いシャツに染みを作る。
「毎日、お見舞いに行きます。私が」
じりじりと肌の焼かれる音がする。それは次第に痛みを伴って、マヨイの意識を引き戻す。
何度目かのまばたきののち、ぼやけていた視界が鮮明になっていくのを感じて、マヨイははっと面を上げた。
「あっ……あぁ、ちが……違うんです! そんな、不幸な未来を願っているわけでは決して! わたし、私はただ、その――」
必死で首を横に振りながら釈明の言葉を並べる。けれど最後まで言い切ることなく、マヨイは息を詰まらせた。隣で立ち尽くす巽は風に乱された前髪を整えることもせずマヨイのことを見つめていた。怖いくらいに真剣な目つきだった。乞うような視線だった。重たい沈黙が、続きを急かすかのように横たわる。あぁ、やっぱり、さっき見たのは。マヨイは軽く目を閉じて呼吸を整えたあと、握りしめていた巽の手を、胸の高さまで持ち上げた。
「もしも。また、巽さんが長く、長く病床に臥せることがあったとしても。私が。きっと寂しくさせません。一彩さんも藍良さんも、同じことを言ってくださるはずです。巽さん」
骨ばったぬくい手の甲に、もう片方の手のひらを重ねる。汗でべたついた黒の手袋が、じっとりと他人の肌に密着するのを感じて、マヨイは生唾を飲み込んだ。こんなもの、不快に思われて振り払われても仕方がない。不潔だと罵られて、突き飛ばされても文句は言えない――以前ならそう思っただろう。マヨイは目尻に涙を溜めた。
目の前のひとは嫌がる素振りひとつ見せなかった。
それが、それがどれほど。
「……巽さん。藍良さんから、連絡が来ていましたよ。遅くなっても、私たちが帰ってくるまで待っていると。……気をつけて帰ってきてね、と」
マヨイは両手に力を込めた。いつもそうだった。巽はただの一度もマヨイのことを拒まなかった。もう少しも躊躇うことはない。清くも正しくもないその身に触れてただありのままを受け入れたい。あなたが私にそうしてくれたように。
「私が。私たちが、共にあります。今は。巽さんのすぐ隣に」
指先が、喉が、心臓がどくどくと脈を打っている。倒れてしまいそうなほど熱い。暑い。こめかみから滴り落ちる汗をそのままにして、祈るように手を握っていると、不意に何かがマヨイの顔に触れた。
「本当に」
熱を孕んだ指の背が、頬の汗を拭い取る。
優しい手つき。まるで壊れ物でも扱うかのような。
「本当に、怖かったんです。足を失うことよりも何よりも。次は、君たちを失ってしまうのかと」
この距離でなければ、聞き取ることも難しいくらいに、低くて、かすれた声だった。
包み込んでいた巽の指が、強い力でマヨイの右手を掴み返す。こんなに幸福でいいのでしょうか。指先に込められた痛いほどの力に反して、あまりにも弱々しく呟くものだから、マヨイは潤んだ目を細めて少し笑った。
「……貴方が教えてくれた幸福ですよ。一人ではないのだと。人は、認め合い、支え合い……生きていくのだと」
マヨイが言うと、巽は、静かにゆっくりとマヨイの腕に寄りかかってきた。痛みますか。できるだけ優しく問いかけた。巽はかすかに頷いて、小さな声で「少しだけ」と答えてくれた。
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等しさのひずみ
カップリング/ReS。・・・巽&マヨイ
朦朧とした意識の中で、必死になって首を横に振り続けた。
どうか捨て置いてください。一人にしてください。私のような者のために、心を配らないでください。何度も何度も言葉を変えてはうわ言のように繰り返した。吐きそうだった。身動きの取れない肉体も、日の当たる世界に少しも馴染めない澱んだ魂も、何もかも手放して今すぐ楽になりたかった。やはり、こんな生き物は、地上に存在してはいけなかったのです。誰かの足を引っ張ることしかできないのならば、いっそ居ない方が何十倍もマシだったでしょうに。唇の裏を強く噛み、己の生をことごとく憎んだ。一刻も早くこの場から立ち去りたいのに、自力で足を動かすことすらままならない。すみません。ごめんなさい。喉の奥から搾り出した謝罪は掠れていて、その声の醜さに、いよいよ消えてしまいたいと願った時だった。
「マヨイさん」
その声は苦悩に満ちていた。
「すみません」
声色に反して、伸びてきた両手には一切の迷いがなかった。
反射的に身構えた私の腕を強く掴んで、易々と引っ張りあげると、彼は光に透かした葡萄酒のような清らかな瞳で、真正面から私を射抜いた。
「少々手荒な手段を取らせて頂きます。苦情はのちほど受け付けますので……どうか今は、耐えてください」
ようやく踏みしめたと思った地面が、次の瞬間、遠のいた。宙に浮く重々しい両足に、体を包むひとの温もりに、思わず涙が伝った。ごめんなさい。すみません。呟いたそれが声になったかどうかも分からないまま、私の意識はゆっくりと暗がりに沈んでいった。
*
わずかに響いた物音に、自然とまぶたが開いていた。
もしや、ついに死んでしまったのでしょうか。見慣れない景色と真昼の光の眩さに、ぼんやりとそんなことを思った。
「あぁ……起こしてしまいましたかな」
聞こえてきた言葉に感じたそれが、安堵だったのか、失望だったのか、自分でもよくわからなかった。視線を動かすと、濃紺の布地をかき分けて、穏やかな微笑みで自分を覗き込むひとの姿が映る。巽さん。掠れた声でも、きちんと届いたのでしょう。巽さんはほっとしたように目元を緩めて柔らかく笑った。
「ご気分は如何ですか。まだ、顔色が優れないようですが……」
「あの……ここは……私はあのあと……」
「ここは星奏館ですよ。越して間もない、俺たちの住まいです。僭越ながら俺が運び込みました。その様子だとあれから一度も起きていないようですな。小一時間ほど前に伺った時も、よく眠っておられましたし……マヨイさん、喉が渇いてはいませんか。水か何か、お持ちしましょうか」
「い、いえ! いいえそんな滅相もない……! 大丈夫です、お気遣いなく、本当に……すみません、大丈夫ですから……」
言いながら、情けなさに耐えられなくなって口をつぐむ。一体どこが大丈夫なのでしょう。重たい体を横たえて、ろくに起き上がることも出来ない有り様で。黙った私に、巽さんは薄く微笑んだまま、少し困ったように眉尻をさげた。心臓がいっそうキリキリと締め上げられて、思わず布団の下に鼻をうずめる。
「……今。何時なのでしょうか」
陰鬱とした気持ちのまま、そう尋ねた。
「ちょうど。三時を過ぎたところですよ」
聞かなければよかったと、すぐに後悔した。
「ビラは、半分ほどを配り終えましてな。皆、休憩中です。……すみません。俺もしばらくしたら、また戻らなくてはならないんですが。何かあればすぐに呼んでください。やはり水の一杯でも取ってきましょうか。それとも他に、欲しいものがありますかな。キッチンにあるものや、この近くで買えるものであればすぐに」
「すみません」
はっと目を見開かれた葡萄酒の色が、薄い膜に遮られてぐにゃりと歪む。頬をすべる水滴。呻くような自分の声。醜い。消えてしまいたい。視界を塞ぐように布団に潜り込んだ、けれど、その願いが叶うことはなかった。
「ごめんなさい。すみません。何も――何もお役に、立てない、どころか、わた、わたし」
嫌だ。消えたい。赦されたい。いいえどうか赦さないで。布で覆われた仮染めの闇の中、矛盾は幾重にも膨れ上がっていく。
「わたし、のせいで。すみません。私が――私がこのような卑しい生き物なばっかりに。何も出来ないばかりか、ひとさまの貴重な時間までも奪って、こんな――申し訳ありません。ごめんなさい。どうかもう、私に構わずに行ってください。お願いですから――」
これ以上私が惨めな生き物であることを突きつけないで。
体の内側で想いが弾け散って、小さな小さな呻き声へと変わった。どうしていつもこうなのでしょう。どうしていつも、何をしても、何をされても、己の歪さを思い知るのでしょう。特別虐げられることも、特別施しを受けることも、感じる痛みは同じようなものだ。だってそうでしょう。そもそも私という生き物がこれほどまでに弱くも愚かしくも卑しくもなければこのひとはこんなふうに自分の身を切り分けずに済んだのだから。どうして私はいつもいつも心根の美しいひとたちから何かを奪うことしかできないのでしょう。ひとの優しさを、引け目なく受け取ることすら出来ないのでしょう。こんなふうに生まれ落ちたくはなかった。もっと普通に、この世の大勢と同じように、在りたかった。叶わぬ夢と知りながら地上に這い出した私が愚かでした。早く帰らなくては。こんなふわふわの温もりで出来た闇ではなく、冷え切った土の匂いで満ちる、私の生きる世界へと――
「マヨイさん」
不意に、肩のあたりを押さえられて、息がとまる。
「あの場で倒れたのが、貴方でなくとも。俺は同じことをしたでしょう。それが一彩さんで���、藍良さんでも、あるいは先刻顔を合わせたばかりの他のユニットの方々であっても。俺の行動は、何一つ変わりません」
凛とした声が、清廉に、けれど稲妻のように激しくまばゆく。陰惨としたこの胸の中心を貫いた。
「……ですから。己を特別に卑下する必要など。どこにもありませんよ」
それは、どんなに強く風が吹いても決して揺らぐことのない、このひとの魂にまっすぐに根をおろす信念の表れだったのでしょう。なだめるように一度、二度、と手のひらが上下して、やんわりと肩を叩いた。分厚い布越しで、温もりなど少しもわからなかった。私にはそれが有り難かった。昼間のように強く、熱く、触れられてしまったならばきっと。今度こそ私はその鮮烈さに心を保っていられなくなるでしょうから。
「……すみません。やはり今日の俺は、卑怯者でしたな。たとえ時間がかかっても、貴方のほうから歩み寄ってくれるのを待つつもりでいたのですが、どうしても……放ってはおけなくて」
お嫌だったでしょう、他者から触れられるのは。
穏やかに問われて、私は布団にくるまったまま、大きく首を横に振った。数十センチ先で、わずかに息を飲む気配があった。恐る恐る、被った布団を手で押しのける。隙間から覗き見た彼は、少しだけ驚いたように瞬きをしたのち、うんと目を細めて甘やかに微笑んだ。
「――それはよかった」
ああ。美しい。
天から降り注ぐ蛍光灯の光が、伏せたまつげに当たって、あまりに眩しい。
「けれど、次からは。ええ。きちんと貴方に許可を得るように致しましょう。求められてもいないのに、何かを与えようなどというのは……酷く傲慢なことですからな」
きっぱりと言い切った直後、肩に置かれていた手のひらが遠ざかる。思わず身を起こしてその手の行方を追いかけた。ずるりと布団の落ちる音がして、はっとする。何をしているのでしょうか。名残惜しい、だなんて、そんなことを一瞬でも思った自分の浅ましさに体中が熱を帯びる。巽さんはそんな私の動揺に気付いているのかいないのか、うーん、と大きく伸びをしたのち、深く息を吐き出した。
「さて。俺はそろそろ戻ります。仕事の方は、滞りなく進んでおりますのでどうか気に病まず……などと。ふふ。胸を張って言えたのならよかったのですが。やはり慣れないことは難しいものですな。俺自身もこういったことには無縁に過ごしてきてしまいましたし、特に一彩さんなどは、声かけのコツを掴むのに苦心していましたよ。藍良さんが随分よくやってくださっているのと、Ra*bitsやValkyrieの皆さんが手慣れていらっしゃるので、今回は彼らの存在にすっかり助けられています。神のお与えになった巡り合せに、感謝しなくてはなりませんな」
朗らかに語るその声は、いつものように爽やかだった。
「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すればその報いは良い。誰しも完璧には生きられません。故にこそ、人は助け合い、生きていくんです。マヨイさんも、今日はどうかよく休んで、また別の機会に俺たちを支えてください」
よいしょ、と可愛らしい掛け声をあげると、巽さんは勢いをつけて立ち上がった。去り際に湿気のひとつも見せないところが潔い。本当に風のようなひとだ。きっとこのひとは、同じことを、同じ目をして、同じように多くの子供たちにも説くのでしょう。そう思えることが本当に心地良かった。同じなのでしょう。このひとの目に映る、ありとあらゆるものたちは。同じなのでしょう。私はその大勢のうちのたったの一人にしか過ぎないのでしょう。
それが。
こんなにも心安らぐことだとは。
「……ええ。そうですね」
ようやく、思うように声が出せた。
巽さんは歩き出す寸前で足をとめると、わざわざ視線を落とし、私の遥か頭上でにっこりと目を細めて笑った。私もほんの少しだけ頬を緩めた。再び前を向いて歩き出す横顔に、天井から白い光が降り注ぐ。
「私も……いつかはお役に立ちたいです。巽さん」
呟いた声は、聞こえていても、いなくても、構わなかった。これもおそらく祈りのたぐいなのでしょう。口に出して唱えることで、それだけで心が潔白に保たれるような、そんな言葉のつもりでした。
「ええ、ええ……こんなに良くして頂いたんですから。私のような者に、出来ることがあるかどうかは分かりませんが……」
大きく息を吸い込んで、吐き出した。もう苦しくはなかった。生きていてこんなにも呼吸が楽なことがあるのかと思うと涙が出そうだった。
「もしも、巽さんが……同じように倒れてしまうことがあったなら、その時はきっと……きっと私がお助けしますから……」
溢れそうな感情を抑えるように、一度まぶたを閉じてから、ゆっくりと開いた。去りゆく背中に、微笑みを返そう。たとえそれが貴方のように美しくはなくとも。そう決意して、ベッドからほんの少し身を乗り出して、私は思わず息を飲んだ。
「――巽さん?」
些細な違和感だった。
背中の強張り。ほんの一瞬、不自然に震えた右膝の裏。
「ああ――いえ」
声の抑揚。聞き覚えのない不穏な揺れ。
私でなければ気づくこともなかったであろう、そんな程度の。
「すみません。よく、聞こえなかったもので。……何か。おっしゃいましたかな」
静かに振り向いた表情だけは、いつもと変わらないように見えた。心臓がどくどくと脈を打つ。いいえ、なにも。不格好に口を歪めて笑った私に、そうですか、と軽く微笑んで、巽さんは部屋の扉を、音も立てずに開けて出ていった。
ぱたん。
閉める時にだけ響いた小さな音に、張り詰めていたものがほどかれる。ああ。これは。もしかして、拒まれてしまったのでしょうか。違和感の理由に思い至って、その瞬間、自分でも驚くほどに愕然としていた。ぐつぐつと、内側から澱んだものが再び湧き上がってきて、私を黒く染め上げていく。やはり、私の薄汚れた両手では、貴方の清らかな身体を支えることなど、赦されないのでしょうか。問うても答えなど返ってくるはずもなく、広げた両手を強く組み、ため息と共にうなだれて少し泣いた。
ただ等しく在りたいと願うだけのことが。
私にとっては、かくも難しい。
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ロストヒューマンの塵
カップリング/ReS。・・・陣&章臣(千秋&奏汰)
参考ストーリー・・・Saga前編・後編
「三年A組守沢千秋! 止まりなさい!」
廊下を駆け抜ける力強い足音をかき消すかのように、遠く突き抜けるような甲高い静止が響き渡る。
おうおう、若人のエネルギーに負けない声量だねぇ。興味本位に保健室のドアを開け、顔を出すと、ちょうど仁王立ちしたあきやんがクソ真面目な早歩きで通り過ぎていくところだった。
「い、いや、これはその……! 緊急事態なんです! 一刻も早く向かわないと手遅れに、いや! もう既に手遅れではあるんだが!」
こっちはこっちで耳慣れた常連の声だった。常連になってもらっちゃ困るんだが、と一年の春先から苦言は呈してきたんだが、ついぞ三年の冬になっても改善することがなかった。思いのほか切羽詰まったような態度の守沢が、ゆっくりと速度を落としながらこちらを振り返る。俺のことには気付いていないのか、その正義感に溢れる琥珀色の瞳は、困ったように揺らめきながらも真っ直ぐにあきやんを捉えている。何故だか知らんが、赤地に白い星の模様が入った大きなバスタオルを牽制のように両手で広げ、じりじりと後退を試みているようだった。
危ねえなぁ、振り向くか立ち止まるか、せめてどっちかにしろよ。
クソ真面目さではあきやんに引けを取らない守沢は、煮え切らない態度で数秒あきやんと対峙した後、くうぅ、と悩ましげな悲鳴を上げ、ついにバスタオルをぶんぶん振って駆け出した。
「すっ、すまん! 今回限りは見逃してくれ! あいつのレスキューが終わり次第、戻ってきて反省文を書きます!」
「あっ! こら! 待ちなさ――」
あきやんが言い切る前に、守沢は走り去ってしまった。「奏汰ぁぁぁ!」と叫ぶ声が遠くから聞こえて、レスキュー、大きなバスタオル、既に手遅れ、の意味を知る。深海のやつ、またこんな時期に噴水に突っ込んでるのか。そりゃあ一大事だし、守沢が一秒でも早く向かいたい気持ちも分かる。ただでさえこの時期は風邪もインフルエンザも流行るのに、こじらせて肺炎とかになろうもんなら洒落にならん。俺らの仕事なんてのは、できるだけ少ない方がいい。こればかりは楽をしたがって言っているわけでは断じてない。
俺が守沢の行動に納得している間に、深々と息を吐く音が聞こえて顔を上げる。悩ましげに額を押さえつけながら、あきやんがこちらへ向かって歩いてくる。眉間に刻まれたしわはいつも通りといえばそうだが、俺から言わせりゃ、いつもより少し多めに回っております、といった風貌だった。
「全く……反省文は校則違反をした自覚と反省を示すために書くものであって、書くこと自体が違反の免罪符になるわけではないんですよ」
「アハハ。あいつアホ真面目だからなぁ」
苦々しいお小言に対して返事をすると、予想外の反応だったのか、紫色の瞳が大きく見開かれた。
話しかけられたんだと思った俺も、なんだただの独り言だったのか、と少しだけ恥ずかしくなる。
「陣……見ていたんですか」
照れ隠しに眼鏡のテンプルをなんどもいじって、あきやんは視線を反らした。
「あれが真面目なものですか。あの子が私の注意を聞いて廊下を立ち止まったことなど数えるほどしかありませんよ」
「数えるほどはあるのかよ。ますますアホで真面目だな。てかあきやん、守沢のこと結構好きそうなのになぁ~何だぁ? もしかしてまだ根に持ってんの?」
「あなたじゃないんですからそんなことで態度を変えるようなことはありません!」
「えっ。心外だな~俺だってそんなことしないっての……」
「……まあ。印象的だったので、記憶が鮮明なのは事実ですけどね。あんな風に表立って野次を飛ばすような子ではなかったでしょう」
ぱちくり、と二度まばたきをする。
あきやんは俺の心を当然のように見透かして、呆れたように眉尻を下げた。
「何を意外そうにしてるんです。覚えているに決まっているでしょう。生徒の顔と名前が分からないようでは教員失格ですからね」
昔は目立たずとも大変真面目な生徒でしたよ。規則を破ったことなどない、地味ですが模範的な生徒でした。それに生徒会の発足にも一役買ってくれた子ですからね。蓮巳君が署名の件を嬉しそうに報告してくれたことも、昨日のことのように思い出せます。
意外や意外、守沢のことを昔から知っていたのは俺だけではなかったようだった。
守沢の過去を訳知り顔で語ったあきやんは、その直後にハァ~とくたびれたため息をよこした。
「それが今や、廊下を走り放題の問題児のようになってしまっているんですから。困るんですよ。走る理由は理解できますが、周囲の生徒に示しがつかない」
「ハハ。若人と違って、先生は大変だねぇ。規則違反を取り締まらなきゃいけない規則でがんじがらめだ」
「茶化すのはおやめなさい。あなたも教師の端くれでしょう」
「教師じゃなくて養護教諭だも~ん」
「ああ言えばこう言う……昔から変わりませんねあなたは」
「どうかね。変わっちまったもんの方が多いと思うけど? それも悪い方にな」
淡々と事実を言ったつもりが、あきやんはそうは受け取らなかったらしい。
急に黙るもんだから、まるで意地悪でも言って黙らせたみたいだ。居心地悪いな、どうしたもんか、と唇をモゴモゴさせていると、再びバタバタと足音が聞こえてきた。さっきよりも人数が多い。レスキューとやらは成功したのだろうか。しばらく二人分の靴音を聞いていると、廊下の向こうから下足で上履きに履き替えた二人組が姿を現した。一人はさっき守沢が持っていったデカいバスタオルにくるまれているが、くるん、と頭頂部から顔を出した独特の癖毛のおかげで、誰なのかはすぐに分かった。あきやんはまた一つため息をついて、怖そうな顔を作って腕を組んでみせた。けれどそれも長くは続かず、守沢が深海の肩を抱えて心配そうに歩いてくると、心なしか困ったように唇をへの字に曲げた。
「ほら、奏汰、ちゃんとこれで拭いて暖房のある部屋にいろ。着替えなら俺の体操着を貸してやるから」
「うう~……だめですか? もうあと『いっぷん』だけでいいですから……」
「駄目だ駄目だ! 噴水は駄目だ! 代わりにあとで銭湯の水風呂に入れてやるから、な? もう少しだけ我慢してくれないか」
「でも、おへやにいると『かんそう』が……っくしゅん」
「あ~ほらもう、くしゃみしてるじゃないか! だから冬の噴水は駄目だって何度も言うんだぞ! だが……うん、よし分かった。霧吹きを用意してくるから、五分だけ待ってくれ!」
「『きりふき』ですか? それってどういうものですか? 『ふんすい』のかわりになりますか?」
「ああ! 乾燥を防ぐには役立つはずだぞ! 確か手芸部の部室にあったはずだから、もう一っ走りして斎宮に頼み込めば五分で――」
守沢は深海の説得に夢中で、目の前のあきやんに直前まで気付かなかった。ふと顔を上げた瞬間の「あっ」という間抜けな声に、あきやんはものすごくあからさまにため息をついてみせた。
「……佐賀���先生。急患のようですよ」
「へ?」
「そ! そうなんです! 佐賀美先生! すみませんが奏汰をしばらく頼めますか」
「あぁ、そりゃ構わない、っつか……風邪っぴきの面倒は俺の仕事だけど……」
「守沢君」
「はい! あと五分だけお待ち頂けたら反省文を――」
「走るのはおやめなさいと何度言わせるんですか、全く。職員室の観葉植物の前に、霧吹きがありますから、そちらのほうが早く済みますよ。五分もかかりませんから、走らずお行きなさい」
守沢は驚いたように目を丸くしていた。っくしゅん。深海の間の抜けたくしゃみに、はっと我に返ったように肩を上下させる。
「あっ……ありがとうございます! お借りします!」
「声が大き……こら! だから走らずにお行きなさいと言って――」
守沢が駆け出した瞬間、ポケットから何かが落ちてカツンと固い廊下の上を弾んだ。
なんだなんだと目で追って、それが何かに気付いてハッとする。
「おい! 守沢!」
怒鳴るような声になって、隣にいたあきやんと深海が大袈裟に肩を震わせた。
大きくつんのめってからこちらを振り向いた守沢に、右手人差し指で落としたものを指し示す。守沢よりも先に、落ちたものが何だったのか、深海も気付いたようだった。ちあき。少しだけ焦ったような鼻声がバスタオルの隙間から漏れ出た。動き出そうとする深海をそっと制して、落とし物を拾いに行く。数秒して守沢も気付いたのか、顔面蒼白になってこっちに駆け寄ってきた。
「よっこいしょ……っと。うー、腰にくるな、年だなやっぱ……」
片手に拾い上げたソフトビニールのヒーローフィギュアは薄汚れていて、所々に傷がついていた。千切れてしまったのをテープで貼り合わせた形跡もある。かなりの年代物だ。幼少期からずっと大切に持ち歩いているのだろうか。膝に手をあてて上体を起こすと、引き返してきた守沢と目が合った。今となっては珍しいが、その目は初めて保健室で会った時のように、わずかばかり怯えて見えた。
「佐賀美先生」
「はいよ。よかったな、俺が落としたのに気が付いて」
「はい。……すみません。助かりました。ありがとうございました」
「あー……。お前さぁ、もうちっと気を付けろ。前ばっか見てると大事なもんを落っことすぞ」
フィギュアを守沢に手渡す。たまには教師らしく説教でも、というわけでもなかったんだが、それはあきやんの怒声よりも守沢の心に刺さってしまったようで、守沢は歯痒そうに眉尻を下げて目を閉じた。
「はは……すみません。以後気を付けます。ありがとうございます」
握りしめたフィギュアをそうっと大事そうにズボンのポケットにしまう。
けれど、それも束の間、ちらっとバスタオルにくるまった姿を一瞥すると、守沢はさっきよりは控えめという程度の駆け足で職員室へと向かっていった。俺は小さくため息をついた。さっきは茶化しちまったけど、今ではあきやんの気持ちがちょっとだけ分からなくもない。
「ありゃ、またやるな。ほんとさぁ、毎回拾ってやれるわけじゃないんだから。世のため人のためもほどほどにしといてくんないかな~」
「おや。流星レインボーの台詞とはとても思えませんね。ファンが聞いたら泣きますよ」
「おえ~やめてくれ~昔の栄光なんて虚しいだけだってのに……」
「……うふふ」
「ん? どうした? お前さんは早いとこ保健室に入ってくれると助かるんだがな」
「いいえ。あなたもヒーローだったって、ちあきにきいたのをおもいだして。『ほんとう』だったんだなぁって」
守沢のやつ、あることないこと吹き込んでないだろうな。
げげ、と口を歪めたいのをなんとか堪えて、深海を保健室に押し込む。
「ほれ。ベッドは全部空いてるから、好きなとこに寝転がって、布団被って待ってろ。お前さんのくしゃみが悪化したら、あとで守沢が泣くぞ」
「むぅ……それはこまりますね……ほんとうは『だんぼう』のきいた『おへや』はいやなんですけど……」
しぶしぶ、という感じの雰囲気を隠すこともなく、それでも最終的には大人しく保健室のドアをくぐった深海を見て、俺は正直感動を覚えていた。どいつもこいつも言うこと聞かない連中だなぁと思いつつ、深海だけは最後まで誰にもその自由を奪えないのだと思っていた。
――いや。それこそが俺の勘違いで、深海がようやく自由になったのがこの冬、ということなのかもしれない。真冬に噴水に入るのも、守沢を困らせたくない気持ちも、その自己矛盾にぶつぶつ文句を言うのも、今になってようやく――人生で初めて得たものなのかもしれない。
あいつが、他の何もかもを振り落としてまで助けたかったものが、今の深海の姿なのかもしれない。
「……? ぼくの『かお』に、なにかついてますか?」
澄んだ海の浅瀬のような瞳を真っ直ぐに向けて、深海は首を傾げた。
「いいや。なんにも。強いて言うなら、まだ濡れてんだよな~。ちゃんと拭いとけよ、髪」
「はあい……くすくす。『りゅうせいれいんぼぉ』の『ちゅうこく』ですから、ぼくもまもらないといけませんね」
ちあきにしかられてしまいます。
そう言い残して、深海は保健室の奥へと進んで行った。
ハァ~と何度目かのため息をついて、ゆっくりと音を立てずにドアを閉める。沈黙を保ち続けるあきやんに目を向けると、それに気付いてかあきやんもこちらに視線を合わせた。
「つか、なんだよあきやん。守沢の肩持つの? もう脱退済み、ってか、何年も前に卒業したヤツの話なんだからさ。どいつもこいつも……過去の幻想ばっか追っててもらっても困るよ」
「幻想と言い切るには、早計だと思いますけどね。私は」
りゅうせいれいんぼぉ。
独特の口調でそう告げた深海の、柔らかい笑みが頭をよぎる。
途端に胸のどこかがじくじくと鈍い痛みを放って、俺の呼吸は鈍くなる。
幻想だ。そんなものは。
お前が憧れたヒーローたちと違って、俺は誰のことも助けられなかった。大事なものは全部落とした。
だから。
「他人の落とし物について、貴方が語るのは。どうにも、腹が立ちますね」
だから、目の前の大切だった後輩が、こうして追いかけてきたことを、有難くも申し訳なく思う。
「ごめん」
白々しく聞こえたかもしれなかった。
それでもあきやんは、それ以上俺を責めることはしなかった。
「分かってるよ、あきやん」
俺が振り落としてきた全てのものも。
その中にお前が含まれてることも。
それなのに今度は同僚としてもう一度俺の前に現れてくれたことも。
「お前が全部、 拾っといてくれたことも」
俺が俺のせいで失くしたいくつもの欠片たちは、この春に始まった企画によって、ほんのわずかだけれどもこの世によみがえった。やっぱり、分不相応だと思う。ああいうステージや予算ってのは、こんな老いぼれじゃなく、未来のある若人に与えられるべきだ。今でもその考えは変わらない。だけど。
「……私は」
後悔がないって言ったら、それは、嘘になっちまうから。
「あの時、手遅れになる前に。走っていればよかったのかと」
遠く、廊下の向こうをぼんやりと見つめるあきやんの瞳には、規則を破ってばかりの真っ赤なヒーローが映っているのだろう。廊下を走るなと注意するあきやんの毅然とした態度に、その堅苦しい声色に、ごくごく個人的な苦悩が混じっているだなんて、誰が気付くだろう。
「いつも後悔していましたよ。もっと早くに渡せたのに、と」
俺くらいは――俺だからこそ、気付いてやらなきゃいけなかったのに。
「……どうせ受け取らなかったよ。俺のじゃない、って言ってさ」
ああ、本当の本当に、俺は世界一の大馬鹿者だった。
そんな大馬鹿に、いろんな連中がお節介を焼いてくれた。
空にかかる虹のような、一瞬の輝きための、奇跡みたいな一年だった。
お前が背負うことなんかなかったのにな。全部が全部、俺の身勝手のせいなのに、真面目で、面倒見がよくて、俺より俺のことを大事にしてる。俺の後悔の一部を、振りほどいて置き去りにした何もかもを、まだここにあるぞって突き付けてくる。俺が「ゴミだから」って丸めて後ろに捨てたものたちのことを、まるで流れ星が振りまいたきらめきみたいに言う。
それが果たしてそこまで輝かしいものなのかどうかは分からない。
だけど、捨て去ってしまっていいものでもない。
少なくとも俺にとって大事なものだったってことを思い起こさせる。
遅くても早くてもきっと届かなかった。
だから、言う。何度でも。
「まあ。こんなオッサンになってからでしか。駄目だったけどさ」
あれは虹のような輝きだったと。
「ありがとうな。ずっと持っててくれて」
晴れ間がのぞく、たったの一瞬を、辛抱強く待ち続けてくれて。
「あきやん」
呼ぶと、銀のフレームがちかちかと光って、その奥にある紫の瞳をほの白く輝かせた。
まだその目には、手遅れにならないようにとひた走るヒーローの背が見えているのだろうか。でもな、あきやん。あいつだっていろんなものを落とすんだぜ。今日みたいに。だから、見つけたやつが、拾って手渡してやんなきゃいけないんだよな。
「お前の落としたものは、誰かが拾ってくれたか」
そんな当たり前のことも今日まで気付かなくって、ごめんな。
「……さあ。どうでしょう。でもきっと、どこかにいるんでしょうね。私が気付いていないだけで」
そっか、と小さく息をつく。
そうだといい、そうに違いない、と俺は願う。
ヒーローなんて信じちゃいなかったあの頃の俺に、何もかも適当なまま「虹」を名乗らされていた当時の自分に、今だったら言えると思う。
拾ってやれ。
立ち止まらずに駆け抜けていく星々の塵を。
いつかそれがきらめく時を、お前だけは信じ続けてやれ、と。
遠くで守沢が、職員室に向かって直角におじぎをしている姿が見える。きっとすぐに走ってやってくるだろう。大事なものを守り抜くために。あきやんの注意なんて、きれいさっぱり忘れて。
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