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『コンビニ人間』
今更ながら、村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだ。 主人公の「古倉さん」はコンビニ店員。それも、この道18年の大ベテランだ。
彼女の動きはコンビニでの業務に最適化されていて、商品の陳列などの業務を行いながら、お客様の動きを漏れなく観察し、僅かな兆候から顧客の意図を読み取り先回りする……という、18年の積み重ねが披露されながら、物語は幕を開ける。
コンビニ店員として圧倒的なパフォーマンスを発揮する古倉さん。その徹底ぶりたるや「体調管理も時給のうち」を文字通りに実行するなど、常軌を逸している。
ところでこの「常軌を逸している」という慣用句は、「普通でない」ことを示している。そして本作のテーマがほかならぬ、「普通」なのである。
古倉さんはいわゆる、「普通ではない」子どもだった。そして現在も。冒頭では、彼女の周囲からズレた言動が両親や周囲の子どもたち、先生をドン引きさせる回想が描かれる。彼女は周囲の言動を文字通りにしか――それもかなり極端な形で、しか――理解できない。さらに共感能力が欠如しており、次第に彼女は周囲と関わることをやめてしまう。
そんな彼女が、再び「社会」に復帰するきっかけになったのがコンビニだった。コンビニにおける、徹底して合理化されたオペレーションや、マニュアル主義は彼女の性向に非常に親和性が高く、やがて彼女はそこで働く周囲の人びとの個性を借りながら、少しずつ「普通の人」の皮をかぶって生活するようになる。
世の中には「普通」と名付けられた多くのルールやコモンセンスが存在する。それらのルールやコモンセンスから逸脱した存在を、多くの人/コミュニティは「異物」として排斥する。けれどもその多くは明文化されておらず、私たちは(古倉さんほど極端ではないにせよ)周囲の人を観察し、その言動を取り入れることで、自分を「普通」と呼ばれる枠の中に収めていく。
同様の振る舞いは、あらゆる社会活動の中に存在する。社会には暗黙裡に、「かくあるべし」を定義したマニュアルがあり、普通でないもの、マニュアルを守らないものを排斥しながら、その内側を「普通」で塗り固めていく。
コンビニを訪れる老いた常連の言う「ここは変わらないわねぇ」というセリフも、「普通」の強固さの象徴だ。古倉さんがそのコンビニに勤める18年の間に、9人の店長がやってきて、当然彼女のほかにオープン当時を知るスタッフはおらず、商品は毎日少しずつ入れ替わっていく。けれども、強固なマニュアルと「普通」の枠の中で、コンビニは明日も明後日も、昨日と変わらない場所であり続けるのだ。「普通でないもの」をその身体から吐き出しながら。
接続過剰な世の中で、多くの「生きづらさ」が可視化されるようになった。
それまでは存在を知られてもいなかったマイノリティの存在や、彼らの苦悩が、「多様性」の名のもとにそれを知らない人の目に晒されている。共感性の欠如や行間が読めない、といった小倉さんの抱える苦悩も、発達障害やアスペルガー症候群の名で知られるようになってきている。
私たちの「普通」は、「かつて普通でなかったもの」を飲み込みながら、その領域を拡大していく。そしてそれは、新しい普通と、新しい普通でないものとの間に、線を引き直していく行為のようにも思えるのである。 * ……というのが、「普通」の読み。ここからは蛇足を承知で、今の自分の関心に引き寄せた、もう一つの『コンビニ人間』の読み方について書いてみたい。
すでに書いたとおり、主人公の古倉さんは、自らの生活の最上位にコンビニを置いている。翌日の勤務に差し障らないよう就寝時間をコントロールする。身だしなみを整えるのもコンビニのため。彼女にとっては食事さえも、勤務に備えて栄養を補給し、風邪を引いてシフトに穴を空けないためでしかない。
古倉さんは一見すると「感情が抜け落ちた人物」として描かれる。全てをコンビニのために捧げる、生まれながらのコンビニ人間(彼女はコンビニ店員になった18歳の時点を「コンビニ店員としての自分が生まれた日」と位置づけている)。
そして、そんな彼女を忌避しながらも便利な存在として受け入れるのが、「普通」の側の同僚や店長たち。表向き良好に――古倉さんはコンビニを、その合理性から、居心地のいい場所と感じていた――見えた彼女らの関係は、古倉さんが男性を自らの住むアパートに招き、暮らしをともにしていることを打ち明け、変貌してしまう。
「普通」の側の同僚や店長たちは、30代半ばで結婚もせず職歴はアルバイトのみ、いまいち何を考えているのかわからないが異様に仕事は熱心な古倉さんを不気味な存在だと思っている。だからこそ、彼女が「男性との同棲」をはじめたことで、古倉さんの中に「普通」さを見出し(なんだ、彼女も人並みに恋愛や結婚を意識する普通の女性じゃないか!)、安堵する。安堵した同僚は彼女の思いを根掘り葉掘り聞こうとし、あまつさえこれまで一度も誘ったことのない飲み会にまで、彼女を誘う(本作は古倉さんの一人称で進むから、読者がコンビニ内で飲み会が行われていることを知るのもこの時なのだ)。
この物語は、「普通でないもの」が「普通」によって排斥される物語である。けれども、逆の立場(「普通」の同僚や店長たち)から見るとこれは、「経済合理性を拒否する生活者の物語」であるということができないだろうか。
コンビニにとって古倉さんは、これ以上無いほど都合の良い存在だ。アルバイトという、決してよくない待遇で、徹底的にマニュアル通りにふるまう存在。シフトに穴を空けず、辞めるそぶりも見せない。
どうして、店長や同僚にとって古倉さんは普通でないのか。その不気味さの理由の一つは間違いなく、彼女の徹底的なコンビニへのロイヤリティ、合理性だろう。 大風呂敷を広げると、この小説は「普通による普通でないものの排斥」を描いているのと同時に、「非合理的個人による、『資本主義と、それが推し進める合理化』への抵抗」と読むことができるのではないか、というのがこの蛇足の趣旨だ。
世の中には、いまだにカネで買えないものがある。けれども、カネで買えるものは間違いなく増えている。資本の論理がはたらく領域は、間違いなく拡大している。その中で、多くのものが値付けされ、コード化されていく。そしてそれにより、私たちの生活は確かに便利になっていくのだろう。
しかし私たちは決して、「ホモ・エコノミクス(徹底して経済的に合理的な個人)」ではない。同棲話が持ち上がった古倉さんに店長や同僚が態度を変えたのは、古倉さんのなかに、経済的な合理性「ではないもの」を発見し、安堵したからだ。
そもそも人間は、合理的な存在ではないのだ。極端に言い換えれば、非合理的であるからこそ、人間には、人間である価値がある。(非合理的だからこそ、ぼくらは小説を楽しんでいる。)
『コンビニ人間』という小説は、「普通⇔普通でないもの」という対立と、「資本主義の論理⇔ヒューマニズム」とでもいうべき対立の二重構造からなっているのではないか。
そんなことが言いたくて、この文章を書いた次第です。これもまた非合理。
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眠られない夜に歯を磨く
壮大な出落ちである。
厳密に言うと落ちていないので、出オチですらないのだが、細かいことは気にしてはいけないのである。
重要なことはこのワンセ���テンスに詰まっている。
つまり、①ぼくは一睡もできぬ夜を焦燥感に駆られながら過ごしており、②唐突に歯を磨き始めた、ということである。 (付け加えると、このフレーズのひびきの良さにこうしてキーを叩き始めたのがその重要なことその③である)
前歯の歯茎が剥がれ、出血が止まらなくなったのが3週間ほど前のことだ。なるべくなら病院と名のつく施設には行きたくないものだが、このときばかりはと足を運んだ歯科医で歯石を削ってもらって以降、きちんと歯を磨こうと決意を新たにした。
この「決意を新たに」シリーズは基本的に信じないことにしているのだけど、今回ばかりは違った。具体的に言うと、センセイに「比較的よく磨けてるよ」と言われた奥歯から出血が止まらないのだ。単純に磨きすぎである。
昨夜は何も食べずに寝た。もちろん何も食べてない、ということはないのであって、夕方16時ごろに食べた日清焼そばUFOで朝・昼・夕食を済ませたことにした。ブレックファスト+ランチ+ディナーで、さしずめ「ブランナー」といったところだろうか。
この上なく適切な時間にブランナーを済ませ、週例の銭湯へ。
混雑を避けて少し早い時間にしたつもりだったが、人入りはいつもとそう変わらず。炭酸泉→露天風呂で体を温めてから軽く水通しをしてサウナでうめいていると、何やら騒がしい一団が入室してくるのが目に入った。
この「騒がしい」というのは「視覚に騒がしい」ということであって、雷神様とか、昇り龍とか、鯉とかそういうやつ。えらく姿勢が低いなと思っていると、 「●●さん、いつからでしたっけ?」「召喚状が来たらですわ」 「××さんはいつ娑婆に?」「今日ですよ、今日」「それはお疲れ様でございました」 などとやっている。どうやらヤのつく自由業の皆さまらしい。
しかし彼らと言ったら礼儀が正しい。少し狭い上段席(普段通っているサウナは二段式だ)に登るときでも、普通の人(?)なら手刀一本で済ませるところを、きちんとすいません、と、必ず一言かけていく。
ガラス張りの扉のあちらとこちらで互いに扉に手をかけたときなんかも、カタギの人なら(そうか、こう言えばいいんだ)タイミングを見計らったり見計らえなかったりして気まずくなるところ、どんなタイミングでも必ず一歩退く。
「カタギの人に迷惑かけんじゃねぇ!」なんてセリフが出てくる映画は見たことがないので、ぼくにとって「反社の人たちは礼儀正しい」というのは偏見というか、シミュラークルでしかなかったのだけど、なるほどこういうことか、とひとりごつ。
主に発達障害界隈でこういった、ちょっとした対人関係を円滑に回すためのテクニックを実践することを「社会をやる」なんて言ったりするらしいのだけど、「反社」と言いつつ、彼らのほうが自分なんかよりよっぽど社会をやっているのだな、と思った。
何の話だっけ。
そうそう、銭湯から帰ってくると、自分の中の「今日はおしまい!」スイッチが入るようで、早いかなと迷いながら布団に入ったのが9時半ごろ。二時間ほどで目が覚める案の定を経て、目を閉じて100まで数える、一人でしりとりをする、などいろいろ試みたところ空腹に気づき、カップ麺をすすったのが1時。
その後も悶々と眠られぬ夜を過ごし、万策尽きたところで喉の渇きを覚え、近所の自販機で買った三ツ矢サイダーを飲んだところで気づいたのだった。
そういえば歯、磨いてねぇな。
斯くしてぼくは眠られぬ夜に、歯を磨いている。
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永劫回帰、あるいは『存在の耐えられない軽さ』について
永劫回帰、という概念があるそうだ。言い出したのはあのニーチェ先生で、我々が生きているこの今、この今と全く同じ今を、永遠に繰り返すのだとしたら……? という考え方。
たとえば今(2018年4月29日の午後3時20分だ)、ぼくは入れたばかりのコーヒーを飲み煙草を燻らせながらPCに向かい、この文章を書いている。このとき、仮にぼくが死んで生まれ変わったとしても、生まれ変わったぼくは2018年4月29日の午後3時20分に同じようにコーヒーを飲みながらこうしてPCに向かっているのだ、というのが「永劫回帰」のカンドコロ。
いわゆる「ループモノ」とは違い、選択権は一度しか与えられない。今ここにおける自分の選択が、今後自分を永劫に縛り付ける。それでもなお、今の自分の行いを肯定できるだろうか? 永劫を前にして、自らの生を肯定する態度こそが、ニーチェ哲学における「超人」に至る道となるらしい。
ところで思い出というのは、往々にして後から振り返って美化されるものだ。「そんなこともあったなんて 笑える日がくるのかな?」なんて歌詞があったけれど、ぼくらは経験的に、その瞬間が来ることを知っている。「あの時は辛かったけど、今となってはいい思い出だよ」「辛かったけど、あの時の自分がいるから今の自分がいる」なんてのはその好例だ。
「永劫回帰」という思想は、この思い出の美化を断罪する。
だからこう言おう。永遠の回帰という思想は、事物がもはや私たちが知っているようなものとは思えなくなる、つまり事物が儚さという情状酌量の余地をなくしてしまう視野を示すのだと。じっさい、この情状酌量ということがあるからこそ、私たちはなにかしらの裁定もくだせないのである。
私たちが「思い出の美化」と呼ぶものは、ミラン・クンデラの言う「儚さという情状酌量の余地」に他ならない。考えてもみてほしい。今後永劫に縛り付けられることになるとして、それでもあなたはこの今を肯定できるだろうか?
もし私たちの人生が毎秒毎秒かぎりない回数繰り返される運命にあるなら、イエス・キリストが十字架に釘付けにされたように、私たちは永遠性に釘付けにされることになる。この思想は恐ろしい。永遠の回帰の世界では、どんな身振りもそれぞれ、とても耐えられない責任の重みを担うことになるのだ。」
我々の生は永遠の重みを背負ってはいない。だからこそ、ぼくらの生は軽い=自由なのだ。そしてその軽さ、存在の軽さに耐えられないからこそ、偶然やメタファーを――言い換えれば「神」を――求めるのだろう。
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ワインのウンチクに関するウンチク
その人の感覚が鋭敏であることと、その感覚を上手く言語化できることの間には大きな違いがある。
たとえば、味覚について考えてみよう。
ボルドーらしいしっかりとした骨格で、タンニンやフレッシュさとが絶妙なバランス。チェリー、ブラックベリー、カシスの心地良い風味に、ほのかなチョコレートの甘みが加わる芳醇かつ柔らかなニュアンス。しっかりとしたタンニンと、濃厚で凝縮した中にも、まろやかさ、上品さ、繊細さを併せ持った料理を引き立たせるバランスの良さが魅力的な1本です。
これは「ワイン」と検索して上の方に出てきたECサイトから、これまた適当に選んだワインの味に関する表現を引用したものだ。
ファーストアタックはモモのような甘く豊かな香りが口内に広がり、ワインのような口当たりが楽しめます。チョット冷めてから飲んでみると、今度はスパイシーな香りが見え隠れ。まるで、上質な香水の香りが変化するように、刻一刻と移りゆく香りを味わってください。この複雑な香味は最高級品だけに与えられたモノです。
こちらはどうだろう。何の味を言い表した物か、お分かりだろうか。こちらは、適当な珈琲のショップから引っ張ってきたものだ。
どちらにも共通しているのは、何か別の感覚に例えてみたり、「味の骨格」「香水の香りが変化するように」というような、文学的な表現だ。 こういうことを言いたがるヒトはどこにでも居るもので、ことワインのウンチクはしばしば話題にのぼる。
では、こうした「ウンチク」を語る人たちは、果たして本当にその味の違いを利き分けられるのだろうか? 容易に想像がつくことながら、答えは必ずしもイエスとは限らない。
冒頭で述べたように、鋭敏な感覚を有していることと、それらを上手く言語化できることは、全く別の能力だ。内田樹はこの前提のもと、あらゆるウンチ���はその人の、それ自体に対する文化的資本の貧しさを証明するものにほかならない、と言い切っている。
ほんとうに豊かな文化資本を有した人は、その豊富な経験を内在化させている。そしてそれは必ずしも言語の形、文学的な表現をを伴う必要はなく、「私はこれが好き/嫌い」「なんとなくこういう感じがする」といった、素朴な態度で示されるものだ。
何かに対してウンチクを「述べなければならない」のは、そうした、豊かな文化的経験に基づく肌感覚が磨かれていない人特有の態度であり、そうした薀蓄や知識を求める者は、求めることによって自らの経験の貧しさを証明してしまっているというのだ。
ここまで読んでウンチクはもう辞めよう、と感じた人もいるかもしれない。ところが彼にしたがえば、ここで私たちは、一つの問題に直面する。すなわち、「感覚を言語化せず、どのように共有すればいいのだろうか」という問題だ。
私たちは言語以外に、私たちの「感じ」を伝える手段を持たない。たしかに芸術は何かを伝えるための表現たりえるが、それは主として芸術を媒体とした「追体験」によるものだ。
言語もまた、追体験の媒体として用いられることがある。冒頭で引いたワインショップやコーヒーショップの格調高い表現もその一種と言っていいだろう。
ではワインのウンチクはどうだろう? 同じボトルを飲んでいる二人の間には、想像力をかき立てるようなコミュニケーションは必要ないだろう。ではそうした場で、薀蓄のような文学的な表現が用いられるのはどうしてか。
ごく単純に考えれば薀蓄を述べることによって「私はこんなに鋭敏な感覚を持っています」と証明せんとするただのマウンティング……なのだが、それで済ませてしまうと議論が進まないので、ここで別の概念を導入したい。
クロード・シャノンとウォーレン・ウィーバーのコミュニケーションモデルによれば、私たちのコミュニケーションは以下のような形をとる。:送信者が自らの意思(この場合は感覚)を共有可能なメッセージの形に変換(エンコード)し、メッセージを受け取った受信者はそれを理解可能な形に復号(デコード)する。エンコード、伝達、デコードのプロセスを踏むことによってメッセージの伝達は完了する。
これを言語化のプロセスに当てはめると、すっきりと理解できる。我々の意思や感覚は、共有可能な形(=言語)にエンコードされる。言語は音・テキストなどの形で伝達され、受け取った人は言語を内在化することによってデコードし、それを理解する。
シャノン=ウィーバーの理論にしたがえば、メッセージは受信・送信の過程でノイズの影響を受けているために、元の形のまま理解されることはない。オーラルなコミュニケーションを想定してみると、エンコード過程でのノイズ(あなたは自分の意思を100%伝えられる形で言語化できただろうか?)、伝達過程でのノイズ(文字通り雑音による聞き間違い)、デコード過程でのノイズ(受信者は誤解なく言葉を理解しただろうか?)と、コミュニケーションに齟齬が生じることは想像に難くない。
私たちが「言葉」を用いてコミュニケーションする限り、このノイズの問題は必ずついて回る。逆に言えば、私たちのコミュニケーションは、言語以外の手段を持たないという点において、言語の枠内に規定されている。
エンコード・デコードの概念は、コンピュータに多少馴染みのある人なら感覚的に理解できるはずだ。たとえば音楽の形式として馴染みの深い「MP3」は、私たちが耳にする音をPC上で保管可能なかたちに「エンコード」したものだ。こうしたMP3が私たちの耳に「音楽」として聞こえるためには、MP3形式のデータを音楽のかたちに「デコード」する必要がある。つまり、録音された音楽(=メッセージ)は、PC上で処理可能な状態に「エンコード」された後、再び音楽へと「デコード」されて私たちの耳に入ってくる、というわけだ。
ところがよく知られるように、MP3形式は、音をデジタル化する過程でデータの圧縮を行っている。人間の耳には聞こえないような小さい音や超低音・超高音をカットしている、という話は聞いたことがあるだろう。
音とは波である。この��形をデジタルな、数値で表せる形に変換するためには、波形を縦軸・横軸で切り、座標の連続として捉える必要がある。しかし、ディスプレイ上の文字を拡大してみればわかるように、ドット(座標)の連続には、なめらかな曲線を再現することは難しい。この非再現こそが、音楽をデジタル化する際に「劣化」を招いてしまうのである。
では、なるべく原音・生音に近づけた状態で録音・再生するためにはどうすればいいか。方法は2つある。
1つめは、縦軸と横軸を限りなく細かくすることである。上記の「ディスプレイ上の文字」の喩えがピンとこなかった、と言う人は、この努力の恩恵を受けている。細かいドットが刻まれた超高精細なディスプレイを用いれば、人の目で普通に見ている分には全く違和感がない程なめらかな曲線を描くことができる。この状態を「解像度が高い」という。つまり、解像度が十分に高い状態であれば、原音に限りなく近い状態の音を再現することができる。
そして2つめは、元も子もないようだがエンコード・デコードを行わず、音を波形そのままに記録し、再生することである。「音質では、CDはアナログレコードには勝てない」という言説を聞いたことはないだろうか。あの黒く大きな円盤は、音をデジタルな=数値で表せる形ではなく、元のアナログな波形に近い形で保存している。したがって、エンコード・デコードの過程を踏まず、なめらかな波形を再現することができる、というわけだ。
さて、寄り道が少し長くなりすぎたようだ。言語を介したコミュニケーションの話に戻ろう。
我々は言語以外に、自分たちの意思や「感じ」を伝える手段を持たない。しかし、言葉によるコミュニケーションはエンコード・伝達・デコードの過程でノイズの影響を受けるため、私たちの意図したことが100%完全に伝えられることは、ない。
ここで、長々と述べた音楽の喩えがようやく役に立つ。なるべく元の波形(=私たちが伝えようとした「意図」)に近い形で伝達するためには、2つの方法があるのであった。
音楽の例に従えば、最も良いのはエンコード・デコードの過程を踏まずに(=言語を介さずに)コミュニケーションを行うことだ。つまり、私たちが感じたこの「感じ」を、言語化せずそのままに伝達する仕組みを考えてみる。脳波の分析やディープラーニングによる特徴表現の抽出といった技術は、いずれこれを可能にするだろう。だが、今を生きる私たちには、この手法はまだ早すぎる。
私たちに残されたもう一つの手段は、解像度を高めることだ。これは言語においては、語彙を増やすことだと理解できる。たとえば、同じ色を表現するのにも、ただ一言だけ「赤」というのと、朱色や紅、薔薇色、臙脂色……と豊富な語彙を用いて表現するのでは伝えられる情報の繊細さには大きな違いがある。
味や香り、あるいは音(スピーカーやイヤフォン等の音質の違い)など、感覚を共有することが困難なモノを言い表す言葉に文学的な表現が多いのには、きっと(マウンティングだけでなく)こういう背景がある。
*
冒頭で述べたように、鋭敏な感覚を有していることと、それらを上手く言語化(=共有)できることは、全く別の能力だ。
言葉だけ覚えれば、たしかにその道の第一人者のように振る舞うことはできる。しかしそれではあまりにも虚しい。逆にどれだけ研ぎ澄まされた感性を持っていようと、それを伝えられないのもなかなかに寂しい。
言葉がコミュニケーションを規定する限り、私たちはこのジレンマから逃れられない。困ったものだ。
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「P.K.ディックはディープラーニングの夢を見るか?」
人間とは何か。この根源的な問いに答えようとする/問いを投げかけようとする物を、私たちは文学と呼ぶ。
その意味で、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は、SFの皮を被ってはいるものの、これ以上ないほどに明らかな「文学作品」だ。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』。この奇妙で語感のよい、そしてあまりにも有名なタイトルは、主人公リックの何気ない一言を元に作られている。
「アンドロイドは夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい。(p.241)」
そしてこの問いが発せられるのは、彼が、あるいは作者P.K.ディック自身が「アンドロイドと人間を切り分けているものは何か?」を問うているからにほかならない。そしてディックはそれを、「親切さ」であると定義した。
彼の人間観/アンドロイド観は、「フォークト=カンプフ検査」の名で作品に現れている。これは、感情移入力を測るテストだ。アンドロイドには感情移入することができないために、感情移入を想起させるようなシチュエーションに何ら生理的な(機械的な)反応を示さない。作品の中では、分裂症/特殊な環境で育った子供/自由な生活を夢見るアンドロイドのような形で、この定義を揺さぶる場面が何度か登場する。
「◯◯とは何か」と問うこと、すなわち何かを定義することは、「◯◯を◯◯でないものと切り分ける」ことにほかならない(いささか古びた言語観かもしれないが)。つまり私たちは、「◯◯でないもの」の存在を前提にしか、「◯◯」について語りえないのである。
ディックがアンドロイドとの対比において「人間を人間たらしめているものは親切さである」と主張したように、私はかつて動物との対比から人間を定義づけようとしたことがある。
当時の私によれば、人間の定義とは「意味のないこと/非合理を行えること」であった。
私たちは時に、全く意味のない行いをすることがある。自らに資さないことをすすんですることがある。経済学が前提とする、完璧に合理的な個人など一人も存在しない。
私たちの本望が、「生存すること」そして「遺伝子を後代に伝えること」であったならば、自らの寿命を削って煙草を吸うことに意味はあるだろうか。着飾るためにコストを投げ打つことに意味はあるだろうか。子を成さないセックスに意味はあるだろうか。絵を描くことに、歌を歌うことに、物語を紡ぐことに、意味はあるだろうか。
しかし私たちはそれをする。それは、私たちが「人間だから」であり、それこそが、「私たちを人間たらしめているもの」だと私は思う。生きるために/子をなすために必要なことだけを行えばいい、というのならば、アレクサンドル・コジェーヴがヘーゲルを引いて述べたように、私たちはただの動物に成り果てる。
私たちは、動物と対比される人間であり、その証として/条件として、「文化」を生み出した。
*
私たちは、人間ではないものとの対比によって人間らしさを定義し、私たちのアイデンティティを形作ってきた。
そしてそのアイデンティティは、未だかつてない危機にさらされている。
シンギュラリティを眼前に控え、人工知能/AIといった言葉が俄に注目を集めた2016年。こうした言葉からは、「仕事が奪われる」といったネガティブなイメージを想起する人も多いかもしれない。
人類250万年の歴史の中で、私たちの仕事を奪ってきたものと人工知能のもっとも大きな違いとは、従来の「道具」が私たちの身体性を拡張するものだったのに対し、人工知能が、私たちの知性を拡張するものである、という一点に集約される。
現在AIと呼ばれているものを可能にした技術、ディープラーニングは、人間のカンをシミュレートしたものであると言うことができる。これは従来のロボット・AI観からは想像のつかないことだ。そしてこれは、人工知能が、きわめて人間的な知性を手に入れたということを意味している。AIがSF小説を書くように、いずれ感情をシミュレートできるAIもまた、可能になるだろう。
私たちは、私たちではないものと対比することによって、「人間とは何か」という問いに答えてきた。そして近い将来、ディックの問いに対する答えが用意された時、それは私たちを再びこの問いに直面せしめることになるのではないか。
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「あの夏」を振り返る
そろそろあの夏を振り返る時が来たと、私は思う。
彼らは何を変え、何を変えられなかったのか。あの事件は我々に、何をもたらしたのか。
熱狂の中で叫ぶことはあまりにも容易い。私もあなたも、そろそろ頭が冷えた頃ではないか? * SEALDsとは、何だったのだろうか。 どうして彼らは、注目を集め、また影響を残し得たのか。
彼らが注目された理由の一つは、紛れも無くその若さにあった。中心となったのは大学生で、呼応するかのように動きはじめた「戦争したくなくてふるえる(以下ふるえる)」、T-nsSOWLにいたっては、中心となるのは高校生だという。 若者の政治離れが叫ばれ、彼らの政治的関心を引き戻す「魔法の一手」としての選挙権年齢の引き下げが大した効果をもたらさないであろうことを考えれば(※1)、何とも心強いことではないか。
ところが実際、大学生が――あるいは10代の若者たちが――政治に対して声を上げること自体は、別に珍しいことでもなんでもない。 アン��、アンポと言われているが、そもそも安保といえば60年安保闘争、日米安全保障条約のことだったはず。逆に、彼らが集めていたのは、60年安保で声を上げた、かつての革命戦士たちのノスタルジーではないのか、というのは、あまりにも穿った見方だろうか。 佐々木俊尚は、『21世紀の自由論』の中で、日本のマスメディアには「60年安保」の魂が今も息づいており、それがいわゆる「マスメディア的リベラリズム」を作り出しているのだと指摘した。そして、中立を標榜するマスメディアはしばしば、同様の主張を持つ人々を依り代にすることがある。 かつての自分を思い出させてくれる、強力な依り代。オジサン達にはよくわからなくても、彼らはファッショナブルでイマドキの若者たちだ。「よくあるデモの光景」に新風を吹き込み、注目を呼んだのは、間違いなく彼らだった。 最大の問題は、それがどこまで届いたのか、誰に響いたのか、だ。 彼らの活動が注目に値したのは、それが彼らに、あるいは彼らの日常に差し迫ったリアルな危機感からくる活動であった、という点による。彼らは安保を「自分たちの平和な(楽しい)日常」を破壊するものだと認識し、デモや活動を、自分たちの日常の延長線上に置いた。活動が金曜に行われたのもそのためで、彼らは自分たちの日常の―勉強をし、遊び、恋愛をする―合間に活動に参加すればいい、と考えていた。 それは、デモとは政治的に「意識の高い」人たちがすることである、というステレオタイプ的な見方を打破しうるポテンシャルを持つ。政治と自分たちの生活を切り離された別個のものと見るのではなく、それを「自分ごと」と捉え、「自分たちの言葉」で意思表示を行ったこと。内田樹がすでに指摘しているように、この点にこそ、彼らの価値はあったはずだ。だからこそ、彼らの言葉は普通の人びと―浮動層やB層と呼ばれた人たち、同年代の若者たち―に届きえたのではなかったか。 しかし現実として、彼らの言葉はそうした「普通の人びと」には届かなかった。SEALDs支持者のほとんどが50−70代の男性であり、共産党支持者と被っているという(※2)。
それは、野党と彼らの間に築かれた「共犯関係」によるものだと、私は考えている。 民主党(当時)や共産党、社民党など、安保法案に反対する野党の政治家たち、あるいはリベラル系のメディアや学者たちにとって、SEALDsは「安保に反対する若者」として象徴的な存在だった。リベラリスト達は彼らを祭り上げ、利用した。先ほど述べたとおり、マスメディアにとって彼らは絶好の依り代であったし、政治家は奥田愛基を国会議事堂に呼び出し、意見を述べさせもした。 一方、SEALDs側にとって、学者や政治家の後援は、自分たちの活動を承認するお墨付きの役割を果たしたのではないか。政治家、学者、マスメディア。その実は別として、自身の主張を裏付けるだけの十分な後ろ盾だ。わかってくれる「大人」が居るというのは、彼らにとって心強いことだっただろう。またそれだけでなく、大人たちが彼らを祭り上げたことは、彼らの承認欲求を充足するものでもあったにちがいない。 大人たちは若者を担ぎ上げ、若者は大人を後ろ盾に利用する。こうして、相互に承認しあい、支え合うことによって生み出された共犯関係は、いつしか「内輪空間」となる。内輪空間の中はしばしば同質の構成員で占められ、それ以外の集団は空間から疎外される。「政治に参加することは『カッコいい』ことだと思ってもらいたい」と言っていた若者たちは、自分たちが組んだ相手が、世間的に「カッコ悪い」と言われている集団だということに気づけなかった(※3)。 「駄サイクル」という言葉がある。需給関係がサイクルの中で完結し、作る→ホメられる→見る→ホメる→作る……のサイクルを、閉じた空間の中で繰り返す集団、したがってグルグル回り続けるだけで一歩も進歩しない集団、を指す言葉だ(※4)。私には、彼らがこのサイクルにいたのではないかと思えてならない。 「SEALDsの若者たちの言葉は、彼らの日常の中の、リアルな『ふつうの』言葉であったがゆえに価値を持っている」と看破したのは内田樹であった(※5)。しかし、何とも皮肉なことに、その価値を決定的に毀損してしまったのもまた、彼自身(を含む「大人たち」)なのである。
* では、彼らは何も残しえなかったのか? 決してそうではなかった(かもしれない)。 「保育園落ちた日本死ね」の匿名ブログに始まり、「保育園落ちたの私だ」デモに至る流れは記憶に新しい。その経緯は「『日本死ね→書いたの誰だ?→#保育園落ちたの私だ→国会前スタンディング』絶望の不思議な連鎖(http://bylines.news.yahoo.co.jp/sakaiosamu/20160307-00055111/)」という記事に詳しい。「言い出しっぺ」氏はもともと党派性を持った方のようだけれど、こうした形で、デモに対する敷居が下がっていく、というのは、ある意味で安保後の民主政治を物語る一つの兆候と言えるかもしれない。 事実、安倍政権は当初はこの問題に無関心だったにも関わらず、方針転換を迫られているわけだし(ただし、必要以上に燃えやすいネット上の言論が、リアルな政治状況に影響をもたらすのは、決していいことばかりではない、ということに留意すべき※6)。
余りにも長くなってしまったので、とりあえずこれだけ……。 ※1「若年層の投票率が低い」ことが問題になっている中で、投票できる母数を増やすことで問題を解決できると考えているあたり、理解に苦しむと言わざるをえない。 ※2 http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20160426-00057084/ ※3 民進党への期待のなさなどからも明らか。今更言うまでもないか。 ※4石黒正数『ネムルバカ』pp.98-100。 ※5 http://blog.tatsuru.com/2015/08/24_0753.php ※6 http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160322/1458604274 参考 佐々木俊尚『21世紀の自由論―優しいリアリズムの時代へ』NHK出版 西田亮介『マーケティング化する民主主義』 イースト新書
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『絶歌』に思うこと――表現の自由の「向こう側」
「図書館の自由に関する宣言」をご存知だろうか。『図書館戦争』シリーズで知った、という方も多いだろう。日本図書館協会のHPによると、
1.図書館は資料収集の自由を有する。 2.図書館は資料提供の自由を有する。 3.図書館は利用者の秘密を守る。 4.図書館は全ての検閲に反対する。 図書館の自由が侵される時、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
概要はこうだ。ゲシュタルト崩壊しそうなほどの「自由」が踊るこの宣言はしかし、ただ権利を主張しているだけのものか、と言われれば決してそうではない。
たとえば第二条では、「提供の自由」を制限する場合として、「人権またはプライバシーを侵害するもの」など3つの条件を定めている。つまり、「自由」は無制限に認められるものではなく、(極力限定して適用するとは言うものの)常に他者の人権との比較に晒されているというわけだ。
同じことが、表現の自由にも言える。誰かを傷つけるような表現の自由は、決して許されるものではない。しかし、それを天秤にかける以上は、表現の自由が対立するもの、あるいは表現の自由の「向こう側」に置かれる物に注意する必要がある、ということを忘れてはならない。 記憶に新しい2015年1月。仏週刊紙「シャルリ・エブド」社をテロリストの兇弾が襲った。彼らを突き動かしたのは、同社がムハンマドの風刺画を掲載したことに対する怒りだったと言われている(※1)。
そもそもイスラム教には、「偶像崇拝の禁止」という概念がある。ごく単純に言うならば、神は絵や銅像などで表せるものではないのだから、神に似せて作った像はもはや神ではなく、それを崇拝してはならない、ということになろうか。一方、預言者ムハンマドのものについても、彼の絵や像が信仰の対象になるおそれがあるとして禁止���れている(誤解・過りなどがあればぜひ教えて下さい)。
ただ描くことでさえ禁止されたムハンマドの、侮辱的な風刺画。それを見たイスラム教徒の心中は察するに余りある、ということであろうか。風刺画は表現の自由として認めるべきだ、という意見がある一方で、こうした表現は許されない、という声もあがった。Wikipediaによると、同紙の意見を支持する人が57%居る一方で、支持しない人は42%に上った。やや「表現の自由派」が多いとは言え、世論は真っ二つに別れたと言っても決して過言ではない。
日本の報道各社の対応も同様だ。朝日、読売、毎日の三紙が風刺画の掲載を見送ったが、日経、産経、共同通信、東京新聞は風刺画を掲載/配信している。東京新聞は抗議を受け、「イスラム教徒を傷つけた」とのお詫びを掲載するなど、「表現の自由/宗教の冒とく」の問題は大いに議論を呼んだ。 それから半年近くが過ぎて、日本社会は再び、表現の自由をめぐる問題に直面する。神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」の元少年Aによる手記、『絶歌』である。
私もごく最近、同書を手に取る機会があった。きちんとは読んでいない。しかし、被害者遺族に無断で出版したことに対する謝罪からはじまり、ほぼお詫びで埋め尽くされた彼の「あとがき」を読むにつれ、私もまた、これは出版されるべきでなかったのではないか、と考えてしまう。遺族への配慮が足りないのではないか。所詮自己満足に過ぎないではないか。到底全てを読む気になどなれず、手に取った本をそっと閉じた。
同様の意見は様々なところで見られた。遺族から回収を求める声があがったことも影響したのか、兵庫県内では、複数の図書館で閲覧・貸出を制限したし、購入を取りやめた図書館もあったようだ。書店でも取り扱わないケースがあった。同書を購入した旨をSNSに書き込んだ芸能人は、批判を受けその投稿を削除することになった。
一方で、表現の自由を擁護する声も上がっている。同書は少年犯罪の背景を理解する上で有益だ、といった意見や、遺族への配慮の上で出版すべきだったというような意見もあった。私自身、同書を実際に手に取るまでは、世に出すことそのものを拒んではならない、と考えていた。
しかし――少なくとも私の実感の上では――これらの意見は少数派だ。世論の大勢は被害者遺族への同情に集まっていたように思う。半年前に叫ばれた表現の自由は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。 * シャルリ・エブドと、元少年A。彼らの違いはどこにあるのだろうか。――いや。この問は適切ではないかもしれない。問題を理解するためには天秤の向こう側、すなわち、「風刺画で傷つけられたイスラム教徒と、『絶歌』で傷つけられた被害者遺族の違い」をこそ問うべきではないだろうか。キーワードは、「同情容易性」だ。
まず第一に挙げられるのが、「表現の自由による被害者としての特定個人」が想定しやすいかどうか、だ。『絶歌』の場合は、「被害者遺族」がこれに該当する。個人としてイメージしやすく、それゆえに同情を寄せることも容易い。
一方、シャルリ・エブドの場合はどうか。風刺画が傷つけたのは、「イスラム教徒」である。漠然とした集団、カテゴリを指す呼称は、とても特定の個人とは結びつきにくく、それゆえに同情を誘いにくい。イスラムの教えに馴染みのない私たちにとっては、「たかが」風刺画で怒り傷つく彼らの心情もまた、理解し難いものだと言える。
「特定の個人を傷つけるような表現は許されない」という意見もあるだろう。しかし、想定が容易か否かで区別するのはナンセンスだ。風刺画で傷ついたのは一人ひとりのイスラム教徒個人である、ということを忘れてはならない。 そしてもう一つ。それは、被害者遺族が、「絶対的な弱者」であり、全き同情の対象であるという点だ。
一般的に、「イスラム」という言葉には良くないイメージが付いて回る。報道で語られるテロや過激派のイメージがそれだ。風刺画に暴力で応じたシャルリ・エブド事件そのものや、当時勢力を拡大していたISといった一部の過激派が、「イスラム」という言葉を代表するイメージとなってしまう。それゆえに、「テロリストを生み出したイスラム教は、風刺の対象となっても仕方ない」という考えを産みはしなかっただろうか。
ジャーナリストの佐々木俊尚氏は、「風刺とは権力への抵抗である」と指摘する。フランス国内において、イスラム教徒は圧倒的にマイノリティだ。フランス人口に占める割合は8%に過ぎず、貧困、差別といった問題は枚挙に暇がない。テロリズムや過激派といったイメージが付きまとう一方で、彼らもまた、(嫌いな言葉ではあるが)社会的弱者であると言っていいだろう。弱者に向けられた風刺は、もはや風刺ではなくなる。「いじめっ子がいじめられっ子を侮蔑した絵を黒板に書いて旧友たちに見せたら、それは風刺ではない。いじめの延長だ(※2)」。 表現の自由が争点となる時、その向こう側には、何か/誰かが居ると述べた。つまり問題は、こう言い換えることができるだろう。「表現の自由とは、誰かを傷つけてまで守るべきものなのだろうか?」
それでも私は、この問いにイエスだと答えたい。そして、自信を持ってそう答えられるように、表現の自由がこれ以上、誰も傷つけないことを願っている。 (※1:報道などによる。これは誤りだとする見方もある) (※2:佐々木俊尚「21世紀の自由論」より)
参考:
「仏風刺画掲載・判断割れるメディア〜Yahoo!ニュースでは」(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/charlie_hebdo_issue.html)
「イスラム教徒と融合できぬ欧州市民、問題先送りのツケ」 (http://jp.wsj.com/articles/SB10948060512587593536504580409040215720492)
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生きた民主主義、死んだ民主主義
東京メトロ丸ノ内線、国会議事堂前駅。封鎖された2番出口を通りすぎて、3番出口の階段を登る。それらしいプラカードを持った人とすれ違いながら進んでいると、遠巻きに声が響いてくるのが聞こえた。
「戦争、反対!」「平和を守れ!」「憲法守れ!」「独裁やめろ!」――。
太鼓のリズムに合わせてマイクの声が叫ぶ。それに倣って、後続が――その多くはおじさまやおばさま方だ――続く。午後8時を過ぎて既に外は暗くなっていたが、「眠らない街」の灯りは夕暮れ時を連想させた。人の数が発する熱量が、薄明るい街や太鼓のリズムと相まってまるでお祭りにでも来たかのような気持ちになる。 ちょうどお祭を冷やかすように、人の群れを縫って歩く。女子大生と思しき二人組や子どもを連れた若い父親、仕事帰りのサラリーマンやいかにもという感じの老夫婦まで。まさしく老若男女が、数の違いこそあれ一同に会し、それぞれに怒りを表明していた。 駅を出てすぐ。首相官邸前の交差点を歩きながら、少し驚いた。一番先に私の耳に飛び込んできたのは、原発再稼働に反対するシュプレヒコールだったのである。 今回の安保法案に反対するデモだとばかり思っていたのだが、今日は少し趣旨が違うのだろうか、それとも別の集団か? 考えながら歩を進めていると、シュプレヒコールは「戦争法案」への反対に変わった。どうやら「原発反対」も「安保反対」もないまぜになってしまっているように思える。 果ては、アベノミクスを批判するプラカードを持った男性まで現れる。これは一体、どうしたことだろう? (※神奈川新聞によると、首相官邸前では反原発デモが、国会議事堂前では反安保デモが行われていたという。ここで述べるのは飽くまで、前提知識を持たなかった私の受けた印象だ)
いわゆる「リベラル」な論調を持つ人は、良識に訴えかけることが多いように思う。そしてそれは時に、文脈の共有を前提としてしまうことがある。つまりは��同調圧力がはたらくわけだ。 「Aという考えを持っているなら当然、Bという考えも持っているはずだ」。今回の場合で言うと、「安保法案に反対している人は、原発再稼働にも反対であるはずだ」といったところだろうか。本来は全く関係がないはずのことなのに、同じことであるかのように語られることが、あまりに多い。もちろん、考え方として近い部分はあるのだろうし、きちんと統計を取れば相関関係が認められるかもしれない。さらに言えば、結局は、参加している人が納得していればそれでいいのだとも思う。しかしそれは、「安保法案には反対だが、原発再稼働には賛成」の人や、逆に「安保法案には賛成だが、原発再稼働には反対」の人の存在を無視していい理由にはならない。 私は「部外者」だ。抗議の気持ちからあの場所を訪れたわけではない。しかし、本気で抗議行動を進めてい���のであれば、そうした人をこそ巻き込んでいく必要があるはずだ。不用意な混乱を避けるためにも、論点は絞ったほうがいいと考える。 * さて、デモの現場に話を戻そう。デモに参加していた人の列は、500メートル以上にも及んだ。声を上げる人、太鼓を叩く人に加え、法螺貝、アコーディオン、歌声(沖縄民謡?)などそれぞれの方法で、人びとは自らの意思を表明していた。ある人はビラを配り、またある人は自転車で走りながら声を上げていた。 首相官邸前の交差点から、国会議事堂正門前にたどり着く。少し離れている間に、マイクから流れる声はシュプレヒコールではなく、演説になっていた。野党議員らしき人物(恐らく。確認は取れなかった)が演説を終え、声の主が変わる。あまり演説慣れしていない若い声。どうやら「主役」の登場らしい。 「SEALDs」。名前くらいは聞いたことがあるだろう。正式名称は”Students Emergency Action for Liberal and Democracy”という。公式サイトによると、「自由と民主主義のための学生緊急行動」だそうだ。今回の安保法案反対のデモに、特筆すべき点があるとすれば、まず彼らの存在なのではないかと思う。 一般的に、こうしたデモでは、中心となるのは――少なくとも、「数」で多数を占めるのは――既に現役を引退した世代だ。現役世代やそれ以下の若い世代、就中高校生や大学生は政治に関心を持っていない、というのが大体の印象で、そうした見方は大幅に間違っているというわけでもない、とも思う。 そんな若者世代への、ある種の失望を抱えていた人にとって、SEALDsや「ふるえる」といった学生行動の存在は希望になるだろう。学生たちが、自ら危機感を持ち自発的に行動を起こした。この事実は彼らにとって、どれだけ心強いことだろう。 マスコミや野党議員、老人世代に半ば「祭り上げられた」若者たち。彼らの今後も少し気にはなるが、それはまた別の話だ。 考え事をしながら歩いていると、正門前の交差点にたどり着いた(道中忌野清志郎を流している人が居て少し複雑な気持ちになったのもまた別の話)。どうやらここが中心らしく、一度入ったら脱出が困難に思えるほどの人だかりができていた。 学生が吠える。演説も終盤にさしかかり、再びコールが始まろうとしていた。マイクの音が割れる。声も枯れ始める彼の声は怒りと悲痛さに満ちていて、それだけの真剣味を持って私たちに迫る。心なしか、追いかけてコールをする人びとの声にも力が入る。 彼らは「怒っている」。安倍政権の横暴さに。あるいは、自分たちの無力さに。法案は衆議院を通過した。衆議院の優越もあって、恐らく法案は成立するだろう。自衛隊の海外派遣は以前よりもずっと容易になる。 しかし忘れてはいけないのは、これが安倍自民党に議席を与えた、私たちの選挙が――民主主義が出した一つの結果なのであるということだ。彼らはクーデターを起こして権力を握り、今の立場を得たわけではない。「選挙」という民主主義のルールにしたがった結果だ。 「民主主義を壊すな!これが民主主義だ!」 コールが叫ぶ。恐らく、彼らの言っていることも正しいのだ。ともすれば駄々をこねる幼子のようにも聴こえる彼らの叫びもまた、民主主義なのである。二つの「民主主義」の狭間で、何とも言えない気持ちになった。
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