真白い、あるいは真黒い
いつか精神の病に調子を崩していたある女が
このようなことを言ったことを覚えている。
『自然にはグラデーションのように様々な色が広がってあり、
木の葉ひとつでもさまざまな色を有している。
そこに差す光によってできる陰影も全くの黒ではなく、
反対にまったくの白も自然というその場所にない』というような。
『大事なことは、まったくの白とまったくの黒を近づけないことだ』
と、観念的ともとれることを彼女は続けて伝えた。
だが病の回復にともなって彼女はこうも言う。
『私の述べたことのなかには、単なる思いつきの薄っぺらく
心もとない、根拠の薄弱なでたらめが含まれていたと思う。
誰かに意味のありそうな何かを伝えることを
強いられていると思い込んでいた』
『言い出すことはどこかにいる大人のようだとしても、
一方で行動の不透明な私なんかの伝えること、伝えたことなど、
どれだって正解にはならんでしょう。たとえそんな私の、
出任せのことばであっても、
誰かにとって何かに対する正しいhintになったときには、
私はそれは不安でありながらも、喜ばしく思うけれども。
しかしながら、そんな幸運はよく起こるものではない。
私なんかあてにしていいものではなかった。
彼らが私をどんなに善い事に通ずるような姿に
想像できていたとしても」
なお彼女の病に完全な治癒はなく、時によって増悪と回復を
繰り返しながら一生を共にするものであるのだった。
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不完全な善
あの時果たしてどう書いていたか。
自らの過去の思考を掘り起こそうと、書きつけたメモの集積を探したその折、このような書き込みがあった。
『西洋哲学の概略本にて。
アウグスティヌスという人の論、
「悪とは不完全な善の表れ」であり、
「神は悪を生んではいない」。
「人間は神によって自由意志が与えられているため、
善が不足した人間は誤った行為を選択してしまい
悪に見えてしまう」というもの。
神によって世界にもたらされたのは善と悪ではなく善のみだが、
善の充実度によっては誤った選択をする可能性もあり、
選択の誤りが「悪」のように人の目に映る』
つまりもし強盗など働き「悪」と見做された青年も、
実は世間全体の善よりも自分への善を優先した
「善の充実度の低さ」によってそのように、悪だと見做される
という解釈だろうか。
裁かれるいわれがなくなる、というわけではないのだ。
しかし、「善の充実度」という尺度で言えば、誰しもが陥る、
その可能性のあるものがいわゆる「悪」であるということとなる。
メモに記している当時、
この論は私には非常に有用に思われたろう。
文字の束からふたたび発見し、そう思っているのだから。
しかしながら私の根幹にはなかった考えであり、
忘れ去り時を通りぬけた。
よくあること。忘れぬため記したものが、
右から左へ過ぎていく。
そしてまたいつからか私は、「天使」「悪魔」といった
両極の存在と私とを当てはめ、行ったり来たりして悩んでいる。
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カーテンを閉じたあとに
「この主人公の女のように、
大切にされたいと望んでやったあのことによって、
もしも彼の大切なひととなることからひとつ、
遠ざかっていたならば……今私はどんな気持でいて、
変えたいのならば、何をすればいい?」
興味は既にお気に入りの女流作家のもたらした新刊を閉じることを求め、今は胸に詰まった感情、頭にのぼった考えなど書きつける、どんなものでもいい、紙とペンが必要だった。
彼女はいつかのためにとたいそう大事にとっておいた、表紙にウィリアム・モリスの素朴に美しいグラフィック印刷がなされた小型のノートと、日常空いた時間、イラストを描くのに使うオレンジのペン、をなんとか用意し、目の前のガラスの低いテーブルに置いた。
そしてどしりと布張りのひとり掛けソファに腰を下ろすと、目を閉じ息をついた。
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エゴイスト
「そうやって小難しいふうに、知性に媚びる言葉を
不器用に置いていくようなのは、はっきり言ってよしてよ。
ひとの胸へ飛び込む気概の有る君は
そんな安い選びかた、してくれるな。
ひたむきにしたためる君こそoriginalなのだ。
いっぽう僕というのは駄目だ。
人様の作り物でしか学べなかったために堅いだけだ。
アレが僕の文学の乳母なのだから。
堅いだけの理由がある。
しかし今君、
薄皮のついた茹で玉子のような作り言葉を歌っているね。
食べるとどうも喉へかかるようだ。
君のやわらかいままに言葉を響かせてくれたら、
僕はまだせいせい生きられるのに、
それをなくしてしまうなよ、頼むよ。僕のために……」
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"Focusing"
うろ覚えも含まれるけれども、
アン・ワイザー・コーネルという女性が書いた、ある翻訳書籍から得たことがらを以下簡単に書こう
クライエントとしてセラピストによる心理療法を受けた結果として、精神の向上があったと判断された人々とそれがなかったと判断された人々の治療面接をテープに録音したものを比較した際、ある事実がわかった。
前者の人々は面接のどこかで、話し方がゆっくりとし、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表す言葉を探し始めた。
後者の人々には、面接中それが見られなかった。
なお、両者のセラピストの面接方法に、大きな違いは見られなかった
それはつまりこういうことだ。
精神の向上のみられたセラピーのクライエントたちは、面接の過程に、直接からだで感じている、漠然とした、言葉では表しにくい身体的な気づきがあった。思考による自己分析や考えをよどみなく話している後者は、言葉にできない感覚をからだから感じ取ろうとする意識がなかった。たとえ涙を流したとしても、最終的な結果として後者のセラピーはうまくいかなかったという。
この研究を応用し、自己にセラピーを施す方法が確立された。
それが『フォーカシング』だ。
以下に簡単なあらましを書く。
(追:短文で正確には伝えられないと判断し、あらましは削除した)
(かわりに、文末に、この手法を発見したジェンドリン氏の著書に簡便な方法が載っていたので、それと、フェルトセンスをつかむための訓練の方法を追記した。)
…………という具合にさらに先へと進めていくものだが、
その書籍で学んだとおりの方法でこのあとの項目まで続けていくと
「インナーチャイルド」に対するセラピーに近いことが理解できる。
そして、フォーカシングの場合、それよりももっととっつきやすい印象だ。
とにかく丁寧に自己の内側で起こる「感じ」に触れ、近くに腰を落ち着けるイメージで対話をしていく。
私はまだお試し程度しか自分に施したことはないが、その成果として、理性では予想できなかった、「『感じ』に合う言葉のイメージ」が私の中に起こった。
(追記:これはラッキーな体験だったようだ。その後はうまく「感じ」に突き当たらない。むしろそれがふつうで、「感じ(フェルトセンス)」を感じることができるまでには時に三ヶ月、など一定の練習が必要なのだそうだ。)
これを–––その本を熟読しつつ–––根気よく続けていくと、自己の強い感情を孕んだ、その悩みの根底にある部分とも向き合え、今よりも素直な自分と付き合えるようになるだろう、という手応えを軽くだが、私はつかんだ。
(追記:少々高揚感が強い表現になってしまっている)
実際に、フォーカシングによってそのような成果が望めるというではないか。
詳細な方法は、書籍を参照するのが確実でいちばんよいことだろうと私は思う。
(追記:熟練した人が周囲に見つかれば、その人と一緒に行うのが一番よいのだろうが……)
一見単純ながら、からだの内側に集中し“声”を聴くというのは、小さい子に接し続けるような、繊細な労力が必要なことでもある。
(追記:本に書かれている通り、途中、自分のなかから、非現実的、実現不可能と思われる要求が返ってきても、その時点では否定する必要はなく、よく探っていって、例えば「今すぐ海外に行きたい」という願いは非現実的だが、「遠くに行きたい」→休む時間がない、休息が欲しい、ということだ、と理解できる例もある、ということだ。)
精神的に助けを必要としている人、今苦しんでいる人にこの手法が片隅にでも、存在しているということが届けば(少しは)よいだろう、と私は一方的に思う。
(追:もし、うまくいかなくても、気に病む必要はない、とも思う。
「これで精神的に絶対に良くなる!」という保証は、申し訳ないことだが、私からは簡単にはできないことだから……)
*本にも書かれているが、この手法は“リスナー”と“フォーカサー”にわかれ友達とふたりで進めていくことも可能だ。もちろん、セラピストに協力してもらって行う方法もある。
加えて、掲載の情報が古く私自身は参加したことがないものの、フォーカシングのワークショップは(現在では不明だが、当時では)各所にて行われているという。
*この、アン・ワイザー・コーネルという女性は、フォーカシングの開発者、ユージン・T・ジェンドリンという男性から享受したその手法に改良を加えたものを記している。よりシンプルなフォーカシングの手順を知りたければ、ジェンドリン氏の著作も手に入れて然るべきであると私には思われる。
(追記:ジェンドリン氏の書籍について、私は、日本で1982年に初版出版された、日本語翻訳本〈初期の手法から改良されたヴァージョンが記載されている書籍〉を読んでいる。)
*当たり前のことだが、翻訳される前の原著は英語でかかれているため、そのことに留意しつつ、「セリフの形式」、そして本に書かれているとおり、「順番の形式」にとらわれきらないよう、書かれれていることの本質を少々考えながら身につけていくとよいと個人的には思う。
*自分一人でどうにもならない(かもしれない)という感じなら、休んだり、必要ないならやめたり、専門家や他の人に相談したり、手を借りることもためらわないようにしてほしい……。
*****
ジェンドリン著 「フォーカシング」から
「フォーカシング簡便法」と、「フェルトセンスをつかむ実習」
以下抜粋
フォーカシング簡便法
1.空間を作る
いかがですか?あなたの気持ちはよろしいですか?
すぐ答えずにからだに湧き起こってくるものに答えを出させてください。
そこにどんなものが浮かんできても、すぐそのなかに入り込まないようにしてください。
出てきたものそれぞれに対して挨拶をしてください。ひとつずつ、しばらくあなたの横においてください。
それを除くと、すっかりよいでしょうか。
2.フェルトセンス
焦点をあててみたいことをひとつ取り上げてください。
そのなかに入っていってはいけません。その問題全部を思い起こすとき、からだに何を感ずるでしょうか。
それらすべてのもの、全部の感じ、暗い不快感、もやもやしたからだの感じなどを感じてください。
3.取っ手(ハンドル)をつかむ
フェルトセンスの質はどんなものでしょうか。
このフェルトセンスから、どんないいまわしやイメージが出てくるでしょうか。
どんな言葉がそれに最もよくあてはまるでしょうか。
4.共鳴させる
言葉(あるいはイメージ)とフェルトセンスの間を行ったり来たりしてください。正しいでしょうか。
それらが一致したら、数回ほど一致している感じを味わってください。
もしフェルトセンスが変化したら、あなたの注意をそれに向けてください。
あなたが完全に一致したものを得たいときは、言葉(あるいはイメージ)はこの感じとピッタリしていますから、そのことをしばらくの間、味わってください。
5.尋ねる
「その全体の問題について、私をそう……させているのは何でしょうか。」
行き詰まったら次のように尋ねてください。
この感じで最も悪いのは何だろうか。
このことに関して何がそんなに困るんだろうか。
それで何がそんなに困るんだろうか。
それで何が必要なんだろうか。
どんなことが起こったらいいんだろうか。
答えないでください:気持が動き、その気持が答えを与えてくれるのを待ちましょう。
もしすべてがよろしい場合は、どんなふうに感ずるでしょうか。
からだに答えさせます。
そうするのに何がじゃまになっているでしょうか。
6.受け取る
どんなものが浮かんできても歓迎してください。それによろこんで話させてください。
それはこの問題に関する1ステップにすぎず、最終のものではありません。
それがどこにあるかを知った今、それから離れたりあとでそこに戻ってくることもできます。
じゃまになる(自らの)批判的な声からそれを守ってください。
あなたのからだはもうひとまわりのフォーカシングを続けようとのぞんでいますか。それともここはちょうどよいやめる場所でしょうか。
フェルトセンスをつかむ実習
1.
黙って、自分のなかで、何か愛しているものか、美しいと思うものを選びます。もの、ペット、場所など、何でも結構です。何らかの意味で特別と感じているものを。1分か2分の時間をとりましょう。
2.
ひとつにしぼる。「なぜ私は……を愛しているのか、あるいはなぜそれを美しいと思うのか」自分に尋ねる。
3.
その、特別な、または愛しているという感じの全体を自分に感じさせます。自分がその感じになれる言葉がひとつか2つ見出せるかどうかをみます。
4.
その言葉が何を指しているか自分に感じさせます。全体のフェルトセンスとつき合わせてみます。そして何か新しい言葉または気持ちが出てくるかどうか見ます。
この練習はフェルトセンスに注目する経験の手助けになります。それは大きくしかもはっきり感じられるけれども言語化できない何かです。あなたが愛しているという気持のほんのわずかしか実際の言葉にはならないことに注目してください。それでもその言葉が(もし見つかっていれば)なぜかフェルトセンスとぴったりの関係になっています。
以上抜粋
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ホクロ
「……実のところネ、俺は感じているのだヨ
“オマエたちの思考は複写、私の〈持ち物〉こそ原典”
ダなンて、俺自身、時折嫌になるこの尊大さ、
そこからくる言動、なンてのは、
諸々素直になれぬ、劣等なジブンへ巻く清潔でない包帯サ。
認めなけリャきっといつまでも治癒できない傷を隠してる
不潔な思想サ……」
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孤独について
A 「私は孤独なの? だって、それはあなたが決めていいの?」
B 「もはや私のものなのだ、君の寂しさまで」
C 「今はまだ、大丈夫ですから。必要になったら呼びます」
D 「僕の有り様を判断したいのなら、
僕の気持ちがいちばんなくらいだいじに加味してくれ」
E 「ほしくない、あなたの、そんな、湿っぽい抱擁なんか。
いいから、ねぇどうぞ、行って」
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ある心境を想像する時
「もっと多くの人々に好かれよう」彼らからの強大な期待を厭うな。
「嫌われることのないようにしよう」いつでも良い心でいろ。
この道を行って讃えられることを願うのだから、
それには耐え忍ぶことが必要だということなのだろうか。
それは本当だろうか。
「ぼくのことをきらいな人たちは、また大袈裟に
あれこれと言い立てるもので、そんなんじゃ、ますますぼくは、
くたびれたからだとこころにムチを打ち打ち、
そんなふうにぼくへ背を向けるような人にも、
一心にまごころを向ける人になりなさい、と
そう要求されているように思われてくるのですから……」
「ぼくのおこないで喜んでくれたひとびとの期待までもが
心配に変わってくる気配には、何もできない、
かえって悪いところに至るのではないかと、
そんなぼくが、あらわになる」
足元もおぼつかない気持ちのなか、
よい結果を迎えるために求められているのは結局、
道具としての自らでもある。
そんな心細い自尊心を豊かな自信で満たしてくれる“管理者”、
彼とは、道のどこまでを行ったところで出会えるのだろう。
誰しもの旅は続いていく。
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心的距離
「独りではないことを、信じられないのですか?
私のからだはここになくとも、
心はいつもそこに近いところにあると覚えてください。
さあ、日は沈んだでしょう。今日あった出来事をひとつずつ、
教えてくれますか?」
「苦しみに、どうにか耐えられそうですか?
一過性の暗がりが、あなたを襲っているのです。
ずっと続くように思われても、
これはずっと続くわけではないことを覚えてください。
耐えられない? ならば私にもそれを分けてください」
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