Tumgik
ourlifeisourart · 1 year
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みんなお空の星になる
(昨日のつづきとして)死生観といえば、物心つく頃には、死後は“みんなお空の星になる”と信じていた。確か、母がそのように聞かせてくれたのだと思う。
あの人は 星になった
もう見えなくなったあの人も
もう触れることのないあの人も
みんな星になったようだ
〜詩集『あの人は 星になったようだ みんな 星になったようだ』より部分〜
上記の詩を書いたのも、今もなお“星になる”という言説を意識しているからだろうし、思い出すたび、底無しの喪失感から少しだけ救われるような気持ちになるからかもしれない。
祖父母は早くに亡くなってしまって、この世界にはもういない。まだ小さかったわたしは、夜空へ向けて短い腕をめいいっぱいに伸ばして「あれが、ばあばかな。それとも、あっちかな」なんて、答えのない問いをいつまでも繰り返していた。
いつまででもそうしていられたのは、星々がどれも同じに見えたからだった。夜空を凝視すればするほど暗闇に目は慣れ、等級の低い星たちがぼうっと浮かび上がってくる。もちろん、明るく光るもの、目を凝らさないと気付かないもの、青く燃ゆるのもの、赤く揺れるもの、一つとして同じ光はなかった。それでも、それぞれの方法で輝くそのどれもが笑っているとも泣いているとも分からず、考えていることも、想っていることも分からず、そして、どれも同じくらいに光って見えた。わたしの目には、等しく輝いて見えたのだった。
詩の最後を、わたしは次のように締めくくった。
みんな同じに光るから
どの星が誰だとしても それでいい
みんな同じに光るから
誰がどの星になっていても それでいい
いずれは星になるのなら
みんな星になるのなら
みんな同じに光るのだから
〜詩集『あの人は 星になったようだ みんな 星になったようだ』より部分〜
「それでいい」というのは諦めでも達観でもなく、包まれるような安らぎをはらむ言葉。いつかくる最期の日。わたしだって宇宙の光の粒になってしまえば、他の人たち=星たちと何の見分けもつかなくなるんだろう。見分けがつかない程に、どれもが等しくうつくしくなるんだろう。
少々ロマンティックすぎる想像かもしれない。ファンタジーだけでは救われない感情もあるかもしれない。それでも今はまだ、わたしはひとりぼっちではないって信じていたい。
それでは、きょうはここまでーー
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ourlifeisourart · 1 year
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わたしは、宇宙のエネルギー循環のただの一点で
衝動に駆られるがままに、書き始めている。 内省的なこの気質が嫌になったわけではないけれど、放出することでしか辿り着けない場所があるんじゃないかなんて、いつからか蓄積してきた考えが今、ここで溢れ出しているみたい。 「わたしたちが生きて、死ぬっていうのはエネルギーの循環だから。生きることでエネルギーを宇宙に放出しきったとき、それが死ぬっていうことなんだと思うの」 大事な友人たちと死生観について話していたのは、昨年の春頃のことだったと記憶している。当時のわたしに、友人の先の言葉はしっくりとこなかった。熱心に信仰している宗教はないけれど、いつの間にやら当たり前みたいに、死後はみんな地獄か天国に行くものなんだって考えていた。そして今も“なぜ生きるのか?”、“何のために生きるのか?”みたいな普遍的な問いから逃れられない。死後の行く末を考えること、生きる理由を考えること、さらには生死とエネルギー循環についてを一緒くたにするものではないのかもしれない。それでも、死生観というあまりにも壮大で永遠に答えの出なそうなテーマに出会ったとき、それらはすべて同じことを指すようでもあるし、切り離せないもののようにも思える。生きること、死ぬことはエネルギーの循環であるという友人の話は、雷に打たれるほどの衝撃ではなかったにしろ、ジリジリと電流を走らせ続けた。その日以来、この頭の片隅を小さく痺れさせている。 それと同じくらいの時期だったと思う。ある詩人の方が“命は燃やすもの”だとSNSに投稿されているのを目にした。(該当ポストを探したのだけれど、どうしても見つからなかったので、お名前を挙げることは控えさせていただく。)心身の不調で休職しはじめてから、それほど時が経っていなかったこともあると思う。それでも、人生は時間の波に飲まれ流されるがままなんだろう、なんてぼんやりと考えていた当時のわたしには、同様に肌に馴染まない言葉だった。命を燃やすなんて、あまりにも眩しすぎると思った。その言葉だけが青く燃えているように見えた。みなぎる生命力がうつくしく、そして恐かった。 Netflixで配信中のドキュメンタリーシリーズ『宇宙: その始まりはどこからなのか』で繰り返されるのは、138億年前に宇宙がうまれてから、あらゆるものが時間を超え、空間を越え、今も循環し続けているということ。太陽が放出するエネルギーは巡り巡って地球上の生物の中でうごめき、宇宙が若かりし頃に星々の中で生まれた元素によって、我々は命をつないでいる。 ある日、用事の合間で立ち寄った書店で、さくらももこさんの詩画集『まるむし帳』をぱらぱらとめくっていたら、巻末に掲載された谷川俊太郎さんとの対談が目にとまった。話題は“世界のはじまり”について。そこには、ビッグバンの頃のエネルギーによってわたしたちは生かされているといった内容が記されていた。(こちらも手元に参考書籍がなく、不確かな情報でごめんなさい。後日確認し、適宜訂正する) 一見関わりのなさそうな場所場所から集められた思考のカケラたちが、一年近くの時をかけてわたしの中にじんわりとにじんできた。死後、地獄に落ちることが心底恐ろしかった幼少期。自分のお葬式になど誰も来ないのではないかという、いらぬ危惧。後世に一ミリでもいいから爪痕を残したいと望んだ、かつて。それらすべての考えが彼方へと流れ去った現在、「何をも恐れる必要はない」とわたしを慰めるのは、“わたし”というのは巨大な宇宙規模の循環の中にただの一瞬、エネルギーのほんの一点としてあるだけの存在なんだということ。 事実かどうかは調べようもないことばかりだけれど、死生“観”というくらいだから、これは単なる世界の見方でしかない。そして、世界の見方は今日も明日も、わたしが広く視野をもって生きる限り、にちにち変わりゆくだろう。 星がそのエネルギーを燃焼し切って消えゆくように、わたしもこの命、燃やしてみたい。この体にどれほどのエネルギーが残っているのかは分からない。けれど、内に渦巻くエネルギーは今、“衝動”という名を借りながら放出され、この瞬間にも淡々と静かに宇宙へと還っている。     それでは、きょうはここまでーー ✳︎★✴︎☆✳︎★✴︎☆✳︎★✴︎☆✳︎★✴︎☆✳︎★✴︎☆✳︎★✴︎☆ 実は書き溜めている日記のようなものがいくつかあるのだけれど、うまくやらなきゃという見栄ばかりが先行して、下書き欄にぐっすりと眠ったまま。いつか息絶え、日の目を見ずに終えてしまいそうなので、いずれ、少しずつでも窓辺に連れてきてあげようかなと考えている。 明日からの毎日も書き続けてみるつもりだけれど、三日坊主になったとしても、自分を責めないことをここに約束する。(何てヘンテコな約束事だろう。)ひとにやさしく、じぶんにはもっとやさしく。 まずは今日という日に、カーテンを開け、自分の思考と感情に光をあてられたことを褒めてみようかな。ゆっくり眠ろう。明日は明日の風が吹く。明日は明日の朝が来る。
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