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結局パレスチナへの攻撃も止まっておらんし、イランへの攻撃も始めたしイスラエル政府というかネタニヤフはどういう着地を考えて戦闘をしているんだろうか。パレスチナに関しては入植した土地の問題であるが、イランに関しては、イスラエルから見て国二つまたいで向こう側にある完全によその国を攻撃している。イランが色々な問題を抱えている国であることはそうなのだが、それはそうとして、なんで物理攻撃で解決(恐らくただの名目だろうが)するとか、何が起こると思っているのか。
イスラエル・イランの仲介可能性のある人物がトランプorプーチンていうのもまじでなんなんだ。
2025.jun.17
イスラエルとパレスチナの問題で状況が悪化しており、個人でできることは「知ること」、非人道的な行いには安全な場所にいる人間がよくないことであると批判し声を上げ続けること、という基礎的な当然のことしか言えないのを毎度毎度毎度繰り返しており無力感がある。現地で様々な支援をしている人たちへ募金をするとかはそれはそれでやるべきなのだが、これは起こってしまっている諸々のことへ の対処であって、国という枠組みが人から生活や土地を奪い殺しているという根本的な部分は解決できない。知って批判する個人でいるぐらいしかやれることがない。イスラエルという国家が成立した歪な背景とパレスチナを収奪し続けているイスラエルという国の政治のやばさをアメリカなんかは露骨に支援してるしイギリスもヨーロッパもたいがいで中東の混乱はそもそもお前らのせいでは? て感じなので、国家の枠組みで安全に解決できる期待ができない。遠く離れた国に住んでいるからといって無関係ではない。自分が住んでる国の政治が間接的によその国の人間を殺すことはいくらでもある。
これは災害ではない。人間が人間同士で殺し合いをしない、奪うことをしない、という取り決めをしなければならない話なのだ。そのような場、条件を設けることがいまだに達成されない。過去何度かそのような動きがあるにはあったが要人が殺されたり話し合いの場を拒否したりままならない。国際的に批判があるにはあるのだが、もちろん声が届いてないなんてことはなくて、国という枠組みのしかるべきポストについている人によってはそれが視界に入っても無視していく。様々な仕組みの中で生きていかざるをえない人々はそれに従う。そして人が死ぬ。
個人でできること多くはないが、知って、批判をする、のを止めないでいる、ぐらいのことはやっていかねばならない。私は今、安全な場所にいるので。
現代演劇、舞台芸術作品では客を楽しませるためのエンタメではなく、ドキュメンタリー的性質を持ったものがかなりあり、芸術祭の類で各国に自国の現状を訴えるために演劇をやる、パフォーマンスをやる、という場合がある。本国に帰ったら上演できないタイプの作品というのもある。自国でもやるが国内の言論統制に引っかからない程度にあいまいにぼかして表現している、などもある。パレスチナで生きていかに生活・人生が制限されるか、いかに故郷がなくなっていくかについて語る演劇もある。日本では「紛争地域から生まれた演劇」という企画のシリーズがあり、様々な紛争地域で生まれた演劇・戯曲が紹介されたり講演やリーディング公演などもある。
私の興味範囲の大半が舞台芸術なのでそこを通して世界の状況に触れることがある。ニュースを聞くだけだと情報の断片でしかないものが、舞台では災禍に遭っている本人によって語られる。私の場合はその話を聞く、目の前で再現されるという経験をしているため、意識に留められる量が増えている、というだけである。
私がイスラエルという国家の独特さに興味を持ったのは舞台芸術鑑賞趣味以前からではあるが(宗教への興味でなので)、イスラエルのダンスカンパニーを追っているせいで、興味のない人に比べれば視界に入って来る頻度が高い。諸々の状況が悪ければ公演がなくなるし、パレスチナへの侵略を批判する意見が盛り上がり、イスラエル政府の助成を受けているツアー公演のボイコットが起こることもまあまあある。私はイスラエルで活動するダンスカンパニーや振付家のファンではあるが、現代のイスラエルという国家が好きなわけではない。男女ともに徴兵制があり、その銃口は隣人へ向いている国である。ダヴィデの星が掲げられている国ではあるが、イスラエルに住んでいるイスラエル国籍を持つアラブ人もかなりいるしキリスト教徒もいる、様々な歴史文化背景がある土地であり、人種・民族差別も普通にある。ユダヤ教超正統派、戒律に厳格な人たちの中では現代の「イスラエル」という国があることに批判的であったりする。超正統派はイスラエルはユダヤ人の国ではなくシオニストの国であるとずっと批判しており、国の行いに対してデモもたびたびしている。国内でもそこに住まう人の意識は様々で統一された一枚岩ではないのだが、国という枠組みで見ざるを得ない時、確実に、隣人を殺し続けている国なのだ。
ハマス=パレスチナの人々の総意ではないがハマスがパレスチナに存在することは確かで、イスラム過激派だという説明があるがじゃあイスラエルがやってることはシオニズムの過激派ではないのか。土地を奪い続けて地域を封鎖して人もモノも流動を、生活を制限し続けている。最近の話ではない。ずっとだ。
なぜイスラエル側は非難されず(されてはいるが無視していいものとされ)、イスラエルのパレスチナへの侵略を援助する大国が多いのか? もともとヨーロッパやロシアに住んでいたユダヤ人がなんで中東に国を作って、そこに住まう人々を排除してまで移住しなきゃいけなかったのか? なんでそれを後押ししている強国があるのか? パレスチナが奪われ続け、人が死ぬのは、パレスチナではないよその国での政治の問題からきている。
自分の住まう国での人種・民族差別や政治の不具合が影響して世紀をまたいで遠い土地の人々を殺すことはありうる。今ニュースでやっているのがそれだよ。
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舞台メモ2 名古屋
ヒューストン・バレエがくるよ!! ここのハーパー・ウォッターズさんが観たいんですよ!! 今回来日する~~! ガラ公演の方に出るっぽいかな~ジゼルには配役されてないっぽい。
アクラム・カーンの公演も久々に観たい気がする。
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舞台メモ 京都
幻灯劇場、ピナ・バウシュ、クラウド・ゲイト、未練と幽霊の怪物は絶対行くやつ。
田中泯|名和晃平『彼岸より』上映会はチケットとった。楽しみ。
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instagram
オペラ薔薇の名前のビジュアル来た!いいな~観たい。
RaiRadio3で現地時間20時から放送されるけど日本時間だと明け方だな。ラジオなので音声だけだが。 https://www.raiplaysound.it/radio3
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memo
岩波からレッシング『賢者ナータン』の新訳が出た!! 岩波のめっちゃ古いやつのほう、篠田英雄訳『賢人ナータン』は古書で、2020年発行の光文社古典新訳文庫 丘沢静也訳『賢者ナータン』は持っているんだけど、岩波から新訳出るとは思ってなかった。やった~ありがとうございます。
複数の訳が読めるの恵まれている。
レッシングの『エミーリア・ガロッティ』も再版してくれ~新訳じゃなくてもいいから紙の本を新しく出してくれ~
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memo
Astor Piazzolla's Maria de Buenos Aires - Grand Théâtre de Genève - ARTE Concert
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ピアソラのオペラ「ブエノスアイレスのマリア」!!!
観る機会めちゃめちゃ少ない作品じゃんやったーー配信ありがとうございます!
この作品はいわゆるオペラよりミュージカルに近い感じの現代作品なんだけど、とにかくスペイン語オペラ自体を観る機会が稀なので本当に嬉しい。アルゼンチンタンゴ、バンドネオンの巨匠であるピアソラの作品で、もちろん曲もアルゼンチンタンゴが軸になっている。
オペラは概ねイタリア語・ドイツ語・フランス語だもんな。もちろん各国でご当地の言語でもオペラは作られているんだが。スペイン、オペラで連想する「カルメン」はフランス語オペラだからね。
オペラっていうと19世紀あたりの古いイメージがあると思うけど現代で新作も作られているし、ごりごり現代音楽寄りだったりもするし色々あるんだ。
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The Snow QueenBased on Hans Christian Andersen's Tale
Zahia Ziouani and Mourad MerzoukiLes Nouveaux Mondes
Elements Sidi Larbi Cherkaoui with Damien Jalet and Marina Abramovic
ここ数年全然チェックできてなかったけど、シディ・ラルビ・シェルカウイ、ダミアン・ジャレ、マリーナ・アブラモヴィッチの作品なんてやってたんだな。
EUGENE ONEGIN Tchaikovsky – Finnish National Opera
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メモ
筑摩から出る
ルクレティウス 事物の本性について——宇宙論
DRACULA Wojciech Kilar / Krzysztof Pastor
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アレクサンダー・エクマンのPLAY日本公演が7月にある。
パリ・オペラ座初演のを映像で観ていてめちゃ好きなんだが、好きと同時に「金があってパリオペにこれを観に来ている層のための現実逃避とあそびの世界観だな」としみじみ思ってしまってこう、わりとつらい。その……「子供の頃の遊び心」的なもののスタイルとか「労働の灰色さ」に裕福感があるんだよな。
いや、とても好きなので多くの人には見てもらいたいんだけども。
特にボールがびゃーっと降ってくるところとか、球体に足が生えた謎のスタイルとか、鹿っぽい何かとかこう……ファンタジーを現実でやる腕力すごいので。音楽も好き。
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筑摩書房発行、北村紗衣さんの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』文庫版をいただきました。ありがとうございます。私は書肆侃侃房発行の単行本版で装画を提供していたのでそのご縁です。発行が2019年だったのでもう6、7年も前かと感慨深いです。
『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』はフェミニストの視点から映画や演劇、小説などなどを鑑賞すると、今まで漠然と見ていたものにも違う風景や考え方、意味が見える、というカジュアルに読める作品批評の本です。
文庫版は書き下ろしなど内容が増えた増補版です。『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』発行後の様々な状況の変化、著者の北村さんご自身の体験なども語られていて、読んでいてこの何年かの間のインターネット上のコミュニティというものの意味や世相や価値観の変容と、それでも変わらないことなど、個人的にでもやってかなならんこといっぱいあるなという気持ちです。
文庫化で、より多くの人の手に届くといいなと思っております。
2025年 筑摩書房 文庫版の情報はこちら
2019年 書肆侃侃房 単行本の情報はこちら
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トランプがガザ地区をアメリカが所有するとネタニヤフとの会談で言っているので記録。
やっぱガザ地区の略奪じゃねーか。何が停戦と平和だよ。こんな予想外れてくれよ。結局前からアメリカもイスラエルでガザへの入植(土地の略奪)をやっているのでそれを堂々と言い始めよっただけじゃんか。特定の民族・人種の人々の土地を奪ってそこに生活していた人々を殺す、離散させる、他の場所に移して管理するっていう、20世紀までに起こって今まで死ぬほど反省したはずのことをまだやるのか? 人類が悪とみなしてるものはそのような行いじゃなかったのか。過去を省みて何か思うのはただのファッションだったのか?
2025.feb.5
イスラエルとパレスチナの問題で状況が悪化しており、個人でできることは「知ること」、非人道的な行いには安全な場所にいる人間がよくないことであると批判し声を上げ続けること、という基礎的な当然のことしか言えないのを毎度毎度毎度繰り返しており無力感がある。現地で様々な支援をしている人たちへ募金をするとかはそれはそれでやるべきなのだが、これは起こってしまっている諸々のことへ の対処であって、国という枠組みが人から生活や土地を奪い殺しているという根本的な部分は解決できない。知って批判する個人でいるぐらいしかやれることがない。イスラエルという国家が成立した歪な背景とパレスチナを収奪し続けているイスラエルという国の政治のやばさをアメリカなんかは露骨に支援してるしイギリスもヨーロッパもたいがいで中東の混乱はそもそもお前らのせいでは? て感じなので、国家の枠組みで安全に解決できる期待ができない。遠く離れた国に住んでいるからといって無関係ではない。自分が住んでる国の政治が間接的によその国の人間を殺すことはいくらでもある。
これは災害ではない。人間が人間同士で殺し合いをしない、奪うことをしない、という取り決めをしなければならない話なのだ。そのような場、条件を設けることがいまだに達成されない。過去何度かそのような動きがあるにはあったが要人が殺されたり話し合いの場を拒否したりままならない。国際的に批判があるにはあるのだが、もちろん声が届いてないなんてことはなくて、国という枠組みのしかるべきポストについている人によってはそれが視界に入っても無視していく。様々な仕組みの中で生きていかざるをえない人々はそれに従う。そして人が死ぬ。
個人でできること多くはないが、知って、批判をする、のを止めないでいる、ぐらいのことはやっていかねばならない。私は今、安全な場所にいるので。
現代演劇、舞台芸術作品では客を楽しませるためのエンタメではなく、ドキュメンタリー的性質を持ったものがかなりあり、芸術祭の類で各国に自国の現状を訴えるために演劇をやる、パフォーマンスをやる、という場合がある。本国に帰ったら上演できないタイプの作品というのもある。自国でもやるが国内の言論統制に引っかからない程度にあいまいにぼかして表現している、などもある。パレスチナで生きていかに生活・人生が制限されるか、いかに故郷がなくなっていくかについて語る演劇もある。日本では「紛争地域から生まれた演劇」という企画のシリーズがあり、様々な紛争地域で生まれた演劇・戯曲が紹介���れたり講演やリーディング公演などもある。
私の興味範囲の大半が舞台芸術なのでそこを通して世界の状況に触れることがある。ニュースを聞くだけだと情報の断片でしかないものが、舞台では災禍に遭っている本人によって語られる。私の場合はその話を聞く、目の前で再現されるという経験をしているため、意識に留められる量が増えている、というだけである。
私がイスラエルという国家の独特さに興味を持ったのは舞台芸術鑑賞趣味以前からではあるが(宗教への興味でなので)、イスラエルのダンスカンパニーを追っているせいで、興味のない人に比べれば視界に入って来る頻度が高い。諸々の状況が悪ければ公演がなくなるし、パレスチナへの侵略を批判する意見が盛り上がり、イスラエル政府の助成を受けているツアー公演のボイコットが起こることもまあまあある。私はイスラエルで活動するダンスカンパニーや振付家のファンではあるが、現代のイスラエルという国家が好きなわけではない。男女ともに徴兵制があり、その銃口は隣人へ向いている国である。ダヴィデの星が掲げられている国ではあるが、イスラエルに住んでいるイスラエル国籍を持つアラブ人もかなりいるしキリスト教徒もいる、様々な歴史文化背景がある土地であり、人種・民族差別も普通にある。ユダヤ教超正統派、戒律に厳格な人たちの中では現代の「イスラエル」という国があることに批判的であったりする。超正統派はイスラエルはユダヤ人の国ではなくシオニストの国であるとずっと批判しており、国の行いに対してデモもたびたびしている。国内でもそこに住まう人の意識は様々で統一された一枚岩ではないのだが、国という枠組みで見ざるを得ない時、確実に、隣人を殺し続けている国なのだ。
ハマス=パレスチナの人々の総意ではないがハマスがパレスチナに存在することは確かで、イスラム過激派だという説明があるがじゃあイスラエルがやってることはシオニズムの過激派ではないのか。土地を奪い続けて地域を封鎖して人もモノも流動を、生活を制限し続けている。最近の話ではない。ずっとだ。
なぜイスラエル側は非難されず(されてはいるが無視していいものとされ)、イスラエルのパレスチナへの侵略を援助する大国が多いのか? もともとヨーロッパやロシアに住んでいたユダヤ人がなんで中東に国を作って、そこに住まう人々を排除してまで移住しなきゃいけなかったのか? なんでそれを後押ししている強国があるのか? パレスチナが奪われ続け、人が死ぬのは、パレスチナではないよその国での政治の問題からきている。
自分の住まう国での人種・民族差別や政治の不具合が影響して世紀をまたいで遠い土地の人々を殺すことはありうる。今ニュースでやっているのがそれだよ。
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日記
アメリカの大統領が代わって、すげー勢いで「正気か?」みたいなアメリカのニュースが続くが他山の石として見れるほど他人事でもねえなというきもち。日本も構造は違えどやってることはどっこいだからな。
排外主義がどこもかしこも台頭しているが、田舎だから都市部だからというのも職業も年齢も関係なくて、あらゆる条件の場所でまんべんなく発生しうるものだし、世界平和を心から願いながらでも排外主義的振る舞いは発生しうるものと思っている。多分ほとんどの場合、十分知っていると思っている、自分のものだと思っていることがらが、自分の意思とは関係なく変化する時に反発心、排除の感情が起こる。ここを「えーっそうなんだ! 全然違うね、そっか〜!」みたいになるパターンは大多数ではない。利害関係なんてないようなものですら、「思ってたのと違う」と知るとショックを受け心身に負荷がかかる。そういう機微が「あるある」として多くの人に共有されラベルとして機能して区分けされ、なにかをきっかけに排除構造ができあがっていく。
ここ10年、20年ぐらいで身内や近い関係の人たちがどんどん「自分と違う」人の存在に耐えられず攻撃する人になっていくのを見た。年齢も住んでる場所もばらばらだが、何をキーにそうなってしまうのかわからない。
属性やラベル化の揶揄でよく身振りや使う言葉のかたよりなどをあげつらわれがちだが、周りが使う言葉や身振りを習得するのは環境の問題だと、自分には理性があるとか言うならご存じなはずで、環境はほとんどの人の場合自分で自由に選べたりできない。環境を全く違うものにする理由もほとんど見出せない場合が多いだろうし。
そもそも人はてんでばらばらで同じではない。よくみろ、よく みろ ラベルを貼って区分けたところで全然同じではない。よく みろ。ラベルじゃなくて人を。ひとりひとりについていちいち関わったり考えたくないからラベルをはるのだとしたら、それは物事を理解しようとする姿勢ではない。考えるのをやめて、処理したいだけだ。たいていの人には、他人と毎秒がっつり向き合うとか手間と精神力と体力の必要なことしている暇も根性もない。
私は出身がマジでど田舎の村なので、知らん人が外を歩いてる・村の人のじゃない車が止まってるだけで警戒するほんとにソトの人を異物としてとらえてしまうような土地(実際こんなとこにまで用もなく来る人などいないからだ)なのだが、この誰かに対する「彼は我々ではない」メンタリティは結局どこに住んでても誰にでもあって、東京やその他の都市部に住んでても会社でも趣味のコミュニティでも「ウチらとそうじゃないヤツ」の話題は普通にあるしインターネット上のSNSでも話題は「ウチらとそうじゃないヤツ」だしどこであっても人が集まれば村メンタルが発生するものなんだと思う。だからもう、いかに「他人を加害しないか」だけが重要で、心の持ちようは変えられないと思っている。
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メモ
ル・ポエム・アルモニークがヴェネツィアのカルネヴァーレ題材の作品作ったらしい。えーーーーめっちゃ観たい。コンメディアデッラルテの猥雑なかんじいいなー
なんていうの、時代衣装着てる諸々の作品のうち、いわゆる宮廷風のおしゃれきれいキラキラめコーティングじゃないやつのこの不気味+ダサさみたいなとこのやつが好きなんだよね。
あともう2月なので今年のヴェネツィアのカルネヴァーレ何日からだ? とググったら2月15日からだった。
2月は誕生月且つ謝肉祭の時期なんで好きなんですよね。節分(旧暦でいうところの大晦日/新年)もあるしなんかめでてえ感じで。
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日記
現代美術や上演芸術のうち公共寄りなほうの界隈で植民地主義についての話題は割と繰り返されるトピックだと思うのだが、日本の関東都市部をマーケットというか作品発表の場として選んでおいて植民地主義について他人事のように批判できる立場にあると思ってるのかマジで? という怒りが自分にはあるのだなということが最近やっと言語化できるようなったような気がするのであんまりきれいにまとまらないだろうなとは思うが書いておく。
これは東日本大震災が起こって間もないころに、現代美術や上演芸術で震災被災地や被災者を題材とした作品がいくつも作られたときに感じたわだかまりからはじまる。当時様々な作品に触れ、その無神経さにばちくそ怒りまくっていたのに周りにあんまり通じなかったという経験から、意識の違いと理解のできなさにかなりあきらめがある。
あの規模の大災害が起き、その時安全に過ごすことができた都市生活者が「多くの人が亡くなった・被害を受けた」という情報を受け取ったことで発生した自分たちの心傷を癒すために作られた作品群を私は評価したくない。いや、自分とは直接関係はないがひどい出来事を知ってメンタルがやられる・傷つくということは普通にあり、それはケアされるべきなんだが、芸術作品として発表された「傷ついた私たちを癒すための当事者を使った作品」を評価しようという機運があったから私はあの時めちゃくちゃムカついていたんだと思う。作られたのがフィクション作品であるならまだしも、ドキュメンタリーの手法で被災者を素材として扱い作家個人の名を冠した「作品」となり東京で発表する(東京で発表する以上誰のための作品かと言えば被災していない者たちのためなのは自明なので)というのが受け入れがたかったのだ。
あまり興味ない方にはピンとこないと思うが、現代美術も上演芸術も、当事者をそのまま作品の一部に組み込む手法がある。
自分たちの不安を自分たちの手でフィクションを建てて癒す・様々な取材をして状況を理解するための足掛かりとするというのなら好きにすればいいと思うが、安全な場所に生活している者が当事者を使って現実には何も解決してもいない他者の苦境についての【作品を作る】という行為がどうしても受け入れがたかったのだと思う。最近の流行りの言い方で言えば、自分たちの納得のために当事者を教材にするな、だ。
私は各種の創作が行われたことが正しいかどうかなど問題にはしていなくて、私個人がこの一連の震災関連の作品群の事柄が心底好きではないし評価しないというだけだ。「震災を思い出すから辛くて見たくない」のではない。創作物の傲慢さが嫌なのだ。
震災当時東京に住んでいて驚いたのが、原発の仕組みを知っている人の少なさである。原子力のなんかすごいパワーで電気ができるのではなく、核融合の熱でお湯を沸かしてタービン回して発電していることとか、東日本各地にある東京電力の原子力発電所が作る電気は原発所在地で使われるのではなく東京を中心にした関東圏へ送電されれる設計であることとか、電気の特性を考えれば送電ロスがあるのだから近場に建てるのが一番いいのに事故の危険性を鑑みて関東から離れた場所に原子力発電所を建てて電気を作っているとか、そのあたりのことを知らないまま生活できてしまうのだということがショックだった。東北の電気は東北電力が作っているので東京電力の発電所の事故は「東京(関東)の事故」であり、福島の原発災禍は関東のとばっちりなのだ。
私の出身地である新潟にも東京電力の原発があるため、当時まったく人ごとではない心地だった。なんで原発の仕組みを簡単にでも知っているかというと、原発を受け入れてもらうための、東京電力の「原発は安全である」ことをPRするCMが地元ではバンバン流れていたし小学校でも原発の仕組みを教わるからである。ちなみに「原発が事故ったら放射能汚染被害を回避する方法はないし諸々の放射線廃棄物を安全に処分する手段もない。あるのはとりあえずの対処だけ。事故らなくても通常の運用で発生する放射性廃棄物を無害化する技術は地球上にはない」というところまで教わる。原発事故が起こったら避難しなければいけない、ここは何キロ圏内だから避難方向はこっちで、などと授業でやる。東京電力圏内の人は、そのような仕組みを小学校で教わったりするんだろうか。
東北や中部の人間なら身近な話題であると思うが、働くために東京へ行く人が多い。人口流出がでかすぎるのだ。東京が悪いと言いたいのではない。東京に住んでいる人を批判しているのではない。人とモノ・エネルギーが関東へ吸収される仕組み、そうならざるを得ない構造があるといっている。大都市と、人もリソースも吸い上げられてしまう植民地としての地方という構造が間違いなくあるんである。これは物理の力学みたいなもんで、なんらかの構造を変えないとどうにもならない。個人の努力などではなく、政治と社会の仕組みの問題である。
震災被害、あるいは原発事故によって住んでいた東北から離れて他の場所に移住した人も多い。日本は国内で難民を大量創出している国であるがほとんどその自覚がない。故郷での生活を失った人の多さを知覚できていなさすぎではないのか。
話は少しずれるがずっと問題になっている日本の難民認定の異様な低さ、入管における虐待の問題は排外主義の傾向からきているのかと思っていたが多分違って、もともといる国内の人間の苦境にすらケアが乏しいのでこの国の政治は「人間が生活すること」への意識が異様に低いのだと思う。人間が生きることをあまりにも低く見積もっている。
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フランスのイメージ
パリオリンピックの開会式に関しての印象のもたれ方について今更メモ
演出について色々な意見があったようですが、なんというかフランスの舞台芸術のコンテンポラリー方面の表現を割とチェックしている身としては「今こういうかんじか~」ぐらいな気持ちでそこまで斬新で奇抜という気持ちはなかったんですが、いわゆるドがつくパブリックイベントとしてはアングラキッチュめなほうの表現でいったなという気はします。でも「お国柄イメージ」を打ち出すという意味ではほとんどストレートに「そうだね」ってならんかこれ。マリー・アントワネットがインパクトあるのはまあそうだしバレエも伝統芸能の一種だしフレンチカンカンとかはキャバレー・ナイトクラブ系の文化だけど直球でフランスのイメージだし(日本で言えば舞妓さんと芸者を国のイメージとして打ち出すようなもんだよ)こういうタイプのアイコンに違和感持つ人少ないだろうし言うてもこてこてのめちゃ鉄板イメージというか。
個人的な印象としては、パフォーミングアーツとして表現されたものごとより、このイベントは映像主体であって「その場に行って生で観るもの」ではあんまないんだよなあということのほうが強いかも。スポーツも今や映像映えが期待されるし。
フランスは日本では徹頭徹尾死ぬほどアングラ扱いの舞踏(土方巽からの系譜)が受け入れられてフランスの公共劇場で日本人がディレクターで公演やってきて日本の潮流とほとんど無関係に根付いてるような土地だからな……というひどく偏った劇場趣味者としての印象を個人的には持っているので、境界とか乱痴気騒ぎ的なものとかグランギニョル的な暗め表現をパブリックにぶちこんでくるのはお国柄では? と思っています。舞踏のことはさておいても、フランスでの伝統的な表現であるオペラもバレエも演劇も現在活躍している演出家や振付家の作品は歴史をふまえた思想のある内容をキッチュさと神経に障るような表現で普通にオペラ座とか地域の公共劇場でもやるじゃんよ(批判もされるが100%絶賛なんてほうが環境的にろくでもないのよ)。そういう土壌から今活躍している演出家とか関係者とか選んだらこうなるだろうよというか。言ってもそこまでエグい表現してなかったしな。と思ってしまうが少なくない人にとってあれはエグい表現だったんだろうか?
ところで日本のコンテンツビジネスでは歴史上の人物のキャラクター化というのがナチュラルにあると思うんですが、フィクションではなく、研究上のあるいは教育上の歴史を見るときにも今より前の時代の人物を歴史ジャンルの物語のキャラだと思ってしまうことと、物語と現実が同化すること、歴史が物語化するとき、今現在の我々が生きている世界をもフィクション化してしまうこと、歴史(今より古い時代の出来事や人物)を題材とした表現物で「何かを表象したアイコンとして描かれる」のが人間の形であるとき「人物」として読みとってしまうこと、などけっこうごっちゃ煮の価値観があり、印象の持ち方って単純じゃないんだろうなとぼんやり思います。
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