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#オベリスクの巨神兵
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次回予告アクリルスタンド2 | KAIBA CORPORATION STORE
商品詳細
『遊戯王 闘いの儀編』より、次回予告アクリルスタンドが全5種類で登場です。
仕様
サイズ:約W60×H80mm 素材:アクリル 生産国:日本
※商品個体差により、表記スペックに多少の誤差が生じる場合がございます。あらかじめご了承ください。
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getrend · 3 months
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【遊戯王】MEGATOON「青眼の白龍」「オベリスクの巨神兵」フィギュア 明日予約開始
fig速 – 【遊戯王】MEGATOON「青眼の白龍」「オベリスクの巨神兵」フィギュア 明日予約開始 【遊戯王】MEGATOON「青眼の白龍」「オベリスクの巨神兵」フィギュア 明日予約開始 Source: 5ちゃんねるまとめのまとめ
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magpiejay1234 · 5 months
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Next V-Jump special mail order pack is Quarter Century Legendary Selection, which features:
**An alternate artwork One for One featuring Sonic Chick.
**An alternate artwork of Polymerization featuring Avian, and Burstinatrix.
**A higher rarity version of alternate Obelisk the Torment.
So no new cards basically. I doubt next year will be other 3 series, though.
They are really trying to Mandela Effect Polymerization into GX huh.
Polymerization was already reprinted 20th Century Secret Selection in 2019.
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takahashicleaning · 9 months
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TEDにて
ジャン = ポール・マリ:戦争で死と遭遇した後に残される恐ろしい余波
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
2003年4月、バグダッドに米軍が侵入を開始したとき、戦場記者。ジャン=ポール・マリが滞在していたホテルをミサイルが直撃しました。
その時、彼は死に直面し、古代より戦場で命を賭けた人たちにとり付いてきた亡霊と出会ったのです。「目に見える傷跡は残さないのに、人を殺すこともできる ― それは一体何なのでしょう?」とマリは問いかけます。
彼が「死の虚無との出会い」と表現したのは、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とも呼ばれる障害です。��と精神病、そして恐怖と深いトラウマが後に残すものについて探るトークです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、危うく死ぬ。または、重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のこと。
私は調査を始めました。やり方はよく知っています。本を読み精神科医に問い合わせ、博物館や図書館へ行き、ついに、この事を知る人々を突き止めました。
軍の精神科医です。そして、これはトラウマと呼ばれる現象でした。アメリカではPTSDやトラウマ・ニューロシスと呼ばれ、これは存在を語られてこなかった現象でした。
それで、トラウマとは何なのでしょう?死との対面です。皆さんは、死を体験したことはありますか?死体のことや病室で亡くなった祖父や交通事故にあった人の話ではありません。
死の虚空についての話です。誰もが見るべきではないものです。昔の言い回しにこうあります「太陽も死もじっと見てはいけない」人は、全てを失う死に焦点を当てて見つめてはいけないのです!!
それを体験してしまうと一見何事もなかったように時は過ぎ、数日、数週間、数ヶ月、時には数年。やがて、突然、爆発します。
それは、すでにウイルスのように頭に入り込んでしまっているのです。心の窓の前には、そのイメージがあって頭に入り込んでいるそのイメージは頭の中を占拠していくのです。
男性も女性も突然、もう眠ることが出来なくなる。苦しみやパニックの発作に襲われます。
脳が誤動作していくパニック発作です。ちょっとした不安などではありません。突然、眠ることが出来なくなるのです。なぜなら眠ると毎晩毎晩、同じ悪夢が現れ同じイメージに苛まれます。
どんなイメージかというと例えば、ある兵士が建物に侵入すると待ち構えていた別の兵士が、銃口を彼に向ける。彼はその銃口を見つめます。すると、銃口は突然巨大になり、形を変え、毛むくじゃらになり全てを飲み込みます。
彼はこう言いました「俺は死を見たんだ。死んでしまったんだ」その瞬間から彼は自分が死んだことに気づいたのでした。これは、単なる感覚ではなくて彼は自分が死んだという確信があったのです。
実際は誰かが入ってきて敵の兵士は逃げたか撃たなかった。彼は撃たれたわけではないのですが、その瞬間に脳が死んでしまったと認識したのです。
例えば、集団墓地の匂い。私もルワンダでたくさん見ました。例えば、友が呼ぶ声。殺されかけている声。
でも、自分には何もできない。その声が聞こえるので毎晩、夜中に目覚め、それが何週間も何ヶ月も続き、子供のようにトランス状態でパニックを起こし、恐怖を感じるのです。
私は、大の男が子供のように泣くのも見ました。頭の中にあのイメージを見て、脳に強制的に焼き付けられた恐怖というイメージを、死の虚空のイメージと認識するのを見て泣くのです。その恐怖に似た何かは、何かを隠しており、頭の全てを占領していきます。
それには、どうしても抗えないのです。
これは珍しいケースでしょうか?いいえ、非常によくあることです!イラク戦争に行った兵士の3分の1は、彼らはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいます。1939年には、第一次世界大戦の兵士20万人が英国の精神病院で治療を受けていました。
戦争の恐ろしさ。脳に焼きついてしまう憎しみの連鎖です。
ベトナムでは、5万4千人のアメリカ兵が死に。1987年には米国政府が10万2千人の(約2倍ですよ)退役軍人たちの自殺を発表しました。ベトナムで戦死した兵士の数の2倍です。これで分かるでしょう。
現代の戦争だけじゃなく、古代の戦争でも本に書かれているように物語られています。
なぜ、私たちはこの事について語らないのか?なぜ口をつぐむのか?もし、そのことを語らなければ破滅が待ち受けています。
治療の方法は、ただ一つ!!
幸いにもこれは回復し得る病なのですが、ムンクの叫びやゴヤなどを思い出してください。そして、治療可能なのです!
トラウマ、このあなたを圧倒し、麻痺させ、しまいには殺してしまう死との対面から回復する唯一の方法は、その経験を表現する方法を見つけることです。
昔の人はこう言いました「ただ言葉だけが我々を一緒につなげるものだ」
言葉がなければ、私たちは人間ではなくなります。言葉のお陰で私たちは人間たり得るのです。このような言葉のない虚無が支配する恐怖のイメージに出会った後、そこから抜け出せる唯一の方法は人間の言葉を発することです。
つまりどういうことか?これは、トラウマの後、間違いなく、人は「存在の耐えられない軽さ」を失い、自分が永遠に存在するかのような感覚という認識を見失います。
これは、ここに居る私たちは永遠に居続けられるという誤った感覚ですが、それなしでは途方に暮れてしまいます。
「じゃあどうすれば?」トラウマの生存者たちは、この永遠の感覚を失い軽さを失うのです。でも、彼らは、新しい発見をすることも出来ます。もし、死と直面することになっても隠れたり沈黙を続けずそれと向き合うということです。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
(個人的なアイデア)
一度でも、人が人を殺してしまうと、その人は人間という概念には入らなくなる。これを仏教では、「業(ごう)を背負う」と言う概念というが、憎しみの連鎖も近い概念。
解決する方法は、戦国時代の古代日本にあって、人間の概念から外れたサムライ同士が、社会システムのために最前線まで自ら戦いに行き、日本の社会システム内で生きれない代わりに生贄として命を捧げる
こうして、戦いという形で善性に奉仕し、業(ごう)を背負ったサムライも憎しみの連鎖から転化されることで社会システム内の許しを請うという昔の人の知恵です。
法律がない時代の悲しい運命。しかし、法律がある現代でも万能ではないので感情や倫理などもあり難しい問題です。
現代では、人が人を殺してしまった兵士に近いかも。ナショナリズムとも呼ばれる。
最新物理学では、不確定性原理とエネルギー保存の法則により、他人が見ていなくても本人が見ているし、その行動や思いは波動として広がり続け、本人が話さなくても時空に折りたたまれ記憶されていくので
人間の善行為も悪行為も関係なく何千年でも繰り返して行く事象もありえます。
これは、最新物理学で裏付けられてて、仏教では「因果応報」とも言われます。
それに近い現象として・・・
研究論文「Killing Horizons Decohere Quantum Superpositions(キリング・ホライズンは量子の重ね合わせをデコヒーレンスする)」からのインスピレーション。
はじめに量子論で言われる粒子性と波動性。
次に、二重スリットの観測者問題。
三つ目に、ホーキング博士の「ブラックホール情報パラドックス」より・・・
「ソフトヘア」部分は、ブラックホールに落ちる物体だけでなく、ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しており、人間のように先入観はない「観測者」の条件を満たしていたことが、最近示されました。
この三つからインスピレーションがきた!
マクロ的にブラックホールが人間の原始的な目の機能を有しているなら・・・
まず、現在2023年までに判明しているユニバースの成り立ちの経緯を説明します。
ビックバン後に素粒子の標準理論に従うならば、ブラックホールが時間をかけて大量に点在して形成していく。
その後、ブラックホールも増え、融合、大質量になるに従い、ブラックホールの重力も範囲が広がる。
それに従い、重力波やその影響を受けた粒子の方も三つ目のメカニズムにより存在が確定していく。指数関数的に物質形成スピードも加速するメカニズム?
ビックバンの爆発を契機に、ブラックホールが波動性のダークエネルギーに満たされたユニバースの「最終的に宇宙に存在する全ての重ね合わせが完全に破壊されることになる」ことで
ユニバース全体の加速度的な時空の膨張にもに繋がります。
つまり、重力波などにより時空の膨張範囲も自発的に起こりつつ、指数関数的に時空膨張スピードも加速していくメカニズムの可能性が示されたかもしれない。
斥力やアクシオン、ダークマター、ダークエネルギーではない?
超大質量ブラックホールが中心にある銀河系以外の場所には、物質が存在しない事象も説明可能になる。時空は存在するが、波動性のままなので物質が生まれないから。
ブラックホールが人間の原始的な目の機能を有している可能性もあります。
逆に、考えるとミクロ的に人間の眼は、マイクロブラックホール生成装置?にも。今まで展開してきた仮説が正しいならそう見えなくもない。
視線に関する日本語の多様な表現には「視線に引き込まれる」など似たような言葉が。
果たしてただの偶然の一致なのか?
人間の眼の新たな機能、可能性として、新しいユニバース視点からここに到達しました。
と考えていたら・・・
さらに、インスピレーションがきました。
ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しているなら「梵天」や「アカシックレコード」が、実は、銀河系中心の超大質量ブラックホールのことかもしれない。
このレベルの巨大な記憶装置なら原初の宇宙からの全記録をしていても不思議はない。
仏教の無明にも概念が似ているし、量子エンタングルメントがブラックホールと人間の脳と相関作用して
宇宙際タイヒミューラー理論からアクセスして読み出してるメカニズムがあるかもしれない?
そうなら、少しユニバース領域を拡張してみると別の銀河系の超大質量ブラックホールにもその場所の原初からの全記録がある?
遥か銀河の遠くから重力波?何かのテクノロジーで読み出しができれば、地球にいながら別銀河文明の痕跡も知り得るかもしれない。
と考えてしまいました・・・
そして
モルフォジェネティックフィールドと「キリング・ホライズンは量子の重ね合わせをデコヒーレンスする」から
モルフォジェネティックフィールドによって時空に波動性が記録されていく可能性があるなら
それなら強烈な波動性の感情も時空に記録される?梵天に?
つまり、銀河系の中心にある超大質量ブラックホールに?
しかも、感情は形ある人間にしか発生しないので他の動物は共鳴しない仕組み?
ブッダの言うように人間の「パワーか?フォースか?」の本でのパワーレベルを上げて
自ら変わることで良い感情と共鳴しないと憎しみの連鎖も変わらない?終わらない?
その後
トポロジカルな輪廻転生や最新数学から明らかになっている概念を古代エジプトやそれ以外の宗教概念(パワーか?フォースか?で言う200以上の数値)と組み合わせて・・・
人間にも理解できるように現代的に数値化できないかを考察した。及び、将来の量子コンピューターで計算する可能性やその道筋を示していく。
あの世までは数値化できないが、手前のサンスクリット語でいうパーラミター(彼岸領域)までだけど・・・
「パーラミター」は「波羅蜜多(はらみた)」とも言います。般若心経です。
この仮説に死の瞬間の走馬灯をデータ化した情報を聞いてさらにインスピレーションがきました。
それは、超大質量ブラックホールに死の瞬間の人の記憶がタイヒミューラー理論で量子エンタングルメントにより記録されているとしたら?
つまり、アカシックレコードに記録されているとしたら?
人の死の際に走馬灯。つまり、走馬灯がよぎると言うデータが、死の直前に夢を見ている。もしくは記憶を再生して、何十倍ものスピードで記憶を再生していると言う解釈から
ひらめいたことが1つあります。
もしも死の瞬間に、その激烈な感情を自動的に沸き起こす人間の走馬灯システムが超大質量ブラックホールにアップロードされるための起動スイッチかも?
そのスイッチが入るために、アップロードできている?
または、アップロードするために、感情を一時的に死の瞬間に高めることで、超大質量ブラックホールに記録していると言う可能性が考えられます。
肉体の方は死を迎えるが、そういう意識は、感情を高ぶらせることで、超大質量ブラックホールに記録される
肉体の方、肉体が死を迎えても、意識の方が超大質量ブラックホールに記録されているので、その次の世代に生まれ変わったときに、さまよう意識が・・・
胎児へ回帰し、iPS細胞みたいにリプログラミング。また、そこから超大質量ブラックホールにアクセスしダウンロードできるような仕組みが?
もしかしたらタイヒミューラー理論と合わせて数学的なそういう裏付けで証明できる可能性があるかもしれないとひらめいた。
検証不可能だから、ただの仮説ですけど・・・
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ブラックホールと観測者問題2023
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仏教と物理学
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独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
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mari8log · 1 year
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2023/06/19
後で見る動画!
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これは身内向け私相関図です。マリマロンとハリマロンは別個体って話です。※鵜呑みにしないでね。
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2frikinbeast · 1 year
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Tweeted
RT @Polygon1993: オベリスクの巨神兵■ https://t.co/zT0vEVD98m
— Trey (@2frikinbeast) May 17, 2023
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ninjakunai · 2 years
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僅かだが、廃盤となった在庫(オベリスクの巨神兵)を見つけ購入し、先端の部品を外して付け替えたぜ。
俺は神であるこの廃盤在庫(通称、オベリスク)を生贄に、壊れたシャーペン(ブルーアイズ・ホワイトドラコン)を蘇らせる。
リバースカード、オープン!
「死者蘇生」
このカードで、粉々になったシャーペン一本が復活となる。
これで俺の手元には、ブルーアイズが再度召喚される!
俺のプライド、そして俺の魂…。
俺の未来は俺が決める!
出でよ!ブルーアイズホワイトドラゴン!
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dotomtom · 3 years
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はちみつケーキを作るオベリスクの巨神兵 https://t.co/emmLCpp2de Msyk_Amakudari さんのツイートから
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zugadooon · 4 years
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【遊戯王】オシリスの天空竜、オベリスクの巨神兵、ラーの翼神竜←一匹だけクソザコおるよな????? https://www.zugadoon.tk/blog/2020/04/12/%e3%80%90%e9%81%8a%e6%88%af%e7%8e%8b%e3%80%91%e3%82%aa%e3%82%b7%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%a9%ba%e7%ab%9c%e3%80%81%e3%82%aa%e3%83%99%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%82%af%e3%81%ae%e5%b7%a8%e7%a5%9e/
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ゆる☆ぎ☆お~ マスコットコレクション ●種類:全8種 ●価格:750円(税抜)
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yukiikeike · 5 years
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【遊戯王】オベリスクの巨神兵
部屋から出てきた懐かしい遊戯王カードを適当に紹介します、池田征広です。
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種族:幻神獣族
カードテキスト:その者、光臨せしむれば、灼熱の疾風大地に吹き荒れ、生きとし生ける者すべて屍とならん。
いわゆる三幻神と呼ばれる神のカード3枚のうちの1枚です。
ムキムキな体なので攻撃力、守備力ともに4000は当時ではかなりの高ステータスでしたが、
現環境では、4000くらいは超えられることがあるので、パワー負けする可能性はあります。
#遊戯王 #オベリスクの巨神兵 #懐かしい #三幻神 #池田正広
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オベリスクの巨神兵(in paris) エジプトから友好の証に送られてと言われてる。塔には古代文字「ヒエログリフ」 が描かれていて、パリの中心。大人気ストライキスポットでもある。 またこのオベリスクがあるコンコルド広場はギロチンによって1200人近く処刑された血生臭い歴史もある。 マンーアントワネットやルイ16世も ここで処刑されたという (Fontaines de la Concorde) https://www.instagram.com/p/BwuC83OJ_qr/?igshid=pt0ryi4yc1u2
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takahashicleaning · 4 years
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TEDにて
ジャン = ポール・マリ:戦争で死と遭遇した後に残される恐ろしい余波
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
2003年4月、バグダッドに米軍が侵入を開始したとき、戦場記者。ジャン=ポール・マリが滞在していたホテルをミサイルが直撃しました。
その時、彼は死に直面し、古代より戦場で命を賭けた人たちにとり付いてきた亡霊と出会ったのです。「目に見える傷跡は残さないのに、人を殺すこともできる ― それは一体何なのでしょう?」とマリは問いかけます。
彼が「死の虚無との出会い」と表現したのは、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とも呼ばれる障害です。死と精神病、そして恐怖と深いトラウマが後に残すものについて探るトークです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、危うく死ぬ。または、重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のこと。
私は調査を始めました。やり方はよく知っています。本を読み精神科医に問い合わせ、博物館や図書館へ行き、ついに、この事を知る人々を突き止めました。
軍の精神科医です。そして、これはトラウマと呼ばれる現象でした。アメリカではPTSDやトラウマ・ニューロシスと呼ばれ、これは存在を語られてこなかった現象でした。
それで、トラウマとは何なのでしょう?死との対面です。皆さんは、死を体験したことはありますか?死体のことや病室で亡くなった祖父や交通事故にあった人の話ではありません。
死の虚空についての話です。誰もが見るべきではないものです。昔の言い回しにこうあります「太陽も死もじっと見てはいけない」人は、全てを失う死に焦点を当てて見つめてはいけないのです!!
それを体験してしまうと一見何事もなかったように時は過ぎ、数日、数週間、数ヶ月、時には数年。やがて、突然、爆発します。
それは、すでにウイルスのように頭に入り込んでしまっているのです。心の窓の前には、そのイメージがあって頭に入り込んでいるそのイメージは頭の中を占拠していくのです。
男性も女性も突然、もう眠ることが出来なくなる。苦しみやパニックの発作に襲われます。
脳が誤動作していくパニック発作です。ちょっとした不安などではありません。突然、眠ることが出来なくなるのです。なぜなら眠ると毎晩毎晩、同じ悪夢が現れ同じイメージに苛まれます。
どんなイメージかというと例えば、ある兵士が建物に侵入すると待ち構えていた別の兵士が、銃口を彼に向ける。彼はその銃口を見つめます。すると、銃口は突然巨大になり、形を変え、毛むくじゃらになり全てを飲み込みます。
彼はこう言いました「俺は死を見たんだ。死んでしまったんだ」その瞬間から彼は自分が死んだことに気づいた���でした。これは、単なる感覚ではなくて彼は自分が死んだという確信があったのです。
実際は誰かが入ってきて敵の兵士は逃げたか撃たなかった。彼は撃たれたわけではないのですが、その瞬間に脳が死んでしまったと認識したのです。
例えば、集団墓地の匂い。私もルワンダでたくさん見ました。例えば、友が呼ぶ声。殺されかけている声。
でも、自分には何もできない。その声が聞こえるので毎晩、夜中に目覚め、それが何週間も何ヶ月も続き、子供のようにトランス状態でパニックを起こし、恐怖を感じるのです。
私は、大の男が子供のように泣くのも見ました。頭の中にあのイメージを見て、脳に強制的に焼き付けられた恐怖というイメージを、死の虚空のイメージと認識するのを見て泣くのです。その恐怖に似た何かは、何かを隠しており、頭の全てを占領していきます。
それには、どうしても抗えないのです。
これは珍しいケースでしょうか?いいえ、非常によくあることです!イラク戦争に行った兵士の3分の1は、彼らはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいます。1939年には、第一次世界大戦の兵士20万人が英国の精神病院で治療を受けていました。
戦争の恐ろしさ。脳に焼きついてしまう憎しみの連鎖です。
ベトナムでは、5万4千人のアメリカ兵が死に。1987年には米国政府が10万2千人の(約2倍ですよ)退役軍人たちの自殺を発表しました。ベトナムで戦死した兵士の数の2倍です。これで分かるでしょう。
現代の戦争だけじゃなく、古代の戦争でも本に書かれているように物語られています。
なぜ、私たちはこの事について語らないのか?なぜ口をつぐむのか?もし、そのことを語らなければ破滅が待ち受けています。
治療の方法は、ただ一つ!!
幸いにもこれは回復し得る病なのですが、ムンクの叫びやゴヤなどを思い出してください。そして、治療可能なのです!
トラウマ、このあなたを圧倒し、麻痺させ、しまいには殺してしまう死との対面から回復する唯一の方法は、その経験を表現する方法を見つけることです。
昔の人はこう言いました「ただ言葉だけが我々を一緒につなげるものだ」
言葉がなければ、私たちは人間ではなくなります。言葉のお陰で私たちは人間たり得るのです。このような言葉のない虚無が支配する恐怖のイメージに出会った後、そこから抜け出せる唯一の方法は人間の言葉を発することです。
つまりどういうことか?これは、トラウマの後、間違いなく、人は「存在の耐えられない軽さ」を失い、自分が永遠に存在するかのような感覚という認識を見失います。
これは、ここに居る私たちは永遠に居続けられるという誤った感覚ですが、それなしでは途方に暮れてしまいます。
「じゃあどうすれば?」トラウマの生存者たちは、この永遠の感覚を失い軽さを失うのです。でも、彼らは、新しい発見をすることも出来ます。もし、死と直面することになっても隠れたり沈黙を続けずそれと向き合うということです。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
<個人的なアイデア>
一度でも、人が人を殺してしまうと、その人は人間という概念には入らなくなる。これを仏教では、「業(ごう)を背負う」と言う概念というが、憎しみの連鎖も近い概念。
解決する方法は、戦国時代の古代日本にあって、人間の概念から外れたサムライ同士が、社会システムのために最前線まで自ら戦いに行き、日本の社会システム内で生きれない代わりに生贄として命を捧げる
こうして、戦いという形で善性に奉仕し、業(ごう)を背負ったサムライも憎しみの連鎖から転化されることで社会システム内の許しを請うという昔の人の知恵です。
法律がない時代の悲しい運命。しかし、法律がある現代でも万能ではないので感情や倫理などもあり難しい問題です。
現代では、人が人を殺してしまった兵士に近いかも。ナショナリズムとも呼ばれる。
最新物理学では、不確定性原理とエネルギー保存の法則により、他人が見ていなくても本人が見ているし、その行動や思いは波動として広がり続け、本人が話さなくても時空に折りたたまれ記憶されていくので
人間の善行為も悪行為も関係なく何千年でも繰り返して行く事象もありえます。
これは、最新物理学で裏付けられてて、仏教では「因果応報」とも言われます。
<おすすめサイト>
メリッサ・ウォーカー:アートはPTSDの見えない傷を癒せる
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
セバスチャン・ユンガー:なぜ?退役軍人は戦争が恋しくなるのか!
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
エド・ボイデン: ニューロンの光スイッチ
トーマス・インセル:精神疾患の新たな理解に向けて
メアリー・ルー・ジェプセン:未来のマシンで脳からイメージを読み出せるか?
脳と直接通信できるステント
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
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chnuru · 7 years
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『遊戯王』海馬瀬人と城之内克也のデッキがこれwwww
1: 名無しさん : 2018/03/09(金)21:01:50 ID:hrH 『海馬デッキ』○メインデッキ 49枚・上級モンスター 10枚青眼の白龍 ☆8 3枚オベリスクの巨神兵 ☆10鉄腕ゴーレム ☆6ジャッジ・マン ☆6ガジェット・ソルジャー ☆6復讐のソード・ストーカー ☆6ルード・カイザー ☆5暗黒の眠りを誘うルシファー ☆5 ・下級モンスター 16枚サイクロプス ☆4ミノタウルス ☆4ケンタウロス ☆4ブレイドナイト ☆4デスグレムリン ☆4ブラッド・ヴォルス ☆4ガーゴイル・パワード ☆4ロード・オブ・ドラゴン ☆4ランプの魔精・ラ・ジーン ☆4X-ヘッド・キャノン ☆4Y-ドラゴン・ヘッド ☆4Z-メタル・キャタピラー ☆4ガーゴイル ☆3マジック・ランプ ☆3闇・道化師のサギー ☆3邪悪なるワーム・ビースト ☆3 ・魔法…
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kazumichi-komastu · 8 years
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Memorabilia
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photo by Tatsuki Katayama
Memorabilia (2017) 
This project is similar to the  collecting of memorial-objects which are put in a cabinet and left over. Some people may think that "food was better" when receive "objects" on some anniversary. Memorial-objects must be kept as long as possible. It is because that memorial-objects purpose to be a memorable item. However, memorial-objects are never a trapped one, it is a poetic thing that stays in your eyes and surrounded by people and makes a vivid memories talk. In the Obon festival, we surround the Buddhist altar, surround your grave when Buddhist memorial day, and surround the Kamidana with relatives in the New Year.  I think that the act includes sort of poetry. But the problem is that even such poetry is forgotten, only the home as a safe "shelter" is left. In my family, the old 16 graves and one big grave (ossuary) were left in different lands respectively. Now, the old graveyard has been refurbished and it is decided that (the soul) will be transferred to a new ossuary. The old graveyard is left as is, it becomes just "stone". It will return to nature, returning to the "earth". There is an ancient tomb called Egenoyama tumulus in Nagaokakyo Kyoto. Another new graveyard is now tightly built on this ancient tumulus. It is ridiculous, but the ancient tumulus is "an important historical site", a stone monument with written explanation was built, and the area became a park under administrative control. Still, people come to visit the graves, and they all return equally to Earth. And another grave is made. It seems like a symbolic thing. The grave was a “router” to such a transcendental time axis, and should have been not a shelter that would be safe and secure by uniform oblivion. I decided to make a memorabilia for that memorial before the graves of my ancestor finally disappeared. Decades later, the place is surely covered with vegetation, there must be 'Earth'. From such a long time, I would like to have A few hours in commemoration. Objects may be broken pieces for routing us back to time to be distant, and may start piling up complicated forgetful ripples.
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メモラビリア(記憶すべき事/記念品)が意味するように、このプロジェクトは戸棚にしまわれ持て余されてしまう記念品の収集に似ています。記念品と言えば、何かの折にもらった記念品が「置物」だったとき、せめて食べ物にしてくれ、と思う人もいるでしょう。記念品は、ただ、できるだけ永く置いておかなければならない。それは、記念品にとって記念品であることが、当の目的であるからです。しかし、記念品は決して閉じ込められるものではなく、折に触れては目に留まり、人びとに囲まれて、鮮やかな思い出話を咲かしてくれる、詩的なものでもあります。お墓や仏壇や神棚だってその仲間でした。お盆には仏壇を、法事にはお墓を、正月には神棚を親類で囲む。家では、法事には毎年大勢の親族が集まり、皆でそれらを囲います。その行為は、ある種のポエトリーを含んでいると思うのです。しかし、問題となるのは、そのような詩性さえも忘却され、単に単一的で安心な「シェルター」としての「家庭」だけが残っていることです。私の家には古い16基のお墓と、一つの大きなお墓(納骨堂)が、それぞれ違う土地に残されました。今、古い墓地は改装され、(魂を)大きなお墓に移される事が決まっています。古い墓地はどうなるかと言うと、そのまま「石」になります。 それは自然に還る、いや、「地球」にこそ還る。 京都府長岡京に恵解山古墳という古墳が有ります。この古墳の上には、今は別の新しい墓地がびっしり作られています。なんとも滑稽ですが、古墳は「重要な史跡」として、丁寧に解説の石碑が建ってて、行政管理下の公園になりました。それでも、お墓参りに来る人がいる、そしてそれも全て等しく地球に帰る。そしてまたお墓は作られる。お墓は、そのような超越的な時間軸へのルーターであり、単一的で一様な忘却によって安心安全になるようなシェルターでは無いはずでした。 私は、ご先祖のお墓が無くなってしまう前に、その記念に記念品を作る事にしたのです。数十年後、お墓だった場所はきっと草木に覆われてしまう、そこにはただ「地球」があるに違いないのです。そんな長大な時間から、少しの時間を、記念に頂戴したい。そんな記念品は、折り返し私たちを、気が遠くなる時間へとルーティングさせる為の破片となり、単一ではなく複雑な忘却の波紋を重ね始めるかもしれません。 「Memorabilia」によせて
忘却と時間についてのメモ
1(時間と忘却)
 忘却曲線を発見したドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウスは、列に並べられたリストにおいて初項と最終項とその中間とで記憶の想起における度合いに差異がみられる事を実験により発見した。複数あるもののうち最初の方と最後の方を比較的よりよく思い出すというものである。その理由の一つとして、特定の記憶において、始点となる部分は繰り返し触れる事になること。また、他人の印象や、音楽、映画、小説、何事においても最後の部分が強い印象を残すから(残存効果)(* 1) 、とされる。初対面は最初の印象と別れ際が肝心と言われる。本が表紙と背表紙により、その本の中身を幾分か物語るように。古い映画を映写機で再生する時は、フィルムの端を探すだろう。何かの記憶を思い出そうとするときも、本の表紙のような、あるいは題名のメモか、フィルムの整理番号のような、何かきっかけ的な「始まり」を探し出す。あるいはそれが何かのエンディングだったのかもしれない。とにかく前触れもなく記憶の内容が溢れ出てきたりするのではなく(例外としてフラッシュバック等、何か外部からの強烈な刺激により起こった精神的ショックが強制的に脳内に過去のイメージを蘇らせる事がある。脳内の一種の通信回路エラーである。)、慎重に思い出そうとするのなら、歩みを止めた棚に整然と並べられたアルバムのような記憶たちは、始まりと終わりを持つ。床にバラバラになってしまった写真のような断片的なものも、当初はそれらのインデックスであったかもしれない。
 ではなぜ始まりと終わりが有るののか、そこに順番があるのか。それは「時間」と関係している。今ふと思い浮かべるあの時の記憶にも、その時の「時間」が流れていたはずだ。時間と一口に言っても様々な解釈が存在し、大昔からの哲学上の大問題である。それもそのはずである。人は、今まさに世界を感知しているように、知覚認識した世界情報のディティールがリニアに変化することを絶えず受け取ることができるし、変化していると分かるからだ。カントは時間というものを「感性的直観の純粋形式」と言った。感覚の形式化のフレームそれ自体はアプリオリであるとし、時間もアプリオリな直感の形式とする。つまり、時間はそれ自体は外在する何かではなく、何かの経験を可能とする人間の直感の形式であるという。それは最初から絶対的に人間の中にインプットされているという。さらに、それらは私たちの内に内感する直感の形式であるが故に、私たちは時間を一定方向に伸びていく直線的なイメージで代行的に表象する。(* 2)  一方でこのように考えることもできるかもしれない。始点と終点があるから、「時間」というものが、まるでゆっくりとあるいは猛スピードで「流れている」かの様に感じる、という風に。ポール・リクールは、「時間は物語の構造における分節化という理解によってはじめて人間的時間として理解可能になる。」という。時間の認識をまさしく人が物語るという行為、語られた物語のなかに発見する。(* 3)
 リクールのこれらの時間への言及は、時間を表象する際の一つの方法論ととることができる。一方で、断片的なイメージがまずいくつかあり、その順序の中に前進する時間のおおまかなイメージが形成され、いわば私的な時間感覚を形作る。カントによると、時間は実態のある何かではない。しかし一方でもっと素朴にそれは、例えば時計の秒針が右回りに少しづつ振れ、周回を繰り返す動きをまず観れば分かるように、あるいは、カチカチと秒針が「進む」ことを知らせる音や、それとともに聴こえてくる窓を細かく揺らす風の音。あるいは、手首を押さえたときに感じる脈動のリズムの緩やかな変化にみてとれる。カントによれば、時間は空間のディテールのリニアな差異をまさに差異として認識するシステムということになるだろう。しかし、一方で時間は、今まさに空間を認識し続けるためのディテールの差異化のプロセスともいえる。
 
 エビングハウスの単純なシリーズによる実験によって発見された記憶の根本的な原理は、ある体験の始点と終点を強く覚えているという記憶の傾向を示している。むしろ、記憶全体はぼやけつつも確かに脳内にメモリーされていて、とりわけ始点と終点をよく思い出す傾向にある、というふうにも考えられる。それは言わば忘却による中略=形骸化のようなイメージで捉える事ができるのではないか。このような記憶の中略的忘却のゲインと、アプリオリな内的感覚として時間や、空間のリニアな差異化というかたちで姿を表す時間との関係は、どのようなものなのだろう。
2(伸縮する時間)
 アラン・レネによる初期のドキュメンタリー「世界のすべての記憶 (原題:Toute la Memoire du Monde)」では、16世紀以降の全ての文献が収蔵されているというフランス国立図書館の内部各所を丹念に映し出している。図書館で働く作業員が、新しく届いた書物を丁寧に仕分けしていく作業の様子、朽ちていきそうなふるい書物を修復する様子、図書館の全体的な俯瞰、内部の構造、膨大な書類の山、しまわれる場所に運ばれていく一冊、そして暗い書庫に無数に並べられた本棚たち。詩的で印象的な語り口とともに映像が映し出すのは、戦争を含む人類のあらゆる歴史、個人史、夢、などのあらゆる「記憶」がまさにその運命に従って「記憶されていく」様子に見える。さて、この巨大な書庫の奥底にしまわれている書物たちは、いつか、その背表紙の文字列を認められた誰かの手に取られ、机の上にもう一度開かれる事が有るのだろうか。
 柳田国男は1945年、終戦直後に出版された「先祖の話」の自序において、その執筆理由と合わせてこのように語っている。「常識の世界には記録の証拠などは無いから、たちまちにして大きな忘却が始まり、以前はどうであったかを知る途が絶えていくのである。(中略)日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。(中略)今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最も良く調和した、新たな社会組織が考えだされなければならぬ。」柳田は東京大空襲のさなかで、大いなる忘却と大いなる過ちに未来を危惧し、筆をとったに違いない。
 記憶/記録とは何か。それを思い出すということはどのように可能なのか。それはもちろん、大きな意味での歴史から個人/家族史の形成に深く関わっている。(*4) また、脳科学によって記憶形成のメカニズムの多くの部分が解明されてきている。一説に寄ると、海馬は10年ごとに神経細胞を全体の5%ずつ失っていき、80歳の老人は20歳の若者に比べ、海馬の神経細胞の数が20%減少していると言う。(*5)  生物的な老化によって記憶力はおちていく。さらに、脳は記憶をでっち上げたり、完全消去したりしてしまうことも実証されてきた。何度も目にしている、耳にしたものでも、特に関心のないものに関しては断片的にしか覚えていなかったりする。例えば「100円玉のデザイン」を思い出そうとすると、その具体的な柄をはっきり覚えている人はかなり少ないのだ。逆に、なぜか幾度も思い出してしまうお気に入りの記憶もあったりする。私自身も悪い事はすぐ忘れ、良い事はそれなりにずっと覚えているような気がしている。何を忘れ、何を記憶しているのか。そこにはどんな秘密があるだろう。エビングハウスの例にあるような実験であっても、その閾を正確に数値化して測定することは不可能である。それは完全に人それぞれ、違った傾向があるのだ。
 
 ここで、記憶と忘却に関してのひとつ興味深い例として、埋葬や先祖参りといった「喪」がある。親しい、あるいは目上の人物が亡くなった際に行う様々なグリーフワークや喪の儀式は、人間の社会的なネットワークの発生初期から世界の至る所、様々な文化圏において様々な形態で自立的に発生し、いくつかは今日まで継続されてきた。喪とは、非常に極端に言うと、「忘却の促進の行為」と定義できる、と私は思っている。精神的な痛みを一時的に、あるいは時間をかけて忘れるために様々な、段階的な行為が、ときには瞬時に、ときには何度も長期にわたって行われる。つまるところ、それは「死」という絶対的な生理的臨界点をメルクマールとしたときの、時間の伸縮の行為であると。(*6)
 埋葬の形式、つまり「葬儀」や「墓」の制度は「喪」の直接的な形態として重要な位置を占めている。(*7) よく知られているように、柳田国男は日本の儀礼制度習慣と日常の分類に「ハレ」と「ケ」という言葉を使った。(葬儀をハレ(非日常的儀礼の一種)とするのか、ケ(日常生活)とするのかには諸説あるが、多分に曖昧な論争であり、そのどちらとも言える場合がある。)日本神道では、死そのものは穢れであり、塩をまいたり、祭壇に備えたりする。それらを祓い清めるためである。一方で「祭」という文字が本来葬儀を意味することからも読み取れるように、葬式はハレの側面を持っている。葬儀は非日常的で特殊な、日常から逸脱した時空間であったことが分かる。ここでも、大昔より、「死」という生理的な臨界的現象そのものと、それを特殊な集団的関係性の上で抽象化するような「喪」の非直線的な関係がみてとれる。柳田国男は盆と正月の起源にふれつつ「先祖の話」の一節「めでたい日」の中でこのように語る。
「盆でも最近の一年二年のうちに、不幸のあった家は一部分で、しばらくそのような悲しいことにも出逢わず、二親が揃ってながいきをしているような家々では目出たい日であった。現に田舎では、おめでとうと言って人が盆の礼に来ている。祝うという言葉はこのごろでは意味が少し変わって来たが、本来は身と心とを清くして、祭を営むに適した状態にいることを言ってものであった事は、書物に現れている古いこの語の用い方を比べても判る。もとは斎うという文字を書いていて、神の御社の祭の用意も「いわい」であった。祭をする人々が行いを慎み、穢れた忌まわしいものに触れず、心を静かに和やかにしているのが祝いであり、その慎みが完全に守られているのが、人にめでたいと言われる状態でもあった。」 -  「先祖の話」 柳田国男�� p46
 柳田国男は仏教の法事と日本古来の神道的、土着的風習をはっきりと区別していた。仏教では亡くなったものは皆仏となり、残された者は何年にもわたりその魂を年忌毎にまつるが、本来、そのような仏教的先祖観とは異なる日本人の先祖への向き合い方があったという。つまり、亡くなった者は皆ある程度時間が経つとご先祖さま、あるいはみたま様という大きな一つの霊体にとけ込む(氏神)。そして故郷の山々の上より子孫を見守り、盆や正月には家に帰ってくるという。(*8) そのように継続される氏神信仰なくして、日本人の「家」への特別な思いは育まれ、永きにわたって家系が続くことはなかったと分析した。また、柳田は「墓制の沿革に就いて」において故郷兵庫県辻川の調査をひきつつ両墓制という墓制習俗を取り上げる。それはお参りのための「祭地」と埋葬のための「葬地」を分けるという風習である。 詳しい発生原因はわからずとも、そこには死穢の観念や遺体恐怖といった「死」という絶対的な現象と、死者供養のモニュメントをはっきりと分けようとする意図が感じられる。柳田は、埋め荒れた場所は墓とは認識せず、詣り墓(祭地)こそが本来の墓であると考えた。
3. (墓という忘却の装置)
 しかし、「墓」という構造物は、もちろん日本にかぎったものではない。
 
 近代に古代ヨーロッパ、ギリシャ、ローマからエジプト、インド、カルデア、バレアリック諸島、シナにいたるまでの埋葬の跡や様々な葬儀の際の逸話を歴史、宗教、人類学的観点から収集し論じたものとして、1608年、ロンドンで生まれ、ノリッジで活躍したイングランドの著作家、サー・トーマス・ブラウンの著作『ハイドリオタフィア(壺葬論)』1658年 (*9) がある。原題は、Hydriotaphia, Urn Burial, or, a Discourse of the Sepulchral Urns lately found in Norfolk。そのまま訳すと、「ノーフォーク地方で最近発見されたローマ時代の骨壷に関する論述」。友人、トーマス・レグロウへの冒頭での付記には「しかし誰か、己の骨の運命を、掘り出されてはまた埋められることの幾度なるかを知るや。」とある。ブラウンの、儚き死後の世界への豊かな関心がみてとれる一文だ。本書の中では、柳田が論じた先祖論である「みたま」によく似た論考が記されている。
「古代の異教徒は、音楽を用いて、さまざまなハーモニーにより、残された友人の感情をかき立てたり、沈めたりした。さういふことの起る隠れた深い理由は、霊魂が一つのハーモニーであることに由来している。肉體から解かれたハーモニーは立戻つて、原初の天のハーモニーを享ける、本来そこから降下したものであつたのだから。その道筋を辿つた古代人に依れば、蟹座より下つて、山羊座を通つて戻つたというふ。 …  そして希望もなく喪に服しながら、深き悲哀は却って亡霊の安息を亂す(みだす)といふ通行の見解によつて、過度の悲歎を避ける幸便なまやかしの口實(こうじつ)を持つていた。」
 またブラウンは最終章では古代からの人々の欲求であった生命の永遠性への接近としての埋葬について論じ、派手な墓やエジプトのミイラ等にみられる工夫のこらされた埋葬形式がいかに永遠性と結びつき、あるいは結びつかず、儚さをたたえているのかを記している。ブラウンは死後の肉体の永続性についてはいささか批判的であり、ピラミッド、凱旋門、オベリスクなどの巨大な墓廟的建造物に対しても「虚栄に発する異常物」と語り、見つからざる墓、埋葬こそ、真の保存へとつながるのではないかと考察している。
「さても、今般の死せる骨は、既に(969年間生存したといふ)メトセラ體内の骨よりも長く存し、地下三尺、薄い年度の壁の裡に、地表のあらゆる強固・壮麗な大廈よりも久しきに耐え、三度の征服(アングロサクソン、デイン、ノルマン)の戦鼓・蹂躙の下にも静かに眠つていたのであるからには、如何なる王侯も己の遺骨にかかる永續性を約し得ようか、欣然とかう言はずに居られようか、  骨トナリセバ、我モカク在ラマホシ<テイブルルス>  古代を古ならしめ、萬物を塵と化すすべを心得ている時ですら、なほこのささやかな思出草を有したのである。開かれて一目に触れる保存所に在つて世に傳へられる(つたえられる)ことを望むのは虚しい哉、世に知られざるこそ永續の手段であり、無名こそ保護の手立てであるのに。 
…(中略)
とはいへ、遺骨となつて存続し、ピラミッド内のミイラとして今に存へんとするのは、永生を誤り解したものである。名前、形容、時代環境、性別も忘却されて、實のない持続となり、後世に對してただ人間の虚しさの象徴として、傲慢、虚栄、狂へる悪徳の對症薬として立現れる遺骨は虚しい哉。この世は永久に続くと觀じた異教徒の思ひ上がりが、野望をそそのかし、わが名聲の不滅の糸を断つアトロポスを見ぬゆえに、その思ひ上がりには忘却が不可避であるとの冷水を浴びせられることもなかつた。
…(中略)
古代の英雄たちは既に己の記念碑、手を盡した保存遺體を超えて生きのびている。ところが今や、時の晩期において、われわれはそのやうな永続する記憶を期待できぬ。今や野望もエリアスの予言<この世はただ6千年しか続かぬであらうと>を恐れるであらうし、カルロス五世もヘクトルの如くメトセラ二代を存続することは全く望み得ないのである<ヘクトルの名聲は、かの高名な王カルロスの出現以前に、既にメトセラの生涯の二倍以上続いている>。まさにそれゆえに、われらの名聲の永続を求めて慌しく思ひ煩ふのは、現状を考へるにほとんど時代遅れの虚妄、退休せる愚行である。
…(中略)
この期に及んで、記念のものを以てわれらの名を残さうとする如きは、われらの信ずる處(ところ)と矛盾することにならう、われわれは最後の審判の日の到来を日毎に祈ることで、記念物の壊滅を願つているわけだし、その永続を望むのは、再臨の期待を裏切ることにならざるを得ないからである。… そして残る将来の短きを注視することを迫られて、自然と来世を思ふべくしつらへられ、それに較べればピラミッドも直ちに融ける雪の山、すべての過ぎ去りし時も一彈指の間といふべき、かの永劫に思ひを致さずしては許されぬのである。」
 キリスト教的世界の終焉(最後の審判)がそう遠くはないと常に意識された時代において、もはや死後の肉体の永続を望んでも無意味である、という。さらに、古代からの忘却と魂の行く末をこのように記した。
「闇と光とが時の流れを分け持ち、忘却は、われらの生きて在るときすら、記憶に対してかなりの部分を占める。極めてづきづきする災禍の打撃も短いうづきを残すにすぎない。人の感覚は極端に耐へぬ、悲哀は人を傷るか自らを破る。涙のあまり石に化するとはお噺である。度重なる災禍は不感性を齎し、悲惨はうつろひやすく、雪の如くわれらにかかる、とはいへこれは決して不幸な愚かしさではない。来る災厄を知らず、過ぎ去つた災厄を忘れることは、自然の恵み深き配劑なので、これによつてわれわれは短命で災多き日々と雑揉者をこなし、感覚は解放されて身を切る思ひ出に陥ることなく、悲哀は繰り返して生身に焼刃を感ぜしめることもないのである。古代の多くの人々はその存続の望みを魂の轉生輪廻に託して満足していた。…他の人びとは寧ろ落ち着かぬ無の闇に没して、共同の存在に加はり、萬物の共有する大霊の一部となつて満足した。これはとりもなほさずかの知られざる神の始原に戻ることに他ならなかつた。」
 自然より与えられた配慮として忘却を捉え、それゆえに苦しみから解放されると語る。最終章の末尾ではこのように記した。
「永く残る墓碑として存続し、己の造りしものの内に生き、己の名前と鵺の如き範疇のうちに存すること、これが往古の期待(する人びと)には大きな満足であり、そのエリジウムの一部を成した。しかしすべての斯の如きは、真の信仰に発する形而上学より見るに無に等しい。… サンティノサン境界の墓地<パリにある、ここでは死体の分解が早い>に横たはるも、エジプトの砂中にあるも全く同じこと、永遠に存することの恍惚感の裡に、何者にでも成ると覚悟せよ、そして六尺の僑居にも、ハドリアヌスの大廟<ハドリアヌスがローマに築いた壮大な葬廟(モーゾリーアム)、現在はサンタンジェロ城となつている>に在るが如く、心満ち足りてあれ。」
(原文:To subsist in lasting Monuments, to live in their productions, to exist in their names, and prædicament of Chymera's, was large satisfaction unto old expectations, and made one part of their Elyziums. But all this is nothing in the Metaphysics of true belief. To live indeed is to be again our selves, which being not only an hope but an evidence in noble beleevers; 'Tis all one to lye in St Innocents Church-yard, as in the Sands of Ægypt: Ready to be any thing, in the extasie of being ever, and as content with six foot as the Moles(Mausoleum) of Adrianus.)
 「本当に生きるという事は、後世に名前を残す事ではなく、自ら自身を再認識することだ。(To live indeed is to be again our selves)」とブラウンはいう。結局のところ巨大な墓を作っても、いずれ朽ち果てるか、後世の世の笑いものにされるか、どちらにせよ、形而上学的に哲学的に考えれば無意味である、そのような虚栄に傾くより、誰にも知られずにひっそり眠る方がまだ死骸も安泰だろう。自ら自身へ立ち返れ。とここでは啓蒙主義的主張で結ばれているが、本書の本領は古代ギリシャからシナにいたるまでの墓制や葬儀に対する習慣の詳しい文献調査によってもたらされたデータベースにあるだろう。「古代の人びと」も、逆らう事のできない記憶の忘却と時間の瞬く間に、死者への対面においては、特別で複雑な感情を持ち、それに向き合っていたのだ。また、ブラウンが強く退けるエジプトのピラミッドなどの巨大で「狂った」永続性の担保となる建造物も、ここでは、むしろ、古代の人びとがいかに死の断絶を乗り越え、超時間的に生を捉え、それを強く望んだかが強調され立ち現れてくる。
 お墓は私が忘却について考えるきっかけとなったきっかけである。実家に現在も残る墓地を改葬する(墓地の機能を排し、お参りする場所を一カ所にまとめる)ことで、改葬のあと、墓地に放置される墓石が、そのまま単なる石列に変わると言う特異な状況に先立って、先祖との関係性や個人史の形成に関心を持つようになったのだ。その後のリサーチを続ける中で、私は、お墓とは緩やかな「忘却」を促す装置なのではないか、というふうに考えるようになったのだ。(*10)
 お墓はアーカイブ(記録)の一種のように見える。ここでは、私たちはそこに眠る誰かの死という原体験に触れる事はできない。(異常な精神状態、フラッシュバック等で時として原体験が鮮明によみがえる場合もあるが。)本来、時間とともに、忘却によって原体験はかすんでいく。しかしそれらを記憶として思い出す事ができる。思い出すという行為は、物理的にも、感覚的にも忘却によって抜け落ちた箇所をフィクショナルに埋め合わせていく行為ではないか。このようなフィクショナルな埋め合わせを「記録」と呼ぶことができるとすれば、そしてそのように記録物によって思い出された記憶は今まさに新しい体験として更新されていき、また忘却していくことになる。(このような上書きされる新たな体験こそ忘却の本質とも言える。一方で、忘却故に「差異」がリニアに生まれ、現在を体験できるとも言えるのではないか。この論理は対立しながら循環している。)つまり、私たちは記録をし、それについて思い出すことで積極的に忘却していると言えるのだ。
4. (墓地という空間)
 ピラミッドは人工的な墓としては最大級のものであるだろう。しかし、ここ日本には面積においてはピラミッドの4倍はあろうかと思われる巨大な墓がある。大仙陵古墳である。(クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵と並び世界三大墳墓の一つ。高さではクフ王のピラミッド:146.6mが最も高いが、墳丘の平面規模は最大。)だれもが歴史の教科書で観た事があるにちがいない、独特の形状をした墓(前方後円墳)だ。前方後円墳の形状の由来として最も有力なものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したとするものだ。従来より国内に存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋の部分で祭祀などが行われ、その後この部分が死の世界である「墓」と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳とつながったと考えられている。(*11) ここでも、興味深いのは、古墳時代の人びとの「死」の世界との関わり方である。(前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられ、それと同時に埴輪もつくられるようになる。)(*12) 古墳の陸橋部分の周囲によく出土する埴輪は当初、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いら���た。その後、様々な種類に枝分かれし、死者の霊が生活するための依代、あるいは死者が生前に居住していた居館を表したとされるもの(家形埴輪)、ずらっと並べられ、葬送儀礼を表現したり、生前の祭政の様子を再現したとされるもの(人物埴輪や動物埴輪)など、死後の世界と現世のインターフェースとして大量に作られた。とりわけ、前方の陸橋部分を囲うように群像でならべられた埴輪は、死者の眠る地である墓を聖域化する境界として捉える事もできる。
 
 巨大な墓の建造には、やはり多くの人員と時間を費やす必要があった。そこには、死後もなお続くこの世に自らの存在を残さんとする強大な権力の行使にのみならず、一つの共同体として「死」というものを単なる個別の生物的な臨界的現象と捉えるのではなく、集団での巨大な政として昇華する営みがみえる。巨大な墓場は単に死者が眠る場所のみならず、墓地全体が所々に様々な理由で形作られたであろう工夫や様式を持ち、いわば集団的な祭の舞台装置としても機能していた。そして、この儀礼の舞台全体が、空間的にこの世/あの世の境界を代替する役目を持っているのだ。つまりそれは現世に「死」の世界を代替的に召喚する空間であった。前方後円墳の前方の陸橋は、墓の部分である円墳(あの世)へ徐々に近づく途のようである。しかしこのような祭儀の空間は、より一層強く「生」を勢いづかせるに違いない。生の中に死を見つめる舞台、生の中に死を取り込む為に、墓地は境界に囲まれた聖域でなければならない。そして祭事(葬儀)においては、人びとはまさにこの空間において、墓の一部となる。
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墓(古墳)の上に墓地ができてしまっている。恵解山古墳 2016 年 筆者撮影
 建築の世界では、建築物の設計図や断面図において、黒く塗りつぶされる厚い壁や柱の部分を「ポシェ」というらしい。そうするとピラミッドなどはほとんどがポシェであるということになる。ピラミッドを図面にしてみたらほとんど真っ黒になってしまうだろう。
 建築物は普通は外観と内観を併せ持ち、私たちはそれらのイメージ上の複合によって、建築像を作り上げている。しかし、実際にはその像はうまく噛み合なかったりする。その際に直接は知覚することができない余剰の部分がポシェである。ポシェは実際には視認したりすることができない。そこに入る事もできない。しかし、それゆえに実体を超えてまさに物質的に出現する。ポシェとは見えないから見えるものであり、知覚できなさゆえに、知覚を超えて知的に露出する領域だ。墓は、ポシェ自体ががむき出しになっている様なものだ。それは、知覚できない故の物質性そのものを、知覚可能なものとして露呈させているようなもの。つまり墓にとっては、それが知覚を超えてまさに物質的であるということよりもよりもむしろ実質的に物質的であることにより、知的な認識より前に墓そのものとして立ち現れる事が重要であるのだ。言わば、墓の目的はそれが墓であるということで達成される。
 墓は、まずはっきりと墓としてあること(実体的な物質性が強い)により、多くの事を隠し、多くの事を忘却させていく。葬儀や埋葬の「喪」の行為、その祭は、特殊な忘却的行為とも言えるのではないか。お墓は(モニュメントと同じように、)メモリアルな記録物だ。はっきりとした形でしっかりとした無機的な強度を持って存在感も大きい。つまり記録物としての強度が強いため、長期的に忘却を促し、そこでは特殊な時間との関係性が約束されている。日常(「ケ」)の時間軸を逸脱し、伸縮自在な時間(「ハレ」)へ。そのトランスフォームが、お墓と言う様式に現れ出ているのではないだろうか。
注釈/補足
*1 - Reference: Anderson, J. R. (1976). Language, Memory, and Thought, Lawrence Erlbaum Associates. /Erik M. Altmann, Memory in Chains: Modeling Primacy and Recency Effects in Memory for Order
*2 - イマヌエル・カント 『純粋理性批判』
*3 -  ポール・リクール 『時間と物語』
*4 - ポール・リクールによると歴史の記述は、記憶、忘却と時間との関係の中で、集団的・個人的に抑圧、濫用、強制されながら形成され、本来の意味での「記憶すること」はさまざまな方法で阻害を及ぼす捏造された記憶によって妨げられているという。個人、集団に関わらず、何かを記憶する為にはなにかを忘却する必要があり、何を忘却するのかによって記憶の性質は異なる。リクールは実際に起こってしまっている新たな殺戮(コソボ、パレスティナ、北アイルランド)が、ある政治的力の作用によって新たに作りだされ、操作された記憶によって生み出されていると指摘する。『記 憶、歴史、忘却 La mémoire, l’histoire, l’oubli』 (2000)  しかし、そのような記憶によって引き起こされる現在は今まさに差し迫っており、また、そのように見いだされた記憶による問いはまずもって他者的であるという倫理性の難問に直面し、それは「人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」 というリクールの言葉にも現れている。
Reference: 2009年立命館大学で行われたヘイドン・ホワイトによる公開講義『ポストモダニズムと歴史叙述』url : http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/news/200901022_repo_0.htm
*5 - Reference : http://www.brainfacts.org/sensing-thinking-behaving/learning-and-memory/articles/2016/catharine-young-how-memories-form-and-how-we-lose-them-040516/
*6 - 日本における葬儀についての詳しい解説は 「葬送習俗事典: 葬儀の民俗学手帳」柳田国男著 河出書房新社 などに詳しい。 
 ここでは喪について簡単に例に挙げて触れるにとどまるが、その歴史や文化的背景、あるいは心理学的な考察は非常に深く広いものであるだろう。また、グリーフワーク(死に対面した際の人の心理的プロセス)と「喪」は全く別なものとして捉える事ができる。大まかに言えば、「個」と「集団」によって、である。
 「死」という現象の立ち現れ方も様々に分類される(大まかに分けるならば、1不慮の交通事故を目の前で観てしまった際などの、全くの個別的な他者の死との遭遇/2テロリズムなどによる集団的な他者の死との遭遇/3集団的な比較的近しい親族や友達の死との遭遇/4心理的に近しい親族、友達、恋人など特別な他者の死との遭遇 がある。そのそれぞれの中でさらに悲しみや衝撃の深さは違ってくる)。それぞれの場合での、死という絶対的かつ臨界的な現象に立ち会ったとき、様々な状況下における心理的行動としてグリーフワークは段階的に捉えられるだろう。例えば、瞬間的な感情として放心状態に陥ったり、泣き叫んだりする。あるいは精神的ショックにより拒食状態になったり、場合に寄っては自傷行為につながったりする。それらの行為は比較的即時的に行われる感情的かつ生理的な反応である。その後、さらに長期的かつ反復的な行動に変化していく。たとえば、ふとしたときに死の断片的記憶が副次的に蘇り、唐突に精神的不安状態になったり、感情的になったりする。
(グリーフワークを題材にした例としてイ・チャンドンの2007年の映画『シークレット・サンシャイン』がある。夫を亡くし、夫の故郷に移り住んだ主人公が、続いて最愛の息子の残虐な不幸に対面した際の心理描写や、その後宗教をとおした集団的なグリーフワーキングに没頭し始め、最終的にはそのグリーフワーク自体|を支えている神が全てのものに愛を与える、がゆえに許されざるものが許されてしまうという矛盾に遭遇する|に裏切られるというストーリー。グリーフワーキングの段階的な変容としても観る事ができる。)
 
 この様にみていくと、グリーフワークとは本来的には個々の心理的な反応とおおざっぱに捉えられる。それは言わば、忘れがたき、乗り越えられざる体験への、それでも乗り越えようとする人の心の率直な反応と、それによって引き起こされる行動と言える。つまりより生理的なものなのだ。そのように考えると対比的に、それら個人の深い心理的なプロセスを集団でカバーしたり、あるいは儀式的に、アイコニックな別の何かに変化させようとする行為を、ざっくりと「喪」ととらえる事ができる。こちらはより社会的といえる。「喪」の発生の期限は、ここでは集団的な人間のコミュニティの起源、そしてその死まで遡る事ができるのではないかと思われる。なぜならば、それは人間社会の動物的な欲求である、種の継続的保存に関わるであろうからである。(集団行動は人間に限った話ではないが、埋葬などの「喪」的行動を行うのは人間のみである。)「喪」への従事は、人間のプリミティブなコミュニタリアニズムと関わっている。それらは単に種の保存の最大化を乗り越え、人間特有の抽象的な思考力に基づいた文化的な行為ともとれるだろう、一方で、そのような思考力の結果、集団的な「死」との関わり方が、特殊な方法で発明されたとも考えられる。それらの実質的な起源については諸説あるが、少なくとも5万年前のネアンデルタール人による墓埋葬が行われたことがフランスのラ・シャペローサン遺跡の調査によって明らかにされている。「ネアンデルタール人が死者を葬っていたという見方は、彼らには象徴的思考の能力があり、豊かな文化を築いていたとする近年の知見とも符合する。例えば、ネアンデルタール人は自分の身体を顔料で飾り、鳥の羽や色味のある貝殻で作った装身具を身に付けていたことが分かっている。」Reference : http://www.pnas.org/content/111/1/81.full?sid=34e5470c-cf18-4485-bb80-cebe099dacbe
*7  - Reference http://www.osohshiki.jp/column/article/208/  /  http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199112.html
*8 - 「先祖の話」 柳田国男著 角川文庫
*9 - 「壺葬論(原題:Hydriotaphia, Urn Burial, or, a Discourse of the Sepulchral Urns lately found in Norfolk)」 ブラウン著 小池銈訳 『澁澤龍彦文学館5 脱線の箱』 筑摩書房 収録
*10 - 2015年のプロジェクト『Replication』 http://kazumichi-komastu.tumblr.com/post/139108725941/replication
*11 - Reference https://this.kiji.is/103424318918131713?c=39546741839462401
*12 -「前方後円墳に学ぶ」近藤義郎著 山川出版社
その他の参照項
*13 -  Reference 岡﨑乾二郎氏は2013年、武蔵野美術大学で開催された展覧会『ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか ─彫刻と呼ばれる、隠された場所』に寄せた文章で、墓と彫刻作品を対比させこのように書いている。
『彫刻芸術の核心は感覚の及ばぬ=決して現実空間の延長として捉えることのできない別の場所、すなわち感覚されうる現実と切断された、感覚の侵入できぬ別の場所を匿うことにある。視覚や触覚などの感覚が捉えうるのは、彫刻の表面にすぎない。感覚(視覚や聴覚、触覚も)は距たりある対象を捉え、ゆえにわれわれの知りえる現実を拡張する力をもつ。だが反対にいえば、よって感覚が捉えうるものは、その現実の境界面の現象にすぎない。 … 彫刻芸術の逆理は墓のもつ二重性そのものと重なる。例えれば感覚が捉えることができる彫刻は墓標のよう���ものである。けれどいうまでもなく墓の本質は、決して現世とは連続しえない、そして現世よりはるかに長く持続する時間と空間を墓室として保持し、そしてその場を現世のinterest(関心、利害)が侵入しないように匿うことにある。 cryptとは地下墓地であり、Cryptographyは暗号。すなわち彫刻は、感覚されることによって自らを隠す。現世という時空と不連続な空間、現世が拡張し侵入することが不可能な空間を隠し持つ、内包することにこそ本質があった。』 http://mauml.musabi.ac.jp/museum/archives/6487
*14 - 『冥王星の発見者クライド・トンボーは1997年に死んだが、遺骨の一部が、2006年に冥王星探査機「ニュー・ホライズンズ」に搭載された。これは外宇宙に向けて遺骨が打ち上げられた本格的「宇宙葬」の最初の例だとされる。トンボーの遺骨が打ち上げられた数カ月後、冥王星は国際天文学連合において、「惑星」にはあてはまらないとして、「準惑星」に定義しなおされた。』http://wired.jp/series/commons-in-a-digital-age/2_pluto/ 
「宇宙葬と電脳「墓」星空とモニターに死者を想う人々」 畑中章宏 WIRED
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【遊戯王】オシリスの天空竜、オベリスクの巨神兵、ラーの翼神竜←一匹だけ弱いやついるいなwwwwwwwwwww
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