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#廃墟遊園地
nelunderson · 1 month
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“ 夏の廃遊園地 ” 以前ここに来たのは1月。 この季節は観覧車以外は、完全に緑に飲み込まれ 侵入不可。
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europiumoon · 5 months
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ローカル線で私1人乗っている。私だけのために動いていると錯覚させられながらも1人な空間に戸惑う。これから恋人の家に向かう。それまで私は代掻きをしていて、祖父母家から帰り、30分で風呂と身支度を整え今に至る。代掻きは水が少なかったせいで苦戦して14時から始まって19時近くまで行っていた。小さい頃は川遊びしているだけだったのに、トンボを持って山になった部分を平すのは私達の世代に変わっていて。年々田畑の知識がつく。私は大学入るまでずっとGWは田の事しか知らなかった。田に入るとカエルがいて私は捕まえる。捕まったカエルの柔らかさと瞳、筋肉量に愛おしさを感じる。元の場所に帰して平すことに戻る。「なんでカエルを触れるんだか」と弟に言われるけど、カエルは小さい頃から素手でも触っていたからだと思うんだけどねえ、でも手袋をつけても変わらずミミズは触れない。未知な動きをするからだと思う。カエルや虫たちの鳴き声が心地よくて眠れないと思ったことはない。昔、付き合っていた人と帰省した時に電話していたら、「なんでこんなにカエルの声がするの?!」と驚かれたことがあった。会社のEさんは私が住む街を大好きな街、と呼んでいる。私の住む街はここ2-3年で大きく変わり区画整備がなされている。有名な店の出店が増えた他、どうやら企業関連で住む街に還元したいがために宮下パークのような公園ができるらしい。本当か?嫌いだった街が変化している。消滅可能性都市なのに。友人らはみんなこの街から出て行ってしまった。ウォーキングしていても閑散としたシャッター商店街。あれだけ同級生から褒められていた家具屋の子も風の噂によると両親離婚して家具屋も畳まれたが廃墟として○○家具という名が書かれたビルが街を見渡している。けれど、そんな商店街でも街おこしで蚤の市のようなことが行われているらしい。会社のマダムから聞いてInstagramのアカウントを覗くと素敵で嬉しさと寂しさが伴った。1年に1度のイベントが功を奏して今年は3回目の開催らしい。一層のこと廃れたままの街でよかったのに。活性化していくと置いていかれる気持ちになるな。まち探検、という名の小学校の頃の授業が懐かしい。黄色い帽子をかぶって、黄色いクリップボードを首からかけて商店街をグループになって練り歩いた。炎天下の中白い歩道がキラキラ光っていた。商店街名物の銘菓は今では平日の昼間でしか買えない。ツヤっとした海の生物のモチーフの菓子。チョコレートもカスタードも餡子も全て美味しかった。懐古しちゃった。
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hangorin · 1 year
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東京五輪から2年 湾岸はいま
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悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
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立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する仲卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
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石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、都民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を連ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
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そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
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③晴海選手村
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カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空間は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
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選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
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街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
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右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信する施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
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その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中だった。
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選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
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ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
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東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
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わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
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次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
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しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
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有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
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有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
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そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
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有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
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真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティクスセンター
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アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけたような弱々しい植栽が施されている。
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正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日射で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
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「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
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競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
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生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
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炎天下の湾岸エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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wwwwwwwwwwww123 · 1 year
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Joji Cokumu(ボク悪いスライムじゃないよ!目玉いっぱい赤字貿易経営者!毒の人ではない)さんはTwitterを使っています: 「廃墟マニアの方々から 多くの写真撮られた場所だけど。 もうすでに解体されて 当該の遊園地も2017年に 対策済みの新しいジェットコースター作って もう飛ばされないようにしたんだって。 でもジェットコースターそのまま飛ばすって そういう被害だったのよ。 (続く2 https://t.co/brE6we1oCP」 / Twitter
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hanbunmensch · 2 years
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 カーラとアリスがモーテルのドアを開けると、そこではモータウン好きのフロント係が、デトロイトのブルース歌手Thornetta Davisの『Set Me Free』を流している。「強くなるにはあなたの助けが要る」「あなたが私をあるべきところへ引き上げてくれる」などと呼びかけられる「あなた」は、歌詞全体から判断するとおそらく神を指している(多分。そう?)。一方、rA9など知ったところでその存在を疑わしいと考えるカーラにとって、ここで「あなた」に代入できるものがあるとすれば、凍える人間の子供・アリスという虚構以外にはない。  一旦、物語の全てをぶち壊す仮定をしてみると、もし人間の子供を守る名目がなくても亡命の動機を持てる程度にカーラが「大人」だったら、そしてさっさとアリスの正体を受け入れてその場で体温センサーを切ったら、翌朝まで待たずに駅へ急ぐことも可能だったわけで、しかも遊園地廃墟に泊まる必要もないし、旅全体を通して多くのタスクが結果的には徒労と言える。もちろんこの手の仮定というのは与太であって、なんかいきなり電波ジャックとか始めるどこぞの元介護アンドロイドとは全く違う次元の、「我々」などという語彙から遠く離れた惨めな葛藤がここにはある。或いはいっそ平然と背なから飛び降り自殺ができるほど、機械の価値を徹底して否定するまでいければまだ格好もつくだろうに、寒がったり熱出したりと徒労タスクを生成する「人間」をカーラはなかなか手放せない。たとえ仮にこの徒労が、アリスの設定を制作段階で人間からアンドロイドに変更したことの(不本意な?)産物であったとしても、ともかくシナリオ上の事実として言えるのは、どこにも40ドルは落ちていない。『万引き家族』の如くアリスを共犯者にしたか、強盗をやってのけたカーラだけが、このモーテルの受付に辿り着ける。なぜなら、少なくともあなたが私を強くしたからだ。金を出せ。
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tokyomariegold · 2 years
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2022/10/22〜
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10月23日 朝はそんなに早く起きれず、ハトバスは満席で、でも朝の休日の丸の内を歩いて、ハロウィーンの飴をパパブブレで買って、ちいかわのショップに整理券を持って静かに並ぶ方々を見て、首都高をくぐって図書館へ行った。 予約していたボードリヤールの“透き通った悪”を借りて、ユリイカの長島先生の対談を読んだ。
そして今日は2回目のお散歩会。曇りの良い天気。待ち合わせた新浦安駅は大きなイオンとアトレとディズニーリゾートちっくなホテルや団地があった(百万円と苦虫女のロケ地!)。 スケールアウトした道や碁盤の目状に並ぶ郊外住宅、夢の国の安らかBGM、隠さないレプリカ感のホテルの佇まい、エイの写真の駅、海と中洲、観覧車、端に突き刺さったシンボル、西日、遠くの町並み、何かずっと生えている大きな油菜みたいな背の高い黄色い草…たくさんのものが割と全て主役級で忙しい。 おしゃべりをしながら、途中ふっと会話を抜けて写真を撮ることができるお散歩だった。 私は、またお隣さんからラインが来た話(さつまいもをいらなかいか?と言う内容)や、幼馴染の会があるらしく心がざらついた話をしてしまった。
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お散歩をした2人とは比較的よく会っているので、最近どう?とか仕事何してる?とかを話さずに、写真や映画の話、昔見ていたアニメや映画の話ができて、とっても楽しかった。 2人は今度山登りに行くらしい。ちょっと頑張れないアクティビティなので、羨ましいけれど、良いお年を!と言って別れた。
女の子と写真のことをまとめた写真集をみてもらった。改めて、30歳で消えたい、と思った。 それと、2人と私は、みんな二人姉妹の長女だったな〜と帰宅して思い出した。それだけなんだけれど、だからって共通点を見出すことはできなくて、うん全てのことがこうであれ!と思っている。
一人で街を歩くと、周りの人達をよく見てしまう。自分も周りの人も同じところにいて、大勢の中の1人であると感じることが多い。でも今日は、私達、と、その他の皆さん(違うところにいる大勢の私達)になっていた。気づかなくて良かった嫌なものも含め、周りが見えずに、でもそれはそれで楽しく過ごすことができた。
ただ、とっても疲れている!ので、なるべくゆっくり夜更かしをしよう。 (いつも早く寝ようと焦ってしまう。)
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10月23日 思ったより朝起き上がれたので午前中の予定を済ませて、先週落として失ったお花を、町のお花屋さんで購入した。ケイト、というらしい。
やっぱりまだ幼馴染の会のざらざらが残り、お部屋や水回りの掃除をたくさんした。えらい!掃除をしながら、会の主催の人(母から連絡をとるように、と、連絡先が送られてきた)は、よく思い出したら私に傷つき度の低いいじめをしてきた人だった!ぜったいにいかない!思い出したように傷ついているので!
午後、筑波山へ行った話を聞く。 写真も見せてもらった。山の入り口に大きいカエルの像と、廃墟化したデパートの屋上程度の遊園地があるらしい。 カエルとイカの解剖実験を高校生の時にしたことを思い出した。 昨日の友人達もそうだったけれど、みんな登山をしている…
最果タヒの、味方はいらない、を読みたくなる。非の打ち所がないマンのパブリックイメージに対抗するために、こんなに大きな声で鼻歌を歌って踊って帰宅しているのでは!私は!と、思ったりした。
市長選があったので投票しに行く。今日まで全く市政に興味が持てず、投票所のポス���ーで2人しか立候補者がいないこと、2人とも差し障りなく見えること、無所属なこと、を確認した。投票用紙記入用のペンがよく尖っていて書きやすかったので、画数の多い方の立候補者の名前を書いた。
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10月24日 昨晩食べたものが、全てあまり味がしなくて、少しずつ酸っぱさだけあって、クレイジーソルトをたくさんふりかけた。 クエン酸洗浄したポットの洗いが足りなかったのかな。また感染症を患ってしまったのかな。 ダークチョコレートも味がしなくて悲しかった。
このあと、明日からの休みの予定を上司に相談して、一先ず明日時間休を取れたら映画を見にいこうかな。
10月25日 午前休をとって8:45の回の“マイ・ブロークン・マリコ”を観て出勤した。 ショッピングモールって当たり前に映画館がついているけれど、こんなにもシアターを隠し持っていたの?と、驚いた。平日の朝一だからか、シアターには3人だけで、いつも出てくる映画館空間での不安ちゃんは引っ込んでいた。 とても漫画っぽいシーンが多い(漫画が原作らしいので当たり前か…)、と、あと、名前のわかる役者さんがいなかったので、よくストーリーに集中できた気がする。マリコ役の女優さんかわいい。
どんな映画を観ても、しばらくは自分の周りもその世界の延長ごっこをしてしまうので、午後からお仕事にしてバランスを取れた気がする。
映画を観終えてショッピングモールのテラスに出ると、駅とモールの間の広場に、保育園児4クラス分くらいのお散歩が来ていた。いろんな移り変わる広告に囲まれながら幼少期を過ごすミュータント増殖?と思った。 今日は曇天のいい天気。
一昨日教えてもらった通り、ショッピングモールの空きテナントにスープストックトーキョーが入店する知らせが張り出されていた。
そして職場で梨をもらった!今年はもう終わってしまったと思っていたので嬉しい!けれど「梨があるよ〜」と知らせてくれた上司は、明らかに私の名前だけを呼ばず、前々から接する度に��クシャクっぽさを感じていたので、うーんそうゆうこと��しら…。たぶん心当たりもあるので(食事の誘いを断ったりしている。)、このことが、どうか周りの人にばれてなければいいな、とだけ思っている。
聴くことより見ること、話すことより読むこと、の方が、自意識・孤独を高めます(トゥアンの本より)。
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10月26日 寒さで体が冷えすぎて、仕事中の記憶がない!(嘘だけど。) 年々、ウルトラライトダウン的なインナーダウンは薄く、ヒートテック的な暖か肌着は厚くなっている気がする。
何かしたいのに何もできていないとき、やりたいことを整理して、諦めるものを作っても良いのか…水野しずのnoteを読んだ。何を諦めようかな、と、考えながら帰ってきたはず。
あまり良くない感じで眠すぎて、ホームの端を歩いていたら「あぶねえぞ!」と、おじさんに言われてびっくりショックだった。大きな声と汚い言い回し、こわい。
10月27日 今日は自分の段取りの悪さを謝りながら右往左往しているうちに午前中が終わり、急ぎ仕事でいろんな人に連絡しつつ、報告したりされたりして就業した。でも、その中でも、すごくこんなにもマジな感じでお話しできる社会人(新人さん)なんて…!頼もしい!と思っていた人に、それを伝えることができた(「え?それ褒めてるの?」と言われた。)。
帰宅すると、エレベーターの鏡に、生活の音とマナーについて注意が書かれた住人へのお知らせが貼ってあった。お話声や歩く音、カーテンや窓を閉める音など、生活のちょっとした音についての注意で、私はお隣さんのそれらの音にとても疲れていたので少し安心した。みんな思っているのかもしれない。私もアラームをすぐ止められるようにしたい。 と、思って窓を開けると、どこかのお部屋からきつい食事の匂い(餃子のような匂い)がして、急いでお香を炊いている。
SNSの好きな女の子は、昨日のお誕生日に東京タワーとロイホに行っていたらしい。愛。
着たい服も、撮りたいものも、行きたい展示も、食べたいものも、観たい映画も、身につけたい香りも、聴きたい音楽も、読みたい本も、会いたい人も、何も、何もない…!の気持ちになり、日曜の夜のイベントを思ってとった翌日の有給を、4回目のワクチン接種に充ててしまった。
年末調整の紙が配られてパニック!
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10月28日 「マックを食べたからちょっと匂うかも」と言われた車に乗った。確かに何かの匂いはしたけれど、それがマックの匂いかは分からない位、私はしばらくマックを認識しない生活をしている。
朝からだめで、話しかけられる度に涙目で応えていたきがする。それなのに帰宅して、とっても掃除をして、梨の皮むきを済ませて、ヘトヘトにさせてしまった。
明日からどう過ごせばいいのか、何ならこれからの夜の時間すらどうすれば良いのかわからない。 とりあえず、年末調整を出せたのでえらい!
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bibliomaniabooks · 2 months
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【新本再入荷】 ワンダーJAPON vol.5は愛知特集ッ!
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廃墟・産業遺産・工場・ダム・珍スポ・大仏・公園遊具等日本のワンダーなスポットを紹介ッ! 今回はパブレスト百万ドルを筆頭に、浅野祥雲縁の地や性神神社等。 また群馬の〈異空間〉や、世界平和観音(解体中)等もッ!
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yamashima-t · 7 months
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【すずめの戸締まり感想 ネタバレ含】
まず3.11を題材に映画を作ったことがすごすぎる 全編通して責任と覚悟を感じる作品だった
メタ的な読みになっちゃうけど新海監督も家庭を持ったり子供が生まれたりで、どんなことがあっても生きて幸せになってほしい、それを伝えたいモチベーションが高まったのかなとか思った
サバイバーズギルトっていうのか、自分が幸せになっていい、幸せになる権利があると思えない人たちに向けた純真な気持ちが伝わってきた
題材は3.11はじめとする天災やそこで被災した人々だけど、最後のすずめちゃんのあなたは絶対に幸せになれる、それはもう決まったことなの、ってセリフは万人に向けられた言葉なんだろうと思う
自分の存在価値(=自己肯定感)って一瞬の革新的な転機があるというよりは日々の中で徐々に気づいて築き上��ていくものだと思うから、この映画はきっとそういった日々の気付きの一助になるんだろうな
要石は時間をかけて神になっていくとかいってたしダイジンももともとはただの猫だったんだろうと思うと猫大好き人間としては辛す���た
すずめの子にはなれなかったね、のセリフからしてダイジンは環さんの子になれなかったすずめちゃんのifだったのかな…… か、かわいそすぎる……
ずっとダイジンはすずめちゃんたちのために後ろ戸の場所を教えてあげてたのに最後の最後まで気づかれない、とかも環さんとすずめちゃんの関係の暗喩なのかな
すずめちゃんが自分が振り回されることにばかり目がいってダイジンがいなければ得られなかった幸福に気付けないって部分と、環さんの婚活がうまくいかなかったり自分の人生が失われるような気持ちになることは並行っぽい
その辺も踏まえてこの映画でいっちばん素敵だったのはやはり環さんだな〜〜!!!あなたなんかいなくなってしまえばいいのにと思うことはある、でもそれだけじゃないんだよ、が、セリフのために積み上げられた描写があるからこそ説得力が素晴らしく、もう、良すぎ
環さん……好きだ……
あと芹沢は普通に良すぎ 芹沢だけは何が起きてもなんか幸せそうでよかった 芹沢のようにありたい
ここからはまあ疑問点とか愚痴っぽいことになっちゃうけど、たしかにめっちゃ泣いたけどこれは物語で泣いたといえるのか!? 
3.11にいってきます、いってらっしゃいが最後の言葉になった人たちがたくさんいたとか、日常の愛おしさとか、それは物語の力ではなくそれそのものが持つ力のように思う
地震が人の力で止められる現象であるって設定もだいぶやるせない想いに駆られる人たちが発生するのでは……みたいなところもあるし……
もはや閉じ士が知られてないのは責任が重すぎるわりに人材不足が致命的すぎて知らせることができないからなのでは!?存在を知られてしまったら糾弾がエグいことになりそう 「あの大地震に閉じ士が派遣されなかった本当の理由!」的な陰謀論が飛び交いそう イヤすぎ
あとなんでもかんでも似てるとか言っちゃうのはよくないことという自覚はあるんだけど、廃墟の遊園地、ジェットコースターでの追いかけっこは魔法使いの夜、東京の地下の石造りの空洞は月姫、燃える街とサバイバーズギルトはFateって感じでなんかすごく近時の型月を感じてしまった 新海監督、型月作品見たのかな……
あとダイジンがどこまでもかわいそうすぎる
あなたなんか大っ嫌い!でしおしおになっちゃうダイジンかわいそすぎてマジで無理だし、ありがとう!でフカフカになるのももはやかわいそうで 他人の言葉なんかに振り回されるな!!!!ダイジンはダイジンであるだけで素晴らしいんだから常にフカフカであれよ!!!!という気持ち マジでダイジンってストーリーライン的にどういう意味があったんだ 
ダイジンかわいいよ サダイジンも みんなうちの子になりな……
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working-eorzea · 9 months
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うさぎ屋敷のクリスマスギミックハウスとー ここの内装かわいかったなぁ…ちょいちょい撮っても良かったなって思ったけど、やっぱ解くの夢中になっちゃうねw
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廃墟遊園地行ってみたのとー ギミック数は交流帳に書いてあったんだけど、何がどうなればゴールなのかは書いてなくて違う意味で迷ってしまったw 全部の部屋たぶん回り切れたからゴールで良いはず… 途中、亜空間部屋を経由させる形になってるのは見なかったことにしよう(ΦxΦ)
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サクッとホラーの新作も! ここのほんと内装が良くて大好きなんだよね(´ω`*) 今回は営業日に行けそうだったから時間見て行ってきたけど、人すごくいっぱいいたw 人がいるとギミックネタバレしちゃうからいつもは避けるんだけど、ここのは人がいても問題ないくらいの難易度だし、それはそれで面白いんだよねw ドッキリ演出おもしろかったなぁ!ヽ(Φ д Φヽ)がおー!
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bluegardenmaker · 1 year
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見た夢
子供の頃仲良しだったYちゃんと出かける。
その前に、良くない人たちの所に泊まる。
私が持ってきた便利グッズを持って行こうとする度、嫌な顔をする。仕方なく空気をきれいにするアロマ器を置いていくことにした。私の便利グッズのお陰で、快適空間になっていた。
待ち合わせ場所に行って、Yちゃんが車で来て、乗り込んだ。
もう一人拾ったところで、Yちゃんが行き先が良くない場所だと言う。
さすがYちゃん、私のそこの遊園地の夢で霊とか良くない夢を見た。
その子(後で拾った子)が行きたがってた遊園地だけど、行き先を変更しよう。変な嫌なものをもらいたくない。
同性の幼なじみの夢を見ると人間関係は良好
夢に出てきた幼なじみが仲の良い幼なじみで、自分にとって安心する存在だった場合は、対人運アップを意味しています。
新しい出会いがあったり、いい友人に恵まれるなどの運命の出会いが待っているかもしれません。
人間関係の集まりには積極的に出かけてみましょう。自分の趣味に関する場所に出かけるのもいいですね。行動することが大切です。
遊園地に行く夢を見た時は、子供心が表に出てきていて、楽しみたい、ワクワクしたい気持ちが増幅していることをあらわしています。日常生活の中で世間体を気にしている中、本当は子供のように騒ぎたい、楽しみたいという気持ちがあるときにこのような夢を見ることがあります。心に素直になることで、あなたの心と体は癒やされ、その後高いパフォーマンスを発揮できるようになるため、夢で見た通り、童心に返り純粋に楽しめることをしてみると吉となります。逆に、望んでいる方向と違う方向を選択してしまうと、ストレスの原因になってしまうので要注意です。
夢の中で見た遊園地を怖いと感じた夢には、あなたの幼少の頃のトラウマや、傷、嫌な思い出があることを表しています。
人には幼い頃に感じた心の傷がある場合があり、普段は奥底にあるのですが、最近その感情を呼び起こすような出来事があり、傷が再び開きつつあることを夢は危惧しています。
日常生活にも支障を来す場合があり、うまく人とコミュニケーションが取れなくなってしまったり、思ったように行動ができなくなってしまう可能性があります。
信頼できる人物に甘えてみたり、自分のことをたくさん許容してあげることで心が癒やされていくので、今は自分のことを大切にして、あなたのために時間を使うようにしましょう。
なぜか遊園地の廃墟にいるような夢は、あなたの中にある幼い心が失われつつあり、かつては楽しめたことが楽しめなくなっていたり、ワクワクするようなことができなくなっている深層心理を夢は表現しています。
人は楽しむ心を持つことで生命のエネルギーを高めることができる性質を持ちます。どれだけ努力家であってもそこに楽しさを感じることができなければ継続することはとても困難なことになります。
全てのことに言えることなのですが、あなたの目的や行動に対して、どこでも良いので楽しさを見出すことが重要です。ここは楽しむ場面ではない、楽しむことは不真面目なことだと心のどこかで考えているのかもしれません。
仕事や人間関係、生きることの中にワクワクするようなものを見つけ出し、それをエネルギーとして活��すことで運気を好転させることができると夢は示しています。
遊園地に友達と行く夢は、あなたの対人運が上昇していることを表しています。特に夢の中で一緒にいる友達との交友関係が特に良いことをしめしています。
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solia-rouge · 1 year
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2023年7月1日(土)
コロナ渦がようやく落ち着いたということで、ハスを見に最寄りの公園へ行ってきました(ハスは7月~8月が見ごろ)
約3年ぶりぐらいに訪れたんですが、久しぶりに行ったら公園は廃墟と化しててハスも生えておらず…人もいず…。
大きな建物や温室、遊具が沢山ある所なんですけど、手入れされていないのかボロボロになってました…。oh...
建物内はクーラーも止められてて廃墟&サウナ状態。当然温室の草花は抜かれて土だけになってました😇
3年の間にいったい何があったのか...。
コロナの影響だと思うけども、各地でこんな事になってる公園や観光地があちこちあるんだろうな…。
幸い野外のアジサイや季節の小さな花々は枯れず咲いてたので、しょぼしょぼしながらも公園内を散歩してきました。
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途中虫がいそうな草むらを見つけたので昆虫探しをして遊んでたら、小さい男の子が親切にも声をかけてくれて虫が沢山いる場所を教えてもらいました。(人っ子一人居ないと思ったら、人いてビックリしましたw
こんな草蹴って歩いてる怪しいヤツに声をかけてくれるなんて、ありがとうございます💦
おかげでバッタとか大量に出会えていい思い出になりました!感謝!
名残惜しかったですが親切な男の子と別れて、別の公園へハスを見に行きました。本命はハスですからねw
こちらの公園も3年ぶりぐらいに訪れましたが、ちゃんと人も沢山いてにぎわってました。良かった💦
暑いので入口の噴水プールで水浴びしてる子供がちらほらいました。
お目当てのハスですが、とても綺麗でした✨
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蕾がまだまだ多いですが、蕾も艶やかでぷっくりとしてて見てて飽きなかったです。
池の中を覗いてみるとオタマジャクシやトンボ、アメンボ等がうじゃうじゃいました。
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公園内も少し見て回ったのですがシャクトリムシやナナフシ、クロアゲハ、ハチさん達がいました。セミももちろんいますよb
(道中アシナガバチが足元にいたのを妹が発見して、手に乗せて観察しようとしてヒヤヒヤ💦 危ない(;'∀')
そんなこんなで楽しい一日でした♪
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yamanaka-lab · 1 year
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2023建築レビュー#2
・建築レビュー#2(設計者: ARCity Office ) 発表者 :池田 (M1) 講評者 ; 安西 -
建築レビュー第2回目 はARCity officeを取り上げた。
この建築家は2016年に張玉興とHANジンによって設立された建築事務所である。彼らは中国に拠点を置き、活動を行っている。
彼らのコンセプトは「アダプティブリユース」として本来の���割を終えた建築物に対してその歴史性を保護しつつも今までは破棄されたいたような材料などに対して新たな価値を与えることで再生する事に対して重きを置いて活動している。
今回は彼らの建築作品を3つ取り上げて紹介する。
事例1『 Shajing Village Hall 』中国 深セン(2020)
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中国の深セン市の廃墟となっていた発電所を活用し、先祖を称える祭りや結婚式、葬儀にも使われる中国特有の「アンセストラル・ホール」として生まれ変わらせるプロジェクトです。 
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主に物質的側面と精神的側面の両方からの遺跡再生を試み、基本的には、古い痕跡を最大限に保存しています。
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一方、赤く印した、新しい鉄骨構造やガラスは、古い遺跡を支えつつ、挿入または織り込まれることで、古いものと新しいものの絶対的な境界を曖昧にします。
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構造躯体だけでなく、正方形の窓の開口部や、発電所の換気ダクト設置用の丸い穴などの痕跡も、「廃墟構造」の一部となり、これらは歴史を物語り、空間に予期せぬランダムさと謎の感覚を加えます。
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建物の解体時に出た多くの石やレンガなどの廃材は、太い鉄筋で編んだ網に入れて壁をつくり、庭全体の仕切りとして再利用されています。
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事例2『Qiaotou Ruin Garden』 中国 深セン (2019)
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Qiaotou Ruin Gardenは深センの遺跡庭園となっている建築です。この建築は工業用建物をスラブ、屋根、壁、床が一部撤去し「廃墟構造空間」へ変化させました。
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もともとこの建築は1980年代に建てられましたが、長期間の空き家状態でした。そして工場跡地の周囲には広い空き地があり、多くの村人が車を一時的に駐車したり、建設用具や廃材を積み上げたりするのにも使われていました。
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このプロジェクトは、躯体を残しつつ床、屋根、壁を部分的に撤去する方式を採用し、見えない建物の実体を明らかにし、閲覧・活用できる新たな空間を創出します。都市空間におけるサステナブルな建築を目指します。
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ソフト面においても、ビエンナーレなどイベントの開催の影響もあり、村の多くのコミュニティ活動がこの工場跡地で行われるようになりました。
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このように、既存の活用可能な構造躯体を村のインフラとして捉えることで、将来的には、取り壊され、標準化された超高層ビルに置き換えられるかもしれない未来に、この廃墟のシンボルが根付き、発芽し始めることで、廃墟が増える都市化した村も成長が可能であることを証明しました。
事例3『Rejuvenation of Shajing Ancient Fair』 中国 深セン (2019)
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現存する最大の混合型歴史街区であり、歴史的および文化的価値の保護を最大化し、新しい設計コンセプトに基づいて、都市再生のモデルを探求するプロジェクトです。
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主に、約70メートルの模範的な河川修復と景観変換を実施します。同時に、場所の特性を維持することに基づいて、川沿いの代表的な場所を選択し、社会構造と空間の質感の崩壊を避けるために「鍼治療」のようにわずかに介入していきます。
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創造的なデザインと展示の助けを借りて、村人やコミュニティは歴史的遺物のユニークな美的価値を発見し、新しい文化的統合シーンを創造します。衰退する傾向にあった地元の生活コミュニティを活性化することを望んで、さまざまな種類の公共活動を実行するために組織されています。 
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かつてここに流れる川は、貿易と輸送に不可欠でした。その後、川は封鎖され、道路や家が川を占領し、幅2メートルの臭いの溝に変わりました。そこで、水路を2つの層に下層は下水、上層は雨水に分割し、川の原始的な魅力の体験を可能にします。
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さらに、川岸の両側の手すりを取り除くことによって、花の池、座席、橋、遊歩道を設計しました。川岸のスペースは日常生活に回帰し、人々が楽しみ、体験できるシーンになりました。
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川全体を「歴史的シーンの博物館」と見なし、川の景色を一望でき、村人が気軽に休憩して交流できる小さな居場所を与えます。
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こちらは、公衆トイレの屋根を使用して、大きな階段などを含むスカイブリッジシステムを構築し、村人が座ってリラックスしたり、2階レベルで歴史的建造物を見学したりできる屋外広場に変わりました。
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以上のように固有の展示やデザインは、一種の保存と活性化、風景と景色、更新と郷愁まど...さまざまな要素を組み合わせて、過去と未来の時間を編んでいきます。時間は全世界の共通のシルエットであり、すべての人の体が感知できる最小の体験ユニットでもあるからこそ、この実験的な行動により、時空間進化が始まることを期待しています。
私はARCity officeの設計について、主にはサスティナブルというコンセプトでありながらもこれは熱や風などの環境面ではなく中国の急速な発展に伴う建築的な資源を見直すことがこれからの中国の都市を引き立てる存在になりえるように感じた。
さらに建築的な操作としても、廃墟を受け入れつつもパッチワーク的な建築操作によって基礎、梁、柱を含む既存のコンクリート構造を補強しつつも再利用することで古い廃墟の周りに新たな建築が巻き付くことでノスタルジアな感覚が生まれるのではないかと感じた。
古いもの・新しいもので区別をするのではなく、維持しどう現代に繋いでいくのかを考えていくことが持続となるのではないかと考える。
山中は、現在急速に発展している中国だからこそ、歴史的価値のある建物というのは、ヨーロッパにあるような千年単位のようなものではなく、数十年レベルでの更新が起こっている所に中国の建築の魅力があると述べた。
また、廃墟をより廃墟らしく仕立て上げているという建築の見方をすることがこの建築の魅力を感じさせると述べた。
引用: Archi Daily
https://www.archdaily.com/974458/rejuvenation-of-power-plant-arcity-office?ad_source=search&ad_medium=projects_tab
https://www.archdaily.com/946133/qiaotou-ruin-garden-arcity-office?ad_medium=widget&ad_name=more-from-office-article-show
https://www.archdaily.com/951504/rejuvenation-of-shajing-ancient-fair-arcity-office?ad_medium=widget&ad_name=more-from-office-article-show
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dutifullybabyrebel · 1 year
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【怖い話】廃墟にいた恐ろしい悪霊とは『廃遊園地に行った結果』『廃屋にいた偽物』『掛け軸の女』2ch・5ch怖い話
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billadler · 2 years
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最後の決断 (One Last Decision)
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この日がいつか、やって来ると思っていた。君が、かつてのように身軽にベッドに飛び乗ることが出来なくなる日が。そしてその時が来たら、決断しなければならないことも分かっていた。君と僕のどちらが先に命を経つべきか、という最後の決断を。
君は2フィート(60センチメートル)上に飛び上がることも出来ない程、弱っていた。僕は辛うじて君を抱きかかえ、固く冷たい床が君の細身に浮き上がる骨に響いて痛くならずに済むようにした。もはや君を長い間抱き抱え続��るほどの体力はなくなっていた。キンモ、決断しなければならないんだよ。今日中にね。
君は公園を覚えているかい。あれは半年前のことだったね。
僕の住んでいるマンションの隣りにある公園にいた君を、僕は保護したんだ。君を助けるまで、外で暮らしている猫はいつも冒険に満ち溢れていると思っていた。鳥に忍び寄ったり、ネズミの味を堪能したり、色々な種類のトカゲを追いかけたりしてね。でもそれは、大変な勘違いだった。雨に打たれて、君の毛は濡れそぼっていた。君の顔はいつもどこか悲しげだった。他の猫たちが公園にやって来ると、君の居場所が段々少なくなっていった。犬は君にとってゴジラも同然だった。夏は蚊の餌食になり、冬は温かい場所を見つけるのが至難の業だった。
僕は君に会うために、毎日公園に通ったんだ。冬の間は、公園のベンチで君を待っていると、君は僕を見つけるやいなや、僕の膝に飛び乗って、手足の爪先がかじかんで痛くなるまで、ずっと座り続けていたね。夏の間は、暖を取る目的ではなく、僕らが一心同体であることを証明するかのように、僕の膝にずっと座り続けていたね。君は僕の膝の上でボールのように丸くなり、うたた寝するまで、僕の手や顔をペロペロと舐め続けていたね。
雨の降る日は、公園に大きめの傘を持って行き、ベンチに座り傘を差すと、君は乾いたオアシスを求めて、僕の膝に飛び乗り、うずくまっていたね。
僕は君の名を、金木犀から取って付けたんだ。金木犀というのは、小さなオレンジ色の花で、日本で10月に咲く。10月に君と出会ったから「キンモ」と名付けたんだ。
そして翌年の7月。台風11号(ナンカー)が東京に到達する前日、僕は君を保護したんだ。容赦なく荒れ狂う強風の中、僕は君を一人残して立ち去ることが出来なかったんだよ。
家に連れてきた猫の毛色が、2週間すると、茶色と灰色から、茶色と雪のような純白に見違えるように変わっていく姿を見て、驚いたものだったよ。
キンモ、僕は君が良い人生を送れたものと信じている。君が家に来てから半年間が、君の人生最良の時であったと信じているよ。君も僕の人生を豊かにしてくれた。最良の時間も、猫の気まぐれに合わせなければならない時間も。僕の隣で寝付くまでの間、喉をゴロゴロと鳴らす時間も。僕の朝のコーヒータイム前のネズミ捕りゲームで遊ぶ時間も。僕が家に帰ると、必ず顔をペロペロと舐めてきて挨拶をやめない時間も。僕は大好きだった。
地震が起きてしまい、残念に思う。君がまだ公園にいたらどうなっていただろう。地面が波打ち、ひび割れても、外にいたら水や食料にありつくことが出来たかもしれない。だけど僕らは、32階に閉じ込められている。3週間に渡って、停電している。部屋の外は人の気配がまるでしない。1月の凍てつくような寒さを解消できる暖房器具もない。非常階段は倒壊し使えない。そして遂に、食料が尽きた。
手足がかじかんで、もはや自分のものではないような気がしていた。君の体力が限界にきていることも分かっていた。僕の愛する猫よ、君に与える食料がすっかりなくなってしまった。本当にすまなく思う。
3週間前に比べると、君の鳴き声は弱々しくかすれて、あと一鳴きしたら骨が粉々に打ち砕けてしまいそうだった。かつてコーラルグリーンだった瞳が土色に変わり、かつてはフワフワだった毛が泥を塗ったようにゴワゴワになっていった。
無理心中は詩的な行為とはいえない。それは間違った行為だ。救助隊が来るまでの間、僕らのどちらかだけでも少しだけ生き延びられたら、助かるかもしれないのだ。窓から外を覗くと、火の海が東京の街に拡がっているのが見えた。そんな絶望的な街でも、誰かが救出活動を続けているのではないかと信じていた。僕らのどちらかでも生き延びることが出来たら、誰かが助け出してくれるに違いない。
一撃で、痛みがないように済ませるよ。僕の膝に横たわっている君の胸元にナイフを振りかざして。そうすれば君の肉を食べて、僕は何日か生き延びられる。生贄は、究極の愛の形だ。どの道、君は明日まで持つかどうか分からない。
或いは、僕が自らの命を断てば、君は本能の赴くままに僕の屍をむさぼるだろう。そうすれば、君は生き延びられるのだ。衰弱しきった肉体でも、僕のサイズなら猫が1週間そこそこ生き延びるには十分な量だろう。
頭を傾けると、部屋が歪んで、メリーゴーランドみたいに廻って見えた。長い黒髪の少女が見える。ラベンダー色のドレスを見に纏い、ピンク色のスエードの靴を履いている。その少女は廃墟と化した僕らのマンションから君を見つけて、かつて僕がそうしたように、君を膝に抱きかかえるんだ。少女は君の柔らかな茶色と白が混ざった毛を撫でて、喉の鳴る音を聞いて安らかな気持ちになり、君に微笑みかけるんだ。
目の前にあるこの睡眠薬を一瓶、一気に飲み干せば、少女が現れて、君を幸福に満ちた、安全な家に連れて帰ってくれるだろう。
猫は夢を見るのかい、キンモ。僕の温かい膝に抱えられている夢を見て、僕を思い出してくれ。
I hope you enjoy One Last Decision. You can read the English version here. If you like One Last Decision, you can also subscribe to my free story-a-week newsletter. More than anything, a story wants to be read. 
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nancocu · 2 years
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ちょっと一息つこうと(?)ヌカワールドのクエストへ。
廃墟の遊園地って色んなゲームで出てくるけど、アトラクション性もあり、最盛期の影を感じさせつつ色んな物語をそこから膨らませられるから好き。中に色んなヌカコーラの記念品があったんだけど、ボブルヘッドみたいに飾る事ができる家具はあるのかな。
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poetry-for-absence · 2 years
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ちょっと学生時代のレポート課題のテキストを載せてみます。
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アセンブルデザインB II エディトリアルデザイン レポート
7P168806-6 唐澤 徹
●企画内容
 
・タイトル:『詩と建築』
 
・企画趣旨:建築と詩の連関を考える。建築が詩的である状態とはどのようなものかを考察する。 
 
・企画概要:建築においても存在する詩学の構造を、詩作品の分析などにより一般性をもったかたちで言述する。詩学をその原義である「ポイエーシス」と定義し、人間の制作行為一般の方法論と技術論をその問題とする。ここでは詩と建築との関連の深い音楽の分野も考察の対象とする。
 
・仮コンテンツ:①詩における建築、②詩的構造についての考察、③建築における詩、の章構成
 
・コンクリート・ポエトリー
Eugen Gomringer、新国誠一、etc.
言葉を重ねて世界を作る詩にあって、コンクリートポエトリーは図(figure)=meaningとなっている。それはスイス派などのグラフィックデザインともつながるのだが、建築で詩を成すことのヒントとなるものがあると考える。
 
・北園克衛
言葉のオブジェクト性。写真で記録のあるオブジェのシリーズである「プラスティック・ポエム」も彼の詩学であるideo plasiticyも、言葉に物性を感じ取っていたことが読み取れる。
 
・William Carlos Williams の即物性・簡潔性
・中国の詠物詩
物の観察と形式化についての問題系。言葉が物にどのようにしみこむか、物に言葉がどのようにしみこむかの考察。
・鈴木正美『言葉の建築術—マンデリシュターム研究—』の参照
オシップ・マンデリシュタームは詩を建築になぞらえて詩作していた。 
 
・入沢康夫『詩的構造についての覚書』
・北川透『詩的レトリック入門』
・マックス・ベンゼ『情報美学入門』
・リー・ウーファン『余白の芸術』
・Y・トゥイニャーノフ『詩的言語とはなにか』
・ハイデガー『詩人のように人間は住まう』、『建てる・住む・考える』
・レヴィナス『全体性と無限』のなかで家の女性性について書いているところ
etc.etc.を参照しながら詩の構造性についての定義をする。
 
 
 
建築における語り得ないもの=詩美 を語る。語り得ないものの前で沈黙するその先にあるのが詩であるから、(語り得ないものを語ろうとするとさらに語り得ないもの=詩美がでてくる。それは線形的には捉えられない。)建築における詩美とはその建築を成り立たせている形式のまわりの付随するコノテーション、レトラクトであることになる(という予想。)概念的近傍。コンクリートや木や金属の素材が、密実な物質の組成でなりたっているということがその近傍系(温度、質感、音の響き)をつくっているように、またはプランニングや構成や寸法の決定が、構成の息や見えや居心地をつくっているように。ひとつの言葉には概念的近傍(概念的レトラクト)があるように、身体にも身体的近傍(身体的レトラクト)があり、両者は写像関係にあるが、言葉と身体のどちらが先かと言えば身体である。しかし言葉などの外在物が身体を訓育することは確か。言葉が認識の構造のきっかけとなっているのは確か。ゆえに、言葉と身体の問題へと遡ることで能く建築の詩について語れるかもしれない。
  
・コルビュジェ、オーギュスト・ペレ、スカルパetc.諸建築家たちの詩への言及についての考察
・韻律と数
・数比と詩と音楽と建築
・身体的な数=リズムについて
・詩を書く建築家について(ジョン・ヘイダック、立原道造 etc.)
・詩の空間性
  
●ブックデザイン
・判型:A5判
・頁数:300p
 
 
  
 
...
レポート 
アセンブルデザインⅡA 赤坂喜顕校長
 
唐澤徹
 
 
  
朽ちた舟を描いた素描。あのリリシズムは何かな、と考えました。それで思い至ったのが、舟とは、境(しきい)への意志であるということです。それはつまり、生成のあわい=波打際=poieisへの意志だと思うのです。また、アーキタイプとしての舟のことも考えました。例えば、飛騨高山は古河町の、まつり会館に滞在したときのこと。古河町の祭りはユネスコに登録されており、その映像を見て、そのなかで、お神輿のシーンがありました。その担がれて人の波に揺れるお神輿を見たとき、ちょうど水面の波に揺れる舟のことを想起しました。古く日本へは舟で来た人々も多かったと思います。故にそのような渡来の舟の経験もお神輿という表現を産んだ素地ともなり得ているのではないかとも可能性として思いました。(そのように、ポイエーシスは人々の経験の血の流れの中に息づいているのだと思います。)また、病院の待合室で人々が並べられた長椅子に 並んで座っている様子を見たときにも舟を想起しました。そして、その病院では人々の眼差しのさ��に窓があり、光があるのです。また、ヴェンダースによる『ベルリン・天使の詩( der Himmel uber Berlin )』の最後のシーンにおいて、ホメロスの名を冠された老詩人が「乗船完了」との言葉を発し映画は終わります。また、旧約聖書におけるノアの箱舟なども、元型的な舟の形象があります。また、今年の夏に滞在した高山建築学校において、友人になったご夫婦のお子さんと仲良くなり、その子が水盤に木の板を浮かべ、その上に石を乗せて人に見立て、航海の遊びを始めたのを一緒になって見ていたことがあります。そのことは何か感動的なものがありました。
  
また、赤坂先生の遍歴に思いを馳せました。卒制の敷地探しの旅において、本州の極北、シルクロードの最果てである津軽を選ばれたということには何か哀愁を感じます。日本海と交わる十三湖。雨の日は山の土の流れ込み色の変わるという。真珠貝の澄んだ色から血のような色まで、両義性をもつ十三湖。先生しか見ていない内面の風景の強度のことを思います。そして、その個人の中に宿る世界の強度が建築家としての強度なのだと思います。true architect はtrue poetであらねばならない。敷地はかつて栄えていた港町が風害により一夜にして廃墟となったところ。地震、雪、嵐、自然の威力の前の人の生の儚さ。その儚さに対する哀しみと慈愛の眼差し、そして<建築>の本懐たる、自然の猛威に対して確固たる生の基盤を打ち立てるという意志。last : 最後の・続く。これは私の常々思うところなのですが、デザインを志ざす者は人の弱さや悲しみに敏感でなければならないと考えます。私は建築デザインを通して世界をもっと優しく美しくしたい。
 
先生の卒業制作では、自然の生成変化するエネルギーと人間の作る絶対幾何学が主題です。コンセプトシートに記載されていた渦のイメージ。「vortex・渦」とは中心を持つエネルギーの結節点です。例えば銀河も渦を巻きます。それはcosmosであり、建築も一つのコスモスであることは間違いありません。その秩序の求心性を流転しながらしているのが<自然>であり、固定性を持たせて作るのが人間によるものなのだと考えます。
『 last cosmos 』では、純粋幾何学の多層構造・同時表示・通態性が表現されています。そのような事象の重ね合わせとは詩であり、赤坂先生は建築で詩を志向しているのだと感じました。また、それが意識的なのか意識的でないのかに関わらず、何か美しいものを作ろうとする人は、それぞれの独自の言語で<詩>をしようとしている、と思います。
  
NIAローマ・コンペ
西洋古典建築の語法であるパースペクティブの異化と詩的統合をしていたのだなと感じました。ワイヤーというテンションの構法も、ヨーロッパの荷重の構法とコントラストを生み、異化効果を生んでいると思います。
成田山仏教研究所 
イデアルなものと現実の建築物の関係。プログラム的な要請をコンセプトと構成の中に具現することがtrue conceptual architecture. “機能的なプログラムを、概念的な構成により秩序づけること”。その赤坂先生が仕事を取るまでのエピソードがものすごく格好良い。数ある人々がプレゼンして、おこられて帰ってきて皆ができないものを軽々とやってのけた。また、古い施設の中の子どもたちの来る図書館の機能を残していることがとても素晴らしい。新しい建築物の子ども図書室では子ども用に小さなソファをデザインしている。飛騨の古河の図書館を訪れたとき、そこのだれでもトイレに感動したことがあります。そこには、子ども用の小さなおまるがある。建築の女性性とは居を与えることだと思っています。居場所を与えること。座をあつらえること。新しい生命のためにその居場所を準備すること。生命がずっと続くように。(永遠ではなく、ずっと。「ずっと」には慎ましい祈りが込められています。)
 
R-竹中技術研究所
12mグリッド。カーンも採用していたというスケール。構成要素の接合部に立方体を配し、オブザベートリーな場を設ける。軸=眼差しの意志。直径153mの円が各プログラムを統合する。orchestaration = 統合のマニエラこそが建築術。
 
テクニカルなもの・マニエラへの態度 
・バックマリオンとフロントマリオンを配することによるゆらぎ
・直行グリッドを避ける
・硬直性ではない「表情」や生命感。 村野藤吾先生からの教え
など、幾何学を用いながらゆらぎや多義性を志向している。硬直を避け、可能性を可能性のまま享受するという、吉田五十八建築の「いき」性とも通ずる。
 
ヴェンチューリ「安易な排除より困難な統合を」
両義性や反立物の統合、詩的多義。
詩とは現実の意味のmulti-meaning, parallel-meaning の言葉への写像である。
では、その言葉が物へと写像されたならば?そのとき建築物は詩と成り至る。
 
 
先生のミースへの理解
『柱』ギリシアから連なる古典的なオーダー それを消滅させたかった。しかしできなかった。「イカロスのような生き方、神へもっとも近づいた建築家」
バルセロナ・パヴィリオンにおいて
柱は見えない十字のグリッド。表層に見えて実体。対して、オニキスや乳白ガラスは強い物質性を持つが、それはストラクチェアではなく、記号的表層。バルセロナ〜においては十字柱の中央部のディテールはアールがついている。そこにおいてストラクチュアは実体だけどそう見えない、実体なのだが、表層にしか見えない。実体と表層が入り乱れている。実体と表層の通態的表示。コルビュジェのドミノよりも深くpoetic (=多義的、通態的)
 
テューゲントハット邸においては、十字柱の中央のディテールは直角。対して、角はアールがついている。それにより、柱は消えてゆく。ここでも十字柱は表層的実体であり、オニキスの壁は実体的表層である。柱は消えてゆくことを志向するが、バルセロナと異なり、その柱には求心性が与えられている。そこでもDaseinとAbwesenheitの、生成と消滅の通態的拮抗が生まれている。現実の多義性と通態性、可能世界の様相を一つの限定された形にするとき、絵画でも、写真でも映画でも、建築物でも、音楽でも、それは詩となる。詩こそが究極のリアリティの写しである。
 
ファンズワース邸
柱が外に付く。それは、内発の去勢。
  
ピエンツァ・トスカーナ ルネサンス
ピウス二世が理想都市として設計
逆パースと立体グリッド:床のペイヴのグリッドが立面に立ち上がる
 
ジュリアーノ・ロマーノの聖堂 均質空間 ガラスで風景に開く 閉じずに風景に開く
 
ペトラルカが眺望を得るために山に登ったが、ピウス二世ではバルコニーにより風景へ応答する。それ以外はプラトン的な作り方。
 
軸芯をずらす ゆらぎ
動きを作る テラーニ カサ・デル・ファッショ
柱間において、中と外で軸がずれる。運動、活性化、高等な頭脳を持ってして作られている。
韻律 abba シンメトリーを使いながらズレを重ねる。これはエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトにも通じるものがある。
エストベリ ストックホルム市庁舎 軸のゆらぎによる「かるさ」。不安定の美。微妙なリズム、音のズレ。それがゆらぎあるハーモニーを生み出す。タクトゥスとリトゥムス。凍れる音楽。視覚的に音楽的な見えを作る。
アアルト 夏の家
天からの力によりバタフライルーフになっているが、屋根の谷とプランの軸がずれている。リビングの窓と炉との軸がずれている。
桂離宮 日本にも遠近法はあった。逆パース。軸のゆらぎ。
 
先生はそれらの歴史的読み込みとしてマニエラを発展させていった。 
過去の人々がやらなかったことをどうやるか、がテーマだと先生はおっしゃりました。コルビュジェの「私の師は歴史である」との言葉を引用して。
 
オーディオテクニカHQ
コルビュジェのドミノとシトロエンの統合
軸組空間(=柱空間 そこに壁を自由に入れてゆく) と壁式空間(=両サイドに壁、その間に床を自由に入れてゆく)
コルビュジェはラトゥーレットにおいてドミノとシトロエンの並置をした。しかしここではmixされていない。
オーディオテクニカHQでは、プレキャストの壁は実体に見えて仕上げ。ストラクチュアは内部の柱。柱は表層に見えてストラクチュア(=実体)コールハースは、構法が変わると表層と実体の関係も変わってくると理解している。モビーディックのモチーフ。親クジラ、子クジラ
研究棟と事務棟で床レベルがずれている スキップフロア
コーナーが閉じるのを避けている、サイドコアウォール ブリッジコアは浮いている、
消防の進入口などの要請もデザインとして解いている
ギル 風、光 ルイス・カーン 重くなるのを避けるため、直行グリッドを避けている
開講のプロポーションは高さ1800mmで、これは京都の角屋のものである
知性と教養の豊穣こそが幸福な建築を作るのだと確信しました。 
 
...
レポート
アセンブルデザインⅡA 講師:保坂猛 先生
唐澤徹
光について。
建築家には、それぞれの光についての認識があるように思われます。ルイス・カーンには光と物質の形而上学があり、それは作品をみるとその形而上学が、ある真実を掴んでいるということを思わせます。ピーター・ズントーもエッセイの中で光について書いています。光はその場所の感情に大きな影響を与えます。『オランダの光』という、オランダの光と美術にまつわるDVDを観たことがあります。そこでは、フェルメールやレンブランドの絵画など、その地域で人々により作り出された形が、その土地の光と大いに関係があることが美しくまとめられていました。人と同じように光もその土地に生きていて、人々により呼吸されているのだなということを感じました。そして、人が人に影響を与えるように、光はもっと無辺に人々に影響を与えているのであろうとも思いました。過去に、保坂先生に「先生にとって光とはなんですか」とたずねたら「光とは愛です」とお答えいただきました。そのこたえはとても先生らしく美しく、心に残りました。そのことから、世界の事象は人の言葉ではない何らかのテクストであり、それは人の言葉に翻訳可能なのかもしれない、との直感を得ました。しかもそれは科学の分析的な言語ではなく、詩のような感覚で。
世界モデルについて。
人のつくりだす形は、すべてなんらかの世界認識の表出であると思われます。その点で建築の魅力を決定するのは、設計者の世界への感覚・感受性であるのだと思います。先生の『love house』設計時の創世記と敷地条件に即したドローイングは、最もミニマルな世界モデルであり、<世界>の感覚を感じます。世界モデルとは、形而上的な意味での<構造>のあることであると考えます。
箱庭療法において作成される「箱庭」も作成者の世界モデルであり、世界への認識の投影です。そのようなことから、この世界はつくられてはまたこわされる神さまの箱庭なのではないかな、とも想像したことがあります。
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箱庭
 
 
人の世界は神さまの箱庭 
砂を あつめ くずし
永遠の者の 
時へのたわむれ
神さまには本当に名前がなくて
それでも
それゆえ
知らずのうちに知っている
不在ゆえの遍在を
名のなきゆえの
すべてであることを
世界の
内と外とを照らす
光、
速力。
有限と無限をつなぐもの
 
言葉、
一つの。
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レポート
アセンブルデザインⅡB 講師:前田圭介さん
唐澤徹
講義を受けて、前田さんの、自らの生まれ育った土地やそこから派生してゆくインターローカルなあり方に共感しました。ノマディックな無名の都市生活者になることも魅力的ですが、やはり自らの生まれ育った土地や、そこで過去を暮らしてきた人々の記憶に根ざすことは建築家にとり大きな力になります。私は群馬県の渋川市(旧小野上村)出身で、たまに実家に帰ると都心では見られない山々の風景や綺麗な空が印象的です。ジェネリックなアーバニズムにより引き起こされるのは風景の無個性化であると考えているのですが、地方までもがそのような都市の原理により構築されてゆくのは仕方がないのかなとも思いつつも歯がゆいです。最近、実家近所で高架道路の建設が進んでいます。現場作業中に大規模な遺跡が見つかったのですが、記録だけのこして場所の現物はそのまま橋脚の下に埋められていきました。
人々の集合の原理には多くの種類があるべきであると思います。風土が違えば人々の見てきた風景も違うのですし、ゆえに考え方や文化も異なります。ゆえにそれらの微差をひとつの原理で覆うことは暴力でもあり得ます。その問題を考えるには歴史のプロセスのすべてをなぞり、それぞれの良い面、悪い面を考えるべきなのでしょう。その点で「モダニズム・近代」とは熟慮すべきものなのでしょう。モダニズムとは、インターナショナルスタイルとも繋がるように、世界のユニヴァーサルなスタンダードを用意したとも思えます。そのような共通言語を用意したために世界でスムースなコミュニケーションが取れるようになったとも思えます。���要な大学の建築教育は、ほとんどがモダニズムの系譜においてなされてきました。しかし、それは世界のあり方のいくつもの可能性の芽を摘み取っていることになっているように感じられます。
そこには美学や倫理などの建築にとってのアルターエゴが介入しなければいけないのではないかと考えています。しかもそれは、日本的な混交的ハイブリッドなものであって然るべきなのだと思います。さらに個人的には、暮らしのなかで培われた身体の知性が重要なものになるのではないかと考えています。たとえばある地域で了承されるデザインにはその地域に必然的なデザインのフォーム・身振りがあります。それは普遍化できないし、完全に言語化もできない。空間のプレゼンスで示すしかないのでしょう。
 
空間のプレゼンスに関して、建築の公共性について考えさせられました。『群峰の森』の完成により、前面道路が気持ちの良いジョギングコースになったり、『アトリエ・ビスクドール』では、外庭が完全に閉じず、外部からは緑の足元が見え、かつ内部からは外部の視線は遮り、足元から外部の気配を感じるというように、大々的にコミュニティを謳う設計とは異なる共同性の在り方が感じられました。その点から、それだけ建築物がまわりの環境に影響を与えるということであり、それゆえに建築家には世界をより美しくしうる可能性と、同様にその責任があるのだなと思いました。
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レポート
アセンブルデザインⅡA 講師:奥山信一さん
唐澤徹
<アーキテクチュア>、<建築>の概念について考えさせられた講義でした。ルイス・カーンが「建築作品は<建築>のスピリットへの捧げ物である」と述べるように、それは私たちの日々の健闘によりその円周を広げてゆくものなのでしょう。ArchitectureとはArche(始原、原理)の意味も含まれるゆえ、その起源にひと連なりであることが建築作品のオーセンティシティであるのでしょう。そのことは磯崎新氏も論考を書いており、西洋建築においてはルネサンス期におけるパルテノンの廃墟や日本においてはイセなど。(氏はイセにおいては始原が虚体であると捉えたようですが。)サマーソンが古典主義建築とモダニズムの関連を問うたのもそのような、オーセンティシティの意識からなのでしょう。しかし、私にはそのような意識がノルム・規範となることはすこし怖いことのように思えます。世界とは混交によるハイブリッドです。それは文化的にも技術的にもそうですし、一絡げにひとつの原理でまとめることは到底できることではない。
 
現在の建築教育の現場のほとんどはモダニズムの流れを汲んでいます。しかし、風土はそのモダニズムをきちんと身体化できているのかどうか疑問です。産業の機械化に端を発するモダニズムは資本主義とあいまり、現代では、資本の増殖に付和雷同する建設のあり方はほとんど都市化と同義になっています。そのような単一の原理が世界を覆うことは先が無いと思えます。わたしはアルヴァ・アアルトに共感を覚えるのですが、そのひとつにローカリティの問題があります。近代建築運動の興ったドイツやフランスと比べれば、ヨーロッパの辺境であった場所で独自にモダニティを変質させ、特別なものを彼が作ったことはとても意義深いものであると思います。地域性の問題に関して、現代ではレム・コールハースは、ルーラルなものまでも都市の論理で構築されていくことに異を唱えています。また、中国のWang Shuは中国の地方の開発を評して、「都市の原理と土地の原理と、これらまったく別の世界が存在している」と述べています。合理性ということばがありますが、その合理性が水の合理性や土の合理性、火の合理性や風の合理性など、自然の合理性に適うとき、初めてひとは世界と軋轢を生まずに生きられるのではないかと思います。わたしは都市化とほぼ同義である資本の増殖に付和雷同する建設のあり方に疑問を抱きます。もちろん経済合理性は無視できません。しかし問題はその論理が何を則・倫理とするかということです。経済とは貨幣の交換により共同性を築くことであると理解しています。それはちょうど生態系のようなものであるとも思います。のようなもの、というより、人類が資源とエネルギーを自然から得ているがゆえに生態系の在り方の一形態なのだろうと思います。ゆえにその則・倫理を自然に求めるのが地球上の生物の一員である人間にとってふさわしいのでしょう。自然の秩序世界でおもしろい点は、単純な要素やルールにより複雑で多様な豊かさがうまれているところです。建築の在り方についての価値観もそのように多様であってもよいのではないかとも思います。それは建築教育の現場にこそあってほしいものに思えます。
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レポート
アセンブルデザインⅡB 講師:田中隆吉さん
唐澤徹
ホテルのホスピタリティについて。
ホテルとは旅が関連する。旅と聞くとボードレールの詩を思い出す。
 
  地図と版画が好きな少年にとって
  世界は格好の好奇心の的だ
  ランプの光の中では大きく見え
  記憶の目には小さく見える
  ある朝我らは船出する 頭をほてらせ
  心中には憤怒と 苦い欲望を抱きながら
  波の脈動にまたがって我らは進む
  有限な海の上で無限の思いを揺らめかせつつ
  ある者は忌まわしい故郷を捨てることを喜び
  ある者は恐ろしい親から逃れることを喜ぶ
  またある者は星占いをしながら女の目の前で溺れ
  外の者は危険な匂いを立てるキルケを演ずる
  
  豚に変えられてしまわないように みな
  空間と光と燃えさかる大気の中に飛び出す
  氷にかじられ 太陽に焼かれ
  接吻のあとも次第に消える
  
  だが本当の旅人とは旅のために旅する人
  心も軽く 風船のように
  旅の行き先などとんと無頓着で
  わけもなくただいうのだ 進んでいこうと
  
  欲望をむき出しにして 移ろいやすく
  不確かだがすさまじい快楽を夢見る
  まるで戒律を書き集めるかのように
  そんな人間を何と呼んだらいいか 誰も知らない
 
すさまじい詩である。この詩を最終詩とした『悪の華』は、冒頭の詩で近代人への冷笑的で皮肉な眼差しが向けられている。現代の日常を暮らす私たちが、もしこの『旅』で描かれているような存在だとしたらなんとおそろしいことであろうか。しかしあながち間違いでないことは、ハワイや東南アジアの美しい海がリゾートホテルの客などによるゴミで埋め尽くされている様をみれば理解できる。ちなみに『悪の華』の冒頭の詩はこうである。
読者に
愚行と 過失<あやまち>と 罪過<つみ>と 吝嗇とが
われらが精神を領し 肉体を蝕みて
乞食どもが虱を養うがさまにも似て
われらは心地よき悔恨を肥え太らす
われらが罪過は斥け難く 悔恨は揺らぎ易い
告解により罪の報いは贖われて余りあると慢心し
卑しき涙に一切の穢れを洗い流したものと妄信し
われらは嬉々として汚泥に塗れし道へと舞い戻る
悪の枕辺に現れし者はサタン・トリスメジストス<悪霊の頭たる錬金術神>
魅入られしわれらの精神を緩やかに眠りへと誘う
そしてわれらが意志という名のこの貴き金属さえ
この博識の化学者の手によりことごとく煙と化す
われらを踊らす操りの糸を握る者こそは悪魔!
忌まわしきもののうちにわれらは魅力を見出して
腐臭漂える暗黒のうちを恐れも知らず横切りては
われらは日ごと地獄の方へと一歩ずつ堕ちてゆく
喩えるなら年老いた娼婦の打ち拉がれし乳房へと
接吻<くちづけ>ては齧りつく貧しき放蕩者にも似て
われらは道すがら人知れず快楽を盗んでは
古びた香橙<オレンジ>を搾るがごとく 力を込め搾り尽くす
われらが頽廃の脳髄のうちに巣食う悪霊の群れは
数知れぬ蛔蟲のごとく 蠢き 歌い 酒宴に興じ
われらが息をつくたび 死は大河のごとく
鈍い嘆きの声とともに肺腑へと流れ落ちる
強姦 毒薬 短刀 放火が
われらが憐れむべき運命というこの陳腐なカンヴァス<画布>を
いまだそれらの愉快なる図柄もて飾りえぬならば
悲しいかな! それはわれらが魂の怯惰のゆえだ
だが ジャッカル<金狼>や豹 牝狼に猿
蠍に禿鷹 また蛇にも似た
われらが悪徳の群れ集う忌まわしき見世物小屋の
啼き 吼え 唸り 這いまわる怪物どものうちに
ひときわ醜悪にして 悪意に充ち 不浄なる者がある!
それは大仰な身振りもせず 大きな声も立てはせぬが
ややもすればこの地上を廃墟と化すやもしれず
欠伸<あくび>のうちにこの世界を呑み尽くすやもしれぬ
それこそが倦怠!ーー眼には心ならぬ涙を泛べ
長き煙管を燻らせながら 断頭台の夢を見る者
ご存知であろう 読者よ この気難しき怪物を
ーー偽善の読者よ ーーわが同胞よ ーーわが兄弟よ!
「ホテルは貧乏人には設計できない」と、ある建築家が言ったと赤坂校長は述べた。それならばわたしはそのような生まれでは無いのでホテルを設計することはできないだろう。
われらを踊��す操りの糸を握る者こそは悪魔!
忌まわしきもののうちにわれらは魅力を見出して
腐臭漂える暗黒のうちを恐れも知らず横切りては
われらは日ごと地獄の方へと一歩ずつ堕ちてゆく
私は世界がさらなる地獄にならないように努力するのみだ。
…とまあ、そのように腐ることもないのだろう。世界の良い側面を見てみる。
飛騨市古川町に滞在した時に宿泊した小さめのホテル(飛騨ともえホテル)は、豪華ではないがあたたかな真心がはしばしに感じられた。その夜は高山建築学校のサマースクールを終えてどろどろに疲れていた。しかも滞在していた古民家を改築した校舎は風呂のシャワーがなく、共同生活ゆえに湯船につかるのも制限されていた。そのうえ日々の制作の肉体労働により体は筋肉痛。そんななかで、いままで日常の生活であたりまえに使っていたシャワーや湯船、そして柔らかなベッドは、なんの変哲も無いものであったが心身にしみいるものがあった。そして、簡素だがとても居心地の良い部屋の大きさで、また、窓からは山々が見え、とても素晴らしいものだった。朝食にも細やかな心配りが感じられた。一人用の小さな座敷に通され、小鉢がたくさんのもので、全体の量も多すぎず少なすぎずちょうどよかった。それと宿の方々も良い距離感で押し付けがましくなく、好感を持った。ツイン6000円くらいの廉価な宿であったが、とても満足して後にした。
ホテルとは旅と関連があり、それゆえに日々を過ごす土地とは別の文化や空気感を味わう貴重な機会を提供する場所である。また、自らと同じく旅で訪れた人々との交流も魅力的なものだろう。飛騨ともえホテル滞在時には、宿泊客とは話すことはなかったが、そこを拠点に古川の町を散策し、和ろうそくの職人さんの話を聞いたり、写真館を訪れて話を聞いてみたりした。古川の町の方々はやわらかでやさしく、なるほど、美しい景色のなかに住まうのならば心まで美しくなるのだな、と感じた。心が美しく澄めば、その人の手により作られる形も自ずと美しくなるだろう。
飛騨の空は澄んだ光で満ちていた。
ピーター・ズントー の、スイスの山の小さなホテルについての記述には人間の優しさを信じたくなるような美しい親密さを感じさせる。そこでは食事を準備するにおいや、空間のなかでのひとびとの親密な会話や、または山の新鮮な空気を感じさせる。
私の生まれは群馬県の渋川市(旧小野上村)であり、温泉地が多くある。四万温泉は穴場の温泉街であり、旅館「たむら」はその土地の古い旅館である。そこには何度か宿泊したことがあるが、岩風呂の温泉が素晴らしい。土地も山間にあり静けさに満ちている。
私の実家のある土地にも小野上温泉という名の温泉があり、また「サンおのがみ」というホテルもある。しかしそのホテルはよくデザインされているとは言い難い。また、小野上温泉の浴場も、渋川市への合併により、無機的な「施設」になってしまった。以前は野趣あふれる岩風呂の作りで、素材感もよく情緒もあった。幼い頃には祖父と毎日のように通っていた。そのような思い出と愛着のあった場所がジェネリックな場所になってしまったのはとても悲しい。それがかつて指摘されていたフラット化してゆく世界であったのだろうが、現在、世界のモメントはギャップや差異の時代になろうとしているように感じられる。差異の認識とは発見のことであり、その需要はなにかを学ぶということである。建築も、そのように、土地土地の文化や風土の微差に敏感であることが求められるだろう。それは旅というもの、つまり差異の只中へ飛び込むことを受け入れるホテル・宿というものにこそおおきく当てはまるだろう。
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memo:
多摩美の久保田晃宏先生の授業で地球外知性のために何かをせよ、といわれたので詩をつくることにしました。考察です。
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地球外知性のための詩について
 
地球外知性のための、詩という有意な構造性をもつまとまり・objectを考えるときに、問題となるのがmediumである。ピクトグラムをミニマルに人工的に設計し、コード変換して文字をつくることや、直接に音や電磁波のコードを用いることが考えられる。または、宇宙にあまねく存在する原子(水素か?)または、、否、情報を担うものとしてのピュリティがなくてはならない。
メディアはそれらを用いるとして、<詩>を成り立てせている条件を考えなくてはいけない。まず、poetryにはRaumがある。独自の時空間が包含されている。それは、poetryとcognitive structureの相互包摂により生じる。メディウムによらず詩を考えるとなると、それは<詩についての詩的発意> = poetry of poetryとなる。poetryから偶発的事象をとりのぞき(それこそがpoetryの生命でもあるのだが。弱い構造、イマージュ、生命、息吹……)そのエッセンスをとりだすと、数学的構造(強い構造、骨格)、しかも、aritmos(数→韻律)とtopos(場→空間)となる。
定義1.
詩=韻律性(rithmus)と空間性(topos)によるピュアなオブジェクト
 
<ピュアな>にも色々とある。
・アリストテリックな線形的論理 =意味
・散逸系 ref.マラルメ
・多層構造 ref.ボードレール
これらは数・要素同士の関係性(トポロジー、論理学、様相論理学)へと接続するのではないか。———---structure
<ピュアな>という言明は様態(mode)のことであり、今作品では定義1の構造性における主題と変奏となるというわけだ。
  
modes
 
詩とはレタス(襞構造)
詩とは髪をすりぬけるシャワーの水(fluidality)
詩とはタオル(envelope)
詩とは仄暗い部屋(topos)
詩とは光の当たるカーテン(多層・重曹・複層)
詩とは抱きしめ合うこと(emotion)
詩とはみつめあうこと(指向性)
結び目(サントーム)
こうして<生のすべてが詩>となるわけだ。(生のすべて=現実の事象の構造性)
 
それら現実のmode 様態の抽象的記述は音楽のpoeticsへも接続する。音楽の構造とは、人間の聴構造etc.の身体構造により規定された美的構造である。
(美的、とは快原則に響くものであるとする)
(その快原則にも作用機序があり、)
(多くの上部構造が次々に現れてくる)
空間とは視覚、身体の動き、聴覚により定位される(ref.VR)
オルゴール、ピアノシート、パンチカード(コンピューティングにおける)
は今作品のモデルになりそうだ。線形的構造(共時的構造ですら通常の意識様態においては線型性におとしこまなければならない)
<目的>に人類という存在の知的レベルを示す、とするならば、人類による<観察>というアティテュードを詩により示すのがよいだろう。観察と分析と制作(compose,construction)というものは物質的存在・精神的存在という複層的なあり方をするひとをよく表し得ている。レオナルドが自然を観察し、スケッチしたように、自然の物理的構造性を象徴化してサントーム(=結び目)をつくり=詩化、それを作品とする。それは詩において図象と音楽が構造的に重なり合うばしょである。(コンクリートポエトリー的でもある。)
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けど、ここまでかんがえてきてパッと『蝶がとまる詩』ってちょううつくしいのでは、とおもい、それを設計して提出することにします。詩は詩で書いてインク印刷して、そこに紫外線塗料で花のような求心的な絵をかいて、というもの。蝶は人間外知性、ってことで。
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『蝶のとまる詩』
弱くやわらかな花
羽根
はかなきうつくしさは
はかなきうつくしさと結ぼるる
  
光に透ける花弁の
薄くまとわる微風の層に
透きとおる羽根の
紋様がかさなる
 
そのひととき
世界は黙して
眼差しをそそぐ
 
���やかな密約により
結ばれた
ひとつの結ぼれに
...
アセンブルデザイン1B (講師:東京R不動産 林先生) レポート
7P168806-6 唐澤 徹
 
 この授業では、不動産という今までの私にとり建築設計の前・もしくは後の段階での取引を扱う営みであったものが、積極的な価値の創造を生みうるのだということを気付かされた。それらを特にあげるとすれば、
・価格や投資と賃料などの不動産的視点からデザインの提案をできること
・デザインの価値から不動産の価格を設定できること。
・情報デザインとリフレーミングにより潜在的な顧客を顕在化させること。
・社会問題を経済的なロジックでもって解いて、美しく組み直してゆくこと。
などである。その中でも特に建築的営みと経済の関係について考えるところが多かったので以下に書きたく思う。
 実践において経済的な采配を取ることは、人々の生活をニュートラルに設計してゆくことに有効
である。しかし、私はそれはあくまでも手段だ(であってほしい)と考える。人々の暮らしの風景は、その共同体の成員の間のコモンセンスにより決定される。東京の風景が賃料によって決定されるというのはある側面では真実かもしれなく、例えばヨーロッパにおける文化的ナラティヴのような共通の物語を資本主義の中での消費に見出しているきらいがあるという点に尽きるだろう。(もちろんそれだけが共通の物語ではない。)
 私たち個人は衰え死んでゆく。しかし人々の共同体はそうではない。ただし、それが私たち一人一人の死の絶対性を理解した上で、かつ私たちの生存の基本的な条件を把握した限りにおいてである。そして、その共同体の新陳代謝を司るのが経済活動である。私は、建築は社会正義として実践されるべきであるという立場をとる。そして、建築物は資産であるゆえに経済性とは切りはなして考えることはできないだろう。しかし、建築には経済性を超え、固有資産性を超えた共同性を獲得してほしいと強く願う。そこには生の詩が必要である。実存の感受・リアリティの濃縮である詩の感覚は、個の死の限界の中での有限の生のかけがえなさと、個の限界を超えた永遠への予感と憧れを呼び起こし、それにより駆動された経済は人々の生活を美しいものにする。要約するならば human wellbeing 幸福 のために建築的営為はなされるべきであろう。
 ヴィム・ヴェンダース『ベルリン天使の詩』の中で、ホメロスの名を冠された老詩人は”人々は平和の叙事詩を歌うことを忘れてしまった”と述べる。人類の共通の物語、それは喜びの叙事詩となるものであるはずだ。
 そのためにも王道の建築学が求められる。アルヴァ・アアルトは、「建築学とは人間の営みの全てを含んでいる」と述べている。新しいリアリティ、新しい美、人類学的な感受性、など、広範な関心を持ち適切な範囲での美的実践をなしていきたいと思う。
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