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#空想旅行舎
ari0921 · 9 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
    通巻第8070号
 AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
  文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
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 わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
 「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
 このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
 皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
 しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
 生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
 きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
 文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
 紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
 「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
 額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
 「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
 ▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
 『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
 『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
 古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
 江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
 井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
 上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
 近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
 描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
 谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
 「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
 ▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
 「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
 「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
 「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
 サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
 わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
 こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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kennak · 10 months
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9月21日午前6時に父が亡くなった。 老健からの退所が決まり、週末のみ自宅で過ごすことが決定してからの 我が家はまさに上を下への大騒ぎだった。 家の中までの導線を確保した上で車椅子が通るよう道を整備し、 父が使っていた寝室に入るサイズの介護ベッドを調達して 高齢の母の負担が極力減るようにヘルパーの力を頼りながらの受け入れ生活だったが あれほどの労力をかけて準備��たにも関わらず、わずか2ヶ月ほどでピリオドを打った。 コロナ感染からの重症化で一時は命も危ぶまれた父は、奇跡的に回��するも 肺炎により嚥下機能が著しく低下していたため誤嚥性肺炎を繰り返しては再入院し、 「急変した際の延命治療はどうしますか」とその都度医師に聞かれた。 そして3度目の再発で入院し、同じように「どうしますか」と問われた時、 半ば慣れっこになっていた私たちは「回復の希望があるならできるだけのことはやってほしいが 機械の力を借りて心臓を動かすだけの措置なら不要」と回答した。 そしてその翌日、まるで私たちの会話を盗み聞きしていたかのように父は逝った。 今年もケムコ様より東京ゲームショウにお誘いいただいていたのだが 父の容体が安定していないことからギリギリまで返事を待っていただいていた。 (快く待ってくださったケムコ様には本当に感謝しかない。ありがとうございます。) 最初から断ることも考えたが、遠出すれば気分転換になるかもという現実逃避的な思考もあり 引き延ばすだけ引き延ばした挙句に父が選んだ旅立ちの日は9月21日、東京ゲームショウの開幕初日だった。 父についてのエピソードで一番古い記憶を辿ると、幼稚園のクリスマス会になるだろうか。 園児のところにサンタがやってきて菓子を配る恒例の会で私も楽しみにしていたのだが 当日やってきたのはサンタのコスプレをした父で、特に素性を隠すでもなく 大声で私の名前を呼びながら「おおしのびん、今年はワシがサンタじゃ」と菓子を手渡した。 私は幼稚園の年少組にして「サンタは親が演っている」ことを知ってしまったのである。 生粋の目立ちたがりで役職のつくポジションが大好きだった父を見て育ったせいか 私は人一倍自分を表に出すことを避けるようになり、今もこうしてハンドルネームでブログを書いている。 母から「お父さんのようになってはダメよ」と言われて育った私は、 言ってみれば父を反面教師にして出来上がった集合体のようなもので、何から何まで合わない。 合わないのに、成長するにつれて父に似た部分が体のあちこちに、思考の節々に現れては嫌悪した。 今にして思えば、父のようになりたくない、は、父のように何事にもオープンで大らかには生きられない 内向的な自分の劣等感が生んだ、羨望からくる逆恨みだったのかもしれない。 そのことを受け入れ、父の中に幾らかの可愛らしさを見出してからの親子関係は 世間で言うところの仲の良い親子には届いていなかったかもしれないが、そう悪くもなかったと思う。 3度目の入院の知らせは突然だった。 デイサービスから「微熱があり酸素量も少ないため念のため病院に連れていきます」と連絡があり またかと思いながら病院に駆けつけた。 前々回、前回と同じようにしばらく入院して、回復すればまた退院するのだろうとぼんやり考えていたので 入院手続きのために膨大な枚数の用紙に記入しなければならないことの方が気が重かった。 翌朝面会に行くと、父は痰を吸入してもらって楽になったのか静かに眠っていた。 夜中も1、2時間おきに吸入をしていたと聞き、頭の下がる思いがする。 とてもではないが、このケアを自宅ではできなかったろう。 父は私のことはわかっていたようで「会いにきたよ、わかる?」と聞けば小さく頷いていた。 「元気になって、また家に帰ろうな」と声をかけるとまた小さく頷いていて 「この様子なら大丈夫だろう」と少し安堵した。 しかし、翌朝の医師の説明では、心臓の機能が大分弱っているので 肺炎が治るよりも先に心臓が持たないかもしれないと告げられた。 そして、冒頭に書いたように「無理な延命治療は本人も辛かろうし不要。 楽になるための治療なら全力でお願いします」と回答して帰宅した。 その日の深夜、病院から容体がおかしいと電話があり、孫たちも連れて慌てて深夜の病院に 大勢で押しかけると、別室に移動した室内で父はスヤスヤと眠っていた。 「みなさんが到着される直前に急に安定し始めて」とナースは申し訳なさそうに笑ったが 「人騒がせなじいじだ」と悪態をつきながらも皆笑顔だった。 その翌日、またしても深夜に病院から電話があり、同じように大勢で深夜の病院に向かった。 酸素がなかなか上がってこないと昨夜より病室内の空気に緊張感があったが 当の本人は傍目には穏やかに眠っているように見えた。 「こんなことがこれから毎晩続くのかしら」と母が疲労困憊の様子で口にするのを聞きながら 昨日医師に「まぁ、こんな感じで心臓がゆっくり止まってしまうほうが本人は楽だと思いますよ。 本当に眠るように、何も苦しまずに済むので。」と言われたことを思い出していた。 ほどなくして心電図を表示している機械から危険を知らせるアラーム音が鳴り、慌ただしくナースが入ってきた。 「まだいったらだめだよ」「起きてじいじ」「起きないと怒るよ」と孫たちがそれぞれ父に声をかけ 「家に帰ろうよ」と姉が語りかけた後に、それまで黙って見守っていた母が父の手を取って話し始めた。 「じいじ、ねえじいじ、本当に好き放題に生きたわね。 突然商売をすると言い始めて、30年間も私にその店を手伝わせている間に 他所で女を作ったり、こっそり家のお金に手をつけたり。 その人を連れてゴルフに旅行にと遊びまわり、飲み歩いてね。 子育てなんて全部私に任せっきりで、ほとんどしなかったでしょ。 でもねじいじ、私はそれでも、あなたにまだ居て欲しい」 父の左手を両手で包み込み、まるで駄々っ子を宥めるように話しかける母の言葉を聞きながら 「おいおい、こんな男にだけはなるなと刷り込み続けて今更それはないだろう」と思ったりもしたが その言葉を聞いて、つくづく夫婦のことは夫婦にしかわからないのだと思い知らされた。 そして母が話し終えるのを待っていたかのように、9月21日午前6時に父の心臓は動きを止めた。 息を引き取る直前まで、話しかければ反応していたし、ゆっくりと腕を持ち上げたりピースサインも出せていて 「ぎゅっと握ってごらん」と言えば握り返していた父の時間は、本当に呆気なく止まったのだった。 けたたましい機械音さえなければ寝落ちを疑うほど穏やかな最期だった。 入退院を繰り返したとはいえ、何週間も昏睡状態が続いたわけでもなく、 在宅介護開始から2ヶ月、再入院から僅か2日で逝った父は ピンピンコロリとまではいかなくとも、ほどほどコロリぐらいの称号は与えても良い気がする。 面倒を見ていた親族の誰も介護疲れに陥らせず 別れを惜しむ気持ちを十分に残した上で旅立ったことは、家庭を振り返らず仕事に恋に奔放に生きた父が 珍しく見せた父親らしい気遣いと言っていいかもしれない。 週末は自宅で皆に介護されながら、コロナ感染の入院直前に食べるはずだった念願の鰻もちゃんと食し 早朝にも関わらず親族8人が見守る中で逝けたのだから、幸せだったろう。 亡くなる前日の朝、家族がいる手前では気恥ずかしさが勝ってしまい、正直な気持ちを話せないと思った私は ひとりで病院に面会に行き、眠っている父に向かって幼い頃から反抗的な態度を取ってきたことを詫びた。 「できの悪い息子でごめんな」と耳元で話していると、父が一瞬、私の手を握り返してきた、気がした。 あの時間がなければ、私の後悔はもっとずっと大きかったと思う。 テレビで何度も見かけた「9月21日午前6時21分、お亡くなりになりました」という医師の言葉を聞き終えて外に出ると もう空は明るくなり始めており、電話1本で飛んできた葬儀屋と話をしているうちにすっかり陽は昇った。 秋晴れの爽やかな朝だった。 悲しみに浸る暇もなく、数々の段取りが始まった。 実を言うと、2年ぐらい前から「親が亡くなった時にするべきこと」という ハウツーのページをブックマークしていて、折に触れて読み返すのを癖づけていた。 10年以上前の別れでは狼狽してしまい、何もかも人任せにしてしまった反省から いざという時にあたふたせず、冷静に適切な行動とれるための予習をしていたのだ。 親族と親しい方々への連絡、役所への届け出、葬儀の手配など まるで流れ作業のように進んでいって、翌日には通夜、翌々日の葬儀がすんなり決まった。 通夜の翌日、親族の集まった部屋に入ると、皆が見守る中で父が風呂に入れられていた。 旅立ちの前に全身を綺麗にするオプションサービスで、母が頼んでいたらしい。 髪も丁寧に洗い、顔もパック&化粧までしてほとんど韓流スターのようなフルコース。 一部始終を近くで見ていた姉が「私がやって欲しいぐらいのサービスだったわ」と感心していた通り 仕上がった父はこざっぱりして生気を取り戻したように見えた。 昼時になり孫たちが腹が減ったと言うのでGoogleMapで調べてみると 田舎のため近くにはコンビニぐらいしか引き当たらない。 「仕方ないから適当におにぎりでも買ってこようか」と義兄は言ったのだが 騒がしく葬るのが我が家のスタイルだからと、私の提案でデリバリーを頼むことにした。 幸い、配達圏内にカレー屋とピザ屋が引き当たったため Uberと出前館に一軒ずつ注文を出し、数十分後には親族控室はカレーとピザの匂いで充満した。 父の想い出話を肴にワイワイと盛り上がり、「こんなに騒がしい親族の控室はないんじゃないか」と 誰かが口にするほど賑やかな昼食になった。 年を取ってもジャンクフードが大好きだった父は、すぐ横で羨ましく見ていたに違いない。 皆で盛り上がっているところに葬儀屋が入ってきて、一枚の紙を置いていった。 折り鶴の形をした形状記憶用紙で、皆で一言ずつ別れの言葉を書いてお棺に入れるのだという。 「お疲れ様でした」「あちらでは偉そうな振る舞いをしないように」(←私)など各自が書き込み、 最後に全員のメッセージを読んでいると、看護学生をしている姪が書いたと思しき一文が目に留まった。 「きちんと面倒をみてあげられなくてごめんなさい。立派な看護師になってみせます。」 淡々と皆の様子を俯瞰で眺めてきた私は、その一文を読んで初めて涙腺が緩んだ。 父親としては赤点だったが、祖父としては孫達に慕われる良きじいじだったのだ。 父の顔の広さもあって、葬儀場には置き場所に困るほどの花が届き、弔問客で溢れ返った。 コロナ禍ではとても実現できなかったであろうし、やはり父はツイている。 「いよいよお別れの時です。 生前お付き合いのあった方は、どうか前に出てきてお顔を見て差し上げてください。 仏様は亡くなっても私達に多くのことを教えてくださいます。 命の儚さ、尊さ、多くの教えを私達の心に遺して旅立たれるのです。」 お棺を閉じる前のお坊さんの言葉に誘われるように棺の前に立ち、眠っている父の顔を覗き込んでみた。 次々と収められる花に囲まれた父は、加工アプリで装飾し過ぎた写真のようなビジュアルで少しだけ滑稽だった。 そしてその姿を見てフフッと少し笑った後に、訳もわからず涙が流れた。 時間にしてほんの1分ぐらいだったと思うが、どこかの栓が抜けたようにドバドバと流れて自分でも驚いた。 「最後ぐらい泣いてくれ」と、父が私の涙腺(栓)を抜きにきたのかも知れない。 こんな機会でもなければ会うことの無かったであろう、数十年振りの知人や親戚と再会し 様々な思い出話をしていると、この時間も父の置き土産なのだと感じる。 簡略化の進む現代風の葬り方にも良い点はあるが、昔ながらの葬式も、その煩わしさも込みでなかなか良い。 親族用にチャーターした火葬場までの送迎バスに乗り込む際、 片手で骨壷を持ち、片手でスマホを持って自撮りをした。父とのツーショットである。 山の中腹にある火葬場は薄曇りで少し肌寒かったが、待ち時間中はやはり四方山話で盛り上がった。 火葬を終え、小さな骨壷に収まった父と帰宅してから 四十九日までの予定を親族で確認し、それぞれが日常に戻っていった。 数日して何気なくiPhoneの写真フォルダを見ていると、入院時に父と撮った写真が出てきた。 亡くなった9月21日は金曜日、その写真は2日前の19日だったので 写真の上にはまだ『水曜日』と表示されている。 iPhoneの写真は1週間以内なら曜日で表記され、1週間以上が経つと○月○日の表記に変わる。 水曜日という表示に、まだ数日前まで父はこの世にいたのだと気づかされた。 老健に長く入っていたし、それほど頻繁に会っていたわけでもないのに 「もういない」ことが日毎に実感となって、音もなく雪が降り積もるように静かに寂しさが募っていく。 あっという間に四十九日を迎え、近しい親族だけで法要を済ませた。 葬儀の時と同じお坊さんがやってきて、最後にまたひとつ話をしていった。 「四十九日が経ちましたね。 毎日元気にお過ごしでしょうか。 今日はひとつ、時間と命について皆さんに考えていただきたいと思います。 私たちは皆、等しく流れる時間の中で生きています。 亡くなった方の時間はそこで止まり、しかし私達の時間は動き続けます。 時間の止まった方との距離は日々遠くなり、日常で思い出す機会が減ってきたり 悲しみが薄れたりしますが、そんな時こそ、生きていることを自覚していただいたいのです。 今日この場で皆さんと過ごした時間が二度と戻らないのと同じように 時間は先にしか流れないと自覚しながら、1日1日を大切に過ごして下さい。」 私にとって父が良い父でなかった��うに、父にとって私も良い息子ではなかったろう。 生きているうちにもう少し何とか出来たかもと思わないでもないが、全ては後の祭り。 是枝裕和監督の映画「歩いても歩いても」に出てくる 『人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。』を、まんまと私も体験してしまった。 先人からの教訓を受け取っていたのに、実践を怠って同じ後悔をして その気持ちをこうして文章に残し、誰かが悔いを残さないようにと祈る。 そうやって、人は生きていくのだ。
四十九日 - 忍之閻魔帳
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poetohno · 2 months
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4 13 詩集 返答詩集 日記詩集  おまけトーク(メイドインヘブン)
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店から出た彼女は溜息を吐いて 空を見上げた どこまでも蒼く美しく 雲の配置さえも完璧だった
後ろを歩いていた人とぶつかる 慌てて端に退く 思わず足を止めてしまっていた
足を止め 心で感じ 魅入ることでさえも 疎まれるのか
空はどこまでも広いのに この世界はどこまでも狭い
雑踏の片隅で キャンバスを立てかけ 彼女は絵を描き始めていた
人の目も気にしない 外の騒音も聞こえない 雲の形も 空の青さも やがて移ろい 違うものになってしまう
この目に映る瞬間を ただ描きたくて キャンバスに写し取るように
あまりに速すぎる空に 追いつきたくて 必死に手を動かす 目に焼きつけながら
筆がはしり 腕がしなり 突き動かされるように 絵を一枚完成させた
布に包んで 持ち運ぶ 足は帰路ではなく とあるお店に向かおうとしていた
懇意にしてくれている人から空の絵を依頼されていたことを思い出す
空は赤い光に包まれて 淡く消えてしまいそうだった
「とあるお店にて」 ⅷ・辿る道の果てに
歩み続けてきたから 出会える喜びと引き換えに 科せられた痛みがあるとしたら
痛みを抱えながら 失い続けたものは何だっただろう
今まで何をやってきたのだろう 努力が無意味に思える
伸ばした手は虚空を掴むばかり 何も分からなくなる
意志を見失えば命は彷徨うだけ 生きていくためには 歩み続けることしかできない
歩み続けるために 望んだ出会いのはずだったというのに
なりたい自分は何だろうか 問いかけから始まった道だった
探し求めて 彷徨って あれでもない これでもないと 選び取りながら 他人の価値観と 自分の信念の狭間で 揺れながら
道の途中で出会ったものを大事に胸にしまって いつまでも覚えていたくて 道の途中で居場所を求め 役割を探し
描いた夢に想いを馳せ 少しでも近づきたくて歩んだ道のはずだった 生き方や働き方 自分の在り方を目指したのではなかったのか
心に迫り来る過去が 胸を掴む 心が立ち止まる瞬間 失った物を思い出す
あの人の姿は 確かにあの日 思い描いていた理想だった
自分であることを見つけている人がいる 出会えた場所にもう一度行きたいと思う もう一度会いたいと思う
何度でも触れて 確かめたくなる
空の彼方に煌めく 星の光のような ここに生きていると 感じられる瞬間に 出会いたくて 旅をしている
「子ども時代」
風の囁きと木の息吹 緑は続いて学校を取り囲む
赤い屋根 木造の校舎 鉛筆が走る音 机と椅子が鳴らす拍子 黒板に刻まれる旋律 子どもの声が幾重に重なる 賑やかな時間は 日常の中に降り注いだ日溜まりのよう
明日への煌めきは 過ぎた昨日さえも眩く照らし 未来への可能性に満ちている
山へと響くように あの頃にしかない夢を乗せて
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crispy-moratta · 2 months
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伊勢神宮へ 酔いと音の古殿地
先日、友人のピアニストであるふじいさんと伊勢神宮に行った。初めて観光地で昼間からお酒をのむということをし、今までの観光のなかでいちばん心地よく頭のまわらなさ、とてもよい小旅行だった。またわたしは偶然、京都の伏見と混号になっている伊勢特集のブラタモリを所持しており、これが今回とても役に立った。前の週に予習として読んだときは(ふ〜ん、)というくらいだったが、伊勢までの電車の中で読むと既に実感を伴い、(知識にも入れどきってもんがあるのよ〜)となった。わたしの人生初のお伊勢参りは午前中だったからか観光地としては非常にちょうど良いくらいの人の多さ(多くなく)で、曇り雨予報もお伊勢参り中は全く降られることなくとても良かった。神宮のつくりと見かけ、また観光地としての佇まいはとても美しく、気高く、tidyな賢さのある観光地であった。おおきく見ていてうれしかったポイントとしてはふたつある。
ひとつめは古殿地のシステム。古殿地というのは、伊勢神宮は20年毎に1回式年遷宮という正殿を筆頭にいくつかの社殿を真横にそっくりそのまま建て替えるということをする。古殿地とはそのための土地、要するにholyな空き地である。この20年を節目にして建て替えられるというのは飛鳥時代の620年あたりからで、ここまでのべ62回の造り替えが行われてきたそうだ。社殿に使われる装具品なども全て作りなおされるので、伊勢神宮はトラディショナルだが常に新しいということである。して、それの何がよかったのかというと、完成された社殿に開発できるスペースが常にあると言う状態がこの神宮の格式の高さだと思えたからだ。これをふじいさんに伝えようと思ったときに何に例えると良いだろうかと参道を歩きながら考えた。大抵いつもこういう感動を伝えやすいのはエンジニアの友人であるカイくんで、彼だったらプログラミング、書ききったコードにあらかじめバッファを残すやり方とかそういうものがありそうだな、、とか思ったが、その辺のプログラミングの素養がわたしにはないし、プログラミングに例えてもわたしもふじいさんも納得感が薄い感じ〜となりそうと思うと、ピアノのスケールに例えられる気がした。スケールというのは順当に並んだ音階のこと、単純言うとドレミファソラシドという音列(これはCメジャースケール)のことで、これをたとえば片手で1オクターブ分のスケールを引くときには、(右手で弾く場合)15音に対して指は5本しかないので運指を少し工夫する必要がある。ドレミまで123(親指から番号を振り)の指で引きファの音で指を潜らせて1の指で引いてやると次のドまでの音階を残った2345の指で弾いてやることができる。これを左手で行うと(小指から逆順に番号を振り)5432/1321の運指でありここまではとても美しいシステム、指の運びだなとわたしは思うのだが、わたしが気にしているのは2オクターブ以上引くときの運指である。音の始めはいずれにしても1の指からなのだが1オクターブ上のドに辿り着く指はいずれも345の流れである。つまり2オクターブ以上引くときには間で指を潜らせたり跨がせる所作をさらに加えて行う必要がある。具体的には右手の場合は123/1234/123/12345。左手だと54321/321/321/4321となる。このときの右手の運指に問題がある。1オクターブ引き切る前に2オクターブ目のスケールに向かうための運指の変化があるのだ。つまり1オクターブのスケールを弾くときと2オクターブ引くときの指を流れが違う。1オクターブ弾き切ってから(ア!もう1オクターブいきたいかも)にシ��テムとしては対応できていない。というようなことをつい先日スケールの練習をしているときにそういうことを考えていたことを思い出した。たとえばクラシックではそんな場面はあまりないかもしれないが、たとえばジャズでインプロビゼーションなどするのであれば土壇場でもう一音階上がりたいという場面があってもおかしくないのではと想像したのだ。前置きが長くなったが、どこまでも上がり下がりする音階をつくるためには一般的な運指ではなくあらかじめ次の音階に上がれる「音(指)の古殿地」が必要かもしれないということ。それを彼女に話すと、よくそんなこと思いつくと言ったあと、でもそういった場合たとえばペダルを併用したりもう一方の手でカバーを入れたりして澱みなく繋ぎ直す方法もあると教えてくれて、わたしはとても愉快になった。ふじいさんはとてもピアノが上手いし、いつも話を聞いているとピアノに対しての甘えのない人だ。そしてこの彼女がシステムを超えるためのアドホックな技巧があること、またそう言ったときの(おそらく演奏というものは必ずしもそういうことではない)というような毅然とした態度に、わたしは増してわくわくした。
ふたつめは終点の標識。伊勢神宮には愛知から名古屋を経由し国道23号線をずっと走ってくると伊勢神宮までたどり着くことができ、そこには国道23号の終わりがある。標識の23の文字の下には白地に黒文字で終点と書かれており、ことは内務省より「東京より伊勢宗廟に達する路線」 として国道9号が指定されたのが1885年、1920年には旧道路法に基づく変更にのり国道1号となり名実ともに日本を代表する幹線道路だったわけだが、終戦後に再び何度かの道路改正があり、一級二級といった区別がなくなり今の一般国道23号線になったのは1965年のことだそうだ。この終点の標識ひとつとっても、当時からの伊勢神宮の位の高さが伺える。神宮としてあり続けるために観光面においても、御司という平安から明治の初めにかけて多くいた伊勢神宮への参拝のための旅行コンシェルジュのような存在や、江戸の街並みを再現したおはらい町など、伊勢神宮の気高さは街全体がつくってきたのだ。そして終点もそのひとつ。観光地が維持されながらも同時にアップデートされていく一端を見れてとてもうれしい心持ちであった。なんといっても「終点」 というのが良い、目的地のなかでも終点と言われてしまえば(真に目指す必要のある場所だ!)と思うのも頷ける。
とりあえず外宮と内宮を見て周り、初お伊勢参りとしては十分及第点だろうといったところで、そのまま横に流れ、おはらい町へ。てこね寿司を食べようと思ったが、ふじいさんがそんなに乗り気ではないように思われたので、とりあえずコロッケのおいしいという店でコロッケとメンチカツを頼んだタイミングで、焼酎をのもうと言われ2号をふたりで飲んだら、すごくきれいに酩酊。わたしは観光地ではいつも専ら学習モチベーションが高く、神宮でも、最高な巨木!美しい五十鈴川。気高き社殿群と、直感的には伊勢の空気に触れつつもしばしばブラタモリを開いてはふむふむしていたお昼まで、初めて旅行先の外でしっかり酔っ払いとても愉快であった。神宮に行く前に伊勢うどんを食べたこともあり、めちゃくちゃ腹減りという感じでもなく、すっかり機嫌の良いわたしたちは観光地とはおおよそ関係の希薄そうなアイスクリームを食べ、こちらは子供サイズというひと巻きかふた巻きほど少ないのが大きさのものがあり、一個は多いが、というニーズにぴったりであった。その後は本店の赤福を食べ、ふじいさんの友人の谷さんいわくお土産の赤福とは一線を画すとの前情報であったが、たしかに、食感においていつもの赤福より餅が柔く、餡も心なしかみずみずしいように感じられた。このあたりでは少し酔いが覚めてきて、非常にちょうど良さではあったが、良さのもう一段上、更なる心地よさへの高みに想像がはたらき(酔いの古殿地)、別のお店であともう一杯だけ日本酒をのむと、それはなんとも贅沢な昼の心地であった。そうこうしているとおおよそ帰路に着く時間に近づいてきていたので、わたしのリクエストでバスで宇治山田駅へと向かう。かく宇治山田駅もお伊勢参りの後援として一役買っている重要な場所である。1931年に建てられたこのモダン調の駅舎は近鉄電車、大阪のなんばから宇治山田駅間を2時間ほどで繋いでおり、関西から参拝にくるひとの多くが利用するルートのひとつである。ちなみにブラタモリには駅舎のテラコッタ色のタイルが印象的であると書かれていたのだが、わたしが見る限りではどこにテラコッタ色のタイルはなく(見つけられず)、それは少し悔やまれたが、しかしそんなことはどうでも良いと思わせるほどのサプライズがあった。なんと宇治山田駅にはストリートピアノなるものが設置されていたのだ。開けた構内には普段であればちょっとピアノ弾くか迷うくらいのひとの多さがあったが、ここで追い日本酒がほどよく効いていたのもあり、純粋に突如現れたグランドピアノにテンションがあがった。思いもしないタイミングでふじいさんの演奏を直に聴くことができるのがうれしい。確実に演奏家として彼女の方がはるかに上手に弾くだろうと思ったので、先に私から演奏する。すこし音をならすと、非常に良い調律というか鍵盤の硬さで(あとでピアノの写真を見返すとYAMAHAであった)、初見でこんなに手に馴染むピアノがめずらしく、また酔いも助けてわたしはとても良いモチベーションで演奏できた。楽しく弾くことができたし聴き手からしても楽しさ〜という演奏になっていたように思う。あとからあれはBLUE GIANTの2巻でダイが、「音楽はいいな〜音楽はスゲェな〜を吹きます」 のシーンの心持ちだった。それからふじいさんの演奏。連弾用に椅子が二脚あり横に座って聴いたのだが、彼女の演奏はとても流暢で、酔いのなか、彼女としてはどんな出来だったのかは分からないが、とても軽やかで流れのある水を撫でているような心地よさ、砕けたいうにはいささか繊細な粒子の細かいフランクな音でとてもよかった。彼女の手の動きは見ていてもおもしろかった��、途中からは音楽に身を委ねて目を瞑って聴いたのであった。彼女は2曲(だったと思う)弾いてくれ、一曲はラヴェルだと言っていた(もう一曲はなんだったんだろう)そのあとは少しだけふたりでポロポロと弾いたり弾かなかったりした。あらためてとても良い旅であった。
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bailonglee · 7 months
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彼ら
僕たち全員が、[何かがおかしい]、[世の中狂ってる]、そう感じていた正体が、グローバリストと呼ばれる連中だった。
私にとっては、とても長い旅だった…w
訳わかんない、統一化の規則、髪の毛は眉にかからず、耳にかからず。
パーマ、茶髪禁止。
中学に上がって、すぐそんな規則に触れた…
そもそも、何でもかんでも、規則、規則とやりたがるのは誰なんだろう?
その正体が、わかった。
“政治”に巣食うのは、誰だ?
それが、大本教をトップとした下位組織、生長の家、日本スピリチュアル協会、創価学会など。
縁もあったか、彼らの本質がわかった。
やたらと、競いたがる。[俺の腕前を見せてやる!]とかw🤣
上から目線、何もかも知ったような態度。[俺は悟ってる。俺は知っている。]的なスタンス。
表面上は、常識人、善人アピール、だが肝心な所では、全て自分が優先、他人がどうなろうが、(俺はこんなにも大変なんだ!)、それを言い訳に、やたら自分を甘やかす。本当の慈悲は、かけらも持っていない。
頭でっかち、物事は自分らの計画通りにやる。緻密な計算、幼稚な画策、それを細かくスクリプト化する。(そのパラノイアぶりが、アカシックレコードまで発見した。)
性欲が凄い…w🤣そして、他人の伴侶だろうが、平気で手を出す。生長の家に関しては、乱交を、魂の錬成と解釈する。統一教会の合同結婚式は、有名。言い訳もある。色欲界を抜けねば、悟りの境地に至れないとか。ただの乱交なのにw🤣
犬や猫が、人間の真似をする。
人間のように、歌おうとする犬もいるw🤣
しゃべる猫とか動画で実際あるが、[そう聞こうとしたら、そう聞こえる]程度、ワウワウ鳴いてるだけw🤣
私達が今人間でいるのは、大変凄い事。
人間は、神になれる。
キリストは、無受精と言われるが、立派に女股から生まれた。
人間として、生まれた。
歴史上の人物であり、架空の存在ではない。
ナザレという貧しい町に生まれ、30歳まで大工として生計を立てた。
8人兄弟だ。
さて、
私は創価学会の人間、2人と友人だった。
一人目は、富山県で。
同じ村田製作所の仕事をした。
皆は、学会員であるという事で、彼を敬遠した。
私は最初に宣言した。
創価学会に入る気はないが、人として共感出来る部分があれば、付き合いは出来ると。
彼は、喜んだ。
一緒にサウナ行って、フルチンでプールで泳ぎ、ふざけたりしたw🤣
創価学会員とて、人間。
必ずしも創価学会員だけで行動する必要ないし、誰かを絶対に学会員にしなきゃならない訳でもない。
だから、私は普通に学会員と付き合える。
問題なのは、学会員としか付き合わない、コアな連中だ。
こいつらが、集団ストーカーしたり、盗聴、電磁波攻撃したりする…
田舎もんの、いじもられっ子の、妄信者だ。。
もう一人は、ここ大田区。
彼は最初、リュックに大量の創価学会の資料を詰め込み、私を説伏するために来たが、創価学会の知識を遥かに越える私の哲学、知識、彼は諦めたw🤣✨😎
そして、普通にバイク友達、普通に茶飲み友達として、よく遊んだw 🤣
だがしかし、創価学会からの圧力か?、彼は大田区を離れ、神奈川へと引っ越した。。
私を説伏出来なかった訳だが、キリストの魂を持つ人間を、誰が説伏出来るというのだ?w🤣
プラス、ルシファーの魂まで持つ、つまり、善と悪の、ハイブリッドなのよ、こちとらw🤣
で、
新興宗教2世たちが、私に興味を持ってくれる事が、多々あるのは、嬉しいですねw🙂✨👍
俺には、敵愾心などないw
競う気も、無い。
世界を愛で満た��たい、それだけw
彼ら信者は、輪廻しなきゃ、この時代は生き抜けない…
それくらい、修行と経験、知識が足りない。。
私含むスターシードたちは、彼ら信者が、想像すら出来ないくらい、艱難辛苦を乗り越えた。
信者たちは、他人、つまり池田大作なりの追体験をしてるだけ、本質は、経験不足を隠すため震え、「威風堂々」などとぬかし、自分を大きく見せている…
残念ながらスターシードたちとは、蟻🐜と、象𓃰ほど、違うw🤣✨
蟻が数の論理を言い勝ち組叫ぼうが、一瞬で象に踏み潰されるが、我々象は、蟻を踏み潰さぬよう、細心の注意を払い続けているw🤣
まあ、
信者諸君、
そんな事実、
受け入れなきゃ、
自分らでこの世界を滅ぼすでしょう。
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sgsgsn · 1 year
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キタカミ記(と近況)
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DLCクリアしました。 ※盛大なネタバレにご注意ください※ 脳死で打ってるので無駄に長い上文めちゃくちゃです
その前に近況報告
ツイッターもタンブラーも1ヶ月以上沈黙してたのでタヒんだ!??!?と各所から心配してくださった方、ごめんなさい&ありがとうございました!!!
引越しで坐骨神経が逝ったところから始まり、 並行して施工不良されて外構業者とバトったり、家の前の道路破壊されて市役所とバトったり、家族が指に謎の腫瘍できて緊急手術したりしてたら気付いたら50日くらい経ってました。 え何かに憑かれてる?この人…こわ…(他人事) 割とまじで人生しんどすぎて破裂しそうだったけど連日ソウグレグッズ集めることで何とか精神保ててました。
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ありがとうソウグレ、LOVE…
DLC感想
旅パの準備からのスタート
私は本編をすべて終えてからソウグレに堕ちたという異例のケモナー(鎧ってケモに入るんですか?!)(未だ永遠の謎)で、もともと旅パにソウグレのその字もなかったので、 流石にソウグレと一回くらい…旅してえよ!!!と思い DLC発売前日に夜なべしてキタカミラブラブデート用ソウグレ(あくテラス♂おとなしいXLソウブレイズ×フェアリーテラス♀せっかちMグレンアルマ)をこしらえました。 個体ステータスは当然完全に性癖だけで選びました。(ドヤ顔で言うこと?)
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え~~んぼーっとしてる大人しいそぶ君にぐいぐいいくせっかちアルマちゃかわい過ぎる 同人誌100冊ほしい
努力値は雑にACHあたりに振りましたがSガン振りにすべきだったと死ぬほど後悔するのはまた別の話…
さようなら、ソウグレレイド
この記事でも書いたんですけど、イベントレイドってインターネット接続しないと永久に更新されず残り続けるんすよ という仕様なのかバグなのかわからんシステムの下この7ヶ月間、一度もネットに繋がず不定期にソウグレのテラス棲家に突撃して乱獲する狂人として生きていたんですが DLCのコード打ったら強制的にネット繋がされてこの楽園突然終焉しました。 いやなんかそうなるだろうなとは思ってたけど…やっぱつれぇわ… ということでジュナイパーもゲッコウガもウネルミナモも何もかんも実装されていないのにソウグレだけ500体くらいいる謎のROMが爆誕しました。あーもうめちゃくちゃだよ
キタカミのDQNどもがよ…
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えっ!!!!!
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はい
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は?????
  ガキが…舐めてると潰すぞ
いや……夜中の3時にドンキにたむろってそうな顔してる低学歴アベックにこの高度なカップリングは難しかったのかもしれない 青い鎧と赤い鎧が世界で一番ラブラブなポケモン、都会では常識です。覚えて帰るように
壮大なソウブレイズゲー
分かっては!!!いたんですけど!!!! 先制技なし、回復技なし、ウスノロ鈍足赤い鎧ポケモン、旅パで息できなすぎて草 グレンアルマとかいうポケモン旅パに入れてた人達みんなドMなんですか????因みに私はドMではないけど見た目が世界一可愛いからリストラできませんでした 存在が天使、妖精、生きてるだけで天才
てか対の青い方がその3つ全て持ってる上で見た目も68542倍カッコいいの本当に何?!?、??グレンアルマとかいう凡のろまデブ可愛エンジェルを守る為に生まれてきたナイトとしか思えん
  ということで9割方のポケモンに素早さ負けルマ姫がいるためキタカミソウグレデートは完全にソウブレイズゲーと化しました。
姫が自慢の体脂肪率(意訳:HPぶっぱ)で一発受けつつ何とか1匹…倒せたかも…> <;くらいであとはソウブレイズさんお願いします!!と全部丸投げする図式。 少女漫画じゃん(強めの幻覚)
  マジな話するとそもそも…一発受けるだけならタスキでいいし、 その上で努力値性格Sにガン振りしてたら姫が先行取れる率もう少し上がってた気がする…と冷静になった今なら思いますが 当時は脳死で性癖に基づきHPぶっぱのデブに育成してしまいました ヤバいと思ったが性欲を抑えられなかった
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(図1)これからも共に姫を護っていこうな…、と堅い契りを交わす俺とソウブレイズ君さんの写真
限界を迎える、2人きりのデート
レベルあんま高すぎてもおもんないよな🎵と舐め腐って65前後でキタカミ入りしたことも仇となり 点在してる鬼面衆?とかいうDQN集団や成長したスグリがまじで強すぎて、 こいつらには姫の脂肪は当たり前のように貫通されソウブレイズ様ですら何度も一発KOされたため
急遽途中から空きの4枠にイシツブテとかノズパスとかなんかその辺の石を入れて生贄という名のクッションにし、元気の欠片ぶん回してソウブレイズさんを無限死者蘇生させる戦法にシフトせざるを得なくなりました。
限界戦法が過ぎる 俺苦しいよこの旅(※自業自得)
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(図2)ソウグレの子作りを目の当たりにしウキウキの石の写真 俺主「視姦プレイ…これはこれでありか…」(柔軟なオタク)
スグリつらすぎワロタ(※長いので読まなくていいです)
※完全にネタバレを含みますのでご注意ください
  最初は普通~にストーリークリアしてお~陰キャの闇落ちで引っ張るかあwくらいの感想だったんですが冷静に考えてたらガチで辛くなって頭抱えました。
碧の仮面、スグリ視点で見ると結局、凡人はどんなに努力して足掻いても天才に勝てないし何も手に入れられないって話なんすよね…………う、鬱
  スグリのここがつらい!箇条書き
人口少ない田舎で久々に友達できたと思ったのに姉と俺主にハブられる(あれ普通におしえてあげてよかっただろ…すぎた)
バトル重ねる度にレベルも進化も戦法まで明らかにめちゃくちゃ努力して成長してるのに結局俺主人公に勝てない
何年もオーガポンのこと大好きで探し回ってたのにぽっと出の俺主に秒で寝取られる
私欲があったとしてもオーガポンのために慣れない努力して頑張って町中を走り回ったのは事実なのにオーガポンは目も合わせてくれない
後編のチャンピオンポジ=スグリな可能性がPV的に濃厚だがそれってやっぱりチャンピオンレベルになっても結局俺主に勝てないストーリーが約束されている
そもそもこの後、後編でどんなに闇落ち救済があったとしてもオーガポンはもう二度とスグリの手に入らないしキタカミにも戻ってこないし俺主のもの
   助けてくれ~~!!!!!!!(鬱発狂)
このショタ救える要素あんの?????頭痛が痛い
まじで主観なんですけど、キタカミの田舎の描写の解像度が諸々めちゃくちゃ高すぎて、そこはすごいと思うんですが スグリは……田舎に生まれた以上結局どんなに頑張っても都会育ちで恵まれてる子にはそもそものスタートラインが違うから絶対勝てないんだな…… というのをまざまざ突きつけられて、しんだ、私が(※田舎育ち)
そこに気付くとオリエンテーリングの写真で主人公とスグリのポーズの慣れ不慣れ感、最初は陽キャと陰キャの対比かわい~wくらいにしか思わなかったけど、持ってる者と持たざる者の対比にしか見えなくなってきてつらい
あとスグリの手持ち、全部アイテム進化かめんどい技進化系なんですよね……… 全部そうだからこれは狙ってそうしてんだろ…と思うんですが、通信交換する友達もいない、親密度も重要視しない、まじで自分の力だけで何とかしようとしてる…ロケット団か?お前は 一時期ウォロに堕ちてた人種なんですが、ウォロはどんだけ悪役ムービングして世界の全てから追放されても、手持ちが殆どなつき進化と高レベル進化ゆえに、手持ちのポケモン達だけはウォロのことを絶対に嫌いなわけがないというのが確定的に明らかなのが最高の救いだったので(シロナの手持ちコピーといえばそうなんですけどそこ対比しつつ設定も生かされてるのうますぎるんだよ) スグリはそういう救いも今のところ見あたらなすぎて…辛!??!
推しじゃなくても辛いので推しになってしまった人は胃磨り減って半分になってそう、 全国のショタコンのスグリファンの皆様スグリ救済頑張ってください。人外ケモナーの森から応援しています
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petapeta · 2 years
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KSK(ドイツ語:Kommando Spezialkräfte)とは、ドイツ連邦陸軍特殊作戦師団隷下の旅団級特殊部隊である。1996年に編成される。日本語では特殊戦団と訳される場合もある。 KSKのモットーは、「Facit Omnia Voluntas(意志が決め手)」。管理系統は特殊作戦師団隷下にあるも、統合作戦や国外での実作戦時には特殊部隊作戦指揮司令部の指揮下におかれる。 KSKの編成は、1996年、カルフのグラーフ・ツェッペリン兵舎に駐屯する第25空挺旅団を基盤に始まった。KSK創設の基幹要員となったのは、解隊された第25空挺旅団、ならびに連邦軍第100および第300偵察中隊の将校だった。���成は、2000年に完結した。 KSKは、陸軍指導部に従属し、軍事性の作戦のみを行う純粋な軍事組織である。KSKは、特殊作戦群(フランス)、グリーンベレー(米国)、そしてSAS(英国)のようなNATO諸国の類似部隊と同じように創設された。これら部隊は、KSKのための原型かつ手本であるだけではなく、戦闘訓練過程における常時パートナーでもある。英SASとの協力は、特に上手く進行している。ヘレフォード市の第22連隊の駐屯地から15kmにあるポートリラス市において、協同演習がかなり頻繁に行われている。 2002年、ドイツのマスコミに、KSKがアフガニスタンに投入され、特殊作戦に参加しているという報道が現れたが、ドイツ国防省は損害や作戦の成否を含め、一切のコメントを拒否している。 先祖にあたる部隊として1990年から1996年まで活動していたFallschirmjägerkompanie B1(FJK B1:B1降下猟兵中隊)と呼ばれるコマンドー部隊が存在していたが、KSKの創立に伴い解隊した。 不祥事 KSKはナチスへの傾倒や軍内での武器の横領疑惑など極右的な風土があるとして当局より調査をたびたび受けている。 2020年5月15日、KSKの元隊員だった上級曹長が法令に違反して小銃や爆発物を自宅に持ち込んでいたとして逮捕された。 同年7月1日、アンネグレート・クランプ=カレンバウアー国防相は特に極右的な思想が蔓延したKSK一個中隊の解体を命じたと明らかにした。
KSK (ドイツ陸軍) - Wikipedia
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ahjdaily · 1 year
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INTERVIEW: アルバート・ハモンドJrが語る人生の転機、ザ・ストロークスとフジロックの記憶 (Rolling Stone Japan)
Hiroko Shintani |2023/07/05 18:10
This interview is solely in Japanese. For an English-translated version of the website: click here Please note, the translation may not be not entirely accurate.
For archival purposes, full text is stored below.
ザ・ストロークス(The Strokes)のフジロック出演を前に、メンバーの中でもひと際ソロ活動に情熱を傾けてきたアルバート・ハモンドJr(Albert Hammond Jr.)が、5枚目のアルバム『Melodies On Hiatus』を送り出す。計19曲に及ぶダブル・アルバムにして、ラッパーのゴールドリンクを始めとする多数のゲストの参加など新しい試みを積み重ねた本作を、「自分の人生そのもの」と位置付ける彼。輝かしいメロディが生きた時間の重みを颯爽と運ぶ、そんな会心作のメイキン��を辿りつつ、ザ・ストロークスのレガシーについてもフランクに語ってくれた。
溢れるメロディ、新たな試み
―前作『Francis Trouble』を2018年に発表してからの5年間に、世界はパンデミックに見舞われる一方、あなた自身にも色んなことが起きました。父親になり、そして生まれ故郷のLAに戻ったんですよね。
アルバート:そうなんだよ。ただ『Melodies On Hiatus』には引っ越す前に着手していて、『Francis Trouble』とザ・ストロークスの『The New Abnormal』(2020年)を完成させると、すぐに新たな曲作りを始めた。そのセッションのためにニューヨークとLAの間を行ったり来たりした挙句に、2019年8月に正式に引っ越したんだ。それまで21年間ニューヨークで過ごしたわけだけど、思えば本当に忙しくて旅ばかりしていたんだよね。で、長いツアーを終えて都会の真ん中に帰ってきてもちっとも休養できないから、一時はニューヨーク州の北部の田舎に移り住んだ。実際、自然豊かな素晴らしい場所で、今もあの生活は懐かしいよ。ただ、空港から遠かったりしていいことばかりじゃないし、かといってマンハッタンに戻る気はさらさらなかった。マンハッタンで充分な広さの家を借りれるほどの金持ちじゃないから(笑)。で、ソロ活動に関してはマネージャーもバンドもみんなLA在住で、妻の友達も大勢いるし、こっちで過ごす時間がどんどん長くなって、生まれ故郷だからこそ今まで抵抗を感じていたのに、ここにきてエキサイティングに思えるようになったんだよ。大いに活力を与えてくれる場所だし、ライフスタイルもしっくりくる。俺は体を動かしたりするのが大好きだから、そういう意味でもLAが合っているんだろうね。
―2019年に着手したとしたら、本作は完成まで随分時間がかかりましたが、当初からダブル・アルバムを想定していたんですか?
アルバート:いや、そういうわけじゃなくて、とにかく次から次へと曲が出来て、20曲のデモが手元に揃った時点でようやくストップした。まだインストの状態だったから、20曲分の歌詞をこれから書かなきゃいけないってことにふと気付いたんだ、「まずいぞ」ってね(笑)。ただ今回はデモのヴァイブがすごく良くて、「デモのままにするっていうのはどうかな」と思い付いた。デモを元にバンドとレコーディングし直すのではなく、逆にバンドを解体すると言うか。ドラムマシーンを使って、主にコリン・キラレア(前作にも参加したマルチ・インストゥルメンタリスト、今回もギターやベースを担当)とふたりでプレイした原型の状態に留めておいて。
―そうだったんですね。興味深いのは『Melodies On Hiatus』(メロディは休止中)というタイトルです。今まで以上に素晴らしいメロディに溢れたアルバムだけに、全くもって矛盾していますよ。
アルバート:うん、その通りだ(笑)。
―なんでまたこんなタイトルに?
アルバート:曲が全部完成する前に、かなり早い段階でタイトルを決めてしまったんだよ。良くも悪くも俺は直感で決断を下すタイプの人間で、「これはいいな」と感じたら即決する。あれこれ調べたり、考え込んだりするのは好きじゃない。で、ある日“melodies of hiatus”という言葉がふと頭に思い浮かんで、“カッコいいタイトルじゃん”って思った。誰かがしばらく姿を消していた、というようなイメージに惹かれたんだよ。それにさっきも言ったように、今回はアルバム制作のプロセスそのものを再考して、バンドの解体に取り組んでいたから、「従来の音楽作りの方法に別れを告げるにはピッタリかもしれない」と思った。
でも、うん、今となってはバカげたタイトルだと自分でもわかってる(笑)。だって、メロディこそは俺がハマっているドラッグであり、メロディとリズムとハーモニーをどうバランス良く絡み合わせるかっていうことを追求し続けているわけだからね。例えば、ジャムでカッコいい音を鳴らすバンドを観ているのは楽しいんだけど、これでもか!ってテンション満々に圧しまくるのなら、どこかでそのテンションを緩めて解放してくれないと、聞き続けるのが辛くなる。俺の場合、テンションとリリースの反復を追い求めているところがあるんだ。だからこそメロディを諦めちゃったかのような印象を与えるタイトルにするなんて、笑える話だよね。俺の魂が休暇を取ってどこかに行ってしまったみたいな(笑)。
コラボレーションの収穫
―他方で、もうひとつぜひ伺いたかったのが、共作者のシンガーソングライター、サイモン・ウィルコックスのことです。全面的に共作者を迎えるのは初めてですが、今までの歌詞の出来に不満があったんですか?
アルバート:そんなことはないよ。共作は過去にもやっているし、今回はやっぱり曲数が多過ぎて、歌詞を書く段になって途方に暮れていた。そもそも俺にとって歌詞の優先順序は低くて、音と言葉が合致するのが理想ではあるけど、音こそ自分に響く部分なんだよ。若い頃からそうだった。音楽を聴いていて、そのミュージシャンが何を歌っているのかってことにはあまり興味を抱かなかった。というか、完全に音と言葉が合致している時は、ある意味で言葉を意識しない。音に溶け込んで流れていて、それって素晴らしいと思う。そしてじっくりと耳を傾けてみると、「へえ、面白いことを歌っているな」と驚かされたりするんだよ。だから歌詞は重要だし、軽んじているわけじゃない。俺の強みは別のところにあるというだけ。タイトルとか、決め手になる1行を思い付いたりすることは自然にこなせる。例えば「Old Man」を書いた時は、最初にボイスメモでメロディを録音した時に、ふと“My old man”という言葉が口をついて出た。そういうのは得意なんだ。
ただ、20曲分の歌詞を書くとなると話は別で、当初は5〜6人の友人に声をかけて手分けして共作しようと企んだものの、うまく行かなかった。その後サイモンと出会って、自分はまさしくこういう人を求めていたんだと確信したよ。昔から共作された音楽を聴くのが好きで、クリエイティブなことは何でもコラボレーションによって成立すると考えていたしね。サイモンみたいに、俺が言いたいことを深いレベルで理解して、自分とは対照的な立場からバランスをとってくれる人と巡り合えて、本当にうれしかった。
―具体的にはどんな風に作業を進めたんですか?
アルバート:さっき「Old Man」を例に説明したように、俺はデモを作る時に、必ず適当な言葉を口ずさんでいるんだよ。その状態でサイモンに聞いてもらった。だから言うなれば、自分自身を非常に粗削りな形で彼女に提示したわけだ。そしてふたりで長い時間をかけてじっくり話して、サイモンはその会話を踏まえて、デモに載っている言葉の周囲に独自の世界を構築してくれた。これらの曲を聴いていると、彼女が僕に向かって語り掛けているかのような気分になる。すごく興味深いよ。
―そして、作詞の作業を他人に委ねたにもかかわらず、結果的には「自分の人生そのもの」と評するくらいにパーソナルなアルバムになったわけですね。
アルバート:うん。このアルバムって、子どもの時にキンクスのベスト盤を聴いていた感覚に重なるんだ。60年代後半から70年代を経て80年代にかけてのバンドの歩みを辿っていて、その間に起きる変化がすごく好きなんだよね。それとどこか近いものがあるように感じる。自分が今までに聴いてきた様々な音楽を網羅しているというか。じゃあ果たしてそれを意図していたのかと問われれば、俺にはわからない。
何かをクリエイトしている時、楽器をプレイして曲を形作っていく時には、色んな段階を踏むよね。例えばひとつの小さなアイデアを直感を頼りに膨らませていく最初の段階では、とにかくこう、砂場に飛び込むようにして遊びまくるのが得策なんだ。バカげたことを試したら、たまたまクールなものが生まれて、それがさらにシリアスなものへ進化するかもしれない。あれこれ手を尽くして、自分をビックリさせるようなことをやろうとするものだし、そこに計画性はない。俺はいつも曲を書いてボイスメモに録り貯めていて、中にはいい出来の曲も、まあまあの出来の曲もある。そして数カ月経った頃にまとめて聴き直して、「これは可能性がありそうだ」と感じる曲を絞り込んで、手を加えるんだよ。結局いじり過ぎてフランケンシュタインみたいな代物になることもあるけど、とにかくマッド・サイエンティスト的に、自分が何をやっているのかわからないまま精一杯取り組むしかないし、最終的にどこに辿り着くのかわからないんだよ。
―じゃあ、ふたりで書いた歌詞の中で、一番心に刺さったものを選んでもらうというのは難し過ぎるでしょうか?
アルバート:そりゃ大変だ。今歌詞を手元に用意するよ……えっと、まず「100‐99」の“I’m not safe/ I’ve made mistakes I would again/ In spite of what it cost me(俺は安泰じゃない/過ちを繰り返してきたし今後も繰り返すだろう/多くを犠牲にしたというのに)”はまさに、俺の人生の物語そのものだ。だから聴くたびに突き刺さるものがある。それに、ごくシンプルな1行がぐっとくるんだよね。例えば「Libertude」の“I’ve been alone for such a long time(長いあいだ俺は独りぼっちだった)”だったりね。言葉だけを切り取るとどうってことないかもしれないけど、メロディを伴った時にどんな印象を与えるか、曲のどのタイミングにその言葉が配置されているか、その言葉が何を解き放つのか、そういった条件によって意味合いが変わって、すごくパワフルになる。あと、「False Alarm」の“We’ve both been shadows down the well(ふたりは井戸の奥底にある影だった)”も好きだし、「Never Stop」でサイモンが作り上げた物語も最高だよ。当初そのアイデアを聞かされて「なんだそりゃ」って思ったけど、好きに書いてもらった歌詞を読んだら、予想していたものと全く違って「最高じゃん!」と思った。
それから、レインズフォードことレイニー・クオリーがボーカルを担当した「Alright Tomorrow」は、声域が足りないから絶対に自分では歌えないとわかっていながら書いた曲でね。だからこそ、ララバイみたいな内容の歌詞を彼女が歌ってくれるのを聴いていて、すごく心に沁みた。“明日になればなんとかなる”と、まるで俺に言い聞かせているみたいで。以前から、“何があろうと構わない、明日になればなんとかなる”と言ってみたかったけど、自分ではなかなか書けなかったんだよ。ほかにもあちこちに、話しかけられているかのように感じる言葉があって、サイモンがそう意図したのかどうか分からないけど、「Darlin’」の““I needed you to be the edge I hold onto/ Cause its far to fall, when I been feeling small(お前には俺が掴まれる崖っぷちになってほしかった/自信を失っている時は深い場所まで落ちてしまうから)”もそうだね。歌詞を書き終えるまで実際に会うこともしなかったし、初めてコラボしたというのに、不思議な話だよ。クリエイティブな意味で、お互いを必要としていた時期に知り合う機会に恵まれたんだろうな。次は、ふたりでほかのアーティストに曲を提供しようっていう話もあるし、ここにきてまたひとつ、素晴らしい人間関係が俺の人生に加わったよ。
ザ・ストロークスのレガシーへの想い
―ゲストについても気になる名前が並んでいますが、特に豪華なのが「Thoughtful Distress」であなたが集めた、世代をクロスオーバーするスーパーグループです。80年代に数々の名曲にフィーチャーされた名ギタリストのスティーヴ・スティーヴンス、アークティック・モンキーズのマット・ヘルダーズ、最近はパニック!アット・ザ・ディスコやインキュバスでプレイしている辣腕ベーシストのニコール・ロウが参加していますね。
アルバート:本当にクールなメンツだよね。こういったことは得てして、オーガニックに実現するんだ。そもそも「Thoughtful Distress」は前作のために作った曲のひとつで、なんで復活させようと思ったのか自分でもよくわからない(笑)。ただすごく気に入っている箇所があったから、逆に気に入らない箇所をカットしてみたら、残った芯の部分は捨てたもんじゃなかった。それでタイラー・パークフォード(ミニ・マンションズのキーボード奏者兼シンガー)と一緒に改めて肉付けしたんだ。で、どういうわけか、この曲はデモっぽくするんじゃなくてバンド形態でレコー��ィングしようと決めて、仲がいいマットに声をかけて、すでにほかの曲に参加してもらってウマが合ったニコールにも参加してもらった。スティーヴがギターを弾いてくれた経緯の記憶は定かじゃないけど、Instagramでフォローし合っていて知り合った気がする。連絡してみたらぜひやりたいって言ってくれたよ。さすがに畏れ多い人だから、まずはニコールとマットを交えて方向性を固めてから、スタジオに来てもらったけど(笑)。
―アークティック・モンキーズは言うまでもなく、ザ・ストロークスにインスパイアされて結成された数多くのバンドの一組です。昨年発表の最新作『The Car』での「Star Treatment」でアレックス・ターナーは“I just wanted to be one of The Strokes”と歌ったりもしていますが、例えばラジオを聴いていて、「俺らに影響されたのかな?」と感じることは結構あるんじゃないですか?
アルバート:もちろんあるよ。「この曲聴いてみなよ、すごくザ・ストロークスっぽいから」って友達がよく教えてくれるし、それは最近始まったことじゃない。メンバーが集まる時にも、雑談をしていて「〇〇のあの曲聴いた?」って話になることが多いんだ。例えば去年はハリー・スタイルズの「As It Was」が話題に上って、「ドラムビートが『Hard To Explain』にそっくりだよね」ってみんなで話していたっけ。「ザ・ストロークスの曲をポップ化したみたいな感じじゃない?」と。とはいえ俺は、マジになって自分たちがやってきたことを振り返って感慨に浸るようなタイプの人間じゃないし、そういう曲を聴くとただ笑えるっていうか。それにアークティック・モンキーズに関しては単純に素晴らしいバンドだし、彼らが音楽をやりたいと思ったきっかけに、何らかの形で俺らが寄与したのであれば本当にうれしい。「あー。ちょっと待った、俺たちを引き合いに出すなよー」って言いたくなるバンドじゃなくて、アークティック・モンキーズで良かったよ(笑)。
―そして7月にはフジロックのヘッドライナーとして、ザ・ストロークスで日本に戻ってきてくれますね。ソロとしても2018年に出演していますが、過去のフジ体験を振り返って、何か印象に残っていることはありますか?
アルバート:ソロで行った時のほうが思い出が鮮明だと言ったら誤解を招くかもしれないけど、やっぱりザ・ストロークスは前回の2006年もヘッドライナーだったから、大勢で移動して、直前に会場に入って、プレイして、終わったらすぐ帰るという感じで、フェスそのものをあまり楽しめなかったんだ。唯一覚えているのは、ザ・ラカンターズが同じ日に出演して、ジャック・ホワイトとバッタリ会ったことかな。あれは楽しかったね。
その点、ソロの時はもっと余裕があって、苗場で一泊したんだよ。前日に行ってホテルに泊まって、翌朝から会場を歩き回って楽しんで、自分のライブをやって、ポスト・マローンと知り合って、ザ・ストロークスの大ファンだと聞かされたよ(笑)。だからと言って、ソロで行くほうがいいというわけじゃないんだ。バンドでも等しくエキサイティングだし、そもそも日本に行くこと、日本でプレイすることは大好きだから、毎回うれしくてたまらない。今回も俺は早めに行って、2〜3日ゆっくり日本で過ごすつもりだから、すごく楽しみにしているよ。
―ザ・ストロークスの新作についても伺っておきたいんですが、リック・ルービンが、昨年コスタリカでセッションを行なったことを明かしました。その後進捗はありましたか?
アルバート:えっと、その件については、何か隠してると思われかねないけど、現時点ではリックの発言にプラスできることは無いかな。
―わかりました。ちなみにザ・ストロークスのデビュー作『Is This It』のリリース20周年にあたる2021年頃から、盛んにあの時代を回顧する論評なんかが見られましたよね。ギターロックの最後の黄金時代と見做す人も多いようですが、当事者のあなたから見て理想化され過ぎていると感じますか?
アルバート:うーん、そもそも人間って、過去に起きたことは全て理想化しちゃうものだよね。過去はすなわち自分の青春時代であって、人々が言ってることが「理想化」に該当するのか、実際に素晴らしい時代だったのか、俺には何とも言えないな。みんなそれぞれ違う体験をしているから。それに人間は誰しも、20歳の自分に戻りたいと思うものだろ?「こんなことをやったな」「あんなこともやったな」と懐かしむのは無理もないことだし。
そして俺自身、もちろん時代の真っ只中にいた記憶はある。でも、バンド活動をするなら今のほうが遥かに状況はいいと思うよ。俺らが活動を始めた頃のシーンは最悪だったからね。ゴミ溜めみたいな海を泳いで、そこら中に浮いてるクソをかき分けながら必死になって水面に浮かび上がったんだ(笑)。全然楽しいとかクールとかっていうものじゃなかったし、今のほうがずっとカッコいいロックバンドが多い。そして聴き手も、アーティストたちとすごく緊密なコネクションを確立できているよね。それって昔はなかったことだし、今と違うからこそ昔を懐かしむのかもしれない。20年後にはきっと、今の時代を理想化しているんだろうね(笑)。
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#05 中沢レイ
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一日の流れ
朝は6時半くらいに起きて朝ご飯とお弁当をつくります。家は私と息子と私の母の3人暮らしです。息子に持病があって、12時間おきに飲まなきゃいけない薬があるので、彼が寝てようが何してようが飲ませてから出かけます。職場は三重県内の市役所で、移住関係の仕事をしています。非常勤で働いてもうすぐ3年になります。
家から市役所までは車で山道を走って40分ぐらいで、道が混んでいたら小一時間ぐらいかかるときもありますね。仕事は17時15分までで、時間になったらすぐ家に帰ります。以前、息子と二人で暮らしていたときは夕飯のお弁当を買って帰っていましたが、今は母親が夕飯の支度をしてくれているので、それをありがたくいただいています。夕食後はだいたいぼーっとスマホを見たりして、気づくと2時間ぐらい経ってたりします。息子はゲームが好きで、夜はゲームのコアタイムだから私とは全然話をしてくれないんですよ。みんなが思い思いに過ごしているのを確認してからお風呂に入って、寝るのは23時ぐらいです。
市役所の仕事のほかにヨガを教える仕事もしていて、レッスンがあるときは、仕事のあと家に一旦帰って晩ごはんを食べて、借りているレッスン場に出かけます。土曜日はバレエ教室で子どもたちにコンテンポラリーダンスを教えています。ダンスというか、キャッキャ言いながら自由に動いたり、何でも試してみようというクラスですね。日曜は基本的に休みですが、移住の仕事は土日にイベントがあることが多いので、結構出張したりもしています。空いている日は子どもと一緒に過ごそうと、何をするわけじゃないけど、家にいるようにしています。
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生い立ち
生まれは岐阜県岐阜市です。母方の祖父母が縫製業を営んでいて、一家総出で服をつくっていました。両親は朝から晩まで、すごくうるさい工業用ミシンを踏んでいて、家には有名なブランドの布が置いてありました。だけど、私が小学校1、2年生の頃に景気が悪くなったのか、父が仕事を辞めて養鶏場に働きに出るようになりました。それまでは家にずっと親がいたけど、突然鍵っ子になって、弟は泣いていましたね。姉である自分はしっかりしなくちゃと思っていた記憶があります。
中学3年のときに親が頑張って家を建てて、引っ越しをしたんですよ。私は転校もしたんだけど、ある日修学旅行から帰ってきたら両親に「離婚するわ」って言われて。私から見たら仲は悪くなかったんだけど、実際はそうじゃなかったみたいです。せっかく建てた新居も出ることになって、その家は私の叔母さんが住むことになりました。弟は父に、私は母についていくことになったんですが、母の家に引っ越すと中学校を変わらなきゃいけないと言われたので、卒業までは叔母さんのもとで居候をしていました。叔母さんは私のことをかわいがってくれて、叔母さんというよりお姉さんという感じでした。
母は家を留守にしがちだったので、高校からは一人暮らしのような感じでした。家の下がうどん屋さんだったので、母が置いていったお金で天丼の出前を頼んだりしていました。高校3年のときに母が再婚して新しい家族ができましたが、私はもう高校生だし「あなたたちとは関わらないので」と言って、学校もあまり行かずに好きなように過ごしていました。高校卒業後は好きな英語を勉強するために、英語の専門学校に入りました。
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仕事のこと
私が専門学校に入った頃は超バブルの時代で、成績が良い子は先生の薦めで在学中から証券会社とか銀行に就職するんですよ。私も1年の終わりには学校に籍を置きながら商社で働きはじめました。同じころ、音楽をやっている友だちから「岐阜放送っていうラジオ局で話す人を探してるんだけど」と言われて。当時はバイリンガルのDJが流行っていて、私が英語を話せると思って声をかけてくれたんですね。実際はそんなに話せないんだけど、洋楽を聴いていたからそれっぽくは話せるんです(笑)。それでラジオ番組のDJをやることになりました。商社は1年勤めて辞めました。
田舎の放送局だけど案外仕事はありました。レコード会社の人がプロモーションで名古屋に来たときに、そんなに回るところがないから岐阜放送まで来てくれるんですよ。「若くてちょっと変わった子がいる」みたいな感じでいろんな人に良くしてもらって、外タレのアーティストに直接インタビューさせてもらったりもしましたね。でも、DJとかタレントになりたいという気持ちはまったくなかったです。どちらかと言うと裏方や制作をやりたくて、19歳ぐらいから台本や企画書を書いたりしていました。自分の番組では選曲も全部自分でやっていたし、そうした仕事が周囲に伝わって愛知や東京でもDJをやるようになりました。
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踊りのこと ラジオと平行してやっていたのが、幼少期から続けていたダンスです。うちの親は全然そういう素養はなかったんですが、私が幼稚園のころに「バレエをやりたい」と言ったみたいで、母が習わせてくれました。ただ、習っていた先生が怪我をしてバレエをやめることになってしまい、次に入ったのがモダンダンスの教室でした。少しして「これはバレエじゃない」って気づいたんですが、それがかえって良かったんです。というのも、その先生は生徒にお手本を見せないんです。「シュッとなってパッよ」というふうに擬音で振り付けをするので、みんなそれぞれの「シュッとなってパッ」をやるんですね。中学高校と、その先生のもとでダンスを続けました。
あるとき、名古屋で開かれたダンスの大きなコンクールに通訳として参加したんですが、そこで出会ったのが(舞踏家の故・)和栗由紀夫さんです。和栗さんに「お前、踊りやってるのか。うちに遊びにこいよ」と言われて、東京に行ったら板橋にあった和栗さんの家に遊びにいくようになりました。ある日、和栗さんの家に行ったら、ベニヤ板を2枚出してきて、「ここに座って」と言われて。言われたとおり座ったら今度は「右手をこう出してみな。左手は上から出して。これが閉じてさ、開くんだよ」とか言われて。「こうですか?」みたいな。それで「今度舞台やるんだけど出ない?」とくるわけです(笑)。
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それで出演したのが、新宿のパークタワーホールでやった和栗さんの『エローラ〜石の夢』という作品です。その後、和栗さんが主宰していた「好善社」に入るとともに、東京に引っ越してきました。好善社の男の人たちは、それまでダンスをやったことがなくて突然踊りを始めているから、発想がとても面白かったんですよ。そこから結局6、7年は東京に住んでいたと思います。
その後、もう踊りはやめようと思うことがあって、カポエィラに打ち込んでブラジルに行ったりもしました。ダンスの世界は、なんだかんだ言って身体を動かすことが得意な人しか入ってこないけど、カポエィラは、趣味でやってますみたいなお姉さんとか、イケイケの男の子とか、格闘技好きのオタクっぽい子とか、いろんな人がいるんです。一般社会では絶対に仲良くならないような人たちが嬉しそうに一緒にやっているのがすごくいいんですよね。でも、ブラジルにいたとき、テレビから流れてきた音楽に合わせて、やめたつもりの踊りをふと踊っていたときがあって、やっぱり踊りはやめられずにいます。
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妊娠・出産
出産したのは38歳のときです。妊娠がわかったときは、当時結婚していた夫とフランスに住んでいました。日本では私がダンスをやっていると言うと、初対面の人にさえ「いつまでそんなことやってるの」と言われたりしましたが、フランスではまったく逆で、みんな興味を持ってくれました。現地の人たちと仲良くなって一緒に作品をつくったり、小劇場で即興の企画をやったりもしましたが、一方で自分の底が知れた感じもあって、妊娠を機に日本に帰ることに決めました。
出産はだいぶ時間がかかって大変でした。それでも元気に生まれて良かったと思っていたんですが、生まれてからがさらに大変だったんです。とにかく夜まったく寝なくて、ベッドに置いたらどれだけ寝ていても起きて泣いて……。子どもってそんなもんなのかなと思ってたけど、自分も寝れないから信じられないくらい痩せてしまって、布団で寝ていても背骨が痛くなってしまうほどでした。夫は仕事に行ったきりほとんど帰ってこなくて、赤ちゃんと二人暮らしみたいな感じです。しかも、夫の希望で都内からもう少し田舎に引っ越すことになって、それまでは遊びに来てくれた人たちも来れなくなって、本当に孤独になってしまいました。
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それでも息子を地元の幼稚園に入れてなんとか生活していたんですが、2011年の1月末に、幼稚園に息子を迎えにいったら、先生から息子の様子がおかしかったと言われました。確かに、家に帰っても何もしゃべらないし、ご飯も食べないんです。病院に連れていって、インフルエンザの検査をしたりしたけどなんともなくて。食塩水を点滴してもらって、ちょっと良くなったように見えたんですが、次の日にはもっと具合が悪くなってしまって。抱っこしたらびっくりするぐらい重たくて、これはおかしいと思いました。
再度病院に行って尿検査をしたら、測れないぐらいたんぱくが出ていて、大きな病院に行くように言われました。行った先で「これはネフローゼという病気で、治療に長い時間がかかります」と言われて、そのまま入院です。ステロイドを大量投与する治療をはじめたんですが、息子はステロイドを半量に減らしたところで再発してしまい、それから一切ステロイドが効かなくなってしまいました。
これはもう救急車で運ばなければという状態になってしまって、埼玉から東京の世田谷にある成育医療研究センターに救急車で運ばれて入院しました。それが2011年の3月11日です。病院について、しばらくしたらダアーッと揺れて点滴は倒れるわ、壁に亀裂が走るわで大パニックです。しかも原発事故で放射能がどうこう言われていたから、ガラケーで一生懸命情報を調べました。食事も大変で、子どもには病院食が出るけど、自分の食事は出ないからコンビニに行くんだけど食料がないんです。なんとかゲットしたパンひとつで一日過ごすなんてこともありました。
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生きていてほしい
入院して息子の具合は良くなるどころか、同室の子から風邪をもらったのがきっかけで敗血症になってしまいました。ICUに入って人工呼吸器をつけられて、カテーテルを入れられて……まだ小さくて暴れてしまうので、鎮静をかけられて眠らされていました。そんな息子の姿を見たときに、親としてこんなことを言っていいかわからないけど、この子は何ヶ月も苦しんできて、これ以上苦しむなら、楽になって逝ってしまった方がいいのかなとも思いました。
でもあるとき、私が「今日はもう帰るね」と言ったら、小さくイヤイヤしたんです。鎮静をかけられていて目は開かないけど、耳は聞こえていたみたいで。ICUで隣だった女の子も、私からすると寝てるだけに見えるんだけど、その子のお母さんが「この子は嵐が好きなのよ」と言って、嵐の曲をかけると「喜んでる」って嬉しそうにするんですよね。それまで私は、寝たきりの人や重い障がいのある人が生き続けるのってどうなんだろうと正直思っていたんです。
だけど、1ヶ月ぐらい経つと、嬉しそうな感じがするとか、これは嫌なんだなって分かるようになるんです。それで、やっぱり息子には生きててほしいって思うようになりました。なんて言っていいかわからないけど、何もできなくても生きているという事実が目の前にあるだけで、周りの人が安心するというか。息子がイヤイヤする姿を見て「ああ、とにかく頑張るしかないな」って思ったんです。息子の病気をきっかけに、私の考えはすごく変わりました。
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やってみたいこと
治療は長くかかりましたが、幸い息子に合う免疫抑制剤が見つかって、1年くらいかけて普通の暮らしができるぐらいまで回復しました。何かあったときのために、そのまま入院しておくこともできたけど、外に連れていこうと思って思い切って退院させました。その後、息子が4歳になる前に埼玉から三重に移住して、間もなく夫とも離婚しました。 息子は小学校4年生ごろに自閉スペクトラム症の診断を受けて、学校生活も苦労しましたね。小学校1年生からずっと行き渋りで、6年生まで毎日送迎していました。下駄箱でしばらく入れずにいるのですが、なんとか中に入っていくのを確かめてから自宅に戻り、学校からの電話があるといけないので待機していました。中学3年間は完全不登校でしたが、この春から通信制の高校生になりました。
息子が東京で入院していたときは、家と病院が離れていたので、病院の近くにある(ドナルド・)マクドナルド・ハウスという入院患者の家族のための施設で寝泊まりしていました。そこには、地方から出てきて泊まり込みで付き添いをしているお母さんたちがいて、中には子どもが生まれてから10年間そういう暮らしをしている人もいました。みんな自分のことは置き去りで子どもに付き添っているんです。
そういうお母さんたちのために何かできないかと思ったけど、「ダンスしましょう」とは言えないじゃないですか。「ダンスなんてハードルが高いし、そんな気分じゃないわよ」って言われると思うんですよね。でも、みなさんマッサージとかにはお金を払って通っていたので、ヨガだったらやってもらえるかなと思って。これまでも障がい者施設や高齢者施設ではヨガやダンスをやってきましたが、病気の子どもたちに付き添っているお母さんのためのヨガも、いつか実現したいことのひとつです。
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みんなに場をつくりたい
私は踊るのは好きだけど、舞台の真ん中で踊りたいとは案外思っていないんですよ。私が踊りをやるのは「みんなに場をつくりたい」からです。1998年に「オービタルリンク」という即興のイベントをはじめたのも、あらゆるジャンルのパフォーマーが自分の表現を模索しながら、やる側も観る側もジャンルの垣根を超えて出会ってほしいという思いがあったからです。ラジオDJをしていたときも、自分が面白いと思ったら無名の人でもゲストに呼んだりしていましたからね。当時から今にいたるまで、やっていることは変わらないと思います。
今日撮影をしたアトリエ第Q藝術も、大きすぎない規模だからこそ「個人」が見えて好きなんです。劇場が大きくなればなるほど、後ろの方まで届くように表現しようと思って動きが大きくなり、身体の動きだけを見せることになることが多いと思うんです。そうすると結局、どれも同じような作品になってしまうというか。私は、踊りの完成度はどうでもよくて、その人が踊りを通して「本当のこと」を言ってるかどうかを知りたいんです。そういうことが見えるのは、このぐらいの規模の劇場かなと思います。チーフディレクターの早川誠司さんには以前からお世話になっているし、舞踏や演劇関係の友だちもよくここで公演をしているので、私のルーツのような場所でもありますね。
人生って、「あのときあそこに行ってなかったらあの人に出会ってない」とか、そんなことばかりじゃないですか。でも本当に好きなことを続けていたら、絶対にまた元のところに戻ってくるし、ずっと会っていなかった人ともまた会えるんですよね。もっと別の仕事をする機会も、別の人と付き合う機会もあったろうけど、そのときの自分がそれをやりたくて選んだんだしなって。自分は、いつも「こういうことを考えている人がいるなら、こういう場所をつくったらいいんじゃないかな」と思って、場所をつくって人と人をつなげてきたんですよね。さらに、自分の場合はそこに「踊り」がありました。そうしてここまでやってきて、今の自分があると思います。
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(2023年3月26日収録) 取材協力=アトリエ第Q藝術
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elle-p · 1 year
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P3 Club Book Mitsuru Kirijo short story scan and transcription.
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桐条美鶴の暴走
桐条美鶴は悩んでいた。
どうやら、自分は普通の同年代の女子とは、少し違っているらしいのだ。
思えば、いままではシャドウとの戦いと、勉学に明け暮れる毎日だった。愛する父親のため役立つことなら、どんな苦労も厭わなかった。そしてそれは、ごく普通のことだと思っていた。ごく最近までは。
きっかけは、やはり修学旅行だろう。日ごろの学校での勉強と違い、たとえ数日のことであっても、学友たちと朝から晩まで寝食をともにすることで、ほんのちょっと、自覚せざるを得なかった。何というか、一般常識的に、自分は少しズレているのではないか、と。そういえば特別課外活動部の仲間も、生徒会のメンバーも、自分から距離を置いているのではと思えることが、しばしばあるような気がする。
つい先日も、真田明彦に「なあ、私は······普通とは違うのだろうか?」と率直に相談してみた。美鶴の質問を聞いた明彦は、いつもの爽やかな笑顔のままピクリとも動かなくなり、たっぷり1分ほど時間を置いた後に、個性というものがいかに大切か、ひとりひとり違う人間とはなんと素晴らしいことかといった内容で熱弁をふるい、歌を歌いながら立ち去った。曲目は『世界にひとつだけの花』。最後まで、美鶴と目を合わせようとしなかったのが、印象的だった。
これはやはり、遠回しに「問題あり」と言っているのだと、さすがに理解できた。
生徒たちの上に立つ生徒会長として、そして特別課外活動部を率いる責任者として、これではいけない!いまさら、一朝一夕で一般常識とやらを身につけることは不可能だろうが、せめて、せめて周囲の人々に慕われるような、そんな人間になろう!そう美鶴が発奮したのも、無理のないことだろう。そして、彼女の性格上、行動は迅速だった。---はた迷惑にも。
「か······会長っ?いま、何と言······」
「ど、どうかしたのか?い、いや······違うな······どうかしたの?ち、千尋ちゃん?」
「か、かいちょおぉぉぉつ!?」
生徒会室に、生徒会会計である伏見千尋の絶叫が響き渡った。美鶴の“慕われる人柄になろう作戦”が発動した翌日の放課後。彼女はさっそく、それを実行し、戦果を上げていた。
やっていることは大したことではない。まずは形からだけでもと、美鶴が知る限りでもっとも人当たりがいい少女---山岸風花の喋りと動きを真似しようと思った。それだけだ。
それが、予想以上の破壊力だったことは、誰にとっても不幸なことだった。美鶴はただ、千尋の「会長、この件はどう処理しましょう?」との質問に、こう返答しただけだったのだ。
「ち、千尋ちゃんは、どうしたらいいと思う?」
そして、にっこり。
柔らかい笑顔、のつもりだが、日ごろ使っていない表情筋を酷使したため、頬の端がピクピクしていることに本人は気づいていない。おかげで、それは笑顔というよりも、どう見ても何かを企んでいる顔にしか見えない。
それでも、悲鳴を上げて真っ白になった千尋を心から心配して、美鶴が優しく声をかける。
「大丈夫?千尋ちゃんっ?」
これがトドメとなった。
ぴきっ。千尋の中で何かが壊れる音がした。
「いやあああぁぁぁあ!ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!私が悪かったなら謝ります!お願い!許して!言いたいことがあったら死ぬほど責めてくださって構いませんからぁ!丸呑みにして生きたままじわじわ胃の中で溶かしていくみたいな生殺しはしないでぇ!ごーめーんーなーさーいー!!」
ありうべからざる異常な現象を目撃し、千尋の脆弱な精神は、簡単に灼き切れていた。恐怖に翻弄され、被害妄想で心は満たされ、ついには胎児のような丸い姿勢でうずくまって、ごめんなさい会長を差し置いて彼には手を出しません、とか訳のわからぬことを呟いている。
「え······お、おい、伏見?みんな?ど、どうしたんだ?何が起こった?」
千尋の狂態に、ようやく状況に気づいた美鶴が周囲を見回したときには、すでに生徒会室の中には、まともに口がきけるものはいなかった。
「そ、それは······申し訳ありませんでした······って言うのも変ですね。うふふ」
「いや。私が半端に山岸の真似などしたのが悪かったのだ。やはり、本物には敵わない」
生徒会室の惨事が、数台の救急車のサイレンをもって幕を引かれたあと、美鶴は廊下でたまたま出会った風花を連れ高等部校舎の屋上へとやってきていた。作戦失敗に少々へこみつつ、美鶴は無断で手本としたことへの侘びを風花に告げ、自分のミスの原因を率直に訊いてみる。
「やっぱり······口調や立ち居振る舞いって、その人だけのものですから······。無理をしてもどこかでボロが出るのは仕方ないです」
「しかし、それでは······皆に一歩引かれてしまうのだ。私の態度は、どうも硬すぎるらしい」
「だったら、話す内容かなあ······」
「内容?」
「少ししか······一緒にはいられませんでしたけど、荒垣先輩って話してみると面白い人だったんですよ。最初はちょっと怖くて近づきにくかったですけど、けっこう冗談とか言うし」
「冗談か。なるほど······」
美鶴の脳裏に、高等部に上がったばかりの頃の荒垣の面影が浮かぶ。確かにあの事件が起きるまでの荒垣は、どちらかというと陽気なタイプで、いまで言えば順平のようなパーソナリティの持ち主だった。
「そうか······納得いった!山岸、恩にきる!」
「え?あ······桐条先輩?どちらへ?」
「さっそく寮に帰って、草稿を練ってみる!明日は幸い、全校集会がある日だからな!」
そう言って、風花を取り残したまま、猛スピードで美鶴は立ち去った。それは、入浴中に「わかった!」と叫んで裸のまま往来へ飛び出したアルキメデスのような勢い。もちろん、美鶴は何にもわかっちゃいなかった。
翌日の朝、講堂には集会のため全校生徒が集まっていた。恒例の眠気を誘う校長訓示、学年主任教師からの諸注意のあと、「続いて、生徒会からのお知らせがあります。会長、どうぞ」とのアナウンスが、エコーを伴い講堂に響く。そして、いつものように堂々と背筋を伸ばした。桐条美鶴が壇上に姿を現わした。
カツカツと靴音を響かせ舞台中央に立った美鶴は、演台上のマイクの角度を軽く直し、視線を前に向けて講堂を隅々まで脾説する。それは正しく、王者の貫禄。昨日のようなイカレた様子は微塵も感じさせない、常と同じく凛々しい姿に、舞台袖に控える生徒会役員たちが胸をなでおろした、その瞬間。
「······おっはー☆」
······ざわつ。
軽く短いざわめきが広がる。一瞬、その場にいた全員が、自分が幻聴を聞いたと思ったに違いない。ただひとり、山岸風花だけが、昨日の不用意なアドバイスのことを思い出し、顔面蒼白にして固まっている。
ざわざわざわざわ。
徐々に増えるざわめきに、美鶴は焦っていた。おかしい。こんなはずではなかった。最初に軽いツカミで聴衆の緊張をほぐし、その後、小粋なジョークの連打で笑いの渦を我が物とするはずが······。そのために、わざわざ古書店で『アメリカンジョー 100選』やら『大人のフランス小話』やらを買い漁って研究したのに。やはり、美鶴が幼いころに 一世を風靡した朝の子供向け番組の名セリフとはいえ、ネタが古すぎたのだろうか?しかし、最近では滅多にテレビも見ない自分に思いつくネタは······あった!確か伊織が言っていた最近流行りの······。
「······お手上げ侍」
しーん。
今度こそ静寂が周囲を包み込む。生徒ひとりあたり、平均して5本ずつ白髪が増えていた。もはや働く者はいない。そして、しばしの言葉の真空状態を経て、「いやあぁぁぁぁぁ!!」と響き渡る千尋の絶叫。昨日のトラウマが、このタイミングで蘇ったようだ。ここが学校でなく職場だったら、PTSDで労災がおりるに違いない。
その日、月光館学園に緊急出動した救急車は、10台を越えたという······。
放課後、今度こそ真剣に、美鶴は落ち込みまくっていた。ほぼ徹夜で考えたスピーチが目も当てられない失敗に終わったことも原因だが、何より、アドバイスを活かせなかったことを風花に告げに行った際。
「別に構いませんけど、今度からは一般人の目の前でマハブフダイン (氷結ハイブースタにより威力1.5倍) は止めてくださいね、うふふ」
とか、ぐっさり言われたことが、相当に堪えていた。あれで、風花は意外と毒がある。ちなみに風花の目は、微塵も笑っていなかった。
そんなわけで、美鶴は意気消沈して寮への帰路をとぼとぼと歩いていた。と、そこに。
「あれ?やっほー、美鶴センパ���」
と、声がかけられる。それは、美鶴も良く知った、岳羽ゆかりの声であった。いつもならここで、「ああ、ゆかりも今帰りか?」などと、自然と会話が始まるのだが、連日の失敗で美鶴はすっかり調子を狂わせていた。思わず、美鶴の口を突いて出たのは。
「や、やっほぉー、ゆかり······」
言葉が美鶴らしくないなら、態度も美鶴らしくなく、ゆかりの反応を下から窺うような、おどおどした表情になっている。
「······」
「······」
「······きもっ」
ぐっさり。
容赦のないゆかりの言葉が、美鶴の胸に深く突き刺さる。そして---。
「う······ううっ」
「あ、あれ?美鶴センパイ?」
「······うえっ」
「え?ウソ?ちょ、ちょっと泣かないでくださいよ!ご、ごめんなさい、ごめんなさい。ちょっとした冗談ですから。あー、よしよし」
子供のように、美鶴は泣きじゃくっていた。
---夕刻。なかなか涙が止まらない美鶴を、ゆかりは長嶋神社���境内へと連れてきていた。小さジャングルジムや、その向こうの境内が、照り映える夕陽で橙色に染まってゆく。
「すまない······ゆかりにまで、愛想をつかされたかと思って、つい······」
「だーかーら!違いますって!だいたい、仲良くなかったら上級生相手に『きもっ』なんて言えるわけないじゃないですか?」
やや目の端は赤いものの、美鶴は何とか泣き止んで、今は少し落ち着いた様子だった。
「で、いったいどうしたんですか?今日のセンパイ、はっきり言ってヘンでしたよ?」
親しさゆえとはいえ遠慮のないゆかりの物言いに、美鶴はうぐっと言葉を詰まらせるが、それでも淡々と先日からのことを説明した。すべてを聞き終えたゆかりは、大きく溜め息をつくと、ばっさりと切り捨てるように言う。
「バッカじゃないですか?」
「ば、馬鹿とは何だ! これでも真剣に······」
「バカですよっ!」
そう言って美鶴の目を見つめるゆかりの表情は、なぜだか少し怒っているようだった。
「ゆ、ゆかり?」
「センパイ、ぜんぜんわかってない!」
怒っているようで、それでいて、少しだけ寂しさを含んだ顔。
「いいですか、一度しか言いませんよ?少なくとも寮の連中や生徒会の人たちは、誰も美鶴先輩を敬遠なんて、まして嫌ったりなんてしてません!見ててわからないんですか?」
「ゆかり······」
「風花が美鶴先輩に親身にアドバイスしたのはどうしてです?いつもと違う先輩にみんなが驚いたのは、いつもの先輩がいいと思ってるからでしょ?まったく、いつも自分ひとりで納得して突っ走るの、悪い癖ですよ?」
「私は······このままでいいのかな?」
「そのままの先輩で、いいんです!」
「······一般常識がなくても?」
「はなから期待してません!」
「······嫌われて、ないか?」
「みんな、先輩が好きなんです!」
どくん。
ゆかりの言葉に含まれた、ひとつのキーワードが、美鶴の胸を打つ。それは、自分でも気づいていなかった、もっとも欲しかった言葉。
「も、もう一度!」
「へ?」
しょんぼりと気力を失っていたはずの美鶴が、一転してすごい剣幕でゆかりに詰め寄る。
「いまのセリフ······」
「え?みんな······先輩が······好き?」
じ~ん。
そんな描き文字がバックに見えるように、美鶴は全身を震わせて感動していた。そして、 さらに顔を紅潮させつつ、ゆかりを問い詰める。
「ゆ、ゆかり······は······どうなんだ!?」
「わ、私っ!?私は······きですよ」
「聞こえない!」
「あー、もう!そんなことわざわざ口に出して言わなくても······。あ······」
言わなくてもわかるだろう、と言いかけて、ゆかりは美鶴の目を見てしまい、そして悟る。美鶴はもちろん言わずとも理解していた。だが、いま必要なのは、はっきりとしたゆかりの言葉なのだ。それを訴えかける、美鶴の必死な視線を受けて、ゆかりは苦笑しつつ言った。
「私も、美鶴先輩が好きですよ。······ほ、ほかの人と同じようにですけどね」
心からの言葉を美鶴に贈り、それでも妙な感じに誤解されないよう釘を刺すことも忘れない。
「さ、さて!そろそろ暗くなりますから、さっさと寮に帰りましょう!」
ゆかりが、軽く染まった頬の色を隠すように、ベンチから腰を上げて美鶴に背を向けた。そしてそれを追うように、美鶴も慌てて立ち上がる。
「お、おいゆかり!ちょっと待て、できればもう一度······その······」
ゆかり以上に頬を染めて、美鶴が先ほどの言葉を重ねてねだる。しかし、ゆかりは構わず先をずんずんと歩いてゆく。
「知りません。もう十分でしょ?」
「······ゆかりは、意外とケチなのだな······」
「ケチって何ですか!ケチって!」
「ケチじゃないか。先日だって······」
「あ、それ蒸し返します?先輩こそ······」
ぎゃあぎゃあと喚きつつ、薄明のなかを歩くふたり。その姿は、10年来の親友同士のもののよう。美鶴の小さい悩みは、いつの間にか春の雪のように融け去っていた。
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yotchan-blog · 1 month
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2024/8/21 8:01:05現在のニュース
マンガで学ぼうよ 「ゴルゴ13」「宇宙兄弟」2作品特集 25日まで横浜で企画展(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) 幸せ願う巨大月餅 横浜のホテル 来月「中秋節」まで披露(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) <空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン>(下)《群衆》 都市への問題意識込める(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) 作家58人 異彩を放つ 丸の内でアート展覧会(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) 大都市の課題、連携強化 政令市の立民市議 政策協議会発足(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) 神奈川県民の生活にスポーツを 「フロンタウン生田」支配人らが知事と議論 長寿フェスタの工夫紹介(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:52:49) 大阪・箕面市長選 現新3氏が激戦展開 一人一人の横顔は([B!]産経新聞, 2024/8/21 7:51:57) 筆頭株主はSBI 堂島取引所、個人投資家獲得へ役員招く 大阪 国際金融都市への道 再出発の堂島(中) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:51:55) 原発コストは太陽光発電の何倍? アメリカの最新試算でわかった驚きの数字 次期基本計画でどうする日本政府:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/21 7:51:13) ゴーラーって知ってる? 茶わんいっぱいの初雪のような… 記者は炎天下に行列し奥深い世界を味わった:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/21 7:46:21) 元阪神亀山努さん「それは違う種目では」 高校野球「7イニング制」を考える 高野連が検討スタート:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/21 7:46:21) 台風襲来で途方に暮れた外国人たち…増えつづけるインバウンドに災害情報をどう伝えればいいのか?:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/21 7:46:21) 私は「戦争反対」と叫ぶ 子どもだったあの頃の大人たちは 柚木麻子(朝日新聞, 2024/8/21 7:44:54) 補助金不適切受給疑いのトキエア関連会社 佐渡の事業所を2度訪ねた(朝日新聞, 2024/8/21 7:44:54) コーヒー1杯より安い弁当の配達始めて1年 タイ国境のミャンマー避難民支援、スタッフらの思いは…:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/21 7:39:43) 1484人犠牲の疎開船「対馬丸」 撃沈80年、海中調査へ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:39:07) 「がっこうにいかせて」娘の願いかなえられず のしかかる過去の過ち(毎日新聞, 2024/8/21 7:37:09) 入山規制始まった富士山 記者が見た登山客の変化と今後の課題(毎日新聞, 2024/8/21 7:37:09) <夏いっぷく2024>不気味なお化けにぞくっ 太田記念美術館(渋谷区)(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:36:28) 再開発の街、歴史と記憶を継承 葛飾の京成立石駅周辺 書籍「みんなの立石物語」第2号を発行(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:36:28) 東京都内のニセ電話詐欺 上半期被害、過去最悪46億6000万円 警視庁発表(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:36:28) 若者ら「未来のまち」描き別れ 3月末で66年の歴史に幕 解体予定の東村山市北庁舎(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/8/21 7:36:28) 吉田カバン「タンカー」 進取と技術で紡いだ40年 NIKKEI The STYLE - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) ワクチン接種で子宮頸がんを予防 正しい情報知って がん社会を診る 東京大学特任教授 中川恵一 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) 広がるホームホスピス、「もう一つの我が家」で終末期 シニアサポーター - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) 男女で性や妊娠学び健康管理 東京都、検査費を助成 #ハッシュタグ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) 南海トラフ地震発生時の訪日客帰国支援、4県会議で提案 山梨県・長崎幸太郎知事 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) 長野県信用組合、普通預金金利と短プラ引き上げ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/21 7:34:06) 麻生太郎氏、岸田文雄首相に謝意「3年間で間違いなく成果あげた」([B!]産経新聞, 2024/8/21 7:33:55)
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orhpee-annex · 1 month
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生命拾いと戯れる~草加健康センターと戦後~
 「人生の楽園」と題されたテレビ番組がある。西田敏行のナレーションで、四半世紀も続いている。都会暮らしの勤め人を脱した家族が田舎に逃れてパン屋や蕎麦屋を営む様を、楽園を得たひとに見立てて紹介するという筋立てだが、子供の頃のわたしは手品に魅入るように番組を眺めていた。近年、この番組に紹介された人々の七割が元の都心に戻っているという風説が囁かれている。それ自体は驚くに足りない、だが自ら築いた楽園をあっさり放逐される寓話は、逆説的にメーテルリンクの戯曲の有名な教訓を証明しているようだ。
 草加健康センターの話をしよう。
 わたしがこの地を踏んだのは8月10日。日本がポツダム宣言を受諾した日からちょうど77年後、北千住駅から東武スカイツリ��ライン快速に乗ること二駅の草加駅から送迎バスで10分、或いは徒歩で一時間で辿り着くこの場所は既に多数のサウナ愛好家たちにより紹介されており、さらに付言して汚すのはしのびない。
 しかし百聞は一見に如かず。高温ながら高湿度に保たれたサウナ、真夏日でも15度を保つ清涼なハイブラの水風呂、小体な施設内で最大限に設置された外気浴の椅子。そして、サウナ室の入口と水風呂がおなじ露天スペースに設置されている為に一連の動作を円滑にする親切な導線は、灼熱の煉獄から逃れて救いの泉を得、その後微風に扇がれつつ身体に沸々と涌く余韻を味わうまでに些かの遅疑もさせまいとする心遣いを表している。その快楽は、身体に即せば高温からの急激な冷却を経ての血管の急激な収縮、拡張による血流や自律神経への好影響ということになる。だが、暑さ寒さの彼岸を好んで彷徨った挙句、外気浴スペースの椅子に背を預けて空を仰いだとき、晩夏の午後の光が雲をふちどる風景をふと目にして感じる瞑想的な法悦は、ただ身体の機構に帰して済ませてよい類のものだろうか。
 走っている  火の海のなかに炎の一本道が  突堤のようにのめりでて  走っている  その一本道の炎のうえを  赤い釘みたいなわたしが  走っている  走っている  ――宗左近『燃える母』より
 思いつく限りの戦時における空襲の描写を挙げれば、どこかで必ず火の海を逃げ惑う様子であったり、水を求めて煮えたぎる川に飛び込んで落命したひとの姿に行き当たる。『方丈記』以来の生き地獄の描写である。わたしは冗談ではなしに、高温のサウナに炙られている最中、先に挙げた宗左近の詩を連想する。信濃町で、母と二人で炎のなかを逃げ惑い、つい手を離してしまったが為に母は焼け死に、詩人が悔恨から鏤刻した凄まじい詩のことを。
 だが、サウナがひとを殺すことは殆どない。わたしは自由に出口から抜けて出て、水風呂に浸かることが許されている。この水風呂も十秒以上浸かれない程に冷たく、一瞬で身体を覆う火照りを剥がしてしまう。水面に浮かぶ無数の泡が時に光の反射で無数の砕氷のように錯覚することすらある。それでもこれは八甲田山の死の彷徨ではない。
 あくまで戯れに抑えられた灼熱と寒冷の往還とその余韻はどこか生命の危機から九死に一生を得る体験に似ている。次第によっては神仏の実在をひとに確信させるに至る、真の九死に一生の体験も身体の出来事だけに焦点を当てれば急激な緊張からの解放という一連の運動であり、これが浄化の感覚を否応なく引き起こす。草加健康センターがわたしに幾度となく追体験させてくれる快楽、それは極言すれば死の恐怖を抱く手前で精密に抑制された九死に一生ということになる。
 解剖学者の養老孟子は90年代の講演集にて、くり返し「仏教の古い経典に描かれている極楽は『空腹も寒暖もない世』である」として彼の都市批判に繋げている。この極楽は日本において概ね達成されて久しい。コンビニでおにぎりもアイスも買えるし冷暖房が一家に一台備えられている世界は古人の夢見た極楽の姿をしている。日本国憲法の序文に綴文された「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」て今日まで幸運や、反対に薄氷を渡るような危機を躱して、今日楽園を前提と出来る程の世を享受している。そして、わたし達が世に抱く不平不満も煎ずれば極楽を足場に叫ばれている。
 古人の想像力は、しかし果たして灼熱と寒冷の彼岸に戯れる、この草加健康センターのような施設にまで到達しただろうか。これはどんな古賢さえ夢にも見なかった楽園の一形態である。そしてわたしたちは他者により隅々まで保障の行き届いた施設にて生命拾いの快楽と戯れることさえ許されている。過去の悔恨も未来への恐怖も束の間忘れて、他者の承認も不要としながら独り身体的快楽の余韻に身を任せるとき、楽園のうえに更に築かれた楽園の到来に戦慄しないだろうか。
 一方、誰が語ったか人生百年の時代であると言う。地上の至るところで戦禍がやまない世に先人の建立した砂上の極楽浄土が永続すると仮定して平和裡に制度維持の恐怖に震えること自体が既に慢心であると一瞬でも掠めたひとがどれほどいるだろう。遠い未来、わたしたちは抑制された灼熱ではなく、本物の火に生命を奪われるかも知れないのだから。
 故にわたしは草加健康センターへふたたび通う。細心の注意により存続する楽園が、楽園として享受出来る限りにおいて。滅びの予感のなかで穏やかな現在はいっそうかけがえなく在る。そしてセンターの隣の自販機でアイスを贖い、舐めながら草加松原駅に至るまでの鄙びた道のりを歩き、暑さの峠を越えた夜風や虫の音に、これも優しい秋の気配を感じながら。
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ya77 · 3 months
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HABU’S VOICE
シリーズ「空写真を極める」
2、なぜ空写真にはまったか
1987年オーストラリアに行きたいと思ったのは、 出張で行った時に感じた自然の豊かさ、人々のおおらかさが理由だった。 シドニーでの10週間の英語学校を終え、 ぽんこつの車を買って写真を撮るため、放浪の旅に出た。 旅を続けるうち、シドニーやメルボルン、アデレードといった都市よりも、 田舎の小さな町が好きになっていった。 最初のうちはクラシックな建物や野生動物や観光地の ダイナミックな風景にカメラを向けていたが、 だんだんにオーストラリアの広さを撮りたいと思うようになった。 どこまでも続く緑の牧草地。金色に輝く夏枯れの草原。 人のいない美しいビーチ。真っ白い砂丘。 荒野に突然出現するピンク色の塩湖。朝もやに煙る牧場。 日本にいた時には考えられなかった風景。でも特別な場所ではなくて、普通の風景。 僕は広角レンズを使って、そんな普通の田舎の広い風景を撮り続けた。 撮影したフイルムをチエックするうちに、ある事に気づいた。 雲があるの���ないのでは、写真の印象がまったく違う。 ただ広くてきれいだではなく、 雲がある写真は見ていて物語を感じる様な想像力が広がる様な気がした。 雲がある写真の方が風景が生き生きとしてくる気がした。 以来なるべく雲を、写真に取り入れるようになった。 最初の放浪から帰国した後も、僕はお金を貯めてはオーストラリアに通い続けた。 そしてある時、友人たちとグループ展をすることになった。 一人当たりの展示スペースが小さく7~8点しか飾れなかったので 思い切って空が主役の写真ばかりを集めて展示する事にした。 僕の隣は猫の絵を描いている画家だった。 ある日、小さな女の子を連れた母親が見に来て「あ、この人は猫を描いてるね」 そして僕の所へ来て「あ、この人はお空の写真を撮る人なんだね」といった。 空の写真を展示していたのだから、当たり前の事なのだが、 僕ははじめて自分が探していた写真のテーマが空だということに気がついた。 それからもオーストラリア以外の土地にも出かけるようになったが、 常に、「空、雲」を意識して撮影するようになった。 平坦で広い大地の上の空は、目を遮る物がなくとてつもなく大きい。 その大きな空を、地上に比べて大きく写し込む事で横位置で撮れば広さ、 縦位置で撮れば高さを表現できるという事を知った。 子供の頃に友達と「あの雲は○○みたい」といって遊んだ事を思い出し、 面白い形の雲を見つけたら、望遠レンズで空の一角から切り出す。 広い空のどこかには、何かに見える雲がたくさんあった。 空は誰の上にでもある手つかずの大自然。 東京にいても、広い河原やビルの屋上などに出れば空の写真を撮ることができる。 雲の形や状態のパターンは無限にあり、光のあたり方でも様々に変化する。 朝日や夕陽を浴びた姿は時として神々しいまでに美しい。 20年ほど前まで空の写真は作品としてはなかなか認めてもらえなかったらしい。 技術よりも、自然の偶然によって撮れたと思われがちだったからだろう。 だから僕がデビューした頃には、図鑑的な空の写真を撮る人はいても 作品としての空を撮る写真家はいなかった。 だから僕は空の写真の魅力を伝え続けてきた。 最近はカメラでもスマホでも「空写真」を楽しむ人がとても多くなった。 ネット上にも「空写真」はあふれている。 実に嬉しい事だと思う。
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cmbwnt · 3 months
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内田光子、自分の考えを語る
このスターピアニストは、創造性、パンデミック、ベートーヴェンを指揮しない理由などについて、率直で、時に緊張をはらんだインタビューに応じた。
内田光子は世界屈指のピアニストであり、そのクリスタルのようなタッチとモーツァルトとシューベルトの解釈で有名である。一流のコンサートホールや音楽祭で引っ張りだこだが、若手演奏家の指導者としても名高い。そのため、彼女はしばしば1,064ポンドのスタインウェイ・モデルDコンサート・グランド・ピアノと、そのための専属テクニシャンを連れて旅に出る。
彼女は日本で生まれ、12歳で父親が日本大使となったオーストリアに移住した。内田は日本で生まれ、12歳のときに父親が日本の大使となったオーストリアに渡った。この時点で(彼女のレコーディングの多くはスタンダードとされている)、彼女はほとんど宣伝の必要がない。しかし、ある日の午後、カリフォルニアのオハイ音楽祭について話すことに同意した。
マンハッタンのアッパー・イーストサイドにあるホテルのロビーで会ったとき、内田は特に忙しいコンサートの真っ最中だった。彼女の人生や音楽についての私の質問に、彼女は明らかに腹を立てていた。
キャリアのこの段階をどう見ているのかと尋ねると、彼女は単刀直入にこう答えた: 「自己分析はしない」。
しかし、彼女は75分間座り続け、世界についての率直な見解を述べ、創造性、新しい音楽���パンデミック、そしてなぜキーボードからベートーヴェンを指揮しないのかについて話し合った。(ベートーヴェンには "対立と衝突 "があることを指摘し、「演奏中に他者から私への対立を誘発したり煽ったりするのは難しい」と語った)。オーハイではソロ作品を演奏し、マーラー室内管弦楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲を指揮する(「モーツァルトは会話的で、オペラです」)。
学者肌の内田は、私の音楽知識を試すのに余念がなく、何度もインタビューを中断して、ドイツ・ルネサンス、音楽著作権の発明、バッハの「マタイ受難曲」、シューベルトとウェーベルンの死についてクイズを出した。感心しない彼女は、私に1年間仕事を離れてフルタイムで音楽を勉強することを勧めた。
インタビューが終わろうとしたとき、ホテルの火災報知器が鳴り、内田は他に質問はないかと聞いてきた。私は時間を割いてくれたことに感謝し、彼女は、私が何を求めているのかわからないこともあったが、話し合いは楽しかったと言った。私は内田に、インタビューは常に予測できるものではないと言った。彼女は、パフォーマンスもそう変わらないと言った。
「私はそれを秋の紅葉と呼んでいます。「私たちは来ては去っていく。死んでしまえば、それで終わり。残るのは書かれたものだけ。
ネタが足りないかもしれないと心配した私は、後日、内田がラヴェルの練習をしているロンドンの自宅に電話をした。彼女はさらに45分間話してくれることになった。以下は、両者の会話からの抜粋である。
Q:キャリアのこの段階での自分の芸術性をどう見ていますか?
A:私の芸術性?何ですって?私は一日一日を大切に生きています。
Q:どういう意味ですか?
A:私が毎日へそ曲がりだとでも?失礼ですが、私はミュージシャンです。私はそんなに重要な人間でも何でもありません。ただ音楽を理解したい。それだけです。
Q: オーハイ・フェスティバルのどんなところに興奮していますか?
A: 興奮するからオハイに行くのだと思いますか?いや、マーラー室内管弦楽団を含む関係者のために、自分がやりたいと思う音楽があり、関連性があるから行くんだ。マーラー室内管弦楽団と私はつながっていると感じている。
初めてオハイに行ったときは、ピエール・ブーレーズと一緒に行った。オハイの起源、つまりアメリカの片田舎で誰かが新しい音楽祭を始めるという考え方は、エキサイティングなアイデアだと思う。でも、それ以外に何が私を興奮させるのか、私にはわかりません。
Q:あなたは当初、2021年にオーハイに出演する予定でしたが、パンデミック中にスケジュールが変更になりました。パンデミックは文化界をどのように変えたと思いますか?
A:「私の人生はこんなに素晴らしいはずだ」という利己的な願望が、パンデミックの間に当たり前になりました。だから人々は簡単に諦めてしまう。私は多くの分野でそれを目の当たりにしている。
日本の一流ホテルの多くは、私に言わせれば、迷走している。私が大好きだったレストランも、パンデミック中にシェフを解雇したため、味が変わってしまった。新しく雇われた人たちは、"気に入れば残る、気に入らなければ他に行く "と言うだろう。しかし、人生はそんなに単純ではない。努力しなければならない。
Q:パンデミック中に何か変化はありましたか?
A: 変わったと思うよ。でも自己分析はしていない。
Q:日常生活に変化はありましたか?
A:家にいることがとても幸せだった。旅に出ないのが好きなんだ。今回ばかりは時間を無駄にする余裕があった。素晴らしかったよ。
Q: 自由な時間は何をしていますか?
A:暇なときは家にいて、勉強したり音楽を演奏したりしています。考える時間が欲しいんだ。そして、呼吸をしたり、夢を見たりする必要がある。
Q: 夢を見る時間があるとき、人生や音楽について啓示を受けることはありますか?
A:人生で啓示を受けることはない。もしあったとしても、君には言わないよ。
Q: マーラー室内管弦楽団と仕事をする機会があったことも、オーハイに惹かれた理由のひとつだとおっしゃっていましたね。
A: チャンス、いいえ。チャンスはたくさんある。でも、彼らにとってはチャンスなんだ。彼らはオハイに行きたがっていた。私は彼らのために行くんだ。
オーハイには特別な雰囲気がある。コンサートが行われる公園の一角には古木がある。箱でもホールでもない、音楽が飛んでいくような開放的な空間で演奏するのが好きなんだ。それを嫌う人もいる。でも私は、ただ空気の中に消えていくような音を聴くのが好きなんだ。
Q: オーハイでは、モーツァルトの3つの協奏曲と幻想曲ニ短調、そしてシェーンベルクの「6つのピアノ小品」を演奏する予定ですね。
A: 理想的な世界では、シェーンベルクのピアノ協奏曲をマーラー室内管弦楽団と指揮者なしで演奏することも考えたかもしれません。でも、それには膨大なリハーサル時間が必要なんだ。人生がどのように機能しているのか教えてあげようか?多くのリハーサル時間が必要だから、誰もそんな余裕はない。この40人がリハーサルのためだけに1週間も10日間もホテルに泊まる費用を誰が払うのか?誰もいない。
Q: 世間はあなたと新しい音楽を結びつけることはあまりありません。
A: 昔、ある人に言われたんです。"内田さん、そんなに新しい曲を委嘱しないでしょう "って。私は、"あのバカが何をするのか、私に何がわかるというのだ "と言っただけです。一体どんな作品になるのかわからないというのは、とても危険なことです。だから、それを最初にやる人間でなくても全然構わない。でも、私はギオルギー・クルターグのような作曲家を尊敬している。彼ほど正直な人はいない。
Q: モーツァルトとのつながりをどのように表現しますか?
A: モーツァルトでは、たとえ悲しい瞬間があったとしても、彼は上を向いている。彼の世界は、走り回る人間の世界だ。そして極端なことを言えば、モーツァルトではすべての音符が子供であり、すべての音符が違う方向に進もうとしているのだと思う。それがモーツァルトの音楽の並外れた自由さだ: すべての音符がまるで小さな子供のように振る舞っているのです。
Q: シューベルトでは、対照的に、孤独感を表現していますね。
A: シューベルトは孤独な人物で、彼の音楽もまったく孤独です。彼の音楽は夢です。彼の人生には悲しみがあり、絶望的な状況です。絶望的な状況だ。彼はその憧れを決して失わなかった。それがシューベルトの絶対的な美しさなんだ。
Q: 人工知能が音楽に与える影響を心配していますか?
A: 創造性は人間の脳と魂で起こります。モーツァルトのような人の脳を知ることは衝撃的だったに違いない。そしてヨハン・セバスティアン・バッハは、すごい能力を持っていた!それは機械には不可能です。
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kachoushi · 4 months
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各地句会報
花鳥誌 令和6年6月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年3月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
撞かるるを待つ梵鐘にある余寒 美紀 春灯や蔦の絡まる家傾ぐ 和子 料峭やいつか御籤でありし紙 緋路 自転車の主婦涅槃寺も突つ切つて 瑠璃 春塵は仁王の筋肉のかたち 緋路 冴返る仁王は金の歯で怒る 慶月 鳥帰る空はとほくて累塚 小鳥 春北風や大釣鐘に隠れたし 風頭 春陰の暖簾に純白の屋号 緋路 貴婦人の大車輪のみ春光に 慶月
岡田順子選 特選句
料峭やいつか御籤でありし紙 緋路 下萌る輪廻途中に道草を きみよ 中華屋の春塵赤き椅子逆さ 小鳥 喪の列の消ゆ式台の春障子 昌文 窓飾る家族の数の紙雛 はるか 白杖のリュックに揺るる桃の花 眞理子 学僧は霞に昼の鐘をつく きみよ 春禽のつがひ卵塔あたたむる 千種 上人の絵のその上の春の雲 俊樹 父性めく陽春の木の温もりは きみよ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
中空を塞ぐ余寒の廃高炉 かおり 曲水の刻安寧の風美し 朝子 曲水宴美しきあぎとの並びたる たかし 春の闇400Hzの着信音 修二 曲水や配流の無念流れをり 同 バッカスの壁画翳ればアネモネも かおり 中也掌に詩片ふりくる春の雪 睦子 野火走る倭建命の影走る 美穂 北窓を開く復興兆す音 朝子 曲水や女人の盃のちと遅れ 久美子 朧の夜幻想一つ二つ三つ 光子 涅槃図の中へ入りたく近道す 美穂 紅をひき三寒四温横切りて かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月7日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
春日射し昼寝の猫にやはらかに 喜代子 地の息吹すべての芽より放たれん さとみ 卒業生てかる制服光差す 同 雛見れば乙女心もらんまんに 同 啓蟄や老眼鏡に虫眼鏡 都 マネキンに呼び止められし春の窓 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
弁財天の目力強きご開帳 宇太郎 介護士の赤鬼追うて追儺かな すみ子 春動く大鍋洗ひ伏せてより 都 咲く椿落ちし椿も「太郎冠者」 美智子 無縁塚天の供へし犬ふぐり 都 閏日や何して遊ぶ春寒し 佐代子 観音の視線の先に吾と梅と 宇太郎 春氷􄼺曳く吾を映すのみ 悦子 風海へ菜花すみずみ靡かせて 都 薄氷や踏めばナイフの光持つ 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月9日 枡形句会
語り継ぐ作詞の謂れ春の野辺 百合子 陽子師の墓前満開蕗の薹 教 子 雛祭り白寿の母も祝はれて 百合子 一輪の菫映して句碑閑か 三 無 きめこみ雛偲ばる友を飾りけり 文 英 廃屋に繁るミモザの花明り 多美女 揚げ雲雀寺領に紛れ猫眠る 亜栄子 のんびりと牛横たはる春の野辺 幸風 年尾碑に晴れてまた降る淡き雪 美枝子 雲雀生む高原行けば雲の人 白陶 やはらかな春の野の音辿りゆく 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月11日 なかみち句会
消えさうな跡をつなぎて蜷の道 秋尚 磴百段尾道水道朝かすみ あき子 閉院の看板掠れ三味線草 美貴 日溜まりの数多の道も蜷のもの ます江 夜霞の一隅までも大灯台 聰 魚屋の釣銭濡れて春の雪 美貴 目をつむりぺんぺん草の音を聞く 廸子 極楽は泥の中なり蜷の道 あき子 蜷の道水面流るる光の輪 三無 崖下の流れやさしくになの道 和魚 鐘声のこころ震はす夕霞 史空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
老犬の矍鑠と追ふ寒鴉 清女 造花にも枯れは来たりぬ春愁ひ 昭子 お水送り達陀炎豪快に みす枝 春一番大手拡げて女子高生 昭子 全身を耳に涅槃の法話聞く みす枝 知らずともよき事知りぬ蜆汁 昭子 春眠の夢逝きし子の影おぼろ 時江 生死未だ仏に供へる桜餅 ただし 亀鳴くや遠くて近き爆撃音 みす枝 肩書を減らし北国の雪に住む 世詩明 鄙の里水滔滔と芋水車 時江 つまづいて梅の香りを逃しけり みす枝 浮御堂にそして巨松に春の雪 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月12日 萩花鳥会
鼓草摩文仁の丘の兄の墓 祐子 風神は火の神鳥に野火揚る 健雄 春の空ここは宇宙のど真ん中 俊文 忘れ雪抗ふ漁師海胆を取る ゆかり 忘れ物鞄の中に山笑ふ 吉之 制服の丈短きや卒業生 明子 沈丁花色付く前より香り立つ 美恵子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
合格の電話の声は春光に みえこ 彼岸会へ母一張羅出してをり あけみ 手作りの雛微笑んで雛祭 実加 啓蟄や亡き友ふえて吾は生きて 令子 うららかや押絵の猫に会釈して 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月15日 さきたま花鳥句会
銀翼のきらめく空や木の芽風 月惑 昴座の星を砕きてい��ふぐり 八草 古雛の神輿に残る能登の技 裕章 料峭や客船の無き海広し 紀花 杉玉も軒端に馴染む春日影 孝江 亀鳴くや飛鳥の山はみな蕾 ふゆ子 今晩も味噌田楽とまぜご飯 としゑ 雛客の手みやげ酒や国訛 康子 春しぐれ天皇参賀長き列 彩香 春愁や予期せぬ病電子辞書 恵美子 草の芽の小石動かす力あり みのり 浮世絵を抜け出す遊女万愚節 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
不器用は不器用なりに針供養 雪 我が町を春一番の素通りす 同 ぬるむてふ色を湛へて水温む 同 言の葉を育み春をふくらます 眞喜栄 雛飾り声なき顔に語りかけ 同 子供らの古墳探訪山笑ふ 同 道祖神肩を寄せ合ふ春の雪 同 雛見つめゐれば脳裏に母の顔 同 潮の香と水仙の香の一漁村 同 友の葬蝋燭揺らす涅槃西風 嘉和 風に棘あれど春日の燦々と みす枝 遠浅の水美しく蜆舟 ただし 雄叫びを似て左義長の始まれり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
城山をもみくだくかに春疾風 眞理子 春野歩すダルメシアンの脚線美 亜栄子 蒲公英の丘膨よかに母の塔 斉 石鹸玉母の塔まで追ひかけて 亜栄子 涅槃会や外から一人手を合はせ れい 蓬生の城址や鬨の声遥か 炳子 洗堰磧にとよむ雉の声 幸風 機関車に用心深く初蝶来 幸風 ぽつとりと落ちて華やぐ花椿 れい 春塵を淡く置きたる母の塔 芙佐子 啓蟄の句碑のひらがな揺らめける 要
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月18日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
胸を張り農を継ぐぞと卒業す かづを 四脚門氷雨の中に凜と建つ 和子 僧逝くや枝垂れ桜を待たずして 千加江 畦の径青きまたたき犬ふぐり 啓子 雛の間をちらと横切る男の子かな 笑子 九頭竜に朱を透かせゆく桜鱒 同 鰤大根男料理の後始末 清女 古里に古里の香の土筆摘む 泰俊 上を向き涙湛へて卒業歌 同 陽炎や人の集まる船溜り 同 春塵の経蔵深く舞ふ飛天 同 水ぬるむ色ある如く無き如く 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月20日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
雛納め飲まず喰はずの官女かな 世詩明 啓蟄や始発電車の一人旅 笑子 花ミモザ抱へふくらむ恋衣 同 けたたまし派手な身振りの春の鳥 同 啓蟄の土嗅ぐ犬の背の丸さ 希子 つくしんぼどこに隠れてゐるのやら 和子 麗しき新幹線で春来る 隆司 陽炎へる無人駅舎の降車客 泰俊 陽炎の中より来たる笑顔かな 同 啓蟄の啓蟄の顔穴を出づ 雪 懐かしやぬるみ初めたる水の色 同 蟲はただ蟲とし穴を出づるのみ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
凍つるべき所に凍つる蝶一つ 雪 着膨れて弟母似吾は父似 同 ぬるみ来し水に映れる何やかや 同 都恋ふ紫式部像に東風 同 幽霊の飴買ふ話木兎の夜 同 春灯下術後の傷を見る夜中 洋子 婚約のナースの話院の春 同 春ショール黄色く巻いて退院す 同 花柊恋に桎梏あればこそ 昭子 春雪や深田久弥の百名山 ただし 春彼岸死んで句友に逢へるなら やす香 親の恩山より高し卒業す みす枝 拙を守り愚直に生きて目貼剥ぐ 一�� 児を一人傘に拾ひし春時雨 世詩明
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saintdesire · 4 months
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2024.05.23 木 午前 2:09 ・ 32分 17秒
ㅤ聖33
今日はですね、ちょっと私が朝寝をしすぎてち。こんにちは。豊島美穂です。収録している今日は6月23日金曜日です。
今日はですね、ちょっと私が朝寝をしすぎて時間がなくなっているので、さくっとね、本題から行きたいと思います。今日はね、勧誘の話をしようと思ってるんですよ。私が今、皆さんを勧誘しようとしてるわけじゃなくて、私が受けた勧誘の話っていう。なんかね、新宿109健三っていうyoutubeチャンネルが。
それを夫から紹介されて、なんかいわゆる突撃系youtuber、ちょっと迷惑かけてる系なんだけど、それが相手がマルチの勧誘に限ってんですよ。マルチの勧誘を見つけて邪魔するっていう。
ただね、ちょっと、なんていうのかな、それで、その法による制裁に結びついてればね、なんかこう、本当に正義の味方っていうか、皆さん、ぜひぜひみたいな感じだけど、ちょっと、なんていうのかな、死刑、私に刑法の刑って書いてた。
ちょっと自分が、社会学に対して、自分が裁こうとしちゃってる感じがね、結果としては、どんぐらい、その
本人のチャンネルやってるケンゾウさんがそこまで思ってるかどうかわかんないけど、形としては、そういう形になっちゃってるから、なんか、ちょっと、ねこも手を上げてぜひどうぞとは言えないから、リンクも貼らないんですけど、そういうチャンネルがあるんですよ。で、夫はなんでそれを知ったかって言うと、いつもそんな焦ってるみたいな感じじゃないですよ。なんか、 バックスペースfmっていう、知ってる人はもうめちゃくちゃ知ってるテク系のポットキャストがあって、そこでね、とある方が雑談で出してたらしいんですよね。それで、おも2、3本見たぐらいって言ってたんです
けど、なんか、その、そのバックスペースでやってたモノマネを、夫もさらにモノマネして、モノマネのモノマネみたいなさ、ケンゾウさんのモノマネのモノマネみたいなのが、うちの中で発生してて、私も、じゃあものまねの元がどんなか見てみようと思って見たんですよね。
そのマルチの勧誘現場に行って、なんかこう、モノマネはやってね、やってねみたいな感じなんですけど、マルチとか投資詐欺の会場にも突っ込んでいって、みたいな、そういう感じなんですよね。そういうの、私もいくつか見て、へーと思って。私ね、こういうマルチとか詐欺の勧誘には、人生で1回も会ったことないんですよね。
多分ね。それに会う人って、ある程度こう、友達を増やそうとしている人っていうか、人間に対してオープンじゃないと、そういう機会もないんだと思うんですよ。
本当のポチ系人間は、多分マルチの勧誘に。でも、今はあれか、道を歩いてても、そうそう道でなってね、声かけてるみたいでしたもんね。
なんか渋谷の駅前とかでさ、そのマルチ的な人たちが待ち合わせ場所にもう混じってて、ナンパみたいな感じで。ナンパじゃないから、別に異性に声だけだけじゃないけど、もう、ほいい、ほいほい、どんどん、どんどん声かけていくんですよね。
なんか私たちがさ、そういう待ち合わせ場所にいるような若者だった時代って、あんまりね、そういうことなかったよね。
なんか、原宿とかでよくあるのが、そのアンケートモニターになってくださいって言って、アンケートに答えると、もうちょっとみたいな感じで、どっかの部屋に連れてかれて、エステの、工学エステの契約をさせられるみたいな、その、マルチっていうよりも、単発で、 このロンくまされちゃう、お金取られちゃう、そしたら、その自分の身の丈に合わない契約をさせられるっていうものはあるらしかったけど。
なんかね、そういう、これから自分も加害者側に回らなきゃいけないような、加害者っていうか、あれですね、ちょっとまちの人たちは、その法律に違反した勧誘しちゃってるからね、 なんかそういうことをさせられるっていうわけじゃなかったじゃないですか。でも今はね、そういう感じもあるらしく、ぼちで、でも、もしかしてね、声かけられてるのかもしれないですね。だから、私が会ってきた勧誘っていうのは全部宗教なんですけど、 なんかそういう話をしようかなって思いました。時期がね、なんか自分の中で1番すごい勧誘を受けた時期が今なんですよ。多分、
その、今旬のとある果物にすごく関係した話なんですよね。日付を覚えてるわけじゃないんだけど、ああ、その果物を見ると思い出してしまうっていうね、話があるんですよ。それは後ほどよろしくお願いします。
じゃあ、今週も行きたいと思います。第33回になります。聖なる欲望ラジオ。
なんかね、また最初に断りを入れたい性をっておきたいんですけど、なんかね、新居の自由が本当にあると思うんです ね。当然ね、人としてさ、どんな宗教を信じててもいいと思うし、不況の自由もあると思うんですよね。人に声をかけることが全部ダメなわけでは全然ないんですよ。
私がでもちょっとやめてほしいなって思うのは、それと、わからないように声をかけて、逃げられないような場所とか形を作って、そのさ、圧倒的有利な状態で話を進めるのは、それはどうなんだろうっていうことを言いたいんですよね。
そういう形を取んないでさ、本当に布教したいのであれば、この宗教がいいのであれば、自分のさ、生きてる姿を見るだけで、この人素敵だな、こういう風になりたいなあ、こんな宗教信じてんのか。私もやろうっていうのが1番さ、理想的な宗教の広め方だと思う から。なんかそういう意味で、このフェアじゃない方法は良くないってことをこれから喋りたいんですよ。だから、宗教を否定してるわけじゃないし、布教してしてしてるわけでもないっていうことはね。そんな宗教の人が聞いてるかわかんないけど、そういうことは念頭に置いていただけると幸いです。
それでですね、1番最初に勧誘に会ったのいつかなって思って、考えてみると、なんか結構やっぱ東京出てきてからかなって思ったんですけど、その前に1回あったんですよ。
修学旅行で。中学の修学旅行は行き先が北海道で、東京から北海道か選べるんですよね。その学年ごとにうちは北海道にしたんですよ。
で、何日目かで札幌の自由行動あって、札幌しないでさ、大通り公演とりあえず行ってさ、午前中に今も大通り公演に何しに行ったんだろうって思うんだけどさ、なんか大通り公演に行くもんだみたいな空気あったから、大通り公演行ったんですけど、なんか、そしたらさ、
なんか疲れており、声って、なんか超長いじゃん。あんま覚えてないですけど、大通り公園って、そう、1回きりだからさ、なんかそこでベンチで休んでたら、なんか結構おじさん、おじさんにちょっと片足突っ込んでるかな。ぐらいの確かおじさんが声かけてきて、 なんて最初声かけやったか覚えてなかったんですけど、なんか、なんか、何してるんですか。みたいな言われて、修学旅行で来て、もう歩き疲れたから休んでるみたいなこと、私たちが3人組だったんですけど、言ったら、癒してあげましょうみたいな感じで、ちょっと
ね、いいですか。って言って、手をかざしてきたんですよね。だから、手かざし系の宗教、ちょっと正式な名称は、すいません、ちょっとその時聞いたんですけど、忘れちゃって。でも、手かざしってみんな呼んでるよね。それでさ、そんで、 どうですか。何か感じますか。って言われてさ、なんか、でも、私たちもさ、そんななんていうの強めじゃないからさね、教室ではちょっといってるけどさ、言ってるけど、そんなさ、おじさんに急に感じねえよとかいうような、やかじゃないから、あ
あ、ちょっとそういえば、なんかあったかいような気がしますみたいな感じで、ちょっとちょっと、合わしちゃって、そしたらさ、おじさんも、なんか、ニコニコの感じでさ、なんていうの、 そんなにしつこくなくて、全然、なんか、どちらから飽きましたか。って言われて、そんな、言っちゃうんですよね、素直に。秋田県の小中学校です言ったらさ、なんか、手帳かなんか、多分、開いて調べて、ふむふむって。んで、じゃあ、1番近い支部ね、湯支部あるんでって、なんか、ここに。みたいな、こ、次女とか、なんか、その教団の名前をメモってね、ですって去ってたんですよね。
なんかそれが多分人生最初の宗教勧誘ですね。
なんかそん時はもう恥ずかしくてさ。なんていうの。やっぱり大通り公園で声かけられてる時点で、もうその修学旅行生ってバレてるわけじゃないですか。平日の昼だから、その地元の子がサボってるっていうよりは、修学旅行生なんだなって思うかもしれないけど、なんかどうしても、なんかもくて声かけられたみたいな風に思っちゃって。
なんていうの。好きがあるっていうかさ。
その、東京と北海道を選べるって言った時も、修学旅行先でさ、田舎者だから東京みんな行きたいんじゃない。ってね、こっちの人は思うかもしれないけど、逆ですよ。なんかもうさ、その、1番さ、その1軍グループの女子が東京なんてまじありえねえよなみたいな感じで、そんなこんなダサいセって東京歩けねえよみたいな。これ、この姿をもう東京で探したくないっていう 結論になってて、それを聞いたうちら、こあで、ですよね、ですよね。みたいな感じになってさ、札幌にしたのに、その結果、やっぱモくて、声かけられてんだって思ったら、もうか。ってなっちゃってさ、
恥ずかしくて、すごい早く終わんないから、これみんな見てるよみたいな感じで。でも、あれでしょうね、札幌の人たちにとっては、すごくそれが日常的な光景でしょうね。大通り公演さ、いつも来る人たちは、あ、また修学旅行生が宗教に声かけられてるわって 思ってでしょうね。
うん、でもね、別にしつこくないからいいんだけどさ、でも、なんか、なんか、なんかね、なんかやっぱちょっとしといてほしいっていう気持ちはある。なんかそれだって修学旅行最大の思い出になっちゃってさ、学校に出す作文に書いたからね、なんかそれそれメインで書いたから、その、おこ修業の改良されたっていうさ
ね。 そこまではね、そこは正直、笑い話ぐらいで済むんですけど、当然あれです、支部に行ってないですよ。おじさんもなんか本気じゃないっていうかさ、なんかこう、なんらかのさ、種を100分の1が目が出る種を巻いてるぐらいの気持ちだからさ、多分ね、 それ、なんかあんま���さっき言ったさ、その勧誘のいい形、悪い形で分けたら、まだいい形の方な気がするんですよ。でも次がさ、東京来てから、やっぱりね、なんかその悪い形があって、
大学1年生の時に吉祥寺で高校の時の友達合わせて遊ぶことにしたんですよね。私浪人してるから1年みんなより遅く東京来て、ほんで久々に会おうとか言って、じゃあ吉祥寺にしようかって。真ん中ただしみたいな感じで。私、大学1の時よくすごい吉祥寺行ってたんですよ。でもこの時はまだあんまり慣れてなかったかな、 なんか、そんで何する何する。みたいな感じで。吉祥寺がさ、なんかこれ、あんまり話すとすごい今日の話題からずれてっちゃうと思うんだけど、吉祥寺が今の姿と、
大的にする00、01年なんですけど、2001年の姿って多分全く違いますよね。私、どんどん亡き後の吉祥寺にはもう近寄らないようにしてるからさ、あまりに人が多すぎて。
あの頃はね、そんなにめちゃくちゃ混んでるっていうことはなくて、なんかちょうどいい町だったんですよ。でも、なんかやっぱ出てきた手だからさ、何をしたらいいかもあんまりわかんなくてさ。
なんかよく友達と言ってたのは、なんか上から下まで冷やかして回るっていうのめっちゃよく知ってたし、その子ともその日しかなって思うんだけど、その時はお金結構使いたい気分でね、せっかく東京来て、本当東京来て間もなかったんでしょうね、なんか占いの看板が目に入ったんですよ。手相占いの。
なんで友達にね、なんとか、じゃあこれやってみない。って言って、占い行ってみようよって言って、飛び込みでね、占い方みたいなとこに入ったんです。
で、別に並んでなくて、ちょっと1人ぐらいは待ったかな、1人分ぐらいは待って、でも大体2人同時に別々のブースにうまいぐらい入れて、あんまり時差なくね、へそを見てもらえて。
で、そう、占い自体はね、変なところはなかったんですよ。こう、喋りながらさ、さささって結果を紙に書いてくれて、この線の様子もさ、こう、生命線がこう、運命線がこう、みたいな感じで書いてたような気がするな。
私はさ、それで、25歳で、社会的てこう、社会的名声を得るって言われてさ、それを信じてさ、ちょっと信じすぎてずっこけたみたいな感じがありますけども、ちょっとさ、それで、ホクホクになってたその紙を手にしたんだけど、その、占いが終わった後に、なんて言われたんだったかな、 なんか、
形をもらったんですよね。形が。わかります。その人の形に切ったさ、わしみたい、白いわしわし。なんかな、あれ、なんか、ぺらっとした紙で、形自体は、別にね、人工宗教特有のものとかじゃなくて、別に、神道でも普通に使われるものかなと思うんですけど、 その、昔ね、おじいちゃんが送ってくれて、毎年、その6月、12月になると、 それを、なんか、う、体中ペタペタって、こう、服着たままですやって、最後にフって息吹きかけて、なんか、それを、なんか、う、書き上げても、なんか、なんか、してもらうと、なんか、すっきりすっきり、新年とか、次の半年を迎えられるみたいなアイテムなんですけど、
なんか、それを持って、なんか、ここに行くと、なんかもっといいことがあるみたいなこと言われたんですよね。その行く先が神社だったらさ、なんか言ったかもしんないって。でも、行かねえかな。吉祥寺が遠かったし、 神社だったら、また考えるけど、なんとかセンターってついてたんですよね、 なんか。それで、なんか、なんかこう、あって思ったんですよ。悟って、これって、なんか、こうやって普通にさ、町で占い屋さんの形してるけど、なんか宗教の入り口を作ってんだってその時に気づいて、
友達出てきた後に結果報告した後に回った。って聞いたら、うん、終わったって言ったから、お前もしやったわって言って、絶対行かないでって言って、その紙は捨ててもらって。
そんな感じでさ、なんか東京怖いなと思った出来事ですね。あれってさ、なんなんだったのかな。吉祥寺のそこだけなんですかね。
他にね、私別に占いいろんなとこでいろんな、そんな頻繁じゃないけどやってるけ、そういう目にあったのはそこだけだったからね。割と珍しいのかどうなのか、あんま調べたこともないんですけど、なんか隠してるのは良くないし、
なんか占い屋さんっていう形もなんだかなって私思いましたね。私たちは多分、なんていうの、学生でさ、別に悩み事とかもなくてさ、2人ではしゃいでる感じはきゃきゃって元気そうな感じだったから、ちょっと最後に添えるぐらいで済んだかもしれないけど、 占いに来る人ってやっぱもっと弱ってる人たちもいるじゃないですか。なんかそういう私たちもはやもうエンタメってひかしっていうか、そんぐらいの気持ちで言ってるからあれだけど、もう本当にどうしよう、この後どうすればいいんですか。みたいな感じで来る人たちには、もしかしてね、もうちょっと踏み込んだ後と言ったり、こうすればまた幸せがあります、ぜひこうしてくださいっていう
形で言って、うん、引っ張ってるのかもなっていうこともね、今になれば、その時は思わなかったけど、なんかみんなにこうやってパパって渡しただけかなと思ったけど、そうやって人によって踏み込む度合いを変えてたかもしんないなって、今になれば思いますね。
同じ業態が今もあるかどうかはわかんないです。でも、ちょっとね、頭の隅に置いといていただけると。あとは、勧誘って言っても、町でちょっと声かけられるみたいな、中心で、あれですね、家にピンポンって
食うのは来ても来てもドアは開けないからか。来たこともあるけど、ドアを開けないからなんかそういうめんどくさいことになったりとかしたことはないし、道で声かけられてもちょっとすいませんつって遠慮しますって。
大学の周りはすんごい多かったですけどね。うちの大学の周りはすごい。その、キリスト教と名乗ってるけど、キリスト教の系統では決してない何らかの宗教が結構力があって、 そう、大学中にも入り込んでんですかね。多分そうだと思うんですけど、その、勧誘は結構いっぱいあったかな。でも慣れてて、あれかって問題は別にすっていう感じなんですけど。
それでですね、そういうのと、その、街で声かけられるとかと違う性質の勧誘を受けて、それが今までの人生で、その、最大のね、勧誘だったんですよ。ちょっとそれ、これから詳しく話しますね。
私が20、2歳かな、23歳、23歳の大学出てすぐの、本当すぐの年の話です。
下町系のさところに住んでたんですよね、今まで。今までいろんなとこでさ、ほにゃほにゃくに住んだって話をしてるから、この中で下町はどこかっていうのは、すぐね、よくこのポッドキャスト聞いてくださった方はわかると思うんですけど、ちょっとここで話しますね。
まず、町のとこに住んでて、で、アパート暮らしだったんですよね。アパートっていうのもあれなんですけど、なんかちょっとよくある感じの、大家さんが 広めにおっきめにうちを建てて、大家さんも一緒に住んでて、一緒。そう、もちろん玄関別ですけど。で、なんかビルで、少ない個数だけど、人に貸してるみたいな、そういう感じの物件だったんですよね。
そんで、最初に入居してすぐ、ちょっと1つあったんですよ。それは、入ってすぐに、私のところだけに、私のポストだけに、ある。朝、
新興宗教の問わず、新興、新宗教ぐらいかな、ブックレットがさ、分厚いブックレットが入ってたんですよね。えって な、なんか、なんで私が引っ越してきたこと知ってるんだろうっていうのがまず1つ、ちょっと怖いじゃないですか。そんで、もう1つ怖かったのはさ、 結構、本当分厚かったんですよね。それがちょっと、宗教ってよくパンフレット配ってるけど、もうペライチみたいな感じじゃないですか、いっつも。でも、それはもう本なんですよ。だから、なんかもう、最悪さ、それ自体が商品だったらどうしようっていうことも考えたんですよね。
これを受け取ったことで、なんか後で誰かが家に来て、読みました、100円ですとかって言ってきて、どうしようと思って。00円とか絶対払いたくないから、なんか私、それ取んないことにしたんですよ。受け取んないことに。
だって、そのさ、引っ越してきたことを知ってる誰かが置いてるだけでも怖いからさ。で、部屋番号も私の部屋番号のとこに当然入ってるわけだから、その人、集金しに来ることも全然可能じゃないですか。
あ、この人、本受け取った。行ってみようってできる立場の人がやってるってことだから、え、めっちゃこわ。と思って、意地でも取んない。と思って、そのまま
何か月か郵便を受け取り続けたんですよね。そのでっかいポストに1冊のブックを入れたまま、他の郵便物を書き出して、書き出して、回収するっていうことをしてたんですよ。
そんなことがあったんですけど、何も起こんなくってよかった、別に何も起こんないわって思ってたんですけど、ある日ね、多分、 いや、わかんないな、朝、その日、何時ぐらいに初めて家を出たかわかんないんですけど、その、通勤通学もしてない時期ですよ。大学出て1年目だから、一応、専業サッカーとしてやった1年目の年だからさ、
なんか家を出ない日は全然、多分夕方まで出なかったと思うし、でも、その日はそんなめっちゃ夕方にはなってなかったと思うんですけど、朝でもなかった。家を出たらさ、ドアノブにビニール袋が下がってるんですよ。
そんで、そこにさくらんぼが1箱入ってたんですよね、山形さんのさくらんぼが。そんで、手紙がつけてあったんですよ。
実家からさくらんぼが送られてきて、食べきれないので、よかったらもらってください。男子質ダメそれって書いてあんですよね。それがね、
ちょっとね、山形、実家が山形っていうこの状況がさ、ちょっと秋田県民の私には悪かったんですよね。そのさ、これがさ、山梨の桃だったら、 ちょっと山梨の人に悪いけど、山梨の桃だったな、ここまで思わなかったかなって思うんですけど、山形のさくらんぼさ、それはもう すごい、急に親近感抱くわけですよ。あ、山形出身の人いるんだって���私、秋田の中でもめちゃくちゃ山形に近い方の出身、でも、レジャーはどっちかっていうと山形に行くぐらいだから、山形出身の人いると思って、
しかもね、さくらんぼっていうのは、またさ、あれですよね、返せないんですよ、その痛みが。早い。
もうその場で、なんか、夕方さ、多分社会人の人だと、普通はね、みんな通勤通学してるから、返しに行くには夜返しに行くしかないけど、そんな夜返されてもさ、すごい鮮度落ちてるわけですよ。
今、私の胃に入れてあげることが、そのさらに対する1番のさ、ベストな、なんていうの。なんつうの。退場だからさ。
そんでもう1個。さくらんぼの特徴として、常温なんですよね。痛みは早いけど、冷蔵の品じゃないから、常温に置いとくべきもの。だから、ドアノブにかかってたのが何時間かあるとしても、食えないっていう感じではないんですよね。
その絶妙なセレクトのその手法のうちだったのかどうなのか、ちょっと今となってわかんないんですけど、私はとりあえず、さくらんぼは食べることを選んだんですよ。そのさくらんぼをね、返しに行くんじゃなくて、食べる。
そして、お返ししなきゃって思うわけですよ。そして、その手紙にはね、メアドがね、携帯のメアドが、ご丁寧にそうやってあったんですよね。とりあえず、なんかお礼をね、そのメアドに送ったんですよ。
何百何号室のとし、豊島じゃないけど、その本名でね。なんとかですさんもありがとうございました。もういただきました。美味しかったです。みたいな感じで。なんか、そしたら、 さらに返事が来たんだったか。手紙からさ、い、手紙に最初から書いてあったのかょっと忘れちゃったんですけど、
なんか、その人は、今度、お茶でもどうですか。みたいな。やっぱ、メアド把握して、メールしてから、その返事かな。お茶でもどうですか。って、何曜日になん。何曜日何時にファミレス。具体的に指定したこことかどうですか。って言ってきたんですよ。
そこでね、気づくとしたら、そこでしたね。なんだけど、なんか私さ、 なんかぐいぐいくんなと思ったけど、暇なんかなと思っちゃったんですよね。暇な人かなみたいな。暇で寂しいんかなとか。女性だったしね、名前がね、フルネームで書いてあったけど、
あ、で、あとさ、山形出身に回る人はいないって。私さ、 山形の人はみんない人だと思ってるか。そんな、何かが起こるって、こう、ちょっとの警戒心はあるけど、そんなさ、あらゆる可能性を想像しようと、山形県民に対して思えないからさ、その、実家がさくらんぼ農家、農家ってでも言ってないか。
実家からサクランボ送っていくと、山形の人にそこまで思えないから、それで、ちょっと、ファミレスとか、ちょアメの人とファミレスとか、ちょっと正直、めんどくさいよっていう気持ちはあって、なんか、
ちょっと面倒だから、なんか、もうちょっと手短に済ましてほしいなと思ったから、そんな、外とか悪いですし、ちょっと親の品持ってくだけに話してくださいみたいな感じで言って、 それならじゃあ、土曜日10時でみたいな感じで、なんか、私としては、もうお礼の品なぱって渡して、ちょっと立ち話してさ、おうって思ったんですよね。で、約束の差、土曜日の10時が来て、 まあね、小さいアパートですよ。そんなにさ、何かが起こるとか思ってないですよ。でも、私は、なんか、俺の、なんか、何したんだったか。なんか、あんまり一生懸命調達した覚えがないからさ、
出版社から来たさ、なんか補修品か、お歳暮の中で、賞味期限が長いいいやつを持ってっちゃった気がしますね。なんかその頃さ、視聴者が毎年さ、すっごい高級ハチミツをね、くれるんだけど、絶対食べきれないの。
そ、賞味期限めちゃくちゃ長くてさ、ハチ蜜だからね、なんかいつかは食べれるかなって思うんだけど、絶対食べきれないし、もうそのハチ蜜ががんがん溜まってくのよね。なんかそれを持ってったような気がしなくもないですね。すごい高いんですよ。本当、高級なハチミツなんですよ。
それを持ってさ、言ったんですよね。で、ピンポンってやってさ、こんにちはみたいな感じで入ってたらさ、入ってったっていうか、もう1本目でね、
なんかその1歩目でも、大体全ての線はね、繋がったんですよ。これは宗教の勧誘だったってわかるような、その部屋の中だったんですよね。
そして、あのポストに入ってたこの人なんだっていうことまでわかった。まずね、なんか軽いジャブとしてさ、でっかいテレビ部屋には、ちょっと 大きすぎるような大きなテレビが、もう捨てますっていう手で、玄関に1番近い壁際に、コード抜いて、なんかさ、gogle巻きにして、なんか置いてあるんですよね。そう、コンセントにコードが入らない場所にね。
そんで、その次に、もう明らかにっていうこととしてさ、そこに知らないさ、女の人がもう1人いるんですよ。
私を迎えた人は多分そこの住人だけど、そこの住人ではないし、友達とかでも、この人の友達とかでも全然ないっていう感じのさ、笑顔を見せない女性が座ってるんですよ。
テーブルがあってさ、私は1人暮らしで、同じ間取りの部屋に住んでるけど、三脚ぐらい椅子、脚、三脚なきゃダメですよね。三脚の椅子をこう、ぎゅっと詰めた小さなテーブルにさ、その女性が座って、
私を迎え出たその10人の女性の席があって、私の椅子があって、そのテーブルの上に宗教新聞があんですよね、なんか、多分、みんな知ってる宗教新聞ゃないです。あれかなって思う、あれじゃないです。もうちょっとマイナーなやつ やっちゃったって思って、なんか、ああ、やっちゃったって、なんかもう、全てを、本当、1秒で、全てを悟って って思ったけどね、終わったみたいな感じだけど、ここが始まりなんだよ、ここから私は脱出しなきゃいけないんだよって思ってね、切り替えましたね。
なんか、入って、座ってみたいな感じなんですよね、その1人の人、もうドアも閉めて、ガチャみたいな感じだよね、多分ね、なんかもう、逃げられないっていう、なんかこの逃げられないって、他のポッドキャストで、他の会でやった気がするけど、もうさ、めっちゃbボタン押しても逃げられないみたいな、その状況ですよね。
そんで、でも、顔に出さないようには気を付けたんですよ。その、やべって思ってるっていうことを絶対に悟られないようにしようと思って、どうもって、この間ありがとうございましたって言って、で、これよかったな、
この品を出してさ、とりあえずもうそこで私のタスクが終わったっていう状態にして、そんで、ついたんですよ、先にね。しょうがねえから。そんで、テレビ、 テレビこれしてんですねって私から言ったんじゃなかったかな。そしたら、向こうのさ、その10人の女性が、んぞみたいな感じで言ってきたから、そこでさ、まずさ、 なんていうの、これにびっくりしたらさ、負けっていうか、なんでこんな立派なテレビ捨てんの。みたいな反応を期待されていると思ってさ、そうですよね、ちょっとテレビとかって、ちょっとくだらないですもんねって、とりあえず言ったんですよね。
こう、ジャブジャブ打ち返すみたいな。ほんで、そっから、新聞、次のテーブルの新聞について、多分その1人の人が増えて、 なんかね、うちの息子がね、こういうとこに乗ってみたいな、なんか息子さんが、結構おっきい息子さんがいらして、だから、今ちょっとこの10人の女性が何歳かみんなの中で、多分皆さんの中で私とプラスアルファぐらいで聞いてたかと思うんですけど、全然もっと上ですよ、今の私と同じぐらい、 多分ね、もう大学入ったぐらいの子さんが何か特別なことをして、その宗教新聞に載っているっていう記事を見せられて、すごいですねって言って、私がなんかそんなことしてたら、
割とすぐね、本題に入ったんですよね。現場とかじゃなくて。で、お話なんだけど、みたいな感じでさくっとね、私が決して受け取らないことにしたテキストがそこにパン出てきて、 あ、これ。って私言ったら、その10人の人はさ、なんで受け取ってくれなかったの。って言ったんですよ。あーあ、そうだったんですよね。よくわかんなくて。みたいな感じで言ってさ。
そんで、その本に、多分本を教科書みたいな感じにしてさ、始まったんですよ。その日本滅亡のシナリオがね、日本が、日本が滅亡する宗教と、日本が、
なんていうの。日本あめる宗と、日本はやばい宗教と2つあるんでしょうね、きっとね。新宗教にはね。そっちは日本がちょっとやばいっていう、やばいけど、なんか私たちとお祈りすれば、私たちだけは助かるっていう宗教だったんですよ、要は。
そんで、と思って、なんかこの話を早く終わらせるにはどうしたらいいかって私考えたんですよね。なんかよくさ、そういうのロンパしたいとかっていう人いるじゃないですか。その宗教の勧誘だったら全然ロンパするけどなみたいな 人いるけど、私はそれは危険っていうか、長引くと思うんですよね、話が。
だってこうじゃない。それ言ってること変でしょって言ったら、その宗教の理屈で、だってそれはこうだからこうだからっていう話がどんどん伸びていくだけだから、私は逆をやろうと思ったんですよね。
その相手が言うことに全て賛同して、全面賛同して、話を終わらそうと思ったんですよ。そんで、向こうのさ、女性2人が日本滅亡のシナリオをさ、話していくわけですよ。
ちょっと最近地震とか多いじゃない。で、この地震がだんだん多くなっていって、地震が来るって言ったら、そう、そうですね、科学者もそう言ってますみたいな。私も地震研究者が、なんか何パーセントの確率で地震が起こってて、見ましたって言って、
次にロシアが、ロシアと中国が一気に攻めてくるや、政治は本当なんでもありえます、どんなことでもあり得ます、そういうこともあるかもしれません、うん、戦争が起こり得ることは否定できませんみたいな感じで、もう全部さ、 全部むしろ補強するみたいな感じで相手の言うことを補強してあげたんですよ。もう科学的に、政治学的に全て正しいですみたいな感じで言ってたら、その人たちのシナリオがさ、10分で終わっちゃったんですよね。
10分で2本目まで行ったんですよ。そんで、で、そのおばさんたち、おばさんたちってその目線で、私が今おばさんですけど、若い私から見たらさ、おばさん2人がさ、じゃあ一緒に、私たちと一緒にお祝いしましょう。
両側から言ってきたんですよね。ほんで、最後に、あ、しません、あ、すいませんってお願いしませんって言ったら、どうしてよって結構強い口調で言われて、困っちゃいましたよね。
どうしてよって言われてもさ、うしてよって言われても、私は金を取られたくないからだよっていう、その一言なんですよね。そんで、でもと思って、
この人たちも、若者の私がさ、本当にすごいお金を出すとは今思ってないと思うんですよね。思ったんですよね。
なんかすぐにお金を払える人間じゃないし、何を求めてるのかなって、それを出せないっていうことにしたらいいんじゃないかなと思って。宗教の人が求めてるものって、お金以外なんなんだろうって思って。そん時、私、 なんか政治の表かなって思ったんですよね。ひょね。いろんな宗教で、やっぱり欲しいものだからさ、表が出せねえってことにしたらいいじゃないかなと思って。なんか自分のせいじゃないけど、もうしょうがない事情で表が出せないってことにしようと思って。
適当にさ、適当に、なんかちょっとちょっと、うち、お父が民主党の議員で、みたいな、ちょっとちょっと表が出せないんですよねって言ったら、そう、めちゃめちゃ怒り始めて、それ、それ、なんかいらなかったらしいんですよね、なんか、それはなんか侮辱だと思ったみたいで、すごい怒り始めて、 なんか知んないけど、お、そのおじもあなたも最低よ。って、すごいその40歳ぐらいのおばさんにマジで怒鳴られてさ、 架空の、架空のおじさんまでのしられてさいませんよ、私に。民主議員のおじさんね、おじさんは職業年功の先生だったと思います���その時、多分。そんで、めちゃめちゃ怒鳴られて
ね、でも、もう話はそこでおかしちゃったと思ったけど、 その、私が参加しないってことはもう決まってるから、じゃあこれで失礼しますって言って、もうもう、失礼します、ニコニコ、失礼しますみたいな感じで、こう、後ろに下がっていってさ、ドアをされてはさすがになかったから、そしたらもうそこでさ、おばさんたち2人はさ、 あら、バチだよ。パチただよ。って、すごいに叫んでんですよ。すごいおばさん2人に、捨てたよ、バチが当たるわよって叫ばれてさ。でも、
私はやっぱその、客観的にさ、その23歳のさ、子供みたいな、子供に毛が生えたようなさ、こんな若者にさ、 40歳過ぎて、多分過ぎてると思うんですけどね、パガって捨ておで叫ぶっていうのは、なんていうのかね、 それまでにやっぱすごく色んなことがあったんだろうなと思って、本当失礼します。外側がドアをガチャって閉めて、ちょっと手にバーって走って、
前も家に帰るしかなくて、家に多分帰ったんですよね。全然そこ安全地帯じゃないんだけど、その上すぐ上でね、真上じゃないけど、上の階なんですけど、これかと思って よく脱出した。すごい。自分で自分を褒めたい出来事ナンバーワンぐらいですよね、人生で。なんかそっからさ、10分ちょっとで生還しただけで、めっちゃ自分を褒めたい。
でも結局同じアパートに住んでるわけじゃないですか。その人ね、なんかもう正直追っかけてきたらどうしようぐらいの感じだったけど、追っかけてくるってことはなかったですね。その日のうちにね。で、その後もなんかこう、激しい目にあったりとかはせず
ね。今思えば、でもそこにさ、意地張ってすまないで、結構引っ越してもいいぐらいのことだったかなと思うんですけど。
あとさ、私が怖かったのは、なんかそういう勧誘を大家さんが許してるかもしんないっていう可能性がすごい怖かったんですよね。つまり、大家さんも同じ宗教なんじゃないかっていうのが 怖くて。なんかね、一体どうなっちゃうんだろうって思ってたんですけど、結果的にはどうも違ったみたいですね。
なんか、だから、大家さんにこんなことがあったって報告をあげてもよかったんですけど、それは後から知ったことで。その時はなんかチクったら、逆にさ、逆になんで信じないんだ。みたいな風に大家さんが変わったら怖いと思って。別にさ、大家さん、その、一緒に住んでる以外に、そん時家賃が手渡しで、毎月定期的に会ってる人だったから、 なんかね、敵に回したくなかったですよね。そのまま穏便に進もう、できる限り穏便に住み続けようと思って
住んで、会いますよ。廊下でその人とゴミ捨てとかに行くとさ、なんか行って上がる時に階段でさ、向こうもゴミ捨てに行こうとしてんのとすれ違ったりとかさ。して、あって思うと、なるべく自分からおはようございますって言って、向こうも伝えて、おは、おはようだいこれまで行ってさ、私だって認識するときすごい睨んでくる。
でもでも、もうこっちはニコニコしたままこうやって通りすぎて、そこまでして住んで、結局向こうが先に出てったんですよ。それは多分事情でその春が来て出てったから、
その向こうは向こうの社会生活によって転居しただけだと思うんですけど、なんかその時に買った。って思いましたね。でもさ、そんなことはしなくてよかった。なんか意地の張り合いみたいにさ、こう、そこに住み続けちゃったけど、 やっぱ安全を考慮したら、その後引っ越してもよかったなっていう風に思いますね。なんか住んで3か月ぐらいのことか。3か月で、やっぱ出たくないって思っちゃって、残っちゃったけど、 うん、今だったらね、出るかな。出費もね、ありますけど、そんぐらいは安全のために払ってもいいかなって思います。
でも、それが人生で最大の差。やっぱりその勧誘され体験で、その後は大きいことはなかったですね。なかなかのものだった。
今、やっぱりそのおばさんと思った人たちとさ、同い年ぐらいになってみて、やっぱり色々あった人たちなんだろうなっていうことは思いますね。
なんか、私は、やっぱ23歳の子、そういう風に詰めるっていうのは考えられないし、うん、でも、それを察しちゃうぐらい、やっぱり追い込まれてる。
その、経済的にも、 あと、なんだろう、そ、ノルマ的にも、なんか、人を入れなきゃいけない風に上から言われているんだろうっていうことも、こう思いましたね。そのお家のさ、家賃とか間取りも、同じアパートだからわかるわけじゃないですか。
なんか、その部屋に息子さんと暮らしてるっていう時点で、息子は同居してるっていう状態だっていうことが、なんか話かわかったんです。そこにね、旦那さんはいないであろうっていうこともわかるんですよね。
母子家庭で頑張って、そうやって子供を育ててるんだなっていうことも。だから、そういう苦労をしてさ、 なんでしょうね、なんかすごい急に、すごい寂しい気持ちになってきた。なんだろうね、なんかそこまでになった生活っていうのもね、私には全部しよしもないし、想像しきることもできないけど、本当に苦労された人なんだろうなっていうことは思いますね。
昔はそういう宗教にさ、系統して、その人を強引に入れるまでになるっていうのが人事というか、そもそも宗教に入ってる時点で、私は本当にドケチだからさ、そのお金の、お金を取られるっていうことが、もう、
なんていうの、自分が得るものの大会になって、ない場合、ない場合がすごい許せない人間だから、それは本当にないなって思ったし、 その人たちのことも、なんかその事情はなんとなくあるなってのは分かったけど、なんでそんなことしちゃうのかなっていう気持ちの方が大きかったけど、なんか年とって思うのはね、それこそ、その、40になって思うのはね、本当、さっき言ったように、23歳の子、自分が冷めないって思うけども、でもさ、なんか、 うん、宗教にね、なんか、すごい決定的なことがあったら、入っちゃうかもしれないなっていうことですね、決定的なことっていうのは、うん、私の中では、
事件とか、事故とかで、今の家族を失うとか、 なんか、そういうのさ、想像しなくはないじゃないですか。生きてて、そういうことがあったら、怖いなって思うじゃないですか、なんか、でも、そういう時にさ、なんていうの、 その、遺族の会とかに行って、なんとかなるかもしれないって、そのねじょう、なんていうのかな、この私たちが生きてるこの社会の中で、なんとかなるかもしんないなっていう気持ちがある反面さ、そんな遺族会って、いつも24時間365日誰かが対応してくれるわけじゃないし、
でも、なんか宗教だけはさ、宗教だけは、夜中になってやっても、なんか許してくれそうっていうか、金のためだったら許してくれそうと思うんですよね。なんか本当にさ、おかしくなるようなダメージを受けて、もう本当にいてもたってもいられない、なんか本当にマジで生きてれないって、 頭おかしくなりそうって思った時に、なんかこ、1人でいるんじゃなくてさ、そう、誰かの そういうところをどんどんどんどんってやるのは、私はね、手っ取りバイク宗教を選んじゃうかもしれないなって思います。正直、なんか対価はでかいけどね。一体総額どれぐらい取られるのか。できればあんまり取れないとこにしたいな。
お寺とかでさ、話聞いてくれるんですかね。どうなんですかね。普通のさわれる仏教みたいな感じだと、そんなにガバガバとんないなっていう印象はあるけど、なんかそれもさ、なんか予約してとかじゃなくてさ、 今すぐなんとかしてくれって言って、そのまま3年ぐらい、そこで泣きじゃくって暴れるみたいなことを正直したいと思うから。本当、そんぐらいさ、家族を急に失うっていうことを想像すると、変え難いから、マジで、なんか、その場合だけはね、正直、やっちゃうかもしれないですね。
そんな、なんか、聞いてる人が不安になるかもしれない終わりで申し訳ないんですけど、そんな感じです。でも、その場合も、やっぱね、さっき言ったように、なんか勧誘でアンフェアにはなんないようにしたいなっていう風に、なるべくね、そうやって、なんか話があるんだけどみたいな感じで人を呼ぶんじゃなくて、 なんか自分の姿勢もうちょっと待って。やばい。やめてからこの話。もう勧誘しようとしてると思って。やばいやばい。なんかやばくないんですけど。やばくないんですけどね。
ね。そんな感じで今日はこのままね。お便りをいただいてないので、シームレスに曲紹介コーナーに行きたいと思います。いつもこの番組では曲紹介コーナーっていうのを最後にやってて、 spotifymusicplusトーク機能っていうのを利用して、番組のに1曲つけてるんですね。なのです。spotifyで聞いてる方は番組の最後に曲が流れるっていう風になってます。なんですけど、そうじゃない方も曲紹介までお付き合いいただけましたら幸いです。っていう感じなんですけど。
今日ご紹介したいのは、悩みましたけど、ゆずでいつかっていう曲ですね。
ゆタイはないですよ。その、キタガワさんのね、ご実家がね、融通が成功した後、宗教を開いたっていう、そっからじゃないですよ。別にそれにかこつけている わけではないですね。もしかしたら、ちょびっとね、連想しちゃったかもしれないけどね、気にっていうとかね、その状態をなんかネタにしようとか、そういう感じでは。そういうスタンスがないので、そこはね、ゆずファンの皆さんご理解ください。あ、いつかっていう曲があるんですよね。
調べると99年1月発売の曲で、その夏色でブレイクしたのが97年の夏ですよね。そっか、そんなに経ってない。
だからね、割とフレッシュなこのゆずのリリース、シングルリリース曲だし、あとあれですね、調べてみると路上時代からあった曲みたいなんですよね。だからね、本当、それこそ、それこそ、その北川さんのうちのことは99年ぐらいに始まったことだって調べたら書いてたから、本当に一切関係ないですね。
そんで、このいつかっていう曲を、なんかこの辺からちょっとの間、シングル曲並べてみても、ファンじゃない人は知らないかなっていう、知らないとまでは言わないけど、なんか聞いてサビを思い出せるかどうかぐらいかなっていう。
やっぱこう、ファンじゃないものにとってはさ、夏色がやっぱその世代的にはね、私その時高1ですけども、夏色の時、あれはもうめっちゃ好きで、めっちゃはまって、もう友達にもなんかゆずっていう人たちを、夏色めっちゃいいよと思って進めて、もう視聴期の前で進めてみたいな、そんぐらいの感じで ね。今でも私は坂道をね、坂を、急な坂道を、ブレーキをいっぱいかけてママチャリでに下る時に必ず柚の夏色頭の中で流してるぐらいなのことが大好きなんだけど、このいつかもね、私の中でちょっと心に残っる曲なんですよね。心に残ってるっていうのと違うか、なんか引っかかってるぐらいの曲なんですよ。
そう、なんか引っかかってる理由っていうのが、なんかその当時、高2から高3ぐらいのことですよね。
なんか心理テスト誰かが持ってきたんですよ。多分部活の時かな。部活か保健室かどっちかで。誰かが持ってきた心理テストで、多分同年代の方みんな知ってると思うんですけど、1から11まで数字を書いて、その横になんかこう、色々指示されるままに、人の名前とか曲名とか書いてくっていうね。いかにも
私たち、このj-popにさ、脳髄までこう浸された人たちが考えた、うちは受けしそうな、考えたら上の世代の人かもしれないけど、うちらに受けそうなさ、心理テストがあって、それで、なんかこう、好きな人に捧げる曲みたいなのが結果として出るんですけど、それが私、このゆずのいかだったんですよね。
なんか曲に何にも思い入れないんですけど、なんか最近聞いたなっていうの、ふっと浮かんでね、思い浮かんだ曲を書いてくださいみたいな心理テストだからさすって書いたんですけど、なんかすごい。
もう1回どっかの機会で、ラジオとかでかな、改めて聞いてみたらさ、その時ネットないですからね、99年ね、曲をネットで聞いたりはできない。聞いたら、すごい。なんかこう、めっちゃさ、 なんか本当どうしようもない時はね、僕のとこに来てね、もう絶対僕を呼んでね、絶対に駆けつけてあげるからっていうさ、曲なんですよね。
それが、捧げる曲って重いなって思って、我ながら、なんかそのままずっと、たまに聞きたくなんですよ。なんか、その心理テストがきっかけなんではなくて、その心理テストがなかったとしても、私の中で多分ずっとちょっと引っかかって、たまに聞きたくなる曲だったと思うんですけどね、なんか
すごい歌詞なんですよね。なんか本当にさ、何年経っても、何年経ってもって表現ではないけど、いつだってね、どんな先だって絶対に君が困ったら助けに行くよっていう曲でね。ゆずはなんでそんなことを 歌ったんだろうって。その、ファンじゃない自分としてはさ、なんか、なんだろう、でも、ラブソング。ただのラブソングなのかな。なんか、ファンへの曲なのか、ラブソングなのか、一体なんなのか全然わかってないんですけど、 なんか今改めて聞いてみて、やっぱりこの宗教っていうのを、ちょっと演奏する自分がさ、本当に、さっきの話とか繋がるんですけど、めっちゃ困って、本当に困ったらさ、やっぱ
私は友達とか、なんか兄弟とか、そういうとこに全力で寄りかかれるかって言ったら、寄りかかれないと思うんですよね。なんか本当にさ、本当に困った時、頼れるのって、 なんか逆に、支払う対象が大きいもののみだっていう、すごい高い買い物をその時するしかないのだみたいな気持ちがありますね。そのカウンセリングとかよりはるかに高いさ、その 補正を未来的には払うことになる新興宗教みたいなとこに行くしかないんかなって。なんかすごいまたみんな心配になるようなこと言っちゃった。何も怒んないから。多分私、そういう人生じゃないと思いますよ。何もこんなきゃね。
うん。でもなんかさ、そういうあまりにも悲惨なことがあったら、ちょっとわからないって思うんですよね。その知ってる人とかに頼んないで、行政にも頼らないで、そういうとこに行っちゃうんだろうなって。
だってさ、もう何より優先して絶対に受け止めてほしいもん。1回。その、赤の他人なのに。めちゃめちゃさ。カウンセリングとかはやっぱ今お世話になってるけど、1時間で終わりだから、 その1時間でガラガラ。そういう切り方、私が軽くとかしないんですけど、もうちょっと緩くて、話が切りとこまで待ってくれるんですけど、でも、1時間30分とかが限度じゃないですか。ガラガラガラじゃないですか。
やっぱそういうとこなくてさ、本当に悲惨な目にあったら、もう本当にさ、その人の前で地面に頭を打ち付けて口が回りたいですからね。
あのね、私は何を主張しているんだとか、なんかゆずの曲を聞きながら、そんなこと、そんな何も考えてないと思うんですけど、なんかこのいつかっていう曲を聞くとね、 ユーザーさんの人はゆに頼ろうと思うのかな。ユーファンじゃないから新興宗教に通うとしてしまうのかな。まあ、な感じでございます。いろんな人生があるよ。もっと
そこに行ったった人たちにもさ、そういう勧誘。その最初の話に戻れば、マルチの勧誘から勧誘動画、勧誘ポ密動画からこの話始まってるわけなんですけど、 そのマルチを完全なさ、その勧誘してる人を悪として探していたけど、なんていうのかな、コメント欄にやっぱりその人も被害者なんだよっていう意見があってさ、youtubeにしてすごい建設的ですよね。建設的なコメント欄になってて、半分くらいはそういうさ、結構冷静な意見で
ね。その人たちも被害にあって、自分がそのお金を稼がなきゃ、稼ぐっていうか、お金を稼ぐっていうのと違いますよね。その人からお金をむしりとるですよね。言い方。あえて悪い言い方をするなら、そうしなければならない立場になってしまったんだと思うんですよね。
ね。そして、だから、本当に幸せになってんのが1番さ、上の人たちだけっていうね。あいちゅちゅちゅ、なめてる人がいいんですよ、どっかにね。
なんかだいぶ曲と違うことを話しちゃった気がしますけどもねえ。じゃあこの後曲が流れますが、私とはここでお分かりになります。今回のね、すごい微妙な話を聞いてくださった皆さん、ありがとうございました。なんか本当、心配しないでください。その、本当ね、事件事故に巻き込まれない限りは、私は多分大丈夫です。多分じゃない。多分じゃないよ。絶対大丈夫なんで、 よろしくお願いします。心配しないでください。
ちょっと最後になっちゃったんですけど、いつもは別のとこでやってるこ、あれですね、お便り募集のあれです。この番組ではお便り皆さんからのご意見、ご感想お待ちしております。今のところマシュマロという匿名サービスで募集しているので、そのリンクを概要欄に貼っておきますので、 ぜひぜひこんな話してほしい。こんなこと聞きたい。みたいなご要望、質問など。それからもちろん番組のご感想ありましたらお寄せください。
心配のメッセージはいらないですよ。大丈夫ですよ。じゃあ、随分長くなりましたけど、皆さん今週も体にお気を付けてね。ほどほどに頑張っていきましょう。いじゃあ聞いてください。ゆずでいつか。
clovanote.line.me
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