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【〈千年村〉研究ゼミ】 前期活動報告⑹〜韓国調査篇
初めまして、中谷研究室学部4年の碓氷です!
韓国千年村調査4日目(8月24日)
の動向をお知らせいたします、よろしくお願いします!
―――――――――――――――――――――――――――――――
7時半に起床したとき部屋はすでに明るく、早朝に新しく印刷した集落調査資料の補足版を、先輩方がホッチキスで留めている最中でした。
あわただしい朝。
すぐにチェックアウトを済ませられるようにスーツケースを持って、少し遅れて朝食に向かうと、ビュッフェ会場は多くの人でにぎわっていました。
スクランブルエッグ、 プルコギ、 キムチ …etc. 韓国のコーンフレークはやけにカラフル 中谷先生に、「朝は沢山飲みものをおなかに入れた方がいい」と言われたので、水とオレンジジュースとコーヒーとスープを飲むことにしました。飲みすぎて苦しい…。
今日も盛りだくさんな一日です。スケジュールは以下の通りです!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<8月24日のスケジュール>
9:30 扶蘇山城の見学 10:30 定林寺址の見学 11:00 嘉林郡集落の調査(郷校、官衙のある部分) 12:00 昼食は焼き魚とチヂミ、お肉の定食! 13:30 嘉林郡集落の調査(微高地集落のある部分) 15:00 弥勒寺および弥勒寺博物館の見学
~バス移動および地下鉄移動~
20:00 ホテルに到着 チェックイン! 21:00 夕食にサムギョプサルを食べました!(^^)! 0:00 明日に向けての作業 1:30 入浴、就寝
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
9:30 扶蘇山城― 8時半にはバスに乗車し、扶蘇山へと向かいました。扶蘇山は昔々百済の都であった扶餘郡に位置する山城で、
大河と山に囲まれた背山臨水の地形を一望できる最高の景観
を持っています。展望台は、赤く塗られた柱と緑に彩られた梁や垂木の色鮮やかな建物です(図1)。
図1.扶餘山城の色鮮やかな展望台(撮影:2024/08/24 碓井颯)
梯子を昇り扶餘を俯瞰すると、霞がかった空気の中で錦江がゆったりと右手側に流れています。遠くには山々、近くには多くの建造物によって奥行きが生まれています(図2)。
図2.扶餘山城の展望台からの眺め(撮影:2024/08/24 碓井颯)
千年村の集落調査では、山間部や都心から離れた僻地を巡るイメージを持ってしまうことが多いですが、
都市もまた集落のように住みやすい処に展開されるのだな~と
ここに住もうと決める集落住民と景観の美的・合理的豊かさから都を決定する王の心境は本質的に同じだったのではないか。
今昔一貫する地理的条件を感受する普遍的な人類の立場に立てた気がして少し嬉しかったです!
扶餘山城址には同時に竪穴式住居の遺跡も残っており、資料館も見学することができました。日本の竪穴式住居より堀が深く、大きな柱径が特徴です(図3)。
図3.韓国の竪穴式住居(撮影:2024/08/24 碓氷創平)
山城見学に同行していただいた富井先生にこの理由を解説していただいたところによると、
寒さが厳しい韓国ならではの土を利用した断熱機構
であるようで、空気中に熱が逃げることを防ぐため、内部空間をなるべく土に触れるように工夫したものだと言います。韓国住宅によく見られるオンドルは、当初かまどから発生する熱を利用した暖房器具であり、その端緒は竪穴式住居にも見られるようです。
10:30 定林寺址― バスで少し移動し10時半頃、定林寺址に到着しました。滞在時間が短く急がなければいけないということで、
「全体重をかけて」
見学すべく駐車場からスマホだけを持って足早に(図4)。
図4.定林寺の石塔(撮影:2024/08/24 碓氷創平)
中谷先生から定林寺と法隆寺の比較についてお話を伺いました。そもそも定林寺は百済の聖王が仏教熱心であった所以完成した寺院であり、
その影響は飛鳥時代の日本に多く及んでいるのですが、
大きく異なるのはその伽藍配置です。
講堂を含む回廊によって、金堂と塔が一直線に貫かれている定林寺に対し、法隆寺では講堂を離し金堂と塔を並列しています。
この故が敷地の広さや環境に起因するものなのか、国ごとの考え方の違いによるかは難しいところですが、類似点と相違点という観点から比較できたのは良いことです…(図5-9)
図5.定林寺の平面図(出典:「韓国の建築」,金奉烈著, 学芸出版社, 111ページ)
図6.法隆寺の平面図(出典:同朋舎出版刊文化庁文化財保護研究会監修「図説 日本の史跡 第五巻」)
図7,8,9.定林寺の様子(撮影:2024/08/24 口石直道)
11:00 嘉林郡集落の調査― 昼からは、昼食をはさんで前後で嘉林郡と呼ばれる集落を巡りました。今回、調査班では二か所をピックアップしてめぐることにしました。
図10.嘉林郡の官衙の入り口を示す門(撮影:2024/08/24 安藤優花)
前半に訪問した場所は、
大きな郷校(科挙を受ける人々が通う学校)を持つ昔からの集落の中心地
と考えられます。郷校の存在を示す門を潜��抜けて集落に入っていき��す(図10)。山の麓に位置する郷校付近では、細い路地を挟んで立派な邸宅が並んでいました。色鮮やかに葺かれた赤青の屋根スレートをあちらこちら横目に、ぐるぐると歩き回りました(図11)。
河川付近にも川を覆うようにスラブが敷かれ、RC造の住宅地が展開されていました。
川に臨むところには東屋が置かれ、なんとも快適で落ち着く場所でした~ 日本の夏にも似ていますが、やはり大きな違いは散見されるハングルです…!
図11.嘉林郡のくねくね道(撮影:2024/08/24 碓氷創平)
後半は
広大な田んぼに囲まれた微高地集落です。
微高地(?)となるほどに丘は大きく盛り上がっていて、大小さまざまな住宅が余裕をもって配置されていました。
米もたくさん採れるから豊かな場所なんだろうと思いました。
上っていくと視界が開けました。
丘の頂上付近には、大きな樹が!
木の麓には椅子や無料で使える健康器具などが置かれ、集落民の憩いの場所となっているようです(図12)。この集落は錦江に囲まれてもいるのですが、錦江の堤防付近にも同様の樹と東屋があり、くつろいでいるおじいさん達に地域のお話を伺うことも出来ました。韓国の集落には気持ちの良いコミュニティスペースが集落単位でいくつも点在していて良いです!
図12.嘉林郡の大樹(撮影:2024/08/24 碓氷創平)
12:00 弥勒寺― 最後は弥勒寺を見学しました。弥勒寺では3つの回廊のセットが一つにまとめられた建物配置を持っています。それぞれの回廊が一つずつ、計三つの塔を持ち、中央の木造の塔を二つの石塔が挟んでいるのですが(図6)、現在では復元された石塔しか残っていません。二つの石塔に挟まれた弥勒山がその象徴性を増していますね!
大きく開けた平原に白光する二つの塔が映え、
日差しがジリジリと照りつける中で白・緑・青の三色が鮮やかに焼き付きました
(図13-15)。
図13.弥勒寺石塔跡(撮影:2024/08/24 小谷さくら)
図14,15.弥勒寺石塔跡(撮影:2024/08/24 安藤優花、小谷さくら)
弥勒寺見学後は付属の博物館を見学しキラキラした装飾品や生活陶磁器などを見ました。当時の王族や人々の生活の様子について、説明を聞きながら思いを馳せました。一つの考古学品の発見が様々な文脈で意味を持ち、歴史的な発見がダイナミックに展開していく様を感じることが出来ました。
16:00 帰りのバス― その後ソウルへ向けて再びバスに乗車し、3時間ほど車窓を眺めました。
韓国は右車線通行のため、追い越し車線は向かって左側です。
もう少しで市街につくというとき、
真っ赤になった日が沈むところでした
(図16)
教会やモスクなどの多種多様な建物のシルエットが逆行で暗んで、
ノスタルジックなソウルに車内一同盛り上がっておりました。
図16.ソウルの夕焼け(撮影:2024/08/24 碓氷創平)
地下鉄を乗り継いでホテルに着くころ、すっかりあたりは暗くなっていましたが、宿泊先は夜中まで明るくにぎやかな場所でした。ホテル近くのサムギョプサルの店で夕食を堪能し、一日を終えました。
以上が調査4日目(8月24日)の動きでした!いかがでしたでしょうか…?
明日は調査をまとめるポスターセッションを行います
25日の日記も乞うご期待!!
読んでいただきありがとうございました!!
#sennen#nakasemi
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人氣與名氣
H:有人氣,不見得有名氣。有名氣可能在某專業領域,並不代表有人氣。有人氣只要上網查有幾筆資料,但有名氣則可在維基百科找到。人氣可能一時,名氣卻永久。作家未在國小及中學國文課本出現,名氣略減,但不影響暢銷作家的人氣。20240818W7
網路字典
人氣
釋 義
人的氣息。 例辦公室裡人氣旺,連植物也長得生氣蓬勃。
人或事物受歡迎的程度。 例珍珠奶茶廣受國內外人士喜愛 ,是超人氣的美食。
名氣
聲譽。《老殘遊記》第七回:「這兩省練武的人,無不知他的名氣。」也作「名聲」、「名譽」。
出處與詳解
1、《老殘遊記》第七回:“這兩省練武功的人,無不知他的名氣。”
2、《中國現在記》第一回:“﹝ 胡都 老爺﹞在舊學黨中很有點名氣。”[1]
3、郁達夫 《採石磯》:“如今世上盲人多……看不出究竟誰清誰濁,只信名氣大的人,是好的,不錯的。”
維基文庫
自述詩十八首
作者:郁達夫
姊妹计划: 数据项
江湖流落廿三年,紅淚頻揩述此篇。刪盡定公哀艷句,儂詩粉本出青蓮。
前身縱不是如來,謫下紅塵也可哀。風雪四山花落夜,竇家叢桂一枝開。
王筠昆仲皆良璞,久矣名揚浙水濱。生到蘇家難為弟,排來行次第三人。
家在嚴陵灘下住,秦時風物晉山川。碧桃三月花如錦,來往春江有釣船。
人言先父喪亡日,小子膏肓疾正深。猶憶青燈秋雨夜,虛堂含淚看兄吟。
九歲題壁四座驚,阿連少小便聰明。誰知早慧終非福,碌碌瑚璉器不成。
十三問字子雲居,初讀瑯嬛異域書。功業他年差可想,荒村終老注蟲魚。
左家嬌女字蓮仙,累我閒情賦百篇。三月富春城下路,楊花如雪雪如煙。
一失足成千古恨,昔人詩句意何深。廣平自賦梅花後,碧海青天夜夜心。
二女明妝不可求,紅兒體態也風流。杏花又逐東風嫁,添我情懷���斛愁。
幾度滄江逐逝波,風雲奇氣半消磨。揚州夢醒無聊甚,剩有旗亭學醉歌。
吾生十五無他嗜,只愛蘭台令史書。忽遇江南吳祭酒,梅花雪裡學詩初。
兒時曾作杭州夢,初到杭州似夢中。笑把金樽邀落日,綠楊城郭正春風。
欲把杭州作汴京,湖山清處遍題名。誰知西子樓台窄,三宿匆匆出鳳城。
鴛湖舊憶梅村曲,鶯粟人傳太史歌。日暮落帆亭下立,吳王城郭趙家河。
離家少小誰曾慣,一發青山喚不應。昨夜夢中逢母別,可憐枕上有紅冰。
鼙鼓荊襄動地來,橫流到處劫飛灰。秣陵圍解君臣散,予亦蒼茫過馬嵬。
蒼茫又過七年期,客舍棲棲五處移。來歲桑乾仍欲渡,別離應更有新詩。
維基文庫
採石磯 (郁達夫)
採石磯 (郁達夫)
作者:郁達夫
“文章憎命達,魑魅喜人過。”
——杜 甫
编辑
自小就神經過敏的黃仲則,到了二十三歲的現在,也改不過他的孤傲多疑的性質來。他本來是一個負氣殉情的人,每逢興致激發的時候,不論講得講不得的話,都漲紅了臉,放大了喉嚨,抑留不住的直講出來。聽話的人,若對他的話有些反抗,或是在笑容上,或是在眼光上,表示一些不贊成他的意思的時候,他便要拚命的辯駁;講到後來他那雙黑晶晶的眼睛老會張得很大,好像會有火星飛出來的樣子。這時候若有人出來說幾句迎合他的話,那他必喜歡得要奮身高跳,他那雙黑而且大的眼睛裡也必有兩泓清水湧漾出來,再進一步,他的清瘦的頰上就會有感激的眼淚流下來了。
像這樣的發洩一回之後,他總有三四天守著沉默,無論何人對他說話,他總是噤口不作回答的。在這沉默期間內,他也有一個人關上了房門,在那學使衙門東北邊的壽春園西室裡兀坐的時候;也有青了臉,一個人上清源門外的深雲館懷古台去獨步的時候;也有跑到南門外姑熟溪邊上的一家小酒館去痛飲的時候。不過在這期間內��對人雖不說話,對自家卻總一個人老在幽幽的好像講論什麼似的。他一個人,在這中間,無論上什麼地方去,有時或輕輕的吟誦著詩或文句,有時或對自家嘻笑嘻笑,有時或望著了天空而作嘆惜,竟似忙得不得開交的樣子。但是一見著人,他那雙呆呆的大眼,舉起來看你一眼,他臉上的表情就會變得同毫無感覺的木偶一樣,人在這時候遇著他,總沒有一個不被他駭退的。
學使朱笥河,雖則非常愛惜他,但因為事務煩忙的緣故,所以當他沉默幽鬱的時候,也不能來為他解悶。當這時候,學使左右上下四五十人中間,敢接近他,進到他房裡去與他談幾句話的,只有一個他的同鄉洪稚存。與他自小同學,又是同鄉的洪稚存,很瞭解他的性格。見他與人論辯,憤激得不堪的時候,每肯出來為他說這句話,所以他對稚存比自家的弟兄還要敬愛。稚存知道他的脾氣,當他沉默起頭的一兩天,故意的不去近他的身。有時偶然同他在出入的要路上遇著的時候,稚存也只裝成一副幽鬱的樣子,不過默默的對他點一點頭就過去了。待他沉默過了一兩天,暗地裡看他好像有幾首詩做好,或者看他好像已經在市上酒肆裡醉過了一次,或在城外孤冷的山林間痛哭了一場之後,稚存或在半夜或在清晨,方敢慢慢的走到他的房裡去,與他爭誦些《離騷》或批評些韓昌黎李太白的雜詩,他的沉默之戒也就能因此而破了。
學使衙門裡的同事們,背後雖在叫他作黃瘋子,但當他的面,卻個個怕他得很。一則因為他是學使朱公最鍾愛的上客,二則也因為他習氣太深,批評人家的文字,不顧人下得起下不起,只曉得順了自家的性格,直言亂罵的緣故。
他跟提督學政朱笥河公到太平,也有大半年了,但是除了洪稚存朱公二人而外,竟沒有一個第三個人能同他講得上半個鐘頭的話。凡與他見過一面的人,能瞭解他的,只說他恃才傲物,不可訂交;不能瞭解他的,簡直說他一點兒學問也沒有,只仗著了朱公的威勢愛發脾氣。他的聲譽和朋友,一年一年的少了下去,他的自小就有的憂鬱症,反一年一年的深起來了。
二
编辑
乾隆三十六年的秋也深了。長江南岸的太平府城裡,已吹到了涼冷的北風,學使衙門西面園裡的楊柳梧桐榆樹等雜樹,都帶起鵝黃的淡色來。園角上荒草叢中,在秋月皎潔的晚上,淒淒唧唧的候蟲的鳴聲,也覺得漸漸的幽下去了。
昨天晚上,因為月亮好得很,仲則竟犯了風露,在園裡看了一晚的月亮。在疏疏密密的樹影下走來走去的走著,看看地上同嚴霜似的月光,他忽然感觸舊情,想到了他少年時候的一次悲慘的愛情上去。
“唉唉!但願你能享受你家庭內的和樂!”
這樣的歎了一聲,遠遠的向東天一望,他的眼前,忽然現出了一個十六歲的伶俐的少女來。那時候仲則正在宜興氿裡讀書,他同學的陳某龔某都比他有錢,但那少女的一雙水盈盈的眼光,卻只注視在瘦弱的他的身上。他過年的時候因為要回常州,將別的那一天,又到她家裡去看她,不曉是什麼緣故,這一天她只是對他暗泣而不多說話。同她癡坐了半個鐘頭,他已經走到門外了,她又叫他回去,把一條當時流行的淡黃綢的汗巾送給了他。這一回當臨去的時候,卻是他要哭了,兩人又擁抱著痛哭了一場,把他的眼淚,都揩擦在那條汗巾的上面。一直到航船要開的將晚時候,他才把那條汗巾收藏起來,同她別去。這一回別後,他和她就再沒有談話的機會了。他第二回重到宜興的時候,他的少年的悲哀,只成了幾首律詩,流露在抄書的紙上:
大道青樓望不遮,年時系馬醉流霞。
風前帶是同心結,杯底人如解語花。
下杜城邊南北路,上闌門外去來車。
匆匆覺得揚州夢,檢點閒愁在鬢華。
喚起窗前尚宿醒,啼鵑催去又聲聲。
丹青舊誓相如劄,禪榻經時杜牧情。
別後相思空一水,重來回首已三生。
雲階月地依然在,細逐空香百遍行。
遮莫臨行念我頻,竹枝留涴淚痕新。
多緣刺史無堅約,豈視蕭郎作路人。
望裡彩雲疑冉冉,愁邊春水故粼粼。
珊瑚百尺珠千斛,難換羅敷未嫁身。
從此音塵各悄然,春山如黛草如煙。
淚添吳苑三更雨,恨惹郵亭一夜眠。
詎有青鳥緘別句,聊將錦瑟記流年。
他時脫便微之過,百轉千回只自憐。
後三年,他在揚州城裡看城隍會,看見一個少婦,同一年約三十左右、狀似富商的男人在街上緩步。她的容貌絕似那宜興的少女,他晚上回到了江邊的客寓裡,又做成了四首感舊的雜詩。
風亭月榭記綢繆,夢裡聽歌醉裡愁。
牽袂幾曾終絮語,掩關從此入離憂。
明燈錦幄珊珊骨,細馬春山剪剪眸。
最憶頻行尚回首,此心如水只東流。
而今潘鬢漸成絲,記否羊車並載時。
挾彈何心驚共命,撫柯底苦破交枝。
如馨風柳傷思曼,別樣煙花惱牧之。
莫把鶤弦彈昔昔,經秋憔悴為相思。
柘舞平康舊擅名,獨將青眼到書生。
輕移錦被添晨臥,細酌金卮遣旅情。
���日雙魚寄公子,當時一曲怨東平。
越王祠外花初放,更共何人緩緩行。
非關惜別為憐才,幾度紅箋手自裁。
湖海有心隨穎士,風情近日逼方回。
多時掩幔留香住,依舊窺人有燕來。
自古同心終不解,羅浮塚樹至今哀。
他想想現在的心境,與當時一比,覺得七年前的他,正同陽春暖日下的香草一樣,轟轟烈烈,剛在發育。因為當時他新中秀才,眼前尚有無窮的希望,在那裡等他。
“到如今還是依人碌碌!”
一想到現在的這身世,他就不知不覺的悲傷起來了。這時候忽有一陣涼冷的西風,吹到了園裡。月光裡的樹影索索落落的顫動了一下,他也打了一個冷痙,不曉得是什麼緣故,覺得毛細管都竦豎了起來。
“似此星辰非昨夜,為誰風露立中宵?——”
於是他就稍微放大了聲音把這兩句詩吟了一遍,又走來走去的走了幾步,一則原想借此以壯壯自家的膽,二則他也想把今夜所得的這兩句詩,湊成一首全詩。但是他的心思,亂得同水淹的蟻巢一樣,想來想去怎麼也湊不成上下的句子。園外的圍牆弄裡,打更的聲音和燈籠的影子過去之後,月光更潔練得怕人了。好像是秋霜已經下來的樣子,他只覺得身上一陣一陣的寒冷了起來。想想窮冬又快到了,他筐裡只有幾件大布的棉衣,過冬若要去買一件狐皮的袍料,非要有四十兩銀子不可,並且家裡他也許久不寄錢去了,依理而論,正也該寄幾十兩銀子回去,為老母輩添置幾件衣服,但是照目前的狀態看來,叫他能到何處去弄得這許多銀子?他一想到此,心裡又添了一層煩悶。呆呆的對西斜的月亮看了一忽,他卻順口念出了幾句詩來:
“茫茫來日愁如海,寄語羲和快著鞭。
回環念了兩遍之後,背後的園門裡忽而走了一個人出來,輕輕的叫著說:
“好詩好詩,仲則!你到這時候還沒有睡麼?”
仲則倒駭了一跳,回轉頭來就問他說:
“稚存!你也還沒有睡麼?一直到現在在那裡幹什麼?”
“竹君要我為他起兩封信稿,我現在剛擱下筆哩!”
“我還有兩句好詩,也念給你聽吧,‘似此星辰非昨夜,為誰風露立中宵?’”
“詩是好詩,可惜太衰颯了。”
“我想把它們湊成兩首律詩來,但是怎麼也做不成功。”
“還是不做成的好。”
“何以呢?”
“做成之後,豈不是就沒有興致了麼?”
“這話倒也不錯,我就不做了吧!”
“仲則,明天有一位大考據家來了,你知道麼?”
“誰呀?”
“戴東原。”
“我只聞諸葛的大名,卻沒有見過這一位小孔子,你聽誰說他要來呀?”
“是北京紀老太史給竹君的信裡說出的,竹君正預備著迎接他呢!”
“周秦以上並沒有考據學,學術反而昌明,近來大名鼎鼎的考據學家很多,偽書卻日見風行,我看那些考據學家都是盜名欺世的。他們今日講詩學,明日弄訓詁,再過幾天,又要來談治國平天下,九九歸原,他們的目的,總不外乎一個翰林學士的銜頭,我勸他們還是去參注酷吏傳的好,將來束帶立於朝,由禮部而吏部,或領理藩院,或拜內閣大學士的時候,倒好照樣去做。”
“你又要發癡了,你不怕旁人說你在妒忌人家的大名的麼?”
“即使我在妒忌人家的大名,我的心地,卻比他們的大言欺世,排斥異己,光明得多哩!我究竟不在陷害人家,不在卑污苟賤的迎合世人。”
“仲則!你在哭麼?”
“我在發氣。”
“氣什麼?”
“氣那些掛羊頭賣狗肉的未來的酷吏!”
“戴東原與你有什麼仇?”
“戴東原與我雖然沒有什麼仇,但我是疾惡如仇的。”
“你病剛好,又憤激得這個樣子,今晚上可是我害了你了,仲則,我們為了這些無聊的人嘔氣也犯不著,我房裡還有一瓶紹興酒在,去喝酒去吧。”
他與洪稚存兩人,昨晚喝酒喝到雞���才睡,所以今朝早晨太陽射照在他窗外的花壇上的時候,他還未曾起來。
門外又是一天清冷的好天氣,紺碧的天空,高得渺渺茫茫。窗前飛過的鳥雀的影子,也帶有些悲涼的秋意。仲則窗外的幾株梧桐樹葉,在這浩浩的白日裡,雖然無風,也蕭索地自在凋落。
一直等太陽照射到他的朝西南的窗下的時候,仲則才醒,從被裡伸出了一隻手,撩開帳子,向窗上一望,他覺得晴光射目,竟感覺得有些眩暈。仍複放下了帳子,閉了眼睛,在被裡睡了一忽,他的昨天晚上的亢奮狀態已經過去了,只有秋蟲的鳴聲,梧桐的疏影和雲月的光輝,成了昨夜的記憶,還印在他的今天早晨的腦裡,又開了眼睛呆呆的對帳頂看了一回,他就把昨夜追憶少年時候的情緒想了出來。想到這裡,他的創作欲已經抬頭起來了。從被裡坐起,把衣服一披,他拖了鞋就走上書桌邊上去。隨便拿起了一張桌上的破紙和一枝墨筆,他就叉手寫出了一首詩來:
絡緯啼歇疏梧煙,露華一白涼無邊。
纖雲微蕩月沉海,列宿亂搖風滿天。
誰人一聲歌子夜,尋聲宛轉空台榭。
聲長聲短雞續鳴,曙色冷光相激射。
三
编辑
仲則寫完了最後的一句,把筆擱下,自己就搖頭反復的吟誦了好幾遍。呆著向窗外的晴光一望,他又拿起筆來伏下身去,在詩的前面填了“秋夜”的兩字,作了詩題。他一邊在用僕役拿來的面水洗面,一邊眼睛還不能離開剛才寫好的詩句,微微的仍在吟著。
他洗完了面,飯也不吃,便一個人走出了學使衙門,慢慢的只向南面的龍津門走去。十月中旬的和煦的陽光,不暖不熱的灑滿在冷清的太平府城的街上。仲則在藍蒼的高天底下,出了龍津門,渡過姑熟溪,盡沿了細草黃沙的鄉間的大道,在向著東南前進。道旁有幾處小小的雜樹林,也已現出了凋落的衰容,枝頭未墜的病葉,都帶了黃蒼的濁色,盡在秋風裡微顫。樹梢上有幾隻烏鴉,好像在那裡讚美天晴的樣子,呀呀的叫了幾聲。仲則抬起頭來一看,見那幾隻烏鴉,以樹林作了中心,卻在晴空裡飛舞打圈。樹下一塊草地。顏色也有些微黃了。草地的周圍,有許多縱橫潔淨的白田,因為稻已割盡,只留了點點的稻草根株,��靜的在享受陽光。仲則向四面一看,就不知不覺的從官道上,走入了一條衰草叢生的田塍小路裡去。走過了一塊乾淨的白田,到了那樹林的草地上,他就在樹下坐下了。靜靜地聽了一忽鴉噪的聲音,他舉頭卻見了前面的一帶秋山,劃在晴朗的天空中間。
“相看兩不厭,只有敬亭山。”
這樣的念了一句,他忽然動了登高望遠的心思。立起了身,他就又回到官道上來了。走了半個鐘頭的樣子,他過了一條小橋,在橋頭樹林裡忽然發見了幾家泥牆的矮草舍。草舍前空地上一隻在太陽裡躺著的白花犬,聽見了仲則的腳步聲,嗚嗚的叫了起來。半掩的一家草舍門口,有一個五六歲的小孩跑出來窺看他了。仲則因為將近山麓了,想問一聲上謝公山是如何走法的,所以就對那跑出來的小孩問了一聲。那小孩把小手指頭含在嘴裡,好像怕羞似的一語也不答又跑了進去。白花犬因為仲則站住不走了,所以叫得更加利害。過了一會,草舍門裡又走出了一個頭上包青布的老農婦來。仲則作了笑容恭恭敬敬的問她說:
“老婆婆,你可知道前面的是謝公山不是?”
老婦搖搖頭說:
“前面的是龍山。”
“那麼謝公山在哪裡呢?”
“不知道,龍山左面的是青山,還有三裡多路啦。”
“是青山麼?那山上有墳墓沒有?”
“墳墓怎麼會沒有!”
“是的,我問錯了,我要問的,是李太白的墳。”
“噢噢,李太白的墳麼,就在青山的半腳。”
仲則聽了這話,喜歡得很,便告了謝,放輕腳步從一條狹小的歧路折向東南的謝公山去。謝公山原來就是青山,鄉下老婦只曉得李太白的墳,卻不曉得青山一名謝公山,仲則一想,心裡覺得感激得很,恨不得想拜她一下。他的很易激動的感情,幾乎又要使他下淚了。他漸漸的前進,路也漸漸窄了起來,路兩旁的雜樹矮林,也一處一處的多起來了。又走了半個鐘頭的樣子,他走到青山腳下了。在細草簇生的山坡斜路上,他遇見了兩個砍柴的小孩,唱著山歌,挑了兩肩短小的柴擔、鬥頭在走下山來。他立住了腳,又恭恭敬敬的問說:
“小兄弟,你們可知道李太白的墳是在哪裡的?”
兩小孩好像沒有聽見他的話,儘管在向前的沖來。仲則讓在路旁,一面又放聲發問了一次。他們因為盡在唱歌,沒有注意到仲則,所以仲則第一次問的時候,他們簡直不知道路上有一個人在和他們鬥頭的走來,及走到了仲則的身邊,看他好像在發問的樣子,他們才歇了歌唱,忽而向仲則驚視了一眼。聽了仲則的問話,前面的小孩把手向仲則的背後一指,好像求同意似的,回頭來向後面的小孩看著說:
“李太白?是那一個墳吧?”
後面的小孩也爭著以手指點說:
“是的,是那一個有一塊白石頭的墳。”
仲則回轉了頭,向他們指著的方向一看,看見幾十步路外有一堆矮林,矮林邊上果然有一穴前面有一塊白石的低墳躺在那裡。
“啊,這就是麼?”
他的這歎聲裡,也有驚喜的意思,也有失望的意思,可以聽得出來。他走到了墳前,只看見了一個雜草生滿的荒塚。並且背後的那兩小孩的歌聲,也已漸漸的幽了下去,忽然聽不見了,山間的沉默,馬上就擴大了開來,包壓在他的左右上下。他為這沉默一壓,看看這一堆荒塚,又想到了這荒塚底下葬著的是一個他所心愛的薄命詩人,心裡的一種悲感,竟同江潮似的湧了起米。
“啊啊,李太白,李太白!”
不知不覺的叫了一聲,他的眼淚也同他的聲音同時滾下來了。微風吹動了墓草,他的模糊的淚眼,好像看見李太白的墳墓在活起來的樣子。他向墳的周圍走了一圈,又回到墓門前來跪下了。
他默默的在墓前草上跪坐了好久。看看四圍的山間透明的空氣,想想詩人的寂寞的生涯,又回想到自家的現在被人家虐待的境遇,眼淚只是陸陸續續的流淌下來。看看太陽已經低了下去。墳前的草影長起來了,他方把今天睡到了日中才起來,洗面之後跑出衙門,一直還沒有吃過食物的事情想了出來,這時候卻一忽兒的覺得饑餓起來了。
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中午與家人在吳興街口的碰麵麵食館吃雙蛋炒飯
去年2023年時與家人會合在吳興街口準備吃午餐,沒有想到吳興街口這裡的人真多,1點多還是這麼多人,可能附近基隆路的上班族太多了,我們還是前往聽說碰麵麵食館這家店是鼎泰豐的師傅出來開的,手藝應該不錯,所以我們就來吃吃看,冷氣還蠻冷的,雖然是9月的時候去吃,外面還是很熱,內用冷氣還夠強。
總共點了三樣: - 雙蛋炒飯 - 鮮蝦紅油炒手麵 - 日式炸雞
這碗精緻的雙蛋炒飯炒起來粒粒分明,鹹度剛剛好,也不會太油,配上裝炒飯是白色的盤子吃起來覺得很秀色可餐。
鮮蝦紅油炒手麵也是,攪拌之後,紅油與麵、炒手也蠻搭的,麵是家常麵,不會太粗也不會太細。
日式炸雞配上雙蛋炒飯也是很夠味,這三樣點的菜都有加蔥,也���該是這家餐廳的特色,下次有機會再過來吃。 延伸閱讀: - 北醫旁邊吳興街吃找餐2店的手工豬肉排起司堡與西西里嫩雞腿堡 - 夏末秋初週六中午在安居街的赤田雞肉吃好吃雞肉飯 - 在臨江街夜市今日壽司店吃美味的綜合壽司與關東煮 - 在饗印印度料理吃坦都綜合碳烤與辣味烤羊肉咖哩 Read the full article
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回憶資料庫
H:朱衛茵學有專長又能記憶久遠,封為回憶資料庫,名副其實。「走出失婚與憂鬱,朱衛茵:50後懂得分享,讓自己成為一本好看的書」好看的書是一個好詞。人人都是回憶資料庫,也是一本好看的書,以此自勉!「刻意製造「那些永遠記得的日子」,幸福的保鮮劑,來自快樂回憶。」歌聲是個美好回憶,詩詞也是!
20231218W1
節目介紹:
似曾相識精選輯
12/2000:45-01:00
朱衛茵是一位對西洋音樂了解深刻的靈魂,她就像是一本充滿了回憶的資料庫。透過音樂,我們能夠重新找回一些似曾相識的故事。她不僅能夠信手拈來每首歌曲的典故,還能深入介紹我們所不知道的小故事。當我們聽著那些令我們懷念的歌曲時,既有歡笑也有淚水,同時也
能感受到年輕時內心的悸動。
維基百科介紹:
朱衛茵
朱衛茵,出生於香港,香港商業電台前知名DJ、香港華語女歌手、台灣飛碟電台主持人。 維基百科
配偶: 李宗盛 (結婚於 1988 年–1997 年)
出生: 7月7日; 英屬香港
英文名: Rosita Chu
音樂類型: 華語流行音樂
走出失婚與憂鬱,朱衛茵:50後懂得分享,讓自己成為一本好看的書
香港民間電視片段資料庫 VCRBase
這個香港民間電視資料庫,基本上由一班志同道合朋友所組成,目的 是將被人遺忘了的精彩電視片段利用現時科技得以重現人間,當中有 好多片段既經典又珍貴,同時間亦都歡迎各位有志之士加入經典電視 片段的文化保育工作!!
回憶

簡介
回憶指的是提取過往信息的心理過程,有時也可以指代提取的信息本身。回憶和收錄、貯存一併為記憶的三大核心過程。回憶一共分為三種類型:自由回憶、線索回憶與序列回憶。通過測試這三種回憶的方式,心理學家可以研究人類和動物記憶的過程。關於人類是如何回憶的,目前有兩種理論:二期記憶論,以及源碼特定理論。 維基百科
名副其實。
「名」是名聲,「實」則指實際、實質,「副」作動詞表示相稱,「名實相副」意即「名與實相稱」。 宋代起多作「名副其實」,而當指「名、實不相稱」時,則用「名不副實」。
郭子究
回憶
作詞:陳崑、呂佩琳
作曲:郭子究
編曲:陳樹熙
春朝一去花亂飛 又是佳節人不歸
記得當年楊柳青 長征別離時
連珠淚 和針黹 繡征衣
繡出同心花一朵 忘了問歸期
思歸期 憶歸期 往事多少盡在春閨夢裡
幾度花飛楊柳青 征人何時歸
以「回憶」為著點,不管寫人、記事、詠物,都可以派上用場。起筆方式是「有一次…」、「有一天…」、「有一回…」、「記得…」,運用回憶的筆法,讓文章更有情感,主角更加鮮明。
日月既往,不可復追,過去的時光再不可能擁有,只有回憶能印證生命的痕跡,是這些美好的記憶豐滿了每個人的夢,每個人的人生。
《生查子·元夕》
【宋代】歐陽修
去年元夜時,花市燈如晝。
月上柳梢頭,人約黃昏後。
今年元夜時,月與燈依舊。
不見去年人,淚濕春衫袖。
《遣悲懷三首·其二》
【唐】元稹
昔日戲言身後事,今朝都到眼前來。
衣裳已施行看盡,針線猶存未忍開。
尚想舊情憐婢僕,也曾因夢送錢財。
誠知此恨人人有,貧賤夫妻百事哀。
《醜奴兒·書博山道中壁》
【宋代】辛棄疾
少年不識愁滋味,愛上層樓。
愛上層樓。為賦新詞強說愁。
而今識盡愁滋味,欲說還休。
欲說還休。卻道天涼好個秋。
《題都城南莊》
【唐代】崔護
去年今日此門中,人面桃花相映紅。
人面不知何處去,桃花依舊笑春風。
《浣溪沙·誰念西風獨自涼》
【清代 】納蘭性德
誰念西風獨自涼,蕭蕭黃葉閉疏窗,
沉思往事立殘陽。
被酒莫驚春睡重, 賭書消得潑茶香。
當時只道是尋常。
《江城子·乙卯正月二十日夜記夢》
【宋代】蘇軾
十年生死兩茫茫,不思量,自難忘。
千里孤墳,無處話淒涼。
縱使相逢應不識,塵滿面,鬢如霜。
夜來幽夢忽還鄉,小軒窗,正梳妝。
相顧無言,惟有淚千行。
料得年年腸斷處,明月夜,短松岡。
父亲的病
從百草園到三味書屋父亲的病
作者:魯迅瑣記→本作品收錄於《朝花夕拾》
大約十多年前罷,S城[1]中曾經盛傳過一個名醫的故事:他出診原來是一元四角,「特拔」[2]十元,深夜加倍,出城又加倍。有一夜,一家城外人家的閨女生急病,來請他了,因為他,其時,已經闊得不耐煩,便非一百元不去。他們只得都依他。待去時,卻只是草草地一看,說道:「不要緊的。」開一張方,拿了一百元就走。那病家似乎很有錢,第二天又來請了。他一到門,只見主人笑面承迎道:「昨晚服了先生的藥,好得多了,所以再請你來複診一回。」仍舊引到房裏,老媽子便將病人的手拉出帳外來。他一按,冷冰冰的,也沒有脈,於是點點頭道,「唔,這病我明白了。」從從容容走到桌前,取了藥方紙,提筆寫道:「憑票付英洋[3]壹百元正。」下面是署名,畫押。
「先生,這病看來很不輕了,用藥怕還得重一點罷。」主人在背後說。
「可以。」他說,於是另開了一張方:「憑票付英洋貳百元正。」下面仍是署名,畫押。
這樣,主人就收了藥方,很客氣地送他出來了。
我曾經和這名醫周旋過兩整年,因為他隔日一回,來診我的父親的病。那時雖然已經很有名,但還不至於闊得這樣不耐煩;可是診金卻已經是一元四角。現在的都市上,診金一次十元並不算奇,可是那時是一元四角已是巨款,很不容易張羅的了;又何況是隔日一次。他大概的確有些特別,據輿論說,用藥就與眾不同。我不知道藥品,所覺得的,就是「藥引」的難得,新方一換,就得忙一大場。先買藥,再尋藥引。「生薑」兩片,竹葉十片去尖,他是不用的了。起碼是蘆根,須到河邊去掘;一到經霜三年的甘蔗,便至少也得搜尋兩三天。可是說也奇怪,大約後來總沒有購求不到的。據輿論說,神妙就在這地方。先前有一個病人,百藥無效;待到遇見了甚麼葉天士先生,只在舊方上加了一味藥引:梧桐葉。只一服,便霍然而癒了。「醫者,意也。」其時是秋天,而梧桐先知秋氣。其���百藥不投,今以秋氣動之,以氣感氣,所以……。我雖然並不瞭然,但也十分佩服,知道凡有靈藥,一定是很不容易得到的,求仙的人,甚至於還要拼了性命,跑進深山裏去採呢。
這樣有兩年,漸漸地熟識,幾乎是朋友了。父親的水腫是逐日厲害,將要不能起床;我對於經霜三年的甘蔗之流也逐漸失了信仰,採辦藥引似乎再沒有先前一般踴躍了。正在這時候,他有一天來診,問過病狀,便極其誠懇地說:「我所有的學問,都用盡了。這裏還有一位陳蓮河[4]先生,本領比我高。我薦他來看一看,我可以寫一封信。可是,病是不要緊的,不過經他的手,可以格外好得快……。」這一天似乎大家都有些不歡,仍然由我恭敬地送他上轎。進來時,看見父親的臉色很異樣,和大家談論,大意是說自己的病大概沒有希望的了;他因為看了兩年,毫無效驗,臉又太熟了,未免有些難以為情,所以等到危急時候,便薦一個生手自代,和自己完全脫了干係。但另外有甚麼法子呢?本城的名醫,除他之外,實在也只有一個陳蓮河了。明天就請陳蓮河。
陳蓮河的診金也是一元四角。但前回的名醫的臉是圓而胖的,他卻長而胖了:這一點頗不同。還有用藥也不同。前回的名醫是一個人還可以辦的,這一回卻是一個人有些辦不妥帖了,因為他一張藥方上,總兼有一種特別的丸散和一種奇特的藥引。蘆根和經霜三年的甘蔗,他就從來沒有用過。最平常的是「蟋蟀一對」,旁註小字道:「要原配,即本在一窠中者。」似乎昆蟲也要貞節,續弦或再醮,連做藥資格也喪失了。但這差使在我並不為難,走進百草園,十對也容易得,將它們用線一縛,活活地擲入沸湯中完事。然而還有「平地木十株」呢,這可誰也不知道是甚麼東西了,問藥店,問鄉下人,問賣草藥的,問老年人,問讀書人,問木匠,都只是搖搖頭,臨末才記起了那遠房的叔祖,愛種一點花木的老人,跑去一問,他果然知道,是生在山中樹下的一種小樹,能結紅子如小珊瑚珠的,普通都稱為「老弗大」。「踏破鐵鞋無覓處,得來全不費功夫。」藥引尋到了,然而還有一種特別的丸藥:敗鼓皮丸。這「敗鼓皮丸」就是用打破的舊鼓皮做成;水腫一名鼓脹,一用打破的鼓皮自然就可以克伏他。清朝的剛毅因為憎恨「洋鬼子」,預備打他們,練了些兵稱作「虎神營」[5],取虎能食羊,神能伏鬼的意思,也就是這道理。可惜這一種神藥,全城中只有一家出售的,離我家就有五里,但這卻不像平地木那樣,必須暗中摸索了,陳蓮河先生開方之後,就懇切詳細地給我們說明。
「我有一種丹,」有一回陳蓮河先生說,「點在舌上,我想一定可以見效。因為舌乃心之靈苗……。價錢也並不貴,只要兩塊錢一盒……。」我父親沉思了一會,搖搖頭。
「我這樣用藥還會不大見效,」有一回陳蓮河先生又說,「我想,可以請人看一看,可有甚麼冤愆[6]……。醫能醫病,不能醫命,對不對?自然這也許是前世的事……。」我的父親沉思了一會,搖搖頭。
凡國手,都能夠起死回生的,我們走過醫生的門前,常可以看見這樣的匾額。現在是讓步一點了,連醫生自己也說道:「西醫長於外科,中醫長於內科。」但是S城那時不但沒有西醫,並且誰也還沒有想到天下有所謂西醫,因此無論甚麼,都只能由軒轅、岐伯[7]的嫡派門徒包辦。軒轅時候是巫醫不分的,所以直到現在,他的門徒就還見鬼,而且覺得「舌乃心之靈苗」。這就是中國人的「命」,連名醫也無從醫治的。不肯用靈丹點在舌頭上,又想不出「冤愆」來,自然,單吃了一百多天的「敗鼓皮丸」有甚麼用呢?依然打不破水腫,父親終於躺在床上喘氣了。還請一回陳蓮河先生,這回是特拔,大洋十元。他仍舊泰然的開了一張方,但已停止敗鼓皮丸不用,藥引也不很神妙了,所以只消半天,藥就煎好,灌下去,卻從口角上回了出來。從此我便不再和陳蓮河先生周旋,只在街上有時看見他坐在三名轎夫的快轎裏飛一般擡過;聽說他現在還康健,一面行醫,一面還做了中醫甚麼學報,正在和「只長於外科的西醫」奮鬥哩。
中西的思想確乎有一點不同。聽說中國的孝子們,一到將要「罪孽深重,禍延父母」[8]的時候,就買幾斤人參,煎湯灌下去,希望父母多喘幾天氣,即使半天也好。我的一位教醫學的先生,卻教給我醫生的職務,道:「可醫的,應該給他醫治;不可醫的,應該給他死得沒有痛苦。」——但這先生自然是西醫。父親的喘氣頗長久,連我也聽得很吃力,然而誰也不能幫助他。我有時竟至於電光一閃似的想道:「還是快一點喘完了罷……。」立刻覺得這思想就不該,就是犯了罪��但同時又覺得這思想實在是正當的,我很愛我的父親。便是現在,也還是這樣想。
早晨,住在一門裏的衍太太[9]進來了。她是一個精通禮節的婦人,說我們不應該空等著。於是給他換衣服;又將紙錠和一種甚麼《高王經》[10]燒成灰,用紙包了給他捏在拳頭裏……。
「叫呀,你父親要斷氣了。快叫呀!」衍太太說。
「父親!父親!」我就叫起來。
「大聲!他聽不見。還不快叫?!」
「父親!!!父親!!!」
他已經平靜下去的臉,忽然緊張了,將眼微微一睜,彷彿有一些苦痛。
「叫呀!快叫呀!」她催促說。
�� 「父親!!!」
「甚麼呢?……不要嚷。……不……。」他低低地說,又較急地喘著氣,好一會,這才復了原狀,平靜下去了。
「父親!!!」我還叫他,一直到他咽了氣。
我現在還聽到那時的自己的這聲音,每聽到時,就覺得這卻是我對於父親的最大的錯處。
十月七日。
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香港酒店優惠 -【廣州洲際酒店介紹】擁小王子親子主題房!步行約 8 分鐘可達萬勝圍地鐵站
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讀萬卷書
H:讀萬卷書很無聊,行萬里路很辛苦。看電視的活衣廚,每日看平板找萬卷書,看旅遊節目觀遊世界。廢人世界的新讀書觀,懶人的觀遊世界路。以點引書,以觀代遊。網路世界很遼闊。「欲知天下事,須讀古今書。學了就用處處行,光學不用等於零。不能則學,不知則問;讀書全在自用心,老師不過引路人。」看「他們在島嶼寫作」介紹王文興,以電影文本的形式,紀錄文學大家。其中王文興教授談及「彷彿名人才能寫回憶錄。」因為有人看,普通人寫回憶錄則自我安慰,自娛娛人。有些人隨物換星移而隱去,有些書卻一直流傳。廢宅論不可取,各依所需,天冷在家,觀音唸佛祖,各唸一本家家經。20231217W7
王文興 (作家)
維基百科:
台灣作家 (1939-2023)
王文興(1939年9月24日—2023年9月27日),男,福建福州人,臺灣小說家。 維基百科
電影: 尋找背海的人
配偶: 陳竺筠; (1969年結婚—2023年結束)
王文興從1966年開始寫作《家變》,在1973年出版,發表後造成軒然大波。這是因為《家變》從內容到形式、情節、結構,語言文字,在當時的台灣文壇都是創新的,甚至創新到被某些人認為是「離經叛道」的「異端」,為了這部作品,台灣文學界曾經開過多次座談會,發表過多篇文章來討論。
古人說「人不登高山,不知天之高也;不臨深溪,不知地之厚也。」
蘇軾在《石鐘山記》一文中,記敘了他深入實地考察,揭開了石鐘山得名之謎的故事。
李時珍爲了完成《本草綱目》的著述,不辭辛勞遠出旅行考察,上山採藥和拜訪有實際經驗的人。
陸遊說:「紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。」
杜甫在《奉贈韋左丞丈二十二韻》中這樣的句子:讀書破萬卷,下筆如有神。
明末畫家董其昌的《畫禪室隨筆》卷二○畫訣中:「讀萬卷書,行萬里路,胸中脫去塵濁,自然丘壑內營,立成鄄鄂。」
古人講讀萬卷書,行萬里路,其實就是王陽明老先生講的知行合一。
「讀萬卷書,行萬里路,有耀自他,我得其助」出自清代梁邵王《兩般秋雨庵隨筆》
趙恆《勸學詩》
勸學詩
宋代:趙恆
富家不用買良田,書中自有千鍾粟。
安居不用架高堂,書中自有黃金屋。
出門莫恨無人隨,書中車馬多如簇。
娶妻莫恨無良媒,書中自有顏如玉。
男兒若遂平生志,六經勤向窗前讀。
人生五堂課:讀萬卷書、行萬里路、閱人無數、名師指路、自己開悟
讀萬卷書
書山有路勤爲徑,學海無涯苦作舟;腹有詩書氣自華,讀書破萬卷 下筆如有神黑髮不知勤學早 白首方悔讀書遲與肝膽人共事 無字句處讀書行萬里路千里之行 始於足下不積跬步無以至千里路遙知馬力日久見人心路漫漫其修遠兮 吾將上下而求索紙上得來終覺淺 絕知此事要躬行閱人無數讀人如讀書 閱人宜閱己邪正看鼻眼 功名看氣宇 事業看精神
古今賢文勸學篇
枯木逢春猶再發,人無兩度再少年。不患老而無成,只怕幼兒不學。長江後浪推前浪,世上今人勝古人。若使年華虛度過,到老空留後悔心。有志不在年高,無志空長百歲。少壯不努力,老大徒傷悲。好好學習 ,天天向上。堅持不懈,久煉成鋼。三百六十行,行行出狀元。冰生於水而寒於水,青出於藍而勝於藍。書到用時方恨少,事非經過不知難。
身怕不動,腦怕不用。手越用越巧,腦越用越靈。三天打魚,兩天曬網,三心二意,一事無成。一日練,一日功,一日不練十日空。拳不離手,曲不離口。刀不磨要生銹,人不學要落後。書山有路勤為徑,學海無涯苦作舟。師傅領進門,修行在自身。熟能生巧,業精於勤。
讀書篇
欲知天下事,須讀古今書。
學了就用處處行,光學不用等於零。
不能則學,不知則問;讀書全在自用心,老師不過引路人。
好曲不厭百回唱,好書不厭百回讀。
讀書貴能疑,疑能得教益。
默讀便於思索,朗讀便於記憶。
初讀好書如獲良友;重讀好書如逢故知。
處處留心皆學問,三人同行有我師。
石鐘山記
朝代:宋代
作者:蘇軾
《水經》雲:“彭蠡之口有石鐘山焉。”酈元以爲下臨深潭,微風鼓浪,水石相搏,聲如洪鐘。是說也,人常疑之。今以鐘磬置水中,雖大風浪不能鳴也,而況石乎!至唐李渤始訪其遺蹤,得雙石於潭上,扣而聆之,南聲函胡,北音清越,桴止響騰,餘韻徐歇。自以爲得之矣。然是說也,餘尤疑之。石之鏗然有聲者,所在皆是���,而此獨以鍾名,何哉?
元豐七年六月丁丑,餘自齊安舟行適臨汝,而長子邁將赴饒之德興尉,送之至湖口,因得觀所謂石鍾者。寺僧使小童持斧,於亂石間擇其一二扣之,硿硿焉。餘固笑而不信也。至莫夜月明,獨與邁乘小舟,至絕壁下。大石側立千尺,如猛獸奇鬼,森然欲搏人;而山上棲鶻,聞人聲亦驚起,磔磔雲霄間;又有若老人咳且笑于山谷中者,或曰此鸛鶴也。餘方心動欲還,而大聲發於水上,噌吰如鐘鼓不絕。舟人大恐。徐而察之,則山下皆石穴罅,不知其淺深,微波入焉,涵淡澎湃而爲此也。舟回至兩山間,將入港口,有大石當中流,可坐百人,空中而多竅,與風水相吞吐,有窾坎鏜鞳之聲,與向之噌吰者相應,如樂作焉。因笑謂邁曰:“汝識之乎?噌吰者,周景王之無射也;窾坎鏜鞳者,魏莊子之歌鐘也。古之人不餘欺也!”
事不目見耳聞,而臆斷其有無,可乎?酈元之所見聞,殆與餘同,而言之不詳;士大夫終不肯以小舟夜泊絕壁之下,故莫能知;而漁工水師雖知而不能言。此世所以不傳也。而陋者乃以斧斤考擊而求之,自以爲得其實。餘是以記之,蓋嘆酈元之簡,而笑李渤之陋也。
《本草綱目》是一部集中國16世紀以前本草學大成的著作,明代萬曆六年(1578年)定稿,萬曆二十三年(1596年)在南京正式刊行,作者為醫學家、藥學家和博物學家李時珍。此著收錄於《四庫全書》,為子部醫家類。
紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。
出自於陸游的《冬夜读书示子聿》
朝代:宋代
作者:陸游
古人學問無遺力,少壯工夫老始成。
紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。
奉贈韋左丞丈二十二韻
朝代:唐代作者:杜甫
同類型的詩文:社交讀書壯志
原文
紈绔不餓死,儒冠多誤身。丈人試靜聽,賤子請具陳。
甫昔少年日,早充觀國賓。讀書破萬卷,下筆如有神。
賦料揚雄敵,詩看子建親。李邕求識面,王翰愿卜鄰。
自謂頗挺出,立登要路津。致君堯舜上,再使風俗淳。
此��竟蕭條,行歌非隱淪。騎驢十三載,旅食京華春。
朝扣富兒門,暮隨肥馬塵。殘杯與冷炙,到處潛悲辛。
主上頃見征,欻然欲求伸。青冥卻垂翅,蹭蹬無縱鱗。
甚愧丈人厚,甚知丈人真。每于百僚上,猥頌佳句新。
竊效貢公喜,難甘原憲貧。焉能心怏怏,只是走踆踆。
今欲東入海,即將西去秦。尚憐終南山,回首清渭濱。
常擬報一飯,況懷辭大臣。白鷗沒浩蕩,萬里誰能馴?
1 
○記事2 
予在廣陵,見司馬端明畫山水,細巧之極,絕似李成。多宋元人題跋,畫譜俱不載,以此知古人之逃名。3 
今年游白下,見褚遂良西升經,結構遒勁,於黃庭像贊外,別有筆思。以顧虎頭洛神圖易之。主人迫欲朱提,力不能有,遂落賈人手。如美人為沙叱利擁去矣。更償之二百金,竟靳固不出。登舟作數日惡,憶念不置。然筆法尚可摹擬,遂書此論,亦十得二三耳。使西升經便落予手,未必追想若此也。4 
書家以豪逸有氣,能自結撰為極則。西昇雖俊媚,恨其束于法,故米漫士不甚賞心。若兒子輩能學之,亦可適俗。因作小楷書記之。5 
送君者自崖而返,君自此遠。宋子京讀莊子至此,遂欲沾巾。予北上,泊寒山為送別諸君子拈之。6 
鬥鵪鶉,江南有此戲,皆在籠中。近有吳門人,始開籠於屋除中,相鬥彌日。復入籠飲啄,亦太平清事。7 
餘與仲醇,以建子之月,發春申之浦,去家百里。泛宅淹旬,隨風東西,與雲朝暮。集不請之友,乘不系之舟。壺觴對飲,翰墨間作。吳苑酹真娘之墓,荊蠻尋懶瓚之蹤,固以胸吞具區,目瞪雲漢矣。夫老至則衰,倘來若寄,既悟炊梁之夢。可虛秉燭之游,居則一丘一壑,唯求羊是群;出則千峰萬壑,與汗漫為侶。茲予兩人,敦此夙好耳。8 
余游閩中,遇異人談攝生奇訣。在讀黃庭內篇,夜觀五藏神,知其虛實,以為補瀉。蓋道藏所不傳,然須斷葷酒與溫柔鄉,則可受持。至今愧其語也。9 
七夕,王太守禹聲,招飲於其家園。園即文恪所投老。唐子畏,郝元敬諸公為之點綴者。是日,出其先世所藏名畫。有趙千里後赤壁賦一軸,趙文敏落花游魚圖,谿山仙館圖。又老米雲山,倪雲林漁莊秋霽,梅道人漁家樂手卷,李成雲林卷,皆希代寶也。餘持節楚藩歸。曾晚泊祭風臺,即周郎赤壁,在嘉魚縣南七十里。雨過,輒有箭鏃於沙渚間出。里人拾鏃視予,請以試之火,能傷人,是當時毒藥所造耳。子瞻賦赤壁,在黃州,非古赤壁也。壬辰五月10 
元李氏有古紙,長二丈許,光潤細膩,相傳四世。請文敏書,文敏不敢落筆,但題其尾。至文徵仲,止押字一行耳,不知何時乃得書之。11 
餘頃驅車彭城,不勝足音之懷。又有火雲之苦,回馭谷水塔上,養痾三月。而仲醇挾所藏木癭爐,王右軍月半帖真跡、吳道子觀音變相圖、宋板華嚴經尊宿語錄示餘。丈室中惟置一床,相對而坐,了不蓄筆研。既雨窗靜間,吳門孫叔達以畫事屬余紀游,遂為寫迂翁筆意。即長安游子,能有此適否?12 
袁尚書賴無𥚛,孫女以餓縊死。尚書善噉,不能饜。每市蜆為晚飧,可竟一斗。有一門生,饋以十金,輒作三封。以一封置袖中,乘月叩窮交之戶。呼輿偕步,以袖中金贈之而別。其貧都由此,然每攜麗伎泛泊,一日不能廢也。13 
楊尚書成,在吳中負物望。其家不貧,而吳中人稱之,不在哀公下。以其淳謹安靜,故令人無可間然耳。尚書過蔡經舊里,曰:「此宋之大賊,乃居此乎?」以為蔡京也,所謂不讀非聖書者耶。14 
張東海題詩金山:「西飛白日忙於我,南去青山冷笑人。」有一名公,見而物色之曰:「此當為海內名士。」東海在當時,以氣節重。其書學懷素,名動四夷。自吳中書家後出,聲價稍減,然行書尤佳。今見者少耳。15 
餘與程黃門同行江南道上,停驂散步。見陂陁紆復,峰巒孤秀。下瞰平湖,澄碧萬頃,湖之外江光吞天,征帆點點,與鳥俱沒。黃門曰:「此何山也?」餘曰:「齊山也。」黃門曰:「子何以知之?」餘曰:「吾知杜樊川所謂江涵秋影者耳。」詢之舟人,亦不能名。但曰:此上有翠微亭。黃門與餘一笑而出,是日步平堤六七里,皆在南湖中。此堤之勝,西湖僅可北面稱臣耳。俗諺云,九子可望不可登,齊山可登不可望。信��。16 
大林寺,在天池之西,有西竺娑羅樹二株。中宴坐老僧,余訪之,能念阿彌陀佛號而已。白樂天詩云:「人間四月芳菲盡,山寺桃花始盛開。」必此寺也。17 
○記游18 
武彞有大王峰,峰極尊勝。故名武彞。君為魏王子騫,曾會群真於此,奏人間可哀之曲。19 
大田縣有七巖臨水。山下皆平田。秋氣未深,樹彫葉落,衰柳依依。20 
洞天巖,在沙縣之西十裏。其山壁立,多松樟。上有長耳佛像。水旱禱,著靈跡。其巖廣可容三几二榻。高三仞餘,滴水不絕。閩人未之賞也,餘創而深索之。得宋人題字石刻十餘處,皆南渡以後名手。詩歌五章。巖下有流觴曲水,徐令與餘飲竟日,頗盡此山幽致。追寫此景,以當紀游。21 
高郵夜泊,望隔堤大湖月色微晦,以為地也。至詰旦,水也。竺典化城,無乃是耶。22 
子行至滕陽,嶧山在望。火靈煙沙,殆不復有濟勝具。是日宿縣中官舍,乃以意造,為嶧山不必類嶧山也,想當然耳。曾游嶧山者,知餘不欺人。23 
呂梁縣瀑三千仞,石骨出水上。憶予童子時,父老猶道之,今不復爾。東海揚塵,殆非妄語。24 
○評詩25 
大都詩以山川為境,山川亦以詩為境。名山遇賦客,何異士遇知己?一入品題,情貌都盡。後之游者,不待按諸圖經,詢諸樵牧,望而可舉其名矣。嗟嗟,澄江凈如練,齊魯青未了。寥落片言,遂關千古登臨之口,豈獨勿作常語哉?以其取境真也。友人錢象先荊南集,不盡象先才情之變。而餘嘗持節長沙,自洞庭而下,漢陽而上,與象先共之。故其取境之真,特有賞會云。抑餘不能游,然好詩。象先能詩,又好游,是安得象先為東西南北之人?窮夫所謂州有九岳有五者。而皆被以奇音雋響。餘得隱幾而讀之。以吾拙而收象先之巧,以吾目而用象先之足,不大愉快哉?26 
東坡云:「詩人有寫物之工。」桑之未落,其葉沃若。他木不可以當此。林逋梅花詩:「疏影橫斜水清淺,暗香浮動月黃昏」,決非桃李詩。皮日休白蓮詩:「無情有恨何人見,月冷風清欲墮時」,此必非紅蓮詩。裴璘詠白牡丹詩。」長安豪貴惜春殘,爭賞先開紫牡丹。別有玉杯承露冷,無人起就月中看。」27 
餘以丙申秋,奉使長沙。至東林寺,時白蓮盛開。土人云:此晉慧遠所種。自晉至今千餘年,惟存古甃與欄楯,而蓮無復種矣。忽放白毫光三日三夜。此花宰地而出,皆作千葉,不成蓮房。餘徘徊久之。」幸此花開,與餘行會。遠公有記云:「花若開,吾再來。」餘故有詩云「泉歸虎谿靜,雲度雁天輕。苔蘚封碑古,優雲應記生。」記此事也。28 
古人詩語之妙,有不可與冊子參者,惟當境方知之。長沙兩岸皆山,餘以牙檣游行其中。望之,地皆作金色。因憶水碧沙明之語。又自岳州順流而下,絕無高山。至九江,則匡廬兀突,出檣帆外。因憶孟襄陽所謂「掛席幾千里,名山都未逢。泊舟潯陽郭,始見香爐峰。」真人語,千載不可復值也。29 
宋人推黃山谷所得,深於子瞻,曰:「山谷真涅槃堂裏禪也。」30 
頃見岱志詩賦六本。讀之既盡,為區檢討用孺言曰:「總不如一句。」檢討請之,曰:「齊魯青未了。」31 
「燈影照無睡,心清聞妙香。」杜少陵宿招提絕調也。予書此於長安僧舍,自後無復敢題詩者。32 
「萬事不如杯在手,一年幾見月當頭。」文徵仲嘗寫此詩意。又樊川翁「南陵水面漫悠悠,風緊雲繁欲變秋。」趙千里亦圖之。此皆詩中畫,故足畫耳。33 
「風靜夜潮滿,城高寒月昏。」「秋色明海縣,寒煙生里閭。」「春盡草木變,雨餘池館青。」「楚國橙橘暗,吳門煙雨愁。」「郭外秋聲急,城邊月色殘。」「眾山遙對酒,孤嶼共題詩。」「氣蒸雲夢澤,波撼岳陽城。」「林花掃更落,徑草踏還生。」「掛席樵風便,開樽琴月孤。」「落日池上酌,清風松下來。」王江寧、孟襄陽,五言詩句。每一詠之,便習習生風。34 
餘見倪雲林自題畫云:十月江南未隕霜,青楓欲赤碧梧黃。停橈坐對寒山晚,新雁題詩小著行。35 
明月照積雪,大江流日夜。客心悲未央,澄江凈如練。玉繩低建章,池塘生春草。秋菊有佳色,俱千古寄語,不必有所附麗,文章妙境,即此瞭然。齊隋以還,神氣都盡矣。36 
李獻吉詩,如「詠月」有云「光添桂魄十分影,寒��江心幾尺潮。」不見集中,自是佳語。唐子畏詩,有曰:「杜曲梨花杯上雪,灞陵芳草夢中煙。」又曰:「秋榜才名標第一,春風脂粉醉千場。」皆學白香山。子畏之才,何須以解首矜詡。其亦唐人所謂今朝曠蕩春無涯,不免器小之誚。37 
唐人詩律,與書法頗似,皆以濃麗為主,而古法稍遠矣。餘每謂晉書無門,唐書無態,學唐乃能入晉。晉詩如其書,雖陶元亮之古淡,阮嗣宗之俊爽,在法書中未可當虞褚。以其無門也,因為唐人詩及之。38 
翰墨之事,良工苦心,未嘗敢以耗氣應也。其尤精者,或以醉,或以夢,或以病。游戲神通,無所不可。何必神怡氣王?造物乃完哉。世傳張旭號草聖,飲酒數斗,以頭濡墨,縱書墻壁上。淒風急雨,觀者歎愕。王子安為文,每磨墨數升,蒙被而臥,熟睡而起。詞不加點,若有鬼神。此皆得之筆墨蹊逕之外者。今觀察王先生,當人日,病不起。據枕作詩二十章,言言皆樂府鼓吹也,乃與彼二子鼎足立矣。39 
東坡讀金陵懷古詞於壁間,知為介甫所作,嘆曰:「老狐精能許,」以羈怨之士,終不能損價於論文。所謂文章天下至公。當其不合,父不能諛子。其論之定者,雖東坡無如荊公何,太白曰:「崔灝題詩在上頭。」東坡題廬山瀑布曰:「不與徐凝洗惡詩。」太白擱筆於崔灝,東坡操戈於徐凝。豈有恩怨哉?
董其昌《評文》
1 
東坡水月之喻,蓋自肇論得之,所謂不遷義也。文人冥搜內典,往往如鑿空,不知乃沙門輩家常飯耳。大藏教若演之有許大文字。東坡突過昌黎歐陽,以其多助。有此一奇也。2 
蘇子瞻表忠觀碑,惟敘蜀漢抗衡不服,而錢氏順命自見。此以賓形主法也。執管者即已遊於其中,自不明了耳。如能了之,則拍拍成令。雖文采不章,而機鋒自契。3 
文章隨題敷衍,開口即涸。須於言盡語竭之時,別行一路。太史公荊軻傳,方敘荊軻刺秦王,至秦王環柱而走,所謂言盡語竭。忽用三個字轉云「而秦法」自此三字以下,又生出多少煙波。4 
凡作文,原是虛架子。如棚中傀儡,抽牽由人,非一定死煞。真有一篇文字,有代當時作者之口,寫他意中事,乃謂注於不涸之源。且如莊子逍遙篇。鷽鳩笑大鵬,須代他說曰:「我決起而飛槍榆枋,時則不至,而控於地而已矣。奚以之九萬里而南為?」此非代乎?若不代,只說鷽鳩笑,亦足矣。又如太史公稱燕將得魯仲連書云:「欲歸燕,已有隙,恐誅;欲降齊,所殺虜,於齊甚眾。恐已降而后見辱,喟然嘆曰:與人辨,我寧自辨。」此非代乎?5 
文有翻意者,翻公案意也。老吏舞文,出入人罪。雖一成之案,能翻駁之。文章家得之,則光景日新。且如馬嵬驛詩,凡萬首,皆刺明皇寵貴妃。只詞有工拙耳。最後一人,乃云:尚是聖明天子事,景陽宮井又何人。便翻盡從來巢臼。曹孟德疑塚七十二。古人有詩云:直須發盡疑塚七十二。已自翻矣。後人又云:以操之奸,安知不慮及於是。七十二塚,必無真骨。此又翻也。6 
青鳥家,專重脫卸。所謂急脈緩受,緩脈急受。文章亦然。勢緩處,須急做,不令扯長冷淡。勢急處,須緩做,務令紆徐曲折,勿得埋頭,勿得直腳。7 
杜子美云:擒賊先擒王。凡文章,必有真種子,擒得真種子,則所謂口口咬著。又所謂點點滴滴雨,都落在學士眼裡。8 
文字最忌排行,貴在錯綜其勢。散能合之,合能散之。左氏晉語云:賈誼政事疏,太子之善,在於早諭教與選左右。早諭教,選左右,是兩事。他卻云心未濫而先諭教,則化易成也。此是早諭教。下云若其服習講貫,則左右而已。此是選左右,以二事離作兩段,全不排比。自六朝以後,皆畫段為文,少此氣味矣。9 
作文要得解悟。時文不在���,只在悟。平日須體認一番,才有妙悟,妙悟只在題目腔子里思之。思之思之不已,鬼神將通之。到此將通時,才喚做解悟。了得解時,只用信手拈神,動人心來。頭頭是道,自是文中有竅,理義原悅人心。我合著他,自是合著人心。文要得神氣,且試看死人活人,生花剪花,活雞木雞,若何形狀?若何神氣?識得真,勘得破,可與論文。如閱時義,閱時令,吾毛竦色動,便是他神氣逼人處。閱時似然似不然,欲丟欲不丟,欲讀又不喜讀,便是他神索處。故窗稿不如考卷之神,考卷之神薄,不如墨卷之神厚。魁之神露,不如元之神藏。試之,自有解人處。脫套去陳,乃文家之要訣。是以剖洗磨煉,至精光透露。豈率爾而為之哉?必非初學可到。且定一取舍,取人所未用之辭,舍人所已用之辭;取人所未談之理,捨人所已談之理;取人所未布之格,舍人所已布之格;取其新,舍其舊。不廢辭,卻不用陳辭;不越理,卻不用皮膚理;不異格,卻不用卑瑣格。格得此,思過半矣。10 
文家要養精神,人一身只靠這精神幹事。精神不旺,昏沉到老,只是這個。人須要養起精神,戒浩飲,浩飲傷神;戒貪色,貪色滅神;戒厚味,厚味昏神;戒飽食,飽食悶神;戒多動,多動亂神;戒多言,多言損神;戒多憂,多憂鬱神;戒多思,多思撓神;戒久睡,久睡倦神;戒久讀,久讀苦神。人若調養得精神完固,不怕文字無解悟,無神氣,自是矢口動人。此是舉業最上一乘。11 
多少伶俐漢,只被那卑瑣局曲情態,耽擱一生。若要做個出頭人,直須放開此心。令之至虛,若天空,若海闊;又令之極樂,若曾點游春,若茂叔觀蓬,洒洒落落。一切過去相、見在相、未來相,絕不里念,到大有入處,便是擔當宇宙的人,何論雕蟲末技?12 
甚矣,舍法之難也。兩壘相薄,兩雄相持,而俠徒劍客,獨以魚腸匕首,成功於枕席之上,則孫吳不足道矣。此捨法喻也。又喻之於禪,達磨西來,一門超出,而億劫脩持三千相;彈指了之,舌頭坐斷,文家三昧,寧越此哉。然不能盡法,而遽事舍法,則為不及法。何士抑能盡法者也,故其游戲跳躍,無不是法。意象有神,規模絕跡。今而後以此爭長海內,海內益尊士抑矣。13 
吾常謂成弘大家,與王唐諸公輩,假令今日而在,必不為當日之文。第其一種真血脈,如堪輿家所為正龍,有不隨時受變者。其奇取之於機,其正取之於理,其致取之於情,其實取之於事,其藻取之於辭。何謂辭?《文選》是也。何謂事?《左史》是也。何謂情?《詩》《騷》是也。何謂理?《論語》是也。何謂機?《易》是也。《易》闡造化之機,故半明半晦,以無方為神。《論語》著倫常之理,故明白正大,以《易》知為用。如《論語》曰:「無適無莫」,何等本易。《易》則曰:「見群龍無首,下語險絕矣。」此則王唐諸公之材料窟宅也。如能熟讀妙悟,自然出言吐氣,有典有則,而豪少佻舉浮俗之習,淘洗殆盡矣。14 
夫士子以干祿故,不能迂其途,以就先民矩矱是或一說矣。不曰去其太甚乎?小講入題,欲離欲合,一口說盡,難復更端,不可稍加虛融乎。股法所貴,矯健不測。今一股之中,更加復句,轉接之痕盡露。森秀之勢何來?不可稍加裁剪乎?古文只宜暗用,乃得一成語。不問文勢夷險,必委曲納之。或泛而無當,或奇而無偶,不可稍割愛乎。每題目必有提綱,即欲運思於題中。又欲回盼於題外,若復快意直前,為題所縛。圓動之處,了不關心,縱才藻燦然,終成下格,不可另著眼乎?諸如此類,更僕莫數。一隅反之,思過半矣。
徐仙真錄序编辑
天生英才,用之於當時,則能忠君保民,榮膺顯爵。歿則廟祀一方,而其陰功靈貺,猶能闡揚于後世者,實非偶然。蓋天將有意於斯世斯民,而使其至於是也。不然何獨異於人哉。若徐二仙者,槩可見矣。神,海州胸山人也。出偃王之後。其父溫,五代時為吳名將,能建軍功,累遷官至拜相,卒贈齊王,謐忠武。五子皆受王封,曰知證,曰知誇者,即二仙也。天福中,唐主受禪,封知證為江王,知誇為饒王,同鎮金陵。威德兼濟,民庶ㄨ安。率兵入閩,蠻寇迎降,境土寧靜。閩人歸戴;遂立生祠於鰲峰之北,設像以敬事焉。神念其誠,一日,語閩人曰:我明年別汝輩、當默佑玆土。果符前言,於是閩人敬事益虔。而凡旱潦虫蝗之灾,水火寇盜之危,疾病婚葬之請,隨禱隨應,若響若荅。至若摛詞揮翰,雲漢昭回,耀人耳目。自宋以來,累受封號。逮至我朝永樂之間,以神有翊衛聖躬弗豫之功,聿新祠廟,御製碑刻,褒封有加,以昭神貺。由此而觀,則神生為忠臣,歿為明神,其功德有益於國家生民者。如此,豈非天有意於斯世斯民,而使其至於是歟。其祠官方文照,蓋凡神之世系、行實、靈跡、華翰,與夫前代我朝褒封碑刻,恐歲久湮沒失傳,彙成一編,名曰真錄。閩藩總戎盂城孫公,忠義士也,竊嘗觀之,而有感焉,乃捐俸,命工繡梓,以博其傳,命予序引。予謂神聰明正直,其顯跡著于今昔者,皆不出於隱僻怪,誕而至於惑世誣民之患,莫非忠君孝親,仁民愛物之事,蓋士君子之所當為也。其近而耳聞目見者,固-不待是編而知,使遐方僻壤未及見聞者,幸獲一��,其於為臣為子之道,脩身慎行之方,亦足為一助云耳。是為序。
正統八年,歲在癸亥秋七月吉日,福建閩縣儒學訓導王用盛序。
補閑集
作者:崔滋
補閑集序編輯
文者蹈道之門,不涉不經之語。然欲鼓氣肆言,竦動時聽,或涉於險怪。況詩之作,本乎比興諷喩,故必寓託奇詭,然後其氣壯,其意深,其辭顯,足以感悟人心,發揚微旨,終歸於正。若剽竊刻畵誇耀靑紅,儒者固不爲也。雖詩家有琢鍊四格,所取者,琢句鍊意而已。今之後進,尙聲律章句,琢字必欲新,故其語生,鍊對必以類,故其意拙。雄傑老成之風,由是喪矣。我本朝以人文化成,賢儁間出,贊揚風化。光宗顯德五年,始闢春闈,擧賢良文學之士,玄鶴來儀。時則王融、趙翼、徐熙、金策,才之雄者也。越景顯數代間,李夢游、柳邦憲以文顯,鄭倍傑、高凝以詞賦進,崔文憲公沖命世興儒,吾道大行。至於文廟時,聲名文物,粲然大備。當時冢宰崔惟善,以王佐之才,著述精妙。平章事李精恭、崔奭,參政文正、李靈幹、鄭惟産,學士金行瓊、盧坦,濟濟比肩,文王以寧。厥後朴寅亮、崔思齊、思諒、李䫨、金亮鑑、魏繼廷、林元通、黃瑩、鄭文、金緣、金商祐、金富軾、權適、高唐愈、金富轍、富佾、洪瓘、印份、崔允儀、劉羲、鄭知常、蔡寶文、朴浩、朴椿齡、林宗庇、芮樂仝、崔諴、金精、文淑公父子、吳先生兄弟、李學士仁老、兪文安公升旦、金貞肅公仁鏡、李文順公奎報、李承制公老、金翰林克己、金諫議君綏、李史館允甫、陳補闕澕、劉沖基、李百順、兩司成咸淳、林椿、尹於一、孫得之、安淳之,金石間作,星月交輝。漢文唐詩,於斯爲盛。然而古今諸名賢,編成文集者,唯止數十家,自餘名章秀句,皆湮沒無聞。李學士仁老略集成篇,命曰破閑,晉陽公以其書未廣,命予續補。強拾廢忘之餘,得近體若干聯,或至於浮屠兒女輩,有一二事可以資於談笑者,其詩雖不嘉,幷錄之。共一部分爲三卷,而未暇雕板,今侍中上柱國崔公,追述先志,訪採其書,謹繕寫而進。
時甲寅四月日。守太尉崔滋序。
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夏末秋初週六中午在安居街的赤田雞肉吃好吃雞肉飯
位於台北市大安區安居街的赤田雞肉在人口密集且美食一條街上,我們家剛好在2023年夏末秋初從日本九州八天七夜旅遊回家,剛好是週末還在休息中,不知道要吃什麼,因為天氣很熱,所以就到未曾吃過的店面用餐。
點完餐之後進去吃,冷氣還蠻強的,我們2人各點了好吃雞肉飯與獅子頭雞肉飯,都加蔥辣,2023年9月時吃的價格是NT $120與NT $160元。
沒多久這兩個雞肉飯都上桌了,其實也是可以外帶,獅子頭雞肉飯多了個獅子頭。
好吃雞肉飯的主菜是雞肉,其他有半顆白煮��、高麗菜、滷豆腐這三樣菜。
獅子頭雞肉飯是主菜有獅子頭+雞肉,這裡附近的雞肉飯好像都是這樣,招牌都是白底黑字,名稱都是雞肉飯只賣一種,外帶貨內用感覺很多都是味道差不多,可以簡單飽足一頓,如果不知道吃什麼可以吃這個,配上辣椒與蔥油還不錯吃。 延伸閱讀: - 到六張犁吃陸二村家的滷味、村家飯與秘製麻辛拌麵 - 信義區吳興街口千尋味正宗重慶酸辣粉好吃的口水雞 - 在臨江街夜市今日壽司店吃美味的綜合壽司與關東煮 Read the full article
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【常威近代史】(七百七十二回) 希特拉的選擇 時間線進入1938年3月,3月1號,中共向國民黨提議成立統一嘅全國抗戰領導機關,到目前為止,國共兩黨分開抗日,各有各打,說到底,大家都不相信對方,一致槍口對外,並不代表要做朋友。3月2號,日軍襲擊廣州機場,並轟炸中山大學,狂轟濫炸,濫殺無辜,令人髮指。同日,《申報》出版香港版,中華民國第一夫人宋美齡(1898-2003)亦辭去航空委員會主席一職,由宋子文(1894-1971)繼任。3月3號,日本轟炸海口。3月4號,蔣介石兒子蔣經國(1910-1988)出任江西省政府保安處副處長,開始重新踏足政壇。 3月5號,國民黨宣佈不再取替中國字拉丁化運動;3月6號,中華基督教徒全國聯合會成立;3月7號,漢奸周鳳歧(1879-1938)喺上海遇刺身亡,當然係軍統戴笠做嘢。周鳳歧係軍人出身,曾經參與過1927年嘅412事變,屠殺共產黨人。1927年9月白崇禧解除周鳳岐職務,周鳳岐從此賦閒,其間佢同日本人來往甚密,好多證據顯示佢賣國求榮,抗戰爆發後,1938年2月從家鄉長興縣前赴上海。1938年3月7日下午響上海法租界亞爾培路80號上海寓所門前,被軍統亂槍打死。同日,日本佔領威海衛。 3月8號,國民黨規定,各抗日團體一切集會演講應先期呈核,國民黨最驚乜嘢?最驚你宣傳抗日,其實宣傳共產主義。3月10號,約9000名日軍,響20輛戰車,30餘門大炮,10幾架飛機掩護下,向國軍龐炳勛(1879-1963)軍團駐守嘅臨沂進攻,但板垣師團響臨沂遇到咗頑強嘅抵抗,張自忠(1891-1940)嘅第59軍已經馳援臨沂,第五戰區參謀長徐祖詒(1895-1976)也親自坐鎮臨沂指揮,中日雙方交戰近20幾日,臨沂數度告急,但始終仍然被控制喺國軍手中,雙方死傷慘重,打到3月29號夜晚,板垣師團退守義堂集、艾山一帶,其主力兩個步兵聯隊,一個野炮連隊撤出戰鬥,匆匆開向臺兒莊,由此可見,中日雙方並非冇得打,只不過係好多時候有部隊唔想打。 3月11號,中央廣播電臺遷往重慶播音,今日日軍亦都第14次空襲西安,中國空軍起飛擊退日機。武漢瀕臨大會戰前夕,之前已經講過,國軍已經喺武漢外圍築起層層防線駐軍30萬,迎接日軍大軍壓境。工礦調整署招集廠家代表開會,部署緊急遷拆工作。七七事變發生後,上海告急,各廠紛紛內遷去武漢,但係武漢亦都遭受日軍空襲,亦非安全之地。於是內遷各廠不得不進行第二次內遷,根據計畫,第二次內遷地點主要係重慶,以宜昌為中轉地,南遷一部分工廠去到廣西及雲南。其中遷移到廣西嘅工廠以紙、糖及印刷業最多;遷往雲南工廠以紡織、電器、冶鍊為最多,單單依兩個省,就預備遷入機件器材各約5000公噸。 大家可能會問,中日戰爭爆發,日本投資係中國嘅公司同企業,又係乜嘢情況呢?好似日資大冶煤炭產量,因為中日戰爭爆發,銳減到每日出煤20噸,但係日方依然每月從香港匯款支付工人工資,以使礦工不散,其用意係一旦日軍佔領武漢,即可全面利用該礦立刻投產。從呢個例子,大家亦可以睇到香港喺當中擔任嘅金融角色,香港係英國嘅殖民地,中國同日本打仗,英國置身事外,繼續做其生意,你唔好搞到我就得喇。 3月12號,國民政府實行外匯統制,全面進入戰時經濟狀態。同一日,香港學生賑濟會發起「三日節食節用運動」,慰勞抗日將士,大概響1938年春天,香港殖民地政府仍未察覺到日軍會全面佔領香港,以為可以永遠置身事外睇戲。3月14號,新四軍北上抗日,3月15號,中央銀行設立香港辦事處,同日,八路軍喺午城一帶伏擊日軍,殲滅敵人千幾人。同日,軍委會通令喺各軍事學校設置政治部主任及團連指導員,戰爭發生,需要培育大量軍人以應付作戰需要,但培育軍人同時,絕對不能疏忽意識形態教育。 叉開一筆,講下軸心國形成,軸心國體系始於1936年10月25日德國同意大利達成協調外交政策嘅同盟條約,建立所謂「柏林-羅馬」軸心,德國並與日本帝國於1936年11月25日簽署反共產國際協定,1937年意大利於11月6日加入該協定,軸心國體系初步成型。 但係1937年中日戰爭爆發,納粹德國嘅希特拉並唔係一面倒支持日本侵華,去到1938年年頭,希特拉必須解決遠東外交困境,選擇持續與中國自1910年代建立嘅中德關係?抑或與日本結合新聯盟?當時,軍隊甚至強烈支持與中華民國持續友好關係,利用外交政策使歐洲遠離中日戰爭。但去到1938年初,希特拉任命里賓特洛甫(Friedrich von Ribbentrop,1893-1946)為新任外交部長,局面就完全改寫,佢支持同日本建立軍事同盟,繼而希特拉終止中德關係,選擇軍事上較現代化、較強大的日本。在之後德國議會中,希特拉宣佈承認日本所扶持嘅滿洲國並聲明放棄一戰戰敗在太平洋所失去被日本取得嘅殖民地。希特拉同時命令終止德國一切對中國物資與人力上援助,而蔣介石則取消咗中德經濟協定作為報復,德國失去咗自中國而來嘅軍需原料,僅能從開放市場取得有限嘅貨物供應。 #常威💀 #蔣介石平反系列 #佛經抄寫員 #中日戰爭 #民國歷史 https://www.instagram.com/p/CqA2Il4vRBg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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金門春捲傳奇
藝文
世界副刊
陳漢平(1月&2月徵文:有故事的一道菜) 2023-01-21 02:02
膾炙人口的美食,能賞心悅目、滿足味蕾。而膾炙人口的歷史傳奇,則是盪氣迴腸、感動人心。美食加上歷史,是飲食文化的至高境界。
一年之中每個重要節慶,都有一種具代表性的美食,加上一段富吸引力的歷史,將原本就繽紛綺麗的喜慶氣氛,點綴得更精彩萬分。
端午節有粽子,清明節有春捲,中秋節有月餅,元宵節有湯圓,除夕有火鍋,春節有年糕。西方國家的節日,也有具象徵意義的美食。感恩節有火雞,萬聖節有南瓜,復活節有彩蛋,國慶日有烤肉。
清明節,細雨紛飛,行人斷魂,漂泊天涯的遊子,只能藉酒消愁。那是個懷念故鄉和先祖的節日。代表著清明節的美食是:春捲。
在我故鄉金門,除了清明節吃春捲,到了冬至和春節,也會吃春捲。因為根據金門、廈門、泉州和閩南一帶的傳奇故事,春捲的起源,歸功於明朝進士金門人蔡復一的夫人李氏,李氏是潮州太守的孫女。童年時,每逢清明、冬至、春節,春捲上桌時,我最喜歡聽母親講述這段曲折動人的口述歷史。
在金門,春捲稱為「砌餅」,音如「七餅」,或許因為它由多種食材堆砌而成。它聽起來也像「擦餅」,也許由於餅皮超薄,製作時師傅手抓一把麵團,迅速在發燙鐵板上一「擦」,就是薄薄的一張餅皮。小時候等在爐邊欣賞師傅施展「擦餅皮」功夫的畫面,如今仍在腦海之中。
母親擅於烹調,在家中吃春捲,不僅是一道菜,而是一桌「春捲宴」,調好的主菜以高麗菜、胡蘿蔔為主,放在圓桌正中央,周邊圍繞著大碟小碟的各式內餡食材,包括了烤鴨、烤肉、雞絲、蟹蝦蚵等海鮮,還有蛋皮絲、花生粉、香菜、蘑菇、紫菜、海苔、蔥薑蒜,和各種鹹甜酸辣的醬料。
將餅皮攤開鋪在圓盤上,是五味俱全的調味盤,如藝術家五彩繽紛的調色盤,每人依照自己口味,選擇內餡食材,創造出各自獨特的風格滋味。
春捲的特色,是內餡的變化性和可塑性,任何珍貴食材,包括蘆筍、松露、魚子醬、干貝、鮑魚、海參、烏魚子,皆可使用為內餡食材。除此之外,我最喜歡的是家中一種特殊的「甜春捲」,母親說那是外祖父異想天開所創造出來當作早餐的「創意甜春捲」,春捲皮裡包著的,是金門特產的花生貢糖,和一段掰開的香脆油條。母親引述外祖父專門為形容這種「創意甜春捲」所寫出的兩句閩南語押韻聯語:「洋菸番仔火,貢糖油炸菓。」他口中的「洋菸」是當時流行的英國555牌香菸,「番仔火」是火柴,「油炸菓」是油條。這種吃法堪稱是別出心裁的人間美味。
鑑賞美食也像品��美酒一樣,要看它的體態和靈魂。春捲的各式海陸葷素食材,各有婀娜的風姿,醬料如同胭脂粉黛,有的濃妝豔抹,有的淡掃娥眉,小菜則如金飾玉珮,畫龍點睛、錦上添花。餅皮在攤開和捲起之間,如同羽衣霓裳蘿裙,凌空旋轉飛起,吸引全場目光,令人嘆為觀止。
春捲的好處很多,和粽子、月餅、湯圓、年糕相比,春捲比��有益健康,它以蔬菜為基礎,其他配料可以各自斟酌。春捲包好之後,可煎可炸,風味各異。形狀則可大可小,可作主餐,也可作開胃菜。
春捲已經進一步國際化、全球化,它傳到歐美國家,演變出小型袖珍炸春捲,稱為「蛋捲」(Egg Roll)。近年外國超級市場,還出現以義大利「皮薩食材」為內餡的蛋捲。
傳到了東南亞,有時用白色半透明餅皮,春捲(Spring Roll)變成了「夏捲」(Summer Roll)。夏捲內餡常包括鮮蝦、絲瓜、椰子粉,帶有熱帶的夏日風味。
「每逢佳節倍思親」,春捲吃在口中,心裡感受到人生的溫馨、甜美、幸福。這時再想到動人心弦、感人肺腑的傳奇歷史,胸中則興起一種傷春悲秋的情緒,令人低迴不已。
童年時,母親所講述那段春捲起源的歷史,在金門、廈門、閩南一帶,家喻戶曉。
根據「精簡版本」,明朝萬曆年間,金門出了一位神童,名叫蔡復一,天賦異稟,文武全才,十一歲時就寫出一篇文情並茂的〈范蠡傳〉。他考中進士後,任刑部主事,一鳴驚人,掌理當年轟動一時的「石星案」。其後出任雲貴總督,屢建軍功,獲封為兵部尚書,並被賜予尚方寶劍。《明史:蔡復一傳》上說他「好古博學,善屬文,耿介負大節」。他最獨特的人格特質是力疾從公、夙夜匪懈、廢寢忘食,因此他的夫人李氏,才發明了容易握食的春捲,使他能一邊工作、一邊吃。
當年母親如數家珍、娓娓道來的,則是「豪華加強版」,可以媲美一部章回小說,其中有許多「戲劇化」場景和情節。它像《今古奇觀》、《拍案驚奇》的故事一樣,包括了一些「正史」之外的趣味民間傳說,故事內容精彩、曲折、離奇。小時候吃春捲時,聽到這段口述歷史,每次我都聽得如痴如醉、目瞪口呆。
當時我就在想:故事裡那位權傾一時的宰相石星,既能治國,又懂命理,文章武略也與眾不同,究竟是怎樣一位厲害人物?而「石星案」又是怎樣一宗離奇的重要案件,為何明朝皇帝要下旨問罪?位高權重的宰相會因此下台?而掌理此案的刑部主事蔡復一如何地廢寢忘食、心力交瘁?以致蔡夫人李氏需要想出「包春捲」的辦法來照顧他。
我長大之後,愛書成癖,也養成了一種「考據癖」,凡事都愛「打破砂鍋問到底」,窮追不捨,總要查證到水落石出,才肯罷休。春捲是我最愛吃的美食,史書是我最愛讀的類別,清明節是個重要節日,金門又是我的故鄉,春捲由來的傳奇故事,其中來龍去脈,當然值得下一點功夫心思,抽絲剝繭,好好弄個清楚。
於是我找到了《明史》和其他一些參考史料,對照分析、詮釋解讀,最後對這段歷史,總算理出了一些頭緒,對金門春捲的人文意義,有了更深層的瞭解。
根據歷史考證起來,故事中的「石星案」,確實是個影響重大的案件。故事裡的宰相石星,在正史上是兵部尚書,當時確實位高權重,是朝野注目的焦點,因為在明朝萬曆年間,亞洲地區發生了一場重大戰爭。
萬曆二十年,日本幕府大將軍豐臣秀吉出動二十多萬大軍,發動了「朝鮮戰爭」。他計畫在拿下朝鮮之後,「用朝鮮之兵為先鋒,以入於明,合三國為一。」
當時朝鮮是明朝的屬國。日本大軍倏然來襲,韓王措手不及,一路敗退到鴨綠江,立刻向明廷請援,掀開近代第一場中日大戰。
那場「三敗俱傷」的戰爭,徹底改變了中日兩國的命運。發動戰爭的豐臣秀吉,折損了幾十萬大軍之後,抑鬱而死,將日本天下拱手讓給了德川家康。
明廷受到的重創,更為嚴重,《明史》上說:「喪師數十萬,糜餉數百萬。」明廷元氣大傷,滿清趁機坐大,最終導致了明朝的覆亡。
誰需要為這場戰爭負責呢?在日本,禍首當然是發動戰爭的豐臣秀吉。而在中國,當時馳援朝鮮的,雖然有名將李成梁的兒子李如松、李如柏、李如梅等英勇善戰的李家將,然而明廷進行「中日談判」時,卻錯用了一個市井庸人,名叫沈惟敬,成事不足,敗事有餘,他的一場「封貢和談」鬧劇,等於火上加油,使戰事更為加劇。兵部尚書石星,雖有才學,卻缺乏「危機處理」能力,用人失當,受到拖累,成為究責的目標。
當時這宗「石星案」上有聖旨、下有輿情,掌理案件的刑部官員們,壓力之重,可想而知。廢寢忘食,沒時間吃飯,大概只能形容其一端。
每一種危機,都是激發創意的良機。在此危難關頭,蔡夫人李氏發明了可握食的春捲,恰得其時。
春捲誕生於五百年前,當年中國正面臨國際化、全球化的衝擊和挑戰。這五百年來世界局勢的鉅變,超過了之前的五千年。
萬曆十一年,天主教耶穌會傳教士利瑪竇到達中國,將天文學、幾何學、地理學引入中國,從此之後,國際競爭進入另一個新的時代。福州、廈門、泉州、潮州,當年都是對外通商的大港,居民和南洋及歐亞各地關係密切,深切體驗到國際化的喜怒哀樂。
吃著春捲,想起五百年來全球發展的危機和挑戰。心中存著這些跨越時空的感懷,美食吃在口中,別有一番滋味在心頭。(寄自加州)
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平野屋 香魚
平野屋 香魚
瀨戶內 寂聽 修策 說晚餐來吃 香魚 差不多就黃昏慢慢從 小倉山 背後降下來
的時分。
「香魚還太小吧。」
「去街上太麻煩,用散步的走到寺那邊吧。」
修策 是美食家,來京都,就為了想吃 大市 的鱉、平野屋 的香魚
已經成了口頭禪。
[Kyoto Shinko Dango] Hiranoya, a shop that has been entertaining customers for 400 years - YouTube 「和我相會,只是 吃鱉和香魚的順道嗎 ?」
伶子 笑了一下不承認。因此所以,修策 的算計是,多勻出時間讓
伶子 在廚房,可以完整的享受偶而的幽會。伶子 漸漸的也悟出了
心得。
自己下廚的料理,只在一日二餐主義的 修策 的早餐,晚餐則一向
都是去街上的小料理店,或 嵯峨 一帶的料亭解決。
過了念佛寺,愛岩山的大鳥居下方,歷史悠久的 平野屋香魚旅宿,
竹村志乃女將(旅館・料理屋・居酒屋等の女主人)的好意,伶子
不知什麼時候和這位女將熟捻了起來,東京來了旅客親自接待的
狀況也多了起來。
打通了電話之後馬上換 女將 接聽
「是兩位嗎,感謝,敬候光臨。」
一直就高雅的聲音,伶子 聽了感覺溫暖。生於嵯峨長於嵯峨,對
嵯峨的份,對嵯峨街巷就有多熟悉,也學到了各種染料草木生長的
地方。
「有房間了。」
伶子 向人在院子的 修策 喚了一聲,馬上換衣服。
江戶時代街道上的旅宿,原樣完整的留存在那邊 ;屋外舖著紅色
毛氈的床几,屋簷下掛著“香魚”的大燈籠。進門處擺著祖上
傳下來的木柵欄,牆壁邊的素甕隨意的插著幾支當季的野草與
木花似乎是唯一的裝飾。
今天插著山桐的花。
從進門處可以一眼看到最裡面的房間。這個季節有沒有拉門已經
不重要,走道都打開著,可以看到裡面的客人。房間的對面,
迎面就是山,山與房的中間有水池,在現在的季節,山上的楓樹
有了青翠的新綠,池底蘊染著綠色。
還不到 10公分 的香魚令人心疼的稚嫩美麗,交叉的放在綠葉上面,
是要顯得大些嗎。
頭部柔軟,鰓有點苦,稍帶焦味的稚魚在齒間散落。
How to Grill Ayu and Eat It Neatly【English subtitles】 - YouTube
「好像有點可憐。」
伶子 一面好吃的賞味著舌尖的苦味,一面嘟噥著。
香魚很下酒,修策 又追加了酒和香魚。
「冬天吃什麼 ?」
一面等著香魚,修策 幫 伶子的杯子倒了酒。
「冬天吃牡丹鍋啊。」
[Botan nabe place Myogetsuan] Button pot wild boar meat in Tamba-Sasayama City, Hyogo Prefecture - YouTube
喜歡手酌酒的 修策,對 伶子 的倒酒覺得礙手。
手酌の酒 唄・篠原としゆき 作詞・みかみきくえ 作曲・島かずお - YouTube
「真正喝酒的人一般都自己倒吔。不照自己的步調酒就不好喝。」
伶子 自從與 修策 開始交往,就懂得了酒的味道,不過還不到自飲的
程度。
走出 平野屋 時,女將(Okami)點了 鮎手提燈籠。每年一到季節就
郵寄宣傳用的燈籠給熟客。一點上蠟燭,如同玩具的燈籠就浮現
水色,相當實用。
「燈火應該可以維持到家吧。」
外面已經昏暗了,大燈籠的燈火在昏暗的夜色中滲透著菜種一般的
顏色。
斜坡的道路,回程輕鬆。那一個家都關了雨棚,從門的隙縫露出了
溫暖的燈光顏色。
高空掛上了檸檬色的月亮。
「今天的 伶子 真是美麗。」
修策 靠上了提著燈籠的 伶子,攬著肩膀。街道除了兩人之外沒有
人影。
兩人彼此相依偎著,伶子 柔軟如同花芯,身體彎繞靠上了 修策。
抬頭承受了 修策 落下的面容,一手伸出手提的燈籠,伶子 身軀不
太穩定,就由 修策 扶上了。
雙脣分離時,有了香魚的美味。 (愛 の 時代 ) 京都自由行 https://asiayo.com/event/kyoto_jpfit.html
[解封後日本旅遊]|京阪神吃什麼?32家美食名店推薦|(Google Maps連結在留言)#京都 #大阪 #神戶 自由行 - YouTube
京都すっぽん料理��大市(だいいち)』公式ホームページ (suppon-daiichi.com)
瀬戸内寂聴さん(99)死去 対談で語っていた「生きる意味」【news23】 - YouTube
【京都旅遊】錦市場美食散步😋��乳甜甜圈、海鰻天婦羅、奶油紅豆鯛魚燒、豆皮奶油可樂餅、史努比茶屋・關西京都自由行|實彩子Misako’s Vlog - YouTube
Romantic Italian Music with Spectacular Scenic Relaxation Views of Italy | 4K - YouTube
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【常威近代史】(七百七十二回)
希特拉的選擇
時間線進入1938年3月,3月1號,中共向國民黨提議成立統一嘅全國抗戰領導機關,到目前為止,國共兩黨分開抗日,各有各打,說到底,大家都不相信對方,一致槍口對外,並不代表要做朋友。3月2號,日軍襲擊廣州機場,並轟炸中山大學,狂轟濫炸,濫殺無辜,令人髮指。同日,《申報》出版香港版,中華民國第一夫人宋美齡(1898-2003)亦辭去航空委員會主席一職,由宋子文(1894-1971)繼任。3月3號,日本轟炸海口。3月4號,蔣介石兒子蔣經國(1910-1988)出任江西省政府保安處副處長,開始重新踏足政壇。
3月5號,國民黨宣佈不再取替中國字拉丁化運動;3月6號,中華基督教徒全國聯合會成立;3月7號,漢奸周鳳歧(1879-1938)喺上海遇刺身亡,當然係軍統戴笠做嘢。周鳳歧係軍人出身,曾經參與過1927年嘅412事變,屠殺共產黨人。1927年9月白崇禧解除周鳳岐職務,周鳳岐從此賦閒,其間佢同日本人來往甚密,好多證據顯示佢賣國求榮,抗戰爆發後,1938年2月從家鄉長興縣前赴上海。1938年3月7日下午響上海法租界亞爾培路80號上海寓所門前,被軍統亂槍打死。同日,日本佔領威海衛。
3月8號,國民黨規定,各抗日團體一切集會演講應先期呈核,國民黨最驚乜嘢?最驚你宣傳抗日,其實宣傳共產主義。3月10號,約9000名日軍,響20輛戰車,30餘門大炮,10幾架飛機掩護下,向國軍龐炳勛(1879-1963)軍團駐守嘅臨沂進攻,但板垣師團響臨沂遇到咗頑強嘅抵抗,張自忠(1891-1940)嘅第59軍已經馳援臨沂,第五戰區參謀長徐祖詒(1895-1976)也親自坐鎮臨沂指揮,中日雙方交戰近20幾日,臨沂數度告急,但始終仍然被控制喺國軍手中,雙方死傷慘重,打到3月29號夜晚,板垣師團退守義堂集、艾山一帶,其主力兩個步兵聯隊,一個野炮連隊撤出戰鬥,匆匆開向臺兒莊,由此可見,中日雙方並非冇得打,只不過係好多時候有部隊唔想打。
3月11號,中央廣播電臺遷往重慶播音,今日日軍亦都第14次空襲西安,中國空軍起飛擊退日機。武漢瀕臨大會戰前夕,之前已經講過,國軍已經喺武漢外圍築起層層防線駐軍30萬,迎接日軍大軍壓境。工礦調整署招集廠家代表開會,部署緊急遷拆工作。七七事變發生後,上海告急,各廠紛紛內遷去武漢,但係武漢亦都遭受日軍空襲,亦非安全之地。於是內遷各廠不得不進行第二次內遷,根據計畫,第二次內遷地點主要係重慶,以宜昌為中轉地,南遷一部分工廠去到廣西及雲南。其中遷移到廣西嘅工廠以紙、糖及印刷業最多;遷往雲南工廠以紡織、電器、冶鍊為最多,單單依兩個省,就預備遷入機件器材各約5000公噸。
大家可能會問,中日戰爭爆發,日本投資係中國嘅公司同企業,又係乜嘢情況呢?好似日資大冶煤炭產量,因為中日戰爭爆發,銳減到每日出煤20噸,但係日方依然每月從香港匯款支付工人工資,以使礦工不散,其用意係一旦日軍佔領武漢,即可全面利用該礦立刻投產。從呢個例子,大家亦可以睇到香港喺當中擔任嘅金融角色,香港係英國嘅殖民地,中國同日本打仗,英國置身事外,繼續做其生意,你唔好搞到我就得喇。
3月12號,國民政府實行外匯統制,全面進入戰時經濟狀態。同一日,香港學生賑濟會發起「三日節食節用運動」,慰勞抗日將士,大概響1938年春天,香港殖民地政府仍未察覺到日軍會全面佔領香港,以為可以永遠置身事外睇戲。3月14號,新四軍北上抗日,3月15號,中央銀行設立香港辦事處,同日,八路軍喺午城一帶伏擊日軍,殲滅敵人千幾人。同日,軍委會通令喺各軍事學校設置政治部主任及團連指導員,戰爭發生,需要培育大量軍人以應付作戰需要,但培育軍人同時,絕對不能疏忽意識形態教育。
叉開一筆,講下軸心國形成,軸心國體系始於1936年10月25日德國同意大利達成協調外交政策嘅同盟條約,建立所謂「柏林-羅馬」軸心,德國並與日本帝國於1936年11月25日簽署反共產國際協定,1937年意大利於11月6日加入該協定,軸心國體系初步成型。
但係1937年中日戰爭爆發,納粹德國嘅希特拉並唔係一面倒支持日本侵華,去到1938年年頭,希特拉必須解決遠東外交困境,選擇持續與中國自1910年代建立嘅中德關係?抑或與日本結合新聯盟?當時,軍隊甚至強烈支持與中華民國持續友好關係,利用外交政策使歐洲遠離中日戰爭。但去到1938年初,希特拉任命里賓特洛甫(Friedrich von Ribbentrop,1893-1946)為新任外交部長,局面就完全改寫,佢支持同日本建立軍事同盟,繼而希特拉終止中德關係,選擇軍事上較現代化、較強大的日本。在之後德國議會中,希特拉宣佈承認日本所扶持嘅滿洲國並聲明放棄一戰戰敗在太平洋所失去被日本取得嘅殖民地。希特拉同時命令終止德國一切對中國物資與人力上援助,而蔣介石則取消咗中德經濟協定作為報復,德國失去咗自中國而來嘅軍需原料,僅能從開放市場取得有限嘅貨物供應。
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