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氷河のこと
氷河から、氷の塊が海に流れていく。大小あって、途中で止まってるのもある。止まってる氷に同じくらいの大きさの氷がぶつかって、静止する。どれくらい時間が経ったのかわからなかった、1分もなかったかもしれないけど、細くて軋んだ網の目のような音がして、流れてきた氷が2つに割れて、放りだされていった。
たまたまiPhoneで動画を撮っていた。
画面を介してと、視界の端と、二重に見つけたそれは、カミナリみたいに頭を揺らした。見えるわけないしまだありもしないはずの未来の映像みたいだった。止まってると思ってたのに、微細な角度でぶつかり続けて、割れた。水ってそういうものだった。あの瞬間はぼくしかあれを見てなかった。決定的な何かである。宇宙と自分との関係かもしれない。あんな音はずっと聞いたことがなかった。
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犬になった彫刻家、犬と網タイツ、或る犬の回想
夏休みには何もすることがなく、たとえば家にずっといて、サマータイムマシンブルースと時をかける少女を繰り返し見る。保健の先生がなぜかダイハードを見て感想を書いてこいとかいう謎の宿題を出すから、ダイハードを4まで見る(すごくおもしろかった)。ブルースウィリスの裸足にガラスの破片が刺さっていくのを、自分のことのように思う。正月の三が日の深夜にブリジットバルドーの特集がやっていて、なんとなく見る。あの時間たち、映画の外の音は一切なかった。
田舎だった。
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映画のイヌ
1.映画におけるイヌ概説
イヌは今では愛玩動物、いわゆるペットとして人間の側にいる。番犬やパートナー、場合によっては家族同然の存在として。その歴史は随分と過去まで遡り、考古学的には何万年も前からさまざまな付き合い方(ペット、狩猟、食用)を経て、現在に至るという。
最も人間の近くにいる動物として、イヌを愛してやまない映画作家は数多くいる。例えばルイス・ブニュエル、ジャック・タチ、アキ・カウリスマキらがそうである。そしてその映し様は多岐に渡るだろう。ひとつには、登場人物の映し鏡であったり意味作用そのものを具現化する、象徴的な演出としてのイヌ。また、ストーリーにおいて展開を転がすためやアクションを起こす、モデル(俳優)としてのイヌ。中でも最も重要視したいのは、ただそこに存在するだけのイヌ、映画としては目的性を欠いた自然としてのイヌだ。
これから、既存の作品を挙げつつ、イヌの映画での在り方を見ていこうと思う。
2.イヌと死(※追記予定 殺されるイヌ『人生案内』『ひかりのまち』)
イヌは映画において、死と関わり合いの深い動物であると言える。まず映画の起点として、冒頭にイヌが出演することがある。クレマン『禁じられた遊び』(1952)、フリドリクソン『春にして君を想う』(1991)、スタエルスキー『ジョン・ウィック』(2014)などが挙げられる。そしてこれらの作品には、主人公の旅、つまり物語を運び込む呼び声として、イヌの死が訪れるのだ。『ジョン・ウィック』に関しては、主人公は結末に再びイヌと出逢い、それがさらなる物語の鏑矢を示唆する装置として機能する。この循環は、イヌそのものに内在する特性である。すなわち、イヌの終わりである死は映画の始まりと同義である、ということだ。
登場人物と(意識的に)同等に映されるイヌには、このような意味作用がつきまとう。しかしカメラが捉えなければいけないのは、すべてにおいて等しい目線の事象であり、またそうしたイヌであると考える。でなければそこに、因果律や論理を断ち切った現実を感得する自然としてのイヌの姿があるはずもない。これは非常に重要なことなので、後述することにする。
また、イヌは死にとても敏感だ。イヌはしばしば、死(の予兆)を知らせる導線の役割を担う。デュヴィヴィエ『にんじん』(1932)では、主人公の少年が自殺しようとするまさにその時、イヌが少年のもとへと続く梯子に擦り寄る。それによって父親が息子のとろうとしていた行動に気がつくのだ。ルコント『髪結いの亭主』(1990)では、急死した床屋の女店主の体をイヌが押し転がすことによって、主人公少年は決定的な愛する女の死を目の当たりにする。これらは人間がするよりも違和感のない、動物の鋭敏な感覚を活かした演出を可能とする、イヌの持つ特性と言えるだろう。似た事例として、アブラハムソン『ルーム』(2015)におけるイヌの行動にもこの演出が当てはまる。監禁されていた主人公少年から発せられる不穏な匂いを嗅ぎとり、散歩中のイヌが少年へと干渉する。これによって少年は救われるのだ。イヌは、人間を直接救うことはできない。ただ寄り添うしかないその姿からは、抑えられた引き算の美学を感じさせる。
こんな論もある。イヌは冥界と繋がっているという、古代からの紐付けだ。浅学ゆえ多くは記せないが、エジプトにおけるアヌビスやギリシャ神話のケルベロスがそうである。イヌが死への案内人というモチーフを通して見てみると、カウリスマキ 『パラダイスの夕暮れ』(1986)で、主人公の同僚が死んでしまった直後に一瞬挿入される画面の奥へイヌが走って行くショットが、霊的な美しさを放っていることに素直に頷くことができるだろう。
死と不可分の関係にあるイヌは、俳優には手の届かないアクションを背負うとともに、始まりや終わりといった映画における時間的な仕切りのようなものをその身に宿していることになるだろう。
3.走るイヌ
ムルナウ『サンライズ』(1927)、カルネ『霧の波止場』(1938)、タチ『ぼくの伯父さん』(1958)、アザナヴィシウス『アーティスト』(2011)……と枚挙に暇がないのが、「走る」イヌが登場する映画だ。そしてこの「走る」というアクションが、映画、ひいては虚構の枠組みを揺さぶることになる。巨大なスクリーンは、かつてリュミエール兄弟が人々に発見せしめたように、葉っぱのざわめきや揺れる波のちいさくも尊い動きを見つけることができるという、ある喜びを浮上させる。そんな画面に映るイヌは、自然の挙動としてはあまりに巨大で、かつ持続的な、質量の移動を我々に見せつける。ともすればコントロールされ尽くした映画という総合の中で、この移動は生のダイナミクスを放ち、偶然の威力が作品を穿つ。しかし危険なのが、「走る」ことを捉えるのが、「走らせる」ことと表裏一体となることだ。一演出でしかないイヌに、魔力的な光は降り注がない。物語の一端を担うような、例えば前述した『アーティスト』のイヌの姿に、それがよく表れてしまっている。イヌから現出する最大限の魅力ではあるが、「走るイヌ」は文脈の一つに収まってしまうという危うさも備えている。
余談ではあるが、フラー『ホワイト・ドッグ』(1981)のイヌ疾走のシークエンスは瞠目の熱量で、一見の価値あり。
4.演じるイヌ
では、物語の一翼を担うイヌは、映画を貶めてしまうだけのものなのか? これはその限りでないと考える。ホークス『赤ちゃん教育』(1938)、キアロスタミ『パンと裏通り』(1970)のイヌたちを見ていく。
『パンと裏通り』は、子どもとイヌの織りなす、短くもスリル溢れる路地裏ドラマだ。ここでは子どもの目線でストーリーが進行することにより、イヌは我々が普段認識しているような、取るに足らないものではなくなっている。画面に映っているのではなく、映さざるを得ないのだ。その時カメラは、子どもとイヌとを、ようやく等しく焼き付ける。また、牙を剥いたり懐いたりといった、イヌの特長を意識したパフォーマンスも見られる。想像や予想を形にしてくれる、イヌの温かなイメージがそこにはある。
『赤ちゃん教育』には、まず伏線の一つとして、イヌが「音」を生み出す機能を有するものとして扱われる。イヌが吠えることはもちろん気にかけるほどのことでもない。そこをうまく突いた「見えない」演出であるが、そんな序盤からやたらと気にかかるイヌが、後半には驚くべき展開を見せることになる。動物園から逃げ出したとされる豹に、応戦(?)するのである。戦っているというよりはじゃれあっているようにも受け取れるショットだが、これは一体何が起きているのかと可笑しくなってしまうほど、イヌの底力を感じられるシーンとなっている。
この二作に登場するイヌは、どちらも映画に欠かすことのできないファクターとなっている。完全なるキャストとしてのイヌ、画面を(外からさえも)背負うイヌである。そして大切なのが、それらをどうフレームに収めるかである。全体を操ろうとする危なっかしさをぽろぽろと零し、無闇にイヌに触れようとしてはいけない。飽くまでイヌを世界の一部として、この2作品のように、穏やかに広々と捉えなければならないのだ。いやらしくヨったり、無理やりイヌの場所を作り上げたりと、そういうことをしていては、ヴォーン『キングスマン』(2015)のような見るに耐えないことになる。
5.現実、またはそうではないイヌ
では、映画の中にいながら現実を表すイヌとは? 冒頭で重要だと述べた自然のイヌは、どこに潜んでいるというのか。
ただそこに存在するだけのイヌ、この基本的な形式は、家族として寄り添うイヌがほとんどだろう。ヒッチコック『レベッカ』(1940)、サーク『僕の彼女はどこ?』(1952)、アンダーソン『愛おしき隣人』(2007)、イーストウッド『グラン・トリノ』(2008)などのイヌたちである。彼らはどこまでも自由でかつそれゆえに、カメラに捉えられているという点を除けば、映画からずれた場所にいる。上記の作品においては特に演技もしておらず、一切の演出から逃げ切っているのだ。このイヌたちの仕事は素晴らしい。画面を彩るだけでなくその一挙手一投���に自然の強度を従えて、モノやヒトとの間を行き来する。現実のエネルギーが虚構を希釈していくそのありさま、我々はフレームが進むごとにそれを意識せざるを得ない。
また、人間がこの世界に存在するのは自明のことであり、イヌももちろんそうである。映画にはイヌが必ずしも欠かせない要素であるわけではないからこそ、現実における価値を暴く。フラハティ『極北の怪異/極北のナヌーク』(1922)では、過酷な環境におけるドキュメンタリーによって、自然と同等に並べられるイヌという存在へ、鮮やかに寄り添うカメラに触れられる。
虚構と現実の間を絶妙に浮遊するイヌもいる。それが、カラン『奇跡の2000マイル』(2013)で主人公のパートナーとして砂漠を旅するイヌだ。映画の方法論によってイヌの位相が位置付けられる稀有な作品でもある。淡々と、主人公とイヌが砂漠を歩くさまが映し出される。ストーリーの欠落により、イヌを囲い込む虚構と現実の境界は立ち消え、イヌは「その作中世界の」イヌへといつの間にか変身する。しかし、創作の中に生きることになったイヌから現出する偶然性=自然のために、なんとも微妙な間隙を漂うことになるのだ。
このように映画のイヌは、ヒトやモノが辿り着くことのできない、���常に曖昧なものへ溶けていく。その揺蕩いに巡り合う、ボカノウスキー『海辺にて』(1992)のイヌを紹介して、この論を綴じようと思う。このフィルムは、超現実的とも言える加工された画面を用いた4つの構成から編み上げられており、海とそこに佇む事象を焼き付けている。人間たちの顔や輪郭はぼやけ、個人を認識することはできない。ロングショットを用い、観察映画のように撮影される記号性を剥ぎ取られた彼らへの認識は、最早人間かどうかさえもわからない抽象へと溺れていく。しかし彼らがヨットを扱うさまを目にすることで、道具の使用という人類の属性を取り戻し、彼らは世界と接続される。そんな中、波の狭間にいるイヌは、抽象化されたまま作為の中に取り込まれていく。あるがままの姿のはずが、作者の手から逃れられない。人間が現実へと立ち戻っていくとき、イヌは、虚構と現実の間を彷徨う亡霊となっているのだ。
6.おわりに(※追記未定)
7.おまけ
好きなイヌ
クレール『幽霊西へ行く』(1935)の卓球を邪魔するイヌ
デ・シーカ『ウンベルトD』(1951)のイヌ。オールラウンダー
ベルイマン『夏の遊び』(1951)のでかくてもふもふなイヌ
ファスビンダー『都会の放浪者』(1966)の突如出現するイヌ
タチ『トラフィック』(1971)の小さいイヌ、悪戯少年たちに攫われるときの為すすべないさまが素晴らしい。映画のイヌにはまったきっかけかもしれない
マル『さよなら子供たち』(1987)の雪が降る中子どもたちと戯れるイヌ
クストリッツァ『アリゾナ・ドリーム』(1992)のイヌ。でかい。わざとらしく吠えさせさえしなければ……。冒頭のイヌイットのイヌたちも素晴らしいが、海に落ちるところが可哀想で目を背けたくなる
ドライヴァー『豚が飛ぶとき』(1993)で幽霊といっしょになぜかドアをすり抜けてくるイヌ。普段のたたずまいも良い
フリドリクソン『ムービー・デイズ』(1994)の少年とサッカーするイヌ
五十嵐『息を殺して』(2014)の彷徨うイヌ
ルビン『ゾンビーバー』(2014)の囮にされるイヌ
ジャームッシュ『パターソン』(2016)のイヌ。窓辺に顔が見えるカットが良かった。郵便受けを傾けるのはあまり好きではない
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おひさしぶりです!
ちいさく区切られた窓からのひかりが、何かに見えて、そこを踏めなかった。足りない部分が綺麗なものに作用する。定点のように時間が過ぎるのを見て、一直線ではないところにいた。布
カフェラテの牛乳だけが、器よりもずっとしろいし、本質は何もない。エスプレもない。ということは牛乳のが上位? そういえば牛乳のがみんな求めてる。中途半端がよくないと誰が決めた。
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日本
夜勤明け松竹イップマンさん連チャンを見ようと思い立つが乗り換えが億劫でそのまま中野に行きわざわざ改札を出て田舎そばかさいでかきあげうどんを食い、まわりのおっさんは食うのがゲキ早いのでいつの間にかひとりぼっちになり早くお前も消えろと言わんばかりに台を拭きだすおっちゃんの横でここの店員の男性連中だけは好かんと心の中で悪態をつき、初めて松竹に朝から並びチケットはスタッフの人がなぜか買ってくれるという人件費の無駄遣いを知り、連用形でしか文章を繋げられない文学部としてあるまじき能力のなさとアットザドライブインのプチプチプチプチした謎の耳障りな音を聴きながらハマケンのねちねちリフレインうぜ〜となんとなくマイナス祭りでしたがドニーイェンで解消します。隣の席は草履に袈裟の坊主頭で哺乳瓶みたいな水筒にお茶入れてた
松竹出たら1630でもう夕方なんだけど、朝から映画見てただけだから時間ワープ感した、まだ昼みたい
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アイスランド
女の人がたばこを捨てて火を消さないままにした。拾って吸おうかと思った。その人はすぐそこの、ぼくの友達がライターを買っている途中のコンビニに入った。たばこを拾うところをその人に見られたらばつが悪いのでうろうろしてたら友達が来て、考えてたことを話したら、そいつはすぐに拾って吸った。ぼくはやめといた。ウィンストンらしかった。友達は買ったはずのライターがねえと言ってまたコンビニに戻っていった。再度コンビニから出てきた時、ピザを持って帰宅しているアベックにぶつかりそうになって騒いでソーリーソーリーと言っていた。
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記念日
二日酔いで起きる。身体の中の酒をとりあえず出す。これで安心と思い二度寝するも、頭はぐわぐわしとる。無性にヨーグルトとか乳酸菌系統のものを味わいたくなり、コンビニでヨーグルト、サクレ、カルピス(二日酔い醒まし)、サンドイッチを買う。イートインで全部食う。サクレ齧ってたら動悸が始まる。バグってんじゃないかというほどのスピードと不規則なリズム。外を歩いても、電車に乗っても止まらない。ふと気づいたが身体があまり動かない。なんとか教室まで持って行くも動悸はするし汗は玉になりびしゃびしゃで俯いてた。呼吸を深くしたり早くしたりしても楽にはならず。隣の席の人や後ろの人には不快な思いをさせたであろうほどの挙動ですまん。吐きそうだなと思い教室を出てゆっくりゆっくり階段を下りる、あ吐く、と察知したら止まって一旦落ち着く。便器を見た瞬間鍵を閉めることも叶わず大量に水が出た。家で飲んだ茶と、カルピスとサクレだろう。しかし摂取量の三倍くらいの放水量だったのでおそらく体内のいろんなとこから水が寄せ集められたのではないだろうか。教室に戻って俯いてヒッヒッフーしてると、あんなにうるさかった心臓がむしろ止まったかのようになった。手足の感覚がなくなったのでギリ脳みそに血がいってる程度でほん��に心臓動いてなかったと思う。なんかこのまま意識なくなりそう、バイト行けねーなどうしようと考えたけどバイト行って吐きすぎて喉を固形物が通るたびに無茶苦茶痛くてサラダうどん食うのに30分くらいでした。ヨーグルト飲みました。
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ビーム
ふと、図書館でかい窓の日除けの薄い仕切りに、木の枝の、葉っぱの影が揺れていて、化け物のようなんだけれど、あまりに陽射しが乳白色だから、ざわめきも聞こえず、穏やかに見つめていた。図書館の横に長い机にいつの間にか自分一人しかいず、木々の優しさに、18時からのアニメタイムやいつの間にか用意されている夕食のことを思い出し、唐十郎の、ガラスのかけらをテーブルにこするとりんごの匂いがしたという記憶に嫉妬する。
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日記
病院で起きると薄い朝。外に出ると5時なのにむわとする季節になった。 電車は人間のことを嫌いになる。移動と嫌悪のための装置。中野は終点なので、みんながどんどん脱落していくのを見送る。 立ち食いそば屋に入れば、エレキギター全盛期のラジオ。マツコデラックスか伊集院光の声かわからない。曲流れる。演歌の人は名前忘れたが、ギターは加山雄三。演歌とエレキのバトルだとかなんとか。 ツタヤ、カウリスマキとドランとリンクレイターを借りる。ラブストーリーしか見たくないので。ドランは嫌いだけど、授業の予習のために仕方なく。ドランやだな 洗濯してたら、鳥を至近距離で視認。ベロが常に出ていたのでアホみたいだった。向かいに住んでる怖いおじさんも初めて視認。杖をついてえぐい咳をしてよたよた歩いてた。背中汗がティーシャツに沁みてた。40を過ぎたら身体機能が下り一直線だから色んなことに余裕なくなる、そらあ若い奴らは楽観的よというツイートを思い出す。 JTBの社員はすべてアロハの女。 一昨日くらいに見たハネケ『隠された記憶』よかった。ついつい真似して、格好つけたくなる。神の介入についてフィルマークスに書いたけど、全然的を射てない気がしてきた。あのエンドロールの限りない日常感、あれはなんだ? 多分録音がすごい。 ハネケよかったですと先生に伝えたら韓国映画の話をされる。大学生でも、ここまで自分のしたい話を自分がしたいだけするやつはおらん。ゼミの先生もそうだけど、幼い。やばいことだ。ぼくはアホにはなれない。
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本のさがしかた
ランドアートの話をするために、千葉大学園芸科へ足を運んだ。庭がたくさんあって、入っていいのか悪いのかわからずずかずかしてしまって監視されてる気分になった。帰るときに振り返ると、A棟は館然としており、その左奥のほうには、暖かくも幽霊的でひとりぼっちな家の灯りがあった。
ぼくはどうにも、子どもの記憶とランドアートを結びつけたく思う。無意識とは自然であり、幼年時代の最良の部分と再会するためには、人間は自然との関係を問い直さねばならんのではないだろうか。 もっと単純に考えるならば、あんなにもでかかった世界はもう本当にないのかと、ランドアートに触れることで、傲慢な物差しを調整するべきだろう、といった感じ。空を見上げて恐怖を覚えたデパートの屋上は、きっとどこかに残ってる。 私たちは、大地と繋がってはいないのだ。目に見えないものばかりだ。体験だけが、確かにあるものだ。目的地までのみちのりは、忘却の中にあるし、記憶は不確かで、でもそこには辿り着かないといけない気がする。
純粋なきもちで綺麗とか美しいとか言う人間に出会った。
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