#お父さんに感謝
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joelekm · 2 years ago
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お父さんの日おめでとうございます!父亲节快乐!💙
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お父さんの日おめでとうございます!この特別な日に、愛するお父さんを称え、祝福します。お父さんは私たちの人生に愛、サポート、指導を与えてくれる素晴らしい存在です。感謝の気持ちを込めて、お父さんに最高の祝福を送ります。お父さんの日を心から楽しんでください!
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koch-snowflake-blog · 7 months ago
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天羽 希純は、日本のアイドル、タレント、アーティスト、モデル、女優、グラビアアイドル。東京都江戸川区出身。ゼロイチファミリア所属。 本名、小松 希純。愛称は「きすみん」「きっちゅー」。ファンの総称は「ちゅー魔」。 ウィキペディア
生まれ: 1996年8月12日 (年齢 28歳), 東京都
本名: 小松希純
身長: 164 cm
テレビ番組: アイドルゾーン20時
カップサイズ: G
スリーサイズ: 84 - 58 - 84 cm
家族構成は両親、弟2人(3歳下と8歳下)の5人家族。
2020年4月の時点で「バブ」「ぷり」「ポン」という3匹の猫を飼っている。
好きな食べ物は栗きんとん。苦手な食べ物は野菜。健康管理、体調管理、体型管理にはとても気を遣っているとのこと。
趣味はクラシック鑑賞、温泉・銭湯巡り、御朱印集め。神社も好き。特技はピアノ、トロンボーン、水泳。
将来の夢は女優になること、武道館ライブをすることを挙げている。数々のアイドルグループを経験しており、「普通に生きてちゃ目立てない」を座右の銘としている。
「希純(きすみ)」という名前は、氷室京介ファンの父によって、氷室の曲「KISS ME」から名付けられた。
母親の影響を受けてか看護学生時代あり。
八百屋、居酒屋、東京ドームシティでアルバイトをした経験がある。
アーマーガールズとしてデ��ューする前に、乃木坂46の2期生オーディションを受けて落ちた経歴がある。その乃木坂46のブログはブックマークに入れてしょっちゅう見ているほどで、いつか共演して必ず追い抜いてみせるという野望を抱いている。
『週刊プレイボーイ』(集英社)開催「適乳(てきちち)」番付には選ばれていないものの、自分こそがという思いで「適乳」をグラビアアイドルとしての売りにしている。2022年まではスリーサイズを前述のように公表していたが、2023年現在では身長以外を非公表にしている代わりにバストはGカップと公表している。
実年齢よりも幼く見え、『cream』の常連モデルを務める。自身では「高校3年生の受験シーズンの感じ」と例えている。
所属する#2i2の最年長メンバー。チームへの思い入れや責任感が強く、#2i2をより有名にしたいとの思いがモチベーションになっている。
本人は自分が不在の間#2i2のメンバーに支えてもらった事をとても感謝しており、そのメンバーの気持ちに応えるため頑張り続けたいとのこと。チーム愛も人一倍強い。
家族想い、メンバー想い、動物想いである。動物愛好家であり、2023年6月時点で3匹の猫と4匹の犬を飼っている。
人柄は明るく、謙虚さを兼ね備えている。TIF2023PR大使決定戦総合ポイントランキング1位になった際も、本人の実力ではなくファンのお陰だからとのコメントを添えている。イベントでは周囲から「神対応」と称されており、ファンとの触れ合いを大事にしている。これは学生時代交流が下手くそで、煙たがれた経験から、好きって言ってくれる人にはできるだけ感謝を伝え、1回でもドキッとして帰ってもらいたい、思い出の爪痕を残したい考えからの行動である。
2023年9月2日、国指定の難病である潰瘍性大腸炎に罹患していることを、自身のSNS投稿で公表した。
2024年10月10日夜にバイクとの接触事故に遭い、頭部を縫う怪我を負ったことをグループ公式サイトが発表した。
2024年10月28日、ヒカルチャンネルのお泊まりシリーズに初出演。
  
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bbbottomsblog · 1 year ago
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変態親父と二日目 – GNT24/365 ーゲイの淫乱セックス体験談ー
ズルチン親父は、約束通り日曜の朝からやって来た。
飲み物を買って部屋に入��。
��脱ぐのも、もどかしいみたいに抱きしめkissして、
お互いを貪り合いギンギンのエロ竿をこすり合わせた。
互いの物からジワァ~っとガマン汁が滲み出す。
キメの用意するのに椅子に座り、
親父にシャクらせながら親父のズルチンを足で弄ぶ。
シャクらせたまま先に自分に針を刺す。
打ち終わると全身に鳥肌がたち、親父に触られてる部位全てが気持ちいい。
鳥肌に気づいた親父が乳首や脇・脚を撫で回しだし、親父の頭を掴み激しく動かした。
親父が咽せて『はっ!』て我に返り、あわてて親父にキメる準備を…。
椅子から立ち上がろうとする俺を座らせ親父が、
『このまま出来るか?』って聞くから、腕を持ち上げたら血の道がベストポジションやったから、
返事もせずに肩口を縛り定位置に針を刺しポンピング!
親父は、根本までガッツリくわえたまま動かなくなったが、
ズルチンからは、漏らしたって勘違いする位ガマン汁が出まくっている!
親父の頭を引き剥がしてベットに押し倒しズルチンのガマン汁を吸い出すようにシャブり付き、
唾と混ぜながら親父に口移しすると舌が千切れるか思う位に吸いつかれた。
何度かやってる内に我慢出来なくなり、
唾ガマン汁の混ざった奴をケツマンに塗り騎乗位で一気に串刺しにされた。
親父に乳首激しく姦れながら腰を振りまくった。親父が、小袋の中からRを取り出した。
親父が手にした奴は新のRだった。
動きを抑え親父がラベルを剥くのを待った。
蓋を開け親父は、自分より先に俺に吸わせてくれた。
深呼吸後思い切り吸い込んだ。
古い物と違い新だけあって最初は刺激臭も無く吸えたんかな、って思いながら、
親父が吸うのを小刻みに動きながら見てたら、一気に効きだして来た。
親父に『来た来た♪』『凄っげぇ~♪』と言いながら親父の胸を力任せに掴みあげた。
俺の激変に親父も急いで爆吸し腰を掴み下から突き上げてきた。
乳首を責めようと親父が乳首に触れた途端に、
全身がキュ~っと引き締まったようになり、
ケツマンの中にあるズルチンの形が分かる位に絡みつき、
ガマン汁が親父の首筋まで飛び散った。
親父が、『締め付けながら絡み付いて来るエロマンコやな!』
『チンポがマジで溶ける位熱々やでぇ!』と言いながら起き上がり、乳首を甘噛みしてきた。
Rをまた吸わしてもらい、出来るだけ息を止め限界点で吸えるだけの息を吸込んだ。
乳首とケツマンを中心に全身性感帯になったみたいで何されてもOK状態に…。
つながったまま押し倒され正上位になり親父がガン掘りしてきた。
親父の首に巻き付きキメ汗を舐めてはkiss舐めてはkissを繰り返した。
二人の腹の間でガマン汁を吐きまくってる俺のキメチンをそろそろ親父に突っ込みたくなり、
『掘りたくなった!』って言うやいなや脚を絡ませ親父をひっくり返し、
親父のケツマンにキメチンを突き立てた。
亀頭が半分入った所で親父がRを手にしたから吸い上げるのを待った。
ケツマンが緩んだのを見計らって一気に押し込んだ。
ケツ慣れしてない親父やから前回の時は痛がったのに流石に新のRは違う。
自分で膝を抱え『もっと奥まで…』とせがんでくる。
キメ汗とガマン汁でドロドロヌルヌルの身体は、掴んでも掴んでも掴みきれず、
それと親父の要望が面倒になり、口に俺のローライズを詰込み。
タオルで猿轡と目隠しをして、
更に温泉浴衣の帯二本で手首足首を縛り、
達磨さん状態なるぐらい身体を丸め首の後ろで結び固定した。
親父にRを吸わせ自分も爆吸して、身動き取れない親父をガンガン掘りだした。
ほぼ初釜に近い親父のケツは、キメチンが千切れる位に締め付けて来るが、
中は、キメとRのお陰で熱々トロトロですっげぇ~気持ちがいい。
いい気になって1時間以上ガン掘りしてたら、
加減もせずに縛った親父の手首足首がフト気になり、
慌てて猿轡を外し親父に調子に乗りすぎた事を謝りながら、目隠しと帯を弛め外してあげた。
親父は息を切らしながら『気持ち良かった♪』と抱きつきkissしてくれた。
身動き取れない親父をガン掘りしてる時、流し放しのエロDVDの中に入り込んで、
ガッチリのバリタチに背後から乳首を姦られながら、
3連結で掘られてる真ん中の奴の感覚にトリプった事を話すと、
親父は興味津々であれこれ聞いて来た。
話してる間にチョイ萎えはじめ親父のケツ圧に押し出された。
お互いに一度、ドロドロを流し休憩する事にし、親父・俺の順に汗を流した。
部屋に戻ると親父はズルチンに電マを当てギンギンにしながら目を閉じていた。
掴んだ手からはみ出ている亀頭からはガマン汁が溢れてた。
俺は、親父の亀頭を舐めながら、ガマン汁を亀頭に塗り広げながらくわえたり、
舌を尖らせ尿道に差し込んだりしてガマン汁を喉を鳴らして飲み続けた。
親父が電マとズルチンを離し、乳首を姦りだしたから腰に巻き付き、
根本までくわえたり亀頭だけ吸いまくったりして結局休憩するはずが、そのまま二回戦突入に。
ヌルヌルのズルチンに乗っかろうとした時、親父から追加の提案!
『K���の体験談みたいに掘られながら…』って希望されたんで、
親父にシャブらせガチガチになったのをぶち込み親父の血の道に針を刺した。
途中からRを吸い出しポンピング終わる頃には、エロマンコ親父が出来上がっていた。
ケツの気持ち良さにズルチンは萎えたままガマン汁を吐き出していた。
それを乳首に塗り舐めるを繰り返すと、
一昨日は『乳首感じへんねん』と言っていたのに、
『乳首が感じる!』『気持ちいい♪』と言いながら乳首が起ってきた。
優しく噛んだり摘んだりして責めると、ケツマンがヒクヒクしながら絡み付いてくる。
二・三分程激しく突き上げ、親父自身に乳首を弄ぶように指示しながら俺も追加をキメた。
後始末をして親父を掘り出したが、萎えだしケツ圧で押し出された。
ガマン汁まみれの親父の腹を舐めまくり、69でシャブり合いをしながら、
ガチガチになったら親父が乗るってやってたが、中々挿入する事が出来ずにお互い断念。
俺は、仰向けになりベットから頭を垂らし、
膝立ちになった親父のズルチンをシャブりながらキメチンをシゴキ始めた。
親父は、乳首を舐めたり亀頭を舐めたりしながら弄んでくる。
お互いユックリ勃起し始めるが、
クチから引き抜いたりシゴクのを止めると萎えてしまいつながる事が出来ない。
仕方なく、お互い中出しでは無く、手コキでイク事にして、
先に親父のズルチンをシャブりながら一発目を自分の腹や胸にまき散らした。
親父が腹や手についたキメ種を舐めとりながら種だらけのキメチンをシャブってくれた。
一度起つと長時間寸止め状態だったから、
ぶっ放しても萎えないから親父に『今なら入るかも!』と言いながら正上位で挿入!
なんとか親父の中に入ったけど萎えるのが早く押し出されてout。
ズルチンと裏筋合わせで二本同時にシゴいたり、電マで刺激したりしてる内に、
ズルチンがガチガチになったんで今度は俺が乗っかった。
ケツマンに生チンが入ったっ感覚だけで俺のキメチンはガチガチになり出した。
根っからの掘られ好きなんやと自覚し、親父にこのままシゴいてぶっ放すと伝え、
腰振りながらシゴきまくり、
頭を持ち上げて見ていた親父の顔面を直撃しながら胸・腹に二発目をぶっ放した。
顔シャ食らった親父はビックリしながらも、
垂れてきたキメ種を舐めながら腹胸の種を寄せ集め掬って舐めだした。
俺はまだパワーのある内にと思い親父の脚の間に入りぶち込んで掘り出した。
暫くガッツリ掘ったがやっぱ押し出され敢え無く撃沈。
ズルチンをシャブりながら前立腺責めをしてやり、
親父はガマン汁を出しまくりながらたまに全身を突っ張らせ、
『イク~!』と叫ぶけど滲み出るって感じ。
親父自身も派手にぶっ放したくて仕方がないけどイケないらしい。
何度目かの時親父が叫んでもシゴくのを止めずに前立腺を責めながらシゴキ続けたら、
ズルチンがガチガチになり亀頭がパンパンになった。
前立腺を押さえながらケツを持ち上げ、
なんとか亀頭半分位をくわえたり舐めたりしながらシゴキ続けたら、
『グワっ!』って叫び親父がぶっ放しはじめた。
第一段・二段をクチで受けたけど、背中が痛くなり残りは親父��腹にぶちまける事に…。
俺のが水ぽいのに比べ、親父のは濃く手指や親父の腹毛に絡み付いて羨ましかった。
俺は、親父がしてくれたようにキメ種を舐めとり、
親父と種kissをして暫く抱き合って親父のバクバクを胸で感じていた。
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milk-cream · 5 months ago
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初恋
彼は隣のクラスの男の子で、学校外の習い事で会うことが多かった。
全然話したことなかったけど、ちょっとかっこいいなって思ってた。
ある日、教室で友達と好きな人いる?って話をしてて、うっかり隣のクラスの〇〇くんがかっこいいと言ってしまって。彼を知ってる友達はかっこいいよねと盛り上がった。
そしたら、���くで聞いてた男子が急に興奮し始めて「お前あいつのことが好きなのか」「俺知ってるから呼んで来てやるよ」とか言って教室飛び出して行っちゃった。
それでそのクラスの男子が好きな男の子を廊下に引っ張って来て「あいつがお前のこと好きだってよ!!!」って廊下中に響き渡る声で叫んでた。
でも、彼は言われてることよりも、私のこと見て、ああ顔と名前が一致したって顔してた。
それでお互い「どうも」っていう挨拶をしたと思う。
よくしゃべるようになったのはそれからだから彼を引っ張って来てくれたクラスの男子には感謝しないといけないかも。
彼といろんなことを話したと思うけど今も覚えてるのは、一緒に剣道習わないかって誘われたことがあって、「女の子は白い道着で可愛い」って理由だったと思う。
それって私に白い道着着せたいだけじゃない?って思えるくらい。
私って剣道似合ってると思う?って聞いたら似合わないと思うって即答された。笑
彼は将来はお父さんの後を継いで警察官になりたいってずっと言ってた。ことあるごとに。
それで私にお前は医者にならないのかって聞いてきたから無理でしょ!って笑った。
帰りのバスの中で「今ここでキスしてくれても全然いいのにな」って思うこともあった。
私が転校する時に書いてくれてたメッセージがすごくうれしかった気がするんだけど、中身はもう思い出せない。
転校したらもう会うことないと思ってたけど、ひょんな場所で再会した。
近くの公民館で催し物があって入り口でチケット切るお手伝いしてたら、彼がやって来てびっくりした。
なにやってんの?って言いながら近づいてきて「すごい話したい」って顔してたのが堪らなく好きだったからずっと覚えてる。
久しぶりに見た彼はちょっと背が伸びてて前より大人びて見えた。
それで、意識しちゃって恥ずかしかったし、もう開演時間だし、「すぐ始まっちゃうよ」って中に入るように促したら「うん」って言って後ろ振り向いてそれから私の顔をもう一度見たことだけは覚えてる。
中のことなんかもうどうでもいいみたいな顔してた。
そのほんの一瞬だけ周りに人がいなくて二人だけの世界みたいだった。
ずっと好きだったのにたぶん両思いだったのに素直に好きって言えなかったな。
これまで何もなかった私の人生でも好きな男の子にたぶんおそらく好きだと思ってもらえて、あんな顔してもらえてたことあったんだよねって思えてる。
大切な記憶。ずっと大事にしまっておきたい。
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yutakayagai · 1 month ago
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私立K高校にまつわる怪談話を、そう言えば親父から聞いたなと、貢は思い出した。理事長室の本棚にある「我が学園の歴史 ◯◯周年記念号」と節目ごとにまとめられ、今でもOBであれば購入が可能とされている記念誌を眺めながら、彼は例の事件について書かれた記載に目が留まった。その記念誌には一行ぐらいしか書かれておらず、
「まァ、都合の悪いことは書かないだろうな…」
と貢は思ったが、たまたまその隣に操が書いた日記があった。操は、その日にあった出来事をまめに記録する性格だった。「ケセラセラ」に生きてきた貢とは違っていた。
「へぇ〜、こんなの付けてたンだ」
と彼はそう思いながら、「一九七八年」とテプラで貼られたその日記の頁を開いた。事件が起きる前、何度か操は他の教師からその生徒について話を聞いている様だった。
“六月十日
校長の杉山先生から、「堀川啓介」という男子生徒がよからぬいじめを受けているとの話を聞いた。「よからぬ」とは、流石に全くの「ノンケ」である杉山先生にとってはケツの谷間を両手で覆いたくなる様なものらしい。オレにとっては逆に「おっ広げ」になりたくなるが…。
啓介君は、両親が教育熱心なのか必ず国立T大に合格させたいという思いが強く、比較的、国公立大学への進学率が良いウチに入学「させられた」様だが、オレにしてみれば馬鹿馬鹿しい。人生八十年と言われるご時世に、大学だけでその先の人生なンて決まるとは限らないと思う。
しかし、その啓介君、ウチに来たことで「ホモ」の洗礼を受けただけでなく、凌辱されることに快感を得てしまった様だと、杉山先生。ある夕方、たまたま浴室を見回った時に彼がブリーフ一丁で脱衣場の鏡の前に立っていたが、背中にあちこち鞭打たれた様な跡があり、思わず声をかけたそうだが、彼曰く、
「校長先生、父さんや母さんには黙ってて! オレ、縄で絞められるのが好きなンだ…。快感なの! これでイッちゃうの! 勉強勉強って、オレ、おかしくなっちゃうよ!」
彼はそう訴えながら杉山先生に抱きつき、号泣したらしい。
嗚呼、そんなに追い詰められるのなら、いっそのこと、新宿二丁目や上野の入谷などで男娼をしていた方が幸福なンじゃないか? オレだったら、啓介君を優しくしてあげたい”
“七月一日
たまたま、オレが寮の当直をすることになった。まァ、久しぶりに生徒らとアハハオホホとやってもイイだろう。
その二日目、ちょうど昨夜だが人気がない筈の浴室に誰かがいたのでそっとサッシを開けてみると、其処には全裸の啓介君がいた。やはり背中や胸には鞭打たれた跡があり、痛々しかった。しかも、その日は首筋に「キスマーク」もあり、余程凌辱されたのだなと思った。彼はブリーフを穿くと軟膏を手の届くところに塗り、時折首筋にできたキスマークに触れた。彼は微笑を浮かべ、
「…もっと欲しいよ」
と呟いた。まるで、情事の後に独り残された娼婦の様だった。オレは彼を好いてしまっ��。そんなオレに彼は気付いていたのか、サッシの方を振り向いた。
「だ、誰ッ!?」
オレは仕方なく脱衣場の中に入った。理事長だと判ると、彼は顔を赤らめながら慌ててTシャツを着た。彼は言った。
「何故、理事長先生が!?」
恐らく、始業式や終業式の時にオレは必ず挨拶をするから顔を憶えていたのだろう。まさか、理事長でさえ寮の当直をするのかと、彼は疑ったに違いない。オレは、
「大丈夫、今週だけ当直に入っただけだから。杉山校長からは、君のことは聞いているよ。縄に絞められるのが快感なンだろ?」
と聞いた。彼は不安気な表情を見せてはいたが、頷いた。
「…快感でたまらないンです」
オレは、どうかしていたのかもしれない。何故かそのまま彼を抱きしめたのだ。優しくしてあげなければならない気がしたのだ。
その夜、当直室でオレは啓介君を愛した。鞭打たれた跡に皆キスをし、そのうちに彼も涙を流しながら、
「嗚呼、愛されてる…」
と言葉を漏らした。オレは、
「凌辱だけが快感を得る手立てではないよ。君は優しく愛されたいンだ」
と唇を奪った。
次第に、彼はオレを強く求める様になり、オルガズムに達した。オレの内腿の間に下半身を挟め、愛液が二人の下腹部に跳び散った。
「…啓介君、君が好きだ」
気分は、アダムとエバの様な感覚だった。教育者とその教え子という関係を逸脱し、オレは一人の男子として彼を愛してしまったのだ。もはや後戻りはできない。このまま「世間体」と言う名の境界を越え、何処かへ逃亡しようかとも思った。彼は、
「理事長先生…」
とオレの頬に触れ、そっとキスをした。
情事は、夜明けまで続いた”
“七月二一日
この日は終業式だった。ほぼ全員の生徒が帰省していく中、啓介君だけが寮にとどまっていた。彼は怯えていた。担任の山本先生が彼の両親に事情を離したが、特に母親は猛反対していたと、電話の後に話していたっけ。
「理事長、どうしますか?」
と杉山校長が困り果てていたが、啓介君の家の事情を何も知らなかったオレは、
「じゃ、オレが一緒に送りに行くよ」
と安易な判断をした。
啓介君の家は東京のS区にあった。最寄りには私鉄O線の駅名にもなったS学園があり、所謂「高級住宅街」だった。オレは馴れない道を自ら運転しながら彼を送り届けた。本来なら理事長であるオレは動くべきではなかったのだろうが、一度彼とは肉体的に「契り」を結んでしまったから、何故か責任を感じていた。
彼は助手席に座っていたが、ずっとうつむいていた。信号待ちの合間、時折彼の手を握ってあげた。
「大丈夫、怖くないよ」
彼の家には、母親が待っていた。一見、感じのよい雰囲気ではあった。オレは自分の名前を名乗ると母親は、
「あらら、理事長先生がこんな遠くまで!? 大変ご迷惑をおかけしました��
と深々を頭を垂れた。彼はそのまま無言で家の中に入って行ったが、その間ずっとオレの姿を目で追っていた。それでも、
『これでよかったのだ』
と自分自身に言い聞かせるしかなかった”
“八月一日
杉山校長から、啓介君から電話があったと話があった。オレは書類整理をしていたが、どういう経緯かは不明だが例の鞭打たれた跡について母親が気付き、その問い合わせがあったらしい。半ばヒステリックな声だったと、彼は言っていた。オレは心配になり、
「ちょっと行って来る!」
と自分のセドリックに乗った。
夕方近くに到着したが、出迎えた母親は泣き腫らした様子だった。開口一番、
「理事長先生! どういうことですか!?」
と訴え、隣に座っていた啓介君の着ていたポロシャツをたくし上げた。彼は泣きじゃくっていた。
「う、うちの啓介、いじめに遭ってるンですか!?」
と彼女は聞いた。オレは返す言葉がなく、ただ黙っていた。
その後、母親の狂気じみた声が居間に響きわたった。オレも流石に耐えかねたが、
「母さん! もう止めてよ!」
と啓介君が突然立ち上がり、悲鳴の様な声で制止した。彼は言った。
「オレはもう嫌なンだ! ずっと『イイ学校』『イイ会社』って言われ続けながら母さんには黙っていたけど…。ただ国立T大学に入ったら何やるの!? 僕ァ、父さんの様な平凡な人生は送りたくない。ただ結婚して家庭を持って…全然夢がないじゃないか! 僕はそんな人生に価値はないと思う。今のK高校に来て、僕は気付かなかった人生を見つけたンだ…。母さん、僕は男が好きです! あのアザは僕が好きな先輩と『セッ◯ス』して出来たものです!」
これまで自己主張もせずにただ両親の言われるがままに行きてきたのだろう。オレは彼の方を見入っていた。母親は、恐らく我が息子のこの様な言動に遭ったことがないのだろう、ますます錯乱した様だった。啓介君はオレの手を持ち、
「理事長先生! 僕、寮に『帰ります』! こんな家にいたら、僕、自殺しそう!」
と訴えた。オレは彼の放った「自殺」という言葉に衝撃を受けた。
「啓介君! 生んで育ててくださったお母様の前で『自殺』という言葉はないだろう! 先生も怒るぞ!」
「否、僕は本当のことを言っているンだ! もうイヤだ…」
「…」
二人の嗚咽が居間に響き渡った。オレは、この家自体を憎んだ。一体、何がそうさせたのだろう? 性の歓びを見出し、本来の自分自身を見出した啓介君、一方で一流の大学や企業に進めば苦労しない人生が保証されるという世間の「呪縛」に囚われそれを良かれと我が子に訴えてきた母親…どちらとも悪くはない。オレは言った。
「…お母様、これまで啓介君をここまで育て上げるのに色々なご苦労をされたかとお察しします。確かに、今は一流の大学に進めば一流の企業に入れ、そのまま一生涯安泰と「年功序列」の思想が根付いています。未だ日本は成長をしていくかと思いますが、いつまでもそ��状況が続くとは限りません。私どもは可能な限り、その様な時代の変化に対応できる将来の人材を育成すべく教育しております。
しかし、啓介君を含め、この十六、十八歳という年齢は思春期ということもあり、自我が芽生え始める時期でもあります。彼の様に性を通じて本当の自分自身に気付くお子様も少なくありません。きっと、これまでの教育方針に対し自我の芽生えによって啓介君も葛藤をされてきたのでは…?
今回、身体に出来たアザについては他の教職員からは聞いていたものの、ご連絡しなかったことについては申し訳ありません」
これが、オレができる最大限の謝罪だった。母親は未だ冷静になれない様だった。啓介君も大粒の涙を溜めていた。オレは、今日は彼を寮に連れて行かないことにした。オレは言った。
「もし何かありましたら、私どもの方までご連絡ください。夜間でも寮に当直がおりますので、お電話いただければ対応いたします」
帰り道の車中にて、オレはこれまでにない疲労感を感じた。この夜は流石に爆睡だった”
“八月三日
杉山先生から、寮の当直をしていた山本先生から啓介君より連絡があったと話あり。やはり寮に戻りたいと訴えていたらしい。あれから両親とは話ができたのか、気掛かりで仕方がなかった。
理事長室の隅に置かれた時計が秒針を刻む音に半ば苛立ちながら、オレは情人(アマン)が来るのを待ちわびるかの様な心情に駆られた。一度は肉体同士の接触があったが、それだけでオレは彼と一心になっていた感覚でいた。もし教育者と一生徒という関係でもなければ、あの場で彼を連れて帰っていた。母親を弁護することもなかったろう。
午後二時になり、啓介君が帰って来た。オレは直接来たのかと聞くた。彼は言った。
「…先生、会いたかった」
すると彼はオレの背中に両腕を伸ばし、抱いてきた。途端にオレの胸の中で涙を流し、やがて嗚咽も聞こえてきた。
「大丈夫、泣くのはおよしよ」
とりあえずオレは啓介君を寮に連れて行き、当直をしている山本先生に事情を話した。まずは様子を見て欲しい、と。また、一昨日彼の家に行った時のことも話した。山本先生は、
「じ、自殺!?」
と驚いていたが、今の精神状態なら大丈夫だろうと伝えた。”
“八月四日
一晩過ごしたが、山本先生からは何の連絡もなかった。オレは大丈夫だったのだろうと安堵した。
午前九時過ぎ、理事長室に啓介君がやって来た。彼はオレを抱きしめてきた。すっかり好いてしまっている様だった。オレは彼にキスをした。舌を彼の唇の隙間に忍ばせ、込み上げてくる唾液を呑み合った。彼はそれが「快」と感じたのかスラックスのベルトを外し始めた。オレは声をかけた。
「此処ではまずい」
オレは雑木林の中にある「別荘」に連れて行った。しばらく寝泊まりしていなかったからか、室内はジメジメしていた。そんな中でオレは彼のワイシャツのボタンを外した。ブリーフだけになった彼を目前に、オレもワイシャツを脱いた。ブリーフだけになると早くもチ◯ポの��端が濡れていた。こんな性衝動は初めてだった。彼をこれでもかと言うくらいにキスをし、乳房や股間を愛撫した。自殺なンて馬鹿なことは考えるなと、繰り返し心の中で叫びながら…。
気付くと二人は真っ裸になっていた。白いブリーフがベッド元に重なっている。これは身も心もさらけ出していることを意味していた。オレは彼と一体になった。
「あッ、あァ、あはァァァん…」
何度も乳房を鷲掴みにし、吸い続けた。その度に彼は歓喜の声を上げ、乱れに乱れた。ほのかにサーモンピンクへと全身が火照り、彼はオレの唇を求めた。
「…け、啓介」
いつしかオレは敬称を付けずに呼んでいた。ただ十六歳の彼をオレは愛した。全身に無数の汗が滴り、シーツが濡れた。
啓介君は、用を出すだけしか知らなかった穴をもって女の様に快感を得ることを知ってしまった。いつしか彼は激しく腰を揺さぶり、オレの身体にしがみついた。
「あ、愛してる…!」
耳元で彼はそう囁き、オルガズムに達した。オレも彼の体内に愛液を噴射させ、
「啓介!」
と激しいキスをした。
情事の後、ベッドで抱き合いながらオレは言った。
「もう『自殺』という言葉は使わないで」
すると、
「…死にたくない。こうやって愛してくれてるから」
と彼はオレにキスをした。
これで総てが終わったと思った。啓介君が愛されることで新たな人生の方向性を見出し、進んでくれるとオレは信じた。”
貢は、父・操もまた一人の生徒を愛してしまったのかと思った。オレは生徒には手を出したことがないし、そんな度胸もなければやってはいけないと、頁を進めた。しかし、日記はしばらく何も書かれておらず、急に「九月一日」まで飛んでいた。恐らく、その間に啓介が自殺をしたのだろう。
“九月一日
啓介君が雑木林の中で首吊り自殺を図り、憔悴する暇もなく両親が教育委員会に訴えると騒いだ。父親は、杉山校長に訴えた。
「国立T大学への進学率がイイと聞いて入学させたら『ホモ』にさせられた挙げ句、自殺まで追い込んで...。この悪党! 人殺し!」
父親は国家公務員だった様だ。彼は他の保護者から、お宅のお子さんは大丈夫か、「ホモ」にさせられてないかと根掘り葉掘り聴取し、何人かの生徒からその気がある様だという話を聞きつけるや、
「理事長を出せ!」
と罵った。杉山校長は流石にビビッてしまい、
「理事長! 何とかしてください!」
とすがりついた。殴り込みに来た父親に対し、オレは土下座もした。罵声を浴びさせられた挙げ句、胸ぐらもつかまれた。正直、辛かった。啓介君を愛していたのに、自ら生命を絶ってしまったのだから…。裏切りの何物でもない。
オレは父親が帰った後、雑木林の中で慟哭した。啓介君が首を吊った杉の根元にひざまずき、喉がやぶれてしまいそうなほど声を上げながら泣いた。”
この部分を読みながら、貢は高校二年だった頃を思い出した。そう言えば、両目を泣き腫らした様子で操が家に帰って来たのだ。母の茉��子がどうしたのかと心配したが、彼は、
「…すまないが、独りにさせてくれ」
と言って部屋に籠もってしまったのである。ちょうど父の書斎の隣に貢の部屋があったのだが、壁越しに号泣する声が聞こえたのだ。しかし、何故泣いているのかを聞くことはできなかった。嗚呼、きっと啓介君のことだったのだろうと、彼は思った。
もし岩﨑の言う通りにその啓介君の声が聞こえたのだとしたら、オレに何ができるだろうと貢が考えた。
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kennak · 5 months ago
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私の両親は、いわゆる、「人権派」、活動家だった。 もっと正確に言うと、人権派と陰謀論者の中間、あるいは地域の名物おじさんみたいなものだった。 父は予備校塾の講師、母はデザイナーだった。 こ��家に育って何が起きたか。 物理的な虐待とか、経済的困窮とかそういうことは、当然ない。 それは認めるし、親としては感謝している。 だが、私はこの家に育って、世間とまったく感性が通じないというか、後天的なコミュ障のような人間になった。 少し前に、発達障害者の人たちが「健常者エミュレーター」という概念を紹介していたが、それを見た時、私は膝を打った。 また、統一協会やエホバの証人の二世問題について知った時、私はこれに近いんじゃないかと思った。 自分が世間から見て「おかしい」ことはわかっている。だが、私に植え付けられた何かが、「いや世間なんて」と茶々を入れ続ける。 私の両親は、あらゆる凶悪事件がまるで発生していないか、あるいはまるで被疑者が英雄みたいに私に話すのだった。 大きな例を挙げると、神戸の連続殺傷事件(酒鬼薔薇)について、両親は冤罪説、つまり少年Aは犯人ではないということをしきりに唱えていて、まだ小さかった私にも、「これは嘘なんだよ」「警察はしっかり調べていないんだよ」と吹き込んだ。 池田小の事件も、父親は死刑廃止について盛んに唱えていた。 私の父は予備校の会報か講師たちの同人誌か、そういう冊子に、そのことをずっと書いていた。そしてそれを小学生の私に読ませた。 食卓で悲惨なニュースを見ながら、「〇〇ちゃんは、人の心について考えられる人間になってね」と、両親は笑顔で私に話しかけるのだった。だが、「人の心について考えられる」というのは、イコール、死刑廃止活動やあらゆる有名な事件にまとわりつく陰謀論に近い冤罪説を信じろ、ということだった。 母は、左翼の地方議員の勝手連みたいなことをやっていて、時々家が集会場所となった。学校から帰ると、おばあさんとかおばさんが五人くらい集まっていて、きついコロンの香りを漂わせていた。 別に悪い人たちではない。本当なら、私よりもずっと世間に貢献している人なのだろう。お菓子やお土産とかもいっぱいもらった。だが、結局のところ、ある宗教の座談会の人権版が家で行われているのと変わらない。そしてこの集まりから何か発展的なことが生まれたようにも見えない。 こういう家に育って、私は中学生のころまで、いわゆる純粋培養で育った。親の言うことが全てという世界で。 ��端に聞こえるかもしれないが、世間のあらゆる犯罪は、冤罪であるか、犯人の非ではない何かの理由があって発生した者であり、警察と政府は悪。端的にそう言う世界だった。 ネット上には、死刑廃止運動に絡めて、ある左翼の議員が、「殺されてしまった人よりは、生きている犯人の人権の方が大切なのだから」と発言した、という情報がある。実際はその議員はそんな発言をしていないらしいのだが。 しかし私の両親は実際、そういう価値観だったとしか思えない。 私が初めて、ちょっとした疑問を覚えたのは、小学校高学年の時だった。 それまで放課後開けていた小学校の校門や校庭を、これからは明確に管理しようという話が、小学校で出たらしい。 しかし、私の両親、特に母親が待ったをかけた。というより、その現場に居合わせた。 母親はその情報を知るや否や、私もつれて、なんと校長に面談を申し入れた。 私は校長室の革椅子に座って、横で母親が延々と「開かれた学校という理念はどうしているのか」「治安というのはつまり何を基準に申しているのか」と校長にまくし立てていたのを覚えている。 なぜ私がそこに連れていかれる必要があったのか、そして半分笑顔でねちねちと喋り続ける母の姿は、子供ながらに、不安だった。その時はそういう言葉を知らなかったが、今考えると、敬語を使うだけのモンスターペアレントではないか、と思う。 そして自分が世間と徐々に乖離していると気づいたのは、中学校に上がってからだった。 両親。家の食卓で両親がわざわざ解説してくれるニュース。両親が取ってる新聞。送られてくる雑誌。友達。漫画。それだけが全てだった私に、携帯電話が買い与えられた。 そして私は、「世間」がどういう理念で動いているかを知った。 両親は万能ではなかったし、全てではなかった。むしろ、ピエロの様な、少数者だった。 だが私はそれを知っても、どう処理すればよいかわからなかった。 「いい?憲法にはこう書いてある」と両親は時々言っていた。多分、世間一般の人々より、両親は「知的階級」だ。良いことを言っている。正しいことをしている。多分。恐らく。 だが、世間はそう動いていない。そう育てられた私に対しても。 大学生となり家を出て、私は飲み会に行った。 そこで、当時話題になっていた、ある凶悪犯罪を揶揄するネタを余興としてやる男性がいた。 私は、今考えると、自分でもわからないのだが、「そういうのはやめた方が良いよ。まだ犯人だって決まったわけじゃない」と真顔で伝えた。 場はしらけ、そして私は飲み会に呼ばれなくなった。 SNSなら、これはリベラル的な武勇伝となるのだろう。だが私は、はっきり言って、普通に、なりたかった。 人権は、そしてそれを擁護する存在は重要だろう。犯罪だとか治安だとかに対して、「疑う」ことは重要だろう。だが、それは、宗教と同じく、大人になってから自分で学ぶべきことだったのではないか。
「人権派」の家に育って
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ffxivtranslations · 10 months ago
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Thoughts Unspoken
My direct translation of Haurchefant's unsent letter from "Thoughts Unspoken". There are some things in the Eng localisation that aren't in the Jpn, so I thought I should retranslate it for completeness. The original localisation is here for comparison: https://na.finalfantasyxiv.com/lodestone/special/2016/short_stories/#sidestory_08
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親愛なる友へ
お前は、変わらず元気にしているだろうか?
ドラゴン族による皇都再襲撃の予測……それを受けて、お前やアルフィノ殿が西へ旅立ってから数日が過ぎた。今どこにいるかもわからないお前に、この手紙が届くとも、届けようとも思っていない。つまりは、書き記しただけの独り言だ。
それでも、遠くの空を見ては旅の無事を願う想いを、一度くらいは吐き出さずにいられない。
万が一、これがお前の目に触れるようなことがあったら、まあ、そういうものだと思ってひとつ頼む。
To my dearest friend,
Are you doing well?
A few days ago, after hearing the prediction of the dragons attacking the capital again, you and Alphinaud travelled to the West. I don’t know where you are now, nor do I intend to try to send this letter. In other words, I’m just writing this down for myself.
Nevertheless, I feel compelled to at least once express my feelings of looking to the distant sky and praying for your safe journey.
In the unlikely event that you ever read this, well, please just think of this letter as that.
さて。お前は、イシュガルドに招かれて幸せだっただろうか?
それとも、仕方なく逃げ延びた先で、また誰かの戦いに巻き込まれることになり、うんざりしているのだろうか。たとえそうであったとしても、お前は戦い抜いてしまうのだろうと、容易に想像がついて苦笑している。
Now then. Are you happy that you were invited to Ishgard?
Or are you fed up that after you finally made your escape, you once again got embroiled in someone else’s war? Even if that was the case, I’m bitterly smiling while easily imagining that you would still fight to the very end.
私はといえば、お前がイシュガルドに来てくれたことを、心から嬉しく思い、感謝するばかりだ。それは、お前の実に逞しくイイ冒険者ぶりを、近くで見られる機会が増えたという喜びでもあるのだが……何よりも、頼れる友と同じものを目指し、ともに戦えるのだ。心躍らないわけがない!
As for me, I am so very happy from the bottom of my heart and extremely grateful that you came to Ishgard. That is to say, of course I am delighted that my chances to see your really strong splendid adventuring up close have increased, but also… More than anything, to share a goal with my dependable friend and to fight by their side. There’s no way I couldn’t be excited about this!
お前たちが、ウルダハから逃げ延びて、雪の家に転がり込んできた日。「暁」が灯火を消さんとしていたように、私もまた、お前という友を燻らせてはならないと思った。そこで、どうにかお前たちをイシュガルドに招き入れることができないか、フォルタン伯爵に……父に直訴に行ったのだ。
The day that you two escaped from Ul’dah and came to stay at the House of Snow.
I thought that in the same way that I couldn't let the light of the "Dawn" go out, I couldn’t let your flame be dampened either, my friend. So that was when I went and directly appealed to Count Fortemps... my father, if there wasn't a way to invite you into Ishgard.
……白状すると、私は父のことが苦手だ。恨んでいるわけではない。母にしたって��正しい人であったが故に、己の立場に耐えきれなくなり、私を置いて失踪しただけのこと。父は母のことも、私のことも、愛してくれていたと思う。ただ、それを互いに上手く伝えあえず……私は、フォルタン家に仕える騎士としてしか、あの人と話ができずにいたのだ。
… I must confess that I am not good at dealing with my father.
I don’t mean that I hate him. Even with regards to my mother, even though he tried to do right by her, but she was unable to stand her situation and simply just left me with him and disappeared. I do believe that he loved my mother and loves me too. It’s just… neither of us are very good at communicating this to each other… For me, I was unable to talk to him except from the position of being a knight of House Fortemps.
お前のことを頼みにいったとき、当初、父の返事は渋かった。
それまで開拓団への支援などには積極的だった父でも、指名手配中の人物を受け入れるのには、家を預かる者として懸念があったらしい。
諦められずに懇願する私に、父はそこまで固執する理由は何なのかと問うた。私は、お前との思い出を心のままに語った。それは量としては乏しくとも、ひとつひとつが私にとってかけがえのない、驚きと輝きに満ちたものだ。故に、我が友がどのような人であるか、そして私が友を救いたいと願う気持ちを伝えるには、それが一番だと考えた。
思えば、父とあれほど長く話したことはなかったかもしれない。語り切った私をしばし見つめていた父は、ふと目元を緩め、「明日まで考えさせてほしい」と言った。
そしてその翌日、正式に後見人になると、返事を寄越してくださったのだ。
When I went to ask him to help you, at first, his answer was quite harsh.
Even though he had been very positive when it came to supporting the Reclamation Corps, it seemed the idea of harbouring wanted fugitives was quite a worry for the head of the household. In response to my insistent pleading, he asked me why I wasn’t giving up. I simply told him straight from my heart my memories of you and I. Though they may be meagre in number, each one of them is irreplaceable, overflowing with surprise and shining light! I thought therefore, that this was the best way to explain to him just who you, my dear friend, is- and also how much my desire to save you was. Now that I think of it, this was probably the longest conversation I ever had with my father. When I had said all that I could, he suddenly smiled warmly and said “Let me think on this unto the morrow”. Then the next day, he sent word to me that he would officially become your guardian.
以降のことは、お前も知るところだろう。
おかげさまで、私は以前よりも、本家に顔を出すのが少しばかり楽しみになった。
とはいえお前は大概不在で、また七面倒な役目を背負ってどこかへ旅立っていると聞くたび、私はお前を祖国のいさかいに巻き込んでしまっただけなのではないかと思ったりもする。それについては、文句があったら、いつか酌でもしながら聞くとしよう。
The rest, I trust you already know.
Thanks to you, unlike before, I now actually look forward to visiting Fortemps Manor. However, you aren’t there very much, and each time I hear you are off fighting some great trouble, I sometimes think I have done nothing but get you involved in the troubles of my homeland. If you have complaints about that you are welcome to tell me them over a drink sometime.
それでも、友よ。
私は、一片の疑いもなく、信じてしまうのだ。
いかなる困難も、決してお前を挫かせることはできまい。
それは今回��旅だけではなく、この先、お前がどこを目指したとしても変わらない。
ひとりで越えられない壁があったとしても、お前が進もうとする限り、必ず誰かが手を差し伸べるだろう。私が今、そうしたいと願っているようにだ。
そしてその困難の先には、必ず新しい景色が待っている。
それを見つけたときにはきっと、大いに、笑ってほしい。
お前の旅路が、最良のものであるよう……
無事を祈っている。
―― オルシュファン・グレイストーン
Nonetheless, my friend.
I, without a trace of doubt in my heart, trust in you.
No matter what troubles come, they will never dampen your spirits.
Not just on your current journey, but in the future, no matter what you try to do. Even if there is a wall you can’t climb by yourself, as long as you keep trying, there will be someone to lend you a hand. Just as I, right now, am praying to do.
And on the other side of those troubles, certainly there will be a new day waiting for you.
And when you find it, I want you to do so with a huge smile on your face.
I pray that your journey will always be a good one.
Haurchefant Greystone.
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ak0gare · 7 months ago
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1206
無事採卵を終えて昨日帰国した。 毎日まいにちただ言われるがままにクリニックに行っては排卵促進のための注射を打ち、エコー検診に耐え、あとはホテルに缶詰めになって縦書きのWordとひたすら向き合って過ごした。 勿論たまにはビーチに散歩しに行ったものの前の週に伊豆大島に泊まっていたこともあって2回も見に行ったらもう飽きた。基本持ち込んだ食糧を調理して食事をしていたので、食べたいときに食べたいものを食べられない、ということがかなりストレスだった。 ホノルルへ行くことになった時いろんな人に「この経験が小説に役立つといいね!」みたいなことを言われたし実際稀有な経験には違いないので何か思想に影響があるのかな? と思っていたが別にそんなことはなかった。日本で検診をするたび、どことなくずっとエージェントから卵子の入った大事な容れもの扱いされてる感覚はあった、それくらい。 興味深かったのは、生殖ビジネスについて警告を促していたこの記事だ。 ――日本で唯一、無償での卵子提供仲介を行う「OD-NET」理事長の岸本佐智子さんは、そもそも卵子提供に高額な報酬があることに疑問を唱える。 「卵子や精子はモノではありません。もし、卵子提供で生まれた子が大きくなって、自分と遺伝的関係のある女性がお金目当てに自分(卵子)を売ったと知ったら、大きなショックを受けるかもしれません。(中略)  どんな出産でも、赤ちゃんが生まれさえすればゴールではありません。本当に大切なことはその先にある。提供する人も、提供を受ける人も、生まれてくる子の将来まで思いをめぐらせてほしい。 (https://www.moneypost.jp/853540) なるほどと思った。すでに採卵を終えてからこの記事を読んだのだけれど、興味深くはあった。 でもこうも思った。卵子提供する女性に対する批判をするのは……��んというか、立ちんぼやP活などの売春において売る側ばかり取り沙汰されて非難されたり摘発対象にされるのとあまりにも同じ構造な気がする。 売春とは違い、卵子提供はそもそも、「卵子譲ってくれませんか」と謳うエージェントがあるからわたしみたいに暇を持て余したやつもしくはお金に困っている苦学生がのこのこ、もしくは藁にもすがる思いで登録するのであって、それなのに卵子提供を求める夫婦やエージェントではなく「はーい」と手を挙げた側を糾弾するのはお門違いと言うかアンフェアすぎないか。 大金に目が眩んだことは認めるが、それよりも、子供をもうけるにあたって卵子提供者を年齢や容姿や学歴や職歴や病歴やアレルギーや遺伝子(祖父母まで遡って病歴及び死因を登録する)で選ぶ作業をこなしたレシピエントの方が、わたしなんかよりよほど非難の余地がありそうなのだけれど。 もちろん人身売買には違いないのでおおっぴらにするようなことでもない。でも実際に、わたしが大金と健康被害を引き換えに渡した17個の卵子(教えてもらえる)で喜んでいる人がふたりいることには違いないのだ。もちろんわたしが受け取る謝礼以上のマージンを取っているエージェントも喜んでいる。 とりあえず、原稿の方向性を立て直すことができたので休みを取った甲斐はあった。 家を空けている間後輩に貸していたのだが未開封のバターを半分以上使われているのを発見して、帰国早々うんざりした。性善説を取り下げた方がいいかもしれない、という変化なら得られたと言えよう。
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servant222 · 3 months ago
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2025/03/26 休みの日
子ども達の引越しもほぼ終わって向こうに行かなくても良い休みの日の2回目。生活自体もう始まっているので必要なものはネットで頼み、向こうに届くというようにしてあり大きめの何かが昨日全て届く日だった。
新しい生活を始めるということは、時間もお金もかかるものだなと改めて知る。
私はというと毎月の定期通院の日、午前中かけて2つのクリニックに行き薬をもらう。貧血は前回から鉄剤を処方され毎朝内服している。少し前に採血したのでその結果も教えてもらった。ちゃんと数値は上がっていた。鉄剤ってすごい。それでもまだ基準値に満たないものもあるのでまだ継続します、と先生に言われまたひと月分の処方をもらう。確かに体を動かす際の息切れというかしんどさが軽くなった気がする。貧血、良くないね。
どちらのクリニックもさほど待つことは無かったが待ち時間に少し文庫に目を通す。スマホをなんとなく見て過ごす時もあるけれど、文庫をカバンに一冊入れてあるので、それを読むことも多い。
今カバンに入っているのは川端康成と三島由紀夫の往復書��、というものだ。持ち歩いて出先で読む程度なので全然読み進んではいないけれど、三島由紀夫の川端康成に対する敬愛がすごく分かる。手紙というのはとても個人的なものになるのに、著名人の場合、時代が過ぎてからこんな風に公開されるなんて本人は恥ずかしいと思っているのかもしれないとか思ったり。
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通院と通院の間に少し時間があったので辺りを歩いてみた。道端には土筆がたくさん生えており、すっかり穂も開いていて過ぎゆく春を感じる。そういえば小さな頃は祖母と土筆を採っては煮て食べたけれど、もうそんなこともすることは無いな、と幼い頃に思いを馳せた。
土手の水仙は強い香りを辺りに放ち雪柳は溢れんばかりだ。真っ黒の嘴だけ白い鳥たちがすいすいと川面を泳いでいた。調べてみるとオオバンという渡り鳥らしい。
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それにしても黄砂の影響か、空が白い。
2箇所の通院を終えるとそろそろ昼だった。昼からは実家で髪の毛を切って染める予定。少し早めに行こうと思っていたところに母からのLINEが入る。お昼をこっちで食べないか、とのこと。そちらに向かっている旨を返信。
実家に着くと「お父さんと土筆を採りに行ったのと、お客さんから土筆をもらったのがたまたま重なって、思ってた以上にたくさん作れた」 と母がタッパーを見せる。
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パッと見るとちょっと気持ち悪いかもしれないが土筆です。
驚いた。さっき土筆なんてもう食べられないだろうな、なんて思ったところだったし、母だってもう何十年もそんなことしたことが無かったというのに、採りに行ったのともらうのが重なるなんてことあるのか。偶然の一致とはなんて運命的なんだろう。
子ども達が家を出てからというもの、母が私の方を気にしているようでこうやって何かがあるからと食事を一緒に食べさせてくれることが増えた。ありがたいことだ。
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両親とともに食事を済ませて、母に髪の毛を切ってもらう。入学式やら何やらあるのでさっぱりした。その後、母が近所のスーパーが割引の日だからと言うので母を乗せ買い物に行った。
まだ両親とも車の運転もしている。そこまでの年では無いし乗せられて怖くもないけれど、子ども達にお金も手間もかかる今、両親が元気でいてくれることは本当にありがたいと思う。親の介護と子育てが重なることほど大変なことはない。両親に日々感謝だ。
買い物をして帰宅すると時間指定で頼んでんあったものが配達された。私も自分だけの食事管理になるため、心機一転というのかそれ用にフライパンを買ったのだ。ダンボールを開けていると下の子からLINEが入る。所用があり急遽帰るとのこと。そんなつもりは無かったがこんな夕方から帰ってくるのなら戻る時は送って行くことになるなと思う。
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下の子が帰宅するくらいの時間に合わせて晩ごはんを準備する。届いたフライパンも早速使う。大きめで色々入れられるように、とそれ目的で買ったものだ。
昼は母の手料理をご馳走になりすっかり子どもの立場だったが、こうなると母の立場になって子どものために食事を作る。これもまた巡っている感じがしておもしろい。
最寄りの駅まで迎えに行くと、月初めに開けた口元のピアスのキャッチを紛失したためこのままドンキホーテに行きたいとのたまう。毎日締めていてもすぐにバーベルの玉がどこかにいってしまうらしい。ホールが安定していないので取れてしまうのは困る。ドンキホーテで予備も含め2つ滅菌済みラブレットスタッドを購入。ボディピも大変だ。
そんなこんなで帰宅し下の子と作っておいた食事をする。珍しく美味しい美味しいと言いながら完食した。姉妹暮らしで主に食事を担当している下の子は、そんな風に思うのだなと感心する。親のありがたみというのではなく、他者に作ってもらった食事というのは格別美味しく感じる、というのを体感しているようで良かったなと思う。
慌ただしくて完成した食事を撮らなかった。一応もやしと豆苗に鱈を乗せたもの、小松菜を豚肉で巻いたもの、菜の花のおひたしとゆでたまごがメニューだった。
下の子が必要だったものを持ち、上の子の届いている荷物を持ちアパートに向かう。夜なので道も空いていて思ったより早く着いた。上の子はシャワーを浴びていて風呂のドア越しに少し会話をした。先週体調を崩していたようだったが元気そうなので安心した。22時頃にアパートを出た。帰り道もトラックばかりで混んでおらず1時間半かからずに家に着いた。
朝から夜まで何かと動いていた一日だったし、向こうには行かなくてよいと思ってたけど結局行ったな、などと思いながら風呂に入り布団に潜り込む。
この頃ゆっくり日々を振り返る時間が無く随分長くなってしまったが、記録として書いておく。ふと思ったことなんて慌ただしさに追いやられてすぐに忘れてしまうから。
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yoooko-o · 8 months ago
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26/10/2024
今日は父の命日。 今でこそ穏やかに親戚付き合いしていますが、父が早い年齢で亡くなったこともあり、私と母が父を過労死に追いやったなど一部の親戚からの誹謗中傷に悩む日々が続きました。 当時は母が姻族関係終了届を市区町村役場に提出する直前まで行きましたが、私たちを心配した他の親戚のお陰もあり、父が健在だったときよりも穏やかに過ごせていて唯々感謝です🙏
この日はちょうど土曜日だった��ともあり、あこ食堂に出かけてきました🍴
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米粉の抹茶ガトーショコラ🍵 芋とりんごのパウンドケーキ🍠🍎 豆乳プリンの上にはりんごジュレでした🍎
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どれも優しいお味でごちそう様でした😇
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Happy Halloween👻🦇
ということで、名もなき小さなケーキ店も店の外にはフォトスポットが設置されていました🎃
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店内はスイーツの甘い香りが充満中♡
最近は接客担当の店員さんも私たちの顔を覚えたらしく、名乗る前に2週間前に予約したスイーツを運んできてくれました🐻 (私が写真を撮っている間に笑)👇
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ちょうど今日と明日、10/31のハロウィン当日は1,000円ごとの購入客にクッキー1枚プレゼントのイベントの初日でしたので、私たちも頂きました🍪
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しかも2,000円ピッタリ❣
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左)ポティロン🎃 濃厚かぼちゃプリンにキャラメルソース、生クリーム、かぼちゃクリームのかぼちゃ尽くしのプリン🎃 間借り店舗のときにも食べて美味しかったけれど、やっぱり美味しかったです💕
右)マローネ🌰 上からモンブラン→ココア生地→カスケードクリーム→アーモンドチョコ→生クリーム→コーヒーゼリー と色んな食感と味のパフェ風モンブラン。 意外そうな組み合わせだけど、合うし甘ったるくないので母も気に入っていました。
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ynyn416 · 1 month ago
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お父さんにも話した😌
お母さんからまぁまぁ内容は聞いてたみたいで(さすが夫婦)
なんか良い感じに話ができて良かった。
お父さんも彼と同じ理系の人だし、大きな会社で優秀な外国人と働いた経験もある人だから、
外国人だからどうのこうの、みたいなのは一切なくて、大人対大人で話ができて嬉しかったなぁ。
私の親って、大人だし、いい人だなと改めて思った。
なんか、直接的な言葉では発さなかったけど、
彼氏みたいな素敵な人と、私が結婚の方向に行く事にとても喜んでくれてる様子だった。
嬉しいな。
良い両親だなと思った。
こんな両親じゃないと、私はそもそも国際結婚なんて考えれなかったと思うから。勿論結婚は本人たちの人生だけど、やはり親に反対される結婚って辛いもの。
お父さんは、お母さんのことを尊敬していて。(普段口に出さないけど色々話聞いた)
お母さんはお父さんのことを尊敬していて。
素敵やなぁと思った。
2人が一生仲良く元気でいてほしいなと思った。こんな感情になるのは初めてかも。笑
私なりに、照れくさいけど感謝の言葉も伝えれた。
子供時代に結構家の中がむちゃくちゃで大変だったけど、
皆余裕も出て、自分らしく人生歩んでる感じがして、丸くなって、
なんか良い感じになった気がする。
少なくとも私はそう。私と家族との仲もそうなってると感じるし、私自身の人生もどんどん幸せで自分らしく良いものになっていってる。
そう思うと人生短いから、親が身近にいるうちに親にたくさん感謝を返したいな。折角この親の元に産まれてきたもん。私を産んで良かったと思ってくれるくらい、親に幸せを感じて欲しい。なかなか難しいけど。私が幸せに生きることで、初めて他人も幸せにできる。
感謝を形で返したいな。
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yu-en · 9 months ago
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uihy
自室の記録
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5年前からルームシェアをしているSと一緒に引越しをしてから、3年が経った。寝室をSが、リビングを私が自室としている。私の部屋の正面には大きな窓があり、左右にもそれぞれ小窓がある。
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小窓1
装身具類の置き場所。ピアスを置いている鳥のレモン絞り器は、Fさんから貰ったもの。Fさんはよく動物のものをくれる。犬の形をした栓抜きや、野営をするくまの置物も彼からのプレゼントだった。
カートリッジインクの空き容器には、ヘアピンやネックレスを入れている。私の父は吸引式の万年筆を好んでいて、父から贈られたペンもインク瓶とセットのものが多かった。実家を出て外にいる時間が増えてからは、インクを切らすことが怖く、自然と替えのインクを持ち運べるカートリッジ式の万年筆を使うようになった。それからしばらく経ち、1年前にプログラマを辞めたことを手紙で報告すると、その数日後に「励まし」とボールペンが送られてきた。以降ずっとそのペンを使っているから、手持ちの万年筆はどれもインクを抜いてある。
よく付けるピアスは��の縁に置いていて、どこかの喫茶店で使われていたらしい伝票入れには、硝子のオーナメントやトライアングルのビーターを差している。
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Hのくれたトライアングル本体は、腕時計とブレスレットを失くさないための場所として機能している。良くない使い方だと罪悪感を覚えてはクロスで磨いている。
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小窓2
『陶の家』を見かけたらひとつ買うというのを続けていて、現時点で3軒が建っている。少しずつ街になっていく。家の奥には、ミナペルホネンの好きなQさんにプレゼントしたものと色違いのタイルを置いている。
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小窓3
すぐぼろぼろにしてしまう指先のケア用品を置いている。H先輩に貰ったネイルオイルの磨硝子が好きだった。Fさんが動物をくれるように、この人は硝子をよくプレゼントしてくれる。硝子のオーナメントも、ステンドグラスのくまもH先輩から貰っている。
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窓を開閉するハンドル(オペレーターハンドルというらしい)に紐をかけて、ケーブルや電源類をまとめている。先日Eから貰った白いカールコードのシールドもここに下げている。黒い服ばかり着ているのに、Eには乳白色のイメージがある。“誤って人間として産まれてしまった天使”だと感じさせる人と知り合うことが何度かあり、Eもその中のひとりだった。
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向かって左には仕事用のシャツ、右には外套を何着か掛けている。秋冬用の服ばかりある。
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ここに越すことが決まってから最初に選んだ家具。プログラマになったばかりの頃、メモリの重要さを机の広さに喩えて教えられた。それで机は広いほど良いものだと認識したのか、気付けば横幅のある机ばかり探していた。天板の色を緑に決めて、部屋の軸に据えた。
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職場で割ってしまったマグカップに無線イヤホンや保湿クリームを入れている。シャツを濡らしたまま破片を持つ私を見て、笑ってくれる会社の人たち。これ以上は無いとよく思う。
ヘアクリップ入れにしている、ままごと用のような小さな花瓶も気に入っている。渋谷の蚤の市で友人へのプレゼントを選んでから、度々その人の店でものを買うようになった。銀色のトレイやハート型の赤い缶もその人から買った。
銀色の電源タップは前の部屋から持ってきたもの。あらゆる電子機器の電力をここから供給している。
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ギターをくれた友人たちが別の年の誕生日に合同出資してくれたオーディオインターフェースがモニターの下にある。未だに1-2と3-4の入力を同時にする方法が分からず、2つずつ付け替えながら使っている。これを貰ってからAudacityで曲を作り始めて、今もそのやり方をしている。会社の先輩には「システムを0と1だけで作ろうとしているみたいなものだよ」と言われたけれど、その頓馬さを含めて自分に馴染むので、Audacityをずっと使っている。キーボードがちょうど上に乗る。
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モニターの横にはmicroKORGを置いている。普段は誕生日に贈り物をしないと取り決めているSだけれど、数年前に何かで手を貸した際「この恩は倍にして返します」と言い、その年の誕生日にmicroKORGをプレゼントしてくれた。このシンセサイザが部屋に来てから、自分の生活が向かうことのできる方角が増えたように感じている。大切な楽器。
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microKORGには、新しい部屋で出した『野良の花壇』のマグネットを付けている。本来は冷蔵庫のために作られたマグネットだけれど、皆とスタジオにいる時にあって欲しく、ここに付けている。プリクラで来られなかった友達の似顔絵を描くような感覚。私の黒い冷蔵庫には、ピーター・ドイグの青鬼の絵と油絵の花のマグネットだけがある。
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机の下に、PC・トランクケース・スーツケースを置いている。PCはSのお下がりで、MacBookしか使ったことのなかった当時の私は、こんなに大きな箱がPCだなんて、と思っていた。PCの上に付けたアンテナは狐の顔のような形をしている。
トランクケースは大学2年のころ大枚をはたいて手に入れたもの。どこか遠出をする時はこれに荷物を詰めている。畳み終えた洗濯物をSの部屋へ運ぶ時のかごや、ギターを弾く時の足置きとしても使用。頑丈さに安心する。
スーツケースはついこの間、京都に長く滞在するために買った。銀色の次に、灰がかった青が好きだと思う。
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ギター・くま・本棚
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ギターは高校時代の友人たちが誕生日にくれたもの。19歳になったばかりの頃、当時の交際相手と出掛けた帰り、気が付いたら楽器屋にいた。ギターを2本持ったその人に「どっちがいい」と訊かれ、指差した方を買ってくれた。私にギターを与え、弾き方を教えてくれたことにずっと感謝している。その人と別れてしばらく経ち、誕生祝いに何が欲しいかを訊かれ、ギターを頼んだのだった。友人たちは「あえて白にしてみた」と笑っていた。今思えば、このギターを貰ってから白を自分のものにすることへの抵抗が弱くなった。ギターの届いた日、触っているのが楽しくて大学を休んだのを覚えている。
YAMAHAのアンプは義兄が使っているのを見て購入した。私が真似をしていると知って嬉しそうだった、と姉から教えてもらった。
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左端のくまは、元は白だったのだけれど、深い青のシーツで眠るのに付き合わせたせいで黝くなってしまった。Kの小説に「ヤニや涎で汚れてしまったのかしら」と書かれてからは、布で包んでいる。いつかぬいぐるみ病院に連れて行きたい。隣は一度も会ったことのない人が贈ってくれた黒いくまと、高校時代の交際相手が留学先のお土産として連れてきてくれた焦げ茶のくま。誰かとビデオ通話をする時にはよくパペットのくまに代理出席してもらっている。右は、地元や旅先の雑貨屋で見つけて連れてきてしまった(“しまった”という意識がずっとある)小麦と白のくま。グレーのワゴンに小さなギャッペを敷いて、くまたちの場所としている。
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低い本棚の上
蓋のない宝箱。小物たちというより、質量のある記憶群という方が実感に近い。
西荻窪にあった喫茶店の閉業を知って沈んでいると、H先輩が「お店で使っていた品物を販売しているみたいです」と教えてくれた。黒い花瓶のあるおかげで、ずっとその店を忘れずにいられる。今はEのくれた竹とんぼや、Aさんのくれた花を入れている。ポストカードをしまっておける箱のついた額縁には、Aの写真を入れている。過去、「__の写真を写真展に出してもいいですか?」と、もう搬入の終わった状態で確認の連絡が来たことがあった。Aがごく稀に見せる、こういった強引さが大好きだった。展示を了承する代わりに譲ってもらったその時の写真たちは、勾配天井の部屋に暮らしていた時に飾っていた。上京してから借りたどの部屋にもAの写真を飾っている。そのほか、江の島で拾った石や、Tさんがライブ終わりに嵌めてくれた指環、Uさんと行った犬吠埼のイルカの置物、書ききれないほどの誰かと紐付いた宝物がある。
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声の依頼を受けた際、お礼にといただいた絵。額装までしてくれていた。元々この人の絵が好きだったので大喜びした。一度この絵を裏返さなければいけない時期があったので、また飾ることができて嬉しかった。
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高い本棚の上
小さなギターは、Kさんと一緒にRさんの部屋でパーティをした日、中古のおもちゃ屋で買ったもの。Rさんの部屋に戻った後もご機嫌に鳴らしていて、そのあと火事が起きた。カセットコンロの火がテーブルクロスに引火して、火が早送りのように広がっていくのを見た。三人で死ぬ映像がちらついた、次の瞬間には火が消えていて、振り向くと花瓶を持って息を切らしたRさんが立っていた。チューリップを活けていた水での消火。このおもちゃが生き延びた証明になっている。このあいだのアルバムに入れたフィールドレコーディング曲にはその日の日付が付けられていて、火のはじける音やこのおもちゃギターの音が入っていた。volca keysは初めて触ったシンセサイザ。自分ひとりである程度のことができるようになりたくて、リズムマシンとマルチエフェクターを買った。
銀色のバットはひとつ前に住んでいた部屋の近くにあった台所道具の店で買ったもので、前日と翌日のあいだの時間に携帯品を置いておく場所として使っている。
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Artekのスツール60を、椅子やベッドサイドテーブルとして使っている。パーティめいたことをする時には、3脚くっつけて大きなテーブルとして使う。雑貨屋でまとめて購入したので、その日で店のポイントカードが1枚分溜まった。そのカードをイッタラのキャンドルホルダーと交換してもらった。
銀色のトレイは、先述の蚤の市で知った店で買ったもの。部屋のポケットとして使っている。
“拯”の字は、精神がどうしようもなく落ちていた今年の始めに、Uさんが「書初めをしよう」と言って筆を持たせてくれたもの。翌月にまた京都を訪れた際に、国際会館のカフェスペースで焼き上がったものを渡してくれた。頭でばかり考えてはすぐに身体と疎通できなくなる私に、四肢のあることを思い出させてくれる友人。
本の上には気休めの紙魚対策として除湿剤と防虫剤を置いている。
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小窓4
Fさんからの犬の栓抜きと、Hに貰ったコンクリートの置物、H先輩が分けてくれた犬の箸置き。母の好きなミニチュアを贈る際、色違いのチューリップを自分にもひとつ購入して、端に置いている。自分のために生きた花を買えない反動か、花のモチーフのものを見かけると嬉しくてつい手が伸びる。
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キッチン
私の洗面台を兼ねている。私もSも、料理と呼べるような自炊は殆どしないので、調味料や調理器具が少なく、キッチンの収納部にはそれぞれの私物が仕舞われている。
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Mさんが引越し祝いに買ってくれたカセットコンロ。パンを焼く時やカフェオレを淹れる時に使う。組み立てる際の動作がロボットアニメのワンシーンを思い出させるので、人前で使う時には「変身!」と言うようにしている。
隣の空き瓶は元々ジンの入っていたもので、誰かに花をいただいた時には一旦ここに活けている。
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この部屋に越した時にIがプレゼントしてくれたローズマリーの石鹸の匂いが好きで、貰った分を使い切ってからも自分で買い直している。歯磨き粉はGUM以外だと落ち着かないので旅行先にも持っていく。歯ブラシはKENTのもので、最初に使ったあとの歯の滑らかさに感動して、誰かに共感してほしいあまりSに押し売りをした。それからSも同じものを使っているので、それぞれのストックも合わせると10本近くこの歯ブラシがある。右端はリングホルダー。左手の薬指に環を嵌めるようになってから、指環が好きになった。今は5本の指環を付けている。
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食器棚
H先輩のくれたくまを吊るしている。緑の石鹸はMさんのスペイン土産。ここに写っている鉄鍋も鉄フライパンも、写っていない3本の包丁も2枚のお盆も貰いもの。
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ソファ
机の天板に合わせて布を選んだ、三人掛けのソファ。毎日ここで眠っている。Sの部屋にある質の良いベッドよりも、薄いマットレスを敷いたソファの方がよく眠れる。枕に近い小窓のハンドルにエジソンランプを括りつけて、普段はその光で睡眠薬が効くまでを過ごしている。
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部屋のすぐ向かいには線路があり、3面の窓から電車の通る音や光が流れる。最終電車の後は、スケートボードの走る音や、酔った誰かの歌が聞こえる。この部屋で生活をしている。
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jerusalem-mami · 2 months ago
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SNSの投稿も守られました🙂‍↕️感謝🙌@thevisionjgospel
こころごすぺるコンサート✨
臨在溢れる素晴らしいコンサートでした🙌🌈
教会の祈り、とりなしの恵みを強く感じさせられまた!
サウンドチェックの時間が押していましたが
ゲネプロも最後まで通しで行われ、
開場までの準備時間も十分にあり
スムーズな流れで、守られました🙂‍↕️👏🏻
各セクションの奉仕も素晴らしく
照明もとても綺麗でした✨✨✨✨
父の職場の方ですが、
新しい方や、親子で来られたり、10名の方が
来てくださいました✨
皆さん、感激した!!との感想を
聞かせてくださり、職場の口コミで
次のこころゴスペルにプラス10名の方が
行きたいと仰っておられるそうです😳🙌ハレルヤ
私の職場の方も1番前で見てくださっていました👀
God is Love も参加して一緒に歌ってくださった
みたいです😊👆
新しい方にゴスペルを通して
主が触れてくださった事!感謝します🙌
5/3
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da-daism · 2 months ago
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今日は、石巻の母方の祖父の法事へ。
その後、ヒトコマさんへ、単行本類の寄贈をしてきました。
以前実家のカフェJIROに置いてあったものが、沢山遊ばせてあったので;;;; まだ誰かに読んで貰えるかもと思うと、本当に引き取って頂けて感謝です。
『デリバリー』とか『彼女の飛んだ日』などのかなり懐かしいものもあるので、興味持って下さった方、5月より設置して下さるようなので是非是非お越しください!
館内も色々な工夫がされていて、漫画好きな方、漫画で交流したい方、本当に様々な方が楽しめる場所でした! 
私が行った時は調度、背景やパースの講義をしていて、自分が学生時代にこう言う所あったら、めちゃめちゃ通ったろうなー!!っと物凄く羨ましかったです。コピックや、iPadで描ける環境もありましたし、本当に凄い。
私もちょいちょいお邪魔しようと思います笑。
それと、実はもう震災後に駐車場になりましたが、今日の法事の祖父の家が徒歩1分くらいのところにあって、それも御縁を感じました。
夏休みや冬休みは、祖父の家にしばらく泊まって、アトリエ・コパンと言う絵画教室通ってたなぁ…と言ったら、スタッフの方皆、コパンの事知ってて、それもびっくりでした;;
結構長く立ち話させて頂いて;;;ちょっと邪魔になっちゃってたかもですが;; とても良い時間であり、御縁になりそうです😊😊
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後は最近うちの裏庭に大量にレモンバームが咲くようになったので色々活用しようと、とりあえず水出し。そしてマタタビで酔っ払ってケンカするほたてとあさりです。
ではでは😌
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uso8oo · 1 month ago
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片手で錐は揉めぬ
10歳の頃、僕にとって忘れられない出来事があります。
ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。無理だと知りつつも、家に帰ってハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。すると親父は、「いい音ならこれで出せ」と神棚の榊の葉を一枚取って、それで「ふるさと」を吹いたんです。あまりの音色のよさに僕は思わず聞き惚れてしまった。
もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。「俺にできておまえにできないわけがない」そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては一人で草笛を練習しました。
だけど、どんなに頑張ってみても一向に音は出ない。諦めて数日でやめてしまいました。これを知った親父がある日、「おまえ悔しくないのか。俺は吹けるがおまえは吹けない。おまえは俺に負けたんだぞ」と僕を一喝しました。続けて、
「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。一歩抜きん出るには努力の上の辛抱という棒を立てるんだよ。この棒に花が咲くんだ」と。
その言葉に触発されて僕は来る日も来る日も練習を続けました。そうやって何とかメロディーが奏でられるようになったんです。草笛が吹けるようになった日、さっそく親父の前で披露しました。得意満面の僕を見て親父は言いました。
「偉そうな顔するなよ。何か一つのことができるようになった時、自分一人の手柄と思うな。世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。錐(きり)だってそうじゃないか。片手で錐は揉めぬ」
努力することに加えて、人様への感謝の気持ちが生きていく上でどれだけ大切かということを、この時、親父に気づかせてもらったんです。
翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ細長いものがある。開けてみたらハーモニカでした。喜び勇んで親父のところに駆けつけると、
「努力の上の辛抱を立てたんだろう。花が咲くのは当たりめえだよ」
子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。あまりに嬉しいものだから、お袋にも話したんです。
するとお袋は、「ハーモニカは3日も前に買ってあったんだよ。お父ちゃんが言っていた。あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。
いまでもこの時の心の震えるような感動は、色あせることなく心に鮮明に焼きついています。
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kennak · 1 year ago
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お地蔵様にお供えしてある食べ物は、基本的に日持ちしやすく年令問わず食べやすい物が選ばれ困った人は食べても構わないものと幼い頃聞きました。 あれは余裕のある人や信心深い人が喜捨してお供えしていて、どうしても事情から困って食べたい人が食べれるようにお地蔵様にお供えされたと聞いてます。 お供えものを食べた人も、いつか余裕ができた時に、お地蔵様に感謝のお礼としてお供えされるでしょう。 そういった形で人が人を支える仕組みが暗黙の了解として古くからあります。 それが徳を積むことに繋がるとの事です。 お地蔵様とは閻魔様の化身で、〝人を見守る存在〟困った人を助けることもお役目だそうです。 まぁ、現代には合わないのでしょうが戦後に無一文から何もなかった者同士が支え合って生き抜いた私の祖父なら一喝はしても負担にならない程度はほっとけと!言いそうです。
「腹が減ってお供え物を食べていた」地蔵の供え物を盗んだ疑いで53歳の男を逮捕 盗んだのは約100円のポップコーン(RKB毎日放送) - Yahoo!ニュース
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